カテゴリー「社会論」の記事

2009年5月14日 (木)

必要無い

日本水連、代表選手の茶髪禁止など再指導 - MSN産経ニュース

「必要ない」という理由で「禁止」するのなら、大概の事は禁止出来てしまいますな。

禁止が正当化されるのは、「やらない必要がある」のが合理的に説明出来る場合のみ、でしょう。

で、どう説明します?

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2009年5月 6日 (水)

禁ずる

ゲーム禁止を「強要」するのはおかしいと思う。 姪っ子は小学3年生。新学期に入り... - Yahoo!知恵袋

なんと言うか、愕然としますよね。

禁止の理由も、どれも主観の域を出ていないですよね。いわゆる「起こり得る」事であって、コンピュータゲームに特有のものとは言いがたい。要するに、他の文化に較べてそういう悪影響を顕著に与える、というのは明確では無い。(ゲームが視覚の機能低下をもたらすというエビデンスは充分にあるのでしたっけ?)

今までは宿題をした後、30分~1時間程度ゲームをしていた様ですが、妹は納得したのでしょう。
先日「ゲーム機」「ソフト」を全て売り払いました。

子供は泣きながら「やめて」と言ったそうですが、これは親の考えですので私は何も言えません。

これはなあ。お子さんはどんな気分だったろうなあ…。質問者さんの意見が柔軟で適切ですよね↓

が、それは各家庭で取り決めをし、子供に理解・納得をさせた上で、時間を決めてゲームをさせる。
約束を破ったら、数日禁止。

これでいいと思うのです。

担任の先生が家庭の教育方針にまで踏み込んでゲームを禁止する(させる)、というのは やり過ぎでしょう。

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2009年3月14日 (土)

志向

気が付く:message 桑田真澄公式ブログ

ここら辺、甲野善紀氏の考えと共通していますよね。交流があるので当然でしょうけれど。初期の(今の本は読んでいないので詳しく無い)甲野氏の本に書いてある事と、かなり重なっているように思います。私としても、桑田氏にほぼ賛同です。

大分以前、甲野氏の本も読んで納得しましたし、その部分に関しては、考えは特に変わっていません(他の大部分に関しては批判的なのですが)。

何より、チャンピオンスポーツの最高峰たるメジャーリーグにまで上り詰めた一流のアスリートであるからこその重み、がある。桑田氏がこのようなかたちで声を上げるのは、大きな影響を及ぼし得るかも知れない。

若い頃から問題意識を持っていたというのもあるだろうし、甲野氏との交流によって、より考察を深めていった、という部分もあると思いますが、おそらく、身体を開発する、という部分により意識が向いている、のでしょう。武術論の方面で見ると、甲野・黒田・高岡氏辺りの論が象徴的でしょうか。スポーツにおける、身体の制御の面を意識し、いかに精密に使っていくか、というのを考えれば、桑田氏が批判しているような指導法では役に立たない(どころか弊害がある)、と認識しておられるのでしょうね。いわゆる「しごき」というものにどういう意味があるか、本来のスポーツの指導の合目的性にそれは合致しているか、改めて見直し、洗い直してもらうよう、警鐘を鳴らしている。

こういう所については、高岡英夫氏の「擁護システム」概念が、分析に役立つでしょうね。実証的に見ていくのは、非常に難しいとは思いますが。※興味がおありなら、高岡英夫 『光と闇』などをご参照下さい

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2009年3月 2日 (月)

ニセ科学批判の効果についてとか色々

この所、特にはてな界隈で、ニセ科学批判と、それに対する批判についての議論が、かまびすしい(別にネガティブな意味合いではありません)ですね。

さて、今日こちらのエントリーを拝読いたしました⇒科学の名のもとの邪悪/およびニセ科学批判者の罠 - touhou_huhaiの日記

※touhou_huhaiさんの記事を参照していますが、当エントリーは、touhou_huhaiさんに向けて書いたエントリー、という訳では無いので、よろしくお願いします。ヒントにして整理して書いてみた、と取って頂ければ。

私は、関連のエントリーは一通り読んでいますが、こちらのエントリーを読んで、少し思う所がありましたので、書いてみます。既出の論点もあるでしょうけれど、自身の思考の整理の面もありますので、ご容赦下さい。

○「ニセ科学を批判する事」と、「現状のニセ科学批判活動に効果があるか否か」は異なる。

まず、「ニセ科学」の概念のおさらいです。ニセ科学とは、科学で無いにも拘らず、科学を装っている(意図的か否かは問わない)ものです。

そして、それを批判する、つまりニセ科学批判とは、科学で無いにも拘らず科学を装っているものを批判する、となります。

ここで、「ニセ科学批判は是か非か」という論点が現れます。つまり、そもそも科学を装っているものを批判して良いのかどうか、という見方。

この点に関しては、私は、科学で無いのに科学であるかのように情報が流布されているので、それを批判するのは当然だ、という考えです。少なくとも、「科学で無いのに科学であるかのように看做されている」ものなので、それは違う、というのは認められるべきだ、と。天羽さんがよく出されて私も援用する、ニセブランド品の喩えが解りやすいかと思います。

※ニセ科学という概念の立て方は適切か、などには触れません。議論が広がり過ぎるので

次に、「現状のニセ科学批判活動」。

これは、近年なされている、ニセ科学に対する批判の活動の仕方に着目する、と考える事が出来ますよね。要するに、「どのように」という観点。ニセ科学に肯定的な言説に対して、いかにして、それがニセ科学であるかを指摘するか、あるいは、ニセ科学を主唱する人に対してどう批判していくか。

まず、ニセ科学批判を批判する方々には、そのどちらを批判しているか、を明らかにして頂きたい、というのがあります。その方が、議論がごちゃごちゃになりにくいと考えます。

前者の観点、つまり、ニセ科学を批判する事そのものを批判する、という方もおられます。見方は色々です。ニセ科学などと判定するのは可能なのか、とか、どんな事を主張しようが自由ではないか、とか。極度に物事を相対化してしまう方もおられます。

後者の観点は要するに、「そういう批判の仕方で上手くいくの?」という見方ですよね。はっきり言ってこれは、ものすごく重要な部分だと思います。ただ、難しいと言うか、非常に複雑でもある。

前者と後者を混ぜこぜにしてしまわないようにしたいものです。たとえば、今のニセ科学批判の活動に効果があるかは判らないから、ニセ科学を批判する事そのものまで否定的に見る、等ですね。ニセ科学を批判するのは良いが、現状のやり方では……という風に主張するのかそうで無いのか。そこら辺をきっちり整理して論じて頂きたい、と思っています。

さて、ここからは、この論点の切り分けが出来たと仮定し、ニセ科学を批判するのは良いが、現状の批判の仕方が適切かどうかは……という観点から物事を見る、というのを前提して進めます。

○ニセ科学批判には効果があるのか

発端と言いますか、議論のきっかけ的なエントリーでは、こういう疑問が提出されていた訳ですね。ニセ科学を(科学的事実であると)信ずる人に、それが「ニセ科学」であると解らせる、という目的はどの程度達成されているか、という視点。

○「効果」とは何か?

上と重なりますが、そもそも、「ニセ科学批判の効果」とは何か。いかに定義し、どう数量化するか。ニセ科学批判の目的は、最も一般的には、ニセ科学をニセ科学だと理解させる(事に成功する)、とでもなるでしょうか。言い方を換えると、「科学で無いのに科学を装っているものを”科学的事実”だと思い込んでいる人に、それが”科学を装ったもの”だと”解らせる”」。それと、科学を装った科学で無いものが存在するという事実そのものを知らしめる。そして、それを数量化して実態を把握する。

touhou_huhaiさんは、案として、このように書いておられます。

どのような証明が可能だろうか。やはり実地調査しかない。

1.ニセ科学批判としてネット上にあふれている代表的なテキストを知らない人を、無作為抽出して2グループに分け、テキストを読んだあとでニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテストを実施する。

2.ニセ科学と分類できる主張に基づく詐欺事件を、警察発表の資料や報道ベースで集計し、ニセ科学批判運動の活発化と相関をとる。

一つの案として出されているものですが、敢えて詳細に検討するならば、

  • 「ネット上にあふれている代表的なテキスト」をどう選別するか。
  • 「ニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテスト」をどう作成するか。そもそも、「ニセ科学を判断し警戒する能力」とは何か。ニセ科学一般を判別する力か、それとも個別のニセ科学か。
  • 普通テキストは、ごく一般的な観点から書かれたものと、より個別具体的なものがあり、さらに、情報を知らしめたい特定の対象に書かれたものもある。その機能的側面に目を向けなくて良いのか。
  • ニセ科学とは、必ずしも詐欺に直結している訳では無い(例:ゲーム脳)が、それはどう考えるか。
  • 相関を取ったとして、その結果をどのように解釈するか。ネガティブな結果が得られたとして、それは批判の仕方が悪いのか、それとも量的な問題なのか。それをどう分析するか。

などの考察すべき点があります。

繰り返しですが、ニセ科学批判は、科学を装っている あるものが実は科学では無いのだと知らしめる目的もありますし、もっと一般的には、「世の中には科学を装っているものが色々ある」という情報そのものを流布させたい、という目的も持っていると思います。そこら辺の成果も「効果」と取るならば、どのようにしてそれを拾っていくか、という問題もある事でしょう。

と、このように、ニセ科学批判、もっと一般的には、何ものかを批判する活動の効果をどう評価するか、というのは、大変難しいと言えるでしょう。社会学的にも社会心理学的にも。

もちろん、それを分析していくのは、ものすごく重要な事だと思います。ここで改めて自分の考えを書いておきますと、ニセ科学批判がどのような影響を及ぼすかを確かめるのは極めて大切な部分だし、それを社会科学的に研究するのは大変有意義である、と思っています。少なくとも私は、効果について疑念があるならそっちが調べろよ、というような態度は採りません。

ただ、です。

ニセ科学批判を批判するもので、効果があるかどうか解らないという観点から、その活動そのものにあまり意味が無いかのように看做す、という意見もやはりあるから、その場合には、もうちょっときちんと考察して欲しい、と思う事はありますね。一般論的過ぎて何にでも当てはまる、とか、ニセ科学概念を押さえていない、とか、そういう書き方だとね。ちょっと困惑します。

それと、上でも検討したように、「効果」と言っても、それは結構難しい問題である、というのも考えるべきだと思うのです。「効果」と一言で表現しているけれど、それにはどういう意味合いがあるのか、具体的に考察してみたのか、批判の実例と照らし合わせてみたのか、と。※touhou_huhaiさんの事ではありません。追々々記でも、色々な観点から見ておられますし。

○率直な意見

ニセ科学を批判するテキストを練ったりするのに手一杯で、その効果を自分で検討するまでとても手が回らない、というのはあります。外部からそれを評価しよう、という動きがあれば、(その手法が適切であれば)むしろ歓迎すべき事と言えます。再三言っているように、おそろしく難しいとは思っていますけれども。

それと、上で書きましたが、あるニセ科学を批判するテキストを複数用意しているのもあります。私の場合だと、ゲーム脳関連。そもそも想定読者が異なっているテキストの役割をどう考えるか、というのは重要ですよね。

追記:後、一々ダメなニセ科学批判を指摘しない、というのもありますね。ニセ科学を批判しているのを優先しているので。もちろん、その過程で、こういうのはまずいかも、という話になる事はありますが、あまりそれが主たるテーマになる事は無いですね。あれはダメだ、と言うよりも、自分はこうする、というのを見せるのが、個人的には大切だと考えているので。

○余談:観測範囲

ニセ科学批判を批判するものを見て、非常に気になっている所。

はてなブックマークのコメントを、「ニセ科学批判の典型例」として扱っては いませんか? それは観測範囲が極めて狭いので、注意を要します。ニセ科学を批判していて はてなを使っていない、という人もいる訳ですので。

ここら辺、「具体例を出して下さい」という指摘と関わってきます。ニセ科学を批判する人が、他の批判者のやり方に全て同意している訳ではありませんから、具体例を出されれば、ああ、確かにそれは好ましいやり方では無いかもね、となる可能性もあります。それが仮にはてブコメントだとすれば、いや、それを典型例として出されても、と返す事も、また、確かにあの書き方は、となる場合もあるでしょうね。

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2009年1月17日 (土)

SG

ゲームで社会問題を解決 高い教育効果、進む研究や開発(産経新聞) - Yahoo!ニュース

藤本氏や馬場氏は頑張っていらっしゃいますね。

シリアスゲーム専用のソフトっていうのは、制作が難しそうですね。特に、エンターテイメントゲームに慣れた目の肥えた人達にも高評価を受けるソフトを作るのは、困難かも。

もちろん、学術なりのシリアスな部分の学習効果をも達成させねばならない訳ですね。なんとなくシリアスとゲームを組み合わせたようなのでは、話にならない。

ゲームやる人の価値観は、ある程度はっきりしていて、「面白く無ければやらない」、ですからね。まあ、惰性でやったり義理でやったり、というのはありますけれど、ゲーム好きを自認する人には、つまらないゲームに時間を割く事が我慢ならない、という妙な感情があったりするかも。自分はつまらないゲームを見抜けるのだ、という自尊心もあったりね(笑)

理想的には、自分がシリアスゲームをやっているなどとは全く気付かないのに、クリアしたら学術的知識体系の構造が身に着いていた、というのがあればいいですね(私の持論です)。言うは易しだけどね。

この件に関しては、シリアスゲームをどう分類するか、とかのアイデアがぼんやりあったりするんですけど(主に、武術論や、高岡英夫氏の論考の概念の援用)、専門的にどういう概念があるかを押さえておかないとなあ。新しい分野なので、文献もまだまだ少ないですよね。日本語で読めるのは数冊とかかな?

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2008年12月 7日 (日)

合目的的合理性

きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog

こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。

poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。

それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。

最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。

それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。

合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。

で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない

そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。

これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。

そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。

こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。

ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)

ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。

 情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。

 Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。

合理性の定義と分類について考察されています。そして、

三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。

ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※

やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。

この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。

個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。

ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。

※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002

三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子

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2008年12月 4日 (木)

信じて無いのにネタにする人ってホントにいるの?

はてなブックマーク - 10位までに血液型本4冊…書籍の年間ベストセラー(読売新聞) - Yahoo!ニュース

umaaaa これマジにとって「血液型なんて嘘っぱちだってば!」とか怒る人を見ると、皆わかってるから大丈夫だよーって慰めてあげたくなる。本気で信じてる人見たことないや/いるとこにはいるのですね、決め付けて申し訳ない 2008/12/03

このコメントを読んで、いつも考えている事を書いてみようと思いました。

umaaaaさんは、本気で信じている人を見た事が無い、と最初仰った訳ですね(ブクマコメントで指摘があって、後で後半部が追加されました)。

私はそれとは全く逆で、血液型性格判断をネタにしている人で、信じていない人を見た事が無いです。十数人はいたかな。もっといたかも。

ちょっと考えてみて、こういうネタを、間違いと完全に解りつつ使うなんてあり得るのか? と感じる訳ですね。

間違いだと解ってても場の雰囲気を壊したく無いから仕方無く乗っかる、というのはあり得ると思うのです。が、それは、間違いだと解っててネタにする、というのとは、ちと違いますよね?

ネタにするって事は、少なからず信じている、自分の経験から「ありそうだ」と思っている、という事なんじゃないのかなあ、と。たとえ言葉の上では「間違いだと解ってるよ」的な言い方をしたとしても、実は信じているんじゃないの、とか。

間違いと解りつつ積極的に用いるって事は、端的に言って嘘つきな訳で。仮に、皆が間違いと解っててネタにしてるんだとしたら、それはそれでどうなのよ、とも思いますね。

よーく考えてみて下さい。

他人とコミュニケーションをとる際に、「間違いだと解りつつも、やり取りが円滑に進むからネタにする」、なんて事、普通します? 無いですよね。せいぜい、後でネタばらしをして驚かせる、という時にやるくらいでは?

なのに、血液型性格判断に関しては、時折そういう意見が見られます。なんででしょうね。

あー、占いとか、自分は信じていないけど信じている人を喜ばせる、とかありそうだな…。

どっちにしても、間違いだと解ってて使う、という人は嫌ですね。もちろん、本当だと信じて使う人も嫌ですが。

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2008年11月22日 (土)

問題意識

偽科学発見テスト - finalventの日記

テストに関してとか、ニセ科学概念についての理解はどうか、というのは取り敢えず措いておきまして。

この部分が、端的にfinalventさんの認識を物語っているなあ、と思いました↓

 このエントリの提起ですが、よく見かける偽科学批判として出てくるものは、水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに、私に対して「お前は偽科学だのオカルトだ」といったの揶揄が飛んでくる。それなら、もう少し難しい例題で、私を批判する人がどれだけ科学的に物事を考えるのか、例題をやってみましょうかということで提起ました。(原文ママ)偽科学発見テスト - finalventの日記(finalvent 2008/11/21 16:33)

特に、

水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに(ママ)

この部分ですね。ニセ科学論に興味を持ち、継続的に批判的活動を行っている方は、頭を抱えてしまうのではないかな、と。

まず、マイナスイオンや血液型性格判断が「ちょっと利発な小学生」に簡単に解る、というのが理解出来ません。前者は物理学の知識が必要で、健康効果や美容効果に関しては、条件を統制した実験によって確認されたか、という所が重要であって(具体的にはたとえば、松下のナノイーの技報を検討したりしてますね)、後者に関しては、血液型―性格 の連関という部分と「性格判断」を分けて考える必要があって、そこを誤認している学者なんかもいます。そもそも、性格判断自体は、その現象があっても全くおかしく無いのですから。

水伝に関しては、その構造自体のおかしさは一般常識レベルで見抜ける、という判断は妥当であろうかと思います。しかし、現実に信じている人が、かなりいます。それは、現象の構造を把握する認識力よりも価値判断を優先したりする人がいるのを示しています。もちろん、自然のメカニズムとして信じている人もいる訳です。

たとえばゲーム脳は、保育学の教科書に、肯定的扱いで載りました(削除される予定)。現在も、森氏による講演は続けられていて、凶悪犯罪が起こると、未だに森氏の見解を訊く新聞社があるほどです。

そういう現状を鑑みると、「そんなものを批判してもたいした意味もない」という捉え方は、私には的外れと言うか、あまりにも「見ていない」としか思えないのです。

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2008年11月18日 (火)

科学とか信仰とかやってるけど…

あのですね。

科学と信仰は違う、一緒にするな。そうやって語るな。

というんじゃ無いんですよ。

科学を信仰という面から見るのは、人文・社会科学的にも非常に大切な論点でしょう。初めからその視点が問題とされているなら、そのテーマで有意義な議論をすれば良い。

んで、ニセ科学論てのはそうじゃ無くて、極めて具体的な話な訳です。実証のプロセスを経ているか、とか、実験や観察の方法の適用は妥当か、とか。

そこをすっとばしてメタなレベルに視点を持っていって、科学と宗教の共通点を見出したりして一般論を語るのは、筋が違うのです。相違点もかなりある訳なので。

だから言ったのです。私が発端なのに置いてけぼりにされた、と。

私は初めから、「ニセ科学」の論について理解していますか、という意味でコメントしたのですよ。ニセ科学と看做されるものにどういうのもがあって、それが何故ニセ科学と判断されるか、というのを知っているか、と。

ニセ科学論の重要な論点として、その当時のスタンダードな方法に則っているか、というものがあります。たとえば、古川の血液型と気質の連関を調べた研究というのは、科学であった訳です。

現在ニセ科学と看做されているものが、将来実証される場合も、可能性としてはある。だけれど、それが、現在のニセ科学という評価を覆すのでは無い。

と、こういう論理を理解しているのか、という話だったのです。

科学哲学の議論そのものでは無いし、関連しない訳でも無い。実証科学の方法という観点から判断する問題。

にも拘らず、どんどんずれていってしまったんですね。

まあ、そういう事です。

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2008年11月15日 (土)

さっぱりわからんそうです

はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。 / 2008年11月14日

あんま関係ないけど、ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん。本人が信じてればいいんじゃないのか。/そしてこの記事にこれ見よがしに並ぶ怪しい広告たち。世の中は奥が深い。

「ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん」そうですよ。

何が問題だとされているか、とか、そもそもニセ科学とは何であるか、とか、ちゃんと調べた上で書いているはずですよね、当然……と言いたいけど、「本人が信じてればいいんじゃないのか。」なんて書いている時点で、ほとんど何も調べていないんだろうなあ、というのが推察されますが。

ちょっとくらい調べてみてからものを言えば良いのでは、という感じです。

ここから追記。2008年11月15日記。

はてブに対して反応がありました⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想

問題視している人が沢山いることと私の説明責任の関係はいまいち不明だが

私は、説明責任の話はしておりません。「ニセ科学の何がいけないのかが解らないと言うからには、それを説明する責任がある」、という事では無く、「非常に多くの人が問題視している対象に関して、何がいけないのか解らないと言うからには、”ニセ科学という概念を理解した上で、その理由を詳しく説明出来るはずだ”」、という意味です。

しかし、エントリーを読むと、おそらくほとんど調べておられない事が、よく解ります。

ニセ科学に関しては、右サイドバーにあるリンクや、ここの「科学」カテゴリー(ニセ科学論と科学一般の話は分けていないので、ごちゃごちゃしています)、あるいは、菊池誠教授@大阪大学のWEBサイト等をご覧下さい。

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2008年11月12日 (水)

理系に興味を持ってもらう

野尻ボードを覗いたら、女子高生に、理系に興味を持ってもらうにはどうすれば良いか、という話題が出ていて、エントリーを何か書こうと思って考えていたけど、思いっ切りはずしているような気がして、結局、一般的に「理系に興味を持ってもらうには」、という部分について書こうと思った今日この頃。

特に根拠も無く、自分の経験に基づいて書きますが、たまにはそういうのも良いでしょう。

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ここで「理系」とは、たとえば、そうイメージされやすい職業、技術者とか企業の研究者とか、そういうのでは無くて、自然科学的な知識、とします。理系に興味を持つとは、自然科学を志向する、毛嫌いしない、という事。

個人的に思うのは、理系に興味を持ってもらうために、それをイメージさせるいかにも「典型的」な職業などに関心を持たせる、というのは、どうなのだろうな、と。

うーん、何て言うんでしょうね。ほら、友人にしろ家族にしろ、その人が興味を持っている事について、良さをプレゼンテーションされる、というのがあるじゃないですか。いかにそれが素晴らしいかを、熱くなって語る。

でもそういうのって、言われる側としては、結構冷めたりしませんか? 場合によっては引く。その人が熱意を持ってそれに取り組んでいたり興味を持っているのは解るんだけど……と。

だから、理系の知識一般に興味を持ってもらうのがいいんじゃないかと。そういう一般的な所に興味を持てば、総体として、理系の分野の職業にも関心を持たれる事が期待される、と言いますか。

で、一般的な所に興味を持たせるにはどうするか、と考えると、「元々興味を持っているもの」について徹底的に突き詰めるよう促す、というのがポイントかと思っています。

要するに、ほら、科学は素晴らしいだろう? と直接的に言うのでは無くてですね、いつの間にかそれに興味を持たざるを得ない状況に持っていく、という方向性。

大概の物事を突き詰めていくと、自然科学の知識に行き着く訳ですね。具体的な所を学ぶという所にまでは行かなくても、仕組みがどうなっているか、つまり「メカニズム」を意識するという所には行くと思います。

ホント、なんでもいいと思います。どうしてそうなっているのか、というのを考えさせる。ケータイの仕組みでも、ゲームの仕組みでもPCの働きでも、何でも。化粧品の仕組みでもいいし、料理の構造でもいい。模型とかでも。

思うにですね。

理系(の知識の体系とか職業とか)そのものに興味を持たれないという前に、物事の仕組みを考える事を避けたりする、というのがあると感じるんですよ。まずそこら辺から考えていくべきなんじゃないかと。

以上、武術の事を知りたいのが高じて解剖学や生理学・心理学等に興味を持ったり、模型の塗装について勉強していて結局化学的な論理が働いている事を実感したり、昔やっていたプログラミングが実は論理学等の数学的論理に基づいているのだと知ったり、とか、ゲーム脳が何故おかしいかを考える内にニセ科学論に触れ、理論の妥当性を考える際に統計学的方法が重要になる事を知り、それを勉強するに至った、等の経験からの考えを書きました。

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2008年11月11日 (火)

詳しく調べる事を勧めます2

Interdisciplinary: 詳しく調べる事を勧めますの続きです。

(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログにて、anomyさんや私へ返答がありました。ご自身の主張に反する意見を冷静に受け止めて頂いて、ありがたいです。

さて、森昭雄氏の論は、端的に言って、破綻しています。あらゆるレベルで矛盾や自分勝手な解釈をした部分があり、科学と呼べる代物ではありません。

コメント欄からいくつか引用します。

森昭雄教授は本の中で「ゲーム脳」の定義を説明していますが、
あなたの「ゲーム脳」の定義とは違うのでは?と感じました。

anomyさんのエントリーへの返答です。

森氏の本を読むと、ゲーム脳の明確な、定量的な定義は見出せないはずです。グラフのパターンの分類のように見えるかも知れませんが、同じようなグラフに別の解釈をしている所もあります。

「前頭前野の活動が低下」という部分、生理学的に賦活していないという意味なら、そういう研究結果はあります(ある種のゲームのプレイ時において)。しかしそれは、認知機能等の低下を即示す訳では全くありません。参照⇒テレビゲームが脳に与える影響

そして、この学生たちの80%が、自分はすぐキレる、
すぐ忘れ、忘れ物が多いなどをコメントしているとのこと。

このような、単なる自己申告では、科学的に充分とは全く言えません。仮に、忘れ物が多いというのが合っているとして、それを「脳の機能低下」に即結び付けてはなりません。

この本に対する受け止め方が、貴方と私で違うようですね。
この本を、貴方は読みましたか?

受け止め方の違い、と相対化してはいけません。森氏の論は「間違っている」のですから。

私は、森氏の本について、当ブログで詳しく検討しました。大部ですが、ご覧頂ければ幸いです⇒Interdisciplinary: 『ゲーム脳の恐怖』を読む

また、ゲーム脳論の問題点を平易にまとめたQ&Aもあります。よろしければご覧下さい⇒ゲーム脳Q&A

ゲーム脳は、まともな概念の定義も無く、科学としての方法や手続きも踏んでいないにも拘らず科学的に実証されていると謳っている説として、多数の科学者・専門家から批判を受けている説です。恐らく、批判がある事自体はご承知と思います。上に出した私のテキスト等の批判的言説も吟味して、冷静にご判断頂きたいと思います。

子ども達の健康について考えるならば、森氏の論を受け容れるというのは、良策であるとは言えないのです。

森氏の専門が「脳神経科学」であるというのは、最近森氏のプロフィールにも載っているので、あながち間違いとは言えないようです。ただ、ゲームのような文化が認知や行動にどう影響を与えるか、というのは、実験科学的な論点だけでは無く、広く文化や社会を射程にした方法を用いる必要がある訳です。その意味で言えば、全く不充分であると考えられます。もちろん、実験的な手続き自体が全く不足しているという部分は押さえておくべきで、それは、このブログの一連のエントリーで指摘しています。

ゲームによる認知や行動への影響という面を研究している科学者として、坂元章氏(お茶の水女子大学教授。社会心理学)が挙げられます。冷静で客観的にゲームの影響について研究しておられる第一人者ですので、もしゲームの影響に関心がおありでしたら、坂元氏の著作を参照するのをお勧めします。

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森氏の専門分野について

昨日も書きましたが、改めてエントリーを。

森昭雄氏に関して、これまで、森氏は脳神経科学者だと本に書いてあり、メディアでも紹介される事があるが、実はそうでは無い、という批判がなされてきました。

しかし現在、日本大学のサイトの教員情報に、専門分野が「脳神経科学」と明記されています⇒日本大学文理学部 人文科学研究所

いつ頃書かれたかは定かではありません。私は日大のサイトを、一年に数回はチェックしているはずなので、それほど以前では無いとは思うのですが、いつの間にか追加されていて、驚きました。

さて、今までは、森氏は脳神経科学者では無い、日大のサイトを参照の事、と言ってきた訳ですが、これからは、単純にそう言うだけでは不充分であり、情報としても不正確なものである、と考えられます。

教えて頂いたところ、専門分野を大学のサイトで謳う事等は自己申告で、関連の研究者の弟子筋であったりすれば、特に問題も無く名乗れるという事だそうです。従って、これからは、森氏は脳神経科学者では無い、と言うのではなくて、森氏は脳神経科学専門と言っているが、実は業績的には……と説明するのが正確であると思います。実際、公式の場でそれが専門であると謳っている所を鑑みても、「脳神経科学者では無い」と端的に言って批判するのは妥当では無くなった、と考えて良いでしょう。公的な資格のような、明確に判断出来るものでも無いですしね。

いくらおかしな事を言っているとしても、批判は、正確な情報に基づいて行われなければならないので、ここら辺は押さえておくべきだと考えます。

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2008年11月 9日 (日)

寝屋川調査のデータとグラフ

魚住絹代 『いまどき中学生白書』より、『メディアの利用状況と認知などへの影響に関する調査』(2005)、通称「寝屋川調査」(以下、「寝屋川調査」と記述)に関するデータについて書かれている部分を検討し、掲載されているグラフについても言及します。

以下、「本書」と記述した場合、『いまどき中学生白書』を指します。

○寝屋川調査のデータ

 二〇〇五年七月に行われたアンケートには、寝屋川市、そして、講演を通じて知己を得た長崎県の教育庁、教育委員会、東京都の中学校の生徒、保護者計四千七百六十二人に協力を求め、三千五百人余が回答してくれた。(P12)

▼時期

2005年7月

▼場所・調査対象

寝屋川市・長崎県・東京都の中学生、保護者

▼調査人数

回答の依頼:4762人

回答人数:約3500人

▼調査法に関して

 精神医学の専門家などの協力を得て、調査が医学的・科学的な裏付けを持つようにした。(P12)

▼集計

寝屋川市教育委員会、寝屋川市立中学校のスタッフ

▼問題点

  • サンプルが無作為に抽出されたものでは無い。たとえば、社会調査でよく用いられるような、層化多段抽出法のような方法は採っていないようである。
  • 従って、当該調査によって得られたデータを検定した場合(本書では行われていないが、岡田の著作では、たびたび検定の結果が書かれている)の確率論的な根拠が失われる。目標母集団(調べたい全体)はおそらく、全国の中学生とでもなるであろうが、達成母集団(実際に得られた、あるいは一般化出来る集団)としては、可能な限り一般化したとしても、各地域の中学生(と保護者)総体となるだろう(これも無理な仮定であるが)。
  • 精神医学の専門家などの協力、とあるが、質問項目等、どのような専門家が関わっていたのか、甚だ疑問である(当ブログの他のエントリーを参照の事)。

○グラフの検討

本書に掲載されているグラフを、いくつか紹介する。新たに筆者が同じようなグラフを作成した。

注意点

  • 必ずしも正確な数値が書かれている訳では無いので、大体同様だと視覚的に確認出来るよう、適当に数値を入力した。
  • 本書では、グラフが掲載されてあるページに、タイトルとして、たとえば「ゲーム族には偏食が多い」などの、その節での主張とグラフの解釈の文言が当てられており、グラフによっては、下部にそのグラフを説明する文章が書かれている。本エントリーに掲載するグラフのタイトルは、そのタイトルをそのまま用い、縦軸・横軸の文もそのまま引用した。
  • 本書のグラフは、ほぼ3Dグラフである。それも再現した。
  • グラフのカテゴリーに、「3時間(くらい)以上」とあるが、これは、グラフによって、最も大きいカテゴリーが、「3時間以上」と「4時間以上」の場合があるからである。最大が「4時間以上」の場合には、「3時間くらい」とする。
  • あくまで参考として、再現したグラフを掲載するので、不正確な部分がある事をお断りしておく。
  • 「▼」の後に、「○□△(Pxxx)」と書いた場合には、文が、グラフが掲載されている節のタイトル、「Pxxx」は、節が始まるページ数。
  • グラフは、クリックで拡大。

▼ゲーム族は偏食が多い(P49)

P50_html_m669237e9

一日のゲーム時間が長い子どもほど、偏食が多い。三十分程度の子に比べ、三時間以上ゲームをする子は三倍以上、二時間以上の子は倍以上である。(P50)

この節、「ゲーム族の子は、なぜか肉が好きなケースが多いと感じる。もっとも、これはきちんとした統計に基づくものではなく、経験的な話である。」(P49)という記述もある。

▼落ち着きがなく、注意散漫(P51)

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長時間ゲームをする子は、注意散漫で、ミスが多くなる。一日三時間以上ゲームをする子の場合、三割以上が「注意散漫」と自己認識している。(P52)

他に、「じっと座っていることができず、たえず動きたがる」、「気が散りやすく、よくよそ見をしたり、忘れ物やミスが多い」などの質問への回答(いずれも保護者回答)を参照しているようである。

▼傷つけられると仕返ししたくなる(P55)

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ゲーム時間が長い子どもほど、傷つきやすく、それを根に持つ傾向がある。四時間以上ゲームをする子は、まったくゲームをしない子に比べ顕著にその傾向が強い。(P56)

「仕返し」と「復讐」では随分意味合いが異なるように思える。

この質問に答えた子どもについて、「全体で19.7%であったのに対し、四時間以上ゲームをやる子は約二倍だった。」(P55)とある。何が二倍だったのかすぐには解らないし、「4時間以上ゲームをする」子どものカテゴリー内の割合だとしても、全体での割合と比較して何の意味があるのか不明である。

▼無気力・無関心・投げやり(P60)

P62_html_m5dc824f0

ゲーム族は、「新しいもの」を好まない。ネット族、メール族、マンガ族らに比べ新奇なものに対する興味を持つ度合が半分程度で、目立って低い。(P62)

2倍といっても10%と20%との差。しかも標本調査であり、更には、無作為で無いので、誤差の評価、一般化も出来ない。また、保護者の回答である。「とても新しいもの」というのが何を指すのか不明。

▼人付き合いは苦手(P67)

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もともと社交的だった子どもが、長時間ゲームをすることで内向的になっていく傾向がある。ゲーム時間が長いほど対人関係に消極的になる。(P68)

心理学的に、内向性の高さと社交性の低さは同じでは無かったはずである(詳細未確認)。いずれにしても、既存の測定尺度は使われていないようである。

縦軸の説明が意味不明。質問は、「人付き合いや集団行動は苦手」(子ども回答)、「やや消極的で、人と接するのがとても苦手」(保護者回答)であるのに、何故縦軸が、時間的な変化を反映したものであるかのように説明されているのか。「幼い頃の対人関係について問うと、必ずしも消極的な子どもでなかったことがわかる。」(P69)という記述があるが、ここのグラフの割合がいかにして導き出されたのかは、全く不明である。

▼対人依存症(P105)

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ゲーム族と対照的に、メール族は人との交流を好む。ゲーム族、ネット族と比べると、「人と接するのが好き」と答えた割合が顕著に高い。(P107)

保護者回答である。横軸の「熱中しているメディア」というのがどこから導き出されたのか解らない。中学生が心理テストに答えて云々という記述があるが、寝屋川調査での話なのか、別の話なのか、不明である。

見出しに「依存症」と書くのはミスリーディングである。

▼メル友をストック(P119)

P121_html_1dc1b620

一日にやりとりするメールの数が多い子どもは、「友達になったり、絶交したり」が激しい。とくに一日五十通以上メールをする子は、顕著にその割合が高い。(P121)

何故かここでは、他の部分では見られなかった、回答の2つのカテゴリーをグラフにしている。しかし、これも何故か解らないが、積み上げ型の棒グラフで描かれている。

「絶交」という概念は解りにくい。いわゆる「ケンカ」との境界も曖昧。

▼きまぐれで衝動的(P124)

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一日にやりとりするメールの数が増えるにつれて、気分の起伏が激しくなる。一日五十通以上メールをする子どもは、半数近くが起伏が激しいと答えている。(P126)

「差が激しい」というのも、多分に主観による違いがあるだろう。

その他に、「あまり考えず行動したり、危険なことをしてしまうことがある。」という質問もあったようである。

グラフを見ると、縦軸の目盛りは5刻みで、それほど大きく違うのか、という疑問も出る。そこで、違うグラフを作成してみた。

P126b_html_m4717075f

何件法か判らないので、便宜的に、カテゴリーを2つにして帯グラフを作成した。随分印象が変わると思うが、いかがだろうか。

それ以前に、メールの頻度に関して、何故このような階級分けをしているのか、全く意味が解らない。何故、「20通以内(この”以内”というのもよく解らないが)」の次が、「50通以内」なのか。

▼メール族の生い立ちと家族(P134)

P135_html_m18589ee5

ゲーム族やネット族が「親に認めてもらいたい」と考えているのに対して、メール族は「友達や先輩」と答える率が高く、「親」を逆転している。(P135)

この節、「甘やかされて育ったと思う」という問いに、メール族(今更だが、「○○族」の定義は不明)の約45%がいいえと答えた事から、「メール族は親に甘えることができなかったと感じている子の割合が図抜けて高い」(P134)としているが(他に、「ほめられるより叱られることのほうが多かった」と回答した頻度が高いとしている)、「甘える」と「甘やかされる」は、異なる概念であろう。

P137_html_26c0dc9a_2

メール族の保護者に対するアンケートによると、小学生までに愛情不足の時期があった子どもは、「メール中毒」になりやすい傾向がみられた。(P137)

※縦軸の説明が切れているが、「就学前」である。

このグラフ、目盛りの上限が12%である。いかにも、差を強調している意図が見える。そこで再び、別のグラフを作成してみた。

P137b_html_m322f4e5_2

何度も書いているが、サンプルが無作為で無いから、このデータから、検定等によって母集団について言及する事は難しい。出来るとしても、母集団を限定する必要があるだろう。

仮に、これを記述統計的なデータと看做すとすると、調査対象の保護者の回答の構成比、としか見る事が出来ない。そこでのこの程度の差を意味あるものと看做せるかどうか、という疑問が出てくる。

肯定割合が、最大のカテゴリーでも12%以下である。従って、他の選択肢が何であったか、という所について疑問が出てくる。仮に、「肯定」、「否定」の2つであったとすると、全てのカテゴリーで90%近くがこの質問に否定的に答えたという事だから、全体としては極めて親子関係は良好である、と解釈する事も可能である(あくまで仮定)。

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どうでした?

わたし的には、こんなものが本に載り、新聞で紹介され、電子メディアの害悪を訴える著作の論拠とされる事そのものが、信じがたい話であると思うのです。

ここに載せたグラフは、あくまで一部分です。

とにかく、概念の定義が無い。何の何に対する割合かがはっきりしない。解釈が自分勝手。特に、○○族というのは、ゲーム脳や半ゲーム脳に匹敵する不明確さ。

根本的な問題として、このようなデータからは、より大きな集団について一般化するのがほとんど不可能である、と言えます。にも関わらず、魚住氏は全体の傾向であるかのごとく言い、岡田氏は、検定などしてしまっている訳です。

garbage in, garbage outみたいなもので、本来、検討にすら値しないようなものだと思うんですけどね。何故だか、鵜呑みにする人がいる。

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2008年11月 3日 (月)

ややこしい

脳内汚染からの脱出 (文春新書 573) Book 脳内汚染からの脱出 (文春新書 573)

著者:岡田 尊司
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

図書館で借りてきて、ざっと再読しました。

やっぱり、ややこしい本ですね。

岡田氏の論は、かなりムチャクチャです。でも、知識に乏しいと、見抜くのはやっぱり難しいかも知れない。ゲーム脳本よりは圧倒的に難しい。

色々ごちゃごちゃ集めて書かれると、尤もらしく見えるんですよねえ。更に、小説風の味付けもしてあり、恐怖感を煽る内容になっている。ややこしい。

この本では、論拠として、大規模な社会調査である(と岡田氏が認識している)寝屋川調査が援用されている訳ですが、それがそもそもおかしいのですね。

岡田氏は、何回も何回も、統計的に有意である事を協調しています。しかも、寝屋川調査のデータを元にした、独立性の検定。そもそも標本の無作為性がとても怪しいのに、検定をして一般化出来るのか、という問題がありますし、また、有意確率を「関連の強さ」の度合として誤認させるような書き方が散見されます。例:「p=0.0000というのは、間違いである確率が十万分の五未満であるということである。こうした強い関連性が、偶然の支配する現実の現象で観察されることは滅多になく、その場合、そこには因果関係が存在することがおおいのである。」(P63)

寝屋川調査では、ゲーム・ネット依存についてのチェックリストが用いられていたそうですが、これも疑問を持つ内容。そもそも信頼性や妥当性が本当にきちんと確認されているのか、というのもそうですが、何よりおかしいのが、その解釈。

そのチェックリストは、全部で8項目。4件法です。一つ挙げると、「ゲームやネットができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなることがある。」という質問。回答の選択肢は、「よくある/ときどきある/あまりない/まったくない」という具合。

それで、ですね。「ときどきある」を1点、「よくある」を2点として得点をつける訳なのですが、その解釈が非常に疑問。抜粋しましょう(P65)。

判定基準

0点  依存傾向なし  49.7%が該当
1~3点  要注意  28.6%が該当
4~7点  軽度依存レベル  16.0%が該当
8~11点  中度依存レベル  4.3%が該当
12~16点  重度依存レベル  1.4%が該当

こういう具合です。

これ、おかしいと思いませんか? だって、「ときどきある」が一つでもあれば、「要注意」であると判定されるんですよ。しかもこのチェックリスト、「依存」という精神医学的な概念を調べるものなのです。更に、です。質問項目には、こんなのもあるんです。

止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。

典型的なダブル・バーレルですね。これだと、怒り出したのか暴言を吐いたのか、あるいは暴力に走ったのか、全然解らない。止めさせようとすれば怒り出すというのは、どんなものでも起こり得る訳です。それを、「暴言・暴力」というかなり強い言葉とくっつけている。

こういうのが出てきて、メディアでは数値だけ発表される訳ですね。たとえば、依存の危険がある人が半数もいた、というように。実際岡田氏自身、「逆に言うと、中学生の約半数に何らかの依存症状が認められたことになる。」(P64)と解釈しているのです。「症状」ですよ。そしてその実態は、質問に一つでも「ときどきある」あるいは「よくある」を答えた人が半数いた、という事に過ぎないのです。

岡田氏の著作や主張には、この手の論が散見されます。実にややこしい。

最後に、上で紹介したチェックリストを全部、ちょっと変えて書いてみましょう(P65を元に一部改変して書く)。

  1. ○○や□□ができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなる。
  2. 家族や友人と過ごすよりも、○○や□□を優先することがある。
  3. ○○や□□に熱中しすぎて、学校(仕事)のことがおろそかになったことがある。
  4. 時間を決めてやろうとして、守れなかったことがある。
  5. やりすぎて、夜が遅くなったり、朝が起きられなくなったことがある。
  6. していることをごまかしたり、ウソをついたことがある。
  7. やりすぎて、手や目や頭や腰などが痛くなったり、体調が悪くなったことがある。
  8. 止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。

この○○と□□の部分に、ゲームとネットが入る訳ですが……いかがですか? ゲームやネットに限らず、何かを当てはめて、0点を取れますか? 取れなければ、「要注意」だそうですよ。

その前に、「ときどきある」と「あまりない」はどう違うんでしょうね。

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2008年10月25日 (土)

出来るかも?

<大阪・中3ひき逃げ>逮捕の中3女子「ゲームで自信、初めての運転」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

A-WING::Frog is not Blog::リアルだけどリアルじゃないので

情報が少ないので、件の少女について具体的に何か言う、というのは出来ませんが、一般論として。

私らみたいな、ゲームを何十年もやってる人達は、知ってるんですよね。違う、という事を。いかにリアルに近づけるか、というベクトルでもゲームが進歩してきた、メーカーもユーザーもそれを志向した、というのを知っている。

だから、ゲームはリアルを再現しようとする、というのをメタに認識していて、その上で、絶対にリアルとは違う、そこにはどうしようも無い断絶がある、と常に考えてきたんですよね。

グランツーリスモシリーズみたいに、出来る限りリアルなシミュレータを目指すものもあれば、ある種のデフォルメをほどこして「ゲームらしさ」を目立たせ、「ゲームならでは」の面白さを追求する、というものもある。そういうのをひっくるめて「ゲーム」なんですよね。それがその文化の素晴らしい所でもある訳だし。

そういう意味では、少女が至ったような認識は(それが本気かは解らないですが、本当なんでしょうな。取り敢えずゲームのせいにしよう、などという知恵が働くとは考えにくいし、日本でそんな事やっても意味無いし)、まあ、未熟なのだろうな、と。本当にゲームをやって実車を運転したくなる、という人間がいたら、周りが、「お前はアホか?」と言ってやらないといけない訳で。全然違うよ、と。

すごく広く意味を取れば、こういうのも「ゲームリテラシー」と呼べるのかも知れません。

もちろん、私なんかも、別に、最初から理解出来ていたという事でもありませんが。色々学習していくのですね。ただ、今の人達とは、やっぱり状況が違う。※別に、世代の傾向として、どう考えやすいか、と決めているのでは無いです。ゲームは段階的に進歩してきて、ユーザーはそれを見てきた、という事実の話。初めからPSPやDSがあるのと、ファミコンが出てきて狂喜した時代とは、やっぱり違う。

まあ、出来るだけ、楽しみながらも勉強はして下さい、という感じです。

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こういう事件そのものについて。

この手の馬鹿は、ある程度の頻度で現れるものだと思います。事故ったら目立つ、というのはあるのかも知れません。私が高校の頃だったか、クラスメイトの(下の)きょうだいが、やはり興味を持って車を運転してしまった、というのがありましたね。きっかけは色々でしょうが。そんなに珍しい事なのだろうか、と疑問には思います。事故は起こさなかったけど見つかってこっぴどく叱られた、という事例は多そう。馬鹿だけど頻繁に出る馬鹿、という感じかな。

理論的には、ゲームは学習の般化という錯覚を起こさせる場合はあるのかも知れません。ゲームにもよるけれど、「シミュレータと誤認される」、というのは、可能性としては、あり得る。別に、絶対運転出来るかも、なんて思わなくても、ひょっとしたらいけるかも……なんて事は、まあ、あるかもね。

リズムアクションをやって楽器演奏出来るかも、と思うようなものですな。学習の般化というのは、構造が似通っていれば起こるのだろうけれど、それでも別物な訳で。別物だから別物ならではの楽しみがある、という認識を持つのがゲーム好きだったりしますが。

ただ、リズムアクションと違うのは、対象が実車である事。これはもう、ゲーム云々というよりは、あんな物体をコントロールする事そのものへの「恐怖」を覚えなくちゃならないと思います。そういう意味で、基本的な想像力の問題のようにも思います。まあ、ゲームを否定する人なら、ゲームがその想像力を欠落せしめたのだ、と言いそうですが。もちろんそんな話はナンセンスですけど。

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君は、ゲームをやって車を運転したくなったの? うん、馬鹿だね。その馬鹿さ加減が人を殺すかも知れないんだよ。

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2008年10月24日 (金)

いたずら

ヤフオクとかで、いたずら入札ってあるみたいですね。

私は運良く、一度も遭遇していませんが。

一体何が楽しいんでしょうね。さっぱり解らない。新規ID作って入札し、落札したら連絡せずに放っておく(で、落札者都合で削除したら、報復評価をされる)、というのも多いらしいですが、ホント、何がしたいのやら。

ヤフオク(他のサービスは利用した事無いので解らない)って、そこら辺に充分対処出来るようなシステムにはなっていないからなあ。理不尽に悪い評価をつけられたりする。運営に連絡すれば、取り消してもらえる場合もあるらしいけれど…。まあ、オークションシステムでそれに充分対処するのは無理なのかも知れませんが。全ての入札が、プレミアム会員じゃないと出来なくする、とか? そうすると、新規で参加しづらい、というのがあるのかな。でもそれだと、新規お断りの出品者が増えて、結局良くないような気もします。

ああ、後、悪い評価が30くらいついているのに取引を続けられているのを、たまに見かけますが、あれも不思議。普通、数十もあったら入札しようという気にはならないと思うんだけど……私なら、見つけた瞬間ブラックリスト行きなのですが。

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2008年10月15日 (水)

あなたは吸いますか?

はてなブックマーク - 一部のタバコ嫌いの人の醜さ

増田は取り敢えず措いといて。

2008年10月14日  hmwr_k 増田さん それわたし。いちいち言わないけど心の中はそんな感じ。ほんとに死んでいただきたいくらいに憎い。吸っていいかって聞かれたらどうぞとしか答えようがないじゃないか! タバコ吸う人とは付き合いたくないと思う。

全体的には全く賛同しないけど、「吸っていいかって聞かれたらどうぞとしか答えようがないじゃないか!」←この部分は、本当にそう思う。

うーんと。同じ事言ってる人は沢山いると思うんですが……身に着けとくべきマナーとして、「吸ってもいいですか?」ではダメだと思うんですよ。吸わない人間からしたら、普通は吸って欲しく無いに決まってるじゃないですか。

だから、相手が吸わないと知っている場合は、そもそも吸わない。で、よく知らない場合には、

「あなたは吸いますか?」

だけでいいと思います。で、吸わない事が判明したら、吸っても良いか、などと聞かない。

まあ、いささか単純ではありますが、そんな事を考えたのでした。

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2008年10月13日 (月)

調査

「新聞、これからも必要」が90%…読売世論調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

どなたか、読売を購読されている方はおられないでしょうか。

この記事についたはてブによると、紙面には詳しい内容が載っていた、との事ですが。

私としては、こういう記事には「必ず」、nと抽出方法くらいは載せるべきだと思っています。それは最低限すべきだと。

国民の多くが新聞を重視していることがわかった。

記事では、こういう事を書いています。これが妥当であるためには、母集団が「日本国民」(定義の問題もあるだろうけれど)で、サンプルはそこから無作為に選ばれ、その上で、高い割合で「重視している」人がいる事が示されなければなりません。これ、抽出方法が決定的に重要な要素です。偏っていれば、いくら大サイズのサンプルあっても、推定の理論的な根拠を失うので。

これって要するに、自身が優れている事が調査によって示された、という内容なのだから、どういう風に調査したのかをちゃんと載せないと、ホントかいな、という反応を持たれると思います。紙面には載せるがWEB記事には載せていない、というのはどうなんでしょう(参照出来るページがあるのかも知れないけれど)。

ちなみに私は、新聞(紙に印刷された、という意味)で(ラテ欄以外の)情報を得るという習慣を、生まれてこのかた持った事が無い人間です…。

2008年10月14日追記:非言及⇒読売新聞の嘘,黄金比率プリン,一緒にするな - カレーなる辛口Javaな転職日記

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江本氏から反応があった模様

kikulog:ミヤネ屋「水伝」の反響

さすがに、全国区のテレビ番組であれだけ批判されたとあっては、何らかのリアクションを取らざるを得ない、といった所でしょうか。

10/12開催の「船井オープンワールド」なるイベントで、江本氏の講演もあったようで、開催前の江本氏のエントリーによれば、そこで、この件について話す予定があると書かれていました。果たしていかなる内容だったのか。

反論は、あった方が良いのかも知れません。無視するより、何か言ってくれた方が、よりおかしさが強調されるかも。少なくとも、内容のある批判にはなり得ないのは、最初から判っているので。

ああ、一つ、この話題についての反応で、物凄く気になる事があったのです。

「文系」の罵倒は止めるように。自身の認識の無さを露呈するだけだから。本気で言っているのだとしたら恥ずかしいし、ネタとかレッテル貼りをして楽しむ、揶揄してるのだとしたら、やっぱり恥ずかしい。

そもそも、強く水伝を批判し始めた自然科学の専門家が、事あるごとに、この問題は勝れて文科系学問の問題でもある、というのを指摘しているのを、念頭に置いた方がいいでしょう。

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2008年10月 5日 (日)

ゲイムと学術

アルファさんのブログ経由で⇒ゲームとアカデミーの素敵なカンケイ(第1回)――東京大学 大学院情報学環 馬場章教授 (1/4) - ITmedia +D Games

良記事。

日本では、ゲームというのはあくまで娯楽であって、文化的(象徴的な意味で)、あるいは学術的研究対象としては見られない、というのがあるかも知れません。

それは、対象を無闇に高級なものと看做して特別視するというのを防ぐ事が出来るという反面、文化として見縊られる、もしくは軽く見られる、という事も起こるのでしょう。

コンピュータゲームという文化は、制作に携わる人間の数、投入される資金、産業としての巨大さ、等を考えるともはや、単なる娯楽には収まらないものとなったと言えます。金も人も、才能も動いて、注がれる訳ですね。

ゲームというのは言わば「器」だから、いかにも典型的な娯楽目的のようなものから、芸術作品と呼べるものもあり、また、直接的に教育目的を持つシリアスゲームのような分野も出てきました。従って、これらのあり方を総合的に分析・記述する必要があるでしょう。それには当然、広く学際的な視点が要求されます。

ゲームの学術的研究というのは、まだポピュラーな分野では無いと思いますが、今後益々発展していくと良いですね。

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2008年9月23日 (火)

考えられない表現

もう、ね。

勘弁して欲しい。

http://www.sendai-c.ed.jp/~nanzai/2008/koutyou/koutyo47.swf(要FLASH PLAYER)

子どもたちを守るために(その1) - 生かされて

人は前頭葉を使ってものごとを考えますが、ゲームをしているときは後頭葉しか働いていないそうです。前頭葉の機能の低下は最新の脳科学機器で証明されています。まさに「脳みそがくさる」状態ですね。

”「脳みそがくさる」”

Naritarianの成田的生活  20070929(google cache)

PTA主催の講演会「テレビ・ゲームで脳みそがくさる」の参加のためだ。

テレビゲームで脳がくさる!? - 阿部清人のオフエアブログ - 楽天ブログ(Blog)

http://kinomi-hoikuen.com/kinomi-otayori200802.html

 さて、先日保護者会の最後の行事として“テレビ・ビデオ・ゲームの影響を考えよう” ~脳みそがくさる?~ と題された講演会が、木の実西部保育園と合同で開催されました。

ゲームの恐怖を煽る言葉としては最高の選択だ。という事は、最悪の言葉遣いだと言える。

田澤雄作でググると、色々出てきますね。anomyさんやたこやきさんも採り上げておられる。ゲーム脳的概念を広めている人間の一人のようです。

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2008年9月21日 (日)

調べてみた

PSJ渋谷研究所X: 国土交通省にも神戸市にも「水伝」汚染?を読んで、私も「ゲーム脳」で調べてみました。

肯定的に採り上げているものだけ載せます。

○ac.jp

帯広ひまわり幼稚園>通信『ゆりかご』

比較的穏当にも見えるけれど、ゲーム脳については疑い無く受け容れている様子。

過保護・過干渉・TVゲーム (めるへんの森幼稚園【園長室から~園だより】)

 三つ目に、「TVゲーム」についてだが、TVゲームをしょっちゅうやっている子は、大脳の前頭前野といわれる知性や情緒を司る部分の発達に影響がある、ということを多くの脳学者が指摘している。いわゆる「ゲーム脳」といわれる現象だ。特に、暴力や戦争を扱ったゲームは、子ども達の仮想体験によって、「暴力や死」に対する抵抗感を少なくし、命の尊厳への想像力を失わせる。人々に求められる想像力とは、他者の気持ちや立場を考え、理解することができる力ということだ。そのことからも、幼児期にこそ豊かな想像力を育てることが大事で、そのためには童話を聞かせたり絵本を読んでやることが有効だと考えている。
 なお、中学生くらいまでは、ゲームをさせてはだめだ、ということを主張する学者もいることを付言しておきたい。

典型的な受け容れ方。”この演題としてあげた「過保護」「過干渉」「TVゲーム」の言葉を、私は子どもを育てるうえでの「三大悪」と、独断的に決めつける。”だそうです。

ウェブの囲碁対局にはまる(@沼津高専電気電子工学科

一応、批判があった事も書いてあります。でも、コンピュータ・ゲームへの強烈な偏見が…。

情報系大学生の心理的特性理解と指導、援助技術に関する研究(2) ~「デジタルホーリック」の概念と属性の検討を中心として~(@東京情報大学総合情報センター 電子文献サービス

画面脳の人とかanomyさんのような視点ですかね。ゲーム脳に肯定的、という訳ではありませんが。

テクノストレス等の概念とゲーム脳を安易に結び付けてはならない、というのは私が何度も書いている通りです。

帝京科学大学附属図書館 - 図書館だより 第23号 2003.1.17(@帝京科学大学附属図書館

見事にゲーム脳本を鵜呑み。書いた方のプロフィール⇒小川家資 | アニマルサイエンス学科 | 生命環境学部 | 帝京科学大学

あーゆす12号2頁(@京都文教大学図書館

タイトルが、「感性を磨く ~ゲーム脳にならないために~」。

現在の人間は感性が失われて云々、という言い方は結構見るのですが、果たしてそれに、どれほどの根拠があるのでしょうね。それこそ直感でしょう。

テレビゲームが子供に与える影響についての一考察 ~ゲーム脳を中心に~(@国際学院埼玉短期大学)       

論文(卒論かな)の概要。

『ゲーム脳』とは一体何なのか。「人間らしい感情や創造性をつかさどる大脳の前頭前野の活動が、テレビゲームをするときに目立って低下する」という記事を読み、今の子供たちの脳に異変が起きていることがわかった。

記事を読んで解ってはいけないと思います。全体的に突っ込み所満載だけど…。取り敢えず、ゲーム脳論そのものについてきちんと調べれば良かったのに。

こんな本読みました(その5)(@のぞみ幼稚園(高松市)

原典を読んでこの感想というのは、ゲームへの先入観が働いているのかなあ。ゲーム脳本は、かなり解りやすい破綻なのですが、途中で脳の生理学についての教科書的な記述を挟んでいたりするから、そこら辺は巧妙かも。

子どもの身体活動を考える~体ほぐしの運動から~welcome to nao's Home Page筑波大学 体育専門学群 運動学体操方法論研究室

運動の量の不足が心身に好ましく無い影響を与えているのでは、というのは確かに尤もらしい。でも、飛躍してはいけないのです。

 すでに数多くの識者が指摘しているように、こうした小さな画面の中に身をおく遊びが、感受性豊かな子どもたちの心や体を様々な形で蝕んでいることは否めない事実である。最近話題の「ゲーム脳」は、その恐ろしさを示す事例のひとつ。この造語を考え出した森昭雄によれば、長時間、ゲーム漬けになっていると、意欲、判断、情動抑制など、人間らしさを保つために重要な働きをする前頭前野が平常時から機能しなくなってしまうという。「キレる」子どもたちを生み出している背景には、テレビゲームに浸り続ける子どもたちのライフスタイルがあると警告する。

科学的思考を鍛えたはずの人々がこのような飛躍に陥っているのは、対象についての先入観・無知が関係しているのでしょうか。

理想学園 ひかりのいずみ幼稚園 つみき幼稚園:テレビゲーム(@理想学園 ひかりのいずみ幼稚園 つみき幼稚園

ゲーム脳と『脳内汚染』のコンボ。

幼児教育に対する意識が強いが故に、というのもあるのかも知れません。「しかし、上記両著によって、テレビやビデオ、特にテレビゲームが子供の心と脳を蝕んでいることがはっきりと分かりました。」と書いています。つまり、科学者の御墨付と看做しているようなものですね。ゲームの悪影響が科学的に明らかにされたのだ、と。ニセ科学が存在するという事実を知らねば、そうなるのも仕方無い部分があるのかも。

学長式辞(@東京学芸大学-TOKYO GAKUGEI UNIVERSITY-

感性の重要さを説く人が、非常に不寛容である場合があるのは、興味深い所です。

 急速な技術進歩や生活様式の変貌によって、これまで人間が積み上げてきた経験則は次第に忘れ去られ、無化されます。便利さと安易さの中で、人間生活にとって重要な側面が捨象され、人間形成の上の大きなゆがみが指摘されています。例えば最近話題になったゲーム脳など一つの典型かもしれません。テレビゲームをやりすぎると、精神活動を司る前頭葉の機能が低下し、認知症というのか痴呆症というのか、それと同じ脳になるという指摘です。
 「見るとは、像を殺すことである」。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーはこう言いました。見ることは、像を、イメージを殺すのだろうか。いや逆だろう。見ることによってイメージは豊かになるのではないか。普通はそのように考えます。しかしそうではないと言うのです。今はまさに映像の時代、ビジュアルの時代です。見ることは大きな比重を占め、そこから啓発されること大です。しかしよくよく考えてみますと、見ることによって、与えられた像やイメージは、思考や想像の回路を経ることなく、そのままインプットされた形で固定化されてしまいます。見た印象が強ければ強いだけ、その直接性に大きく規定されます。その結果、多様に想像し、自らの像をイメージすることが出来なくなるでしょう。

大学の学長式辞でこれは、頂けないなあ。想像力というものについてもっと想像した方が良いのではないでしょうか。

http://www.kogakuin.ac.jp/mado/mado134.pdf※PDFファイル(@学園広報誌「窓」 | 工学院大学

附属中学・高校の入学式での、校長の式辞の模様。完全に鵜呑みにしています。科学的に解明、と言っていますね。入学式でねえ…。

http://www.taiiku.tsukuba.ac.jp/sc/5_1/01/intro.html(@筑波大学体育系Web

こちらも、体育教育を重視する立場から、ゲーム脳に肯定的な内容が書かれています。子どもがキレやすいか、とかは、総体的な傾向の話で、本来疫学的な方法等によって解明すべき事柄なのですが、強く主張している割りにはそこら辺に無頓着なように見えますね。

基調講演「親が変われば子が変わる」※PDFファイル(@学校法人 浦山学園 | TOPPAGE

来ました、「親学」。

 これは朝日新聞が取り上げたものですが、ゲームにずっとのめりこんでいる子は、その書いた絵の中に、キャラクターと実際の家族が混在している。つまり、仮想と現実が一緒になってしまっている。最近、モリアキオという方の「ゲーム脳の恐怖」という本が出ました。小さい頃からずっとゲームにのめり込んでいる子は、前頭ぜんやという頭の中の人間らしさを扱う、激しい情をコントロールする場所があるんですが、その機能の低下を起こしてしまう。そこで、ムカつき、キレるということが起きてんだということを詳しく書いています。

典型的な、「仮想と現実の混同」論。

2005年4月のあらきけいすけの研究日誌

もしこれが、 ビデオ・ゲームに熱中してフィジカルな体験の時間が奪われている結果だとするなら、 この未経験のまま年をとる状態を「ゲーム脳」と呼んでも良いかもしれない。

ダメですよー。

※あらきけいすけさんがゲーム脳に肯定的、という事では全くありません。そこはよろしく。「ゲーム脳」の再解釈・再定義になっているので、そこは注意した方がいいかな、という事です。あれは森氏の造語だ、というのは押さえとかなくてはならないので。

○go.jp

ヒット数も少なく、肯定的に採り上げているのは特に見当たりませんでした。

○ed.jp(PDFファイルが多いです)

▼http://www.nagasaki-city.ed.jp/nishikita-e/nishikitadayori/h18/gakkou%20dayori/2gou-2.pdf※PDFファイル(@西北小学校

見事に鵜呑み。しかも、結構具体的。こういうのが配られたり、読まされたのだというのを考えると、残念ですね。

ゲーム脳とその予防(@市場小ホームページ

一番最後に、取って付けたような、小さい文字の注意書きがあります。バランスを取ろうという意図からなのでしょうけれど、そうはなっていないですね。

▼http://www.machida-tky.ed.jp/e-machida1/hokensitu/hoken0712.pdf※PDFファイル(@町田市立町田第一小学校

保健室便り。イラストを多用してチェックリストまで作り、凝った内容……って、ダメじゃないか。熱意があるのはいいのだけど…。

▼http://www.miyoshi-yasuda-e.hiroshima-c.ed.jp/19nendo/tayori2.pdf※PDFファイル(@三次市立安田小学校

今年の2月。「サインズ・オブ・タイムズ」というのが何なのか解らなかったので調べたら⇒福音社:サインズ

これはなかなか…。

それにしても、こういうのって、安易にお手玉を奨励したりしてる訳で、それはそれでまずいですね。

▼http://www.tym.ed.jp/sc138/hoken_hp/gakkouhokeniinnkai.htm(@射水市立小杉小学校

ゲーム脳は、小児科医や保健関連の人の支持がよく見られますね。とても安易にメカニズムを前提として、そこからロジックを組み立てています。その前に調べるべき事が沢山あるのですが。

▼http://www.fuchumidorigaoka-j.hiroshima-c.ed.jp/02osirase/01tayori/hotstation/17/hotstation1213.pdf※PDFファイル(@府中緑ケ丘中学校

「恐ろしい話」って…。あんまりですよ。根拠無いのに恐怖を煽ってどうするんですか(もちろん、根拠があると思っている訳だけど)。

▼http://www.onomichi.ed.jp/shigei-j/h19/h19.9gakkoudayori.pdf※PDFファイル(@広島県尾道市立重井中学校

来ました、片岡直樹氏。心を「魂」と結び付けるのは、どうでしょうか。非常に危うい表現だと思います。科学者としてはかなり不用意なような。

メルマガ@かかみはら 第9号(@岐阜県立各務原高等学校

森氏の講演を聴講して書かれたようです。主催は、「岐阜県教育研究会保健部会」。むう…。

高校生くらいになると、何言ってんだよ、的な反応もあったりしそうですが。

▼http://www1.sakai.ed.jp/weblog/data/sakai054/14536/kouhou%20fuyuyasumi061222.pdf※PDFファイル(@堺市立宮園小学校

ゲームを単純化して見ているんだなあ、という印象。子どもがやっているのをもっと見てみればいいのに、とも思いますが、バイアス掛かったまま見ると、暴力描写がクローズアップされたりするかも知れないので、難しい所。

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取り敢えずこのくらい。実際検索すると解りますが、「ゲーム脳 site:ed.jp」でググると、170件くらいヒットして、ほぼ、ゲーム脳をそのまま受け容れています。キリが無い。

WEBを活用している学校でこれくらいヒットしたので、学校便りや保健室等で、ゲーム脳について肯定的な採り上げ方をしているのは、潜在的にかなりあると推測されます。

それにしても、ゲーム脳はニセ科学ですよ、的な記述が皆無というのは…。しかも、つい最近書かれたものもありますしね。やはりゲーム脳は根深い。こういうのを、蔓延と言うのかな。

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えー、感想。

頭が痛い。

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2008年9月17日 (水)

不見識

『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)|ほたるいかの書きつけ

実際、由々しき問題だと思います。

校長の役職につく人達百数十名の前で江本氏の講演が行われ、

 すると、後日、各小学校より続々と注文があり、すでに約7000冊の絵本が関東圏内の子どもたちの手元に届けられました。

このような事になったのは。

7000というのはかなりの量です。いや、700でも多い。児童・生徒に配布するにしろ、図書館で所蔵するにしろ。

他にも色々凄まじい内容が書いてありますが、詳しくはFSMさんのブログをご覧下さい。

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2008年9月 2日 (火)

良い教材

思うんですけど、こういうのって、理科の教材としても有用なんじゃないですかね⇒鳴るほど♪楽器解体全書 掲載楽器一覧 | YAMAHA

楽器という身近で興味を持ちやすい道具と関連させて、楽器から音が出るのはその構造故である事を教え、説明された側は、楽器の合理的な仕組みに感動し、自然科学のメカニズムについての知識も得られる。実に良いのではないかな、と。

それにしても、YAMAHAのサイトは、コンテンツが充実していますよね。デザインも良いし。

余談。

昨日、こんな楽器があるのを知りました⇒ヴィオリラ | YAMAHA

いや、実に面白い。

楽器って、感性と経験と科学と技術の粋ですよね。素晴らしいと思います。

最近、MIDIやシンセサイザーの仕組みについても調べていて、その面白さに驚嘆している所です。

物事の仕組み、構造と機能について関心を持つと、あらゆる文化が繋がってきます。そして、それには自然現象のメカニズムが通底している事が、見えてきます。これほど楽しい事は無いですね。文化の間に壁を作る人には絶対到達出来ない。

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2008年8月28日 (木)

信じ込んでいる

教えて!gooで、血液型と性格関連の質問を調べてみました。

血液型判断の好きな人への対応… - 教えて!goo

血液型で判断したくは無いのですが、私の彼氏はB型でして。。 - 教えて!goo

男性に質問です(O型の人いませんか?) - 教えて!goo

星座と血液型だけで - 教えて!goo

A型は歯止めがきくって本当ですか? - 教えて!goo

B型の男の人や付き合ったことがある方に質問です。(長文ですみません) - 教えて!goo

A型男性の方、教えてください。 - 教えて!goo

A型男とO型女って相性わるくないですか? - 教えて!goo

自分の血液型について - 教えて!goo

ややこしいねえ。ややこしい。

そして最後に、kikulog経由で知ったYahoo!知恵袋での質問。

私は今まで血液型にこだわってました。私はA型。 - Yahoo!知恵袋

憤りでは無くて、悲しみを覚えるのです。

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2008年8月24日 (日)

必修化2

<武道必修化>中学校に道場新設へ 来年度予算要求60億円(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

関連エントリー⇒Interdisciplinary: 必修化

そんなに予算を割いてまでやる事なの?

武道というのは本質的に、暴力的な要素を含むものだから、高い精神性を持った指導者が丹念に指導していくのが重要でしょう。それをきちんと考察・研究せずに、まるで、「武道を経験する事そのものが、精神性を高める」、というのが自明であるかのように、安易に決定されているように思います。

まあ、必修化はもう決まったようなので、高度に記号化、あるいは様式的であって、競技の色合いが薄いのをやらせるのが良さそうに思います。型武道とかね。「簡単には使えない」ものをやらせる。日本剣道形とか柔道の型だけやる、とかどうでしょう。剣術の型ならば、たこやきさんも仰ったように体育館で出来ますし、木刀を使うので、慎重に道具を扱う、というのを学ばせる程度は出来るかも知れませんよ。高度に記号化されていれば、それを憶えるというプロセスも入りますし。

ところで、体育で柔道・剣道をやった方、それを体育の時間でだけやる事によって、何がしかの良い影響を実感しました? 後になって、やって良かった、と思った事はあります?

体力的に優位な子どもがそうで無い子どもを技の「実験台」にする事とか、ありますからね。ちゃんと考慮してるかな。週にたかが数時間やる程度で、武道の特徴を学ばせる、というのが可能なのでしょうか。

そもそも、この件に関して、武道・武術の専門家の意見をどのくらい取り入れたのでしょうね。凄く疑問。

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2008年8月13日 (水)

血液型で政治を語る

コメント欄にも貼りましたが、エントリーを上げておきましょう。

kikulog経由⇒東京新聞:心理研究家御瀧 政子さん Q 福田さんは典型的なA型?:政治(TOKYO Web)

誰も止める人はいなかったの? て言うか、「心理研究家」ってなんだよ。

この記事の内容を海外へ伝えて、日本の新聞記事の優秀さを知らしめるのも、良いかも知れませんね。

載るか、今時? こんな記事が。稀に見るダメ記事でしょう。

今回は少し軟らかく政治を考えてみようと、血液型を取り上げてみました。

そういう問題か?

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2008年8月11日 (月)

殺意

高校・大学・専門学校生 親に殺意3割 「よくある」は3%(産経新聞) - Yahoo!ニュース

「殺意」という概念をどう捉えるか、がとても難しい所です。自覚の線引き、感情の閾値、価値付け。A氏が誰かに「殺意を抱く」のと、B氏が「殺意を抱く」のは、同じ現象か。それを客観的に調べる尺度をどう作るか。

訊き方によっては、回答者が、「ああ、そういえばあれは”殺意”なのかなあ」と考える、そういうバイアスも掛かるかも知れません。親に全く反抗心を懐いた事の無い人はあまりいないでしょうし、そういうのを「殺意」と「再解釈」する可能性は、あるでしょう。後から情報を与えられて意味付けし直す、というのはよくある事です。それが感情のあり方に作用を及ぼす事もあると思います。

この記事で一番押さえておかなくてはならないのは、

 赤沢研究員は「本気で殺意を抱いた若者は、ごく少数の可能性があり、慎重な判断が必要」とした上で、「高頻度で殺意を抱く傾向が全体の3%にみられたことは気がかりだ。家庭や学校などでの生活背景を調べ、対策に生かしたい」と話している。

ここであって、色々な観点から分析して総合的に考える必要がある訳ですが、見出しのインパクトは大きいかも知れません。これを不用意に、「今時の若者」とか「心の闇」に結び付けたりね。

見るべき所は、ネガティブな感情を懐く頻度の方かも。頻繁にそうなるという事は、親子関係が良好で無いのを示している訳だから。

サンプルをどのように採ったか、とかが判らないから、どこまでこの結果を一般化出来るかは不明。この記事から確実に言えるのは、「調査した900人の内、○○に殺意を懐いた事があると回答した人は△△%だった」、くらいですね。

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2008年7月27日 (日)

言葉遣い

茂木さんを「駄目」と決め付ける人ってやっぱりいるんだね(追記あり) - 諏訪耕平の研究メモ

ublftboことTAKESANです。

えっとですね。

黒影さんの福岡氏批判が「よく分かりませんでした。」と仰っているのに、批判の際の言葉の使い方について指摘するのはどういう事なんだろうな、という事なんですね。内容の妥当さが解らないのですから、強い言葉で批判しているのが妥当かどうかも、そのままでは判断出来ないですよね。

たとえば、森昭雄氏(ゲーム脳を主張)に対して、「まともな研究者では無い」と言うのに、何の躊躇いもありません。科学研究を業とする人間が、まったく正当な手続きを経ずに実証されたと言い、それを流布しているのですから。そしてそれは、”「デブにデブって言うのは当然」とは思わない。”などという話とは、全然違う話なのでは。何について語っているか、どのような事を主張しているか、そして、主張している人間の属性が何であるか、という所を考慮しないで、具体的な言葉遣いそのものをどうこう言うのは出来ないでしょう。

後、NATROMさんのコメントは、多分、福岡氏のような方に対して掛かっていますね。

要するに、批判の内容を吟味しないのに、言葉遣いの強さ等に関して評価してしまっている訳です。まさか、批判の際には一般に、「まともでない」等の表現は使うべきでは無い、という意味なのでしょうか。だとすると、それには同意は難しいですね。何かを主張する事は、誤った知識を広めたりする危険性を伴っている訳で、時には、物凄い悪影響を及ぼす場合もあります。何となく信じかけているかな、という人ならともかく、主唱者であったり積極的に広める人であったりに、それなりの批判を加えるのは、全く構わないと考えます。

ですから、もし黒影さんの書き方に批判を加えるならば、その言葉遣いを使って批判するほどのおかしな説を福岡氏は主張していない、というのを示しながら行うべきでしょうね。そうじゃ無いと、単に、「まともでないとか言っちゃいけないよね」、という話にしかならないと思います。

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2008年7月25日 (金)

今更

ここ数ヶ月の間に、産経・読売・毎日の各紙で、ゲーム脳説が紹介されました。いずれも(書き方に違いはあるけれども、ある程度傾向は一致していると言えるでしょう)、それが、他の科学的な仮説や実験研究と同等であるかのような、紹介の仕方でした。

これは実は、かなり異様な事であると言えます。

ゲーム脳は、そもそもニセ科学です。つまり、きちんとした研究を行ってすらいないのに、実証されたと言っているものです。研究は妥当だろうけれども主張が行き過ぎている、というものでも無いのです。あらゆるレベルで、科学的には「説」にすらなっていないもの。それを、中立・公平を努めようとしているのか何なのか解りませんけれど、「批判もある」、というかたちで紹介しているのです。これは、明確に「間違っている」と言える。

ゲーム脳は、ちょっと調べれば、実態が解るものです。それこそ、早ければ数十分で気付けるような代物。いや、気付かなくてはならない、と言った方が良いでしょう。何といっても、新聞記事なのですから。

ゲームの影響について、本当に中立・公平に論じたいのなら、ゲーム脳を持ち出すのは、筋が悪いのです。これは、かなり穏当な表現ですが、率直に言うと、調べるのをさぼっている、あるいは、一定水準以上の能力を持っていない、という事でしょうね。それを言い切って良いほどのものなのですよ、ゲーム脳というのは。

このような主張を、ゲームを擁護したいがための意見だ、と読むのも自由ですけれど。目を逸らせば楽だから、勝手にそうすれば良い。間違っているものには間違っていると言い続けます。まあ、文字通りにとれば、私は「ゲームを擁護している」訳ですが。不当に非難されているものを護りたいと思うのは、当たり前の心理です。

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2008年7月 4日 (金)

戯言

秋葉原通り魔事件 ~ 人生はリセットできない / SAFETY JAPAN [松村 喜秀氏] / 日経BP社

本当に下らない記事。戯言です。ふざけている訳では無く本気でこのような言を撒き散らす事に、戦慄を覚える。

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2008年6月19日 (木)

適当な

マンガ脳 (内田樹の研究室)

なんでこのエントリーが受けるのか、よく解らなかったりするけれど。

言語論的な所は、id:dlitさんにお任せするとして。

というのは、マンガ家を見て知れることの一つは、「画力のあるマンガ家は、話も面白い」ということだからである。
絵はめちゃめちゃうまいが、話は穴だらけ、とか、ストーリーは抜群だが、デッサンがどうも狂っている・・・というようなマンガ家は(あまり)いない(青木雄二くらいである)。

なんという適当な。世の中に、どのくらいのマンガがあるのかと。当然、「売れている(売れた)マンガ」と「面白いマンガ」は同義では無いですよね?

ところで、私なんかは、「そういえば、”デッサン”てよく聞くけど、実際はどういう意味なんだろうな。」という風に思ったりします。何となくイメージは出来るけれど、専門的にどう使われているかは、全然知らないんですよね。

大友克洋、鳥山明、井上雄彦・・・ワールドワイドに画風のフォロワーを有しているマンガ家たちは、いずれも創造性あふれる抜群のストーリーテラーである。

で、内田氏が、「画力」をどれくらい判断する事が出来るんだろうな、なんて。その前に、「画力」とはなんでしょうね。話の流れ的に、「デッサン」の巧緻さと同義なのかな? 通常、こういうメタフォリカルな表現(○○力とか)は、色々な要素を複合させた概念として用いるけれど。整っていなくても「画力がある」というのもあるって事? それとも、「デッサン」が巧みである事が、高い「画力」の必要条件って意味なのかな。もちろん、「面白い」も複雑な概念である事は、言うまでもありませんが。

あ、「○○脳」というのをエントリーのタイトルにするのも、流行を押さえてますね。もう過ぎ去った感も無きにしも非ず、だけれど。

だ、だめだ。一部のコメントの意味が全く解らない…(なんかカオスだなあ)。

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因果関係?

ZAKZAK:“ゲームと無差別殺人”両者に因果関係はあるのか?

もう言っていいですよね。馬鹿であると。

一応書いておきますけど、犯行に至ったきっかけにゲームがなったか、というのは、「解らない」です。そのメカニズムの「解明」が可能なのかすら、解らない(私は不可能だと思っている)。そして、仮に、ゲームが影響を与えていたとしても、「ゲームと無差別殺人に因果関係がある」とは言えない。ものすごいミスリードです、この見出し。

ジャーナリストの井上トシユキ氏

この人も自重しようよ。

ところで、「東方」って、基本的に、シューティングを指すのですよね?(正確には、作品群を表すのかな?)「美少女らがナイフや弾丸を敵に浴びせて倒すゲーム。」なんて表現も、ミスリードだよね。ドラクエを、「剣等で怪物を殺戮し強奪し、他人の家に盗みに入りながら物資を調達していくゲーム」、と言うようなものでは?

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2008年6月13日 (金)

印象を誘導するダメなアンケートの一例

アルファさんに教えて頂きました⇒秋葉原の無差別殺傷事件「銃刀法規制に賛成?」「反対?」 - MSN産経ニュース

ひどいですね。

めちゃくちゃですね。

アンケートフォームはここです⇒産経新聞特集部 私も言いたい

ダメですね。

まず初めに、思いっ切り印象をネガティブな方向に誘導している。

全部回答必須の上、イエスかノーの2択。そして、質問がひどい。

青少年に悪影響があるゲームソフトを取り締まるべきですか

これをノーとは答えないでしょう。悪影響がある、と言ってるんですから。だから、ここに答えられない人は、回答を止めるでしょう。で、1つ回答出来なくなると、全部回答必須なのだから、送れなくなる。そうすると、質問に疑問を感じない「素直」な人はイエスと答え、イエスの割合が大きくなる。当たり前ですね。

しかも、メール等で回答を依頼するのでは無く、アンケートフォームでの募集だから、無回答というのが無い。こんなので、「n=○○」とかそれっぽい事は書くなよ。

下らないアンケートです。

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2008年6月12日 (木)

マスメディアの反応

秋葉原の事件に関して書かれたWEB上の記事を、調べてみました。

ここでは、ゲーム等のサブカルチャー、あるいはインターネットに言及していたり、「識者」と呼ばれる人のコメントが載っているものを、ピックアップしました。※ゲームという単語が入っているものも貼ります。「ゲームのような」、というアナロジーを用いて犯人の心理を推測している記事もありました。

新聞社の記事なので、その内削除されるものもあると思います。

社説 - [秋葉原通り魔]動機の解明を急ぎたい : 南日本新聞

 さらに、インターネットの携帯電話サイトの掲示板に犯行を予告する書き込みをしていたという。その内容は「途中で捕まるのが1番しょぼいパターンかな」などとゲームを楽しんでいるようだ。人を殺すことへのためらいがまるで感じられない。

自身の状態をゲームに擬えていた、というのはあるかも知れない(単なるアナロジーだから)。だが、「ゲームを楽しむ」というのと同様の心情であっただろうか。

福井新聞 - 論説(6/10分を参照)

仮想現実と孤独がミックスしたような世界で現実とのギャップを感じたとき、私たちが想像もできない行動に出る。

意味がよく解らない。

福井新聞 - 越山若水(6/10分を参照)

最近相次ぐ無差別殺人に、生身の命とゲームの命の区別も付かないのかとがく然とする。

区別がつかないのに、何故生身の人間を狙うのだろうか。違いが判別出来ない、というのでは無く、重み付けの話か。

東京新聞:現実の世界で生きているようで、実は携帯サイトの掲示板の世界…:社説・コラム(TOKYO Web)

匿名化を広範に許すネット社会では自分の行為に対する倫理的判断が麻痺(まひ)状態になる。作家の柳田邦男さんはこう分析している。思いやりの心の摩耗と言ってもよかろう。自分はどうか。心に尋ねている。

この文脈で匿名性云々を出す意味が解らない。

福島民報 | 論説・あぶくま抄:無差別殺傷 動機解明を(6月10日) 

子どもはテレビゲームでの殺傷場面に慣れ親しむあまり、仮想現実と現実との区別がつきにくくなるケースもあるという。

ケースもあるという、とする根拠は? その前に、仮想現実と現実との区別がつきにくいというのは、どういう状態なのだろうか。本当に虚構と現実の区別がつきにくいという状態なら、全く文脈が異なってくるはず。

さきがけonTheWeb|北斗星(6月10日付)(秋田魁新報社)

▼凶器はダガーナイフだった。ダガーとは英語で「短剣」を意味する。過去に欧米で決闘用に使われ、アニメゲームにも頻繁に登場する武器という。男がアニメマニアだったかどうかは不明だが、どこかおぞましいものを感じる

アニメやゲームに頻繁に登場する、と言い切れるかも疑問だが、「男がアニメマニアだったかどうは不明」というのは何を意味するのか。そうだったと判明した場合、アニメやゲームと凶器の選択が密接に関連していた、という事か。

【秋葉原通り魔事件】凶器のダガーナイフ 高い殺傷力 - MSN産経ニュース

ダガーナイフは、有名なゲームソフト「ドラゴンクエスト」などにも“アイテム”として登場、ゲーム好きの面を見せる加藤智大容疑者(25)をひきつけた可能性もある。

ダガーと聞いて『ドラゴンクエスト』を思い浮かべる人が多いほど、当該ゲームにおいて「ダガー」などという語は頻出しないと思われる。出てくるだけでよいのなら、無数のゲームが挙げられる。そもそも、『ドラゴンクエスト』では、武器のグラフィックはほとんど登場しない。武器の構造的な特性も同様。

※他ページからのリンクは、「【秋葉原通り魔事件】凶器のダガーナイフ ドラクエの“アイテム”にも」となっている。

Sknc

「ダガーナイフ」銃刀法改正も検討へ : 秋葉原無差別殺傷 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 東京・秋葉原の無差別殺傷事件で使われた「ダガーナイフ」は、人気ゲームで主人公が使う武器として登場するなど、若者の人気アイテム。

ダガーというゲーム中のアイテムが人気なのか、実際のダガーナイフが人気なのか。人気だからダガーがゲームに使われるのか。ゲームに使われているから実際のダガーナイフも人気なのか。そもそも、ゲーム中で注目されるアイテムとしてダガーが位置付けられているなど、ゲームユーザーの立場からすると全く考えられないし、聞いた事も無い。若者にダガーナイフが人気だという話も初めて目にした。

人気ゲームで使われている=それ自体が人気  には全くならない。

文章が読解不能。

asahi.com(朝日新聞社):使用ナイフは人を刺す武器用 規制は一部 秋葉原殺傷 - 社会

 ゲームでも武器として登場し、若者にも人気がある。

読売の記事と同様。「人気」とはどういう概念なのか。

○ZAKZAK(夕刊フジ)

秋葉原無差別殺人、男の素顔…ロリコン、スピード狂

秋葉原無差別殺人男のオタク執着…独特のこだわりも

アニメやゲーム、オタク等の言葉をネガティブな印象に誘導している。情報として書くべきものなのか疑問。

凶器のナイフ6本所有…福井市の軍用品販売店で購入

ダガーナイフは、中世ヨーロッパの騎士が身につけていた両刃のナイフ。俗に言うドスなどに近いサイズ。大ヒットゲーム「バイオハザード」で敵キャラを倒す武器として登場。キャラクターの成長を楽しむロールプレイングゲームの草分け「ドラゴンクエスト」では、ゲーム内の仮想ショップで自由に購入できる。

 加藤容疑者が犯行当日に友人に送った萌え系ロールプレイングゲームにもダガーナイフに似た両刃のナイフが登場していた。

ゲーム内だから「仮想ショップ」なのは当たり前。そもそも、ゲーム内の店で武器が購入出来るなど、大部分のRPG(ロールプレイングゲーム)に共通している事だ。意味不明な言葉の使い方。

萌え系のRPGとは何だろうか。「ダガーナイフに似た」、とすれば、どうとでも言えるのでは。諸刃の短剣ならば、全部似ていると言える。鞘付きの短剣等は、よく出てくる。

「自己愛強すぎる」加藤容疑者“心の闇”専門家が分析

秋葉原殺人男“女”と劣等感「幸せ者は死んでしまえ」

少ない情報から犯人の心理状態・精神構造を論じている。推測の域を出ない。心理臨床においては、様々な検査・面接等の方法を組み合わせて用いて対象にアプローチしていく。それも、妥当性や信頼性を科学的な手続きによって確認した方法によって、である。

このような、「識者」による心理の分析もどきが、果たしてどれほど有用なものとなるだろうか。ある特徴を持っている人が何かをしたとして、その特徴を持っている全ての人がそうである、とはならない。また、「何かをした」のはその特徴を持っているからだ、と断定は出来ない。

こういった分析は、様々な前提・仮説が全て正しい場合に成り立つ推測であって、それ以上のものでは無い。偶然当たる事もあるし、全く合っていなくとも、情報が少なかったという言い訳が出来る。

本当に真摯に考える人ならば、「情報が少なくて何も言えない」、となるはずだろう。「ネット事情に詳しいジャーナリスト」が、何故精神分析のような発言をしているのだろう。

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2008年6月11日 (水)

思い

2008年6月8日千代田区外神田の中央通りで起きた事件について|桃井はるこオフィシャルブログ「モモブロ」Powered by アメブロ

考えさせられる内容。

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2008年6月10日 (火)

秋葉原通り魔事件について

別の件についてのエントリーのコメント欄で、秋葉原の通り魔事件について書いていましたが、別エントリーを立てます。元エントリーのコメント欄はこちら⇒Interdisciplinary: またか#comment-51059993

以下は、アルファさんへのレス。

アルファさん、今晩は。

メーカーや関係者が事件そのものについて何か言う、というのは、今の時点では無いかも知れませんね。
小島監督は、比較的、こういう事については発言される方だと思うので、ある程度時間が経って、何か発言するかも知れません(今語らない方が良いと思ってます。注目度が高過ぎて、要らぬ混乱を呼び起こしそう)。

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2008年6月 6日 (金)

B型は血液型性格判断に関心を持ちやすいか

意識調査:B型は4人に3人が「血液型と性格は関係していると思う」 -BLOGCH-

理論的には、ある血液型の人が、より興味を持ちやすい、というのは、あり得る事ですね。特定の血液型の人の性格がネガティブに言われていたりすると、その血液型の人が気にしやすくなる、というのはあるでしょう。

ただ、この調査結果から敷衍して、それが一般的に言える、と結論は出来ませんね。

そもそもが、「同社が提供するサービス会員をパネラーとするリサーチ結果」であるので、サンプルとしては、偏っている訳ですね(日本に住む人の傾向を知りたいという観点からすれば)。

もう一つポイントなのが、質問内容。

3件法で、「大いに関係があると思う」・「多少は関係があると思う」・「関係はないと思う」という選択肢ですね。血液型と性格の関係の度合など、明確に意識している人がいるのかな。「大いに関係がある」と答えるのと、「多少は関係がある」と答えるのが、明確に異なるのか。定義もしにくいですしね。だから、関係はないという答え以外の割合を加算して単純に比較し、それで各血液型ごとの傾向を言うのは、ちょっと難しいでしょう。

もし私がこの質問に答えろと言われたら、困りますね。血液型と性格に「関係がある」という文の意味が判然としないから。まあ、文脈から、血液型で性格が当てられる程度の関連がある、というのを訊いている、と推測は出来ますが、それは措いて、文字通りに読むと、私は、答えられませんね。何故なら、「関係ない」とは言う事は出来ないから。選択肢に「わからない」があれば、まだ良いんですけどね。注意深く考える人なら、「別に信じてはいないけど、関係無いとは言い切れないかなあ…」、という風に考察するかも知れません。

こう書くと、そんなに細かく考えずに答えれば良い、と言われるかも知れませんが、大部分の人がそう思ってて答える事で、調査結果が信用に値しないものになってしまうのですよね。割合など簡単に変わる。

私は、どちらかというと、年代別の傾向に興味があったりしますけど。

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2008年6月 3日 (火)

ユーモラス?

某ブクマ経由⇒【Re:社会部】夢を推したアニメ - MSN産経ニュース

 その意味で、現在のアニメが将来の科学技術力を占うのかもしれません。しかし、近年話題に上るのは、いわゆる美少女系ばかり。若者の理工系離れの一因は、案外こんな所にあるのかもしれません。

劇的に噴いた。

いや、何を目指すか、というのに、好きだったフィクションが影響するのはあり得るのかも知れませんけれど、それにしても、後半は、飛躍し過ぎじゃないかな。

そもそも、「近年話題に上るのは、いわゆる美少女系ばかり。」、という部分の意味が…。美少女系って何、とか、話題に上ってるのか、とか。しかも、それが理工系離れの一因て…。

居酒屋談義ならともかくねえ。ジョークの類じゃないですか、これ。

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2008年5月30日 (金)

またか

ニューストップ > トピックス > 政治・社会 > 23歳女性行方不明事件 > <江東女性不明>容疑者、技能高く職場転々 美少女グッズも - Infoseek ニュース - Infoseek ニュース

ま た か。

いつまで続くんだろうね。

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2008年5月25日 (日)

キャッチーだね

退屈は正義のようです - アルファ’s blog(仮

また齋藤さんか…。見てみようかなあ。

文藝春秋|退屈力(齋藤 孝)

CM、ネット、ゲーム……「高度刺激社会」は加速し、特に子どもたちを襲います。齋藤氏は、そのような脳を興奮させる生活から、少ない刺激の中で豊潤な満足感を得る、“態度の転換”の必要性を訴えます。

へえ。

Book 退屈力 (文春新書 628)

著者:齋藤 孝
販売元:文藝春秋
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って、amazonのレビュー見てたら、

「子供もスパイシーなものを求めるようになってきた。これは食文化の世界においても、やはり刺激を追及するようになったあらわれだ。」

…。これは引用? 要約? どっちにしても、凄い内容。

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2008年5月24日 (土)

正当化?

「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

この論法だと、大部分のフィクションが、成立し得ないですよね。

フィクションとは、多かれ少なかれ、ステレオタイプを用いて組み立てられて行くものなのだから。

番組作りを再考するという意見が説得力を持つには、相当な強い証拠が求められるでしょう。当然、『ごくせん』を観る事によって不勉強を正当化する人間が多い、という証拠です。

ちなみに、ネタ元は読んでいないので、どんな「データ」が示されたかは、把握していません。

勉強しない事を正当化するのが問題だとは私も思いますが、テレビを観て正当化「している」かどうかは、別の現象でしょう。

現実に即して物語を構成しなければならないのだとしたら、実につまらないな、と感じます。

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2008年5月22日 (木)

思い込みが激しい

美少女アダルトアニメやゲームの規制嘆願が提出される | デジタルマガジン

請願情報

このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。

これはひどい。

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2008年5月12日 (月)

きれーなにほんご

きれいな日本語意識高まる 旺文社の小中高校生調査 - MSN産経ニュース

そりゃあ、綺麗な方が良いかどうか、と訊かれれば、肯定するんじゃないか。見事な誘導に見えるけど。「きれいな日本語でなくともよい」、という訊き方とか。こういう場合に、「何を訊かれているか解らない」から答えない、なんてのは、私みたいなへそ曲がりくらいでしょう。
しかも、検定を受ける人達は、平均よりも言葉の用い方について関心が高い、という推測も出来ますね。

「きれいな日本語を話していると思う」という質問に「はい」と答える人がいるんだね。驚き。言葉について意識が高い人は、要求水準が上がるから、肯定しないんじゃないかな。肯定する人は、余程の自信家なのか…。

それからね。
言いたい事が伝わるかどうかは、言葉の選択の仕方と相互作用してるんじゃないの?

「歌が巧ければ、声が良くなくても構わない」、という質問みたいだ。

旺文社のニュースリリース(PDF)⇒~旺文社「第5 回ことばに関するアンケート」集計結果~
小・中・高校生 約10,000 人が回答 「きれいな日本語を使おう」 意欲高まる

こういう性質のアンケートで、経年の割合の変化を単純に比較して、意味があるのかなあ。

って、

あなたは、日本語が乱れていない方が、言いたいことを相手にきちんと伝えられると思いますか?

こういう質問もちゃんとあるのね。て言うか、Q4とQ5が…。Q5は、「乱れていない」なんだね。ややこしい。「乱れている」という概念は、直前の質問にある「きれい」の反対なんだよね? ここで言う「乱れていない」と「きれい」は、同じ意味なの?

あなたが日本のことをまったく知らない外国人に、一つのことば(一語)で日本を紹介するとしたら、
どんなことばを使いますか? あなたが日本をイメージすると思うことばを、一つだけ挙げてください。

全く知らない人に、一語で紹介するのは不可能です。富士山とかなんとか、それで説明するのは、相手が日本を知っている、って事じゃないですか。まず日本行きのチケットを渡すべきだ。

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2008年5月 7日 (水)

何故かと言うと

はてなブックマーク - なぜいつまでも水伝? - uumin3の日記

uumin3の日記:続・なぜいつまでも水伝?

ちょとよく解らないので、引用しつつ感想を。

 以下のような杜撰な実験には大した意味がないんだということは子供にもわかるのではないかと。

子どもどころか大人でさえ真面目に受け取る人がいる、という所が問題になっているように思います。それこそ、ブログ検索でもしてみれば、そこそこの数の人が肯定的に受け取っている事は、確認出来るかと。

 それから「よい言葉」をかける云々全般については、なぜ日本語に反応しているのか、というあたりで問いかけて見ればいいのではないでしょうか?

水伝は、どんな言語でも、良い意味を持つ言葉であれば水は反応する、という説明をしていますね。もちろん、それ自体無茶な設定なのですが、信ずる人はそれでも信ずるのであって…。

 そしてそれでもなお、という人が本当に今でも多いのかということについてはこれこそ検証しなければいけないことではないかとも考えます。

これは、よく出てくる事ですね。うーん、必ずしも、量的な所、つまり、「信じている人が多いから」、というのを批判の根拠にはしていないですね。教育現場に用いられた事、超有名芸能人がテレビで紹介した事、バラエティ番組で紹介された事、等が、かなり重視されていますね。それに、日本以外にも広く知れ渡っているようです。ところで、「多い」というのを、どのように評価するのでしょうね。推定をして、このくらい信じている、というのを調べる、って事なのかな。どのくらいいれば、「多い」と判定するのでしょうか。

 水伝本が売れたのはもう2、3年前の話。そして具体的な水伝を広めようとした事例も、もう1、2年前のものが多いのではないかという印象も受けました。

最近、江本氏の本が文庫化されましたね。講談社の。広めようとした事例が1・2年前のものが多い、と判断されるのが、よく解らないですね。今の方が少ないという判断は、どのようにしてなされたのでしょう。いや、まあ、印象と言っておられますけれど。

 で、その流行はどうなったかといえば、結局どれも数年で火が消えたように祀り捨てられているわけでして、もしかしたら水伝についてもその類のものではないかという感触がないではありません。

 あと1、2年も放っておけば、自然に消滅してしまうようなものではないかという印象が強いんですよ。それこそ何か陰謀的なものがない限り、私でしたらほとんど消えるほうに賭けたい話ですね。そういう妙な危惧(陰謀論につながりかねない不安みたいなもの)も批判なさる側に実はあるんじゃないかと思えたところもちょっと…ということなのでした。

まず後半。陰謀論に繋がりかねない、というのが何を指しているのか…。もしかして、玄倉川さんが書かれたような、ニセ科学を広める陰謀がある(というのを言い出す人が出てくる可能性)、的な話? 違うかな。ちょっと読み取れません。

前半に関しては、事前にそういう評価を行うのは難しいんじゃないかと。ゲーム脳も最初、ほっとけば消え去る、というように捉えられていましたよね。特に業界も動かなかったし。その結果がどうなったかは、まあ、言うまでも無い事です。ですから、放っておけば消える、という見立てには、ちょっと首を傾げてしまいます。

て言うか、水伝は、ここ2・3年で広まった訳ではありませんよね。批判活動が目立ってきたのがここ2・3年だ、という事なのでは。

水伝が採り上げられた事例としては、某ブクマ(カテゴリー:水伝)とかwiki(芸能人が紹介した例)が参考になるかと思います。

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2008年5月 6日 (火)

安心したい

はてなブックマーク - 臨時ブログ 「水伝を受け入れる人」=「自然科学を絶対視する人」

絶対視している、というより、都合の良い所に科学というものを持ち込みたがる、という感じかな、と。主張が先にあって、それを正当化すべく、「科学」を恣意的に利用する訳ですね。その実態は、科学でも何でも無かったりするのですが。

やっぱり、基本的な所で、科学に対する信頼は持っているのだと思います。明確なイメージは無くとも、自身の生活が科学技術に支えられている、という直観はあるのでしょう。だから、自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。ゲームばかりやる子どもに手を焼いている人が、「ゲームで前頭前野の機能が低下する」、というのを聞いただけで安心(そして、新たに不安を感ずる)するように。

水伝を受け容れる人は、「言葉を絶対視したい」人、なんじゃないかな。そして、水伝を積極的に広める人は、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人。

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2008年5月 5日 (月)

どっちか、じゃ無くて、どっちも

人間、いつ騙されるかわからない。自分は騙されないだろう、なんて考えてはいけませんね。

私、ずっと前に、友人と一緒に絵を見に行った事がありまして。

まあ、顛末はあんまり詳しくは書けませんけれど(私が絵を買った、というのは無いです)、あれです。シルクスクリーンをすっごく高く売る、ってやつです。

当時は絵画商法なんて知りませんし(て言うか、ごくごく最近知った)、数十万が相場と言われると、へえ、そういうもんか、と思う訳ですね。まあ、販売員?の巧みな事巧みな事。雰囲気に呑まれて、好きな人の絵だという先入観もあり、専門の人の言っている事だから信頼出来るのだろう、という心理を持つのですよね。

その頃は、ネットもほとんどやって無かったくらいだから(むしろ、ネットなんて危ないものだと思い込んで、避けていた)、特に調べようともしませんでした(悪マニなんて知ってるはず無い(笑) )。友人に付き合って行ったのだし、そもそも、不当に高額であるなんて、考えもしなかったのですねえ。私自身は、結構しつこく売りつけようとするものなんだなあ、とは思いましたが(疑りやすいのは前から)、まさか、金額そのものが妥当では無いなんて、ねえ…。

一緒に行った友人も私も、かなり懐疑的な人間だし、注意深く他人の言う事を聴く方ですが、それでも、気付かないのですよね。と言うか、あれは気付きようが無い。その部分に関しては、疑うなんて「微塵も」ありませんでした。後で調べると、なるほどなあ、と思えますけれどね。巧妙です。販売員は洗練された感じで、雰囲気の作り方、話術の上手さ等、なかなかのものです。

今ならね。WEBで色々調べて、適正価格はどんなものか、とか、どんな商法があるか、とか、色んな事を調べると思うんです。それは結局、「アンテナを向ける」という事だし、何かする前にワンクッション置く、という事でもあると。

ニセ科学にしても悪徳商法(こちらについての知識はほとんど持っていません)にしても、よく解らないものについては措いとく、というのが重要ですよね。でも、「よく解らないというのを”解る”」には、それなりに考えていなければならない訳です。実際、展示会に行った時の私は、絵がそもそも適正価格ですら無いなんて所は、ほとんど考える事すら出来なかったのですから。

なかなか気付けないんですよね、知識無いと。

だからね。

「知らせる事そのもの」も、重要なんだと思うんですよ。色々なパターンを示していく、というね。ちょっと調べたら情報が出てくる、という状況を作る事が。

科学や社会の基盤となる知識を蓄える事と、様々な具体的な事例を知る事。これ、両方大事なんじゃないかな。

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2008年5月 3日 (土)

違い

ニセ科学に関して、「呪術」という概念からアプローチされているエントリーがあって、はてブも結構ついていたり、poohさんが言及なさっていたりしますね(元々poohさんは、こっち方面のアプローチをよくされる)。それについて(分野としては、人類学とか民俗学とかになるのかな?)の知識が無い私は、読んで、なるほどなあ、と思います。

重要なのは、合理的・論理的であるからといって、即、それが科学的である訳では無い、という所かと思います。これは結構前から、何回か書いています。

Interdisciplinary: 科学的、合理的、論理的(他にもいくつか書いたはずだけれど、見つけるのが面倒…)

コメント欄に、「木を切ったら風が止むのでは」、という推論を子どもがした、というエピソードを書いていますが、これは、実に「合理的」な思考だったりする訳です。ですが、「科学的」では無い。それまでに実証的(実証という概念をどう考えるか、というのも、物凄く重要なトピックだと思いますけれど)に確認された知識と整合するか否か、という点を考えなければならないからですね。それぞれの分野が完全に独立している訳では全く無いのですから。

超能力捜査も水伝も、それなりに論理的ではあるのです。他の物事を無視すればね。

科学って、やっぱり優れているのですね。現象の構造を解明したり、予測や制御に応用したり、という目的を考えると、やはり、他の文化とは違う、と言っていいかと思います。それをまず認識するべきなんじゃないかな。

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2008年5月 1日 (木)

武器と化す言葉、壊される水:B面

物事には、色々な面があります。

調理器具である包丁は、人間を殺してしまう道具としても、使えてしまいます。

薬は、医者によって病気を治す手助けにも使われますが、身体に害を及ぼす物ともなります。麻薬なんかがそうですね。

「言葉が水に影響を与える」、という説があります。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説です。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張されます。

この説を言い出した人、また、それを広めようとする人は言います。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。だから、良い言葉を用いましょう、と。

つまり、言葉によって水が変わるのだから、多くの部分に水が含まれている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事ですね。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるといいます。「良い言葉を使わせよう」という目的のためにとても良い教材だ、と考えられているのでしょう。

ここでは、水が変化する、という前提があって、そこから、良い言葉を使わせるように促す、という「教育」の流れが想定されています。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、というやり方です。

この説は、言葉が、物としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というもので、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「喩え話では無く」主張している事になります。

AとB、2人の子どもがいる、と仮に考えてみます。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という説を信じました。

Aは、良い(と社会の多くの人が考えている)言葉をどんどん使っていこう、と考えました。

Bは、自分が好きで無いと思っている人に対して使えるのではないか、と考えました。簡単に言うと、「他人を攻撃する道具」として理解した、という事です。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いです。でも、その違いは大きいのです。

Bのような考えを持った人が、Aのような人に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるでしょうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳です。当然、良い言葉・悪い言葉、がどういうものかは、社会的に共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。これは、普通に考えられる、「言葉で傷付く」、という話では無く、ちょっと次元が違います。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む、物としての人間にも影響を与えるだろう、という考えを持っているのですから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体を直接壊してしまう、と思ってしまう可能性が考えられるのですね。

人間は、物事の片方の側面だけを見て、他の面には目が届かない事があります。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈です。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という考えです。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無い事です。素朴であるからこそ、相手の心をちゃんと考えず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性があります。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良いでしょう。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じています。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛けます。さて、どのような事が起こり得るでしょうか。想像してみて下さい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学的に確認されたと言っているが、実はそうでは無いもの)であるとして批判されているものですが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのです。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っています。一見、寛容で善意に満ちた論であるようですが、その実は、言葉の特徴である「恣意性」(音や文字と意味が直接結び付いている訳では無いという性質)を無視して、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのですから。

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武器と化す言葉、壊される水

物事は悉く、両面的な価値を有している。

調理器具である包丁は、人間を殺害する道具としても機能し得る。

薬物は、医療に用いる事も出来れば、身体に重大な害を及ぼす物ともなる。

「言葉が水に影響を与える」、という説がある。

水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説である。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張される。

この説を提唱した者、あるいは流布する者は言う。

良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。従って、良い言葉を用いましょう、と。

即ち、言葉によって水が変わるのだから、大部分が水によって構成されている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事である。

この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるという。「良い言葉を使わせよう」という目的を達成するに恰好の教材である、と看做されているのであろう。

ここでは、水が変化する、という前提を置き、そこから、良い言葉を使わせるよう促す、という「教育」の流れが想定されている。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、という説得の方法である。

この説は、言葉が実体としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というものであり、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「比喩では無く」主張している事になる。

AとB、2人の子どもがいる、と仮定してみよう。

AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という主張を信じた。

Aは、良い(と社会的なコンセンサスがある)言葉を積極的に用いようという意識を持った。

Bは、自分が好ましく無いと思っている人間に対して利用出来るのではないか、と認識した。端的に言えば、「他者と攻撃する道具」として認識した、という事である。

これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いである。しかし、その違いは大きい。

Bのような認識を持った者が、Aのような者に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるであろうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳である。当然、良い言葉・悪い言葉、というのは、社会的にある程度共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として機能する。これは、一般的に言う所の「言葉で傷付く」、という次元の話では無い。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む人間にも実体的に影響を与えるだろう、という認識を持っているのであるから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体をダイレクトに破壊する、と認識する可能性が考えられるのである。

人間は、物事の片方の側面だけを見、他の面には目が届かない事がある。

良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈である。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という論理だ。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無いだろう。素朴であるが故に、相手の心を忖度せず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性がある。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良い。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じている。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛ける。さて、どのような事が起こり得るであろうか。想像してみて頂きたい。

ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学であるかのように主張されているが、実態が異なっているもの)であるとして批判されているものであるが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのである。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っている。一見、寛容で善意に満ちた論であるようだが、その実は、言語の特徴である恣意性を無視し、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのだから。

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2008年4月29日 (火)

寂しい?

ケータイが鳴らなくて寂しくなるまでの時間は?(+D Mobile) - Yahoo!ニュース

ほう。

ケータイが鳴らなくて寂しいと感じる事があるのか。そんなの思った事無いなあ。電話嫌いだし。

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2008年4月27日 (日)

フジ伝

PSJ渋谷研究所X: 「フジからの伝言」の効果

うん、やはり、ある程度の数の人が、信じていますね。放送当日に検索した時には、2つ3つしか見つけられなかったけれど。

さんまさんの番組だから、というのは多分、採り上げられた説の信憑性の評価には、それほど強く関わってこないんじゃないかな。で、江本氏に対する「専門家」という先入観が、それなりに働くかも知れない。

うーん、悩ましいものですね。

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2008年4月26日 (土)

戦慄

硫化水素を用いた自殺関連の報道を見ていて思うのですが。

戦慄を覚える。

何にって?

マスメディアの「無邪気」さに、です。

正直、気持ちの悪さを感じる。

シャレにならない悪戯をした小学生が、全く悪びれないであっけらかんとしているのを見るような、そんな感じ。

平気で他の子に責任をなすりつけているのを見ているような、そんな感じ。「知らないよ。あの子じゃないの?」と言っているような、ね。

報道を見ていると、確かに、硫化水素を用いた自殺の頻度が高いように思える。

そして、未だ、ネットで情報を得て…などという言い方をしている。

そろそろ、本気で考えた方がいいんじゃないか。

マスメディアの報道とネットの情報がネガティブな相乗効果を及ぼしているかも知れない可能性に。

いくら何でも、ひどさが過ぎるのではないだろうか。

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2008年4月24日 (木)

万能包丁

別エントリーのコメント欄にも、感想を書いたのですが⇒「トンデモ」を批判する記事を書く皆さんにお願い。

書かれてある事については、うん、そうですね、と、納得するものですね。と言うか、そうするしか出来ない。

つまり、物凄い一般論で、ある意味、「トンデモのまずさがきちんと解るような文章を書いて下さい」、と書いているに等しい訳ですよね。

個別の内容を見ても、どう考えても両立が出来ないだろうという条件が、まとめて含まれている。だって、

「美しい」って単純に言うけれどね、「美しいと思う形」を描かせたとき、皆が皆、まるで印刷したように幾何学的模様しか描かないのと、本当に一人一人が自由に様々な形を描いているのと、どちらが美しいと感じられるだろう?

これとか、凄い「婉曲表現」ではありません? 文脈による、という事なのかも知れませんけれど、そうだとしたら、「文脈によって様々な表現が考えられる」、という話になりかねませんしね。それは全く正しいけれど、あまり何も言った事にはならない。

うーん、結局、この増田を読んで、ちょっと首を傾げてしまうのは、

皆さんの記事の思惑とは全く逆に、引用されているトンデモの内容に感心して引き込まれ、皮肉なことに問題のある部分が記憶に刷り込まれてしまっています。

ここで言う「思惑」って何だろう、という所だったり(それは、書き手それぞれのものです)。そもそも、この増田を書いた方が「どういう思惑」でどのようなテキストを用いたのか、というのが解らない訳ですね。

何と言うか、材料の特性を見ずにそこら辺にある包丁を片っ端から使って切ろうとして上手くいかなかったから、どのようなものでも切れる包丁を用意して欲しい、と主張しているように、見えてしまうんですね。

やるべき事は、色々な種類の包丁を集め、それを研ぎ澄まし、きちんと使える状態にしておいて、材料に応じて適切に使っていく事、なのではないかな。

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2008年4月17日 (木)

どっち

とある10代のアイドルが、痴漢を空手の技(中段の正拳、および下段廻し蹴り)で撃退(正確には、威嚇の役割と言った方が良いかも知れません)したそうです。

さて。

このアイドルは、「暴力的」、でしょうか。

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2008年4月16日 (水)

ニセ科学批判のあり方

2008-04-12 - 理系兼業主婦日記:科学、ニセ科学、グレーゾーンについて

こちらを読みまして、コメントを入れようとしたら……長文自重>自分

という訳で、こちらに書いて、TBを送ります。引用文とか、コメント欄で書いたそのままです。

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初めまして。

大変興味深く拝読いたしました。

kikulogの当該エントリー、確かに、どういう事を議論しているのか、等が解りにくくなっている所がありますよね。深く考えると、抽象的な議論に踏み込まざるを得ないとは思うのですが、具体的な物事と結びつけて考察していくのが大切である、とも考えます。

「業界化」(きちんと意味が掴めていないかも知れませんが、ご容赦下さい)、という部分に関してですが。
多分、ある程度社会に認知され、同調する人が増えてくると、そういう印象が持たれる、というのは避けられない事なのだと思います。だからこそ、地道な議論を積み重ねて、具体的に論証をし続けていく必要がある、と考えています。
きくちさんとは、私が持っているブログでもやり取りさせて頂きましたが、そこで、
▼▼▼引用▼▼▼
ある程度広まった言葉は解釈が変えられていく宿命にあります。とはいえ、問題を社会に訴えるには、ある程度わかりやすい言葉は必要なんですよね。

「ニセ科学」という言葉が独り歩きするのを止めることはできませんが、せめて自分の言葉が届く範囲だけでも、ある程度ストイックな使い方に限定することを確認しておきたい。という感じですかねえ
▲▲引用終了▲▲(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f244.html)より引用
と仰っていました。ですから、こちらで書かれています、
▼▼▼引用▼▼▼
そして、そのことがきくち先生たちにとっては、もしかして本意ではなかったりするのかなー、などと、僭越ながら思ったりしている今日この頃であります。
▲▲引用終了▲▲
この部分は、当たっているのではないかと、私も思っています。もし、「ニセ科学批判の権威」と言われる事があれば、きくちさんご自身はそれは受け容れられないのではないかな、というのも、これまでやり取りさせて頂いて、感じています。

ニセ科学という言葉は、インパクトが強く、ある意味「解りやすい」語であるが故に、注意深く用いていく必要があるのだと考えます。

ニセ科学を信じている人なりに、どうメッセージを届かせるか、という部分について。
これは、大変に悩ましい問題です。
私は、主に「ゲーム脳」説を批判しているのですが、その「信じられ方」には、様々なものがあります。科学者が言っているから、というものや、テレビで観て何となく信じていた、というもの等。その具体的なケースを見て、どのように対応すべきだろうか、と考えるのですね。対象の論調によっては、科学的に実証されていないと直接言う事で、強く批判をする場合もありますし(その説を広めるという事自体が批判されるべきである、という場合もありますので)、特に科学という言葉を使わずに、様子を見て行う事もあります。もちろん、「それはニセ科学と言われていて…」という言い方自体をしない場合もあります。

水伝に関しては、私は本質的に、科学以前に「言葉」の問題だと思っていて、その視点から考える文章を書いたり、リンクを集めたりしています。水伝関連を考察したサイトとしては、こういうものもあります(色々な「信じ方」を想定して書かれたものです)⇒http://kameo.jp/mizuden/faq.html

やはり、「どういう層」に向けてメッセージを届けるか、というのは、常についてまわる問題なのですよね。自分のしている事は問題があるだろうか、というのはいつも自問しています。いわゆるビリーバーなのか、もっと周辺にいる人なのか、最もコアの部分にいる人(主唱者)なのか。ある層に向けたメッセージでも、それが対象にきちんと届くか、それ以外の層の人に受け取られ、誤解されるのではないか。
等々。

いずれにしても、色々な角度から、様々な議論を積み重ねていき、批判に対しては開かれた態度を採る、というのが重要なのではないかと思います。

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コメント欄のかずえもんさんは、少し誤解なさっているかも知れませんね。うーん、水伝よりも(あれは、原典を読まないと、「科学を装っている」という所が見えにくいかも知れない)ゲーム脳の方が、解りやすいかも。あれなどは、はっきりと科学的だと言っているのですよね。そして、それが躾の根拠のように使われたりする。なので、きちんと批判しなくてはならない。

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誤解

志村けん“ブログ批判”に反論「笑いは芸で取りたい」 - ネタりか

私は件のラジオは聴いていませんでしたが(たまに聴くけれど)、どうやら、そんな事は言っていなかった、という話があるみたいですね。

残念な事ですが、ブログって、悪意のある書き込みが存在するのですよね。愉快犯的な。

今回、言ったか言わなかったかは、調べればすぐに解る事だから、その内に落ち着くでしょうね。

それにしても、これって、いわゆる炎上系の話題ですが、志村さんのブログを見ると、コメント欄が、かなり冷静ですね。中には煽りのようなのもあるけれど、全体的に落ち着いていて(比較的、ですが。充分荒れてる、という見方もあるかも知れない)、感心しました。フォローの言葉も多いですしね。

後から、何らかの説明が志村さんからあるかも知れませんね。

何にせよ、誤解というのは辛いものです。今回、発言があったかは私には解りませんが、もし誤解があったのだとすれば、早く解けるといいですね。

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2008年4月12日 (土)

ケータイバンゴー

妻・夫の携帯番号を「おぼえていない」が6割【携帯依存に関する意識調査】(MarkeZine) - Yahoo!ニュース

何で、「携帯依存」に関する、なのでしょうね。依存というのは依存症なんかを想起させるので、他の語の方がいい気もします。

家族の携帯電話の番号とか、憶えなくても良いものだし。私は、自分のケータイの番号、忘れる事あります。まあ、ほぼ何の不便も無いですが。むしろ、憶えて無い人が58%しかいないのか、という感じ(言い過ぎ…)。

また、「携帯で電話をする場合に自分の名前を名乗るか」について聞いたところ、全回答の44%が「名乗らない」と回答。相手が分かっているので名乗らないと答える人の割合が高い傾向があるようだ。

この部分を読んで思い出した。ドラマを観ていてよく覚える違和感。

ケータイ鳴ってるのに気付いて、ディスプレイを見ずにすぐ通話ボタン押して、「もしもし」って言う場面、ありますよね。

いやいや、その前に、誰からの電話か見るでしょ、普通。よほど待ち切れないとかなら、見ずにやる事もあるかも知れないけれど。

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2008年4月11日 (金)

科学とかニセ科学とかのイメージ

実は昨日、科学~非科学とニセ科学との関係を、ビジュアル的に色々考えていたのですよね。で、もう一つ、きちんと整理出来ないでいます(笑)

ニセ科学度というのは、「実際の(科学的方法を基準とした)位置づけと主張のされ方との乖離の度合い」なのかな、と思いました。

私が思いついたイメージというのは、こんな風です。※あまり厳密に考えると喩えは不可能になるので、よろしくです…。

まず、科学的方法という基準による位置づけを示す、黒~白の濃淡のある帯状の物を思い浮かべます。白は、確実に正しいと言えるもの。黒は、科学的研究対象にはなり得ないものおよび、間違っているとほぼ確実に言えるもの、です。

その上には、玉が乗せられています(形状は何でもいいけど)。その玉には、現象を説明する命題が書かれています。玉が置かれている位置は、それまで蓄積されてきた科学的・実証的方法(社会的には科学者集団のコンセンサス)によって決められています。
これらの玉には、「帯のどの部分に置かれているか」、という情報が付加されています。当然それは、研究が進んだり、それまでの研究の不備が判明する事で、変化していきます。ただし、より端に近い部分に置かれているものは、そこからシフトはしにくいと考えます。

この帯と玉の関係というのは、各専門分野ごとに存在し、専門家以外は参照が困難です。ただし、これらは完全に独立では無く、全ての分野において、最も根本には、自然科学の体系があり、それぞれの分野が立脚する基礎科学の知見があります。

さて、これらの玉がどこにあるかという情報は、色々な人によって、社会一般に伝達されます。それはもちろん、科学者であるとは限りません。
その情報が流布される際、発信者は、玉の位置情報を(意図的にしろそうで無いにしろ)偽る事があります。
元の位置情報と伝達された情報に開きがある場合、それは、はっきり指摘する必要があります。そして、その、開きが大きいものを、「ニセ科学」と呼びます。

こういう感じです。

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2008年4月 7日 (月)

食べる

痛いニュース(ノ∀`):「朝からお茶漬け」のCMに違和感、栄養的にも良くはない…オーマイニュース

一日二食の私はどうすればいいんですか。

それはともかくとして。

「孤食」や「個食」を問題視するのは解らないでも無いですが(「孤食」は、各過程の事情によるだろうから、一人で食事をするのは一般的に好ましく無い、と考えるのは、私は反対です。食事以外でもコミュニケーションをとる機会はあるし、集まって食べても円滑なコミュニケーションがとれていない場合もあるし)、「粉食」はちょっと、こじつけの感が。言いたい事は何となく解りますけれど。

大食いについては、なかなか複雑な気分ですね。あのパフォーマンス自体は、凄いと思います。番組も、結構観ますし。ただ、贅沢だよなあ、とも思う。この文脈で事故(あれは大食いで無くて、早食いでしたね)の話に持っていくのは、ちょっと変な気もしますが。

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2008年4月 6日 (日)

何だろう

同じような事は何回も書いてますが。

そもそも「暴力」って、何でしょうね。

そもそも「有害」って、何でしょうね。

そもそも「健全」って、何でしょうね。

そういう根本的な所から考えるべきだと思うのですが、なんだか、凄く短絡的な人もいますよね。

たとえば、「暴力」とは、客観的と言うか、没価値的な概念では無いですよね。時代によって、地域によって、状況によって、何が暴力とされるかは、異なってくるのだと思います。価値判断と切り離して論ずるのは不可能。

ゲームやらマンガで暴力性が高まる可能性がある、という話が出たら、「暴力性って何だろうな」、と考えるべきですよね。そこで単純に、「なるほど、暴力性が高まるのか」、となった場合、その人が考える「暴力」が想起されると思います。そもそも心理学的には全然違う話なのかも知れないのにね。暴力性がどうなるか、というのを考察するには、そもそもそれはどのような概念なのか、という所から検討するべきなのではないかな、と。

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2008年4月 3日 (木)

見えれば安心

「漫画、アニメ、ゲームのせい」は「天狗の仕業」と同じ思考停止 - 最終防衛ライン2

何でもいいから原因を知りたい、これが原因だ、と「納得」したいのかも知れませんね。もしくは「安心」。でもそれって、不安を駆り立てる事でもあると思うのです。広く普及しているものが要因だ、と言っている訳だから。事実ならともかく、根拠が薄弱な話なので、愛好している者としては、かなり困りますが。尤も、それを言ったら、問題のあるメディアを愛好している者が困るなど構わない、と返されるのでしょう。で、何故そう思う、と訊けば、凶悪事件を起こした人間がゲームを愛好していたから、となるのかな。

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2008年4月 2日 (水)

歌ったり演奏したり

ニコニコ動画、JASRAC曲の演奏動画が投稿可能に(ITmediaニュース) - Yahoo!ニュース

これで、ニコニコで「歌ってみた」とか「演奏してみた」系の動画が、「やっても良い事」になるのかな。で、いつから?

ニコニコ外部プレイヤーがココログにも対応したら、何か貼り付けてみますかね。2008年4月3日追記:どうやら、ブログに埋め込むのはダメみたいです。コメント欄をどうぞ。

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2008年3月31日 (月)

疑う事は、楽しい事

信じるな疑え! 「ニセ科学」批判の菊池教授に聞く

おおっ、画像でかっ。

書かれてある事は、言わば「基本」、ですね。とても大事な部分だから、繰り返し言い続けるべき所。

kikulogの説明をなさっている部分↓

「ひとりでに動いてくれるようになったので、ニセ科学を議論する場として機能していると思いますね。かなり見識と良識のある人たちがいてくれますから」

全くそうですね。kikulogとニセ科学論を知らなければ、私の認識は、かなり低い所に留まっていた事でしょう。

渋滞論文の話もありますね。確かに、「そんなの当たり前だろ」、という反応が多かった。私自身の感想は、「全然意味が解らなかった」、です。きちんとした所に採り上げられたんだから、多分興味深い事実が発見、あるいは確認されたのだろう、と考えて、そこで止まりましたね。説明を読んでも解らなかったので。で、解らないなら解らないままで置いとくのがいいんじゃないかなあ。ほんと、見出しと記事の一部分を見ただけで適当に言ってるだろ、という意見がありましたからね。いや、大した事無い、と言うのだったら、きちんと論文にあたって科学的論理的に批判すればいいのに、という感じ。

まあ、あれです。

重要なのは、鵜呑みにしない事と、解らない部分は置いておく、という事。「解りたい」ならきちんと調べなくちゃね。「解らなさへの耐性」というのが、ニセ科学論で出てきますが(技術開発者さんが初めに使われたのかな)、私としては、これはつまり、「解らなさを楽しめる」事なのではないか、と思っているのであります。未完成のジグソーパズルを見てワクワクするのと、根っこは一緒なんじゃないかな。

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2008年3月30日 (日)

飲みにけーしょん?

痛いニュース(ノ∀`):「飲みニケーション」をしないヤツは仕事でも使い物にならない…ゲンダイ

何で飲みュニケーションじゃないのか、というのはともかくとして(見た目が微妙だからか)。

そういうので親睦を深めるという考えはあって良いのかも知れないけれど、それに参加しない人をネガティブな目で見るような認識は控えるべきでしょうね。自分が好むものは他者も好むべきだ、的な。たまにいますからね。自分が興味を持っているものに関心を示さない人を奇異の目で見る人が。我慢しているように見られたり、とか。いやいや、好きじゃないだけですって。他にもやる事一杯あるし、的な。

アルコールを受け付けない人は、酒自体飲めないし、素面だとああいう雰囲気は嫌な人もいるでしょうし。

結局、誰と行くか、という事なんじゃないか。それじゃ話が終わっちゃうけど。

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2008年3月28日 (金)

その情報は必要か

「悪いとも思っていない」金川容疑者が供述(読売新聞) - Yahoo!ニュース

 金川容疑者は、三浦さん殺害後、逃走中に購入した新作ゲームで遊んでいたと見られることも判明。忍者が刃物や飛び道具で敵を次々と倒す内容で、捜査本部はゲームが殺意を助長させ、JR荒川沖駅の8人殺傷事件につながった可能性もあるとみている。

こりゃひどいな…。可能性、と言われれば、全否定は出来ないし、ある意味極限の状態だから、何がどのような行動のトリガーになったかは、解らないと思う。ゲームが要因であったかも知れない。それはその通り。否定し切るのは、論理的に無理。

だけど。
殺意を助長した、というのをどう検証するか。そして、それをどう一般化するか、どこまで出来るか。

仮に、ゲームに影響された犯罪者がいたとして、そういう犯罪者が存在したから危ないものだ、という情報を流布する?

まだ何も解っていない状況で、ゲームが殺意を助長した可能性を積極的に報道する事に、どういう意義がある?

何故か水俣病を喩えとして出した人もいたけど、ゲームというのが文化現象だという事を、忘れているのかな。よく解らない。

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ロークオリティ

apjさんのブログのコメント欄経由で⇒週刊文春_080403(2008年4月3日号。一番上の記事)

これは素晴らしい印象誘導ですね。

得られている情報の内、ウケそうなものをクローズアップするという、実に下品なやり方。

こういう記事を好んで読んで、鵜呑みにする大人には、なりたくないものです。メディアリテラシーを鍛えるために、ダメな記事として採り上げるくらいしか、価値が無いかな。

あー、一応。

これは、記事本文を読まなくても可能な批判です。目次を見るだけでダメな記事と解る、良い例。

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2008年3月25日 (火)

想像して欲しいのは

ああいう報道によって自分達が傷付くから止めてくれ、じゃ無いんですね。

ああいう報道によって謂れ無き先入観を植え付けるのを止めろ、と言っている訳です。

嫌な話ですけど、自分達がどうこう、というのは、どうでもいいんです、ある程度はね。もう慣れてしまった。ずっと昔から言われているから。激昂するのを抑えるくらいには、感情・思考をコントロール出来る。そんなのに傷付くほどナイーブでは無い。苛立ったりはしますけどね。

で、今行われているのは、ゲームをよくやる子ども達とか、ゲームを制作する人達とかに対する偏見を助長するような報道なんですよ。根拠も無いのに。

特に子どもはね。大人になった私達は、はいはい、アホな事言うなよ、で済ますのも可能。知識を蓄えて、論理的に反論する事も出来る。他人の趣味を貶すダメな人がいる、とメタに考えるのもね。だけど子どもは、そんな事は出来ない。自分が悪い事をしてしまっているんじゃ、と過度に不安になったり、クラスメイトから奇異の目で見られたりね。大人からも、おかしな子として見られる事もある。

駄目でしょ、そんなの。どう考えても。

ゲームの文化としての素晴らしさを解ってくれ、とか、そんなんじゃ無い。そんなの解りませんよ、すぐには。浅い文化じゃ無いんだから。そもそも、ちょっとやそっとで解られてたまるか、というのは、何かに強い関心を持つ人なら、ありますよね。

だから、そうじゃ無くて、自分が興味を持っているものが貶され、それに興味がある人間が普通で無い、と思われるような言い方をするのはおかしいでしょ、という話です。これは、誰にだって理解出来るもののはずです。

何故ここまで言うか、って、実際、報道が物凄いからです。この異様さは、おかしい。特定の文化を安易に犯罪行為の原因に結び付けているのだから。

ゲームに全く興味の無い人でも、想像力を働かせれば、報道のおかしさには、気付けると思います。

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2008年3月24日 (月)

またか

ゲーム好き、1人で食事=高卒後はバイト暮らし-金川容疑者・土浦死傷事件(時事通信) - Yahoo!ニュース

本当に、もう止めてくれないか。

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2008年3月21日 (金)

伝言ゲームのように

はてなブックマーク - 「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇――デューク大学調査 - ITmedia News

元ネタ⇒「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇――デューク大学調査 - ITmedia News

やっぱタイトルがおかしいよね。

最後の段落にある研究者の弁も、こういう類の研究から言うのは早計なのではないか、と思いますけれど、それにしても、

ブランドのイメージは想像以上に人々の潜在意識に大きな影響を及ぼすことが、調査から明らかになった。

という研究結果から、

「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇

という見出しをつけるのは、ものを注意深く見る読者からは、懐疑の目で捉えられるでしょう。

ところで、はてブには、

あっはっは。被検者にすでにバイアスかかっとろうが(natsumotoさん)

カルトって怖いな(nam323さん)

どれだけ膨大なデータを見せられてもおそらく信じられない。(Kmusiclifeさん)

等の反応があって、かなり否定的ですが、この記事の内容からだけでは、そういう評価は導けないんじゃないかな、と思いますが、どうでしょうか。

この研究の肝は恐らく、識閾下の刺激が行動に影響を及ぼす、という所なのでしょうけれど、そういう現象自体は、あって構わない訳です。映画の途中にコーラの画像を入れたらコーラを飲みたくなる的なサブリミナル効果については、科学的には支持されていなかったと思いますが、潜在記憶等は、心理学的にも認められている訳で。改めて研究したら実は影響、というのは、あって良いですよね。

だから、この研究を批判的に検討するには、実験計画はどういうものであったか、とか、創造性を測るテストは妥当性・信頼性が確認されているものなのか、とか、そこで測られた「創造性」というものが、私達が普段用いる「創造性」と どれくらい一致するか、とか、Appleのロゴを見せた学生は、そのロゴに対して「創造的」という意味を見出していたか、とか、「創造性」を想起させる記号を見せられた人間が、課題でより創造性を発揮したのは何故か、とか(「創造的」って文字を見せたら創造的になるの? 識閾下で無い刺激を与えても創造的になる?)、群間にどれくらいの差があったのか、とか、それは実質的に意味があると言えるのか、とか、その研究からマーケティング方法まで言及するのがどれくらい妥当か、とか、そういう所から、きちんと考えなくちゃらないないのではないかな、と。

オカルトのタグつくとか、「カルト」と表現するのは、何か違うんじゃないかな。この記事だけからじゃ、そんなのは言えないと感じます。

そう思いません?

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以下、個人的な、この記事に対する感想。

「正直な」、という意味を想起させる記号が、「正直な行動」を取らせるのは、まあ、何となく、解らなくも無いです。だけど、「創造性」を想起させるものが、実験環境という限定的な場において、人間を「創造的にさせる」というのは、どう考えても意味が解らない。だって、創造性なんていうのは、そうなれと指示されてなれる、というものでは無いでしょう? 「慣習に従わない」というイメージが、「型にはまらない」行動を促し、それが結果的に、「創造性が高まった」と看做された、とか? よく解らんですが。

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ Book サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ

著者:下條 信輔
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サブリミナル効果の科学―無意識の世界では何が起こっているか Book サブリミナル効果の科学―無意識の世界では何が起こっているか

販売元:学文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

どっちも未読っ。

心にきく薬奏 サブリミナル効果による不安解消 Music 心にきく薬奏 サブリミナル効果による不安解消

アーティスト:植地雅哉
販売元:ダイキ
発売日:2002/03/02
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※これはネタです。上の本と対照的なので、貼ってみた。

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2008年3月18日 (火)

何の話か解らない

瀬名秀明の時空の旅: 信じぬ者は救われる

※書評および、『パラサイト・イヴ』に纏わる部分については、触れません。菊池・香山両氏の本はまだ読んでいないですし、瀬名さんの本への評価については、全然知らないので。それにしても、文体は至極丁寧だけど、内容は超苛烈ですね。

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論点が絡まっていて、何を仰りたいのかがはっきり読み取れない、という印象。

大部分は正論だと思うけれど、ニセ科学の議論と結び付けている所が、よく解らない。

是非、「ニセ科学について」の論考を、書いて頂きたい所。

あ、書評には触れないと言ったけれど、一箇所だけ。

ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。

そもそも、そういう本では無いのでは?

っと、これ以上書くには、本を読まなくちゃ無理ですね。

ともかく、あまり論点が明確で無いように思います。コメント欄を開いているので、そちらでのやり取りに期待。

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余計なお節介。

瀬名さんには、「室井健亮」でググられる事を、お勧めします。コメントで相手なさるかどうかは、ご自由ですが…。

追記:当ブログの右サイドバーにあるニセ科学論の関連リンクも、参照して頂きたい所です。

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2008年3月11日 (火)

ゲームとの付き合い方

ファミ通DS+Wii増刊 2008年4月号 ゲームスコ×ゲームスメ ファミ通DS+Wii増刊 2008年4月号 ゲームスコ×ゲームスメ
販売元:セブンアンドワイ
セブンアンドワイで詳細を確認する

画像付きのリンク無かった…。

この本、ちょっと読んでみました。

凄く良い内容だと思います。ゲームとの付き合い方を考えていきましょう、という本で、色々な親子の方針を紹介してたり。

馬場章氏が、ゲーム脳等の、ゲームが及ぼす影響について語るインタビューがあって、これも良かった。

ただ、ちょっと残念だったのが、この本、私が行った書店では、ゲームコーナーにあった所。そういうコーナーには、ゲームに興味がある人が行くでしょうから、他に、育児書のコーナーとかにも置いた方がいいんじゃないかな、と。ちょっともったいないと思いました。書店によっては違うのかも知れませんけれど。

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2008年3月 8日 (土)

こりゃ凄い

と思った⇒はてなブックマーク - 平城遷都1300年祭・マスコットキャラクターについて

戦略的にも(←これは重要です)見事だと感じます。なかなか出来る事じゃ無いよね。

これは個人的な意見ですが。

自分の「好き嫌い」をぶつける時には、慎重にならなければいけない。

このブログで、「自分の好きなものを肯定的に紹介する事はあるが、嫌いなものをわざわざ採り上げる事は滅多にしない」、というのは、そういう認識からだったりします。

「センスが無い」という非難の言葉って、同じ様なセンスを共有している集団でしか成り立たないと思うんですよ。「見る目」が近い人達で、「うーん、これはセンスがいまいち」、と言う時とかね。それは、様々なものを総合する言葉として、「センス」を用いている訳で。直接それを相手に投げ掛ける(私自身、あのキャラを見た時、「なんか凄いセンスだな…」と感じましたし。ネガティブな方に)のって、語彙の乏しさを露呈する事にもなりかねませんね。私も気をつけないと。

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2008年2月20日 (水)

マナー?

痛いニュース(ノ∀`):“音をたてて蕎麦を食す…○”“おしぼりで顔を拭く、割り箸をこする…×”…女性からダメ男の烙印を押されない為の食事マナー

凄く気になった事。全然本題と関係無いけど。

「私の蕎麦つゆがなくなったことに気づいた男性が、  自分のつゆを私の猪口に入れたんです。さすがに愕然としましたね」

何で蕎麦つゆが無くなるんだろう。

その男性、いきなり他人の器に、って事なんですか。そりゃ凄いなあ。相当親しい間柄じゃないと、あり得ないと思うけど。

結局、コンサルタント?氏の好き嫌いを言っているだけにも、見えなくも無いなあ。このコンサルタント?氏は、なんか、自信に満ち溢れているようですね。

「モテる男が日本に大量増殖することで少子晩婚化を解決し、日本の国力アップに貢献したい」

だそうです。

------

ところで。

ワイドショーなんかで、蕎麦をすする音がどうとか、やってますね。

あれ、稀に見る、どうでもいい話ですよね。いくらなんでも、それをテレビで流すのはどうよ、という感じで。

まあ、そんな事を言うと、ワイドショーネタなんか、ほとんどどうでもいいものばっかじゃないか、て突っ込まれそうですけど。

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2008年2月19日 (火)

文科/理科

いでよ広辞苑第五版! そして願いを叶え給え!!

【文系】 文科に属する系統。

【文科】 (1)人文科学・社会科学に関する分野。また、大学などでもっぱらその分野を修める学部・学科。「―系」 (2)文学部。文学科。

【人文科学】 (human sciences)政治・経済・社会・歴史・文芸など、広く文科系の学問の総称。狭義には、自然科学・社会科学に対して、哲学・言語・文芸・歴史などに関する学問の称。文化科学。

【理系】 理科の系統。理・工・農・医・薬などの学部を指す。

【理科】 (1)学校教育で、自然界の事物および現象を学ぶ教科。(2)自然科学の学問。また、大学などでそれを専攻する部門。理学部・工学部・農学部などの総称。また特に、理学部。「―系」

※引用元:『広辞苑』第五版 一部省略

Interdisciplinary: 「科学」でも纏めたけれど、基本的、「文字通り」的には、研究の対象によって分類される、という事でしょうね。

さて、日常的な使われ方について。

学校教育の印象が、強く残るのかも知れません。理系を象徴するものとしての、数学や自然科学。記号を操り、手順をきちんとして進めていく学問。「文系」は、「それ以外」と看做されるのかな(理系の補集合、的な)。「理系で無い」、という意味合いで使うと言うか。数学や記号を操るという所が、「理詰め」、「論理的」、「厳密にものを考える」、と印象付ける、のか。あるいは、「文系」というのが、たとえば「文学」を想起させ、更にそれが、「直感」や「感情」を思い起こさせ、「論理」と排他的な関係にある、と思わせるのかな。これ(社会による言葉の用いられ方)自体は、社会科学的な対象でしょうか。

端的に、「数学が使えない」、「数学を勉強してこなかった」、という意味で、「文系」が用いられる事もある気がする。カリキュラムの影響かな。理系と文系の高校では、やる事全然違いますしね。ちなみに、私は高校時代、微積分すらやりませんでした。あり得んですよ。

なんでしょうね。理系はクローズアップしやすいが、文系はそうでも無い、と言うか、「学問」とは看做されにくい、と言うか。理系と言われれば、数学や物理や化学や生物やらがすぐに浮かんで、「記号や公式やらを憶えさせられた」経験が想起されるのかな。で、文系は、「それ以外」。

そして、論理的にものを考えていく文章なりを目の当たりにして、それについていけない人が、言い訳等の言い回しとして、「自分は文系だから…」的な言葉を出す、という。文系/理系が、「それまでに学んできた分野」を表す言葉として用いられるなら全然構わないけれど(私は、基本的にそう使う)、「言い訳」として用いられてしまう事が、あるのでしょうね。

哲学とか言語学とか、高校までにはほとんどやりませんしね。普通科以外だと、倫理すら無いし。文系学問をある程度突き詰める機会が少なくて、しかも、理系が理詰め(理という字が入ってるし)である事の解りやすさが相俟って、「文系」という言葉の意味内容が、構成されたのかな。

後、「定量的」、あるいは「計量的」に考えるのが、ポイントかも。厳密に測定し、それを記録して、得られたデータを操作していく、という過程が、厳密さや「曖昧さの排除」を、強く印象付ける、と言うか。で、「理系」にそういう印象を持って、「非・理系」である所の「文系」を、理系の持つ特性「を持たない」分野と認識してしまう、と。

うむ、まことに取りとめの無い文章。dlitさんのエントリーとコメント欄を読むと、文系:非・理系と考える方は、やはりいらっしゃいますね。

「科学」を、現象の仕組みの構造を解き明かす知的営為だと捉えれば、理系にしろ文系にしろ、共通する部分は多いでしょう。違いは、「何を」知りたいか、という事と、道具立ての異なり、等でしょうね。

私をインスパイヤしてくれた方々⇒理系文系論メモ:文系としてのアイデンティティ - 思索の海  So-net blog:王様は裸だ!Annex:文系・理系の分類基準

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2008年2月18日 (月)

ゲーム脳の説明

興味深く、そして、悩ましくなる事例⇒完全否定されている「ゲーム脳仮説」 パラダイムシフト ~アヒルがウサギに見える日~/ウェブリブログ

これは、ゲーム脳がニセ科学と解っている方が近親者にそれを説明しようとしたが、困難だった、というケースですね。

「そんな難しいことを言われても、分かんないわよ。要は親としたら、子供がゲームをやりすぎたら不安なわけよ。その不安を解消してくれた説なんだから、みんなにウケているんじゃないの?」

「まあ、それはそうなんだけど、間違った学説を拠所にして子供をしつけるというのは、科学的な態度であるとは思えないのだけれど…」

「あなたは科学オタクだから、細かいことばっか気にするのよ。子供がゲームをやりすぎたら困るんだから、いいのいいの」

これは、養育者の立場からのゲーム脳説の見方、つまり実感なのですよね。

悩ましいなあ。

そして、この悩ましさが、ゲームをやらない人には全く理解されないであろう、というのを考えると、更に悩ましくなる。ゲーム脳説を安易に用いると、ゲームをやる事自体をネガティブに捉えたり、本来他に考える必要のあるものを見逃したり、という事をいくら言っても、でも、ゲームをやらないようになるならいい、と返されると、困るだろうなあ。

自分の好きなものと「ゲーム」を入れ替えて考えてみるように促しても、難しいのでしょうね。

私自身の考えは、「ゲームをやり過ぎるとバカになる」、というのは、「スポーツをやり過ぎると身体を壊す」という程度と同じような意味合いで用いられるならば(一般論として、何かを「やり過ぎる」と、それに用いられるものが消耗するのは当たり前だし、それ以外の事が出来ない、というのも当然なので)、ギリギリ「あり」かも知れない、というものです。だけれど、とても残念な事に、ゲームは、ファミコンがヒットした頃から、その害悪が、「本気」で指摘されてきたものなのですよね(脳が壊れる。問題行動や犯罪の原因、等)。しかも、根拠不充分に。更には、ゲーム脳説のように、「科学を装っている」ものまで現れた。だから、かなり言葉の使い方に「拘っている」と思われるような事も、書いています。実際、事件の原因をゲーム(やアニメやマンガ)に押し付ける事が、起こる訳ですからね。慎重にならざるを得ない。

スポーツばかりやると脳が破壊されてしまう、と言われたら、誰も賛同しませんよね。スポーツって言っても色々あるぞ、とか、周りにどんな人間がいるかで違うぞ、とか。そうならないのは、普及・認知の仕方が全然異なるからなんでしょうけれど。

冗談で、「ゲームばっかやってるとバカになるよ(笑)」なんて言える世の中になればいいんですけどね。そういう使い方をするのは、どっちかと言うと、ゲームのユーザーなんじゃないかな。半ば自虐的なね。それを冗談では済まさなくしようとしている人が、いるんですよね。窮屈なものです。実際、私は、ゲーム脳を冗談で使う事があります。でもそれは、ゲーム脳がニセモノだと知っている人同士の間でだけ、です(←自虐的な所もある)。それ以外の場で使えはしない。

※リンク先での例は、家庭でのやり取りの様子を書いたものなので、「親しい人同士の会話の場」であった、という事は、考慮すべきだと思います。それを文字にする事によって、実際の場の雰囲気よりも、読み手によって、印象がネガティブになってしまうおそれがあるでしょう。ですから、本エントリーはあくまで、子を持つ養育者に、ゲーム脳がどう捉えられているか、という事例を紹介するのが主旨である事を、明記しておきます。

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2008年2月17日 (日)

しんじぬもの

これかっ⇒信じぬ者は救われる

読みます。

対談でしたよね。どんな感じなのかな。

この本について書かれた、菊池誠さんのエントリーは、こちら⇒kikulog:香山さんとの対談

ゲーム脳の話が出る事に、仄かな期待。

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2008年2月15日 (金)

鉛筆と太刀

はてなブックマーク - 小学生に鉛筆を使わせていた理由

あれですよね。自分が鉛筆使ってる時は、シャーペンに憧れましたね。

何て言うか、そう……

メカニカル。

うん、あの金属感とか、手にずっしりくる重さとかが、なんか良かった。高級な感じがしたしね。カチカチやって芯を出したり、足りなくなったら装填するっていうのが、カッコイイじゃないですか。なんかハイレベルなアイテムを使いこなしてるぜっ、て感じで。

コンパスなんかもそうでしたねえ。メカってますよ。子どもはそういう所に惹かれるんですって。

シャーペンを使い出したのは、いつだったかな……中学かな。大人になった気分でしたね。うむ、大人。いや、実はあんまり憶えて無いんですけどね。

成人してからは、ノートにものを書く時は、鉛筆でもシャーペンでも無く、ボールペンになっちゃいました。何となく。

で、今は、手書きをする事自体、ほとんど無いですねえ。いいのか悪いのか知りませんが。

増田で紹介されている話は(やっと本題かよ)、つまり、「型」論のようなものですよね。鉛筆という、(多分)メーカー等の違いによるばらつきの小さい形状で、「鉛筆という道具」を用いる「基本」を身に着けさせる、という事なんでしょうね。それから応用と言うか、基本的な道具の使い方を学んで慣れてから、色々な形の物を扱わせる、という、そういう流れなんでしょう。大きな形状の変化は、長さの違いくらい、という事で。

はてブにありましたが、筆記具と書字の関係についての研究があるようで。それはそうですよね。メーカーも、そういうのを研究してデザインを行うのでしょうし。

あれですかね。

木剣と杖(棒)をしっかり扱う事が出来れば、鉄扇やら小太刀やら槍やらの操作に適応が可能、みたいな。一部の人にしか解らない喩えだけど。

うーん、何というアホ丸出しの文章。

そういえば、「万年筆」という、オトナの領域もありますね。お金が有り余るほどあれば、一本イイのを置いておきたいですね。あの製造工程とか細工の美しさは、ぐっとくる。

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↑何かミラクルな値段なので、貼ってみた。

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2008年2月14日 (木)

算数の町

さっきテレビでやっていたのですが、新潟県にある水原(すいばら)という町では、商店街にある店に、算数の問題が貼ってあるそうです(窓の所とかに)。で、各店に解答用紙が備えてあって、答え合わせをする事が出来るとか。なんでも、山口坎山(かんざん)という数学者が出身地である事に、ちなんでいるそうです⇒参照:http://www.xyj.co.jp/suibara/yumekukan/kawaraban/2001_2/info.htm(”『算数推進の町』すいばら”の部分をクリック)

これは素晴らしいですね。社会に浸透させている、と言うか。これが即リテラシーを高める、とか、そういう事じゃ無いとは思うけど、「慣らす」と言うか、「当たり前」にさせるには、効果的だと思います。もっと大きな規模でやってみてもいいんじゃないかな。私の持論は、「嫌わせない」事が重要、というものなので、こういうのを知ると、嬉しくなります。道往く子ども達が、算数の問題に嬉々として取り組む、というのは、実に良い光景ではありませんか。

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2008年2月11日 (月)

悪い意味で評論家的

この話題に関する事ばかり書いている気もするけど、大切な事なので、やっぱり書きます。

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このエピソードも書いておこう。

確かkikulogにも書いたかと思いますが。
何度か言った通り、私は、以前は、超常現象等には、どちらかと言うと肯定的な人間でした。
で、テレビなんかで、肯定派対否定派のバトルをやっているのも、たまに観ていた訳ですね。

当時は(今も? あんまり観ないので知らない)、そういう番組には、大槻教授がよく出ていたので、大槻氏の意見を、「科学者の意見」として、よく聞く訳です。

で、その時の印象を率直に書くと、

  • 頭ごなしな否定
  • 科学を中心にしてものを語っている
  • 相手の話をまともに聴かない
  • 相手を嘲笑しているように見える

と、こんな感じで、そこから、「科学者ステレオタイプ」を作り上げるのは、すぐでした。

こういう自分の経験も元になっているのですね。一部の要素なり集合なりを観察して、それを一般化する事は、往々にしてある。で、ニセ科学なりを信奉している人がそうなるのは、ある意味「当たり前」の話なのですね。
だけれど、メタ的な視点からニセ科学論に言及する人が、「批判者の態度」を一般化するのは、まずい。オカルトには懐疑的である人が、上に書いたような番組を観、大槻教授の言動に接して、「科学者は頭が固く、相手を頭ごなしに否定する、駄目な人達だ」、と言うようなもので。

後、ニセ科学批判に批判的にアプローチする方々に知って頂きたいのは、ニセ科学を批判するのは、必ずしも科学者では無い、という事実です。そんなに単純な構図では無いのですよね。

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2008年2月 7日 (木)

態度

記憶が薄れない内に、メモ。

倖田さんのインタビューを観た。

今、言葉に対して強く敏感になっているように感じた。
観察による印象を素直に解釈するならば、「萎縮」している、と言って良いと思う。
言葉を出した直後に言い換えたり、「聞いた人にどのように響くか」、という所を考えている様子だった。
言葉を発するまでに少し間が空くのは、自分が発しようとしている言葉を内言として再生し、それがどう聞かれるか、というのを想像しているから。
本来は、それがデフォルトであるべきなのだけど、今までは、軽んじてしまっていたのだろう。

とにかく、色々考えているように見えた。

舌禍を起こした事を反省するというのは、本質的に、「聞いた人に言葉がどのように響くか」、というのを強烈に内省するのが重要であって、「自身の評判を落とすような事を”言ってしまった”」、と考え、それを「取り繕う」所では無い。

そういう意味では、私には、「反省」しているように見えた。

もちろん、本心は解らない。自分自身と、ごく身近にいる人にしか解らないだろう。そこを考えても、詮無い事だ。やろうと思えばどのようにでも解釈が出来てしまうし、それは意味が無いから。

元々、明るく、毒舌も織り交ぜながら物言いをするキャラクターが売りの一つであった人が、今後どのように歩んで行くか。
今までと、「まるで変わらない」か。
「感じ」は今までのようでも、細かい配慮の行き届いた言葉の使い方になるか。
今までとは異なったキャラクターに変貌するか。
どうなるのでしょうね。一番最後のは、無いとは思うけど。あのキャラクターは、切る事は出来ないだろうから。

前後に、元時津風親方のインタビューのようなものもあって、その態度と比較をして観ていました(事件の内容の具体性が異なるという所もあるが)。いかに自分がやっていた事を正当化しようか、と認識しているか、と、いかに自分の発言が無知に基づいていて、配慮に欠けていたか、を認識しようとしているか、の違いと言うか。

私が先ほどインタビューを観た際には、そのような印象を覚えました。

※発言の内容については、調べてみて、それは根拠が無い事を知った、という意味合いの発言をしていました。事実としてそう信じていたか、というのは判りませんでした。

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2008年2月 5日 (火)

ばんなそかなっ!

英国人の4人に1人がチャーチルは架空の人物=6割がホームズは実在(時事通信) - Yahoo!ニュース

見出しを見て、んなアホな、と思ったのですが、よく考えると、もしかすると、日本でも似たような事はあるのかな、なんて。

何かありますかね。日本で創作されたキャラクターで、実在の人物と思われていそうなのって。

あ、タイトルは、上田次郎教授(@日本科学技術大学)の言を、インスパイヤしました。架空の人物ですけど。

上田次郎 - Wikipedia

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2008年2月 1日 (金)

Genさんへ質問

※これは、言及先のブログに投稿しようとしたコメントを、エントリーとして起こしたものです。結構長文だったので、エントリーにしました。

疑似科学批判者は「何を批判しているか」自覚せよ参照

初めまして。

いくつか疑問に思った、と言うか、文意が判然としない箇所がありましたので、質問させて頂きます。

まず、

  • 「疑似科学批判」という言葉を用いる際に、具体的な批判活動なりを想定していたか。

という事です。疑似科学、あるいはニセ科学には、様々なものがありますが、具体的に、どのようなものに対する批判を想定して、疑似科学批判という概念を用いておられるのでしょうか。

「市井のふつうの人」がニセ科学を批判する場合、それはあくまで「2.道徳的・政治的な批判」であるといえます。

これは、科学者以外の人間が批判する場合には、実証科学的観点は入ってこない、という意味なのでしょうか。そもそも、ここで言う(亀@渋研Xさんの文章の解釈では無く)”「市井のふつうの人」”とは、どのような概念でしょうか。
科学的な観点を持たずに「ニセ科学批判」が行われる場合がある、という事なのでしょうか。あるとすれば、具体的に、どういった例が挙げられるでしょうか。

 自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために

ニセ科学を信奉している方と、実際にコミュニケーションを取った事はおありでしょうか。あるとすれば、その事例をご紹介して頂けると、参考になると思います。

「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。

「絶対に正しく、有能だ」という認識を戒めるべきだ、という部分には、全く同意ですし、異論はありません。ただ、ここで気になるのが、これは、単に一般論を改めて述べられただけなのか、それとも、具体的な例を想定して書かれているのか、という所です。誰かの主張を見て、その人が自身を「有能」だと認識しているのを見抜くのは容易では無いと思うのですが、いかがでしょうか。ともすれば、ニセ科学批判者は一般的に、有能感を持っており、自身の主張の正しさを確信している、と誤読されかねない文章なので、ご説明を頂きたいです。

ところで、私が読んだ限りでは、疑似科学(ニセ科学)を信奉する側、という意味合いの事は書かれているが、そちら側の人々でも、主唱者や、主唱者に心酔する人、あるいは、説を何となく信じている人、等の層がある事について、言及がなされていないように思われました。ニセ科学批判と一口に言っても、言及対象によって、批判の形態は変わります。そういった具体的な部分について、若干、考察が行き届いていないのではないか、と思った次第です。

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2008年1月27日 (日)

昨今の疑似科学批判

っていうのは多分、こういうの(2ちゃんねるの反応も含めて)を指しているんでしょうね⇒痛いニュース(ノ∀`):「マイナスイオンは身体に良い」「クラスターが小さい水はおいしい」…疑似科学にだまされやすい日本人

色んな論点がごっちゃになってますね。沢山の人が投稿してるんで、当たり前なんですけどね。

ただ、多く書かれてある、マスメディアの安直さ、無責任さに対する批判には、同意。

以下、どうでもいい話。

何ヶ月か前に、とある店に行ったら、店内に「マイナスイオン発生器」なるものが備えられていると、アピールされてました。確かに、凄い快適空間だったんですよね。いい空調だったんでしょうけど。もしくは、単なる心理的な効果か。

ああ、後。

ドラッグストアで、歯ブラシ買おうと思って歯磨きコーナー見てたら、「マイナスイオンが出る」、舌苔を掃除するブラシが売ってました。どこにでもあるもんですね。

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件の竹内氏の記事、apjさんのブログで知ったのですが、最後ら辺、かなり感情の吐露みたいな書き方ですね。よほど、嫌な思いでもされたのかな。「狂信的ともいえる疑似科学叩(たた)き」って、なんだかワカりやすいフレーズですねえ。

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2008年1月17日 (木)

色々

やっぱ、「色々ある」のを知る方が、「正しい事だけを知らせる」とか、「有害な情報をシャットアウトする」、よりも、妥当だし、現実的だと思うんですよね。別に、何でも無責任に与えていい、と言いたい訳では、全く無いですけれど。

私は、多分5才くらいの頃に、こち亀やら『エコエコアザラク』やら奇面組やら『恐怖新聞』やら水島新司作品やら藤子不二雄作品やら手塚治虫作品やら、物凄く幅広く読んできたのですよね。もちろん、ちっちゃい頃なので、選んで読む、というより、そこにあるものを読む、という感じでした。

そうすると、色々あるのが解るんですよね。だって、奇面組と魔太郎って、まるで正反対の種類じゃないですか。知識も「広く」なるし(ギャグとホラーで、ベクトルの向きが違う)、いいんじゃないかな。幼児の頃から(記憶が曖昧なので、実際は、就学後かも知れないけど)漫画雑誌を講読していた様なものなのですよね。

なんか、有害情報を! と声高に叫んでいる人の言い分を見ると、細い道を作って、その上だけを歩かせようとしている様な、そんな印象。そんな事は無理だし、実現させようとすると、途轍も無く拘束的な環境を作り上げなきゃなりませんからね。いつまでも閉じた環境にいられるなら、まあ良いかも知れませんが、現代のような情報化社会では、かなり難しい気もします。

もし、触れたものの内容が、社会的に好ましく無い行為を正当化するように誤解させるようなものだったら、その時には、内容について話すなりすべきで。そういう時に、そんな下らないものを、と言ってしまうと、最悪ですよね。

どうして、「細く」、「狭く」しようとするんでしょうね。それより、色んなものに触れさせた方が、「豊かな想像力」が得られるんじゃないかな。「はみ出す」ものを恐れているのかも知れない。何からでしょうね。

……おっと。

最初は、子どもの頃から色んなものを読んだりした方が、物事を相対化出来て、メタな認識を鍛える素養になるのではないか、という話を書こうとしたのだけれど、微妙に寄り道してしまった。

やっぱ、一本道を歩くのは苦手みたいです。

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2008年1月15日 (火)

視点

はてなブックマーク - いっそひぐらしのせいでもいいんじゃないのか、もう。フィクションは現実に影響するよ。 - HINAGIKU 『らめぇ』

含みなどは考慮せず(ここ重要)、書かれたものを、ある程度ストレートに読むならば。

そもそも、マンガやゲーム、アニメ等は、「胡散臭い」文化と思われている訳です。強いバイアスが掛かっている。

だから、もし、関係者・原作者なりが、「影響したと認めた」と取られる発言なりをしたとすれば、何が起こるかは、明確です。特に、発言が原作者のものであればね。

戦略的にも全くまずい、という事です。

書かれてある内容は、概ね正当であると感じます。あらゆる文化は、人間の認識に、なにがしかの影響を与える、と考えるのが、むしろ当然。はっきり言って、ある作品が引き金となって、何らかの悲劇を惹き起こす事は、充分あり得る。それを否定出来るはずが無い。それは、どんな文化でも、です。

だけれど、その「正論」を、社会が冷静に受け容れてくれるか、というと、こういう(新聞記事の様な)話題が出る事自体が、それを否定する証左である、と言える訳ですね。大した根拠も無いのに「原因」として論うのが、まかり通っている。それが実際なのです。残念ながら。

○○のせいかもね。と言ってしまうのは、ある種の開き直りであって、自分が携わっている文化の影響力に無頓着である、というメッセージになり得るのですよね。

だからこそ、冷静で、論理的で、科学的な検討が、なされなければならないのです。あの研究会での坂元章氏の態度に倣うべき、だと考えます。

度を越した報道に怒る、というのは、態度としては、全く正当なものだと思います。もちろん、的外れな反論・反発もある訳ですが。y_arimさんは、そこの所を危惧なさっているのかも知れません。

端的に言うと、(批判されている文化に関わる人によって)安易な言い方がなされてしまうと、文化が破壊される虞がある、という事なのですね。情報が社会一般に(マスメディア等を通じて)フィードバックされ、どの様な社会的認知が形成されるか。それがどの様な影響をもたらすか。そういった所を慎重に考える必要があると、考えます。

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2008年1月12日 (土)

エピ

エピデミック Book エピデミック

著者:川端 裕人
販売元:角川書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読了。

めちゃくちゃ面白かった。一気に読んじゃいましたよ。

amazonのレビュー(の一つ)は的外れに思えるな。あ、内容も書いてあるので、読む場合には注意(読まない方がいいと思います。結構なネタバレかもなので)。

奇しくも、と言うか、今、こんなニュースがありますが、実際危機感を懐く人は、少ないのでしょうね。私もどこか、遠くの事だろう、などと思ってしまいます。論理的には、充分あり得る事なのに。⇒鳥インフルエンザ、日本で64万人死亡も 中国で人に感染(産経新聞) - Yahoo!ニュース

ともかく、オススメの本です。

オススメのフィクションを紹介する時に、内容に一切触れないのは、いつもの事なので、あまり気にしないで下さい(笑)

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2008年1月 8日 (火)

反応

はてなブックマーク - 小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange

想像力豊かだなあ、と。

作文一つで、何でそんなに色々解るんでしょうね。

こんな子どもに育って欲しく無い、とか、気持ちの悪い文章、とか、すっごい余計なお世話だと、思わなくもない。

他人に推敲された、という可能性は、あるんじゃないかな。私も小学生の頃に、親に直された事ありますし。ここはこういう表現にした方がいい、とか(間違い無く、それは役に立っている。今読み返すと、苦笑しますけれど)。もちろん、本当の所がどうなのか(あったとして、どのくらいであるか、とか)は、判りませんが。

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2008年1月 6日 (日)

問題の切り分け2

Interdisciplinary: 問題の切り分け。まん延に、poohさんが応答して下さいました。ありがとうございます⇒So-net blog:Chromeplated Rat:Re: 問題の切り分け。まん延

ここで、私自身の考えを、書きたいと思います。現在の認識を整理するという意味でも、書いておいた方が良いでしょうし。

○ニセ科学とは何か。

一般的には、「科学を装っている」が、「科学では無い」もの。狭義には、科学的に実証されていないのに、それがなされたかの如く主張される言説。科学的専門概念の誤用を基に組み立てられた論理体系。「科学的」とは、現代の実証科学の基準に従う。敷衍すると、特に主唱者がいない説も、含む事が出来るだろう。それを積極的に「ニセ科学」と呼称するかは、別の問題。※後半は、ちょっと難しい部分ですね。

○ニセ科学を批判するのは何故か。

ニセ科学の言説が、科学の論理体系について、誤解させる、つまり、「間違った知識を流布する」虞があるため。また、特定の文化を不当に貶める根拠として用いられる場合があるため。

○ニセ科学はどの程度広まっているか。

「どのくらいの数の人間が」、という所は不明。だが、ゲーム脳説を肯定的に扱う講演が、公的な機関によって主催されたり、血液型性格判断を紹介する番組が多く放送されたり、といった例がある。前者は、それ自体が問題であるし、後者は、マスメディアの情報発信の規模を考えると、少なからぬ影響を及ぼしていると推察される。

○ニセ科学が広まっているとすれば、それは何故か。

もし、量的に、以前より広まっていると仮定するならば、色々な理由が考えられる。たとえば、社会総体の科学的リテラシーの低下。あるいは、高度情報化による、情報伝達の形態の変化、等。前者を前提しなくとも、後者の理由によって大きく広がる事は、あり得る。

○(上と関係するが)ニセ科学的言説が肯定的に(つまり、批判的に検討されずに)伝達される場合、その理由は何か。

心理学的な論理。「科学」という文化に対する無知・誤解・恐れ・見くびり、等の感情。それが認知に影響すると考える。ニセ科学を意図的に、「だます手段」として用いる場合には、受け手が「真に受ける」ように仕向ける、という場合もあるかも知れない。人間の心の状態は、決して一定・一貫している訳では無いから、「タイミング」というものがあるだろう。

------

現状の私の認識は、このようなものです。

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キレやすい?

<小学生国際比較>日本は親にキレやすく、反抗的 創価大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

素晴らしいタイトルですね。

内容は、いつものごとく、という感じです。

日本の子どもは家庭や学校で人間関係を維持する力が劣っているのではないか。学校教育の中で子ども同士がふれ合う集団行動を重視する必要がある

※上は、研究チーム代表の言の引用

調査結果から、どうしてこういう論理展開が出来るのか、私には、よく解りません。飛躍があるし。

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2008年1月 5日 (土)

問題の切り分け。まん延

亀@渋研Xさんへのレスも兼ねて。

論宅さんとかは、多分、「”社会の多くの人”が”科学的だと誤謬”している」のを、ニセ科学と判断する際の必要条件だと、看做しておられるのだと思います。

基本的には、実証されていないのに、それがなされているかの如く吹聴するもの、とか、科学的概念を誤用し、それを基盤として論理体系を組み立てているもの、とか、そういうのが、ニセ科学とされるのだと思います。論宅さんの認識は、被害の程度をニセ科学の定義そのものに含んでしまっている、というものですよね。「誤解」を「被害」とするならば。
で、そういう考え方もあるので、一連のエントリーで、分けて考えてみた訳ですね。私の認識は、「主唱者がいる訳では無い、あるいは、時間が経った結果としてそれが忘れ去られた、かつ、社会の多くの人々に科学的であると誤謬されている」事を、批判する際の根拠であると主張するならば、ある程度定量的な評価が必要だろう、というものですね。ニセ科学の判断そのものは、科学者集団の共通了解を基準にすべきで。

結局の所、ああいった方々は、あの論理展開によって、「ニセ科学がまん延している」という主張を批判するべきなのに、「ニセ科学という概念」を批判してしまっているのですよね。そこで捩れてしまっている。気付いて無いのか、わざとやっているのかは、判りませんが。
ちなみに、ニセ科学がまん延しているかどうか、というのは、(「まん延」をどのように捉えるか、というのもありますが)、マスメディアが乗っかってマイナスイオンを肯定的に紹介したり、教育に関わる期間がゲーム脳をテーマにした講演を主催したり、スポーツ選手がなんちゃらブレスレットを愛用していたり、という現状を見れば、そう評価しても構わない、と考えます。これって、私が以前から書いている事なのですよね。

と、私の考えは、取り敢えず置いておいて。

ニセ科学を批判する皆さんに、訊いてみたい事があります。

「ニセ科学がまん延している」というのは、本当ですか。広まっているとすれば、それは、どのような根拠によって、判断されますか。それは、定量的な評価ですか。それとも、別の観点からの判断でしょうか。私の考えは、上に書いた通りです。どこかに、別に大きく広まっていなくとも、批判対象とする事に変わりは無い、とも書いたと思います。

さて、どうでしょうか。

整理すると、

  • ニセ科学とは何か。
  • ニセ科学を批判するのは何故か。
  • ニセ科学はどの程度広まっているか。
  • ニセ科学が広まっているとすれば、それは何故か。
  • (上と関係するが)ニセ科学的言説が肯定的に(つまり、批判的に検討されずに)伝達される場合、その理由は何か。

等の論点があるのだと考えます。ニセ科学批判批判をする人は、これらをごっちゃにして、「ニセ科学という概念そのもの」を批判しているようにも思います。論点によっては、ニセ科学批判者間でも、意見は分かれたりするのですしね。たとえば私は、ニセ科学言説が昔より大きく広まっているか、という点は、「判らない」という立場ですし、仮にそれを前提するとして、そういう知識が無批判に受け容れられる理由として、「科学リテラシーの”低下”」が原因とする意見には、必ずしも首肯していません。何故ならば、「昔よりリテラシーが”上がっている”」と、「”昔より”ニセ科学が広まっている」は、排反する事象では無い、と考えているからです。

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2007年12月28日 (金)

分けて考えてみる

皆さんのご意見を、是非伺いたいです。批判歓迎。

私は、「ニセ科学」には、「一般の多くの人が”科学的”だと誤解する知識」と、「誰か主唱者がいる、科学を装った」言説の、二つを考える事が出来るのではないかと思いました。

まず後者から。

これは、たとえば、ゲーム脳や水伝など、ある主唱者がいて、著作や講演などで、自説を開陳している場合です。当然これは、その言説を評価すれば良い。もちろん、実際に被害が出ているかどうか、というのは、考慮する必要は無い(それは、批判対象として採り上げる際の根拠、と考えるのが妥当)。つまり、科学の方法によって実証されていないにも拘わらず、それがなされたかの如く主張している訳ですから、それだけで、「ニセ科学」と判断される事になる。また、学術的専門概念を、本来の定義を無視して誤用する言説なども、対象となるでしょう。

次は前者。

これは、多くの人に、「科学的根拠がある」と思われているにも拘わらず、実はそういった事実は無い知識、といった所でしょうか。

これは、初めには、誰か科学者なりが主張したのかも知れないが、それが社会に広まった結果、常識的な知識として、かつ、「科学的に根拠があるもの」だと誤認されている、というものです。一般に浸透したもの、ですね。

この場合には、当然、「一般の人が思う”科学的”」とはどういう事か、などが、問題になってくるでしょう。また、「多くの人が誤解する」、という主張が妥当である事を示すには、定量的に評価なされなければならないでしょう。ここでは、心理社会的な観点が必要とされます。端的に言って、非常に難しい。

さて、これらを踏まえて。

ニセ科学を批判する人、また、その活動そのものを批判する人の両方に、何かを「ニセ科学」と判断する場合に、「社会一般に、科学的であると誤認されている」事が、必要条件だと看做している人が、いるように思われます。

論理的に言えば、”ある程度の科学的知識の理解を前提としているが、実は科学的には妥当では無い、人口に膾炙した「俗説」”も、”誰か主唱者がいて、科学的に実証されたと「言い張っている」説”も、両方が(もちろん、排反するものでは無い)、「ニセ科学」と考えられると思いますが、そこを踏まえずに、後者をニセ科学だと判断する人に対して、「いや、社会一般に誤認されていないではないか」、と反論したりする、というのがあるのではないかと。

ごくシンプルに纏めると。

・科学的で無いが科学を装っているものが、ニセ科学

・主唱者がいるものは、著作なりを参照し、それを現代科学の基準に照らせば、判断は、比較的容易。科学的概念を誤用したり、「実証・検証された」と言ったり、実験を行った、などが主張されているのを指摘すれば良いのだから。

・科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説、の場合には、その立証は難しい。多くの人が、という所は、量的な評価だから、調査なりを行うべきだし、「科学的だと誤認する」というのがどういう事か、というのも問題になる。

・もちろん、両方を満たす説もあるだろう。

・「ニセ科学である」と判断する事そのものには、多くの人に広まっているとか、実害が出ているか、というのは、考慮する必要は無い。

と、こんな感じでしょうか。

こう考えると、多少すっきりするようにも思いますが、どんなものでしょう。文そのものが解りにくいという突っ込みが入りそうですが、私もまだ整理し切れていないので、コメントなりでご指摘頂ければ、ありがたいです。

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2007年12月26日 (水)

メモ:ニセ科学の定義とか

ニセ科学の定義と判定について考える :: 事象の地平線::---Event Horizon---

熟読玩味の事。

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触発されて、ちょっと考えてみた。以下、走り書き。相当カオス。青文字は補足。apjさんが書かれている事とは ずれてくる所もあると思う。

「ニセブランド品」の喩えをお借りします。

ニセ科学について論じる際、「出す側」と「出回り方」の、二つの視点があるように思った。

つまり、売る側賛同者、流布する人達が、ブランド品であると謳って科学的であると主張する販売するか。この場合、解っていて売る場合←故意と、信じ込んで売る場合←確信がある。大元には、「作る」立場の人間←主唱者。新奇の説の提唱者なりがある。

「出回り方」、もしくは、「受け取り方」。ちょっとアナロジーが不正確になるが、そのまま続ける。

「ニセブランド品」を、「ブランド品と信じ込んで」買ったり使用したりしているか。←科学的と感じているか。受け取る側には見分けが付かないいかにも高級な店構えの、「それっぽいショップ」←大学教授、○○研究所、「科学的に実証」などの文句で売られているもの。

それとも、「胡散臭い店」で売られているものか。←肩書きの無い人。専門の研究機関で無い組織誰にでもニセモノと判るのか。←科学的とは感じない。それまでに蓄積した知識によって、科学的では無い、あるいは、信憑性が低い、と看做す

どちらにアプローチするかで、批判の内容は異なる。「売る側」・「作る側」についての言及の場合、それを売ったり作ったりする事自体←科学的な手続きに則って検証していないにも拘わらず、検証されたと言う。故意かどうかは問わないを批判。「受け取る側」についての場合、ニセブランド品をブランド品だと信じ込んで買う人が多いという事を問題視。←「”科学で無いもの”が、”科学的である”と、多くの人に思われている」状態。つまり、社会的認知の問題「そんなもの、誰でもニセモノって判るだろ。」←ニセ科学など批判するもんでも無いだろう、という非難と主張する人は、「どうせ誰も本物だとは思ってないんだから」、と考える。←社会一般に、「科学的」とは認識されていないんだから、と主張する

ニセ科学は、科学の手続きに則られていないのに、それがなされたと主張されれば、成立する。喩え――「元祖・○○」的なお菓子があるとする。それは、ちゃんと製法を守って作らなければ名乗れない。製法を守っていないのに、「元祖・○○」とラベルを貼って売ってはならない。製法を守ったと思い込んでも、実は誤ってしまっていた、という事もあり得る。そして、売ったという事実そのものが、批判の対象となる。必ずしも、それが沢山売れたという事実が要る訳では無い。つまり、「多くの人が」という量的な評価を問題にするのでは無い。「これが出回ってしまってはまずいぞ」的な批判もある、という事。そして、批判対象の、批判の優先順位は、批判者の問題意識や興味関心のある分野によって、異なってくる。かなり出回ってしまっているから駄目だ。あれはニセモノだと知らしめないと、というのもあれば、まだ広まって無いかも知れないけど、影響力が大きいメディアが採り上げているから何とかしないと、というのもある。量的には少ないかも知れないが、ある程度広まる事自体が、他の文化に対する不当な先入観を植え付ける虞がある、と判断する場合も。

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取り敢えず、こんな感じで。

ふう…。何か、脳をフル回転させたから、爆発しそうだ(笑)

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占い? 科学?

ちょっとした疑問です。

私は、「血液型性格判断は、占いと同様のものである(場合がある)」という主張の、意味がよく解らないのですよね。
一般的に言って、血液型で性格が判る、というのは、ある性格類型なり特性と、生物学的因子である所のABO式血液型とを結び付けた主張です。

ちょっと視点を変えてみて、「占い的な血液型性格判断」というものを考えてみると、それはつまり、「今日、○型の人はこういう運勢だ」、という類のものなんかですよね。血液型選手権みたいな。

ところが、血液型性格判断は、論理的に、分布に関する言及である訳です。要するに、○型の人にはこういう性格の人が多い、という事実があれば、それは成り立つ。

で、ですね。
血液型性格判断を信じている人は、当然、生物学的な連関を前提しているはずです。何故なら、社会心理学的メカニズム、つまり、思い込みや自己成就現象によって分布が偏る事がある、などという知識がある人がそれを信じるというのは、論理的に考えにくい。尤も、星占い等と融合させた主張の場合なんかは、また違ってくるとは思いますが。そういう方向で、何らかの論理体系をなした場合、それは、いわゆる疑似科学的主張だと看做すのが、妥当でしょうか。すなわち、現代科学の体系に全く矛盾する、という意味で。

従って、血液型性格判断を信じている人の多くが、何らかの(自然)科学的論理を前提としているだろう、と推測しています。

で、ここまで読まれて、誤解されるといけないので、補足。
上に書いた話は、「ニセ科学」論そのものではありません。ニセ科学として批判の対象となるのは、そもそも科学を標榜している主張や、マスメディアによる、「実験」や「調査」を行ったと称するミスリーディング等なので、これらをニセ科学と批判するのは、全く妥当です。特に、情報発信の面で非常に強力であるマスメディアによる流布というのは、重要な点です。

何か、文が激しく纏まっていないですね。取り敢えず、このまま上げます。意味不明な箇所のご指摘や、批判歓迎。

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2007年12月25日 (火)

ゲーム感覚

とても良いエントリーをご紹介⇒PSJ渋谷研究所X: これぞ「ゲーム感覚」!?

「ゲーム感覚」というのは、とっても大事です。もちろん、ポジティブな意味で。

ところで、ゲームの話をする際(ゲームの悪影響を語る文脈でよく出てくる)、「ゲームより面白いものがある」と知らしめれば、ゲームからは離れていくよ、という言い方がなされる場合があるのですが、あんまり良く無いんですよね。そうじゃ無くて、「ゲームも面白いが、こっちも面白い」とか、「これとゲームは、実は同じ様なものなんだよ」、とか、そういう風に言わないと。
はっきり言って、ゲームより面白いものなんて、そうは無いですからね。それに、ゲームをしない人からそんな事言われたら、「ゲームの面白さを知らんでしょ?」なんて思ったりするのです。

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2007年12月22日 (土)

属性

相当素朴な感想です。

私は、ネット上に言論を開陳する際は実名で行うべきだ、という意見って、よく理解出来なかったりします。そういう類の事を言っていて、自分は凄まじく暴力的な文章を書く人も、たまーに見られますが、あれって、実名を公表しているから、という理由で正当化してるんですかね。よく解らんですが。

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2007年12月21日 (金)

臨床心理学における―2

臨床心理学における科学と疑似科学 Book 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ざっと目を通しました。

良書だと思います。巷に溢れる心理療法について、どのような科学的研究がなされているかを紹介し、それが科学的に効果があるのか無いのか、という評価を行っています。

ただ、それほど読みやすい本とは言えないかも知れませんね。一般向けの本では無いので、心理学・実験科学の術語が、当たり前のように出てきます。

タイトルからは、挑発的な内容か? と思われるかも知れませんが、私としては、穏当で、中立だと感じました。

なかなかのボリュームで、心理臨床における様々な方法と、その科学的根拠についてを概観するのに、うってつけの本であると言えます。

参考:安原さんの書評⇒「臨床心理学における科学と擬似科学」|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ

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2007年12月20日 (木)

世話

ケータイ小説と、それを読んで感動した、と言っている人を罵倒したりするのって、「もっと良いものを知った方がいい」、という「老婆心」なんじゃないですかね。ものすごーくポジティブな表現をするとね。

つまり、素組みしたガンプラを見て感動するとか、合気道で2級を取り立ての人の演武を観て「すげー!」と思う人とかに対して、石川雅夫氏の超絶パール塗装を施した物を見ろ、とか、塩田剛三師範の演武を観ろ、と言うとか、そんな感じかな。

色々なものを知って、感激の閾値を上げるのを望んでいる、と言うか。

もちろん、「自分は良いものを知っている」という自尊心もあろうとは思いますが、それは置いときます。

※私自身は、ケータイ小説の罵倒の仕方には、全く賛同していません。誰でも読める場に書く、という意味では。プライベートではいいかも知れませんが。amazonの書評で、「いかに下らないか」を書いているものを見かけますが、私には全く理解出来ない。それと、ケータイ小説に関して個人的な感想は、持っていません。何故なら、ちゃんと読んだ事が無いから。「ケータイ小説」と括るのがどれほど妥当か、という気もしますが、まあ、ベストセラーになっているものを指しているのでしょうね。

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