カテゴリー「武術・身体運動」の記事

2011年12月12日 (月)

主観、主観、ただ主観

【からだ こころ いのち】再生の時代 幼児体型の大人が増加(1/2ページ) - MSN産経west

なぜ月刊『秘伝』の記事が産経に?と思わずにはいられない内容。

述べられているのは、主観的印象に基づいた独自の身体観と社会観。そこに科学的な根拠らしきものは全く示されていない。「野口晴哉( (野口)整体の創始者)」の名と野口の論の紹介はあるが、私の知る限り、野口は自らの施術の経験に基づいて独自の体系を創出したが、その体系の有効さやメカニズムがバイオメカニクスや整形外科学や運動生理学等によって実証的に支持された、という話は聞かない。

この論を開陳している方のプロフィールを見ると、どうやら社会学系の教員のようである⇒プロフィール :: 研究業績・活動履歴(論文・学会発表・著書(主なもの)) || 平山身体文化研究室

業績を見るに、なかなか興味深いタイトルが踊っているが、どうやら体育学やバイオメカニクス系の論文は無いようだ(CiNiiでも社会学系のものが数件しかヒットしない)。

体型というものが、認知のあり方や行動の傾向と関連する事は、理論的には充分に有り得る。たとえば、筋肉や脂肪の量や身体各部への分布などが運動のありようと関わり、それが生理学的に意味のある違いとなり、さらに心理学的な状態と関係する、というものであったり、いわゆるジェンダーステレオタイプなどが、体型と人格的な部分を結びつけるような社会的認知を形成する可能性もある。「メカニズムとして一応想定は可能」というレベルでは。

それを仮説として提示し、実証的に研究していくのは科学的に重要だし意義のある事だろう。しかしながら、「印象」などという極めて主観的なものに基づいて論を展開し、あまつさえ、身体的特徴に「あるべき方向」のようなものを設定し、「体型の正常な発達段階」のようなものを想定する。更にはその事と、「特定の文化を嗜好」する事とを結びつけ、当該文化領域を、正常な発達を妨げるものとして批難する、というのは、いささか慎重さに欠けるのでは無いだろうか。

苟も学者と標榜するのならば、新聞記事であり論文で無いとは言え、○○の研究によれば――とか、△△学で解っている所では――という風に、持説を支持する知見についての情報を示すのが筋だと思うのだが、いかがだろう。


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2011年11月25日 (金)

斬り方

私は、日本刀をもって斬っていくという運動について、あるやり方を志向しているのですが、その方面からアプローチしている操法を見た事が無いのですね(ある人の影響でそう考えたのですが――今の所、その人以外で同じ志向の人は見た事無いかも知れない――その人はあまり表に技を公開しない)。

動画などでそういうのがあれば、参考になるし、同じ方向性の人がいるのだな、という事を確認出来、自信も深まるだろうと思うのですが、なかなか……。

それは、現在のスタンダードからすれば外れたもの、というか、構造的に発想しにくい方向なんだと思います。もしそっち系の運動を取り入れると、体系全体を再構築させねばならない、というくらいにアプローチの仕方が違う。一般的な据え物斬りなどの体系からはちょっとあり得なそうな方向性。

なんとかそれを再現(実現で無く再現、というのがさりげないポイント)出来ればいいのですが、何しろ、実験的検討も難しいし(私は真剣を扱った事が無いからそこからハードルが高い)、理論的考察もとてつもなく複雑なのです。と言うか、そのやり方に理論的根拠をつけたい、という理由から、刃物に関する工学やインパクトバイオメカニクスを修めねばならない、と考えて関連の領域を勉強している所なのであります。

ここが明らかになれば、既存のものからのパラダイムシフトが起こるかも知れません(パラダイムシフトを使いたいだけか)。そして、剣に関する色々の要素について、どうしてそうなっているのか、どうすれば合理的か、という所が、推測にとどまらずに、はっきりと科学的・工学的に解明されるかも知れない。

まあ、どのくらいかかるか……いや、自分が死ぬまでに出来るのか、解りませんが。

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2011年10月18日 (火)

赤池弘次と身体運動とイメージ

調べ物をしていて、このようなものを見つけました。
納度の概念の利用について(PDF)
著者は故・赤池弘次氏。AIC(赤池の情報量規準)で知られる統計学界の偉人です。
この論文では、赤池氏が、モデル比較の規準として「納度」という概念を提出しています。そして、その中で、「ゴルフスイング」についての言語的イメージやモデルが検討されているのです。
その取り扱っているテーマの内容と書き方を見て、少々驚きました。と言うのも、たとえば

 コルクの栓をスクリュー型の栓抜きで引きぬく時の両足の動きを,足の「螺旋」の動きと呼ぶ.この脚の動きで体と地球の結びつきが固まる.両膝と両脚の体勢を固めれば,体の動きが脚の「螺旋」の動きを通じて地球に直結する.

このような、まるで武術関連誌に書かれてあるような表現、動きを行う際の「イメージ」への言及があったからです。
なんだそんな事か、と思われるかも知れませんが、私にとっては、統計学の大家(どころでは無いくらいの方)が、このような、自分の志向に合致するような事柄について書いておられた、というのは、かなり興味深い事だったのです。そして、赤池氏について調べてみると、晩年には、ゴルフスイングについてよく研究されていたとの事。これは、今の自分の方向性、つまり、統計学的な論理の習得と、身体運動の科学的追究、という志向に見事に一致しているので、これは面白い、と感じた次第です。
実は、AICやモデルの当てはめのような観点は、幾度かYJSZKさんがやりとりの際に言及なさっていて、私もいずれきちんと勉強したいと思いつつも後回しにしていたのですが(と言うか、そう簡単に理解出来るものでは無く、習得には基本的な数学の勉強が必要だから、後回しにせざるを得なかった)、まさか赤池氏が身体運動方面の研究に従事しておられた、というのは考えてもいなかったという訳です。
そして、その流れで色々調べていたら、なんと赤池氏、アメブロでブログを書いておられたとの事。これにも驚きました。
ゴルフ直線打法
統計学の巨人がアメブロでゴルフについて連載なさっていた、というのは、なんと言うか、不思議な感じがしますね。しかもその内容は、「イメージを駆使」したようなものです。ゴルフでそういう表現がよく用いられるというのは聞きますが、武術などの書き方にも通ずるものもあり、大変興味をそそられます。この興味深さというのは、厳密な論理性を重んじる数学(数理統計学)と、主観的なイメージを多用する身体運動文化、の両方に興味を持たない人にはなかなか解らないのかも知れませんが、私は、かなり「ニヤリ」としました。ブログの記事もいずれ読み通してみたいと考えています。
と、ここで注意しておかねばならないのは。
いくら、統数研の所長をつとめた数理統計学の巨人が言及しているからといって、すぐにその書かれてある内容を受け容れるには慎重にならねばならない、という所です。その内容が、既存のスポーツ心理学、運動制御、スポーツバイオメカニクスなどの知見とどう整合するか、あるいは具体的な精密科学的研究によってどのくらい支持されているか(evidenceがあるか)、をきちんと検討しつつ見ていく必要がある訳ですね。
とは言え、赤池氏がこういう論考をなさっていた事自体が非常に面白く、具体的に検討してみる価値はあろうかと思います。数学や自然科学に親しんだ人があの論考群を見ると、「?」となるやも知れませんが、私にとっては、主観的な身体運動に関するイメージを展開していく文章というものは、実に馴染み深いものなのです。

という経緯があって、これはひとつ、赤池氏が書かれた論文などを色々読んでみよう、と思って、検索して探して見ました。これが実際、とても面白いものでした。やはり、確率・統計に関するテキストというのは、「哲学」が入っていると面白い。哲学が大袈裟なら、考え方、でも良いでしょう。という事で、ここで、赤池氏に関するページをいくつかご紹介したいと思います。名前は知っていても論文はあまり読んだ事が無い、という方もおられるでしょうから、参考資料として。統計学のみならず、科学の考え方はどういうものか、という観点からも、見ておく価値はあるものと考えます。

※時系列順になっていないのでご了承下さい。

科学の目・統計学の目 Part 3 赤池弘次博士に聞く(PDF)
赤池氏と堀田凱樹氏の対談。赤池氏の経歴や逸話、考え方などが、自身の口から語られている。

赤池弘次(京都賞2006受賞者)からのメッセージ※動画再生注意
京都賞受賞時のメッセージ。大変に示唆的。

シリーズ:統計学の現状と今後 「ノーベル賞と統計学」
大阪大学、狩野裕氏。赤池氏の講演に触れ、対象とする現象を深く考察する事の大切さを強調。

第 22 回京都賞記念ワークショップ 基礎科学部門 「統計的推論とモデリング」 赤池弘次(PDF)
京都賞ワークショップ。情報量概念の説明や、ゴルフスイング研究が紹介されている。

CiNii 論文 - モデリングによるゴルフ新打法の展開(特別講演)
ゴルフスイング研究の概要。

CiNii 論文 - モデリングの技 : ゴルフスイングの解析を例として(<特集>モデリング-広い視野を求めて-)
ゴルフスイング研究。少し詳しめ。

統計的思考と統計モ デルの利用(PDF)
統計の考え方を説明している。興味深く読める。

カルナップ 確率の論理學的基礎(PDF)
カルナップの著作についての書評。かなり批判的(私は内容を詳細に検討出来ない)。科学哲学的にも興味深い資料なのではないかと思う。

統計学研究の方策について(PDF)
統計史的な部分の記述やAICの意義の説明があり、大変面白く読める。

ゴルフと統計と科学
生体・生理工学シンポジウム論文集所収。本文参照出来ないので概要を。抄録に書かれてある問題意識はとても賛同出来るもの。

エッセイ風の連載。これはとても面白い。

特集 赤池統計学の世界(PDF)
赤池氏の理論の紹介と、様々な分野での応用例の実際。私にはむつかしいけれども、参考資料として良いと思います。後半は、先述の対談。

赤池弘次元所長のご逝去を悼む(PDF)
北川源四郎氏による、赤池氏への追悼文。赤池氏の経歴や業績が紹介されている。

故赤池弘次先生記念ウェブサイト 赤池記念館
赤池氏の業績を讃えて開設されたサイト。経歴の紹介や、論文など著作一覧が掲載されており、大変に有用。

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2011年9月28日 (水)

高岡英夫と遠当て

はてブで高岡氏の話になったので、少し。

高岡氏は、『空手・合気・少林寺』などで、大変優れた論考を書いていますね。力学的関係が云々、みたいな事もそこで出てきます。私の論は高岡氏の論に拠っている所が大きくある(その上で無駄な所を排除し洗練させようとしている)ので、結構共通しています。

また、近年の合気論においても、かける側とかけられる側との協力関係によって成り立つものを、「人文―社会科学的メカニズム」などと高岡氏は呼んでいます。要するに、師弟関係であるとか、「技を信じたい」心理などが、「自分はわざとやっていない」のに「倒れてしまう」といったような現象を成立せしめる、という論理。そういう現象を経験すれば、「技は本物」との認識が強化され、益々それらの「触れずに倒す」みたいなものを追い求めていく、という循環的な構造が形成される可能性があります。

つまり、合気という「現象」は、純粋に力学的・生理学的なメカニズムと心理社会的な論理とが組み合わさっている、と考えている訳ですね。
その観点、言われてみれば当たり前のものではあるのですが、武術を対象として論理を抽出し整理した事は、やはり高岡氏の業績と言えると思います。ところが……

にも拘わらず、高岡氏は、離れ合気、みたいな事をパフォーマンスとしてやります。離れているのだから当然、力学的な関係は取り結べません。かと言って、心理的な「協力関係」も無い、と主張します。で、どういう論理でその現象を説明するかと言うと、「意識操作」という概念。そこに、高岡氏独特の「身体意識」論が入ってくるのです。それはユング的な論と共通していると思いますが、他者の「身体意識」をコントロール出来る、と称しているのですね。
そこで、それまで穏当で科学的にも妥当だった論が、いきなり飛躍する、という訳です。高岡氏の身体意識論は高岡理論の中核ですから、それを基に体系が組み立てられていて、「遠当てのような現象」についても、「心理社会的協力関係」「力学的・生理学的関係」以外に成立させるメカニズムとして「置ける」訳です。で、当然それは、現在認められていない、いわばニューサイエンス的な主張と共通した概念ですので、「良く言っても仮説」程度の論です(あるいは、超能力のサイ仮説にも似ているでしょうか)。そこの所も踏まえ、注意して見ておく必要があります。力学的でも無い、かといって心理的な協力で成り立っているのでも無い、なら他のメカニズムが……という事を「知りたい」人には実に魅力的に映る論の立て方なので、とても厄介なのです。これは、先日書いた「ゆる体操」の話とも実は繋がってきます。

c_Cさんは見事にこの辺りの論理を看破なさいました。

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2011年9月27日 (火)

柳龍拳氏が

テレビに出演したようで。

その話には色々思う所がありますが、それは措いて、関連しそうな過去のエントリーを貼っておきます。関心を持つ方には、それなりに興味を持って読んでもらえると思います。

「遠当て実験」から考える: Interdisciplinary

気とはシステムである: Interdisciplinary

触れずに投げる(と、その他ちょこっと): Interdisciplinary

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2: Interdisciplinary

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2011年9月20日 (火)

ゆる体操

はてな匿名ダイアリーに、このようなエントリーが上がっていました。
※以下、はてなの慣習に従い、エントリー及び書き手の事を「増田」と表記する

「ある体操法と出会って1年で人生が変わった」話を頼むから拡散してくれ

そして、ここに、はてなブックマーク(以下、はてブと略す)がたくさんついています。はてなブックマーク - 「ある体操法と出会って1年で人生が変わった」話を頼むから拡散してくれ 今見た時点で、1600近く。はてブで1000超えというのは、上位にランク入りするくらいの相当な数ですが、健康情報的なものではしばしば見られます。はてブ界隈では、体調不調を改善するメソッドに関心が大きい、という事なのでしょうか。

さて、当該エントリーでは、高岡英夫氏が創始したメソッドである「ゆる体操」が絶賛されており、自身が体験したエピソードを拡散して欲しい、とアピールされています。長年困っていた体調不良が劇的に改善されたという事で、これは是非とも広めたい、という風に考えたのでしょう。※なお、「いかにも業者っぽい」という見方はここでは措いておきます
そして、はてブでも、試してみようかな、という意見が結構見られます。もちろん、胡散臭さを読み取る人も沢山いるようです。中には、そこまで関心を持っているのでは無いが、話題にのぼっていたので取り敢えずブックマークしておこう、という人もいるでしょう。いずれにしても、はてブ界隈というローカルな空間とはいえ、ある程度注目を集めていると見る事が出来るでしょう。

このブログをご覧くださっている方はご存知の事ですが、私は以前、高岡英夫氏の論に強く影響され、ゆる体操というメソッドにも関心を持ってきました。ですので、ほんの少し知識を持っています。そこでこのエントリーでは、増田のエントリー、および「ゆる体操」について、考察してみたいと思います。

○増田氏の経緯

まず、増田氏が辿った経緯を箇条書きしてみましょう。重要と思われる所を強調します。

  • 1年くらい前まで、肩凝りや頭痛、目の疲れに悩まされていた。
  • 親類の不幸により、心理的にもダメージを負っていた。
  • 不調の悩みから脱却すべく、筋トレや各種体操法に取り組んだ。
  • それらは効果を齎さなかった。
  • 体操法については、辛いと感じた。気力を消耗した。
  • マッサージは経済的にコストがかかり過ぎ、効果も一過性であった。
  • その後に「ゆる体操」に出会った。
  • 要望として、時間を大きく割かず、高い効果を持ち、気力を使わない、というのを求めていた。
  • 具体的な身体的不調は、1)強い肩凝り、呼吸がし辛いという自覚 2)目の疲労 3)腰痛や腰の重さ
  • ゆる体操実施。参考書は、高岡英夫の『仕事力が倍増するゆる体操』
  • 「膝コゾコゾ体操」を実施→快眠 「1日」で顕著な効果を自覚。
  • 他の体操も実施。「1週間」で、目および腰の不調の改善を自覚。呼吸も改善。
  • 肩凝りの改善。自覚は3ヶ月後。
  • 1年経過。心身ともに改善を自覚。

こういった感じですね。このような経過を辿って増田氏は、ゆる体操に劇的な効果があると実感し、それを広めたいと認識してエントリーを書いた、という流れ。

この流れを見ると、増田氏は、不調を改善すべく、色々試したという経験があり、そしてゆる体操に「辿り着いた」という事のようです。ここでは、「他のものが効かなかった」という経験が、ゆる体操が「効いた」という認識を強く形成させるきっかけとなっているのだと思われます。そして、「短期間」である事。長年悩んでいたものが、ものによっては1日で、肩凝りも数ヶ月で改善された、という実感は、取り組んだメソッドの効果を強く印象づけたのでしょう。また、低コスト(時間や、体操としての簡便さ)という面も、簡単に出来る、という事で重要な点です。痩身法(○○する「だけで」痩せる、といった謳い文句)なども思い起こすと良いでしょう。

ここで重要なのは、個人的に色々工夫したり探求したりして、その結果見つけた、という事、つまり、「比較しふるい落としてきた」という経緯である所です。たとえば、ほとんど運動してこなかった人が ゆる体操をやってみたら改善された、という場合には、運動をする事そのものが身体的に好影響を与えた、つまり、「運動ならなんでも良かった」可能性がある訳ですが、増田氏のケースでは、色々な体操法や、筋トレを試みてきた、という事で、それらと較べてより高い効果が得られた、と主張していると。

○効果

では、その体操は、確かに増田氏に高い効果を齎したと言えるのか。……確実には言えません。
今回のケースは、一人の人間が色々試してみた、というものです。つまり、シングルケース(一事例)。科学の研究においても、シングルケース(一人、もしくはごく少数)を対象として行われる場合は当然ありますが、その際にも、色々な条件を考慮してデザインして行われます。
簡単な所で言うと、たとえば、年を取ってきて体質が変わってきた、とか、他に変化してきた要因、食生活や交友関係が変化してきたとか、あるいは、他の体操の効果が「後になって現れてきた」という可能性なども、厳密に見ると考えられます。
もちろん、食生活や交友関係などは、体調や精神に強く関わる事が簡単に推測出来るでしょうから、増田氏も強く意識していた所でしょうし、それがあれば書いていたはずです。また、体操が後になって効いたというのは、あくまでも「論理的な可能性」であって、運動生理学などから考えて、そういう事があり得そうかそうで無いか、などはまた別の話です。要するに、あるものの効果を確かめるには、そのくらい色々な事を考慮しなくてはならない、と。

参考:教育実践研究のための一事例研究法

さらに言えば、「体調が良くなった」という「実感」自体が錯誤の可能性すらあります。いわゆる「気のせい」というもの。心理的にも切羽詰まった状況であった事が、身体的な改善を誤認させる、という可能性。あるいは、体操そのものに効果が無くても、その体操が良いのだ、という思い込みが心理的に作用して、それが実際に身体に好影響を与える、という事すら考えられます。その場合には、身体が改善されたのは事実だけれども、「ゆる体操」は効かなかったと言えるのです。
もちろん、効いたという実感が錯誤である可能性というのも、論理的な可能性です。肩凝りの改善などの実感が全部誤認というのが、生理学や心理学の観点から果たしてあるのか、と見る事も出来ますので。ただ、ここで言っているのは、そういった、身体的な状態が改善されたかどうか、についても、きちんと「はかる」必要がある、という事です。たとえば、肩凝りの改善といった場合に、「実感」だけに頼るのでは無く(それも当然、主観的なものさしとして重要です)、筋肉の固さを正確に測る機械を用いたりしないと、本当に「効いた」かどうかは言えない、という意味です。つまり、ものをはかる「ものさし」が肝腎。これを「尺度」とも言います。

○効果2 他人に勧めて良いのか

ここで、仮に、ゆる体操が増田氏に「効いた」とします。つまり、本当に増田氏に効果を齎した、と「仮定」します。さて、その場合に、増田氏が「広める」事は構わない、と言えるでしょうか。……言えません。

なぜそうなるか、と言うと。もし増田氏に効いたのだとしても、それは、「増田氏だから」効いた、という可能性があるからです。増田氏は、自分に効いた(と自覚した)から勧めようとした訳ですが、もしかすると、ゆる体操が増田氏に効果を及ぼしたのは、増田氏の年齢や性別、体質などがあったからこそである、と見る事が出来るのです。

ここで、「効く」という「情報伝達」について考える必要が解ります。増田氏は、効くと感じて勧めたのですが、それはすなわち、「集団に対して効果がある」という「メッセージ」になっているのを意味します。しかも、増田では、「万人向けに作ってある」と書いてあります。つまり、かなり意図的に「メッセージ」を発信している。これにはおそらく、高岡氏の書き方が影響しているのでしょう。高岡氏は、かなり尤もらしい論を展開して、汎用性を主張するので。

○エビデンス

「メッセージ」に、「多くの人に効く」という意味合いが込められている。つまりそれは、詳しく書けば、「ゆる体操は集団に安定して効果を齎す」という含意があります。そうなれば、「増田氏に効いた」という事(もちろんこれは仮定です)だけでは、「証拠」として弱い。従って、他者に効くと広めたいなら、集団に広く安定的に効果がある、というのを示す必要があります。無ければ無責任、とも言えるでしょう。

では具体的にはどう調べるか、と言うと、それは、実際に沢山の人を集めた集団に対し、ゆる体操をやらせてみて効果を見る、となります。もちろん、先ほど書いた「ものさし」がきちんと作られているか、とか、誤差が小さくなるように沢山の人を集めるとか、他の方法などと較べて効くか、という「比較」の観点が重要です。それに関しては、以前に書いた事があるので、よければ参照下さい(超長文です)。

「効く/効かない」再び: Interdisciplinary

なお、こういった事に関して効果を確かめるのを、「効果研究」などと言います。確かめる方法や分野として、「疫学」などがあります。また、そういった方法によって得られた証拠を、カタカナで「エビデンス」と表現する場合があります。疫学や臨床によって得られたデータはどの程度のものか、という事ですね。それらを検討して、本当に効くかどうか、が確かめられる、という寸法です。

○試すのはまずいのか

では、そういった証拠、つまり効く事の「エビデンス」が無い、もしくは少ない場合、宣伝されているものを試してはいけないのか。そういう観点があります。

この事については、「ものによる」というのが適切な答えでしょう。たとえばこれが、「痩せ薬」みたいなものだとしたら、おいおいちょっと危ないぞ、となりますよね。そういうのは飲んだり食べたりする物ですから、それは身体に吸収され、色々な反応を及ぼします。そこに危険な毒物などが含まれていれば、取り返しのつかない結果になりかねません。だから、薬事法などで厳しく取り締まられている訳ですね。そこから外れている業者が摘発されるのもしばしばです。

ゆる体操に関して言えば、それは、運動療法に分類されると言えます。つまり、薬物を使ったり、電気などによって刺激を与えたりする(物理療法)のでは無く、身体運動を工夫する事で改善していくアプローチ。
従って、それが齎し得るリスクを考えるとすると、薬物中毒などでは無く、運動を行う事による、生体の疲労や破壊など、と考えられます。

増田経由で ゆる体操の映像を観た人は、おそらく、「これは簡単だ」という風に感じた事でしょう。増田でも触れられている3つのメソッドなどは、寝た状態で身体をくにゃくにゃ動かすものですし、誰にでも出来て負担は少なそう、と思うはず。
おそらく、その印象は正しいものと思われます。運動療法の場合、見た目から、身体にどのような負担がどのくらいかかるか、というのは、ある程度判断出来るでしょう。その観点から言うと、ゆる体操は、かなり負担が少ないというのは一応言えると思います。その意味では、まあやってみるのは別にいいんじゃない、と。
もう少し詳しく書けば、そもそも高岡氏が、「ゆる」の概念を提唱した当初、頭や首を激しく揺する事について、批判がありました。それでは頭部や頸部に対して非常に危険なのではないか、と。武術関連で言うと、長野峻也氏などが強く批判していました。そしてその後、高岡氏がその内容の批判を受け容れ、首は優しく揺するように、と著書で書くようになった、という経緯があります(『からだには希望がある』付近だったと記憶)。
参照:長野峻也ブログ  新体道DVDはスグレ物! ※あくまで批判例。私が長野氏の論の全体を参考にしているという事は無い。「頭蓋骨内部で脳がぶつかって非常に危険」という事が、ゆる体操程度の運動の実践でバイオメカニクス的に起こるとはっきり言って良いのかは不明。そもそも高岡氏は、色々なスポーツの運動を参考にしている、と最初に表明しているのだから、一々、元ネタ?みたいな指摘をするのは特に意味が無い
そのような流れがあり、「ゆる体操」が著書で発表されるようになった訳ですが、その体操は、元々「誰でも出来る」ように、つまり、高齢者なども安全に出来るように志向されてきた、というものです。だから、まあ体力的に大きな不安が無ければ、軽く試すくらいならいいだろう、とは言えます。もちろん、高齢であったり、強い腰痛などを持っていたりする人は、かかりつけの医師などに体操を見てもらって判断を仰ぐのが良いでしょう(普及する側もそれは奨励しているはず)。

○効果の実感

はてブは1000以上ついています。実際に読んだ人は、この数倍以上はいるものと思われます。そして、ゆる体操は見た目は簡単なので、試す人は、まあ粗く見積もって、多くて数千人はいると推定しても良いでしょう。
先にも書いたように、それまでほとんど運動をやってなかった人は、全身をゆする運動をして、実際に不調が改善される可能性があります。つまり、「運動そのもの」が効果を齎す可能性。その場合、「ゆる体操”だから”」効いた、という事実が無くても、「ゆる体操”が”効いた」と認識するかも知れません。 で、分母が数千にもなると、その実感を持つ人が数%いたとしても、その人がブログで書くなどすれば、また情報が伝播する可能性があります。分母が大きくなるのは、結構怖い事です。その中に、情報伝達という意味で影響力を持つ人などがいれば、波及の仕方は大規模になりかねません。

○効かない場合

ゆる体操が効かない場合のデメリットを考えます。

多分、増田に注目した内の多くの人は、「本当かいな」て思って見ているでしょう。まあ効かなくてもいいけどやってみるか、と考えてやる人もいるはずです。そういう人は、やってみても別に危険な訳では無いし、とも思っているでしょう。実際そうであろう事は、上でも書いた通りです。
で、増田は、肩凝りや腰痛などに効く、と紹介しているので、読み手で同様の自覚がある人が試すでしょう。それで「効かない」場合、まずあるのは、「時間を無駄にする」事。でもそれは、当然解っているはずです。ゆる体操は、一回十数分でいい、という低コストも売りですから、そのくらいなら別に捨ててもいいや、効果があれば儲け物、といった具合で。
こういう体操に目を向けるくらいだから、腰痛や肩凝りが超重度、の人はそれほど多くはいないかも知れません。重度の人は病院に行く公算が高いので。そういう人には、大きな弊害というのは無いものと思います。ただ、何をやっても駄目だった、病院にも行ったのに、という人で、もしかすれば良質な整形外科を受診すれば改善される場合などは、適切な処置を受けさせなくなる、という虞はあります。

体操そのものの害、という事で言うと、これまで説明したように、改善されてきて、より軽微な運動で整備されているので、おそらくは少ない、と考えて良いだろうと思います。ですから、効かないとしても、害も無いだろう、という事で、「風邪に砂糖玉を与える」のに似ている、とも言えるかも知れません。※ただし、風邪に砂糖玉を与える事は、「効かないのが解っている」のが異なる。体操は、生体に力学的・生理学的に働きかける、という部分が必ずある。

しかし、だからと言って、まあやってみればいいんじゃない? とすぐなるか、と問われると、そのままそうだ、とは返せません。何故ならば……

○効果の謳い方

増田では、肩凝りや腰痛、眼精疲労がクローズアップされています。ここで考えるべきは、療法の「謳う効果の範囲」です。
高岡氏は、ものすごく広く、ゆる体操の効果の範囲を謳っています。これは、書籍を参照すると解りますし、マキノ出版の雑誌などでもしばしば特集が組まれています。全体を総合すると、ほとんど「万能」を謳っているかのようです。例:マキノ出版|書籍・ムック 頭が必ずよくなる!「手ゆる」トレーニング

このような事情があるので、おいそれと、まあやってみていいんじゃない、とは言えないものがあります。言うとすれば、運動療法として、肩凝りや腰痛などに何らかの良い影響を与える事は既存の知識からはあり得そうだから、そのくらいの気持ちでやるならいいんじゃない? でも他人には勧めず、深みにも嵌らないように、とアドバイスするのが適当であると思います。特に、高岡氏の思想全体がかなり独特で、そこに嵌っていくのはとても危ういのです(深くは書きませんが、高岡氏は「身体意識」論という、現在では仮説の塊のような体系を理論的な支柱としており、ゆる体操(元々は「ゆる」という概念で、それは今は、基礎ゆる、と呼ばれているようです)も、その論と密接不可分なので、「単なる運動療法」として「切り離して」検討するのがとても重要)。

○ゆる体操の理論とエビデンス

ここからは、実際に、ゆる体操にどの程度のエビデンス――疫学や効果研究による「証拠」の事でしたね――があるのか、という事と、そもそも「ゆる」がどのようにして出てきたか、という部分の解説をします。マニアックな所なので、興味の無い方は読まなくて良いと思います。

高岡氏によれば、スポーツの動作を観察していて、ゴルフのワッグルや、水泳選手が競技前に手をプラプラ揺する事などを見て、身体を揺する事が重要だと気づき、それを「ダイナミックリラクゼーション」として位置づけたようです。そして、そのエッセンスを取り出し、身体を揺すってリラックスさせるメソッドとして体系化しました。「ゆる」という言葉は、「ゆする」→「ゆれる」→「ゆるむ」という現象のサイクルを考え、そこに含まれる「ゆ」「る」からとったらしいです。
高岡氏が重視しているのが、「ゆるむ」事。これは、筋肉などの組織が弛緩すべき時に弛緩する、という生理的な状態もですし、それ以前の、身体の状態を支配する「意識」にも働きかける、という論でもあります。だから、筋肉を弛緩させる、という事のみならず、「骨がゆるむ(ゆるませる)」みたいな事も言われます。ほゆる(骨のゆる)、ぞゆる(内蔵のゆる)、きゆる(筋肉のゆる)。
ゆる体操以前から、「声を出す」事が重視されていました。これは、発声するという運動自体(発声器官が運動するし、それによって、全身的に振動が伝達される)が良いという観点もあるし、「どういう言葉を発するか」というのも考えている。高岡氏は記号論を援用するので、言葉の持つ意味世界というのを重視しています。基礎ゆるだと、ほゆるをやる時に、「ほ~ゆ~る~」みたいに声を出したり。後、ダジャレを積極的に取り入れるのもありましたね。肋骨をゆるめる時に、「あーバラバラ」と言ったり、とか。心理的なリラックスを促す事も狙っているようです。実際、本質的に ゆる体操を、運動療法+心理療法 といった風に扱っているように思われます。
今、肋骨をゆるめる、て書きましたが、ゆる では、色々な器官をピンポイントにゆする、というのがあります。それ自体は非常に有用だろうと思います。それまでの日常生活では運動させる機会の無い筋肉などを意識(位置と知覚を結びつける)して、そこを積極的に運動させていく、というのは、生理学の観点からも着目出来るやり方だろうと思います。「意識する」というのは、古来武術でも言われてきた所ですし(意識という語は使わなくとも)、昨今の色々なメソッドでも強調されていますね。他の分野だと、楽器演奏や声楽などでもあると聞きます。
ただし、高岡氏はそこに留まりません。ゆする→ゆるむ というのは、随意的に運動させられる骨格筋の話なら、まあそれは面白いよね、となりますが、これが進んで、一つ一つの細胞までゆるめる、みたいな話になってきます。ここら辺、いかにもニューサイエンス風です。だから危うい訳です。既存の知識と証拠に基づいた堅実なアプローチをポンと飛び越えてしまう。

生理学的な見方で言うと、ゆるを行う事により、それぞれの器官が、適した機能を発揮するよう促す、のを期待しているようです。筋肉であれば、よく弛緩させ、使う時には適切に収縮させる、といったように。
どの器官を活動させているか、しているか、を常にモニタさせる、といった所でしょうか。バイオフィードバック的な面もあるのでしょう。その理論的な志向自体は面白い。

このような理論的な考えがあって、そこから、「ゆる体操」が出てきます。2000年くらいからでしょうか。より馴染みやすいように、とっつきやすいように、と工夫して、いかにも「体操」といったかたちに整備されてきた、という印象です。増田で紹介されている3点セットも、結構後に出てきたと思います。その頃から強調されてきているのが、「低コスト」で「高効果」というもの。コストは、経済的なものもですし(知識を得れば、金は全く要らない)、身体的な部分もです。つまり、「よし、やるぜ」みたいに気合を入れなくても簡単に出来る。家に帰ってきて部屋に寝転がってそのまま出来る、という簡便さがある訳です(増田氏が紹介している本で特に強調されている)。

さて、「効果」についてです。つまりエビデンス。

高岡氏の本を見ると、筑波大学の征矢英昭氏の協力を仰いだというのがよく出てきます。指標としては、各種心理学的指標。ただ、それらしい論文は出ていないようです。メディカルオンラインなどで数件見られるのみ。
また、行政とも協力して効果を検討しているのもあります。これは、運動科学総合研究所のサイトでも紹介されています。規模としてはある程度大きく、公衆衛生の専門家の協力もあるようです。
そして、RCTがあります。ゆる体操関連論文ー運動科学総合研究所・日本ゆる協会 もちろん、RCTが一件あるからといって、それで証拠が充分とは言えません。研究デザインが適切か、という観点もありますし、追試はどうなっているか、の見方もある。良い雑誌に掲載された学術論文は果たして充分か。
その意味で言うと、ゆる体操に関しては、色々な実践が行われ、学術的な研究も一部あるが、証拠の量としては充分とは言えず、効果があると自信を持って言う事は現在の所出来ない、とするのが今の所の適切な評価だと考えられます。また、これはあくまで、ゆる体操を運動療法として見たものであって、それは、高岡氏の他の思想であるとか、万能の効果を謳っている所などとは、切り離して考えるべきでしょう。

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以上、「十数年前から今に至るまで、毎日身体をゆすり続けている」私による、拙い考察でした。

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2011年7月13日 (水)

メモ:抜刀局面2

もうちょい具体的に。

※メモ。内容の妥当さは保証しない。力学的、解剖学的な正確さも同様。

  • 手。握り締め。
  • 拇指球と小指によって刀の時計回りの回転運動を促す。
  • 鞘の中に刀があるから、運動として邪魔。
  • 木剣を持つ。手で鞘を作ってふんわり握る。抜刀する。右手は握り締めつつ抜いていく。
  • 鞘を持っている手が腰から遠ざかるように動く。これを実際の鞘であれば、と想像せよ。
  • 刀は薬指と小指でしっかり握る、とよく言われる。抜刀局面と比較する。
  • 抜刀時、右手は身体から遠ざかる。そして鞘から離れる。
  • 鞘と刀身の位置関係が拘束を受けることを考える。
  • 抜刀の際、薬指と小指を意識して握るとどうなるか、想像する(最初に書いた事に繋がる)。
  • 抜刀の鞘走り局面には、抜刀後の操法と共通しない事を考える。あるいは、「共通しなくてはならない」理由はどこにも無いと考えよ。
  • 鞘離れ局面では、斬る対象に刀は接しない。
  • 従って、手は「物を切る」ための持ち方をする必要は全く無い。
  • 合目的性。ここでの目的は。
  • 「いかにぶつからず、いかに速く、いかに無駄な体力を用いずに」抜くか。
  • 回転の支点。
  • 鞘をレールと考える。その中を刀身が走行する。
  • 抜刀局面において、刀の刃が下を向く事は(通常)無い。
  • 刀身は鞘内を「滑っていく」。
  • その際、右手で「握る」とどうなるか考える。
  • 最初に書いた事が関わってくる。
  • 手で刀に近いのは、虎口の方。ここらへんで挟む。
  • そうして刀身を引き摺ると、そこを支点としたような運動を刀はする。刃は上向きなので、峰側が重力で鞘に押し付けられ、引っ張れば鞘内を滑る。金属と(油を含んだ?)鞘が滑るので、かなりなめらかな運動となるだろう。それより余計な運動を刀にさせてはならない。
  • 鞘の内側の空間の大きさを考えれば、刀身との摩擦を無くす事は不可能。であるから、いかに綺麗に中を接しながら走っていくか、と考える。
  • 支点。といっても、ある程度大きい面で柄に接している。手の表面は軟組織であり、緩みがある。そういう意味では、一軸周りの回転運動では無い。手を柔らかく保っておく事で、刀は自動的に適切な角度を保つ。
  • 実験。柄を「親指と人差し指で挟むように」持って抜刀(木剣が軽いのでやりやすい)。
  • 手全体(人差し指~小指)までを密着させようとすると、手と柄との角度が制限されるため、刀身と鞘の関係が崩れる。手首の撓屈角度にも限界がある事を考慮せよ。撓屈の限界をカバーするには肘関節が屈曲しなくてはならず、それでは刀を充分に前に持って行けず……となり、無理が生ずる。
  • 刀は抜ければ良い。柄を「グッ」と持つ必要は無い。それは刀身を素早く動かす運動に寄与しない。
  • グッと持つ事で、掌から柄に、色々の方向からの力が加わる。それは単に柄に密着させるために働くだけ。
  • むしろ、(手が無駄に刀身を回転させてしまう事は先に書いた)前腕の筋肉を余計に働かせる事で、手首関節の柔らかい運動を阻害する可能性がある(吉福康郎の『武術「奥義」の科学』を参照せよ)。
  • 手が柄から滑ってしまわない最小限の力を加えれば良い。
  • どちらかと言えば、「鞘離れまでは」手を「振るのと逆側」に運動させる「感じ」。合気道経験者は、小指側の手首付け根辺りを意識して鋭く斬り下ろす正面打ちを想像せよ。手首の返し(尺屈方向)などは「我慢」する事。
  • 測定。上のような理由から、上手な達人の抜刀局面、鞘離れまでは、前腕の筋群は強力には活動しない事が想像出来る。
  • 当然、刀を振っていく局面では激烈に活動するはず。剣術の達人が、全身はごつく無くても前腕が異様に太い場合がある、というのを考えよ(刀のスイングと静止に働く)。
  • 刀が鞘にぶつからずに運動するように身体を奉仕させる。刀が主。腰と左手の引きも、右手の出し方も。そして、刀の為にこの両者が合理的整合的に働いた時に、身体を「割る」操作が実現したと認識される。

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2011年7月 9日 (土)

メモ:抜刀局面

何日か前に、抜刀時の手(鞘離れまで)に関して気づきが得られたのでメモ。多分、この視点から考えている人はほとんど存在しないと思う。

はっきりとは解らないように列挙(きちんと書くには知識とデータが不足しているので)。

  • 手。握り締めるかどうか。
  • 握り締め、手によって刀に与えられるトルク。
  • 鞘と刀身。刀身の向き。レール。刀身の回転が与える何か。
  • 鞘と刀身。摩擦。金属と木(油含まれる)。
  • 持ち方。クリップ。人差し指側。指が与える力の方向と数。引き摺る。
  • 手と柄。摩擦。動摩擦係数。ギリギリ離れない。
  • ヒンジ。柔らかい構造。
  • 握り締め。固定。固い構造。要らない内力(と言っていいか?)。刀身の運動に必要最小限の外力。
  • 鞘離れまで。並進運動中心。回さない。
  • 測定。達人。鞘離れまで。前腕の筋群。おそらく強くない。鞘離れ以降に強烈に活動か。
  • 「刀はどう運動すべき」を考えよ。合目的性。刀を中心に。

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2011年6月 7日 (火)

黒田鉄山師範の動き

黒田氏の居合の映像を何度も観、大体の動きは把握出来ました。

それで、改めて感じたのは、「解ってもその通りに動くのは困難である」という事ですね。

たとえば、走り幅跳びや棒高跳びなどは、こりゃあ出来ないな、というのが、経験に照らして直感的に把握しやすいと思うのですが、黒田氏の居合のごとき運動は、パッと見た印象として、「ものすごいが意味が解らない」運動、と感ずるのだと思われます。切附などが象徴的でしょうが、一瞬で剣が出てきて度肝を抜かれる。そして、「どうやってるか全然解らない」となる。つまり、日常的な運動の延長線上に無い、あるいは、日常的な動きのアナロジーからすれば有り得そうに無いと認識される(たとえば棒を振るなど)、という事ですね。だから、まず訳が解らない。

しかし、何度も見てみると、決して認識出来ない動きでは無いのですね。それどころか、外見的にはシンプルな運動に見える。ここで、動きの全体像は把握した、という段階。

そして、どう動くかは解った、でもこれは途轍も無く難しいな、と認識する段階に至ります。それには、武術的な動きの文脈、とでもいったものが重要となるでしょう。

たとえば、単純に刀を抜くという運動自体も、非常に難しい。模擬刀でも使ってみれば解りますが、スムーズに鞘から出す事そのものが困難。これは、やった事の無い人には想像がつきにくいと思います。

そしてそれに加えて、座構えというとても「不自然な(日常的に取らないという意)」姿勢からスタートする条件がある。あの姿勢から重心を前後左右に大きく動揺させず、かつ、鞘から刀を綺麗に抜くために上体をずらすように柔らかく運用していくのは、かなり無理があります。それを滑らかに行うのが課題という訳ですね。普通の人は、何となく難しいな、とは解りますが、文脈を押さえている人は、よりそれが具体的に認識出来る。

それにしても、あの型はよく出来ていますね。居合の一部の型を見るだけでも、そこには色々な身体運用のエッセンスが詰まっており、それを体系的に稽古出来るよう組み立てられているというのが推察出来ます。また、違う型であっても動きに共通点が見られ、そこを括って把握すると、より合理的に学習出来るのでしょう。(他の武術にもあるでしょうが)たとえば、途中までの体捌きは全く同じで、そこから複数の抜き方に派生する、といった構造が見受けられますね。恐らく、比較的少数の動きのエッセンスがあり、その組み合わせで複数の型の体系が構築されているのだと思われます。

以下、観察して具体的に気付いた事を列挙

黒田氏の居合でやはり注目すべきは、独特の座構えでしょう。左足は臀部辺りに置き、右足は前方に置く。これは常識的に考えれば、ものすごく無理のある体勢です。そこから立ち上がりつつ抜いていく訳ですね。

ちょっと試してみれば解りますが、片足が前に出た姿勢から立ち上がろうとすると、左右に大きくブレるか、あるいは重心を大きく前側にシフトしつつ、よっこいしょ、といった感じで立つ、となります。ところが今は、居合、つまり敵に向かって抜刀するという条件がありますから、そういった事が出来ない(してはならない)※真之太刀などは除く。

上体をあまり大きく傾けるなどすると、立ち上がるまで時間がかかるし、上手く刀が抜けていかない。だから、上体の傾きは大きくせず、主に下肢の運用によって重心を上げていく必要があります。

で、これがよく出来ている所ですが、前側の足は、側面が接地している。つまり、足関節の運動が「役に立たない」ようになっています。と言うより、「余計に動かしたらスムーズにいかない」ようになっている。右下肢で唯一接地しているのが足の側面なので、(左膝関節の伸展と協調させるように)そこから抗力を受けるようにしなければならず、それには、足の側面を床に押し付ける必要があるからです。そのためには足関節を無闇にガチャガチャ動かしてはいけない。もちろん後ろ側の足(左足)の運動も立つ役にはたたないのは言うまでもありません。正座から立ち上がる時にどうするか、と思い浮かべれば理解しやすいでしょう。

この立ち上がるという部分で重要なのは、左脚の大腿伸筋と、右脚の外転筋やハムストリングス辺りでしょうか。これらの操作によって身体を浮かしていく。重心が左右に動揺しないようにバランスを取る必要があり、それが大変むつかしい。脚が左右非対称のポジションをとっているのも理由でしょう。これが、「足を遣わない動き」の学習に繋がってくるのでしょう。

そして、上体は剣を抜くための運用に従事させる。ここに、上体と下体をセパレートして、それぞれを複数の合目的的運動に遣っていくというのが課題となってくる訳ですね。要するに、下体は重心を動揺させずにスムーズに上げるために遣い、上体は素早く鞘離れを完了させるためにずらすように遣う。その協調的運動が実現されなければ、「刀が抜けない」となり、課題が失敗する。※このような、「ある動きが出来ないと型を失敗する」構造については、高岡英夫氏が論じている ※※「課題」「課目」については高岡氏の用法は特に踏まえない


上体は、先ほどから何度か書いているように、「ずらす」ように遣っていきますね。具体的には、上体を長軸回りの反時計回りに回転させ、肩甲骨を広げる。手の動きは、鞘を基準にして、直線に近い動きをします。鞘から刀身が抜けるまではそうしなければならない訳ですね。で、上体と肩甲骨の運用は、鞘引きと斬り手の(鞘のラインの延長線上の)前進をより速く行うためのものだと思われます。座構えなので、骨盤の体軸回りの回転は制限されます。骨盤が回転していくのは恐らく、ある程度腰が上がってからの局面に思われます(膝が内側を向いてくるのと同時期だと思う)。

鞘から離れたら、専ら前腕の運動によって刀を回転させる、となるでしょうか。陽之剣などではあまりやらないのでしょう。ここの、鞘離れの後に行う、という部分が重要ですね。これは、「鞘離れまでは手首を無闇に回転させるな」というのが前提な訳なので。刀身が動くべき軌道と、手首の回転運動による刀身の描く軌道とを比較してみれば、容易に解ると思います。

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2011年6月 2日 (木)

【ミクで武術】立位での抜刀:修正

色々修正しました。

モーションをちょこちょこ調整して、フレーム数を減らしました。鞘離れの所などがおかしかったり、動きがもっさりしていたので。

アクセサリの鞘と刀を変更。こちらから↓

そして、モーションブラーのツールを替えました。これは簡便で、しかも素晴らしい効果が得られます↓

動画が少し解りにくいかも知れないので、画像を。

Battou2avi_000000266

Battou2avi_000000299

どうでしょう。きちんと刀などに部分的にブラーがかかっていて、いい感じですね。これはオススメ。

ちなみに、前回の動画、テクスチャのデータ入れる場所間違ってて、変になっていますね。気付かなかった(笑)

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