必要無い
日本水連、代表選手の茶髪禁止など再指導 - MSN産経ニュース
「必要ない」という理由で「禁止」するのなら、大概の事は禁止出来てしまいますな。
禁止が正当化されるのは、「やらない必要がある」のが合理的に説明出来る場合のみ、でしょう。
で、どう説明します?
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日本水連、代表選手の茶髪禁止など再指導 - MSN産経ニュース
「必要ない」という理由で「禁止」するのなら、大概の事は禁止出来てしまいますな。
禁止が正当化されるのは、「やらない必要がある」のが合理的に説明出来る場合のみ、でしょう。
で、どう説明します?
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ゲーム禁止を「強要」するのはおかしいと思う。 姪っ子は小学3年生。新学期に入り... - Yahoo!知恵袋
なんと言うか、愕然としますよね。
禁止の理由も、どれも主観の域を出ていないですよね。いわゆる「起こり得る」事であって、コンピュータゲームに特有のものとは言いがたい。要するに、他の文化に較べてそういう悪影響を顕著に与える、というのは明確では無い。(ゲームが視覚の機能低下をもたらすというエビデンスは充分にあるのでしたっけ?)
今までは宿題をした後
、30分~1時間程度 ゲームをしていた様で すが、妹は納得したの でしょう。
先日「ゲーム機」「ソフト」を全て売り払い ました。
子供は泣きながら「やめて」と言ったそうで すが、これは親の考え ですので私は何も言え ません。
これはなあ。お子さんはどんな気分だったろうなあ…。質問者さんの意見が柔軟で適切ですよね↓
が、それは各家庭で取
り決めをし、子供に理 解・納得をさせた上で 、時間を決めてゲーム をさせる。
約束を破ったら、数日禁止。
これでいいと思うのです。
担任の先生が家庭の教育方針にまで踏み込んでゲームを禁止する(させる)、というのは やり過ぎでしょう。
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ここら辺、甲野善紀氏の考えと共通していますよね。交流があるので当然でしょうけれど。初期の(今の本は読んでいないので詳しく無い)甲野氏の本に書いてある事と、かなり重なっているように思います。私としても、桑田氏にほぼ賛同です。
大分以前、甲野氏の本も読んで納得しましたし、その部分に関しては、考えは特に変わっていません(他の大部分に関しては批判的なのですが)。
何より、チャンピオンスポーツの最高峰たるメジャーリーグにまで上り詰めた一流のアスリートであるからこその重み、がある。桑田氏がこのようなかたちで声を上げるのは、大きな影響を及ぼし得るかも知れない。
若い頃から問題意識を持っていたというのもあるだろうし、甲野氏との交流によって、より考察を深めていった、という部分もあると思いますが、おそらく、身体を開発する、という部分により意識が向いている、のでしょう。武術論の方面で見ると、甲野・黒田・高岡氏辺りの論が象徴的でしょうか。スポーツにおける、身体の制御の面を意識し、いかに精密に使っていくか、というのを考えれば、桑田氏が批判しているような指導法では役に立たない(どころか弊害がある)、と認識しておられるのでしょうね。いわゆる「しごき」というものにどういう意味があるか、本来のスポーツの指導の合目的性にそれは合致しているか、改めて見直し、洗い直してもらうよう、警鐘を鳴らしている。
こういう所については、高岡英夫氏の「擁護システム」概念が、分析に役立つでしょうね。実証的に見ていくのは、非常に難しいとは思いますが。※興味がおありなら、高岡英夫 『光と闇』などをご参照下さい
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この所、特にはてな界隈で、ニセ科学批判と、それに対する批判についての議論が、かまびすしい(別にネガティブな意味合いではありません)ですね。
さて、今日こちらのエントリーを拝読いたしました⇒科学の名のもとの邪悪/およびニセ科学批判者の罠 - touhou_huhaiの日記
※touhou_huhaiさんの記事を参照していますが、当エントリーは、touhou_huhaiさんに向けて書いたエントリー、という訳では無いので、よろしくお願いします。ヒントにして整理して書いてみた、と取って頂ければ。
私は、関連のエントリーは一通り読んでいますが、こちらのエントリーを読んで、少し思う所がありましたので、書いてみます。既出の論点もあるでしょうけれど、自身の思考の整理の面もありますので、ご容赦下さい。
○「ニセ科学を批判する事」と、「現状のニセ科学批判活動に効果があるか否か」は異なる。
まず、「ニセ科学」の概念のおさらいです。ニセ科学とは、科学で無いにも拘らず、科学を装っている(意図的か否かは問わない)ものです。
そして、それを批判する、つまりニセ科学批判とは、科学で無いにも拘らず科学を装っているものを批判する、となります。
ここで、「ニセ科学批判は是か非か」という論点が現れます。つまり、そもそも科学を装っているものを批判して良いのかどうか、という見方。
この点に関しては、私は、科学で無いのに科学であるかのように情報が流布されているので、それを批判するのは当然だ、という考えです。少なくとも、「科学で無いのに科学であるかのように看做されている」ものなので、それは違う、というのは認められるべきだ、と。天羽さんがよく出されて私も援用する、ニセブランド品の喩えが解りやすいかと思います。
※ニセ科学という概念の立て方は適切か、などには触れません。議論が広がり過ぎるので
次に、「現状のニセ科学批判活動」。
これは、近年なされている、ニセ科学に対する批判の活動の仕方に着目する、と考える事が出来ますよね。要するに、「どのように」という観点。ニセ科学に肯定的な言説に対して、いかにして、それがニセ科学であるかを指摘するか、あるいは、ニセ科学を主唱する人に対してどう批判していくか。
まず、ニセ科学批判を批判する方々には、そのどちらを批判しているか、を明らかにして頂きたい、というのがあります。その方が、議論がごちゃごちゃになりにくいと考えます。
前者の観点、つまり、ニセ科学を批判する事そのものを批判する、という方もおられます。見方は色々です。ニセ科学などと判定するのは可能なのか、とか、どんな事を主張しようが自由ではないか、とか。極度に物事を相対化してしまう方もおられます。
後者の観点は要するに、「そういう批判の仕方で上手くいくの?」という見方ですよね。はっきり言ってこれは、ものすごく重要な部分だと思います。ただ、難しいと言うか、非常に複雑でもある。
前者と後者を混ぜこぜにしてしまわないようにしたいものです。たとえば、今のニセ科学批判の活動に効果があるかは判らないから、ニセ科学を批判する事そのものまで否定的に見る、等ですね。ニセ科学を批判するのは良いが、現状のやり方では……という風に主張するのかそうで無いのか。そこら辺をきっちり整理して論じて頂きたい、と思っています。
さて、ここからは、この論点の切り分けが出来たと仮定し、ニセ科学を批判するのは良いが、現状の批判の仕方が適切かどうかは……という観点から物事を見る、というのを前提して進めます。
○ニセ科学批判には効果があるのか
発端と言いますか、議論のきっかけ的なエントリーでは、こういう疑問が提出されていた訳ですね。ニセ科学を(科学的事実であると)信ずる人に、それが「ニセ科学」であると解らせる、という目的はどの程度達成されているか、という視点。
○「効果」とは何か?
上と重なりますが、そもそも、「ニセ科学批判の効果」とは何か。いかに定義し、どう数量化するか。ニセ科学批判の目的は、最も一般的には、ニセ科学をニセ科学だと理解させる(事に成功する)、とでもなるでしょうか。言い方を換えると、「科学で無いのに科学を装っているものを”科学的事実”だと思い込んでいる人に、それが”科学を装ったもの”だと”解らせる”」。それと、科学を装った科学で無いものが存在するという事実そのものを知らしめる。そして、それを数量化して実態を把握する。
touhou_huhaiさんは、案として、このように書いておられます。
どのような証明が可能だろうか。やはり実地調査しかない。
1.ニセ科学批判としてネット上にあふれている代表的なテキストを知らない人を、無作為抽出して2グループに分け、テキストを読んだあとでニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテストを実施する。
2.ニセ科学と分類できる主張に基づく詐欺事件を、警察発表の資料や報道ベースで集計し、ニセ科学批判運動の活発化と相関をとる。
一つの案として出されているものですが、敢えて詳細に検討するならば、
などの考察すべき点があります。
繰り返しですが、ニセ科学批判は、科学を装っている あるものが実は科学では無いのだと知らしめる目的もありますし、もっと一般的には、「世の中には科学を装っているものが色々ある」という情報そのものを流布させたい、という目的も持っていると思います。そこら辺の成果も「効果」と取るならば、どのようにしてそれを拾っていくか、という問題もある事でしょう。
と、このように、ニセ科学批判、もっと一般的には、何ものかを批判する活動の効果をどう評価するか、というのは、大変難しいと言えるでしょう。社会学的にも社会心理学的にも。
もちろん、それを分析していくのは、ものすごく重要な事だと思います。ここで改めて自分の考えを書いておきますと、ニセ科学批判がどのような影響を及ぼすかを確かめるのは極めて大切な部分だし、それを社会科学的に研究するのは大変有意義である、と思っています。少なくとも私は、効果について疑念があるならそっちが調べろよ、というような態度は採りません。
ただ、です。
ニセ科学批判を批判するもので、効果があるかどうか解らないという観点から、その活動そのものにあまり意味が無いかのように看做す、という意見もやはりあるから、その場合には、もうちょっときちんと考察して欲しい、と思う事はありますね。一般論的過ぎて何にでも当てはまる、とか、ニセ科学概念を押さえていない、とか、そういう書き方だとね。ちょっと困惑します。
それと、上でも検討したように、「効果」と言っても、それは結構難しい問題である、というのも考えるべきだと思うのです。「効果」と一言で表現しているけれど、それにはどういう意味合いがあるのか、具体的に考察してみたのか、批判の実例と照らし合わせてみたのか、と。※touhou_huhaiさんの事ではありません。追々々記でも、色々な観点から見ておられますし。
○率直な意見
ニセ科学を批判するテキストを練ったりするのに手一杯で、その効果を自分で検討するまでとても手が回らない、というのはあります。外部からそれを評価しよう、という動きがあれば、(その手法が適切であれば)むしろ歓迎すべき事と言えます。再三言っているように、おそろしく難しいとは思っていますけれども。
それと、上で書きましたが、あるニセ科学を批判するテキストを複数用意しているのもあります。私の場合だと、ゲーム脳関連。そもそも想定読者が異なっているテキストの役割をどう考えるか、というのは重要ですよね。
追記:後、一々ダメなニセ科学批判を指摘しない、というのもありますね。ニセ科学を批判しているのを優先しているので。もちろん、その過程で、こういうのはまずいかも、という話になる事はありますが、あまりそれが主たるテーマになる事は無いですね。あれはダメだ、と言うよりも、自分はこうする、というのを見せるのが、個人的には大切だと考えているので。
○余談:観測範囲
ニセ科学批判を批判するものを見て、非常に気になっている所。
はてなブックマークのコメントを、「ニセ科学批判の典型例」として扱っては いませんか? それは観測範囲が極めて狭いので、注意を要します。ニセ科学を批判していて はてなを使っていない、という人もいる訳ですので。
ここら辺、「具体例を出して下さい」という指摘と関わってきます。ニセ科学を批判する人が、他の批判者のやり方に全て同意している訳ではありませんから、具体例を出されれば、ああ、確かにそれは好ましいやり方では無いかもね、となる可能性もあります。それが仮にはてブコメントだとすれば、いや、それを典型例として出されても、と返す事も、また、確かにあの書き方は、となる場合もあるでしょうね。
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ゲームで社会問題を解決 高い教育効果、進む研究や開発(産経新聞) - Yahoo!ニュース
藤本氏や馬場氏は頑張っていらっしゃいますね。
シリアスゲーム専用のソフトっていうのは、制作が難しそうですね。特に、エンターテイメントゲームに慣れた目の肥えた人達にも高評価を受けるソフトを作るのは、困難かも。
もちろん、学術なりのシリアスな部分の学習効果をも達成させねばならない訳ですね。なんとなくシリアスとゲームを組み合わせたようなのでは、話にならない。
ゲームやる人の価値観は、ある程度はっきりしていて、「面白く無ければやらない」、ですからね。まあ、惰性でやったり義理でやったり、というのはありますけれど、ゲーム好きを自認する人には、つまらないゲームに時間を割く事が我慢ならない、という妙な感情があったりするかも。自分はつまらないゲームを見抜けるのだ、という自尊心もあったりね(笑)
理想的には、自分がシリアスゲームをやっているなどとは全く気付かないのに、クリアしたら学術的知識体系の構造が身に着いていた、というのがあればいいですね(私の持論です)。言うは易しだけどね。
この件に関しては、シリアスゲームをどう分類するか、とかのアイデアがぼんやりあったりするんですけど(主に、武術論や、高岡英夫氏の論考の概念の援用)、専門的にどういう概念があるかを押さえておかないとなあ。新しい分野なので、文献もまだまだ少ないですよね。日本語で読めるのは数冊とかかな?
![]() |
シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム 著者:藤本 徹 |
![]() |
D-Moment(Dモーメント)~巨大地震編~ダウンロード版 販売元:SGラボ |
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きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog
こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。
poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。
それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。
最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。
それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。
合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。
で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない
そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。
これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。
そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。
こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。
ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)
ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。
情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。
Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。
合理性の定義と分類について考察されています。そして、
三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。
ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※
やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。
この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。
個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。
ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。
※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002
三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子
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はてなブックマーク - 10位までに血液型本4冊…書籍の年間ベストセラー(読売新聞) - Yahoo!ニュース
umaaaa これマジにとって「血液型なんて嘘っぱちだってば!」とか怒る人を見ると、皆わかってるから大丈夫だよーって慰めてあげたくなる。本気で信じてる人見たことないや/いるとこにはいるのですね、決め付けて申し訳ない 2008/12/03
このコメントを読んで、いつも考えている事を書いてみようと思いました。
umaaaaさんは、本気で信じている人を見た事が無い、と最初仰った訳ですね(ブクマコメントで指摘があって、後で後半部が追加されました)。
私はそれとは全く逆で、血液型性格判断をネタにしている人で、信じていない人を見た事が無いです。十数人はいたかな。もっといたかも。
ちょっと考えてみて、こういうネタを、間違いと完全に解りつつ使うなんてあり得るのか? と感じる訳ですね。
間違いだと解ってても場の雰囲気を壊したく無いから仕方無く乗っかる、というのはあり得ると思うのです。が、それは、間違いだと解っててネタにする、というのとは、ちと違いますよね?
ネタにするって事は、少なからず信じている、自分の経験から「ありそうだ」と思っている、という事なんじゃないのかなあ、と。たとえ言葉の上では「間違いだと解ってるよ」的な言い方をしたとしても、実は信じているんじゃないの、とか。
間違いと解りつつ積極的に用いるって事は、端的に言って嘘つきな訳で。仮に、皆が間違いと解っててネタにしてるんだとしたら、それはそれでどうなのよ、とも思いますね。
よーく考えてみて下さい。
他人とコミュニケーションをとる際に、「間違いだと解りつつも、やり取りが円滑に進むからネタにする」、なんて事、普通します? 無いですよね。せいぜい、後でネタばらしをして驚かせる、という時にやるくらいでは?
なのに、血液型性格判断に関しては、時折そういう意見が見られます。なんででしょうね。
あー、占いとか、自分は信じていないけど信じている人を喜ばせる、とかありそうだな…。
どっちにしても、間違いだと解ってて使う、という人は嫌ですね。もちろん、本当だと信じて使う人も嫌ですが。
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テストに関してとか、ニセ科学概念についての理解はどうか、というのは取り敢えず措いておきまして。
この部分が、端的にfinalventさんの認識を物語っているなあ、と思いました↓
このエントリの提起ですが、よく見かける偽科学批判として出てくるものは、水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに、私に対して「お前は偽科学だのオカルトだ」といったの揶揄が飛んでくる。それなら、もう少し難しい例題で、私を批判する人がどれだけ科学的に物事を考えるのか、例題をやってみましょうかということで提起ました。(原文ママ)偽科学発見テスト - finalventの日記(finalvent 2008/11/21 16:33)
特に、
水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに(ママ)
この部分ですね。ニセ科学論に興味を持ち、継続的に批判的活動を行っている方は、頭を抱えてしまうのではないかな、と。
まず、マイナスイオンや血液型性格判断が「ちょっと利発な小学生」に簡単に解る、というのが理解出来ません。前者は物理学の知識が必要で、健康効果や美容効果に関しては、条件を統制した実験によって確認されたか、という所が重要であって(具体的にはたとえば、松下のナノイーの技報を検討したりしてますね)、後者に関しては、血液型―性格 の連関という部分と「性格判断」を分けて考える必要があって、そこを誤認している学者なんかもいます。そもそも、性格判断自体は、その現象があっても全くおかしく無いのですから。
水伝に関しては、その構造自体のおかしさは一般常識レベルで見抜ける、という判断は妥当であろうかと思います。しかし、現実に信じている人が、かなりいます。それは、現象の構造を把握する認識力よりも価値判断を優先したりする人がいるのを示しています。もちろん、自然のメカニズムとして信じている人もいる訳です。
たとえばゲーム脳は、保育学の教科書に、肯定的扱いで載りました(削除される予定)。現在も、森氏による講演は続けられていて、凶悪犯罪が起こると、未だに森氏の見解を訊く新聞社があるほどです。
そういう現状を鑑みると、「そんなものを批判してもたいした意味もない」という捉え方は、私には的外れと言うか、あまりにも「見ていない」としか思えないのです。
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あのですね。
科学と信仰は違う、一緒にするな。そうやって語るな。
というんじゃ無いんですよ。
科学を信仰という面から見るのは、人文・社会科学的にも非常に大切な論点でしょう。初めからその視点が問題とされているなら、そのテーマで有意義な議論をすれば良い。
んで、ニセ科学論てのはそうじゃ無くて、極めて具体的な話な訳です。実証のプロセスを経ているか、とか、実験や観察の方法の適用は妥当か、とか。
そこをすっとばしてメタなレベルに視点を持っていって、科学と宗教の共通点を見出したりして一般論を語るのは、筋が違うのです。相違点もかなりある訳なので。
だから言ったのです。私が発端なのに置いてけぼりにされた、と。
私は初めから、「ニセ科学」の論について理解していますか、という意味でコメントしたのですよ。ニセ科学と看做されるものにどういうのもがあって、それが何故ニセ科学と判断されるか、というのを知っているか、と。
ニセ科学論の重要な論点として、その当時のスタンダードな方法に則っているか、というものがあります。たとえば、古川の血液型と気質の連関を調べた研究というのは、科学であった訳です。
現在ニセ科学と看做されているものが、将来実証される場合も、可能性としてはある。だけれど、それが、現在のニセ科学という評価を覆すのでは無い。
と、こういう論理を理解しているのか、という話だったのです。
科学哲学の議論そのものでは無いし、関連しない訳でも無い。実証科学の方法という観点から判断する問題。
にも拘らず、どんどんずれていってしまったんですね。
まあ、そういう事です。
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はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。 / 2008年11月14日
あんま関係ないけど、ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん。本人が信じてればいいんじゃないのか。/そしてこの記事にこれ見よがしに並ぶ怪しい広告たち。世の中は奥が深い。
「ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん」そうですよ。
何が問題だとされているか、とか、そもそもニセ科学とは何であるか、とか、ちゃんと調べた上で書いているはずですよね、当然……と言いたいけど、「本人が信じてればいいんじゃないのか。」なんて書いている時点で、ほとんど何も調べていないんだろうなあ、というのが推察されますが。
ちょっとくらい調べてみてからものを言えば良いのでは、という感じです。
ここから追記。2008年11月15日記。
はてブに対して反応がありました⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想
問題視している人が沢山いることと私の説明責任の関係はいまいち不明だが
私は、説明責任の話はしておりません。「ニセ科学の何がいけないのかが解らないと言うからには、それを説明する責任がある」、という事では無く、「非常に多くの人が問題視している対象に関して、何がいけないのか解らないと言うからには、”ニセ科学という概念を理解した上で、その理由を詳しく説明出来るはずだ”」、という意味です。
しかし、エントリーを読むと、おそらくほとんど調べておられない事が、よく解ります。
ニセ科学に関しては、右サイドバーにあるリンクや、ここの「科学」カテゴリー(ニセ科学論と科学一般の話は分けていないので、ごちゃごちゃしています)、あるいは、菊池誠教授@大阪大学のWEBサイト等をご覧下さい。
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野尻ボードを覗いたら、女子高生に、理系に興味を持ってもらうにはどうすれば良いか、という話題が出ていて、エントリーを何か書こうと思って考えていたけど、思いっ切りはずしているような気がして、結局、一般的に「理系に興味を持ってもらうには」、という部分について書こうと思った今日この頃。
特に根拠も無く、自分の経験に基づいて書きますが、たまにはそういうのも良いでしょう。
------------
ここで「理系」とは、たとえば、そうイメージされやすい職業、技術者とか企業の研究者とか、そういうのでは無くて、自然科学的な知識、とします。理系に興味を持つとは、自然科学を志向する、毛嫌いしない、という事。
個人的に思うのは、理系に興味を持ってもらうために、それをイメージさせるいかにも「典型的」な職業などに関心を持たせる、というのは、どうなのだろうな、と。
うーん、何て言うんでしょうね。ほら、友人にしろ家族にしろ、その人が興味を持っている事について、良さをプレゼンテーションされる、というのがあるじゃないですか。いかにそれが素晴らしいかを、熱くなって語る。
でもそういうのって、言われる側としては、結構冷めたりしませんか? 場合によっては引く。その人が熱意を持ってそれに取り組んでいたり興味を持っているのは解るんだけど……と。
だから、理系の知識一般に興味を持ってもらうのがいいんじゃないかと。そういう一般的な所に興味を持てば、総体として、理系の分野の職業にも関心を持たれる事が期待される、と言いますか。
で、一般的な所に興味を持たせるにはどうするか、と考えると、「元々興味を持っているもの」について徹底的に突き詰めるよう促す、というのがポイントかと思っています。
要するに、ほら、科学は素晴らしいだろう? と直接的に言うのでは無くてですね、いつの間にかそれに興味を持たざるを得ない状況に持っていく、という方向性。
大概の物事を突き詰めていくと、自然科学の知識に行き着く訳ですね。具体的な所を学ぶという所にまでは行かなくても、仕組みがどうなっているか、つまり「メカニズム」を意識するという所には行くと思います。
ホント、なんでもいいと思います。どうしてそうなっているのか、というのを考えさせる。ケータイの仕組みでも、ゲームの仕組みでもPCの働きでも、何でも。化粧品の仕組みでもいいし、料理の構造でもいい。模型とかでも。
思うにですね。
理系(の知識の体系とか職業とか)そのものに興味を持たれないという前に、物事の仕組みを考える事を避けたりする、というのがあると感じるんですよ。まずそこら辺から考えていくべきなんじゃないかと。
以上、武術の事を知りたいのが高じて解剖学や生理学・心理学等に興味を持ったり、模型の塗装について勉強していて結局化学的な論理が働いている事を実感したり、昔やっていたプログラミングが実は論理学等の数学的論理に基づいているのだと知ったり、とか、ゲーム脳が何故おかしいかを考える内にニセ科学論に触れ、理論の妥当性を考える際に統計学的方法が重要になる事を知り、それを勉強するに至った、等の経験からの考えを書きました。
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Interdisciplinary: 詳しく調べる事を勧めますの続きです。
(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログにて、anomyさんや私へ返答がありました。ご自身の主張に反する意見を冷静に受け止めて頂いて、ありがたいです。
さて、森昭雄氏の論は、端的に言って、破綻しています。あらゆるレベルで矛盾や自分勝手な解釈をした部分があり、科学と呼べる代物ではありません。
コメント欄からいくつか引用します。
森昭雄教授は本の中で「ゲーム脳」の定義を説明していますが、
あなたの「ゲーム脳」の定義とは違うのでは?と感じました。
anomyさんのエントリーへの返答です。
森氏の本を読むと、ゲーム脳の明確な、定量的な定義は見出せないはずです。グラフのパターンの分類のように見えるかも知れませんが、同じようなグラフに別の解釈をしている所もあります。
「前頭前野の活動が低下」という部分、生理学的に賦活していないという意味なら、そういう研究結果はあります(ある種のゲームのプレイ時において)。しかしそれは、認知機能等の低下を即示す訳では全くありません。参照⇒テレビゲームが脳に与える影響
そして、この学生たちの80%が、自分はすぐキレる、
すぐ忘れ、忘れ物が多いなどをコメントしているとのこと。
このような、単なる自己申告では、科学的に充分とは全く言えません。仮に、忘れ物が多いというのが合っているとして、それを「脳の機能低下」に即結び付けてはなりません。
この本に対する受け止め方が、貴方と私で違うようですね。
この本を、貴方は読みましたか?
受け止め方の違い、と相対化してはいけません。森氏の論は「間違っている」のですから。
私は、森氏の本について、当ブログで詳しく検討しました。大部ですが、ご覧頂ければ幸いです⇒Interdisciplinary: 『ゲーム脳の恐怖』を読む
また、ゲーム脳論の問題点を平易にまとめたQ&Aもあります。よろしければご覧下さい⇒ゲーム脳Q&A
ゲーム脳は、まともな概念の定義も無く、科学としての方法や手続きも踏んでいないにも拘らず科学的に実証されていると謳っている説として、多数の科学者・専門家から批判を受けている説です。恐らく、批判がある事自体はご承知と思います。上に出した私のテキスト等の批判的言説も吟味して、冷静にご判断頂きたいと思います。
子ども達の健康について考えるならば、森氏の論を受け容れるというのは、良策であるとは言えないのです。
森氏の専門が「脳神経科学」であるというのは、最近森氏のプロフィールにも載っているので、あながち間違いとは言えないようです。ただ、ゲームのような文化が認知や行動にどう影響を与えるか、というのは、実験科学的な論点だけでは無く、広く文化や社会を射程にした方法を用いる必要がある訳です。その意味で言えば、全く不充分であると考えられます。もちろん、実験的な手続き自体が全く不足しているという部分は押さえておくべきで、それは、このブログの一連のエントリーで指摘しています。
ゲームによる認知や行動への影響という面を研究している科学者として、坂元章氏(お茶の水女子大学教授。社会心理学)が挙げられます。冷静で客観的にゲームの影響について研究しておられる第一人者ですので、もしゲームの影響に関心がおありでしたら、坂元氏の著作を参照するのをお勧めします。
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昨日も書きましたが、改めてエントリーを。
森昭雄氏に関して、これまで、森氏は脳神経科学者だと本に書いてあり、メディアでも紹介される事があるが、実はそうでは無い、という批判がなされてきました。
しかし現在、日本大学のサイトの教員情報に、専門分野が「脳神経科学」と明記されています⇒日本大学文理学部 人文科学研究所
いつ頃書かれたかは定かではありません。私は日大のサイトを、一年に数回はチェックしているはずなので、それほど以前では無いとは思うのですが、いつの間にか追加されていて、驚きました。
さて、今までは、森氏は脳神経科学者では無い、日大のサイトを参照の事、と言ってきた訳ですが、これからは、単純にそう言うだけでは不充分であり、情報としても不正確なものである、と考えられます。
教えて頂いたところ、専門分野を大学のサイトで謳う事等は自己申告で、関連の研究者の弟子筋であったりすれば、特に問題も無く名乗れるという事だそうです。従って、これからは、森氏は脳神経科学者では無い、と言うのではなくて、森氏は脳神経科学専門と言っているが、実は業績的には……と説明するのが正確であると思います。実際、公式の場でそれが専門であると謳っている所を鑑みても、「脳神経科学者では無い」と端的に言って批判するのは妥当では無くなった、と考えて良いでしょう。公的な資格のような、明確に判断出来るものでも無いですしね。
いくらおかしな事を言っているとしても、批判は、正確な情報に基づいて行われなければならないので、ここら辺は押さえておくべきだと考えます。
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魚住絹代 『いまどき中学生白書』より、『メディアの利用状況と認知などへの影響に関する調査』(2005)、通称「寝屋川調査」(以下、「寝屋川調査」と記述)に関するデータについて書かれている部分を検討し、掲載されているグラフについても言及します。
以下、「本書」と記述した場合、『いまどき中学生白書』を指します。
○寝屋川調査のデータ
二〇〇五年七月に行われたアンケートには、寝屋川市、そして、講演を通じて知己を得た長崎県の教育庁、教育委員会、東京都の中学校の生徒、保護者計四千七百六十二人に協力を求め、三千五百人余が回答してくれた。(P12)
▼時期
2005年7月
▼場所・調査対象
寝屋川市・長崎県・東京都の中学生、保護者
▼調査人数
回答の依頼:4762人
回答人数:約3500人
▼調査法に関して
精神医学の専門家などの協力を得て、調査が医学的・科学的な裏付けを持つようにした。(P12)
▼集計
寝屋川市教育委員会、寝屋川市立中学校のスタッフ
▼問題点
○グラフの検討
本書に掲載されているグラフを、いくつか紹介する。新たに筆者が同じようなグラフを作成した。
注意点
▼ゲーム族は偏食が多い(P49)
一日のゲーム時間が長い子どもほど、偏食が多い。三十分程度の子に比べ、三時間以上ゲームをする子は三倍以上、二時間以上の子は倍以上である。(P50)
この節、「ゲーム族の子は、なぜか肉が好きなケースが多いと感じる。もっとも、これはきちんとした統計に基づくものではなく、経験的な話である。」(P49)という記述もある。
▼落ち着きがなく、注意散漫(P51)
長時間ゲームをする子は、注意散漫で、ミスが多くなる。一日三時間以上ゲームをする子の場合、三割以上が「注意散漫」と自己認識している。(P52)
他に、「じっと座っていることができず、たえず動きたがる」、「気が散りやすく、よくよそ見をしたり、忘れ物やミスが多い」などの質問への回答(いずれも保護者回答)を参照しているようである。
▼傷つけられると仕返ししたくなる(P55)
ゲーム時間が長い子どもほど、傷つきやすく、それを根に持つ傾向がある。四時間以上ゲームをする子は、まったくゲームをしない子に比べ顕著にその傾向が強い。(P56)
「仕返し」と「復讐」では随分意味合いが異なるように思える。
この質問に答えた子どもについて、「全体で19.7%であったのに対し、四時間以上ゲームをやる子は約二倍だった。」(P55)とある。何が二倍だったのかすぐには解らないし、「4時間以上ゲームをする」子どものカテゴリー内の割合だとしても、全体での割合と比較して何の意味があるのか不明である。
▼無気力・無関心・投げやり(P60)
ゲーム族は、「新しいもの」を好まない。ネット族、メール族、マンガ族らに比べ新奇なものに対する興味を持つ度合が半分程度で、目立って低い。(P62)
2倍といっても10%と20%との差。しかも標本調査であり、更には、無作為で無いので、誤差の評価、一般化も出来ない。また、保護者の回答である。「とても新しいもの」というのが何を指すのか不明。
▼人付き合いは苦手(P67)
もともと社交的だった子どもが、長時間ゲームをすることで内向的になっていく傾向がある。ゲーム時間が長いほど対人関係に消極的になる。(P68)
心理学的に、内向性の高さと社交性の低さは同じでは無かったはずである(詳細未確認)。いずれにしても、既存の測定尺度は使われていないようである。
縦軸の説明が意味不明。質問は、「人付き合いや集団行動は苦手」(子ども回答)、「やや消極的で、人と接するのがとても苦手」(保護者回答)であるのに、何故縦軸が、時間的な変化を反映したものであるかのように説明されているのか。「幼い頃の対人関係について問うと、必ずしも消極的な子どもでなかったことがわかる。」(P69)という記述があるが、ここのグラフの割合がいかにして導き出されたのかは、全く不明である。
▼対人依存症(P105)
ゲーム族と対照的に、メール族は人との交流を好む。ゲーム族、ネット族と比べると、「人と接するのが好き」と答えた割合が顕著に高い。(P107)
保護者回答である。横軸の「熱中しているメディア」というのがどこから導き出されたのか解らない。中学生が心理テストに答えて云々という記述があるが、寝屋川調査での話なのか、別の話なのか、不明である。
見出しに「依存症」と書くのはミスリーディングである。
▼メル友をストック(P119)
一日にやりとりするメールの数が多い子どもは、「友達になったり、絶交したり」が激しい。とくに一日五十通以上メールをする子は、顕著にその割合が高い。(P121)
何故かここでは、他の部分では見られなかった、回答の2つのカテゴリーをグラフにしている。しかし、これも何故か解らないが、積み上げ型の棒グラフで描かれている。
「絶交」という概念は解りにくい。いわゆる「ケンカ」との境界も曖昧。
▼きまぐれで衝動的(P124)
一日にやりとりするメールの数が増えるにつれて、気分の起伏が激しくなる。一日五十通以上メールをする子どもは、半数近くが起伏が激しいと答えている。(P126)
「差が激しい」というのも、多分に主観による違いがあるだろう。
その他に、「あまり考えず行動したり、危険なことをしてしまうことがある。」という質問もあったようである。
グラフを見ると、縦軸の目盛りは5刻みで、それほど大きく違うのか、という疑問も出る。そこで、違うグラフを作成してみた。
何件法か判らないので、便宜的に、カテゴリーを2つにして帯グラフを作成した。随分印象が変わると思うが、いかがだろうか。
それ以前に、メールの頻度に関して、何故このような階級分けをしているのか、全く意味が解らない。何故、「20通以内(この”以内”というのもよく解らないが)」の次が、「50通以内」なのか。
▼メール族の生い立ちと家族(P134)
ゲーム族やネット族が「親に認めてもらいたい」と考えているのに対して、メール族は「友達や先輩」と答える率が高く、「親」を逆転している。(P135)
この節、「甘やかされて育ったと思う」という問いに、メール族(今更だが、「○○族」の定義は不明)の約45%がいいえと答えた事から、「メール族は親に甘えることができなかったと感じている子の割合が図抜けて高い」(P134)としているが(他に、「ほめられるより叱られることのほうが多かった」と回答した頻度が高いとしている)、「甘える」と「甘やかされる」は、異なる概念であろう。
メール族の保護者に対するアンケートによると、小学生までに愛情不足の時期があった子どもは、「メール中毒」になりやすい傾向がみられた。(P137)
※縦軸の説明が切れているが、「就学前」である。
このグラフ、目盛りの上限が12%である。いかにも、差を強調している意図が見える。そこで再び、別のグラフを作成してみた。
何度も書いているが、サンプルが無作為で無いから、このデータから、検定等によって母集団について言及する事は難しい。出来るとしても、母集団を限定する必要があるだろう。
仮に、これを記述統計的なデータと看做すとすると、調査対象の保護者の回答の構成比、としか見る事が出来ない。そこでのこの程度の差を意味あるものと看做せるかどうか、という疑問が出てくる。
肯定割合が、最大のカテゴリーでも12%以下である。従って、他の選択肢が何であったか、という所について疑問が出てくる。仮に、「肯定」、「否定」の2つであったとすると、全てのカテゴリーで90%近くがこの質問に否定的に答えたという事だから、全体としては極めて親子関係は良好である、と解釈する事も可能である(あくまで仮定)。
------------
どうでした?
わたし的には、こんなものが本に載り、新聞で紹介され、電子メディアの害悪を訴える著作の論拠とされる事そのものが、信じがたい話であると思うのです。
ここに載せたグラフは、あくまで一部分です。
とにかく、概念の定義が無い。何の何に対する割合かがはっきりしない。解釈が自分勝手。特に、○○族というのは、ゲーム脳や半ゲーム脳に匹敵する不明確さ。
根本的な問題として、このようなデータからは、より大きな集団について一般化するのがほとんど不可能である、と言えます。にも関わらず、魚住氏は全体の傾向であるかのごとく言い、岡田氏は、検定などしてしまっている訳です。
garbage in, garbage outみたいなもので、本来、検討にすら値しないようなものだと思うんですけどね。何故だか、鵜呑みにする人がいる。
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脳内汚染からの脱出 (文春新書 573) 著者:岡田 尊司 |
図書館で借りてきて、ざっと再読しました。
やっぱり、ややこしい本ですね。
岡田氏の論は、かなりムチャクチャです。でも、知識に乏しいと、見抜くのはやっぱり難しいかも知れない。ゲーム脳本よりは圧倒的に難しい。
色々ごちゃごちゃ集めて書かれると、尤もらしく見えるんですよねえ。更に、小説風の味付けもしてあり、恐怖感を煽る内容になっている。ややこしい。
この本では、論拠として、大規模な社会調査である(と岡田氏が認識している)寝屋川調査が援用されている訳ですが、それがそもそもおかしいのですね。
岡田氏は、何回も何回も、統計的に有意である事を協調しています。しかも、寝屋川調査のデータを元にした、独立性の検定。そもそも標本の無作為性がとても怪しいのに、検定をして一般化出来るのか、という問題がありますし、また、有意確率を「関連の強さ」の度合として誤認させるような書き方が散見されます。例:「p=0.0000というのは、間違いである確率が十万分の五未満であるということである。こうした強い関連性が、偶然の支配する現実の現象で観察されることは滅多になく、その場合、そこには因果関係が存在することがおおいのである。」(P63)
寝屋川調査では、ゲーム・ネット依存についてのチェックリストが用いられていたそうですが、これも疑問を持つ内容。そもそも信頼性や妥当性が本当にきちんと確認されているのか、というのもそうですが、何よりおかしいのが、その解釈。
そのチェックリストは、全部で8項目。4件法です。一つ挙げると、「ゲームやネットができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなることがある。」という質問。回答の選択肢は、「よくある/ときどきある/あまりない/まったくない」という具合。
それで、ですね。「ときどきある」を1点、「よくある」を2点として得点をつける訳なのですが、その解釈が非常に疑問。抜粋しましょう(P65)。
判定基準
0点 依存傾向なし 49.7%が該当
1~3点 要注意 28.6%が該当
4~7点 軽度依存レベル 16.0%が該当
8~11点 中度依存レベル 4.3%が該当
12~16点 重度依存レベル 1.4%が該当
こういう具合です。
これ、おかしいと思いませんか? だって、「ときどきある」が一つでもあれば、「要注意」であると判定されるんですよ。しかもこのチェックリスト、「依存」という精神医学的な概念を調べるものなのです。更に、です。質問項目には、こんなのもあるんです。
止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。
典型的なダブル・バーレルですね。これだと、怒り出したのか暴言を吐いたのか、あるいは暴力に走ったのか、全然解らない。止めさせようとすれば怒り出すというのは、どんなものでも起こり得る訳です。それを、「暴言・暴力」というかなり強い言葉とくっつけている。
こういうのが出てきて、メディアでは数値だけ発表される訳ですね。たとえば、依存の危険がある人が半数もいた、というように。実際岡田氏自身、「逆に言うと、中学生の約半数に何らかの依存症状が認められたことになる。」(P64)と解釈しているのです。「症状」ですよ。そしてその実態は、質問に一つでも「ときどきある」あるいは「よくある」を答えた人が半数いた、という事に過ぎないのです。
岡田氏の著作や主張には、この手の論が散見されます。実にややこしい。
最後に、上で紹介したチェックリストを全部、ちょっと変えて書いてみましょう(P65を元に一部改変して書く)。
この○○と□□の部分に、ゲームとネットが入る訳ですが……いかがですか? ゲームやネットに限らず、何かを当てはめて、0点を取れますか? 取れなければ、「要注意」だそうですよ。
その前に、「ときどきある」と「あまりない」はどう違うんでしょうね。
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<大阪・中3ひき逃げ>逮捕の中3女子「ゲームで自信、初めての運転」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
A-WING::Frog is not Blog::リアルだけどリアルじゃないので
情報が少ないので、件の少女について具体的に何か言う、というのは出来ませんが、一般論として。
私らみたいな、ゲームを何十年もやってる人達は、知ってるんですよね。違う、という事を。いかにリアルに近づけるか、というベクトルでもゲームが進歩してきた、メーカーもユーザーもそれを志向した、というのを知っている。
だから、ゲームはリアルを再現しようとする、というのをメタに認識していて、その上で、絶対にリアルとは違う、そこにはどうしようも無い断絶がある、と常に考えてきたんですよね。
グランツーリスモシリーズみたいに、出来る限りリアルなシミュレータを目指すものもあれば、ある種のデフォルメをほどこして「ゲームらしさ」を目立たせ、「ゲームならでは」の面白さを追求する、というものもある。そういうのをひっくるめて「ゲーム」なんですよね。それがその文化の素晴らしい所でもある訳だし。
そういう意味では、少女が至ったような認識は(それが本気かは解らないですが、本当なんでしょうな。取り敢えずゲームのせいにしよう、などという知恵が働くとは考えにくいし、日本でそんな事やっても意味無いし)、まあ、未熟なのだろうな、と。本当にゲームをやって実車を運転したくなる、という人間がいたら、周りが、「お前はアホか?」と言ってやらないといけない訳で。全然違うよ、と。
すごく広く意味を取れば、こういうのも「ゲームリテラシー」と呼べるのかも知れません。
もちろん、私なんかも、別に、最初から理解出来ていたという事でもありませんが。色々学習していくのですね。ただ、今の人達とは、やっぱり状況が違う。※別に、世代の傾向として、どう考えやすいか、と決めているのでは無いです。ゲームは段階的に進歩してきて、ユーザーはそれを見てきた、という事実の話。初めからPSPやDSがあるのと、ファミコンが出てきて狂喜した時代とは、やっぱり違う。
まあ、出来るだけ、楽しみながらも勉強はして下さい、という感じです。
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こういう事件そのものについて。
この手の馬鹿は、ある程度の頻度で現れるものだと思います。事故ったら目立つ、というのはあるのかも知れません。私が高校の頃だったか、クラスメイトの(下の)きょうだいが、やはり興味を持って車を運転してしまった、というのがありましたね。きっかけは色々でしょうが。そんなに珍しい事なのだろうか、と疑問には思います。事故は起こさなかったけど見つかってこっぴどく叱られた、という事例は多そう。馬鹿だけど頻繁に出る馬鹿、という感じかな。
理論的には、ゲームは学習の般化という錯覚を起こさせる場合はあるのかも知れません。ゲームにもよるけれど、「シミュレータと誤認される」、というのは、可能性としては、あり得る。別に、絶対運転出来るかも、なんて思わなくても、ひょっとしたらいけるかも……なんて事は、まあ、あるかもね。
リズムアクションをやって楽器演奏出来るかも、と思うようなものですな。学習の般化というのは、構造が似通っていれば起こるのだろうけれど、それでも別物な訳で。別物だから別物ならではの楽しみがある、という認識を持つのがゲーム好きだったりしますが。
ただ、リズムアクションと違うのは、対象が実車である事。これはもう、ゲーム云々というよりは、あんな物体をコントロールする事そのものへの「恐怖」を覚えなくちゃならないと思います。そういう意味で、基本的な想像力の問題のようにも思います。まあ、ゲームを否定する人なら、ゲームがその想像力を欠落せしめたのだ、と言いそうですが。もちろんそんな話はナンセンスですけど。
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君は、ゲームをやって車を運転したくなったの? うん、馬鹿だね。その馬鹿さ加減が人を殺すかも知れないんだよ。
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ヤフオクとかで、いたずら入札ってあるみたいですね。
私は運良く、一度も遭遇していませんが。
一体何が楽しいんでしょうね。さっぱり解らない。新規ID作って入札し、落札したら連絡せずに放っておく(で、落札者都合で削除したら、報復評価をされる)、というのも多いらしいですが、ホント、何がしたいのやら。
ヤフオク(他のサービスは利用した事無いので解らない)って、そこら辺に充分対処出来るようなシステムにはなっていないからなあ。理不尽に悪い評価をつけられたりする。運営に連絡すれば、取り消してもらえる場合もあるらしいけれど…。まあ、オークションシステムでそれに充分対処するのは無理なのかも知れませんが。全ての入札が、プレミアム会員じゃないと出来なくする、とか? そうすると、新規で参加しづらい、というのがあるのかな。でもそれだと、新規お断りの出品者が増えて、結局良くないような気もします。
ああ、後、悪い評価が30くらいついているのに取引を続けられているのを、たまに見かけますが、あれも不思議。普通、数十もあったら入札しようという気にはならないと思うんだけど……私なら、見つけた瞬間ブラックリスト行きなのですが。
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増田は取り敢えず措いといて。
2008年10月14日 hmwr_k 増田さん それわたし。いちいち言わないけど心の中はそんな感じ。ほんとに死んでいただきたいくらいに憎い。吸っていいかって聞かれたらどうぞとしか答えようがないじゃないか! タバコ吸う人とは付き合いたくないと思う。
全体的には全く賛同しないけど、「吸っていいかって聞かれたらどうぞとしか答えようがないじゃないか!」←この部分は、本当にそう思う。
うーんと。同じ事言ってる人は沢山いると思うんですが……身に着けとくべきマナーとして、「吸ってもいいですか?」ではダメだと思うんですよ。吸わない人間からしたら、普通は吸って欲しく無いに決まってるじゃないですか。
だから、相手が吸わないと知っている場合は、そもそも吸わない。で、よく知らない場合には、
「あなたは吸いますか?」
だけでいいと思います。で、吸わない事が判明したら、吸っても良いか、などと聞かない。
まあ、いささか単純ではありますが、そんな事を考えたのでした。
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「新聞、これからも必要」が90%…読売世論調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
どなたか、読売を購読されている方はおられないでしょうか。
この記事についたはてブによると、紙面には詳しい内容が載っていた、との事ですが。
私としては、こういう記事には「必ず」、nと抽出方法くらいは載せるべきだと思っています。それは最低限すべきだと。
国民の多くが新聞を重視していることがわかった。
記事では、こういう事を書いています。これが妥当であるためには、母集団が「日本国民」(定義の問題もあるだろうけれど)で、サンプルはそこから無作為に選ばれ、その上で、高い割合で「重視している」人がいる事が示されなければなりません。これ、抽出方法が決定的に重要な要素です。偏っていれば、いくら大サイズのサンプルあっても、推定の理論的な根拠を失うので。
これって要するに、自身が優れている事が調査によって示された、という内容なのだから、どういう風に調査したのかをちゃんと載せないと、ホントかいな、という反応を持たれると思います。紙面には載せるがWEB記事には載せていない、というのはどうなんでしょう(参照出来るページがあるのかも知れないけれど)。
ちなみに私は、新聞(紙に印刷された、という意味)で(ラテ欄以外の)情報を得るという習慣を、生まれてこのかた持った事が無い人間です…。
2008年10月14日追記:非言及⇒読売新聞の嘘,黄金比率プリン,一緒にするな - カレーなる辛口Javaな転職日記
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さすがに、全国区のテレビ番組であれだけ批判されたとあっては、何らかのリアクションを取らざるを得ない、といった所でしょうか。
10/12開催の「船井オープンワールド」なるイベントで、江本氏の講演もあったようで、開催前の江本氏のエントリーによれば、そこで、この件について話す予定があると書かれていました。果たしていかなる内容だったのか。
反論は、あった方が良いのかも知れません。無視するより、何か言ってくれた方が、よりおかしさが強調されるかも。少なくとも、内容のある批判にはなり得ないのは、最初から判っているので。
ああ、一つ、この話題についての反応で、物凄く気になる事があったのです。
「文系」の罵倒は止めるように。自身の認識の無さを露呈するだけだから。本気で言っているのだとしたら恥ずかしいし、ネタとかレッテル貼りをして楽しむ、揶揄してるのだとしたら、やっぱり恥ずかしい。
そもそも、強く水伝を批判し始めた自然科学の専門家が、事あるごとに、この問題は勝れて文科系学問の問題でもある、というのを指摘しているのを、念頭に置いた方がいいでしょう。
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アルファさんのブログ経由で⇒ゲームとアカデミーの素敵なカンケイ(第1回)――東京大学 大学院情報学環 馬場章教授 (1/4) - ITmedia +D Games
良記事。
日本では、ゲームというのはあくまで娯楽であって、文化的(象徴的な意味で)、あるいは学術的研究対象としては見られない、というのがあるかも知れません。
それは、対象を無闇に高級なものと看做して特別視するというのを防ぐ事が出来るという反面、文化として見縊られる、もしくは軽く見られる、という事も起こるのでしょう。
コンピュータゲームという文化は、制作に携わる人間の数、投入される資金、産業としての巨大さ、等を考えるともはや、単なる娯楽には収まらないものとなったと言えます。金も人も、才能も動いて、注がれる訳ですね。
ゲームというのは言わば「器」だから、いかにも典型的な娯楽目的のようなものから、芸術作品と呼べるものもあり、また、直接的に教育目的を持つシリアスゲームのような分野も出てきました。従って、これらのあり方を総合的に分析・記述する必要があるでしょう。それには当然、広く学際的な視点が要求されます。
ゲームの学術的研究というのは、まだポピュラーな分野では無いと思いますが、今後益々発展していくと良いですね。
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もう、ね。
勘弁して欲しい。
▼http://www.sendai-c.ed.jp/~nanzai/2008/koutyou/koutyo47.swf(要FLASH PLAYER)
人は前頭葉を使ってものごとを考えますが、ゲームをしているときは後頭葉しか働いていないそうです。前頭葉の機能の低下は最新の脳科学機器で証明されています。まさに「脳みそがくさる」状態ですね。
”「脳みそがくさる」”
▼Naritarianの成田的生活 20070929(google cache)
PTA主催の講演会「テレビ・ゲームで脳みそがくさる」の参加のためだ。
▼テレビゲームで脳がくさる!? - 阿部清人のオフエアブログ - 楽天ブログ(Blog)
▼http://kinomi-hoikuen.com/kinomi-otayori200802.html
さて、先日保護者会の最後の行事として“テレビ・ビデオ・ゲームの影響を考えよう” ~脳みそがくさる?~ と題された講演会が、木の実西部保育園と合同で開催されました。
ゲームの恐怖を煽る言葉としては最高の選択だ。という事は、最悪の言葉遣いだと言える。
田澤雄作でググると、色々出てきますね。anomyさんやたこやきさんも採り上げておられる。ゲーム脳的概念を広めている人間の一人のようです。
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PSJ渋谷研究所X: 国土交通省にも神戸市にも「水伝」汚染?を読んで、私も「ゲーム脳」で調べてみました。
肯定的に採り上げているものだけ載せます。
○ac.jp
比較的穏当にも見えるけれど、ゲーム脳については疑い無く受け容れている様子。
▼過保護・過干渉・TVゲーム (めるへんの森幼稚園【園長室から~園だより】)
三つ目に、「TVゲーム」についてだが、TVゲームをしょっちゅうやっている子は、大脳の前頭前野といわれる知性や情緒を司る部分の発達に影響がある、ということを多くの脳学者が指摘している。いわゆる「ゲーム脳」といわれる現象だ。特に、暴力や戦争を扱ったゲームは、子ども達の仮想体験によって、「暴力や死」に対する抵抗感を少なくし、命の尊厳への想像力を失わせる。人々に求められる想像力とは、他者の気持ちや立場を考え、理解することができる力ということだ。そのことからも、幼児期にこそ豊かな想像力を育てることが大事で、そのためには童話を聞かせたり絵本を読んでやることが有効だと考えている。
なお、中学生くらいまでは、ゲームをさせてはだめだ、ということを主張する学者もいることを付言しておきたい。
典型的な受け容れ方。”この演題としてあげた「過保護」「過干渉」「TVゲーム」の言葉を、私は子どもを育てるうえでの「三大悪」と、独断的に決めつける。”だそうです。
一応、批判があった事も書いてあります。でも、コンピュータ・ゲームへの強烈な偏見が…。
▼情報系大学生の心理的特性理解と指導、援助技術に関する研究(2) ~「デジタルホーリック」の概念と属性の検討を中心として~(@東京情報大学総合情報センター 電子文献サービス)
画面脳の人とかanomyさんのような視点ですかね。ゲーム脳に肯定的、という訳ではありませんが。
テクノストレス等の概念とゲーム脳を安易に結び付けてはならない、というのは私が何度も書いている通りです。
▼帝京科学大学附属図書館 - 図書館だより 第23号 2003.1.17(@帝京科学大学附属図書館)
見事にゲーム脳本を鵜呑み。書いた方のプロフィール⇒小川家資 | アニマルサイエンス学科 | 生命環境学部 | 帝京科学大学
タイトルが、「感性を磨く ~ゲーム脳にならないために~」。
現在の人間は感性が失われて云々、という言い方は結構見るのですが、果たしてそれに、どれほどの根拠があるのでしょうね。それこそ直感でしょう。
▼テレビゲームが子供に与える影響についての一考察 ~ゲーム脳を中心に~(@国際学院埼玉短期大学)
論文(卒論かな)の概要。
『ゲーム脳』とは一体何なのか。「人間らしい感情や創造性をつかさどる大脳の前頭前野の活動が、テレビゲームをするときに目立って低下する」という記事を読み、今の子供たちの脳に異変が起きていることがわかった。
記事を読んで解ってはいけないと思います。全体的に突っ込み所満載だけど…。取り敢えず、ゲーム脳論そのものについてきちんと調べれば良かったのに。
原典を読んでこの感想というのは、ゲームへの先入観が働いているのかなあ。ゲーム脳本は、かなり解りやすい破綻なのですが、途中で脳の生理学についての教科書的な記述を挟んでいたりするから、そこら辺は巧妙かも。
▼子どもの身体活動を考える~体ほぐしの運動から~(welcome to nao's Home Page@筑波大学 体育専門学群 運動学体操方法論研究室)
運動の量の不足が心身に好ましく無い影響を与えているのでは、というのは確かに尤もらしい。でも、飛躍してはいけないのです。
すでに数多くの識者が指摘しているように、こうした小さな画面の中に身をおく遊びが、感受性豊かな子どもたちの心や体を様々な形で蝕んでいることは否めない事実である。最近話題の「ゲーム脳」は、その恐ろしさを示す事例のひとつ。この造語を考え出した森昭雄によれば、長時間、ゲーム漬けになっていると、意欲、判断、情動抑制など、人間らしさを保つために重要な働きをする前頭前野が平常時から機能しなくなってしまうという。「キレる」子どもたちを生み出している背景には、テレビゲームに浸り続ける子どもたちのライフスタイルがあると警告する。
科学的思考を鍛えたはずの人々がこのような飛躍に陥っているのは、対象についての先入観・無知が関係しているのでしょうか。
▼理想学園 ひかりのいずみ幼稚園 つみき幼稚園:テレビゲーム(@理想学園 ひかりのいずみ幼稚園 つみき幼稚園)
ゲーム脳と『脳内汚染』のコンボ。
幼児教育に対する意識が強いが故に、というのもあるのかも知れません。「しかし、上記両著によって、テレビやビデオ、特にテレビゲームが子供の心と脳を蝕んでいることがはっきりと分かりました。」と書いています。つまり、科学者の御墨付と看做しているようなものですね。ゲームの悪影響が科学的に明らかにされたのだ、と。ニセ科学が存在するという事実を知らねば、そうなるのも仕方無い部分があるのかも。
▼学長式辞(@東京学芸大学-TOKYO GAKUGEI UNIVERSITY-)
感性の重要さを説く人が、非常に不寛容である場合があるのは、興味深い所です。
急速な技術進歩や生活様式の変貌によって、これまで人間が積み上げてきた経験則は次第に忘れ去られ、無化されます。便利さと安易さの中で、人間生活にとって重要な側面が捨象され、人間形成の上の大きなゆがみが指摘されています。例えば最近話題になったゲーム脳など一つの典型かもしれません。テレビゲームをやりすぎると、精神活動を司る前頭葉の機能が低下し、認知症というのか痴呆症というのか、それと同じ脳になるという指摘です。
「見るとは、像を殺すことである」。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーはこう言いました。見ることは、像を、イメージを殺すのだろうか。いや逆だろう。見ることによってイメージは豊かになるのではないか。普通はそのように考えます。しかしそうではないと言うのです。今はまさに映像の時代、ビジュアルの時代です。見ることは大きな比重を占め、そこから啓発されること大です。しかしよくよく考えてみますと、見ることによって、与えられた像やイメージは、思考や想像の回路を経ることなく、そのままインプットされた形で固定化されてしまいます。見た印象が強ければ強いだけ、その直接性に大きく規定されます。その結果、多様に想像し、自らの像をイメージすることが出来なくなるでしょう。
大学の学長式辞でこれは、頂けないなあ。想像力というものについてもっと想像した方が良いのではないでしょうか。
▼http://www.kogakuin.ac.jp/mado/mado134.pdf※PDFファイル(@学園広報誌「窓」 | 工学院大学)
附属中学・高校の入学式での、校長の式辞の模様。完全に鵜呑みにしています。科学的に解明、と言っていますね。入学式でねえ…。
▼http://www.taiiku.tsukuba.ac.jp/sc/5_1/01/intro.html(@筑波大学体育系Web)
こちらも、体育教育を重視する立場から、ゲーム脳に肯定的な内容が書かれています。子どもがキレやすいか、とかは、総体的な傾向の話で、本来疫学的な方法等によって解明すべき事柄なのですが、強く主張している割りにはそこら辺に無頓着なように見えますね。
▼基調講演「親が変われば子が変わる」※PDFファイル(@学校法人 浦山学園 | TOPPAGE)
来ました、「親学」。
これは朝日新聞が取り上げたものですが、ゲームにずっとのめりこんでいる子は、その書いた絵の中に、キャラクターと実際の家族が混在している。つまり、仮想と現実が一緒になってしまっている。最近、モリアキオという方の「ゲーム脳の恐怖」という本が出ました。小さい頃からずっとゲームにのめり込んでいる子は、前頭ぜんやという頭の中の人間らしさを扱う、激しい情をコントロールする場所があるんですが、その機能の低下を起こしてしまう。そこで、ムカつき、キレるということが起きてんだということを詳しく書いています。
典型的な、「仮想と現実の混同」論。
もしこれが、 ビデオ・ゲームに熱中してフィジカルな体験の時間が奪われている結果だとするなら、 この未経験のまま年をとる状態を「ゲーム脳」と呼んでも良いかもしれない。
ダメですよー。
※あらきけいすけさんがゲーム脳に肯定的、という事では全くありません。そこはよろしく。「ゲーム脳」の再解釈・再定義になっているので、そこは注意した方がいいかな、という事です。あれは森氏の造語だ、というのは押さえとかなくてはならないので。
○go.jp
ヒット数も少なく、肯定的に採り上げているのは特に見当たりませんでした。
○ed.jp(PDFファイルが多いです)
▼http://www.nagasaki-city.ed.jp/nishikita-e/nishikitadayori/h18/gakkou%20dayori/2gou-2.pdf※PDFファイル(@西北小学校)
見事に鵜呑み。しかも、結構具体的。こういうのが配られたり、読まされたのだというのを考えると、残念ですね。
一番最後に、取って付けたような、小さい文字の注意書きがあります。バランスを取ろうという意図からなのでしょうけれど、そうはなっていないですね。
▼http://www.machida-tky.ed.jp/e-machida1/hokensitu/hoken0712.pdf※PDFファイル(@町田市立町田第一小学校)
保健室便り。イラストを多用してチェックリストまで作り、凝った内容……って、ダメじゃないか。熱意があるのはいいのだけど…。
▼http://www.miyoshi-yasuda-e.hiroshima-c.ed.jp/19nendo/tayori2.pdf※PDFファイル(@三次市立安田小学校)
今年の2月。「サインズ・オブ・タイムズ」というのが何なのか解らなかったので調べたら⇒福音社:サインズ
これはなかなか…。
それにしても、こういうのって、安易にお手玉を奨励したりしてる訳で、それはそれでまずいですね。
▼http://www.tym.ed.jp/sc138/hoken_hp/gakkouhokeniinnkai.htm(@射水市立小杉小学校)
ゲーム脳は、小児科医や保健関連の人の支持がよく見られますね。とても安易にメカニズムを前提として、そこからロジックを組み立てています。その前に調べるべき事が沢山あるのですが。
▼http://www.fuchumidorigaoka-j.hiroshima-c.ed.jp/02osirase/01tayori/hotstation/17/hotstation1213.pdf※PDFファイル(@府中緑ケ丘中学校)
「恐ろしい話」って…。あんまりですよ。根拠無いのに恐怖を煽ってどうするんですか(もちろん、根拠があると思っている訳だけど)。
▼http://www.onomichi.ed.jp/shigei-j/h19/h19.9gakkoudayori.pdf※PDFファイル(@広島県尾道市立重井中学校)
来ました、片岡直樹氏。心を「魂」と結び付けるのは、どうでしょうか。非常に危うい表現だと思います。科学者としてはかなり不用意なような。
森氏の講演を聴講して書かれたようです。主催は、「岐阜県教育研究会保健部会」。むう…。
高校生くらいになると、何言ってんだよ、的な反応もあったりしそうですが。
▼http://www1.sakai.ed.jp/weblog/data/sakai054/14536/kouhou%20fuyuyasumi061222.pdf※PDFファイル(@堺市立宮園小学校)
ゲームを単純化して見ているんだなあ、という印象。子どもがやっているのをもっと見てみればいいのに、とも思いますが、バイアス掛かったまま見ると、暴力描写がクローズアップされたりするかも知れないので、難しい所。
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取り敢えずこのくらい。実際検索すると解りますが、「ゲーム脳 site:ed.jp」でググると、170件くらいヒットして、ほぼ、ゲーム脳をそのまま受け容れています。キリが無い。
WEBを活用している学校でこれくらいヒットしたので、学校便りや保健室等で、ゲーム脳について肯定的な採り上げ方をしているのは、潜在的にかなりあると推測されます。
それにしても、ゲーム脳はニセ科学ですよ、的な記述が皆無というのは…。しかも、つい最近書かれたものもありますしね。やはりゲーム脳は根深い。こういうのを、蔓延と言うのかな。
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えー、感想。
頭が痛い。
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『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)|ほたるいかの書きつけ
実際、由々しき問題だと思います。
校長の役職につく人達百数十名の前で江本氏の講演が行われ、
すると、後日、各小学校より続々と注文があり、すでに約7000冊の絵本が関東圏内の子どもたちの手元に届けられました。
このような事になったのは。
7000というのはかなりの量です。いや、700でも多い。児童・生徒に配布するにしろ、図書館で所蔵するにしろ。
他にも色々凄まじい内容が書いてありますが、詳しくはFSMさんのブログをご覧下さい。
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思うんですけど、こういうのって、理科の教材としても有用なんじゃないですかね⇒鳴るほど♪楽器解体全書 掲載楽器一覧 | YAMAHA
楽器という身近で興味を持ちやすい道具と関連させて、楽器から音が出るのはその構造故である事を教え、説明された側は、楽器の合理的な仕組みに感動し、自然科学のメカニズムについての知識も得られる。実に良いのではないかな、と。
それにしても、YAMAHAのサイトは、コンテンツが充実していますよね。デザインも良いし。
余談。
昨日、こんな楽器があるのを知りました⇒ヴィオリラ | YAMAHA
いや、実に面白い。
楽器って、感性と経験と科学と技術の粋ですよね。素晴らしいと思います。
最近、MIDIやシンセサイザーの仕組みについても調べていて、その面白さに驚嘆している所です。
物事の仕組み、構造と機能について関心を持つと、あらゆる文化が繋がってきます。そして、それには自然現象のメカニズムが通底している事が、見えてきます。これほど楽しい事は無いですね。文化の間に壁を作る人には絶対到達出来ない。
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教えて!gooで、血液型と性格関連の質問を調べてみました。
血液型で判断したくは無いのですが、私の彼氏はB型でして。。 - 教えて!goo
B型の男の人や付き合ったことがある方に質問です。(長文ですみません) - 教えて!goo
A型男とO型女って相性わるくないですか? - 教えて!goo
ややこしいねえ。ややこしい。
そして最後に、kikulog経由で知ったYahoo!知恵袋での質問。
私は今まで血液型にこだわってました。私はA型。 - Yahoo!知恵袋
憤りでは無くて、悲しみを覚えるのです。
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<武道必修化>中学校に道場新設へ 来年度予算要求60億円(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
関連エントリー⇒Interdisciplinary: 必修化
そんなに予算を割いてまでやる事なの?
武道というのは本質的に、暴力的な要素を含むものだから、高い精神性を持った指導者が丹念に指導していくのが重要でしょう。それをきちんと考察・研究せずに、まるで、「武道を経験する事そのものが、精神性を高める」、というのが自明であるかのように、安易に決定されているように思います。
まあ、必修化はもう決まったようなので、高度に記号化、あるいは様式的であって、競技の色合いが薄いのをやらせるのが良さそうに思います。型武道とかね。「簡単には使えない」ものをやらせる。日本剣道形とか柔道の型だけやる、とかどうでしょう。剣術の型ならば、たこやきさんも仰ったように体育館で出来ますし、木刀を使うので、慎重に道具を扱う、というのを学ばせる程度は出来るかも知れませんよ。高度に記号化されていれば、それを憶えるというプロセスも入りますし。
ところで、体育で柔道・剣道をやった方、それを体育の時間でだけやる事によって、何がしかの良い影響を実感しました? 後になって、やって良かった、と思った事はあります?
体力的に優位な子どもがそうで無い子どもを技の「実験台」にする事とか、ありますからね。ちゃんと考慮してるかな。週にたかが数時間やる程度で、武道の特徴を学ばせる、というのが可能なのでしょうか。
そもそも、この件に関して、武道・武術の専門家の意見をどのくらい取り入れたのでしょうね。凄く疑問。
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コメント欄にも貼りましたが、エントリーを上げておきましょう。
kikulog経由⇒東京新聞:心理研究家御瀧 政子さん Q 福田さんは典型的なA型?:政治(TOKYO Web)
誰も止める人はいなかったの? て言うか、「心理研究家」ってなんだよ。
この記事の内容を海外へ伝えて、日本の新聞記事の優秀さを知らしめるのも、良いかも知れませんね。
載るか、今時? こんな記事が。稀に見るダメ記事でしょう。
今回は少し軟らかく政治を考えてみようと、血液型を取り上げてみました。
そういう問題か?
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高校・大学・専門学校生 親に殺意3割 「よくある」は3%(産経新聞) - Yahoo!ニュース
「殺意」という概念をどう捉えるか、がとても難しい所です。自覚の線引き、感情の閾値、価値付け。A氏が誰かに「殺意を抱く」のと、B氏が「殺意を抱く」のは、同じ現象か。それを客観的に調べる尺度をどう作るか。
訊き方によっては、回答者が、「ああ、そういえばあれは”殺意”なのかなあ」と考える、そういうバイアスも掛かるかも知れません。親に全く反抗心を懐いた事の無い人はあまりいないでしょうし、そういうのを「殺意」と「再解釈」する可能性は、あるでしょう。後から情報を与えられて意味付けし直す、というのはよくある事です。それが感情のあり方に作用を及ぼす事もあると思います。
この記事で一番押さえておかなくてはならないのは、
赤沢研究員は「本気で殺意を抱いた若者は、ごく少数の可能性があり、慎重な判断が必要」とした上で、「高頻度で殺意を抱く傾向が全体の3%にみられたことは気がかりだ。家庭や学校などでの生活背景を調べ、対策に生かしたい」と話している。
ここであって、色々な観点から分析して総合的に考える必要がある訳ですが、見出しのインパクトは大きいかも知れません。これを不用意に、「今時の若者」とか「心の闇」に結び付けたりね。
見るべき所は、ネガティブな感情を懐く頻度の方かも。頻繁にそうなるという事は、親子関係が良好で無いのを示している訳だから。
サンプルをどのように採ったか、とかが判らないから、どこまでこの結果を一般化出来るかは不明。この記事から確実に言えるのは、「調査した900人の内、○○に殺意を懐いた事があると回答した人は△△%だった」、くらいですね。
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茂木さんを「駄目」と決め付ける人ってやっぱりいるんだね(追記あり) - 諏訪耕平の研究メモ
ublftboことTAKESANです。
えっとですね。
黒影さんの福岡氏批判が「よく分かりませんでした。」と仰っているのに、批判の際の言葉の使い方について指摘するのはどういう事なんだろうな、という事なんですね。内容の妥当さが解らないのですから、強い言葉で批判しているのが妥当かどうかも、そのままでは判断出来ないですよね。
たとえば、森昭雄氏(ゲーム脳を主張)に対して、「まともな研究者では無い」と言うのに、何の躊躇いもありません。科学研究を業とする人間が、まったく正当な手続きを経ずに実証されたと言い、それを流布しているのですから。そしてそれは、”「デブにデブって言うのは当然」とは思わない。”などという話とは、全然違う話なのでは。何について語っているか、どのような事を主張しているか、そして、主張している人間の属性が何であるか、という所を考慮しないで、具体的な言葉遣いそのものをどうこう言うのは出来ないでしょう。
後、NATROMさんのコメントは、多分、福岡氏のような方に対して掛かっていますね。
要するに、批判の内容を吟味しないのに、言葉遣いの強さ等に関して評価してしまっている訳です。まさか、批判の際には一般に、「まともでない」等の表現は使うべきでは無い、という意味なのでしょうか。だとすると、それには同意は難しいですね。何かを主張する事は、誤った知識を広めたりする危険性を伴っている訳で、時には、物凄い悪影響を及ぼす場合もあります。何となく信じかけているかな、という人ならともかく、主唱者であったり積極的に広める人であったりに、それなりの批判を加えるのは、全く構わないと考えます。
ですから、もし黒影さんの書き方に批判を加えるならば、その言葉遣いを使って批判するほどのおかしな説を福岡氏は主張していない、というのを示しながら行うべきでしょうね。そうじゃ無いと、単に、「まともでないとか言っちゃいけないよね」、という話にしかならないと思います。
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ここ数ヶ月の間に、産経・読売・毎日の各紙で、ゲーム脳説が紹介されました。いずれも(書き方に違いはあるけれども、ある程度傾向は一致していると言えるでしょう)、それが、他の科学的な仮説や実験研究と同等であるかのような、紹介の仕方でした。
これは実は、かなり異様な事であると言えます。
ゲーム脳は、そもそもニセ科学です。つまり、きちんとした研究を行ってすらいないのに、実証されたと言っているものです。研究は妥当だろうけれども主張が行き過ぎている、というものでも無いのです。あらゆるレベルで、科学的には「説」にすらなっていないもの。それを、中立・公平を努めようとしているのか何なのか解りませんけれど、「批判もある」、というかたちで紹介しているのです。これは、明確に「間違っている」と言える。
ゲーム脳は、ちょっと調べれば、実態が解るものです。それこそ、早ければ数十分で気付けるような代物。いや、気付かなくてはならない、と言った方が良いでしょう。何といっても、新聞記事なのですから。
ゲームの影響について、本当に中立・公平に論じたいのなら、ゲーム脳を持ち出すのは、筋が悪いのです。これは、かなり穏当な表現ですが、率直に言うと、調べるのをさぼっている、あるいは、一定水準以上の能力を持っていない、という事でしょうね。それを言い切って良いほどのものなのですよ、ゲーム脳というのは。
このような主張を、ゲームを擁護したいがための意見だ、と読むのも自由ですけれど。目を逸らせば楽だから、勝手にそうすれば良い。間違っているものには間違っていると言い続けます。まあ、文字通りにとれば、私は「ゲームを擁護している」訳ですが。不当に非難されているものを護りたいと思うのは、当たり前の心理です。
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秋葉原通り魔事件 ~ 人生はリセットできない / SAFETY JAPAN [松村 喜秀氏] / 日経BP社
本当に下らない記事。戯言です。ふざけている訳では無く本気でこのような言を撒き散らす事に、戦慄を覚える。
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なんでこのエントリーが受けるのか、よく解らなかったりするけれど。
言語論的な所は、id:dlitさんにお任せするとして。
というのは、マンガ家を見て知れることの一つは、「画力のあるマンガ家は、話も面白い」ということだからである。
絵はめちゃめちゃうまいが、話は穴だらけ、とか、ストーリーは抜群だが、デッサンがどうも狂っている・・・というようなマンガ家は(あまり)いない(青木雄二くらいである)。
なんという適当な。世の中に、どのくらいのマンガがあるのかと。当然、「売れている(売れた)マンガ」と「面白いマンガ」は同義では無いですよね?
ところで、私なんかは、「そういえば、”デッサン”てよく聞くけど、実際はどういう意味なんだろうな。」という風に思ったりします。何となくイメージは出来るけれど、専門的にどう使われているかは、全然知らないんですよね。
大友克洋、鳥山明、井上雄彦・・・ワールドワイドに画風のフォロワーを有しているマンガ家たちは、いずれも創造性あふれる抜群のストーリーテラーである。
で、内田氏が、「画力」をどれくらい判断する事が出来るんだろうな、なんて。その前に、「画力」とはなんでしょうね。話の流れ的に、「デッサン」の巧緻さと同義なのかな? 通常、こういうメタフォリカルな表現(○○力とか)は、色々な要素を複合させた概念として用いるけれど。整っていなくても「画力がある」というのもあるって事? それとも、「デッサン」が巧みである事が、高い「画力」の必要条件って意味なのかな。もちろん、「面白い」も複雑な概念である事は、言うまでもありませんが。
あ、「○○脳」というのをエントリーのタイトルにするのも、流行を押さえてますね。もう過ぎ去った感も無きにしも非ず、だけれど。
だ、だめだ。一部のコメントの意味が全く解らない…(なんかカオスだなあ)。
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ZAKZAK:“ゲームと無差別殺人”両者に因果関係はあるのか?
もう言っていいですよね。馬鹿であると。
一応書いておきますけど、犯行に至ったきっかけにゲームがなったか、というのは、「解らない」です。そのメカニズムの「解明」が可能なのかすら、解らない(私は不可能だと思っている)。そして、仮に、ゲームが影響を与えていたとしても、「ゲームと無差別殺人に因果関係がある」とは言えない。ものすごいミスリードです、この見出し。
ジャーナリストの井上トシユキ氏
この人も自重しようよ。
ところで、「東方」って、基本的に、シューティングを指すのですよね?(正確には、作品群を表すのかな?)「美少女らがナイフや弾丸を敵に浴びせて倒すゲーム。」なんて表現も、ミスリードだよね。ドラクエを、「剣等で怪物を殺戮し強奪し、他人の家に盗みに入りながら物資を調達していくゲーム」、と言うようなものでは?
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アルファさんに教えて頂きました⇒秋葉原の無差別殺傷事件「銃刀法規制に賛成?」「反対?」 - MSN産経ニュース
ひどいですね。
めちゃくちゃですね。
アンケートフォームはここです⇒産経新聞特集部 私も言いたい
ダメですね。
まず初めに、思いっ切り印象をネガティブな方向に誘導している。
全部回答必須の上、イエスかノーの2択。そして、質問がひどい。
青少年に悪影響があるゲームソフトを取り締まるべきですか
これをノーとは答えないでしょう。悪影響がある、と言ってるんですから。だから、ここに答えられない人は、回答を止めるでしょう。で、1つ回答出来なくなると、全部回答必須なのだから、送れなくなる。そうすると、質問に疑問を感じない「素直」な人はイエスと答え、イエスの割合が大きくなる。当たり前ですね。
しかも、メール等で回答を依頼するのでは無く、アンケートフォームでの募集だから、無回答というのが無い。こんなので、「n=○○」とかそれっぽい事は書くなよ。
下らないアンケートです。
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秋葉原の事件に関して書かれたWEB上の記事を、調べてみました。
ここでは、ゲーム等のサブカルチャー、あるいはインターネットに言及していたり、「識者」と呼ばれる人のコメントが載っているものを、ピックアップしました。※ゲームという単語が入っているものも貼ります。「ゲームのような」、というアナロジーを用いて犯人の心理を推測している記事もありました。
新聞社の記事なので、その内削除されるものもあると思います。
○社説 - [秋葉原通り魔]動機の解明を急ぎたい : 南日本新聞
さらに、インターネットの携帯電話サイトの掲示板に犯行を予告する書き込みをしていたという。その内容は「途中で捕まるのが1番しょぼいパターンかな」などとゲームを楽しんでいるようだ。人を殺すことへのためらいがまるで感じられない。
自身の状態をゲームに擬えていた、というのはあるかも知れない(単なるアナロジーだから)。だが、「ゲームを楽しむ」というのと同様の心情であっただろうか。
○福井新聞 - 論説(6/10分を参照)
仮想現実と孤独がミックスしたような世界で現実とのギャップを感じたとき、私たちが想像もできない行動に出る。
意味がよく解らない。
○福井新聞 - 越山若水(6/10分を参照)
最近相次ぐ無差別殺人に、生身の命とゲームの命の区別も付かないのかとがく然とする。
区別がつかないのに、何故生身の人間を狙うのだろうか。違いが判別出来ない、というのでは無く、重み付けの話か。
○東京新聞:現実の世界で生きているようで、実は携帯サイトの掲示板の世界…:社説・コラム(TOKYO Web)
匿名化を広範に許すネット社会では自分の行為に対する倫理的判断が麻痺(まひ)状態になる。作家の柳田邦男さんはこう分析している。思いやりの心の摩耗と言ってもよかろう。自分はどうか。心に尋ねている。
この文脈で匿名性云々を出す意味が解らない。
○福島民報 | 論説・あぶくま抄:無差別殺傷 動機解明を(6月10日)
子どもはテレビゲームでの殺傷場面に慣れ親しむあまり、仮想現実と現実との区別がつきにくくなるケースもあるという。
ケースもあるという、とする根拠は? その前に、仮想現実と現実との区別がつきにくいというのは、どういう状態なのだろうか。本当に虚構と現実の区別がつきにくいという状態なら、全く文脈が異なってくるはず。
○さきがけonTheWeb|北斗星(6月10日付)(秋田魁新報社)
▼凶器はダガーナイフだった。ダガーとは英語で「短剣」を意味する。過去に欧米で決闘用に使われ、アニメゲームにも頻繁に登場する武器という。男がアニメマニアだったかどうかは不明だが、どこかおぞましいものを感じる
アニメやゲームに頻繁に登場する、と言い切れるかも疑問だが、「男がアニメマニアだったかどうは不明」というのは何を意味するのか。そうだったと判明した場合、アニメやゲームと凶器の選択が密接に関連していた、という事か。
○【秋葉原通り魔事件】凶器のダガーナイフ 高い殺傷力 - MSN産経ニュース
ダガーナイフは、有名なゲームソフト「ドラゴンクエスト」などにも“アイテム”として登場、ゲーム好きの面を見せる加藤智大容疑者(25)をひきつけた可能性もある。
ダガーと聞いて『ドラゴンクエスト』を思い浮かべる人が多いほど、当該ゲームにおいて「ダガー」などという語は頻出しないと思われる。出てくるだけでよいのなら、無数のゲームが挙げられる。そもそも、『ドラゴンクエスト』では、武器のグラフィックはほとんど登場しない。武器の構造的な特性も同様。
※他ページからのリンクは、「【秋葉原通り魔事件】凶器のダガーナイフ ドラクエの“アイテム”にも」となっている。
○「ダガーナイフ」銃刀法改正も検討へ : 秋葉原無差別殺傷 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で使われた「ダガーナイフ」は、人気ゲームで主人公が使う武器として登場するなど、若者の人気アイテム。
ダガーというゲーム中のアイテムが人気なのか、実際のダガーナイフが人気なのか。人気だからダガーがゲームに使われるのか。ゲームに使われているから実際のダガーナイフも人気なのか。そもそも、ゲーム中で注目されるアイテムとしてダガーが位置付けられているなど、ゲームユーザーの立場からすると全く考えられないし、聞いた事も無い。若者にダガーナイフが人気だという話も初めて目にした。
人気ゲームで使われている=それ自体が人気 には全くならない。
文章が読解不能。
○asahi.com(朝日新聞社):使用ナイフは人を刺す武器用 規制は一部 秋葉原殺傷 - 社会
ゲームでも武器として登場し、若者にも人気がある。
読売の記事と同様。「人気」とはどういう概念なのか。
○ZAKZAK(夕刊フジ)
アニメやゲーム、オタク等の言葉をネガティブな印象に誘導している。情報として書くべきものなのか疑問。
ダガーナイフは、中世ヨーロッパの騎士が身につけていた両刃のナイフ。俗に言うドスなどに近いサイズ。大ヒットゲーム「バイオハザード」で敵キャラを倒す武器として登場。キャラクターの成長を楽しむロールプレイングゲームの草分け「ドラゴンクエスト」では、ゲーム内の仮想ショップで自由に購入できる。
加藤容疑者が犯行当日に友人に送った萌え系ロールプレイングゲームにもダガーナイフに似た両刃のナイフが登場していた。
ゲーム内だから「仮想ショップ」なのは当たり前。そもそも、ゲーム内の店で武器が購入出来るなど、大部分のRPG(ロールプレイングゲーム)に共通している事だ。意味不明な言葉の使い方。
萌え系のRPGとは何だろうか。「ダガーナイフに似た」、とすれば、どうとでも言えるのでは。諸刃の短剣ならば、全部似ていると言える。鞘付きの短剣等は、よく出てくる。
少ない情報から犯人の心理状態・精神構造を論じている。推測の域を出ない。心理臨床においては、様々な検査・面接等の方法を組み合わせて用いて対象にアプローチしていく。それも、妥当性や信頼性を科学的な手続きによって確認した方法によって、である。
このような、「識者」による心理の分析もどきが、果たしてどれほど有用なものとなるだろうか。ある特徴を持っている人が何かをしたとして、その特徴を持っている全ての人がそうである、とはならない。また、「何かをした」のはその特徴を持っているからだ、と断定は出来ない。
こういった分析は、様々な前提・仮説が全て正しい場合に成り立つ推測であって、それ以上のものでは無い。偶然当たる事もあるし、全く合っていなくとも、情報が少なかったという言い訳が出来る。
本当に真摯に考える人ならば、「情報が少なくて何も言えない」、となるはずだろう。「ネット事情に詳しいジャーナリスト」が、何故精神分析のような発言をしているのだろう。
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別の件についてのエントリーのコメント欄で、秋葉原の通り魔事件について書いていましたが、別エントリーを立てます。元エントリーのコメント欄はこちら⇒Interdisciplinary: またか#comment-51059993
以下は、アルファさんへのレス。
アルファさん、今晩は。
メーカーや関係者が事件そのものについて何か言う、というのは、今の時点では無いかも知れませんね。
小島監督は、比較的、こういう事については発言される方だと思うので、ある程度時間が経って、何か発言するかも知れません(今語らない方が良いと思ってます。注目度が高過ぎて、要らぬ混乱を呼び起こしそう)。
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意識調査:B型は4人に3人が「血液型と性格は関係していると思う」 -BLOGCH-
理論的には、ある血液型の人が、より興味を持ちやすい、というのは、あり得る事ですね。特定の血液型の人の性格がネガティブに言われていたりすると、その血液型の人が気にしやすくなる、というのはあるでしょう。
ただ、この調査結果から敷衍して、それが一般的に言える、と結論は出来ませんね。
そもそもが、「同社が提供するサービス会員をパネラーとするリサーチ結果」であるので、サンプルとしては、偏っている訳ですね(日本に住む人の傾向を知りたいという観点からすれば)。
もう一つポイントなのが、質問内容。
3件法で、「大いに関係があると思う」・「多少は関係があると思う」・「関係はないと思う」という選択肢ですね。血液型と性格の関係の度合など、明確に意識している人がいるのかな。「大いに関係がある」と答えるのと、「多少は関係がある」と答えるのが、明確に異なるのか。定義もしにくいですしね。だから、関係はないという答え以外の割合を加算して単純に比較し、それで各血液型ごとの傾向を言うのは、ちょっと難しいでしょう。
もし私がこの質問に答えろと言われたら、困りますね。血液型と性格に「関係がある」という文の意味が判然としないから。まあ、文脈から、血液型で性格が当てられる程度の関連がある、というのを訊いている、と推測は出来ますが、それは措いて、文字通りに読むと、私は、答えられませんね。何故なら、「関係ない」とは言う事は出来ないから。選択肢に「わからない」があれば、まだ良いんですけどね。注意深く考える人なら、「別に信じてはいないけど、関係無いとは言い切れないかなあ…」、という風に考察するかも知れません。
こう書くと、そんなに細かく考えずに答えれば良い、と言われるかも知れませんが、大部分の人がそう思ってて答える事で、調査結果が信用に値しないものになってしまうのですよね。割合など簡単に変わる。
私は、どちらかというと、年代別の傾向に興味があったりしますけど。
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某ブクマ経由⇒【Re:社会部】夢を推したアニメ - MSN産経ニュース
その意味で、現在のアニメが将来の科学技術力を占うのかもしれません。しかし、近年話題に上るのは、いわゆる美少女系ばかり。若者の理工系離れの一因は、案外こんな所にあるのかもしれません。
劇的に噴いた。
いや、何を目指すか、というのに、好きだったフィクションが影響するのはあり得るのかも知れませんけれど、それにしても、後半は、飛躍し過ぎじゃないかな。
そもそも、「近年話題に上るのは、いわゆる美少女系ばかり。」、という部分の意味が…。美少女系って何、とか、話題に上ってるのか、とか。しかも、それが理工系離れの一因て…。
居酒屋談義ならともかくねえ。ジョークの類じゃないですか、これ。
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劇場版 宇宙戦艦ヤマト DVDメモリアルボックス 販売元:バンダイビジュアル |
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マクロスF(フロンティア) 1 (Blu-ray Disc) 販売元:バンダイビジュアル |
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マクロスF(フロンティア) 3 (Blu-ray Disc) 販売元:バンダイビジュアル |
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Omnibot 17ミュー i−SOBOT 販売元:タカラトミー |
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また齋藤さんか…。見てみようかなあ。
CM、ネット、ゲーム……「高度刺激社会」は加速し、特に子どもたちを襲います。齋藤氏は、そのような脳を興奮させる生活から、少ない刺激の中で豊潤な満足感を得る、“態度の転換”の必要性を訴えます。
へえ。
| 退屈力 (文春新書 628) 著者:齋藤 孝 |
って、amazonのレビュー見てたら、
「子供もスパイシーなものを求めるようになってきた。これは食文化の世界においても、やはり刺激を追及するようになったあらわれだ。」
…。これは引用? 要約? どっちにしても、凄い内容。
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「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
この論法だと、大部分のフィクションが、成立し得ないですよね。
フィクションとは、多かれ少なかれ、ステレオタイプを用いて組み立てられて行くものなのだから。
番組作りを再考するという意見が説得力を持つには、相当な強い証拠が求められるでしょう。当然、『ごくせん』を観る事によって不勉強を正当化する人間が多い、という証拠です。
ちなみに、ネタ元は読んでいないので、どんな「データ」が示されたかは、把握していません。
勉強しない事を正当化するのが問題だとは私も思いますが、テレビを観て正当化「している」かどうかは、別の現象でしょう。
現実に即して物語を構成しなければならないのだとしたら、実につまらないな、と感じます。
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美少女アダルトアニメやゲームの規制嘆願が提出される | デジタルマガジン
このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。
これはひどい。
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きれいな日本語意識高まる 旺文社の小中高校生調査 - MSN産経ニュース
そりゃあ、綺麗な方が良いかどうか、と訊かれれば、肯定するんじゃないか。見事な誘導に見えるけど。「きれいな日本語でなくともよい」、という訊き方とか。こういう場合に、「何を訊かれているか解らない」から答えない、なんてのは、私みたいなへそ曲がりくらいでしょう。
しかも、検定を受ける人達は、平均よりも言葉の用い方について関心が高い、という推測も出来ますね。
「きれいな日本語を話していると思う」という質問に「はい」と答える人がいるんだね。驚き。言葉について意識が高い人は、要求水準が上がるから、肯定しないんじゃないかな。肯定する人は、余程の自信家なのか…。
それからね。
言いたい事が伝わるかどうかは、言葉の選択の仕方と相互作用してるんじゃないの?
「歌が巧ければ、声が良くなくても構わない」、という質問みたいだ。
旺文社のニュースリリース(PDF)⇒~旺文社「第5 回ことばに関するアンケート」集計結果~
小・中・高校生 約10,000 人が回答 「きれいな日本語を使おう」 意欲高まる
こういう性質のアンケートで、経年の割合の変化を単純に比較して、意味があるのかなあ。
って、
あなたは、日本語が乱れていない方が、言いたいことを相手にきちんと伝えられると思いますか?
こういう質問もちゃんとあるのね。て言うか、Q4とQ5が…。Q5は、「乱れていない」なんだね。ややこしい。「乱れている」という概念は、直前の質問にある「きれい」の反対なんだよね? ここで言う「乱れていない」と「きれい」は、同じ意味なの?
あなたが日本のことをまったく知らない外国人に、一つのことば(一語)で日本を紹介するとしたら、
どんなことばを使いますか? あなたが日本をイメージすると思うことばを、一つだけ挙げてください。
全く知らない人に、一語で紹介するのは不可能です。富士山とかなんとか、それで説明するのは、相手が日本を知っている、って事じゃないですか。まず日本行きのチケットを渡すべきだ。
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はてなブックマーク - なぜいつまでも水伝? - uumin3の日記
ちょとよく解らないので、引用しつつ感想を。
以下のような杜撰な実験には大した意味がないんだということは子供にもわかるのではないかと。
子どもどころか大人でさえ真面目に受け取る人がいる、という所が問題になっているように思います。それこそ、ブログ検索でもしてみれば、そこそこの数の人が肯定的に受け取っている事は、確認出来るかと。
それから「よい言葉」をかける云々全般については、なぜ日本語に反応しているのか、というあたりで問いかけて見ればいいのではないでしょうか?
水伝は、どんな言語でも、良い意味を持つ言葉であれば水は反応する、という説明をしていますね。もちろん、それ自体無茶な設定なのですが、信ずる人はそれでも信ずるのであって…。
そしてそれでもなお、という人が本当に今でも多いのかということについてはこれこそ検証しなければいけないことではないかとも考えます。
これは、よく出てくる事ですね。うーん、必ずしも、量的な所、つまり、「信じている人が多いから」、というのを批判の根拠にはしていないですね。教育現場に用いられた事、超有名芸能人がテレビで紹介した事、バラエティ番組で紹介された事、等が、かなり重視されていますね。それに、日本以外にも広く知れ渡っているようです。ところで、「多い」というのを、どのように評価するのでしょうね。推定をして、このくらい信じている、というのを調べる、って事なのかな。どのくらいいれば、「多い」と判定するのでしょうか。
水伝本が売れたのはもう2、3年前の話。そして具体的な水伝を広めようとした事例も、もう1、2年前のものが多いのではないかという印象も受けました。
最近、江本氏の本が文庫化されましたね。講談社の。広めようとした事例が1・2年前のものが多い、と判断されるのが、よく解らないですね。今の方が少ないという判断は、どのようにしてなされたのでしょう。いや、まあ、印象と言っておられますけれど。
で、その流行はどうなったかといえば、結局どれも数年で火が消えたように祀り捨てられているわけでして、もしかしたら水伝についてもその類のものではないかという感触がないではありません。
あと1、2年も放っておけば、自然に消滅してしまうようなものではないかという印象が強いんですよ。それこそ何か陰謀的なものがない限り、私でしたらほとんど消えるほうに賭けたい話ですね。そういう妙な危惧(陰謀論につながりかねない不安みたいなもの)も批判なさる側に実はあるんじゃないかと思えたところもちょっと…ということなのでした。
まず後半。陰謀論に繋がりかねない、というのが何を指しているのか…。もしかして、玄倉川さんが書かれたような、ニセ科学を広める陰謀がある(というのを言い出す人が出てくる可能性)、的な話? 違うかな。ちょっと読み取れません。
前半に関しては、事前にそういう評価を行うのは難しいんじゃないかと。ゲーム脳も最初、ほっとけば消え去る、というように捉えられていましたよね。特に業界も動かなかったし。その結果がどうなったかは、まあ、言うまでも無い事です。ですから、放っておけば消える、という見立てには、ちょっと首を傾げてしまいます。
て言うか、水伝は、ここ2・3年で広まった訳ではありませんよね。批判活動が目立ってきたのがここ2・3年だ、という事なのでは。
水伝が採り上げられた事例としては、某ブクマ(カテゴリー:水伝)とかwiki(芸能人が紹介した例)が参考になるかと思います。
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はてなブックマーク - 臨時ブログ 「水伝を受け入れる人」=「自然科学を絶対視する人」
絶対視している、というより、都合の良い所に科学というものを持ち込みたがる、という感じかな、と。主張が先にあって、それを正当化すべく、「科学」を恣意的に利用する訳ですね。その実態は、科学でも何でも無かったりするのですが。
やっぱり、基本的な所で、科学に対する信頼は持っているのだと思います。明確なイメージは無くとも、自身の生活が科学技術に支えられている、という直観はあるのでしょう。だから、自分が信じている説に「科学的な裏づけ」があると「聞く(見る)”だけ”」で、「安心」するのだと考えられます。ゲームばかりやる子どもに手を焼いている人が、「ゲームで前頭前野の機能が低下する」、というのを聞いただけで安心(そして、新たに不安を感ずる)するように。
水伝を受け容れる人は、「言葉を絶対視したい」人、なんじゃないかな。そして、水伝を積極的に広める人は、「言葉を絶対視出来るように自然科学を利用する」人。
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人間、いつ騙されるかわからない。自分は騙されないだろう、なんて考えてはいけませんね。
私、ずっと前に、友人と一緒に絵を見に行った事がありまして。
まあ、顛末はあんまり詳しくは書けませんけれど(私が絵を買った、というのは無いです)、あれです。シルクスクリーンをすっごく高く売る、ってやつです。
当時は絵画商法なんて知りませんし(て言うか、ごくごく最近知った)、数十万が相場と言われると、へえ、そういうもんか、と思う訳ですね。まあ、販売員?の巧みな事巧みな事。雰囲気に呑まれて、好きな人の絵だという先入観もあり、専門の人の言っている事だから信頼出来るのだろう、という心理を持つのですよね。
その頃は、ネットもほとんどやって無かったくらいだから(むしろ、ネットなんて危ないものだと思い込んで、避けていた)、特に調べようともしませんでした(悪マニなんて知ってるはず無い(笑) )。友人に付き合って行ったのだし、そもそも、不当に高額であるなんて、考えもしなかったのですねえ。私自身は、結構しつこく売りつけようとするものなんだなあ、とは思いましたが(疑りやすいのは前から)、まさか、金額そのものが妥当では無いなんて、ねえ…。
一緒に行った友人も私も、かなり懐疑的な人間だし、注意深く他人の言う事を聴く方ですが、それでも、気付かないのですよね。と言うか、あれは気付きようが無い。その部分に関しては、疑うなんて「微塵も」ありませんでした。後で調べると、なるほどなあ、と思えますけれどね。巧妙です。販売員は洗練された感じで、雰囲気の作り方、話術の上手さ等、なかなかのものです。
今ならね。WEBで色々調べて、適正価格はどんなものか、とか、どんな商法があるか、とか、色んな事を調べると思うんです。それは結局、「アンテナを向ける」という事だし、何かする前にワンクッション置く、という事でもあると。
ニセ科学にしても悪徳商法(こちらについての知識はほとんど持っていません)にしても、よく解らないものについては措いとく、というのが重要ですよね。でも、「よく解らないというのを”解る”」には、それなりに考えていなければならない訳です。実際、展示会に行った時の私は、絵がそもそも適正価格ですら無いなんて所は、ほとんど考える事すら出来なかったのですから。
なかなか気付けないんですよね、知識無いと。
だからね。
「知らせる事そのもの」も、重要なんだと思うんですよ。色々なパターンを示していく、というね。ちょっと調べたら情報が出てくる、という状況を作る事が。
科学や社会の基盤となる知識を蓄える事と、様々な具体的な事例を知る事。これ、両方大事なんじゃないかな。
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ニセ科学に関して、「呪術」という概念からアプローチされているエントリーがあって、はてブも結構ついていたり、poohさんが言及なさっていたりしますね(元々poohさんは、こっち方面のアプローチをよくされる)。それについて(分野としては、人類学とか民俗学とかになるのかな?)の知識が無い私は、読んで、なるほどなあ、と思います。
重要なのは、合理的・論理的であるからといって、即、それが科学的である訳では無い、という所かと思います。これは結構前から、何回か書いています。
Interdisciplinary: 科学的、合理的、論理的(他にもいくつか書いたはずだけれど、見つけるのが面倒…)
コメント欄に、「木を切ったら風が止むのでは」、という推論を子どもがした、というエピソードを書いていますが、これは、実に「合理的」な思考だったりする訳です。ですが、「科学的」では無い。それまでに実証的(実証という概念をどう考えるか、というのも、物凄く重要なトピックだと思いますけれど)に確認された知識と整合するか否か、という点を考えなければならないからですね。それぞれの分野が完全に独立している訳では全く無いのですから。
超能力捜査も水伝も、それなりに論理的ではあるのです。他の物事を無視すればね。
科学って、やっぱり優れているのですね。現象の構造を解明したり、予測や制御に応用したり、という目的を考えると、やはり、他の文化とは違う、と言っていいかと思います。それをまず認識するべきなんじゃないかな。
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物事には、色々な面があります。
調理器具である包丁は、人間を殺してしまう道具としても、使えてしまいます。
薬は、医者によって病気を治す手助けにも使われますが、身体に害を及ぼす物ともなります。麻薬なんかがそうですね。
「言葉が水に影響を与える」、という説があります。
水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説です。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張されます。
この説を言い出した人、また、それを広めようとする人は言います。
良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。だから、良い言葉を用いましょう、と。
つまり、言葉によって水が変わるのだから、多くの部分に水が含まれている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事ですね。
この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるといいます。「良い言葉を使わせよう」という目的のためにとても良い教材だ、と考えられているのでしょう。
ここでは、水が変化する、という前提があって、そこから、良い言葉を使わせるように促す、という「教育」の流れが想定されています。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、というやり方です。
この説は、言葉が、物としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というもので、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「喩え話では無く」主張している事になります。
AとB、2人の子どもがいる、と仮に考えてみます。
AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という説を信じました。
Aは、良い(と社会の多くの人が考えている)言葉をどんどん使っていこう、と考えました。
Bは、自分が好きで無いと思っている人に対して使えるのではないか、と考えました。簡単に言うと、「他人を攻撃する道具」として理解した、という事です。
これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いです。でも、その違いは大きいのです。
Bのような考えを持った人が、Aのような人に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるでしょうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳です。当然、良い言葉・悪い言葉、がどういうものかは、社会的に共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として働きます。これは、普通に考えられる、「言葉で傷付く」、という話では無く、ちょっと次元が違います。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む、物としての人間にも影響を与えるだろう、という考えを持っているのですから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体を直接壊してしまう、と思ってしまう可能性が考えられるのですね。
人間は、物事の片方の側面だけを見て、他の面には目が届かない事があります。
良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈です。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という考えです。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無い事です。素朴であるからこそ、相手の心をちゃんと考えず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性があります。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良いでしょう。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じています。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛けます。さて、どのような事が起こり得るでしょうか。想像してみて下さい。
ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学的に確認されたと言っているが、実はそうでは無いもの)であるとして批判されているものですが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのです。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っています。一見、寛容で善意に満ちた論であるようですが、その実は、言葉の特徴である「恣意性」(音や文字と意味が直接結び付いている訳では無いという性質)を無視して、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのですから。
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物事は悉く、両面的な価値を有している。
調理器具である包丁は、人間を殺害する道具としても機能し得る。
薬物は、医療に用いる事も出来れば、身体に重大な害を及ぼす物ともなる。
「言葉が水に影響を与える」、という説がある。
水の入ったビンに声を掛ける、また、文字を書いたラベルを貼り付ける。そうした後にその水を凍らせれば、言葉に応じた結晶を形成する、という説である。良い言葉、たとえば「ありがとう」であれば美しい結晶が出来、「ばかやろう」という悪い言葉であれば、崩れた結晶が出来る、と主張される。
この説を提唱した者、あるいは流布する者は言う。
良い言葉を用いれば、水は綺麗になる。従って、良い言葉を用いましょう、と。
即ち、言葉によって水が変わるのだから、大部分が水によって構成されている人間にも良い言葉を掛ければ、好ましい結果になるに違い無い、という事である。
この説は、学校の道徳教育にも用いられるケースがあるという。「良い言葉を使わせよう」という目的を達成するに恰好の教材である、と看做されているのであろう。
ここでは、水が変化する、という前提を置き、そこから、良い言葉を使わせるよう促す、という「教育」の流れが想定されている。つまり、「いい言葉で水が綺麗になるんだから、普段きちんとした言葉遣いをしましょうね」、「乱暴な言葉では水が汚くなるから、使ってはいけませんよ」、という説得の方法である。
この説は、言葉が実体としての人間の身体に、直接的に影響を与える、というものであり、「良い言葉は人間の身体を綺麗にする」、「悪い言葉は人間の身体を汚くする」、というのを、「比喩では無く」主張している事になる。
AとB、2人の子どもがいる、と仮定してみよう。
AとBはともに、水に言葉が影響を与える、という主張を信じた。
Aは、良い(と社会的なコンセンサスがある)言葉を積極的に用いようという意識を持った。
Bは、自分が好ましく無いと思っている人間に対して利用出来るのではないか、と認識した。端的に言えば、「他者と攻撃する道具」として認識した、という事である。
これは、物事の両面のどちらに光を当てるか、という違いである。しかし、その違いは大きい。
Bのような認識を持った者が、Aのような者に対して「悪い」言葉を投げ掛けたらどうなるであろうか。Aは、言葉が水に影響を与える、と信じている訳である。当然、良い言葉・悪い言葉、というのは、社会的にある程度共通しているから、Bの投げ掛けた言葉は、Aにとっては「武器」として機能する。これは、一般的に言う所の「言葉で傷付く」、という次元の話では無い。水に言葉が影響を及ぼすから、水を含む人間にも実体的に影響を与えるだろう、という認識を持っているのであるから、投げ掛けられた「悪い言葉」が自分の身体をダイレクトに破壊する、と認識する可能性が考えられるのである。
人間は、物事の片方の側面だけを見、他の面には目が届かない事がある。
良い言葉は水を綺麗にするから良い言葉を用いましょう、というのは、人間が善意で動くという前提があるからこそ成り立つ理屈である。それは、人間が素朴であり、良いとされる事をそのまま受け容れる、という論理だ。しかし、人間の心理がそのような単純なものでは無い事は、言うまでも無いだろう。素朴であるが故に、相手の心を忖度せず、「無邪気」に言葉を投げ掛ける可能性がある。特に、「信じた程度」に差があった場合の事を考えてみると良い。片方は、言葉によって人間の身体が強く影響を受ける事を信じている。片方は、それほど本気で信じた訳では無く、「面白半分」で色々な言葉を投げ掛ける。さて、どのような事が起こり得るであろうか。想像してみて頂きたい。
ここで採り上げた説は、昨今、ニセ科学(科学であるかのように主張されているが、実態が異なっているもの)であるとして批判されているものであるが、それ以前に、言葉というものについての考え方としても、道徳的にも、大変に問題のある説なのである。素朴な言語観・人間観に基づいたこの説を道徳教育に用いるのは、誤っている。一見、寛容で善意に満ちた論であるようだが、その実は、言語の特徴である恣意性を無視し、言葉と意味が緊密に対応し、「”美しく無い”言葉を使うべきでは無い」という、極めて排他的・不寛容な主張なのだから。
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うん、やはり、ある程度の数の人が、信じていますね。放送当日に検索した時には、2つ3つしか見つけられなかったけれど。
さんまさんの番組だから、というのは多分、採り上げられた説の信憑性の評価には、それほど強く関わってこないんじゃないかな。で、江本氏に対する「専門家」という先入観が、それなりに働くかも知れない。
うーん、悩ましいものですね。
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硫化水素を用いた自殺関連の報道を見ていて思うのですが。
戦慄を覚える。
何にって?
マスメディアの「無邪気」さに、です。
正直、気持ちの悪さを感じる。
シャレにならない悪戯をした小学生が、全く悪びれないであっけらかんとしているのを見るような、そんな感じ。
平気で他の子に責任をなすりつけているのを見ているような、そんな感じ。「知らないよ。あの子じゃないの?」と言っているような、ね。
報道を見ていると、確かに、硫化水素を用いた自殺の頻度が高いように思える。
そして、未だ、ネットで情報を得て…などという言い方をしている。
そろそろ、本気で考えた方がいいんじゃないか。
マスメディアの報道とネットの情報がネガティブな相乗効果を及ぼしているかも知れない可能性に。
いくら何でも、ひどさが過ぎるのではないだろうか。
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別エントリーのコメント欄にも、感想を書いたのですが⇒「トンデモ」を批判する記事を書く皆さんにお願い。
書かれてある事については、うん、そうですね、と、納得するものですね。と言うか、そうするしか出来ない。
つまり、物凄い一般論で、ある意味、「トンデモのまずさがきちんと解るような文章を書いて下さい」、と書いているに等しい訳ですよね。
個別の内容を見ても、どう考えても両立が出来ないだろうという条件が、まとめて含まれている。だって、
「美しい」って単純に言うけれどね、「美しいと思う形」を描かせたとき、皆が皆、まるで印刷したように幾何学的模様しか描かないのと、本当に一人一人が自由に様々な形を描いているのと、どちらが美しいと感じられるだろう?
これとか、凄い「婉曲表現」ではありません? 文脈による、という事なのかも知れませんけれど、そうだとしたら、「文脈によって様々な表現が考えられる」、という話になりかねませんしね。それは全く正しいけれど、あまり何も言った事にはならない。
うーん、結局、この増田を読んで、ちょっと首を傾げてしまうのは、
皆さんの記事の思惑とは全く逆に、引用されているトンデモの内容に感心して引き込まれ、皮肉なことに問題のある部分が記憶に刷り込まれてしまっています。
ここで言う「思惑」って何だろう、という所だったり(それは、書き手それぞれのものです)。そもそも、この増田を書いた方が「どういう思惑」でどのようなテキストを用いたのか、というのが解らない訳ですね。
何と言うか、材料の特性を見ずにそこら辺にある包丁を片っ端から使って切ろうとして上手くいかなかったから、どのようなものでも切れる包丁を用意して欲しい、と主張しているように、見えてしまうんですね。
やるべき事は、色々な種類の包丁を集め、それを研ぎ澄まし、きちんと使える状態にしておいて、材料に応じて適切に使っていく事、なのではないかな。
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とある10代のアイドルが、痴漢を空手の技(中段の正拳、および下段廻し蹴り)で撃退(正確には、威嚇の役割と言った方が良いかも知れません)したそうです。
さて。
このアイドルは、「暴力的」、でしょうか。
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2008-04-12 - 理系兼業主婦日記:科学、ニセ科学、グレーゾーンについて
こちらを読みまして、コメントを入れようとしたら……長文自重>自分
という訳で、こちらに書いて、TBを送ります。引用文とか、コメント欄で書いたそのままです。
------------
初めまして。
大変興味深く拝読いたしました。
kikulogの当該エントリー、確かに、どういう事を議論しているのか、等が解りにくくなっている所がありますよね。深く考えると、抽象的な議論に踏み込まざるを得ないとは思うのですが、具体的な物事と結びつけて考察していくのが大切である、とも考えます。
「業界化」(きちんと意味が掴めていないかも知れませんが、ご容赦下さい)、という部分に関してですが。
多分、ある程度社会に認知され、同調する人が増えてくると、そういう印象が持たれる、というのは避けられない事なのだと思います。だからこそ、地道な議論を積み重ねて、具体的に論証をし続けていく必要がある、と考えています。
きくちさんとは、私が持っているブログでもやり取りさせて頂きましたが、そこで、
▼▼▼引用▼▼▼
ある程度広まった言葉は解釈が変えられていく宿命にあります。とはいえ、問題を社会に訴えるには、ある程度わかりやすい言葉は必要なんですよね。
「ニセ科学」という言葉が独り歩きするのを止めることはできませんが、せめて自分の言葉が届く範囲だけでも、ある程度ストイックな使い方に限定することを確認しておきたい。という感じですかねえ
▲▲引用終了▲▲(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f244.html)より引用
と仰っていました。ですから、こちらで書かれています、
▼▼▼引用▼▼▼
そして、そのことがきくち先生たちにとっては、もしかして本意ではなかったりするのかなー、などと、僭越ながら思ったりしている今日この頃であります。
▲▲引用終了▲▲
この部分は、当たっているのではないかと、私も思っています。もし、「ニセ科学批判の権威」と言われる事があれば、きくちさんご自身はそれは受け容れられないのではないかな、というのも、これまでやり取りさせて頂いて、感じています。
ニセ科学という言葉は、インパクトが強く、ある意味「解りやすい」語であるが故に、注意深く用いていく必要があるのだと考えます。
ニセ科学を信じている人なりに、どうメッセージを届かせるか、という部分について。
これは、大変に悩ましい問題です。
私は、主に「ゲーム脳」説を批判しているのですが、その「信じられ方」には、様々なものがあります。科学者が言っているから、というものや、テレビで観て何となく信じていた、というもの等。その具体的なケースを見て、どのように対応すべきだろうか、と考えるのですね。対象の論調によっては、科学的に実証されていないと直接言う事で、強く批判をする場合もありますし(その説を広めるという事自体が批判されるべきである、という場合もありますので)、特に科学という言葉を使わずに、様子を見て行う事もあります。もちろん、「それはニセ科学と言われていて…」という言い方自体をしない場合もあります。
水伝に関しては、私は本質的に、科学以前に「言葉」の問題だと思っていて、その視点から考える文章を書いたり、リンクを集めたりしています。水伝関連を考察したサイトとしては、こういうものもあります(色々な「信じ方」を想定して書かれたものです)⇒http://kameo.jp/mizuden/faq.html
やはり、「どういう層」に向けてメッセージを届けるか、というのは、常についてまわる問題なのですよね。自分のしている事は問題があるだろうか、というのはいつも自問しています。いわゆるビリーバーなのか、もっと周辺にいる人なのか、最もコアの部分にいる人(主唱者)なのか。ある層に向けたメッセージでも、それが対象にきちんと届くか、それ以外の層の人に受け取られ、誤解されるのではないか。
等々。
いずれにしても、色々な角度から、様々な議論を積み重ねていき、批判に対しては開かれた態度を採る、というのが重要なのではないかと思います。
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コメント欄のかずえもんさんは、少し誤解なさっているかも知れませんね。うーん、水伝よりも(あれは、原典を読まないと、「科学を装っている」という所が見えにくいかも知れない)ゲーム脳の方が、解りやすいかも。あれなどは、はっきりと科学的だと言っているのですよね。そして、それが躾の根拠のように使われたりする。なので、きちんと批判しなくてはならない。
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志村けん“ブログ批判”に反論「笑いは芸で取りたい」 - ネタりか
私は件のラジオは聴いていませんでしたが(たまに聴くけれど)、どうやら、そんな事は言っていなかった、という話があるみたいですね。
残念な事ですが、ブログって、悪意のある書き込みが存在するのですよね。愉快犯的な。
今回、言ったか言わなかったかは、調べればすぐに解る事だから、その内に落ち着くでしょうね。
それにしても、これって、いわゆる炎上系の話題ですが、志村さんのブログを見ると、コメント欄が、かなり冷静ですね。中には煽りのようなのもあるけれど、全体的に落ち着いていて(比較的、ですが。充分荒れてる、という見方もあるかも知れない)、感心しました。フォローの言葉も多いですしね。
後から、何らかの説明が志村さんからあるかも知れませんね。
何にせよ、誤解というのは辛いものです。今回、発言があったかは私には解りませんが、もし誤解があったのだとすれば、早く解けるといいですね。
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妻・夫の携帯番号を「おぼえていない」が6割【携帯依存に関する意識調査】(MarkeZine) - Yahoo!ニュース
何で、「携帯依存」に関する、なのでしょうね。依存というのは依存症なんかを想起させるので、他の語の方がいい気もします。
家族の携帯電話の番号とか、憶えなくても良いものだし。私は、自分のケータイの番号、忘れる事あります。まあ、ほぼ何の不便も無いですが。むしろ、憶えて無い人が58%しかいないのか、という感じ(言い過ぎ…)。
また、「携帯で電話をする場合に自分の名前を名乗るか」について聞いたところ、全回答の44%が「名乗らない」と回答。相手が分かっているので名乗らないと答える人の割合が高い傾向があるようだ。
この部分を読んで思い出した。ドラマを観ていてよく覚える違和感。
ケータイ鳴ってるのに気付いて、ディスプレイを見ずにすぐ通話ボタン押して、「もしもし」って言う場面、ありますよね。
いやいや、その前に、誰からの電話か見るでしょ、普通。よほど待ち切れないとかなら、見ずにやる事もあるかも知れないけれど。
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実は昨日、科学~非科学とニセ科学との関係を、ビジュアル的に色々考えていたのですよね。で、もう一つ、きちんと整理出来ないでいます(笑)
ニセ科学度というのは、「実際の(科学的方法を基準とした)位置づけと主張のされ方との乖離の度合い」なのかな、と思いました。
私が思いついたイメージというのは、こんな風です。※あまり厳密に考えると喩えは不可能になるので、よろしくです…。
まず、科学的方法という基準による位置づけを示す、黒~白の濃淡のある帯状の物を思い浮かべます。白は、確実に正しいと言えるもの。黒は、科学的研究対象にはなり得ないものおよび、間違っているとほぼ確実に言えるもの、です。
その上には、玉が乗せられています(形状は何でもいいけど)。その玉には、現象を説明する命題が書かれています。玉が置かれている位置は、それまで蓄積されてきた科学的・実証的方法(社会的には科学者集団のコンセンサス)によって決められています。
これらの玉には、「帯のどの部分に置かれているか」、という情報が付加されています。当然それは、研究が進んだり、それまでの研究の不備が判明する事で、変化していきます。ただし、より端に近い部分に置かれているものは、そこからシフトはしにくいと考えます。
この帯と玉の関係というのは、各専門分野ごとに存在し、専門家以外は参照が困難です。ただし、これらは完全に独立では無く、全ての分野において、最も根本には、自然科学の体系があり、それぞれの分野が立脚する基礎科学の知見があります。
さて、これらの玉がどこにあるかという情報は、色々な人によって、社会一般に伝達されます。それはもちろん、科学者であるとは限りません。
その情報が流布される際、発信者は、玉の位置情報を(意図的にしろそうで無いにしろ)偽る事があります。
元の位置情報と伝達された情報に開きがある場合、それは、はっきり指摘する必要があります。そして、その、開きが大きいものを、「ニセ科学」と呼びます。
こういう感じです。
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痛いニュース(ノ∀`):「朝からお茶漬け」のCMに違和感、栄養的にも良くはない…オーマイニュース
一日二食の私はどうすればいいんですか。
それはともかくとして。
「孤食」や「個食」を問題視するのは解らないでも無いですが(「孤食」は、各過程の事情によるだろうから、一人で食事をするのは一般的に好ましく無い、と考えるのは、私は反対です。食事以外でもコミュニケーションをとる機会はあるし、集まって食べても円滑なコミュニケーションがとれていない場合もあるし)、「粉食」はちょっと、こじつけの感が。言いたい事は何となく解りますけれど。
大食いについては、なかなか複雑な気分ですね。あのパフォーマンス自体は、凄いと思います。番組も、結構観ますし。ただ、贅沢だよなあ、とも思う。この文脈で事故(あれは大食いで無くて、早食いでしたね)の話に持っていくのは、ちょっと変な気もしますが。
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同じような事は何回も書いてますが。
そもそも「暴力」って、何でしょうね。
そもそも「有害」って、何でしょうね。
そもそも「健全」って、何でしょうね。
そういう根本的な所から考えるべきだと思うのですが、なんだか、凄く短絡的な人もいますよね。
たとえば、「暴力」とは、客観的と言うか、没価値的な概念では無いですよね。時代によって、地域によって、状況によって、何が暴力とされるかは、異なってくるのだと思います。価値判断と切り離して論ずるのは不可能。
ゲームやらマンガで暴力性が高まる可能性がある、という話が出たら、「暴力性って何だろうな」、と考えるべきですよね。そこで単純に、「なるほど、暴力性が高まるのか」、となった場合、その人が考える「暴力」が想起されると思います。そもそも心理学的には全然違う話なのかも知れないのにね。暴力性がどうなるか、というのを考察するには、そもそもそれはどのような概念なのか、という所から検討するべきなのではないかな、と。
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「漫画、アニメ、ゲームのせい」は「天狗の仕業」と同じ思考停止 - 最終防衛ライン2
何でもいいから原因を知りたい、これが原因だ、と「納得」したいのかも知れませんね。もしくは「安心」。でもそれって、不安を駆り立てる事でもあると思うのです。広く普及しているものが要因だ、と言っている訳だから。事実ならともかく、根拠が薄弱な話なので、愛好している者としては、かなり困りますが。尤も、それを言ったら、問題のあるメディアを愛好している者が困るなど構わない、と返されるのでしょう。で、何故そう思う、と訊けば、凶悪事件を起こした人間がゲームを愛好していたから、となるのかな。
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ニコニコ動画、JASRAC曲の演奏動画が投稿可能に(ITmediaニュース) - Yahoo!ニュース
これで、ニコニコで「歌ってみた」とか「演奏してみた」系の動画が、「やっても良い事」になるのかな。で、いつから?
ニコニコ外部プレイヤーがココログにも対応したら、何か貼り付けてみますかね。2008年4月3日追記:どうやら、ブログに埋め込むのはダメみたいです。コメント欄をどうぞ。
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おおっ、画像でかっ。
書かれてある事は、言わば「基本」、ですね。とても大事な部分だから、繰り返し言い続けるべき所。
kikulogの説明をなさっている部分↓
「ひとりでに動いてくれるようになったので、ニセ科学を議論する場として機能していると思いますね。かなり見識と良識のある人たちがいてくれますから」
全くそうですね。kikulogとニセ科学論を知らなければ、私の認識は、かなり低い所に留まっていた事でしょう。
渋滞論文の話もありますね。確かに、「そんなの当たり前だろ」、という反応が多かった。私自身の感想は、「全然意味が解らなかった」、です。きちんとした所に採り上げられたんだから、多分興味深い事実が発見、あるいは確認されたのだろう、と考えて、そこで止まりましたね。説明を読んでも解らなかったので。で、解らないなら解らないままで置いとくのがいいんじゃないかなあ。ほんと、見出しと記事の一部分を見ただけで適当に言ってるだろ、という意見がありましたからね。いや、大した事無い、と言うのだったら、きちんと論文にあたって科学的論理的に批判すればいいのに、という感じ。
まあ、あれです。
重要なのは、鵜呑みにしない事と、解らない部分は置いておく、という事。「解りたい」ならきちんと調べなくちゃね。「解らなさへの耐性」というのが、ニセ科学論で出てきますが(技術開発者さんが初めに使われたのかな)、私としては、これはつまり、「解らなさを楽しめる」事なのではないか、と思っているのであります。未完成のジグソーパズルを見てワクワクするのと、根っこは一緒なんじゃないかな。
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痛いニュース(ノ∀`):「飲みニケーション」をしないヤツは仕事でも使い物にならない…ゲンダイ
何で飲みュニケーションじゃないのか、というのはともかくとして(見た目が微妙だからか)。
そういうので親睦を深めるという考えはあって良いのかも知れないけれど、それに参加しない人をネガティブな目で見るような認識は控えるべきでしょうね。自分が好むものは他者も好むべきだ、的な。たまにいますからね。自分が興味を持っているものに関心を示さない人を奇異の目で見る人が。我慢しているように見られたり、とか。いやいや、好きじゃないだけですって。他にもやる事一杯あるし、的な。
アルコールを受け付けない人は、酒自体飲めないし、素面だとああいう雰囲気は嫌な人もいるでしょうし。
結局、誰と行くか、という事なんじゃないか。それじゃ話が終わっちゃうけど。
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「悪いとも思っていない」金川容疑者が供述(読売新聞) - Yahoo!ニュース
金川容疑者は、三浦さん殺害後、逃走中に購入した新作ゲームで遊んでいたと見られることも判明。忍者が刃物や飛び道具で敵を次々と倒す内容で、捜査本部はゲームが殺意を助長させ、JR荒川沖駅の8人殺傷事件につながった可能性もあるとみている。
こりゃひどいな…。可能性、と言われれば、全否定は出来ないし、ある意味極限の状態だから、何がどのような行動のトリガーになったかは、解らないと思う。ゲームが要因であったかも知れない。それはその通り。否定し切るのは、論理的に無理。
だけど。
殺意を助長した、というのをどう検証するか。そして、それをどう一般化するか、どこまで出来るか。
仮に、ゲームに影響された犯罪者がいたとして、そういう犯罪者が存在したから危ないものだ、という情報を流布する?
まだ何も解っていない状況で、ゲームが殺意を助長した可能性を積極的に報道する事に、どういう意義がある?
何故か水俣病を喩えとして出した人もいたけど、ゲームというのが文化現象だという事を、忘れているのかな。よく解らない。
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apjさんのブログのコメント欄経由で⇒週刊文春_080403(2008年4月3日号。一番上の記事)
これは素晴らしい印象誘導ですね。
得られている情報の内、ウケそうなものをクローズアップするという、実に下品なやり方。
こういう記事を好んで読んで、鵜呑みにする大人には、なりたくないものです。メディアリテラシーを鍛えるために、ダメな記事として採り上げるくらいしか、価値が無いかな。
あー、一応。
これは、記事本文を読まなくても可能な批判です。目次を見るだけでダメな記事と解る、良い例。
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ああいう報道によって自分達が傷付くから止めてくれ、じゃ無いんですね。
ああいう報道によって謂れ無き先入観を植え付けるのを止めろ、と言っている訳です。
嫌な話ですけど、自分達がどうこう、というのは、どうでもいいんです、ある程度はね。もう慣れてしまった。ずっと昔から言われているから。激昂するのを抑えるくらいには、感情・思考をコントロール出来る。そんなのに傷付くほどナイーブでは無い。苛立ったりはしますけどね。
で、今行われているのは、ゲームをよくやる子ども達とか、ゲームを制作する人達とかに対する偏見を助長するような報道なんですよ。根拠も無いのに。
特に子どもはね。大人になった私達は、はいはい、アホな事言うなよ、で済ますのも可能。知識を蓄えて、論理的に反論する事も出来る。他人の趣味を貶すダメな人がいる、とメタに考えるのもね。だけど子どもは、そんな事は出来ない。自分が悪い事をしてしまっているんじゃ、と過度に不安になったり、クラスメイトから奇異の目で見られたりね。大人からも、おかしな子として見られる事もある。
駄目でしょ、そんなの。どう考えても。
ゲームの文化としての素晴らしさを解ってくれ、とか、そんなんじゃ無い。そんなの解りませんよ、すぐには。浅い文化じゃ無いんだから。そもそも、ちょっとやそっとで解られてたまるか、というのは、何かに強い関心を持つ人なら、ありますよね。
だから、そうじゃ無くて、自分が興味を持っているものが貶され、それに興味がある人間が普通で無い、と思われるような言い方をするのはおかしいでしょ、という話です。これは、誰にだって理解出来るもののはずです。
何故ここまで言うか、って、実際、報道が物凄いからです。この異様さは、おかしい。特定の文化を安易に犯罪行為の原因に結び付けているのだから。
ゲームに全く興味の無い人でも、想像力を働かせれば、報道のおかしさには、気付けると思います。
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ゲーム好き、1人で食事=高卒後はバイト暮らし-金川容疑者・土浦死傷事件(時事通信) - Yahoo!ニュース
本当に、もう止めてくれないか。
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はてなブックマーク - 「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇――デューク大学調査 - ITmedia News
元ネタ⇒「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇――デューク大学調査 - ITmedia News
やっぱタイトルがおかしいよね。
最後の段落にある研究者の弁も、こういう類の研究から言うのは早計なのではないか、と思いますけれど、それにしても、
ブランドのイメージは想像以上に人々の潜在意識に大きな影響を及ぼすことが、調査から明らかになった。
という研究結果から、
「Apple」のロゴを見るだけで創造性が上昇
という見出しをつけるのは、ものを注意深く見る読者からは、懐疑の目で捉えられるでしょう。
ところで、はてブには、
あっはっは。被検者にすでにバイアスかかっとろうが(natsumotoさん)
カルトって怖いな(nam323さん)
どれだけ膨大なデータを見せられてもおそらく信じられない。(Kmusiclifeさん)
等の反応があって、かなり否定的ですが、この記事の内容からだけでは、そういう評価は導けないんじゃないかな、と思いますが、どうでしょうか。
この研究の肝は恐らく、識閾下の刺激が行動に影響を及ぼす、という所なのでしょうけれど、そういう現象自体は、あって構わない訳です。映画の途中にコーラの画像を入れたらコーラを飲みたくなる的なサブリミナル効果については、科学的には支持されていなかったと思いますが、潜在記憶等は、心理学的にも認められている訳で。改めて研究したら実は影響、というのは、あって良いですよね。
だから、この研究を批判的に検討するには、実験計画はどういうものであったか、とか、創造性を測るテストは妥当性・信頼性が確認されているものなのか、とか、そこで測られた「創造性」というものが、私達が普段用いる「創造性」と どれくらい一致するか、とか、Appleのロゴを見せた学生は、そのロゴに対して「創造的」という意味を見出していたか、とか、「創造性」を想起させる記号を見せられた人間が、課題でより創造性を発揮したのは何故か、とか(「創造的」って文字を見せたら創造的になるの? 識閾下で無い刺激を与えても創造的になる?)、群間にどれくらいの差があったのか、とか、それは実質的に意味があると言えるのか、とか、その研究からマーケティング方法まで言及するのがどれくらい妥当か、とか、そういう所から、きちんと考えなくちゃらないないのではないかな、と。
オカルトのタグつくとか、「カルト」と表現するのは、何か違うんじゃないかな。この記事だけからじゃ、そんなのは言えないと感じます。
そう思いません?
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以下、個人的な、この記事に対する感想。
「正直な」、という意味を想起させる記号が、「正直な行動」を取らせるのは、まあ、何となく、解らなくも無いです。だけど、「創造性」を想起させるものが、実験環境という限定的な場において、人間を「創造的にさせる」というのは、どう考えても意味が解らない。だって、創造性なんていうのは、そうなれと指示されてなれる、というものでは無いでしょう? 「慣習に従わない」というイメージが、「型にはまらない」行動を促し、それが結果的に、「創造性が高まった」と看做された、とか? よく解らんですが。
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サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ 著者:下條 信輔 |
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サブリミナル効果の科学―無意識の世界では何が起こっているか 販売元:学文社 |
どっちも未読っ。
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心にきく薬奏 サブリミナル効果による不安解消 アーティスト:植地雅哉 |
※これはネタです。上の本と対照的なので、貼ってみた。
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※書評および、『パラサイト・イヴ』に纏わる部分については、触れません。菊池・香山両氏の本はまだ読んでいないですし、瀬名さんの本への評価については、全然知らないので。それにしても、文体は至極丁寧だけど、内容は超苛烈ですね。
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論点が絡まっていて、何を仰りたいのかがはっきり読み取れない、という印象。
大部分は正論だと思うけれど、ニセ科学の議論と結び付けている所が、よく解らない。
是非、「ニセ科学について」の論考を、書いて頂きたい所。
あ、書評には触れないと言ったけれど、一箇所だけ。
ではその他のグレーゾーンにどう立ち向かえばいいのか、という問題に本書は回答を与えていない。
そもそも、そういう本では無いのでは?
っと、これ以上書くには、本を読まなくちゃ無理ですね。
ともかく、あまり論点が明確で無いように思います。コメント欄を開いているので、そちらでのやり取りに期待。
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余計なお節介。
瀬名さんには、「室井健亮」でググられる事を、お勧めします。コメントで相手なさるかどうかは、ご自由ですが…。
追記:当ブログの右サイドバーにあるニセ科学論の関連リンクも、参照して頂きたい所です。
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ファミ通DS+Wii増刊 2008年4月号 ゲームスコ×ゲームスメ 販売元:セブンアンドワイ セブンアンドワイで詳細を確認する |
画像付きのリンク無かった…。
この本、ちょっと読んでみました。
凄く良い内容だと思います。ゲームとの付き合い方を考えていきましょう、という本で、色々な親子の方針を紹介してたり。
馬場章氏が、ゲーム脳等の、ゲームが及ぼす影響について語るインタビューがあって、これも良かった。
ただ、ちょっと残念だったのが、この本、私が行った書店では、ゲームコーナーにあった所。そういうコーナーには、ゲームに興味がある人が行くでしょうから、他に、育児書のコーナーとかにも置いた方がいいんじゃないかな、と。ちょっともったいないと思いました。書店によっては違うのかも知れませんけれど。
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と思った⇒はてなブックマーク - 平城遷都1300年祭・マスコットキャラクターについて
戦略的にも(←これは重要です)見事だと感じます。なかなか出来る事じゃ無いよね。
これは個人的な意見ですが。
自分の「好き嫌い」をぶつける時には、慎重にならなければいけない。
このブログで、「自分の好きなものを肯定的に紹介する事はあるが、嫌いなものをわざわざ採り上げる事は滅多にしない」、というのは、そういう認識からだったりします。
「センスが無い」という非難の言葉って、同じ様なセンスを共有している集団でしか成り立たないと思うんですよ。「見る目」が近い人達で、「うーん、これはセンスがいまいち」、と言う時とかね。それは、様々なものを総合する言葉として、「センス」を用いている訳で。直接それを相手に投げ掛ける(私自身、あのキャラを見た時、「なんか凄いセンスだな…」と感じましたし。ネガティブな方に)のって、語彙の乏しさを露呈する事にもなりかねませんね。私も気をつけないと。
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痛いニュース(ノ∀`):“音をたてて蕎麦を食す…○”“おしぼりで顔を拭く、割り箸をこする…×”…女性からダメ男の烙印を押されない為の食事マナー
凄く気になった事。全然本題と関係無いけど。
「私の蕎麦つゆがなくなったことに気づいた男性が、 自分のつゆを私の猪口に入れたんです。さすがに愕然としましたね」
何で蕎麦つゆが無くなるんだろう。
その男性、いきなり他人の器に、って事なんですか。そりゃ凄いなあ。相当親しい間柄じゃないと、あり得ないと思うけど。
結局、コンサルタント?氏の好き嫌いを言っているだけにも、見えなくも無いなあ。このコンサルタント?氏は、なんか、自信に満ち溢れているようですね。
「モテる男が日本に大量増殖することで少子晩婚化を解決し、日本の国力アップに貢献したい」
だそうです。
------
ところで。
ワイドショーなんかで、蕎麦をすする音がどうとか、やってますね。
あれ、稀に見る、どうでもいい話ですよね。いくらなんでも、それをテレビで流すのはどうよ、という感じで。
まあ、そんな事を言うと、ワイドショーネタなんか、ほとんどどうでもいいものばっかじゃないか、て突っ込まれそうですけど。
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いでよ広辞苑第五版! そして願いを叶え給え!!
【文系】 文科に属する系統。
【文科】 (1)人文科学・社会科学に関する分野。また、大学などでもっぱらその分野を修める学部・学科。「―系」 (2)文学部。文学科。
【人文科学】 (human sciences)政治・経済・社会・歴史・文芸など、広く文科系の学問の総称。狭義には、自然科学・社会科学に対して、哲学・言語・文芸・歴史などに関する学問の称。文化科学。
【理系】 理科の系統。理・工・農・医・薬などの学部を指す。
【理科】 (1)学校教育で、自然界の事物および現象を学ぶ教科。(2)自然科学の学問。また、大学などでそれを専攻する部門。理学部・工学部・農学部などの総称。また特に、理学部。「―系」
※引用元:『広辞苑』第五版 一部省略
Interdisciplinary: 「科学」でも纏めたけれど、基本的、「文字通り」的には、研究の対象によって分類される、という事でしょうね。
さて、日常的な使われ方について。
学校教育の印象が、強く残るのかも知れません。理系を象徴するものとしての、数学や自然科学。記号を操り、手順をきちんとして進めていく学問。「文系」は、「それ以外」と看做されるのかな(理系の補集合、的な)。「理系で無い」、という意味合いで使うと言うか。数学や記号を操るという所が、「理詰め」、「論理的」、「厳密にものを考える」、と印象付ける、のか。あるいは、「文系」というのが、たとえば「文学」を想起させ、更にそれが、「直感」や「感情」を思い起こさせ、「論理」と排他的な関係にある、と思わせるのかな。これ(社会による言葉の用いられ方)自体は、社会科学的な対象でしょうか。
端的に、「数学が使えない」、「数学を勉強してこなかった」、という意味で、「文系」が用いられる事もある気がする。カリキュラムの影響かな。理系と文系の高校では、やる事全然違いますしね。ちなみに、私は高校時代、微積分すらやりませんでした。あり得んですよ。
なんでしょうね。理系はクローズアップしやすいが、文系はそうでも無い、と言うか、「学問」とは看做されにくい、と言うか。理系と言われれば、数学や物理や化学や生物やらがすぐに浮かんで、「記号や公式やらを憶えさせられた」経験が想起されるのかな。で、文系は、「それ以外」。
そして、論理的にものを考えていく文章なりを目の当たりにして、それについていけない人が、言い訳等の言い回しとして、「自分は文系だから…」的な言葉を出す、という。文系/理系が、「それまでに学んできた分野」を表す言葉として用いられるなら全然構わないけれど(私は、基本的にそう使う)、「言い訳」として用いられてしまう事が、あるのでしょうね。
哲学とか言語学とか、高校までにはほとんどやりませんしね。普通科以外だと、倫理すら無いし。文系学問をある程度突き詰める機会が少なくて、しかも、理系が理詰め(理という字が入ってるし)である事の解りやすさが相俟って、「文系」という言葉の意味内容が、構成されたのかな。
後、「定量的」、あるいは「計量的」に考えるのが、ポイントかも。厳密に測定し、それを記録して、得られたデータを操作していく、という過程が、厳密さや「曖昧さの排除」を、強く印象付ける、と言うか。で、「理系」にそういう印象を持って、「非・理系」である所の「文系」を、理系の持つ特性「を持たない」分野と認識してしまう、と。
うむ、まことに取りとめの無い文章。dlitさんのエントリーとコメント欄を読むと、文系:非・理系と考える方は、やはりいらっしゃいますね。
「科学」を、現象の仕組みの構造を解き明かす知的営為だと捉えれば、理系にしろ文系にしろ、共通する部分は多いでしょう。違いは、「何を」知りたいか、という事と、道具立ての異なり、等でしょうね。
私をインスパイヤしてくれた方々⇒理系文系論メモ:文系としてのアイデンティティ - 思索の海 So-net blog:王様は裸だ!Annex:文系・理系の分類基準
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興味深く、そして、悩ましくなる事例⇒完全否定されている「ゲーム脳仮説」 パラダイムシフト ~アヒルがウサギに見える日~/ウェブリブログ
これは、ゲーム脳がニセ科学と解っている方が近親者にそれを説明しようとしたが、困難だった、というケースですね。
「そんな難しいことを言われても、分かんないわよ。要は親としたら、子供がゲームをやりすぎたら不安なわけよ。その不安を解消してくれた説なんだから、みんなにウケているんじゃないの?」
「まあ、それはそうなんだけど、間違った学説を拠所にして子供をしつけるというのは、科学的な態度であるとは思えないのだけれど…」
「あなたは科学オタクだから、細かいことばっか気にするのよ。子供がゲームをやりすぎたら困るんだから、いいのいいの」
これは、養育者の立場からのゲーム脳説の見方、つまり実感なのですよね。
悩ましいなあ。
そして、この悩ましさが、ゲームをやらない人には全く理解されないであろう、というのを考えると、更に悩ましくなる。ゲーム脳説を安易に用いると、ゲームをやる事自体をネガティブに捉えたり、本来他に考える必要のあるものを見逃したり、という事をいくら言っても、でも、ゲームをやらないようになるならいい、と返されると、困るだろうなあ。
自分の好きなものと「ゲーム」を入れ替えて考えてみるように促しても、難しいのでしょうね。
私自身の考えは、「ゲームをやり過ぎるとバカになる」、というのは、「スポーツをやり過ぎると身体を壊す」という程度と同じような意味合いで用いられるならば(一般論として、何かを「やり過ぎる」と、それに用いられるものが消耗するのは当たり前だし、それ以外の事が出来ない、というのも当然なので)、ギリギリ「あり」かも知れない、というものです。だけれど、とても残念な事に、ゲームは、ファミコンがヒットした頃から、その害悪が、「本気」で指摘されてきたものなのですよね(脳が壊れる。問題行動や犯罪の原因、等)。しかも、根拠不充分に。更には、ゲーム脳説のように、「科学を装っている」ものまで現れた。だから、かなり言葉の使い方に「拘っている」と思われるような事も、書いています。実際、事件の原因をゲーム(やアニメやマンガ)に押し付ける事が、起こる訳ですからね。慎重にならざるを得ない。
スポーツばかりやると脳が破壊されてしまう、と言われたら、誰も賛同しませんよね。スポーツって言っても色々あるぞ、とか、周りにどんな人間がいるかで違うぞ、とか。そうならないのは、普及・認知の仕方が全然異なるからなんでしょうけれど。
冗談で、「ゲームばっかやってるとバカになるよ(笑)」なんて言える世の中になればいいんですけどね。そういう使い方をするのは、どっちかと言うと、ゲームのユーザーなんじゃないかな。半ば自虐的なね。それを冗談では済まさなくしようとしている人が、いるんですよね。窮屈なものです。実際、私は、ゲーム脳を冗談で使う事があります。でもそれは、ゲーム脳がニセモノだと知っている人同士の間でだけ、です(←自虐的な所もある)。それ以外の場で使えはしない。
※リンク先での例は、家庭でのやり取りの様子を書いたものなので、「親しい人同士の会話の場」であった、という事は、考慮すべきだと思います。それを文字にする事によって、実際の場の雰囲気よりも、読み手によって、印象がネガティブになってしまうおそれがあるでしょう。ですから、本エントリーはあくまで、子を持つ養育者に、ゲーム脳がどう捉えられているか、という事例を紹介するのが主旨である事を、明記しておきます。
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これかっ⇒信じぬ者は救われる
読みます。
対談でしたよね。どんな感じなのかな。
この本について書かれた、菊池誠さんのエントリーは、こちら⇒kikulog:香山さんとの対談
ゲーム脳の話が出る事に、仄かな期待。
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あれですよね。自分が鉛筆使ってる時は、シャーペンに憧れましたね。
何て言うか、そう……
メカニカル。
うん、あの金属感とか、手にずっしりくる重さとかが、なんか良かった。高級な感じがしたしね。カチカチやって芯を出したり、足りなくなったら装填するっていうのが、カッコイイじゃないですか。なんかハイレベルなアイテムを使いこなしてるぜっ、て感じで。
コンパスなんかもそうでしたねえ。メカってますよ。子どもはそういう所に惹かれるんですって。
シャーペンを使い出したのは、いつだったかな……中学かな。大人になった気分でしたね。うむ、大人。いや、実はあんまり憶えて無いんですけどね。
成人してからは、ノートにものを書く時は、鉛筆でもシャーペンでも無く、ボールペンになっちゃいました。何となく。
で、今は、手書きをする事自体、ほとんど無いですねえ。いいのか悪いのか知りませんが。
増田で紹介されている話は(やっと本題かよ)、つまり、「型」論のようなものですよね。鉛筆という、(多分)メーカー等の違いによるばらつきの小さい形状で、「鉛筆という道具」を用いる「基本」を身に着けさせる、という事なんでしょうね。それから応用と言うか、基本的な道具の使い方を学んで慣れてから、色々な形の物を扱わせる、という、そういう流れなんでしょう。大きな形状の変化は、長さの違いくらい、という事で。
はてブにありましたが、筆記具と書字の関係についての研究があるようで。それはそうですよね。メーカーも、そういうのを研究してデザインを行うのでしょうし。
あれですかね。
木剣と杖(棒)をしっかり扱う事が出来れば、鉄扇やら小太刀やら槍やらの操作に適応が可能、みたいな。一部の人にしか解らない喩えだけど。
うーん、何というアホ丸出しの文章。
そういえば、「万年筆」という、オトナの領域もありますね。お金が有り余るほどあれば、一本イイのを置いておきたいですね。あの製造工程とか細工の美しさは、ぐっとくる。
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さっきテレビでやっていたのですが、新潟県にある水原(すいばら)という町では、商店街にある店に、算数の問題が貼ってあるそうです(窓の所とかに)。で、各店に解答用紙が備えてあって、答え合わせをする事が出来るとか。なんでも、山口坎山(かんざん)という数学者が出身地である事に、ちなんでいるそうです⇒参照:http://www.xyj.co.jp/suibara/yumekukan/kawaraban/2001_2/info.htm(”『算数推進の町』すいばら”の部分をクリック)
これは素晴らしいですね。社会に浸透させている、と言うか。これが即リテラシーを高める、とか、そういう事じゃ無いとは思うけど、「慣らす」と言うか、「当たり前」にさせるには、効果的だと思います。もっと大きな規模でやってみてもいいんじゃないかな。私の持論は、「嫌わせない」事が重要、というものなので、こういうのを知ると、嬉しくなります。道往く子ども達が、算数の問題に嬉々として取り組む、というのは、実に良い光景ではありませんか。
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この話題に関する事ばかり書いている気もするけど、大切な事なので、やっぱり書きます。
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このエピソードも書いておこう。
確かkikulogにも書いたかと思いますが。
何度か言った通り、私は、以前は、超常現象等には、どちらかと言うと肯定的な人間でした。
で、テレビなんかで、肯定派対否定派のバトルをやっているのも、たまに観ていた訳ですね。
当時は(今も? あんまり観ないので知らない)、そういう番組には、大槻教授がよく出ていたので、大槻氏の意見を、「科学者の意見」として、よく聞く訳です。
で、その時の印象を率直に書くと、
と、こんな感じで、そこから、「科学者ステレオタイプ」を作り上げるのは、すぐでした。
こういう自分の経験も元になっているのですね。一部の要素なり集合なりを観察して、それを一般化する事は、往々にしてある。で、ニセ科学なりを信奉している人がそうなるのは、ある意味「当たり前」の話なのですね。
だけれど、メタ的な視点からニセ科学論に言及する人が、「批判者の態度」を一般化するのは、まずい。オカルトには懐疑的である人が、上に書いたような番組を観、大槻教授の言動に接して、「科学者は頭が固く、相手を頭ごなしに否定する、駄目な人達だ」、と言うようなもので。
後、ニセ科学批判に批判的にアプローチする方々に知って頂きたいのは、ニセ科学を批判するのは、必ずしも科学者では無い、という事実です。そんなに単純な構図では無いのですよね。
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記憶が薄れない内に、メモ。
倖田さんのインタビューを観た。
今、言葉に対して強く敏感になっているように感じた。
観察による印象を素直に解釈するならば、「萎縮」している、と言って良いと思う。
言葉を出した直後に言い換えたり、「聞いた人にどのように響くか」、という所を考えている様子だった。
言葉を発するまでに少し間が空くのは、自分が発しようとしている言葉を内言として再生し、それがどう聞かれるか、というのを想像しているから。
本来は、それがデフォルトであるべきなのだけど、今までは、軽んじてしまっていたのだろう。
とにかく、色々考えているように見えた。
舌禍を起こした事を反省するというのは、本質的に、「聞いた人に言葉がどのように響くか」、というのを強烈に内省するのが重要であって、「自身の評判を落とすような事を”言ってしまった”」、と考え、それを「取り繕う」所では無い。
そういう意味では、私には、「反省」しているように見えた。
もちろん、本心は解らない。自分自身と、ごく身近にいる人にしか解らないだろう。そこを考えても、詮無い事だ。やろうと思えばどのようにでも解釈が出来てしまうし、それは意味が無いから。
元々、明るく、毒舌も織り交ぜながら物言いをするキャラクターが売りの一つであった人が、今後どのように歩んで行くか。
今までと、「まるで変わらない」か。
「感じ」は今までのようでも、細かい配慮の行き届いた言葉の使い方になるか。
今までとは異なったキャラクターに変貌するか。
どうなるのでしょうね。一番最後のは、無いとは思うけど。あのキャラクターは、切る事は出来ないだろうから。
前後に、元時津風親方のインタビューのようなものもあって、その態度と比較をして観ていました(事件の内容の具体性が異なるという所もあるが)。いかに自分がやっていた事を正当化しようか、と認識しているか、と、いかに自分の発言が無知に基づいていて、配慮に欠けていたか、を認識しようとしているか、の違いと言うか。
私が先ほどインタビューを観た際には、そのような印象を覚えました。
※発言の内容については、調べてみて、それは根拠が無い事を知った、という意味合いの発言をしていました。事実としてそう信じていたか、というのは判りませんでした。
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英国人の4人に1人がチャーチルは架空の人物=6割がホームズは実在(時事通信) - Yahoo!ニュース
見出しを見て、んなアホな、と思ったのですが、よく考えると、もしかすると、日本でも似たような事はあるのかな、なんて。
何かありますかね。日本で創作されたキャラクターで、実在の人物と思われていそうなのって。
あ、タイトルは、上田次郎教授(@日本科学技術大学)の言を、インスパイヤしました。架空の人物ですけど。
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トリック -劇場版2- 超完全版 販売元:東宝 |
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※これは、言及先のブログに投稿しようとしたコメントを、エントリーとして起こしたものです。結構長文だったので、エントリーにしました。
初めまして。
いくつか疑問に思った、と言うか、文意が判然としない箇所がありましたので、質問させて頂きます。
まず、
という事です。疑似科学、あるいはニセ科学には、様々なものがありますが、具体的に、どのようなものに対する批判を想定して、疑似科学批判という概念を用いておられるのでしょうか。
「市井のふつうの人」がニセ科学を批判する場合、それはあくまで「2.道徳的・政治的な批判」であるといえます。
これは、科学者以外の人間が批判する場合には、実証科学的観点は入ってこない、という意味なのでしょうか。そもそも、ここで言う(亀@渋研Xさんの文章の解釈では無く)”「市井のふつうの人」”とは、どのような概念でしょうか。
科学的な観点を持たずに「ニセ科学批判」が行われる場合がある、という事なのでしょうか。あるとすれば、具体的に、どういった例が挙げられるでしょうか。
自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために
ニセ科学を信奉している方と、実際にコミュニケーションを取った事はおありでしょうか。あるとすれば、その事例をご紹介して頂けると、参考になると思います。
「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。
「絶対に正しく、有能だ」という認識を戒めるべきだ、という部分には、全く同意ですし、異論はありません。ただ、ここで気になるのが、これは、単に一般論を改めて述べられただけなのか、それとも、具体的な例を想定して書かれているのか、という所です。誰かの主張を見て、その人が自身を「有能」だと認識しているのを見抜くのは容易では無いと思うのですが、いかがでしょうか。ともすれば、ニセ科学批判者は一般的に、有能感を持っており、自身の主張の正しさを確信している、と誤読されかねない文章なので、ご説明を頂きたいです。
ところで、私が読んだ限りでは、疑似科学(ニセ科学)を信奉する側、という意味合いの事は書かれているが、そちら側の人々でも、主唱者や、主唱者に心酔する人、あるいは、説を何となく信じている人、等の層がある事について、言及がなされていないように思われました。ニセ科学批判と一口に言っても、言及対象によって、批判の形態は変わります。そういった具体的な部分について、若干、考察が行き届いていないのではないか、と思った次第です。
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っていうのは多分、こういうの(2ちゃんねるの反応も含めて)を指しているんでしょうね⇒痛いニュース(ノ∀`):「マイナスイオンは身体に良い」「クラスターが小さい水はおいしい」…疑似科学にだまされやすい日本人
色んな論点がごっちゃになってますね。沢山の人が投稿してるんで、当たり前なんですけどね。
ただ、多く書かれてある、マスメディアの安直さ、無責任さに対する批判には、同意。
以下、どうでもいい話。
何ヶ月か前に、とある店に行ったら、店内に「マイナスイオン発生器」なるものが備えられていると、アピールされてました。確かに、凄い快適空間だったんですよね。いい空調だったんでしょうけど。もしくは、単なる心理的な効果か。
ああ、後。
ドラッグストアで、歯ブラシ買おうと思って歯磨きコーナー見てたら、「マイナスイオンが出る」、舌苔を掃除するブラシが売ってました。どこにでもあるもんですね。
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件の竹内氏の記事、apjさんのブログで知ったのですが、最後ら辺、かなり感情の吐露みたいな書き方ですね。よほど、嫌な思いでもされたのかな。「狂信的ともいえる疑似科学叩(たた)き」って、なんだかワカりやすいフレーズですねえ。
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やっぱ、「色々ある」のを知る方が、「正しい事だけを知らせる」とか、「有害な情報をシャットアウトする」、よりも、妥当だし、現実的だと思うんですよね。別に、何でも無責任に与えていい、と言いたい訳では、全く無いですけれど。
私は、多分5才くらいの頃に、こち亀やら『エコエコアザラク』やら奇面組やら『恐怖新聞』やら水島新司作品やら藤子不二雄作品やら手塚治虫作品やら、物凄く幅広く読んできたのですよね。もちろん、ちっちゃい頃なので、選んで読む、というより、そこにあるものを読む、という感じでした。
そうすると、色々あるのが解るんですよね。だって、奇面組と魔太郎って、まるで正反対の種類じゃないですか。知識も「広く」なるし(ギャグとホラーで、ベクトルの向きが違う)、いいんじゃないかな。幼児の頃から(記憶が曖昧なので、実際は、就学後かも知れないけど)漫画雑誌を講読していた様なものなのですよね。
なんか、有害情報を! と声高に叫んでいる人の言い分を見ると、細い道を作って、その上だけを歩かせようとしている様な、そんな印象。そんな事は無理だし、実現させようとすると、途轍も無く拘束的な環境を作り上げなきゃなりませんからね。いつまでも閉じた環境にいられるなら、まあ良いかも知れませんが、現代のような情報化社会では、かなり難しい気もします。
もし、触れたものの内容が、社会的に好ましく無い行為を正当化するように誤解させるようなものだったら、その時には、内容について話すなりすべきで。そういう時に、そんな下らないものを、と言ってしまうと、最悪ですよね。
どうして、「細く」、「狭く」しようとするんでしょうね。それより、色んなものに触れさせた方が、「豊かな想像力」が得られるんじゃないかな。「はみ出す」ものを恐れているのかも知れない。何からでしょうね。
……おっと。
最初は、子どもの頃から色んなものを読んだりした方が、物事を相対化出来て、メタな認識を鍛える素養になるのではないか、という話を書こうとしたのだけれど、微妙に寄り道してしまった。
やっぱ、一本道を歩くのは苦手みたいです。
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はてなブックマーク - いっそひぐらしのせいでもいいんじゃないのか、もう。フィクションは現実に影響するよ。 - HINAGIKU 『らめぇ』
含みなどは考慮せず(ここ重要)、書かれたものを、ある程度ストレートに読むならば。
そもそも、マンガやゲーム、アニメ等は、「胡散臭い」文化と思われている訳です。強いバイアスが掛かっている。
だから、もし、関係者・原作者なりが、「影響したと認めた」と取られる発言なりをしたとすれば、何が起こるかは、明確です。特に、発言が原作者のものであればね。
戦略的にも全くまずい、という事です。
書かれてある内容は、概ね正当であると感じます。あらゆる文化は、人間の認識に、なにがしかの影響を与える、と考えるのが、むしろ当然。はっきり言って、ある作品が引き金となって、何らかの悲劇を惹き起こす事は、充分あり得る。それを否定出来るはずが無い。それは、どんな文化でも、です。
だけれど、その「正論」を、社会が冷静に受け容れてくれるか、というと、こういう(新聞記事の様な)話題が出る事自体が、それを否定する証左である、と言える訳ですね。大した根拠も無いのに「原因」として論うのが、まかり通っている。それが実際なのです。残念ながら。
○○のせいかもね。と言ってしまうのは、ある種の開き直りであって、自分が携わっている文化の影響力に無頓着である、というメッセージになり得るのですよね。
だからこそ、冷静で、論理的で、科学的な検討が、なされなければならないのです。あの研究会での坂元章氏の態度に倣うべき、だと考えます。
度を越した報道に怒る、というのは、態度としては、全く正当なものだと思います。もちろん、的外れな反論・反発もある訳ですが。y_arimさんは、そこの所を危惧なさっているのかも知れません。
端的に言うと、(批判されている文化に関わる人によって)安易な言い方がなされてしまうと、文化が破壊される虞がある、という事なのですね。情報が社会一般に(マスメディア等を通じて)フィードバックされ、どの様な社会的認知が形成されるか。それがどの様な影響をもたらすか。そういった所を慎重に考える必要があると、考えます。
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エピデミック 著者:川端 裕人 |
読了。
めちゃくちゃ面白かった。一気に読んじゃいましたよ。
amazonのレビュー(の一つ)は的外れに思えるな。あ、内容も書いてあるので、読む場合には注意(読まない方がいいと思います。結構なネタバレかもなので)。
奇しくも、と言うか、今、こんなニュースがありますが、実際危機感を懐く人は、少ないのでしょうね。私もどこか、遠くの事だろう、などと思ってしまいます。論理的には、充分あり得る事なのに。⇒鳥インフルエンザ、日本で64万人死亡も 中国で人に感染(産経新聞) - Yahoo!ニュース
ともかく、オススメの本です。
オススメのフィクションを紹介する時に、内容に一切触れないのは、いつもの事なので、あまり気にしないで下さい(笑)
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はてなブックマーク - 小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange
想像力豊かだなあ、と。
作文一つで、何でそんなに色々解るんでしょうね。
こんな子どもに育って欲しく無い、とか、気持ちの悪い文章、とか、すっごい余計なお世話だと、思わなくもない。
他人に推敲された、という可能性は、あるんじゃないかな。私も小学生の頃に、親に直された事ありますし。ここはこういう表現にした方がいい、とか(間違い無く、それは役に立っている。今読み返すと、苦笑しますけれど)。もちろん、本当の所がどうなのか(あったとして、どのくらいであるか、とか)は、判りませんが。
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Interdisciplinary: 問題の切り分け。まん延に、poohさんが応答して下さいました。ありがとうございます⇒So-net blog:Chromeplated Rat:Re: 問題の切り分け。まん延
ここで、私自身の考えを、書きたいと思います。現在の認識を整理するという意味でも、書いておいた方が良いでしょうし。
○ニセ科学とは何か。
一般的には、「科学を装っている」が、「科学では無い」もの。狭義には、科学的に実証されていないのに、それがなされたかの如く主張される言説。科学的専門概念の誤用を基に組み立てられた論理体系。「科学的」とは、現代の実証科学の基準に従う。敷衍すると、特に主唱者がいない説も、含む事が出来るだろう。それを積極的に「ニセ科学」と呼称するかは、別の問題。※後半は、ちょっと難しい部分ですね。
○ニセ科学を批判するのは何故か。
ニセ科学の言説が、科学の論理体系について、誤解させる、つまり、「間違った知識を流布する」虞があるため。また、特定の文化を不当に貶める根拠として用いられる場合があるため。
○ニセ科学はどの程度広まっているか。
「どのくらいの数の人間が」、という所は不明。だが、ゲーム脳説を肯定的に扱う講演が、公的な機関によって主催されたり、血液型性格判断を紹介する番組が多く放送されたり、といった例がある。前者は、それ自体が問題であるし、後者は、マスメディアの情報発信の規模を考えると、少なからぬ影響を及ぼしていると推察される。
○ニセ科学が広まっているとすれば、それは何故か。
もし、量的に、以前より広まっていると仮定するならば、色々な理由が考えられる。たとえば、社会総体の科学的リテラシーの低下。あるいは、高度情報化による、情報伝達の形態の変化、等。前者を前提しなくとも、後者の理由によって大きく広がる事は、あり得る。
○(上と関係するが)ニセ科学的言説が肯定的に(つまり、批判的に検討されずに)伝達される場合、その理由は何か。
心理学的な論理。「科学」という文化に対する無知・誤解・恐れ・見くびり、等の感情。それが認知に影響すると考える。ニセ科学を意図的に、「だます手段」として用いる場合には、受け手が「真に受ける」ように仕向ける、という場合もあるかも知れない。人間の心の状態は、決して一定・一貫している訳では無いから、「タイミング」というものがあるだろう。
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現状の私の認識は、このようなものです。
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<小学生国際比較>日本は親にキレやすく、反抗的 創価大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
素晴らしいタイトルですね。
内容は、いつものごとく、という感じです。
日本の子どもは家庭や学校で人間関係を維持する力が劣っているのではないか。学校教育の中で子ども同士がふれ合う集団行動を重視する必要がある
※上は、研究チーム代表の言の引用
調査結果から、どうしてこういう論理展開が出来るのか、私には、よく解りません。飛躍があるし。
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亀@渋研Xさんへのレスも兼ねて。
論宅さんとかは、多分、「”社会の多くの人”が”科学的だと誤謬”している」のを、ニセ科学と判断する際の必要条件だと、看做しておられるのだと思います。
基本的には、実証されていないのに、それがなされているかの如く吹聴するもの、とか、科学的概念を誤用し、それを基盤として論理体系を組み立てているもの、とか、そういうのが、ニセ科学とされるのだと思います。論宅さんの認識は、被害の程度をニセ科学の定義そのものに含んでしまっている、というものですよね。「誤解」を「被害」とするならば。
で、そういう考え方もあるので、一連のエントリーで、分けて考えてみた訳ですね。私の認識は、「主唱者がいる訳では無い、あるいは、時間が経った結果としてそれが忘れ去られた、かつ、社会の多くの人々に科学的であると誤謬されている」事を、批判する際の根拠であると主張するならば、ある程度定量的な評価が必要だろう、というものですね。ニセ科学の判断そのものは、科学者集団の共通了解を基準にすべきで。
結局の所、ああいった方々は、あの論理展開によって、「ニセ科学がまん延している」という主張を批判するべきなのに、「ニセ科学という概念」を批判してしまっているのですよね。そこで捩れてしまっている。気付いて無いのか、わざとやっているのかは、判りませんが。
ちなみに、ニセ科学がまん延しているかどうか、というのは、(「まん延」をどのように捉えるか、というのもありますが)、マスメディアが乗っかってマイナスイオンを肯定的に紹介したり、教育に関わる期間がゲーム脳をテーマにした講演を主催したり、スポーツ選手がなんちゃらブレスレットを愛用していたり、という現状を見れば、そう評価しても構わない、と考えます。これって、私が以前から書いている事なのですよね。
と、私の考えは、取り敢えず置いておいて。
ニセ科学を批判する皆さんに、訊いてみたい事があります。
「ニセ科学がまん延している」というのは、本当ですか。広まっているとすれば、それは、どのような根拠によって、判断されますか。それは、定量的な評価ですか。それとも、別の観点からの判断でしょうか。私の考えは、上に書いた通りです。どこかに、別に大きく広まっていなくとも、批判対象とする事に変わりは無い、とも書いたと思います。
さて、どうでしょうか。
整理すると、
等の論点があるのだと考えます。ニセ科学批判批判をする人は、これらをごっちゃにして、「ニセ科学という概念そのもの」を批判しているようにも思います。論点によっては、ニセ科学批判者間でも、意見は分かれたりするのですしね。たとえば私は、ニセ科学言説が昔より大きく広まっているか、という点は、「判らない」という立場ですし、仮にそれを前提するとして、そういう知識が無批判に受け容れられる理由として、「科学リテラシーの”低下”」が原因とする意見には、必ずしも首肯していません。何故ならば、「昔よりリテラシーが”上がっている”」と、「”昔より”ニセ科学が広まっている」は、排反する事象では無い、と考えているからです。
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皆さんのご意見を、是非伺いたいです。批判歓迎。
私は、「ニセ科学」には、「一般の多くの人が”科学的”だと誤解する知識」と、「誰か主唱者がいる、科学を装った」言説の、二つを考える事が出来るのではないかと思いました。
まず後者から。
これは、たとえば、ゲーム脳や水伝など、ある主唱者がいて、著作や講演などで、自説を開陳している場合です。当然これは、その言説を評価すれば良い。もちろん、実際に被害が出ているかどうか、というのは、考慮する必要は無い(それは、批判対象として採り上げる際の根拠、と考えるのが妥当)。つまり、科学の方法によって実証されていないにも拘わらず、それがなされたかの如く主張している訳ですから、それだけで、「ニセ科学」と判断される事になる。また、学術的専門概念を、本来の定義を無視して誤用する言説なども、対象となるでしょう。
次は前者。
これは、多くの人に、「科学的根拠がある」と思われているにも拘わらず、実はそういった事実は無い知識、といった所でしょうか。
これは、初めには、誰か科学者なりが主張したのかも知れないが、それが社会に広まった結果、常識的な知識として、かつ、「科学的に根拠があるもの」だと誤認されている、というものです。一般に浸透したもの、ですね。
この場合には、当然、「一般の人が思う”科学的”」とはどういう事か、などが、問題になってくるでしょう。また、「多くの人が誤解する」、という主張が妥当である事を示すには、定量的に評価なされなければならないでしょう。ここでは、心理社会的な観点が必要とされます。端的に言って、非常に難しい。
さて、これらを踏まえて。
ニセ科学を批判する人、また、その活動そのものを批判する人の両方に、何かを「ニセ科学」と判断する場合に、「社会一般に、科学的であると誤認されている」事が、必要条件だと看做している人が、いるように思われます。
論理的に言えば、”ある程度の科学的知識の理解を前提としているが、実は科学的には妥当では無い、人口に膾炙した「俗説」”も、”誰か主唱者がいて、科学的に実証されたと「言い張っている」説”も、両方が(もちろん、排反するものでは無い)、「ニセ科学」と考えられると思いますが、そこを踏まえずに、後者をニセ科学だと判断する人に対して、「いや、社会一般に誤認されていないではないか」、と反論したりする、というのがあるのではないかと。
ごくシンプルに纏めると。
・科学的で無いが科学を装っているものが、ニセ科学
・主唱者がいるものは、著作なりを参照し、それを現代科学の基準に照らせば、判断は、比較的容易。科学的概念を誤用したり、「実証・検証された」と言ったり、実験を行った、などが主張されているのを指摘すれば良いのだから。
・科学的に検証されていないが、社会一般に科学的であると誤認されている説、の場合には、その立証は難しい。多くの人が、という所は、量的な評価だから、調査なりを行うべきだし、「科学的だと誤認する」というのがどういう事か、というのも問題になる。
・もちろん、両方を満たす説もあるだろう。
・「ニセ科学である」と判断する事そのものには、多くの人に広まっているとか、実害が出ているか、というのは、考慮する必要は無い。
と、こんな感じでしょうか。
こう考えると、多少すっきりするようにも思いますが、どんなものでしょう。文そのものが解りにくいという突っ込みが入りそうですが、私もまだ整理し切れていないので、コメントなりでご指摘頂ければ、ありがたいです。
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ニセ科学の定義と判定について考える :: 事象の地平線::---Event Horizon---
熟読玩味の事。
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触発されて、ちょっと考えてみた。以下、走り書き。相当カオス。青文字は補足。apjさんが書かれている事とは ずれてくる所もあると思う。
「ニセブランド品」の喩えをお借りします。
ニセ科学について論じる際、「出す側」と「出回り方」の、二つの視点があるように思った。
つまり、売る側←賛同者、流布する人達が、ブランド品であると謳って←科学的であると主張する販売するか。この場合、解っていて売る場合←故意と、信じ込んで売る場合←確信がある。大元には、「作る」立場の人間←主唱者。新奇の説の提唱者なりがある。
「出回り方」、もしくは、「受け取り方」。ちょっとアナロジーが不正確になるが、そのまま続ける。
「ニセブランド品」を、「ブランド品と信じ込んで」買ったり使用したりしているか。←科学的と感じているか。受け取る側には見分けが付かないいかにも高級な店構えの、「それっぽいショップ」←大学教授、○○研究所、「科学的に実証」などの文句で売られているもの。
それとも、「胡散臭い店」で売られているものか。←肩書きの無い人。専門の研究機関で無い組織誰にでもニセモノと判るのか。←科学的とは感じない。それまでに蓄積した知識によって、科学的では無い、あるいは、信憑性が低い、と看做す
どちらにアプローチするかで、批判の内容は異なる。「売る側」・「作る側」についての言及の場合、それを売ったり作ったりする事自体←科学的な手続きに則って検証していないにも拘わらず、検証されたと言う。故意かどうかは問わないを批判。「受け取る側」についての場合、ニセブランド品をブランド品だと信じ込んで買う人が多いという事を問題視。←「”科学で無いもの”が、”科学的である”と、多くの人に思われている」状態。つまり、社会的認知の問題「そんなもの、誰でもニセモノって判るだろ。」←ニセ科学など批判するもんでも無いだろう、という非難と主張する人は、「どうせ誰も本物だとは思ってないんだから」、と考える。←社会一般に、「科学的」とは認識されていないんだから、と主張する
ニセ科学は、科学の手続きに則られていないのに、それがなされたと主張されれば、成立する。喩え――「元祖・○○」的なお菓子があるとする。それは、ちゃんと製法を守って作らなければ名乗れない。製法を守っていないのに、「元祖・○○」とラベルを貼って売ってはならない。製法を守ったと思い込んでも、実は誤ってしまっていた、という事もあり得る。そして、売ったという事実そのものが、批判の対象となる。必ずしも、それが沢山売れたという事実が要る訳では無い。つまり、「多くの人が」という量的な評価を問題にするのでは無い。「これが出回ってしまってはまずいぞ」的な批判もある、という事。そして、批判対象の、批判の優先順位は、批判者の問題意識や興味関心のある分野によって、異なってくる。かなり出回ってしまっているから駄目だ。あれはニセモノだと知らしめないと、というのもあれば、まだ広まって無いかも知れないけど、影響力が大きいメディアが採り上げているから何とかしないと、というのもある。量的には少ないかも知れないが、ある程度広まる事自体が、他の文化に対する不当な先入観を植え付ける虞がある、と判断する場合も。
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取り敢えず、こんな感じで。
ふう…。何か、脳をフル回転させたから、爆発しそうだ(笑)
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ちょっとした疑問です。
私は、「血液型性格判断は、占いと同様のものである(場合がある)」という主張の、意味がよく解らないのですよね。
一般的に言って、血液型で性格が判る、というのは、ある性格類型なり特性と、生物学的因子である所のABO式血液型とを結び付けた主張です。
ちょっと視点を変えてみて、「占い的な血液型性格判断」というものを考えてみると、それはつまり、「今日、○型の人はこういう運勢だ」、という類のものなんかですよね。血液型選手権みたいな。
ところが、血液型性格判断は、論理的に、分布に関する言及である訳です。要するに、○型の人にはこういう性格の人が多い、という事実があれば、それは成り立つ。
で、ですね。
血液型性格判断を信じている人は、当然、生物学的な連関を前提しているはずです。何故なら、社会心理学的メカニズム、つまり、思い込みや自己成就現象によって分布が偏る事がある、などという知識がある人がそれを信じるというのは、論理的に考えにくい。尤も、星占い等と融合させた主張の場合なんかは、また違ってくるとは思いますが。そういう方向で、何らかの論理体系をなした場合、それは、いわゆる疑似科学的主張だと看做すのが、妥当でしょうか。すなわち、現代科学の体系に全く矛盾する、という意味で。
従って、血液型性格判断を信じている人の多くが、何らかの(自然)科学的論理を前提としているだろう、と推測しています。
で、ここまで読まれて、誤解されるといけないので、補足。
上に書いた話は、「ニセ科学」論そのものではありません。ニセ科学として批判の対象となるのは、そもそも科学を標榜している主張や、マスメディアによる、「実験」や「調査」を行ったと称するミスリーディング等なので、これらをニセ科学と批判するのは、全く妥当です。特に、情報発信の面で非常に強力であるマスメディアによる流布というのは、重要な点です。
何か、文が激しく纏まっていないですね。取り敢えず、このまま上げます。意味不明な箇所のご指摘や、批判歓迎。
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とても良いエントリーをご紹介⇒PSJ渋谷研究所X: これぞ「ゲーム感覚」!?
「ゲーム感覚」というのは、とっても大事です。もちろん、ポジティブな意味で。
ところで、ゲームの話をする際(ゲームの悪影響を語る文脈でよく出てくる)、「ゲームより面白いものがある」と知らしめれば、ゲームからは離れていくよ、という言い方がなされる場合があるのですが、あんまり良く無いんですよね。そうじゃ無くて、「ゲームも面白いが、こっちも面白い」とか、「これとゲームは、実は同じ様なものなんだよ」、とか、そういう風に言わないと。
はっきり言って、ゲームより面白いものなんて、そうは無いですからね。それに、ゲームをしない人からそんな事言われたら、「ゲームの面白さを知らんでしょ?」なんて思ったりするのです。
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相当素朴な感想です。
私は、ネット上に言論を開陳する際は実名で行うべきだ、という意見って、よく理解出来なかったりします。そういう類の事を言っていて、自分は凄まじく暴力的な文章を書く人も、たまーに見られますが、あれって、実名を公表しているから、という理由で正当化してるんですかね。よく解らんですが。
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臨床心理学における科学と疑似科学 販売元:北大路書房 |
ざっと目を通しました。
良書だと思います。巷に溢れる心理療法について、どのような科学的研究がなされているかを紹介し、それが科学的に効果があるのか無いのか、という評価を行っています。
ただ、それほど読みやすい本とは言えないかも知れませんね。一般向けの本では無いので、心理学・実験科学の術語が、当たり前のように出てきます。
タイトルからは、挑発的な内容か? と思われるかも知れませんが、私としては、穏当で、中立だと感じました。
なかなかのボリュームで、心理臨床における様々な方法と、その科学的根拠についてを概観するのに、うってつけの本であると言えます。
参考:安原さんの書評⇒「臨床心理学における科学と擬似科学」|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ
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ケータイ小説と、それを読んで感動した、と言っている人を罵倒したりするのって、「もっと良いものを知った方がいい」、という「老婆心」なんじゃないですかね。ものすごーくポジティブな表現をするとね。
つまり、素組みしたガンプラを見て感動するとか、合気道で2級を取り立ての人の演武を観て「すげー!」と思う人とかに対して、石川雅夫氏の超絶パール塗装を施した物を見ろ、とか、塩田剛三師範の演武を観ろ、と言うとか、そんな感じかな。
色々なものを知って、感激の閾値を上げるのを望んでいる、と言うか。
もちろん、「自分は良いものを知っている」という自尊心もあろうとは思いますが、それは置いときます。
※私自身は、ケータイ小説の罵倒の仕方には、全く賛同していません。誰でも読める場に書く、という意味では。プライベートではいいかも知れませんが。amazonの書評で、「いかに下らないか」を書いているものを見かけますが、私には全く理解出来ない。それと、ケータイ小説に関して個人的な感想は、持っていません。何故なら、ちゃんと読んだ事が無いから。「ケータイ小説」と括るのがどれほど妥当か、という気もしますが、まあ、ベストセラーになっているものを指しているのでしょうね。
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興味深い話題⇒So-net blog:Chromeplated Rat:荒川静香の解説(フィギュアスケート)
コメント欄のやり取りもどうぞ。私のコメントは、poohさんの主張にほぼ同意した上で、大部分は、菜々子さんに対して意見したものだったのですが、ほのかに誤解されたような気も、しないでも無いです。私が書いた、
明らかなのは、我々には、よほど近しい関係で無い限り、対象の胸の内など、推測しか出来ない、という事です。解説の仕方をどう感じるかは、多分に、私達の受け取り方、つまり解釈次第と言えます。
この部分は、たとえば、荒川さんが浅田選手に個人的にネガティブな感情を持っている云々と考えるのはほとんど無意味なのではないか、という意味合いでした。もちろん、荒川さんを非難している人に対して掛かっています。私自身は、具体的に淡々と解説する事は、それ自体を歓迎すべきだろう、と思っています。そこに、絶妙な実況のスパイスが加わるのがいいですね。
ちなみに、実況云々の部分(切り出さない云々)は、実況担当者が解説者からどのように「引き出す」かもポイントかな、という意味ですね。実況が的外れな事ばっかり言っている横で、丁寧で淡々とした解説が続くと、視聴者は「噛み合って無い」感を憶えるだろうな、と。
軽く関連しそうな、私が書いたエントリー↓
前者は、競技中の実況・解説や、競技直前の選手紹介の事も念頭に置いて、書きました。
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ゲーム漬けで脳機能が低下する「ゲーム脳」に警鐘を鳴らす講演を聞いたの機に、玉湯幼稚園の保護者がゲームの機会を減らそうと結束。子どもたちは最初は「なんで」と不満そうだったが、じきに外で鬼ごっこをしたり、おもちゃで遊んだりするようになった。(引用は、原文ママ)
うーむ。この時点で、何か重大な事を、見落としているような。
子どもたちは他家でゲームに触れる可能性があるため、成功のカギは一家庭にとどまらない「地域ぐるみでの取り組み」だと実感したという。
そこまでして、ゲームから離すのか…。
ゲーム時間を減らす事そのものには、別に反対はしません。リズムを作るのは、大切かも知れないし。でもそれは、地域ぐるみでやる事なのだろうか。しかも、わざわざ、ゲームとテレビに限定して。
中2は平日平均118分、休日同147分で、全国より9分と5分長かった。
9分と5分…。ばらつきは?
時間を減らすのはいいけど、せめて、「嫌わせない」ようには配慮して下さいね。積極的に遠ざけると、それを嫌悪する、というのは、往々にしてありますから。
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何か事件が起こると、識者と「称されている」・「呼ばれている」・「どこかの誰かが言っているかも知れない」人達が、自分の経験を基に犯人像を想像し、自説をテレビなりで開陳しますね。
あれ、相当程度に危険だと思うのですよ。色々な意味で。たとえば、視聴者にバイアスを掛けてしまったり、(バイアスという意味で、前者と重なるけれど)特定の属性を持つ人々に不当な印象を植え付けたり。
そもそも。
大部分の「識者」と呼ばれている人は、ある組織の中で、仲間と連携し、様々な情報を得られる環境にあったればこそ、良い仕事が出来た訳で(だから、元○○という肩書きは、ほとんど意味を持たない)。特に、精神分析系の人が、ごくごく限られた情報から犯人像を導くのは、あれはダメでしょう。普通の認識力があれば、「それだけじゃあ、何も解らん」、となるはずです。
で、それが当たれば、優れた洞察力の持ち主として、評価される。はずれたとしても、情報が充分で無い事そのものは、皆解っているのだから、目立った批判は無い。そもそもメディアが訊いている訳ですから、メディアがその人を批判するというのは、考えにくいのですよね。何故か、民放各局で、同じ人を見たりしますし。
経験や実感を過度に一般化するものでは無いと、私は思います。
しかし、上に書いた、報道の構造。巧みと言えば巧みですね。もちろん、ネガティブな意味を込めて、ですが。
最後に本音。
恐らく大部分の事例に当てはまるであろう事を尤もらしく並び立て、さも優れた洞察と知識を持っているかの如く持論を開陳する、誰が認めたか定かで無い「識者」・「専門家」がしたり顔でものを言う状況は、正に、笑止千万であると言えましょう。
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とあるネットラジオを聞いていたら、学力低下とかの話が出ていました。
どうやら、パーソナリティの方は、(テレビか新聞かは判りませんが)メディアの報道をそのまま受けて、学力は低下している、そして、それはゆとり教育が原因、というのを信じていたみたいですね。後、モンスターペアレントの話もしていました。で、だから日本はダメになってしまう、という意味合いの感想で結んでいましたね。
それを聞いていて、ああ、メディアの情報を鵜呑みにしてしまうのは、やはりあるのだな、と、改めて、思った次第。そこからは、なかなか、ホントに学力って下がってるの? とは、考えないものなのでしょうね。結構それは、一般的な認識なのかも知れません。
たとえば、マスメディアの報道なりを見て、それに関する情報をネットで確認する、という癖があれば、色々な角度から考える事が出来るのですよね。メディアによって、ちょっとずつ内容は違うから、それらを総合して考えられる。場合によっては矛盾が見られたりして、ではどれが妥当なのか、という所に、認識が至る。
そういう意味では、まず鵜呑みにしない、というのが、メディアリテラシーの重要な因子なのかな、なんて思います。
よく噛んで食べないとね。
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某ブクマ経由。
今話題の「水素水」「活性水素水」とは何なのか(下) - OhmyNews:オーマイニュース←これを読んだ後に、
りんご習慣で「医者いらず」へ - OhmyNews:オーマイニュース←これを読むと、色々興味深く読めますね。
りんごの方の記事を見て、ざっと思いつく疑問は、
こんな所でしょうか。
それにしても、実験の説明は、解りにく過ぎますね。記事の内容だけだと、色々疑問が浮かんでしまいます。
記事の情報からだけから判断するのは早計かも知れませんが、あの動物実験の結果から、癌にリンゴジュースが効く、とするのは、さすがに気が早いように思います。少なくとも、記事を読んで納得させる、とはいかないかと(鵜呑みする人もいそうな気も…)。
戦後、わが国の医療の技術は格段に進歩した。その反面、それまで庶民レベルで行われてきた家庭医療や東洋医学が衰退した。先進国でりんごの消費量が減少したのは、じつは日本だけである。食は生命の根源だ。食生活から見直し、「医食同源」の精神を大切にすることで本当の意味での健康が維持できるのではないだろうか。
この締め括りは、無理矢理な感じがしないでも無いです。
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亀@渋研Xさんのブログの最新エントリー(PSJ渋谷研究所X: 調べたのは誰の国語力?←先にお読み下さい)に、件の記事を、学力低下を示すもの、と捉えているブログが見られた、という事が書いてあったので、関連ブログを、ちょっと覗いてみました。
ホントにそうですねえ…。
これは、もう、はっきりと言えますが、あの記事の情報から「学力低下」に一般化するのは、どう考えても、考察が不足しています。ゲームの影響とか言っている人もいるし…。
ぶっちゃけ、えー、と思いますよね。あの記事を見て情報不足に気付かない方も、なかなかね。自分の高校生くらいの頃でも、その程度の事は解りましたよ。だから、新聞記事とかワイドショーのニュースを見て、なんだそれ、と、いつも思ってた訳ですけれど(それでも全然、認識力不足でしたが)。
以下、コメント欄の補足っぽいもの。
そもそも、「岩波書店の調査の目的」が何か、というのも、ポイントだったりする訳ですね。特に一般論を引き出そうとしたのでは無く、あくまで参考資料として役立つデータとして調査を行ったのかも知れません(もちろんそれは、たった100人の意見を調べただけ、という意味で、情報は少ないと言えます)。元ネタには、
同社は「現場の先生が危機感を持っている表れではないか」としている。
とありますが(平仮名の作文、「八つ」を「はちつ」=国語力低下、教師9割が実感-岩波書店調査(時事通信) - Yahoo!ニュース タイトルは、記者が付けるとは限らないですね。そこの考えが抜けていました)、それ自体は、特におかしな発言でも無い訳ですね。調査した100人の内大部分が低下を実感している、という事なので、それは妥当。しかし、この記事の中に挿入する事によって、「岩波の調査した人、などの認識不足」すら読み取らせてしまう可能性もあったり(つまり、社会調査系の記事を批判的に見る人が、記事から推測して、調査した組織なりまで批判する。少なくとも記事だけからは、どういう意図によって調査されたかは、不明)。
ところで、小学4年の子どもが、「はちつ」と読む事、そんなに驚異的ですかね? よく解りませんね。自分とか友達がそれくらいの頃の、「漢字の読め方」なんて、憶えてませんし。
なんか、関連ブログを読むと、日本の全部の小学4年生が「はちつ」と読んでいる、と読み取ったかの様な(←言い過ぎです)論理の展開があったりで。ほんのちょっと考えれば解りますけれど、「岩波書店の調査の対象の100人に訊いた中の一例(複数の可能性もあるけれど)」、ですからね。身近にそういう子がいたら、「いや、それは”やっつ”だよ(笑)」、「あ、そっかー。」となるのかも知れませんよ。記事に書いてあるのは、「はちつ」と読んだ子どもがいた、という事だけですから、その後にどんなやり取りがなされたか、とかは、解らない訳です。
と、あれだけ短い記事についてでも、これくらい、長ったらしい文章を書いてしまうのですね。それはそうです。短いという事は、情報量が不足しているという意味でもあるから。
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このエントリー、ある部分が、「もしかしたら、こう読まれるかも」、と思い、補足しようかともしましたが、止めておきました。多分、誤読する方はおられないでしょう、多分。
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極東ブログ: [書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)
なんだかよくわからないのだが、やけくそで雑駁な印象を言うと、偽科学を問題にしている人って、なんか偽科学と同じような臭気を放つという点でそれほど変わらないような気がする。
こりゃあまた、挑発的と言うか何と言うか。「偽科学を問題にしている人」という表現が、とても曲者ですよね。物凄く曖昧。良く言えば、慎重ですが。
パークは確か、ブードゥーサイエンスをいくつかに分類して、結構詳細に論じていましたよね。そこら辺を考慮しなきゃいけない気もするのですが、どうなんでしょうね。
引用前後しますが。
ごくありきたりに言えば、本書は昨今ネットで一部流行の偽科学バッシング系の本だ。
こう書いておられるって事は、「ニセ科学」論を念頭に置いておられますね。それにしては、果たしてそれらの議論を押さえていらっしゃるのかな、と、思わないでも無いです。今一つ、よく判らない。
「クリスチャンの科学者は進化論を認めないとでも。」とか、そんな風に取れる内容でしたっけ? 手元に無いので確認出来ませんけれど。思想的なものが影響するとか、そのくらいの主張では無いのかな。確かに、パークの書き方は辛辣で、読み物としての面白さを重視しているようでしたので(前書きに書いてあったかな)、煽る様な書き方とか、ちょっと強い口調には思いましたけれども。
ところで、この本のタイトル、ダメだろう、という意見がありますよね。きくちさんも、書いておられたような。私としては、”わたしたちはなぜ「カガク」にだまされるのか”、とかなら良かったんじゃないかな、なんて思っています。ニセ科学とか疑似科学とかでもいいかも知れませんが。
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左巻さんが、脳トレと100ます計算について、言及なさっています⇒Doblog - さまき隊的科学と環境と仕事と遊び -ニセ科学ぷんぷんの「脳トレ」「100ます」
ぼくには、川島隆太氏の脳科学はある範囲では成り立っても、それが範囲を超えたところにまで適用されると「ニセ科学」になる典型のような気がします。
その通りだと思います。そして、「ある範囲を超えているか」どうかが、非常に微妙な所ですね。まさにグレーゾーン。そういう意味では、川島氏は、実に巧みであると言えるでしょう。ただ、マスメディアは、叩けるとなったら徹底的に叩く所があるので、今後批判が増えると、どうなるかは解りません。尤も、テレビで批判的に採り上げるというのは、無さそうではありますが(テレビが脳トレを好意的に紹介したという事もあるし)。
まあ、PISAの結果に、それらの単純計算作業の重視がどれほど影響しているか、というのは、よく解らない所ですが、流行った、というのは事実ですしね。慎重に分析する必要があろうかと思います。
「脳トレ」や「100ます」の過剰部分は、やっと最近、問題視されるようになったと思います。教育界の「ニセ科学」の部分を、ぼくは注視していきたいと思います。
マスメディアが採り上げたのは最近ですけれど、WEBでは、脳トレを批判的に捉える論調は、しばしば見かけましたね(私も書きました)。まさに、教育に関わる事なので、ちゃんと考えていかなければなりませんよね。脳トレや100ます計算の場合、もっと一般的に広まったものですし。
私の考えとしは、脳トレは、ニセ科学と科学を跨っている、という印象です。容易にどちらかに行けてしまう危うさは、持っていると思っています。
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<ベネッセ>ニンテンドーDSで「進研ゼミ」 来年1月から(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
これは、便利でいいんじゃないですかね。
スペースも取らないし、グラフィカルな表現も工夫出来るし。
色々出ますなあ↓
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代ゼミのセンター照準シリーズ ~英語編~ 販売元:アスク |
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日本eスポーツ協会設立準備委員会、発足記念イベント開催決定。「ウイイレ2008」、「鉄拳5DR」、「フリスタ!」の日韓戦を実施
電通スポーツ事業局竹田氏とGoodplayer.jp犬飼氏による「E-Sportsの現状と今後の展望」アジア室内競技大会のe-Sportsで金メダルを!
なかなか興味深いですね。ウイイレは、いかにも採用されそうなタイトルであります。
日本でも、どんどん普及していくといいですね。
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もし、「神の手」と呼ばれる画像を調べるなりして、ここに辿りついた方がいらしたら。
こちらの記事、及び、関連リンクを読みましょう⇒PSJ渋谷研究所X: どこまで広がる「神の手」
何らかの神秘性をあの画像に見て取った後に、真相を知れば、計り知れないショックを受ける事でしょう。でも、このまま広まるのは良くないからね…。
元ネタと、今の流行りのイメージとのギャップが凄すぎるし。ググってみると、さも自分が撮ったかのように紹介しているものも、ありましたね。世の中には、そういう人もいますからね。注意深くものを考えたいものです。自戒も込めて。
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星野奈津子、ブログに不適切発言で芸能活動停止(産経新聞) - Yahoo!ニュース
うーむ。
ブログを書くというのも、タレントとしての活動の一環なのでしょうから、事前に関係者がチェックするとか、そういう事をした方がいいんじゃいかなあ。不適切どころでは無い発言ですからね。ほんのちょっと想像力を働かせれば、絶対に書けない内容だし。もし、自分が事前に見せられたら、本気か? と思いますし。WEBに接続する環境がある人なら誰でも読む事が出来る、という部分は、認識すべきでしょうね。
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ドラゴンさんのコメントへのレスも兼ねて。
私は、典型的な、学校の授業が嫌いな人間で、「微積分なんかやって何の役に立つのだ」、という考えを持っていました。
で、後になって、数学の凄さとか、面白さに、気付いてきたのですよね。それと、「役に立っている」という事に。
そういう経験から、自分が子どもの頃に、どういうものがあれば良かったか、とか、養育者や、学校の教員に、どういう教えられ方をすれば、興味を持てただろうか、というのを、よく考えます。
それにはまず、「嫌わせない」のが重要かな、と思っています。これは、経験的な、感想ですが、社会一般的に、「わざわざ嫌わせている」、という所が、ある気がしています。別に出来なくてもいい、とか、ああいうのは一部の「アタマのイイ」人がやるものなのだ、とか。
頭の体操とかパズルとか、そういうのを好きでやる人は、結構いるのに、数学という抽象的な知識の体系になった途端に、尻込みしてしまう。そんな事がありますね。具体的な現象と結び付けられるかどうか、というのが、ポイントなのかも知れません。前にも書きましたが、学校用のテキストって、綺麗過ぎるのですよね。解る人が見れば、すっきり良く纏まっているのは解るけれど、今から学ぼうという人が読むと、恐ろしく難しい。もちろん、教科書というのはそういうものだ、という見方も出来ますけれど。でも、特に数学なんかでは、あまりにも抽象的ですよね。一般化・抽象化した概念の汎用性とか凄さを本当に「解る」には、もっと身近の現象に結び付けるなり、した方が良いと思うのですよね。学習科学なんかで研究されている教材等は、そういう風にデザインされていますよね。
真面目な話、今の、ヨガやらピラティスやらの教室みたいな感じで、大人に算数から教える教室が、広く普及すればいいのにな、とか思っています。通信教育とか社会人向けの大学とかだと敷居が高いし、そもそもある程度の知識が要求されるので、ライトな感じのがあっても良いかな、と。大人になってから、「やっていれば良かったなあ」、と後悔する人は、いると思うんですよね。私もそうですが。しかし、よしやってみよう、と思い立っても、なかなか。独学より、他人と一緒にやったり、教師に教えて貰う方が、圧倒的に合理的ですものね。大人の場合には、一応、語は憶えたりしている訳だから、「あー、そういう意味だったのね。」となって、理解も早いでしょうし。
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先日の、記号嫌いについてのエントリーに関連して。
統計の本で、Σを使わないのを強調しているものが、ありますね。
そういうのが、記号嫌いの人への配慮だというのは解るのですが、個人的には、一見小難しい記号も、すっきり便利に物事を表すものだ、というのを書いた方がいいと思うのですよね。
私の考えとしては、Σを省略したって、どうせ後で、分散の計算とか出てくるんだから、とにかく丁寧に解説するのを重視するのがいいだろうな、と考えています。記号が嫌いなのは、「記号が何を意味しているのか解らないから」だと思うので、そこをフォローするべきかな、と。
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Interdisciplinary: キゴウが嫌い、の内海さんのコメントへのレス。
私も、内海さんと同じ様な考えだと思います。
で、学校教育においては、生徒・児童――教員関係という構造があって、それは、心理社会的な事でもあるのですよね。
教師が頑張ろうとしても、子どもがほんのちょっとでも関心を持てなければ、努力が徒労に終わるかも知れないし、個人的な、キャラクターに対する「好き嫌い」も関係するのでしょう。好きな先生であれば、保護者から(記号や数学に)ネガティブなイメージを植え付けられていたとしても、積極的に興味を持つかも知れない。
※私自身は、学校の教員には同情的です。様々な拘束を受けながら、カリキュラムを進めていくのは、至難の業でしょうし。だからこそ、科学を一般に普及させる事にも努力すべきかな、と。
なんか小難しいですが、要するに、「嫌わせないようにする」って事ですね。
やはり、学校教育の次元や家庭教育の次元、また、影響力のあるメディアや人間の情報発信など、様々な要因が絡み合っているのでしょうね。
数学の知識も身近に役立っているのだ、というのを知る事が、一番重要なのだと思います。算術平均だって、立派な数学的な概念ですが、私達は普段、あまり意識する事無く使っていますものね。コメント欄にも書きましたが、「どう(何に)役立つか」、では無く、「どう役立っているか」、というのを教える方が、面白さが解るでしょうし。「何に役立つか」という観点だと、「受験に役立つ」とか、そういう、「何かの手段」という面にクローズアップし過ぎる事になって、その「何か」に関心を持っていない人にとっては、全く動機付けにならないですよね。
私も、集合とかを、早い内に、しっかりやるのがいいと思います。結構解りやすいし、面白さを理解させる工夫も出来る気もします。
私は、大村平氏の、『論理と集合のはなし』をはじめとした名著を読んで、数学の面白さに触れました。
いつも思うのは、もっとやっときゃ良かったなあ、と。プログラミングは、やっといて良かったです。論理の基本を小学生で憶えるのは、かなり役に立つと思いますね。前に話が出ましたが、昔は、小学校で、集合論やってたんですよねえ。
私が、絶対に子ども(若い人)に言わないように心がけたいと思っているのは、「数学なんか出来なくても良い」、なんて「教える」事です。
数学なんかに対するネガティブなステレオタイプを解体すべきでしょうね。たとえば、
「何の本読んでるの?」
「論理学の本。面白いよ。」
「…。」
なんてやり取りにならないようにしたいものですね。私自身、好きで色々勉強してる、と人に言った場合、大抵、物好きな人間だな、という感じの目で見られます。こちらの思いとしては、いや、面白いからやってるんだけどね、と。つまらん事を積極的にはやらないよ、って。
| 論理と集合のはなし―正しい思考の法則 著者:大村 平 |
| 微積分のはなし 上巻―変化と結果を知るテクニック (1) (大村平の本当にわかる数学の本) 著者:大村 平 |
| 微積分のはなし 下巻―変化と結果を知るテクニック (3) (大村平の本当に数学のわかる本) 著者:大村 平 |
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論理的な考えが身に着いていない、とか、それを好まない、とか、あまりものを考えない、という言い方がありますね(場合によっては、そうなった、と言われる)。
私としては、そういう事は無いんじゃないかなあ、なんて思っています。
ストーリーの複雑な物語とか、頭の体操的なパズルみたいな、いわゆる「頭を使う」ものは、それなりに、一定の人気があるんじゃないかなあ、と。コナン観て犯人を当てようとする、とか。
で、私が考えているのは、ムツカシイ事を考えるのが嫌いなんじゃなくて、「記号」が嫌いなのでは? という事ですね。
きっかけとしては、やはり、学校の授業や試験勉強かな、と。
公式なり記号なりが何を意味するかを充分咀嚼しないまま、取り敢えず型を憶えて使う。それは、内容をおざなりにして、表面をなぞるだけなので、身に着かない訳ですね。当然、「面白さ」なんて、皆無です。
興味無い人にとっては単なる意味不明な記号の羅列であっても、実際には奥深いものなのですよね。先人達の叡智の結晶。
本当は、そういうものを暗記するなんて、無意味とは言わないけれど(「試験に役立つ」とか、「後で勉強しようと思い立った時に、記憶に残っていると若干便利」、等の意味があるから)、かなりの程度、無駄な作業ですね。
じゃあ、どうすれば良いか、というと、その意味とか面白さを気付かせればいい、という事なのでしょうけれど、それを出来る人が、どれだけいるだろうか、と。先生も大変でしょうしね。
記号を嫌う教育をしてるんじゃないか、なんて感じるのは、さすがに考え過ぎかな。
毛嫌い、なんですよね。俗に言う「アレルギー」。何の役に立っているかがさっぱり解らず、しかも、それを解るためには、何らかのきっかけで、勉強してみよう、と思わなければならない。で、そんなきっかけなんて、滅多におとずれない訳で。
こういう時に、マスメディアが力を発揮するといいんですけどね。NHK教育なんかでは、いい番組とかありますね。後、たけしさんの数学の番組なんかも(ちゃんと見た事無いけど…)。そういうのが増えていけば、良い意味でのメディアの影響を、与えられるのではないですかね。マスメディアのエンターテイメントを付加する力は、やっぱり凄いものがありますからね。
あ、この間、インド式計算の本を、ちょっとめくってみました。
あれって、普通の計算ですよね。むしろ、あれが、一つのメソッド的なものとして捉えられている事に、びっくりしました。尤も、ちらっと見ただけなので、ちゃんと解ってないのかも知れませんけれど。
------
もっと言うと、「数学における記号が嫌い」、なのかも。
先入観とか、周りの人の意見とか(別に数学が出来なくても云々、とか)から、それを毛嫌いするのかな。で、それを一般化して、なんだかよく解らない記号っぽいもの全般を嫌いになる。
私は、小学4年だか5年だかの頃に、BASICを始めて、100%独学で、ちょっとしたプログラミングは出来るようになりました。そんな事、小学生でも簡単に出来る訳ですね。興味を持てば(言うまでも無いかもですが、動機は、「ゲームを作りたい」、というものでした)。
でも、数学は、もう、全く嫌いでしたね。まさに、「何の役にも立たないだろう」、という中二病的認識で。
プログラミングと、論理や数学って、本質的に繋がっているのですよね。なのに、プログラムは凄まじく面白かったけど、数学の教科となると嫌いでした。上手くいけば、プログラミングをきっかけにして数学にも興味を持つ、という方向にいけたのかも知れませんが、残念ながら、そうはならなかったんですねえ。
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遊鬱さんのブログでのやり取りを見てました。
で、こちらのブログをご紹介⇒Tsukasa Blog | 湊屋さんとふみこの、ちょっといい関係
批判を受け容れて、それに対して誠実な態度をとったという、一つの事例なのではないかと思います。※ただ、「申し訳無い」というのを仰り過ぎな気もします。遊鬱さんも仰っていますし、私も別の所で、似たような事を書きましたが、批判の根拠というのは、自分が愛好しているものを非難されたから「だけ」では無いので。
そういう意味で、藁人形ばかり攻撃する人とは正反対かな、と。
坂元氏や浜井・芹沢氏の本を基にした記事などを書かれるのを、期待します。厳しい見方をすると、「単に謝意を表明した」、というだけに見られる可能性もありますので…。
※なんだかんだ言って、批判を受け容れるというのは、かなり難しい事です。
------
超余談。
ツカサ社長さんのブログを見てみて下さい。これ以上は説明しないけど…。
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まだまだブーム続行!脳トレ最新アイテム(日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース
インド式計算、って、最近よく聞きますが、内容を全く知らなかったりします。
で、そういうのが流行るのは、別にいいと思いますが、やっぱり、脳トレ的なものと結び付けて捉えられるものなんですねえ。
みんな、そんなに脳を活性化させたいのかな。
て言うか、本当に、脳を活性化させるという売りに乗って、ドリルなりを買っているのかな。計算の効率化が出来る、という事なんじゃないか、という気もしますけれど。それは実は、元祖脳トレにも言えるのかも。なんだかんだ言って、脳を鍛えるという部分より、やってて面白いから、というのがあるんじゃないかと。
でもあれですね。脳トレ系のゲームが流行るというのは、総合的に見ると、有益な事かも知れません。それらには、ほぼ必ず、計算問題とか、図形処理の問題が入っているので、そこら辺のセンスを磨くのに、なかなか良いツールなのかも。頭の体操の本が流行るのと同じ様な意味で。DSとかWiiの普及率を考えると、ケタ違いですしね。かなり贔屓目に見ると、ですが。
そういえば、近所の本屋で、インド式の本のコーナーがあって、何故かそこに、カレーの本がありました…。単に、「インド」って括りなのか。
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ニセ科学の議論でも陰謀論の議論でも、よく出てくる話ですが、「自分を、世間に認められない悲劇の存在」と看做し、高名な科学者等に準える場合がありますよね。
よく引き合いに出されるのが、コペルニクスとかガリレイとか、ウェゲナーとか。
批判を「攻撃」と看做し、それが多くなるにつれて、「理不尽に攻撃されている自己」を、ガリレイの糾弾に重ね合わせたりする訳ですね。
たとえば、ちょっとダメになってしまった私が、次の様な主張を行ったとしましょう。
「掌にある皺の総ての長さの合計は、知能と高い相関関係がある。知能には、太陽から降り注ぐニャントロ光線を受け取る量が密接に関わっており、掌の皺は、ニャントロ光線を吸収する重要な部分なのである。」
この様な主張を唱えれば、ただちに、「何を言っているのだ」、「小学生からやり直せ」、「ムーの読み過ぎだ」、「はいはいわろすわろす」、等の罵倒の雨が、降り注ぐ事でしょう。もちろん、奇特で誠実な人間であれば、その主張のおかしさを、丁寧に指摘し、自覚を促す事でしょう。
しかし、ちょっとダメになってしまった私は、その様な批判を受けて、次の様に訴えるに違いありません。
「私の説に罵詈雑言を浴びせる批判者達は、新たな科学的原理を認めようとしない、愚かな存在である。その様な存在ばかりであるのは、悲劇的である。しかしながら、かつてガリレイがそうであった様に、私の説は、今後の科学的実証研究によって、必ずや、科学的真理の地位を獲得するであろう。その時に、批判者とその追随者達は、激しい悔恨の情に見舞われるに違い無い。」
ここで私は、既存の科学的理論等、全く意に介していない訳です。あるのはただ、持説に対する強い確信、理不尽に自分を糾弾する攻撃者に対する嫌悪、等の感情。そして、自分が真理を掴んだという強い自信。その真理を掴んだのが自分のみであるという、肥大した自尊心です。
まあ、そうなってしまうと、周りが見えなくなってしまうのでしょうね。他人の言う事など聞かないのです。自分が死んでから証明されるかも知れない、とか考えていれば、安心して死ねる訳ですし。
そこには、謙虚さのかけらもありませんね。他者の批判に耳を傾ける事も出来なくなってしまう。説得は難しいのでしょう。
なかなか悩ましい話です。
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服部栄養専門学校 - JFNオープンセサミ「服部幸應の『食育の時間』」がポッドキャスティングを開始しました
やー、こんな種類があるんですね、「コショク」とやらには。
他の所には、一理ある気もしますけれど、「粉食」はどうなんだ。こじつけに見えるし、これは、他国の食文化に対していわれなき非難になると思うのだけど…。
「濃食」…。これを「コショク」とするのは、いくらなんでも。
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「漫画・イラストも児童ポルノ規制対象に」約9割──内閣府調査 - ITmedia News
興味深い記事です。
という事で、元ネタ⇒「有害情報に関する特別世論調査」の概要(PDFファイル)
さて、この手の調査で気になる事の定番といえば、標本の抽出法。えっと、抽出法は……あれ。ここには書いてないなあ。保留。て言うか、それは、どんな資料にも書いとくべきだと思うんですけど。
個別面接って、どうなんでしょうね。無記名で集計したとしても、回答時には、バイアスが掛かる気も、しないでも無いです。
思うに、このワーディングはいかがなものかと。「有害情報」というのは、害をなす情報という意味だから、「規制すべきか」と問われれば、普通、「すべきで無い」とは答えないものでしょう。私も、「有害」な情報があれば、規制すべきと思いますよ。……ところで、「有害情報」って何? 資料に載っているのは、定義とは言えないでしょう。ともかく、面接という状況もあいまって、そういう傾向が出る事は、考慮する必要があると考えられます。
単純所持については難しいですね。知識もあまり持っていません。保留。
アンケートの並びも気になる所です。21と22の内容を続けている所とか。
ところで、ITmedia Newsの方の、”「漫画・イラストも児童ポルノ規制対象に」約9割”というのは、妥当かな。「国として規制すべきだ」と、「各都道府県の条例で規制すべきだ」を纏めるのは構わないかも知れませんけれど、「規制の対象にすべき」と、「どちらかといえば対象とすべき」を纏めて、タイトルの様に表現するのは、ちょっとどうかな、と。「どちらかといえば」というのは、回答にあたっての情報が不足していて、答えに困っている場合に、取り敢えず回答したのも、含まれているのかも知れません。
これも定番ですが。
こういう調査をもって、「世の中(日本)の9割の人は」なんちゃら、とは考えるべきでは無いでしょうね。
有害、というと、あの方を思い出します。氏は、このニュースを採り上げるんじゃないかな。
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痛いニュース(ノ∀`):亀田父「あの頃ミニ四駆が流行っててな、いつも興毅が優勝すんねん。俺がさすねん。モーター改造して」…変わらない反則
あれですよ。定められたレギュレーションのもとで、知恵を絞って改造し、マシンを競わせるから、面白い訳ですよ。
公式ルールで、ハイパーダッシュモーターを使えず、ハイパーミニモーターまでしか搭載出来ないという条件があるから、その分、本体を軽量化したりして、少しでも速くしようと試みる訳ですよ。
------------
地元の(公式では無い)大会に出たら、コースの壁が低すぎて、ハイマウントローラーが何の役にも立たなかったり。
ワンウェイホイールが、役に立っているのかどうか解らなかったり。高級なパーツを付けてるんだ、ていう見栄もありましたですね。
ボールベアリングとか、異常な値段でしたね。ミニ四駆用のドライバーセットなんて、+/-ドライバーとヤスリのセットで、600円くらいしたなあ。今でも持ってますよ。高いだけあって、かなり丈夫です。
アバンテJr.(ググりましょう)が欲しくて模型屋回っても、全く売り切れか、抱合せ販売しか無かったり。
…現在のミニ四駆の画像が載ってるけど、何だあれは? なんかカッコイイぞ。
なんだか、書いてたら、ミニ四駆欲しくなってきたなあ。
![]() |
ミニ四駆PRO TRFワークスJr. 販売元:タミヤ |
ミ…ミニ四駆PRO? 何それ?
![]() |
1/32 ミニ四駆PROシリーズ No.11 レイボルフ 販売元:タミヤ |
今はこんなのがあるのかー。
![]() |
ミニ四駆グレードアップパーツ MSシャーシ用 ハイスピードギヤ (4:1) 販売元:タミヤ |
こういうの、あったなあ。
懐かしいですな。ホライゾンとか、もう売ってないのかな。プロトエンペラーとかあったなあ。
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こないだ郵便局に行ったら、対応が若干丁寧になっていて可笑しかった。
それまでが、ダメ過ぎたんですけどね。超つっけんどんで。
荷物を送るために行ったんですけど、職員が外にいて、中に荷物を運んでくれました。そんなの初めてですよ(笑)
民営化直後だから、あんな感じなんでしょうけど。その内元に戻るのかどうなのか。
なんか、授業参観の時だけ良い子を演じる児童みたい。恒常的になればいいんだけどなあ。
サービスが良くなるのなら、それは歓迎ですね。
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某ブクマ経由⇒医学書院/医学界新聞【〔新連載〕生身の患者と仮面の医療者(名越康文)】(第2727号 2007年4月9日)
大変に面白い文章。かなり読ませます。
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Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <京都父殺害>逮捕の次女「ギロチンにしようと…」
こうしたことや、次女が「ギロチンにしようと思った」と供述しているしていることについて、野田正彰・関西学院大学教授(精神病理学)は、「父に対する憎しみが高まっていったのが基本にあり、ゴスロリのイメージが殺害の形態を修飾した。だが(凶器におのを選んだのは)弱い者が強い者に対抗するには包丁や首を絞めるのではだめで、決定的なものでないといけないという合理的判断だ」と分析する。
うーん。
よく、限られた情報からここまで推測し、それをメディアを通して発信出来ますね…。
なんでしょう、こういうケースで、「こうではないか」、という推測を立てた所で、どういう意味があるのか、今一つ解りません。何か特定の文化をネガティブに捉えて言及した場合は、良くないとすら言える場合があると思います。
「ゴスロリのイメージが殺害の形態を修飾」って。ファッションとして考えるんじゃないんですか? そういうのって。必ずしも思想的な事と絡めている訳では無いと思うのですが。当然、可能性としてはあり得るのかも知れませんが、それにしてもなあ…。
解釈というのは、かなり多様に行う事が出来るのですから、慎重にやるべきではないかと思った次第。
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安原さんにご紹介頂きました⇒高校生のための金曜特別講座、高校生のための金曜特別講座:東京大学大学院総合文化研究科・教養学部:超常現象 vs 科学――不思議をつくりだす方法――
いいですね。
高校生向けですが、一般参加も可能だそうです。無料というのもいい(これ大事)。
こういう公開講座は、どんどん開催されて欲しいですね。科学を身近に感じてもらうのは、大切だなあ、と思います。他にも、親しんでいるおもちゃのメカニズムを教える、とかね。
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一部の方にしか解らない話。
そもそも「できちゃった結婚」って、どういう意味なんでしょうね。
女性の妊娠が結婚に先行した、であれば、「できちゃった婚」と呼べるのですよね?
だとすれば、百害あって一利無し、ってのは、全然当たりませんね。
もしかして、「無計画」である事を、定義に含めている? それは違いますよね。あの論理展開からは、そんな含みは読み取れない。デキ婚は一般的に計画的では無い、というのは、ある程度言えるのかな。よく知りませんが。「できちゃった」はよくないから言い換えよう、なんて話もあるみたいですが。
もし百害あって一利無し、なら、それは論理的に、今までデキ婚をした人全てが、全く何の益も得ていない、という事ですからね。それくらい、極端で、物凄い主張をしてしまっている訳ですよ。
どう考えても、「純潔」とやらを正当化するために、無理矢理こじつけているでしょう。違います?
できちゃった結婚に、勝手に色々な条件を付加して、それを非難していますよね。あんなんじゃ、話にならない。まあ、話にならない事ばっかり書いている訳ですけれど。
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漢字の調べ方、辞書より携帯…10~30代で多数派に : ニュース : ネット&デジタル : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
文化庁のサイトにはまだ上がって無いようなので(国語に関する世論調査)、詳細が解らないのですが、記事を読んでの感想をちょっと。詳細不明なので、誤解が含まれるかも知れないです。
わからない漢字を調べる場合、何を使うかを聞いたところ
とありますが、どの様に訊いたのでしょうね。文字通り、「あなたは、わからない漢字があった場合、どうやって調べますか。次の中から選んで下さい(複数回答可)。」とかかな?
で、
こうした傾向について、文化庁国語課は「携帯電話の変換機能では漢字の意味までは分からない。求めている漢字を正確に選び出せるかどうかは使う人の国語力にかかってくる」と指摘している。
という指摘が。なんか変な気がする。解らない漢字を調べる場合、普通、意味は知っているのでは? 同音異義語がそれほど多くなければ、当たりをつけるのも、そんなに難しく無いでしょうし。それから、これは、質問の仕方にも関係しますが、携帯電話で調べるというのは、変換機能だけなのかな。辞書機能のあるケータイも、沢山あるでしょう。後、複数回答ありだから、ケータイ(の変換機能)で解らなかったら辞書を引く、という事も、あると思います。「携帯電話の漢字変換機能を使う」のは、「携帯電話の漢字変換機能以外を使わない」事を、意味しないですし。
個人的には、紙の辞書は使っていられないです(調査は、なんで、辞書と電子辞書が、分けられてるんでしょうね)。アクセスに時間がかかりすぎるので。紙の辞書を引く時間があれば、ポータブルの電子辞書(広辞苑)と「goo 辞書」とWikipediaを参照出来るので。
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Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <長野県警>防犯メールに和田アキ子風の髪…不適切とおわび
不適切かどうかはよく判りませんけれど(まあ、不適切なんでしょう)、ちょっと観点を替えて考えてみると。
和田さんは、日本中のかなりの人が知っている人でしょうから、とても強くイメージが固定されると思います。で、場合によっては、もし目撃しても、先入観があるが故に、見逃してしまう可能性も、ありますよね。
もちろん、初めの目撃者が、個人の名を挙げたくらいなので、「相当似ている」のかも知れませんが。和田さんの髪型は、それ程頻繁に見かけるものではありませんしね(私は見た事無い)。類似度が高い場合は、効果は絶大でしょうね。
予言。
次回の『アッコにおまかせ!』で、この件に触れられ、和田さんは、これを笑い飛ばす事でしょう。
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ふと思った事。
勉強時間と視力の相関関係って、調べられてるんでしょうか?
直感的には、負の相関関係が見られるのではないかと思っています。
で、仮に、それが確かめられたとして、「目が悪くなるから勉強はするな」、とは言いませんよね、多分。
「目が悪くなるから、あまりやり過ぎない様にね」、という感じになるのかな。
でも、マンガやゲームだと、「するな(読むな)」に近い注意のされ方になるんじゃないかな、と。言い方は、様々でしょうけれど。
前に書きましたが、社会にとって役立つか、あるいは、身に着ける事によって、社会的に高い評価を得られるか、という視点で、判断されるのだと思います。勉強の場合、「仕方が無い」と看做されて、ゲームなんかの場合、「何の役にも立たない事で…」となる気がします。
まあ、当たり前と言えば、当たり前ですね。
プロの格闘家に対して、「怪我する可能性があるからやるな」、とは、あまり言いませんよね。暴力に対する嫌悪感が強い人は、言うかも知れませんが。一般的には、怪我をしているのに頑張る選手とか、応援するじゃないですか。下手すると、取り返しがつかない状態になるかも知れない怪我を抱えている選手を、応援したり。
結局、文化が、社会一般にどう見られているか、という。位置づけ、ですね。ゲームやって腱鞘炎になった人には、「…バカ?」となるでしょうけれど、料理人が重い鍋を揺すったりして腱鞘炎になったら、「大変だねえ…」と言われるでしょうね。
ちょっと別の例で。同じマンガでも、読み過ぎで肩が凝った、という人は、「…バカ?」と言われるでしょうけれど、漫画家が、激務続きで肩がパンパンになった、というのを聞いたら、「大変だねえ…」となるでしょう。
そういうものなのだと思います。「メシが食えるか(メシを食っているか)どうか」、ですね。
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Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <中央教育審議会>「武道」必修化を大筋了承
何故、武道を必修化しなければならんのか、よく解らない。
体育の授業で武道をやって、
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」
という目標が、達成出来るんですかね?
弓道の様に高度に形式的なものはともかく、武道って本質的に、暴力と重なる所がありますからね。人を投げたり、竹の棒で相手を打ちつけたりする訳ですから。そういう所は、よく考えるべきだと思うのですよね。
-----------
ここからは、極めて個人的な意見。
私は、武道の必修化など、する必要は無いと考えます。
より身体能力の基礎的な部分を向上させる体操なりを開発し、それを組み込むべきでしょう。
武道は、相手を攻撃し、また、攻撃から身を守る術、即ち、「技術」です。そういう技術を身に着ける場合、必ず、「心構え」をも鍛えなければなりません。
幼少の頃から、優れた指導者の下で武道をやってきているならともかく、中学の体育の授業でやるなどという、「付け焼刃」なやり方が良い効果を及ぼすか、甚だ疑問です。
上に「心構え」と書きましたが、当然、「指導者の心構え」も、問われる訳です。本質的に暴力である武道を子ども達に教えるのだから、優れた精神性を持った指導者でなければなりません。その様な指導者を、確保出来るのでしょうか。体育の教員に、研修でもするのでしょうか。武道というのは、具体的な技術と、様々な理念との集合です。短期間だけ学んだ人間が、それを正確に理解し、実践出来るのでしょうか。
現に、武道をやっている人間が、
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」
この様な態度を身に着けているのですか? ここで言われる「伝統と文化を尊重」とは、どういう意味でしょう。それは果たして、武道を行う事によって、確実に養われるのでしょうか。
※誤解されると何なので、書いておきます。
別に、武道を体育でやるべきでは無い、といっている訳では無いです。必修化は要らないでしょう、という事。
もしなったらなったで、体育の授業だから、まあ、楽しんでやればいいんじゃない、という考えです。たまに、武道が、暴力性の象徴であるかの様な事を言う人がいますが(私が書いたのは、実体的には暴力だ、という意味)、私は、その考えには、与しません。そこから関心を持てば、歴史なりを学べば良いし。ですけれど、何で、「伝統と文化を尊重」したりする「ために」、やらせなくちゃならないんですか、と思うのです。そういうのは、家庭の教育に任せる範囲の事でしょう。伝統文化に触れさせるのも良いし、新しいものを学ばせるもの良い。だけど、学校でわざわざやる事か? という感じです。
体育の授業でやるのだから、色々な種類の身体運動があるのだ、というのを教えるためにやらせるのなら、それは別に構わないと思いますけれど。実習は選択にして、保健の授業で、歴史なりをやるのが良いですかね。
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質疑応答公開 :: 事象の地平線::---Event Horizon---
とっても興味深いです。勉強になりますね。
こういう講義(質疑応答の内容から推測)を受講出来た学生さんは、かなり得したんじゃないですかね。身近の事と結び付けて説明されて、解りやすかったでしょうし。物事を懐疑的に見る事の大切さを思い知ったのではないかと、感じました(混乱したり、不安がったりしている学生さんも、おられたみたいですが)。本当は、高校までにもそういう授業があれば良いのだと思いますが、高校までの授業のカリキュラムで学ぶのは、なかなか難しいのでしょうね。出来たとしても、優秀な先生が、「余談」として話す事、に含まれるのかな。「面白い先生」というのは、生活に即した話を、授業の内容と絡めつつ話す先生、ですよね。
高校までの授業って(少なくとも、私がいた所は)、洗練された知識を憶え込まされる、という所があるので、面白く無いんですよね。無駄が無さ過ぎる。それをどう工夫するかが、教師の腕、なのかも知れませんが、受験に必要な知識を詰め込む、という事もしないといけないので、大変でしょうね。私の場合、進学校ではありませんでしたが、資格試験を受けさせられる学校でしたので、やっぱり、知識の暗記、でしたね。今や、ほとんど記憶にありません(やり直せば、全く勉強した事無い人よりは、理解までの時間は、短くてすむでしょうけれど)。
前、テレビで、どっかの高校が、良い授業しているのを見かけたなあ。どこだったかな。まずテーマを決めて、それについて、生徒が自主的に研究していく、という進め方をする授業だったのですが。
どうでもいいけど、ビリーズ・ブートキャンプが絶賛されていたのが、なんか可笑しかった(笑)
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apjさんのアナロジーをお借りします⇒ニセ科学批判はレッテル貼りではなくレッテル剥がし :: 事象の地平線::---Event Horizon---
実際の、主なニセ科学批判――「科学的」という「レッテル」が貼られた瓶から、レッテルを剥がす。もしくは、上からレッテルを貼り直す。レッテルを剥がす、というのは、何故そのレッテルが駄目なのか、どこがおかしいかを説明する、という意味。レッテルを貼り直す、というのは、どこがどうおかしいか、という説明と、「ニセ科学」を書いたレッテルを貼る、という事。場合によっては、「ニセ科学」そのものについての説明も、書かれている。
レッテルに書かれた「ニセ科学」の文字は、説明書きより大きいし、目立つ。説明書き、読まない人は読まない。どんなに注意深く、説明を書いたとしても。
とはいえ、「ニセ科学」というレッテルが貼られた瓶に関心を示しているのだから、多くの人は、「何故そうなのか」、という所にも、興味を持っているのではないか、という推測も出来る。「ニセ科学」を論ずる場合には、「科学」そのものについて、考えざるを得ない。「ニセ科学というレッテルが貼られている」事実だけを欲しがる人が、どれ程いるのだろうか。いるとして、何の目的で欲しがるのだろう。
最も基本的な事として、「科学的」というレッテル自体が、「科学の手続きによって実証された」という意味を示す記号である。
「科学的」というレッテルを貼った側にも当然、何故それを貼ったのか、という事が、説明出来なくてはならない。それは、科学的に妥当だと認められた手続きによって実証された、という「事実」に基づかなければならない。本来、相当厳しい審査をクリアしなければ貼る事が許されないものを貼っているのだから、説明出来て当然のはずなのである。
そもそも「科学的」というレッテルを貼った人が、「ニセ科学」というレッテルを貼り直されているのを見て怒るのは、当たり前。確信を持って、「科学的」レッテルを貼ったのかも知れないのだから。当然、何故「ニセ科学」レッテルを貼ったか、という事が、説明出来なければならない(その説明には、色々なパターンがあるだろう。それは、瓶の中身による)。レッテルを貼り直すには、それ相応の、リスクがある。
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聴衆の前で、瓶からレッテルを剥がす、あるいは、上から新しいレッテルを貼っている、という行動をしている人がいる。どうやら、新しく貼られたレッテルには、「ニセ科学」という文字が書いている様だ。他にも文字が書いてある様だが、上手く読み取れない。レッテルを剥がしたり貼ったりしている人は、一所懸命何かを説明している。時には、瓶の中身を取り出し、それを見ながら説明を続ける。
聴衆の一人が、「ニセ科学のレッテルをきちんと貼ってくれるのを求めていた。ごまかさずに貼って欲しい」と言った。
成る程。「瓶にレッテルが貼られるという事実」を求めているのか――。
参考:技術系サラリーマンの交差点: 私が問題性を感じた理由(聴衆の一人――のくだりは、引用文を参考)
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アナロジーを正確に用いようとするのは大変です。厳密にたとえようとすればする程、辻褄が合わなくなってきます。当然ですね。異なる現象なのですから。
瓶の中には、ある纏まった知識について書かれた説明のコピーが入っている、とでもして下さい。
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はてブ経由⇒全国こども電話相談室[にんげん・せいかつ]
…。
2002年かあ。出始めの頃ですね。
他に色々な質問がありますねえ⇒全国こども電話相談室[にんげん・せいかつ]
素晴らしい問いばっかりだ。
答えるに相応しい人を、ちゃんと選ばないとね。
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津村さんの仰る事に感じる違和感は何だろう…。上手く纏まらないので、引用しつつ、検討してみます。
意図(理念)は私も十分納得しています。納得していることを繰り返し強調していただいてもこれ以上納得できないので話が進展しません。
これは、ここまでの議論を見ていて、そう感じますね。津村さんがどの様に「納得」なさっているのか、今一つ解りませんけれど。
「レッテルを貼ってほしい」という一般の人からの熱い期待がある中、専門家としてその期待に応えることに注意が向いてしまうのは人間的に自然なように思います。
「レッテルを貼ってほしい」という所の解釈が、難しい。たとえば、テレビなり新聞なりで、「ゲーム脳はニセ科学だと言える」、と主張するのは、「レッテルを貼る」、と言えるか、とか。「ニセ科学批判者は、色々な説にニセ科学のレッテルを貼って満足する集団である」、と「レッテルを貼っている」様に見える、と言うのは、幼稚な物言いかな。
私が「現実の困難さ」を感じた材料は、菊池さんのウェブログよりもむしろ「ニセ科学批判」を展開するその他の掲示板やブログ群です。それと、菊池さんと柘植さんの氏名で検索すると出てくるページ群です。
これはもう、具体的に論じて欲しい、としか言い様が無いです。直前にも書いてある様に、津村さんは、それを示して批判する、という事は、なさらない方針の様ですが。「菊池さんと柘植さんの氏名で検索すると出てくるページ群」、って、曖昧な表現だなあ。ググって上の方に出てくる、という意味なのかな。まさかとは思いますが、吉岡氏のサイトの事ではありませんよね。
内容的に、理念を説くものよりも個別の「ニセ科学」をめぐる論争(あるいは批判される側との確執)を多く目にしました。そして、書き手側の熱の入れ方や記事数の多さは、個別の論争や確執に関わるもののほうが理念的なものよりも勝っていると感じました。
さて、ここが今一つ解りません。個別の論争や確執があるというのが、それ程問題なのでしょうか。そもそも「確執」とは、どの様な事を指すのでしょうね。具体的に示してくれればなあ…。いや、他人のやり方にとやかく言ってはならない、というのは、思うのですが、津村さん自身が、ニセ科学批判者に批判を加えておられる訳ですから、何だかすっきりしないのです。
そのような材料を「科学とは何か」を伝える目的に使うことの困難さを感じました。
あれ。ニセ科学についての議論、”「科学とは何か」を伝える目的に使う”、のですか。私は、ニセ科学を論ずる際には避けて通れないので、考えざるを得ない、という認識に至る事はあっても、初めから、「科学とは何か」を考える際に、ニセ科学を題材にする、というのは、積極的に主張されているものでは無い、と考えていました。限り無く黒に近いもの、とか、多くの専門家によって誤っていると判断されている過去の事例なんかは、ニセ科学の典型として、「材料」として用いられる、というのは、あるのかも知れませんけれど。頭蓋計測学とか。でもまあ、これは、論者によって異なるものでしょうね。
問題なのは批判対象がピックアップされる手続きと考えます。批判されて当然なものが批判されるのはいいとして、批判されるべきなのに運良く対象にならないものが発生するのは不公平でしょう。
これは違うでしょう。優先順位問題ですから。きくちさんも強調されている事だし、そもそも、ニセ科学的なものを網羅するのは無理です。大体、「批判されるべき」とは、どういう観点から決めるのですか? 私自身は、ゲーム脳を率先して批判していますが、それは、自身の利害も絡んでいるからです。それと、ゲームに関する知識が、それなりにあるから、ですね。そもそも、何らかの「科学的な」説を主張しているのですから、それは、批判的に検討されて然るべき、でしょう。そういう意味で、
個人がボランティアでやっている段階では仕方ないかもしれませんが、多数の科学者の同調を得て進む場合、しかも「被害防止」でなく「科学の啓蒙」が目的であるなら、公平さが求められると思います。
これは、的外れにも思います。もう一度同じ事を書きますが、ここで言う「公平さ」とは、何を意味しているのでしょうか。
ニセ科学は蔓延しているか、という疑問についての自分なりの考えは、別のエントリーのコメント欄に、書きました。これについては、論者によって、考えは異なっていると思います。少なくとも私は、「ニセ科学が社会に広まっているのは、社会全体の科学リテラシーが低下しているからだ」(左巻さんなんかは、こういうお考えに見えますが、どうなんでしょうね)、という主張には、今の所、与しません。個人的に「病理」という語を使わないのも、コメントに書いた意図からですが、そういうのも、解釈の問題ですからね。自身の語感を一般化するものでも無いでしょう。
まとめ部分は、何だかなあ、という感じです。「コミュニティ」と形容し、一括りにして批判なさったのに、最後はそれですか、って。これ、偽らざる感想です。
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具体的な対象を考えずにメタ論を展開したのだとすれば、それを正直に仰れば良いと思うのですよ。それ自体は批判されるべき事ですが(「疑似科学批判の流行り」という社会現象を対象にしておきながら、それに関わる人物に関する言及が出来ないというのは、おかしい。初めから、単にメタ論をぶつための材料として、「疑似科学批判」を持ち出してきた、とすら考えられる)、それを認めれば、そこから具体的な議論に入っていく事が出来る。そうすると、有意義なやり取りを行う可能性も出てくる訳で。もちろん、それが出来る人は、そもそもああいう書き方はしないよ、という事も言えるかも知れませんが(他のエントリーの書き方からも、それが推測出来る)、それは一応置いといて。
で、質問にまともに答えようともせずに、とにかく他人より一段階メタレベルであろうとするかの様な事を、いつまでもやっていたら、全然駄目ですよね。お話にならないです。
これは、このエントリーを執筆している時点での感想です。論宅さんが今後、実名を挙げて批判なさる可能性も、無いとは言えませんが、それは、望み薄、でしょう。apjさんときくちさん、とのやり取りにおいて、それを仄めかしてすらいないのですから。あまっさえ、2007-08-21 00:41のコメントの様なレスをしています。当然、今から、どんな人間がニセ科学批判を展開しているだろうか、というのを調べ、ニセ科学批判批判を論じても、駄目ですね。調べれば調べる程、代表的なニセ科学批判者が、科学の絶対視などしていない事に、まともな認識力があれば、気付くのですから。
未だによく解らないのですが、「科学を絶対視」って、どういう意味なんでしょうね。
※「擬似科学批判の流行り」について。
「流行る」と表現しているので、一定の期間、多くの人の話題に上っているという現象を指しているのは、明らか。そして、最近、WEBや新聞、新書等でニセ科学批判をしている人は、限られている。その方々を、「流行りを担っている」、代表的なニセ科学批判者だと考えると、きくちさんや左巻さん、あるいは、こなみさんやapjさん、田崎さん、『メディア・バイアス』を書かれた松永氏、等々が、まず挙げられる。特にきくちさんは、NHKの番組に出演なさった事もあり、ニセ科学批判者の筆頭として挙げられる。ニセ科学でググってみると、よく解る。
とすると、疑似科学批判者として、上に挙げた方々を想定していないというのは、明らかにおかしい。ニセ科学が話題になったのは、田崎さんの水伝関連の文章と、きくちさんの番組出演が、大きなきっかけだから、「言及出来ない」事自体、考えにくい。そうだとしたら、「疑似科学批判が流行っている」という知識だけを持っていて、誰が何を言ったかは具体的に知らない、という事。要するに、「流行り」については、具体的な認識を持っていない、と結論出来る。
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前にコメント欄で紹介したのですが、改めて、言及してみます。※強調等は、原文ママ
「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている彼らを、私は「ニセ科学者」と呼んでおります。
”「自分は特別な存在だ」と勘違いし、虚構の正義を振りかざして悦に入っている”科学者をニセ科学者と呼ぶのは、別に構いませんが、具体的に、「彼ら」と、きくちさんや他の方々を指して用いておられますね。他人の心性について憶測を巡らせ、それを基に非難を繰り広げるのは、あまりよろしくないと思います。
この後に氏は『マイナスイオンの商品が多く売れたのは、消費者がマイナスイオンの健康効果に科学的な裏付けがあることを信じたからだろう』と主張していますが、そうでしょうか。そんな馬鹿なことありません。消費者は、科学的な裏付けなど求めておりません。そんなことを気にするのは神経質な科学者だけで しょう。
「科学的な裏付けがあることを信じ」るというのは、必ずしも、具体的に、「この商品は、科学的にきちんとしたテストを行った上で市場に出回っているのだろうか」、と思惟する事を、意味しません。「この商品にはちゃんとした効果があるのだろうか」、と考える際に、「企業は科学的に根拠の乏しいものは出さないであろう」、という前提を持っていたり、テレビショッピングで「科学者」や「データ」が出てくるのを観て、「ふーん、科学者が色々やってるんだ…」と認識する事等も、含んでいます。いわば、「何となく」信じている、というのを指している訳です。
洗剤が汚れを落とすのに、化学的メカニズムが働いている、というのは、ほとんどの人間は知ってます。「効果がある」ものを求めるという事は、直観的に、科学者や企業によって研究なされたものである、というのを、認識している訳ですね。市場に出回る製品に対する信用というのがそもそも、科学に対する(何となくの)信頼を含んでいる、と考えられます。「科学的な裏付けがある」と認識するのは、「科学者がお墨付きを与えた」とか、「新技術!」とパッケージに書いてあるのを信頼する、という意味も含めてあるのですね。
科学が証明できなくても、我々の体は現に 健康になっているのです。それで十分なのです。ゲルマニウムも然りです。
「現に健康になっている」というのを、どの様にして評価しているのでしょうか。体験談?
事実は、こうではないでしょうか。「ゲーム脳説を聞 いた親や先生は、ゲームが脳に与える負の影響を心配し、子供にゲームを止めるように言った」。ただ、それだけなのです。親や先生は、ゲーム脳説におけるα 波やら何やらという根拠など、考慮していません。ゲームは脳に害を及ぼすようだ。だから、止めさせなければ。それだけです。心配だから、 止めさせる。ゲーム脳説を受け入れた親や先生が、子供にゲームを止めるように言うのは、躾の根拠を科学に求めた結果ではないのです。
意味が解りません。ゲーム脳の提唱者が「科学者」だという事を、忘れていませんか。森氏の講演会では、脳波のデータや、神経科学の専門用語等の、「科学を仄めかす」ものが用いられる事は、ご存知ですか。隣に住む中学二年生の子どもが同じ事を言えば、「同じ様に」信じるでしょうか。情報を解釈する際、発信者の属性を考慮する事は、ありませんか。そもそも、脳の働きと心が密接に関連しているという考え自体が、「科学的」なのです。
何にせよ、科学者の代表である氏と我々の間には、日常生活における認識のずれがあることは間違いないでしょう。
きくちさんが「科学者の代表」である、とする根拠がよく解らないし、「我々」が誰を指しているかも解らない。恐らく、「科学者以外」の集合を示しているのだと思われますが、それを「我々」と言われても、という感じです。私は科学者ではありませんが、きくちさんの仰る事に、大いに賛同する者です。無茶な一般化を行うべきではありません。
「いくら科学が発達しても将来的 に解明されることは絶対にない」、ということではないと、氏に代わり弁解しておきます(氏は後者のつもりで主張していることは明らかですが)。氏は、続い て極めて危険な発言をしています。
何故にきくちさんの代わりに弁解なさるのか、さっぱり解りませんが、それは置いといて…。ここの直前の文章も併せて、説明が、よく理解出来ませんね。後者というのは、括弧の中だけを指しているのか、「ことではない」まで含んでいるのか。
曰く、『水に心はない』、と。繰り返しますが、これは極めて危険な発言です。「危険な」という言葉は以下の意味で使用し ています。すなわち、「心(意識)」というものがどのように生じているのか、現代脳科学を以ってしても解明されていないのに(ニューロンの活動が精神活動 に対応していることは分かっていますが)、軽々しく「水に心はない」と言ってしまうことです。
ここで言われる「心」とは、自己意識(色々な概念があると思いますけど)の事だと思いますが、それが神経細胞の活動に対応しているのは、認めておられる訳ですよね。科学的には、その通りです。それを前提にすると、「水に心は無い」という言明は、全くおかしくありません。ここを否定すると、科学の話では無くなってしまいます。
氏は、小学校の教師が「水に関する説」を道徳の授業で紹介したのは、道徳の根拠を自然科学に求めたからだと思い込ん でいますが、そんな馬鹿なことはありません。小学校の教師は「水に関する説」を、言葉遣いについて考えるための単なる題材として取り上げたのであり、そこに根拠(~だから・・・するべし)など求めてはいません。
TOSSの授業実践の例とか、それに対する児童の感想とか、見た事ありますか。「何故」題材として用いたのですか。つまり、選択した根拠は?
恰も、科学者以外の人間がニセ科学批判を展開していないかの如く看做しているのが、根本的な思い違いですね。むしろ、科学者ステレオタイプを強固に形成していて、それを前提にしてしまっている、という印象。
彼らはゲーム脳説の最も重要な主張、「脳が壊れる」ことを恐れた。根拠はわからないが、なんだか危ないという話だから、ゲームをやめさせた。科学的根拠の存在がゲーム脳説受容の決定打になったのではなく、彼らは根拠から切り離された主張だけを受け入れたのだ。
意味が全く理解出来ません。上にも書きましたが、「誰が言った」という情報は、考慮しないのですか。「大学の先生が言ったのだから」、という認知が働くというのは、ありませんか。「大学の先生が言っている→大学の先生は、専門的な科学の知識を持っている→この先生の言っている事は、科学の知識に基づいて認められているのだろう」、という認知は、認められませんか? 一応言っておきますが、これは、一々顕在的・分析的に思考する、という意味ではありませんよ。
誰がどう考えても、2.のように親は考えた、とする方が自然ではないか?この点について反論があるなら聞いてみたいものだ!
「何だか危ないようだね」と発言する事は、科学的根拠を意識しない事を、意味しません。既有知識や直観的認識というものを、もうちょっとお考えになった方が、よろしいでしょう。
例えば、人は風邪をひいたら薬を飲むが、なぜ薬を飲むかといえば、それが効くからだ。決して、薬物の分子的作用機構を気にしてはいない。しつこいようだが、一般市民が信じているのは効果であり、根拠の存在ではない。
どうも、「科学的根拠を信じた」というのを、「ある程度分析的に考え納得した」、と考えておられる様ですね。そう読めます。大部分の人が、薬の具体的な生化学的メカニズムを気にしていない、というのは、その通りでしょう。で、そんな事は、多分、誰も言っていません。
科学者である氏と一般市民の間には相当な認識のずれがある。疑似科学を論じる前に、まず、市民に歩み寄るところから始めてはいかがかな?
kiklogで聞けばいいのにね。私も一般市民ですけど、ブログ主さん(お名前が解らないので、失礼します)と、相当な認識のずれがあります。一般市民も色々、って事かな。
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Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 「言語力」育成、脱「ゆとり」も…中教審が指導要領改定へ
能力が下がったのかどうかは、よく知りませんけれど、向上をさせようとする事自体は、良いのだと思います。
問題は、何をするか、ですけれど。
学校で指導がなされていない、と言うより、直感を重視して、物事を分析的に捉えようとする事が軽視されている(今も昔も)、というのが駄目なんじゃないかと思う、今日この頃。そしてそれは、近年、マシになってきているのではないだろうか、と思う、今日この頃。
国際的な学力調査で、ポイントだと感じたのは、無解答が多い所なんですよね。日本人的心性、というものがあるとすれば、「間違った意見を言うくらいなら、黙っている」、というのがあるんじゃないかなあ。良い悪いではありません。それは、内省を促し、より良いものに仕上げようとする方向へ行くかも知れませんし、完全主義的になって、自己評価を過度に下げるかも知れません。一概には言えませんね。
お互いの意見をぶつけ合い、相互批判する事に慣れさせるとか、そういうのが重要だと思います。批判=文句(ネガティブな意味での)・非難 と捉えられない様な認識を育てる、と言うか。
後、個人的には、中学辺りで、言語学(とか記号論とか)を学ばせるべきだと考えています。
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Yahoo!ニュース - 時事通信 - 名前は「@」、読みは?=文字使用も多様化-中国
Yahoo!ニュース - サーチナ・中国情報局 - 【中国】何と読むのか?「劉@」君 奇妙な名前登場で困惑も
これは…。どうなんでしょうね。
そういえば(全然話は違いますけど、名前繋がりって事で)、日本で、子どもにとんでもない名前を付けようとした人が、いたなあ…。
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Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 「石屋製菓」返品処理で期限改ざん…課長提案、部長が容認
頻繁に食べる訳ではありませんが、大好きなお菓子なんですよね。
こういうのって、ばれる事は無いだろう、という認識が働くんですかね。ばれても大した事は無いだろう、という認識では、多分あり得ないので。
石屋製菓アイスに大腸菌群、「白い恋人」賞味期限も改ざん : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
「深く反省している。今後も調査を進めるが、これ以上の問題はないと思う」などと話した。
「これ以上の問題はないと思う」って、何に対しての発言なんでしょうね。品質管理上の問題は改善したから、衛生的な問題は無い、という意味なのかな。それとも、今回以前に同様の問題があったという事実は発覚しない(ばれない、という意味では無いです)だろう、という意味か。後者の意味合いで発言したのだとしたら、「今回たまたま起こってしまったのだ」、というのを強調したかったのかな。たまたまでも起こしちゃいかん訳ですが。
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Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 相次ぐホームレスら襲撃… なかなか生かされない教訓
「最近の少年は他者へのやさしさと、“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。だから、犯行がエスカレートする」
私は、違うと思う。「“こうされたら人が困り、大変なことになる”との想像力が欠如している。」のでは無くて、「この人達が困り、大変なことになっても構わない」、といういびつな認識があるのではないか。それは明らかに、差別心だろう。その心性が、どの様にして形成されたのか、私には、推測する事しか出来ない。しかし、「想像力が欠如」しているのでは無く、想像力が歪みきっている、というのは言えるのではないだろうか。(尤も、広い視点をとれていない、という意味で、相対的に想像力が欠如している、とは言えるのかも知れないが)
あなたの周りにもいないだろうか。ホームレスが人生の落伍者であると看做し、その概念そのものに、侮蔑の言葉を投げかける人が。自身より下層の存在であると位置づけ、優越感に浸っているのであろうか。
その様な言葉を聞いている子ども達は、どう思うだろう。それを考えるのが、「想像力」だ。
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某ブクマ経由⇒制服の子に悪い…クールビズ廃止、西岡議運委長が突然提案 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
それより、子どもの制服を廃止すればいいんじゃない?
子どもの頃、何故自分達は自由な恰好が出来ないのだろう、という問いに、大人から与えられた、よく解らない回答(自分が言われたのを思い出して書いてます。うろ憶え)。
こんな感じでしたね。
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ニューストップ > トピックス > 芸能 > 若槻千夏 > 若槻千夏、Coccoが堂々「うんこ」発言連発のワケ - Infoseek ニュース
「女性が中性化している」と分析する。
へえ。
「女性が開放的になり中性的になっている。今どきの女子大生は男性がそばにいても平気で『おしっこ』と口にする時代。女言葉が残っているのはテレビドラマの世界だけですよ」
ホント? いや、よく知りませんが。
Coccoさんの方は、単なるメタファーじゃないですか。それくらいは使うと思いますけど。音を発する事自体が、って意味なのかな。
言葉遣いが変わったとして、それ、中性化とか、そういう問題なんですかね。
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テクノラティで、「水伝」で検索すると、批判的なブログがヒットし、「水は答えを知っている」で調べると、概ね肯定的な紹介が見られます。
「水伝」が、ニセ科学について議論している人の間で使われる専門用語?的用いられ方をしているから、でしょうね。そういう議論を知らない人は、「水伝」と略す事自体も、知らないのですね。批判的に捉えている人には、「水伝」という略称が定着しているのでしょう。
ブログ検索をすると、水伝を肯定的に捉えているブログが、やはり一定数見られますね。信じるのは自由だ、としか言いようがありませんが、もうちょっと、「言葉」について考えてみて欲しいですよね。自然科学以前の問題として。dlitさんのエントリーを読んだりすれば、水伝のおかしさには気付けると思うのですが、そこまで辿りつく機会が、なかなか無いのでしょうね…。悩ましい事です。批判的な意見を冷静に見られるか、というのも、関係するでしょうし。ソシュール読んでみれば、と言う訳にもいかないしなあ。
一番いいのは、こーださんとかが、「『一般言語学講義』、おもろい!」とか言ってくれる事なんですけどね。…はい、妄想ですよ。でも、カリスマ性の高い人が、勉強するのを促して欲しい、という部分は、結構本音だったりします。良くも悪くも、影響は大きいのですから、科学的・論理的思考の大切さを促したりする様な人がいれば、いいですね。
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痛いニュース(ノ∀`):TV番組製作者「今のテレビはつまらないとは思わない」…ネットの影響だという意見も、テレビってどーよ?「つまらなくない!」とTVマン|Ameba News
自然と“人気者大集合”の番組が増えるのです。冒険がし辛い時代です
ああ、自覚はしているんですね。「冒険」が何を指すのかが、よく解りませんが。って、広告代理店の人の話か。
「ゴールデンの演出も出かける30代のチーフディレクター」氏の意見、頷ける所も(少し)ありますが、開き直りと取れなくもないですね。
どうでもいいんですが、最近の『めちゃイケ』、今一つだと思うんですよね。こちらが厭きたのか、番組が以前と変わったのかは、不明ですけど。
あんまり、「つまらないもの」を採り上げて云々するべきではありませんが、細木数子さんの料理を紹介して、周りにいる芸能人が感心する、っていう図は、どうにかなりませんかね。後、「○○流」とか言って、料理をする人なら当たり前の様に知っている基本技能を、さも画期的な方法であるかの様に紹介するのは、やめて欲しい。わざとらしすぎる。白々しい。
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無自覚に形成してしまうバイアスについて考えたエントリーを、集めてみました。
Interdisciplinary: 批判対象に対する的外れな思い込みの形成
かなり微妙な日本語なので、簡潔に纏めます。
「数字が全てじゃない!」と発言する人の思考
- 客観的データの提示を求める人間に、「冷たい」という印象を持つ。
- 体験や実感を過度に重視する。
- 実証科学的データは、現象の一面を切り取ったものだと考える(それは部分的に正しい)。そして、データに還元する事そのものを忌避する。
- 実証データを重視する人に対して、「実感や経験の軽視」を見て取る。これは、飛躍である。
Interdisciplinary: 理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成
高度な実践が目的であるのに、理屈を言って、パフォーマンスが伴っていないのなら、それは、批判されて然るべきです。
しかしそれは、「理屈を言うべきでは無い(現象を分析的に捉えようとしてはならない)」、という事では、ありません。
果たして、自分が教えている事は、客観的に見て、合理的であるのだろうか、と考えるならば、直感・実感を、一旦相対化してみる必要性に、気付くはずです。
「擁護システム」というのは、高岡英夫氏提唱の概念で、上位者が自身の立場を守ろうとするシステムの事です。それが、無意図的に形成された場合には、「潜在的擁護システム」と呼ばれます。要するに、「理屈を言うな」、という「教え」が、上達の対象(武術等)に対する分析的・探求的思考を失わせる機能を持つ場合がある、という事ですね。「理屈はいいから取り敢えずやってみろ」、というのは、全くの初学者には有効ですが、それをいつまでもやってはならないのです。上達の機会を逃す事に、なりかねないのですから。
Interdisciplinary: そんなもんやってて何になるんだバイアス
つまり、「社会の役に立つか」、という観点が、偏見の基になるのではないか、という話です。「やる事によるメリット」が認識しにくいので、「有害性」を論ずる事に躊躇しない、という。サブカルチャーは、恰好の攻撃の的、なのではないでしょうか。
自分が嫌いなものは、「社会に益をもたらさないもの」だ、と考えれば、「自分の正しさ」を確信出来る訳です。
Interdisciplinary: 科学者は適当だバイアスの形成
テレビに出る「科学者」を、「科学者の典型」と看做してしまうバイアス。「専門知識を持っている訳では無いが、直観的認識力に優れている人」が、「テレビで適当な事を言う科学者」を観て、「科学者は適当なのだ」、というステレオタイプを形成してしまうのですね。
たとえば、心理検査もどきを用いて芸能人の人格を云々する「心理学者」が、いたとしましょう。賢い人は、「そんなんで、人の心が解るの?」という、尤もな疑問を持つ訳ですね。実際、心理学者は、そんな単純な方法で人の心をどうこうしない訳ですが、そういう事情を知らない「賢い人」は、「心理学(者)は胡散臭い」と結論する訳です。過度の一般化を行ってしまうのですね。理想的には、心理学を勉強するのが良いのですが、なかなかそうもいかない。
で、その「賢い人」が、言動の及ぼす社会的影響が大きいと推測される、たとえば、有名な芸能人であったり、作家であったりすると、「あの人が言う事はある程度妥当だ」、と考える同調者が、「科学者は適当だ」というバイアスを共有してしまう、というメカニズムです。「適当だ」の部分には、「頭の固い」でも、「融通が利かない」でも、「理屈ばっかり言う」でも、何でも代入出来ます。「同調者」は、「誰が言った」かを、重視しているのですから。
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Yahoo!ニュース - 時事通信 - 麻生氏こそアルツハイマー=批判しつつ発言-田中元外相
知識が不足していて、想像力が欠如しているのかなあ。どう発言したかを、正確に知りたいものです。
聴衆は、どういう反応をしたのでしょう。普通、引くと思うんですけどね。
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| 黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る 著者:ジョン エンタイン |
これは、実に興味深く、考えさせられる内容でした。オススメです。
日本に生まれ、育っていると、人種差別というものを、実感として捉える事が出来なかったりします。正直、「そういう発言まで問題になるのか」、と驚かされるくらいで。
日本人の会話では、「黒人はバネが違うから」、とか、「元々身体能力が違うんだよ」、といった評価が、よく出てきますよね。多くは、特に差別的な意味合いでは用いられないと思うのですが、その様な言明でも、問題になる場合があるみたいです。
非常に難しく、根の深いテーマですね。自分の無知さを痛感し、もっと勉強すべきだと、反省しました。
とても面白い本なので、是非お読み下さい。
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文系白書ブログ: これはひどい(その2)経由⇒日本未来学会ほか、「ロボット化」をテーマにしたパネルディスカッションを開催~筑波大学・山海教授や作家・瀬名秀明氏らが対談
たとえばエンハンスメント技術を使って暴力的事件があった場合、「ロボットがやったんだ、俺がやったんじゃない」となったら誰が責任をとるのか。BMI技術がはるかに進めば、「念じる」ことでロボットに誰かを殺すことも可能かもしれない。そうなった場合、どのように立証して立件するのか。
元の文章が変ですが、これは、ロボットの所有者の「念」が「命令」になって、ロボットに殺害を実行させる、という事ですよね。
で、その様な現象が実現するには、
というプロセスが必要なのですよね。
少なくとも、脳活動を計測するデバイス、計測された信号から、命令者の「思考」を読み取り、送信可能な信号に変換するデバイス、その信号をやり取りするデバイス(これは、一般的な通信機器でいいのかな)、ロボット側には、信号を制御する機構、そこから、命令を正確に認知する機構、等々が必要な訳で(実現可能かは置いといて)、それら全ての証拠を隠滅するのは難しいし、出来たとしてもそれは、JosephYoikoさんが仰る様な、時限発火装置を用いた場合と変わらない気がします(これをどう立証するのかは、よく知らないのですが…)。結局、遠隔操作可能な武器を用いて殺傷するという現象なので、ロボットがどうとか、あまり関係無いんじゃないかなあ。
大体、知的なロボットに何かやらせるなんて、何で、そんなめんどくさい事させるんでしょうかね(ロボットのせいにする、というのを想定しているので、単なる人形じゃ無いでしょうから)。人間の「念」という複雑な概念(しかも、特定の人間を殺すとか)を、殺害の実行という単純な行為で実現せしめるというのは、恐ろしく難しいと思うんですよね。ロボットに人間の知能があるのと、殆ど同義じゃないかな。上にも書いた様に、対象に近づいたら爆発、という様なものだったら、まさに、遠隔操作の爆弾と同じになります。
元村さん、念が直接ロボットに働きかけて、何の経路も残らない…なんて想定をしている訳じゃあ、無いですよねえ。水伝じゃあるまいし。そもそも、人間も情報処理機構であるという事を、考えていないのかも。まあ、ディスカッションの流れで、思わず言ってしまったのでしょうけれど。
細かい事を言うと、対象を他の存在からどう区別するか(JosephYoikoさんの仰る、「敵と味方の判別情報」)とか(カメラ? どうやって、複雑な3次元情報と照合する? これはまあ、その内、技術的に可能になりそうですが)、色々あるのですよね。
ど素人でも、これくらい、考え付くんだけどなあ。
※タイトルの元ネタは、「魔太郎」です。知ってる人、いるのか?
※JosephYoikoさんのエントリーにTB送ろうと思ったのですが、上手くいかないみたいです。
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身近の人の話を聞いたり、マスメディア経由で得た情報を総合して、推測。
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追記:タイトルで、恥ずかし過ぎる間違いをしました。痕跡は残して、タイトル修正しました。
内海さんがpoohさんの所で紹介なさっていた本を、今読んでいます。
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脳のなかの倫理―脳倫理学序説 著者:マイケル・S. ガザニガ |
まだ半分弱しか読んでいませんが、大変面白い。神経科学者としての立場から倫理的諸問題について言及する、という内容ですが、とても考えされられます。文章も平易で読み易く、するする読み進められます。
本の主旨とはちょっとはずれるのですが、面白い記述があったので、引用します。
私がとくに実現したいと思っているのは、脳神経倫理の議論から「滑り坂論法」をなくすことだ。評議会の報告書を見ても、この論法に基づく考察がいかに多いことか。Aという行為を行なえば、坂を滑り落ちるように非倫理的な行為であるBに行き着くにちがいないから、Aを行うのは倫理上許されないと説く。倫理学者はこんな極論をふりかざして市民の不安を煽り、少しでも科学者のわがままを許せばどこまでもつけあがると匂わせている。はっきり言って、こうした論法はほとんどが飛躍のしすぎで、現実を超えたサイエンス・フィクションの領域に入っている。(P18)
この、「行き着くに違いない」という論理展開は、何らかの害悪を云々する際に、用いられる方法ですね。本来、実証データに基づいて議論されなければならないのに、直感や経験を過度に信頼して、論理を飛躍させる。気をつけなければならないと思います(それを用いる論者にも、それを自分が用いてしまうのではないかという可能性にも)。
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子どもだったぼくは「そんなもんを本気で現実と混同するバカな子どもなんかいない」「マンガと現実の区別がつかないマンガ読みなんかいない」なんて思ったものだった。
それと共に、「そんな混同をする奴なんて、本当のマンガ読み(今だとゲームとかも)じゃ無い」、という考えも持ったりしますね。要するに、愛好者同士でそういう共通了解を持つ事が、そんなアホな読み方するなよ、という要求にもなる訳です。
もちろん、フィクションに触れて、「そういう事はあるかも知れない」、と思うのは、大いに起こり得ます。しょっちゅう、と言ってもいいでしょうね。でもそれは、「混同」とはちょっと違う。思う事と、それを現実の生活で実行する事は、違うのですね(もっと正確に言うと、「区別が出来なくなって」実行する、という事です)。で、「そういう事はあるかも知れない」、という子どもの疑問に答えるのは、オトナの役割でしょう。でも、そのオトナが、現実と仮構を区別出来ないのだ、と騒ぎ立てたり、フィクションの、現実には起こり得ない部分についてちゃんと説明出来なかったり。時には、オトナ自体が、コロッと行っちゃう訳ですね。
バーチャルと現実との区別が出来なくて云々…と言うその口が、ニセ科学的な健康グッズについての効能を嬉々として語ったり、超能力捜査の可能性を強く信じて、その手の番組に、現を抜かしている(←敢えてこう表現)のです。これって結構、滑稽でしょう。果たして、ありそうも無い事を信じ切って、現実と混同しているのはどちらか。
私達は、知っています。フィクションにどっぷりと浸かってきたから、どんな話があるか、どういうパターンか、そういうのを、類型として捉えています。いかに現実と乖離したものを尤もらしく見せるか、というのが、クリエイターの腕の見せ所である、というのも考えます。要するに、現実を知っていないと、話にならないんですね。メタなんですね。メタで無いと、対象に振り回されているというネガティブな評価を、受けちゃいますから。そういう意味で、子どもの頃から、鍛えているのですね。
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こんな本が出てたんですね⇒アスコム:できる子は10歳までに作られる
七田式も採り上げられているんですね。もちろん、一般の養育者向けの内容なんでしょうけれど。
↑ここを見ると、ゲーム脳の話が書いてあるみたいです。どんな扱われ方しているのかな。
話は替わって、いつも思うのですが、篠原氏、テレビにしても何にしても、安易に出過ぎじゃないですかね(この本は読んでいないので、内容解りませんが)。氏は「科学者」ですから、望むと望まざるとに拘らず、ある程度の権威付けがなされると思うのです。それを視聴者や制作者の責任だ、と言ってしまえばそれまでですが、もう少し、どう捉えられるかを、考えた方がいいんじゃないかなあ。川島氏にも、同じ様な印象を持つ事がありますが。
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はてなブックマーク - J-CAST ニュース : 電話番号覚えられない!携帯は「バカ量産」の主犯か
J-CAST ニュース : 電話番号覚えられない!携帯は「バカ量産」の主犯か
携帯電話ユーザー、数字の記憶力が低下傾向に=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters
そもそも、「自宅の電話番号や家族の誕生日など単純な情報を記憶する能力が低下」(ロイター)という書き方自体が、結構微妙だと思うのですよね。「能力が低下」というのが。こういうのって、注意資源を他人の生年月日や電話番号の記憶に割く事に、重きを置くか、という問題なので。興味のある分野について、膨大な知識を持っている人がいますが、そういう人は、記憶の能力は高い訳ですよね。J-CASTで言及されているNTT-BJの調査(プレスリリース PDFファイル)の、「デジタル化による記憶力の低下」という表現も、微妙。記憶力の低下、というのは、いかにも一般化が過ぎる書き方ですし、これはむしろ、「憶えなくともよくなった」、という話だとも思います。他にも、首を捻ってしまう様な記述がちらほらと(前、別の記事で採り上げられた時に、言及しました⇒Interdisciplinary: むりやりじゃー)。
しかし、
また、読売新聞夕刊(7月10日)コラムで鈴木美潮記者は、かつては支局や警察署の電話番号を手帳を見る必要もなくプッシュボタンで押すことができたが、「今や携帯のメモリーに頼っりぱなしの自分に驚く」と明かした。「機械の記憶に頼りっぱなしのままでは、『人間力』は落ちる一方ではないだろうか」と不安をもらしている。
って(J-CASTの記事より引用)。何でここで、「人間力」なんて言葉が、いきなり出てくるんですかね。これは論理的に、「人間力」とやらには、高い記憶力が必要条件だという事になりますね。しかも、電話番号の記憶が。何だかよく解らんです。
J-CASTの記事、後段が…。何故に森昭雄氏が。”「携帯はバカを増やしているのではないか」”と発言する、「ある元大学関係者」って。わからない漢字があれば、それを調べるのは、むしろ健全だと思いますけれど。もしかして、ケータイ使ってるから、という事なのか? 国語辞典なら良いとか、それも、紙媒体の方が電子辞書より良いとか、そういう話ではありませんよねえ、さすがに。
大体、記憶を外部の媒体に頼っても、全然構わないと思います。重要なのはむしろ、記憶をどう扱っていくか、という事じゃないかなあ。
それに、記憶力そのものについて論ずるなら、心理学的な研究を行うべきでしょうね。そういう分野でも、無意味綴りを記憶する実験が、生態学的妥当性を欠く、という批判がなされていたりして、興味深いのですが。
私に言わせると、好きな歌手の詞を諳んじている方が、よっぽど凄い記憶力だと思います。そんな人、いくらでもいるでしょう? いないかな。
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それは、善意に訴えかける。公害・戦争・人間性の喪失・モノ至上主義・身体性の喪失 等々を説き、科学による弊害を強調する。その際、現代の犯罪の凶悪化(これ自体、言えない事)等を持ち出す場合もある。
科学知識を持たなくても、主張を展開出来る。つまり、「楽」。知らない人に対して、詳しく説明しようとしても、聞かれない可能性がある。当然。「知らない方が良い」と考える事すら、あるのだから。
自然信仰。科学の成果を忌避する。それを「人工物嫌悪」に結びつけ、自然物を過度に信頼する様になる。
これらは、部分的な正しさを含んでいる訳だから、それが完全に的外れであるとは言えない。だが、それが一般化され、科学や技術、科学者に対する敵意が広まる場合がある。
当然これは、ニセ科学の蔓延にも繋がる(私は、何度か書いていますが、リテラシーが劣化したというより、充分に普及していないのだと考えています。これは推測です)。科学知識に対して積極的に学ぶ事をしないし、科学に対して嫌悪を覚えていながら、科学技術の産に頼り切って生きている訳である(例外もあるだろう)。だから、科学的知識の欠如・論理的思考力(これは、科学知識とは、相対的に独立である)の脆弱さにつけ込まれる余地がある。何が何でも科学に頼らない、というのは、現実的には難しいから。アンビバレンス。
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Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 柔道部員投げ続け重傷負わす 中学教諭を送検
武術・格闘技を行う者は須らく、それらが、「かつ暴力」というあり方をしかしない事を、肝に銘じておくべきでしょう。
教師がいかなる認識を持とうとも、柔道の投げ技というものは、実体的には即暴力なのです。本質的に、相手を攻撃するものなのです。「こう思っていたから」という理由で言い訳する、免責を求めるのは、あまりに身勝手です。その様な行為には、やる側の意味付けと、やられる側の意味付けに、ずれが生ずる事があります。だから、「やる側」は、自分の意図が伝わっているか、独善的になっていないか、という事を、常に心掛けなくてはなりません。「躾」と称した行為が、相手を服従させる装置になりかねないのですから。社会的立場、肉体的優位性を利用した行為ですからね。ちょっと間違えると、大変な事になる訳です。
他の人にこうやって上手くいったから、この人にもこうやれば良いだろう、とか、自分がこうされて良い経験になったから、他の人にもそうしよう、というのも、よーく考える必要があります。自分が信じている機能が常に発揮されるとは、限らないのですから。
こういう論理は、様々な所に見られます。「フザケかつイジメ」とかですね(下記文献を参照)。だから、自分が何をやっているか、それがどう受け取られているかを、常に考えるべきなのです。「善意かつ不寛容」なんてのも、あるかも知れません。
参考文献:光と闇―現代武道の言語・記号論序説
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何と言うか…。
色んな感情が渦巻きますね、こういうのを見ると。
少なくとも私は、笑わなかったし、怒らなかった。呆れるのとも、ちょっと違う。そういうのとは、ちょっと異なる気がします。
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Yahoo!ニュース - 時事通信 - ヒルトン関係のニュースの読み上げを拒否=米の女性キャスター
何か凄い。日本でこんな事をやる人がいたら、大顰蹙でしょうね。
しかしホントに、セレブがどうのこうの※って、どうでもいい話ですよね。わざわざ採り上げてどうすんの、と思ったり。向こうの事は知りませんけど、日本人は、興味持つんですかね。
※皮肉を込めると、”セレブ(笑)がどうのこうの”、になりますが。
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犯罪被害者の身内(遺族等)が、超能力に縋ってでも…という事を言い出したら、それを宥めて、考えを改めさせるべきだろう、どう考えても。
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全くどうでもいいんですが(実はそうでも無いから書いてる)、
やっぱり、このブログをお読みの方も、「これを書いてる人は○型かな」、とか思ったりしてるんでしょうか。
勿論、血液型性格判断を信用している、という事では無く、何となく○型っぽいな、という程度の、「印象」ですね。
因みに私は、何型がどういう性格か、という事は、知りません。色々調べても、それを記憶に留めない様にしています。さすがに、専門に研究している人なんかは、そうする訳にはいかないと思いますけれど。AB型は二重人格的だ、というよく解らない説くらいですかね、憶えているのは。
で、「○型は△△だ」、と知ってる人は、私(TAKESAN)は何型だと思うのでしょう。ちょっと知りたいです。ミニ調査、というか。それで、血液型と性格の結び付きの知識が共通しているか、というのと、文章の書き方からの人格の推測が、どの程度一致するか、というのが、解る訳ですね。
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「ネトウヨ」って(実は、意味がよく解って無い)、ホントに若い人が多いんですか?
そもそも、ホントに増えてるんですか?
よく解らんです。
あ、「増えている」と言っている人がどれだけいるかも、解らんです。
何じゃそりゃ。
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モトケンさんのブログ経由⇒asahi.com:「みのもんたさん政府に来て」逆風の首相、ラジオ対談で - 政治
「みのもんたさんが国民への発信力、コミュニケーションを生かし、1回政府に来ていただけるのが一番いい」。
まあ、ラジオ番組でのやり取りなので、こんなやり取りもありかな……とは言いたく無いなあ。
でも、「1回政府に来て」が、”「政権入り」を呼びかけた。”にはならないと思うのですが、どうでしょう。尤も、ラジオ聞いてないので、どういうやり取りなのか、細かい所は解らないのですが。
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痛いニュース(ノ∀`):おそまつなテレビ中継がスポーツを殺す いずれテレビそのものも死んでしまう
これは、殆どの意見に同意ですね。
まあ、端的に言うと、「余計なものを付け加え過ぎ」なのです。
私は、NHKの刈屋アナウンサーの実況が、好きですね。抑制が利いていて、耳障りじゃ無いのですよね。
これは、結構書いていますが、演出ばかりして、却って空々しくなってしまっていると思います。感動を「させよう」としないで欲しいです。
あー、でも、一部のプロレスなんかは、実況と一体となって、エンタテインメントとして成立している所も、あるか。余談ですが、私は、格闘技系では、リングスの試合での、WOWOWの高柳アナウンサー(当時)の実況が、好きでした。
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うーん、この種(今日最初に上げたエントリーへ、GO)の話題が出るたびに思うのですが。そして、何度も書いていますが。
理科的なリテラシーが「低くなった」とか、或いは、今の若い世代は、それが低い(前の世代が若かった頃に較べて)、とか、どこまで妥当なのかな、と。こういう主張の場合は、明らかに、「比較」ですからね。以前よりどうだ、という。
私は、ニセ科学が蔓延している状況を論ずる際には、社会一般の科学リテラシーが「低下」した、という事は、前提「していない」のですよね。
私の認識としては、今も昔も、リテラシーが低い人は、一定の割合で存在する。それがどの様に推移したのかは、精確な評価は難しい。しかし、現状がどうであれ、リテラシーの底上げは必要である。という感じですね。だから、昔がどうであったとかは、論じていないです。
で、ニセ科学が流布するという現象については、情報化の進展で、時間的にも空間的にも、広がり方のスピード・範囲が、圧倒的に大きくなった、という所が問題だと思っています。そして、そういう説が、以前より圧倒的に広まっているか、また、それはリテラシーの「低下」が要因か、というのは、別の話です。もしそれを主張するなら、それこそ、科学的に精確に論ずるべきですから。
そもそも、社会総体の科学リテラシーの高低と、ニセ科学的言説の流布の程度は、相対的(あくまで相対的、です)に独立した問題であると考えています。
何か纏まって無いですね。
反論等があれば、ありがたいです。
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このコメント、apjさんのブログのエントリーの、酔うぞさんのコメントを読んだりして、考えたものです⇒水伝またきた :: 事象の地平線::---Event Horizon---
以降は、エントリーの主旨と全くはずれるので(そして、多くの人にとっては瑣末な指摘なので)、こちらに書きますが、
それが、最近では子どもたちの経験の範囲は非常に狭くなった。
そして、ゲームなどバーチャルな経験は圧倒的に増えたから、どうも高校生になっても、理科・工作といったものを楽しんだことがないらしい
ここで表現されている「バーチャル」がどういう意味なのか、ちょっと掴めないです。それと、前段と後段が、「から」で接続されているのも、変です。理科や工作を楽しんだことがない「根拠」を「ゲームなど」に求めるのが、ちょっとおかしいです。ここで、「バーチャル」に何を含意させているかが、ポイントになってくる訳ですね。もし、「現実の行為の代替」という意味を含ませてあるのであれば、文は整合します。ですが、その場合には、「バーチャル」という語を、誤解なさっている、という事になります。ゲームは単にゲームであって、それは、現実の経験を忠実に再現したものなどでは無いからです。
で、もしそういう含意が無いのであれば、わざわざ「ゲームなど」を持ってくる必要は、ありません。将棋ばかりやっていて、小説ばかり読んでいて、サッカーばかりやっていて、工作経験が殆ど無い、という様な言明と、あまり変わりませんので。
また、「ゲーム」という語が出てきたから過剰反応してるよ、と思われた方も、いらっしゃるでしょうね。そういうご指摘への返答は明快で、「その通り」、です。
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たまに、「水伝は科学者が思ってる程広まってない」とか、そんな感じの意見を目にする事があるのですが(痛いニュースの反応でも、ありました。痛いニュースと言うか、2ちゃんねるですけど)、何か勘違いしている様な。
ここで言う「広まっている」とか、「蔓延している」、というのは、別に、10人に聞いたら5・6人は知っている、とか、そういう話では無くて、道徳の授業などで、ある程度の科学的思考法を身に着けている事が期待されている教員がニセ科学を用いている、という事実から、判断している事ですよね。実例がいくつか見られて、TOSSのWEBサイトに授業実践例が掲載されていた、というのは、問題として採り上げるに充分な根拠である、という(他にも、有名人がテレビで好意的に紹介した、というのも大きいですが)。
勿論、どの程度広まっているか、というのを、ニセ科学の流布に関心のある社会学者や社会心理学者が、量的に調査するというのも、有意義だと思います(kikulogでも出てましたね。社会調査すべきだ、という意見が。こなみさんに批判されていましたけれど)。
そんなに広まって無いよ、と考えている方に、ちょっと聞いてみたいのですが、どれくらいの人が知っている事が示されれば、「充分蔓延している」と、認めますか?
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私は、インターネットに接続出来る環境になったのが、比較的遅かったので(まだ6・7年)、最初の頃は、海の、陸地の見えない所に放り込まれた様な感じでしたね。どうすれば有用な情報を得られるか、とか、全く解りませんでした。WEBの創成期から使いこなしていた人は、段階的に拡大していくのに上手く適応出来たと思いますけれど、ある程度大きくなった状態で始めると、とても戸惑います。最初は、ご多分に漏れず、2ちゃんねるやら何やらを警戒したりしていましたね。始める前には、漠然とした不安もありました。まあ、体験した事の無い人がよく語る不安と、同様のものです。
これ程インターネットが拡大して、ブログ等も増えてくると、森さんが仰る様に、実際、薄まったり、役立たずの情報も増えたりしてきているでしょうね。また、WEBで情報発信している人で、常に不特定多数の人に見られる、というのを意識していない人が、増えていると思います。これは多分、html(私も出来ないですが…)等を知らなくても気軽にブログやらを開設出来る、つまり、敷居が下がってきたから、なのかも知れません。もうちょっと、他人の「目」を気にすべきなんじゃないかなあ、と思いますね。原理的には、様々な情報が一瞬で伝達される可能性を持っている訳で、その辺の意識が、低いんじゃないかと。私は、ブログを開設するまでに、色々な所を読んで、どういう情報は書くべきでは無いとか、どういう作法があるかとか、そういうのを、かなり勉強して始めました。よく言えば慎重、悪く言えば臆病、という事ですが、インターネットに情報発信するのですから、少々臆病と思えるくらい慎重になるのが、丁度良いのではないかとも、考えます。追記:文章の修正が面倒なので、追記で。htmlが出来ない云々と、他人の目を気にした方が良い、というのは、論理的に、直接には繋がっていないですね。これは、html等、WEBについての知識を持っている→インターネットにおけるコミュニケーションについても、ある程度考えているだろう→ネットに発信した情報の広がり方についても考えているだろう→ネットへの情報発信に慎重になるだろう―という推測です。html云々というのは、メディアリテラシーの高低を象徴する文章という事ですね。実際にそれが出来るかどうか、という事には、あまり意味は無いです。あー、長い追記。修正した方が良かったし(笑)
その為には、ある程度、仕組みを知った方が良いですよね。そうすると、「想像」する事が出来ます。
今の様に拡大した状況でもいいんじゃないかとも、思います。情報の総量が増えれば、そこから有用なものを取捨選択するのに、ある程度のスキルが必要とされる訳で。必然的に、メディアリテラシーの向上を促す、という。尤もこれは、かなり楽観的な考えですけれど。マスメディアの情報の様に、キレイにカットされて、かたちを調えられたものより、WEBで雑多な情報に触れて、訳の解らなさを知る、という方が、健全な気もします。自分で情報を整理していく、という。
WEBでのコミュニケーションの最大の利点は、時間的・空間的制限を、かなりの程度取り払ったという所にあるのですから、それを認識して、上手く付き合っていくのが、良いのではないかと思います。余り恐れず、かと言って頼り切らず、程々にやるのが、ベターですね。
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ぶっちゃけ、引用文を貼り付けているだけのエントリーは、どうにかして欲しい。
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Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 世界は失笑…テレ朝がウッズに「ハニカミ知ってる?」
どこの局かと思ったら、テレ朝かあ。何恥ずかしい事やってんでしょうね。大体、石川選手に対しても、大変失礼です。石川選手は、このニュースは知ったと思いますが、どう感じたかな。そういうのは、性格傾向によって、違いますね。
そういえば、夕方のフジのニュースでも、ハニカミ王子をウッズが絶賛、とか言って、紹介してましたけど。
なんと言うか…何なんでしょうねえ。どこまで呆れさせるんだろう。
「ハニカミ王子」騒動 問われるメディアの在り方-スポーツのニュース:イザ!
膳場貴子アナウンサーの手紙をスタッフが石川に強引に手渡そうとした“ラブレター事件”
こんなのもあったのか…知らなかった。これか⇒ハニカミ王子に「女子アナから」ナゾの手紙?-スポーツのニュース:イザ!
凄いなあ。
以下、軽く暴言ですが。
「メディアの影響」があるとすれば、当然そこには、マスメディアの姿勢の影響だって、含まれる訳です。そういうのを、考えるべきでしょう。一番良いのは、マスメディアなんぞ取るに足らない、と、引いて見る事ですね。あ、全く信用するべきでは無い、という意味では、全然無いです。余りウエイトを掛けない方が良い、と言うか。マスコミは、そう簡単には変わらないでしょうから、見る側の意識を変えるのが、手っ取り早いですね。下らない報道等には見向きもしなければ、良いのですね。まあ、下らないものを好む人もいて(また、マスメディアの情報は、一定の信頼度を保っているだろう、と信じている人もいて)、そこが、悩ましい所なのですけれど。私は、生まれてこのかた、「新聞を読む」という習慣(家で購読していた頃は、テレビ欄以外、ほぼ読んだ事無いです)を持った事が無いので、元々、余り、信頼を置いていなかったのですよね。
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保坂展人のどこどこ日記 神経神話と道徳教材「水からの伝言」(追記あり)
保坂氏は、最近水伝を知った、という事の様ですので、これは、ご存知無いかも知れませんね(そんな事は無いか)⇒Interdisciplinary: 理科離れ。批判はネガティブ?
Wikipediaにも載っていないですね。
学校の授業で取り上げられるのも問題だけれど、こっちも凄いです。
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TOSSウォッチング掲示板経由で⇒バランス朝食は早寝早起き…千葉大の調査 : 知恵袋 小学校入学~卒業 :育児ネット:教育 子育て : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
この前取り上げた調査と、同じものですね。
あれですかね。「ウチの子は朝起きるのが遅いから、朝食を一品増やしてみよう」、と考える人とか、いたりするんですかね。
バランスの取れた食事も大切かも知れませんけれど、統計数字を読む力も、とても大事だと思います。
何と言うか、「数学では70点だったけど、国語は90点だった。だから、国語の方が良い成績だった。」とか、「前回は90点で今回は75点だった。今回の方が駄目だった。」と言うのと似た様な感じですよね。単純な数値の大小でしかものを考えない、という。
「早起き」の境界が「午前7時」なのは、何か根拠があるのでしょうか。
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Yahoo!ニュース - オリコン - 24時間テレビに黒木瞳、新庄剛志、タカトシ
そういえば、今年は、萩本欽一氏が、マラソンのランナーでしたね。
あのマラソンに関しては、まあ、色々な見方がありますですね。批判的に見る人は、「どういう選び方」をしているか、という所を、突っ込みますね。私もそうです。
途方も無い距離を走るのですから(ここにもツッコミあるでしょうけれど、置いときます)、本人の達成感は凄いだろうし、近しい人の感動も、ひとしおでしょう。観て、元気付けられる人も、多いと思います。そういう感情の動きは、否定出来ないし、する必要も無いです。
でも、ですね。何かちょっと、引っ掛かる訳です。色んな考え方を、してしまうのですよね。
個人的な話をしても、しょうが無いのですけれど、私は、感動を演出する事に、抵抗感があるのですね。もっと言うと、嫌悪感を覚えます。事実に関する事を、いかにもドラマティックに飾り立て、見る者の感動を誘う。そこに、何とも言えない気持ちを、覚えるのですね。「作意」の跡を見出すから、かも知れません。
…あー、回りくどいですね。顰蹙買うかも知れませんけれど、はっきり書いちゃいましょう。あのマラソンのランナー、いかにも「走れないだろう」という人を、選んでませんか。ある程度知名度があり、(ここ数年は特に)到底走れないだろうと視聴者に感じさせ、体力的にも平均より低いと思われる、そんな人を選んでいる様にしか、私には、見えないです。そういう人が走っているのを観せて「感動を誘おう」、という作意を、感じるのです。何か変だと思うのですよ。当然これは、制作者の意図の問題です。基本的に、走る本人がどうこう、という事では無いです。
こういう考え、変ですかね? もしかしたら、そんなひねくれた考えでどうする、とか、折角の感動を台無しにする様な事を言うな、とか言われるかも知れませんね。でもやっぱり、何か引っ掛かるのです。
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この間批判した方の記事ですが、これには、結構同意出来る所があるなあ。
ゴルフの石川選手の追い方とかも、なんじゃそりゃ、という感じです。
そうそう、こういう意見に、「マスコミのやり方に、何を今更」、という意味合いの事を言い返す人が、結構いますけど、それは駄目ですよね。批判はちゃんと、やらないと。
個人的な印象としては、斎藤選手や石川選手は、スーパースターになるポテンシャルを持っていると思っています。マスメディアが何をしても、大概の事は、大丈夫なんじゃないかなあ、と。勿論これは、高いレベルの精神力を持っているだろうという推測ですね。何言われても気にしない、とか、そういう事では無いです。年齢の事もあるし。
マスメディア、対象が「大丈夫そう」だから「図に乗る」って所も、あるんじゃないですかね。言い過ぎ? でも、TBSの件なんか見てると、一体何なんだろうな、とか思う訳です。
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深夜のシマネコBlog: 誰に議論を届けるのかによると、ガツンと貯まる成功家計100の知恵|おはよう奥さん 食費節約・家計やりくりに役立つ暮らし情報雑誌|kurasse(リンクは「今月号」紹介のページ。7月号の紹介を参照の事)に、安原さんの記事が載っているようです。
「子供の安全安心はほんとうのところどうなのか?」なんて感じの見出しがあって、どうせ「子供は危険に晒され続けているから、安心携帯とかココセコムと契約しろ」なんていう脅迫記事なんだろ。なんて思って読んでみると、いきなり「子供が他者によって殺される件数は減っている」と、真っ当なデータを元に浜井浩一が書いていた。
他にも、ゲーム脳言説に対しては坂元章、環境問題に対しては渡辺正と、主婦誌にはありえないメンツが、学者の立場から極めて真っ当な批判を行っている優秀な記事だった。
という記事だそうです(「深夜のシマネコBlog」より引用)。この種の雑誌に、そういう内容の記事が載るのは、珍しいんじゃないでしょうか。いや、何となく、そう思うだけですが。やはり、インターネットが拡大してきたとはいえ、誰しもが、WEBで情報を集める訳では無いのですから、こういった記事が、主婦層向けの雑誌に載るのは、良い事だと思います。これは、読んでみようかな。
追記:安原さんのブログで紹介されていました⇒『危ない』ニュースのウソ★ホント|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ
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おはよう奥さん 2007年 07月号 [雑誌] 販売元:学習研究社 |
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暮らし・未成年の凶悪犯罪 (1)、メディア・未成年の凶悪犯罪(2)アニメとマンガ
記事の趣旨は置いといて(論外)、先ず、文章を推敲した方が、良いと思います。記者さん、大学生だそうですが、これはあんまりかと。こう言ってはなんですが、中学生が無理して書いた様な文にしか、見えないです。自己紹介の文章が、これですし⇒記者情報
余りにアレなので、もしかして、釣りか? とも思ったんですが、そんな事する意味無いし、こんな記事も書いてるしなあ⇒文化・日本人メジャーリーガーの活躍の裏側で…、地域・早慶戦先発 斎藤佑樹投手
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ちょっと(いや、かなり)古い記事ですが⇒成人コミックの3割“児童ポルノ” 警察庁、対策要請へ|エンタメ|カルチャー|Sankei WEB
※あくまで、記事から何が読み取れるか(読み取れないか)、という話です(どこかに一次資料があり、そこには、具体的な情報が記されていた様な気がするのですが、見つかりません…)。
こういう記事って、結構、恣意的と言うか、都合良く書いたりしますよね。
先ず、タイトルの、「成人コミックの3割“児童ポルノ”」は、いかにも、成人コミック全ての中の3割に、そういう表現が含まれている、という印象を与えますよね。でも、
大手のサイト書店のサンプル調査(11月)の結果、販売された成人向けコミック約9000点の3割が子供を性行為の対象としていると推測している。
とある通り、母集団は、「大手のサイト書店で販売されている成人向けコミック」、なんですよね。記事中には、
販売された成人向けコミック約9000点の3割が子供を性行為の対象としていると推測している。
ちゃんと、こう書いてあるのですが、見出しがいかにもわざとらしい。勿論、この結果を、「全ての成人コミック」に一般化する事は、出来ない訳ですね。
当然、調査方法は妥当か、という見方もあります。記事には、サンプルサイズも信頼度も信頼区間も書いてないので、推定の精度がはっきりしないのですよね。解りにくい。まあ、調査者に好意的に見れば、3割前後では、あるのでしょうけれど。
後は、
18歳未満ととれる子供に対する性行為を扱ったものがあり、小学生と受け取れるような子供に対する性行為などを描写したものもある
これの判断が妥当か、とかですね。私はあまり勉強していないので、こういう表現が、どのくらいしっかり定義されているのかは知らないのですが、ある程度コンセンサスを得られている定義に従って、正確に判断されているのかな、という所は、考えます。
こういう記事、調査法は、ちゃんと明記した方がいいですよね。世論調査なんかでは、結構ちゃんと出しているのに、新聞記事に載るようなものでは、殆ど見かけないです。
※たとえば、調査法が妥当で、「3割」というのが、ある程度信頼のおける数字だとします。そうだとしても、今度は、それをどう評価するか、というのは、又別の問題なのですよね。上にも書いた様に、私は、余り知識が無いので、それを云々する事は出来ません(こうだ、という、明確な主張が無いです)。あくまで、統計的調査を記事にする際の書き方を、問題にしています。
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Yahoo!ニュース - 時事通信 - 2ちゃんねるに「母親殺した」=14日夜、10回以上書き込み
やっぱり、「また2ちゃんねるか」、と言われるのかな。本人でもそうで無くても。
本人の書き込みと仮定して、件のスレの書き込みを幾つか読んでみましたが、ちょっと戦慄しましたね。本物でも釣りでも、あの書き込みは駄目でしょう。
しかし、今の時点で記事にする様な事か?
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“正義”の暴走ストップブログ(仮) : 悪者は先入観で作られる テレビっ子は漢字書き取り苦手のウソ(←面白いエントリーです)経由⇒子供の「漢字書き取り苦手」 テレビが原因かでバトル勃発 | エキサイトニュース
こんな記事があったのですね。
小倉氏の個人的見解、といった感じですね(←これ重要)。で、仰る事は、ご尤もだと思います。
しかし、日経の見出しは、ダメダメですよね。「テレビ視聴が影響か」って、書いてますし。他紙も微妙ですが。
後、本筋とは関係無い所で、気になったのですが、
明石教授によると、要は生活習慣の問題だ。テレビを見なくてもゲームなどに時間を割けば勉強しない点では同じだ。
の(これはその通りですが、ちゃんと、そこを強調して欲しい)後で、
みたいテレビは見る、終わればゲームなり勉強なりをする、という切り替えができるかどうかが本質的な問題だ、という見方だ。
って書くのは、ちょっと変では? テレビを観た後に、「ゲームなり勉強なり」って…。
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痛いニュース(ノ∀`):「アメリカ人が作れるなら自分にも作れる」 独学で拳銃から実弾まで手作りして販売、男逮捕…福岡
何をやってるんだ、一体…。
ところで、技術が絶賛されてますが、拳銃を個人が製造するのって、そんなに圧倒的に凄い事なんですか?(違法と解ってるのに製造する、という意味の「凄さ」では無く) 私は、アマチュアでも、それくらいやってのけるんじゃないか、という感想だったんですが。いや、素人目には、物凄い精巧さだなあ、とは思いましたけどね。金属加工や銃の構造の知識に疎いので、よく解らないのです。設備を調えるのが大変だ、というのは、よく解りますが。旋盤やらボール盤やら何やら、一式いるでしょうし。
あ、私、モデルガンは、好きでした(笑) 何千円とかのエアガン。
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Yahoo!ニュース - 時事通信 - 小2の3割「一つ」書けず=ワーストは「支」など-漢字習得度・民間調査
Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 苦手な漢字の第1位「一」、小学2年で「ひとつ」書けず
Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <漢字習得>小6の9割超が「支持」書けず 学会調査
ちょっと気になりますね。調査の詳細が知りたい所です。
「日本教育技術学会」でググると、色々出てきますね。
ところで、毎日の記事、「学会調査」と書いていますが、これ、どうなんでしょう。時事通信は、「民間調査」、としていますね。
直観的に、「”支持”を90%以上書けないって、おかしくないか?」と思ったのでした。尤も、「それ程までに、学力低下は深刻なのだ」、という主張なのでしょうけれど。どういう問題を出したのかなあ。同音異義語の書き取りをさせた結果とか? 又、調査が妥当だとして、以前はどうだったのかな、という所も考えますね。
後、どうでもいいんですけど、読売の記事の、
それによると、書き取りができなかった漢字の学年別のワースト1位は、習う漢字が少なく全体に正答率の高かった1年が「一つ」の「一」(正答率70・8%)で、2年が「海外」の「海」(同37・4%)、3年は「放す」の「放」(同29・1%)、4年は「関心」の「関」(同20・7%)、5年は「支持」の「支」(同7・0%)、6年は「従来」の「従」(同15・5%)。
この部分、読みにくかった…。
何か、痛いニュースで取り上げられそうだなあ。
追記:関連記事です⇒テレビっ子は漢字が苦手?/長時間視聴、正答率低く(共同)-タカマサのきまぐれ時評
追記:PSJ渋谷研究所X: 現代っ子は序数詞が苦手?で、他の記事も紹介されていましたので、こちらにも貼っておきます。上記のyahoo!ニュースの記事についても、元記事へのリンクを貼ります。
・小1の半数、「八つ」読めない…小学生の漢字修得度調査|学校教育|教育・福祉|Sankei WEB
・asahi.com:「支持」と書ける6年生1割弱、漢字書き取り全国調査 - 教育
・日本教育技術学会:漢字書けない小中学生 …読みでは健闘-教育:MSN毎日インタラクティブ
・小学生の苦手な漢字 「八つ」は「はちつ」「沿線」は「遠線」 : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
・時事ドットコム:小2の3割「一つ」書けず=ワーストは「支」など-漢字習得度・民間調査
「八つ」が読めなかったのは、小2じゃないのか? 見出しが変>産経
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【大丈夫か日本語・上】大学なのに…中学生レベル6割!?|学校教育|教育・福祉|Sankei WEB
中学生レベル6割!?
ほう。
独立行政法人メディア教育開発センターの小野博教授(コミュニケーション科学)が平成16年、33大学・短大の学生約1万3000人の日本語基礎力を調べたところ、国立大生の6%、私立大生の20%、短大生の35%が「中学生レベル」と判定された。昨年度の同様の調査では、中学生レベルの学生が60%を占める私立大学も現れた。
?
中学生レベルの学生が60%を占める私立大学も現れた。
むむ。ここから、あのタイトルにするのは、微妙。そもそも、中学生レベルの学力で入学出来る学校なのだから、割合は大きくなる気がします。
これと同じですかね(基の論文は、WEBでは参照出来ませんでした)⇒日本の大学生の基礎学力構造と リメディアル教育(PDFファイル)
試行試験は35大学,3科目で延べ約13,000人に実施した。
むむ。産経の記事の、
独立行政法人メディア教育開発センターの小野博教授(コミュニケーション科学)が平成16年、33大学・短大の学生約1万3000人の日本語基礎力を調べたところ
と、違う…。PDFの「図1 校種別の大学生の日本語力調査結果」(P7)を見ると、
と、ありますね。少なくとも、「約1万3000人の日本語基礎力」とは、言えませんね。日本語力調査は、n=7052ですから。
PDFには、割合の推移(「1998年から2000年の大学入試センター在籍時に実施した日本語力調査結果」(P7)からの)も書いてありますね。それによると、
国立:0.3%→6%、私立:6.8%→20%、短大:18.7%→35%
ですね。一応、試験の妥当性は確保されていると前提して、まあ、割合の推移だけ見ると、かなり大きいという印象はあります。ただ、1998年―2000年の調査のサンプルサイズが不明なので、実数は解りませんが(学校の数は、約20校かな…グラフが読みにくい)。
比較データがあった大学は実線で結んだ
とありますが、これは、同一校のデータ、という事ですよね? で、グラフを見てみると、比較データがあったのは、8校の様です。2004年の方は、全部(高専除く)で25校ですから、約3分の1ですね。これは、どうなんでしょう。又、標本平均の推移だけを見ても、しようが無いと思います。もし、大学生全体の能力の変化を云々するなら(そうですよね?)、母数(目標母集団は、「日本の大学生全体」かな)を推定しないと。とは言え、比較データのある所は、全て割合が増えているので、これは、押さえておくべきか。2004年のデータは、結構バラツキが大きいですね。
そもそもの疑問として、どうサンプリングされたか、というのも考えますね。PDFを見る限りでは、不明です。同一校の学生なら、ある程度、学力は同等だと推測されますので、一校辺りのサンプルサイズを大きくしてもなあ。心理統計とかならともかく(そもそも、ランダムサンプリングが難しい。だから、限定的なデータである事を、ちゃんと明示する。サンプルに合わせて、母集団を決定する)、「大学生の日本語力」に関しての社会調査ですからね。サンプリングの仕方が、ものを言うのではないでしょうか。
「低下」したと言うためには、「今低い」事を明らかにするだけでは不充分な訳で。「前に較べて低くなった」事を、論証すべきですよね。で、それを言える程のデータかというと、どうも、そうは思えない気がします。サンプルサイズが大きいと言っても、一校辺りのデータ数が多い訳ですしね。それは、ある大学の学生の日本語力を推定する精度は高くなると思いますが、目標母集団(日本の大学生全体)の推定には、余り関係ありませんよね。そもそも、学校によって、能力差があるのですから。学校数は、たった25校ですしね。
だから、余り一般化は出来ない、と言うか、すべきで無いと思います。少なくとも、「大丈夫か日本語」、と言うのは、気が早いんじゃないですかね。
昔から、「誰でも入れる」とか言われる大学は、ありましたからね。中学生レベルの学力の大学生がいる事自体は、さほど、驚く事でも無いです。問題は、そういう学生が増えたか、もしくは、平均的には変わらなくても、分布が変化したか、という所なのだと思います。
別に、「学力低下」の事実を云々したい訳では無く(余り、詳しく調べた事は無いです)、産経の記事の書き方は妥当か、という観点ですね。実際、微妙だと思います。
ツッコミ。
オペレーターが日本語で書かれた取り扱い説明を理解できず、機械を故障させた
詳しい人に聞きましょう。
社員が送った言葉足らずの電子メールが取引先を立腹させ、受注ができなくなった…。
上司なりに見て貰いましょう。日本語の能力と言うより、(仕事での)作法の問題な気がします。
「大人から子供まで、想像以上に日本語のコミュニケーションがうまくいっておらず、
これは多分、「大人→若年者」と、「大人←若年者」の、両方ですよね。この分類も、微妙ですが。「想像以上に」という所の、意味が解りませんが。
こういうのは、一般的には、養育者の教え方に依存しますよね。もし養育者への信頼のウエイトが低ければ、いわゆる「正しい日本語」を求められる状況(環境)であるかどうかが、ポイントになるでしょうか。
ところで、年配者を対象に調査して欲しいと思うのは、私だけですか? 調査自体は、あるかも知れませんが、そうでは無くて、ここで取り上げた様な方法で。
後、日本語能力が低い人には、電子辞書の購入を促すなりすれば、良いのではないでしょうか。さすがに、中学・高校レベルの日本語の使い方を教える必要は、無いと思います。解らなければ、その場で辞書を引けば、良い事です。数学の知識等とは、ちょっと異なる訳ですし。私も、一日辺り数回は、辞書引きますしね。
※あくまで、産経の記事と、PDFファイルを参照にした意見です。もっと詳しい情報があれば、解釈が変わるかも知れません。そもそも、PDFで示されている調査と、産経の記事にある調査は、同じものなのかな…。
タイトル、「?」じゃ無くて、「!」にしてみました(笑)
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ドラゴンさんが、apjさんの掲示板に貼っておられたのですが⇒恒等式の導入はこう授業する
数学IIの授業でこれは、いくら何でも…という感じです。
恒等式の定義が分かりにくく書いてある。また、定義が2つ書いてある。これを説明せずに教える。
「説明せずに教える」って、一体どういう事でしょうね。定義を論理的に理解する様に「教える」のが、肝なのだと思いますけれど。
「さんはい」で一斉に言わせる方式だと、名前は憶えるが意味は解らない、となる気がします。穴埋めの試験には、役立つかも知れないけど…。
ところで、いきなり話は替わりますが。
私は、授業中に、教科書(の重要な語句)にアンダーラインを引かせるのって、どうなんだろう、と思います。単なる作業になりがちなんじゃないかなあ、と。「この語句を憶えよう」という認識ですよね。他の概念との関係性を理解しよう、では無くて。
教科書の内容をノートに写すのも同様、だと思います。あくまで個人的な考えですが、ノートに書き写したり、アンダーラインを引いたりするのは、「勉強をした”痕跡”を残す」のと、文字を書く訓練くらいにしかならない、と考えています。丸写しする暇があったら、脳内で、他の概念との関係性を展開したり、それが上手くいかなかったら、何かに書き出したりする、というのが、良いと思います。
暗記をさせる教授法は、クイズに答える様な能力は、鍛えられるかも知れませんが、それは、本当に理解した事には、ならないですよね。線を引いたりは、ほんのちょっと、記憶の効率を高めるかも知れませんが(想起の時に役立つかも)、どうなのでしょうね。
これは経験談ですが、高校の頃、とある教科で、定義も含めて丸暗記させられた事があります。勿論、そんな憶え方をした知識ですから、今は、綺麗さっぱり忘れています。でも、テストで良い点は取れるんですよね、それが出来る人は。そもそも、試験がその様に出来ている訳ですから。だから、一夜漬けなんてものが、それなりに役立つ(役に立ってしまう)のですね。
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痛いニュース(ノ∀`):【論説】 「『盗んだバイクで~』 尾崎豊の歌、最近の若者は受け入れず…体制や大人への反抗心はどこへ?」…朝日新聞
asahi.com:没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心 - コミミ口コミ
とっても素朴な意見かも知れませんが。
「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。
本当にこういう傾向になっているのだとすれば、これは、好ましい事なのでは? 成熟した認識ですし。大体、そういう意見が本当に増えているのか、不明です。で、ここから何故、
香山さんは「成長プロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる。
こうなるのか、よく解らない所です。「善意を屈託なく信じている」、というのは、違う話だと思いますが、どうなんでしょうね。香山氏の観察による根拠が、あるのかも知れませんが。「反抗の仕方」の考え方の違い、なのでは。
尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。
そうなんですか? 私や友人達は、どちらかというと、好意的にはとっていませんでしたけれど。といって、体制に迎合する、という感じでもありませんでしたが。と言うか、他人の歌を好きだろうが嫌いだろうが、どっちでも良いのではないかと。
当時の若者が皆、尾崎氏に共感していたかの様な書きぶりですねえ。そんな事、全然無いと思うんですけどね。
そもそも、尾崎氏自身の心情を勝手に解釈して、それを押し付けてません? 仮に、その解釈が妥当であったとしても、それに対する反応から、社会全体の特定の層の傾向を分析するのって、無理があると思いますが、いかがでしょう。
追記:文系白書ブログ: 香山リカの温い分析(=_=)でも、取り上げられていました。そうそう、そんなにややこしい事じゃないんですよね。体制に反抗するとかどうとか。あそこから、若者全体の心性に思いを馳せる、というのは、想像力が豊かと言うか何と言うか。
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不思議缶ネットワークの子どもたち―コンピュータの向こうから科学者が教室にやってきた! 著者:美馬 のゆり |
以前、ドラゴンさんに教えて頂いた、「不思議缶ネットワーク」の活動を纏めた本です。
大変素晴らしい内容。皆さんにもお勧めします。是非お読み下さい。
P118からの、一人の児童から発せられた問いに始まった議論(ニセ科学やスピリチュアルと学校教育との関係とも、密接に関わります)や、科学の原理についての応援隊同士の議論等、大変興味深いやり取りがあります。又、子ども達への回答の仕方等の議論では、どの様にして向き合っていくか、という所についての戸惑いも語られていて、とても興味深いです。
子どもにものを教える、というのは、詰まる所、子ども達と一緒に考えていく事、なのだと思います。いかにも陳腐な言い回しですけれど、本当に、そう思っています。決して、既成の知識を押し付けるだけでは無い。そう考えます。
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『太田総理』を観て。
体罰云々。
私は多分、太田さんとか原口さんの意見に近いと思います。
攻撃で押さえ込むのは有効か?
賛成している人は、攻撃について、恐ろしくナイーブなんじゃないですかね。
攻撃に対する感受性は、幼少の頃の経験に、かなり影響される気がします。
ところで、
体罰を容認するとして。
体罰は、肉体的に抑えつける事ですね。
抑えつける程の、体力的能力が無い人がいますね。
はっきり言いますが、
私のいた学校も、そこそこ荒れていて、教師が攻撃する事は、結構ありました。
で、ですね。
狡猾な奴ってのは、非力な教師を選択して反抗したりします。
女性の教師を泣かしたりね。
色んな所に、「皺寄せ」来ますよね。
それから、
無茶苦茶理不尽な攻撃をする教師も、いたりする訳ですね。
傍から見ていて、何故あいつがぶたれたのか意味が解らない、とかね。
殴って、何故殴ったかを言えば、相手は解ってくれる、という言い方もありますけどね。
何となく殴るのも、いるんですよね、実際。
でも、体罰と単なる「暴力(ここでは、正当な理由の無い攻撃)」との線引きは難しい。
いや、正確に言えば、それは不可能。
だからこそ、太田さんが言う様に、それを初めから容認してしまって良いの? という思いがある。
攻撃の行使は、常に正当な理由に拠るのか。
そんな事は無い。
教師は人間だ。
良識のある者もいるし、そうで無い者もいる。
それを理解すべきだと思います。
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ミランカ内のコンテンツ、『博士も知らないニッポンのウラ』を観ました(要無料会員登録。ページ、かなり重いです)。追記:corvoさんに教えて頂きましたが、再生は、Windowsのみで出来ます。残念。
これは、必見であります。
前半は、堀江貴文被告についてですが(個人的には、これも、興味深く観ました)、その後は、ニセ科学やスピリチュアルについて、宮崎哲弥氏、唐沢俊一氏と共に、語られています。血液型性格判断・水伝・ゲーム脳から、細木氏や江原氏の番組まで、広く扱っています。
全部で90分で、かなり濃い内容です。
絶対に、地上波では流せない(笑)
しかし、改めて思ったのですが、博士さんは、かなり勉強しておられますね。感心しました。
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まさか、後藤さんが、あの番組で取り上げられるとは。
三宅さんは、仮想的世界で遊んでいるなあ。しかも、声がでかいから、タチが悪い。ざこばさんもね。
「昔は良かった」が、好きですねえ。
ところで、「今時の若者」って、何歳から何歳なんでしょう。
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人殺しの練習・異常言動・遺伝子…知事発言も様々 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
うーむ。
こういうのって、○○という言葉を使ったから駄目だ、という事では無くて(これ重要)、「今ここで、こういう言葉を使ったら、どういう反応があるか」、というのを想像する能力が、問われている訳ですね。言葉を発する前に、ほんの少し、それをイメージする時間はある訳ですから、もうちょっと、「気を遣う」べきでしょう。
必ずしも、発言そのものが、発言者の差別的認識等を端的に表している、という事では、無いと思います。語感の違いによる認識のズレなんかも、あり得る訳ですし。文脈(状況)も、考慮すべきです。尤も、文脈に関わらず、言い訳など全く通用しない発言も、あるのですが。”「悪い遺伝子を持った方」”という発言なんて、釈明するとか、そういうレベルのものでは無いですし。
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檜山さんのブログに、kikulogでの議論が紹介してありましたね。で、corvoさんのコメントから辿って、改めて、corvoさんのブログ(鴉工房: 「水からの伝言」って何だ)で行われた議論(自分も参加)を読んだのですが、重要な意見が、沢山ありますね。
私が思っているのは、言葉に力が持たされてしまう事への懸念です。語形と語義が一対一に対応している様に思い込んで、それが物質の振る舞いとも直結している、という認識を形成した場合、生きているだけで、「悪い言葉に晒されている」と考える事にもなりかねない訳です。
水伝など知らない人間の方が、圧倒的に多いのですから、「悪い言葉」なんて、そこらじゅうを飛び交っているのですよね。それが、自らの身体を切り刻む刃となるのです。矢の雨が降り注いでいる様なものですね。これは、たまったものでは無い。
では、その状況から抜け出すにはどうすれば良いか。
この様な認識に、至るのではないでしょうか。これは、とても、肯定的には受け容れられませんよね。
感謝の言葉を使いましょう、というのは、一見、とても良い教えに思います。でも、感謝の言葉というのは、客観的に存在するものではなく、「みんなが感謝の言葉だと思っているもの」の事なんですよね。そもそも「感謝」とは、感謝すべき「相手」がいて、成り立つ概念です。相手が「どう思うか」を考えないと、いけないのです。水がどうなるから、とか、そんな問題ではありません。相手が自分に、感謝の言葉を、「水が綺麗になるから」掛けている、というのを、受け容れられるでしょうか。
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Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - 漫画教科書 高校生向け数学2で初登場 意見付き半分削除
私は、こういう企画には、大賛成です。どんどんやって欲しい。
ただ、やるからには、ちゃんと、大切な所を押さえて、漫画としてもしっかり成り立つ様に、やって頂きたいですね。
たまに、(前にも書きましたが)漫画にしている意味が全く無い物も、ありますよね。漫画としても中途半端だし、学習参考書としても、良い出来では無い、という。
本当に漫画としても面白くするなら、ある程度、無駄とも思える演出も、必要だと思います。読者を掴むプロットや、キャラの設定が練られていないと、テキストの内容を無個性なキャラクターに喋らせただけの、駄目な物になりかねませんからね。そういう意味では、「教科書」に用いるのは、現実的には、難しいかも知れませんね。少なくとも、「画を使っていれば興味を持ってくれるだろう」、という安易なやり方には、なって欲しくないです。それは、子どもも漫画文化も馬鹿にするものですから。
詳しい内容は解らないので、余り適当な事は言えませんが、
申請段階では「どうじゃ、わからんだろう」などとユニークな話し方をしていた教師役は修正後、すべて「です・ます」調になった
余りにも激しくナンセンスだと思うのですが、どうでしょう?
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― ブログ・発見の「発見」 ― 科学上の諸々の発見から「意味」を発見 - ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判を
取り敢えず、リンク。後で、本文に追記するか、コメント欄に何か書くと思います。
リンク先に、どっかで見た人がコメントしてますが、あまり気にしないで下さい。
「ニセ科学」を冷静に用いるべきというのは、その通りだと思います。そしてそれは、ニセ科学を批判する代表的な方々は、当然、強く意識しておられる訳ですね。
続きは、又後で。
以下、追記。
批判歓迎。
ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判を
「よりも」という表現が、今一つ、理解出来ません。ニセ科学批判や疑似科学についての議論というのは、当然、具体的な論証を含んでいる訳ですね。そもそも、科学っぽいが科学では無いもの、という概念が対象なのですから、そこでは、「科学とは」、という、科学哲学的議論が為される必要があります。
要するに完全な科学とか非科学といったものはないという言い方もできる。科学と非科学との間には科学性と非科学性とを様々な度合いで含んだゾーンがあるといった表現も出来るかもしれない。
これは、ニセ科学批判者が、いつも主張なさる事ですね。「グレーゾーン」という言葉で。そして、それとともに、明らかに黒に近い、と判断出来るものもある、というのも、言われている訳です。実際、精神分析などをどう判断するかは、難しい問題でしょう。
ただこのような表現は図式的であり、固定化して使われると問題がある。「ニセ科学」とか「疑似科学」といった、明確に定義された概念があると思わせるような言葉はそれ以上に問題が大きい。
ニセ科学は、ある程度、明確な定義があります。それは、現在認められた科学の方法に則って実証されていないのに、実証したと主張されるもの、或いは、広く世間に、そうだと信じられているもの、です。それは、社会的な手続きの部分も、含んでいる訳ですね。
ただ個々の「疑わしい」あるいは「科学とは思えない」ような言説を批判する際には問題点を具体的に指摘することなくニセ科学とか疑似科学とかいったレッテル貼りで済ませるようなことは避けて貰いたいし
それはそうです。当然の事です。それは、ニセ科学批判者も、心掛けている筈です。「問題点を具体的に指摘することなく」ニセ科学のレッテルを貼る言動に対しては、ニセ科学を論ずる人からも批判が出るでしょうし、又、そうあるべきです。と言うかですね。問題点を指摘せずにレッテルを貼る、というのが、よく解らないのです。問題点を指摘した上でニセ科学と判断された(レッテルを貼られた。←余り、ポジティブな印象では無いですね)ものを、よく調べもせずに信じる、というのなら、解るのですが。それを、「レッテルを貼る」と表現出来るでしょうか。
勿論、ご懸念も、理解は出来るのですね。「ニセ」という、強い価値判断を含んだ語が一人歩きしないだろうか、という事でしょう。であれば、批判者が用いる「ニセ科学」という語が、どういった意味であるかという事を、精確に理解するのを、心掛けるべきではないでしょうか。少なくとも私は、そうしています。
大切なのは捏造といった倫理的な問題がないかどうか、どれだけ真理、真実といった近づきがたいものに迫っているかということで、科学かニセ科学かという問題ではない。
いや、そうではなくて、ニセ科学はそもそも、現在認められる科学の手続きに則っていないのに、そうしたかの様に言われている、という所が、批判されているのです。問題は、「科学かニセ科学か」、です。
うーん、どうにも、整理出来ないですね。私が、quartaさんの仰りたい事を、ちゃんと掴めていないのかも知れません。
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R行軍記 : 日本の小学生の「学ぶ意欲」が低いのは洗脳によるものです
うん、確かに、よく解ります。私も、ここに何度か書きましたけれど、同じ様な認識でしたね。「勉強だけが大切なのではない」、が、「勉強しなくても良い」、「勉強に打ち込むのは駄目だ」、となったのですよね。まあ、洗脳という言葉の使い方が適当かどうかは別として。
理想的には、マスメディアの情報ではびくともしない様な知識を身に着けるべき、という事なのでしょうけれど、事は、そう簡単ではありませんね。マスメディアは、生活に溶け込んでいますし、何から影響を受けるか、というのは、対象への重み付けによっても、変わってきますしね。漫画にウエイトを大きく割く場合も、あるでしょうね。私の場合、漫画とゲームだったかな。私は、こういう場合には、「なるべく幅広く知識を得る」のが重要だと思っています。そうやって、メタな認識を鍛えるべきかな、と。マスメディアや漫画(この時点で、あらゆる文化に敷衍出来ますし)の表現内容を気にするよりは、そちらの方が良いと思います。じゃないと、表現を拘束しかねませんしね。
これは推測ですが、「勉強する」というのが、権威に従うという意味を示す記号になっているのではないかと思います。それが、多数の持つ他のイメージとも結び付いて、よりネガティブな認識に繋がるのではないでしょうか。机にじっと座って、無理やり知識を詰め込まされて、将来何の役に立つのか解らない(もっと言うと、「受験に”しか”役に立たない」)勉強を「やらされる」という。その認識を、色々なメディアが助長する、というのは、あるのでしょうね。それが、どれくらいあるのかは、よく解りませんが。
で、そうやって、ネガティブなイメージを作り上げた人が、好きで勉強している人を、奇異の目で見たりするのですね(経験者語る)。何というのでしょうか、他の文化(スポーツとか)に打ち込む人に対する評価とは、若干違うのですよね。多分、「あんなつまらない事を一所懸命やるなんて、物好きだなあ」、という感じなのではないかと思います。自分がその文化に対して持っているイメージを、頼りにし過ぎるのでしょうね。勉強の所に、色々な文化を代入してみると、面白いですよね。
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因みに、元記事に関しては、私も以前、取り上げました⇒Interdisciplinary: 意欲低下か
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前のエントリーの続きです。
「五感を通じて豊かな経験を積むべきだ」、という意見自体は、人間を自然科学的存在として捉えた視点としても、合理的なものだし、別に、それに反対する人も、余りいないでしょうね。
しかし、その事と、「現代社会の乱れ」、又は、「昔は良かった」、という考えとを結び付けるのは、早計なのですよね。
それを論ずるには、先ず、そもそもの議論の前提となる、現代社会のモラル崩壊とか、凶悪犯罪や少年犯罪が増えた、といった、実しやかに語られる説の真偽を、確かめるべきなのですよね。そして、それが妥当だと判明した上で、運動の量の少なさ(この事自体は、妥当だと思うのですが、どうでしょうか?)との関連を、検証しなければならない訳ですね。
私としては、現代人は、「身体が固まっている」(日常的な言葉を使うと、「凝りが強い」とでもなるでしょうか。不正確ですが、お許しを)と、考えています(理由は色々。輸送手段の発達によって、運動の量が下がったのも、一つの要因かも知れません。実証的根拠はありません。あくまで推測です)。そしてそれは、精神の状態とも、密接に関わっているでしょう。科学的にも、そう考えるのが、妥当です。しかし、それと、マクロな社会的事象との関連とは、単純に対応している訳では無いでしょう。そこを、一足飛びに結び付けてしまっているのですよね。一つの確証バイアスである気もします。自分が信じている説を正当化する為に、強引にロジックを用いているのでしょうね。
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ちょっと視点を変えて。例によって、走り書き。整理されていないし、重複部分もあります。
せめて、これくらいは、やって下さいね。
そもそも、ゲーム脳に定義がありませんからねえ…。森氏のロジックは、認知症がイメージングの結果によって診断出来るらしい→ゲームをやると、同じ様な結果になるらしい→ある脳波の状態を「ゲーム脳」と名付けた→ゲーム脳人間は、色々問題がある(悉く主観)。というものですから、論理的に批判する事自体が、難しいんですよね。
端的に書けば、脳の「機能が低下」する事を「ちゃんと測れる」方法を用いて、それが「ゲームによって」引き起こされる事実を見出して、「ゲーム以外では起こらない」と論証しなければ、ならないのです。
ところで、『ゲーム脳の恐怖』をお読みになっていない方の為に、本の腰巻に書かれている文章を引用します。※著者がその内容に関わっているという事では無いでしょうから、本そのものへの批判と取って下さい。
テレビゲームが、子どもたちの脳を壊す!
脳波データの解析で、その恐ろしさが明らかに。
まあ、これ程あからさまに、特定の文化を否定するものも、そんなに無いでしょう。駄目ですよね、どう考えても。
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昨日のエントリーについて、返答を下さっていますね⇒研究とか日記とか : 疑似科学(エセ科学?)とか
えっと、「外部に知られる」についてですが、Technoratiとかでブログ検索して、気になったものに言及しています。
やっぱり誤解なさっているかも。
ニセ科学に対する批判は、「科学らしさ」を標榜したり、科学的根拠があると広く信じられている説(だが根拠不充分な説)に対するものですから、民俗科学を現代の実証科学の視点から批判するのとは、ちょっと違う訳です。水伝にしろ、ゲーム脳にしろ、自然科学的に実証されたと主張されており、その点を批判されているのですから。
血液型性格判断については、能見親子等が、実証されたと主張しましたが、それを心理学者が追試2007年11月1日追記:追試、とは言えないかして、反証された訳です。勿論、性格をそもそも測定出来るか、という心理学的問いは成立しますが、それは又、別の文脈です。状況が大きく変わらなければ、性格もある程度一貫していると想定して、それは、性格検査では、ある程度の確度で測定出来る、と、私は考えています。人格心理学的には、色々な議論があるでしょうけれども。
まー結局は反証不可能性?ということでエセ科学ってことになってしまうんでしょうけど,反証不可能な理論って,実は人文系とかにはたくさんあるわけで。
前にも議論になりましたが(Interdisciplinary: 血液型性格判断はニセ科学 コメント欄)、反証不能だからニセ科学、という事では無いですね。ニセ科学は、「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」(ニセ科学入門)であり、実証されていないのに、実証されたかの如く主張される説、の事です。血液型性格判断は、反証されているのに、実証されているかの様に思われている説(余りにも一般に流布されていて、そこに、明確な「科学性」がイメージされているとは限りませんが、血液型という生物学的因子をもって、性格を説明する、という考えですから、そこに科学的な根拠は意識されている、と見るのが妥当だと思われます。社会心理学等で、そういう実態を調べた研究があるかも知れません)、ゲーム脳は、そもそも主張する側が、充分な根拠を提出していないものです。水伝の場合は、現代科学と著しく整合性を欠く、或いは、価値観を自然科学的論理に求める、という所が、ニセ科学であると批判されている訳です。
人魂とかUFOとか占いとかのしょぼい仮想敵ではなくて
UFOはともかく、人魂とか占いを、「ニセ科学」批判の文脈で語る人は、いないと思います。上記の菊池氏の文章より引用します。
一方、「ニセ科学」という言葉で超能力やオカルト、心霊現象、あるいは星占いのたぐいを思い起こす向きもあろう。この中で超能力(テレパシーや予知、念力など)については「超心理学」という学問分野まで存在するので「ニセ科学」と呼べるだろうが、オカルト・心霊などはそもそも「科学的」な外観を持たないので、ニセ科学とは呼ばない。オカルト信者自身、オカルトを「科学」とは考えていないだろう。
こういうものをどう扱うべきか、という事に関しては、科学者も、色々な態度を取るのではないでしょうか。それは、ニセ科学批判の文脈とは、異なると思います。私は、少なくとも、テレビ等で、ゴールデンタイムに積極的に流すべきでは無い、と考えていますが。
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Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <学習意識調査>日本の小学生は中韓より「学ぶ意欲」低い
そもそも、学校で勉強するという事に対する考え方が、違うのかも。
で、元ネタはこれなんですが⇒財団法人日本青少年研究所:小学生の生活習慣に関する調査-東京・北京・ソウルの3都市の比較ー(PDFファイル)
「勉強のできる子になりたいか」の所を見ると、
1)そう思う―東京:43.1 北京:78.2 ソウル:78.1
とあって、毎日の記事にも書いてある通りなのですが、そこには、
2)どちらかというとそう思う―東京:33.1 北京:14.9 ソウル:16.2
とも書いてあって、合計すると、東京:76.2% 北京93.1% ソウル:94.3% となって、ちょっと印象は変わりますね。差が大きい事には変わりないですが。まあ、ちょっと細かい事ですが。「将来のためにも、今がんばりたい」も、「2)どちらかというとそう思う」を含めると、77.2%になりますし、「言われなくても宿題をする」は、65.7%で、「3)したりしなかったり」も含めると、84.4%です(ソウルも85.4%になる)。「先生に好かれる子になりたい」は、かなり低いですが、これは別に、そう考えるべきだ、という事でもありませんしね。4件法ですから、回答の見方によって、印象は、結構変わりますね。日本の児童は、「どちらかというと」とか、「ときどきする」を選ぶのが多い、という印象があります。
こういう調査は、社会的望ましさが意識される場合もありますし、”日本の小学生は中韓より「学ぶ意欲」低い”という見出しにする様な事かな、と思わないでも無いです。そもそも、「勉強のできる子にになりたいか」の回答結果を、「学ぶ意欲低い」に、結び付けられますかね?
この調査自体は、結構面白いと思います。そんな事も訊くんだ、という項目もあったり(笑)
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poohさんの所にも、似た様な事を書きましたが。
理系白書ブログでの、元村氏に対する批判。私は、穏当な部類だと思っているのですよね。
と言うかですね。柘植さんやJosephYoikoさんや、他の、高い知性と幅広い知識を持った専門家の方々が、「わざわざ」忠告している訳です。JosephYoikoさんのコメントなんかは、確かに超辛口ですが、単なる誹謗とは、全然違いますからね。必ず論理的な批判が含まれている。これって実は、かなり「ありがたい」事だと思うのです。おかしな所とかを、チェックしてくれているのですから。あちらのコメントを見ると、元村さんが誹謗中傷を受けている、みたいに捉えている方も、おられる様です。
元村さんは、批判に対して異論があれば、反論すれば良い、と思うのですよ。そうじゃなくて、いつも、はぐらかす様な書き方や、無理に一般論に持っていこうとなさるのは、如何なものかと感じるのです。
男社会で第一線で活躍中の”おんな”に対する”できないおとこ”の嫉妬、やっかみ、いじめ、の形を変えたものでは?・・・・・はうがちすぎでしょうか(3月6日 14:05の、遅れ痴さんのコメント)
こんな考え方をするんですねえ…。こういう、いかにも「無意識」を問う様な物言いは、ダメダメです(柘植さんのレスの様に答えざるを得ないので)。
※「忠告してるんだから感謝すべきだ」、と言っている訳ではありません。
※元村氏への批判というより、理系白書ブログに寄せられるコメントの一部を読んで、思ったりした事を、書きました。
※これは、理系白書ブログの最新のエントリー(「再び大阪」)を読む前に、書いたものです。
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以前もご紹介したブログに、かなり興味深いエントリーが上がっていました⇒大「脳」洋航海記 » 脳ブームへの懸念:Nature NeuroscienceのEditorialより
こちらも興味深いです⇒『脳トレ』ブームと川島隆太さん:生命の理解、そして「理解」の理解。、冗談を休み休み言いたい。 - 批判力を鍛える大人のおもちゃ
やはり、専門的に勉強されている方の分析は、とても、参考になります。
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Yahoo!ニュース - 西日本新聞 - 「オイ・ワイ禁止条例」構想 市役所へ賛否続々 佐賀・武雄市
うーむ、何だか凄いな…。
全く関係無いとは言いませんけど、わざわざそんな事を決める必要は、無いのでは。
と言うか、お互いの呼び方なんて、当事者同士が決めるものでしょう。
て、男性配偶者は、何と呼んでもいいのか?
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ついに、理系白書において、ゲーム脳が取り上げられました⇒理系白書’07:第1部 科学と非科学/5 過熱、脳ブーム
私は以前、どの様に取り上げられるかを予測したのですが(Interdisciplinary: 予測)、初めに予測した通りの内容になり、後から立てた予測は、はずれました。
さて、記事の内容ですが、私は、全く不充分であったと考えています。以下、ゲーム脳に関して書かれた部分を引用して、考察します。
単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり
マスメディアは時折、この様な、まるで、自分達が含まれないかの如き書き方をします。一因として、元村氏の記事があった事を、説明すべきです。あれ程指摘されたにも拘らず、その事には触れていません(後で、理系白書ブログのコメントに言及します)。
市教委は「(ゲーム脳という)考え方があることを紹介する講演会。判断は聞いた人にゆだねたい」と話した。
市教委のコメントですが、これは話になりません。この論法だと、どの様な暴論でも、「教育委員会主催・後援」において、流布される事が可能になってしまいます。聞いた人に判断を委ねるというのは、自分達がその説を支持している訳では無い、という正当化でしょう。では何故、その様な説を主張する論者に講演を依頼したのでしょうか。対象がどの様な評価を受けているかを調べるのは、余りにも当然の事です。
科学界からの声に森教授は「脳波を知らない人や、ゲーム業界の支援を受けている人の主張だ」と反発する。「電極を増やした精密計測も進めており、論文はいずれ書く」とも話した。最近になって「ゲームはいけない」との主張を「1日15分なら大丈夫。共存も考えなければ」と変えた。こうした一貫性のなさも不信を持たれる一因だ。
前半は、『サンデー毎日』の記事、後半は、まんたんウェブの記事(特集:脳トレ・DS“ゲーム脳理論”の森昭雄教授に聞く「良い効果の可能性も」 (まんたんウェブ))の参照でしょう。しかし、この書き方は、恰も、最近森氏が主張したかの様です。詳しく知らない人は、新たに森氏に取材をした、と誤解するかも知れません。脳波を知らない~、論文はいずれ書く(こちらは、もっと以前から言っていたはずです。記事なりが見つからないですが)、の部分は、昨年のインタビュー、「ゲームを一日15分」と言い出したのは、特に最近ではありません。余りにも、取材不足です。ゲーム脳に関して書かれた物に当たって書いただけ、としか思えません。
こちらにある、一技術屋さんのコメントが、適切な批判です。
そして、元村氏のコメントです。
本当にそうだと思います。あの頃は科学記者として未熟でした。科学は万能・・・とまでは思ってませんでしたが、「いい加減な科学」が、自分の取材する範囲にあるとは思っていなかったところがありました。だまされるのは自分に科学や研究のバックグラウンドがないからだ、記者として失格だと思ったことが何度もあります。
宗教団体による「クローン赤ちゃん誕生」報道も含めて、科学記者としての能力の限界を感じ、反省することばかりです。いくつかの失敗経験を通して、よい意味で「疑う」作法を学んでいるところです。「一技術者」さんにも、長い目で見ていただけたらと思うのですが・・・。
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何か凄いのを、見つけました⇒美しい日本をつくる会 2月18日に発会式を行います。どうぞご参加下さい
この手の文章って、物騒な表現が散りばめられていて、あんまり美しく無い、と思うのですが。
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ニセ科学問題を考える事自体が、科学と疑似科学の線引き問題等の、科学哲学的トピックに繋がり、思考の訓練にもなる、というのはあるでしょう。
いずれにしても、批判自体が目的になる事など、考えにくいと思っています(願望も含んでいるでしょう)。
私自身が、「自己目的化」という言葉に、とても拘っていますね。実際、どういう意味なのかを突き詰めるのも、重要なのではないかと。「自己目的化」でググると、色々出てきますね。果たして、同じ様な論理が、ニセ科学批判活動においても、当てはまるのかどうか。
こんな事を書いていると、見方が偏っていると、思われるでしょうね。取り敢えず、この問題について書くのは、これくらいにしておきます。
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川端裕人さんのブログで、こんな面白い、意見募集があります⇒リヴァイアさん、日々のわざ: PTAのイメージってどうよ……どんどん追記します
私自身のイメージとしては、あちらにも書いた通り、何をしているのかよく解らない組織、というものですね。まあ、小学生が、PTAって何やってるんだろう? と、好奇心を持つ事も、あんまり無いのかなあ、とも思います(持っても、すぐに消え去るかも)。後は、母親の集まり、ですよね。定期的に、放課後に保護者(主に母親)が集まって、何やら話し合いをしている。で、何を話しているかはよく解らない、という。保護者が子どもと、PTAに関して話し合う機会を持つかどうかに、関わるのかも知れませんね。
しかし、コメント欄を読むと、悉くが、ネガティブ、もしくは、特に意識した事が無い、という意見ですねえ。しかも、皆さんのご意見に、殆ど同意出来る、というのが…。
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走り書きです。
そもそも、ニセ科学が「実証されていないのに実証されたかの如く主張される説」、「科学的根拠が無いのに、科学的だと広く認められている(誤解されている)説」である、というのを、事あるごとに、くどい位説明するのは、「ニセ科学批判の自己目的化」(昨日、コメント欄にも書きましたが、それが具体的にどういう現象なのか、という事も考えた方が良いかも知れません。よく考えてみると、余り意味のはっきりしない言葉です。※一応ここでは、「内容を詳細に検討せずに、誰かがニセ科学と言っているからそれに乗っている」、という意味で使います)を防ぐ為でもあるのですよね。要するに、「ちゃんと理解した上で言葉を使わないと、的外れになる」、という事を言っている、つまり、釘を刺している訳です。批判するからには、ちゃんと言葉の意味を押さえておきましょうね、という。
だから、ニセ科学を批判する事に対する危機感を持つのも、確かに意味はあるのだとは思いますが、それよりも、ニセ科学はこれこれこういう意味である、だから、○○はニセ科学と看做されているのだ、というのをきちんと説明する事が、大切なのだと考えています。
※「自己目的化」という字面からすると、「はっきりした根拠が無いのに、ニセ科学のレッテルを貼る」等してまで、何らかの説を批判する、とでもなるでしょうか。「自己目的」なのですから、批判行為そのものを目的とする、という意味ですよね。そこには、「内容を深く検討しない」という、ネガティブな意味も含まれているでしょうか。ちょっと、よく解らない所ですね。ニセ科学を批判する人が、わざわざそれらしい対象を探して難癖をつけ、満足する、という現象を想定しているのでしょうか。しかしながら、私が思うに、ニセ科学を批判する人は、楽しんで(というと、語弊があるか)それを行っている訳では無いし(嬉々としてニセ科学を論うなんて、想像も出来ないし)、的外れな意見があれば、それ自体を批判する、という事もあるのですよね(的外れなニセ科学批判を批判する)。又、「○○はニセ科学なんだって。知らなかったー。」という、いわゆる「批判を鵜呑み」にする人は、別に、「自己目的」なんて、積極性は持たないのではないでしょうか。となると、「批判の自己目的化」が、どういう現象なのか、いよいよ解らなくなってきます。
「ニセ科学」というのは、上に挙げた、ある程度はっきりした意味を持たされていて、その上、「科学と疑似科学の境界は曖昧」という前提がある訳ですから、その語を正確に使う事自体に、ある程度の認識力が必要とされるのですよね。
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血液型診断は明確な主張者が存在しない民間の経験的な通説です。
えっと、能見親子は?
科学的証拠が無い事を論拠に批判を繰り広げるのは、新説を独自の非科学的実験を根拠に主張するニセ科学と同じとなってしまうからです。
これが「対ニセ科学」ならばその非科学的実験手法を批判すれば事足りるのですけれど,通説を批判するにはそれでは足りません。反証実験が必要です。
根本的に勘違いなさっている様な。血液型性格判断は、「ニセ科学」ですよ。
それに、血液型診断を信じている人たちは「科学的っぽい説明」があるかどうかではなくて、実際にそれを当たると感じているから信じているのだと思うからです。
いや、違うでしょう。散々、テレビ等で、科学的に根拠があるかのように、扱われてきたのでは? 「実際にそれを当たると感じているから信じている」じゃ無くて、信じているから、確証バイアスなどを掛けて、当たっているかの様に認識を形成するのでしょう(どっちが先とは、厳密には言えないでしょうけれど)。だから、バーナム効果の話が出てくる訳で。
人によっては血液型診断を予断に用いる人がいますが、そういう決め付ける人は例外なく嫌われますよね。これを争いの素とするか、話の種とするかは、個々のコミュニケーションスキルの問題だと思います。
「話の種」、ですか…。「スキル」の問題に、相対化して良いのでしょうか。これは、差別の問題に繋がるのですから、少々素朴だと思います。
「首相官邸のホームページで安倍晋三首相のプロフィルに血液型が書いてあるが、輸血時に必要だからという理由ではないはず。血液型と性格に関係があるという非科学的な考えが根強く残っているのは、科学技術立国として恥ずかしい」と松岡さんは話す。(リンク先記事より引用)
別に恥ずかしくは無いと思いますし、憶測だけでそこまで言い切っちゃう方が恥ずかしいです。
少なくとも、血液型をプロフィールに載せる意味は、解らないですよね。そんな事をする国は、珍しいでしょう(正確には把握していませんが)。「憶測」と仰っていますが、血液型を載せる事に、どんな合理的理由があるのでしょうか。
後段は、ちょっと意味が解らないですね。
理系白書には、
血液型と性格に関係がある、という説は昭和初期、日本の心理学者の研究から生まれたとされる。70年代、関連本が相次いで出版された。
と書いてあるのになあ…。
MSN-Mainichi INTERACTIVE 発信箱:O型大リーガー=元村有希子
ほんと、これ、理系白書に書くべきだと思うんですけど。
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日本列島プチ改造論 パオロ・マッツァリーノ(第15回 科学にもお笑いを。ログは、何週間かしたら消えるそうです)
むむっ、微妙(笑)
まあ、このエッセイは、冗談を利かせたものですのでアレなんですが、敢えて真面目に。
ニセ科学批判者がニセ科学を、真面目に、時には堅苦しく批判するのは、信じている人がそもそも真面目であるから、だと思いますよ。
そういう人に対してノリツッコミをやっちゃうと、「おちょくられている」と感じて、逆効果でしかないと思うんですよね。おちょくるというのは、「嘲笑う」に通じる所がありますから。自分が好きなものをおちょくられるのは、我慢ならないのが、普通でしょう。
後、科学者についてのステレオタイプを書き過ぎ。「教科書で育った秀才のみなさん」って、芸が無いですよ(笑)
と言うか、ニセ科学問題を、ちゃんと認識してるのかな?
と言うか、私は釣られたのか?
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はてなブックマーク - ゴールデンタイムにオーラやら前世やら、本気ですか?
うーん、kikulogに、コメントしてみれば良いと思うのですが>疑問を呈している方々。「別に、ゴールデンにオカルト流してもいいじゃないか」、という考え自体は、一つの見解である訳ですし。議論するのも有意義なんじゃないかな、と。
今回は、ニセ科学の議論とは違うというのを、念頭に置いておくべきかと思います。
ところで、きくちさんは、
なんというかな、「深夜にひっそりやるから、大目に見てもらえているもの」というのはあるわけです。(きくち 08:32pm on 2007-02-12)
と書かれているのですよね。ゴールデンタイムに流すのはまずいんじゃないか、という事ですね。
こういう場合、個人的な視点で考えがちですが、それじゃいけませんよね。マスメディアはどうあるべきか、という一般論の話ですから。個人的な意見だったら、たとえば私なら、「テレビで何が流れようが、どっちにしろ殆ど信用してないんだから、構わない」、となりますが、それでは話にならない訳で。
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先日話題になった、『人間!これでいいのだ』を観たのですが、一万円札の絵を描かせて金銭感覚が判る、と言ってみたり、「家内の品格」と書かせて、字の形から、買い物依存症のなり易さとか、自己破産し易いかが判る、と言って、あまっさえ、字の書き方を変えたら性格が変わる、などと言う始末。ああいう内容なら問題無い、という事なのでしょうか。
そして、先日の「論文無断使用」問題について、謝罪がありましたが、それがあったのが、番組終了間際。大体、謝罪があるかも、と思った人は、謝罪があるとしたら冒頭でなされるだろう、と考えた筈ですが、最後に謝罪があっては、観る人も少なかったでしょうね。
しかし、筆跡心理学の人、よくテレビで観るなあ…。
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大和但馬屋日記の迷宮物件:政治的に正しいかどうかも本当にどうでもよくて
何か、凄い誤解を与えてしまっていたみたいです…。
えっと、前のエントリー(Interdisciplinary: ゲーム脳と脳トレ)で書いたのは、ブログ紹介と、そのブログについての感想を書いた上で、脳トレに対する、ゲームユーザーとしての、個人的な意見を主張しました(一応、”ユーザーとして、かなり個人的な意見を書きますけれど(敢えて一般化して書きます)”と、書きました)。なので、yms-zunさんに対する直接の批判では、無かったのですが…。というか、個人としての意見は、多分、同じ様なものだと思います。ゲーム脳やゲーム論のカテゴリーを読んで頂けると、判って下さるかと(TBしたエントリーでお書きになっている事と、同様の主張をしてあると思います)。たまに、「ゲーム脳を批判するなら脳トレも同じく批判す”べき”だ」と、主張する人がいます。私が書いたのは、そういう人に対する批判ですね。なので、A-WINGさんと徳保さんのやり取りを、例に出した訳で(いや、ちゃんと書いていませんでしたね…。こちらです⇒Frog is not Blog::なぜゲーム脳を批判するのか、Frog is not Blog::ひとつの旗の下に)。
川島氏について言及したエントリーを、挙げておきます。
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テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ 著者:八尋 茂樹 |
グッドタイミングというか。丁度、昨日のエントリーと関連する内容の著書を、図書館で偶然見つけたので、読んでいます(存在は知っていたのですが、未読でした)。
テレビゲームを、人文科学的に読み解こうとする労作ですね。
まだ少ししか読んでいませんが、amazonにあるレビューの内容には、頷ける所もあります。とは言え、テレビゲーム文化の複雑さ、奥深さを垣間見るには良いかな、という感想です。
私はどちらかと言うと、ゲームを実証科学的に研究する方に、興味のウエイトを置いていて、本書の様な本は、殆ど読んだ事が無かったので、なかなか新鮮な感じです。現代思想とか文学の表現が多用されていて(そう私には読めます)、難解な気がしますが。
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Interdisciplinary: 展望に頂いた、ドラゴンさんのコメントを受けて。
もしかすると、的外れな意見かも知れませんが。
恐らく、ゲームに否定的な人は、それらの文化を、「子どもがやるもの」、言い方を換えると、「よい大人がやるようなものでは無い」と、看做しているのではないかと思います。「テレビゲーム」を、「幼稚」を象徴する記号と看做している、とも言えます。又、何の役にも立たない、という見方もあるかも知れません。
ゲーム脳は、それらの認識を正当化する装置なのだと思います。そもそもゲームに否定的な人は、森氏の言説に触れて、(潜在的にしろ)それが、自らの認識を客観的に証明する概念だと考え、「飛びついた」のだと思われます。で、そういう人は、たとえば「脳トレ」の様なゲームが出てくると、今までのゲームは駄目だったが、脳トレが出てきて、状況が良くなってきた、と考える、という事もあります。これも結局、権威に頼るという部分がありますね。
ゲームをやる人間として、自分の経験を振り返ってみると、ゲームは、仲間とのコミュニケーションを深めるツールであり、ゲームのストーリー、つまり、映画や小説と同様の、クリエイターの創造性が表現されたものを楽しむメディアであり、(結果的に)記号操作などを鍛え、論理的認識力を高める(あくまで経験的に、ですが)道具でもありました。そして、「大人に馬鹿にされる」文化でもあり、大人がやるものでは無いと、(こんな文章を書いているのに)私自身、思っていました。
メディアそのものメッセージ性というのは、「どの媒体で表現されているか」、という事実が形成するバイアス、と考えてよいと思いますが、今後、それがどの様に変化していくかは、なかなか予想しづらい所ですね。色々な分野の人の取り組み次第、だと思います。実際、川島氏の脳トレは、(過程はどうであれ)ゲームのイメージアップには、大きく貢献したと思います。それによって、「脳にも良いゲームがあるのだ」という認識は、ある程度は広まったと言えるでしょう(それが妥当かどうかは別にして)。もしかすると、教育目的で制作されたシリアスゲームが登場し、それが大きな成果を上げ、注目されるかも知れません。そうすれば、否定的な人も、評価を替えざるを得ないかも知れません。業界の取り組み、マスメディアの取り上げ方、等々が関わってくる、複雑な問題ですね。
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2ちゃんねる(誰だよ"ゲーム脳"とか意味不明な事言った野郎は)経由で⇒リレーエッセイ13 大友英一(後でゲームリンク集に追加します)
中でもゲームが有害であることを繰り返し声を大にして主張していきたいと思う。テレビゲームをやる子供の脳は、異常に気づかれた日大文学部森昭雄教授が私と二人で痴呆老人の脳波とテレビゲームをやる子供の脳波の比較を行ったところ、子供の脳波が痴呆老人のそれに似ており、ゲームをやる時間に比例してより近づくことを確かめたのである。大人も子供も夢中にさせる麻薬のようなゲームというものは、勉強、読書の妨げとなるのは確実。まず学校で禁止すべきである。
最近脳血管障害がアルツハイマー病の発現に関与する可能性を示す論文発表が海外で行われている。また最近の調査では10数年前に比し、30才代の人々の動脈硬化が増強している由。これは脳血管障害の増加につながることである。
21世紀最大の課題は老年痴呆症の抑制である。その予防の為に脳の老化を抑える(遅くする)ことが必要となってくる。
自分の世界に閉じ込もり、周囲への気配りを忘れさせるゲームは、痴呆予防の大敵であると喧伝したいのである。
喧伝したいそうです。というか、共同研究者なのですね(CiNii - 脳波による痴呆の解析)。「森昭雄教授が私と二人で痴呆老人の脳波とテレビゲームをやる子供の脳波の比較を行った」と、はっきり書いています。尚、近著でも、ゲーム脳説を支持する意見を書いているとの事(※私はソース未確認です)。
他にも、自己の価値観を押し付ける意見に満ち満ちています。
引用して批判しようかと思いましたが、全体的に酷いので、やめます。要するに、この方は、「自分が不快だと思う事を社会全体がやらない」のがマナーだと思っておられるのでしょうね。それは、冒頭で引用されている、
マナーとは、周りの他人を不快にさせないための気配りである。(引用者註:強調ははずしました)
の、捻じ曲がった解釈です。
自分が嫌いだと思っている行動をしている人が増えている様に見えたからといって、マナーが悪くなったとか、羞恥心が消失した等とは、言えないのです。本当にそれを確かめたいのなら、大規模な、心理学的研究なりをすべきでしょう。
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kikulogの議論を読んでいて、「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきでは無い」という事について、色々考えていたのですが、やはり、とても難しい問題です。それこそ、道徳哲学や倫理学で長年論じられてきている問いの訳ですから、そう簡単に答えられるものではありません。私には、それらに関する知識が、余りに不足しています。
それを踏まえた上で、現時点での個人的な考えを言うと、ゲーム脳にしろ水伝にしろ、現にある規範や、自分が良いと思っている事を正当化する為に、自然科学的論理を、いわば「でっち上げ」ようとしている訳ですから、それは明らかに問題です。では、仮に(仮に、です)、ゲームをやれば脳が機能低下する、という事実が見出されたとして、それを根拠に「ゲームをすべきで無い」と主張するならば、それは、「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めた」事になるのか、という疑問も湧いてきます。ただ、それは、きくちさんが仰る話とは、少し次元が異なるのではないかという気もします。規範を正当化する為に自然科学的論理を探そうとするのと、自然科学の知見を基に規範を組み立てる事とを、区別すべきなのかも知れません。
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「あるある」捏造はなぜ:39.JosephYoiko January 23, 2007 @ 12:21am経由⇒理系白書ブログ: ないない大事典 別に、以前ゲーム脳を肯定的に紹介したという事実のみで、他を批判してはいけない、というつもりはありません(元村氏を批判する方も、そう考えておられると思います)。しかし、何か、納得がいかない感じもします。 こういう書き方を見ると⇒
あるある大事典の過去の内容は大丈夫なんだろうか?そこに登場する科学者、医者のみなさんは本物だろうか?と思うのは私だけじゃないと思う。ちゃんと検証してもらいたい。
余り品が宜しく無いかも知れませんが、元村氏のコメント(1月21日 18:21 )にツッコミを入れます(一部を省略。原文は、リンク先をご参照下さい)。
「簡単に乗せられる消費者も、行動を見直したほうがいい」と思う気持ちもありますが、3パック100円の納豆で3キロやせる、と言われたら、試したくなるのが人情ってやつでしょうかね。←新聞で、「ゲームをやり過ぎると脳波が認知症の人と同様になる」という説が紹介されているのを読んだら、ゲームを忌避するのが人情、という事でしょうか。
だからやっぱり、製作側の倫理観が一番重要だと思っています。←全くそう思います。新聞においても同様でしょう。
昨夕、一報を聞いて偶然、この事件を思い出しました。←最も初期に、ゲーム脳を紹介した新聞記事を思い出しました。
あの時は大きな騒ぎにならないのが不思議で、←「騒ぎ」という訳ではありませんが、その後森氏は、精力的に、講演等を行っておられる様です。影響という点では、大きなものだと思います。
「民放だったらこれぐらいやると思う人が多いのかな」と思ったのですが、「再犯」だったわけ。←ほう…。
放映後の騒ぎぶりも、ばれた後の騒がれぶりも、やはり視聴率に比例する?←この書き方は、とても嫌な感じがします。何でしょうね、一体。
そうそう、話は替わって、コメント欄で、「日本人は影響され易い。ミーハーだ」、「日本人が特にミーハーなのか?」というやり取りがありますが、日本人がミーハーだ、と言うのは、必ずしも、他の国の人のリテラシーが高い、と言っている訳では無いのですよね。勿論、そういう意味を含める事はありますが、それは、書き手側の認識の問題ですね。
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近年,人間観を揺さぶるような不可解な行動が報じられることが多いが,そうなればますます「心理」を理解したいという気持ちが強まる。
こうして,心理学ブームが続いている。出版される心理学書の数は増えているし,日頃マスメディアで流される話題も多い。
しかし,このような「心理」への関心が「心理学」に対する一般の認識や理解に結びついているかとなると,疑問である。
心理学の用語(学術語)の多くは,いわゆる日常語の転用である。だから,一見やさしく感じられるが,じつはそこに落とし穴があることに注意しなければならない。用語が日常使っているのと同じだったとしても,学術語となると厳密な定義に従って使用されている。それにもかかわらず日常語のもつ不明瞭さそのままに受け取ると,内容を正しく理解できないままに終わりかねない。(辻敬一郎・星薫 編著『心理学初歩』 放送大学教育振興会,2002 3ページ)
これは、よく心得ておかねばならない事だと思います。そうでないと、お互いに同じ語を使っていても、意味が共有出来ない、という事が起こります。そうすると、いつまでも議論が噛み合わなかったりします。文脈によっても、学術概念として用いるか、一般に広く使われている意味で用いるか、異なるでしょう。ここではどちらの意味で用いるべきか、相手はどちらの意味で使っているか、等を考えるべきでしょう。戦術として、自分が学術的な意味で用いていて、相手がそれを認識していない場合に、敢えてそのまま、コミュニケーションを進める場合がありますね。教育目的等で。
自分のよく知らない分野で、その道の専門家が議論しているのを読んだり聞いたりする場合には、日常的に使われている言葉が出てきても、それが学術的専門概念である可能性を、常に念頭に置いておくべきでしょう。
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番組ねつ造:「あるある」に消費者から怒り-今日の話題:MSN毎日インタラクティブ
思うのですが、
東京都江東区の大手スーパーで買い物していた団体職員の女性(41)は番組のねつ造を知り「今日も買いに来たんです。信じていたのに」と絶句した。以前は月に数回食べる程度だったが、番組で「1日2パックを毎日食べ続けて」と聞き、その通りにしていた。「でも体重が減らないからおかしいと思っていた」
午後6時半ごろ納豆が完売した横浜市中区のスーパーで、最後の5パックをまとめ買いした同市磯子区の会社役員の男性(65)。放送を見た妻と娘が「毎日2パック食べなければいけない」と言い出し、会社帰りに毎日買いに行かされた。「いい迷惑。テレビ局はいいかげんにしてほしい」。怒りは収まらない。
こういうのを紹介するより、何を捏造したか、それがどれ程重大か、というのを、知らしめるべきだと思います。他のニュースで、あるのかも知れませんが。
やっぱり、情報を鵜呑みにする人がいるのですね。本当に信じたのか、という疑問もありますけれど。もし私が鵜呑みにして、捏造があったと知ったら、怒るとともに、自分の安易さを恥じます。
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Yahoo!スポーツ - ニュース - 西武「茶髪・ロン毛」に罰金100万円
Yahoo!スポーツ - ニュース - ミニスカ四元に世界が「グレ~ト」
あまりに対照的なので、笑ってしまいました。
「先生、質問です。」
「何?」
「どうして、髪を染めたり長くしたりしちゃいけないんですか?」
「うん、それはね、社会人として最低限必要な事だからだね。」
「いや、だから、何で、髪を染めたりするのが駄目なんですか?」
「ほら、問題を起こす奴を見て。髪染めたりしてるのが多いでしょ。」
「でも、そうでない人も、問題を起こす人はいると思いますけど。」
「だけど、目立つでしょ。そういう人の方が。」
「じゃあ、そういう人が髪を染めたりするのはどうしてなんですか?」
「それは、髪を染める事がいけないと知ってるから、わざとそうやってるんだよ。」
「じゃあ、髪を染めてもいい、ってした方がいいんじゃ? 髪の色と、やる事自体は、関係無いっていう事なんですよね?」
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たとえ、染髪している人間と問題行動に正相関が見出されるとしても、それは単に、「髪を染めるのは良くない事だ」という合意があるからでしょう(未だにありますよね、多分)。幼稚な認識として、やってはいけない事をやる、という行動によって、自分をアピールするというのはあるでしょうから(←社会心理学的研究は無視しています。この手の分析は、数え切れない程あるでしょうし)。
勘違いして欲しく無いのですが、別に、どんな職業でも、身だしなみは全く自由にすべきだ、と言っている訳ではありません。そこに合理性(色々な次元での)があれば、それは考えられるべきでしょう。たとえば、力士は皆、長髪です。
個人的には、校則で、髪の長さや色についての制限は、設ける必要は無いと考えています。←反論あるだろうなあ…。
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kikulogで、ニセ科学についての教材を作るという話が出ていますね。以前も、apjさんのブログで、そういう話が出ましたが、とても良い試みだと思います。
ドラゴンさんが書かれている様に、批判的にものを見る事が、大切だと思います。そして、それを醸成するには、批判や懐疑の精神が重要である事(論理的に語るのは、「理屈っぽい」とか、野暮だとか、そういうネガティブなイメージがある気がします)、批判は論理的に、冷静に行われなければならないという事を、教えるべきでしょうね。その為に、練習問題風の教材を作っておくのは、有意義ですね。
きくちさんが出された練習問題は、とても面白いものでした。私は、統計のテキストでは、大村平さんが書かれたものをよく読むのですが、そこにも、同じ様な例が載っていました(縦軸に国民総所得を取り、横軸に酒類消費量を取ってグラフを描くと、強い正相関が見られる。しかし、だからといって、皆が酒を飲めば、国民総所得が増えるという訳では無い。つまり、相関と因果の違いです)。確率・統計のテキスト等では、結構、こういう例を出すのはよく見ますね。身近な例を出して、科学的な考え方を学ばせる、というのは、良い方法だと思います。
学習科学の考えなんかも、参考になると思われます。「どの様にして学ぶか」という観点ですね。
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PSJ渋谷研究所X: 実のところ「ニセ科学問題」とはなにが問題なのか
仰る事に同意です。
ニセ科学的言説ってのは非論理的だというか論理的破綻がつきまとうというか不合理・非合理だというか、つまるところ「言ってることがメチャメチャ」なわけだ(部分的にであれ)。
ニセ科学は、部分的に整合性がある所が、厄介ですね。で、信じる人は、その部分に焦点を合わせて、他を無視してしまうのでしょうね。又、ニセ科学が対象にする文化に対して無知な場合、それへの分析を怠ってしまう事もあります。たとえば、ゲーム脳では、ジャンルの多様性や、ゲーム内での様々な展開があるのを知っていれば、なんかおかしいぞ、となる筈なのですが、それを知らない人は、鵜呑みにしてしまうという。そこに、元々「ゲームの時間を減らしたい」という願望があれば、そもそも、ゲームについて調べようなどという気にすらならないのでしょう。
それを「個人的信念」で留めておかない、あるいは教育の現場に持ち込む、あるいはマスメディアで普遍的事実であるかのように垂れ流すってのは、どう考えても問題ですよね(但し書きがあったって、そこに気づかない人がいっぱいいるのだけど、それはまた別の問題だろう)。
この、ニセ科学主唱者の「動機」の問題というのは、難しいですね。それが、計画的なのか、それとも確信的なのか。当然、どちらにしても、批判されてしかるべきですが。
一般に、「論理的でない」とか指摘すると「冷たい」と言われたり「理屈よりも重要なものがある」だのという反論がある。
これは、社会的認知の問題ですね。「論理より感覚を大切に」というのを、その内容も吟味せず、まるで標語の様に使っているのだと思います。これも、きっかけは様々でしょう。自分が憧れている人がそういっていたから、本に書いてあったから、等々。発言力の強い人が、生半可な知識で、科学批判等をする影響も、結構あるのではないかと思います。最近私が色々書いている事にも繋がります。これは、心理学や社会科学の対象ですね。
それも含めて「『論理的』ということへの信頼が後退している」というような問題があるようにも思う。
「後退」と言えるかどうかは、難しいですね。後退というのは相対的な評価ですので。ただ、現在、一定数そういう人がいる、とは言えますね。又、ニセ科学について言えば、「論理的」と言うより、「科学的」と言った方が適切な気もします。論理的な能力が高くても、科学的知識に乏しい場合には、ニセ科学を信用してしまう場合もあるかも知れません。又、自然観の問題もありますね。水伝の場合には、明らかに、目的論的自然観ですが、それを信ずる人は、自然科学的論理を全く無視して、水伝を信用してしまうのでしょう。
そういえば、以前、寒天が売り切れ続出になった事がありましたねえ。凄い効果だ。
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素晴らしいですね。単に模型を作って貰うのでは無く、道具の便利さと危険性を考えさせる、又、プラスチックの原料を教える事によって、環境に対して眼を向けさせる。「模型を作る」と書くと、いかにも単純ですが、工夫次第で、これ程色々な事を教え、考えさせる事が出来るのですね。
私も、工作の時間は、とても楽しかった記憶があります。何かを作るというのは、それ自体が楽しいのですよね。組み立てキットの場合は、完成形が具体的にイメージ出来て、課目として、程よいものですね。記
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