カテゴリー「武術・身体運動」の記事

2009年5月30日 (土)

宮本武蔵

宮本武蔵は、なぜ強かったのか? 『五輪書』に隠された究極の奥義「水」 Book 宮本武蔵は、なぜ強かったのか? 『五輪書』に隠された究極の奥義「水」

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

大変面白い本。

書いてある事に全面的に賛同出来るような内容ではありませんけれども、とても示唆に富んでいると言えると思います。五輪書の読解としては、高岡氏の分析は、全く他の追随を許さないものなのではないでしょうか。

中でも個人的に注目したのは・・・

以下、

内容について書いているので、読むのを楽しみにしている方は、ご注意下さい。

高岡氏が武蔵を描いた(とされる)画のポーズを再現している写真と、バガボンドについての指摘。

写真については、なるほど見事な姿勢。あまりにも頭部が前に出ている気もしたけれども。

バガボンドの変化に関しては、読んで吹いてしまいました。というのも、

Interdisciplinary: ゆーらゆらー

Interdisciplinary: 独断と偏見による、アクションを描けている漫画家

ここで、同じような事を書いたのです。尤も、私が言及したのは武蔵についてでしたが、他の登場人物にも影響が及ぶのは考えられる事です。小次郎は武蔵に匹敵する剣客として描かれる訳ですしね。

私も、五輪書の水之巻の読解を試みたエントリーを挙げた事があるので、よろしければどうぞ⇒Interdisciplinary: 水之巻を読む

------

ちなみに、本書では、かなり書き方が慎重で、主張のある部分については、推測的理論である事を、きちんと各所で説明しています。中でも、「科学/未科学」について言及していた所には、おっ、と思いました。高岡氏は、自身の主張が未科学的であるのは相当自覚してるんですよね。色々な著書での記述で、それが垣間見えます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月23日 (土)

当身

合気道に対する根強い誤解の一つに、「当身をほぼ使用しない」、なんてのがあったりするんじゃないかな、と思っています。

いや、もちろん、打撃系武術では無いから、そういう意味で当身を多用する、というのはもちろん無いです。

合気道は、ほぼ「仮当て」、つまり、移動したり相手の体勢を崩す際の助け、として主に用いる訳ですね。

古流柔術では逆技や当てをよく使うが、合気道ではそれが取り払われている、なんてイメージ持ってません? ません?

実際問題として、当身は重要なのです。技を掛けるべく動こうとすると、相手もそれを避けたいと思う訳ですね。だから、体勢を崩しつつ顔面に当身を入れて足留めする、相手の正面側を通る際は、相手からの当身が来る可能性があるので、こちらからあらかじめ当身を入れて、相手の「手を使わせる」のです。場合によっては、その手を捕って技に移行する、というのもあります。

後ろ襟取りなんかも、崩しつつ相手の顔面に手刀を入れます。肩取り面打ちでは、手刀(正面を打つ)と拳(腹部に当てる)を同時に行います。両肩取り呼吸投げの変化では、足の甲に当身して脚を掬って投げる、なんてのもあるんですよ。(首絞めからの)首投げだと、顎に当身→崩し&顔面に当身 という流れ。

文字だけだと具体的にイメージはしにくいでしょうけれど、とにかく、合気道において当身はすごく重要、という事で。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

お世話になった本

門外でありますが、私が相当参照した本↓

陳式心意混元太極拳 陳式心意混元太極拳

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

もう10年近く前かな。図書館でたまたま見つけて読んだのでした。

当時は確か、姿勢の要訣について、色々調べていた時期だったと思います。中国武術の本を結構読みました。

この本は、その中でも、特に詳しく書いてあって、ものすごく参考になったと記憶しています。重要な箇所をノートに丸写し して、何度も読み返しました。

日本武術の文献では、事細かに姿勢(についてと、身体意識との対応)について記述しているものは、それほど多く見かけないように思うので、大変重宝したのでした。

ちなみに。

ここでも何度か書いた気がしますが、

私が、動く姿を見る事が出来た武術家の中で、馮志強氏は、最もすごい方の中のお一人だと思っています(他に、合気道の斉藤守弘先生等)。何ヶ月か前に動画を改めて観て、あまりのものすごさに身体が震え、言葉が出なかった、という記憶があります。

------------

余談大会。

今、上で話題に出したノートを引っ張り出して、写した所を探し中。

で、ちょっと面白いメモを見つけました。

1997年4月17日

勁道=気の流れ(自分の体内)

complex_catさんがコメントでよく書かれるのを見て、「ほほう、中国武術では”勁道”なんて言い方をするのか。それは大変便利な概念だなあ。」なんて思っていたのですが……。

忘 れ て た の か よ>自分

ちなみにこの後には、

気の流れ→自分の体内 自分と相手とのつながり 気の膜云々

なんてのがあります。結構いい事書いてるじゃん(笑)

------

写した部分、確認したけど、そんなに沢山じゃ無かった…。なんという記憶の曖昧な事よ。多分、本を何十回も読み返したのでしょう。

------

あ、そうだ。

上で、日本武術の本ではあまり姿勢について細かく記したのは見かけない、と書きましたが、弓道・弓術関連の本は、相当に細かい教えがありますよね。私は、こちらの本をかなり参考にしたのでした↓

型の完成にむかって Book 型の完成にむかって

著者:浦上 博子
販売元:言叢社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年5月18日 (月)

折れない腕

合気道で、「折れない腕」と呼ばれるものがあります。どういうものかというと・・・

まず、腕を伸ばして前に差し出します。で、その腕を誰かに曲げようとしてもらいます。あらかじめ、曲げられないように頑張るよう指示します。

普通は、腕に力を込めて頑張っても、すぐに曲がってしまいます。

次に、色々なイメージを持ってもらいます。たとえば、

  • 腕がホースになって指先から水が出ているかのように
  • 腕はリラックスさせて、気が指先からほとばしり出る感じで

など。そういう意識を持たせて腕を伸ばしてもらい、再びやります。

すると、アラ不思議。

今度は容易に曲がりません。しかも、腕を伸ばしている側は、特に頑張っている感じもせず、楽にその状態を保てます。

これが、「折れない腕」です。すごく簡単で劇的なので、ご家庭でやってみるのも良いでしょう。面白いですよ。※あまり無理せず、急激にやらないようにしましょう

さて、このパフォーマンス、いわゆる「気」の説明、あるいは「脱力」の有効性を示すためのものとして、結構見られます。簡単に出来るし、効果も解りやすいので、よく使われるのでしょう。

これがどういった論理で成立しているか、見ていきたいと思います。

まず、腕を前方に伸ばし、「今から曲げようとするから、曲がらないように頑張って」、と指示された、と想像してみて下さい。仮想的に、曲げられようとしている、とイメージするのもいいでしょう。

いかがですか。腕全体に力が籠もる感じがして、場合によっては、ピクピクと震えるのではないでしょうか。

これは、腕を曲げる筋肉(屈筋)と、伸ばす筋肉(伸筋)が一緒に働いて、肘関節を固定している状態です。えっと、たとえると、内側と外側から同時にドアを開けようとしている、という感じです。同じくらいの力で引っ張り合えば、ドアは固定されたままですね。それが、「自分の身体の中で」起こっている、と考えて下さい。

上にも書いたように、この時、腕には「力が籠もった感じ」がすると思います。曲げられまいと頑張る、その目的に従って最良の運動をしている、という主観があって、それに合致した「身体の感じ」がある、と。

次に、「折れない腕」の方です。

折れない腕を行う場合、あらかじめ、指示を受けます。たとえば、腕はリラックスさせ、指を伸ばし、指先から水がほとばしるように……と。今、ちょっと腕を前に出して、想像してみて下さい。

特に大切なのは、リラックスさせる、という所。これはつまり、主に肘を曲げる筋肉を弛緩させる、という役割を果たします。どうでしょう。「頑張って」と指示された時とは、明らかに「感じ」が違うはずです。

そして、やってみると、こちらの方が、遥かに耐えられる。あれ、不思議だなあ、力は入れていないはずなのに…という感想が出てくる。

理由としては、結構簡単です。今やっているのは、腕を曲げられようとするのを耐える、という目的ですから、行うべきは、「肘を伸ばす」事です。そして、それを達成するのは、曲げられようとするのに合わせて、肘を伸ばす筋肉が収縮するのが必要になる。

しかし、「頑張って」と言われた場合に起こっているのは、「肘を曲げる」のと「肘を伸ばす」のを同時にやってしまっている。ものすごく簡単に言えば、「無駄な力を入れている」、もっと言えば、「自分自身で、”曲げるのに手を貸している”」、となるでしょう。

もし、場に三人いれば、あまっている人は、「折れない腕」を行っている際の、上腕の、いわゆる力コブが出来る所を触ってみて下さい。柔らかいはずです。対して、頑張っている際は、収縮して硬くなっているはず。

ここに、人間の心理、あるいは感覚(知覚、と言った方がいいかも知れない)の面から見て、とても興味深い現象を見出す事が出来る訳ですね。

やろうとしているのは、「肘を曲げられんとするのに耐える」、というものです。そしてそれに最も合理的な運動は、肘を曲げる筋肉を弛緩させ、肘を伸ばす筋肉を収縮させる事。

しかし、「頑張って」と指示された場合は、「目的に適うよう運動しているはず」なのに(認知)、実際は、「自分で曲げるのを手伝って」(実際の運動)しまっている、のですね。当然、「今目的に適った運動が出来ているかどうか」は、感覚・知覚を基にして判断しています。つまり、腕の筋肉の収縮などから得られる感覚を手がかりにして、「この感じ」は合理的である、と判断する。

しかし実際は、合目的的(ここでは、腕を曲げられんとする)な運動を行っていると思っているにも拘らず、運動としては実に不合理なものになっている。ここに、日常的な「身体の”感じ”」と実際の運動との乖離、が浮き彫りにされてくるのです。

「折れない腕」というのは、そこを端的に解らせるための、簡単で示唆的なパフォーマンスです。要するに、「主観的な、”感じ”」はあてにならないよ、と。それを、事前の、イメージを用いる指示などを使い、認識させる訳ですね。イメージが有効なのは、

  • 誰しもが解剖学の知識を持っている訳では無い
  • なんとなく知識を持っていたとしても、それをすぐに感覚・知覚と対応付けられない
  • イメージによって、上肢全体の運動の枠組みを変容させるよう促す

などの理由による、と推測出来ます。いきなり、上腕三頭筋を使って屈筋はリラックスさせよ、と言われても出来るはずが無いし、仮にそれをすぐ理解出来るなら、そもそもこのパフォーマンスを行う意味が無いですから。

ところで、この「折れない腕」、たまに、「気」の考えを補強するために用いられる事があります。ほら、力を抜いているのに曲げられないでしょう、これが「気」なのだよ、といった具合に。

しかし、ここまで見てきたように、このパフォーマンスは、「(合目的的)合理的な筋肉の使い方」を促すものなのです。ですから、筋力否定の文脈で「気」を持ち出し、このパフォーマンスを論の補強に用いるのは、誤っている訳ですね。実際、大きな力の差があれば、リラックスさせたとしても、やはり曲がってしまうのです。

これが、いわゆる「折れない腕」パフォーマンスの論理構造です。もし、何かのきっかけで、このパフォーマンスに触れる事があれば、ははあ、これは知っとるぞ、と冷静に見ると、面白く観察出来るでしょう。

------------

おまけ。

このパフォーマンス、おそらく実験的に研究した例は無いだろうと思います。そこで、軽く試案的なものを。

サンプルを3群に分け、

  • 指示:「頑張る」―群
  • 指示:「リラックス」―群
  • 何も指示しない群

に割り付け、腕を曲げてもらう。もしくは、同一被験者で水準(ここでは指示の仕方)を変えて実験を行う。

腕の「曲げられにくさ」を測る。尺度は、曲がってしまうまでの時間とか?

実験時に、筋電計で、上肢の筋収縮の度合いを観測する。

それぞれの条件で、主観的な「感じ」を、質問紙などで測る。

解る事

  • 曲げられにくい場合の筋活動の具合
  • 言語的指示が、曲げられにくさにどう影響するか
  • 主観的な腕の「感じ」が、筋活動や曲げられにくさとどう関連するか

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

脱力の論理

脱力することについて質問。合気道などでは特に脱力することを注意しますが。な... - Yahoo!知恵袋

質問者さんは、「脱力」を、あらゆる筋肉を弛緩させる、的なイメージで捉えているかも知れません。

もちろん、そんな事は不可能な訳です。人間、立っているだけでも筋肉を使う。当たり前です。

脱力の論理構造については、一般的な所は高岡英夫氏が解明しました。それは、言われてみれば何という事は無い、でも言われるまでは整理しにくい、というような論理です。

つまり、目的の運動があったとして、それに必要な筋肉を収縮させ、それ以外は弛緩させる、と。

ね、聞くと、何当たり前の事言ってんの? って感じでしょ。実際、トートロジカルです。生体力学的には、そういう事です。

それで、なぜ教えとして脱力が煩く言われるかと考えると、それは、認知と身体の在り方に常にズレが生ずる可能性があるから、なんですね。

どういう事か。

上でも書いたように、生体力学的に見れば、脱力とは、目的の運動に応じて適切に使う筋肉の収縮を配分するという事だから、そこが解明されれば、ある程度正確に記述出来ます。

だけれども、仮に記述出来た、つまり、どこそこの筋肉をどのタイミングで収縮させれば……というのが解っていたとしても、すぐさまそれが自分の身体に取り込む事が出来る訳では無い、と。

肩凝りを考えてみて下さい。「今、僧帽筋辺りが強張っているから、そこを弛緩させて。楽になるから」、なんて言われたって、出来るものではありませんよね。それが出来るなら、そもそも凝りなど存在しない。

そのように、「思った」としても、「ままならない」。

そこで、「脱力」などの概念が出てくる(←時間的順序関係を示した文じゃ無いです)。つまり、全身の筋肉を柔らかくしておく、といった所を習慣づけるための言葉。特に上腕なんかでは、筋肉を固めた時と弛緩させた時の違いの知覚は容易ですよね。で、それを応用させるようなかたちで、いついかなる時でも、あらゆる所を柔らかくさせろ、という意味合いを感じさせる「脱力」を、最重要の概念として持ってくる訳です。腕の力を抜いた時のような知覚を全身に分布させろ、凝りのような知覚がある場合、それをフィードバックして、なんとか解体しろ、と。

しかしそれは、ある意味で「大雑把」な表現でもあります。だから、ある程度深く考えると、「脱力って言っても、全身の力抜いたら動けなくなるよなあ」、などといった、至極当たり前の疑問が出てくる。つまり、直感的にでも、解剖学的な概念と繋げて認識してくるのですね。

それが高じると、質問者さんのようなクエチョンを投げかけたくなってきます。

脱力という言い回し自体がいつ頃から出てきたものかは知りませんが、そんなに新しいものでは無いでしょう。あくまで慣習的に、学習的言語として用いてきたはずですね。少なくとも、解剖学的概念ときっちり対応させてそれを使った人は、いないでしょう。上達の過程で、あたかも「全身の筋肉が弛緩したかのような(筋肉の存在は当然知っていたでしょうから)」状態の時に優れたパフォーマンスが発揮される、のを直感して、それを「脱力」という言葉で表現したのではないでしょうか。「力」は日常的に使われていますしね。

それは、ある程度有効に機能してきただろうから、ずっと広く使われ続けてきた。で、ある程度でも解剖学辺りの知識を得た人がその言葉に出会うと(あるいは、言葉に出会った後に解剖学の概念を勉強すると)、戸惑うのだと思います。

心理学的概念を使うと、(ちょっと造語します)

  • 脱力的知覚スキーマ
  • 力み的知覚スキーマ

なんて分けられますかね。本当は、どっちも筋肉を存分に使っているのだけれど、前者は合目的的合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。後者は、あたかもチェーンが錆び付いた自転車のような、不合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。前者を達成出来た時に肯定的評価を与え、後者は解体が望まれる、と。

知覚というのは、そもそも強く主観的だから、共通了解を得る言語化が非常に難しい。筋電計なんて昔はありませんしね。達人の筋電図を採って、それと知覚を細かく対応づける、なんてのも出来なかった。

で、工夫して色々の学習的・伝承的な語が生み出されてきて、中でも有効に働き注目を集め、ずっと生き残ってきたのが、「脱力」という言葉だったのでしょう。

------------

脱力、いつ頃から使われたのでしょうねえ。武術界で広く流行ったのは、練気柔真法辺りがきっかけなのでしょうけれど、武術の指導の現場では、もっと前に使われていたと想像します。仮に、数十年の間に出てきた新しい言葉だとしても、その論理構造は詳しく検討されてこなかった、と言ってよいでしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

メモ:知りたい・調べてみたい事

  • 剣素振りの際の、肩・肘・手首の各関節の軌道。そこそこ高性能のカメラがあれば、(精度をある程度無視すれば)比較的簡単に確かめられる。
  • 剣素振りの際の、剣そのものの運動の推移。これも、1秒/60フレーム 程度で撮影出来れば、ある程度は把握出来る。
  • 視覚情報を遮断した場合、技のかかりかたは違うか。基本の呼吸法(や合気上げ)で。視覚情報によるフィードフォワード有り条件→(視覚情報遮断による)体性感覚のみ条件(聴覚・嗅覚情報は影響しないと前提) との比較。
  • 動いている時の、下腿の筋群の活動状態。特に、接地時にどのように収縮するか。
  • 同じく、大腿の筋群の活動。特にハムストリングス。
  • 手を開いた場合と、力を抜いた場合(つまり、前腕の筋群の収縮/弛緩 条件)の、被術者の前腕筋群の反応の違い。つまり、合気道・合気柔術における、「手を開く」事の意味。
  • 肩甲骨・鎖骨 の可動性について
    • どの程度動くか――可動域の問題。どのくらい「動き得るのか」←解剖学的・心理学的論理が関わってくる
    • どの程度「動かせるか」――制御の問題。意識してどのくらい動きをコントロール出来るか
  • 上の可動性に関して
    • 「動きにくい」のが明らかになった群が、トレーニングによってどのくらい改善されるか
    • それを実際の動きに取り入れる事が出来るか
    • 色々の条件あるいは属性による違いは見出せるか。たとえば、運動習慣、その運動の種目、取り組む時間、指導における教示の種類、等々
  • 剣素振りにおける、前腕筋群の収縮の分布および時間的変化。達人とその他の違い。剣道のバイオメカニクス的研究に、既にあるかも知れない。
  • 剣素振りにおいて、真っ直ぐ立った時の解剖学的正中面を基準にして、骨盤がどの程度の角度を取り、そのように回転するか。あるいは杖との違い(杖は、半身よりさらに開く)。斉藤守弘先生の映像を解析したい。上面からの映像があれば理想的だが、多分無い。※動画配信サイトで色々観ていて、岩間スタイルなのに半身が全く出来ておらず、腰の捻りがなっていないのが散見されたのが、残念至極

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

motion

BEYONETTA』のPVを観てスーパーハイテンションになった、のは先日書いた通りですが、このタイトルのスタッフブログに、こんなエントリーがありました⇒ベヨネッタのデザイン:モーション | BAYONETTA - ベヨブログ

や、開発中のタイトルに関してこういうのを紹介するブログがある、というのは素晴らしいですね。プロフェッショナルによるゲーム制作について垣間見る事が出来て、すごく興味深いです。

で、このリンク先のエントリーでは、ベヨネッタのアクションのモーションのつけかたについて説明されています。

モーション制作において一番心掛けたのはアクションゲームということもあり

レスポンスと爽快感!!いかに短いフレーム数で力の溜めと開放を表現できるかです。

ユーザーの立場からも、そうだよなあ、と思います。レスポンスそのものがいわゆる爽快感と密接に繋がっている、のもあるでしょうね。それと、後の方の、「力の溜めと開放を表現」というのは、すごく大事だと感じます。

私は武術に関心を持ってて、しかも格闘ゲームを17・18年やってきているので、そこら辺、結構気になります。

しかしベヨネッタ開発初期にはパンチやキックが1フレームで出るバージョン

(これは短期間でゲームの感じを掴む為に制作)というのを作ってテストしていたのですが

そのプレイ感覚が忘れられないらしく未だに神谷Dは『あの頃の方が良かった』って言うんですよね。

それじゃモーションいらねぇぇぇ!!って。

なるほどな、と。あまり正確に滑らかに動きをつけると、却って爽快さが損なわれたり、力を発していると言うか、攻撃が入り込んでいくような、そんな感じが少なくなってしまったり、もあるのかも知れません。

ここから私見。

上にも書いたように、格闘アクションでは、動きの滑らかさや再現の仕方、それから、力の溜め、発し方、などをよく見ます。で、ちょっと、既存の3D格闘アクションのタイトルを例にとって、自分はこう見た、というのを。

最も動きが滑らかで、動きと動きの繋がりが綺麗に見えるのは、『DEAD OR ALIVE』シリーズに思います。DOA2を観た時には、おお、と感じましたね。ただ、攻撃が当たった時が、入った感、があまり無い、と言うか。

そこら辺、いかにも力を発している感がよく出ているのが、『バーチャファイター』シリーズかな、と。特にアキラのは、なかなか。動作を止める時のモーションのつけ方が上手いのかな、なんて思ったりします。攻撃が、「バッ」と出る感じがしますですね。で、こちらの方は、動きの繋ぎ目などに、滑らかさが感じにくい。ぶつ切れのような、と言いますか。

で、こういうのって、アクションゲームだから、動きのつけ方そのものがゲームシステムと直結しているだろうから、色々トレードオフな関係があったりもするのかな、と思います。

それから、爽快感やスピード感と、攻撃の入った感(何じゃそりゃ)との関係、もありますよね。

動きのレスポンスを良くして、スピード感を出し、連続攻撃がサクサク入る、という系統のゲームだと、バッサバッサと敵をなぎ倒していくような、そういった爽快感が味わえる。無双シリーズなんかはそんな感じでしょうか。『DEVIL MAY CRY』とかもかな。

対して、なるだけ人間の動きを再現してモーションをつけるのもありますね。『モンスターハンター』辺りはそうだと思うのですが、あのゲームは、たとえば急停止のモーションがありますね。クルッと上手く回らないと、キュッ、という感じでストップする。これって、アクションゲーム的には、さくさくスピーディに動かす、という面から考えると、結構違和感を覚えたりするんですよね。だけれども、人間の動きの表現としてのリアルさを感じさせるし、やっていく内に、その動きをいかに「出さない」かがとても重要で、それがゲームシステムと密接に関わってくるのが解ってくる。ターンに失敗して急停止→レイアのブレス→死亡 というコンボとかね。

それと、モンタは、いわゆるさくさくという意味での爽快感はあまり味わえないけれども、ヒットストップを結構取ってあるから、攻撃が入った時の感じというのが、実に爽快。あのゲーム、「武器の重さ」を感じさせ、やり始めはそれが鈍重に思えたりするのですが、慣れてくると、ばしっと攻撃が入った時の感覚が堪らない。ここら辺、カプコンの2Dアクションを踏襲(ストII辺りから)しているのかな、なんて思ったりするのですが、よく知りません。

こういったのも、トレードオフ、と言うか、どういった方向性でゲームを作っていくか、で色々選択され、組み合されていくものなのでしょうね。

ところで、上でちょっと書いた、人間の動きの急停止の話ですが。

先日、FF13の体験版の映像を観たんですけど、あれも、キャラクターが方向転換する時に、キュッ、と動きが止まりますね。あれを観て、ほう、と思いました。

と言うのも……

アクションゲームでは、モンタの例のように、そういう動きが不利な状況になったり、とアクションゲームとしてのシステムに関わって面白さを演出する事になりますけれど、RPGでは、そういうモーションをつけると、逆に煩わしくなる可能性があるんですよね。

アクションゲーム性の低いRPGでは、キャラクターを動かす場面は一般に、フィールド移動などで、そういう場面では、キャラを動かしてフィールドやダンジョンを探索するのが主目的だから、動きに細かさ(人間の動きに近いという意味で)を入れると、却ってストレスが溜まる場合も考えられる。

だけれども、現在のように、キャラクターのモデリングが精密になり、あるいはフォトリアル方面になったりすると、既存の動きのままでは、「人間の動き」としての違和感を覚える。ほら、RPGって、レバーをニュートラルにした瞬間にキャラクターが直立したりするじゃないですか。それです。私の場合だと、FF10辺りからこういう事を考えていたのですが(もう8年も経つのか…)、そういうのもあって、FF13を観て、おお、と感じたのでした。入れてきたのかあ、と。いかに操作に煩わしさを感じさせずにああいったモーションを組み込んだのか、興味がありますね(やった人の感想希望)。

という訳で、モデリングが「人間らしさ」を想起させるような精密なものになってくると、「動き」の正確さの再現が低いと、ものすごく違和感を覚える場合がある、という事なんですよね。で、動きを再現しようとすると今度は、ゲームシステム上都合が悪くなったりする。そこら辺をいかに折り合いつけて演出していくか、というのが重要なんでしょうね。特に、リアル志向のFPS辺りだと、いわゆる「動きの不自然さ」というものがあると、大変目立つように思います。だからこそ、すごくモーションのつけ方が丁寧なのかな、なんて推察したりします。

そこら辺の観点で考えても、BEYONETTAはよく出来ているなあ、と直感してテンションが上がったのでありました。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年4月23日 (木)

口伝2

大分前に書いたInterdisciplinary: 口伝の続き。重複するかも。

  • 自分を、「肉という服を着ている」存在のように意識する。もぞもぞ、もぞもぞ。
  • 力を発する時。蟻が腰から背中を伝って肩を通り、拳から飛び出すかのように。
  • 脚。地面を掃くように(高岡を参照)。
  • 足。足が扇子になったかのように。
  • 手。「掌が」扇子になったかのように。指では無く「掌が」。
  • 肩周り。「肩を千切る」ように。
  • 杖。仮想的な筒の中を通すように。その筒は、前の手に固定されているとする。
  • 腰。浮かせた足の方の腰が落っこちていくかのように。
  • 首。「へい、そうですか」、と時代劇の商人が胡麻を摺る時のように。
  • 腰腹。風船が「全方向に」膨らむように。
  • 剣。剣で自分の身体を支えるようにするが、剣には油が塗られていてツルツルしている、とイメージする。剣先まで滑ってゆく。
  • 腰。転換。戦車が方向を変えるように。
  • 腹と脚。腹の中に小人がいて、脚を竿にして釣りをしている。
  • 脚裏。見えない椅子があるかのごとく(高岡を参照)。
  • 半身を替える体捌き。30cmくらいしか開いていない襖に触れずに向こう側に通り抜けるように。
  • 剣の振りかぶり。身体の中にベルトコンベアが内蔵されているかのごとく。
  • 剣の手の内。柄を「クリップ」する。がしりと握るのでは無く、挟むように。

こんな感じ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水)

さらしてしまっている

ちょっとWEBを彷徨ってて、武器術の動画を見つけました。いや、正確に言うと、以前も見た事があったけど、またそれを改めて観察した、と。

内容は、杖なんですが……

ううむ。

怖いね。WEBで動きを公開するのは。

だって、「これはやっちゃいけないよ」、と最初の方で教えられるはずの事を、全部やっちゃっているのですもの。多分高段位の方なのに。

うーん、やっぱ怖いね、WEBで動きを公開するのは。ぶるぶる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

没った

※このエントリー、剣術について書いています。真剣をもって斬る、というのを主題にしているので、そういう話を好まない方は、読まない方がよろしいと思います。

とある武術ネタを書こうと思ったのだけれど、自分に知識が無さ過ぎて断念。

ちなみにそのネタは。

「時代劇で見るような袈裟斬りが実際に可能であるか」

というテーマ。

時代劇でよく、肩口から逆側の腰辺りにかけてバッサリ斬って捨てる、という描写がありますよね。それです。

え、何が問題なの、と思われたかも知れませんね。どこに疑問があるの、と。

えっと、その場面を想像しながら、ちょっとよく考えてみて下さい。

ほぼ正面から向き合って、相手の身体を、肩から逆の腰にかけて、斜めに斬っていく訳ですね。

もっと具体的に考えます。

ほぼ正対して、間合いは大体中間ですね。あまり近付き過ぎずに斬りつける、というシチュエーション。

そうすると、剣先の方で斬っていく、となります。

で、剣先の軌道を考えると、それは曲線を描きますね。という事は、この現象を別の言葉で表現すると、細長い刃物の先の部分で、相手の身体を広く(長く)斬る、と言えます。

つまり、かなり長い刃物の先で、筋肉や骨の塊である人体を斬る。って事は、直感的にも、ものすごい負担がかかる、のが解りますよね。

多分、剣先は円弧に近い軌道を描くと思うのですが、そうだとすると、剣を振って斬っていくとなると、「段々身体に深く入り込みつつ刃が進行していく」、と言えます。

としますと、恐らく、「剣は途中で止まる」のが、実際に起こる事だ、と推測出来ます。途中、鎖骨・肋骨・胸骨 等の骨格に当たる訳で、それを切断しつつ腰まで到達させて剣を振り下ろす、というのは、力学的に非常に困難なのではないか、そう考えたのです。力学的に、というのは当然、日本刀にかかる負担と、剣を運用する筋肉への負担の両方がありますね。仮に、日本刀が構造上そういう使い方に耐えられるとしても、肉体が刀を充分運動せしめるほどの働きをする事が可能であるか、と。

で、これを前提として、時代劇で見るような描写をどう解釈出来るか。

一つは、「斬りが浅い」と考える。

つまり、剣先を、「身体を掠めるように」斬っていく、という事ですね。

ただ、それはシチュエーションとしては、結構考えにくい。だって、殺す気満々なのですからね。わざわざ皮だけ斬るような事を、するはずが無い。それと、上にも書いたように、剣先は曲線を描くのですから、深く入り込まず、かつ傷を長くつけるような斬り方をするには、わざわざ「剣先を前後にコントロールしながら斬る」必要がある。ちょっとでも深く入ると、止まっちゃうのですしね。

もう一つは、「思い切り振り下ろしているが、実は肩口の辺りを切っているだけ」。

つまり、肩口を斬って、引きながら振り下ろす訳ですね。そうすれば、さほど負担もかからないでしょう。

その場合には、そんな中途半端な技をする必要があるのか、という話になります。他に動き方があるだろうし、逆に隙が生れる可能性もある。

それと、相手の傷口を見るのも大切ですね。肩から腰にかけて傷がついて、ビシャアアアッと血が迸り出る、なんて描写があったら、上のような斬り方では無い訳ですな。ちゃんと斬りつけている。だけどそうすると、一つ目のように、多分すごく難しい運動。

三つ目。「一つ目の運動が容易に出来るようなウルトラパウワーの持ち主だった」。

要するに、時代劇で描かれる武士の類は、斧か鉈のように刀を使い、バッサリ斬り下ろす事が出来る、と考える。

ここはどうなんでしょうねえ。刀をもって合理的に致命傷を与え、なるべく身体にも刀にも負担を与えないようにする、という目的を考えるならば、そんな乱暴な使い方はしないだろうと思うのですね。シグルイでもあるまいし。

で、最後に、私の考え。

「そもそもそんな斬り方はしなかった」

これです。

戦闘というシチュエーションで、反りを持ち鍔元まで刃を入れてある日本刀を運用していく場合に、剣の先10cm程度を使って中間から袈裟に斬る、というのは大変不合理に思います。※ここ、高岡英夫氏の論考を参照にした

だから、もし袈裟斬りのような技法を使うとしたら、時代劇で見られるような感じでは無く、恐らく、ごく密着して、「刃全体を当てるようにして、鍔元から引きずって斬っていく」のではないかと考えます。料理をする人に解りやすい喩えを用いると、「刺身を切るように」使う訳ですね。「撫で斬り」って言葉もありますですね。

だから、傍目だと、ほとんど「体当たり」のように見えるのではないかな、と。そこら辺を考えると、宮本武蔵の書(五輪書の水之巻)とも繋がってくるように思います。もちろん、通常は、正面から斬りつけるのは大変危険なので、そこは、受けの工夫が要るのでしょう。使えない時には使わなければ良いのですし。

とまあ、こんな感じです。この辺を、科学的に考えてみたいと思ったのですが、力学も工学も、バイオメカニクスも、全く知識が足りていないので、断念したのでした。

まあ、東郷重位のエピソードなんかもありますけどね。でも、それを平均的な操法とは見られないかな、という気も。そこら辺、流派性も関わってくるので、そんなに単純では無いでしょうけど。

もちろん、碁盤まで両断して床まで達した、というのを鵜呑みにしちゃならん訳ですが。比較的近い時代の示現流の剣士のエピソードも、どこかにあったような。それも、肩から胸の辺りまで切った、という感じだったかと。トンボの構えから脱力を効かせて激烈な斬り込みを行えば、相当の斬撃にはなろうかと思います。ただそれでも、時代劇で出るような、綺麗にバッサリ剣を振り抜ける、とはならないかな。

※一応

だからフィクションは云々、という事じゃ無いです。実際の使い方からするとどう考えられるかな、というものなので。ただ、「現実にあり得そうな」ものを描写したいという目的があるならば、ここら辺の考察・考証は重要でしょうね。特に実写では難しいと思いますけれども。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月14日 (土)

志向

気が付く:message 桑田真澄公式ブログ

ここら辺、甲野善紀氏の考えと共通していますよね。交流があるので当然でしょうけれど。初期の(今の本は読んでいないので詳しく無い)甲野氏の本に書いてある事と、かなり重なっているように思います。私としても、桑田氏にほぼ賛同です。

大分以前、甲野氏の本も読んで納得しましたし、その部分に関しては、考えは特に変わっていません(他の大部分に関しては批判的なのですが)。

何より、チャンピオンスポーツの最高峰たるメジャーリーグにまで上り詰めた一流のアスリートであるからこその重み、がある。桑田氏がこのようなかたちで声を上げるのは、大きな影響を及ぼし得るかも知れない。

若い頃から問題意識を持っていたというのもあるだろうし、甲野氏との交流によって、より考察を深めていった、という部分もあると思いますが、おそらく、身体を開発する、という部分により意識が向いている、のでしょう。武術論の方面で見ると、甲野・黒田・高岡氏辺りの論が象徴的でしょうか。スポーツにおける、身体の制御の面を意識し、いかに精密に使っていくか、というのを考えれば、桑田氏が批判しているような指導法では役に立たない(どころか弊害がある)、と認識しておられるのでしょうね。いわゆる「しごき」というものにどういう意味があるか、本来のスポーツの指導の合目的性にそれは合致しているか、改めて見直し、洗い直してもらうよう、警鐘を鳴らしている。

こういう所については、高岡英夫氏の「擁護システム」概念が、分析に役立つでしょうね。実証的に見ていくのは、非常に難しいとは思いますが。※興味がおありなら、高岡英夫 『光と闇』などをご参照下さい

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

魔法の鏡

マジックミラー 筋肉「透視」ソフトを開発 東大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

マジックミラー:筋肉の動き「透視」 東大がコンピューターソフト開発 - 毎日jp(毎日新聞)

やばい、欲しい。マジで。超欲しい。

いや、個人で購入出来るような物じゃ無いというのは判ってるんだけど、それでも超欲しい。ドラゴンボールが7個あったら即刻願ってるレベル。

ええい、プレスリリースはどこだっ。東大工学部のサイトにも載って無いぞっ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年2月28日 (土)

はじめる

とあるWEBラジオを聴いてて知ったんですが、なんと、大塚明夫さん、合気道を始められたそうです。へー。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月26日 (木)

超人

幻影随想: 氷点下の海で裸で泳ぐ超人ルイス・ゴードン・ピュー

大変面白いです。

生理学的・心理学的・バイオメカニクス的に見て、とても興味深い現象ですね。

武術の論理として、心身のコントロールの観点から見ると面白いし、また、気の論として見るのも興味深い。これは、自分自身で体温をある程度コントロール出来るというのを示唆しているので、たとえば気功で被術者の体温が上がるなどの現象を、実体的な概念としての気を用いずに説明出来る可能性を示している、とも見る事が出来るように思います。あくまで施術者は媒介と言うかきっかけで、実際の変化は自身の心理学的・生理学的メカニズムによって起こる、という。

震えを押さえ込むのがどういう論理によって起こるか、というのが一番知りたい所。単に心理学的なセルフコントロールのみならず、身体の恒常的なあり方(筋肉の弛緩の程度等)も関係しているのではないか、という所に、武術の身法に関心を持つ人なら着目する事でしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月12日 (木)

最強

知恵袋を検索して色々見てたんですが、最強の武術(武道・格闘技)は何ですか、とか、一番強いのは誰ですか、とかの質問が、やっぱり多いですねえ。

まあ、格闘技や武術に関心があれば、誰しも一度は興味を持つ問いですな。

最強ロボ ダイオージャ DVDメモリアルBOX DVD 最強ロボ ダイオージャ DVDメモリアルBOX

販売元:バンダイビジュアル
発売日:2005/11/25
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月11日 (水)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2

complex_catさんのコメントへのレス。

まず前提として、遠当て系の「触れずに倒す」技、つまり、相手の勢いを利用して結果的に触れずにすんだ、という技で無いものは、純粋に心理社会的論理(高岡は、「人文―社会科学的メカニズム」)によって成立する、と見て良いと思います。
※「投げる」では無く「倒す」と一般化します

その上で、「触れずに倒す」という主張は、大きく分けて、武技に利用出来ると解釈する場合と、そこは薄めて、そういう現象が起こるという事実のみを紹介する場合の、二つの分け方があると考えられます。

そして、それに共通する論理として、「お互いに顕在的・意図的な協力関係が無い」というものがあります。

尤も、武術的な色合いの薄い組織においては、必ずしも協力関係が全く無い事を強調はしないかも知れませんが、しかし、受けが「わざと飛ぼうと思って飛んでいる」と主張する所は無いと考えられます。それは即ち、完全なる「演技」であるのを認める、という事なので。

それで、それぞれの主張を個別に見ていく必要がある訳ですね。

で、「武術」の話として考えるならば、そもそも武術とは、自分に敵対的な人間、友好性がほぼ無い相手をいかに制するか、という合目的性があるので、そこにいかに技術が適合するか、というのを見る必要があります。

その観点から言えば、施術者と被術者との心理的関係を操作した実験がなされないと、武術として「触れずに倒す」技術の普遍性・汎用性は論証出来ないと考えています。

これを端的に表したのが、「リングに上がってみろ」、「実際に戦って触れずに倒してみろ」的なものだと思います。

柳龍拳氏などは、このような挑戦を受け、見事に散った訳ですけれども、このような実験であれば、個人が有する技術がどうであるか、というのをある程度客観的に確かめられますね。もちろん、遠当てなるものは敵対的な相手には絶対成立しないのだ、という強い結論は、科学的には無理ですけれども。

整理すると、「触れずに投げる(倒す)」という現象そのものが、そもそもある程度多義的であるのを押さえつつ、通底する共通性も認識しながら個別に検討していく、という見方が重要である、といった所でしょうか。

私自身は、武術、つまり敵を制する技術の紹介、という文脈で、「触れずに」制す技を仄めかすものは、強烈に忌避するのですが、これは、自分が触れた武術や、私淑した先生方(斉藤守弘先生、佐川幸義先生、塩田剛三先生、等の方々)の影響が多分にあると思います。

遠当の武術的汎用性についての個人的見解としては、遠当が武術的に普遍的に通用する技術と見るのは理論的にもほぼ不可能だ、というものです。
特に、知らない人間に襲い掛かられた(どっちも知らない)、という最も極端な状況の一つを思い浮かべるならば、襲い掛かった人間にある 襲う人間についての情報は、姿形についてのもの程度しか無い訳なので、力学的関係が存在せず、かつ心理的関係を用いた技術、は成立しないと見て良いと思います。

見方を変えるならば、友好的関係が0に近く、かつ力学的関係が0の場合に遠当が成立するには、視覚・聴覚・嗅覚などの情報のみを手がかりにするか、もしくは疑似科学的論理(無意識が繋がっている、なんちゃら電磁波がうんちゃら、気の実体性の主張、等)を仮定するしか無い訳ですね。そしてそれは、現在の知見から考えれば、成立しないと判断して良いだろうと考えます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月10日 (火)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)

前も書きましたが(Interdisciplinary: 「遠当て実験」から考える)、改めて採り上げます。もうちょい武術論寄りで。

武術に興味を持つ人でも、それほどでも無い人でも、「触れずに投げる」という現象は、一つの関心事であろうと思います。

テレビでも、以前は結構観ましたですね。突っ立っている人に気合をかけたら、後ろに転がったり、後ずさりして吹っ飛んでいったり。

有名な所では、西野流呼吸法。合気道の一部でも、行われます。現象的には、西野流の場合、術を掛けられた側が、あたかも「踊る」ように吹っ飛んでいく、というもの。もちろん、手は一切触れられていない訳です。

って事で、現象としては、あります。で、問題は、武術として有用なものであるか、という所。

武術は当然、敵対する相手から害を受ける事無く、戦闘不能に陥らせる、というのが目的のものです。

そういう合目的性がある訳だから、非協力的な人間に対して一般的に効果的である、というので無いと、「武術」としては役に立たないのですね。

その観点から言うと、「触れずに投げる」というのは、武術の技としては、まあ、考慮する必要は無いでしょう。むしろ、そんな夢想のようなものは、積極的に排除するべき、という話です。

これまでは、いわゆる「遠当て」の話。ここからは、表現としては同じ「触れずに投げる」というものでも、実態として若干異なる話題になります。

ここで、ちょっと想像をしてみて頂きたいと思います。

あなたは、鞄を泥棒に盗まれました。その中には、とても大事な物が入っています。何としてでも取り戻さねばなりません。

無我夢中で泥棒を追いかけます。全力疾走、息も絶え絶えです。泥棒も疲れたと見えて、スピードが遅くなりました。後ちょっとで追いつきます。

もう少し、手を伸ばせば捕らえられる、と、後ろから思い切り抱き付こうとしました。

よし、捕まえた……と思った瞬間、相手の姿は突然消え去りました。なんと、実はマンホールのフタが開いていて、泥棒は運悪く(良く?)、そこへ落ち込んでしまったのです。

かくして、捉えたはずの泥棒の身体は目の前には無く、地面に泥棒を組み伏せようと張り切って飛び付いたあなたは、見事につんのめり、スッテンコロリンと派手に転んでしまったのでありました…。

※通常、マンホールのフタが開いている事は無い。仮に開いているとしても、疾走している人間がストンと落ちる訳が無い、などのディテールに思いを馳せてはなりません。ここで、マンガやゲーム的な想像力を働かせるべきなのであります。

と、喩えが異常に長くなりましたが、要するに、勢いをつけて相手を捕らえようとした時に、相手が上手く身体を躱して誘導すれば、見事に吹っ飛んでしまう訳ですね。主役を逆転させれば、こちらに害を加えようと襲い掛かってくる敵を上手く誘えば、見事に投げをうつ事が可能なのです。

これが、合気道の「気の流れ」技の基本的な論理に繋がってきます。合気道では、(※気の流れは、進んだ段階で学びます)「掴ませる」訳ですね。そして、取りにきたのを誘導する。よく言われる、「合気道は相手の力を利用」して云々、というのはつまり、そういう話です。

ここまで前置きが長くなれば、既にお気づきでしょうが、つまり、このようなメカニズムであれば、上の遠当てのような、おそらく友好的な関係を前提した心理的反応によらずとも、「触れずに投げる」という現象は成り立つであろう、という事です。

解りやすく言えば、相手によほどの勢いがあり、上手くバランスが崩れ、しかも、制する方がたまたま「触れるまでも無い」場合に、「偶然的に」それが現象する、という論理。

以前コメント欄かどこかに書きましたが、私の先生が、「触れずに投げる」という技について仰ったのは、「先生の先生(故・斉藤守弘先生)が仰るには、よほどタイミングが合えばそういう事は起こるかも知れない」(記憶に基づいて要約)との事でした。

要するに、色んな条件が重なり合えば、偶然そういうのは起こるだろうね、という話だったんですね。つまり、積極的な技として用いられるような性質のものでは無いし、そんなのを目指しても、あまり意味が無いのです。

よーく考えてみて下さい。

触れずに投げるより、相手の身体や服を掴んで投げた方が、確実だし、やりやすいでしょう? 武術という、敵を制する方法において、「相手に触れない」というのが、一体何のメリットになるというのでしょう。

「触れずに投げる」ってのは、単に、「凄そう」と思わせるだけの、象徴的なものなのです。現象するにはするが、誰にでもいつでも普遍的に通用するものでは無いし、そもそも、触れずに投げる意味が無い。

------------

もう一つおまけの、「触れずに投げる」お話。

触れずに「投げる」というのは、厳密にはちょっと違うんですけどね。

ジョギングしてたら、いきなり、首の高さの辺りに棒を差し出された、と想像してみて下さい。

そうすると、膝を意図的に屈したり、首を反らしたりして、何とか当たらないようにしますよね。

もう一回。

「当たらないように」しますよね?

上手くいけば、当たらないで済みます。ある程度派手に倒れても、首に棒が当たってからぶっ倒れるよりは、マシです。

これ、外から見れば、「触れずに投げる」技の出来上がり。合気道的には、入身投げという技の、高度の段階のもの。何の事は無い。触れてないというのはつまり、受けの反応が早い訳ですな。

で、それが行き過ぎてしまって、とくにタイミングが合っている訳でも体勢が崩れている訳でも無いのに、勝手に倒れてしまう、という風になっていく場合もあります。嘆かわしい事です。

だから、「かかってもいないのに倒れるな」、と真面目な指導者は言うのです。そうじゃ無いと、相手が倒れているのが、技が上手だからなのか、それとも、形をなぞっているだけなのか、解らなくなって、練習にならないから。

------------

ここから追記。

武術を知っている人向け。

塩田先生の技で、ほとんど動かないのに受けが崩れ倒れていく、という絶技がありますよね。これとか⇒YouTube - 呼吸力の神髄 塩田剛三直伝 合気道養神館研修会vol.2(動画再生注意)

率直に言うと、ここら辺のは、理合は私には「解らない」です。解らんものは解らんので、しょうが無いですな。

一応、仮説的なものはありますが(高岡英夫氏とか)、明らかに、動きを外から観察するだけじゃ、限界がある訳です。

で、受けを取っているのは弟子なので、どうしてもそこで、協力的関係という変数の排除が困難になる。無意識的な反応というのが考えられるから。

だから、全然武術の事を知らない人に持たせて、という風に条件を統制して実験する、という方法が試されるべきなのですね。

ところが、ここでは、達人の技がどれくらい普遍的に成り立つか、というのを検証したいのですけど、達人というのは、そもそも世の中にほとんど存在しない訳です。なので、そういう実験を組む事自体が難しい。科学的研究に協力的であるとも限らないし、佐川先生にしろ塩田先生にしろ、大変残念な事に、物故されてしまったので…。

触れないで投げる、というものなら、そもそも力学的関係が無いので、比較的簡単に論じられるんですが、この動画にあるような技――こういうのを象徴的に「合気」と称したりもしますが(岡本正剛師範、堀川幸道翁、などが代表的か)――は、検証が異常に難しいんですね。力学的・心理学的・生理学的論理が複雑に関わってくる可能性があるから、そこら辺の条件のコントロールをきちんとやって、現象を解析していかなくちゃならないですし。

もちろん、武術的には、ああいう技は、特に出来る必要は無いのですが(そんな事は、塩田先生が最もよくお考えだったのでしょう)。←いかにも岩間な人の台詞…。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

プチアンケート

よろしければ、ご協力を・・。

えっと、このブログを読んでおられる方で、「高岡英夫」という人をご存知の方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

もし差し支えなければ、どういうきっかけで知って、どういう評価をしているか、などを教えて頂ければ、大変ありがたいです。

もしかしたら、高岡氏関連で検索してこのブログに辿りついた、という方も結構いらっしゃるのかな、と思いまして。検索ワードでも、上位にきたりしますし。

ここでの高岡氏の援用や評価はどうか(適切か、的外れか)、という部分に関しても、忌憚無いご意見を伺えれば、と思います。

なにしろこのブログ、高岡英夫論を紹介(&批判)するのと、ゲーム脳を批判するのが目的で始めたものだったりするので(アドレスにモロにそれが反映されている)。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

丹田とはシステムである

Interdisciplinary: 気とはシステムであるの、「気」を「丹田」に換えても、ある程度成り立ちます。

もちろん、気は より一般的な概念で、丹田(ここでは「下丹田」、すなわち、いわゆる臍下丹田を指す)は、下腹にある、実体のように感ずる何物か、というような違いはあります。

当然、解剖学的に見れば、丹田があるとされる箇所に、それと対応する独立の組織や臓器は無い訳です。ですから、バイオメカニクス的に考えれば、その辺りの筋肉を合理的に働かせる意識、あるいは認知のポイントであり、心理学的には、そこを認知する事で精神的な安定が得られるとされているポイントである、というように、総合的・機能的なものだと考える方が、適切でしょう。高岡英夫氏は、著書において、

伊藤 正中線は、陸上競技でも肉体と直接的対応を考える段階では軸として理解することができますが、武術でしきりにいわれ、高岡先生も重要視されている「ハラ」とは、一体どういうものなのですか。

高岡 「ハラ」、「下丹田」と古来から言われてきたものは人体下腹部の中心にあるとされている点ないしは球状の部分です。しかし、その部分は、解剖学的には腸があるばかりで他には何も見いだせません。ところが、その丹田があるとされる周りには、大腰筋、腸骨筋、上下双子筋、方形筋、横隔膜などの深層筋群と腹筋、腰背筋などの浅層筋群が丹田を中心に長球状の構造を形成しているのです。

 つまり、「丹田ができる」とは、こうした「長球状筋構造体」が至適のバランスを持った統一体として筋収縮活動を行うことを指すのです。

伊藤 武道家の人達のハラに対する説明には、極めて観念的な印象を持っていたのですが、先生の説明は極めて明快ですね。

高岡 ただ、深層筋や深層小筋群は、意識化することが極めて難しいのです。そこで意識と動作の関係がまた出てきます。丹田自体は、それらの筋肉群を統一的に動員するための「意識装置」であるわけです。

伊藤 なぜ、ハラが利くと動きがよくなるのでしょう。単に意識化できない筋肉というのは、その丹田周辺の筋肉群以外にも体全体に沢山あると思いますが。

高岡 それは、四肢の運動や体幹・呼吸運動の本質的な因子を根底から支えているのが、この長球状筋肉群だからです。それが本質的な因子を担っているということは、脊椎や骨盤とのつながりを考えれば容易に推察できると思います。

 ついでに申しますと、中丹田があるといわれている胸の部位、つまり胸郭を取りまく筋肉群も長球状構造体をなしており、この意識中心が中丹田なのです。

このような見解を表明しています(『極意要談』)が、バイオメカニクス + 心理学的に考えると、このようなシステムあるいは機能を指し示す概念として「丹田」がある、というのは、それほど的外れでは無いでしょう。※高岡氏は、実証が進んでいないのに断定的に語り過ぎるきらいがあるので、読む場合は注意しましょう

もちろんこれは、きちんと解明されたものでは無いでしょう。丹田を意識すると、実際にその筋肉群が合理的に使えるようになるのか、とか、それらが使える際の知覚あるいは認知のありかたが、位置・形状的に、伝承されたきた丹田とどのくらい対応するか、とか、解剖学以外の、神経生理的なシステムはどのように関わっているか、とか、解明すべき事柄は、沢山ある訳です。そもそも、合理的な身体運動や、安定的な精神状態と、丹田があるとされる付近の構造とどう科学的に関わってくるのか、という基礎的な部分もあります。ここら辺は、たとえば腸腰筋(大腰筋・小腰筋・腸骨筋)の重要性などが関わってくるでしょう。

丹田というものは古来、そこに実感がある、とされているものですから、心理学的に見れば、何らかの体性感覚的情報の認知の体制あるいはスキーマ、と考える事が出来るでしょう。その意味では、丹田の位置に対応する臓器等が存在しないからといって、「丹田は存在しない」と言うのは、気が早いのです。

ここら辺を踏まえると、肥田春充翁が試みたような、丹田の位置を幾何学的厳密に定める、というのものは、やはり的外れであった、と私は考えます。初めから複雑なものは、複雑なままに記述しなければなりません。過度に単純化して普遍的な原理を得ようとすると、そもそも構成概念を示す言葉だったのに、無理に切り取ってしまう、という本末転倒になる事があります。

こういう概念を解明するには、認知神経科学的な研究、脳イメージングを用いた分析等が、必須となるでしょう。あるいは、言語論的な論理も考える必要があります。たとえば、甲氏が「丹田を意識」するのと、乙氏が「丹田を意識」するのが、同じ結果をもたらすとは限らないのですしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 6日 (金)

武道・武術関連の論文とか

CiNiiで、武道・武術関連のものを検索し、これは面白そうだ、と思ったのをピックアップしてみます。

※学会誌の論文以外のものもあります

※タイトルで興味を持ったのを載せるので、内容が学術的に適切か、というのはまた、別の話

検索したワードは、「武道」、「武術」、「合気道」、「拳法」。

全部で1500件程度ヒットしましたが、さすがに全部はチェック出来ませんでした。500件くらいかな。その中から選んでます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 1日 (日)

仮想実験

人間、アホな事を考えるものでして。

ずっと以前、腕を掴ませてから技をかけるシチュエーションについて考えていた時。

武術に興味をお持ちの方ならご存知と思いますが、掴まれたら、掴まれた所をなるだけ意識せずに、体幹を動かしていく、というのが重要なんですね。

でも、人間の心理というのは面白いもので、掴まれている場合に、そうするのは難しい。どうしても、掴まれた部分を振りほどこうとしてしまいます。

肘を積極的に先行させて動かしたり、肩廻りの筋肉が柔軟で無いと肩甲骨や鎖骨の動きも乏しくなりますから、そこが固まっていても、充分動けない。心理的にも生理的にも難しいんですね。

で、私が考えたのは、

肩から先にだけ麻酔をかけてから技をやってみる、とか出来たらなあ。

というものでした。要するに、動かそうにも動かせない、しかも生理的に動かしようが無い、という状況を無理矢理作ってみてからやってみれば、面白いんじゃないか、と。

で、まあ、現実にはそんな事は無理な訳です。

そこで、私の明々後日の方向へ向いた半端無い想像力が遺憾無く発揮されます。

寝ている時の姿勢が悪いと、朝、痺れてしまって、感覚が無くなる事、ありますよね。

もしかしたら、その時を狙ってやってみれば……という馬鹿な事を考えたのでありました。

でもこれ、朝起きた時に近くに協力者がいないと話にならないし、んな事に協力する人がいる訳無い。

なので、腕がそういう状況になったら、もう一方の腕で掴んでみて、具合を確かめる、というのが精一杯なのでした。まさに自分のものでは無いようで、面白かったですね。

脱力って、このくらい色々考えつつ追求していくものなんですね。腕肩の知覚をひたすら内省して、筋肉の状態を探りながら腕を使っていく、というのを日常的にやって、体幹主導の運動が当たり前になるようスキーマを作り変える訳です。つまり、意識せずとも出来るような身体を作り上げる。

昔は、夜も眠れない、というのが結構ありましたね。自分の身体がパズルのように思えてきて楽しい。でも、身体がガチガチに固まっているのが知覚出来た当初は、めちゃくちゃ苦しいんですけどね。背中のごちゃごちゃした感じが気になって、夜も眠れない(不快で)とかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月31日 (土)

水之巻を読む

最近、はてブ界隈において、Yahoo!知恵袋での武術・武器関連で超絶クオリティの回答がついている質問が話題になっていたので、私も何か書いてみようかな、と思いました。

ネタは、宮本武蔵の五輪書。中でも身体操法や刀の扱いが詳しく書かれている「水之巻」。これを読み進めながら、自分なりの解釈を書いていきます。

参照サイトはこちら⇒五輪書 水之巻1

宮本武蔵関連の様々な情報が収蔵されているサイトです。このようなコンテンツが手軽に参照出来る事に、感謝しなければならないでしょう。

今回は、こちらを引用しながら書きます。リンク先の註解も興味深いので、そちらも参照すると良いと思います。※引用部はそのままにしますが、地の文においては、適宜かなづかいや漢字表記を変更します。例:兩の肩→両の肩

3.目つき・顔つき・姿勢 より

 身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず、目を見出さず、額に皺をよせず、眉間〔まゆあひ〕に皺をよせて、目の玉の動かざるやうにして、瞬きをせず、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見ゆる顔、鼻すじ直にして、少し頤〔おとがひ〕を出す心なり。首は後ろの筋を直に頸に力を入て、兩の肩をさげ、脊すじをろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰の屈まざる樣に腹をはり、楔をしむると云て、脇差の鞘に腹を持たせ、帯のくつろがざるやうに爲す可しと云ふ教へあり。

目を見出さず、額に皺をよせず、などは、表情筋をリラックスさせていく事の重要性を説いているのでしょう。これは、表情筋の具合と心理状態に関連があると武蔵が経験的に感じてた事を示唆しています。あるいは、それが首から下の運動に関わる影響をも考慮していたかも知れません。これが心理学的・バイオメカニクス的にどの程度明らかになっているかは解りませんが、あまり凝視しない、などはよく武術で言われる所です。

首は後ろの筋を~、の部分以降には、中国武術における姿勢の要訣に共通する記述があり、大変興味深いです。すなわち、

  • 首は後ろの~→虚領頂勁
  • 両の肩~→沈肩(墜肘)
  • 背すじをろくに→立身中正※これは、むしろ全身に関するものでしょうか? 詳しい方がおられれば、教えて頂ければ幸い
  • 尻をいださず→尾呂中正

といった具合に。腰の屈まざる様に~、の部分は、丹田や腰の廻りの作りに関する教えと読めます。これらを、特に特殊な用語を造語せずに、あくまで日常的な言葉遣いで説明しようとする所に、武蔵の特徴があるようにも思えます。

膝より~、の部分は、少し解釈が難しい所。この書き方だと、なんとなく、脚~足全体に力が充実しているかのような感じがイメージされるように思いますが、武蔵は、おそらく「線」のような意識を持っていたのではないか、と考えます。

5.太刀の持ち方 より ※この部分に関しては、Interdisciplinary: 手の裡も参考にして頂ければ幸い

太刀の取り樣は、大ゆび人さしゆびを浮ける心にもち

手の内の基本。親指と人差し指はふわりとさせる。

丈高指はしめずゆるまず、藥指小指にて十分しむる心にして持なり。手の内にはくつろぎの有る事あしゝ。

中指はほどほど、小指と薬指をもって締める。そして、「くつろぎ」があってはならない、という事。これは、手の内と柄に隙間をもうけるな、という意味で、柔らかく剣を扱い、充分に剣の性能を発揮するよう操作するための教え、と見る事が出来ます。相手に超接近して刀で撫でるように斬る操法において、敵の身体と自身の刀との力学的関係を感じ取りつつ、より合理的に刀を操作するためには、掌と柄を充分密着させ、よりフレキシブルに運動させる用意が出来ていなければならないのでしょう。

これは個人的な見解ですが、刀を持つ際、指先に意識を持たず、指の一番先の関節(遠位指節間関節)で押さえるように持つ、という意識が肝要ではないかと考えています。即ち、柄を「挟む」ようにして持つ、という事です。手で刀をクリップする、とでも言いましょうか。

その後の部分では、太刀を扱う事の気構えと、どんな道具においても同様の操作が重要だ、という一般性の問題を書いています。「敵を切る時も、手の内に變りなく、手の竦まざるやうに持べし。」というのは、掌の筋肉に無駄な緊張をさせずに柔らかく馴染ませるのが重要だ、というのを示しています。

6.足さばき より

足のはこびやうの事、爪先を少しうけて、踵〔きびす〕を強くふむべし。足の使ひやう、時によりて大小遲速はありとも、常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足なり。

超重要事項。「爪先を少しうけて、踵を強くふむべし」の部分。これは要するに、足首の底屈(足の裏側に曲げる)を先行させてしまう事の戒め。あるいは、大腿骨の伸展を促す教え、とも言えるでしょうか。「あゆむが如し」というのは、心理的な事でもあるでしょうが、おそらく、すっすっ、と腹から脚を挙げる事の重要性を言いたいのだと思います。つまり、身法も含んでいる。

「陰陽の足」というのは、きちんと足を交互に踏む事で腰を切っていく、という重要性を言っているのかも知れません。また、居付くのは、剣術では即斬られるのを意味するので、いつでも身体全体を移動出来るようにする、という所も含んでいるでしょう。※合気道開祖口伝に、「腰の働きは両足にあり」、というものがある。

8.太刀の軌道 より

いわゆる太刀筋の話ですね。

ある程度の重量を持つ真剣だから、軽い棒を振るが如く振り回そうとすれば、刃筋が通らないし、身体にも無理がかかる、というのを言いたいのでしょう。肘を伸ばすというのは重要。新陰流においてもそういう教えがありますね。もちろん、解剖学的厳密に、全く屈曲しない、という話では無いですが。バイオメカニクス的な論理の指摘でありながらも、むしろ心理学的な話でもあろうと思います。つまり、肘関節をやたらに曲げ伸ばしして振ろうとするのを防ぐために、学習的に、「伸ばせ(曲げるな)」と指示した方が良いだろう、という論理。

18.流水の打ち より

一 流水の打と云ふ事
 流水の打と云ふは、敵合ひになりて競合ふ時、敵早くひかん、早くはづさん、早く太刀をはりのけんとする時、我身も心も大きになつて、太刀を我身のあとより、如何程もゆるゆると、よどみの有るやうに、大きにつよく打事なり。
 此打ち、習ひ得ては、慥〔たしか〕に打ちよきものなり。敵の位を見分くる事肝要なり。

※かなり独自の解釈を含むかも知れませんが、「動く」人にとっては、私の解釈も捨てたものでは無いのでは、と勝手に思ったので、敢えて書いてみましょう。リンク先の註解とは異なっています。

これは、おそろしく示唆に富む部分。武術において、身体をゆるめて崩れるようにする身法が重要だと知っている方には、

太刀を我身のあとより、如何程もゆるゆると、よどみの有るやうに、大きにつよく打事なり。

この部分の表現のあまりの適切さに驚かれると同時に、深く納得される事でしょう。

つまり、太刀は我が身体の後についてくるように操作する、というのが肝要。刃物で斬るという場合、どうしても、道具に意識が向いてしまい、剣先を早く相手に到着させたい、と思うものですが、それでは手打ちになる。そうでは無くて、身体を充分使い、滑落するようにし、鍔元から剣先を全て用いて斬るようにする。

ここでちょっと、イメージの活用を。

両手を刀の柄に縛り付けたまま、前にこけてしまったとイメージして下さい。前には、大きな障害物――岩とでもしましょか――があります。自分の身体が岩にぶつからないように、刀を用いていきましょう。

刀は薄い物体です。それを立てて身体を支えます。ほんのちょっとずれれば、刀身がパタンと倒れてしまいます。だから、薄い刀を、あたかも自転車で左右のバランスをとるかのように使っていきます。これが即ち、「刃筋を立てる」という事。こけながらだから、全身を使っていますね。鍔元から押し付けつつ滑らせるように(刺身を切るように)斬るのは、おそらく刀にとっても力学的に負担の少ないものだと思いますが、そこら辺を分析的・定量的に把握出来るほどの科学的・工学的認識を、今の所は持ち合わせていません。

最後の段落(「此打ち、」~)は、威力は大きいが隙もあるので、使い所には注意したい、といった感じでしょうか。

私は、「ゆるゆる」も「よどみ」も、バイオメカニクスの教えだと考えます。要するに、身体操作の問題。合理的に身体を用いた際の知覚をメタフォリカルに表現した、と見るのが妥当でしょう。よどみ無い、では無く、よどみのある、というのがすごく重要と見ています。つまり、さらっと水が流れるというようなイメージだけでは無く、もっと粘度の高い物がどろりと動くようなイメージ。

20.石火の当り より

我が太刀は少しも上げずに、

ここが非常に重要なポイントであると考えます。これは、刃物であるがゆえに出来る事でしょうね。南瓜に包丁の刃を当てたまま、それを両断する事は出来ますが、南瓜に木槌を当てたまま、それを離さずに南瓜を粉砕するのは、多分無理でしょう。

太刀の運動があまり見えないから、隙も生じにくいのだと考えられます。動きも読まれにくい。

22.太刀に替わる身 より

これは、上の石火の打ちと通ずる部分ですね。道具を振り回すというより、自身の身体を充分に動かしつつ、刀はそれに随うように運動していく、という事。ここら辺の論理は、高岡英夫 『究極の身体』に詳しいです(※学術書ではありませんので、あくまで、興味深い参考資料として捉えましょう)。

24.手を出さぬ猿 より

重要。手を出して何とかしようとし、全身の運用が疎かになるのを戒めています。秋猴の解説は、大変参考になりますね。私も今まで、腕の短い猿の事であろうと思っていました…。身法の観点からは、腕の短い猿とされれば、すんなり納得出来るんですよね。腕を先行させて使わない、という所と通ずるので。

25.漆膠の入身 より

超重要事項。

一 しつかうの入身と云ふ事
 漆膠なり。此の入身は、敵の身に我身能くつきてはなれぬ心なり。敵の身に入る時、かしらをも付、身をも付、足をも付、つよく付く所なり。
 人毎に顔足は早く入れども、身の退くものなり。敵の身へ我身をよくつけ、少しも身の間〔あひ〕のなきやうに着くものなり。能々吟味有べし。

斬り合いにおいて、漆や膠のように自分の身体を見立てて使う、という教え。敵に密着する。まるで体術の教えのようでもあります。ここでも、自分の身体を刀より先行させて運用する、という基本が見て取れます。密着した間合いで斬るには、刀を振るのは無理がある訳で、それこそ刺身を切るが如く、刀をズズズとスライドさせるように斬る、というのが肝腎なのでしょう。

28.体当たり より

これは、完全に体術の話。「行合ふ拍子にて」に関して、リンク先の解釈(「いきなり激突するという調子で、」)が妥当なのならば、敵の姿勢や心持ちの虚をついて入る、という重要な部分を示唆している、と読み取る事も出来ましょう。単にぶつかる、という意味だけでは無くて。ちょっと深読みし過ぎかも知れませんが。

------

34の、多敵の位の所は、要研究。二刀の用い方とも関わってくる。図示されているような持ち方は、果たして合理的かな?

------------

取り敢えず、こんな所でしょうか。現代語に訳す際の誤訳というのは、なかなか難しい問題なのでしょうね。それによって解釈が全然変わってしまう可能性がある、というのは押さえておかなければ。

それにしても、武蔵はすさまじい天才ですよね。当時にこれほどのテキストを物したというのは、信じがたい事です。身法などに関しても、その具体性、あるいは明快さは、群を抜いていると思います。日常的な言葉を用い、メタファーを駆使して語る、という書き方。

参照して損は無い、または、私が参照した文献達↓

武蔵とイチロー (小学館文庫) Book 武蔵とイチロー (小学館文庫)

著者:高岡 英夫
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

宮本武蔵 実戦・二天一流兵法―「二天一流兵法書」に学ぶ Book 宮本武蔵 実戦・二天一流兵法―「二天一流兵法書」に学ぶ

著者:宮田 和宏
販売元:文芸社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

後、昔DS社が販売していた、高岡氏のビデオ、私は一本しか見た事は無いですが、ものすごく参考になります。高岡氏の動きって、すごいです。なるほど、二刀はこう使えるのか、と思えます。ただし、入手困難かも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月29日 (木)

ミク氏ポーズ100(ウソ)選

今までMMDで作った、ミクさんの武術のポーズの画像を、いくつかまとめてみるよっ。

そして、ここは変なのでは、という所を指摘したりするよっ。

Battou1

↑抜刀準備。右手が返り過ぎ。

9

↑真っ向の切り下ろしの極め。左足首がおかしい。右手も変かな。

Yokomen1

↑横面の受け。このまま下方へ呼吸力で押し出せば、即呼吸投げになる。

Yokomen3m

↑上面図。外側へ流すから、足が前に出て上半身は外に流れるようになり崩れる。だから、素早く入れば、それだけで投げがうてるという寸法。 合気道で何が重要か、知ってます? 「角度」です。

Tukisankyo6

↑三教。実は、右手のポーズがコダワリ。鏡音氏の目もポイントなのだけど、これはどうでもよろしい。

Tukisankyo7

↑三教から投げをうつ所。順突きのような体捌き。実は、全身を波打たせるように動かすのと腰をひねるのがポイント。「螺旋」と表現する事も可能でしょう。

Tukisankyo2

↑順序が違いますけど、突きを避けて入身する所。先を取って、斜め前方に入る。大腿の関節はペン立てのような構造(ボールとソケットの関係、という部分が)である、というのを意識しましょう。剣と体捌きは同じ。足裏の操作重要。

Aikiage

↑合気上げ風。決して猫背ではありません。胸鎖関節の構造を考える事。肩は、背骨のポジションを維持したままでも、前後方向に相当動く。

Tatikote4

↑太刀取り小手返し。何気に、受けのポーズに凝った。太刀取りの時は、手を太刀ごと取るのがポイントポイント。

Musasi

↑ラスト。宮本武蔵の自画像とされているもの風。何? ただ眠そうでやる気が無いみたいだって? ふ・・・そんな事を言ってると、斬られるよ? ぶっちゃけ、ミクさんのモデルでは、これくらいの再現が限界。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月23日 (金)

武術系はてなー

はてなの人達(はてダ&はてブをしている人達)で武術関連のエントリーやブクマをよく書く方をチェックしてみようかな、と思う今日この頃。

結構前から、はてブの新着エントリーの、タグで「武術/武道/合気道」がついたのをRSSリーダでチェックしているのですが、上がるの少ないんですよねえ。最近で頻度が高いのは自分なんじゃないか、と思ったり(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月22日 (木)

死がふたりを分かつまで

死がふたりを分かつまで(1) (ヤングガンガンコミックス) Book 死がふたりを分かつまで(1) (ヤングガンガンコミックス)

著者:たかしげ 宙,DOUBLE-S
販売元:スクウェア・エニックス
Amazon.co.jpで詳細を確認する

死がふたりを分かつまで 7 (ヤングガンガンコミックス) Book 死がふたりを分かつまで 7 (ヤングガンガンコミックス)

著者:たかしげ 宙
販売元:スクウェア・エニックス
Amazon.co.jpで詳細を確認する

先日コメント欄で、梨さんに教えて頂いた作品。

これ…。

……。

超面白いです。

いやー、良いものを紹介して頂きました。

剣術を上手く組み込んでますね。

途中飛ばして7巻まで読んだのですが(いつもは飛ばし読みはしないのだけど、止まらなかった)、7巻傑作。画もいい感じに向上していると思います。

剣に興味を持っていて、マンガも好きな方は、是非。個人的には、他の設定含めて、どストライク。

深謝>梨さん

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2009年1月20日 (火)

発勁 - Wikipedia(※このエントリー、1/20の午前1時頃に書いています)

なんだか、吉丸氏の論の影響を受けてると言うか、参考にしているっぽいですね。

歴史的な部分は知識不足で解らない所がありますので措いておいて、下手に解剖学や力学の概念を用いずに記述した方が良いと思います。伸筋云々とかは、ちゃんと、こういう論を主張する論者がいる、という風に、あくまで資料として紹介するに留めて、それが一般的な論理であるかのように説明するのはよした方がいいかなあ、と。

澤井翁の水銀の喩えは、以前見た事があります。太気拳の佐藤氏の本だったかな。興味深いものだと思いました。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

メモ:剣の持ち方

  • 拇指丘で柄をくるむようにする。すなわち、拇指の中手骨で挟む。
  • 指先では無く、二番目の骨(中節骨)で挟み込むようにして持つ。指先は浮いても、柄は恰もきっちり手の内に吸い付いているように。
  • 指先を使わないという意味では無い。先行させないという事。
  • 合谷の部分を柄の中心に合わせる、という目安もあるが、あまり手を反らすと窮屈になるので、気をつける。
  • 左右どちらの手に力を入れるか、という所にはあまり拘らない。剣がどのように運動するかを認識し、それを助けるように手を用いていく。

これらは経験的に見出した骨(コツ)。

本質的に重要なのは、剣がいかに運動するか、という所。最も剣が合目的的合理的(剣をどのような目的で用いるか、によって、剣が力学的にどう運動していくのが合理的であるかが決まる)に運動するように剣を用いる。それは本来、バイオメカニクス的にも考究すべき事柄。

もちろん、剣が力学的にどう運動するか、というのは、他の様々な論理と整合するように考える必要がある。すわわち、体捌きなど。いかに美しく斬れるか、という部分だけでは、「武術」としては不足しているという事である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 6日 (火)

伝書

私は古流を習った訳ではありませんが、剣の操法や身法については、古流の伝書を色々参考にしました。中でも、

 柳生新陰流道眼<OD版> 柳生新陰流道眼<OD版>
販売元:TSUTAYA online
TSUTAYA onlineで詳細を確認する

(文字化けしてる? OD版っていうのがあるんですねえ。)

この本は、非常に参考になりました。新陰流柳生派の伝書と解説がいくつも収められていて、かなり良い本だと思います。

この本を読んだのは、もう10年くらい前なので、図書館で借りて再読し、ここで記事でも書いてみようかなあ、と思う今日この頃です。認識力も知識も、今とは比べ物にならないから、新しい読み方が出来るかも。

昔は武術書をよく読んでいましたねえ。他にも、天狗芸術論とか五輪書なんかは、とても良い本だったように記憶しています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月 5日 (月)

やはり答えは容易に出ない

COMPLEX CAT : 剣術と近代剣道

うーん、さすが。専門誌でもほとんど見られないレベルの論考。

こういった、比較文化論的な問題に関しては、記号論辺りが考察の役に立つでしょうね。前にも書いたように、高岡英夫氏の初期の本のような。そういった認識を持てば、どれがより強いか、という問いにはそう簡単に答えられない、というのが解ってくる。

紹介されているドイツ剣術は、面白いですよね。やはり、長い刃物を使うという目的に向かって技術が発達していく場合、ある程度収斂するのでしょう。

ところで、ここでは、合気道の剣技については、あまり紹介してきませんでしたね。良い機会なので。

斉藤守弘先生。40秒辺りから、合気の剣。※映像と音声がずれています

注目は、1:11辺りの剣の合わせ。動きが小さ過ぎて気づきにくいかも知れませんが、ものすごい事をしています。剣の合わせは基本であり、かつ奥義でもある、というのがよく解ります。

合気道で重要とされるのが、「腰のひねり」と言われるもので、バイオメカニクス的には骨盤を回転させていくのを部分的に含みますが、それだけでは説明が不充分である、全身的な運動を指す言葉でもあります。上の斉藤先生の剣の受けに、私は中国武術的な、化勁による無力化に通ずるものを感じるのですが、いかがでしょうか。おそらく、古流における「切り落とし」や「合撃」の理合いとも通ずるのでしょう(合気の剣は、新陰流柳生派鹿島新当流の剣が採り入れられているようですが)。※確か柳生流も研究されていると思うのですが、具体的にどのような剣術の影響をどのくらい受けたか、というのは、歴史的な考察や比較技術論も入るので、知識不足の私には詳しい事は論じられません。

特殊な用語を用いず、「腰のひねり」という解りやすい説明を原理的概念として使われる所は、斉藤先生らしい部分なのかも知れません。徒に神秘的な言葉を使ったりするのを嫌われたようですしね。

個人的には、3:47秒辺りの「突き入り身投げ」もオススメ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月 3日 (土)

【便乗】アニメ・漫画でこれだけは見過ごせない刀の間違い 指・手編【エントリー】

アニメ・漫画でこれだけは見過ごせない銃の間違い 指・手編 - 火薬と鋼

超便乗です。

銃火器の取り扱いには詳しくありませんが、それでも、この持ち方はそれっぽく無いな、と思う事はありますですね。

で、私が見る所としては、日本刀を扱うキャラが、どういう風に刀を持っているか、という部分。

machida77さんに倣って、この描写はどうよ、と思う持ち方を、ちょっと語ってみたいと思います。

注意事項

剣術の流派は、数え方によっては数百もあると言われており、当然、かなり特殊な操法を採用しているものもあるでしょう。ここでは、平均的に見られる操法を基準として書きました。

もちろん、知っている人から見て甘い描写があるからといって、即その作品の価値が下がる訳ではありません。それは、剣を扱う事に関して、作品中でどういう重み付けがされているか、という部分と関わってくるでしょう。

▼まずこれ↓ ※画像を加工してありますが、あまり気にしないように・・。

2_2 

定番。野球のバット風の持ち方。手の間を空けないんですね。

▼次、これも定番。

5

左右の手が逆。

ものの本に、こういう風に持つ流派があったらしい、という記述があったような気もしますが、まあ、一般的には、日本刀はこう持たないです。

▼次は、町田さんによる、

 銃を握る場合(特に片手で持つ場合)、銃の中心を通る線と前腕の中心を通る線が一直線になるように持つ。

に対応すると思われる部分。さあ、段々マニアックになって参りました。まずはダメな例↓

4

手首の関節が、ほぼニュートラル~掌屈(掌側に曲げる)気味に持っています。力学的に細かい事は把握していませんが、これは一般に悪い持ち方とされます。(余談。この持ち方だと、簡単に太刀取りされる。体術の諸手取りも同様)

で、良いのはこちら↓

6

若干背屈(手の甲側に曲げる)気味ですね。こんな所まで見る奴がいるのか、と言われそうですけど、多分、剣を使う人は、普通に見ます。

▼もはや、ついてくる人がほとんどいなくなる予感がしますが、そんな事はお構い無しなのであります。

まず悪い例↓

1_2

いわゆる「ベタ掴み」。柄と掌・指の関係を全然考えずにベタッと持つ訳ですな。もうちょっと極端にやった方が解りやすかったかな。

良い例↓

3

これが適切な握り方ですが……上とどこが違うんだ、という突っ込みが絶対入るなあ、これは。撮った角度が悪かった。まあ、ポイントとしては、小指と薬指で締め、人差し指はふわっとさせる、という所。(余談。剣を打ち込む局面で、手がベタ掴みのような形になる場合はありますけど、それはまた、別のお話。基本の持ち方の文脈です)

刀の柄の断面は小判状なので、まず中手骨間違い。基節骨でした。を側面に沿わせるようにして、指を柔らかくまとわりつかせるように持つのがポイントでしょうかね↓

7

------------

……さすがに、後の方は細か過ぎるぞ>自分

まあ、結構見られるのは、左右の手が逆なのと、手を密着させる描写かな。さすがに手首の返しはマニアック過ぎるか。でも、知っている人ならまず見るだろうなあ。

ベタ掴み云々は、ほとんどマニア向けの余談のレベルですので、あまり気にしないように。

逆に、良い描写としては、アニメだと、るろうに剣心のOVA版(追憶編)なんかは非常に上手に描けていたように思います(私が知る限りでは、最高レベル。て言うか、あの作品自体が大傑作だと思っている訳ですが)。

マンガだと、やっぱ、川原さんの描く、ファン・ガンマ・ビゼンのニホントウの扱いは大変美しいと思うのですが、どうでしょうか。

2008年1月4日追記:画像を追加します。以前ブログに載せたもの。元々MMDを使って画像を作ろうと思ってたのですが、指の微調整があまりに面倒なので、上のような画像にした次第。

Keng

剣の把持。ベタ掴みを避けます。

9

古流の素振りのようなものをイメージしてます。後ろ足首のポジションはちょっとおかしくなってます。

7

側面から。

------

追記:上に挙げた作品とか、参考になる資料とか。

るろうに剣心-明治剣客浪漫譚- 追憶編 第一幕「斬る男」 [DVD] DVD るろうに剣心-明治剣客浪漫譚- 追憶編 第一幕「斬る男」 [DVD]

販売元:SME・ビジュアルワークス
発売日:2001/03/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは傑作だと思います。

海皇紀 (4) (講談社コミックス 月刊少年マガジン 678) Book 海皇紀 (4) (講談社コミックス 月刊少年マガジン 678)

著者:川原 正敏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

海皇紀 (5) (講談社コミックス 月刊少年マガジン 690) Book 海皇紀 (5) (講談社コミックス 月刊少年マガジン 690)

著者:川原 正敏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

海皇紀 (9) (講談社コミックス 月刊少年マガジン) Book 海皇紀 (9) (講談社コミックス 月刊少年マガジン)

著者:川原 正敏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

カヴァーイラストで、ファンが剣を掴んでいるのを選んでみました。やっぱり上手いと思います。

黒田鉄山 超次元身体の法 全2巻 黒田鉄山 超次元身体の法 全2巻

販売元:BABジャパン
楽天市場で詳細を確認する

黒田鉄山・改 2巻シリーズ(DVD版) 黒田鉄山・改 2巻シリーズ(DVD版)

販売元:BABジャパン
楽天市場で詳細を確認する

言わずと知れた(どこで?)黒田鉄山氏のビデオ。山本貴嗣氏も参考にしたんでしたっけ?

日本の剣術DVDセレクション 日本の剣術DVDセレクション

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

観た事無いですが、資料として良さげ。歴史群像―学研デジタル歴史館-「日本の剣術DVDセレクション 術技詳解」

| | コメント (25) | トラックバック (0)

2008年12月22日 (月)

からだの「楽譜」

調べものをしていて、「ベネッシュ(・ムーブメント・)ノーテーション(Benesh (Movement) Notation)」というものがあるのを知りました。

身体運動を科学的に分析する文脈で紹介されていたのですが、なんでも、踊りの動きを「楽譜」のように表すそうです。参照⇒ベネッシュ・ノーテーションについて

紹介したページで動画が観られますが、そこで澤井麻奈美さんという方(@お茶の水女子大学)が、紹介しておられます。

五線譜の線を、身体の高さのラインに見立てて記録し、運動の軌跡も表せるようです(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションの基本 ⇒ベネッシュ・ノーテーションによる記録例)。また、澤井さんによれば、骨盤や脊柱の回転の角度もある程度は記述出来るそうです。モーションキャプチャデータと比較しても、整合が見られたといいます(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションとモーションデータの比較)。

私にとってこれは、目から鱗の情報でした。このような方法は、一般的にダンス・ノーテーションと呼ばれるそうで、色々の記譜の方法があるみたいです。

おそらく、舞踊方面の方にとってはポピュラーな概念なのでしょうが(日本舞踊でも同じような方法があるとか)、そちらに全く疎い私には、ある意味カルチャーショックでした。と言うのも、このような方法は、武術の型の保存にうってつけであると考えられるにも拘らず、類似のものが見られないからです。

もちろん、私が知らないだけという可能性もあります。しかし、主に文字情報と、より具象的な画を用いて型を伝承している流派がほとんどで、ダンス・ノーテーションのごとき、高度に抽象化・記号化されて、3次元的な身体運動の情報を上手に記述してみせる、という方法は、少なくとも広く知られてはいないと言っていいでしょう(もしあれば、教えて頂けると大変ありがたいです)。

尤も、最近は、武術を研究する人と舞踊家の交流などもあるようですから、採り入れている人はいるのかも知れませんが。

いや、しかし、勉強になりました。モーションキャプチャやスティックピクチャーのデータを2次元的に不足無く抽象化して表現する、という方法自体については、思いを馳せた事はありますが、既に確立しているとは思いませんでした。動きを楽譜で表すなんてね…。

これならば、亡くなった達人の映像からモーションデータを得、それから譜面を起こして伝承や教育―学習に役立てる、という具体的な方法が考えられます。舞踊方面で、動きを科学的に解析しながら保存していこうという動きもあるようですが、おそらくこういう方法を積極的に用いているのでしょう。以前そこら辺について、ちょっと調べた事はありますが、「動きの記譜」という所にはたどり着けませんでしたね……やはり、武術以外の分野にも広く目を向けるべきだ、と思った次第。

------------

解る方向け。

たとえば、斉藤先生による31の杖や13の杖の示範の映像を解析して、それを譜面に起こす、というのが出来そうです。そうすれば、ビデオが参照出来ない場面なんかでも、学習に役立てられると思います。中国武術の套路の勉強にもうってつけな気がします。ただ、武術は相手との力学的関係が重要で、変化などもあるから、ある程度明確に規定された一人型を覚えるために利用する、というのに留めた方が良いのかも知れませんけれども。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月19日 (金)

昔書いた事:模型と高度な認知と高度な身体運動制御

おなじみの(嘘)覚書からの抜粋。少し書き換えてあります。

模型

非常に繊細で、根気の要る作業であり、集中力を試されるものである。

書道等と違って、リカバリーできる幅が広い。寧ろ、それがどの程度妥協無く為されるかが、最終的な完成度に大きく関わってくるので、非常に重要であるといえる。とはいえ、失敗せずに作業する方が、遥かに作業効率が良いので、失敗しない様集中力を高め、慎重に行う必要がある。ちょっと考えるだけでも、ヤスリの当て方、接着剤の塗り方、貼り合わせ、パーツについたホコリの除去、パーツにホコリがつかない為の管理、乾燥時間、塗料の希釈度、ハンドピースのケア(ニードル、ノズル、洗浄)、塗装時のエア圧、ニードル開度、パーツとの距離の関係、キャップの汚れ具合、失敗時のリタッチ、スジ彫り、面出し、等々…。

と、ある程度のレベルの作品を創り上げるだけでも、これだけの多くのことに気を遣い、注意を払いながら、作業をしていかなければならない。「力任せ」では絶対に出来ない。生力に頼って乱暴に投げ捨てる武術家諸氏に見せてあげたい。

左手で、不安定に持ち手につけられたパーツを保持し、右手で、カップのフタをつけていないハンドピースを操り、細かい塗装作業を行う、これは非常に高度な運動である。持ち手、パーツ、ハンドピースの重心を捉え、ハンドピースをミリ単位以下で操作していく。左右の手は全く独立した運動を行うので、身体を割ってつかわなければならない。ハンドピースは、塗料の噴出口の位置を数ミリ単位で変えることが必要なので、ベストをつかわないと、正しく操作ができない。

この様に、模型製作は、非常に高度な認識・身体運動が要求される文化である。もとより他文化も同様ではあるが、ある程度のレベルまで達することが難しいということである。例えば、「ホコリの全くついていない作品を完成させる」といわれた場合、これはかなり困難なことである。しかし、ホコリが少しついているだけで、それが非常に目立ち、作品に対する評価は著しく落ちることになる。指摘されると誰もが容易に、欠点を視認することができるということである。料理等では、下拵えが多少雑でも、味つけが大雑把でも、「美味しい」という評価を受けることがある。偶然味付けがうまくいった、ということがあるのである。一方、「汚れのついていない模型が偶然陥穽した」とか、「偶々表面処理で美しい面が得られた」等ということは、絶対に(と言って良いだろう)有り得ないことである。

この頃、自分がやっている事の構造を分析的に把握して、何でも身体運動や武術と関連づけようとするのが流行っていました。私の中で。

それにしても、書いてある内容の微妙な事よ。

唐突に武術家諸氏の話が出てきているのは、多分そういう年頃だったのでしょう。模型についての分析は、別におかしな事は書いていないかな。料理との対比はおかしいですが。自分も料理やるのに、なんでこういう風に比較してるんでしょうね。模型を作る、というのに塗装や継ぎ目消しを含意させている、というのがそもそも変ですな。

久しく模型はやっていませんが(どうせ一生やるから、後回しにしている。環境的にも難しいし)、実際、片手でパーツを持って、もう片手でハンドピース(いわゆるエアブラシってやつです)を操作するというのは難しいのです。フタを開けたまま細かい操作をするとなると、たぷたぷしてる塗料が零れないようにコントロールしなくちゃならない訳ですね。それで、塗料が出る所は0.5mm以下ですから、それを微細に動かすには、バランスよく身体を使う必要があります。手先を使っちゃいけないというのは、武術と一緒でしょう。

どういった文化でも、目標の設定の仕方によって難度が変わってくるんですね。模型で言うと、素組みするだけなら簡単。料理でも、食べられるゆで卵を作るとか、インスタントラーメンを作るとかは簡単。

でも、継ぎ目を完全に消した鏡面仕上げをする、というと難しいし、油っぽく無いパラパラチャーハンを作る、となると難しい。模型にしろ料理にしろ、それは単純な作業を指す言葉では無く、様々な方法や技術を含んだ文化なので、観点が色々ある訳です。

まあ、そんな感じです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月10日 (水)

掴みも技術

はてブ経由で護身術的な何ものかを観たりして、前から考えていた事を書こうと思いました。

合気系の武術の映像でも、護身術でもいいんですが、掴まれたり掴み掛かられたりするのを崩す技ってありますね。

で、頻繁に見かけるのが、「掴み方」に全く無頓着であるもの。

掴み方も技術ですよ。全く相手が動けないように掴もう、という志向が無いと、掴みも上達しない訳です。

ヒントとしては、空手の柳川氏が用いる概念の「受動筋力」(※学術概念では無い)を使うのが重要なんですが、ちと解りにくいかもです。

まあ、要するに、相手を動けなくするために重要なのは、「手」では無いって事です。肩・背中・腰・脚を上手にコントロールしていく訳ですね。

いくら握力で思い切り掴まれていても、肩が疎かなら簡単に崩せる。そういうのを崩して技が出来ている、と思い込むのは頂けないのですが、しばしば見られる。

掴むってのも、それほど簡単じゃ無いんですね。それを心得ておかないと…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月 5日 (金)

合気道の技法体系についてちょこっと

complex_catさんのコメントInterdisciplinary: 正面打ち技法のはなしと中国武術との論理的繋がりについて、みたいな#comment-53835544(なんかプロパティが変だ…)へのレス。

八卦掌は、よく出てきますですね。私も知識は全然持っていませんが、比較されているのは結構目にします。

武器を持っている敵多人数を想定して体系が構成される、というのを考えると、多分収斂していくのだと思います。それで、より重要な部分とされる点が対象化されて、それが具体的な型や稽古法に反映される、という事ですね。

そういう観点だと、合気道というのは、相手が太刀か短剣を持っているのを体術でも絶対想定しているので(柔術は須らくそうあるべきと思いますし、実際そうなっているのでしょうけれど)、そういう所が意識化されて体系が創られてきたのだろうな、と。

後は、打撃技か組技のどちらを主体的に用いるか、というのも関係してくると思います。当身をよく用いる柔術の技法に関しては全然知らないのですが、たとえば柳生心眼流などは、また独特のシステムを持っているのかも知れません。

合気道では、身体の練りや体捌きは、ほぼ必ず技法に組み込まれているように思いますが、必ずしも受けと取りで型を行うのでは無く、一人で練られるように武器技の体系も工夫されていますね。2人型というのは、相手を制するという部分に意識を取られる場合があるので、意識を自身の身体に向けて練るという意味でも、武器技は重要です。

たとえば、剣素振り7本、杖素振り20本、という素振りがあり、それを基本とした型(組太刀・組杖・剣対杖)がいくつかある、という体系ですね。

呼吸法に関して。

合気道での「呼吸法」の用い方は、独特ですよね。おそらくすぐにイメージされるような調息法のようなものでは無くて、崩す技法そのものを指します。かたちとしては、大東流における「合気上げ」と同質ですね。※色んな方向けの余談。合気系の方からは異論もあるかも知れないですが、掴ませた所から崩すという課題があって、それを実現させる身体運用を身に着ける、という目的に向けて工夫したら、高級になると収斂する訳なので、ほぼ同じと言って良いです。ちなみに、合気道は必ず「掴ませつつ」、「完全に掴ませないように導いて」という見方があるとしたら、それは間違い。下動画参考

呼吸力を発揮して相手を崩す技法、という事でそう呼んでいるのだとは思いますが、残念ながら由来は知りません。

という訳で、百文字は一動画に如かず、なので、動画です。

最初の方をご覧頂くと解るように、崩す技そのものを「呼吸法」と言うのですね。一般的で無い用い方なので、これは結構紛らわしいのかも。合気道では、掴まれた場合、呼吸法を用いて崩して技を掛ける、という考え方をする訳ですね。※腕のかたちの事を指す場合もありますし、気の流れの時も当然用いられるので、もうちょい概念は広いです

斉藤先生は、多分合気道以外の方にはそんなに知られてはいないと思うので、時折紹介しています。こういうスタイルがあるというのもあまり知られていないでしょうから、それについても知って頂きたいな、と。

合気道の技法体系とその機能について、まとめて書いてみるのも面白そうですね。

参考動画。

斉藤仁弘先生(斉藤守弘先生のご子息です)による、呼吸法と呼吸投げ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

正面打ち技法のはなしと中国武術との論理的繋がりについて、みたいな

握らない一教 (内田樹の研究室)

武術に関する部分のみのお話(リンク先の後半はほとんどこじつけ)。

身体操作を勉強する際に、相手を掴まずに一教を行うというのは、良い稽古だと思います。

「なんか軟弱」と思えるかもしれないが

実は全然そんな事は無い訳ですが、それはおいおい明らかになるでしょう。

さて、このエントリーについたはてブ⇒はてなブックマーク - 握らない一教 (内田樹の研究室)

complex_cat Budo, martial arts 理解が浅いかも知れませんが,脱力による「強力な」受けと誘導は,推手をやっている方が理解しやすいのではと。奇しくもここの方法はそういうことかと。初心者の手刀理解は合気の場合,難しいと思います。

これはなかなか興味深い話題に繋がってくると思うので、ちょっと書いてみましょう。実は以前に書いた事ともかなり重複しますが、そこはご了承下さい。

さて、武術に興味を持つ方で、合気道の「正面打ち一教」と言われれば、「受けが大きく腕を振りかぶって手刀で打ちかかって来る」のを捌く技、という印象があると思います。

武術の動きの説明は、テキストだけよりも、映像があった方が圧倒的に解りやすいので、YouTubeから持ってきましょう(他にも見本になるようなのがあったんですが、思いっきり、教則DVDか何かから持ってきたやつでした)。

これは大変解りやすいですね。打ちかかってくるのを前方に進んで押さえるのを、「表技」といいます。会派や指導者によってバリエーションはありますが、大まかには一括りに出来ます。

続いてこちら。

打ちかかって来るのに合わせて横に入り、転身しながら腕を押さえていきます。これが、「裏技」です。

基本的に合気道では、前に進めながら行うものを表技、転身するのを裏技、と分類します。※必ずしも厳密に分けられるものではありません。

ここで再び、complex_catさんのコメントを引用してみましょう。

理解が浅いかも知れませんが,脱力による「強力な」受けと誘導は,推手をやっている方が理解しやすいのではと。奇しくもここの方法はそういうことかと。初心者の手刀理解は合気の場合,難しいと思います。

私はこれは、大変鋭い指摘だと考えます。短文コメントなので推測を含みますが、complex_catさんは恐らく、受けが強く打ちかかって来るものを捌くという構造の技法によって、柔らかく手を使って崩し捌いていく技術を会得するのは、初心者には難しいものがあるのではないか、と考えられたのだと思われます。

さて、正面打ち一教です。

この技、一般ではほぼ、前述のような技法だと思われているでしょう。つまり、

  1. 受け、振りかぶって正面から打ち込む。
  2. 取り、前に進むか転身して腕を押さえながら崩す。

というものとして捉えているのではないでしょうか。

恐らく、他流派の方にはほとんど(合気道内部でも?)知られていないと思うのですが、実は、ある部分を占める合気道の会派、特に岩間スタイルと呼ばれるスタイルにおいては、方法が異なっているのです。

書くより見て頂くのが良いでですね。こちらをご覧下さい。

斉藤守弘先生の講習会の模様です。初めの方で、一教を行っていますね。

さて、何か気づかれないでしょうか?

斉藤先生は、技を示しながら、「こっちから行く」と仰っています。

そうです。正面打ち技とは、「自ら打っていく」技なのです。「自分から」正面を打っていく訳ですね。受けの頭部に手刀で攻撃し(正面打ち)、受けがそれを防御するために手を上げた所を、取りは進みながら(表技)手を捕り、押さえていく。裏技は、爪先を合わせるようにして、転身して押さえます。上の動画では、受けが打ち込んでくるのを開いて押さえる(裏技)もありますね。

どうでしょう。テレビや雑誌で合気道の技を見た事がある方は、実は合気道でこのような方法が用いられるというのは、あまりご存知無かったのではないでしょうか?

そして、ここからがポイントです。

現在大勢を占めるのは、恐らく最初に示した方法です。典型と言って良いかと思います。そして、後で示したのが、自ら打っていく方法です。

で、少し考えてみると解る通り、この2種類の技法は、かなり構造が異なっています。打ちかかって来るものを表技で押さえる場合は、先を取って入り込んでいく訳ですが、自ら打つ方法は、相手の防御を促してその手を押さえていく、というやり方です。

さて、合気道には、「変化技」があります。変化技とは、たとえば、基本のやり方をするには間合いが適切じゃ無かったり、相手が抵抗したりした場合に、それに応じて合理的に用いる技を変えていく方法、とでも言えるでしょうか。そして合気道では、その変化技が技法体系に組み込まれている訳です。

一教に戻りましょう。

岩間(開祖の古い教えを守る会派では、同様の方法が用いられると思います。養神館もそうみたいですね)の一教では、取りが自分で攻撃していきます。流れるようにやる場合もあるし、局面に分けて行う場合もあります。つまり、

  1. 正面打ちをする。
  2. 手首と肘を捕りつつ前方に進む。
  3. 前下方に押さえる。
  4. 受けの脇腹に入って突き飛ばす。
  5. 押さえる。

といった具合です。そして、ある局面について、受けが通常と異なる動き、あるいは抵抗をしてきた場合、技を別のものに移行します。これが変化技です。

上の1の部分で見ていきましょう。

取りが正面を打たんと手刀を出していくと、受けは、防御のために同じく手刀を出します。

本来は、これを前に出ながら押さえていく訳ですが、ここで、受けの色々な応じ方が考えられます。たとえば、

  • 腕を突っ張る。
  • 取り側に押し込んでくる。

などです。

当然、、「相手にそんな対応をさせる暇無く技を決める」のが基本ではあります。それを念頭に置きながら、変化技を学習する訳ですね。

ここでは、腕を押し込んでくる場合を考えます。再び、先ほどの動画をご覧下さい。

9:25辺りからです。

これは正確には、気の流れ技の話(こちらから攻撃して誘い、相手の勢いを利用する)ですが、私が今想定している変化技のバリエーションとしても用いる事が出来ます。

ご覧頂くと解りますが、相手がこちらの手を防御する勢い(この勢いや押し込もうという心理的な志向性を、「気の流れ」と呼ぶ)をそのまま利用して、後方(受けにとっては前方)に崩していきます。

これは、表技で押さえようとしたら、隙を取られて逆に押し込まれた、というシチュエーションにも適用出来る訳です。※肩取り面打ちでは基本だったり

ここで肝要なのが、「自分勝手に動かない」事。

受けが押し込んできもしないのに自分が引いてしまうと、手が離れて下がっただけ、という形になってしまいます。つまり、相手が押し込む力(純粋に物理学的概念ではありません。上の「気の流れ」の説明も参照)を「感じ取りながら」、導いてあげるのです。

私はこれを、中国武術における「聴勁」の概念とそれを鍛える推手の技法とに近似した論理だと考えます。即ち、手を合わせた局面を切り出して、変化技の稽古をバリエーションとして含めて考えるならば、中国武術や古伝の空手の稽古法に類似しているのではないか、と見ているのです。

たとえば、先に書いた、受けが腕を突っ張った場合、というのを考えてみましょう。

その場合には、上の動画にある四方投げの基本に移行する、という変化が適用出来ます。1:44辺りをご覧下さい。ここでは、正面打ち四方投げ表技の基本が解説されています。相手が突っ張った場合には、横に開いて四方投げに展開する、というのを変化として見るのも可能な訳です。※3:10辺りを見ると、よく解って頂けるはずです。

いかがでしょうか。

「正面打ち」技というのが実は、取りが自分から打っていく技法の事を言い、そこから変化技を展開させる、つまり、相手の力の流れを読み合理的に技を組み立てていく、という所を考えるならば、それは中国武術の推手に通ずるものがあるのではないか、と分析してきました。これを意識的に取り出して稽古する、というのもあり、それはまさに、聴勁に通ずる能力を鍛えるトレーニングとなっているのではないでしょうか(流していく所は化勁)。

尤も、そこら辺の論理を明確に対象化して取り出して「推手」という体系を築き上げた中国武術はさすがだ、と言わざるを得ませんね。日本武術、特に柔術系では、そこまでの体系を作ったのは、ほとんど無いんじゃないかな。少なくとも、私は知らないです。剣技だと発達しているかもですが。

推手そのもの的な体系は、日本刀を用いた剣術をベースにした武術からは出てきにくい、というのもあるかも知れません。日本武術的には、「その場にいる」事を避ける傾向があるので、技法体系にもそれが反映されていると思います。※合気道では、技が多敵用に作られている

合気道と中国武術の相同性を指摘する論考は結構あると思いますが、あまり知られていない体系(岩間スタイル)を用いて、そこそこ具体的にこういう説明をするのは珍しいんじゃないかな、と。科学的概念を用いれば、もう少し詳細かつ厳密に分析出来るとは思いますが、さすがに今の段階ではそれは難しいです。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008年11月15日 (土)

続・手の裡の事

先日、手の内について書きましたが⇒Interdisciplinary: 手の裡の事

ちょっと内容を説明しますと、合気杖の話です。

で、どういう風になっているか、というのと、普遍的にそうなっているだろう、というのが、ほぼ解明出来ました。

次は、何故そうするか、という部分ですが、これはよく解りません。理由があるはずなのだけれど。

えっと、話を理解出来る読み手がかなり限定される、マニアックな話ですが、ちょっとヒントを。多分、これが出来ていない人はかなり多いので。あんまり詳しくは書きません。

ポイントは、剣と杖の持ち方は全く一緒な訳では無い、という所。

手の内の普遍性、つまり、どんな武器でも持ち方は同じだ、というのは、結構刷り込まれる事のように思いますが、実はかなり違う、というのを認識する。

もうちょいヒント。

斉藤先生の突き手をよく観察する事。

質問は受け付けません(無いだろうけれど)。悪しからず…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月14日 (金)

こきゅう

問題。

「どの筋肉を使って、横隔膜を上下させるか」密息と原腸 (内田樹の研究室)

この文章には、少し変な所があります。それはどこでしょうか?

------------

現代人は「目に見えないもの」は「存在しない」という信憑に冒されているので、深層筋の操作のような外形的には見えない身体運用には関心を示さない。

いやいや。そんな大袈裟でややこしい話では無くて。単に身体運動のメカニズムの知識(解剖学やバイオメカニクス)が不足してるだけです。

世の中には、水に話しかけると結晶の形が変わる、とか言って、「言葉の見えない力」が存在する、と主張する人もいるんですが。見えないものを適当に信じるのも考えものですね。

それよりは、「腹筋が何段に割れる」とか「上腕二頭筋の断面直径が何センチである」とかいう可算的なものによって身体能力の向上を計測することを喜ぶ。

ここで言う「可算的」って、どういう意味なんでしょうね。定量的に計測出来る、って事かな。

後は相変わらず。そんなに難しくも無い事を、よく解らない比喩と援用とアナロジーを用いて飾り、思考の迷宮へといざなってくれています。

武術で「呼吸」と言うと、生理学的な内呼吸・外呼吸より遥かに広い概念なんですよね。気等とも絡み合って、複雑な概念となっている。筋感覚の時間的・空間的な変化についての知覚、というのも恐らく含む。指先から呼吸するように、とか、呼吸を背中から肩を通して……とか、そういう感じで用いられます。それで、「呼吸力」という概念も出てくる。武術に役立つ身体運動という意味合いと結合させた訳ですね。

合気道と絡めて呼吸について論ずるなら、これくらいの事は書いてもらわないとね…。

三砂氏は高岡氏と交流しているはずだから、対談とかすれば面白いかもね。色んな意味で。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年10月31日 (金)

肘と手首と認知

剣の切り下ろしの話。

動画巡りをしていると、「上腕を振り下ろす」→「肘を伸ばす」→「手首を返す」という順序で運動しようとしていて、身体の使い方がバラバラになっているのを時折見かけます。

また、ブログなんかを読んでいて、その「順序」を意識して振ろうと心掛けているような記述も見ます。

ちょっと考えてみましょう。

切り下ろしは、ゆっくりめでも、1秒と掛からない動作ですよね。

で、その間に、上腕の振り下ろし・肘の伸展・手首の尺屈、という運動を連続させて行おうと認知しながら振る訳です。

ごく短い時間ですね。その間に、「認知(”こうしよう”と意識する)」→「運動」→「フィードバック(運動出来たか確認)」→「次の運動の認知」、というサイクルを繰り返すのですから、まあ、「間に合わない」。ぎこちなくなるんですよね。極端になると、振り終わってから剣を前に突き出してしまうような動きになる。

初心の内には、そういう認識で稽古するのは避けた方が良いかも知れませんね。そのようにする際には、ごくごくゆっくり行う、とかね。

そういう所を戒めるためなのか、新陰流の教えで、肘と手首の運動を制限させるようなものがありますよね(手許に資料無いので、ソースは示せませんが)。黒田鉄山氏の剣の教えもそれに近いのだと思います(具体的な操法自体が違うので、単純に似ているとする事は出来ないけれども)。

まずは、上腕~手首を一体の物体のようにして振るのが良いかも。もちろん、力を入れないのは前提。そうすると、腕を余計に使わない武術の身体操作がやりやすいし、手首を先に返すのも防げる。動作の認知としては、腕を一体にして振り下ろす、という単純なものなので、打ち込みの要領が掴みやすい。腕の代わりに、根本である肩や腰に意識を向ける事も出来る。剣を振るというと、どうしても腕そのものを意識してしまいがちだから。

それで、それがある程度出来るようになってから、腕の関節を滑らかに使った剣の振りを練習すると、良いでしょう。そうすると、実は、多段ロケットみたいな動きじゃ無くて、並行して関節を運動させているのだ、というのも掴みやすいんじゃないかな。

身体運動というのは同時並行的な運動で、シーケンシャルなものでは無いんですよね。動きを分解して、それを体現しようと強く意識してしまうと、短時間にシーケンスを詰め込もうとして、結局バラバラになる、というね。本当は、言語的に把握するのがそもそも難しい現象な訳です、身体運動はね。

また読解が難しい文を書いてしまったぜ…。

簡単に言うと、運動を実現させるための時間制限に認知がおいつかず、更に、本来同時並行的な関節運動をシーケンシャルな構造として認識するからバラバラな動きになる、って事です。本当は、同時並行的運動は、身体意識的な、非言語的なものとして認知(知覚でもいいか)される必要がある訳で。たとえば、視覚的な情報によって動作が実現出来ているか確認してフィードバックするのとでは、全く速さが違う。

え、全然解らない? 何気に、結構深い事書いてるんですけどね(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月29日 (水)

31の杖

武術動画の旅をしていたら、31の杖(合気道の杖の型)が沢山アップされていて、びっくり。

色々観ていて、面白いなあ、と思ったのでした。それぞれの癖があったり、型の意味を解釈していないだろうなあ、というものがあったり。動きが流れてしまっているのも結構見られました。流麗というのとは違って、緩急が無くて、極めるべき所を極めていない。中国武術で言うと、きちんと発勁せずに流してしまう、という感じになるでしょうか。

一つの型なのに、行う人によって実に面白い違いが出るものだ、というのが解るので、いくつか貼ってみましょう。

一人で行う型と、二人で組杖として行う、合わせの型があります。合気道にも一人型があるんですよー。知らなかったでしょう?

↑なんちゅう場所でやってるんだ…。

あまり貼ると激重になるのでこの辺で。

っと、やはりここで、見本を貼っておかねばなりますまい。

斉藤守弘先生による演武です。

全然違いますでしょう?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年10月21日 (火)

Usain Boltとゲーム。関心持たないときちんと解らない

月刊『秘伝』の高岡英夫氏の連載に、面白い事が載っていました。なんでも、北京オリンピックで超活躍したウサイン・ボルト選手がゲーム好きとか。

で、私はそれは初耳なので、ちとググってみたところ、このような記事が⇒趣味はゲーム ボルトの素顔  - MSN産経ニュース

ほうほう。かなり好きなんですね。それにしても、これは興味深い。今存在する人間の中で、恐らく最高度の身体運動を体現しているボルトが、デジタルメディアの象徴であるコンピュータ・ゲームを愛好している。実に面白いではありませんか。

さて、高岡氏は基本、ゲームには否定的なので、秘伝誌の記事でも、ゲームの効用を最初に説明しつつ、後半ではゲームの悪影響について書いています。つまり、ゲームは一般に、大きく身体を動かす文化では無いが故に、身体を拘束する方向へ促し、それが心身に悪影響を与え、昨今問題視されている、というもの。

しかしこれは、実に惜しい理解なんですね。要するに、「問題視」されている事は、実際に悪影響があるかどうかとは、一応別の話なのです。

私は、高岡氏のゲーム批判論の一部には賛同している者です。すなわち、ゲームは一般に身体をあまり動かさないものだから、それは身体を固める方向に作用し、心身に好ましく無い影響を与える「可能性がある」、という部分。これ自体は、ゲーム文化の構造を踏まえた理論的考察なので、全く的外れ、という訳ではありません。

しかしながら、この後が問題。高岡氏は、昨今の社会問題の要因の一つとしてゲームを捉えていて、それが問題視された事も指摘してるのですが、その部分に関しては、事実を捉えていない、と言えます。一部の論者が言うようには治安は悪化していないし、ゲームの心身への強い悪影響が確認されている訳でも無い。「問題視」している意見の多くは、直感による不公平なゲーム論を展開しているのであって、エビデンスに乏しい。ゲーム脳や脳内汚染の欺瞞は言わずもがなです。

結局、高岡氏ほどの洞察力をもってしても、よく知らない文化について正確な分析は出来ない、という事なのでしょう。考えてみれば当たりまえですが。洞察力に優れているが故に、よく調べずに理解出来たように錯覚する、というのもあるのでしょうね。

科学的な実証、つまりエビデンスの重視、というのも、ゆる体操方面では意識しているようですが、ゲームに関してはそれが出来ていない。

もちろん、身体を動かさない方向へ促す、という面は、よく考えられてしかるべきで、私はそこには賛同します(このブログでもよく書いている事です)。件の記事に書いてあるゲームの効用についても、なかなかに鋭いとは思います。だから、「惜しい」訳ですな。

考えてみれば、運動も度を越せば身体を壊すように、何事もやり過ぎは良くない、という話です。一種のトートロジーですが、それをきちんと理解していないで、リスクを直感によって過大評価する、というのがしばしば見られます。つまり、ちょっとやれば「やり過ぎ」という風に、勝手に決めているんですね。リスクが大きいのだから短時間でも害になる、という直感に基づいたロジック。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年10月14日 (火)

立ち方

立ち方、中でも足の置き方に着目した概念、色々ありますね。ソの字立ちとかレの字立ち、三角や裏三角、等々。

こういうのって、基本の構えとして意識して身に着けるのはいいのですが、あまりその姿勢の維持に拘ると、自身の身体運動の自由さを奪ってしまう事にもなりかねないのですよね。そこで大腿骨がもうちょい回転すれば合理的な運動になるのに、という場面でも、形をきっちり決めようとする。結果的に、合理性を蔑ろにしてしまう。

結局足の置き方というのは、骨盤の運動と連動する訳なので、それを考えなくてはならない。次にどこに移動するか、という所もですね。足を踏む順序も重要になるでしょう。

で、それをカバーするために、体幹や骨盤についての要訣があったりするのでしょうね。浮身とかね。足そのものについてだと、無足とか。これは、足を先行させるよりむしろ、体幹の変形を先行させて、足(脚も)はそれに従って動くようにする、というのを意識させる言語装置なのだと考えられます。極端に言えば、足は置いていけばそれで良い、となるでしょう。足先の角度は大腿骨の回転と連動しますからね。下腿はほとんど回転しないので。

尤も、それだけではダメで、本来は、足の変形も考えるべきなのでしょうけれども。これは、いわゆる「足裏の使い方」というやつです。支持点の移動とか。

そういうのを考えるとやはり、足がとる角度に着目した立ち方を意識する際は、注意しなくてはならないと思いますね。より重要なのは、「脚」ですから。結局の所、基本的には正中線でコントロールする、という事なんですけどね。まあ、言語化は難しい話です。

ああ、そういえば高岡英夫氏は、黒田鉄山氏の動きについて、センター主導で足裏はまだ開発の余地がある、という意味合いの事を、著書で書いておられましたね(『DSが解く達人のメカニズム』)。仮にそれが妥当であるとすれば(演武の映像を観ると、確かにそうかも、というのは感じる)、色々な理由があるのでしょう。私の推察は、あまりにも無足を強烈に意識して稽古するために、足裏の開発を促す方向へはいかなかったのではないか、というものです。つまり、「足を使わな過ぎる」、という。もちろん程度問題で、そこら辺の人間とは比べものにならないでしょうけれど。

書き加え。

大腿骨の回旋(外旋・内旋)は圧倒的に重要。達人の動きを見ると、脚の位置は変わっていないようなのに、足先の角度だけ変わっているように見える場合があります。これは、大腿骨が綺麗に回転しているという事。股関節の筋肉を柔らかく使っていく必要がある訳ですな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月 8日 (水)

手の裡の事

斉藤先生の画像を見ていて、武器の操作について気付いた事あり。

いや、以前から、何となく感じていたのですが、ビデオを見ながらだったので、静止画でじっくり検証しようとならなかったのですね。今回、改めて詳しく調べてみようと思った次第。

内容は、手の内について。あまり詳しくは書きません。

次は、この気付きがどのくらい普遍的であるかを、ビデオや写真で検討する必要があるでしょう。つまり、いつもそうしているか、という事。ずっと気になっていたくらいだから、それは成り立っているのでしょうけれども。

その後には、「何故そうなるか」の考察。明らかに違うと感じ、ずっと疑問に思ってきた事なのだから、それには武術的に合理的な理由があると推測出来ますが、それはどういう論理かを考える。武術の動きには、必ずしも合理的で無くとも、「他の人がそうしていたから」、「癖だから」、という理由で用いられるものも、時にはあります。だから、何故そうしているか、というのを追究するのが必要。

私のその気付き、他に気付いた人がどれくらいいるのかな…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月 6日 (月)

溶け込んだ肩

武術において、肩の運用は大変重要です。

武術の運動では、重い物を持ち上げつつ肩を上げる動き、また、腕で自身の体重を長時間支える、という動きを、主体的に用いる事はありません。上腕の運動はシャープに高速に行うのが必要であり、大きな力を持続的に出す必要性は無い訳です。そのため、三角筋等の肩周りの筋肉が大きく発達はせず、印象としては、なで肩になる傾向があります。

肩のあり方というのは、各体系の特性を見るポイントである、とも言えるでしょう。たとえば、重量挙げ等は、重い物体を支えるという構造であるために、肩周りの筋肉の発達が目立ちます。体操なんかは、非常に解りやすいですね。腕で身体を支えて、跳んだり回転したり、という運動を行うから、なるべく体重を少なく保ちながら、必要な部分に充分な筋力をつける。そうすると、異様な肩の筋肉の発達が目に付く訳ですね。

さて、話は武術に戻しまして。武術では、体幹をよく動かして、それにつられて腕が動くようにします。腕を鞭のように用いる、というのはよく見られる喩えです。

そのように運用するには、三角筋を積極的に弛緩していき、最小限の筋力で上腕を回転させる必要があります。それが、武術における肩の「脱力」です。上手く力が抜けていれば、肩関節のくぼみに指を入れる事が出来ます。加えて小胸筋等を働かせると、より腕が落ちていきます。これは、武術に特徴的な運用かも知れません(もしかすると、ピアノ演奏等でも伝承されているかも)。恐らく、中国武術系の打撃において力を通す際、このような運用で肩を使っていく、という方法があるのではないかと推察します。松田敏美―前田武師範伝の大東流を紹介された高瀬道雄氏は、「肩を切る」という風に表現されていました(『秘伝』参照)。太極拳などでも、肩と腕が糸で繋がっているように、という意味合いの教えがあるのを本で読んだ記憶があります。

何故、肩を切るとか糸で繋がったようにとか、そういう表現をするかと言うと、それは、「外形を無理矢理なぞる」のを戒めるためである、と思われます。人間は、多数の筋肉が骨格を取り巻いているという構造ですから、外見的には似たような姿勢でも内実は全く異なる、という事があり得ます。この文脈で言えば、外側の筋肉を無理に使って「肩を引き下げる」運動によって、なんとなく似た姿勢を取るのが可能である、というのを意味します。それを戒めるために、身体意識にアプローチするアナロジーを駆使している訳ですね。ガチガチに固めて肩を下げるのと、「肩を切る」感じというのは、なかなか相容れないですから。

ちなみに、私の場合は、これが出来るようになるまで数ヶ月を要しました。コツは、弛緩させる三角筋そのものでは無く、「脇」を意識するのを心掛ける事。胸から脇を通って肩を引き付けるような意識。筋肉的には、胸部の深層筋、小胸筋等への働きかけ。注意点は、「脇を閉める」意識を持たない事。そうすると、上腕の内転(正中線に近づける運動)が促され、大胸筋等を使ってしまうからです。これは一応、自分で編み出したやり方です。あんまりここら辺の詳細な開発法は見ないですね。なので、サービスって事でご紹介(笑)

ここまで、武術における肩の脱力を説明しましたが、達した方は、まるで「腕が胴体に溶け込んだような」状態になります。ここまで読んで、木村達雄 『透明な力』に掲載されている佐川幸義翁の写真を思い浮かべた方もおられるでしょう。あの写真は、まさに象徴的なもので、達人の肩を明確に示した重要な資料だと言えます。

さて、ここからが、本エントリーのメインです。

とっておきの画像をご紹介いたしましょう。

こちらをご覧下さい⇒Album / gallerie de photographies d'Aikido - Iwama Ryu Aikido(下に画像があるので、スクロールしてご覧下さい)

この画像は、合気道における達人の一人、故・斉藤守弘先生のものです。

いかがでしょうか。武術を嗜まれる方は、この圧倒的な脱力に驚嘆されるのではないでしょうか。武術に明るく無い方でも、「あれ、なんか変だぞ?」と思われるでしょう。つまり、「なんか肩の辺りが不自然だな」、と感じるのではないでしょうか。

肩が弛緩しているために腕が落ち、通常より長く見えます。また、両側に座っている方達と較べるのも良いでしょう。解剖学的な知識をお持ちの方ならば、「肩関節の位置が読み取りにくい」と感じられると思います。

さて、もう一枚ご覧にいれましょう⇒Album / gallerie de photographies d'Aikido - Iwama Ryu Aikido

左に立っておられるのが、以前ここでも演武の動画を紹介した事もある、Daniel Toutain氏です。動画でもよく解る通り、実に出来る方であり、この画像を見ても、肩がよく落ち、正中線もある程度綺麗ですが、それでも、斉藤先生とはどこかが違う、と思われませんか?

それは、斉藤先生の姿勢の前後のバランスも優れているからだ、と読み取る事が出来ます。Daniel氏は、ほんの少し、上体の後側に意識が通っているようです。ですから、鎖骨の内側の端辺りが張っているように見える。対して斉藤先生は、張っているのでは無く、「受けている」ように見えるはずです。私はこれを、中国武術における「含胸抜背」を見事に体現した姿である、と見ます。正中線は、あまり後を通ってはならない訳ですね。背中周りの余分な緊張を促しますから。

そして、肩甲骨が柔らかく外側に張り出しているのも解る。だから、腕は前側に位置し、肩関節が見えにくくなる訳です。これは、剣や呼吸法の絶え間無い錬磨の成果でしょう。いかに基本が重要かが解りますね。「掴ませて」稽古を始めるのは、そういう拘束的な条件に置く事によって、理想的な上肢帯の運動を促すのを目的(の一つ)としている訳です。肩が脱力出来なければ技が掛かりようが無い状況を設定し、それを型とするのですね。合理的なシステムです。※しかし、その目的を理解せず、ただ力の頑張り合いに終始する場合もある。何を目的としているかをしっかり把握するのが重要、という事です。

以前紹介した、「良い姿勢は場合によっては猫背に見える」、という姿勢の、最高峰の実例として、とっておきの画像を示しました。これもサービスですよ(笑)

っと、かなり力作エントリーになってしまった。まあ、そこそこ参考になるんじゃないかな、と自画自賛しときましょう。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2008年9月28日 (日)

後取り

追記:タイトル、送り仮名を取りました

COMPLEX CAT : Self-defense for Women #2 ‘Choke Escape’

勉強になります。

こちらから、後ろ取り各種の対処法へのリンクが張られています。

護身術の文脈とは少し離れて、合気道的には。

○後ろ片手取り首絞め。

自分の手を掴んでいる相手の手を上から三教に捕って(ややこしい)極める。

取られている手は呼吸法で上げる。

手を本気で取られて少し後ろに引かれては、なかなか上がるものでは無いから、まず、掴まれた手はそのままに、自分の身体ごと下がる。要領は、「相手の下腹に腰をぶつけるように」。補足:手を後に引かれて持たれた場合。基本は横で持たれる形なので、身体を少し引いて指先を臍前に持ってくる当身をするくらいの気持ちで。そうすると、指先を臍の前に持ってくる事が出来、呼吸法を使って上げられる。これは、後ろ取りの呼吸法の基本。手が自分の真横~後ろにある状態で上げるのは、強く持たれたら難しい。

三教は、ドアノブを回すようにすると良い。もう一方の手で親指を包むように極める、という手もある。

技のバリエーションとしては、そこから引き倒す(表・裏)、腰投げ、呼吸投げ、連行(極めたままコントロールする。鎌首に固めたりする所もありますね)等がある。

こちらの動画を参考に。3:30・3:47・3:54辺りに、後片手胸取りの見本があります。最初は腰投げ。後の2つは呼吸投げ。後2つは基本の形ではありませんが、脱力して身体を預けているのが解りやすいかと思います。

参照:後両手取り技。二教~四教・小手返し・十字投げ。指先を臍前に持ってくる。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2008年9月27日 (土)

身体意識関連論文1

CiNii等で見つけた「身体意識」関連の論文を集めてみようと思います。英語では、body awarenessとかbody imageとか。

カテゴリーに、「身体意識」を新たに作りました。

CiNii - 女子短大生の身体意識教育の必要性 : 直立姿勢・運動時の「中心軸」の意識が齎す効果

高岡英夫氏の「センター」の概念などをヒントにして、センターを意識させた結果どういう効果が現れるか、というのを調べた研究。

突っ込み所は結構満載。バイオメカニクス的な解析で無く主観の報告で良いのか、とか、デタラメの「センター」を意識させた対照群を作って比較した方が良かったのではないか、とか、心理的な効果は心理測定尺度を用いなくていいのか、とか、報告の結果をそのまま中心軸の意識の効果として構わないのか、とか。

「美しい姿勢」の定義を、もっと厳密に検討した方がいいんじゃないかな、とも思いますね。バイオメカニクス等の観点から、色々考察出来るでしょうし。

皆さんも突っ込んでみて下さい。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2008年9月25日 (木)

セルフ・ディフェーンス

はてブ経由で⇒Woman self-defense instructions | Oddity Central

こんだけ出来れば立派な武術家です、本当にありがとうございました。

たまに、誰にでも出来る護身術講座的なもので、そこら辺の人間には出来ない高級な技を紹介している本とかあったりしますが、あれはなんなのでしょうね。

護身術っていうのは、ある程度簡単・短期間に習得出来なくてはならず、かつ、暴力を振るってくる者を合理的に制する技術で無くてはならないから、二律背反的なものなのですね。本質的に、難しい問題。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2008年9月24日 (水)

開かれろ

コメント欄でcomplex_catさんともやり取りした事。

今は、ネットが拡大し、多くの人がWEBを使うようになってきて、色々な情報が色々な人に、大きく広まるようになりました。

で、それは、沢山の批判にさらされる可能性も高まる、という事でもあるのですよね。

動画配信サイトなんかで、動きを公開する。その情報は長く残るし、多数の人の目に触れる。中にはゴミみたいな非難もあるけれど、見る目がある人から苛烈な(かつ妥当な)批判を食らう場合もある。その道で神格化されているような人にも容赦は無いですからね。

そういうのは、良い事でもあると思うのです。武術の世界には、「神話」がありますからね。そういったものを解体していくのは、むしろ健全であるとすら言えます。

異なった分野の人が交流して情報を交換し合ったりね。どうしても体験出来ない部分はあるにしても、情報の性質をきちんと捉えていれば、有意義なやり取りが可能。

もちろん、上にも書いたように、悪い面もありますけどね。2ちゃんねるの武術関連のスレを見れば、それは解りやすいです。

なんにせよ、どんな立場の人でも等しく批判される状況というのを作っていくのが良いと思います。

多分、私の意見は、武術関連の人にはあまり受け容れられないでしょうけど。擁護システムは固いしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月20日 (土)

独断と偏見による、アクションを描けている漫画家

ここで言う「アクション」とは、いわゆる「リアル」な、現実に再現出来そうなアクションの事。スティーブン・セガールのアクションはいいよね、的な見方。それと、本格的な武術等について目が向いているのを想起させるようなもの。

画の上手さは、基本的に考慮しません(個別に評価してますが)。

作家名のリンクは、Wikipediaに張ってあります。

-------------

鶴田洋久

なつきクライシス なつきにノックアウト1   [本] なつきクライシス なつきにノックアウト1 [本]
販売元:セブンアンドワイ ヤフー店
セブンアンドワイ ヤフー店で詳細を確認する

12巻辺りまでは、よくある格闘技系マンガという印象ですが、それ以降はがらりと作風が変わります。マニアックな人には受けたでしょうけれど(私にはかなりきた)、内面の葛藤等を描いた展開が苦手な人もいたかも知れません。アクションの具体的な描写としては、空手の宇城師範との交流の影響がモロに出ています。かなり「描けている」方ですね。柳澤の三戦の構えは、そこら辺の空手家より良い姿勢でしょう(宇城氏をモデルに描こうとしているはず)。

藤原芳秀

拳児 (3) (小学館文庫) Book 拳児 (3) (小学館文庫)

著者:松田 隆智,藤原 芳秀
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この作品が無ければ、今の私はありません。私が武術に興味を持つきっかけとなった作品。

画はどちらかというと、作者が動きの流れを構成している、というよりは、元々ある映像や写真を正確に描写していっている、という印象(程度問題でもありますが)。

大東流の佐川翁をモデルにしたキャラクター(佐上師範)の姿勢・動きは、実に描けていました。あの肩腕の脱力を描けているというのは、非常に面白い。意識したかどうかは解りませんが、正確に描こうという姿勢が見てとれます。

一般的な、身体のポジションの描写の正確さに、ちょっとバラツキがあるように思います。

井上雄彦

バガボンド―原作吉川英治「宮本武蔵」より (24) (モーニングKC (1553)) Book バガボンド―原作吉川英治「宮本武蔵」より (24) (モーニングKC (1553))

著者:吉川 英治,井上 雄彦
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

言わずと知れた傑作。

武蔵を描くというのは、そもそもめちゃくちゃにハードルが高い事な訳ですね。日本武術史上最高峰の人間なのですから。

井上氏の画については、骨格の配列等があまり正確に描かれていないという印象があります(武術的な具体的動き、という以前の話)。武術を描けているか否かという基準から考えると、これは是非改善してもらいたい所。正中線の通っていない武蔵など、考えられないのですしね。

動きに関しては、24巻辺りから、脱力を生かした剣技を描こうというのが明確に見られるようになった、と私は感じました。しかし、「描けていない」。※武術の高度な運動を正確に描写する、という基準で考えた場合です。それが前提。

肩周りの脱力を描けると、ぐんと説得力が増すと思うんだけどなあ。

山本貴嗣

Amazon.co.jp: セイバーキャッツ 1 (1): 山本 貴嗣: 本

日本の漫画家の中で、武術系の動きに関しては、かなり「説得力」のある画を描く方ではないでしょうか。

ただ、武術の流れるアクションを描けていると言うよりは、ある程度型をそのまま描写する、という画になっている印象。当然武術の技というのは、状況によって形を崩して運用していく訳ですね。しかし、それを構成して描写はしていないようにも思えました。後、武術の達人のやわらかーい動きが再現されると良いですよね。難しいですが。

上山道郎

ツマヌダ格闘街 1 (1) (ヤングキングコミックス) Book ツマヌダ格闘街 1 (1) (ヤングキングコミックス)

著者:上山 道郎
販売元:少年画報社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今連載中。なかなか頑張っている作品です。

内容としては、マニアをニヤリとさせるもの。各武術の体系をきっちり押さえた上で描く、というものでは無く、武術や格闘技が好きな人が色々な知識を集めてそれを作品に反映させている、という感じ。面白いですね(『空手小公子 小日向海流』などに近いでしょうか)。

画は、身体の柔らかさが充分に描かれていないように思います。武術の独特の動きの流れというのを把握し切れていない、と言うか。しかし、術理を体現した画を描こうとしている姿勢は見てとれますね。好感が持てます。

板垣恵介

範馬刃牙 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス) Book 範馬刃牙 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス)

著者:板垣 恵介
販売元:秋田書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

餓狼伝 22 (22) (イブニングKC) Book 餓狼伝 22 (22) (イブニングKC)

著者:夢枕 獏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この方は面白いですよねえ。

武術的な動きが正確に描けているか、というと、「全然描けていない」んですよね。でも、それとはまた違った迫力が画にある。過剰に身体を変形あるいは強調させる事で、躍動感が生まれているように思います。身体の正確な描写、というのとは少しベクトルの向きが違っています。それを好意的に取るかどうかは、結構分かれるような気もしますね。

トリビアになっていないトリビア。

塩田剛三翁の本の挿絵、板垣氏です。※何故トリビアになっていないか、というと、両方知っている人はそんな話も当然知っているし、片側しか知らない人には意味が無い情報だから。

川原正敏

海皇紀 37 (37) (講談社コミックス 月刊少年マガジン) Book 海皇紀 37 (37) (講談社コミックス 月刊少年マガジン)

著者:川原 正敏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

修羅の刻(とき)―陸奥円明流外伝 (15) (講談社コミックス―MONTHLY SHONEN MAGAZINE COMICS (KCGM1021)) Book 修羅の刻(とき)―陸奥円明流外伝 (15) (講談社コミックス―MONTHLY SHONEN MAGAZINE COMICS (KCGM1021))

著者:川原 正敏
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

※この項、『修羅の門』、『修羅の刻』についてのネタバレ書いてます。未読の人には意味不明な文ですが、読んでいる途中の方は注意。

個人的には、この方は最高に上手い、と思っています。

動きの流れの描写が素晴らしい。かなり自由に、イメージで人間の動きを展開出来るのではないか、と推察します。そして、それを正確に描写するセンス。格闘技的な知識も豊富でしょう。

身体各部のポジションにも説得力がある。画そのもののバランスも見事と思います(必ずしも、達人の動きを再現、という事では無いですが)。

以下、若干ネタバレ。

海堂対片山右京の戦いはまだかっ。

『修羅の刻』に、西郷四郎が出たのには、ニヤリとしました。最後の戦いでの座り技の描写と御式内の解釈に、ニヤリとした方も多いでしょう。あの戦いは実に面白かった。

------------

こんな感じ。独断と偏見。こんなマニアックなエントリーを上げて一体誰が読むんだ、というのは若干気にならないでも無いです。ウソですけど。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2008年9月19日 (金)

メモ:意識と意識と実体と運動と

このエントリーを理解(読解)出来る人間がいるのだろうか…。悪文御免。鉤括弧多用御免。

いくら頭で「思って」も、生体力学的合理的な「運動」が実現されなければ、意味が無い。

いくら理想的な心像が展開されようとも、それが実体としての運動に繋がらなければ、何の効果ももたらさない、という事だ。

スポーツでは、記録が極めて客観的なかたちで突きつけられる。凄まじくシビアな世界。より速く・より遠く・より高く  という明確で数量化しやすい指標によって序列をつけられる厳しいものなのである。対して武術では、無意識的な協力関係によって、「高度なパフォーマンスが成立している”かのように”見える」現象が起こり得る。

意識。たとえば、背中に羽が生えて飛んでいるかのようなイメージを脳内で展開する。しかし、人間の身体は、明確な構造を持った実体である。従って当然、羽が生える事などあり得ない。

意識。身体に分布する体性感覚受容器によって得られた情報を認知し、それに意味付けをする。気が漲っている、力が出ている、等。その意味付けを行い、意味付けされた体性感覚に対する認知のスキーマを維持したまま技なりを行い、「高度なパフォーマンスが成立しているかのような」現象が実現したとする。身体運動的な合理性に乏しくとも、人文・社会科学的メカニズム(高岡)によって、「成立しているかのように」誤謬する事があり得る。

その場合に、認知のスキーマと結び付け、それが「高度なパフォーマンス」の「原因」として認識される。即ち、主観においては、「高度な身体運動を成立せしめた身体意識」の因果関係として把握されるが、客観的には、「さほど高度で無い運動と、高度な運動に必要の無いスキーマが時間的に接近して成立」している、という意味である。

記録が数値によって客観的に解るスポーツであれば、あるスキーマが記録向上に役に立たないというのが、はっきりと認識出来る。いくら思い込もうが、走るのが遅かった、投げるのが短かった、跳ぶのが低かった、という厳然たる「事実」は覆しようが無いのであるから。

一部の武術家などは、いくらでも「逃げ込む」事が出来る。弟子や信奉者を飼い馴らして(意図的・無意図的に拘らず)、「自分を含めて丸ごと騙す」事が可能なのである。そうすれば、あるスキーマが実は合理的な身体運動を阻害するものであったとしても、それに気付かぬまま、という無残な事になる。そして、確信的に情報を流布し、慕ってくる人間に誤った認識を植え付け、間違った方向に誘導する。

質問上等。批判歓迎。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

偉大な人

スポーツナビ | 野球|コラムイチロー、8年連続200本安打を達成! 1世紀ぶりメジャー記録に並ぶ(1/2)

まさに偉大。

イチロー選手に関しては、「記録」というのが、数値として客観的に比較出来るからクローズアップされやすく、そこがよく評価され、また、あのクールでストイックな態度から、その精神性の高さが分析される場合もあります。

私としては、彼の偉大さが、レベルの高い「身体運動」に支えられている(スポーツなのだから当たり前なのですが)という部分に多くの人が目を向けると良いな、と思いますね。

インコースを打て―究極の打撃理論 Book インコースを打て―究極の打撃理論

著者:高岡 英夫,松井 浩
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

未読だけど、レビューなんかを見ると良さそう。松井氏との共著だし、穏当な内容だと推測。

武蔵とイチロー (小学館文庫) Book 武蔵とイチロー (小学館文庫)

著者:高岡 英夫
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは本当に良い本。読みましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月16日 (火)

メモ:正面打ち一教表

取りは、自ら正面を打っていく(これが「正面打ち」 ※一般的には、受けが正面打ちしてくる。養神館でも自分から打っていく型のようである)。

受けは、手を差し出し受ける。

取りは前に出ながら、受けが防御に出した手を掴む。

  • 手・足・体一致で前へ出る。
  • 手首は脈部を取る。
  • 肘は、若干肘関節より上腕側を取る。
  • 前側の脚を引き付け身体全体を前に出す。
  • 必ず、外側の足(右手で相手の手首を取る場合には右足)を前に出す。そうでないと返される。

ここまでは、前に出ながら剣を振りかぶる要領。

手を切り下ろし、腰を回転させながら押さえる。

  • 相手の上腕が、体幹に対してほぼ直角になるように。
  • 腰を外側に回転。
  • 腕を使わない。腰でやる。腕は切り下ろす。左右に振るようにしてはいけない。それは腰の役割。
  • 腰を回転させるという事は、脚や足を絶妙にコントロールするという意味でもある。
  • 踵は上げない。

腰を外側に回転させるので、爪先は外に開き、大腿を外旋させた方が良い。

相手の脇に脚をぶつけるようにし、崩す。

  • 重心をふらふらさせない。脚を吊り上げて身体の勢いを使う。体当たりのようなもの。
  • 外側の足を前に絶対出さない。相手の腕が前に出て、返されてしまう。

押さえる。

  • 腕はほぼ直角に。
  • 腕の力を抜く。腕はつっかい棒のような役割(正確には、相手の動きを感知して絶妙に動くつっかい棒のようなものだが、初めは、「腕を使わない」というのを意識する)。
  • 脇腹に膝を当てるようにすると良い。

正面打ちは、一般的な合気道では、受けが打ちかかってくる所を制する技ですが、岩間ではその場合、そのまま真っ直ぐ受けないんですね。剣で鍛えた人の正面打ちは、そうそう受けられるものでは無いのです。だから、打ってきた場合(正面打ち込み)は、開いて裏技に持っていく。横面打ちでは前に進んで受けますが、あれば「横面」打ちだから。攻撃線が真っ直ぐでは無いから、内側から手を差し入れて勢いを殺せるという訳です。正面打ち込みは、開いて受けるんですね。

岩間スタイルで「正面打ち」といった場合、「取りが自分から打ち込む」のが基本。そうして、相手の手を呼び出すのです。それを取っていく。入身投げも小手返しも、四方投げもそう。多分、一般的なイメージと違うんじゃないかな。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月13日 (土)

武術と脳

月刊 秘伝 2008年 09月号 [雑誌] Book 月刊 秘伝 2008年 09月号 [雑誌]

販売元:ビーエービージャパン
Amazon.co.jpで詳細を確認する

先月見逃していたのですが、今日本屋で、たまたま見付けました。売れ残ってたんですね。

で、立ち読みでざっと眺めただけなのですが、武術と脳の関係についての特集みたいでした。

パラパラめくってたら、出ましたよ、篠原氏が。うーん、色んな所に出てきますなあ。いや、広い分野を研究する、というのは良い事なんでしょうけどね。武術の運動が神経科学的にどういう効果を及ぼすか、というのは興味深い所だし、健康効果も謳われていますから、それを実証するのも重要でしょう。まあ、きちんと慎重にやって欲しいものですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月11日 (木)

手の表情2

前から、3DCGの現場では、指のモーションはどうやってつけているのだろう、と疑問に思っていたのですが、参考にしているブログで、それ関係のエントリーが上がっていました⇒モーション研究所: 【3DCG】最も効率の良い指のアニメーションを作るには?

手付けやモーションキャプチャがポピュラーなのかな、というのは予想通りでした。やはり、光学式のモーションキャプチャでは、精度が落ちるみたいですね。

で、リンク先では、グローブ式のモーションキャプチャも紹介されていました。なかなか面白いです⇒5DT Data Gloveとは(製品紹介の動画あり)

さすがに、結構な価格ですが。5センサーなら、そこそこ安価ですね。それでも18万円だけど…。

これなら、武術の細かい指の動きもCGで再現出来ますね。

ところで、はてブに書いた事とも関連しますが(前にここにも書いた)。

CGの手の部分を見ていて、む、と不自然に感じる事はありませんか?

たとえばこんな具合に↓

Te1_2

うーん、このモデルだと、違和感を覚えにくいような気もするけど…。

まあ、とにかく、このポーズをとってみて下さい。2番目の関節を反らしてはダメですよ。

先の関節だけこれほど大きく曲げる、というのは出来ないですよね。先の関節がこれだけの角度になるには、2番目・3番目の関節が、

Te2_2

このくらいは回転しなくてはならない訳ですね。つまり、一番先の関節は単独では曲げ伸ばししづらいという事です。まあ、そのメカニズムの解剖学的・生理学的論理を詳細に説明出来るほどの知識は持ち合わせていないのですが(主に筋の形状と付着部位が関係するのかな)、ともかく、こういう所を踏まえていないモーションを、たまに見掛ける事がありますね。手にも豊かな表情があり、人はそれも細かく認知するでしょうから、ここに気をつけると、リアルになるんじゃないかな、と感じます(専門家にとっては解り切った話ではあるのでしょうけれど)。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年9月 9日 (火)

横面打ちの受け方

横面打ちの基本。

ます相半身で対します。

受けは、後の足を出しつつ腕を振り上げ、踏み込みながら手刀で横面を攻撃します。

取りは、攻撃線をはずし、前に出つつ、受けを制します。

画像で説明(制している部分)。※クリックで拡大。

Yokomen1

受け(ハクさん)は、後に崩されています。

Yokomen2

逆側から。

Yokomen3

上面。正面に入ると勢いがぶつかるので、必ずはずす。これは基本です。重要なのは、合わせと角度。

Yokomen3m

黒線は、受けが進む線。取りは、左手を受けの攻撃の内側から差し入れ、逆の手で当身を入れます。正中面をはずして受けの斜め後に進むようにすると、大きく崩れます。当身は大事。

Yokomen4

受けて止める場合には、必ず外側に入ります。

Yokomen5

内側に入って止まってしまうと、崩しが不充分で、更に、正面を空けてしまうために、反撃(蹴りなど)を食らう可能性があるからです。従って、内側に入る場合には、気の流れで崩し、すかさず外側に回り込む必要があります。

この崩しの後に、各種の技へ移行。技を掛けるための導入として、この入りが重要な訳ですね。受け・崩し・攻撃(仮当て)が一体となった制し方。深く、良い角度で入れば、呼吸力を効かせ、このまま後に吹っ飛ばす事も出来ます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年9月 8日 (月)

沖縄空手の達人

沖縄空手に詳しい方がおられたら、教えて頂きたいのですが…。

多分小林流だと思うんですけど、「翁長美智子」さんという方は、有名な空手家なのでしょうか。

というのも、大分前に、沖縄空手のビデオのサンプルを見て、そこに出てくる女性の動きがあまりにも凄く、衝撃を受けた事がありまして、気になって色々調べたのですが解らず、そのまま放置していたのですが、何ヶ月か前にふと思い立って調べてみた所、どうやら翁長美智子という方だ、というのがやっと判明した、という経緯があったのです(ニコニコにも動画が上がってたので、恐らく間違い無いです)。

私が見たのは、巻き藁突きと、空手の型だったのですが、ちょっと呆気に取られるくらい凄かったのです。とんでもない柔らかさとシャープな動きで、ぱっと見ただけでは、どこがどう動いているか認識出来ませんでした。出来る人は、あらゆる部分が同時に動いているので、観察すると、そういう事がしばしば起こります。

私は空手の世界は疎いのですが、さぞ高名な方なのだろうな、と思った次第。私の求める方向性の動きにも近いので、興味を持ったのでした。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年9月 7日 (日)

気が早い

オタクはなぜモテないのかということに対する整体的考察

いかにも尤もらしい文章です。

理論的考察として興味深いと思う人もいるかも知れませんが、いかんせん、根拠不充分の前提が多い。人間のような複雑な認知機能を備えた存在に、いきなり単純な論理を当てはめようとしたり、「本能」などという語を用いたり。

理論的な考察というのは、実験や観察、あるいは調査によって、証拠を積み重ね、確かめられなければいけません。

部分的には、運動生理学等から妥当だろうと思われる記述はありますね。一般的には、活動のある程度の部分を運動に割くのは好ましい事でしょう。しかしながら、生理学的な論理をいきなり、心理社会的な現象に結び付けているのは、少々気が早いと言えるでしょう。

あと。

運動にも質があるんですね。それを考えないと。動き過ぎて身体を壊す、というのもある訳です。適切な運動とはどういう構造か、量的にはどのくらいが程良いのか、それをきちんと考究していくのが、本質的に重要でしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年9月 6日 (土)

摺り足

「すり足」ってありますね。武術や芸能でよく用いられます。

で、これが結構見られるのですが、すり足といって、本当に地面(畳でも何でも)に擦り付けるように足を運ぶ、というやり方があります。

私見ですが、すり足というのは本来、身体の重心を過度に上下動させない方法の一つとして、足の運動に意識を向かせるためにある、というものなのだと思います。つまり、足をやたらに大きく上げるとそれにつられて全身が浮き上がってしまうから、それを抑えるための足先のコントロールの方法として、すり足という概念が重視される、という。

ですが、私は、あまりそこに注目すると、却ってよくない効果が及ぶ場合もある、と考えています。

どういう事かというと、1)足先に意識が集中するあまり、その他の部分の運動への意識が疎かになってしまう、という点と、2)正確な足先のコントロールをなぞる事が出来れば、それは全身の連動も適切に行われているのを示す、と素朴に認識してしまう、という点です。

まず1についてですが、足先を動かすと一口に言っても、色々なやり方があります。足首や膝の関節を積極的に動かしてポジションを取る、という方法もあれば、股関節から大腿骨をコントロールして、足はそれに従うようにする、というやり方もある。で、より良いのは後者です。前に、脚の操作は、「釣竿を手元で操るように」というような説明をしましたが、まず股関節の操作が重要なのですね。大腿骨を回転させ、体幹を変形させる事で、移動運動を制御していく。イメージとしては、自分の足に長い棒を括り付けて、それを地面に立てて動く、というのが近いでしょうか。棒は自分で動かないから、中心の方できちんとコントロールしていかないと、倒れてしまう訳ですね。で、その棒と同じ機能を下肢に担わせるのが、重要なのです。足先に意識が集中すると、その、中心からのコントロールという運動が疎かになる可能性がある。もちろん、並行して教えるのが望ましいのですが、一部の武術家等を見ていると、上手な人の、「股関節を巧みに制御した”結果”足が大きく動かないで滑らかに動く」、という運動を外見からなぞろうと意識するあまり、表面は似ているが内容が全然異なっている、という動きをしています。わざと地面に足を擦り付けるような、身体運動としては不合理なものになってしまう訳ですね。

で、2と繋がってきます。要するに、足(膝から下)の動きさえ出来ていれば全身も上手に制御出来ているに違い無い、という「思い込み」。形(型)の内容を吟味する事無く表面をなぞろうとすると、そうなってしまいます。

確か、佐川翁がすり足について言及されていたのがあったと思うのですが、ソース失念。内容は、ちゃんと脚を持ち上げなくてはならない、というものだったと記憶しています。

重要なのは、すり足プラス、「抜き足」と「差し足」を教える事じゃないかな、と。差し足は本当は、音を立てないよう爪先で歩く、という意味みたいですが、足を地面に「置いていく」というのを表現するに良い言葉だと感じますね。抜き足はもちろん、股関節からコントロールして足を引っ張り上げるようなイメージ。

変な喩えですが――床に油を塗られていてツルツルしている。そしてその上を、裸足で歩く。着ているものは、総額8兆円の衣装で、それを汚したら弁償しなくてはならない、というシチュエーションをイメージして、その床を歩く練習をしてみて下さい。本来のすり足というのがどういうものか、何となくつかめると思います。実際、「氷の上を歩くように」とか、「足裏に薄紙一枚分隙間を空けるような」、等の教えもある訳ですね。これは、私が上で書いたような弊害をフォローするためのものなのでしょうね。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2008年9月 5日 (金)

ミクで武術:突き三教変化

再び、突きを制する技。

突いてくる所を、相手の外側にかわしつつ手を取り三教に極め、投げ。

○相半身で対する(画像はクリックで拡大)。

Tukisankyo1

○突きの動作に合わせて外に開きつつ進む。

Tukisankyo2

○突いた手を下から取る。

Tukisankyo3

○三教に極めつつ、顔面に当身を入れる。そうしないと入れない(空いた手で反撃がくる)。

Tukisankyo4

○そのまま後の足を進めてくぐり、すかさず転身する。内回転投げと同じ。前後斬りの要領。

Tukisankyo5

○そのまま極める。そうすると、受けが極めから逃げようとして、身体を開く。

Tukisankyo6

○極めを利用しつつ、前方に投げを打つ。

Tukisankyo7

○ビターン!。ミクさんは残心。

Tukisankyo8 

こんな感じ。

ポーズをつけるのに慣れてきました。センターを動かして、その後に股関節・足首IKを調整すると、やりやすいですね。まさに武術は重心を意識して制御するので、段々掴めてきた。実際、身体運動を脳内で展開する訓練にもなります。この動画も、自分でポーズを取る以外は、一切画像も映像も参照していません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 4日 (木)

フィジカル

はてなブックマーク - 見物人の論理: サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。

見物人の論理: サッカー界はなぜ鈴木桂治を見逃したのか。

なかなか面白い見方です。もちろん、実際鈴木選手がサッカーをやるかどうか、というのは、本質的な話では無いと思います。ようするに、フィジカル云々というのをどう捉えるか、という事。

ここでちょっと、スポーツ、あるいはサッカーに詳しい方に伺いたいのですが、サッカーでは、「フィジカル」というのはどのような概念として捉えられているのでしょうか。身長・体重の、いわゆる「体格」を指すのか、あるいは、そこに、体力測定で得られるような能力の指標を加えるのか。教えて欲しいです。

私は以前、Interdisciplinary: 違いは何かというエントリーを書きました。サッカー界において、こういった視点からの分析は、どのくらいあるのでしょう。それについてもご教示頂ければ幸いです。

私の認識を平たく言うと、基本的な筋力等の側面以外に、身体を制御するという面が重要である、というものです。後は、仮説になりますので、取り敢えずは書きません(上で紹介したエントリーには書いてますが。もし関心ある方がいらしたら、コメント欄にも書こうと思います)。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

ミクで武術:突き小手返し

作ってみました。投げ技を。

静止時間を除けば、1秒程度です。手付けモーションは、大変です…。

ちょっと縦横比がおかしくなりました。

ポイントは当身(仮当て)。これ超重要。顔面に当身を入れる事で、左手を使わせるのと、回り込ませない効果があります。

そして、身体をきちんと開く。一対多を常に意識するのですね。それと、少し腕を引く事で、崩しになる。腹部を晒さずに直ぐに開く、というのも重要。

そこそこ上手く出来たかな。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月 3日 (水)

ミクで武術:太刀取り小手返し

MMDがバージョンアップして、同時に3人を表示する事が出来るようになったので、ちょっと作ってみました(画像は、クリックで拡大)。

Tatikote1

受けは鏡音リンさんに取ってもらいました。リンさんも太刀を持っています(太刀取りって言うか、組太刀ね)。

Tatikote2

別アングル。太刀で正面から打ち込んできたり突いてきたりするのをかわして小手を取り、投げ。

Tatikote3

太刀ごと小手を取るのがポイントですな。

Tatikote4

さすがに、小手を取った所を綺麗に再現するのは、ちょっと難しい。密かに、ミクさんの刀は、リンさんを狙っていますねえ。

特別に合成などしなくても複数表示出来るようになった事で、投げ技なんかも比較的簡単に作れるようになりましたが、モーションつけるのは大変そう…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 1日 (月)

立ち方2

良い姿勢の見本⇒紙本著色宮本武蔵像

このままだと後に倒れるんじゃない?ってくらい、重心が後にありますよね。

首も前に少し出ていますが、体幹は真っ直ぐ。肩がものすごく落ちている。

全体的に柔らかいですね。

せっかくなので、ミクさんに再現してもらいました(小太刀は無いです。太刀の角度は調整してません)。

Musasi

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

立ち方

武術における良い立ち方の説明。

まず、一般に見られる立ち方(クリックで拡大)。

Stand1

(あ、上に変な線が…。切り取りミスった。)

よく見られる姿勢ですね。周りの人を観察してみて下さい。ほとんどこうだと思います(静止時)。

重心が前に出ているのですね。で、それを支えるために、腿の前が働いて、後は弛緩している(慣れれば、同様の姿勢でも前側の力はある程度抜ける)。

肩は後方に引いて、いわゆる「胸を張る」、という体勢になっています。腰も入り過ぎていて、強く緊張しています。

次に、武術的な姿勢(クリックで拡大)。

Stand2

上の一般的な姿勢の逆ですね。

重心は後側にあり、それを大腿後面の筋肉で支えている。腰は中立。入り過ぎず反らさず。手の上に箒を乗せているようなイメージかな、理想的には。

肩は、落ちつつ若干前に出ます。基本なので、このまま固めるのはダメ。たまにいます。そうでは無くて、三角筋等が弛緩しているから、ある程度前に落ちる訳ですね。場合によっては「猫背」に見えます。達人の身体を見ると、不思議な事に、横から見ると猫背っぽいのに前から見ると真っ直ぐ、という印象です。それは、猫背というのが、上体全体が丸まっているのに対し、達人の姿勢は、脊椎は真っ直ぐでありながら肩甲骨や鎖骨が前に出ているために、丸まっているように見えるから、だと考えられます。

ところで、日本武術には、姿勢に関する要訣はそれほど多くは無いと思うのですが(全く無い訳では無いですね。柳生流の剣術や、五輪書にも、記述はある。弓道の要領でも見た事があります)、中国武術には豊富ですよね。含胸抜背・虚領頂勁・沈墜肩肘・尾呂中正 等々。これは、全く素晴らしい発明であろうと思います。

ポイントは、何故この姿勢が良いか、という所ですね。それには、バイオメカニクス的な合理的説明が求められるでしょう。あるいは、武術の構造(いつでもどの方向にでも対処出来ねばならない)からの要請も関係してきます。解りやすい所では、大腿後面の筋肉を効かす、腰背部の過緊張を防ぐ、等があるでしょう。過緊張を防ぐというのは、要らない筋肉は弛緩しておく、という事です。それは即ち、働かせるべき時に働かせるよう準備しておく、という意味でもあります。無駄に収縮していた場合は、それを一旦弛緩させたりしなければならないし、また、その収縮自体が拮抗的な運動を行い合理的運動を阻害する場合もあります。

先人は、これらの色々な面を合理的・経験的に認識したのでしょう。よくマンガなんかで、「立ち方を見れば実力が解る」、と言いますが、あれは大袈裟な表現では無く、こういったメカニズムを一瞬で総合的に捉え、情報処理して、(直感的にしろ分析的にしろ)「立てている」と認知する訳です。

参考文献:高岡英夫氏の本とか

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2008年8月29日 (金)

合気道のイメージ

質問。

「合気道」について、どういうイメージを持っていますか。

何でもいいです。気の力で云々とか、相手の力を利用する、とか。やらせだろう、的なネガティブなものでも、何でも。はっきりとしたイメージ自体無い、というのでも。

参考にしたいので、よろしくお願いします。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2008年8月24日 (日)

必修化2

<武道必修化>中学校に道場新設へ 来年度予算要求60億円(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

関連エントリー⇒Interdisciplinary: 必修化

そんなに予算を割いてまでやる事なの?

武道というのは本質的に、暴力的な要素を含むものだから、高い精神性を持った指導者が丹念に指導していくのが重要でしょう。それをきちんと考察・研究せずに、まるで、「武道を経験する事そのものが、精神性を高める」、というのが自明であるかのように、安易に決定されているように思います。

まあ、必修化はもう決まったようなので、高度に記号化、あるいは様式的であって、競技の色合いが薄いのをやらせるのが良さそうに思います。型武道とかね。「簡単には使えない」ものをやらせる。日本剣道形とか柔道の型だけやる、とかどうでしょう。剣術の型ならば、たこやきさんも仰ったように体育館で出来ますし、木刀を使うので、慎重に道具を扱う、というのを学ばせる程度は出来るかも知れませんよ。高度に記号化されていれば、それを憶えるというプロセスも入りますし。

ところで、体育で柔道・剣道をやった方、それを体育の時間でだけやる事によって、何がしかの良い影響を実感しました? 後になって、やって良かった、と思った事はあります?

体力的に優位な子どもがそうで無い子どもを技の「実験台」にする事とか、ありますからね。ちゃんと考慮してるかな。週にたかが数時間やる程度で、武道の特徴を学ばせる、というのが可能なのでしょうか。

そもそも、この件に関して、武道・武術の専門家の意見をどのくらい取り入れたのでしょうね。凄く疑問。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2008年8月22日 (金)

並外れている

上野投手は、尋常じゃ無いと思う。

精神力も身体能力も、物凄いですね。圧巻。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年8月19日 (火)

Wikipediaに突っ込みを入れる

Wikipediaの「合気」の項について、科学的あるいは論理的に、突っ込みを入れてみます。そりゃ文脈無視なんじゃないか、とか、細か過ぎるのでは、と言われそうな所も、敢えて。Wikipediaって言うか、そこで引用・紹介されている説に、と言った方がいいかな。

合気 - Wikipedia(最新版: 2008年6月8日 (日) 02:27)※以下、文字修飾は はずして引用します。

筋力に頼らずに

この表現は、よく用いられるが、実は不明確である。人間が運動を行うには一般に筋収縮が必要であるし、もし、「無駄な筋力」などの含意があるとすると、それはトートロジカルなので、説明としては不足していると言える。

佐川幸義の弟子にあたる吉丸慶雪によれば、合気とは屈筋の緊張を伴わない伸筋の力を使って相手を倒す技術である。彼は合気を「相手に掴まれたとき、掴まれたままその接点を利用して、純粋張力(呼吸力)を用い相手を崩すこと」であると定義する。

屈筋の緊張を伴わない伸筋の力、という意味が不明。バイオメカニクス的にどういう状態を指すのか。文字通りにすると考えるならば、各関節は伸展しかしてはならない事になる。そのような論理は全くナンセンスである。

佐川幸義に師事した物理学者、保江邦夫によれば合気は「自分の神経システムに発生させた神経電気を微弱帯電として利用することで敵の神経システムの機能を停止させ筋肉組織に力が入らなくさせる」ことをからくりとする武道の究極奥義である。尚、その神経電気は精神的内面を無の境地にもってゆくことで前頭葉運動野における意識的精神活動を小脳における無意識的神経活動に限りなく同調させた結果として生じるという。

疑似科学的。既存の科学的概念を用いているが、ほぼ意味不明。仕手がいかにしてそのような電流を発生させるのか。それをどう伝達させるのか。スタンガンのような仕組みで無いとすると、発せられるのは、運動機能を狂わせるような情報を持った電気信号でなければならない。その微弱な電気信号が仮に発生出来るとして、何故それが特異的に効力を及ぼすのか。何故接触している手等から伝達出来るのか。

神経生理学的にどのようなメカニズムを想定しているのか。仮にそのような電気信号を道具を用いずに発する事が可能であるとして(この時点でかなり無理な前提)、それを相手に伝達させられるとする。それは、戦闘状況においても普遍的に使えるか、つまり汎用的であるか。(て言うか、ありえないくらいダメな説明ですよ。本当に物理学者なの?)

岡本正剛は合気の原理として円運動・呼吸・反射という三つを挙げている。円や螺旋の動きで相手の中心を崩し、自由を奪う。ただしこの円運動ははっきり外から見える運動とは限らず、上級者になると身体内部で処理される。円運動で相手の人体の反射をひきおこし虚の状態を作り出す。そこから相手の重心を崩す。この動きの中に呼吸の力を用いることによって合気は威力が引き出される。

円とは何か、螺旋とは何か。それが普遍的であるとはっきり言えるのか。身体内部で処理される「円運動」とはいかなるものか。反射とは何か。生理学的なものか、心理学的な条件反応か。呼吸の力とは何か。生理学的な呼吸といかなる関係を持つものなのか。

合気を武術の技として考えるならば、本気で抵抗する相手に技をかけられなければ意味はない。しかし素直に技にかかり、合気の感覚を掴もうとすることが上達のための一つの手段であるとする考えがある。逆にそのような稽古には意味がなく、できるだけかかりにくい状況での稽古がお互いにとって最高の稽古であるという考えもある。

両方用いれば良い。

こんな感じかな。

武術関連の項目としては、結構よく纏まっていますよね。色々な説を併記していて。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月18日 (月)

手の表情

ゲームやってて思うのは、中手骨の運動も再現出来るようなモデリングをゲームでもやれば、「手の表情」が表現出来て、よりリアルな演出が可能なんじゃないかなあ、という事。

手というのは、「ひしゃげる」ような動きが出来る訳ですが、ゲームなんかでは、一枚の板のようなモデリングになっているのが多いようです(モデリングは細かくされていてモーションが付いていないだけかも知れないけれど)。

で、最近の3DCGは、かなり精密になっているから、手の辺りだけ「浮いてしまう」んですよね。

まあ、素人的にはそういうのを思うのですが、これは、処理的に大変だったりしてそこまで手が回らないとか、コスト的な問題だとか、そういう事なのかな、と推察します。
でも、最近は顔のモーションキャプチャなんかもやってますし(顔のモーションといえば、額の皺をテクスチャじゃ無く再現しているのがあって、結構驚いた)、手の動きを再現するのも、難しく無いんじゃないかなあ、なんて感じたりも。

視線とかを含めた顔の表情も大事ですが、手も相当物を言いますからね。

と、こんな事をよく考えるのですが、専門分野(3DCGとかゲームとか)では、ここら辺はどういう風に捉えられているのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミクで武術:ポーズ色々

二人型を動画で作るのは困難なので、静止画。

○合気上げ風

Aikiage_2

手の形。朝顔の手風

Aikiagenote

○片手取り呼吸法

Katatekokyuuho1_2

その2

Katatekokyuuho2_3

○一教表(押さえ)

Ikkyo1

その2

Ikkyo2

ミクさん、なかなかいい姿勢ですねえ(笑)

------------

ちょっと余談。

3DCGの人間のモデルでたまに、手がピンと張っていて、指の一番先の関節だけ曲がっているポーズを取っているのを、見る事があります。でもこれって、実は結構不自然なんですよね。やってみると解りますが、一番先の関節だけ曲げるのは、とても難しい。先から二番目の関節を無理矢理反らしてやれば、なんとかそういう形になる、というくらい。ゆっくり拳を握っていくのを観察するとよく解るのですが、二番目の関節と連動するように曲がっていくんですよね。

そういう風なポーズを取らせているのを見かけると、うう、なんか気になるなあ、となるのです。細かい話ですが。

以上、余談でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月17日 (日)

困難

ある有名な中国武術家の演武を以前見つけまして、あまりの動きの素晴らしさに息を呑みました。

それで、ちょっとミクさんに、その動きを再現してもらおうかな、と思ってモーションを作り始めたのですが、超難しい。

  • 画質が悪過ぎて、足の位置や方向が見え辛い。これは、膝の位置などから補完していけば、なんとかなる事ではあります。
  • 固定カメラで無いので、重心の微細な移動等を捉えるのが難しい。これはしょうが無いですが、位置関係を把握するのに物凄く認識力が要りますね。特に、自分が知っている動きでは無いので、身体の感じ(身体意識)を手掛かりに出来ない。自分のやっている動きなら、座ったままでも、目を瞑って意識すれば、大体掴めるのですが。
  • 達人の動きを再現しようという欲張った目的があるので、ほんのちょっとのズレも許容出来ない。達人は全身が見事に連動するので、止まった部分があってはならないのですね。それは、達人の動きからすると「不自然」。その、「全身のあらゆる部分が同時に動く」というのが、手付けモーションでの再現を困難にしています。視覚的に変化を把握するのもやりにくい訳ですね。力技で、フレームごとに完全にコピーする、という手もありますが。解像度が低い映像なので、それもまた難しい。

とまあ、こんな感じで、30フレームくらい作ったら、あまりに見事なダメ動作が出来上がったのでした。ニコニコで八極拳の套路を作ってる人(最近、柔術系にもチャレンジされている模様)は凄いなあ、と感心しますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月16日 (土)

化け物

下の方に、オリンピック100mの結果書いてます。

ボルトやばいボルトやばいボルトやばい。

飛んでるかと思った。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

晒してしまって。動画投稿

動画投稿サイトで、剣術の指導場面がアップされていて、それを観ていたら、剣で絶対やっちゃいけない事をコツとして教えていて、あらら……となりました。剣の構造からして本当はそれは出来ないよ、という感じ。真剣に近い重さの物体でやれば解る事なんだけどなあ。

まあ、私の考えているのが妥当なのか、って突っ込みもあるかも知れませんけどね。

話は替わって。

動画投稿サイトの、武術系動画を埋め込んで紹介したいなあ、と思うのですが、著作権的にOKなのかどうなのか微妙なものばかりなので、ちょっと困るのですよね。流派のPRのために活用しているものなら大丈夫なのですが、市販のビデオを切り取ってそのままアップしているのもありますからね。中には、昔のテレビ番組からキャプチャしたと思しき超貴重なものもあって、宝の山なのですが。ブログに貼るとアウトですからね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月14日 (木)

超絶的な動き

今まで見た動きの中で、多分最も衝撃を受けた動画↓

激烈な動き。最初見た時は、唖然としました。

有名な人なんですかね?

っと、ちょっと調べました。David Elsewhereという人らしいですね。こちらに、いくつか動画がありました⇒David Elsewhereの新たな動画めっけ:ひろぶろ

世界は広いね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月10日 (日)

開会式。動き

直感な話ですが。

オリンピックの開会式観てたら、中国武術の演武をしている女性の方がいたので、注目してみました。

私は中国武術の世界には疎いので、その女性が斯界での有名人なのか、とか、何の武術か、というのは解らなかったので(テレビでは太極拳と紹介されていましたけど)、動きの質そのものを観察。

私の見立てによると、身体運動一般のレベルとしては、かなり凄いものなのではないかな、と感じました。身体の本質的な柔らかさとか、バランスの良さとか(前者に依存する)、見事なものだな、と。

で、武術の動きとして考えてみると、力を発するという所があまり見られないように思いました。とても滑らかで柔らかい動きではあるが、「極め」が見えない、と言いますか。

まあ、そういう印象だった、という事で、当たっているかどうかは解りません。一応、武術の動きとしての一般的な所を見たつもりではありますが、知らず知らずの内に、自分が知っている体系のフィルタを通して見てしまう、というのは往々にしてありますので。

それにしても、大人数で武術の演武で図形を描くマスゲームみたいなやつ、あれは凄いと思った。何が凄いかと言うと、そこそこ動ける人をあれだけ集め、あれだけ統制した動きを実現させた、という所。良い悪い好き嫌いは別にして、総合的にレベルの高いパフォーマンスであったとは言えるでしょう。

最後の花火を間近で見られた人が羨ましいなあ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年7月30日 (水)

メモ:観点

メモ程度です。

武術で、ある形(フォーム)が有効である、という教えがある。たとえば、合気柔術で言われる「朝顔の手」。

このようなものは、色々ある訳だが、それが、何故有効であるのか、というのを考えると、いくつかの観点に分けて考察する事が出来る。(もちろん、そもそも有効であるのか、というのも確かめる必要があるが、それは省く。)

即ち、

  • 力学的
  • 生理学的
  • 心理学的

このような観点である。そして、それぞれ、施術者と被術者への影響が考えられる。

 

 施術者

 被術者

 力学的

 a1

 a2 

 生理学的

 b1

 b2 

 心理学的

 c1

 c2 

表にすると、このように整理出来る。

あるフォーム(に限らないが)の効果を考える際には、この内のどの部分に関わっているか、というのを考えると解りやすい。

もちろんこれらは、完全に独立では無く、相互に作用している。必ずしも、全てについて考えるべきという訳でも無い。

その形が、構造的に強い形であるのか(a1)、相手に力を加えやすいのか(a2)、その形を取る事によって、なんらかの生理的効果を自身に及ぼすのか(b1)、相手に接触して刺激を与え、生理的な効果を及ぼすのか(b2)。あるいは、たとえば視覚的にその形を捉える事によって、自分/相手に何らかの心理的な効果を及ぼすのか(c1/c2)。

これは、そのフォームなりの有効性のメカニズムを分析的に考察するための、それなりに有効な整理であると思われる。たとえば、「朝顔の手」が実は、その形を「見る」事で何らかの心理的作用を及ぼし、それが「技の掛かりやすさ」に繋がっているかも知れない、と考える事が出来る。その場合に、目隠しをする等の状況を作り出し、心理効果の可能性を排除して、力学的・生理学的効果を見るという実験が可能になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月23日 (水)

究極の身体

7月初めに、高岡英夫氏の『究極の身体』に関連するサイトがオープンしました⇒高岡英夫「究極の身体」

既に絶版となっている本の内容を紹介するものや、松井浩さんとの対談もあります。いずれも興味深いものなので、ご覧になってはいかがでしょうか。

※いつもの注意。高岡氏の主張には、疑似科学的なものが何割か含まれます。その事を理解した上で読みましょう。『究極の身体』にはそういう所があまり無いので、私は積極的に薦めています。

余談。

今売っている『秘伝』の、宮本武蔵特集、とても面白かった。

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

月刊 秘伝 2008年 08月号 [雑誌] Book 月刊 秘伝 2008年 08月号 [雑誌]

販売元:ビーエービージャパン
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月19日 (土)

ミクで武術:走運動(基本運動)

自重するって言った割りには、一日空いただけ。

基本的な運動として、走運動のモーションを作ってみました。

今回、モーションを作るにあたり、こちらを参照しました↓

キーフレームを4つ作るだけで、後は補間され、こんなに綺麗なモーションになるんですね。とても参考になりました。

こちらが今回作った動画↓

上のニコニコの動画を基に、まず左右合わせて4フレーム作り、そこから調整しました。初めは歩行運動モーションから足を広げ、後から細かく調整。以下、キーフレームの画像です。

1

走運動には空中期があるので、両足を離し、(重心が全く上下しない事は無いので)重心を少し上げます。

2

そのままだと、補間によって、接地時に爪先が上がり過ぎていたので、上のように、足首を調整します。

3

接地~振り出し途中。接地脚は後方スイングさせ、若干上半身を傾かせ、骨盤は後傾。

35_2

前から見ると、膝が内側に入り過ぎていたので修正。

4

腿の振り上げが高くなり過ぎてしまうので、膝の位置を調整(基本は足首IKで調整)。骨盤は、振り出されている足の方に出し、上半身は、それとバランスを取るように、逆に回転させていきます。そして、前進しながら空中期へ移行。

これを片方の一サイクルとし、後は反転コピーで、逆側も作ります。所々、首や肩腕の位置を微調整。

そこそこ見られるモーションになったかな。あ、カメラは適当です。ただ方向を変えてみたかっただけ。

実は、IKを使うと、脚・足が思うように調整出来なくて、IKを切って正面斬りのモーションを作ろうと試みたのですが、あまりにも手間が掛かり過ぎる事を実感したのでした。動きの複雑さの違いもあるけれど、こちらはそこそこ簡単でした。

2008年7月19日追記:ちょっと改良してみました↓

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年7月17日 (木)

ミクで武術:剣の体捌きをベースにした突き・掌打・肘打ち

最近こればっかなので、そろそろ自重します。

今回は、剣の体捌きをベースにした攻撃技(やはりカクカクしています。エンコードが上手くいっていないみたいです)。

武術では、武器技と体術は一体である、という事がよく言われますね。それは、基本的な身体の動かし方が共通しているからです。

構えは左半身(どちらでもいいですが)。体幹や脚を使って、重心を前に移動させます。ここが重要ですが、右腰は、ある程度残します(佐川先生の写真で、その瞬間を捉えているものがありますね。二刀で突き様の動作をして相手を吹っ飛ばしている写真)。右肩も引いておきます。この場合、背中はそのままで、肩甲部や肋骨を一体にしてずらすようにするのがポイント。で、充分に重心が前に行ったら、右大腿を、骨盤の回転と同時に振り出します。その時、肩も出していきます。足は滑らせるように。しかし当然、床に触れてはいけません。

そして極め。左の肩甲骨・肋骨等を引き、右は入れます。身体を左右に割っていく訳ですね。これは、抜刀の動きと一緒です。突きは、何となく拳を捻ってみました。

後、ちょっとした小細工で、極めの部分に軽く重心移動を入れて、それっぽくしようとしてみました。微妙ですが(笑)

ポイントは、重心を左右にふらふらさせない事。後は、剣と全く同じです。

おまけ。

スローモーションバージョン↓

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年7月16日 (水)

ミクで武術:抜刀2

抜刀の動画を作ってみました。

ちょっとカクカクしています。エンコードの問題かな(サムネイル失敗した…。再生中に画面内をクリックすれば、大きな画面で観られます)。

単なる抜き付けだと短すぎるので、ちょっと違うものを。

転身しつつ抜刀し、後方の敵に突きを入れる、という動作です。おまけで、最後に正面斬り。

これは、その場で180度転身する体捌きの訓練として行っています。

まず構え。

1

基本的な姿勢。半身です。重心は真ん中に。

2

膝や股関節、体幹部の操作で方向を転換しつつ、右手で抜いていきます。両肩が左右に広がる感じ。足首を底側に曲げない、膝を伸ばさないのがポイント。昨日説明した要領。身体が割れていくイメージです(高岡英夫氏は、「割体」と表現。身体が「割れる」とか「ずれる」という表現が、よく用いられる)。

3_2

刀が鞘から離れた後の状態。左脚は大きく外旋しています。このまま左足の内側に乗っていき、重心が支持点(ここでは左足)より大きくはずれた所で、右脚を出します(大腿部の屈曲。膝と足首で地面を蹴るのでは無い)。倒れ込む勢いを利用する訳ですね。

4

極め。体術の突きと同じ要領(逆に言えば、体術の突きは、剣と同じ要領)。剣は寝かせて突いています。

5

正面への打ち込み途中。いわゆる廻剣動作です。脚や体幹は、柔らかくしながらも動かないようにします。そして、肩甲部を柔らかく使って振り上げ。剣は落ちるに任せます。

6

斬り下ろし途中。手首は使いません。使う場合は、最後の最後に。流派によっては、手首を使う事を強く戒める所もあるようです。初心者は、「斬る」意識が強すぎて、ついつい手首を返そうとしがち。

7 9

極め。振り下ろす際は、肩甲骨・鎖骨・肋骨が柔らかい一体の物体のようになって、それが一気に落ちていくようなイメージで。前方を斬るというより、柄頭で下方を思い切り叩く、という気持ちでやった方が良いかも知れません。もちろん、イメージはほどほどに使いましょう。解剖学的な構造が解っていれば、それを使うに越した事は無いです。

この技、上にも書いたように、その場での転身の訓練のために考えたものです。剣でも杖でもこういう体捌きはある訳ですが、剣を抜くという条件を与える事によって、難しくする。綺麗な転身が出来なければ剣が上手く抜けない、という動きな訳ですね。ポイントは、重心をあちらこちらに動かさない事。動画では若干妥協しましたが、重心は、ほぼ直線上を移動するようにします。最初の画像の姿勢も、身体を割っていく動作で、重心はほぼそのまま。間違っても、正面に動いてはいけません。

その後は、後方を向きつつ重心を移動させ、支持している所(足)と大きくずれた時(倒れそうになる)に、右脚を踏み出します。

この技は、足をなるべく使わない運動を訓練する訳ですね。多くの人は、足首を底側に曲げたり、膝を屈伸させたりしがち。

武術では、いかに早く間に合わせるか、というのが重要なのです。そのためには、脚や体幹の操作で、支持点と重心の位置とをずらし、動きを作っていかねばなりません。足でもたもたしていたら間に合わない。その際の要領の一つが、「床を蹴らない」という事。黒田鉄山氏がよく言われますね。あるいは、床と足との間に云々(薄紙一枚の間を空ける、とか)、という教えは、色々な流派で存在すると思います。ですが、足に注意が行き過ぎて、上に書いたように、足首を先行して操作してしまう事が、ままあります。昨日も書いたように、手許で釣竿をコントロールするようなイメージが良いでしょう。竿の先を直接はコントロール出来ませんよね。でも、足先は自分でコントロール出来る。実は、これが厄介なのです。この場合、手許は腸腰筋、釣竿は、大腿骨から先の骨に相当します。高岡氏は、このような構造を、「双鞭構造」と概念化しています(『究極の身体』)。

剣を抜く場合、左半身が疎かになりがちです。なので、後方に転身するという状況を作って、きちんと動かさなければどうしようも無い、という風にしている訳ですね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年7月15日 (火)

ミクで武術:抜刀

MMDで、初音ミクさんが抜刀をしている動画を作ろうとしています。

が、

難しい。

シンプルな運動だけに、ごまかしが効かない。再生してみると、違和感が物凄い。これは難儀です。

静止画なら普通に見られますが、動きを繋げるのが厄介。

ちょっと画像を載せてみましょう。めり込んだりしている部分がありますが、あんまり気にしないで下さい。

Battou1

構え。少し左脚がおかしい。刀の角度はもう少し水平に近くて良いですね。重心の位置も甘い。

Battou2

踏み込み途中。右肩を入れながら前側の足を踏み込みます。重心の上下動を押さえる。つまり、体幹の操作を行い、また、腸腰筋の収縮によって股関節を屈曲させる。そうすると足が浮き(釣竿を手許でコントロールするようなイメージ。膝を伸ばそうとは絶対しない)、前に身体が倒れ込む。

Battou4_2

抜刀。右肩を入れ、左肩を後にずらす。正中線を保ったまま行う。つまり、肩鎖関節を柔軟に使い、他の骨や筋肉がつられて動かないようにする。左右に力が広がっていく感じで。あるいは、両肘で当身を行うような感じです。

Battou3

横から。これは、ゆっくりやった時のものなので、抜刀して、前足が着地した後に(完全に後では無い)後足と腰を開いています。速くやる時は、前足と後ろ足の動きはほぼ同時。身体が浮く感じ。動き方によっては、実際に浮く(両足とも接地しない)場合もあるかも知れません。当然、足が浮くのと重心が上がらないのが同時に成立しなければなりません。まっすぐ歩いていたら、いきなり、両側を壁に阻まれた、身体の前後の幅の分しか隙間(はきっちり自分の真正面にある)の無い空間が現れた、というようなイメージを持つと、解りやすいでしょう。壁にぶつからないようにするにはどうすれば良いか。

こんな感じです。なんか、抜刀の講座みたいになりましたが。

ちなみに、私は抜刀は100%独学(人に直接習っていないという意味)なので、そこはご了承下さい。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年7月14日 (月)

初音ミクさんが武術を始めたようです

初音ミクさんが剣の素振りをしています。

MikuMikuDance(VPVP)というツールで作成しました。

実は、以前から、3DCGで武術の(自分の)動きを再現したいと思っていまして。その内Poserでも手に入れてやってみようかなあ、と考えていたのですが、なんと、フリーでお手軽に出来るソフトがある、というのを、昨日知ったのです(ニコニコアカウント持っているのに昨日知ったというのがアレですが)。

精密なモデリングを求めなければ、充分に使えるし、何より操作性が素晴らしい。blenderの奇跡の操作性で泣きそうになった経験がある者としては、これは実に魅力的でした(blenderとかMetasequoiaとか、その内やろうと思ってます)。こういうツールが無料で提供されるというのは、感動もの。

で、これが、初作品です。かなり動きが微妙になっております。

手作業でモーションをつけるというのは、しんどいですねえ。私はまともな撮影機材を持っていないので、ケータイで写真撮ったり、自分で動いてみてそのイメージを脳に刻んだりして、ちまちま作りました。

武術に興味がある人間が作ったという事で、ポイントとしては、これ↓

Keng

ベタ掴みはいかんので(よく見るんですよね。ゲームとかマンガで) それっぽい手の形に。軽く甲側に反らせているのがミソ。

その内、体捌きとか他の武器とかもやってみるかも知れません。

しかし、面白い。ハマってしまう。

※刀のアクセサリはこちらから⇒MikuMikuDance の小物置き場 ミクの髪型のポーズデータはこちらか⇒VPVP wiki - ポーズデータ  それぞれお借りしました。作成された方に、お礼申し上げます。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年7月12日 (土)

上達の過程と体幹主導系

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: マッサージ屋さんの熟達化

興味深い記事。

上達論・学習論的に見ても、身体運動論的に見ても、とても面白いです。

 マッサージとは「手で押して」はならないそうです。「体」を使って、垂直方向に押さなくてはならない。そうしないと、患部の深いところまで到達しないのだそうです。

これは、手指や肘・肩関節が先行して運動するのを戒める段階と見る事が出来ます。武術にも、手を使うな、という教えがあります。腕の関節を使ってしまうと、力の方向も安定しないし、重みを使う事も出来ない訳ですね。相手の身体を土台にして自分の身体を動かしてしまう、なんて事もあるのでしょう。大切なのは、体幹主導で使う事。肩から先は、棒のようにする訳ですね。肘や手首は固定して、力は体幹等の変形で生み出す。

ただ、注意すべきは、「固定」という意識を強く持たない事。固定という意識はともすれば、身体運動、この場合には、手首や肘の関節を、周りの筋肉を収縮させる事によって固定する、という方向に誘導してしまいます。これは良くありません。ですから、肘や手首がぎりぎり折れ曲がらない最低限の筋収縮によって固定する訳ですね。空手の柳川昌弘氏は、このような身体の使い方を、「受動筋力を使う」、と表現されています(これはなかなかに上手い表現だと思います)。言及先の、マッサージの上達過程の内2年目から3年目が、この段階へ進むプロセスなのでしょう。

上にも書いたように、重要なのは、体幹部の運動を先行させ、四肢はそれに従うように運動させる事。これを高岡英夫氏は、「体幹主導系(被制御体幹系)」と概念化しています(高岡英夫 『究極の身体』参照)。

剣術では、いかに剣が美しい軌道を描くか、というのを目指して振ります。そうすると、肘や手首をごちゃごちゃ動かしてはいけない訳ですね。最初の段階では、肩から先は棒のようにして、使わないようにする。それで、体幹や肩甲部の運動を促すのです。それが出来るようになれば、今度は肘や手首の関節を、より合理的に剣が運動するように微細な操作をすべく働かせるのですね。

また、剣の突き等の鍛錬とも繋がります。上のマッサージの例でもあったように、単に手や腕で押し込もうとすれば、自分が後に動いたりするんですよね。突きは、色々な物体が集合したものを刃物で刺し貫く技です。紙を破るのとは訳が違います。エンジンが止まっている車を押すような事をイメージしてみて下さい。肘や肩でえいっ、とやった所で、びくともしませんよね。全身を用いて、腕は力を伝達させるようにするはずです。突きも、それと似ているんですね。(で、その理合のまま、剣を無手にすれば……解りますよね。)

いきなり話は飛びますが、現代人は、このような身体運動が乏しくなっていると、私は推測しています。ロジックとしては、道具を用いるのが少なくなった事や、移動手段に徒歩があまり選択されない、というのがあると考えています。生活様式が身体運動構造を規定する訳ですね。尤も、この観点で実証研究がなされているという話は聞いた事が無いので、あくまで推測的ロジックですが(高岡氏の論に倣っています)。もしこの観点から、色々な文化ごとの傾向が判明すれば、有意義かも知れませんよ。日本のスポーツ界とかにとってもね。

後、身体運動と心理状態との関係、という観点もありますが、推測の積み重ねは、あまりやり過ぎるとちょっと危ないんで、この辺で(齋藤孝氏になっちゃう)。

※一応、ロジックだけ出しときましょう。

体幹系の運動の不足(四肢主導系)→体幹部の筋肉等の組織の硬直(わざとこういう表現にしてます。医学的には色々な専門概念があると思います。高岡氏的には、「拘束」が身体に現れた状態、といった所でしょう)→体幹部の硬直時の生理状態が心理学的影響を与える

と、こんな感じ。まあ、肩凝りが心理的に影響を与えるというのは誰しも実感する所でしょうから、その延長、あるいは一般化、とでも考えて下さい。

参考文献

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年7月 9日 (水)

昔書いた事4

Interdisciplinary: 昔書いた事3の続き。

この頃から、武術関連の覚書を書く頻度が減ってきました。学問の勉強にシフトしたからですね。

○2001年9月~

・剣の受け

浅い打ち込みを、わざわざ前に出て受ける人がいる。形にとらわれている。剣を打ちつける事が目的ではない。

・殊更にメタファーなどを使うと、逆に混乱してしまう。

・合わせ

腕の脱力によって、体幹部主導の運動を行う。

・体捌き

膝関節の伸展・足首関節の底屈を抑制。腸腰筋による股関節の屈曲。ハムストリングスによる膝関節屈曲。大腿骨の回旋。倒れこみ。

・「背中で息をする」ことの重要性。(注:武術的な「呼吸」は、生理学のそれより広い概念です。気の流れとも重なります。)

・腹式・胸式を意識する人は多くても、背中側の呼吸(均等呼吸)を意識する人は余りいないのではないか。肚ばかり意識すると、上体が固まる危険性が有る。

○2002年1月~

・「現状維持」ではなく、「開発・向上」という意識をもたなければならない。

・主に日本の、特に武道・武術界における、「年をとらなければ上達しない」(←潜在的に、この様に思い込まされる、ということ)という教えと、潜在的擁護システムとの関係。

・フォームの先行

身体運動の合理性を無視して、視覚的な情報を手掛かりにして、形を無理やり作ってしまう。

・誰だって、自分が「出来ていない」とは思いたくないものだ。その我を捨てることができれば、一気に上達への道がひらける。

・人間がどの様に「運動し得るか」、という一般的論理を認識する(注:つまり、バイオメカニクス的観点)。

各種目で、どの様に「運動すれば良いか」(それは、ルール等の、体系の記号的構造に規定される)、という体系内の論理を認識する。

・自分の身体が固まっていることを、正しく受けとめられているということは、良いことだと思う。誰であっても、自分が劣っているなどとは思いたくなく、人よりも物事を分かっている、と思いたいものだ。それが、正しい認識を妨げてしまうのだ。

・分かる人だけが分かれば良いのだ、という考え方そのものは、有ってよいのだと思う。だが、自分はそう考えない。出来るだけ論理的・科学的に説明しなければならないと思っている。

・何事も、原因を一つのものに帰属させようとしてはならない。皆、そうするのが楽だから、何かに原因を押し付けて、深く考えるのを止めれば簡単だから、そうしているのである。だが、現象とはその様に単純ではないのである。

・「武道は科学で解けてはならないのだ」という信念は、なかなか根深い。

以上、2001年・2002年の覚書より抜粋。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 8日 (火)

気感を科学的に考える

※話があちこちに飛びます。ご容赦を。また、武術や気論に馴染みの無い人は、読む事が困難です。て言うか、こいつは一体何を言っているんだ? となる可能性大、です。どきどき。

COMPLEX CAT : 気の体感方法と諸問題1

これは面白い。

『秘伝』とか、こういう論考を載せればいいのに。

こういった議論は、科学的には最も検証し辛く、あっち方面にいきやすい分野なので、慎重に慎重に語らないといけないですね。正直、ちょっとどきどきです。

私自身は、気感というのは基本的に、体性感覚と記憶のコラボレーション、だと思っています。様々な体性感覚が知覚され、それが記憶と照合され、「蒟蒻のような」感覚、と認知される、といった感じでしょうか。もちろん、初めに用いるイメージも、その助けをするでしょう。その意味で、完全に解明出来るかはともかく、純粋に知覚心理学的・認知心理学的現象、だと考えるのが、科学的にも妥当と考えます。

私の先生も(先生の師も)、殊更に「気」を強調する事はありませんでした。もちろん、日本武術なので、気という言葉自体は使います。ですが、いわゆる神秘的な現象を想起させるような用い方は、強く戒めていました。いかに合理的に相手を制するか、というのを目的とする武術だったのです。ですから、たとえば遠当てのような技法には、強く懐疑的でした。偶然タイミングが合って触れていないのに相手が倒れる、という現象は成立し得るかも知れないが、それは武術としての技ではあり得ない、というお考えでしたね。

意念を用いて手の間に何ものかを感じる、というのは、随分前にやろうとしましたね。まあ、ちょこっとは出来ました。でも、武術的にはほとんど意味が無いと考え、止めました。今は、気感、特に、何か具体物を感じるような場合は、上にも書いたように、生理的・バイオメカニクス的な変化に基づく知覚に「意味付け」したものだと考えているので、その自然科学的変化そのものを理解し、それと知覚と結び付けるべきだ、と考えています。つまり、この「感じ」はどこそこの筋肉が収縮していて……という風にダイレクトに理解したい、という事ですね。そうすれば、それが身体運動として合理的か否かも認識出来るので、良いですね。※高岡英夫氏の提唱する身体意識論の内、「クオリティ」と関わってくるでしょう。

とまあ、ここまでは、特に問題無く、心理学的メカニズムで説明し得るだろう、と考える事が出来ます。が、問題はここから。

そう、他人に手をかざされて気を感じた、という現象です。これをいかに見るか。難しいですね。科学的に考えてみると、

  1. 相手の手が何らかの物理的作用を及ぼした。
  2. 武術の稽古中である事、気の話題をしている事、等の認識をあらかじめ持っていたため、それが何らかの体性感覚的知覚を作り上げた。
  3. 全くの気のせい。

こういった可能性が考えられるでしょう。当然、実証科学的には、3が真っ先に疑われなければなりません。たとえば、目隠しをして気を当てて貰い、きちんと術者を判別出来るか、という実験が考えられるでしょう。そこら辺の実験が徹底的になされれば、「気を発せられた(と主張される)場合に、受けた側が確かに何かを”感じている”」、というのが認められるでしょう。もちろん、脳イメージング研究の精度が高まれば、何かを感じているのをビジュアルで客観的に捉えられる可能性もあります。いずれにしても、とても難しいですね。当然、考え得る限り慎重に進められねばなりません。

で、気を受けた側が確かに何かを感じているとして(それを仮定しないと先に進まないんで)、今度は、そのメカニズムを探求する必要が生じます。

※あくまで仮定です。科学的には、まず3の可能性を排除「するべき」です。それをすっとばして1や2のメカニズムを論ずるのは、基本的にナンセンスだと思います。以下は、思考実験に近いものです。それも無意味では無いでしょう。本質的に、このエントリーにはそういう性質を持たせてあるとご理解下さい。

1は、人間の手(で無くても良いが)から発せられる何らかの物理的実体が、受ける側に影響を及ぼし、「感じ」を与える、という事です。私自身は、これには非常に懐疑的です。人間の体性感覚受容器への適刺激を、他の人間が触れずに(かつ道具を使わずに)与えるというのは、とても考えにくい。まあ、生理・心理学的には、人間から発せられるものを測定し、今度はそれを実験的に作り出して与えてみて反応するか、というのを調べてみれば良い訳ですけれど。精神物理学的、あるいは知覚心理学的には、閾値以上の刺激を離れて与えるというのは、疑わしいと考えますが、どうでしょう。

次は、2ですね。手を触れずに気を当てられているという「感じ」を覚えるという現象が成立し得るとするならば、科学的には、2による社会心理学的・認知心理学的メカニズムが働いていると考えるのが、妥当かと思います。つまり、状況が「そうさせている」、という事です。その意味では、錯覚に近い。この説を実証するのは、物凄く難しいですね。どうすれば良いか考え付かないくらい。ともかく、1で無ければ2です。それ以外には考えようが無い訳ですね。

後は、他の生物や物体にどういう影響を与えるか、という所が考えられるでしょうね。私は、ここら辺にはほぼ全て否定的です。もちろん、厳密にあり得ないとは言えないですが。実験デザインは比較的簡単だと思うので(効果があるか否か、という実験ならば)、興味がある人がやれば良いと思います。極めて厳密、かつ慎重に行われなければならないのは、言うまでもありません。

私の持論は、「”気”とは、ある個人内、あるいは人間―人間のシステムで成立する生理・心理学的な総合的現象である」、です。それ以外の可能性は、基本的に排除します。

こんな所でしょうか。纏まりに欠けますけれど。

complex_catさんの文章、結構ぎりぎりの所ですね(笑) (はてブにも書きましたけど)綱渡り的な。ともあれ、気功にも科学にもお詳しい方の意見というのは、とても貴重だと思います。面白くて一気に読みましたしね。

そうそう、このエントリーを書いていて、思い出したエピソードがあります(記憶を元に書くので、詳細は違っています)。

以前、テレビにMr.マリック氏が出演していました。

マリック氏は、他の出演者の腕に手をかざし、触れないぎりぎりの所でさするように動かし、何か感じないかと訊きます。その人は、少し驚いたような顔をして、感じます、と言います。

そこでマリック氏が一言。

「”毛”です。」

これは面白かった。当時は意識していませんでしたが、一つ懐疑的な考えが鍛えられたかも知れません。

------------

またまた話は変わって。

畳半畳内で連続して受け身の取れる古武術の達人の聴勁を見せて貰ったことがありましたが,かならずしも気で説明する必要はないという方でした。その方は何度どんなタイミングで拳を出しても全部,簡単に外していました。

私は、「畳半畳内で連続して受け身の取れる古武術」というのを、一流派しか知りません…。

| | コメント (15) | トラックバック (1)

2008年7月 6日 (日)

昔書いた事3

Interdisciplinary: 昔書いた事2の続き。

○1999年1月~

・手の内について

悪い手の内―横から太刀を持つ。親指の所から崩され、太刀を奪われる。

・下肢を動かす時、股関節の働きが主となる。

・重心移動

余計な重心移動は決して行わない。たとえば、前方へ斬り込む時、一度後脚に体重をかけて行うのは良くない。(中略)後脚の膝関節伸展による丹田の浮き上がりも見られる。これも出さない様気をつける。極くゆっくり行う場合は、体重を後脚にかけないと出来ないが、そうでない時はよく意識する。

・武術の技法体系において、各要素は、他の要素と連関している。安易に他武道の動作を取り入れる事は絶対避けねばならない。佐川先生も、様々な格闘技・武術の技を単に寄せ集めたのではなく、「合気」という理合に基づいて融合させた技法体系を造り上げたのだろう。

・小胸筋の働きが大切である。

・アレクサンダー・テクニークは、非常に参考になる。体の地図ということ。

・体から肩甲骨を引き剥がすように。

・相手の体の事を考えずに、自分勝手に力を発しただけでは、技はかからない。力を加えるべき角度を考える。

・投げる形ばかり見てはならない。投げられる時の形をよく見る。

・武道の科学的・論理的・体系的な解明を目指す。広範囲の学際的な研究。(注:ここら辺は、高岡氏の受け売りぽいですね。初めのの文は引用かな)

・肩は絶対に力まない。絶対というのは、幾ら言っても言い過ぎではない。

・気の流れ技―他者運動量の利用。

・股関節屈筋群を知覚する。腹と脚とのつながり。

・骨は、筋肉の力によって、互いに引き合う。

・統計学的手法はどうも信用出来ない。使い方によっては非常に重宝すると思うが、何十年データを蓄積しても、無駄なものは無駄。

(注:恥の記録も載せておきます。今では考えられない記述。ちなみに、この時点で私は、統計学の入門書を1冊も読んでいないです。こういう経緯もあったりしたから、知らないのに非難する人に、「具体的に解ってて言っているのか」、と問うたりするんですね。)

・高岡の「瓦重構造」の概念は、非常に重要である。

・やはり自分には、科学的な考え方が向いている。少なくとも武術の実技面に於いて、あまり観念的・抽象的な説明ばかりするのは宜しく無い。何故ならば、武術は「力学的実体を因子とする文化現象」(高岡)であり、「文学や形而上哲学の如き観念的・思弁的或いは唯言語的な文化現象とは異なり、本来的に実証的性格を有する」(高岡)からである(注:鉤括弧内は、高岡英夫 『武道の科学化と格闘技の本質』より引用)。

・競争は大いに結構。然し、そこには絶えざる向上心が無ければならない。互いに切磋琢磨し、高め合う所に意義がある。互いに足を引っ張り合って、少しでも自らが有利に立とうとする様な貧しい心では全く意味が無いのである。

・素晴らしい能力を持った他人を認める事が出来ず、妬み・恨みの心を持ってしまう。悲しい話だ。

・今日、岡本正剛先生の、「大東流合気柔術」を読んだ。参った。あの体は尋常ではない。あの腕の位置はどういう事だ。素人には分からないだろうが、あの脱力は出来るものではない。目安としては、「腕が長く見える」という事。

・己を過信してはならない。他人を見下してはならない。

・物事の本質が直観的に解っているのと、それを更に科学的・論理的に研究して認識するのとでは、非常に大きな違いがある。前者のレベルが低いというのではない。

・外受け

胸の開き、沈身、肩の降ろしを使う。腰へ収束させる(体の裏)。前腕の回内。

・内受け

胸の閉じ、沈身、肩の降ろし。肚(ハラ)へ収束させる(体の表)。前腕の回外。

・今日、テレビで少林寺最高武僧の方の動きを見た。流石に少林寺最高武僧というだけあって、体はゆるゆる、正中線も腰腹もしっかりしていて、肩の力も見事に抜けていた(注:少林寺の釈徳健という方。今まで見た武術家の動きの中でも最高峰だったと、現在も考えています。大きな声では言えないけれど、You Tubeにあったり。アウト動画か微妙なところなので、貼りません)。

・科学的に考える。観念的ではなく論理的に。直感も大切に。構造を把握する能力。

○2000年1月~

・自分がやっている事を解りたい。人に何を訊かれても、矛盾無く答えられる様になりたい。それが科学的認識。本質の構造の解明。身体運動は力学的現象であるから、実証主義的認識を併せ持っていなければならない。「こうかも知れない」ではなく、「こうである」と言える様にならなければいけない。

・何処にどの様な筋肉があり(位置・形・大きさ)、それはどの様な運動を引き起こすか。ある程度大雑把な理解でも、運動に対する認識はがらりと変わるだろう。身体の分析的な把握。人間の身体は、非常に複雑精緻な構造をしている。従って、身体を単なる一塊の物体と考えるのではなく、又、身体各部を全く別な物として考えてもいけない。だからこそ、運動構造という認識が必要となる。

以上、1999年・2000年の覚書より抜粋。

毒舌過ぎたり意味不明な文章だったりで、なかなか選ぶのに苦労した…。段々と、科学的な思考になってきているようです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月 3日 (木)

挑戦

スポーツナビ | 北京五輪への道 | コラム|36歳の朝原宣治「正真正銘の最後になる」

朝原選手には頭が下がりますね。

「チャレンジ精神」と言ってしまうと、衰えかけた人の努力を称えるという、少しネガティブなイメージも持ってしまいますが、朝原選手の場合、オリンピックという世界最高の舞台に挑戦出来るパフォーマンスを長年維持出来るというその事実そのものが、とても素晴らしい事だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 2日 (水)

内功を科学的に見てみる

黒猫亭さんのコメントへのレスです。

多分これは、日本武術とも関わる問題でもありますね。とっても興味深く、本質的な議題です。

中国武術の体系を深く勉強した訳では無い立場の者が語るのはおこがましいですが、少し私見を。

科学的な視点を交えて考えてみると(ちょっとややこしいかも知れません)。
内功は、一般に、自身の身体の気の流れにアプローチし、コントロールする体系と言う事が出来ると思いますが、これを、心理学、あるいはバイオメカニクス(生体力学)的観点から見てみると、身体に意識を向ける事によって、体性感覚等の体の「感じ」を知覚し、それを手掛かりにして身体運動システムを制御していく方法を体系化したものである、と考える事が出来ると思います。

人間は、視覚・聴覚情報優位の動物の訳ですね。だからどうしても、体性感覚的な情報は、無意識的な処理に任せてしまう傾向がある。たとえば、どの筋肉がどのくらい収縮していますか、と訊かれたとして、それに答えられる人はほとんどいない、と思います。
武術では、そのような体性感覚的な内的な情報を意識させるために、気等の概念が用いられます。「気の流れ」という言い方もその一つです。気の流れというのは、自己と他者の認識的・心理学的な関係を指す場合と(「相手の気の流れを読む」という表現や、合気道の「気の流れ」技での用法)、上に書いたような、体性感覚的情報の時間的・空間的変化を表す場合とがある、と考える事が出来ます。内功は後者のアプローチを強調したもの、と捉えられるのではないでしょうか。

バイオメカニクス的には、自身の気の流れをコントロールするという認識によって、体幹部の運動を向上させる、という面があります。たとえば、呼吸法によって、普段の生活では意識されないような筋肉の感覚を強く意識する事が求められます。腹部の深層の筋群や、肋間筋のような呼吸筋の収縮した時の感覚を意識し、その情報をフィードバックして、改善していく訳ですね。中が見えない箱に手を突っ込んで模型を作る、というようなイメージが、比較的近いかも知れません。

元々、深層の筋肉というものは、解剖でもしてみない事には見るのは不可能ですし、どういった構造・機能を持っているかも把握し辛いものです。ですから、ある特定の運動を行った時の感覚情報を、パターン、あるいはスキーマとして認識して、経験的に、その内有効であるものが淘汰されて残った、と考えられます。それを言葉で表現したものが、「丹田に気を集中させる」であったり、「正中線を作る」、であったり、という訳ですね。そして、その内的な情報を認知し、コントロールしていく方法が、経験的に蓄積され、それが整理された結果、武術的な内功という鍛錬システムが形成された、と見る事が出来るのではないか、と考えています。

| | コメント (21) | トラックバック (1)

2008年7月 1日 (火)

昔書いた事2

Interdisciplinary: 昔書いた事の続き。前と同じく、今と考えが違う所があります。今見ると間違っていると感じるものも、敢えて載せます。たとえば、「意識」とか「感覚」の使い方なんかは、今と全然違って、心理学的な定義を踏まえていなかったします。

○1998年8月頃~

・支点が動くことも気にしない。そのまま下ろす。つまり脱力ということ。しかし、初心者はつかまれた所を意識。初心者は力を抜けといわれても無理だ。

上手な人の技を見ると、肘を曲げているように見えるが、あれは「曲がっている」のだ。曲げようと思ってまげている訳ではない。

・今まで腕を張る事にこだわりすぎていた。むだな力みが抜けない。力を抜く。曲がる時は曲がれば良い。伸筋云々というのもこだわりすぎない。

・柔軟な考え方。意地を張ってはいけない。間違った時は間違った。ただ、意地と信念は違うだろう。

・自分の体の使い方での発見は、それが以前からやっていたことなのに新しい発見だと思うことがままある。そして、それをわざわざ新たな術理の発見だと発表する人が居る。多くの場合は、意識(感覚)が、新たに出来た、ということだ。(注:解りにくいので補足。つまり、バイオメカニクス的に、運動の仕方が変わっていなくとも、自分の身体意識についての内観が変わって、運動そのものが変わったと誤解してしまう場合があり、それについての「解釈」を新しい「術理」の発見だとして発表する人がいる、という事。どなたの話かは明らかですね。)

・昨日、色々友人相手に練習したが、やはりそうはうまくゆかないものだ。

・佐川幸義先生は、「私の合気は腕の筋肉の微妙な働きで云々」と言われていたそうだが(注:佐川翁関連の著作を参照して書いたものです)、前腕の筋肉を微妙に使うには、指と手首を使うということになる。もし佐川先生がこのことをふまえた上でおっしゃっていたのであれば、指と手首の操作が非常に重要だということになる。

・「透明な力」というのは、塩田先生が言われていた「呼吸力」とほぼ同質のものだったのではないか。(中略)ものごとには段階というものがある。ある程度力がある人に技が出来ても、それよりさらに力の強い人はいる。強い人は幾らでもいる。つまり、五の力には十の力で対抗し、十の力には十五ので対抗しようとする様なものだ。

しかし、合気というものの考え方では、相手の力を消し去ってしまう。つまり、十の力をいきなり零にしてしまうという。想像を絶する。もしそれが実現したならば、とてつもなく合理的であり、力を使わないということである。

・腕をゆっくり降ろすのと、脱力して落とすのとでは当然使用する(される)筋肉は異なる。

・肩の力は抜けるものではなく、抜くものである。それは、普通の人がただ力を抜くという程度のことではなく、上腕骨が関節から抜けている様な、糸でつながっている様な感覚でなくてはならない。佐川先生の言葉を見ても、「透明な力」には、肩の力を抜く、ということが何度も出てくるし、朝日新聞の記事を見ても、肩の力は抜いて、力は肘から先に、とある。更に、○○先生のビデオを見ても、腕の上げ方そのものが違い、肩が落ち切っている。弟子や講習会参加者等は、よくわかっているのだろうか。寺田五右衛門が白井亨に行った肩砕きというのは、この辺りを教えたのかも知れない。

・脚の力を抜く。胯(注:この字は普通に出るのかな。「クワ」です。この当時は、中国武術系の本を読んで、用いられている言葉を借りたりしていました。誤用が多いかも知れません)、つまり脚の付け根の力を抜く。感覚としては、肩を抜いた時の感覚と殆ど一緒である。これは、高岡氏の言われる「開側芯」というディレクターと同じだろう。とにかく、今までは、脚に気持ちを通そうとし過ぎていた。力んでいた。

・腕の力も抜けていなければならないが、脚の力を抜くことも、よく考えなければならない。

・伸筋ということをイメージすると、体がかたくなる感じがする。

研究者たちは、ちゃんと伸筋の意味を分かっているのだろうか。伸筋や屈筋、回旋筋や内・外転筋には、全部定義があるのだが、果たして分かっているのか、疑問である。

・気の力を伸筋云々というのは馬鹿な話である。何故「気」や「呼吸力」「中心力」「集中力」等が有効だったか。それはそこに無い、つまり、目に見えないからである。ところが、伸筋をもちいる、となると、それはそこに存在するのである。この様なことをいっていると、必ず矛盾が出てくる。(注:補足。つまり、気や呼吸力というものは、そもそも実体を指示する概念では無いので、何かホリスティックな現象を表す言葉として有効であるが、伸筋等は、解剖学的に定義された概念なので、その実体的構造機能を踏まえずに扱ってしまうと、矛盾を起こしてしまう、という事)

・剣の素振りをする時には、なるべく音がしない様に、手の内が緩まない様に心掛ける。

・つかむ

しっかりつかむということは、肩関節の筋肉を緊張させ、上腕を固定し、上腕の筋肉で前腕を固定し、前腕及び手首の筋肉で、手首と指を固定することである。

この中で、最も強いのは、肩である。だから、幾ら初めにひ力を使っても、肩の力そのものを殺さなければ、腕を動かすことは出来ないのである。だから、その肩の力を殺す方法を考えなければならない。ここの所を、森恕先生は、「肩のロックを外す」と言われている(注:大分前のフルコン誌を参照して記述)。

・以前は、素振りを三百本程度行ったら、脚に非常に負担がかかり、ブルブル震えて立つのもやっとだったが、今日千本振ってみると、後ろ足がほんの少し疲れただけで、後は何ともなかった。これは、脚の使い方を変えて、筋収縮が抑えられたからだ。威力も以前より高まっているはずである。本当に、力むというのは単なる自己満足に過ぎない。

・外見では殆ど同じに見える運動でも、筋肉の用い方が異なる場合がある。

・他流の研究をするのはとても良いことだし、必要なことだと思う。だが、体の使い方も分からない者が、その形だけを見て、批判し、あるいはそのまま使ったりする。これは良くない。

・自分の考えが上手く文章化出来ないのが口惜しい。もっと文の書き方を勉強しておけば良かったとおもう。

・黒田先生も言われているとおり、型を手渡した瞬間にその型は死ぬ。よく(たまにか?)先生が本当のことを教えてくれない、とか言う人がいる。しかし、このようなことをいっているのは非常に甘い。その指導者が、正しい本物の型を見せれば、それはもう「教えた」ことになるのである。型に命を吹き込むのは自分の責任なのだ。人のせいにするな。自分が出来ないことの責任を他人に転嫁している。料理の世界を見てみろ。下の者は上の者の技を必死で盗もうとしているはずである。彼等は生活がかかっているのだ。出来なければ、失敗すれば信用を落とし、クビになってしまうのである。本来、武術の世界も、また、スポーツ、芸術、学問等全てについても言える。今の世は教え過ぎだと佐川先生も言われた。今はインチキがまかり通っているし、嘘つきも多いから、良い師をさがすのは大変だ。運も大きく作用する。何も知らない者が良い悪いを見分けるというのも難しい。武術界程玉石混交な世界も珍しいのではないか。

以上、1998年8月~12月31日分の覚書より抜粋。

武術に親しんでいる人なんかは、もしかすると、今ブログに書いている記事よりも、こっちの方が遥かに読みやすい、と思われるかも知れませんね。今は、科学的知識を踏まえて、より整然と矛盾無いものを書こうとしていて、学術用語もどんどん出しているので、読み辛いかも。当時の覚書では、日常的な言葉で説明していますね。今回のはちょうど、甲野氏等に批判的になってきて、高岡氏の本の影響を受けてものを書いている頃ですね。ちょこちょこ学術的概念も出てきていて、色々考えているのがよく解る。過渡期、といった所かな。

個人的には、今書いているものの方が、100倍くらいレベルが高いし妥当だと思っていますが、「受けが良い」のは、上に抜粋したような文かも知れませんね。

こういうエントリーを上げたのは、こんな程度の事はとっくのとうに通り過ぎた所であり、また、この程度の事では「解った」とは到底言えないし、言ってもいけない、というのを示すためでもあったり。武術系では、これくらいのレベルの事でも、「解った」と思い込んでいる風な人も、見たりするんで。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月29日 (日)

昔書いた事

昔書いていた武術関連の覚書の内容を載せてみたいと思います。昔どんな事を書いていたのかを見てみるのも一興。細かい所は変えたりしますが、基本的には書いたままで。意味がよく解らないのも敢えて載せます。※当たり前ですけど、今と考えが違う所があるので、よろしくです。

○1996年?~1997年

・剣素振り

後足で蹴らない。力を抜く。膝を抜く。腕の力を抜くのだから腕で振れないのは当たり前。だから全身で振る。あくまでも腕は全身の力を伝達する為にある。

・関節を攻める事を意識してはならない。関節を自由に出来ない硬直状態を作り、相手の体を崩す。力で関節を極めようとしても、強い人にはなかなか出来ない。

・精神的な事を考える前に、まず強くならなければ(もちろん精神的な事も非常に大事だと思う)。ボクサーのパンチや、キックボクシング・空手等のキックを捌くにはどうすれば良いか。プロレスラーの様な体を持った人間を軽く投げ飛ばし、関節を極めるにはどうすれば良いか。

・全ての技法

人間の骨格の弱点を攻める。相手の力を利用する。

・人に教える時

あまり教え過ぎない方が良いかもしれない。ある程度分かった人じゃないと、教えても理解できないのではないか。相手の技術のレベル、性格等も考える。やはり人に教えるというのは凄く大変な事だ。手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。

・武術上達には、他武道・武術の研究は絶対に必要ではないだろうか。

・何故技が出来ないかを考える。そこれでこそ何故技が効くかが分かってくる。

・先輩や先生に言われたことは常に素直に聞くこと。自分が上達して初めてその意味が分かり、それを元にしてさらなる上達が望める。疑問を持つことを忘れずに。自分の考えを持ちながら、他人の考えを参考にする。うのみにしてはいけない。

・武術は人間が作ったものだ。当然、秘伝と呼ばれるものも人間が考えたものなのだから、自分が絶対に考えつかないということもないだろう。そのために人の何倍も努力する必要がある。

・正しい力を出すには

正しい姿勢。力を抜く(一本筋を通す)。体をつなげる(意識を通す)。力を出す=力を入れない=力を抜く。

○1998年

・胸を張ると気の流れが滞る。

・型を学ぶのは形に囚われぬためだろう。型に疑問を持っていたころが懐かしい。

・素振り

体と剣を一致させる。そうしないと、剣がぶらぶらして、体とばらばらになる。この感覚が分かると、少しは素振りが楽になる(楽になるというか、違和感が少なくなる)。

・名人・達人の動きを見ると、明らかに体の内部感覚を使っているように思われる。だから、我々が外見を見て真似しようと思っても、しょせん無理でしょう(もちろん外見から分かることもある)。

・結局、技が優れている人達は、同じような原理を用いているはずで、全く違う理論を唱えていても、共通点があると思う。だから様々な技術書を読むし、全く違うタイプの先生が書いた本等も読んでいる。せっかく先生方がいろいろ研究し、発表しているのだから、それを利用しない手はないだろう。

・○○さんから借りた、馮志強老師のビデオを見た。非常に良かった。確かにきんなの部分は、古流柔術や合気柔術、合気道の逆技に通じる部分があった。柔らかく全身を協調・連動させているという感じ。やはり中国武術の理論(練習体系等)は素晴らしい。力の方向等、日本武術とは比べものにならない程細かく理論化されている様だ(自分が知らないだけかも知れない)。

・分からないものは分からないと素直に認めることだ。分からないものを分かったように言うのはだめだ。大変なことになる。

・甲野先生や黒田先生

甲野先生や黒田先生がおっしゃっていることは素晴らしいことだと思うが、逆に混乱を招くことになると思う。特に、甲野先生の、「円の否定」。人間のイメージというものは、それぞれ十人十色だから、研究する方も、慎重にいかなければならないと思う。

・色々な人がいる

投げようという気持ちが強過ぎる人、型通りにきちんとやろうとする人、説明を全く聞かない人、聞いてちゃんと考える人、自分の考えを持っている人(1:他人の説明を参考にしながら自分の考えを作る人。2:説明を聞いても自分勝手に考えてしまう人)、ただ単に人の言うことを聞いて自分では全く考えない人等。

先ず他人の言うことは聞いてみること。自分の思っていることとは違っていても、とにかく聞いてみる。何故この人はこう考えているのか、そう考えると、自分も色々な考えが浮かんでくるだろう。自分が全て正しいとは思わないことだ。然し、自分をなくしてしまわないように。

・人間は背面を攻撃しにくい。

・今日、やっとなつきクライシスの最終巻を見た。非常に面白かった(感動した)。鶴田さんの考えはここまで来たかと思った。でも一般の読者には分からないだろう。なつきクライシスは、日下が登場したあたりから人気が落ちて来たそうだが、やはりそういうものなのだろうか。

・胸を張るということ

張るという単語を辞書で調べてみると、「延び広がる」とある。よく武術で、胸を張れとか胸を張るなとか色々言われるが、結局は、その言葉の受けとりかただろう。反らしてはいけない。

・宮本武蔵の「五輪書」「兵法三十五箇条」は素晴らしい。願立の伝書等もそうだが、やはり具体的な術理があるほうが良いと思った。心法的なことは、その後になってわかるものだと思う。初心者に、「戦わずして勝つ」などといってもだめだと思う。

・武術で健康を得ようとするならば、絶対にリラックスしなければならない。そして、一本芯を通す。リラックスしても、ふだんの姿勢が悪ければ、血行も悪くなるし、気の流れも滞る。初心者の時から姿勢は直すべき。高岡英夫の「ゆる」は確かに良い。いかに健康法と武術が密接な関係にあるか。武術は、一人で自分自身に全身マッサージをするようなもの。だからとても難しい。自分のどこがゆるんでいて、どこが緊張しているかを知覚する。そして、武術ではそれをどう用いていくかが重要。

・いかに原理が解明出来ても、それを体現しなければ武術ではない。

※何年後かに書いた追記(読み返して追記する事が、よくありました。いつもは日付を書くのですが、ここは日付無し)――そもそも力学的実体的現象の相を持つ身体運動を、数少ない普遍の原理で説明しようというのが間違い。気や呼吸力等のメソレフパワーはともかく、屈筋や伸筋等の解剖学的な概念(学術的に定義された自然科学的概念)をもち出すのは特にまずい(疑似科学)。

以上、1998年8月頃までの覚書から一部抜粋。

やー、色々書いてますねえ。実に面白い。いや、他の人にとっては面白くも何とも無いでしょうが…。

今読んでも、おー、いい事言ってるなあ、と思ったり、いい事書いてるけど当時は意味解って無かったり、全然出来てなかったでしょ、と思ったり。意味不明と言うか、個人内で閉じてる文章だったり(他人に読ませるために書いたものでは無いので当たり前だけど)。

基本的な考える態度というのは、今とそんなに変わっていないのかも知れません。知識とか認識力が、まるで違いますけれど。

意味が解らない部分も多々あると思いますが、これでもほんの一部で、もう、むちゃくちゃな事書いている所も一杯です。気の話とかね。さすがに、載せるのは躊躇します…。

昔書いたものを並べるのは、考えの変遷を振り返るという意味もあるし、またやると思います。

ちなみに、「・胸を張るということ」を今風?に書くと、こうなります⇒Interdisciplinary: メモ:武術の言葉

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2008年6月11日 (水)

ゆるめる

404 Blog Not Found:トレーニングよりコンディショニング - 書評 - 40歳からの肉体改造

そしてなんといっても、本書がよいのは「体を鍛える本」ではなく「体をゆるめる本」であることだ。これが今までありそうでなかった。いや、あったかもしれないが、「ごたくはあとまわし」にしているものばかり。体をゆるめるためには、まず頭をゆるめなければならないのだ。

10年以上前からあったりして。しかも、武術界とかでは有名人だったりして。

超多読家たるdankogai氏も、アンテナが及ばない部分があったか。

最近のエクササイズとかトレーニング論とか見て、ほっほっほ、遅い遅い、と感じてほくそえんでいる人もいるかもね(笑)

それはともかく、紹介されている本、目次を見ると、面白そうですね。

「脳を説得する」というのは、結構いい表現かも。

------------

超余談ですが。
私が高岡氏の論で衝撃を受けたものの一つに、「均等呼吸」があります。
言われてみればなるほどだけど、言われなけりゃ気付けない、という概念。これは凄い、と思った。解剖学的な知識と呼吸法の知識があれば気付けるんですけどね。両方の知識を持って結び付ける事自体が難しい訳です。

「腹式」だと、腹側に意識が行き過ぎになるんですよね。正中線を中心にして「均等」に呼吸が(←生理学的な意味では無いので注意)広がっていく、というイメージと意識。

私は類似の概念を知らないのですが、他にありますかね?

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

からだにはココロがある―丹田、センター、身体意識の謎を解く (講談社+α文庫) Book からだにはココロがある―丹田、センター、身体意識の謎を解く (講談社+α文庫)

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

無難な大人しめの本を貼るのがいいですね(笑) 『極意と人間』とかは、間違っても貼れない(『身体経営術』を貼ろうと思ったけど止めた。あの本には、齋藤孝氏の話が載ったりもするけど)。あんまり飛ばし過ぎちゃいけないと思うんですけどねえ。ちょっと、理論(仮説)が先行し過ぎてるんじゃないかな。最近の本は、タイトルとか紹介文からしてアレだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

動きの説明

怒涛の武術関連エントリー連発。

ググってたら、懐かしいものを発見⇒武術稽古法研究 010 「〈体内波〉=支点の処理から支点の質的転換へ」

懐かしいもの、というのは、甲野氏の説明体系、という事。著者は甲野氏自身ではありませんが、合気ニュースの本に収録されたので、私はそっちを読んでいます。

当時は、熱心に甲野氏の本を読んでいた時期でしたねえ。かなりかぶれていたかも。懐かしいなあ。

と、前置きはここまでにして。

さて、武術に興味のある方も無い方も、リンク先の説明を読んで下さい。

どうでしょう。「何を言っているのか全く解らない」のではありませんか? それは、武術の専門用語を理解していないから、では無いので、ご安心下さい。

甲野氏の動きの説明(少なくともこの当時の)が問題なのは、「ヒンジ運動」や図形を用いて、それに人間の運動を当てはめて、武術の動きを解釈しようとした、という所です。これは、ある意味で、気や呼吸力等の概念を使うよりも、ややこしい(何故なら、後者は、高度に抽象的な概念であるから)。

こういうモデルを使った説明が有意義であるためには、

  • モデルが、物理学的にきちんと説明出来るものである事。
  • そのモデルが、人間の運動において成立し得るものである事。
  • それが可能であるとして、実践する者が、そのモデルを「体現」出来ている事。※つまり、「言っている事とやっている事がずれていない」、という意味。
  • 実際に体現出来ているとして、それが目的(ここでは、武術の技法として有効か否か)に適っている、という事。

これらの条件が必須です。人間は、解剖学的構造や生理学的機能に従って運動する実体であるから、動きのモデルが物理的にある程度妥当であるとしても、それがバイオメカニクス的に成立可能でなければならない、という事ですね。

単純な力学を武術の技の説明に用いようとして、過度に単純化してしまったり、というのは、結構見られます。人間が、複雑な構造を持っていて、その運動は脳によって制御される、という側面を、スポイルしている訳です。してはならないのにね。

人間の動きは、物理学的にも生理学的にも限界付けられているのです。だから、それを「踏まえなければならない」。人間の動きを幾何学的なモデルに「沿わせよう」とすると、却って、人間の運動の複雑性や、柔軟な変形性を蔑ろにしてしまう可能性があるのですね。視覚的イメージに、認知が規定されてしまい、それに身体運動も従ってしまう。「伸筋」による説明なんかもそう。だから、古来の達人は、知覚的な側面(良い動きをした時の主観的な「感じ」。科学的には「身体意識」等)を重視した、と私は考えています。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

掛からない

ある武術の達人がテレビに出ていて、出演者の芸能人に軽く技を掛けようとしたら、全然掛からなかった、というのを観た事があります。※どの人物であったかは憶えているのですが、ソースを失念して記憶が曖昧になっているので、こういう書き方です。ご了承下さい。武術に興味がある者なら知らない訳が無い、というくらい著名な方。

これ、「なんだ、インチキか」、と考えてはいけないんですね。そうじゃ無くて、ある程度の協力関係が無いと、掛からない、という風にまず解釈する。相手が全く武術に興味を持ってない場合、力を抜き切って手を持ったり、技を掛けようとした瞬間に手を引っ込めたり、という事があるので、「掛けようが無い」訳ですね。たとえば、攻撃せんと襲い掛かってくるのも、ある意味「協力」な訳です。合気道なんかで、本気で掴まないと掛からない、と言われるのは、そういうのが理由だったりします。ふわっと掴むと、関節を固めていないから、そこがぐにゃっと曲がって出来ない、という風になるんですね。

そこら辺の論理を、基本的に押さえておくべきだと思います。

まあ、その次の段階としては、「相手が軽く握ってきた時にどうするか」、という考察が出来るのですが。当身を入れる、とか、関節を取る、とか、様々な答えがありますね。どんな人間にどのように掴まれても同じように掛けられるか、というのは、技法の汎用性という面からは信じたくなりますが、基本的には、過剰な信用・期待でしょう。

とは言え、軽く掴まれても、「手をくっ付ける」技術がある、と言われる事もあります。合気柔術なんかでよく出てきますね。さて、これはどのくらいの汎用性を持つか。相手が離そうという意思を持っても効くのか、等のポイントがあります。これはもう、「出来る人にしか解らない」世界。本当は、出来ると称する人が見せないといけない。現象が存在する事を示す、いわゆる立証責任みたいなものですね。

ところが、武術の世界だと、情報を秘匿するという側面がある。戦闘技術なのですから、「奥の手」を簡単に晒す事は出来ない訳です。従って、詳細を隠すという行動が、正当化される。なので、かなりややこしい。

本当は、「ふーん、出来るの。やって見せて。」と応答するのが一番なんですよ。そうやって、徒に神秘化されるのを防がないといけない。やって見せないと信用出来る訳無いでしょ、と。そもそも、人間対人間の関係で成立する現象だから、外部からの観察のみで確認する事が、ほとんど不可能。たとえば陸上競技なんかだと、パフォーマンスが視覚的に明確に評価出来るから、ある意味では遥かに厳しいのです。

「手をくっ付ける方法があるのだ」、と主張する人がいるとして、「じゃあ、どうやるんですか?」と訊くと、それは秘伝だから教えられない、となるのですね。だから、技術・主張の妥当性の確認をしようが無い。それでも、そういう技術がある事は主張され、流派の優秀性や正当性が仄めかされたりする。ややこしい。

もし出来る人がいるとしても、その説明原理やメカニズムが正しいか否かを確認しなければならないのですが、現状、それ以前の段階に留まっています。本来、情報をオープンにしないのに正当性を主張する、というのは、おかしな話なのですけれど。

ちなみに、私自身は、いつまでも手をくっ付ける、なんて事は出来ません。生理・心理的な反応によって、長くとも数秒離れない、というのはあると思いますが、今の所、倒れてもずっとくっ付いて離れない、という現象については、懐疑的です。これはもちろん、あり得ないという主張では無く、保留、という意味ですが(遠当てと一緒で、無意識的な反応でそういう現象が生起し得る、とは考えています)。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火)

合気を捉える

似たような事は何回も書いてるけれど。

技術としての「合気」に関しては、高岡氏による「奪制御支体重」理論が、最も妥当で優れた説明、だと思っています。これは、一般に認識されている「合気」という技法を分析し、その現象面を科学的に定義したものですね(噛み砕いて言うと、「ああ、これが合気だね」、と多くの人が納得するような説明、という事)。すなわち、「制御を奪われ(奪制御)」「体重は自分で支えている(支体重)」状態が、「合気が”掛かった”」状態。

当然、そのような現象が果たして、人文・社会科学的メカニズムを完全に排除しても、ちゃんと再現出来るか、というのが、科学的には最も重要なのですが。その意味では、高岡氏の研究は画期的なものですが、まだ不充分だ、とも言えるでしょうね(高岡氏自身、部分的な解明、という意味合いの主張をしているので、押さえておきましょう。文脈によって、主張の強さが違っていたりするけれど…)。

武術の技法の有効性というのは、汎用性如何による、と言えますからね。非協力的な相手には掛からない、体力差が大きいと掛からない、掛けるまでに時間が掛かる、等の条件は、その汎用性を低くする。そして、そういう汎用性を、「合気」という技術は果たして備えているのか、それが重要。武術界の中の人達は、その汎用性を過剰評価し、外から見る人は、過小評価しますからね。どっちもダメ。「正確に理解」しないと。

もちろん、汎用性が低いなら低いなりに、有効な局面に用いていこう、と考えれば良い訳です。で、それを見出すには、知らなくてはならないのですね。まあ、簡単に言いますと、合気でプロレスラーも自由自在に吹っ飛ばせる、とか、そういうおかしな事を言っちゃいけない、という話です。

どちらかと言うと、合気というのは、技法の稽古を通して、普遍的な、高度の身体制御を身に着ける、という面があるんですよね。身体を拘束された状態から相手を崩す、という条件があり、それを達成するために、高度な身体制御を会得せざるを得なかった、という事なのでしょう。これは、経験的に優れた方法を見出したという点で、画期的な事だと思います。実際に腕を掴むなんてあり得ない、と言う人は、そこら辺にも思いを馳せる必要がありますね(でも、ほとんど腕を掴むなんて無い、というのはその通り)。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日)

過小評価と過大評価

2008年5月18日追記:下の方に追記してます。

合気について調べていて、こういうエントリーを発見⇒合気道の科学」と「空手・合気・少林寺」 - 武術とレトロゲーム - Yahoo!ブログ

ちょっと惜しい読解だと思いますね。

高岡氏の疑似科学性を指摘する姿勢には共感しますが、若干的外れの箇所もあるように思います。吉丸氏の説を科学的と看做しておられるのかな。それはちょっと、筋が悪いと感じるのですが、どうでしょう。屈筋優位と伸筋優位という概念は、全く不充分ですしね。※ところで、少し調べてみましたが、伸筋/屈筋という概念、リハビリテーションの分野等で用いられているようですね。

高岡氏の、レフ/ラフパワー概念が優れているのは、そこから、メソレフパワーという概念を導出した所にもあると思うのですね。ある体系内で通用する運動が他の体系にも優れたものであると一般化出来る訳では無い、という所を解明したのですね。これは、一般的な言い方をすれば、「それぞれの武道で有効な力の出し方は、他にすぐ応用が出来る訳じゃ無い」、となって、「当たり前じゃん」、と思われるかも知れませんが、科学とは、当たり前だと思われている事をきちんと対象化する、というのも含んでいるのですね。この概念については、「鍛錬シリーズ」に詳しいですね。メソレフパワーは、「名前」との結び付きも重要ですね。尤も、かなり仮説的ではありますが。「法力」の部分については、確かに、かなり言い過ぎっぽい所がありますしね。私は、あれは数割は冗談だ、と解釈しています。主旨は、言葉の意味世界が身体運動に及ぼす影響は強いから、「名前」が重要だ、という部分だと思います。※高岡氏はどこかで、「言い換えに過ぎないじゃないか」、という批判について言及していたと思います。ソース失念。

話を高岡英夫氏と「空手・合気・少林寺」に戻します。結局、高岡氏は、「何だかよくわからないけど、すごそうなことが書いてある。」と一般大衆に思わせたかったのだと思います。また某教団と同じく、「インテリ学生が強さや達人の動きに憧れて、コロっといく。」方法をよく心得ていると思います。内容は対話形式で進みますが、実際は高岡氏が創作した架空の人物ではないかと想像され、言わば自画自賛・我田引水的な構成となっています。高岡氏が新造語、新概念を提唱したあと、作中の他者が「これは、歴史的な発見になるかもしれませんね。」と言った感じのコメントをするノリです。

この分析、高岡氏の意図については知る由もありませんが、それを措くと、確かにそういう面は感じますね。よく言えば、とても巧み。まあ、教団に準えるのは、色々考えるべき所ではありますけれども(信仰に近い思いを懐いている人は、いるでしょうけれど)。

それに対して、「丹田」や「経絡」のような実在しない観念上の器官名を多用せずに、西洋の運動生理学やスポーツ理論でも認められている「屈筋」と「伸筋」の二分法によって、二種類の力の使い方・出し方を解説した吉丸氏の理論は斬新で、日常の稽古にも応用の利く具体的な理論でした。

ここにはちょっと、首を傾げます。人間の身体の複雑な運動を、「屈筋/伸筋」という観点で分類するのは、物凄く無理のある主張で、過度の単純化であると考えます。バイオメカニクス的には、目的とする運動に関して最も効率的な筋収縮が行われるのを、「優れた運動」と呼ぶ訳です。時々刻々と、適切に、筋の収縮・弛緩を行う。論理的には、「伸筋優位」な運動という概念は、あまり適切とは言えないでしょう(たとえば、ハムストリングスはどっちでしょう)。簡単に言うと、腕を伸ばさなくても良い局面では、伸筋は「弛緩させなければならない」場合もあるのですね。

仮に高岡氏がラフパワー=ガムシャラな力=素人の力み方=屈筋群優位の運動、レフパワー=洗練された力=呼吸力・合気・気の力・勁=伸筋群優位の運動と、吉丸氏の著作より先に表明していれば、もっと評価していたかと思います。「屈筋群」の箇所を「表層筋(浅層筋)」、「伸筋群」の箇所を「深層筋」に置き換えて、当時発表していたとしても、同様に評価していたと思います。

屈筋は、浅層の筋肉を指すのではありませんよね。当たり前ですけど、伸筋が深層筋を指す訳でもありません(それに、上の方、イコールで結んではいけないです)。ところで、高岡氏は、たとえば『意識のかたち』の105ページ辺りで、腸腰筋の重要性を説いていますね。腸腰筋の重要性は、各所で語られるようになりましたが、この筋肉、伸筋/屈筋のどっちでしょう。

高岡氏が独自の概念をよく提出するのは、その通りですね。ただ、それまでに、適切に概念を示す術語が無かったなら、それを提唱するのは、科学的に当たり前の話です。当然、既存の体系、あるいは先行研究との整合性が確認されねばならないのは、言うまでも無い事です。その意味では、独自過ぎるという印象はありますね。とても有用で興味深いものではあるのだけれど。

 私が高岡氏を「だめだコリャ」と思った瞬間は何度かあります。ひとつは、福昌堂の某誌上で「合気特集」があったとき、高岡氏が「合気」を解明するようなコーナーがあり、その中で高岡氏は「合気」をいくつかに分類して解説していました。その中に「波動合気」と言う分類があったのです。宗教界や疑似科学の分野で「波動」と言う用語が、本来の自然科学の定義を離れて、どのような使われ方をしているか知っていて「波動」などと言っているのでしょうか。

ここは、部分的に同意。確かに、波動の使い方は、ちょっと怪しい。ですけれど、合気の分類自体は、とても興味深いものでした。特に、「第一の合気」と「第二の合気」については。あれは、その後の「低次合気」、「中次合気」に通ずる考え方だと読み取る事が出来ます。

別に四重でも八重でもいいのですが、高岡氏の弟子がヒクソンの弟子にスパーリングで勝てたら信用します。前述の「丹田」よりもさらに実在しない観念上の器官である「四重構造の腰」を持ち出されても、思弁的で具体性に欠けます。「四重構造の腰」を提唱しなくても、ヒクソンのテクニックと強さは十分説明できます。むしろ、ヒクソンの妻とヒクソンが、サーフィンの達人であること等に注目すべきでしょう。

腰のディレクターが多重構造である、という部分についての批判は、その通りですね。思弁的と言うか、疑似科学的。身体運動の構造が、腰の運動が多重構造であるが如くなる、という論理自体は、それほど「思弁的」ではありません。ポイントは、何故、単なる観察でそこまで解るか、という所と、それを確認する術が無いのに断言している、という部分でしょう。まあ、何をもって多重とするか、というのが全然明らかで無いから、実体的で無いとは言えるけれど、「思弁的」というのは、ちょっと語感が合わないですね。それにしても、弟子が勝てたら、という論理展開は、この種の論では、あまり筋の良いものではありませんね。だって、弟子が勝つ事と身体意識の構造のあり方が証明されるのは、全然異なった現象なのですから。

 また「空手・合気・少林寺」では、塩田剛三氏のことを「技の切れなら植芝盛平以上と言われている」と記載しています。私は武術・格闘技関係の雑誌や書籍をかなり読んでいるつもりなのですが、いまだに「空手・合気・少林寺」以外の文章で、「技の切れなら植芝盛平以上」と言う表現に後にも先にも出会ったことがありません。学術的な体裁にするのなら、参考文献(出典)は全て明らかにしてほしいものです。それとも、単なる「耳からの伝聞」なのでしょうか。たとえそうだとしても、多数意見である必要があります。

高岡氏の書くもので、伝聞あるいは噂話的なものは、結構多いですね。引用文献も(特に、最近の著作では)あまり無く、良いとは言えません。その意味では、学術書としては不充分ですね。

うーん、高岡氏の論評については、異論はあるけれども、概ね妥当な批判だと思うのですけれど(批判は当たっているが、過小評価もしている)、吉丸氏の論が優れていると看做すのは、あまり適切では無いと感じます。

武術関連ではあまり見ない、良エントリーですね。ここでは、高岡氏に関しても色々論評しているので、ご批評頂ければありがたいです。

2008年5月18日追記:高岡氏が丹田について語っているものを引用します。引用文献は、『極意要談』(P180・181 伊藤信之氏との対談の部分)

伊藤 正中線は、陸上競技でも肉体と直接的対応を考える段階では軸として理解することができますが、武術でしきりにいわれ、高岡先生も重要視されている「ハラ」とは、一体どういうものなのですか。

高岡 「ハラ」、「下丹田」と古来から言われてきたものは人体下腹部の中心にあるとされている点ないしは球状の部分です。しかし、その部分は、解剖学的には腸があるばかりで他には何も見いだせません。ところが、その丹田があるとされる周りには、大腰筋、腸骨筋、上下双子筋、方形筋、横隔膜などの深層筋群と腹筋、腰背筋などの浅層筋群が丹田を中心に長球状の構造を形成しているのです。

 つまり、「丹田ができる」とは、こうした「長球状筋構造体」が至適のバランスを持った統一体として筋収縮活動を行うことを指すのです。

伊藤 武道家の人達のハラに対する説明には、極めて観念的な印象を持っていたのですが、先生の説明は極めて明快ですね。

高岡 ただ、深層筋や深層小筋群は、意識化することが極めて難しいのです。そこで意識と動作の関係がまた出てきます。丹田自体は、それらの筋肉群を統一的に動員するための「意識装置」であるわけです。

伊藤 なぜ、ハラが利くと動きがよくなるのでしょう。単に意識化できない筋肉というのは、その丹田周辺の筋肉群以外にも体全体に沢山あると思いますが。

高岡 それは、四肢の運動や体幹・呼吸運動の本質的な因子を根底から支えているのが、この長球状筋肉群だからです。それが本質的な因子を担っているということは、脊椎や骨盤とのつながりを考えれば容易に推察できると思います。

 ついでに申しますと、中丹田があるといわれている胸の部位、つまり胸郭を取りまく筋肉群も長球状構造体をなしており、この意識中心が中丹田なのです。

空手・合気・少林寺―その徹底比較技術論 Book 空手・合気・少林寺―その徹底比較技術論

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

空手・合気・少林寺 (続) Book 空手・合気・少林寺 (続)

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 合気道の科学―合気・発勁の秘密を解く!

著者:吉丸 慶雪
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 高岡英夫の極意要談―「秘伝」から「極意」へ至る階梯を明らかに

著者:高岡 英夫
販売元:BABジャパン出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年5月13日 (火)

「遠当て実験」から考える

亀@渋研XさんとnewKamerさんに書き給へと指令を受けたので(嘘)、書いてみます。

まず、こちらを参照下さい⇒PSJ渋谷研究所X: 【種】ASIOS:気功で人を倒せるのか

簡単に要約すると、自称遠当て(離れている所から何らかのアクションを起こし、触れないままに相手を倒す技法)が出来るという人に、懐疑的な人が技を掛けさせるという「実験」を行った所、まったくビクともせず終わった、というエピソードについての話題です。

さて、この話題について、コメント欄で出たのが、

こういうケースで「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」というのは、いい練習問題になると思って、そういう角度からの記事にしようと思っているうちに日が経ってしまいました。

「誤った二分法」の問題もあって、ついつい、これだけで一般化した「ある」「ない」の両極の答えのどちらかを言おうとするのが、ぬるいマスコミなどでよく見る記事ですよね。それがおかしいことは、すぐにわかる人も多いと思うのですが、じゃあそこから先は、というと、そこをうまくまとめられなくて。(亀@渋研Xさん)

それから、ASIOSの基本路線は「批判」のスタンスはとらずに事実を提示する方向なんで、一事実から「結論」を導かれても困っちゃうのですけどね。でも、実際にそういう結論に行っちゃう人は多いですよね。
 「この実験で、否定にしろ肯定にしろ、どこまでのことが言えるか」みたいなところは、是非ニセ科学批判方面の人に言及してもらいたいところ(トラックバックとかも)。(newKamerさん)

こういったご意見でした。つまり、自称遠当てが出来る人の所へ懐疑論者が行って技を掛けさせたら――という現象をどう解釈するべきか、どこまでの事が言えるか、という視点ですね。こういうエピソードがあると、たとえば、「掛からなかったんだから、あれはインチキだ」、とか、「あり得ない」とか言えるかどうか。それとも、「”あの”武道家はインチキだったのだ」、と言うか。どちらかに振れてしまいがちなのですよね。

しかし、物事を批判的に考える際には、きちんと丁寧に、対象を読み解かなければならない。何が言えて、何が言えないか。それをしっかり分析する必要があるでしょう。

と、前置きが長くなりましたが、このエピソードに関して、私なりの考察を書いてみたいと思います。

最初は、論点を整理してまとめようと思いましたが、それは止めて、思い付くままに書こうと思います。その方が流れを追いやすいかも知れない、と考えたので。

------------

さて、まず、「遠当て」という現象がいかなるものか、というのを考えていきたいと思います。

まず、観察される現象。つまり、「どう見える現象であるか」。取り敢えず、一対一の場合について考えます。

遠当てというのがどのような現象かというと、掛ける側と掛けられる側が離れていて、掛ける側が何らかのアクション(突きの動作をする。手をかざす。気合を掛ける、等)を起こした直後、「両者の身体接触が無い」にも拘らず、掛けられる側に、倒れ込む、後ろに転ぶ、膝から崩れる、等の動作が、「意識しないまま」に生起する現象、と説明する事が出来ます。

ここで重要なのは、「身体接触が無い」、「掛けられる側が意識していない」、という所です。つまり、「触れていない」のは、両者に力学的な関係が無い事を示し、「意識していない」というのは、「倒れようと考えていない」のを意味します。前者は、一般的な武術・スポーツにおける力学的な論理を排除し、後者は、「掛けられている者が”わざと”倒れたり飛んだりする」という条件を排除します。これをより簡単に言うと、「触れてないのに、何故か相手が倒れる」、「わざと倒れている訳では無いらしい」、といった所でしょう。

さて、次に、「現象を説明するメカニズム」について考えていきます。

上で示した現象を説明する論理は、いくつも考えられます。

  1. 何らかの暗示効果によって、力学的関係が無いにも拘らず、掛けられている側が意識していないのに倒れてしまう。
  2. 身体は接触していないが、何らかの物理作用が巧妙に働き、現象が生起している。
  3. 現代科学では見出されていない何らかの原理(たとえば、「気」)が働き、現象が起こる。それは、離れた所にあるものを動かす機能を持つ。
  4. そもそも、相手が倒れているのが「わざとでは無い」というのが虚偽である。すなわち、両者が協力してイカサマを行っている。

これらのようにです。(表面的には)同じ現象を説明するメカニズムについて、様々なものが考察出来るという事です。そして、このような現象を肯定する論者が、どのようなメカニズムを想定、あるいは主張しているか、という所が、重要なポイントです。

上に挙げた例の内、1と4は、これまでに解ってきた色々な分野(物理学や心理学等)と整合する主張です。つまり、離れているのに倒れるのは、何らかの心理作用、あるいは社会的なメカニズム(ここでは、イカサマがある、という事)によって現象が起こっているのである、というものです。

対して、2は、身体は接触していないが、遠隔的に相手を倒す事の出来る、何らかの物理的な作用が働いているのではないか、という仮説です。何とか磁気、の類ですね。3は、そもそも物理学等の論理では説明出来ない現象が起こっているという主張ですから、科学的な論理を否定し、当然、心理的な効果の可能性も排除し、技法の普遍性(たとえば、相手が全く知らなくても掛かる、等)を主張します。

このように見ていくと、「遠当てがあるか否か」、という単純な問題設定は出来ない、というのが理解されると思います。つまり、原理あるいはメカニズムに何を想定しているか、を考えなければ、お互いに異なる論理を想定し、ある/無い をぶつけ合う事になります。ですから、物理的にはそんな現象はあり得ない、だから「無い」と言っている人と、心理的メカニズムを想定して「ある」、と言っている人は、実は、「違う現象」について議論をしている、という事が起こり得る訳です。

ここまでを踏まえた上で、件の「実験」について考えていきましょう。

実験は、懐疑的な人が、自称「遠当て」が出来る人に技(技と呼べるか、というのは疑問ですが、取り敢えず、そう表現します)を掛けさせる、というものです。

この実験では、掛ける側と掛けられる側が協力している、という可能性は、排除されます。これは、「実験が失敗した」という結果から、明らかです。

では、上の1~3までの可能性が全て否定されるか、というと、それは出来ません。それが出来るのは、遠当てを出来ると主張する側が、「いかなる状況でも誰にでも絶対に掛ける事が出来る」、と言っている場合のみです。つまり、簡単に言うと、「調子が悪かった」、「上手く気が合わなかった」、「波動が良くなかった」、等の理由によって、「出来なかった」事を説明出来るのです。だから、1回や2回出来なかったからといって、全て否定する事は、論理的に無理な訳ですね。

尤も、「調子が悪かった」、等と理由付けするのは、「技法の普遍性」の無さを自ら認めてしまっている、という事が出来ます。遠当てを、非協力的、あるいは攻撃的な人間を制する技、すなわち「武術」と捉えるならば、技法の普遍性は重要な条件です。ですから、ここでも、「何を主張しているか」、という所を重視すべきです。主張している者が、「遠当てとは、攻撃的な相手を制圧出来る実用的な技法なのだ」、と言っている場合には、この実験で、その主張の信憑性は疑わしい、と考える事は出来るでしょう。

しかしながら、遠当てを出来ると言う者が、「相手に倒れる気が無いのに倒れてしまう」、という現象のみを主張しているとするならば、また別の考え方をしなければなりません。これは、「掛けられる側がわざとやっていない」という条件と、「身体が触れていない」という条件が満たされれば、成立するからです。

当然、現実的には、「遠当て」という武術的な技法を肯定しているので、上のような主張をする人間は、ほとんど存在しないものと思われますが、「遠当て」という現象の構造を丁寧に見ていくと、このように考える事は、論理的に出来ます。

暗示効果によって、倒れる気が無いにも拘らずに倒れてしまう、というのは、充分に考えられるものでしょう。懐疑的に捉えている人でも、その場の状況によっては、倒れる可能性は、あるかも知れません(それで、懐疑的な見方から転向する可能性もある)。これは推測ですが、件の実験で、「舌の位置」や「足の親指」を動かせば掛からない、と言っているのは、意図的かそうで無いかは判りませんが、それが心理的な効果だと自ら認めている、と考える事も出来ます(もちろん、舌が動けば気の流れが変わる、等の説明も可能)。

さて、術者が実は、暗示効果だと認めているのではないか、という可能性は措いておいて、そのようなメカニズムでは無く、「気」(物理を超越したり、現代科学とは矛盾するような概念として)によって倒れるのだ、等の主張をしている人が、件の実験を知ったらどう考えるか。

たとえば、次のような説明が考えられるでしょう。

「あの術者は本物では無い。本当の達人であれば、あの懐疑論者も、なす術も無く倒れるはずである。」

論理的には、いくらでも、このような言い逃れは可能です。現象が無い事を証明するのは出来ないからです。もちろん、現代の科学の知見からは、接触していないのに、心理的なメカニズムによらずあの現象が起こる、というのは、ほぼ否定出来る、と言って良いでしょう。しかし当然、肯定者は、そもそもそういう部分を否定する所があるので、それは説得力を持ちません。

もし、心理効果を排除しても現象が成立する、というのを主張するのであれば、そう主張する側に、立証の責任があります。そうで無ければ、否定するのは、出来ると言っている人を全て探し出してやらせてみて、出来ない事を確認しなければならないからです(厳密には、それも不充分。出来ると思って無い人が出来る、という可能性すら考えられるから)。それは当然不可能です(人間は、どんどん生まれる)。※だから、否定と言っても、「そのような現象は絶対にあり得ない」と断言する事は、厳密には出来ない。あり得ないと言い切って良いような現象ではあるけれど、それは文脈にもよるし、また別の話題です。

従って、件の実験から言えるのは、両者の協力関係を排除した条件では、遠当ては成功しなかった、だから、当該実験での術者は、遠当てを極めて高い確率(ここも、色々考える事は出来る。高い確率とはどのくらいか、等)で成功させる事は証明されなかった。しかし、遠当てという現象そのものが実験で否定されたとは言えない。それ(心理効果を排除した遠当て)は、現代科学の知見からは、無いとほぼ主張出来るとはいえ、完全に無いと断言する事は不可能であるから、傍証の一つとして捉えるのが妥当である、という所でしょうか。極めて慎重かつ丁寧に見ていけば、そのように考えられます。

心理効果を排除した条件で遠当てが出来るか、という実験を考えると、掛けられる側が、「(遠当ての)実験に参加している事すら知らない」という条件は、必須です。当然、実験環境に、懐疑的な人間が含まれている事も必要です。事は、現代科学を否定するような現象の確認なのだから、極めて精密に行われなければなりません。もちろん、そのような実験を行い、肯定的な結果が出たとしても、そういう結果がある程度再現される必要もあります。それを回避するために、「その技術が可能な本物は、世界に数人しか存在しない」、等の説明が考えられますが、それは、少なくとも、技法の普遍性を自ら否定する、という態度です。

少々長くなりましたが、「遠当て」は存在するか、という、一見単純な問いであっても、このように細かく考える事が出来ます。物事を「ある無し」で考えるのは難しいし、現象をきちんと分析し、定義をして、そこから実験なり観察なり、あるいは、理論的な考察なりを行う事が、肝要です。

| | コメント (14) | トラックバック (1)

2008年4月25日 (金)

究極奥義って胡散臭い表現にもなるよね

人が吹っ飛ぶ「究極奥義」を科学する~『武道vs.物理学』 保江邦夫著(評:栗原裕一郎):NBonline(日経ビジネス オンライン)

ほほー。構成がいいね、この記事。なかなか読ませる。

でも、1ページしか読んでないけど。続きを読むには登録を、かあ…。

私が読んだ保江氏の本についての感想は、科学的にと言っている割りにはそれほど科学的でも無いかな、というものでした。

武術は物理学だけでは解けないからなあ。物理的に考えるにしても、きちんと解剖学や生理学の論理と絡めないと(生体力学)ね。あ、保江氏が、物理だけで解けると言っている訳では無いですよ、もちろん。

合気とは、「実に多様な現象分野が複雑に絡み合った一個の現象総体」(高岡英夫 『秘伝』 1998年8月号内の記事 ”高岡英夫の「合気の運動科学」”より)なのです。それ以外の在り方をしない。一部を切り取って分析しても、完全な「解明」にはならない。まあ、学際的に考究すべき対象である、というのを認識するのが第一歩、だと思います。解明が異様に難しく、そして大変に魅力的な現象である事は、間違い無いです。て言うか、私が死ぬまで取り組むものだし(笑)

合気を科学的に考察したものは、今の所、これが最も優れているのではないかと思います ※この本の前半。後半は慎重に読みましょう。後半の内容は、今の所は捨ててしまっても良いです。未科学と、もっと黒っぽい所が混在しているようなものなので。

合気・奇跡の解読 Book 合気・奇跡の解読

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (15) | トラックバック (0)

2008年4月15日 (火)

認知→身体感覚のあり方

皆さん、歩く時とか走る時、身体を「意識」してます?

どの筋肉が働いているだろうか、とか、足のどの部分が接地するか、とか。重心はどのように移動しているか、とか。

(以下、高岡英夫氏の著作参照)歩きや走りは、一日で数千回は繰り返される運動なので、その構造を意識的に捉え、一つ一つ(一歩一歩)の運動を行うか否かでは、膨大な違いになるのですよね。

たとえば、腿の前側を緊張させようとするか、それとも後ろ側か。同じ大腿にある筋肉ですが、表と裏にある筋肉ですので、機能も全く異なる。どちらを主として用いるかで、運動全体の構造が、がらりと変わる訳です。

当然、「どういう運動が優れているか」、というのは、運動の目的・状況(競技の構造や、身体を取り巻く物理的な環境)によって異なる訳ですね。その中で、より一般的に優れているポイントを見つけ出し、それを日常的な運動で意識する事で、訓練・学習として、生活に組み込む。

武術では、行住坐臥全て武である、とよく仰っていた達人がおられましたが、これは、身体運動次元で考えるならば、上記のような論理を指している、と言えるでしょう(後は、精神的な「心構え」も含んでいる)。

人間は、複雑な認知を持つ動物ですから、「色々運動が出来る」訳ですね。ずっと同じ姿勢をとり続けるという「運動」すらも出来る。だから、運動の構造の個人差は大きいし、変容させていく事も可能。

道具を使う時、どのように操作するか、とか、メンテナンスはどうするか、というのは、考えますね。それと一緒で、自身の身体を対象化する訳です。当然、筋収縮を測定して云々というのは、ごく限られた人しか出来ないので、ほぼ知覚のみを頼りする。今ここの筋肉が収縮しているな、とフィードバックして、ここはこうした方がいいか、と、次に試み、その結果を見て、またフィードバックしていく、という。

当然、それを知るには、解剖学的な知識と、体性感覚を内省する能力が必要です。解剖学的な構造と知覚を対応付ける訳ですね。顕在意識のレベルで。

ハンマー投げの室伏選手は、背骨を任意に動かす事が出来るそうです。どのくらい精密に出来るかは不明ですが、一般の人は多分、脊柱がどういう構造をしているかすら、よく知らないのではないでしょうか。

少々抽象的・比喩的に言うと、「自分の身体を見つめる」、という事ですね。自分の脳が支配している身体を、より分析的に把握する。

更には、バイオメカニクス(生体力学)の次元の論理ともきちんと結び付けたい所ですが、これは非常に難しいですね。まあ、一応、私が目標としている所です。優れた身体運動はどういうものか、というのを科学的・分析的に理解し、それを体現する。どちらも求める。武術と科学の両方に関心を持つ人は、あまり多く無いように思えるので、なかなか理解されないかも知れませんけれど。

身体運動というものは、知覚という、極めて主観的なものが大きく関わってくる現象ですので、外から分析されるのを好まなかったり、という事があります。外から見て何が解るか、という具合ですね。まあ、中途半端な分析ではダメなのは当然で、直感によって「不充分さ」を見破ったり、というのはある訳ですね。スポーツ(特に、運動構造の比較的単純なもの)ではそれほどでも無いかも知れませんが、武術なんかは、直感重視・分析忌避、という所がありますので、科学的分析に目を向けにくいのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月29日 (土)

メモ:武道禁止?

ちょっと物騒な話も入ります。ご了承下さい。

【ネタ】犯罪防止のために禁止にすべきものリスト :: 事象の地平線::---Event Horizon---(Niimiさんのコメントです)

ネタエントリーで質問したりするのも激しく無粋なので。て言うか、コメント自体ネタなのかも知れないし(本当にネタじゃなかったら、ちょっと…)。

柔道、剣道、弓道、相撲、空手、拳法などの古武道の流れを汲むものは「人殺しの技術を向上するのが目的」なため、全面禁止すべきでしょう。

これは面白い。色々な意味で。

特にNiimiさんご自身に何か言う、とかでは無く、本気でこの類を主張する意見があった場合、それをどう評価するか、というのを考えるのは興味深い(類似の主張は、よく見かける)。

以下、走り書き的。思いついたままに書きます。

ポイントは、「人殺しの技術」という所かな。ここをどう捉えるか。

柔道だと、衣服を掴んで投げる、極める、剣道だと、棒状の物体で叩く、等の競技構造ですね。これらを「人殺しの技術」と呼ぶのが、果たして妥当であるか、と。

実体としては、投げ技をコンクリートの上でちょっと「工夫して」使ったり、堅い木の棒で「思いっ切り」打ちつければ、人間に肉体的に危害を与える、という事は出来る訳ですね。だから、その意味では、「人を殺す事の出来る技術の訓練に”結果的になっている”」、というのは言える。少なくとも、書道や華道、キーボードタイプよりは、確実にそう。

で、それを、「人殺しの技術を向上するのが”目的”」と言って良いか。

たとえば弓道の場合、道具があれば、弓を触った事も無い人と較べれば、「矢で人を射抜く」技術は、圧倒的に高いですね。

でも、ここで、「弓道は、弓矢で人を殺害する技術を鍛える事になるから禁止するべきだ」、という論を出しても、多くの人は、首を傾げるのではないでしょうか。

何故なら、弓道というのは極めて記号化された競技構造を持っており、道具立ても複雑で、様式美を求めるシステムになっている事が、広く了解されていると思われるからです。

つまり、一口に、「古武道の流れを汲む」と言っても、その実相は複雑なのですね。

次に、心理面に目を向けると。

ほとんどの格闘技や武道をやっている人は、「人殺しの技術が由来である」事は知っていても、実際に学んでいる体系は、それとはかけ離れているし、少なくとも積極的に人に危害を加える事を目的とはしていない、と思います。一般的には、大会に優勝するとか、そういう目的意識でしょう。尤も、喧嘩に強くなりたいから、等の動機で始める人もいるでしょうから、そういう人にとってはまさに、暴力のスキルを磨く、という目的なのですが。軍隊で用いる、というのもそうですね。

細かい所。

ボクシングはどうするべきなんでしょうね。あれは古武道由来じゃ無いけれど。後、拳法は古武道由来? 日拳なんかはそうだろうけれど。少林寺拳法はどうだっけ。

知ってる事と、それを使う事は別か? 人体の急所を知識として持っている人は、そうで無い人よりは、どうすれば危害を有効に加えられるか、知ってる訳ですね。で、武道だから、攻撃する技術もある。それを身に着ける事自体を問題と考えるか。「そこに包丁があったから殺した」、という場合と同じに考える? 武器になるようなものが存在しなければ殺害には至らなかった、というのを考えて、肉体を武器にして他者に危害を加える可能性を低める、という。

統計的な観点もありますね。

現代武道をやっている人は現実にどうであるか、という見方。いつやったか、というのもね。どういう指導者についたか、という所も考慮したいです。

仮に武道を全面禁止にした所で、暴力は無くなるかな。また、無くならないとしても、総体としてスキルが下がる訳だから、別にそれで、人を殺す事がより出来なくなる、というのも無さそう。

こんな感じ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年3月 2日 (日)

脅威のからだ

サハラ砂漠230キロを走破、埼玉の71歳主婦が3月挑戦(読売新聞) - Yahoo!ニュース

これは、物凄いパフォーマンスですよね。感嘆。

ある程度高齢でこういったパフォーマンスを体現出来るというのは、まさに「達人」と言って良いでしょう。高齢で、マラソンを走れる身体機能が維持出来ているという事実のみを見ても、凄いですね。

ご本人は、淡々をやっておられるのでしょうね。気張る事無く。

こういった例を見ると、素直に凄いと思いますし、羨ましいとも感じます。将来そうありたいなあ、とね。他にも、三浦雄一郎氏とか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月23日 (水)

メモ:身体・意味・構造化

※これは、あくまでメモです。

身体意味構造(高岡)。身体の各部に、意味付けがなされている。潜在的にも構造化。たとえば、腕は肩関節を支点にして振り回すものだ、等。

生活習慣や社会的価値観によって形成されると考えられる。集中してパフォーマンスを高めるには、「歯を食いしばる」、とか。

それは必ずしも、合理性を保証しない。バイオメカニクス的に不合理な運動に、「良い評価を与える」場合があり得る。

より一般化すると、「身体意識」の構造。生理学的な無意識的行動パターンと関わる。運動構造。身体意味構造と身体意識の構造の相互作用?

ある専門的な訓練が、身体意味構造を変容させ、それが、より一般的な身体意識の構造をも変化させる。例:「弓腰」に「良い姿勢」という評価を与える武術を習い、教えを遵守する事によって、「腰は入れるもの」、という「意味付け」を行う。どれほど顕在的に行うかは、個人の性格的な因子や、指導者の方針にもよるだろう。そして、「弓腰」の姿勢をとった時の身体意識が、デフォルトとして、無意識に構造化される。

そこで重要なのは、上にも書いた通り、「身体運動の合理性とは独立している」、という事。全く不合理な運動に肯定的な評価を与え、それが、ある体系の核となる事すら、あり得る。尤も、独立、と言っても、解剖学的構造・生理学的機能に規定されている訳だが。

身体意味構造は より認知に近く、身体意識は、手続き的記憶に近い?

身体意識、つまり、ある感覚が統合された構造。無意識~顕在意識に亘る。スキーマ。どのようなメカニズムで形成されるか。その無意識のシステムは、脳の構造・機能と、どう関わってくるか。運動学等では、どう考えられているか。

身体意味構造は、より言語的・視覚的、身体意識は、より感覚・知覚的。

科学的な対象化。どうやって実証的に研究するか。神経科学や認知科学、人類学、記号論、心理学等々、まさに、学際的に研究する必要がある(神経科学や認知科学自体、学際的・領域横断的分野であるが)。意識と脳活動との対応。身体意識を可視化出来るか? 脳イメージングの発展。「身体意識」という概念自体は、運動心理学等でも用いられ、研究対象となっている。私は、高岡英夫の定義による「身体意識」概念を用いている。関連しそうなエントリー⇒Interdisciplinary: 「身体意識」と「身体感覚」  Interdisciplinary: メモ:身体意識仮説の検討 俗に言われる「身体感覚」とは、身体意識でも顕在的なもの、と考える事が出来る。※高岡は、この後に、とんでもない概念の拡張、論理の飛躍を行う。私はそれには、明確に反対である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月20日 (日)

開眼?

合気開眼 ある隠遁者の教え (保江邦夫)●版元ドットコム

合気開眼 ある隠遁者の教え 合気開眼 ある隠遁者の教え
販売元:セブンアンドワイ
セブンアンドワイで詳細を確認する

読んでみようかな。

いや、とある掲示板で、こういう投稿を見つけたもので→掲示板 「身体意識」の世界へようこそ:武道vs.物理学  掲示板 「身体意識」の世界へようこそ:とか言ってたら

 著者は、佐川合気を継承された(そうです)木村達雄氏に投げられ、そのからくりを
100%の確信と共に理解することで、合気をご自分でも使うことが出来るようになったそうです。
 またその体は、氏が受けておられた整体師の言葉では「素晴らしい技によって瞬時に
細胞レベルから体が緩んで」いたとのことです。

むう。

 人間のOSにあたる基本プラグラムである非物質システムを「ES」と呼んでいます。

むう。

本の目次で興味を惹くのは、ここか↓

合気の実験検証(腕相撲による合気の実験/無心の極意/投げ技による合気の実験/合気揚げによる合気の実験/空気投げと合気/運動神経系と随意・不随意運動/脳波による合気の検証)

どのくらいのレベルの実験を行ったのか、見てみたいですね。

ところで、私は全然知らないのですが、保江氏って、物理学の世界では著名な方なのでしょうか? 結構本も出されているみたいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

本質はそこには無い

以下乱文! 思考が濁っている。

はてなブックマーク - イチローに学んだ ルーチンへのこだわり - モチベーションは楽しさ創造から

鈴木一朗が何故「イチロー」たりえるのか。その奇跡的なパフォーマンスを支えるものは一体何であるか。それを看破出来ている人は、どれ程いるでしょうね。はっきり言って、「自分の身体」を見つめた経験の無い人には、「解る」事は不可能でしょう。なんだか身体論めいていますが、実際、イチロー選手のパフォーマンスは、身体運動な訳です。そういう意味で、ルーチン云々というのは、本質では無い。むしろ、本質な違いがあるからこそ、そういった所が生きてくるのです。凡人がいくらそれを真似ても、イチローにはなれない。だけれど、普通は、本質的な所には、なかなか気付けない。だから、ああいった記号的な、見えやすい所が、「イチローを形成した」重要な因子として、クローズアップされてしまうのでしょう。あたかも、それが必要条件であるかのようにね。

イチロー選手の発言等を見てみると、その内容は、極意歌や武術の伝書等に書かれている様なものなのですね。だから、その意味では、目新しさがある訳ではありません。むしろ、肝腎なのは、イチロー選手が、最高のパフォーマンスを体現しつつ、そういった発言をしている事なのですね。要するに、武術の勉強をした訳でも無い人間が、野球という競技を窮める過程で感じ取ったものが、昔日の武術の達人の悟った境地に一致している、という事実をこそ、重視すべきなのです。言っている事の凄さは、ある程度認識力のある人なら、気付ける。でも、それを論理的に理解しただけでは、あまり意味が無いのです。

簡単に言ってしまうと、イチロー選手と同じ事を言うだけなら、誰にでも出来るのです。受け売りすればね。それをもって、他人を感動させるのも、さほど難しい事では無いでしょう。だけどそれは、決して、イチロー選手と同じ高みにいるのを、意味しない。言っている事を出来ているか、というのは、また別な話なのだから。

たまに、イチロー選手の発言を分析して、それが凄い、と絶賛している人を見かけますけれど、果たして、本当に解っているのかどうか。身体という観点が抜け落ちていれば、絶対に、それは不可能なのです。

余談。

かと言って、殊更に武術等の文化を持ち上げて論じたり、科学的分析的思考を忌避したり、というのも、全然ダメなのですが。いるんですよ、武術系には、そういう人が。スポーツ界にもいますよね。凄まじいパフォーマンスを体現した人が、そういう分析的なものを嫌う、という。直感に優れているから、その「まとまったもの」を切り分けられるのに、抵抗を覚えるのでしょう。気持ちは解らないでも無いですが。出来もしないのに否定する、という場合もありますが、それは論外ですね。

ちなみに、イチロー選手が何故凄いか、その本質的な所については、このカテゴリーを読むと、接近出来るかも知れません。手前味噌にもほどがありますが、気付いていない人が多過ぎる(と言うか、気付いている人が見当たらな過ぎる)ので、しょうがないですね…。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2007年12月 7日 (金)

科学と疑似科学の境界と、古武術的介護

医学書院/医学界新聞【〔連載〕研究以前のモンダイ(8)(西條剛央)】(第2758号 2007年11月26日)

西條氏は、伊勢田氏の著書を援用した上で、次のように論じておられます。

 しかし今のところ,心理学者のほとんどはそうした研究を疑似科学とみなしており,まともには扱いません。もし,「疑似科学」と「科学」の間に境界線があるとすれば,それは「そんなことあるわけない」という我々の常識(信念)によって恣意的に引かれているといっていいかもしれません。人それぞれ「常識」やそれを支える「体験」がちょっとずつ,あるいは大幅に違いますから,当然,それらの境界設定は原理的に不可能になるのです。

これは、超心理学について論じた部分ですが、どうでしょう、科学者側としては(西條氏も科学者ですけれど)、反論があるかも知れないと思っているのですが。伊勢田氏は、もう少し丁寧に、超心理学について論じておられたと思うのですが、西條氏の論では、”「そんなことあるわけない」という我々の常識(信念)によって恣意的に引かれている”という部分が、強調されているように見えます。

ところで、古武術を応用した介護技術というのは、妥当だとされる実証的方法によって、論証が試みられているんでしょうか。私は寡聞にして知らないのですけれども。

介護という現場において用いられるものなので、他の知識や分野、即ち、バイオメカニクスであったり、各種療法等と整合していて、ある程度メカニズムについても論証されなければならないと、私は考えます。当然、統計的方法を用いた論証も、考えられるでしょう。そのような方法を積極的に用い、検証作業を進めているのなら、それは「科学的」、と言えるでしょう。他の知識体系との整合性というのは、科学か否か、という議論において、最重要事項の一つであると思います。

そういう意味では、西條氏の言われる所の「再現性」と「反証可能性」という概念だけでは、科学的と言うには、些か論拠が弱いようにも思えます。尤もこれは、説明を節約した結果とも考えられますので、あまり軽率には物を言うべきではありませんけれども。

この記事に関しては、是非、色々ご意見を頂きたいですね。ニセ科学(あるいは疑似科学)問題と、武術・身体運動の、両方に関わる、大変興味深いトピックですので。

著作を援用された伊勢田さんのご意見も、知りたいですねえ。なんだか、ちょっと違和感のある援用の仕方に、私には思えるのです…。

て言うか、『疑似科学と科学の哲学』、つい数日前に再読したんですけど、図書館に返してしまったのでした。伊勢田さんは確かに、疑似科学と科学の間に境界「線」を引く事は不可能であるとは論じておられましたが、しかし、様々な観点を総合して捉えるなら、ある程度はっきりと区別する事は出来る、という結論でしたよね。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年12月 3日 (月)

メモ:内的状態の記号化の難しさ

主観:「力の充実感」←肯定的評価。別の表現では、「気力充満」、「呼吸力が漲っている」、等。

実態:生体力学的に不合理な状態。必要無いのに、拮抗筋の等尺性収縮による関節の固定を行う。この際の知覚に、上記の様な記号表現を与える。

本来、古来の達人・名人が、合理的な身体運動の際の知覚に与えた記号表現が、「呼吸力」等であるが、伝承の過程で、その中身が変容してしまったと考えられる。

それは、科学的方法が発達しておらず、従って当然、身体の状態を客観的に計測する事も出来なかったため。視覚的・聴覚的情報では無く、体性感覚的な、極めて内的な状態に関する情報であるから、記号化が難しい。簡単に言うと、力の入れ具合というものは、見えないし聞こえない(厳密には違うけれど※)。アナロジーを駆使したりし、極意歌伝書、口伝等で、なんとかその情報を伝達しようと試みたが、記号化の困難さを鑑みると、次第にずれが出たり、個人のセンスに依存する面が大きくなったりするのは、仕方の無い事なのかも知れない。

※身体表面の情報から、筋収縮の具合等を推測する事は出来る。また、身体各部のポジションから、どういう筋肉が働いているかを類推し、それを自身の運動に採り入れる。当然それは、ほぼ無意識的。いわゆる「センスが良い」とは、この様な能力が優れている事を言う。まさに、直感力がものを言う世界。

記号化しにくいから、フィードバックが難しい。自身の状態が果たして良いのか。これは、指導者にも言える。指導者自身が出来ているからといって、他者の状態を見極められるとは限らない。基本的には閉じている(内的な状態に関するものが大部分)ものだから、それを、他者の運動に照らし合わせて判断するのは、また異なった能力が必要であると考えられる。ちょっと極端な例だけれど、指導者が(良い運動を)出来ている、生徒も掴みかけている、しかし、指導者の指示をフィードバックする事によって(当然、指導者の善意は前提)、生徒がダメになってしまう事は、あり得る。簡単に言うと、綺麗な立ち方を出来ている人が、他人を綺麗に立たせる事が出来るとは限らない、という事。

そういう状況を打破するには、身体運動文化にも、科学的方法を採り入れる事が必要。当然、スポーツ等では、行われている。武術では、ちらほら見られる、といった所だろうか。

ただ、気を付けなければならないのが、人体の構造・機能の複雑性。たとえ、バイオメカニクス的に、優れた運動の論理が明らかになったとしても、それをそのまま吸収・実現するほど、人間はシンプルに出来てはいない。ある運動に○○筋が重要な役割を果たしている事が判明したとして、その筋肉を闇雲に鍛えれば良い、というものでは無い。数百の骨からなる骨格と、それを取り巻く数百の骨格筋によって、身体は運動する訳だから、システマティックに捉える必要がある。更には、人間は、複雑な認知機構を持った存在であるから、身体運動に関するある単純な情報を採りいれ、それを実現しようとしても、それが即出来る訳では無い。知識と体性感覚的な知覚が一致するとも限らない。それを行うためには、充分な科学的知識(身体運動の場合には、解剖学的知識は、持っておいた方が良いだろう)を蓄え、自身の内的状態を正確に把握する訓練が、欠かせない。後者には、いわゆる「身体の”感じ”」と、可視化された、自身の身体の状態に関する客観的データ(筋電図や圧力版から得られたデータ等)とを照合し、フィードバックしながら、より正確に自身の身体をコントロールするべく、努力すべきだろう。たとえば、ハンマー投げの室伏選手は、脊椎を、かなりの程度、任意にコントロール出来るそうである。(実際どの程度出来るかは不明。客観的に調べられたかも判らない。あくまで参考情報として)

たまに、武術等で、科学的方法を採りいれる事に対して、記号化に嫌悪感を示したり、「直感」の重要さを説いたりして、反論する人がいるが、そういう人は、想像力が不足している。即ち、直感で何とかなる人が、「天才」だった可能性。天才が、優れたセンスをもって真髄を捉え、高度な身体運動を実現した事実を基に、「直感に基づいてやる”べきだ”」、と解釈するのは、端的に言って、誤謬である。論理的には、現在のシステムが優れているのなら、達人・名人は、ある程度の人数いてしかるべきだが、果たして実態は、どうだろうか。※ここでは、達人・名人という概念は、相対的評価としは用いていない(たとえば、実力順に、上から何人を達人とする、という事では無い、という意味)。

…えっと、このカテゴリー、いつもこんな書き方ですけど、意味、解りますよね? 結構ややこしい事書いてるから、なんか心配です(笑) このカテゴリーに関しては、あまり、「解りやすさ」は重視していないので…。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年11月16日 (金)

宮本武蔵の像

紙本著色宮本武蔵像

本エントリーは、以下の資料を参考に書きます。内容は、ほぼ資料に従います。※高岡氏の著作には、いわゆる「トンデモ」な記述も散見されますが、大変深い洞察に溢れています。参考にしない手は無いでしょう。ただし、注意深い読みを要します。

武蔵とイチロー (小学館文庫) Book 武蔵とイチロー (小学館文庫)

著者:高岡 英夫
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

天才の証明―天才・英雄・名人の〈能力の設計図〉 Book 天才の証明―天才・英雄・名人の〈能力の設計図〉

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 極意化の時代―高岡英夫の極意要談〈2〉

著者:高岡 英夫
販売元:BABジャパン出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この画は、武蔵の「自画像」では無いようですが、いずれにしても優れたものだと思いますし、当時の高度な身体運動を体現した人間を描いた作として、注目に値する物だと考えています。

刀を持つ手の力がかなり抜けている――人差し指側が、空いている。太刀の方が、よりダラリと垂れ下がっている。

後重心――ぱっと見ると、「後に倒れちゃうんじゃ?」と感じる様な姿勢。大腿の裏側の筋肉で支える。

上体のリラックス――胸が突き出ず、腰が入らない、ニュートラルなポジション。首は、軽く前へ出ている様に見える。武術で鍛えた達人の姿勢を見ると、横や後からは「猫背」っぽく感じるのに、前から見るとスッと綺麗な姿勢に感じる。背中の筋肉が程よく発達し、かつ、基本的に弛緩しているので、ふわりとした印象を与える。肩回りが柔らかく、肩が落ちているので、なで肩の印象。しかし、背骨は真っ直ぐに立っているために、前から見ると、猫背の様には感じない。(現代の解りやすい例:野茂英雄選手)

足――いわゆる「ベタ足」に見える。重心が後方にあるので、そう見える。足首の底屈をなるべく使わないため。「リアレバー」(上記資料参照の事)。

肩――刀は重い物体だから、素早く振りかぶり/振り下ろしを行うには、強い上肢帯の筋力が必要だと思われるが、何故に、なで肩風か。刀の構造を考え、いかに有効に遣っていくか、というのを考えると、その論理が解ってくる。※ここら辺の論理を、ちゃんと力学的・バイオメカニクス的に認識したいものです。残念ながら、そこまで至っていません。簡単に説明すると、自分を中心にして刀を振るのでは無く、「刀を中心にして」身体を動かす、という事。上記資料を参照。

こんな所。

しかし、よくこんな画が残ってますね。凄い資料だと思います。なんでも、昔、この画に関して、体育学者間で論争が起こったとか。よく知りませんが。武蔵ほどの一級のアスリートが、これほど後重心なのは何故か? 予備緊張がほとんど見られないのは何故か? という話だったみたいです。簡単に言うと、重心を前に出してから足首で地面を押すのでは無く、身体を中心から「折り畳む様にして」動く訳ですね。特に、武術の様な、比較的狭い攻防空間でのやり取りでは、いかに「早く」動き出すか、というのが、とても重要なのですね。じゃないと、斬り殺されるので。筋肉的に言うと、腸腰筋。武術家によっては、倒れ込む様に、といった表現をする人もいます。本来的には、武術の型というのは、そういう身体運動を構造化せしめるための課目なのですが、果たして、それが達成されているかどうか…。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年11月 7日 (水)

二刀、武術書

<全日本剣道選手権>二刀流の山名六段が1勝 五輪書熟読(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

これは興味深いですね。

剣道で二刀を遣って一刀に渡り合う、というのは、格別な難しさがあるでしょうね。

『五輪書』は、身法についての要訣が書かれている、名著ですね。新陰流柳生派の伝書も、なかなかいいですね(いくつかの伝書を纏めた本を読んだのです。柳生延春 『柳生新陰流道眼』)。『天狗藝(芸)術論』とかも読んだなあ。内容忘れたけど…。武術書を数百冊所蔵していた先輩に貸して頂いたり、図書館に通ったりして、結構読みました。甲野善紀氏の本で、松林左馬之助の伝書も読みましたね。ここ数年、そっち方面の文書は読んでないなあ。今は、科学の本ばかりですね(武術を科学的に論じている本含む)。後何年かで、武術書に関して、かなりの程度、科学的に解読する事が出来ると思います。それまでは、特に読む必要は無いかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月16日 (火)

メモ:下肢の使い方

武術では、「足を使わない」動きが良い動きだ、と言われる事がある。

これは、端的に言うと、足首関節の底屈を主には用いない、もしくは、先行させない運動。

半身で立ってみる。そのまま、「足裏を地に着けたまま」、足底の前側で、地面を押す(つまり、足首を底側に回転させる)。当然、普通に足首を曲げれば、踵が浮く。しかし、足裏を着けたままという条件があるので、他の部分の筋肉を収縮させて、見かけ上は運動していない様にする必要がある。そうすると、下腿の辺りに充実感を覚える(筋感覚等が基になっているのだろう)。それを、「力(←武術的に肯定的な意味での)が充実している」、と捉える場合がある。ある知覚に、好ましい意味付けを行う訳である。

しかるに、その運動は、ただ姿勢を維持するためには、エネルギーを無駄遣いしているし、何より、本来他の目的に用いられるべき筋肉を、「余計な事に使っている」という意味で、力学的にも不合理である。

「下肢を動かすには、まず足首を底屈させる」、という運動は、無意識のレベルまで刻み込まれているスキーマであると考えられる。尤も、それを確認するには、実証研究が必要であるが(体育学等で、なされているかも知れない)。

骨盤から下の解剖学的構造を考えてみると、身体を移動させるために、まず足首を動かすのが不合理である事は、すぐに解る。四つんばいになってみて、手で地面を押して身体を浮かせようとしてみれば、解りやすい。肩を上げて上腕を回転させるのを先行させるのが良いのは、当たり前と思うはず。

だが、下肢の場合、なかなかそうはいかない。理由は何故だろう。常に接地しているからだろうか、手は細かい作業を行うので、上肢帯は、どんな人でも、ある程度は自由に動くのだろう(個人差は大きいが)。それが、下肢の適切(より合理的)な運動を気付かせない(思い出させないと言った方が良いか)のかも知れない。当然、社会的な理由、即ち、「教育」の効果も考えられる。つまり、歩く時は足で地面を蹴って進みましょうと教えられれば、それを学習する、という事である。

下肢の場合も、上肢と同じく、「根元から」動かすべき。そのためには、足首の運動を先行させずに(固めるという意味では絶対無い。これ重要。「足を使わない」というのを忠実に守ろうとして、ギチギチに固める場合が見られる)、大腿部を先行させる。

足首の運動を先行させないためには、あまり重心を前に置くべきでは無い。前に出過ぎると前方に倒れるから、強めに足首で地面を押して、倒れない様に修正しなければならない。だから、もっと後ろに重心を置き、足首を微細にコントロールし、倒れない様にする(ほうきを逆さにして、柄に掌を当ててバランスをとる遊びがあるが、それをイメージすると、解りやすい)姿勢を、デフォルトにするべきである。そうすると、「グッと足で地面を押している感じ」が無くなり、重心がゆらゆらしているさまを味わえる様になる。これが古来、「浮身(これは、全身の”感じ”に着目)」や「足を使わない(下肢に着目)」等と呼ばれた身法なのであろう。

即ち、「体幹主導系(被制御体幹系)」(高岡英夫による)の運動。体幹部の大きな筋肉を先行して用い、四肢はそれに従って動かす。手をつかわない、足を使わない、という類の教えは、この構造を身に着けさせるものだろう。

さて、大腿を先行させる、と先述したが、これを考える際、注意しなければならない事がある。

それは、「腿を上げる」積極的な意思を持って行うと、却って良くない運動になる場合がある、という所である。

大腿を挙上させる筋肉は、深部にある腸腰筋や、太腿(こっちは「ふともも」と読んで下さい)の表面にある大腿四頭筋であるが、腿を上げろと指示されてそれを行う場合、後者が積極的に使われる場合がある。大腿直筋は、二つの関節をまたがっているから、股関節の屈曲(挙上)と共に、膝関節も伸展させる。これを、最小限に抑えなければならない(下腿は自由に動いた方が、より精密な運動が出来る。力学的な問題もあるだろう)。だから、ただ単に太腿を上げて、腸腰筋を使うようにする、というトレーニングを見かける事があるが、あれは、「使えるようにする」という点においては、あまり好ましく無い。たとえば、太腿の表面に触れながら、そこが硬くならない様に注意しながらゆっくり腿を上げる、等の配慮が必要だろう。

また、大腿四頭筋をゆるめ、足首を柔らかく使うために重心を後ろにすると、腿の裏側が使える様になる。ほとんどの人は、前側に重心があり、前に倒れるのを防ぐために、足首の底屈や膝関節の伸展を使っているが、上手く身体を使えている人は、逆に、後ろに倒れるのを、股関節の伸展(大腿骨を、後方に回転)によって防ぎ、身体を支えている。「出来る」人は、普段何気無く立っている時も、腿の裏が張っているはずである。

この様にして、身体の中心が使えてきて、末端を微細にコントロール出来るようになってくると、独特の「感じ」が出てくる。古来、武術を修めた人は、この「感じ」を、何とか言語化しようとしたのであろう。それが、「浮身」であったし、「無足」である。「抜き足」や「差し足」も、その一種なのかも知れない。

参考文献:

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

サッカー日本代表が世界を制する日―ワールドクラスへのフィジカル4条件 Book サッカー日本代表が世界を制する日―ワールドクラスへのフィジカル4条件

著者:高岡 英夫,松井 浩
販売元:メディアファクトリー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月14日 (日)

メモ:一教~三教

一教(表)――脈部を捕る。上腕の、最も肘寄りの部分を捕る。手は鷲掴み。鷹の爪って言い方もあるかな。上腕が抜けそうな方向へ入る。腕は使わず(つっかえ棒の様に)、体捌きで。かと言って、ガチガチに固めては、絶対ダメ。

一教(裏)――他の全ての技に言える事だけど、肩関節の運動、肘関節の運動は、積極的には「使わない」。でも、固めない。両手に雑巾持って、窓を拭く様な感じかな。

二教(表)――一教と一緒。肘を押さえる手を疎かにすると、手首を持った手を甲に掛ける時に、返される。

二教(裏)――お辞儀する様に(極めの部分)。眠気に襲われて「ガクっ」となる様な感じで、上体を倒す。手でぐりぐりねじろうとしてはいけない。添えるだけでも効く。

二教(交差取り)――紐でも何でもいいけど、細長いものが、相手の前腕をぐるぐる巻く様なイメージで、手刀を使う。相手の前腕を回内させる技だという事を忘れないようにする。

三教(表)――途中までは、一教と一緒。肘を持った手を、相手の手を三教に捕るべく移動させる時注意。手首の極めは、相手の前腕が綺麗に回る様に、力を働かせる。相手の前腕が垂直で無ければ、それに応じて極める。

三教(裏)――途中までは、一教裏と同じ。極めから相手を引き倒す時、ちゃんと、相手の身体全体を見て崩す。極めを利用する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 7日 (日)

競技武術

少林寺、北京五輪に出場せず=競技武術と一線-中国(時事通信) - Yahoo!ニュース

当然と言えば当然、なのかな。

武術、北京五輪「特別競技」に=IOCも承認-中国(時事通信) - Yahoo!ニュース

中国伝統の格闘技「武術」

このトピックについては、全然知識が無いのですが、この表現は、公式のものなのですかね。

 中国武術竜獅運動協会の李傑会長は「武術は既に一定の世界的基盤を備えている。内容や試合ルールなどを改良すれば、将来五輪の正式競技にすることは可能だ」と強調した。

少林寺もそうですが、武術はスポーツと一線を画すものだ、と認識している所は、こういう動きを、あまり肯定的には受けとめないでしょうね。競技として捉えるのを、好まないかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 4日 (木)

達人業

宮本武蔵の画を、生で観てみたいものです。

枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)とか、芦雁図とか、鵜図とか。後、馬が描かれているのもありますよね。あれも観たい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月30日 (日)

観察力

A-WINGさんのブログで、漫画家の山本貴嗣さんのサイトを紹介して頂きました⇒あつじ屋(※軽い18禁コンテンツあり)

山本さんといえば、かなりマニアックな武術の知識に基づいた設定がある作品を描かれたり、ファミ通(『ファミコン通信』時代だったかな? 記憶曖昧)で連載されていたり、『メタルマックス』のキャラクターデザインをされた方ですね。

で、その山本さんのサイトですが、とても面白いページがありました⇒・武術のこと武術のこと 2武術のこと 3

そこら辺の武術家より武術の事を解っておられるな、という印象。それはもちろん、「身体で」、という事では無いでしょうけれど、非常に高い観察力と、それを分析し、記述する力を持っておられる。動きを観るセンス(註:私は「センス」という語に、「努力によらない」という意味を、含めません)が、ものを描くという行為によって、鍛えられたのでしょうね。

久々に、身体運動系で面白いページを見つけたので、嬉しくなりました。で、せっかくなので、山本さんの文について、引用して考察してみようと思います。※以下、山本さんに対する意見を書いている訳では無いです。

 無論なんらかの行動を起こすのに力がゼロでは動けない。なんらかの筋肉の緊張を伴うわけだが、実際に効果的な威力を出すのは「力む」ことと「完全脱力(糸の切れた操り人形状態)」の間にある状態であり、漫画や映画によく出てくる、筋肉や血管がびきびきとこれ見よがしに浮き出て膨れ上がった状態などでは断じてない。あれは武術的に言うなら使えない体、つまりは「死んだ」体である。

何もしていないのに、必要の無い筋肉を収縮させてしまい、「力を出している」という主観に満足しているかの様な人は、たまに見かけますね。当然それは、力学的にも不合理だし、エネルギーも無駄に消費する訳ですね。静止状態で、ある部分の筋肉を収縮させれば、拮抗筋も収縮しているのですから(だから静止している)、無駄なのですね。優れた身体運動とは、・必要な筋肉を ・必要なだけ ・適切なタイミングで収縮させる事なのですから。

ところで、こういう文脈で、「完全脱力」という語を、頻繁に見かけます。では、「完全脱力」とは何でしょう。これをちゃんと説明出来る人は、いないでしょうね。そもそも曖昧な概念です。たとえば、骨格筋を全て弛緩した状態、とすると、当然それは、不可能な事です。起立も出来ないし、何より呼吸(横隔膜や呼吸筋の運動の結果)出来ない。ですから、当然、それは前提としていない。では何を意味しているかと言えば、それは、目的の運動に必要な筋肉等を自覚する事無く、ただ「何となく」力を抜いている状態、という意味でしょう。即ち、構造化されていない、ごちゃごちゃした、偏った、等のイメージを含んでいる語、と言えます。科学的に脱力(に、高級な身体運動の前提の状態という意味を担わせれば)と言えば、必要な部分を弛緩させ、必要な部分を収縮させる、という事です(高岡を参照)。で、力を抜く、という所で重要なのは、「力を抜いていると思っているのに”抜けて”いない」、という部分。肩こりをイメージすると、理解しやすいでしょう。

 拙著『セイバーキャッツ』で主人公が力自慢の大男に腕を曲げてみろと言い、大男が必死に曲げようと試みるが曲がらない。しかし主人公の肩はまったくリラックスしていて自由に動くといった場面を描いたが、ああいう状態が実際にあるのである。

腕を曲げられない様にするには、腕を曲げる運動に拮抗する働きを持つ筋肉、即ち上腕の伸筋群を収縮させるのが必要です。しかるに、(これは、ちょっとプチ実験をやってみると実感出来ますが)「腕を曲げようとするから、曲げられない様に頑張ってみて。」と言って、相手の腕を曲げようとすると、多くの人は、力こぶが出る部分、つまり、「腕を曲げる」筋肉を、収縮してしまうのですね。これは面白い事です。筋感覚その他を総合した知覚に対する価値付け(頑張っている。力を込めている)と、解剖学的構造を合理的に用いる運動とが乖離する、良い例です。ちなみに、曲げられない方法は簡単。「力を抜いて、肘を伸ばす様にしてみて」、とでも言えば、力を出している感じが減り、前より遥かに頑張る事が出来ます。その時に上腕二頭筋に触れてみれば、ふわふわ柔らかいはずです。

その4 武術はクールに闘うものだ  2003 02 23

私も、武術に関心を持っている事もあって、涼やかな表情、表情筋の弛緩性が高い表情を好みます。イチロー選手や室伏選手がイメージしやすいかな。もちろん、室伏選手などは、ハンマーを投げ放つ瞬間は、物凄い表情をする訳ですが、それは、競技の特性もあるのでしょうし、爆発的にパワーを発揮する場面では、そういうのも必要になるでしょう。表情筋の弛緩度と、全身の筋肉の弛緩度に、どれ程の相関があるか、というのを考えるのも面白い(生理学的にはどうなっているのだろうか)。

 フィギュアからデッサン人形にいたるまで大半の、いやほとんど全てと言ってもいい「人形が」肩の付け根からしか腕が動くようにできていない。これでは実際の人間の可動ぶりを再現することなど不可能。
 本当は人間の肩は、腕の付け根である上腕骨の根元を後ろから支える肩甲骨と、前から支える鎖骨とで形作られた可動し変形する三角形で構成されている。

これは、とても重要。話は飛びますが、3DCGを見る際にも、この観点は大切です。ぱっと見、「何か違和感が…」と思った時、肩の動きを見ると、大概、肩関節から棒が出た様になっていて、そこが不自然に感じます。もちろんこれは、モデリングを複雑にする事によって処理が重くなるのを避ける、という面もあるでしょうから、それが一概に駄目だ、とか、解っていない証拠だ、という事では無いと思いますが、テクスチャ等によって、表面の質感がよりリアルになってくると、構造上の異なりは、より強く意識されてくるのではないかと思います。

ちなみに、と言うか。山本さんが書かれている肩の使い方の所に関しては、若干の注意が必要。たとえば、「肩を怒らせる」と形容される体勢はいけない、沈肩が重要、とありますが、これは、根本の身体の使い方を考えると、必ずしもそうとは言えない、と考えられます。つまり、同じ「肩を怒らせている」様に見えても、片方は、肋骨も引きつられる様に上がってしまい、背中側は、筋肉が癒着したかの如く、ごちゃごちゃに固まったまま、体幹が歪んだ様になっている。片や、肋骨のポジションはそのままに、上肢帯や背中の筋肉が弛緩し、肩甲骨や鎖骨を運動させる筋肉が適切に働き、体勢を作っている。もちろん、後者の運動が優れている訳ですね。外形的な所から姿勢の良し悪しを論じる際には、慎重になるべきですね。これは、「肩は下げるべきだ」と強く考え、肩甲骨・鎖骨をギッチギに固め、結局、肩周りをメチャクチャに拘束させてしまった経験がある人間の、言わば「忠告」です(笑) とにかく、「柔らかく」。

ボブ・サップ選手。最近は見ていないので知らないけれど、物凄く柔らかい身体を持っているな、という印象でした。肩なんか、ぐるんぐるん回っていて。そういう運動が出来て、しかも筋量が豊富であったから、相当な威力であったろうな、と思います。

以下、「武術のこと 2」より引用。

武田幸三選手。ムエタイ時代の映像を観て、おお、これは凄いかも、と思ったのですが、K-1での試合の時には、若干身体が硬くなっていた様な印象を持ちました。映像を観ての推測ですので、客観性には乏しいですが。

今は亡きお爺様は正座した状態からジャンプして部屋の天井を蹴破れたそうである。お父様は「残念なながら足跡をつけるのが精一杯でなあ」。
 ちなみにお爺様は柔術ではなくもっぱら柳生の剣を極められた方だったとか。
 私の知り合いである「息子さん」本人は
 「天井にキックなんか届きゃしませんよ」
 時代は流れてゆくことよ。

さて、どういう構造の部屋であったのか、とか、天井の素材は、とか、色々気にはなります。もちろん、現在の一般的な家屋の構造から考えると、そういう芸当は不可能、と言うのが、妥当ではありますね。と言うか、運動の過程が想像出来ない。

一般的に、野球指導者や評論家が勧めるのは、こんな投げ方だ。まず上半身をひねり、ぎりぎりまでためを作って、ボールを離す瞬間にそのエネルギーを爆発させる。しかし、桑田はそんな「ねじり」や「ひねり」が必要ないという。
 「今の僕の投球を見れば分かると思うけど。全然力んでない。ボールを離すまでの腕の振りは皆遊びなんです。どういう風にしてもよくて、最後に最大の力を出せればいい」
 その「最後」に、力を総動員するテクニックが古武術だという。

当たり前ですけど、桑田選手は、身体を「ねじって」いるし、「ひねって」います。当たり前ですね。人間の身体は、その様に出来ているのですから。で、ねじらないとかひねらないとかは、より合理的な身体運動を促すための言語装置であって、決してバイオメカニクスの概念に対応している訳では無い、という事は、きちんと理解しておくべきでしょうね。そういう武術的な言葉の用い方って、凄く慎重にしないといけないんですけどねえ…。たまに、スポーツと対比させるかたちでそういう事を言う人がいるので、控えて欲しいです。

溜めてるんですよね。見えにくい所で。残念ながら、その論理を詳しくバイオメカニクス的に論じられる程の知識を、現在の私は持っていないのですが。※山本さんがそういう部分を無視している、という事では無いです。上の引用部分の後に、ちゃんと書いてありますしね。

武術の動きをスポーツに応用、というのも、慎重に行うべきですね。何故なら、「そもそも違うものだから」。果たして、現代の武術家からスポーツ選手が得るものは、あるのでしょうか。

武術や格闘技の話をしていると必ずどこかで出てくるのが「どの武術(あるいは格闘技あるいは流派、門派)が最強か」という話である。

昔っから、格闘技・武術ファンの興味をかきたててやまない話題ですよね。まあ、とっても難しい問題です。流派とは何か。個人差は考慮するのか。ルールはどうするか。会場はどうするか。各流派の最強の人物を集めて大会を開いたとして、その大会で優勝した者が属する流派が最強、と言えるのか。等々の、様々な事を考えなければならない訳ですね。こういう所に興味がある人は、高岡英夫氏の、『武道の科学化と格闘技の本質』や、『空手・合気・少林寺』シリーズを読みましょう。山本さんの意見、なかなか手厳しいですが、至極正論ですね。

昔某局の「○レビジョッキー」とかいう番組の「ガンバル○ン」に武術家としてゲストで登場、たけ○軍団の若い者に稽古をつけるところが逆襲されていい恥をかいたらしいのだが、惜しくもその回は見逃した。どなたかご覧になった方はいらっしゃらないものか(笑)。

『スーパージョッキー』ですね。観ましたよー。まあ、詳しくは語りますまい…。知ってる人は知ってるでしょうし。しかしあれですな。伝書とか段位が欲しい、と思ってる人って、どのくらいいるのでしょうね。そういう記号だけ持ってたって、あんまり価値無いのに。

セクハラする指導者とかいるんですね。そういう道場って、消滅すればいいのにね。※セクハラの概念に関する議論などの問題は置いときます。

いや、夏目氏とのやり取り、実に興味深い。しかし、夏目氏は、実に丁寧で、思慮深い文章を書く方なのですね。感心しました。

------------

ふう…。武術系のエントリーは、長くなっていけないなあ。つい、調子に乗ってしまうのですね。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2007年9月25日 (火)

ゆる饂飩(←この字は固いな)

今年の夏はコレ! 「明星ゆるうどん」 | エキサイトニュース

明星食品ホームページ:ゆるうどん

ほっほっほ。これは良い。

って、明星の中の人、ゆる体操知って(やって)るのね。

結構広まってるんだろうか。

今度、食べてみましょうかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月18日 (火)

伝説の男

Yahoo!ニュース - スポーツニッポン - ヒクソンVS桜庭!大みそか実現へ

ほう。

これは大変興味深いですね。

ヒクソン、47歳かあ…。

個人的には、ヒョードルやノゲイラとの対戦を見たいとも思います。

ヒクソンの実力に関しては、懐疑的な見方もあるでしょうね。

日本での最後の試合から、7年も経っていますので、その間に競技人口が増えて選手層も厚くなり、技術的な研究も重ねられた事でしょう。その結果、トップに君臨した選手の実力は、まさに突出したものだと言えます。その最高峰の選手を、是非ぶつけて欲しい。こう思うのは、個人的に、ヒクソンの実力に大きな興味を持っているから、ですが。

まあ、相手は日本人選手に決まりそうですけれど。やはり、桜庭選手になるのでしょうか。それも大変、面白そうではあります。グレイシーハンターの異名を持つ選手ですしね。

ちょっと追記。

自分へツッコミ。

競技人口って、増えたのだろうか。増えたとして、プロになる選手も増え、それが全体のレベルを底上げする、というのは、必ずしも言えないかな。
技術的な研究が進む、というのは、ある程度言えると思います。情報の伝達の問題でもありますし。

総合格闘技に注目する人が増え、それが莫大な金を得るビジネスの対象として捉えられると、優れた選手を発掘しようという動きも活発になるでしょうから、結果、強い選手が多くなる、というのは、言えるかな。

もちろん、頂点のレベルの選手の話ですから、個人のセンス(肉体的資源含め)による所も大きいでしょうね。それと技術の進歩との相互作用。

ヒクソンは、体格は、決して恵まれているとは言えないし、年齢も、50手前なので、体力的(機能的)な衰えも、出てきているでしょうね。後は、持っている資源を「どの様に合理的に使うか」、というのがポイントです。しかし、ヒョードルなんかは、尋常じゃ無いですからね(身長はさほどでも無いけれど)。ヒョードルvsヒクソンというカードは見たいですけれど、組まれる事は無いだろうなあ。っていうか、ヒクソンは、もう日本で試合はしないと思っていましたし。また見られる可能性があるだけ、良いかな。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年9月10日 (月)

探し物

うーん…。

Googleで、合気の技法を科学的に考察しているページを探してみたのですが、見つからないですねえ。

たとえば、合気上げについて、物理学や生理学・心理学的概念を用いて説明している所とか、無いかなあ。

どれも、科学的概念とは程遠い、独自に造語したものとか用いていて、今一つです。内田樹氏の様に、意味のよく解らない分析をしていたり、とか。

科学と武術の両方に関心を持っている人が、あまりいない、という事なのでしょうか。

もしご存知の方がいらしたら、教えて頂けると、ありがたいです。

そういえば、この本、まだ読んでないなあ↓

武道の達人―柔道・空手・拳法・合気の極意と物理学 Book 武道の達人―柔道・空手・拳法・合気の極意と物理学

著者:保江 邦夫
販売元:海鳴社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (7) | トラックバック (1)

掘り出し物

やばい。おもろい⇒サイエンス チャンネル | シリーズ紹介:アルティメットクラブ

『なつきクライシス』クラスにおもろい(言い過ぎ)。

何が面白いって、サイエンスチャンネルでこのストーリーってのが、イイです。

テーマソングもなかなか(笑)

いいもの見せてもらった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 5日 (水)

必修化

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <中央教育審議会>「武道」必修化を大筋了承

何故、武道を必修化しなければならんのか、よく解らない。

体育の授業で武道をやって、

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」

という目標が、達成出来るんですかね?

弓道の様に高度に形式的なものはともかく、武道って本質的に、暴力と重なる所がありますからね。人を投げたり、竹の棒で相手を打ちつけたりする訳ですから。そういう所は、よく考えるべきだと思うのですよね。

-----------

ここからは、極めて個人的な意見。

私は、武道の必修化など、する必要は無いと考えます。

より身体能力の基礎的な部分を向上させる体操なりを開発し、それを組み込むべきでしょう。

武道は、相手を攻撃し、また、攻撃から身を守る術、即ち、「技術」です。そういう技術を身に着ける場合、必ず、「心構え」をも鍛えなければなりません。

幼少の頃から、優れた指導者の下で武道をやってきているならともかく、中学の体育の授業でやるなどという、「付け焼刃」なやり方が良い効果を及ぼすか、甚だ疑問です。

上に「心構え」と書きましたが、当然、「指導者の心構え」も、問われる訳です。本質的に暴力である武道を子ども達に教えるのだから、優れた精神性を持った指導者でなければなりません。その様な指導者を、確保出来るのでしょうか。体育の教員に、研修でもするのでしょうか。武道というのは、具体的な技術と、様々な理念との集合です。短期間だけ学んだ人間が、それを正確に理解し、実践出来るのでしょうか。

現に、武道をやっている人間が、

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」

この様な態度を身に着けているのですか? ここで言われる「伝統と文化を尊重」とは、どういう意味でしょう。それは果たして、武道を行う事によって、確実に養われるのでしょうか。

※誤解されると何なので、書いておきます。

別に、武道を体育でやるべきでは無い、といっている訳では無いです。必修化は要らないでしょう、という事。

もしなったらなったで、体育の授業だから、まあ、楽しんでやればいいんじゃない、という考えです。たまに、武道が、暴力性の象徴であるかの様な事を言う人がいますが(私が書いたのは、実体的には暴力だ、という意味)、私は、その考えには、与しません。そこから関心を持てば、歴史なりを学べば良いし。ですけれど、何で、「伝統と文化を尊重」したりする「ために」、やらせなくちゃならないんですか、と思うのです。そういうのは、家庭の教育に任せる範囲の事でしょう。伝統文化に触れさせるのも良いし、新しいものを学ばせるもの良い。だけど、学校でわざわざやる事か? という感じです。

体育の授業でやるのだから、色々な種類の身体運動があるのだ、というのを教えるためにやらせるのなら、それは別に構わないと思いますけれど。実習は選択にして、保健の授業で、歴史なりをやるのが良いですかね。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007年8月30日 (木)

高級技の汎用性

覚え書きより。修正あり。

○術の汎用性

充分な闘気で向かってくる敵に対して、触れ合気の様な術技がどこまで通用するだろうか。

生理・心理学的反応がメカニズムの大部分を占めるのだから、相手の状態によって、技の効果も変わってしまうのではないか、という疑問が出てくる。我を忘れる程怒り狂っている敵に対して、そっと触れただけで(力学的に小さいエネルギーで)動きを止め、或いは体勢を崩す、というのは、やはり難しいのではないか。

○考えられる答え

  • 練習時の様な、ある程度の協調的な関係があり、お互いに平静な状態である場合にのみ通用する、(非協力な”敵”を制する目的からすると)汎用性の低い技術である。
  • 相手の状況に左右されない(つまり、ごく敏感な生理学的・心理学的メカニズムに働きかける)。という事は、誰にでも、どの様な時にも、相手が反応するだけの刺激が与えられるならば通用する、極めて汎用性の高い技術である。

--------------

端的に書くと、こうです。

「軽く触れる程度の力で相手を制すると言われる技には、どれくらいの汎用性があるのですか? こちらを殺そうとする相手にでも、出来るんですか?」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年8月18日 (土)

達人技

kikulogで、YMNさんが貼られた達人?の動画、ご覧になりました?

あれが武術だ、と思われるのはアレなので(笑) 本物の達人の動きを、ご覧下さい。武術に明るく無い方でも、「何かが違う」、というのは、感じる事が出来るでしょう 。

Aikido Journal Videos(「Gozo Shioda at Yoshinkan Aikido Demonstration c. 1980 (4 min. 20 sec.)」をダウンロード。動画が追加されると、ページが変わるかも)

でも、ちょっと画質が悪くて、何をしてるかさっぱり解らん、って事になりそうな…。YouTubeに上がってるのは、ことごとく著作権的にアレそうなので。ここくらいしか無かったんですよねえ。

『グラップラー刃牙』シリーズの、「渋川剛気」ってご存知ですか? 故・塩田剛三師範は、そのモデルになった方です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月15日 (水)

誰それの合気

佐川幸義師範の合気はどうだったか、というのを考えるのは難しいですね。まず、動画が残っていない。そして、そもそも受けた人しか、「感触」が解らない。だから、体験者の証言から、推測していくしか無いのですよね。

現象としては、手首を掴ませた老人が身体をちょっと揺すったら、掴んでいる人が吹っ飛ぶ、というものですね。前にも書いた通り、その様な現象が起こるには、色々な可能性がある訳です。

たとえ、「自分は本気で掴んでいた」、と主張したとしても、それは、そう「思って」いただけで、実際に、力学的に合理的な掴み方が出来ていたか、というのは、相対的に独立の話です。

だから、同じ様に見えても、実は違うのだ、という意見が出て、議論になり、しまいには、水掛け論になってしまう訳です。

一つの技法のメカニズムについて論じても、他の技法も同じとは限らない、というのもあります。手首を掴ませて行う技は、バイオメカニクス的説明とか、生理学的な反応を使っているのだろうか、等の仮説を立てられるけれども、柔らかいセーターの襟元を持たせ、そこから相手を吹っ飛ばす、というのは、どうしても、解らない。

じゃあ、どう考えるか。いくつかの可能性がありますね。もちろん、本気で掴んで、ちゃんと掴めている。それを軽く投げ飛ばす、というのを前提にするのですね。人文・社会科学的メカニズムの割合が大きい現象は、除外します。で、そういう技術が出来ているか、そして、何故出来るのか、というのを検証するのは難しい。何故ならば、出来る人が、いないから。

出来る、と言う人がいれば、その人に対して、誰かに本気で掴ませて、技が出来るかを確かめなければなりません。当然、同門の人等は、除外します。まあ、一番良いのは、「金を掛ける」事ですね。押さえつけられたら受けの勝ちで、手が上がったら(ここでは合気上げ)取りの勝ち。で、勝った方に5,000円進呈する、とかですね。受けには、古流や合気道を見下していて、かつ格闘技を経験している人がいいでしょう。力士とかプロレスラーがベターですね。強い人達に、本気を出させる訳です。20~30人も集めれば、色々解るのではないでしょうか。※この案は、高岡英夫氏が、本に書かれたものをヒントにしています。ソース失念。内容は、剣術に対する技を鍛えたいなら、金を払って、本物の剣術家に切りかからせれば良い、といったもの。ここで金を払う、というのは、剣術家側にもリスクがあるから、という理由。

そういう実験を重ねて、研究していくべきでしょうね。もしかすると、佐川師範が演じて見せたと伝えられる技法が、お手盛りを排した条件で実現し得る、というのは、永久に示されないかも知れませんね。真面目な話。もし、そういう技法があり得る、と言うのなら、自分がやるか、出来る人を連れてきて、厳しい実験条件の中で、技をやって貰わなければなりません。「いや、出来るんだ」、と言ったって、「じゃあ、見せて下さいな」、と返されるのが、落ちです。

受けと取りは、「手首を掴む/掴ませる」という協力関係を保ちつつ、「上げられまいとする/上げようとする」、という敵対的な関係でもあるのですね。そういう意味で、かなり特殊な条件です。そういう所も考えないといけません。

言及しない方がいいかも知れませんが、生体磁気云々について(多分、ほとんどの人は、何の事か、意味が解らないと思いますが…)。仮説を出すのは結構だと思いますけれど、科学的にこうなっている、と主張するなら、立証の責任は、言い出した側にあります。論文なりを出さないと、誰も相手にしませんよ。いや、実証研究をした、と言っているんでしたね。結構物凄い主張をしているのだから、相当しっかりした証拠を出さなきゃね。

あ、ちなみに。私は、別の所にも書きましたが、高岡氏の説の、「意識操作」には、全く賛同していません。何らかの心理学的な関係によって、離れた人間が吹っ飛ぶ(様に見える現象が起こる)、と言うならばともかく、他人の意識を直接操作出来る、というのは、飛躍が過ぎます。

透明な力―不世出の武術家 佐川幸義 Book 透明な力―不世出の武術家 佐川幸義

著者:木村 達雄
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月13日 (月)

口伝

この場で考えたり、前に思いついた、「身体運動の要諦の、メタフォリカルな表現」、つまり、「口伝」を、書いてみます。比喩表現なので、全く同じものが、どこかの武術の流派に存在するかも知れません。武術家は、「喩え」が好きなので、似たような事を言っている人は、沢山いるでしょうね。結局、身体の力を抜いて、柔らかく使い、中心を先行させる※のを、促す訳ですね。だから、言葉は違っても、本質的な所は、共通しているのですね。後は、具体的に、どういう状況であるか、というのを、加味している訳です。※高岡英夫氏の言う「体幹主導系(被制御体幹系)」

  • 身体を、鞭を撓わせる様に動かす。
  • 犬が身体を震わせる様に。※中国武術に、「トウケイ(多分、漢字はちゃんと表示されない)」というのがあった気がします。
  • 全身を、雑巾が絞られる様にする。※テンシケイ、とか。
  • 酔っ払って倒れこむ様に。※力を抜いて、身体をバラバラに。
  • 腕がちぎれて吹っ飛んで行く様な感じ。※突きとか。
  • 背骨の辺りに止まった虫を払い落とす様に。
  • 身体を波打たせる。※定番。
  • 砂で出来た棒を壊さずに持つ様な感じ。※得物を持つコツ。
  • 腹の中から太股を吊り上げる感じ。※腸腰筋主導。空手の柳川昌弘氏がよく使われる表現(具体的な言い回しは違う)。
  • 肩甲骨が手になった様な感じで。※腕を動かす際には、肩甲骨・肋骨を先行して動かす。
  • 足は「置く」。※私は、「抜き足差し足」というのは、腹の中から脚を動かすのをイメージさせる言い回しでもあったのではないか、なんて思ってます。
  • 鍔元から剣先まで使って撫でる様に。※刀の操作。料理をやる人には、刺身を切る様に、というのも良いかも。
  • ちょっと高めの椅子に腰掛けているかの如く。※ハムストリングス主導の起立を促す。高岡氏が著書で、塩田剛三師範の姿勢を評する際に、同じ様な表現を用いました。余談ですが、私は、その部分を読んで、「おお、同じ事書いている」、と思いました。いや、私が高岡氏の説を参照にしているので、当たり前と言えば当たり前ですが。
  • 腕に麻酔が掛かって、全く動かせないかの様に。※私が実際に用いたイメージ。とにかく、四肢の運動を先行させない。もちろん、脚にも用いる事が出来ます。
  • 上腕が抜けて、ぶら下がってしまう様な感じ。※三角筋やらの弛緩を促す。試みてから出来るまでに、数ヶ月掛かりました。表面にある筋肉の場合、触れれば弛緩しているかどうか解るので、便利。

こんな感じですかね。一番良いのは、解剖学的知識を身に着け、それと知覚を正確に結びつける事です。それが最も客観的ですから。ただ、あまり解剖学的に分析的にやろうとすると、難しい所もありますね。知覚が主観的であるという事も、ややこしい。そういう事情があるので、武術における口伝は、バラエティ豊かに発展したのでしょう。現代なら、筋収縮を計測する方法もあるし、解剖学の知識も簡単に手に入るので、それを使わない手は無いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 7日 (火)

メモ:合気

例によって、武術に関心の無い方には、全く意味の解らない文章です。出来れば、関心の無い方の感想も伺いたいのですが、書きようも無いですよね…(ここは解るがここの意味はさっぱり解らん、とかでもいいのですけれど)。

  • 「合気」という現象。ここでは、両手取りに限定して話を進める。
  • どの様な現象が起こるかを記述する。
    • 受けは力一杯、取りの腕を掴む。一点に固定し、そこから動かさない様にする。
    • 取りは、掴まれたまま、まるで掴まれていないかの様に、自分の腕を動かす。
    • その後、各種の技に移行する。
    • 具体的な技は置いて、この、「掴まれていないかの様に」という部分が、「合気」という部分だと言える。
  • ポイントは、取りが、「掴まれていないかの様に」、自分の腕を操作出来る、という所である。
  • これは、主観的な、「ぶつからない」とか、「抵抗を感じない」という言葉等でも表現される現象。つまり、一般的な、物を持ち上げる様な運動とは、「感じ」が異なる、という事である。
  • 外から観察して、腕を掴まれた人間が、自分の腕を自由自在に動かせる、と見える現象が成立するには、いくつかの可能性が考えられる。以下に記述する。
    1. 受けが、本気で掴んでいない。
    2. (上とも重なるが)取りが、相対的に強大な体力(筋力)で腕を「動かせている」ので、主観的な、「力のぶつかる」感じが無い。つまり、筋力をぶつかり合わせている、という事。
    3. 何らかの、生理学的・心理学的メカニズムが作用し、受けが、まともな筋力発揮を出来ない状態になっている。
    4. 何らかの、バイオメカニクス的メカニズムが作用し、受けが身体構造の弱点をつかれ、取りのわずかな筋力発揮による運動によって、力が出せない状態に追い込まれる。
  • 1:これは、人文・社会科学的メカニズム(高岡)による合気。即ち、「やらせ」に近い。論理的には、受けが意図的に軽く掴む場合と、無意識的に軽く掴んでいながら、思い切り掴んでいる様に思い込んでいる場合がある。
    • 上位者を立てようと、わざと軽く掴む。
    • 無意識的に、相手が技を簡単に掛けられるくらいの強さで掴んでいるが、自分では、そうでは無いと思っている。
    • 主観的にも強く掴んでいると思っているが、上達の度合いが低い為、掴み方の要領が解っておらず、結局、技が容易に掛かる。
  • 2:結局、受けが固定しようとする力に対抗出来る力を加える事が出来れば、腕は動く。腕相撲等と同様の論理。成人が、小学2年生相手に腕相撲をすれば、力を使っていない様な主観で、相手を手玉に取る事が可能である。一番目の現象が起こる為の、バイオメカニクス的な原因である。
  • 3:これはつまり、生理学的反射や、条件反応的なメカニズムが働き、身体が思う様に動かせない状態に陥っている、という事である。人文・社会科学的メカニズムとは異なり、「やらせ」的要素が無くなる。つまり、「動きたい」と強く考えても、何らかの生理学的な論理により、動く事が出来ない、という意味。
  • 4:人体は、解剖学的構造に規定された運動を行う物体である。従って、構造として、筋力発揮が行いにくい、力学的な、いわゆる「弱点」の様なものが存在すると考えられる。
  • 再び、「合気」について考える。それは武術的技法であるから、取りを制しようとする相手に対して、そうさせまいと、技を施す訳である。従ってそれは、取りと受けの目的が、相反する事を意味する。即ち、「受け:取りが腕を動かせない様にする」「取り:掴まれている腕を自由に動かす」、という具合に。
  • であるから、人文・社会科学的メカニズムによって成立する合気は、この議論においては排除される。なぜなら、人文・社会科学的メカニズムによる合気は、自然科学的・心理学的(社会心理学は除く)合理性を前提としないでも成立するのが条件なので、「受けが取りを、動かない様に制する」事が「出来ない」からである。受けが取りを動かない様に「してしまったら」、自然科学的合理性が必要条件となるから。
  • 次に、受けが取りより体力的に劣るから、取りが技を施す事が出来る、という場合を排除する。これは、武術家の共通認識として、「強大な筋力を用いる技は、駄目な技である」、というものがあるから。一般的に筋力の衰える高齢者の達人が、屈強な若い弟子達を、ものともせずに投げ捨てる、という現象を、高級な技と看做している。
  • これは言い換えると、高齢者に備わっている程度の筋力でも、高級な技が施せる筈である、というのを示している。当然、人文・社会科学的メカニズムは除外するので、科学的合理性が高い身体運動によって、達人技が成立する、と考えるのである。
  • 再び、両手取りを考えてみる。それは先ず、取りの両手首を、受けが両手で把持する、という状態から始まる。そして受けは、取りの腕が動かない様に、身体をコントロールする。
  • 取りは、両手を拘束された状態から、自由に動かす事が目的であるから、受けが力を発揮出来ない状態にしなければならない。それには、1)小さな力でも、生理学的な反応を引き起こす事が出来るポイントに刺激を与える(大東流琢磨会の、森恕師範が、この様な説を主張)か、2)バイオメカニクス的な、構造的弱点を攻め、力を出そうにも出せない状態に陥れる、という可能性が考えられる。
  • 1):相手が把持する掌のいずれかに刺激を与え、それが、力を出せないという身体的反応を引き起こす、という説。この説についての疑問
    • もしその様なポイントがあれば、相手の体力的な条件を無視出来、生理学的反応を利用した技法であるという意味で(という範囲に限定して)、大変に汎用性が高い。論理的には、ある程度の体力さえあれば、プロレスラーの様な体格の者をも制する事が出来るのだから。しかし、掌にその様な特異的なポイントがある、というのが、よく解らない。解剖学的・生理学的根拠が示されている訳でも無い。
    • 元々合気というのは「奥義」として取り扱われる様なものであるので、そこには「守秘」がついてまわる。即ち、仄めかしはするが、細かい論理は外部に出す事が出来ない、という具合に。また、達人技であるから、そもそも技法を体得している人間の数自体も少ない。加えて、現象が観察出来たとしても、それが人文・社会科学的メカニズムに拠らない、という事を論証するのも、難しい。だから、「どうしてそうなるのですか?」と問うても、秘密であると言われるか、全く科学的で無い説明体系を持ってこられるかの、どちらかになる。
    • 仮に、その様なポイントがあるとして、その様な繊細な刺激を、どんな状況においても駆使する事が出来るか。また、受けの精神状態によって、効果が変わるという事は考えられないか。
  • 2):相手が反抗しにくい所に力を加え、腕を操作する。この論理についての疑問
    • 構造的弱点を攻めるのは、ある程度合理的であるが、もし圧倒的な筋力差が存在した場合には、どうなるか。一般程度の体力の人間が、力士の様な者に掴まれたとして、技を施せるか。
    • 弱点を攻めても、受けは、腕や手指がコントロールしにくくなるという程度であるが、そこから、身体全体が動けなくなるとか、爪先立ちになるとかの、よく合気の技法の説明で出てくる現象へ、どう移行するのか。
    • 他人数掛けの問題。合気系武術には、自分の両手を4人に持たせて技を掛ける様な技法が存在する。その場合に、様々な方向から伸びている腕の解剖学的弱点を攻める、などという事が、果たして可能か。神秘的とすら表現される合気の秘技には、デモンストレーション的技法(技法のレベルを誇示するという意味。演技的という意味では無い)としても、他人数掛けがある。
    • 構造的な弱点、と言っても、人間は、多数の関節を持ち、それを脳で制御して運動させる存在である。従って、受けも、抵抗をし続ける。その様な状況下での技法に、謳われる程の汎用性があるか。
  • 武術的には、「汎用性」が重要である。相手がどんな体格であっても、どんな精神状態であっても、同じ様に出来る、という汎用性。汎用性が低い技法を「奥義」などと言う事は出来ない。その様な汎用性を満たす事が可能なのか。論理的に当然ながら、「合気」というもの自体が「幻想である」、という主張すら、考える事は出来る。否、寧ろ、武術に懐疑的な人は、その様な認識を持つ傾向が、あるのかも知れない。

合気について科学的に考えると、ざっと、これくらいの事は出てくる訳ですね。ポイントは、汎用性。誰にでもどんな状況でも出来るか。そして、体力的に強く無くとも出来るか。もしくは、高齢でも鍛えられる筋肉を主に使えば出来るのか。

私自身は、高岡英夫氏の論理が、有効であると考えています(意識操作除く)。もし高岡氏の仮説が否定されれば、合気という現象は、それ程の汎用性の無い技法であって、様々な神秘的説明は、全て幻想、もしくはお手盛り、或いは単に、受けの能力不足によって、相対的に、「技が出来てしまった」かの、いずれかであった、という事になります。高齢の達人が…というエピソードは、相対的に強大な体力の持ち主の話だった、という事になっちゃう訳ですね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

タブー

Book 黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る

著者:ジョン エンタイン
販売元:創元社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは、実に興味深く、考えさせられる内容でした。オススメです。

日本に生まれ、育っていると、人種差別というものを、実感として捉える事が出来なかったりします。正直、「そういう発言まで問題になるのか」、と驚かされるくらいで。

日本人の会話では、「黒人はバネが違うから」、とか、「元々身体能力が違うんだよ」、といった評価が、よく出てきますよね。多くは、特に差別的な意味合いでは用いられないと思うのですが、その様な言明でも、問題になる場合があるみたいです。

非常に難しく、根の深いテーマですね。自分の無知さを痛感し、もっと勉強すべきだと、反省しました。

とても面白い本なので、是非お読み下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月18日 (水)

瓦重構造

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 柔道部員投げ続け重傷負わす 中学教諭を送検

武術・格闘技を行う者は須らく、それらが、「かつ暴力」というあり方をしかしない事を、肝に銘じておくべきでしょう。

教師がいかなる認識を持とうとも、柔道の投げ技というものは、実体的には即暴力なのです。本質的に、相手を攻撃するものなのです。「こう思っていたから」という理由で言い訳する、免責を求めるのは、あまりに身勝手です。その様な行為には、やる側の意味付けと、やられる側の意味付けに、ずれが生ずる事があります。だから、「やる側」は、自分の意図が伝わっているか、独善的になっていないか、という事を、常に心掛けなくてはなりません。「躾」と称した行為が、相手を服従させる装置になりかねないのですから。社会的立場、肉体的優位性を利用した行為ですからね。ちょっと間違えると、大変な事になる訳です。

他の人にこうやって上手くいったから、この人にもこうやれば良いだろう、とか、自分がこうされて良い経験になったから、他の人にもそうしよう、というのも、よーく考える必要があります。自分が信じている機能が常に発揮されるとは、限らないのですから。

こういう論理は、様々な所に見られます。「フザケかつイジメ」とかですね(下記文献を参照)。だから、自分が何をやっているか、それがどう受け取られているかを、常に考えるべきなのです。「善意かつ不寛容」なんてのも、あるかも知れません。

参考文献:光と闇―現代武道の言語・記号論序説

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

フィットネス

ITmedia +D Games:宮本茂氏が「Wii Fit」を高らかに掲げる――「任天堂メディアブリーフィング」 (2/2)

今なら、ビリー隊長監修のフィットネスゲームを出せば…。

或いは、「Wiiで始めるゆる体操」とか…(←こっちは無理。身体を細かくゆする情報を入力するのが、出来ないから。カメラで捉えた画像の変化と重心位置の変化程度では、細かい情報がフィードバック出来ないので、上達の判定(筋肉が弛緩したりする)も不可能)。

こういうのって、早く出したもん勝ち、そして、タイミングがポイント、ですからね。やっぱり任天堂は、上手い。最近流行のフィットネスを結びつけるなんて、なかなかじゃないですか。で、フィットネス系のゲームというのは、前からあった訳です。でも、ある程度本体が普及して、「簡単そう」、「とっつき易そう」なイメージを世間に定着させた上で、こういうのを出すのが上手いのですね。たとえば、今PS3で出したって、ダメダメでしょう。要するに、「印象」の力です。また、より性能の高いデバイスが安価で開発出来たり、それをワイヤレスで作れたりする時期である事も、良いタイミングなんでしょうね。

イメージを見ると、材質がよく判りませんが、耐久性はどうなんでしょうね。なんか、興奮した人が暴れて、ぶっ壊しそうな予感も(笑)

前、こんな事を書きました⇒Interdisciplinary: 展望

現在バイオメカニクス研究や3DCG制作で用いられているレベルのモーションキャプチャが安価になり、ゲーム用のデバイスとして採用されるかも知れません(場所の問題あり)。フォースプレート(圧力板)を用いて、荷重を入力信号とするものが、現れるかも知れません(より精緻なものが、という意味です)。その様な入力機器と、それらからの信号を充分に処理出来るハードウェアが安価で供給されれば、極めて多様な情報を入力出来るゲームが、誕生する事になります。

この流れだと、次は、身体にマーカーを付けて、その位置情報をカメラで取り込むデバイスが出てくるんでしょうね。たとえば、ここを参照⇒ジースポート

ゲームって、面白いですね。

追記:こんなブログ見つけました⇒任天堂がWii FitとWiiバランスボードというすごいものを発表:[mi]みたいもん!

このインターフェイスでどういうゲームが出てくるか今から楽しみです。つーか、ビリーは今すぐビリー in Wii Fitっていうのを開発すべきですね。

あっはっは。やっぱりこれ、思いつきますよねー。

動画もありますね。重心位置が可視化出来るのは、便利だなあ(ゲーセンにありましたね、こんなの)。武術家はこれを買って、自分の正中線の未熟さ、重心制御の下手さを、客観的に知りましょう。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2007年6月25日 (月)

もう一度

ずうっと前、『ジャングルTV ~タモリの法則~』で、ゴリラか何かのマネをするオジサンが出ていたのですが、それが、衝撃的な、凄まじい動きだったんですよね。単に表面的な動きを真似ている、というのでは無く、運動構造そのものが、ゴリラになったかの様な。果物の皮か何かを投げたのですが、それがまた、凄い動きで。

ゴリラのマネをする世界で有名、とかなのかな。よく解りませんけど。もう一回観たいなあ…。もしかしたら、自分が過度に高く評価した可能性もあるのですが、それの確認という意味でも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月10日 (日)

メモ:印象で評価

・武術の神業と、走り高跳びを対比。

・パフォーマンスの凄さ。

・武術―解りにくい。高跳び―解り易い。

・後者は、観察者のパフォーマンスとの連続性を、認識し易い。対して前者は、それが無い。

・だから、前者のパフォーマンスに、「神秘性」を見る。実際には、高跳びは、2メートル以上跳ぶ訳で、それは凄まじいパフォーマンスなのだが、改めて指摘されないと、意識しにくい。勿論これにも、限度があるから、たとえば、「走り高跳びで20メートル跳ぶ」、という話があれば、「そんなバカな」、となるだろう。

・この様な、社会心理学的な認知というのは、大きく影響しているだろう。

・実際のパフォーマンスレベル。どちらが凄いか、というのは、一概には言えない。

・しかし、前述の「神秘性」により、武術の技の方が「凄く」見える。現象を視覚的に認知。フィクションの世界でしか見られない様な、いかにもあり得無そうな現象だから。従って、当然、「胡散臭い」という印象も与える。「やらせに決まっている」、という具合に。

・「神秘性」は、指導者の神格化を促す場合もある。原理に「気」などの神秘的概念を用いているケースだと、より促され易いかも知れない。

・パフォーマンスのレベルをどう定義するか、というのもポイント。環境条件。武術の場合、対者の運動に的確に応じなければならない。緻密な制御。高跳びは、又違う。体力的な因子が、大きく重要。地面との関係を、特に重視。運動構造としては、記号的な制約が緩い競技の方が、複雑。即ち、組み手を行う格闘技等の方が、多くの陸上競技より、複雑な構造。※運動構造の「複雑―単純」と、パフォーマンス達成の難度は、相対的に独立。
弓道は、運動構造の単純な種目だが、的から遠く離れれば、途端に難度が増す(高岡の喩え)。パフォーマンスのレベルを、完全に客観的に記述する測度を作るのは、難しいだろう。複雑―単純というのをどう科学的に表すか、というのも、難しい問題。運動学的には議論がなされているかも知れないが、私は不勉強。高岡は、記号論的に分析を試みた。高岡提唱―構造運動学や、構造競技学。アナロジー:オセロより将棋が複雑である。

・武術は一般的に、対人のパフォーマンスだから、人文・社会科学的メカニズムが介在する余地が大きい。出来ていなくとも、受けがコロコロ転がれば、外部から捉えた現象としては、素人には、全く見分けが付かない。高跳びは明快。跳ぶか跳ばないか、だから。そこに、武術の独特さがある。7・8段より実力の高い低段者が存在する。段位は、パフォーマンスレベルを示す記号というより、もっと社会的な記号と捉えた方が良い。※競技・流派によって、違いがある。同じ会派でも、指導者によって異なる。これは、段位に客観性が無い事を示してもいる訳であるが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 4日 (月)

格闘術とか狩りとかビリーさんとか

DAIのゲーマーズルームさん経由で、こういう本があるのを知りました⇒オタクのための格闘術: なぜ、『オタクのための格闘術』なのか?

なんか、余り見ない企画ですので、興味深いですね。読んでみたい。

本書のイラストを書かれた方のサイトにリンクがあったので、ちょっと見てみました(とても綺麗なイラストですねー)⇒ギャラリースズヒト4 エントランス

で、そこに、ブログもあったので覗いてみたのですが、何と、あの「ビリー」氏が、来日されるそうな⇒GS4blog 日々

ビリー氏といえば、深夜にテレビをつけっぱなしにしているとよく見かける、あの人ですね。あの番組を観ていて、いい動きしてるなー、と、いつも思うんですよね。いい身体、だけでは無く(それは、誰でも解るので)、綺麗な動きなんですよね。全身が連動していて。ワイドショーなんかで、とりあげられたりして。見てみたいかも。

そうそう、全く余談ですが。

睡眠片手剣作ってからラージャン2匹が10分ちょいで終わるようになったので、寝る前に1回・・・とやってたらラージャン討伐数が30越えました。でも角折ったのは一回のみ。硬すぎる。

睡眠状態で大タルGを使う場合、頭から少し離した所に設置すると、一撃で、片方の角は折れますね。密着させると、当たり判定がずれるので、折れないんですよね(参照:くむのなんとなくきまぐれに。 自由奔放な人の日記。:MHP2 最後の招待状クリア方法←とても参考になるブログです)。

私は、弓でやりますね。覇弓かグラキファーボウ(昨日作った)で、ビシビシ。15分前後かかりますけれど(罠・閃光玉無し)。ハイガノススパイクを作るために桃ヒレ集めるのが(あと二つ)、めんどくさいんですよね(笑)

オタクのための格闘術 Book オタクのための格闘術

著者:海月 一彦
販売元:夏目書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Bootcamp Elite Mission One: Get Started DVD Bootcamp Elite Mission One: Get Started

発売日:2006/12/05
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Billy's Bootcamp Elite Mission Two: Maximum Power DVD Billy's Bootcamp Elite Mission Two: Maximum Power

発売日:2006/12/05
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Bootcamp Elite Mission Three: Rock Solid Abs DVD Bootcamp Elite Mission Three: Rock Solid Abs

発売日:2006/12/05
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年5月20日 (日)

視覚的イメージと身体構造と体性感覚的意識

良い動きを実現する場合に重要なのが、身体の構造を正確に把握する事、ですね。

ちょっと例を出します。先ず、掌を見て下さい。指を一番根元で曲げる時、どこから曲がるでしょうか? 取り敢えず、曲げずに考えてみましょう。そして、実際に曲げてみて、比較してみて下さい。

いわゆる「指の股」の所から曲がる、と思っていた方が、結構おられるのではないでしょうか。でも、実際には、関節は、掌の中にあるのですね。又、視覚的に、掌は一枚の板の様な物体で、そこから棒の様に指が出ている、というイメージを持っている人も、いるでしょう。しかし実際は、手には、かなり多くの骨があって、多様に変形するのですね。こういう「イメージ」というのは、大切です。試しに、「指の股の」部分から、指を曲げようとしてみて下さい。絶対出来ません。当然ですよね。そんな構造をしていない訳ですから。

こういった勘違いというのは、よくあります。脚でも、骨盤の下にあるぐりぐり(大転子)が関節だと思っていたり、下腿や前腕に、一本しか骨がないと思っていたり。体幹に至っては、骨格のイメージ等、殆ど無いかも知れませんね。恐らく、そういう視覚的なイメージと、実際の身体運動は、密接に関係していると思われます。身体運動のスキーマが、解剖学的構造の合理性と、かけ離れる場合があるのでしょう。理由は色々あるでしょうね。最も一般的に言えば、「文化」に規定される、という事でしょう。身体の各部に「意味付け」をする訳ですね。「ここはこう運動する所」、と。勿論、無意識に構造化されるの考えられます。そしてそれは、人体に持つ視覚的認知も、関係するのでしょう。

で、人間の持つ解剖学的構造を合理的に使えている人が、達人とか名人とか言われる訳ですね。スポーツ選手なら、オリンピックのメダリストになったりします。その中でも、殆どの人は、解剖学的知識が無い(具体的では無い)が、「出来てしまっている」、のだと思います。そういう人は、「天才」と呼ばれます。だから、自分のやっている運動を、他人に説明出来なかったりするのです。視覚的なイメージより、体性感覚的なものを、より重視するのですね。視覚的な情報を手掛かりにして、パフォーマンスを向上させようとすると、どうしても、フォームの正確さ等に、拘りがちです。解剖学的構造から考えて不合理であっても、無理やりフォームに合わせてしまおうとします。或いは、外形が同じ様に見えても、実は全然違う運動であったりします(勿論厳密には、外形は異なる場合もある訳ですが、それを視覚的に捉えられない、という事です)。それが即ち、「型に嵌める」、という事です。

この様な論理を踏まえて、スポーツや武術では、体性感覚的な情報を手掛かりとして、高級なパフォーマンスを伝達する為の、言語装置を生み出しました。それが、「センター」であったり、「正中線(解剖学的概念とは別)」であったり、「肚」や「丹田」です。或いは、「気」の概念の一部を為している場合も、あります(「気の流れ」を、「身体の感じ」と捉える)。

ところが、そもそも、体性感覚を「感じる」というのは、個人的な認知であって、外部から観測するのは困難ですから、ズレが出てくる訳ですね。要するに、「出来ている気になる」という事が、起こってしまいます。そこが、難しい所です。

だから私は、先ず、正確に、人体の構造を認識すべきだと考えています。そうすれば、身体の「感じ」と、解剖学的構造を照らし合わせる事が出来ます。そして、合理的な運動が出来ているかどうかを、チェックする訳ですね。そうしないと、前述した様に、「出来た気になる」危険性が、あります。何も考えなくても(←人体構造について分析的に捉えない、という意味です)出来てしまう、いわゆる「天才」で無い人は、そうやって、地道な作業を積み重ねていくべきではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月13日 (日)

道具

以前から考えていたのですが、竹馬って、凄く良い、武術(に限りませんが)のトレーニングにもなるのではないかと、思っています。

細い棒で支持しなければならないので、嫌でも、バランスを意識せざるを得ませんし(気を抜くと倒れるので)、手足同側を前に出す運動なので、武術の体捌きにも繋がります。

又、手足の動きが、竹馬によって制限されるので、倒れこむ様にして前に進む、という運動を、促し易いですね。膝の伸展で進もうとする意識も、抑えられると思います。多分、(少なくとも初心者は)手足をどうする、というより、「竹馬をどう動かすか」、という所を、意識するのではないでしょうか。これは、総身の操作に意識が向き易い、という事ですね。

この様に、道具が動きを規定する事によって、全身の連動の上達を促す、というのは、重要ですね。身体をちゃんと働かせないと出来ないという状況を、作る訳ですね。

古来、そういうトレーニング方法は、色々ありますね。紙を敷いて体捌きをするとか、敢えて、つるつるの床の上で稽古するとか。今だと、バランスボールなんかですね。こういうのは、目標がはっきりしているので、やる気も起こるのではないかと思います。

尤も、「道具に頼ってばかりではいけない」、という考えも、ある訳ですが。何気無く床に立っている様で、実は、普通の人が平均台に立っているかの様な、細かいバランスの取り方をしている人も、いるんですよね。まあ、理想的には、そうあるべきですが、ある程度道具を頼りにするのも、上達の手掛かりという意味で、有意義なのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 6日 (日)

メモ:良い動き

武術(に限らず、身体運動全般)にとって重要なのは、「ためる」・「うねる」・「ねじる」、という事ですね。よーく身体をほぐして、やわらかーくしないと駄目です。肋骨がぐにゃぐにゃになる様にする。

こういうのって、達人は、例外無く出来ている訳ですが(出来ているから達人と称される)、映像等で確認しても、なかなか解らないものですね。たとえば、故・塩田剛三師範は、演舞の様子が映像で多く残されている、数少ない達人ですが、普通は、体捌きの美しさや、吹っ飛んでいくお弟子さん達に目を奪われて、体幹部がどう変形しているか、という所には、目は行きにくいのではないかと思います。でも、そこが、とても重要な所です。塩田師範の諸手取りの呼吸投げなんかは、結構解り易いですね。ぐにゃぐにゃになります。

他にも、色々、優れた動きを確認する「目安」の様なものが、ありますね。たとえば、腕を挙上する際の、肩の様子とか。上手い人は、上腕を挙げていく時に、肩関節の位置は、余り上がらないのですね。肩甲骨が開いて、見た目は寧ろ、肩が下がるくらいです。ただ、これは、気をつけなければならないのですが、外形をなぞろうとする余り、肩をギチギチに固めてしまう事が、ままあります。これは、「絶対に」、やるべきではありません。ドアの蝶番に、異物を噛ませる様なものです。百害あって一理無し、です。当然、「肩関節は上げるべきでは無い」、というのも、大間違いですね。運動の目的に応じて、有効なものは変わります。肩を上げない、というのは、どちらかと言うと、腕を挙げようとして体幹のバランスが崩れる事を、戒めるものです。ちゃんと軸を取って、柔らかく使える人は、肩を、大きくゆったり動かす事が出来ます。※「肩関節の位置が上がる」というのは、肩甲骨や鎖骨の運動だという事です。

後はやはり、ハムストリングス(大腿後面の筋群)を主に使えるかどうか、という所が、重要ですね。足を前後に開かずに、普通に立って、横から見てみます。その時、重心に見当をつけ、そこから真下に線を下ろします。で、足裏のどこに線が下りるかを、見ます。拇指丘辺りだと、前過ぎですね。良いのは、内踝の真下(ウナ:高岡英夫による)。勿論、普段、前にあるからといって、ハムストリングが使えていない、という訳では、必ずしもありません。一番手っ取り早いのは、普通に立ってみて、太股の後に触れる事ですね。これは明快。出来ているつもりになっても、簡単に確認出来るのですから、ごまかしもきかないです。

動きを見る、というのは、これらの諸々のポイントを総合して、直感的に把握している訳ですね。しかし、直感は、誤る事があります。当然ですが。ですから、科学的・分析的に見る事も、必要なのですね。そして、分析的に認識した知識を、直感的認知に反映させる訳ですね。スキーマを再構成させる、というか。だから、直感「だけ」では、駄目なのです。又、これは注意しなくてはならないのですが、たとえ、ある程度分析的な評価の根拠があったとしても、それが、科学的に妥当であるとは、限りません。何度も書いている通り、武術は、身体運動なのですから。身体は、物理学の法則に従う物体なので、たとえば、「胸を張って肩が落ち、腰が入っている。良い姿勢だ」、という見方だけでは、全然足りないのです。それが、どう(バイオメカニクスの観点から)合理的なのかを、ちゃんと認識しなくてはなりません。陸上競技なんか、とても明快ですよね。「正しいフォーム」云々なんて言ったって、結局は、速い・遠い・高い記録を出した人が、勝つ訳ですから。恣意的な、フォームに対する価値体系が、いつまでも有り難がられるという事は、ありません。ここら辺の論理は、高岡英夫氏の初期の著作に詳しいので、参照をお勧めします。※身体運動の科学的合理性を無視した体系を否定するものでは、ありません。ただ、個人的な考えとしては、そういう合理性を求めるべきだ、と思っています。そういう観点から、ある体系に、「形骸化」していると(ネガティブな)評価をする事も、あります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月24日 (火)

反証と言うか

非中枢的身体論-武道の科学を求めて

つまりこの論考は「反証されること」を前提に書かれている。

「できるだけ反証が容易であるように記述する」

と書かれているわりには、殆どが、反証がしにくい、独自の言葉遣いですね。

(1)できるだけ一義的な術語を用いること(2)できるだけアクセスが容易なデータを論拠とすること(3)できるだけ単純な命題にとりまとめること。

これも、守られている様に思えないです。そもそも、どこがどう”「武道の科学を求めて」”なのかが、解りません。

「中枢からの指令抜きで、手足を動かす」ということである。身体が知覚情報を「現場で処理する」ということである。

これは、中枢神経を介さずに、反射運動が起こるという事でしょうか。武道の様な複雑な運動で。視覚情報に応じた反応をする際に、どの様に処理するのでしょうね。心理学的・生理学的に、どういったモデルを想定しているのでしょう。それが示されていないので、反証も何も無い、と思うのですが。「現場で処理」とは、科学的にどういう現象ですか。

肩に支点を作ったりする必要がない。

この「支点」とは、どういう概念でしょうか。はっきりしませんね。

 私の稽古している合気道においても、「人形のように身体を遣う」ということは身体運用のイメージをつかむ上ではきわめて効果的な比喩である。例えば、運足において、「身体を統御している私の発する指令によって足を前に進める」という意識をもって動く場合、この動きは必ず中枢的なものになる。つまり、一方の足に支点を作り、そこに重心を乗せて、そこを踏ん張るようにしてもう一方の足を前に進めるような運足になるのである。

「人形のように」という比喩、効果的な場合もあるでしょうが、私としては、身体の解剖学的構造、生体力学的メカニズムに目を向けさせなくなる、大きな弊害がある事も、認識しなくてはならないと思います。何か外的なものに動かされている、というイメージは、ほどほどにすべきでしょうね。注意の資源を、自己の身体に向けさせる事が、肝要です(つまり、自分の身体がどう動いているか、というのを、自然科学的に分析する)。それから、「必ず中枢的なものになる」、という断定的表現は、どの様な根拠からでしょうか。そもそも、「中枢的なもの」、の、意味が不明確です。何故に、一方の足に支点を作り云々という話が、「中枢的なもの」と、表現されるか、よく解りません。

身体の内側には運動の支点が存在しない。

「運動の支点」とは? 意味内容が不明確なので、「存在しない」等と言われても、解りません。

中枢的な運足では、動き始める前に支点となる蹴り足を踏ん張るので、

「支点となる蹴り足」を踏ん張る、というのは? 膝関節の伸展や、足首関節の底屈の事でしょうか。であれば、それが重心の上下動を起こし、動きが読み易い、という事はあります(更に、重心を充分前にやらないと、膝関節の伸展では、前方に移動出来ない)。で、それが何故、「中枢的運足」なる言葉で説明されるのでしょう。

「私の外部」に運動の操作主を想像的に設定し、

上にも書きましたが、ほどほどにすべきでしょうね。勿論、そういったイメージが、高い効果を生み出す事はあると思います。

「武道の科学」とは、「私はいま修業上のどの段階におり、いかなる技法的課題に直面しているのか」という技法的な問いと、「私は武道を通じてどこへ行こうとしているのか」という原理的な問いを統一的な枠組みのうちで、一義的な言語で語ることを可能にする学知である、と先に私は書いた。本論考はそのような学知を「希求する」試みの一つである。

ここで言われている「科学」という語の意味が、今一つ解らない所です。広く「学問」と同様の意味と捉えれば、理解出来なくもないですが、そもそも武術・武道とは、身体運動です。人間の身体は、解剖学的構造・生理学的機能に規定され、運動を行う、自然科学的存在です。それを踏まえるならば、内田氏の論考は、余りに思弁的に過ぎる、と言えるのではないでしょうか。そもそも思弁的仮説? なので、それに反証するのは、出来ないでしょう。思弁に思弁で返すという、無意味なやり取りになってしまいます。

----------------

読解するのに、とても疲れる…。

この言説を「科学」だなんて言われたら、科学者は、クラクラするんじゃないですかね。

高岡英夫氏が、『武道の科学化と格闘技の本質』で論じておられましたが、武道・武術というのは、そもそも実体的・力学的現象なのですよね。実証科学的に分析しなければ、話にならない。

武術やスポーツで、無意識的に身体が動くという、レベルの高い運動は、脳に、高度な情報処理系が構造化されているから実現される訳でしょうから、脳(中枢神経)が介在しない筈は無いですよね。そういう事が言いたいんじゃ無いのかな。「現場で処理する」って、何だろう。感覚記憶とかは無視ですかね。もしかして、単なる比喩か? それだったら、こんな批判、意味が無くなっちゃいますね。と言うか、全然科学じゃ無いし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月23日 (月)

分子生物学的?

某ブクマ経由⇒分子生物学的武道論 (内田樹の研究室)

あの…、端的に言って、全く意味が解らないんですが。

何故か、はてブで絶賛されてる…。

もしかして、私の読解力が、絶望的に低いんですかね?

何で、武道の動きの説明に、あんなアナロジーを用いるんだ。しかも、滅茶苦茶飛躍してません? 皆さん、ああいうのが好きなのかなあ。ぶっちゃけ、あんな説明で、武術を、訳が解らん文化っぽく表現しないで欲しい。

皆さん、武道論の部分、意味解ります? 私には、さっぱり。

武術的には、相手を緊張させなくちゃ駄目ですよ。バイオメカニクス的にも。武術とか武道とかの、意味が違うのかも知れませんけどね。「武道」に、どういう意味を含めたいんでしょうね。

後、「分子生物学的」って、何か違う様な。福岡氏が分子生物学者、ってだけの気が。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007年4月18日 (水)

メモ:「呼吸力」とは何か

読者の質問箱 その21を読んで、私もちょっと、考えてみました。参考文献は、高岡英夫氏の著作、特に、『鍛練』シリーズ及び、『空手・合気・少林寺』シリーズです。自分なりの言葉で表現している所もあるので、高岡氏の論とは、ニュアンスがあるかと思います。

  • 呼吸力とは、自然科学的にきっちり定義される様な概念では無く、体系内で肯定的に扱われる、ホリスティックで価値的(イーミック)な概念である(高岡による、「メソレフパワー」)。
  • 「合気道に役立つ身体の使い方が出来ている」と、「呼吸力が出ている」と表現される。その様な用いられ方をする。
  • 文化の特性によって、最適な運動構造は異なる訳だから、科学が発達していない、或いは科学の知識が不充分であった時代には、この様なホリスティックな概念を用いざるを得なかったのだろう。
  • 当然、合気道は身体運動であるから、ある自然科学的論理を直感的・直観的に捉え、それを分析的に表現する事を避けて、敢えてホリスティックな、それ自体が複雑な概念の集合である様な表現が生み出されたのだと思われる。その意味では、先人の優れた発明であると言える。
  • 「呼吸」を表現に含めたのは、「呼吸」が含意する意味世界の重要性、身体運動としての呼吸運動の重要性を、直感的に捉えたからだろう。
  • その様な用いられ方をしている訳だから、当然、同じ「呼吸力」で表現されるものであっても、その内容は、体系や指導者により、異なる。そもそも定義がはっきりしない語であるから、「呼吸力とは何ぞや」という議論も、噛み合わない事が多い。
  • ある身体意識(体性感覚を基にする意識系)の質を「感じ」、それを表現したとも言える。これは、「気」(体内の気の流れ、等)等の、他の概念と、同じ様なものである。たとえば、筋肉の用い方が異なれば、感覚も異なる。合理的身体運動が成立した時の、身体の「感じ」を記憶して、それを何とか言葉にしようとしたもの。そもそもが、多分に主観的なものである為に、共通了解を得にくい、又、「解った気になる」事も、非常に多い。
  • たとえば、「○○筋の感覚が、”呼吸力”の正体である」、と言われる場合がある。しかし、この様な主張は、慎重に行わなければならない。それは、バイオメカニクス的には、正しさを含んでいる事はあるが、それはあくまで、「呼吸力」という、極めて広い意味世界の一部分を切り取ったものであるという事を、心得なければならない。「合気道で言われる”呼吸力”には、○○筋の感覚が含まれている」、という事は言えても、「○○筋が呼吸力である」、とはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月15日 (日)

運動神経

運動神経の科学 Book 運動神経の科学

著者:小林 寛道
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは良書ですね。「運動神経」を、生理学的厳密に考えるのでは無く、日常的に用いられる意味を考慮して、より広い、総合的概念として捉え、論じています。結構読み易い内容。四足動物の運動との共通性に着目していたり、それに基づいたトレーニングマシンの紹介があったりして、大変興味深いです。「意識」や深層筋の重要性にも言及してあって、面白いですね。それに加え、著者が合気道の修行者という事もあって、武術をしている人も、受け容れ易い内容になっているのではないかと思います。小林氏は、木村達雄氏の同僚だったのですね。

ただ、ちょっと気になる事があります。

本書には、高岡英夫氏が提唱されている、「割腰」や「双鞭構造」に類似した概念が出てくるのですが、同じ様な概念に異なる表現があると、混乱してしまいますよね…。小林氏は、高岡氏の『究極の身体』を書いたりしておられますので、本で言及して欲しかったり。そうすれば、他の研究を参照した事が明確になって、とても解り易いのですが(高岡氏が小林氏の研究を参照した場合でも、です)。

高岡氏には、著作に、参考文献を挙げて頂きたいです。どこまでが独自の発想で、どこが、先行研究を参照にしたものなのかが、解りにくいです。以前の本には、ちゃんと載っていたんですけどね…。

ナンバについてと、体力測定の調査の結果の解釈については、ちょっと保留。ナンバ論については、色々議論があるみたいですので。

参考サイト:

株式会社東京大学TLO [CASTI]:常識を覆す日本人のための ”正しい体の動かし方”

TBS「アナウンサー通信」/ゴーゴー!!ママウンサー(有村&山内 育児と仕事)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月14日 (土)

メモ:体の変更

  • 型:片手取り(逆半身)。受けはしっかり掴む。取りは、受けの前側の足に自分の前側の足をつき合わせる様にし、転身する。
  • しっかり掴む:掴んだ場所から「動かされない」様にする。取りの動きに合わせて付いていく、というのは、稽古の目的からはずれる。その場合には、変化技の稽古になる。
  • 取りは、掴まれた所から、手を動かそうとしてはならない。ちょっと考えてみれば解るが、手を動かそうとする、という事は、肘や肩の関節を運動させて、ものを引っ張る様な動きになる。そうすると、もろにぶつかってしまう。受けの体力が高く、掴み方の要領が良ければ、びくともしない。
  • そこで、発想を変える。掴まれた所は、そのままにする。そして、腕や肩を「預ける」(「あずけ」というのは、大東流の一派等で、技法として体系に組み込まれている様である)様にする。受けの手に、腕肩の重みを載せる様に。
  • そうするには、肘関節や肩関節を、「積極的に動かさない」様にしなければならない。注意すべきなのは、「関節を固める」のは良くない、という事である。気構えとしては、「肩関節から先の感覚が麻痺して動かない状態にする」、という感じ。積極的に働かせるのは、胸鎖関節・肩甲骨・肋骨等(高岡英夫の言う「ベスト」)。
  • 独り稽古―私が考えて、実行したもの。既に、トレーニング方法として、どこかにあるものかも知れない:手首の位置を、一点に固定する→そこから手首の中心(「手首」だと、前腕そのものを動かさない事になるので、それは不可能。手首の中の中心点の事)をなるべく動かさない様にして、身体を自由に動かす。そうする事によって、体幹主導の運動を促す。※掴まれている訳では無いので、上腕等の筋肉の微細なコントロールも、必要とされる。
  • 「掴まれている」という認知が、脱力(必要な筋肉を働かせ、それ以外を弛緩させる)を阻害する事になる。だから、稽古の時のみならず、覚醒している時間は全て稽古の機会であるかの様に、取り組む。
  • 体捌き―先ず、体の変更は、転身の体捌きや腕肩の脱力を複合的に行う課目である。従って、そもそも大変難しいものである。それは、念頭におくべき:前側の足を出す際には、重心を、絶対に、後に下げない。一般的には、たとえば右足を出そうとする場合、一旦左脚に重心を乗せてから、行う。しかしそれでは、時間的に遅れてしまうし、滑らかな運動にならない(重心が、上下にも動いてしまう)。重心は水平方向に移動させる様にして、足は滑らせる様に(地面に擦らせてはならない)。脚は、腹の奥から引っ張る感じ(つまり、大腰筋で、大腿を屈曲させる)。殆どの人は、足(脚)を前に出そうとすると、「膝が伸びながら」出る筈である。これは、大腿の伸筋群が働く為。これは、一旦後に重心を移動させておいて、膝を伸ばして足を前に出し、前方に移動する、という運動。対して、高級な動きは、重心はそのままにして、前側の脚を「抜く」。足を前後に離して立っている訳だから、そこから「前側の脚がいきなり消えてしまう」イメージを持つと良い。前に「倒れこんで」しまう、というイメージが、容易に浮かぶ筈。それに合わせて、後側の脚をつっかえ棒の様にして(つまり、大腿後面の筋肉を働かせる)、前に移動する。
  • 転身:基本的に、大腿を先行させるという所は替わらない。前側の足同士をつき合わせた時、重心は、前側の脚に乗っている。その重心を、更に前側に移動させる。そうすると、前側の脚と重心にズレが出、前方に倒れこむ(この時には、身体は横を向いているので、正確には、横方向)ので、それに合わせて、後側の足を、移動させる。重心の移動は、後側の脚の外転や伸展によって行う。当然、骨盤の回転等も関わる。心得るべきなのは、足首や膝を先行させない、という事。特に、足首を曲げ伸ばしして(ふくらはぎの筋肉を使う)身体を動かす、という既成の考えは、覆さなくてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月12日 (木)

メモ:正しい姿勢

足を肩幅程度に開いた静止状態の姿勢。

  • 横から見る。重心落下線(身体の重心から鉛直に引いた線)が、踝を通る様に。
  • 体幹は真っ直ぐ。いわゆる「腰を入れる」事はしない。骨盤が後方に回転し、腰背部の筋肉が、無駄に緊張する。
  • 肩は上げない。なで肩に見える程度に。かと言って、意図的に下げようとしてもならない。外形を、無理に「作ろう」としない。外形的には同じに見えても、状態が全然異なる事がある。筋肉が程よく弛緩し、肩が落ちているのと、背中の筋肉で、下方に引き付けているのとでは、全く違う。元々の体型もあるから、あくまで目安として。
  • 大腿後面の筋肉で、身体を支える。これは、上記の、重心落下線(或いは点)の所にも関わる。一般的には、「膝を伸ばす」意識で、身体を支えるイメージだが、そうでは無くて、脚を後に引っ張り、つっかえ棒にするイメージ(あくまでイメージ)。
  • 大腿前面の筋肉は、可能な限り、弛緩させる。ただ「力を抜こう」程度の意識で、長年固めてきた筋肉をほぐすのは、大変困難である。更に、行住坐臥、認知しながら、徹底的に改善させる気構えでないと、直ぐに、元に戻ってしまう。
  • 適切な脱力が出来れば、膝は、内側を向く(イチロー選手の構えが典型的)。下腿は、脛骨で支える様にする。という事は、足底部は、内側で支える事になる。
  • 根本として、身体を、ゆるゆるにゆるめる。これは、筋肉の面から見ると、運動に必要の無い筋肉は、可能な限り弛緩させる、という事を意味する。
  • どこが固まっているかを認知する。肩凝りを同様の「感じ」が、全身隈なく分布している事を認知し、それを解きほぐす。
  • 身体がゆるまなければ、「正しい姿勢」はあり得ない。それは、どんなに高級な素材を用いた道具でも、錆付いたりしていたら、道具として使えないのと、同じ事である。身体は、生理学的・力学的法則に拠って運動する物体であるという事を、しっかり認識しなければならない。
  • 良い姿勢をとれている人の、「印象」:すーっとした感じ。横から見ると、身体が一直線である感じ。正面から見て、左右対称に近い感じ(あくまで目安。競技によっては、左右の筋肉の発達が変わるので。その場合でも、中心に線が通った感じがあるかどうかで、見分ける)。内股な感じ。だが、内側に締め付けている訳では無い。
  • 上に書いた「印象」は、あくまで、「印象」である。それは、視覚的に捉えた情報から、視覚では把握出来ない身体内部の状態を推測している訳だから、精度には限界がある。だから、とても解り易い、ハムストリングスで立てているかどうかなどをメインに、判断する。その情報の曖昧さを心得て、決め付けは避ける。そうでないと、客観的評価を無視した、極めて独り善がりな状態になりかねない。
  • 客観的には、圧力板や筋電位の測定によって、身体の状態を、科学的に測る事で評価するのが、望ましい。その場合、「正しい(望ましい)姿勢とは何か」、というのを、しっかり定義出来るかが、重要。私としては、高岡英夫氏の論に、賛同する。

因みに、よくテレビで目にする人で、とても綺麗な姿勢を取れていると「私が思う」人(こういう検討は、客観的議論が難しいです。画像を参照出来れば良いのですが、それは無理ですし)は、イチロー選手とか、荒川静香選手とか、長澤まさみさんとか、平井堅さん等です。テレビでは余り観ませんが、倉木麻衣さんとかも(←チョイスは適当です。と言うか、「何となくそう思う」人では無くて、「おお、これは!」とはっきり感じた、という人を選びました)。妥当な評価かは、解りませんが。

実はこのエントリー、凄まじく慎重な書き方です。武術の関連誌を読むと、まあ、好き勝手に、正しい姿勢だの何だのが、論理も何も無く、披瀝されていたりします。

動物の身体というのは、数百の筋肉が数百の骨に付着し(←これも、凄く単純化した表現)、かなりの自由度を持って運動するという、超複雑なシステムなのですから、そもそも、とても難しい問題なのですよね。何をもって「良い姿勢」とするか、という問題もありますしね。

因みに、これはどうでも良い話ですが、私の目標は、身体運動の論理構造を科学的に認識し、それによって見出される高度な運動を体現する事、です。高岡英夫氏は、「究極の身体」と表現しています。つまり、「解る」と「出来る」を、両立させたい訳ですね。基本的に、欲張りなのです(笑)

で、それには、バイオメカニクス(生体力学)や運動生理学の知識が、必須です。じゃないと、どうしようもないです。

武術の指導者で、解剖学的知識が少しでもある人が、どれくらいいるでしょうね。まあ、一般的では無い、と思います。そうだとすると、スポーツで言えば、トレーナーに当たる訳ですから、身体運動文化に関わる者としては、かなり駄目な話です。一旦、武術を外から眺めてみると、かなり異様でもあります。身体運動を極めようとする集団なのに、科学的方法を忌避する(傾向がある)訳ですからね。武術関係者は、もっと、自分の携わる文化を、相対化した方が良いです。

| | コメント (0)

2007年4月11日 (水)

稽古の心構え

夢草の剣さんのコメントを受けて。

私の先輩がよく仰っていたのが、「”厳しい”稽古と”激しい”稽古は違う」、というものでした。
技をきっちりと極め、肉体的には辛いものであっても、しっかり相手を見ながら、怪我をしないよう、させないように、気を配りながら稽古をするのが大切だ、という事でした。

相手に怪我をさせてしまうというのは、ひとえに、技が「乱暴」だからだと思います。「思い遣り」が足りない、と言うか、自分勝手と言うか。
武術は本質的に、暴力と一致しますから、そこの所をしっかり意識しないと、正に、「単なる暴力」になってしまいますね。
体力に差がある場合には、理合を無視しても、ある程度、「技が掛かってしまう」、という事もありますしね。

私が、下位の方と稽古している時、こちらが、がっちりと、相手の方が全然動けない程強く手を掴んだのを、先生に、強く掴み過ぎだと窘められた事があります。「相手の上達に協力する」という意識が、足りなかったのでしょうね。

ある程度の激しい稽古を許容するとすれば、当事者同士が完全に同意した時だけ、だと思います。実戦を想定した稽古等ですね。

私としては、現代において、怪我を覚悟で武術の稽古を行うのは、余り好ましい事では無いと思っています。個人の価値観の問題でもありますけれど。ただでさえ、「危ない」訳ですから、細心の注意を払ってやらないと、事故が起こる可能性もありますね。四方投げなんかは、大変危険ですし。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月10日 (火)

メモ:武術の言葉

  • 「胸を張るべき」と「胸を張ってはいけない」、どっちが正しい?
  • そもそも、同じものを指しているのか。
  • バイオメカニクス的に同様の状態であっても、表現が異なる場合がある。
  • 胸郭や肩甲部の構造と、言語の意味内容との関連。
  • 「張る」の意味(参照:国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書)。
    • (1)物の表面などを一面におおうように広がる。
      「池に氷が―・る」「蜘蛛(くも)の巣が―・った廃屋」
    • (2)木の根や枝が四方八方に大きく広がる。「四方に根が―・る」
    • (3)ゆるみなくひきしまる。
  • 上記の意味を踏まえて見ると、背中を反らし、肩甲骨を引き寄せた姿勢も、脊椎をニュートラルにし、肩甲骨周りの筋肉を弛緩させた状態も、いずれにも、「張る」という表現を適用出来る事になる。
  • 一方、たとえば「胸を反らす」などの場合だと、背中側を引き付ける(つまり、「後に」反る―「反身」。逆は、前に「屈める」―「猫背」等)姿勢がイメージされる。従って、「良い姿勢」を表現するのに、「胸を反らす」というのは、余り用いられないという印象がある。尤も、「反身」を正しいとして、その表現が意識的に使われる場合もあるだろう。
  • 現代においては、一般的には、「胸を張る」は、「反身」を表すと思われる。
  • この事を直観的に踏まえてか、胸で「受ける様に」、と表現される場合もある。つまり、敢えて、誤解されそうな「胸を張る」という表現と共に、「受ける様に」という語を補助的に用いる事によって、より強く認知させようという、教育的方策である。
  • この様に、同じ表現であっても、その意味する所は異なる場合がある、というのを、しっかり認識しなければならない。そうで無いと、「○○」という表現を用いているという事実のみで、パフォーマンスを評価してしまう場合があるからである。端的に言うと、「言葉の使い方にはズレが生じている可能性がある」、という事である。
  • 従って、身体運動のパフォーマンスとしては同様であっても、それを表現する言語体系が異なる場合が、あり得る。達人と評価されるアスリートであれば、身体運動構造にも共通性があると考えるのが、妥当であるけれども(自然科学的には当然)、自らの属する体系の優位性を信じたり、言語に対する認識が足りない事によって、表現が異なっているから運動構造も異なっているであろう、と看做すのである。
  • 然るが故に、バイオメカニクス的認識を身に着ける事が、望ましい。その様にして、厳密に定義された概念を用いる事によって、「誤魔化し」を通用させなくすべきである。そうで無いと、言葉の使い方に拘って、いつまでも、身体運動を科学的に認識する事が無い、という状況のままであろう。それでは、身体運動文化としての武術の発展は、望めない。
  • 尤も、学習―教授過程において、ある運動構造についてメタファーを用いるのは、大変有効な場合がある。分析的に認知しにくい体性感覚情報を、「喩え」で表現するのは、解剖学的概念等を用いる説明より、学習者にとって有意義である場合も多いであろう。
  • しかし、注意しなければならないのは、上にも書いた通り、言葉の使い方にはズレが生ずる可能性がある、という事である。即ち、異なる運動について、同じ表現を用いてしまう場合があり得る。名は同じでも中身が違う、という事。
  • 従って、その様なメタファーを用いる際には、その前提の知識として、自然科学的知識を身に着けておくのが必要である。そうすれば、メタファーを「勘違い」しているかどうかが、チェック出来るからである。

これは勿論、武術に限った事では無く、他の色々な文化に敷衍出来ます。

言語の恣意性を認識している人にとっては、「そんなの殊更に主張する事か?」と思われるかも知れませんが、それを知らない人が、結構いる気がします。私の様に(下に書きますが)、何となく気付いているが、はっきりとは認識出来ない、というもどかしい思いをしている人も、いるでしょうね。これが一番きつい気もします。

私の場合、全く直観的に、「言葉は同じだけど、中身は違ったりするんじゃないかなあ…」というのを、漠然と思っていました。たとえば、「力を抜く」という表現は、一体何を指しているのだろう、とかですね。「胸を張る」も。で、言語論を勉強していく内に、疑問が氷解した訳ですね。

特に武術等では、体性感覚の認知(「気付き」と言うか)という、極めて主観的なものに対する評価が、パフォーマンスのレベルに決定的に関わり(適切にフィードバックし、それを変化させていく必要がある。無自覚に近いかたちで、ハイパフォーマンスを達成する人は、「天才」と呼ばれる)、それを言語化するという過程(伝承において重要。だから、古来、伝書や口伝で、何とかそれを、伝えようと腐心した訳ですね)が重要な訳ですから、心理学が発展していない時代には、メタファーに頼らざるを得なかった所があるのでしょう。

言葉は、受け渡した途端、意味は変わるのですよね。厳密に定義されたコードでなければ、発信者と受信者の解釈が一致する事はあり得ませんから。だから科学では、言葉の定義と論理性が重んじられる訳ですね。体性感覚情報をメタファーで表す場合には、発信者と受信者との「脳内辞書」が同一になる事は、殆ど無いでしょうから、ズレが生じます。だから、客観的にものを見たいなら、自然科学的に身体運動を測定して、それと主観の一致とを見て、パフォーマンスを評価する、というのが重要です。多分、武術関係者は、殆どは、こういう考えを嫌うと思います。そもそも、「武術の動きは言語に尽くせない」とか、「科学では解明出来ない」、というバイアスが掛かっていますから。

無論、どこそこの筋肉を鍛えればパフォーマンスは向上する、という単純な認識でも、駄目です。人間が、力学的且つ認知的存在である以上、総体として捉えなければ、筋力は上がったけど動きが悪くなった、なんて、悲惨な結果になりかねないですから(高岡英夫氏の、『鍛練』シリーズを参照)。

重要なのは、身体運動に関する自然科学的知識(具体的には、バイオメカニクス。実践家としては、それ程詳細な知識は要らないでしょうけれど)や、主観と「理想的な運動」がずれる可能性の自覚(つまり、パフォーマンスを科学的論理的に認識する事と、それを体現する事との違い。「”解る事”と”出来る事”の違い」。「解っている人が出来るとは限らない」し、「出来る人が解っているとは限らない」)等です。

批判・質問歓迎です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年3月30日 (金)

メモ:合気。居付かない動き

以前、ノートに纏めたものを、書き直して載せます(参考文献:松井浩『高岡英夫は語る すべてはゆるむこと』他、高岡英夫氏の著作)。

○合気のメカニズム

  • 普通の人は、まともに押し返そうとするか、腕をずらして相手の力を躱そうとする。それはとても困難で無理がある→相手の力の方向をずらしたり、相手の力を利用して技を返す。これを、ベクトルずらしと言う。
  • 高岡氏の合気上げ―相手の力をずらさない。結果として、素直に肘が下がる様にする。身体全体にガチガチに力を入れて、腕の力で何とかしようとすると、普通の人がまともに押し返すのと同じになる。本当に全身の筋肉から力が抜けて、ゆるゆるになれれば、相手の力がどれだけ強くても、力が要らない。擬似流体構造優位の運動構造。
  • 超一流、天才と呼ばれる人達―筋肉が非常に柔らかい。そして、力を出す瞬間には、鋼の様に硬くなる。その差が大きいから、より大きな力を発揮出来る。「柔らかい」というのは、関節の可動範囲が大きいのではなく、筋肉そのものが柔らかい。
  • 合気上げ―腕を相手に握られると、ゆるゆるに全身の筋肉がゆるんでいる肩関節と肩甲骨がずり落ちる。と同時に、肋骨がひしゃげた様になる。肘が信じ難い程の滑らかさと重みをもって下がる。相手は、恰も突然、ダンベルを握らされた様な感じになる(シャフトが前腕で、プレートが上腕から肩甲鎖部)。相手は、それを支えようとして反射的に身体を浮かし、ガチガチに硬くなる。それが、「合気の掛かった」状態。技を掛けられる側は、自分で、爪先で辛うじて体重を支えているのに、コントロールは、技を掛ける側に委ねた状態。これを、「奪制御支体重」(体重は自分で支えているが、制御を奪われている状態)と言う。
  • 普通の人の合気上げ―上腕二頭筋のコンセントリック収縮(筋が短縮しながら筋力を発揮する収縮)、あるいは、三角筋のコンセントリック収縮で手首を持ち上げるという運動パターン。つまり、固定支点。これで上げるのは困難。人文・社会科学的メカニズムによって、上げられる。
  • 本物の合気上げ(一次局面)―肘と肩関節から支点が下方へと滑らかに揺動する事が不可欠。前腕は、相手の手の内を中心とする正円に近い円運動をする。その直後、定位した支点とは全く逆に、技を掛けられている側が握っている手の中を支点とする運動が起動する。肩関節もしくは肘関節が、その位置を滑らかに変化させている間は、支点が肩甲鎖部と肋骨の間のスライド運動の中に吸収されてしまう。支点が、技を掛ける側の肩から、掛けられる側の手へ移動→「支点転動」
  • 二次局面―技を掛けられる側に、反射が起きる。足首が伸びて踵が浮き、重心が浮いて腰と背中が反り、手腕が縮んで上がる。技を掛けられる側が自ら合気に掛かる。掛ける側の腕が、不安定を支える「杖」となる。

○居付かない動き

  • ふくらはぎの筋肉で蹴り、腰を動かして、と動くと、どうしても、一瞬止まってしまう。武道では、「居付く」と言う。特に刃物を扱う武術では、絶対に居付いてはならない。その間に斬られてしまうから。
  • 武道系の人も、居付くのがいけない事は知っている。だから、居付く時間を短くしていこうと考える。しかしそれは、「居付かない」動きを知らない故の発想である。
  • 人は動こうとする時、脚(足かな)から動く。ふくらはぎの筋肉で蹴って(つまり、足首を使って)、腰を動かして…と、必ず下から動いていく。しかし、それでは、いくら速く動こうとしても、限界がある。足から動いてから上体が動くまでに、「間」があるからである。従って、その「間」の瞬間だけ遅くなる。
  • だから、足から動くのではなくて、全身をゆるゆるにゆるめて、必要な筋肉だけ一遍に、ドンと力を入れる。ゆるゆるにゆるむと、放っておいても倒れ落ちるが、その倒れ落ち方に合わせて、「もっと倒れ落ちる様に」なりながら、必要な筋肉だけに力を入れる。そうすれば、本人は、ゆっくりやっても凄く速く動いてしまうし、相手には、消えてしまった様に見える。※必要な筋肉とは、たとえば「腸腰筋」。大腿骨を引き付ける筋肉。或いは、ハムストリングス(大腿後面の筋肉)。大腿骨を後方にスイングする筋肉。一般の人間は、「膝を伸ばして」前方に移動するという認識。そうすると、重心が前に出るまで時間が掛かるし、膝関節を、曲げなければならない。重心が前に出ない内に膝を伸ばすと、後方に移動してしまう。よって、高岡は、大腿四頭筋を「アクセル筋」と呼び、ハムストリングスを「ブレーキ筋(ブレー筋)」と呼ぶ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年3月18日 (日)

自身を知る

※3/17に、誤って、一旦アップしてしまいました…。

Interdisciplinary: メモ:武術とトレーニング。と、色々の補足。

必要無い筋肉を固めてしまっている訳ですから、一旦その力を抜いてから運動しなければなりませんし

こう書いていますが、もっと詳しく説明すると、「筋肉を弛緩させようと”思って”も、如何ともしがたい」場面もあります。たとえば、肩凝りのある人に、「凝っている所を弛緩させて下さい」と言ったとして、それが無茶な要求であるのは、当たり前ですよね。それが出来れば、肩凝りなんて存在しません。ですから、随意的に働かせられる骨格筋といえども、単なる能動的意識では、どうにも出来ない(言われた途端にどうこう出来る程簡単では無い)場合があるという事を、認識すべきですね。ここが、人間の身体の、面白い所です。ですから、「自分の身体のあり方」を、考える必要があります。どこがどのくらい固まっているか、それはどの様な運動に関わるのか、そこが固まっている事によって、どうパフォーマンスを阻害するか、等を認知し、その、固まった身体のあり方にネガティブな評価を与え、改善を志向し、全身のリラックスを促すのですね。このフィードバックは、心理学的・生理学的に(もっと学際的にも)、大きな現象だと思いますし、研究対象としても、興味深いものでしょう。バイオフィードバック等に相当するでしょうか。

丁度、月刊『秘伝』誌の4月号で、高岡氏が、サッカーについての話に絡めて、この辺の事を論じておられます。「ゆるむ」の定義についても載っています。興味のある方には、参考にされる事をお勧めします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月16日 (金)

メモ:武術とトレーニング。と、色々

プロ合気道家トム・モリゾーの上手くなるブログ道場:読者の質問箱 その20

これは、物凄く難しい問題なのですね。このシンプルな問いに答えるには、大変広範な知識と、深い認識力が、必要とされます。

つまり、次の様な疑問に答えられなければ、充分とは言えません。

  • ウエイトトレーニングとはどういう概念か。これは、スポーツ科学等の、身体運動に関する科学で論じられる。
  • 合気道は、どの様な運動構造を持っているか。それを踏まえた上で、どの部分の筋力を鍛えるのが望ましいかを見出す。
  • 上と関連して。そもそも、合気道にとって望ましい動きというのは、どの様なものを指すのか。一般的なスポーツと異なり、評価基準が、大変解りにくい。流派にもよるし、何を武術に求めるか、という所も関わってくる。一口に「合気道」と言っても、各体系には、大きなバラツキがある。武器術の有無、試合の有無、気の流れを重視するか、固い稽古を重視するか、等々。
  • 状況から切り取って、特定の筋肉を選択的に鍛える事によって、パフォーマンス全体に、どの様な影響を及ぼすか。それは、全体として調和すべき「合気道の技術」を、崩す事にはならないか。これは、多くの武術家が感じている懸念であると考えられる。

他にも色々あるでしょうけれど、キリが無いので。

はっきりと言えるのは、「優れた身体運動」とは、「必要な場所の筋肉を適切に収縮させ、必要無い所の筋肉を弛緩させる」、という事です(使用筋配分)。自然科学的には、そうなります。

しかし、人間は、単なる機械的存在では無く、複雑な認知機能を備える存在です。事は、そう単純ではありません。たとえば、パフォーマンスに必要な筋肉をウエイトトレーニングで鍛え、筋力が高まったとしても、それが、実際の状況において「使えるかどうか」というのは、別の話です。これは、高岡英夫氏の論の参照ですが、ウエイトトレーニング等は、実際の種目における動きとは、全く別のものなのです。従って、重要なのは、トレーニングが必要かどうか、という所では無く、実際の状況において適切に使える事が出来るか、という事です。単に「必要か」という問いなら、トム・モリゾーさんと同じく、「体系による」としか、答えようが無いのですね。ある部分の筋肥大がパフォーマンスの向上に役立つとはっきりしているならば、適切な処方によってトレーニングすれば、良い効果が得られるでしょうし、そもそも強大な筋力が必要とされない種目なら、トレーニングが悪影響を及ぼす場合もあるでしょう。筋が肥大する事自体が、運動に邪魔になる場合もあります。

-------------

えっと、何か、集中力に欠けていて、全く文章が纏まらないので、以下は、余り厳密さを考えずに、日常的な言葉も含めて書きます。何か、話題もずれてますけれど。

-------------

大事なのは、バランスですね。どこかの筋肉を鍛える、という考えでは無くて、全体として調和の取れた鍛え方をする、という事です。それを踏まえた上でやらないと、弊害になる場合もあるでしょうね。

又、「脱力」の概念、これがとても重要です。一般に「脱力」というと、ただ単に「力を抜く」というイメージですが、正しい脱力というのは、上にも書いた通り、収縮すべき筋肉を適切な強さで収縮させ、弛緩させるべき筋肉をしっかり弛緩させる、という意味です。ですから、「必要な筋肉を収縮させる」という部分も含めて、脱力なのですね。これは当たり前ですね。人間は、立つだけでも、筋肉の収縮が必要な訳ですから。だから、最も少ない筋力発揮で動く、という考えが、必要になるのです。具体的には、腸腰筋(腰椎と、骨盤・大腿骨を繋ぐ筋肉。大腿骨を引き付ける、又、上体を屈める、つまり、大腿を屈曲させる働きを持つ)や、ハムストリングス(大腿の後面の筋肉。大腿を後方にスイングする、つまり、大腿を伸展する働き、及び、膝関節を屈曲させる働きを持つ)が重要ですね。より中心に近い所の筋肉の収縮・弛緩を繰り返しながらバランスを取って動く、という事を心がけるべきです。多くの人は、全身の筋肉を不必要に固めて、身体を彫像の様にして立ち、運動するのですね。そうすると、元々必要無い筋肉を固めてしまっている訳ですから、一旦その力を抜いてから運動しなければなりませんし(殆どの人は、必要無いのに、肩甲骨周りの筋肉を、持続的に固めています。そうです、「肩凝り」の事です)、エネルギー的にも、とても無駄です。最近では、コア・トレーニングという考えが、ある様ですね。結局、常に必要最小限の筋出力に留めておいて、目的の運動に適切に応じる事の出来る身体のあり方を、求めなければなりません。感覚的な表現をすると、普通に地面に立っている時でも、綱渡りをしているかの様なバランスのとり方をする、という感じですね。

しかし、大部分の人は、自分のどこに力が入っているか、というのは、意識(認知)した事すら、無いと思います。肩凝りくらいは、たまに感じる機会はあるかも知れませんが、それが全身に存在するというのは、考えていないでしょうね。ここで、内観が重要になります。自分のどこの筋肉が固まっていて、どこが柔らかいか。さすってみたり、マッサージしたりして、その分布を感じます。ただ、内観は、主観であるだけに、間違う事も、かなりあります。「○○筋を感じる」と言ったり、「ハムストリングスを使って立っている」と言って、実は全く出来ていなかったり、という感じで。指導者の立場の人でも、往々にして観られます。ですから、内観は重要ですが、それと共に、外部からのチェックも、した方が良いでしょう。たとえば、圧力板に乗って重心の動きを測定したり、筋電位を測って、筋収縮の度合いを測定したり、といった具合に。勿論、コストの問題もあり、なかなか難しいですが。武術の世界にも、言っている事とやっている事が違う人は、結構いるのですね。それは、直接観察するのが難しいので、間違っている事に、本人も気付きにくいのですね。余り、主観に頼り過ぎると、そうなってしまいます。ですから、内観によって、自分の身体のあり方を捉えつつ、それが誤っている可能性に、常に気を配る事が、必要でしょう。

自分でもびっくりする程、散漫な文章だ…。じゃあエントリーを上げるな、と言われそうな気もしますが。

お勧め文献。

鍛練の理論―東洋的修行法と科学的トレーニング Book 鍛練の理論―東洋的修行法と科学的トレーニング

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

鍛練シリーズは、読むべきですね。難しい本ですけれど。

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「運動進化論」というのは、概念としてどうなんでしょう? それはともかく、組織分化の考えとか、多重中心構造とか、大変参考になります。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年3月 5日 (月)

どっちもどっち

受身 - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)

いくつか思った事。

何で、「合〇道」なんて、変な伏字の使い方をするんでしょうね。意味不明。検索回避か?

合気道の人。何故受身が違うかとか、ちゃんと説明したのですかね。いや、読んだ限りでは、頭ごなしに否定した様に思われますが。

柔道の人。柔道の価値観で合気道の技術を判断していますね。まあ、売り言葉に…、という面もあったのでしょうけれど。

そのためこの受身に関しては、柔道を修行している方には絶対に敵いません。

これはどういう意味なのでしょうね。柔道は試合があるので、型稽古より自由度が高いから、より多彩な投げを、充分な予測が出来ない内に掛けられる。従って、とっさの状況に応じる受身の技術も高くなる、という事でしょうか。柔道選手の受身の技術が高いというのは、ある程度言えるとは思いますけれど。「絶対に適いません」というのは、よく解らないですね。

それなのに合〇道の先生はその受身を否定してしまったわけですから。

教え方はともかくとして、新たに別の武術に入門するのですから、ある程度従うのは、当然だと思うのですが。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年3月 1日 (木)

別次元

サッカー世界一になりたい人だけが読む本―RELAXED SOCCER Book サッカー世界一になりたい人だけが読む本―RELAXED SOCCER

著者:高岡 英夫,松井 浩
販売元:メディアファクトリー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

読みました。

そして、本書に載っている、ジダン選手の写真の数々を見て、衝撃を受けました。

あんな凄まじい身体を見せ付けられたら、却って、やる気が削がれる人も、いるかも(笑) あ、でも、イチロー選手も以前は固まっていた、等の話も、ちゃんと書いてありますが(高岡氏の主張は、「からだには希望がある」ですから←同名の書籍あり)。

ところで、あの本に書いてある主張をまともに取り上げるサッカー関係者は、どれくらい いるのでしょうね。とっても大切な事が、書いてあるのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月22日 (木)

身体意味構造

高岡英夫は、著書『鍛練の展開-身体の中芯からの革命』において、「身体意味構造」という、興味深い概念を提出している。高岡の著書から引用してみよう。

A 〈体意変更システム〉というのは、どういうものなのですか。

T 例えば柔道選手が襟を持たれたとすると、相手の手と自分の襟との関係は、「相手が自由自在に扱える手でこちらの襟をコントロールし、強力な力を加えてこちらを攻撃しようとするのに対し、こちらは何とかやられないように防戦する」という、一方的な攻撃―防御関係に陥るのが関の山です。厳密には防戦すらも、既に持たれてしまった段階においては、襟自体を通じて行うことはさして努力の余地がないと考えられています。

 ところが大東流の合気柔術では、持たれた”襟”の方が持った”手”を攻撃し、相手を投げ倒したり、潰し落としたりという、柔道の状況とは全く逆の、信じ難いような主客転倒が行われているのです。こうしたシステムはしばしば私が『光と闇―現代武道の言語・記号論序説』で明らかにした〈潜在的擁護システム〉※上位者の権益を護り組織を安定化するために無意識のうちに形成されていくシステム。 を伴うものなのですが、佐川幸義氏の場合は〈擁護システム〉を直接的に利用する度合いが低いという点でも、信頼に足るものと言えるでしょう。

 身体には無意識のうちに、意味付けされた地図ができているのです。例えば”手”は”襟”を持って投げる所、”襟”は”手”に持たれて投げられる所、……というように。

A そうした無意識の”地図”が選手の競技力や上達の努力や、さらにはその種目全体の技術の発展を根底から束縛しているということになるわけですね。

T そういうことです。これが〈体意=身体意味構造〉ということです。アスリートの上達や種目の発展には、こうした〈身体意味構造〉を解体構築していく作業が、実は極めて重要なものとして含まれているのですが、多くの人々がその道の専門家を含めこの事実に気付いていないのです。(高岡英夫『鍛練の展開-身体の中芯からの革命』 恵雅堂出版 1993 P199-201)

これは、重要な指摘である。我々は、生まれ落ちて以降、自分の属する様々な文化の価値体系に拠って、生活を営んでいる。それは、社会に広く認められた習慣であったり、家庭独自の価値観であったりが、複雑に絡み合ったものである。私達は、それに従いながら、高岡の言う「身体意味構造」を、形成していくのであろう。武術・身体運動関連エントリーなので、はじめに合気道を例にとって見てみよう。合気道では、通常、最も基本的な稽古として、自分(取り:技を掛ける側)の手首を相手(受け:技を掛けられる側)に掴ませた状態から技を掛ける、という形態を取っている(ここでは、ある程度しっかり掴まれた静止状態から始めるものと仮定する)。通常我々は、上肢帯から手にかけてを、「肩関節を支点にして、物を持ち上げたり、押したり引っ張ったりする」という機能を発揮せしめる部分として、認知しているであろう。ところが、余程の筋力の差が無い限り、動かされまいと掴まれた手を自由に運動させるのは、至難の技である、そこで、身体意味を変更させる必要が生ずる。即ち、「手首は掴まれた位置から動かそうとせずに、肘・肩甲骨・肋骨を、下方へ運動させる」という機能を発揮させるべく、認知の構造を変化させるのである。こうする事により、受けの持ち手に大きな重みが掛かり、「豚の脚を持たされる状態」になり、技を行使する事が可能になる(この辺りの論理は、高岡の、『合気・奇跡の解読』 ベースボール・マガジン社 に詳しいので、参照されたい)。

身体意味構造の形成は、色々な「価値付け」、つまり、「これこれこうすべきである/無い」という論理に、強く依存する。たとえば、「身体をゆらゆら左右に揺らして歩くのはみっともない」、「背筋はきちんと伸ばし、骨盤は軽く後方に反らしたものが、”良い姿勢”である」といった具合に。そういった価値の体系が、各個人の身体意味構造を、形成している。当然、ある集団において共有された価値体系の影響も受け、集団に、ある程度普遍的に見られる構造も、あるだろう。又、それが、専門的に指導を受け、後天的に形成される事も、しばしばであろう。プロのスポーツ選手が、トレーナーに指導を受けたり、武術で師匠に厳しい稽古を受ける過程で、それまでに形成された身体意味構造が、変化するのだと考えられる。それは、当人が、どれだけ指導者に信頼を置いているか、又、指導者の「教え方」等に、依存する。

話を、より一般化してみると、たとえば、「大腿四頭筋は常に収縮し、歩行運動においては、前方に移動する為に、膝関節を伸展させるべく働く」、「骨盤の周りの筋肉は、常に強く収縮させ、”力強い”腰を作る」等が、無意識に構造化されていると考えられる。即ち、身体意味構造は、生理学的にも、普段の筋収縮のあり方等も規定する、認知構造なのである。これを最も一般化したものが、高岡の言う「身体意識」概念に繋がってくるのだろう。

さて、皆さんは普段、自分の身体に、意識を向けていらっしゃるだろうか。歩いている際に、太股の前面と後面の、どちらを主に働かせているか、体幹をきっちり固めて、そこから棒の様に腕と脚が出ていると感じているか、ぐにゃぐにゃに変形し易い物体が運動し、それに従って、鞭の様に手足が動いていくか、等々。その認知が、私達の身体のあり方を、規定しているのである。それを見つめていくのも、大切な事なのではないだろうか。

参考文献

鍛練の展開―身体の中芯からの革命 Book 鍛練の展開―身体の中芯からの革命

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

合気・奇跡の解読 Book 合気・奇跡の解読

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

------------------

余談。私は、この「身体意味構造」という概念は、とても重要なのだと思っています(一般化すると、身体意識が重要だという事です)。たとえば「良い姿勢」はどういうものか、とか、「だらけた姿勢」はどんなものか、とか。そういう様々な価値観に沿って、私達は、身体のあり方を、規定しているのだと考えられます。「良い歩き方とは、胸をはって、腕をきびきび振り、踵から足を接地する」という具合に、身体運動が、一つの記号として機能している訳です。これは、普段の生理学的状態とも、密接に関連しているでしょう。たとえば、「歩く」運動を、「膝を一々曲げ、重心が充分前に出てから膝を伸ばし、身体を前に運ぶ」のと、「膝は伸ばし、支持脚の真上に重心が来た際に、大腿を伸展(後方に回転)させ、前方に移動する」と認識するのとでは、全く異なります。歩行運動は、毎日数千から数万歩繰り返される訳ですから、それが筋収縮のパターン等の違いとなって現れる事は、容易に想像がつきます。

勿論、これは、殆ど意図せずに形成される事もあるでしょうし(社会一般に認められた習慣等。歩きとか、「良い姿勢」とか)、専門の、スポーツや武術の指導を受け、自覚し、意図的に変えようとする場合もあるでしょう。こういった意味でも、身体と心は密接に関連している、と言う事が出来ます。

ところで、認知科学でこういった研究はあるでしょうか。いかにもありそうですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月19日 (月)

高岡英夫氏の著作について

夢草の剣さんの、コメントを受けて。

高岡氏の著作は、広範に亘っていますので、武術のどの様な部分に関心を持つか、によって、お勧めの物は、替わってきますね。

初期の著作は、武道・武術を、記号論・言語学や社会心理学、構造主義的手法によって分析した著作が多いですね。比較的読み易いものとしては、『空手・合気・少林寺』シリーズや、『武道を読む』(これは、他の著作の解説書でもあります)辺りでしょうか。
又、『鍛錬シリーズ』では、トレーニングの方法、取り組み方等が詳細に論じられており、「武術に筋力トレーニングは必要か」、等の問いを持つ人には、大変参考になると思います。余り、読み易くはありませんが。

1990年辺りからは、高岡氏独自の、身体意識論について論じられた書が、多く出版されてきます。武術では、内観によって、「気の流れ」を認知するのは一般的なので、すんなり読めるかも知れません。『ハラを失くした日本人』などが、良いでしょうか。『意識のかたち』は、少々難解です。

その後は、現在広まっている、ゆる体操関連の著作が、多く刊行されています。ここら辺になると、そもそも一般向けに書かれた物も多いので、大変読み易いと思います。お勧めは、『からだには希望がある』、『からだにはココロがある』でしょうか。

武術を身体運動として客観的に捉えるという視点からは、『究極の身体』が、お勧めです。

又、身体意識論について、本格的に論じられている、いわば教科書的著作として、『センター・体軸・正中線』、『丹田・肚・スタマック』があります。内容そのものは、ちょっと難しいですが、文体は、読み易いと思います。

最後に、やはり、合気系武術に関心がある人にとって必読なのが、『合気・奇跡の解読』でしょう。特に、前半がお勧めです。合気揚げを、実証科学的手法によって分析したのは、おそらく殆ど無いと思われます。又、イチロー選手と宮本武蔵の身体運動の共通性を論じた、『武蔵とイチロー』は、読み易く、とても面白い本です。

-----------------

後、これは、事ある毎に、書いているのですが。
高岡氏の論述には、いわゆるトンデモ系と言うか、ニューエイジ系のものがあったり、気を肯定的に(心理学等の概念では無く)捉えていたり、といったものもあります(その内、トンデモ発言、トンデモ記述は、纏めると思います)。これは、日本や中国武術の思想には、馴染み易いものかも知れませんけれど、私個人としては、全く賛同していません。一応ここは、お断りしておきたいと思います。ニセ科学を普段批判していながら高岡氏を肯定的に扱う所に、違和感を覚える方もおられると思うので、念押し、という事で。
又、高岡氏の著作は、その類稀なる洞察力による分析は、舌を巻く事も多いのですが、実証データを示しているものが余り無い、最近の著作には参考文献が挙げられていない(自著以外で)ので、どこまでが独自の考えで、どこが先行研究を基にしているかが解りにくい、といった所もありますので、そこは、押さえておいた方が、良いかと思います。

-----------------

他に、これがお勧めだ、等のご意見を頂ければ、ありがたいです。私は、DSを前面に出した著作(1995~2000年辺りかな)は、余りお勧めしませんが。

空手・合気・少林寺―その徹底比較技術論 Book 空手・合気・少林寺―その徹底比較技術論

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

空手・合気・少林寺 (続) Book 空手・合気・少林寺 (続)

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

鍛練の理論―東洋的修行法と科学的トレーニング

鍛練の方法―世界最強をめざす人だけが読む本

鍛練の実践―その深い理解と徹底化のために

鍛練の展開―身体の中芯からの革命

武道を読む Book 武道を読む

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ハラをなくした日本人 Book ハラをなくした日本人

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

意識のかたち―現代に甦る天才の秘密 Book 意識のかたち―現代に甦る天才の秘密

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

からだには希望がある Book からだには希望がある

著者:高岡 英夫
販売元:総合法令出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

からだにはココロがある―丹田、センター、身体意識の謎を解く Book からだにはココロがある―丹田、センター、身体意識の謎を解く

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

究極の身体 Book 究極の身体

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます Book センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

丹田・肚・スタマック―自分の中の天才を呼びさます Book 丹田・肚・スタマック―自分の中の天才を呼びさます

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

合気・奇跡の解読 Book 合気・奇跡の解読

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

武蔵とイチロー Book 武蔵とイチロー

著者:高岡 英夫
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年2月16日 (金)

なりたい人じゃないけど、読みます

サッカー世界一になりたい人だけが読む本―RELAXED SOCCER Book サッカー世界一になりたい人だけが読む本―RELAXED SOCCER

著者:高岡 英夫,松井 浩
販売元:メディアファクトリー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは読まねば。

こういう一般向け? の高岡氏の本は、トンデモ的な記述(余り良い表現ではありませんね。でも、事実ですので…)が少ないので、結構受け容れられ易いのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月14日 (水)

基本技

私は、体系の基本に据えられている技法は、チャーハンやオムレツの様なものだ、と考えた事があります。

よく、チャーハン(オムレツ)は、基本であり、それを見れば、料理人の技量が解る、という話を聞きます。つまり、ここで主張されているのは、チャーハンやオムレツは、手順はそれ程複雑では無いけれども、基本的な調理の技術が要されるので、その上達具合を確認するバロメータになる、という意味ですね。だから、「基本が大切」と言われる訳です。

ただ(ここからが本題)、気をつけなければならないのは、チャーハンやオムレツを何百万回作った所で、他の料理の練習をしなければ、それらを作るようにはなれない、という事です。基本が大事、と固く信じて、ひたすらそれに邁進し、研鑽を積んでも、その技術自体は上達するでしょうけれども、他に必要とされる技術なり知識なりは、身に着かないのです。つまり、基本だからといって、それを過信してはならないという事です。武術のエピソードで、ありますね。基本の技をひたすらやっていて、達人の域に踏み入れた、というものが。これは恐らく、基本の重要性を認識させる為の、教育的装置の様なものでしょう。

ただ、武術と料理の類推なので、厳密に対応している訳では無い、というのは、断っておきたいと思います。武術の流派によっても、主張は様々です。正に、「チャーハンだけ作っていれば達する事が出来る」、と主張する派や武術家はいますし、複雑な型の体系を学習する事によって、対処法を身に染み込ませる、という考えもあります。議論に厳密さを求めるならば、そういった所も、考えていかなければならないとは思います。その場合、議論の前提(そもそも、どんな目的で武術を学ぶか、等)を、しっかり設定する必要があります。

本エントリーで主張したかった事を、シンプルに言うと、「片手取り呼吸法を何万回やっても、それだけでは、四方投げが劇的に上達する訳では無い」、です。勿論、両者には、「身体運動」という共通点があり、その意味では、実は関連している訳ですが。この辺の議論は、高岡英夫氏の、初期の著作に書かれています。興味のある方には、参照をお勧めします。←本エントリーの論理が粗雑なので、ちょっとした逃げ道を用意しました(笑) 因みに、ここに書いた事は、ごく一般的な論理なので、他の色々な文化にも、当てはまると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月13日 (火)

手を捕る

最近、こんな議論に参加しました⇒プロ合気道家トム・モリゾーの上手くなるブログ道場:読者の質問箱 その18

後の方、議論が噛み合っていなくて、ちょっと残念。私は、musounokenさんや、トム・モリゾーさんのご意見に賛同しますが。musounokenさんが、護身と武術(合気道等)との関係についてお書きになったエントリーはこちら⇒合気道・居合道雑記帳 合気道と武道と護身術

私が、合気道等の「手を掴ませる」稽古に関して考察したエントリーはこちら⇒Interdisciplinary: 何故掴ませるか。又、汎用性について

-----------

後、ちょっと思った事があるのですが、それは書きません。←何だそれ。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

メモ:身体意識仮説の検討

  • 身体意識、即ち「体性感覚的意識」の定義:(狭義には)体性感覚によって構成される意識系(詳しくは、高岡英夫氏の著書を参照の事)。高岡によれば、意識は、視覚意識・聴覚意識(併せて「視聴覚意識」)・体性感覚的意識に分類される。
  • 高岡は、身体意識を発見し、論理構造を解明した、と主張するが、それは妥当か。解明とは、どのレベルでの意味か、という事を考える。高岡は、著書によって、身体意識論が「仮説」である事を、明言している。これは押さえておくべきである。「(前略)しかしながら自然科学的物質科学の立場からは、身体意識が意識であるからには、それはそういうものがあると究極的には仮定されるに過ぎない。言葉の正確な意味で推論である。その仮定や推論が真理という評価を得るには、これは歴史の進歩を待つしかない。」(DSが解く達人のメカニズム―現代武術8つの極意 P223)、”(前略)ただ厳密科学的に言えば、身体意識というものが存在するというのは推測の域を出ていません。これは仕方が無いことです。私も科学者の端くれですから「身体意識は存在するに決まっているだろう。分からない奴には分からないんだ。」と言うつもりはまったくありません。”(格闘マガジンK Vol.6 P77)※高岡氏は、いわゆる疑似科学的な、意識がダイレクトに対象に伝わる、とか、時空間を超える、等の主張をされていますが、私は、明確に言って、その立場には反対です。身体意識は、概念としてとても重要ですが、それは、心理学や認知科学によって解明すべき対象であると考えます。
  • そもそも、身体意識がある、と、断言出来るか。出来るとすれば、それはどの様な根拠に拠るか。断言出来なくとも、心概念等と同等の位置づけを行う事は出来るか。感覚や知覚現象を認めれば、身体意識も認めて良さそうではある。
  • 身体意識が幾何学的構造(ストラクチャ)を持っており、その構造に規定されて身体運動が発現する、という論理はどの様に論証するか。他の、クオリティとモビリティは、どう論証するか。
  • 心理学的にはどの様に説明されるか。感覚や知覚との関連はどうか。身体図式や身体像とはどう関連するか。認知科学的に説明出来るか。※ググったり論文検索をすると判りますが、「身体意識」という概念自体は、結構用いられている様です。ただ、高岡氏の定義に従っているものは、見た事が無いです。因みに、身体意識が現在の定義で用いられるようになったのは、『意識のかたち―現代に甦る天才の秘密 』辺りです。それ以前は、身体意識も「ディレクト・システム」も、多義的に用いられています(現在の定義から導出される機能が、とでも言うべきでしょうか。「ディレクター」が言語装置として用いられている所もあり、少々曖昧です)。
  • かなり長いですが、引用します(『秘伝』誌連載:『極意の世界はこうなっている 第四章 身体意識とは何か 一、身体意識発見の経緯』参照)。

高岡 人間の感覚には、医学・生理学的概念として、視覚器と聴覚器と、それから味覚器なども含めた体性感覚器というものがあるわけです。そして、それぞれの感覚器から得られる原情報を基にして、それぞれ特有な意識系というものが生まれるわけなのですが、それに私は「視覚意識」「聴覚意識」それから「体性感覚的意識」という3つの意識系を定義付けしたわけです。それで、この3つの意識系は、それぞれ特有の構造と働きを持っています。これについての細かい話は今は抜きにして、そのうちの「体性感覚的意識」、つまり体性感覚から得られる情報を基にして得られる意識系が「身体意識」であるということなんですね。 だから身体意識というものは体性感覚情報を基に成立している意識系のことであるということです。だからそれに近い言葉で皆さんが日常的に使っているのが、「身体の感じ」とか「身体感覚」とかね。そういうものは、学問的概念とはいえないけれども、私が定義した身体意識に近いものと言っていいでしょう。

――「身体感覚」というものと、ここで定義された「身体意識」というものの違いについてもう少しお話いただけますか。

高岡 まず、もし「身体感覚」という言葉で、私が言っている身体意識の概念を表そうとしたならば、はっきりと間違いであると言えるでしょう。感覚というのは、各感覚受容器の発する原情報でしかないわけですよ。それを人間の脳で情報処理することによって、初めて人間に何らかの影響を与えるものになっていくわけです。その結果生まれるものが私が言う身体意識であるわけですから、受容器から生まれる原情報である感覚と身体という言葉を結びつけて、身体感覚という言葉で身体意識を表そうとすることは学問的には、明らかに間違いですね。それで、現実には身体感覚とか、身体の中の感じとかね、場合によってはボディーイメージとかね、そういった言葉で私が定義した身体意識の概念に近いものを表そうとしている人はいますね。それは現在かなり各分野で見られるようになってきましたが、言葉の選び方としてはやはり無理があると言えるでしょうね。

――そこで大事なのは、「意識」ということになるわけですね。

高岡 そうです。単なる感覚ではなくてね。だからこれは生理学・心理学的に極めてきちんと押さえていかなければならないところですね。単なる感覚ではないんですよ、私が発見したものは。私が見つけた概念というものを言葉で、つまり体性感覚的意識というものを短い言葉で表現しようとしたら、「身体意識」か「体性意識」しかないと思いますね。日本語では。

感覚と知覚の区別とか、認知との関連等は、難しい問題だと思います。無意識をどう扱うか、という点もありますし。因みに、この後には、体性感覚的意識の普遍性を論ずる文章が続きます。言語にも身体意識がある、の様に(なので、体性感覚「的」意識)。ここまで来ると、評価が分かれるでしょうね。上にも書いた様に、私は、それは認められないです。疑似(ニセとまでは言えない。一応、自身で、仮説と主張しているから)科学に通ずるものがあります。

しかし、こんな文章を書いて、一体誰が読むんだろう、と思ったり…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月14日 (日)

悩ましい話

志村建世のブログ: 闘争心と暴力について、かなり長文を書いたのですが、全く纏まらなかったので、消してしまいました…。

実際、暴力を論ずるのは難しいと思います。そもそも何を暴力と看做すか、ボクシングを禁止する事が果たして妥当か、ボクシングと他の競技の区別は、明確に出来るものか、身体に対するリスクは、ボクシングが明らかに高いか、等々。

志村さんの論理で言えば、ボクシングは勿論、コンタクト空手もプロレスも、キックボクシングも、そして(リアルファイトを志向する)総合格闘技も、悉く禁止されるべきだという事です。これに私は、強烈な違和感を覚えます。ただ、反論が難しい。とても悩ましいですね。

ただ思うのは、ボクシングの方が、他の競技に較べて暴力性を明らかに向上させる、と言わんばかりの論は、安直に過ぎる、という事です。

格闘技と暴力性の関係については、高岡英夫氏の著作が参考になると思います。

光と闇―現代武道の言語・記号論序説 Book 光と闇―現代武道の言語・記号論序説

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

武道の科学化と格闘技の本質 Book 武道の科学化と格闘技の本質

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 3日 (水)

飛脚

Yahoo!ニュース - Record China - 8歳の女児が記録的な速さで42.195kmを完走―海南省海口市

これは、色んな意味で興味深いニュースです。将来が楽しみ…と言いたい所ですけれど、子どもならではのパフォーマンス、と見る事も出来ますよね。

しかし、8歳で3時間台って、バイオメカニクス的に見ると、どの程度のレベルなんでしょう? この年頃の子どもがフルマラソンを走る事自体、殆ど無さそうなので、よく解りませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月31日 (日)

理屈・理論・理合

古流武道を後世に伝える難しさ 3 - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)

実際に動く事を疎かにして、考えるばかりではいけない、というのを戒める、その気持ちは解るのです。しかし、それを主張する余り、科学的分析に対して、嫌悪の様な感情を抱くべきでは無いと考えます。以下、引用文は、強調等ははずします。「ある剣術流派の故ご宗家」の発言は茶色で。

現代武道だけでなく古流においても技一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと受け入れられないのが現状です。

「理論を確立させないと受け入れられない」のが本当かどうかは、よく知りませんけれど(そうであれば、好ましいです)、何かをやるに当たって、それが論理的に体系づけられているか、又、それが科学的に妥当であるか、という所を確認するのは、極めて健全な態度と言えます。

最近の若い方々は、このようにした方が有効なのではないかとか、こうした方が理にかなっていると言って、勝手に理合いを無視して技を変えてしまっています。

古流の技は先人たちが自分の命を懸けて作ってきたものであり、長い年月をかけて研ぎ澄ませて理合いとして私たちに伝えられているものです。

中途半端に理解している段階で、自分勝手に技を変えたり、というのが駄目だというのは、確かにその通りなのですよね。それは、どんな文化だって同じです。一般論ですから。ただ、ですね。それを言う為に、「理合」を用いて、とにかくやっていればいずれ解る(出来る)、とするのが、果たして妥当か、という事なのです。つまり、間違っている事をやっているのを見て、それをちゃんと指摘出来るか、又、その指摘は正しいか、それは、何を根拠とするか、という意味です。

物事には必ず順序があります。
そしてその順序に従って進んでいかなければ必ず間違った所へ到達してしまいます。
また順序を飛び越えて進んでいくと落とし穴に嵌ります。
正しい順序で確実に進んでいかない限り、決して正しい結果には辿り着けません。

それはそうです。正しい順序を守らなければ正しい結果にならない、というのは、当たり前です。ですから、正しい順序とは、何を以って正しいと言えるのか、他に合理的なやり方は無いのか、という事を、考えなければならないのです。果たして、武術関係者の中に、それをやっている(やろうとしている)人が、どれ程いるでしょうか。

古流武道では理論・理屈は必要ありません - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)

古流武道は”理論・理屈”ではありません。

こういう事は、書くべきでは無いのですよね。恐らく、「理論・理屈」と「理合」は違う、という意味なのでしょうけれど、科学的分析をすべきでは無い、という文脈での使用なので、どちらにしても、妥当ではありません。

今、昔から伝えられてきた武術が科学的に研究されるようになって、それぞれ理論が確立されることによって非合理的な点が少なくなり、合理的になって発展してきているように言われているようです。

これは、今一つ意図を掴みにくい文章ですが。「非合理的な点が少なくなり、合理的になって」というのは、体系が洗練されて、より優れたものになった、という意味でしょうか。それとも、武術のメカニズムが科学的に解明されてきている、という事でしょうか。

また現代武道の技術は、一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと、世間には受け入れられない状態です。
そのため自分の体を動かして覚えることが少なくなり、頭を使って「力学的に考えると、こうした方が良いはずだ。」とか「こうした方が合理的だ。」と考え、先人たちが命を懸けて作り出してきた技を変えてしまっています。

上にも書きましたが、「一つ一つ科学的な分析をして理論を確立させないと、世間には受け入れられない状態」なら、それは望ましいと思います。多分、そういう傾向にはなっていると思われます。ここでは、先人が作り上げた体系が、そもそも高い合理性を持っている、という前提があります。本来、それ自体を論ずるべきであり、それを分析するのが、他ならぬ、科学です。ところで、頭を使う事と、身体を動かす事は、相反しません。時間配分の問題なので、そういう傾向にはあるかも知れませんが。しかしそもそも、「頭を使わずに、身体だけ動かしていれば良いのか?」という疑問が出てくる訳で。

でもいざお互いに真剣を持って命懸けの真剣勝負を行うとしたらどうでしょうか。

これは、全くナンセンスな喩えです。現代剣道は、そもそも「真剣を持って命懸けの真剣勝負」など想定していません(この様な議論が成立するのは、現代剣道家が、現代剣道の体系の学習によって真剣の扱い方も習熟出来る、と主張した場合ですが、その様に言う剣道家がどのくらいいるかは、判りません)。又、現代社会において、真剣での戦いを想定するなどというのは、武術に全く関心の無い人からすると、かなり困惑する文章でしょうね。

古流武道では”理論・理屈”を二の次にして、とにかく師の教えるままにひたすら稽古をします。
そのため”理論・理屈”は知らなくても自分の身を守る技術は完全に身に付けることが出来ます。

ここなのです。ここに、擁護システムの存在を窺う事が出来るのです。即ち、「師の教えるままにひたすら」、「”理論・理屈”は知らなくても」、等の教示によって、修行者の分析的・反省的思考を鈍麻させ、上位者の教授方法、又、体系そのものに対する懐疑的精神を、失わせるのです(高岡英夫氏の著作参照)。「知らなくても自分の身を守る技術は完全に身に付けることが出来ます。」ならば、論理的には、稽古したものは、全員正しい技術を身に着けた、と言えますが、果たしてそうでしょうか? 勿論、そんな事はありません。それは、承知している事でしょう。では、「何故身に着けられないのですか?」と問われれば、上記の様な認識を持っている人は、どう答えるでしょうか。簡単です。「修行が足らんのだ。」、「やり方が違っていたのだ。」です。ね、恐ろしい矛盾でしょう? 理屈を知れば身に着けられないと言い、身に着けられない人には、「稽古が足りない」、「頭で考えているだろう」と言うのです。

私は、頭で考えもせず、ひたすら身体を動かす稽古、というのが、最も駄目な稽古だと考えます。それだと、センスの良い人が、「たまたま」上達する、という事になります。それでは、何のために武術をやるのでしょう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月29日 (金)

分かったつもりになるとは、どういう事でしょうね

汗を流して体で覚えろ! - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)

うう、悩ましい…。コメントで質問でもしようか、とも思ったのですが、議論にならないと思うので(他のエントリーを読んで、ちゃんと答えて頂けないと推測)、エントリーで(TBもしません)。コメント欄もご覧下さい。科学を勉強されている皆さんは、驚かれるかも知れませんね。一体この人達は、何を言っているのだろう? と。

一言で言えば、科学的に分析する事と、分かったつもりになる事とは、別ですよ。

それと、解ったつもりになっているかどうかは、どう判断するのですか?

こんなんじゃ、いつまで経っても、武術は…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月26日 (火)

何を求めるか

プロ合気道家トム・モリゾーの上手くなるブログ道場:合気道って何 その5

コメント欄での議論が、実に興味深いです。

武術の本質論、つまり、「どうあるべきか」というテーマの議論は、やはり難しいものがあります。武術のどの側面に着目するかによっても、その回答は異なるでしょう。身体能力の開発法としての面を強調するか、又、あくまで「術」、即ち、襲われた際にどうするか等の、実用的側面を重視するか。或いは、格闘技としての面を考え、他の格闘技に対処が出来るか、という所が重要だと捉える人もいるでしょう。

私は、基本的には、トム・モリゾーさんの仰る立場に近いと言えます。武術に何を求めるかは、正に、「人それぞれ」としか言いようが無いと思います。何が正しいとは、断言は出来ないし、するべきでも無いでしょう。それを踏まえた上で、自分の目標を定め、そこに達するべく努力すべきではないでしょうか。

その上で、私個人としての考えを述べますと、私自身は、親爺ファイター さんが仰る事に、大部分同意します。武術を、暴力から身を護る手段だと考えるのは、武の定義からしても妥当ですし、既成の武術を単なる身体開発法と捉える必要など無い、と考えるのも、同意出来る部分ではあります。武術でなくとも、幾らでも、開発法は存在するのですから。実際に誰かに襲われる、という場面は殆ど無いにしても(現代社会で護身術などやっても、余り役立てる機会が無い、とも考えています。そもそも、そんなものを役立てる機会が多い様な社会は、来るべきでは無いですし。ですから、多分に「趣味の問題」でもある訳ですが)、「他者の攻撃から身を護り、相手を制する技術」として武術を捉えるのは、重要な視点だと思います。ただ、どこまでそれを追求するか、どこまでの汎用性を求めるか、という部分は、やはり、それぞれの考えでしょう。たとえば、道端で襲われたとして、そこに棒切れが落ちていたとします。この時、剣術や杖術等をやっている人なら、それを有効に使えるでしょう。しかし、体術しか習っていない人ならば、それを武器として認識出来ないので、使えないという事になります(この喩えは、高岡英夫氏の著作を参照)。ですから、「武器技は必要か否か」という議論も起こります。突き詰めるならば、銃火器の使用法にも精通していなければならない、という考えにもなりうるのです(そういう武術家もいます)。

従って、そもそもそういう線引き自体、恣意的であると考えます。ですから、私の意見としては、先ず、指導者なり体系なりが、何を目指しているかを調べた上で、批判を行うべきだと思っています。健康体操として合気道を行っているならば、それはそれで、構わないと思うのです。そういう人に対して実戦性と説いても、仕方がありませんし、そもそも失礼です。ですから、実戦性を触れ込んでいる人に対して、「そのやり方では駄目なのではないか」と言うべきなのだと考えています。つまり、(象徴的な書き方ですが)「自分は強く掴まれても動ける」、或いは、「相手がどんな攻撃をしてきても捌ける境地を目指している」と主張している人に対して、「そのやり方で果たして達成出来るのか?」と批判するのは、構わないという事ですね。その場合には、何を目指すかという共通認識があるので、それについて議論を深めていけば良い訳で。しかし、「自分は運動不足解消の為に合気道をやっている」という人に、「実戦に使えない合気道など意味が無い」と言ったり、逆に、「実戦に使えてこそ武術だ」という人に、「今の時代にそんな事考えてもしょうがないよ」と批難するのも、どちらも的外れではないかと思うのです。

余り、「こうあるべきだ」と強く思うと、排他的な認識を持ってしまいがちです。色々な価値観を認め、多様なあり方を許容するのも、重要ではないでしょうか。

因みに、私の武術に対する認識としては、身体開発:実用性が、6:4といった所でしょうか。当然、これらは相互作用しますし、割り切れるものでもありませんが(これがとても重要。実用性は、ハードウェアとしての身体のあり方に依存する)。結構適当です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年12月12日 (火)

見方

武術の動きについて科学的に考察しているブログとか無いかなあ、と、いつも思っています。悲しい事に、武術と科学の両方に関心を持っている人が、とても少ないのですよねえ。元々武術が、科学を忌避する様な思想を持っていたりするので、なかなか難しいです。

たまに、武術の高度な動きには筋力は要らない、なんて事を言う人がいたりするのですが、そんな馬鹿な、という感じです。じゃあ、どうやって動いているのだ、と。勿論、一般的に「筋肉を鍛える」といえば、より表層にある筋肉が肥大する、というイメージでしょうから、それを戒める(必要な筋肉を考えずに、闇雲に鍛える事を)為に言っている場合もあるのでしょうけれど、本気で、筋力は別に要らない、と思っている人も、たまにいます。

武術系のブログを見ると、専ら感覚的な事を書いていて、科学的にどうか、というのは、殆ど見られません。それが駄目だという意味ではありませんが、余り主観に頼ると、コミュニケーションが取れないのです。それは、自分の意識を内観して、言葉で表現したものですから、客観性があるとは言えません。ですから、お互い同じ様な言葉を使っていても、実態は全然異なる、という場合が、多々あります。身体を物体と捉えて、それを力学的に解析する、という見方を取らないと、いつまで経っても、本当の所は解らない、という事になります。そういう二元論的考えは駄目だ、という人もいるかも知れませんが、それは又、別の話です。身体を力学的に考察する事と、感覚や意識を疎かにする事は、違います。結局、両方肝腎なのです。なのに、武術をやる人は、科学的分析を受け容れない雰囲気がある様です。残念ですが。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2006年11月28日 (火)

神話崩壊?

某自称達人の試合を観ましたが、何とも言えない気分になりましたね。

先ず、試合結果は、大方の予想通りであったと思います。どの程度武術を修行したのかは知りませんが、総合系のルールの試合で、しかも、そのルールに特化してトレーニングを積んでいる格闘家に勝つというのは、そもそも困難です。当人が、どの様な認識で試合を受けたのか(本当に試合をやろう、と思った動機)、知る由もありませんが、正直、無謀であったと思います。

試合形式についてですが、ビデオカメラで撮影もし、多数のギャラリーもいたのですから、もう少し、ルール等に配慮すべきであったと考えています。せめて、マウスピースやグローブをつけるくらい、するべきでしょう。観衆には、格闘技の試合を見慣れていない様な人も見られましたが(推測です)、そういう人の事も慮るべきです。真剣勝負だから、マウスピース等要らない、と言われそうですが、時間・会場を決めて、観衆を入れ、ルールを決めて試合を行うのですから、それは当たりません。勿論、当事者同士の合意がありますから、部外者が云々する筋合いでもありませんが、60歳過ぎの人間が、血気盛んな若者と、ほぼノールールで試合を行うのです。ドクターも置かず(詳細は知りませんが、救急車が呼ばれたとの事なので、いなかったと思います)、あのルールで進めるのに無理があるのは、言うまでも無い事だと考えます。

勿論、自称達人氏は、自業自得であったと言う事も出来ます。WEBサイトに書かれている数々の宣伝文句等を見ると、その怪しさは、一目瞭然です。書いてはならない事も書いています。そして、サイトで試合相手を募集し、実際に試合を行った結果なのですから、同情の余地は無いと言ってもよいでしょう。お弟子さんも、意気消沈されていた様ですが、目を覚ますきっかけにはなったかも知れません(でも、とても気の毒だとも思います)。ただやはり、映像を観ると、何とも言えない気分になるのです。60過ぎの人間と、総合ルールで試合をする事自体、異常です。それは、皆判っていた筈です。にも拘らず、決行し、あの様な結果になった。残念です。

話は換わって、あの試合結果を知って、試合の無い武術を愛好している人は、複雑な気持ちになった事でしょう。いや、自分達はあれとは違う、と言う人もいるかも知れませんね。私など、「勝てる訳が無いだろう」という考えです。試合形式の稽古をせず(恐らく、です)、総合系で鍛えた格闘家に勝てるかも知れないと考える事自体が、かなり素朴な認識です。ノールールに近いと言っても、お互いに約束をし、会場と時間を決めて試合を行うのですから、そもそも護身術の意味合いが強い合気系武術で対応するのは、極めて難しいでしょう。攻撃技も少ないですしね(「無い」とは言えないです。又、道場によってもバラツキがあります。一般的には、合気道には存在しないとは言えます。合気道の標準的なテキストを基準にすると、それに則った稽古だけでは、総合系の試合で合気道家が勝つのは、「絶対」に近いくらい難しいでしょう。で、それを考慮して、体系に打撃技を組み込んだ場合、「それは合気道」と言えるの? という問題も出てきます)。そこに疑問を持った人々は、分派を作って、試合を導入したりしている訳ですが、そういう人からすると、今回の結果は、当然の事だと認識しているでしょう。昔も今も、古流武術や合気道等の修行者で、達人は存在するとは思いますが、だからと言って、体系そのものが優れているなどとは、言えないのです。それは当然の事です。名を馳せた達人が、他流と交わったり、実戦経験豊富だったりしたのを、見逃してはいけません。そういう意味で、個人的努力による所が大きいと考えられます。それが体系にフィードバックされるかどうかは、又別の話です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

武道を読む

武道を読む Book 武道を読む

著者:高岡 英夫
販売元:恵雅堂出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

高岡氏の初期の本です。

内容は学術的ではありますが、インタビュー形式で書かれており、初期の著作にしては、とても読み易いと思います。高岡氏の、実践に基づいた鋭い考察もあり、興味深いです。

武道を科学的に捉えるとはどういう事か。武道は、人類の文化の内で、どの様に位置づけられるのか、等に興味がある方に、お薦めの一冊です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月19日 (日)

前提条件の違い、文化としての武術

理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成での、A-WINGさんのコメントを受けて。

現代の武術家が勘違いしているのが、武術は命をやり取りする中で発達してきた文化だ、という事に対する過大な評価(自負)です。

現代において、武術の技を実際に行使する、というのは、ルールを決めた競技会(試合)でなければ、街中での喧嘩や、暴漢に襲われた時の護身くらいしか機会が無いので、そもそも、「本気でやる」という事が、殆ど皆無に近いのですが、かと言って、街で実力を試す、等というのは、全く反社会的行動であって(一部に存在しますが)、それは許されざる事です。ですから、試合の無い武術・武道にとっては、実力を試す機会というのは、一般的には無い、と言えます。つまり、比較的、戦闘が身近であった時代とは、そもそも前提が異なるのです。従って、ちょっとしたミスが、即、死に繋がるという、レース等の世界の方が、圧倒的に厳しいと思います。

この様な論理を踏まえずに、武術・武道を、他の文化より優れたものと看做してしまう、という人もいます。こういった、自分が携わっているものは優れていて、他は取るに足らない、という、現場埋没的認識は、外から見ると、滑稽ですらあります。

余談。このブログでは、武術をやっている人に対して、「こういう認識を持つ事がある」、という書き方をして批判をする事が、よくありますけれども、それは、殆ど全て、自分が陥っていた認識でもあります。つまり、埋没的・独善的・排他的な認識です。他の文化を知ろうともせず、自分が学んでいるものが優れていると考え、他人を見下す、という、著しく客観性に欠けた考えです。これは、とても不健全です。武術をやっている人がこういう認識を持ち易いかどうか、などというのは、社会科学的な対象であって※、断言などするつもりは全くありませんし、他の文化に関わる人でも、そういう認識を持つ人は、沢山います。あくまでも、武術を通してその様な認識を持ってしまった事例として(それと、自分が今まで読んだり聞いたりした、著名な武術関係者の意見にも、そういう傾向が見られるという、印象)、お読み頂ければ、と考えています。

※元から持っていた性格傾向や、始めた年齢、就いた指導者の方針、創始者の教え、等、様々な因子が関与しています。実証的に研究すれば、どの様な傾向が見出されるかは明らかになるでしょうけれど、直ちに、「こうなる」とは言えません。そこは、他の文化の社会科学的研究と、同じ事です。私がよく言及する、「武道・武術関係者は、科学的・分析的に、自分が属する体系を認識する傾向があるか」、というのは、研究はし易いのではないかと思います。各種武術・武道には、それぞれ、統括する組織がありますので(合気道なら合気会)、そこにアンケートを行う、或いは、教科書的テキストに、どの様な記述があるかを調べる、等すれば、団体の総意としての傾向(体系の根幹に関わる事なので、そう言って良いでしょう)は、見出されるでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月18日 (土)

理屈を言う人は上達しないであろうバイアス、の形成

「理屈ばかり言って、動けなければ何もならない」、という言い方は、結構見られます。それは確かにそうです。そもそも目標が、高度な身体運動の体現なのですから。しかし、それは、「理屈を言ってはいけない」という意味では、全くありません。ここの所を勘違いしている人が、武術関係者には、多くいる様な気がします。そういった考えは、時に、武術を論理的・科学的に認識する為の勉強が足りない事に対する正当化として、働く場合があります。

別に、頭を使ったからといって、技が下手になる訳では無いのですから(厳密に言えば、認識が、身体運動に悪影響を及ぼす場合はあるでしょうけれど、常識的な言葉の使い方として、お読み下さい)、それを毛嫌いする必要は、全然無いのですが。

心理学的には、劣等感の様なものが作用しているのかも知れませんし、もっとマクロには、潜在的擁護システム(高岡英夫)の発現、と見る事も出来るでしょう。端的に言えば、上位者が下位者に追いつかれ・越されたくない、という力が働いている可能性がある、という事です。そういう気持ちは、誰しも持っているものだとは思いますが、それを相対化出来るかどうかは、とても重要です。

理屈を殆ど考えずに、高いレベルに達する事が出来た人を、「天才」と呼びます。そんな人は、(「天才」の定義――同じ様なレベルの人間が多数いれば、「天才」と評価されない――からして)殆どいない訳です。ですから、少しでも多くの人が、上に行ける様にする為には、現象のメカニズムを明らかにし、誰もが確実に上達出来る様な体系を構築する必要があります。

他者より上でありたい、という認識を持っている人にとっては、受け容れがたいかも知れませんね。私は、「自己の可能性を最大限発揮したい」という考えなので、他人と比較してどう、というのは、余り気にしません(厳密には、そうなりました)。宇城憲治師範も、同じ様な事を言われていた、という記憶がありますが、その方が、健全なのではないかと思っています。

一応補足。「理屈ばかり言って」、というのを、身体を動かさない事に対する批判、という意味で使うのは、別に構わないとは思うのですが、極まり文句の様に、余りそればかり言っていると、考える事自体がいけないのだ、と認識してしまう場合があります。その事についてのエントリーです。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年11月17日 (金)

手の開き方と議論の仕方

手を広げるということ。 - 一 樂 庵 - 楽天ブログ(Blog)

コメント欄でのやり取りを読むと解りますが、水掛け論に終始しています。理由は簡単です。「何故手を広げるのか(本文にも書かれていますが)」が、結局、全く明らかにされていないからです。にも関わらず、特定の団体名追記:訂正です。「団体名」は出ていませんね(故・佐川幸義師範と、その門下)を引き合いに出して、批判しています。明確な根拠も無しに、です。コメントから読み取れるのは、佐川派は手を広げていないから駄目だ。何故なら、手を広げた方が良いからだ。という主張です。これは、全く、説明になっていません。又、「手を広げる」というのが、どの様な現象なのかが、明らかにされていません。これでは、建設的な議論になりようがありません。

武術家同士の議論は、あの様な、不毛(と言って良いでしょう)なものになりがちです。お互いが、勝手な意味で言葉を用いて、科学的なメカニズムを考慮しないので、当然の事です。

気に入らないようなら、読まずにおけばよい(要約です。コメント欄をご覧下さい)、という趣旨のコメントがありますが、ブログという、不特定多数の人の目に触れる場に、他の競技や流派を批判する内容の記事を書いているのですから、批判に対しては、開かれた態度を取るべきでしょう。尤も、今回は、反論された方の書き方も、些か感情的だった様ですが。

ところで、「手の開き方」について、ですが、流派により、又、同一流派内においても指導者により、多数の教えがある様です。「朝顔の手」、「猫の手伝」、「完全に弛緩させる」、「爪先の当たりにだけ力を入れる」、等々。理由についても、「密着を良くする」、「気を出す」、等、様々です。未だに、解剖学的・生理学的・力学的に、しっかりと納得出来る解説は見た事がありません。私は、腕・肩の重みを効率良く伝える為に、手を張り前腕筋群を収縮させ、受けの手と密着させる、という効果はあるのではないかと思っています。ただ、何故「朝顔の手」や「猫の手」等の形が良いとされるのか、というのは、ちょっと解りません。この場合、「その形で無ければ発揮されない機能」が明らかにされなければなりませんが、論者によって主張がバラバラで、科学的な説明は、今の所殆ど無い、と言って良いでしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月11日 (土)

何故掴ませるか。又、汎用性について

合気道なり柔術なりに対して、「何故掴ませた状態から始めるのですか?」という疑問が寄せられる事がありますね。その理由は、大きく分けて、二つあります。

一つは、「実際の状況の想定」です。もし掴まれたらどうするか、という観点です。よく護身術で、つかまれた時にはこう対処しましょう、というのがありますが、そういう場合ですね。批判者は、ここを捉えて、「現実に掴まれる事なんて無い」、と言う訳ですが、これは、半分正解(実際に掴んでくる人は、そうはいない)、半分誤り(そういう状況になった場合の手段としては、確かに役に立つ)です。

もう一つは、「身体の操作法を学習する」という意味です。「掴ませて、身動きが取れない状態から動く」、という課目を設定する事によって、「正しい身体の使い方(身体がゆるんで、揺動支点優位の動き)が出来なければ動けない」という状況に置かれる訳です(緊条件型。課目を遂行するには、課題が達成されなければならない。高岡英夫『高岡英夫の極意要談』 BABジャパン 参照)。それには、普通の状況に較べて、より動けなさを自覚させる事によって、自身の身体操作(もっと本質的な表現をするなら、「身体のあり方」)に、認識を向けさせる、という意味があります。(基本の技法――両手取り合気揚げや、両手取り呼吸法――の場合)自分の胸より少し下方で掴ませ、その状態から、体幹を屈ませずに、肩・肘を下げていかなければならない、という状況をつくり出す事によって、より、ベスト(高岡の概念)の形成が促され易い、という効果がある訳です。

さて、ここで、「結局、実戦においては、掴まれる事は殆ど無いのだから、そればかりやっても、意味は然程無いのではないか」、という疑問が出されるかも知れません。確かに、基本技法によって身につけたものが、「掴まれた時に”だけ”役に立つ」というのでは、その意味は、限定的であると言えるでしょう。しかしながら、「しっかり掴まれた状態から動く」、という課目の達成によって形成された(形成が期待出来る)、「身体がゆるんで、揺動支点優位(擬似流体構造優位)」という運動性は、他の運動においても、普遍的に重要であるのです。であるからこそ、基本技法として、手解き(手を掴ませて、それをはずす技術)や合気揚げ等が、最も重要なものである、という認識があるのです。

その様な意味で、手を掴ませて技を行う、という課目を基本として据えたのは、先人の偉大な発明であると考えます(何故そうなったかという事については、色々な解釈があるのでしょうね。帯刀の文化があった事も、関係しているでしょう。そこは、武術史家の研究に任せましょう)。

ただ、この様な優れた発明があったからと言って、修行者が、上に書いた様な論理を正しく理解して取り組まなければ、稽古の意味は半減するでしょう。ただ闇雲に掴み、ただ闇雲に動こうとするだけでは、上達するのは、一部の、センスに優れた修行者に限られ、それ以外の人は、上達への階段から脱落し、結局、筋力による頑張りあいに終始する事になるでしょう。これには、指導者自身が、メカニズムを理解していない場合と、解っていながら敢えて教えない(「潜在的擁護システム」)場合が考えられますが、いずれにしても、怠慢というそしりを免れるものでは無いでしょう。

余談――柔術や合気系武術の体系に、上の様な優れた部分があるとしても、勿論、それだけやっていて、他の武術家や格闘家と闘って(←この言葉、慎重に使わないといけないのですが)、制する事が可能であるか、というと、それは疑問ですね。超達人であれば、その様な事もあり得るでしょうが、それは、個人のセンスや、独自の努力があったればこそで、体系そのものが優れているという事を、意味しません。歴史に残る達人が、様々な武術や格闘技を研究したり、豊富な実戦経験を持っていた、という事実を、押さえておくべきです。そういう意味では、現在の合気系武術等に、どれ程の汎用性があるか、疑問を持たざるを得ません。攻撃技そのものを練磨する機会が存在しなかったり、試合が無かったり、という体系ですから(大勢の話です。例外は除きます。「合気会本部系」と限定すべきかも知れません)。それを踏まえると、私は、武器技の稽古は重要だと思っています。試合については、特に、取り入れるべきだ、という考えは持っていませんが、試合の無い団体が、合気道SAや富木流等を批難するのは、控えるべきかと思います。

一応、断っておきますが、私は、そういう汎用性が必須である、と考えている訳ではありませんので。武術の存在意義を、どこに見出すかは、人それぞれですから。

Book 高岡英夫の極意要談―「秘伝」から「極意」へ至る階梯を明らかに

著者:高岡 英夫
販売元:BABジャパン出版局

合気・奇跡の解読 Book 合気・奇跡の解読

著者:高岡 英夫
販売元:ベースボールマガジン社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006年11月10日 (金)

ロボティクスと合気道、と、掴み方について

合気道をロボット学から科学する

良い論考ですね。低次合気のメカニズムについての、基本ですね。

ところで、「高度な掴み方」について。

普通、手首を掴む場合、全身の筋肉を緊張させて、関節を固定し、相手(つまり、「取り」。技を掛ける側)が動かない様にします。しかしこれだと、リンク先にもある通り、関節の自由度が失われているので、(取りが)力を簡単に伝達する事が出来ます。又、予め、全身的に緊張しているので、取りの力に上手く対応する事が出来ません。エネルギー的にも無駄があります。互いの筋力の差が、それ程無い場合、簡単に技が掛かります(思い切り掴む様に言うのは、この効果を発揮させる為)。勿論、受けの筋力が強大な場合、取りが全く動けない、という事も起こります。結局、力一杯掴むというのは、取りの力の方向に対応出来ない様に、自ら不利な状態にしていまっている、という状況です。

では、どうすれば良いか。それは、「力を抜いて掴む」という事です。勿論、この場合の「掴む」という運動は、取りの腕が動かない様にする、というのが目的(前提条件)ですから、ただ軽く掴むのでは、稽古になりません(簡単に動いてしまう為。その代わり、技そのものが、とても掛かりにくい。軽く掴まれると技がやりにくいのは、そのせいです。その際には、関節を極める等の対処がある訳ですが)。ですから、取りが腕を動かそうとする方向を感知して、それに合わせる様に、筋肉を収縮させる必要があります。つまり、初めから力を込めて掴むのでは無く、取りの力の方向に合わせて「力が入る」様にする、という事です。そしてその為には、(必要な部分――取りの腕を把持する為の前腕の筋肉や、姿勢を維持する筋肉――以外の)筋肉が、予め弛緩している必要があります。掴む方も、「合わせ」を考えなければなりません。

固い稽古(きっちり掴ませた状態から技を掛ける稽古)を行う際、動かない様にしようとする余り、ただ闇雲に、「力一杯掴んで」、という教示が行われる事があります。もう少し、「掴み方」に対する意識も、持った方が良いかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 9日 (木)

評価

「武術は言葉では説明出来ない」、とした上で、「見れば技が出来ているか判る」と仰る武術関係者がおられるのですが(そして、自分も出来ている、という事も暗示している)、そう仰る人の写真を見てみると、一体、どこが出来ているのだろう…、と思う事が、しばしばです。書いてある内容は尤もでも、全く体現出来ていなかったり。

じゃあ、自分は解っているのか? という批判があるでしょうね。私がこのブログで書いているのは、「武術には曖昧な所があるから、科学的に考えて、皆が同じ意味で言葉を使う様にして、議論を進めるべきだ」、という事なのです。優れているとすれば、どこがどう優れているのか、それは、写真や映像の、どこに現れているか。それには、しっかりとした根拠があるのか、等を考えないと、「話にならない」のです。ですから、私は、他人のパフォーマンスについて書く場合には、どこがどう優れているのか、又、どこが良くないか(これは、余り書いた事は無いですね)、を、他人にも理解して頂ける様に、科学的概念を用いて、客観的に記述しているのです(そうすれば、科学的概念の用い方そのものが間違っている、という批判を受け容れる事も出来ます。批判に対しては、開かれた態度を取らねばなりません)。それから、私は、自分の事については書きませんし、書く事には、余り意味が無いと考えています。そもそも、自分が出来るかどうか、というのと、優れた運動を理解出来るか、というのは、別(相対的独立)なのです。それに、自分の「出来なさ」を、よく理解していますしね(その内書くかも知れませんが、その際には、画像や映像を、共に載せます)。後、見た目から得られる情報には、やはり限界があります。たとえば、より深層にある筋肉が、どれ程働いているか、とか。そういう理由もあって、写真や映像から、運動のレベルを評価する際には、慎重になる必要があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 8日 (水)

潜在的擁護システム

モモのおじさん さんの、すっきりライフ 合気道ドタバタ奮戦記 - 楽天ブログ(Blog)内、武術とコンピューター社会・・・答えだけが好きを読んで。

深く考えようともせず、直ぐにアドバイスを求める、という人がいるのは、確かにその通りだと思います。ですが、

でも、武術は外から答えを貰っても意味がないのです。

このご意見には、賛同出来ません。

私も手でこうやって「スーっと」、「違う、スーだよ」とか云います。

という、感覚的(論理性が充分でない)説明は、勿論、上手く働く事はあるでしょう。しかしこれは、見方を替えると、言葉による詳細な説明を行う努力を放棄(とは、言い過ぎかも知れませんが)している、とも考えられるのです。

武術の修行をされている方、指導者の方に問いたいのは、「武術の動きを言葉で説明しようという努力はされましたか?」という事です。初めから、「武術は、言葉では説明出来ないものなのだ」、と、諦めてはいないでしょうか。又、言葉による説明を心がけている人は、それが充分論理性を持つか、自分の考えている事は、果たして正しいのか、等の反省を、常に行っているでしょうか。

言葉で説明出来るのにしない(相手が自発的に考えるよう、促す)のと、説明「出来ない」のは、全く別の事です。どうすれば、相手が最も早く、回り道をせずに上達するか、という事を、本気で考えているならば、自分がやっているものについて「知る」、というのは、とても肝腎です。モモのおじさん さんは、

今は何でも答えてくれる先生が良い先生で、感覚的な言葉で訳が解らず「違う!よく見ろこうだ!」というのは悪い先生なのでしょう。

と、皮肉まじりに書いておられますけれども、その、「何でも答えてくれる先生」が、当を得た説明をする、又、感覚的な先生と同じ程度の実力がある、と仮定すれば、そちらの方が良い指導者である、と断言出来ます。

感覚的表現を多用した指導が、多くの落伍者を生み出してはいないか、という事についても、よく反省すべきであると考えます。それ(感覚的――つまり、非言語的な――指導。非言語的と言うよりも、非論理的、と言うべきでしょうか)が、結果的に、修行者の上達を阻害し、上位者の立場を守る為に機能している、という可能性は無いのでしょうか。本当に、相手に上達して貰いたい、その為に最大の努力をする、と、考えるならば、その様な可能性にまで、目を向けるべきです。

たとえば、「ここでは、腕に力を入れた方が良いのでしょうか?」という質問を受けたとします。この場合、どう答えるでしょうか。安易に、自分の経験を基にして、「そこは○○だ。」と説明していませんか。ここで言われている「力」とは何か? とか、「何故」そうすべきか、等を、きちんと理解しているでしょうか。自分が余り理解していない事を、他人に教えてしまっている、という事は無いでしょうか。正確な理解を求めていくと、必ず、科学的な知識が求められますが、それを勉強しようと、努力はしているでしょうか。はっきり申し上げて、自分達がやっている事を、思弁的にのみ捉えて、それで良し、とするのは、怠慢です。身体運動文化である武術を、ただ感覚的(体験的)に考えて、分析的・客観的(科学的)に考えようとしないのは、後れている、と言わざるを得ません。

※そもそも他人の上達に関心の無い人にとっては、上の主張は、全く意味が無いかと思います。

※武術史上、名を馳せた達人が、類稀なる才能の持ち主であった、という事を、忘れてはいけません。天才と同じやり方で、天才と同じ場所へ到達出来る、と、安易に考えてはいないでしょうか。ここで、「才能がある」というのは、武術の優れた動き等を、分析的に、詳細に認識しなくとも、直感的に捉え、自分の身体で再現してしまう能力がある、という意味です。

※タイトルは、高岡英夫氏の概念です。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年11月 6日 (月)

こころとからだ、そして…

高岡英夫氏は、身体意識の構造が、感情等の心理学的な因子とも密接に関係している、と主張なさっています。

これは、とても興味深い説ですが、科学的に実証するのは、なかなか難しいと考えられます。そもそも、身体意識という現象自体が、実証科学的には研究が難しい対象ですから。ですから、先ずは、身体の生理学的状態と感情等が、どの様に関連しているか、等について、心理学的・生理学的アプローチによって研究を進めるべきでしょうね。こういう研究は、どの程度行われているのか知りませんが(結構あるのではないかと思います)、全身の固まり(見方を変えると、ゆるみ)具合と、感情に関する心理尺度による測定結果との関係を調べる、等が考えられます。身体がゆるんでいれば、心理的にもリラックスする、というのは、多くの人は、経験した事があると思いますが(マッサージを受けたり、温泉に浸かったり)、それがどの程度普遍的であるか、というのは、詳細に調べられるべきでしょう。たとえば、身体が拘束されていると、独特な「だるさ(肩こりの様な)」を感じますが、その様な不快感が持続する事によって、恒常的にイライラする、等のメカニズムが推測出来ます。問題は、それが無意識的であっても作用するか、ですね。つまり、肩こりは、沢山の人が実感しているものですが、実はその様な拘束(力を入れる意図が無いのに、持続的に収縮している状態)は、全身到る所にあります。殆どは、それを認識していない(顕在的に意識していない)と思いますが、それでも心理状態に影響を与えているかどうか、という事です。当然、拘束されているという事は、その部分の血流を阻害する等の影響を与えるでしょうから、生理学的に違いがある、とは言えます。それらが心理的因子とどう関係するかを調べたりする、等の研究が考えられます(こういうのは、どの分野の対象でしょうか。生理心理学? ちょっと違うかな)。

それらを調べれば、身体のゆるみ方と心理状態が、どの様な関係にあるか、という事は、実証的に、充分明らかに出来るかと思います。後は、身体意識が身体とどの様に関係しているかを調べる、という事になります。それが進めば、精神―身体意識―身体(全くどうでもいいですが、このブログのアドレスは、ここから付けました)の関係について、明らかになるでしょう。勿論、それが為されるには、まだまだ時間が必要だと思います。神経科学等の、更なる発展が待たれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 5日 (日)

合気を科学的に考える

判り易くする為に、高岡英夫氏の概念・引用文を、で示します。

武術に興味のある方ならご存知だと思いますが、日本武術に、「合気」という言葉があります。

合気の語自体は、古来、剣術等で使われていた様ですが、現在、合気と言えば、合気系武術と呼ばれる、大東流合気柔術や合気道等において用いられる具体的技術、として認識される場合が多いと考えられます。特に大東流では、「合気をかける」という表現が用いられ、明確に、具体的技術として対象化されている様です。合気道では、もっと一般的な、自分と相手との認識的な関係を示し、タイミングを合わせる事を「気を合わせる」、「気の合わせ」等と表現し(高岡の言う、「第一の合気」。『フルコンタクトKARATE』 1996年1月号 参照)、「合気」という語を用いる事は、あまりありません(実際の指導の現場で用いられる事はあるかも知れませんが、文献で見かける事は、殆どありません)。

対して、(主に)大東流では――現象を記述すると――受け(技をかけられる側)が、取り(技をかける側)の手を掴んだ刹那、踵が浮き、身動きが取れなくなって、手をしばらく離せなくなる、といった状態を、「合気がかかった」と言い、相手をその様な状態に成さしめる事を、「合気をかける」と称します(高岡の言う、「第ニの合気」。前掲書参照)。

勿論、流派により、又、同一流派内においても、指導者によって、言葉の使い方は異なっており、必ずしも峻別出来るものではありませんが、(武術に関心を持つ人に)一