カテゴリー「科学論」の記事

2009年5月28日 (木)

眉唾

かなりブクマを集めたネタ⇒▼はてなブックマーク - 大紀元時報−日本: やってみよう、世界で最も正確な性格テスト ▼大紀元時報-日本 ※ザイーガのエントリーの方がブクマ集まってますけど、あそこは広告とか下品系なので、こっちを貼りました。

いわゆる性格判断系のネタですね。内容は、9枚の絵を見て、なるだけ短時間に、1枚気に入った絵を選ぶ、というもの。で、それぞれの絵に応じて、それを選んだ人はこういう性格である、と言われる訳ですね。

んで、ですね。このネタ、めちゃくちゃ気になる部分があるのですよ。

 この9枚の写真は、海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの。世界中で何度も実験を繰り返し、図案の形や色を調整して、選び抜かれた写真だ。この9枚の写真が、9つの異なる性格を現している。

これはつまり、科学者(中でも心理学者)によって繰り返し研究が行われて追試され、確立した知見として学界で周知されている、というのを示していますが、そんな話は、私は知りません。

今手許に、臨床系も含めて何十冊か、心理学の本がありますが、こんな性格検査など、見た事ありません。と言うか、今まで読んだ全ての心理学の文献で、見た事無いです。では、ごく最近の知見であるのか、という話にもなりますが、つい最近読んだ2008年発行のパーソナリティ心理学の本にも、載ってませんでしたね。充分研究された、妥当性・信頼性の高い検査法ならば、専門書で紹介されてしかるべきでしょう。

そもそも、単に絵を見せて、それから性格類型に当てはめる、というやり方自体が、極めて疑わしいものです。そんなものが、

スピーディーで、かつ正確率も世界一高いといわれる有名なテストなのだ。

とは、まさに眉唾。(正確率ってaccuracyの事? 工学とか技術方面でよく使われますかね。て言うか、「世界一高い」という意味が解らない)

ブクマでは、当たってる、的な意見もありますが、それはバーナム効果あるいはフォアラー効果が効いているからでは、という指摘もされていますね。平たく言うと、どれを選んでも、誰にでも当てはまるように感じさせる答えが出される、というものですね。松岡氏の、「究極の血液型心理検査」サイトが思い起こされます。

いわゆる心理ゲーム的なものなら、まだネタとして済むのかも知れませんが(個人的には大嫌いですが)、最初に引用した文を入れてあるのは、全く頂けませんね。いや、実は、私が知らないだけで、学術論文等が存在するのかも知れませんけど(その可能性は極めて小さいと思ってますが)。しかし、仮にそれがいくつかあるとしても、まるで心理学的にスタンダードな性格検査であるかのような説明は、いかんでしょう。

もう何度も書いてますが、テレビなんかで、心理学の専門家を自称する人なんかが、バウムテストもどきをやって性格を云々したりしますからね。そういうのは勘弁。

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2009年5月22日 (金)

GJな記事

id:kamezoさんにもGJと言う他ありますまい。

ゲーム脳と脳波 - 教育プロジェクト 脳の迷信・うそ - 大阪大学大学院 認知脳科学研究室:藤田研究室

ゲーム・漫画の好きな自分としてはゲーム脳仮説はいい気がしなかった、というと実はそうでもなく、大してその中身については理解していませんでした。これを書くにあたって、初めてその大本の主張を知ったほどです。今回の調査を通して、脳波の検査などで脳波と実際の現象とを結びつけるのはまだ安全かもしれないけれども、そこから何かしらの意味付け(アルファ波はリラックス、ベータ波は集中、そしてゲーム脳など)を行うのは危険である、するべきではないという印象を持ちました。参考文献の中には「脳波についてはまだはっきりしたことが分かっていない」(例えば、上では触れませんでしたが、何がアルファ波を発生させているのか、など)と書かれているものもあり、ホットではないにしてもまだまだ知るべきことの多い分野であるように感じました。今後もこの分野に対する興味を持ち続けていきたいと思います。

同意。森氏は、「結びつけ」を非常に安易に行っているんですよね。

しかし読みやすい文章ね。

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2009年5月15日 (金)

後で効くかも

kikulogにコメント書いたのですが、こちらに再掲します。前々から思ってて、ここにも度々書く事です。

「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」
 
この言い回し、「後から効いてくる」ものだと考えています。
つまりこれ、物理学・化学・生理学・心理学・言語学・情報処理 等々の論理を知っていれば、なるほどそうだよな、と納得出来る表現ですよね。そもそも「感覚器官」が生理学・心理学的 概念な訳ですから。
この表現は、メカニズム的にあり得ないというのを、既存の理論・知識体系に則って説明するものだから、その知識をある程度得た人は納得出来る、でもそうで無い人には、端的に言って「意味の解らない」ものになる、と思われます。つまり、科学の理解度に依存している、と。
 
しかし、何かのきっかけで、生理学やら何やらを勉強して色々解り、水伝が成り立ちようが無いのを認識する事はあり得ます。そして、そういえば、「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」なんて言い回しがあったなあ、今考えると納得出来るなあ、と振り返る場合もあろうかと思います。
そういう意味で、「後から効いてくる」ものではないかな、と。
 
ですからこれは、水伝を信じている人にいきなりダイレクトに言うのでは無くて、水伝を批判する文書に組み込んでおく、などがベターだと思ってます。
 
ちなみにこれ、私が超能力捜査否定にいたった道筋を、そのままトレースして書いています。
 
何と言いますか、「信じ方の段階」というのが考えられてしかるべきかな、と。段階、と言っても綺麗に分類出来るようなものじゃ無いでしょうけれど、既有の知識、誰に教わったか、などの事情が複雑に絡まって信念は形成されるから、そこは押さえておきたいです。
kikulog:「ニセ科学」シンポジウム(物理学会):TAKESAN — May 15, 2009 @01:12:17

水は感覚器官も云々、というのは、「科学に依存した」説明です。それをきちんと把握するには、ある程度の科学についての知識が要る。だから、知識は持っていたが、水伝に対してはうっかりそれを適用しなかった人は※ あ、言われてみればそうか、と思うかも知れない。しかし、知識がかなり不足していれば、そもそも意味不明な表現にしか見えない、と。そもそも、「感覚器官」という言葉自体、難しい訳です。理科や生物で習うものだろうけれど、真面目に勉強しなかった、やったが忘れた、選択などの関係でそもそもやらなかった、と色々の場合があります。もっと言うと、水、感覚、感覚器官、頭脳、神経、のそれぞれが、科学に依存している、と。

※そんなうっかりはそもそも少ないでしょうけれども。誰から聞いたか、などの字状、心理学的な所も絡んできそうですが。

そこら辺を鑑みると、信じている人にいきなりそれを言うのは、あまり得策では無い訳ですね。だから、そういった表現は、独立した批判テキストに組み込むのがいいと思います。そうすれば、後から勉強して、ああ、そういえば、と思い返す可能性もあるので。

コメントでも書きましたが、私はほんの数年前まで、超能力捜査について、もしかするとあるかも、と思っていまして、それを否定するに至ったのが、上のような道筋によってだったのです。具体的には、心理学の勉強が大きい。でも、その更に数年前から心理学は勉強してた、というのは記しておきたい所。ウエイトのかけかたに問題があったのでしょうし、もっと基礎的なレベルの勉強が足りていなかった、のもあるでしょう。

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2009年5月11日 (月)

疑似科学の特徴と科学との違い:後編

Interdisciplinary: 疑似科学の特徴と科学との違い:前編の続き。

○6.関連性の欠如

最も科学的な研究プログラムに対して,疑似的研究プログラムは他の科学的原理との「連結性」を欠く(Bunge, 1983; Stanovich, 2001)。言い換えれば,疑似科学は,現存のパラダイムを建て増すのではなく,むしろすべてを脱ぎ捨てた完全に新しいパラダイムを作り上げると主張する。そうするためによく作り上げられた科学的原理,あるいは強固な科学的知識を往々にして無視する。たとえばESPの多くの支持者は,報告されたESPのケースがほとんどあらゆる主要な物理学的シグナルの法則に反していても(たとえば,ESPは,その称するところでは,数フィートの距離からと同様に数千マイルのかなたからも同じほどの強さで作用する),それは本物の(これまで検出されなかったのであるが)知覚の物理的プロセスであると主張する。科学者は,完全に新しいパラダイムが先に存在したすべてのパラダイムをくつがえすのに成功することがあるということは常に心にとめておくべきなのだが,そのように結論する前には標準的な事実に基づいた主張をしなければならない。

ニセ科学論でもよく話題に出るところの、他の理論などとの整合性の問題ですね。ニセ/疑似 科学的な主張はしばしば、既存の科学の体系を全部引っ繰り返す(引っ繰り返さねばならなくなる)ような事を主張します。水伝しかり。覆すなら、覆すに足る証拠を見つけ出し、提出する必要があります。

6. Absence of connectivity.

In contrast to most scientific research pro-
grams, pseudoscientific research programs tend to lack "connectivity"
with other scientific disciplines (Bunge, 1983; Stanovich, 2001). In other
words, pseudoscienccs often purport to create entirely new paradigms out
of whole cloth rather than to build on extant paradigms. In so doing, they
often neglect well-established scientific principles or hard-won scientific
knowledge. For example, many proponents of ESP argue that it is a genu-
ine (although heretofore undetected) physical process of perception, even
though reported cases of ESP violate almost every major law of physical
signals (e.g., ESP purportedly operates just as strongly from thousands of
miles away as it does from a few feet away). Although scientists should al-
ways remain open to the possibility that an entirely novel paradigm has
successfully overturned all preexisting paradigms, they must insist on very
high standards of evidence before drawing such a conclusion.

○7.逸話的な事実への過信

逸話的な事実は科学的研究の初期段階では非常に有益でありうる。すなわち,証明の文脈においてよりも(すなわち,仮説検証 : Reichenbach, 1938),典型的な発見の文脈においてである(すなわち,仮説生成)。疑似科学的主張の支持者は,主張に合った事実を涵養するために,しばしば選ばれたケースからの報告を頼りにする(たとえば,「パーソンXはこの治療を受けて著しく改善したので,この治療は明らかにパーソンXに効いた」)。たとえば,自閉性障害(第13章を参照)に対するある治療法(たとえばセクレチン)では,支持的事実として統制のとれていない改善ケース報告が強調された。

 しかし,ギロヴィッチ(Gilovich, 1991)が述べたように,ケース報告は,主張に必要な事実を提供しているが,その主張にとって十分な事実を提供することができない。たとえば,新しい心理療法の効果があるならば,少なくとも改善したケース報告を複数期待すべきであろう。しかしそのようなケース報告は,改善が心理療法に依存しているという適切な事実を示すことをしない。この改善は多くの他の原因によって惹き起こされたかもしれない(たとえば,偽薬効果,平均への回帰,自発的な改善,成熟 ; Cook  Campbell, 1979 を参照)。

事例報告を証拠として過信する、という感じですかね。いわゆる「三た論法」にも通じます。効いたと見えるケースの観察から、確かにある人に効いた→一般的に効く と誤認する訳ですね。科学的には、ほんとうにそれが効果を及ぼしているのか、を調べるために、色々のものを対照としてとって、効き目を確かめる。効き目があると解っている薬であるとか、効かないのが解っている擬薬とか。それらを与えた群との比較を行って(もちろん無作為化して)、薬なり療法なりの効果を確認していく、と。

7. Overreliance on testimonial and anecdotal evidence.

Testimonial and anecdotal evidence can be quite useful in the early stages of scientific
investigation. Nevertheless, such evidence is typically much more helpful in
the context of discovery (i.e., hypothesis generation) than in the context of
justification (i.e., hypothesis testing; see Reichenbach, 1938). Proponents
of pseudoscientific claims frequently invoke reports from selected cases
(e.g., "This treatment clearly worked for Person X, because Person X im-
proved markedly following the treatment") as a means of furnishing
dispositive evidence for these claims. For example, proponents of certain
treatments (e.g., secretin) for autistic disorder (see Chapter 13) have often
pointed to uncontrolled case reports of improvement as supportive evi-
dence.

As Gilovich (1991) observed, however, case reports almost never pro-
vide sufficient evidence for a claim, although they often provide necessary
evidence for this claim. For example, if a new form of psychotherapy is ef-
ficacious, one should certainly expect at least some positive case reports of
improvement. But such case reports do not provide adequate evidence that
the improvement was attributable to the psychotherapy, because this im-
provement could have been produced by a host of other influences (e.g.,
placebo effects, regression to the mean, spontaneous remission, matura-
tion; see Cook & Campbell, 1979).

○8.反啓蒙主義の言語使用

多くの疑似科学の支持者は,科学を表面的に装った学問分野を供給しようとし,高度に専門的なわけのわからない大げさな言葉を印象深く使用する(疑似科学の「偽装方略」の考察のために van Rillaer, 1991 を参照)。そのような言語は,問題になっている主張の科学的な土台になじみのない人々に説得力を持つ。そのためそれらの主張に,認可状が与えられ,科学的合法性が認められてしまうかもしれない。

 たとえばEMDRの開発者は,この治療法の効果を次のように説明した(第9章も参照)。

 受容神経ネットワークの神経受容体(シナプスの電位)の力価は,さまざまな情報の高原状態と適応的情報レベルを別々に保存するが,AからZまでの文字によって表象される。高力価を持つターゲット・ネットワーク(Z)はより適応的な情報と結合できない。より適応的な情報はより低い力価のネットワークに貯蔵される。すなわち,シナプス力価はさまざまな神経ネットワークに貯蔵される感情の各レベルとは異なっている。……この理論は,処理システムがEMDRに触媒されているときに,受容体の力価は下方向にシフトされるので,前進的により低い力価を持つ神経ネットワークの受容体と連結できるということである。(Shapiro, 1995, pp.317-318)

ここで引用されているEMDRの説明とやらは、もはや読解不能のレベルですが、なにやら生理学的概念を仄めかし、いかにも科学と誤認させるようなものですね。「偽装方略」とは、私達が関心を持つ「ニセ科学」論に通ずるものなのかも知れません。意図的にしろ無意図的にしろ、「科学を装う」訳ですね。

ところで、「反啓蒙主義的」って、この文脈では、具体的にはどういった意味を持たされているのでしょうか。

8. Use of obscurantist language.
Many proponents of pseudoscience
use impressive sounding or highly technical jargon in an effort to provide
their disciplines with the superficial trappings of science (see van Rillaer,
1991, for a discussion of "strategies of dissimulation" in pseudoscience).
Such language may be convincing to individuals unfamiliar with the scien-
tific underpinnings of the claims in question, and may therefore lend these
claims an unwarranted imprimatur of scientific legitimacy.
For example, the developer of EMDR explained the efficacy of this
treatment as follows (see also Chapter 9):

(The) valences of the neural receptors (synaptic potential) of the respective
neuro networks, which separately store various information plateaus and
levels of adaptive information, are represented by the letters through A.
It is hypothesized that the high-valence target network (Z) cannot link up
with the more adaptive information, which is stored in networks with a
lower valence. That is, the synaptic potential is different for each level of
affect held in the various neuro networks....The theory is that when the
processing system is catalyzed in EMDR, the valence of the receptors is
shifted downward so that they are capable of linking with the receptors of
the neuro networks with progressively lower valences....(Shapiro, 1995,
pp. 317-318)

○9.境界条件の欠如

最もよく支持された科学的理論は境界条件,すなわち予測された現象が起こるとか起こらないということに関してよく分節化された範囲を有している。逆に,多くの,あるいはほとんどの疑似科学現象は過度に広範囲の条件に作用すると称される。ハインズ(Hines, 1988, 2001)が述べているように,心理療法周辺のよくみられる特徴は,病因が何であるかにかかわらず,表面上はほとんどすべての障害に効果的である。たておば,ある思考場理論の支持者(第9章を参照)は,この治療法はほとんどすべての精神障害に有効であると主張する。さらにこの治療法の開発者は,人間ばかりでなく,「馬,犬,猫,幼児,とても小さな子ども」(Callahan, 2001b, p. 1255)にも効果があると主張する。

これは、万能性と言い換える事も出来るかも知れません。ニセ科学で言うと、EMなんかは典型的でしょうか。

9. Absence of boundary conditions.

Most well-supported scientific
theories possess boundary conditions, that is, well-articulated limits under
which predicted phenomena do and do not apply. In contrast, many or
most pseudoscientific phenomena are purported to operate across an ex-
ceedingly wide range of conditions. As Hines (1988, 2001) noted, one fre-
quent characteristic of fringe psychotherapies is that they are ostensibly ef-
ficacious for almost all disorders regardless of their etiology. For example,
some proponents of Thought Field Therapy (see Chapter 9) have proposed
that this treatment is beneficial for virtually all mental disorders. More-
over, the developer of this treatment has posited that it is eftlcacious not
only for adults but for "horses, dogs, cats, infants, and very young chil-
dren" (Callahan, 2001b, p. 1255).

○10.全体論のマントラ

特に器質医学と精神健康における疑似科学の主張の支持者は,しばしば「全体論のマントラ」(Ruscio, 2001)に頼る。このマントラに頼るときには,科学的主張がより広範囲の主張の文脈内でだけ評価されうる。それゆえ個々では批判されないと主張するのが典型的なやり方である。たとえばロールシャッハテストの支持者は,臨床家はロールシャッハの結果を孤立させては実際上解釈できないと述べることで,この技法に対する批判者たちに反応し続けてきた。代わりに,実際には,訓練された臨床家はたくさんの情報の断片,要するにロールシャッハ・プロトコルを考慮する。この推論の流れには大きな困難が2つある。第1に,臨床家は多様な情報源からのたくさんの複雑な心理測定にかかわる情報を頭のなかでうまく結びつけてしようすると述べる。これは臨床的判断における研究の流れからは疑わしい主張である(第2章を参照)。第2に,全体論のマントラに頼ることによって,ロールシャッハおよび他の技法への支持者は,常に反証される危機を回避する。言い換えれば,研究結果が特定のロールシャッハ指標の妥当性を強めるならば,ロールシャッハの支持者たちはそれらの結果が事実を支持していると主張するが,それらの結果が否定的なものであるならば,「いずれにしても臨床家はこの指標を独立には使用しない」と釈明する(例としてMerlo & Barnett, 2001 を参照)。この「頭は勝つ,尻尾は負ける」式の推論は,これら支持者の主張を科学の範囲を大きく越えたところにおくことになる。

最近、holismはそのまま「ホーリズム」とした方がいいんじゃないか、と思う今日この頃だったりしますが、それはともかくとして。

ええっと、これって、「マントラ」でいいんですかね。原典でもそのままの意味で用いているのかな。要するに、ホーリズムのスローガン(信念・信条・方針)、て事ですよね。まあ、象徴表現として、そのままマントラでいいのかな。

ロールシャッハ批判に関しては、色々と反論もあるみたいですし、それ自体をここで検討する事は出来ませんけれども、一般論として、何らかの主張について、他のものとの繋がりを考える、というのはある訳ですね。それが行き過ぎると、いかようにでも正当化する事が出来てしまう、と。実際、組み合わせによって有効に機能する、というのはあるでしょうから、ホリスティックな主張をするからといって、即批判出来るものでは無いとは思います。尤も、注意深い論者は、「ホーリズム」を哲学的文脈以外では積極的に使わない、というのはあるやも知れません。アヤシゲな概念とセットで持ち出される場合もありますから…。敢えてそういう象徴的・スローガン的表現を使う必要もありませんしね。

10. The mantra of holism.

Proponents of pseudoscientific claims, es-
pecially in organic medicine and mental health, often resort to the "mantra
of holism" (Ruscio, 2001) to explain away negative findings. When invok-
ing this mantra, they typically maintain that scientific claims can be evalu-
ated only within the context of broader claims and therefore cannot be
judged in isolation. For example, some proponents of the Rorschach Ink-
blot Test have responded to criticisms of this technique (see Chapter 3) by
asserting that clinicians virtually never interpret results from a Rorschach
in isolation. Instead, in actual practice clinicians consider numerous pieces
of information, only one of which may be a Rorschach protocol. There are
two major difficulties with this line of reasoning. First, it implies that clini-
cians can effectively integrate in their heads a great deal of complex psy-
chometric information from diverse sources, a claim that is doubtful given
the research literature on clinical judgment (see Chapter 2). Second, by in-
voking the mantra of holism, proponents of the Rorschach and other tech-
niques can readily avoid subjecting their claims to the risk of falsification.
In other words, if research findings corroborate the validity of a specific
Rorschach index, Rorschach proponents can point to these findings as sup-
portive evidence, but if these findings are negative, Rorschach proponents
can explain them away by maintaining that "clinicians never interpret this
index in isolation anyway" (see Merlo & Barnett, 2001, for an example).
This "heads I win, tails you lose" reasoning places the claims of these pro-
ponents largely outside of the boundaries of science.

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2009年5月10日 (日)

疑似科学の特徴と科学との違い:前編

昨日のエントリー(Interdisciplinary: 参考資料として)の続き。

そこで、疑似科学の持つ特徴として10の項目を紹介しましたが、さすがにあれだけじゃ解りにくいので、説明も引用します。

で、コメント欄で、ちがやまるさんに、

臨床心理学における科学と疑似科学 Book 臨床心理学における科学と疑似科学

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この本の原典の一部がgoogle booksで参照出来ると教えて頂きました⇒Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索

それで、訳書の文章が非常に解りにくく、訳に問題がある可能性があるので、原典の対応する部分も一緒に引用します。

引用箇所は、

訳書:P5-9

原典:Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索(P6~)※OCRを使いテキストに変換。改行はそのままで直してありませんが、ご了承下さい。タイポあれば、ご指摘頂ければ超感謝・・

※構成は、訳書の引用―私の感想―原典の引用

※感想は、訳書のみを読んでのものです

※この訳はどう考えてもおかしいだろが、という部分があれば、教えて頂ければめちゃくちゃありがたいです

○1.反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用

ポッパリアンあるいは新ポッパリアンの観点(Popper, 1959 を参照)からすれば,間違いをおかすことがないという主張は,原理的に,非科学的である(しかしポッパリアンの批判として,McNally, 2003 を参照)。否定的結果をごまかすために,その場限りの仮説を繰り返し考え出すことは,疑似科学的主張の支持者が共通して行っている方略である。さらに最高の疑似科学では,疑問視された理論上の欠点を埋めるためにその場限りの仮説を、ただ単に張りつける。極端なものでは,その場限りの仮説は、論破できない障壁となる。たとえば,眼球運動脱感作とリプロセッシング(EMDR)の支持者たちは,EMDRについての否定的な結果は,ほとんどが忠実に治療手続きに従っていないことに原因があると述べてきた(第9章を参照)。しかし治療忠実度の概念のあてはめには一貫性が欠ける(Rosen, 1999)。

 否定的な事実に直面し,その場限りの仮説を設定することが,時には科学における合理的な方略であることは強調されるべきである。しかし,科学的な研究プログラムにおいてそのような仮説は、理論の内容,予測力,あるいは両者を高める傾向にある。

アド・ホックな仮説を積み重ねて主張を正当化する、という事ですね。そして、他の理論との整合性を無視してしまう。二段落目は、アド・ホックに仮説を出す事そのものが問題である訳では無い、という強調ですね。理論的整合性や現象の予測の精度等を高めるものであるのが望ましい、という感じでしょうか。

1. An overuse of ad hoc hypotheses designed to immunize claims from falsification

From a Popperian or neo-Popperian standpoint (see
Popper, 1959) assertions that could never in principle be falsified are un-
scientific (but see McNally, in press, for a critique of Popperian notions).
The repeated invocation of ad hoc hypotheses to explain away negative
findings is a common tactic among proponents of pseudoscientific claims.
Moreover, in most pseudosciences, ad hoc hypotheses are simply "pasted
on" to plug holes in the theory in question. When taken to an extreme,
ad hoc hypotheses can provide an impenetrable barrier against potential
refutation. For example, some proponents of eye movement desensitiza-
tion and reprocessing (EMDR) have argued that negative findings con-
cerning EMDR are almost certainly attributable to low levels of fidelity
to the treatment procedure (see Chapter 9). But they have typically been
inconsistent in their application of the treatment fidelity concept (Rosen,
1999).
It is crucial to emphasize that the invocation of ad hoc hypotheses in
the face of negative evidence is sometimes a legitimate strategy in science.
In scientific research programs, however, such maneuvers tend to enhance
the theory's content, predictive power, or both (see Lakatos, 1978).

○2.自己訂正の欠如

科学研究プログラムは,その主張の本当らしさにおいて,必ずしも疑似科学的研究プログラムと区別できない。なぜなら両プログラムの支持者たちはしばしば間違った提案を提出するからである。長期的にみると,最も科学的なプログラムは間違った提案を取り除く傾向にある。一方,最も疑似科学的なプログラムはそうではない。要するに,疑似科学的プログラムを最もよく証明する証拠は,知的な面での停滞が起こることにある(Ruscio, 2001)。たとえば,占星学は過去2500年の間に著しい変化はほとんど起こらなかった(Hines, 1988)

間違った提案は両方とも出す事があるが、科学側は間違いを取り除き、疑似科学側はそうでは無い、という事かな。正しいと主張したいものを正当化するためにアド・ホックな説明を重ねていく、とか。

2. Absence of self-correction.

Scientific research programs are not
necessarily distinguished from pseudoscientific research programs in the
verisimilitude of their claims, because proponents of both programs fre-
quently advance incorrect assertions. Nevertheless, in the long run most
scientific research programs tend to eliminate these errors, whereas most
pseudoscientific research programs do not. Consequently, intellectual stag-
nation is a hallmark of most psendoscientific research programs (Ruscio,
2001). For example, astrology has changed remarkably little in the past
2,500 years (Hines, 1988).

○3.再調査の回避

上記に関連し,多くの疑似科学の支持者は,再調査によって問題点が発見されるおそれあがるようなプロセスを避ける(Ruscio, 2001; 例証としてGardner, 1957 も参照)。再調査プロセスが,よく構成されたパラダイムと矛盾するような主張や結果がでるようにバイアスをかけているという根拠で,回避されるかもしれない(たとえば,思考場理論に関連した例証としてCallahan, 2001a を参照;第9章も参照)。標準の科学的方法ではとうてい適切に評価できないということを理由に,再調査を避けるかもしれない。再調査は完璧からは程遠い(代表的な例としてPeters & Ceci, 1982 を参照)。そうだとしても,科学における自己訂正の最高のメカニズムとして,また推論,方法論,分析における誤りを特定し,研究者を援助する最高のメカニズムとしてあり続けている。再調査プロセスから大きく隔絶されたままでいることによって,疑似科学の支持者は,調整的なフィードバックを得る貴重な機会を失う。

追試や再検討を拒む、といった所でしょうか。で、既存の方法ではバイアスがかかって適切に主張を論証出来ない、などと言ったりする。実際、検証への消極的な態度を採れば、「いかにしてそれを確かめるのか」と指摘されるのは当然ですね。

3. Evasion of peer review.

On a related note, many proponents of
pseudoscience avoid subjecting their work to the often ego-bruising pro-
cess of peer review (Ruscio, 2001; see also Gardner, 1957, for illustra-
tions). In some cases, they may do so on the grounds that the peer review
process is inherently biased against findings or claims that contradict well-
established paradigms (e.g., Callahan, 2001a, for an illustration involv-
ing Thought Field Therapy; see also Chapter 9).  In other cases, they may
avoid the peer review process on the grounds that their assertions cannot
be evaluated adequately using standard scientific methods. Although the
peer review process is far from flawless (sec Peters & Ceci, 1982, for a
striking example), it remains the best mechanism for self-correction in sci-
ence, and assists investigators in identifying errors in their reasoning, meth-
odology, and analyses. By remaining largely insulated from the peer review
process, some proponents of pseudoscience forfeit an invaluable opportu-
nity to obtain corrective feedback from informed colleagues.

○4.論破よりは確証の強調

明敏な科学者フェイマン(Feynman, 1985)は,科学の本質は一生懸命になって自分自身の間違いを証明しようとするものだと述べている。バートレイ(Bartley, 1962)も同様に最高の科学は最大の構成的批評主義を含んでいると述べている。理想的な科学者は,論駁の危険を葬り去るために,育ててきた問題を研究テーマにする(Meehl, 1978; Ruscio, 2001 も参照)。逆に,疑似科学者は自分自身の主張にあう事実だけを探そうとする。強固な支持者は,主張に合致する事実を必ず見つけ出すことができる(Popper, 1959)。そのため確証するための仮説―検証方略は,信念に凝り固まっているときには誤りを根絶する効果的な手段とはならない。

 さらに,バンジ(Bunge, 1967)が述べているように,ほとんどの疑似科学者は,彼らの主張の確証として否定的な,あるいは異例な結果を都合のよいように再解釈する(Herbert et al., 2000 も参照)。たとえば,超感覚知覚(ESP)の支持者は,超心理学の課題(”psi missing”として知られる)におけるチャンスレベルの成績よりもさらに悪い個別的なケースを解釈してきた(Gilovich, 1991; Hines, 1988)。

Feynmanをフェイマン、Bungeをバンジ、と表記するのは一般的じゃ無いような気が激しくするのは取り敢えず措いておいて……自分の間違いを一生懸命になって、というのは、長期的・総合的に見た場合、だろうと思います。あるいは、そういう姿勢を採ろうとしない者はほんとうの科学者とは看做さない、とか。一段落目の後半とか、ぶっちゃけ意味が全然解らない。

4. Emphasis on confirmation rather refutation.

The brilliant physicist
Richard Feynman (1985) maintained that the essence of science is a bend-
ing over backwards to prove oneself wrong. Bartley (1962) similarly main-
tained that science at its best involves the maximization of constructive
criticism. Ideally, scientists subject their cherished claims to grave risk of
refutation (Meehl, 1978; see also Ruscio, 2001). In contrast, pseudo-
scientists tend to seek only confirming evidence for their claims. Because a
determined advocate can find at least some supportive evidence for virtu-
ally any claim (Popper, 1959), this confirmatory hypothesis-testing strategy
is not an efficient means of rooting out error in one's web of beliefs.
Moreover, as Bunge (1967) observed, most pseudosciences manage to
reinterpret negative or anomalous findings as corroborations of their
claims (see Herbert et al., 2000). For example, proponents of extrasensory
perception (ESP) have sometimes interpreted isolated cases of worse than
chance performance on parapsychological tasks (known as "psi missing")
as evidence of ESP (Gilovich, 1991; Hines, 1988).

○5.逆転された証明の重み

先に述べたように,科学における証明の重みは,常に,主張にかかっているのであり,批判にあるのではない。疑似科学の支持者はこの原理をしばしば無視し,その代わりに主張が間違っているということを無心論者が論理の限界を越えて言い張ろうとするようなことを行う(たとえばある新しい治療技法の効果に関する言及)。この誤りは,論理学者の無知による誤りに似ている(たとえば,無知による論争)。それに反対する事実が存在しないというためだけで,単純に主張は正しいと思い込んでしまう仮説の誤りに似ている(Shermer, 1997)。たとえば,未確認飛行物体(UFO)の支持者は,空にある変則的な出来事のなかには説明できないものがあるという懐疑論者の主張に対して,すべてが説明できると主張した(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし,基本的には,例外なく否定的なものすべてに当てはまりうるような証明は不可能なので,この戦略では主張者よりもむしろ懐疑論者に過度に証明を求めるという誤りをおかす。

かなり意味が取れない文ですね。ここは、ちがやまるさんがコメントで訳して下さったものがあります。Interdisciplinary: 参考資料として:投稿: ちがやまる | 2009年5月 9日 (土) 21:02より引用。

前に述べたように、科学においては必ず、証明の責を担うのは個々の主張を立てる方であって、批判する方ではない。ニセ科学を唱道する人々はよくこの原則を無視して、懐疑者たちがある主張(たとえば新規の治療法の効能に関する主張)が誤りであるという理にかなった疑惑を越えて、実証することを要求する。
この誤りは、論理学者の"ad ignoranthum fallacy" (すなわち、無知による誤謬)に似ている。この誤りは、ある主張が単に対立する証拠がないというだけで正しいとみなしてしまう事である(Shermer, 1997)。たとえば、UFOについて言いふらす人には、懐疑者たちは空中の異常現象に関する報告で説明されてない物をすべて説明すべきだと言い張った人もいた(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし、一般的な否定を証明することは本質的に不可能であるから、この戦術は証明の責を主張者でなく懐疑者に誤って負わせてしまうのである。

遥かに明瞭ですね。つまり、科学における立証責任の話。新奇の主張をする側が、説を立証する責任を負う、という事。その転嫁をするのは見られます。無いと思うなら証明してみろ、というやつ。経験科学において、○○は無い、というのを証明するのは一般に不可能ですが、それを求めたりする訳ですね。

UFOの例は、懐疑主義者が変則的な事例を説明出来ないのを衝いて、全部説明してみせろ、と要求する。それは端的に言って、「話が違う」んですよね。確かに変則的なものはあるかも知れないが、それを説明出来ないからといって、それで地球外からの飛行物が存在すると論証される訳では無し、と。

5. Reversed burden of proof.

As noted earlier, the burden of proof in
science rests invariably on the individual making a claim, not on the critic.
Proponents of pseudoscience frequently neglect this principle and instead
demand that skeptics demonstrate beyond a reasonable doubt that a claim
(e.g., an assertion regarding the efficacy of a novel therapeutic technique) is
false. This error is similar to the logician's ad ignorantium fallacy (i.e., the
argument from ignorance), the mistake of assuming that a claim is likely to
be correct merely because there is no compelling evidence against it
(Shermer, 1997). For example, some proponents of unidentified flying ob-
jects (UFOs) have insisted that skeptics account for every unexplained re-
port of an anomalous event in the sky (Hines, 1988; Sagan, l995a). But
because it is essentially impossible to prove a universal negative, this tactic
incorrectly places the burden of proof on the skeptic rather than the claim-
ant.

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続きは次回

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2009年5月 9日 (土)

参考資料として

とりあえず作ってみた :: Archivesのコメント欄の話ともちょっと関連して。

『臨床心理学における科学と疑似科学』から、疑似科学の特徴が挙げられている部分を参考資料として。

(前略)多くの科学哲学者(たとえばBunge, 1984)と心理学者(たとえばRuscio, 2001)は,最もよく認められる疑似科学の特徴を概説した。それらの特徴は次のようなものである(さらなる議論のためには,Herber et al., 2000;Hines, 1988; Lilienfeld, 1998 を参照)。

とあり(P5)、いくつかの項目があります。取り敢えず、10個挙げられている項目を紹介します

  1. 反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用
  2. 自己訂正の欠如
  3. 再調査の回避
  4. 論破よりは確証の強調
  5. 逆転された証明の重み
  6. 関連性の欠如
  7. 逸話的な事実への過信
  8. 反啓蒙主義の言語使用
  9. 境界条件の欠如
  10. 全体論のマントラ

※ここはどういう事が書かれてあるのか、などありましたら、コメント欄でどうぞ。要約してご紹介します(引用するには長過ぎるので)。

これはどちらかと言うと、「方法を備えているか」という観点ですよね。あるいは、「態度」がどうか。ですから、「ニセ科学」とは、共通する部分がありつつも、異なる所がある。

ニセ科学の話では、たとえば、○○治療というのがあるとして、それをどう謳うか、という乖離の度合いが関わってくる訳ですね。そのままでは、単に実証途中の理論(apjさんのテキストでの「非科学」)であったとしても、エビデンスが充分で無いのに「ガンに効く」などと言ってしまうとニセ科学とされる、といった具合に。

ですから、上の条件を多数満たしていない場合に即「ニセ科学」と呼ぶ、という事でも無い。あるいは、上の条件を満たしているからといって「ニセ科学で無い」とは限らない、と。そこら辺に異なりがあるのだと思います。

臨床心理学における科学と疑似科学 Book 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年5月 8日 (金)

しまりす

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114)) Book 宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

著者:佐藤 俊哉
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ただいま再読ちう。

この本を知ったのは、川端裕人さんのブログがきっかけ⇒リヴァイアさん、日々のわざ: 宇宙怪人しまりす

とてもユニークな著作ですね。内容は、しまりすに先生が医療統計を教える、って感じ(←少なっ)。詳しくは、川端さんの書評を見て下さい(←他人任せ)。

ところで、前から思ってるのですが。

統計では、「比」と「割合」と「率」は区別されますが、医療統計や疫学等の本以外では、あまりそれが説明されているのを見ない気がします。何ででしょう。いや、たまたまそういう本に当たっただけかもですけれど。

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2009年5月 7日 (木)

メモ:ガイドライン試案を見る

※未整理

apjさんによる、ニセ科学判定ガイドライン試案 — Y.Amo(apj) Lab

ニセ科学判定ガイドライン試案 :: Archives

apjさんのこういうまとめ、さすがだな、と思います。

ちょっと、ガイドラインに書かれた内容を参照して、「血液型性格判断」について考えてみました。

ガイドラインによれば、「科学である」とは、

    1. 試験・調査によって得られた結果
    2. 専門家、専門家団体若しくは専門機関の見解又は学術文献

によって実証されている事、となっています。これに当てはめると、血液型性格判断は、

「血液型と性格に強い関連がある」事は、1.と2.によって確認されていない、つまり「実証」されていない。よって、その命題は「科学で無い」と評価される。「装っている」に関しては、

  • 「ABO血液型」は生物学的概念で、学校教育の内容や、輸血に関する知識から、一般的にそれは周知されていると考えられる。
  • 「性格」は、人間の行動傾向のパターン、と一般に認識される。経験的に、それはある程度少数の類型や特性に分けられると考えられている。
  • 血液型性格判断は、これらが強く関連している、という言説である。血液型という生物学的概念と、性格という心理学的概念との結びつきに関する言明である。
  • 能見などの論者のように、「統計」を仄めかす場合がある。
  • そもそも、心理学的に研究されてきた言説である。
  • マスメディアによって、「実験」を仄めかして論証(もどきを)する場合がある。たとえば、幼稚園での実験もどき。

こういった諸々の条件から、科学と誤認させるに充分と評価して良いと考えます。

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2009年5月 6日 (水)

禁ずる

ゲーム禁止を「強要」するのはおかしいと思う。 姪っ子は小学3年生。新学期に入り... - Yahoo!知恵袋

なんと言うか、愕然としますよね。

禁止の理由も、どれも主観の域を出ていないですよね。いわゆる「起こり得る」事であって、コンピュータゲームに特有のものとは言いがたい。要するに、他の文化に較べてそういう悪影響を顕著に与える、というのは明確では無い。(ゲームが視覚の機能低下をもたらすというエビデンスは充分にあるのでしたっけ?)

今までは宿題をした後、30分~1時間程度ゲームをしていた様ですが、妹は納得したのでしょう。
先日「ゲーム機」「ソフト」を全て売り払いました。

子供は泣きながら「やめて」と言ったそうですが、これは親の考えですので私は何も言えません。

これはなあ。お子さんはどんな気分だったろうなあ…。質問者さんの意見が柔軟で適切ですよね↓

が、それは各家庭で取り決めをし、子供に理解・納得をさせた上で、時間を決めてゲームをさせる。
約束を破ったら、数日禁止。

これでいいと思うのです。

担任の先生が家庭の教育方針にまで踏み込んでゲームを禁止する(させる)、というのは やり過ぎでしょう。

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2009年5月 5日 (火)

apjさんによるニセ科学まとめ

ニセ科学まとめ — Y.Amo(apj) Lab

apjさんによる、ニセ科学論のまとめです。

現時点で、よくまとまって参照しやすいものになっている、と思います。

関連エントリー

とりあえず作ってみた :: Archives

↑apjさんのエントリー

PSJ渋谷研究所X: 【種】apj版「ニセ科学まとめ」

↑重要な指摘

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2009年5月 4日 (月)

基本的なところから

インフルエンザ、あるいは感染症一般について、ある事無い事触れ回る人がおり、中には妄言に近いものすら見られる現状、基本の知識をおさらいしておくのは大変重要ではないか、と考え、これらの本を読んでみました。

ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ) Book ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ)

著者:岡部 信彦
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック Book Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック

著者:岡田 晴恵
販売元:朝日新聞出版
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かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学) Book かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学)

販売元:学生社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ) Book 感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ)

著者:宮地 勇人
販売元:東海大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

いずれも簡潔にまとめられていて読みやすく、参考になる本だと思います(一番下は読書中)。

やっぱり大切なのは、「適切に怖がる」(PSJ渋谷研究所X: 適切に怖がるための「リスクとハザード」)事だと思うのです。楽観も過度の悲観も、よろしく無い。であるから、これまで対象に真剣に取り組んできた人達が蓄積した知識をよく参照する。

場合によっては、無知な人よりも、知識があると思い込んで、曖昧な情報を(善意であっても)人に勧めたりする方が害になる場合がありますね。感染症対策なんかは、特にそうではないかと思います。

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2009年5月 3日 (日)

参考に

「科学は自然の近似」について、以前、『ファインマン物理学』で同様の事が書かれてあるのを見た記憶がある、と言いましたが、確認しましたので、引用します。参考資料として見て頂ければ。※強調は原文ママ

 自然全体のなかの一齣,あるいは一部分というものは,完全な真理――といっても我々の知る限りにおける真理――に対する一つの近似に過ぎないのが常である.じっさい,我々の知っていることは,すべてなんらなかの近似である.というのは,我々はまだすべての法則を知りつくしているのではないということを承知しているからである.だから,これからいろいろいのことを勉強しても,それはやがて忘れてしまわなければならず,そうでないにしても,多くの場合,修正を加えなければならないのである.
ファインマン,レイトン,サンズ (坪井忠二訳) 『ファインマン物理学 力学』(P2)

ファインマン物理学 (1) Book ファインマン物理学 (1)

著者:ファインマン
販売元:岩波書店
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2009年5月 1日 (金)

プラセボフォルダ開放

需要があるかは判りませんが、ブラセボってなあに、的な記述があるサイトのリンクをいくつか紹介します。

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余談ですが。

色々考えてみて、いわゆるプラセボの事を、今度から、「擬薬」と表記しようかな、なんて思っています。

理由は、「偽薬」の「偽」よりも、「擬薬」の「擬える」の方が、用いられる目的をよく言い表しているように思うし(多分に個人的な語感の気もするけれど)、語に「薬」が入っているから、「プラセボ」のように、有効で無いと判っている方法一般(手術とか)に敷衍する事が出来ず、あくまで「薬を擬したもの」、という意味を伝えやすい、と考えるから。「プラセボ効果」よりも、「擬薬効果」の方が、字面からも意味を取りやすいようにも感じます。

という訳で、今後はそれを用いるかも知れません。もちろん、文脈によってプラセボという語も使うでしょうけれど、ちょっと気をつけてみようかな、と。

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2009年4月30日 (木)

違います

不連続な茶飲み話: 文脈

きちんとお読み下さい。

自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

思わぬ文脈で読み取られて、の意味がよく解りません。文脈とは、発言がなされた場がどのようなものであったか、という事なので、文脈の把握そのものが誤っていたのだとすれば、それは単に誤読です。こちらは、どういう文脈であったか、言葉にどういう意味を持たせていたか、などを説明するまでです。文句は言えない、とは? 好きなように解釈されてもしょうが無い、という話ですか? そんな訳無いでしょう。適当に読まれたのなら、文句を言うに決まっています。

 まして上の場合、「科学とは何ぞや」という話をしているわけですから、

いや、そこまで一般的な話では無いのでは。と言うか、科学とは何ぞや、という問題なら、初めにそういう論題を設定してからやればよろしいかと。

とても「哲学的論議に持っていくこと自体がナンセンス」とは言えないのではないかと。

何故ですか? 私は、一つの文を採り上げてそれを哲学的に云々し、発言者の真理観まで憶測混じりに推論するのはおかしいだろう、と言ったのですが。ところで、その部分、私のコメントの引用かな。ちょっと探し切れないのですが、多分、最近「哲学的論議」という言葉を使ったのは、

quine10さんのように哲学的論議に持っていくのがいかにナンセンスか、

ここだけだったと思います(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/lets_skeptic-28.html#comment-56085433)。ここではちゃんと、「quine10さんのように」と書いていますね。「ナンセンス」もここ以外で書いた記憶が無いので、もし別の箇所の引用だとしたら、教えて下さい。ともかく、科学哲学の話をする事自体がナンセンスだ、と言った覚えは無いです。

とりわけ「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人の発言であれば――、ダブルスタンダードに聞こえます。

判然としません。何がどうダブルスタンダードなのでしょう。それと、何で、”「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人”が強調されているのでしょうか。

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2009年4月29日 (水)

>lets_skepticさん

「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ - あらきけいすけの雑記帳

lets_skeptic さんに問いたい:「真理」を前提に置いているのは(1)誰のどの学説なのか?(2)その学説のどの部分がどのように問題なのか?この程度のコメントでは十分に合理的な説明になっていないので説明して欲しい…って問い返されても仕方ないよね。(この件、回答は不要です。)

※引用に際し、リンク等はずす

だそうです。これは結構クリティカルなので、検討する必要があると思います。

>あらきけいすけさん

批判的に言及しておいて、回答は不要、などと一々仰らないように。

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ぼくが TAKESAN さんにツッコんだ理由は、これが「ニセ科学」説明しようとした apj さんのエントリに、自分なりの哲学的意見をまとめようとした quine10 さんの議論に対する TAKESAN さんのブコメとして書かれていたからこそだ。

いいえ。「現場の科学者の体験的知識の表明」(かも ひろやすさんによる)として、文脈を考慮して特に問題無いと思われた記述に、その文脈を無視して哲学の議論に引き付けたので問題だと思ったのです。私のブクマコメントは、apjさんが色々の場でああ書くのは適切だ、と言った訳ですが、それは、あの文脈であれば適当、という事です。そもそも、quine10さんは、「どこの誰の表現かを、きちんと明示」していません。にも拘らず、「科学は自然の近似」という言い回しのみを取り出して論評しています。だから私は、おそらくapjさんの表現の事だろう、と仮定して、その言い回しが出てくる文脈ごと検討しています。

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2009年4月28日 (火)

色々説明

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ - 日記

「血液型性格診断」に科学的根拠がないことは、すでに心理学の実験で証明されている」

ホントか?ソース出せよ。

→正確には、「心理学の実験で証明」、では無い(普通は、質問紙調査を「実験」とは言わない)。血液型性格判断は、大規模な社会心理学的研究などにより、反証されている。ソースは、大規模な研究では、松井や山崎・坂元 等。その他、多くの小規模な研究がある。参考資料⇒■(シリーズ)「血液型と性格」論文レビューをするにあたって|ほたるいかの書きつけ ■(シリーズ)忘却からの帰還: "Blood type and personality" に手を出したことがある研究者(1) Cattell ~ 忘却からの帰還: "Blood type and personality" に言及したことがある研究者 (4) Kosaku Yoshino

「性格」なんてものが科学で定量的に扱えるわけないだろ。

→それは性格心理学そのものの否定。質問紙調査等により性格特性を把握する事をも否定する。その立場自体はあって良いが、「仮に性格が科学的定量的に研究出来なくとも」、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

こんなものを科学的に反証できると考えている人間こそニセ科学の側だ。

→性格心理学や社会心理学のパラダイムに則れば、科学的に反証出来る。仮に、上の理由により、性格を定量化出来ず、従って反証出来なくとも、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

「血液型は単に抗原の違いを示しているに過ぎないのだから、性格とは何の関係もない」って批判は意味がない。

→それは、血液型性格判断に対する筋の悪い批判なので、そのような想定はあまり意味が無い。

そもそも科学でないことを「ニセ科学」だとか「科学的根拠がない」とか言い出すのを止めろと。

→科学で無いとして、それを「科学的根拠が無い」と評価するのは、全くおかしく無い。そして「ニセ科学」は、科学的根拠が無いにも拘らず、それが成り立っているかのように主張もしくは認識されるものである。

頭の悪い人はAが「科学的に」否定されてると思っちゃうから、警戒しないと。

→血液型性格判断は、心理学的に反証されている。繰り返し研究され、その結果強い関連が見出されなければ、反証されたと見て構わない。ごく慎重な態度を採り、それでも反証なされていない、と主張しても良いが、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

仮に、今までの全ての心理学における、血液型―性格 関連説の研究に不備があったとして、数十年後にそれが明らかになり、「実は血液型と性格に強い連関があった」事が解った、とする。その場合でも、「現在における、血液型性格判断を”ニセ科学”とする評価」は変わらない。確かめられていないにも拘らず、「確かめたかのように」主張してはならない。

血液型性格判断の否定と、「血液型と性格に関係が無い」、という論は必ずしも同じでは無い(文脈にもよる)。

20年前は加熱した牛からヤコブ病が感染する「科学的根拠はない」、

30年前は注射器の使い回しで病気が感染する「科学的根拠はない」って言ってましたよ。

→「科学的根拠は無い」、と、「科学的に考えてあり得ない」、は別である。現象が実証的に確認されていないなら、それは一般に「科学的根拠は無い」、と評価される。そしてそれは、必ずしも、「これまでの科学の体系から見て、原理的に成り立たない」というのを意味しない。現象が確認されていないのに「確認された」と言えば、それは批判される。「仮に成り立っているとしても」、である。成り立っている事と、それが「確かめられる」事は同じでは無い。

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ

→この文は、血液型性格判断をニセ科学と評価する事そのものが「ニセ科学」だと言っている。という事は、ニセ科学という概念を理解した上で、それに当てはまると考えた、のを意味する。では、ニセ科学概念の意味を説明出来るはずである。単なる揶揄で、特に深く考えずに使ったので無ければ。

<追記>こちらもどうぞ⇒血液型性格判断・ニセ科学・差別、あるいは「科学」と「価値」|ほたるいかの書きつけ<追記終わり>

資料

リンク集:

書籍(私が未読のもの含む):

不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門 Book 不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

著者:菊池 聡,宮元 博章,谷口 高士
販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「モード性格」論―心理学のかしこい使い方 Book 「モード性格」論―心理学のかしこい使い方

著者:サトウ タツヤ,渡邊 芳之
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

心理学 (図解雑学) Book 心理学 (図解雑学)

著者:大村 政男
販売元:ナツメ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 血液型と性格

著者:大村 政男
販売元:福村出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年4月27日 (月)

科学と哲学

私が、哲学的な問題には立ち入らない、と何度か書いたのは、もしそこに入っていくとすると、広く深い議論にならざるを得ないから、なんですね。哲学の人は科学をよく勉強しなくちゃならないし、科学の人は哲学をよく勉強しなくちゃならない。その上で、実際の科学の方法と哲学の概念との関係を考えたりする。

加えて最近は、科学を哲学的に考察する場合、単に「科学哲学」では無く、科学哲学・科学史・科学社会学 等を含んだ総合的なものとして、「科学”の”哲学」と言われたりもするようで、いずれにしても、非常に広範囲で、しかも深い議論が必要とされる訳ですね。

それで、ありていに言ってしまうと、この場でそれを仕切るには、私にはちょっと力不足であるな、と。

実は、関心はすごくあるんですよね。元々哲学の本を結構読んだりもしているので。でも、今は実証科学の方法を主として勉強していこうと思っている時期でして、実験科学や統計学方面にウエイトを掛けている所だったりします。

これは、以前の自分が、「科学」を知らず、しかも、哲学をほんの少し眺めただけにも拘らず、実証科学に批判的であった、という苦い経験から来ています。

科学を勉強するにつれ、哲学の人達はこう言うけど、科学の人達は普通に踏まえてるじゃない、と思う事が、かなりありました。もしかすると、中途半端に哲学をやった人の的外れな科学批判、に当たってしまった、のもあるのかも知れません。

考えてみれば当然でもあるんですよね。科学者で科学哲学的な思索を深めた人も沢山いるのですし、それが科学の方法にフィードバックされないと考える方に無理がある訳で。心理学方面だと、方法的な対立が色々あったりして、科学哲学と絡めて論じられる本も結構ありますね。

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2009年4月24日 (金)

「科学は自然の近似」

きっかけはこちら⇒科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

では、本題へ。

えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。

「科学は自然の近似である」

「えっ?」と。

「マジで言ってんの?」と。

こう切り出し、ここから、「科学は自然の近似である」という見方を、哲学的な真理観の立場から批判しています。※引用にあたり、強調等の修飾は はずします

さて、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄、というのがどのブログかは判りませんけれども、疑似科学あるいはニセ科学を批判し、「科学は自然の近似である」という表現をよくされるのは、天羽さん(apjさん。以下apjさんで統一)なので、apjさんの論に対する批判と読みました。私が同じような言い回しをする際も、apjさんの論に賛同して使っています。

※念のために書いておきます。ここでは、ニセ科学の話は措いておいて、「科学は自然の近似」という表現がどういう意味を持つのか(持たされているのか)、を考えてみたいと思います。ですので、ニセ科学批判者がどうだ、などの話はしません。ここは踏まえて頂ければ

(ちなみに、これをいきなり真理対応説・真理整合説 と関連付けて論ずる意味は、私にはよく解りません。関連はするが、一応別の話、と捉えるべきだと思います)

上記リンクについた、はてなブックマークはこちら(私がブクマミスしたので、ブクマのページが2つ存在します)⇒はてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

ここで私は、

ublftbo   科学論 いや、自然科学(の理論)が自然の近似、というのは適切な表現だと思いますけど。というか、あれは「定義」じゃないでしょう…。なんか誤読してるんじゃないかな。

こう書きました。※一部抜粋

ここで私は、自然の振る舞いを近似的に記述したものが科学である、と取れば、特に問題無い表現だと思うし、哲学の真理観の話は、一応別の問題だろう、と考えたので、このコメントを書きました。

で、もう一つ引用。

arakik10 「自然科学が自然の近似」というのは杜撰な表現ですよ> id:ublftbo さま。もちろん、このエントリも quine10 さんには申し訳ないが、哲学的に「古くさい」議論ではある。

「杜撰」、との事。私はこれがどういう意味合いなのか、今ひとつ掴めませんでした。科学を定義せよ、と問われて「自然科学が自然の近似」と答えるのならともかく、自然の振る舞いを近似的に記述する、科学にはそもそもそういう側面がある、という意味合いでそう表現するのは、問題無いと思うからです。杜撰、とはよく解りません。

次に、同じエントリーに言及したsteam_heartさんの記事と、それについた はてなブックマークのページにリンクします⇒■細かいなあ、オレも。 - Gavagai ■はてなブックマーク - 細かいなあ、オレも。 - Gavagai

ブックマークコメントを引用。

oanus 反ニセ科学 地球のカタチを球とみなすのは「数学」に過ぎない / 自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの? / 真理が「モデル」を指すなら問題ない / 環境と環世界が混ざってるよーな…

ここでoanusさんは、「自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの?」、”真理が「モデル」を指すなら”と書いておられます。

私は後者の方にちょっと違和感を懐きました。多分、apjさんが、「科学は自然の近似」という言い回しをされる際の「真理」は、そういう意味では無いのでは、と思ったからです。

で、私は、近似の意味などを調べたり、ブクマをつけたりしていたのですが、別のブックマーク(はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)でoanusさんから、

oanus meta id:ublftboさん, 「近似」ではなく「自然」という言葉が問題なのかと.暗黙の了解としている物質世界の全体を指すのか,人間の認知系を通した世界の像を指すのかという違いでしょう / id コールで誤入力してすみません

と教示を頂き、なるほど、「近似」で無く「自然」の方もよく考えるべきか、と思いました。

oanusさんが仰る2つの「自然」、前者は「実在」や「外界」と呼べるでしょうし、後者は「現象界」とでも呼べるでしょうか。あるいは、物理空間と現象空間、とか。※現象界や現象空間は、哲学などで用いられる概念だと思います

私は、「科学は自然の近似」とapjさんが仰る場合、「自然」は前者の意味で読んでいます。つまり、人間とは独立した自然現象があり、その構造を知覚を通じて解明していく、という営みを「科学」と呼ぶ、と。「実在」をどう捉えるか、はまた別の議論があるでしょうが、自然科学の方法としては、観測や実験を通じて自然現象のメカニズムを追究するものである、と言って差し支え無いと思います。

そういった意味で、私は同ブックマークで、

ublftbo   ↓なるほど。実在を仮定する(←これが「自然」)として、人間の知覚による観測には限界があるから、その意味で「自然の近似に過ぎない」という言い方になっていると読んで、特に問題ない表現と考えた次第です。

こう書きました。つまり、まず実在を仮定する。人間とは独立した世界があると看做す訳ですね。そして、それを「自然」と呼ぶ。その上で、人間の観測によってメカニズムを解明していく訳で、そこには実験科学的な誤差もあるし、精度にも限界がある。その意味で、私は、「科学は自然の近似でしか無い」、「科学は自然の近似に過ぎない」、などの言い回しは出来るし、それは的外れなものでは無いと考えます。

別のページ(はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)で私は、

ublftbo   続き。 / 私は、「真理」が「モデル」を指すのではなくて、「自然」や「(仮説としての)実在」を指し、「近似」が「モデル」を指す、と読んだのですね。要するに、科学はモデル(近似)でしかない、という風に。

こうも書きました。これは、上のoanusさんのブックマークコメントを参照してのものです。要するに、apjさんが「科学は自然の近似である」と発言する文脈では、同時に「真理」が出てくる訳ですけれど(科学は真理などでは無い、という風に)、そこでの真理とは、「自然がどうなっているか」という事であり、それに科学は接近は出来るけれども、完全に一致したりする事は無い、というように、apjさんは考えておられるのではないかな、と思ったのです。

ここまでは、主にはてなブックマークでのやり取りの話。どう読解したか、という所。

で、こういうのは、ご本人がどう風に使っているのか、が最も重要なので、それを見ていきましょう。

ヴィトンのバッグに置き換えろ :: Archives

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

これは、他の方の主張を受けてのものですね。ここで「精度」の話が出てきますね。apjさんは実験科学の専門家ですから、誤差や精度、公差などについてのプロフェッショナルな訳で、測定の限界や有効桁の話に関して、熟知されているはずです。この文は、そこら辺の論理を踏まえての発言だと思います。これはある意味、「科学の限界の表明」な訳ですね。

還元電解水に関する議論(その2)

 物理学の分野では、教科書に出ている法則などはすべて「自然」の近似です。近似の精度が悪くて現実をうまく説明しない場合は、近似の精度を上げる(新しい、別の形で法則を立てる)ということがなされます。たまに法則が絶対だと誤解する人が居るので困りますけど。

こちらでも、同様の説明がなされています。

特命リサーチXへのコメントに関するやりとりでは、

 ただ、完璧なものになるというのはちょっと行き過ぎな気がします。

 物理法則はすべて近似である、というのが私が常々思っていることです。この場合の「近似」は、測定誤差をうまく処理して真の値を考える、という意味ではないです、念のため。
 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。
「法則」を「理論」と置き換えてもかまわないです。
 特殊相対論がニュートン力学を含む形で作られた時は取り込まれ型でしたが、化学分野の燃焼のフロギストン説は捨てられました。
 思い切った理論的予測が成功することもたまにはありますが、そういうのは科学の歴史を見てもめずらしいことなので、歴史に残るできごとになりますね。

こう書かれています。誤差を評価して真値を推定するという意味では無い、とはっきり書かれていますね。一部を抜き出します↓

 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。

これは明瞭な説明だと思います。ここでは「法則」、「理論」となっていますが、これを「科学」と置き換えても、特に問題は無いでしょう。科学という語は、理論あるいは法則などの説明の体系を指す事もあるし、それらを追究する営みそのものを指す場合もあるので、文脈に沿って読めば良い。

これらの記述を鑑みて、「科学は自然の近似である」、という言い回し、表現は、問題のあるものと思わないですし、ましてや杜撰なものとは私は感じません。そもそもは、科学は絶対か、真理に達し得るか、などの問いに対する答え、という場面で出てくる表現な訳ですし、その文脈を考慮せずにどうこうするのは、適切なものでは無いように思います。

要するに、この表現は、科学の限界を示すもの、なのですね。科学を定義したものでも無く、科学の本質的な特徴の説明の一つ、と捉えるのが妥当なのではないでしょうか。

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えっと。

apjさん、もしお読みでしたら。

私はこのように解釈しているのですが、いかがでしょうか? こういうのは、説明されているご本人に伺うのが、一番正確で良いと思うので……で、いきなり「どういう意味ですか?」とブログなりで訊くのは ただの失礼な人なので、色々調べて、自分なりの読解を示してみました。

ご説明・ご批判を頂ければ幸いです。

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2009年4月23日 (木)

青木さんの本

Rによる統計解析 Book Rによる統計解析

著者:青木 繁伸
販売元:オーム社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本屋で見つけて、ビビッときた。目にして0.24秒で、いつか絶対読む本リストに入れた。

中身はパラパラめくっただけ。青木氏が書いているというだけで、信頼出来る本と確定出来るので。じっくり腰を据えて読もう。

図書館に入らんかな、と勝手な期待を。いや、やはり座右に置いておくべき本かな、これは。

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2009年4月22日 (水)

態度の問題とか

くどいくらい書いた方がいいと思うので。

Interdisciplinary: メモ:ニセ科学批判者

私はここで、「ニセ科学批判者」という言葉は、最も意味を広くとれば、ニセ科学を批判する人達、という意味だし、また、そうとるべきだと書きました。もし「批判者」と括るのならそうした方がいい、と。

で、ニセ科学を批判する一部の人の態度をもって、ニセ科学を批判する人々へ一般化をしちゃダメなのでは、というのも書いた。これは、何度も何度も書いている事です。

コメントでも触れていますが、もしやるなら、まず批判活動一般について論ずるのが適切だろうと思います。その上で、ニセ科学を批判する人々の大部分に共通するものがあり、それが批判という観点から好ましく無いのであれば、「ニセ科学批判者」を批判する、のが意味ある事になるでしょう。しかし、それが可能なのかどうかを、よく考える必要があるのではないでしょうか。

たとえば、ニセ科学を批判する際に手本とすべき態度、というのは考える事は出来ると思ってます。つまり、きくちさんとかですね。かと言って、そういう態度を採って無い人を「ニセ科学批判者」と呼びたくは無い、なんて考えが出てきちゃったりすると、それは言葉を大袈裟に捉えている事になるんじゃないかな、と。なので、このエントリーを書きました。

ニセ科学批判者か否か、というのは、ニセ科学という概念を正確に捉え用いているか、という部分で判断するべきだと思います。ニセ科学概念に誤解があれば、ニセ科学を批判しているとは言えない訳ですしね。

これは、自分のコメントから抜粋したものですが、今もこの考えは変わりません。きくちさんの態度がお手本となるものだと私は考えているし、「ニセ科学批判者」と括るなら、そうであるかどうかは、「ニセ科学」の概念をきちんと捉えているか否か、で考えるべきだと思います(括る必要があるかは別の話として)。批判の態度が一様であるかどうかは考慮しない方が良い、と私は明確に考えています。

というか、逆に聞きたいのです。

こうであるのが望ましい、という批判の態度が、明確にありますか? それは、批判を行う者が一様に、一貫して持っておくべきものですか? 批判の「効果」というが、批判の態度と強く関連しているものですか? それは、対象の多様性を考慮しなくてはならないのではないですか?

私は、はっきり言って(こう言うしか無い)「解らない」のです。このやり方は良く無かったのでは、と後から思う事はあるし、見ていて、それはまずいんじゃ、とも感じる場合がある。でも、こうすれば良かったのでは、と思ったとして、それが本当に良いのか、どうすべきだったか、は、そんなに簡単な話では無いですよね? いや、簡単な話じゃ無いからどうでもいい、という事ではありませんけれども。それと、批判の仕方って、一人の人間のやり方ですら、多様ですよね。

自分も、こういう態度はいかんよな、とか、こういう態度だけは採らない、というのがありますし、多分ここでも書いた事があります(名前も挙げたかも知れない)。しかし、それを指摘する事そのものにどういう意味があるのか、それによって何が改善されるのか、は、難しい問題ですよね。そうじゃありません?

私の考えは、こういうものです。それは、以前から変わっていません。

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2009年4月20日 (月)

ちょいメモ

今まで書いたのをいくつかまとめ。

Interdisciplinary: ニセ科学の見方

Interdisciplinary: ニセ科学批判の効果についてとか色々

Interdisciplinary: 論点

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冷凍炒飯。職人業と大量生産品と

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(265)冷凍炒飯ができるまで

大変面白かった。

初めに著名な料理人が炒飯を作る工程を紹介し、次に、実際の商品の製造工程でそれを再現するのを見せる、という構成です。

手順としては、譚氏の技法を忠実になぞる、というかたちですね。つまり、

  1. 鍋を熱する
  2. 油を敷く
  3. 卵を投入
  4. 卵を掻き混ぜる
  5. ご飯を投入
  6. 掻き混ぜる
  7. 調味料や焼き豚を投入
  8. 掻き混ぜる
  9. 醤油を投入
  10. 掻き混ぜる
  11. 葱を最後に入れる

という工程。

映像をよく観察すると、炒飯をパラパラに仕上げるための工夫が随所に見られます。米を炊かずに蒸す、鍋を煙が出るまで加熱する、卵に少し火が入った段階で飯を投入する、等々。恐らく、掻き混ぜる羽の形状にも、工学的・技術的な工夫がなされているのでしょう。

炒めた後に葱を投入し、火が通り過ぎないようにしていますね。冷凍工程までに掻き混ぜられ運ばれていくので、程よく火が通るのでしょう。

このように、職人の卓越した技術を大量生産の工業製品として再現する、という試みは、実に面白いものですね。そして、その工程を細かく観られるコンテンツがあるのも素晴らしい。

たまに、大量生産品に嫌悪を覚える人もいますが、こういう所を見て色々考えるのもいいのではないでしょうか。劇画原作者とかね。至高の味を求め、精密な仕事をする職人もすごいし、それを大量生産の現場で再現し、一定の品質で提供する、というのも素晴らしい。「両方すごい」訳で。

紹介されている商品は、多分これかな↓

あおり炒め焼豚炒飯|冷凍食品|商品カテゴリー|商品情報|株式会社マルハニチロ食品

私はこれは食べた事ありませんが(炒飯は自分で作る)、材料がシンプルだから、一般に受け入れられる味になっているのではないかな、と思います。

それにしても、この頃の冷凍食品は、驚異的なクオリティですね。

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手作業で精密な仕事をやってのける職人の業も観たい、というあなたのために、こちらも。

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(105)そろばんができるまで

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(237)竹刀ができるまで

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2009年4月17日 (金)

答えます

疑似科学批判批判批判批判:王様は裸だ!Annex:So-net blog

量が膨大なので、引用しつつ簡潔に書きます。文体は、で・ある調にします。

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 なお、mizusumashiさんの発言を読む限りに置いて、「ウェブで見かける疑似科学批判」=「ニセ科学批判」と捉えてよさそうなので、以後そう読み替える。

→議論が進むにつれ、この部分に関しても誤解があった事が判明した。

 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ

→「だけ」では無い。そもそも「ニセ科学批判」と、論理実証主義のような科学哲学上の立場を混同しているように思えたので指摘した。論理実証主義とは、科学哲学において重要な概念であり、その主張はニセ科学を批判する者が共通して持っているものでは無い。

さらにものすごく意訳すれば...

(引用者註:途中略。リンク先参照の事)

 ...てな感じではないだろうか(「あっはっは」はともかく)。

→違う。ウェブで見かける擬似科学批判とは何か、と問われ、菊池教授のテキストを挙げた、にも拘らず、菊池教授らが主張する「ニセ科学」概念を正確に理解されていなかった。という事は、「ウェブで見かける擬似科学批判」が、「菊池教授らが行っている活動」であるのは認識していたが、その内容を正確に理解していなかった、というずれがあった事になる。

それに対し、「ニセ科学批判の枠組みではそれはおかしい」と文句を言うのも適切ではないだろう。何故なら、「ニセ科学批判」の枠組みを批判するために、それより大きな枠組みを示しているのだから。

→私は、「ニセ科学批判」の立場から、「ニセ科学として」宗教等を罵倒する事は出来ない、と書いた。「擬似科学批判」が菊池教授らの活動を指すのなら、その立場からは、宗教・道徳批判は導かれない。「総括」を参照の事。

と言うだろう。それだけの話だ。

→違う。私は、較べられた事を批判したのでは無い。「混同」している可能性を指摘した。

 TAKESANさんとこの掲示板のやり取りでmizusumashiさんが「セクショナリズム」を撤回してしまったのは非常に残念な事だと思う(本気で間違ったと思って撤回したのか、ヒートアップを怖れて撤回したのか知らないけれど)。

→私は、「セクショナリズム」という概念は、少なくとも一般に用いられるような馴染みのあるものでは無い、と認識した。だから、その意味内容を問うた。そして、「支配」や「独占」等を含意しているという答えを得、法的な概念としては、必ずしもネガティブな意味合いでは無い、というのを教わった。が、私はそれは(法的な用法)、一般的では無い使い方だろうから、そう解釈が可能だとしても、セクショナリズムという語を使う事に賛同は出来ない、と書いた。※ここは掲示板ではありません。

 その上で、「ニセ科学批判」とは、ひとつの思考形態と言うよりも、ある種の『排斥運動』ではないかと感じた。

→「語」に「批判」と入っているので、それ自体が思考形態と解釈出来ないのは確かにそうだろうと思う。科学を騙っているものを指摘するのだから、論理的には排斥と解釈し得る。そう呼ぶかは人それぞれだろう。※「菊地」じゃ無く「菊池」さんですね

 『ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである』とアナウンスしているのが「ニセ科学批判”まとめ”」と題したページである事に非常に矛盾したものを感じざるを得ない。

→私の解釈だが。「一派」と看做すべきでは無い、というのは、ニセ科学を批判する事以外の思想的部分についても「軌を一にする」ようなものでは無い、という意味だと考えられる。ニセ科学を批判する人達、という意味で「一派」であるのは当たり前である。しかし、「一派」とすると、別の含みが持たされる、という可能性にも思いを馳せるべきと考えている。※「思想的部分」には、「宗教を否定する」等も含まれる訳です

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。

→違う。ニセ科学批判をしている人に対して異論を唱えるものの中に、「批判の態度や人格、その他の思想的な方向性」をも共有しているかのように主張するのがある。だから、そのような認識は改めて頂きたい、という事である。当該wikiは、関心を持った人の「案内」の役割を果たすものでもある。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。

→ここは読み取りにくい。動機とニセ科学批判を「組み合わせなくてはならない」とは、どこかで主張されているのだろうか。

ニセ科学批判者っぽい人達は、「ニセ科学批判をどう捉えて欲しくないのか」という話を好むが、「どう捉えて欲しいのか」について、あまり語りたくないような素振りを感じる。

→どう捉えて欲しく無い、という主張は、どう捉えて欲しい、という主張の裏返しであるようにも思うし、そもそも、「語りたくない」と評価されるほど、「素振り」を疑わせるほど、「書いていない」のだろうか。

 「ニセ科学批判」をする数々の動機を示されても、かえって「ニセ科学批判」とは何か分からないし、何故その動機で行われているものを「ニセ科学批判」と捉えなくてはならないのかも分からない。

→違う。ニセ科学批判とは「文字通り」、ニセ科学を批判する事であって、動機は概念に含まれない。「捉えなくてはならない」という解釈がどこから来たのか知りたい。

 何故細々とした線引きをするのだろう?
 そして、その線引きをそこに置く理由は何だろう?
 それが良く分からないのだ。

→「細々とした線引き」とは? 「そこに置く」の「そこ」とは?

 線を引いているのは「ニセ科学批判」側であり、それによって「科学とニセ科学」を区分しようとしている。
 それは端から見れば「矢が当たったところに丸を書く」の如くではないか。

→「端から見れば」というのが「どこから」という問題もある。ニセ科学を主張する人から見れば、そう思われるのも当然。当たり前だが、「ニセ科学」と判断する側も、それを批判される余地があるし、批判に対しては開かれなければならない。

 「科学-非科学間のグレーゾーン問題」だってそうだ。
 シメに『どれも (専門家の目から見れば)「明らかに真っ黒」なものばかりである。』と言われても、「その“専門家”って、結局排斥したい側でしょ」という気持ちがわき上がってしまう。

→「科学-非科学」という文脈からいけば、専門家集団がそれを判断するのは当然。それを否定すると、「科学的」という言明は不能になる可能性がある。科学的という判断が出来るなら、非科学的という判断も出来る。※「非科学的」とは、必ずしも「起こらない事」、を指さない

 それに比べれば、「ラベル貼りか剥がしか」とか「アナロジーとして寿司と江戸前のどっちが妥当か」という話なんて正直どうでもいい、と私は思う。

→よくない。寿司のアナロジーは、意味が明らかに違う、というのを指摘したものである。※「比べ」る必要がありますか?

 「批判する以上は批判する相手をよく知れ」、こう言いたくなる気持ちは『批判される立場』に立てば良く分かる。しかし、この物言いは、極端な話、「知らないヤツは口を挟むな」と言っているに等しいと感じられた。

→「極端な話」、としているが、そもそも私は極端な話はしていない。調べた上で書いたのだとしても、おそらく概念に混同があるから、調べ直してみた方がいい、という意味で言った。「知らないヤツは口を挟むな」については、どの程度知らないか、どの程度口を挟むか、による。

 さらに、「もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。」なんて、「批判が不当であると自分で分かるまで調べろ。」と言っているのと同じに聞こえる。

→私は、同時に「質問」をした。コメント欄でも何度もやり取りをし、ニセ科学概念について説明している。「聞こえる」とすれば、私はそのような認識は持っていない、と返すしか無い。もし私が、解るまで調べろ、と思ったなら、「そのままそう書く」。

 このような言い振りがどれだけ虚しいかは、某氏の「まずは心理学の入門書を読んで下さい」発言に眉をしかめた事のある人にとっては知っているはずだろうに。

→さすがにこれは無いわ、と思った。ベクトルの向きが同じだからといって、長さが同じ訳でも無いでしょう。ABO FANさんがどういう流れであんな発言をするかは、Jさんが一番よく知っているはずなのにね。

 それに、調べているのは、「自分が押さえるべきと判断した情報」でしかなく、「信奉者側が押さえて欲しいと思う情報」ではないのではないのでしょうか。

→ニセ科学や擬似科学の話なのだから、その概念について調べるのが大切なのが当然。「調べながら批判する」事は否定しない。しかし、「調べながら批判している事を批判する」のも否定されない。

 となれば、否定されたニセ科学支持者だってこう言いたいはずです。
 『もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。』

→当たり前。訊かれれば、どこまで調べたかを示す必要もある。それは、「批判」が関わるもの一般に言えるでしょう?

 だからこそ、そんなニセ科学批判側が、批判される側になった途端に「批判する以上は批判する相手をよく知ってからしろ」といった発言をしてしまう事に非常に身勝手さを感じました。

→いいえ。批判するなら相手をよく知ってから、というのが妥当だと私は思っている。訊かれて答えられるか、という問題。混同していると思われるものに対して、調べるのを促すのがそんなに問題ですか? 上にも書いたが、私は質問込みでエントリーを上げた。最初から説明する気があった、という事です。書き方が足りない、初めからある程度の説明を入れておくべきだった、などの指摘はあるだろうし、それは甘んじて受けるけれども。

 あと、「ウェブで見かける疑似科学批判」とは何かを聞き出す事に拘っていたようですが、そもそも、「出典」を知ればmizusumashiさんの主張の何が分かるのでしょう?

→出典を知れば、何を参照したかが判る。それが判れば、用語の概念についてどう認識しているか、の手がかりを得られる。

それ以前に、「ウェブで見かける擬似科学批判」というのはかなり一般的な言い回しなので、具体的にどのようなものを指すのかを訊くのは、当たり前である。これが、私達の言う「ニセ科学」を指していないのが判明すれば、それを踏まえた方向に進む可能性があった。拘っていた、としているが、ここはそもそも、「最も注意深く見るべき」部分である。「擬似科学」が、科学哲学上の境界設定問題において出てくるような概念であれば、話が変わってくるから。※「論理実証主義」を出しておられたでしょう? これは、ものすごく重要な点なのです。他のエントリーも見て下さい。哲学的な論考をいくつも書いておられますので。だから、「混同」の可能性を考えた訳です

 また、そう言う意味ではmizusumashiさんは“自分の言及に必要な範囲”で、ニセ科学批判側の実態を的確に把握していたと言えるのではないのか?

→違う。「そうしていない」の解釈が異なる。哲学的な立場なら、「しない」かも知れないが、ニセ科学批判の立場でれば、「出来ない」、になるから。

 すごい失礼なもの言いになるけど、そんな事に拘るのは「出典は何だ」としつこく聞く某氏に似てしまっている。

→これは無いわ、と思った。失礼、と言うか、喩えとして不適当と思う。

 だからといって、mizusumashiさんはその類の人だったのでしょうか?
 やくたいも無い事をいってイチャモンをふっかけるような人?

→私は、mizusumashiさんを、「その類の人」と看做したのですか?

私にすら普通に読める文章だったし、筋も通っていたと思う。

→おそらく筋が通っていないと読めたから、指摘した。

 「ハイハイ、また例の如くの疑似科学批判批判ね。」
 なんて軽く捉えてはいなかっただろうか。
 題材となった人の意見を理解する事よりも
 仲間と共感し、共感される事に意識の大部分が行っていなかっただろうか。

 もしそうであれば、それは別な意味で「排他的なセクショナリズム」を感じさせる。
 また、ステレオタイプ的な相手の見方をする一方で、自分達に関しては「ニセ科学批判だからといって一派とみなすな」と要求するのは勝手としか言えない。
 何より、ニセ科学批判者がそんな判断をしているかのように受け取られるという事は、ニセ科学批判者の「ニセ科学」の認定の妥当性自体、色眼鏡で見られる事になってしまうだろう。

→三言

  1. Jさんがそう思うのは自由
  2. そもそも私はそう考えていない
  3. 考えていないのを前提とされて論を展開されるのは不本意

---

なんか「読み取れました。」とか”勝手な問いかけ”とか”仮定”ばかりですまぬ。

→はい、仮定はほどほどに。当たっていない仮定なので、本当に、不本意としか言いようが無いです。その上で、そうで無かったら無視してね、というのは、何と言うか、勘弁して欲しい。自分への言及なので、私は本気で読んでいるのだから。

 そんな方々の発言に、「ニセ科学側」チックな物言いが混じってきたような気がして、なんだがいたたまれなくなったんです。

→”「ニセ科学側」チック”、というのは、説明を読んでもよく解らない。

「ニセ科学批判」とは何か?

→ニセ科学を批判する事。

何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?

→科学を装っているのに科学で無いものが存在するのを周知させる目的。科学という概念を知っている人、それに信頼を(意識的・無意識的に拘らず)置く人に対して知らしめる。

罵倒されても蔑まれてもいいから、

何 で そ ん な 書 き 方 す る の ?

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2009年4月15日 (水)

総括

疑似科学批判・批判について - mzsmsの雑記にコメントしようと思ったのですが、長くなってしまったので、エントリーにしてTBを送ります。※一部、コメントの体裁そのままで。

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今晩は。

まとめ、お疲れ様です。

一点気になる所がありましたので、そこを。
▼引   用▼
ほぼ繰り返しになりますが、「ニセ科学批判」を行う方々が科学と道徳・宗教の関係について真摯に考えればそれしかありえない、少なくとも干渉を積極的に行うべきだとか、罵倒するとかはありえないというお考えならば、前述のようにそうではないというのが私の意見です。
▲引用終わり▲
ここは、依然として誤解があるように思います。

少なくとも私は、「ニセ科学批判をする人が、科学の立場から宗教等を罵倒する事はあり得ない」、と「言ってはいない」、のですね。

じゃあ何を考えるか、というと、「宗教や道徳に対して、それを”ニセ科学”として批判する事は無い」、という事です。なぜならば、宗教などは「ニセ科学」では無いから。で、どうしてそう考えたか、と言えば、mzsmsさんが最初のエントリーで、
▼引   用▼
臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。
▲引用終わり▲
と言われたからなのですね。これは、「宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」となっていますから、宗教や道徳を「疑似科学」と看做してそれを批判する、と読めます(たとえば、「擬似科学批判者による宗教批判」、とは明らかに意味が異なる)。しかるに、一連のやり取りで恐らくご理解頂けたと思いますが、「ニセ科学批判として」は、それは不可能です。
で、ここでの「擬似科学」が、今私達が使っている「ニセ科学」で無いとすれば、そういう立場(科学の立場から、宗教等を擬似科学として否定するという事)もあるかも知れない、と言えると思います。なぜなら、そもそも「擬似科学」に込められている意味が異なっているから。(それでも、「科学のみが真理」などと言う人はいないと思うし、そんな事を言う人は、やはり馬鹿だと考えます。)

※「科学のみが真理」と考えるのと、「宗教や道徳を罵倒するような擬似科学批判」は、一応独立

しかるに、mzsmsさんは最初の段落で、「ウェブで見かける疑似科学批判に」と書かれた。ウェブで見かける、という事は、最近よく目にする、等の意味が含まれている、と私は読みました。とすると、最近行われている「ニセ科学」批判を、mzsmsさんが「あらかじめ認識している”擬似科学”批判」に変換してしまった可能性がある、と考えたのです。それで、その場合にどうなるか、というと、たとえば菊池教授や田崎教授、天羽准教授などが行っている批判活動を精読せずとも、「ニセ科学」という語を用いて何かを批判しているのを「見る(知る)だけ」で、「mzsmsさんが認識する”擬似科学批判”を行っている」と「誤認」する可能性があります。※あるシニフィアンを見ただけで、きちんと精読せずに、自分が持ってるシニフィエを一般化する(してしまう)、という事です

ですから私は、「不明確」と評し、ウェブで見かけるものとは何か、等の質問をしたのですね。確認という訳です。そして、その後に「混同」という風に書きました。実は、不明確で、

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

とちゃんと書いているんですよね。

※これは重要な所なのですが、私達は、「”ニセ科学”はこのように使うべきだ」、とは言わないのです。そうで無くて、今私達が使っている「ニセ科学」はこういう意味だから、それを踏まえているのだろうか、と考える訳です。だから、「確認」をしに行く。科学哲学上の「擬似科学」という言葉と同じような意味で「ニセ科学」が用いられる事もあるし、逆に、今私達が使う「ニセ科学」の意味で「擬似科学」が使われる場合もある。だから、その意味を共有しないと、議論が出来なくなったりする。

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2009年4月12日 (日)

混同

疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後) - mzsmsの雑記

ただ、ある科学者が科学者としての領分の問題ではなく、その人の個人の意見としてこのような立場に立ち、また疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということがありえないということは納得できません。実際、エルンスト・マッハは「科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのである」といった立場に近いところにいたはずだと思いますし、リチャード・ドーキンスは宗教を罵倒しています。

もう何度書いたか知れませんが。

「ウェブで見かける疑似科学批判」を念頭に置いておられるのでしょう? そして、菊池教授のテキストを例示された。だから、私達は、その概念(ニセ科学)に基づいて話をしている訳です。

ニセ科学批判は、科学を装うものを批判するのだから、それを前提として宗教等を批判するのは、無理ですよね。そんなに複雑な話ですか?

マッハにしろドーキンスにしろ(マッハの主張はよく知らない。ドーキンスは読んだけれど、その表現が当たっているかは判らない。以下は、一応そういうものと前提して書きます)、真理追究に科学が最も優れた方法である、というような主張で、その観点から他の文化を批判しているのだと思いますが、それは、「科学を装っている」から、では無いですよね。

別に、科学のみが真理である、と考えて他の文化を非難する人間がいる事そのものは、否定していないのです。恐らくいないだろうな、というのは、「疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということ」です。ここで「擬似科学批判」とは、「ウェブで見かける」もの、菊池教授の主張のようなもの、では無いのですか? そうであるなら、その批判の根拠(科学を装っているから批判する)に基づいて宗教等を批判する事は、出来ません。出来ないから、恐らくやる人はいないだろう、と推測出来る訳です。逆に言えば、そんな事を言う人は、「ニセ科学」概念を知らない。

たんに、宗教や道徳に「本当の答え」などないという立場が哲学的立場としてありえ、その立場からは宗教や道徳を罵倒する行動もありえるだろう、と言っているにすぎません。

これは個人的な姿勢の表明ですが。

あり得るか否か、といえば、ある事でしょう。いないとは言えない、程度でしょうか。

私自身の考えでは、文化に相対性があるのをもってそれらを罵倒するのは、よく解らない事ではあります。

後、「すぎません」てのは変ですね。ならそれだけ書けばよろしい。一々「擬似科学批判」に絡める必要はありません。何ゆえ絡めて論じたのですか? その一文のみであれば、そりゃ同意します。でも、初めから、そんな事は言っておられませんよね。

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つぶやき。

宗教や道徳を実証的に分析する「科学」もあると思うんですけどね。社会学とか、文化心理学とか、社会心理学もそうじゃないのかな。研究者や学派の立場にもよるかも知れないけれども。

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没った

※このエントリー、剣術について書いています。真剣をもって斬る、というのを主題にしているので、そういう話を好まない方は、読まない方がよろしいと思います。

とある武術ネタを書こうと思ったのだけれど、自分に知識が無さ過ぎて断念。

ちなみにそのネタは。

「時代劇で見るような袈裟斬りが実際に可能であるか」

というテーマ。

時代劇でよく、肩口から逆側の腰辺りにかけてバッサリ斬って捨てる、という描写がありますよね。それです。

え、何が問題なの、と思われたかも知れませんね。どこに疑問があるの、と。

えっと、その場面を想像しながら、ちょっとよく考えてみて下さい。

ほぼ正面から向き合って、相手の身体を、肩から逆の腰にかけて、斜めに斬っていく訳ですね。

もっと具体的に考えます。

ほぼ正対して、間合いは大体中間ですね。あまり近付き過ぎずに斬りつける、というシチュエーション。

そうすると、剣先の方で斬っていく、となります。

で、剣先の軌道を考えると、それは曲線を描きますね。という事は、この現象を別の言葉で表現すると、細長い刃物の先の部分で、相手の身体を広く(長く)斬る、と言えます。

つまり、かなり長い刃物の先で、筋肉や骨の塊である人体を斬る。って事は、直感的にも、ものすごい負担がかかる、のが解りますよね。

多分、剣先は円弧に近い軌道を描くと思うのですが、そうだとすると、剣を振って斬っていくとなると、「段々身体に深く入り込みつつ刃が進行していく」、と言えます。

としますと、恐らく、「剣は途中で止まる」のが、実際に起こる事だ、と推測出来ます。途中、鎖骨・肋骨・胸骨 等の骨格に当たる訳で、それを切断しつつ腰まで到達させて剣を振り下ろす、というのは、力学的に非常に困難なのではないか、そう考えたのです。力学的に、というのは当然、日本刀にかかる負担と、剣を運用する筋肉への負担の両方がありますね。仮に、日本刀が構造上そういう使い方に耐えられるとしても、肉体が刀を充分運動せしめるほどの働きをする事が可能であるか、と。

で、これを前提として、時代劇で見るような描写をどう解釈出来るか。

一つは、「斬りが浅い」と考える。

つまり、剣先を、「身体を掠めるように」斬っていく、という事ですね。

ただ、それはシチュエーションとしては、結構考えにくい。だって、殺す気満々なのですからね。わざわざ皮だけ斬るような事を、するはずが無い。それと、上にも書いたように、剣先は曲線を描くのですから、深く入り込まず、かつ傷を長くつけるような斬り方をするには、わざわざ「剣先を前後にコントロールしながら斬る」必要がある。ちょっとでも深く入ると、止まっちゃうのですしね。

もう一つは、「思い切り振り下ろしているが、実は肩口の辺りを切っているだけ」。

つまり、肩口を斬って、引きながら振り下ろす訳ですね。そうすれば、さほど負担もかからないでしょう。

その場合には、そんな中途半端な技をする必要があるのか、という話になります。他に動き方があるだろうし、逆に隙が生れる可能性もある。

それと、相手の傷口を見るのも大切ですね。肩から腰にかけて傷がついて、ビシャアアアッと血が迸り出る、なんて描写があったら、上のような斬り方では無い訳ですな。ちゃんと斬りつけている。だけどそうすると、一つ目のように、多分すごく難しい運動。

三つ目。「一つ目の運動が容易に出来るようなウルトラパウワーの持ち主だった」。

要するに、時代劇で描かれる武士の類は、斧か鉈のように刀を使い、バッサリ斬り下ろす事が出来る、と考える。

ここはどうなんでしょうねえ。刀をもって合理的に致命傷を与え、なるべく身体にも刀にも負担を与えないようにする、という目的を考えるならば、そんな乱暴な使い方はしないだろうと思うのですね。シグルイでもあるまいし。

で、最後に、私の考え。

「そもそもそんな斬り方はしなかった」

これです。

戦闘というシチュエーションで、反りを持ち鍔元まで刃を入れてある日本刀を運用していく場合に、剣の先10cm程度を使って中間から袈裟に斬る、というのは大変不合理に思います。※ここ、高岡英夫氏の論考を参照にした

だから、もし袈裟斬りのような技法を使うとしたら、時代劇で見られるような感じでは無く、恐らく、ごく密着して、「刃全体を当てるようにして、鍔元から引きずって斬っていく」のではないかと考えます。料理をする人に解りやすい喩えを用いると、「刺身を切るように」使う訳ですね。「撫で斬り」って言葉もありますですね。

だから、傍目だと、ほとんど「体当たり」のように見えるのではないかな、と。そこら辺を考えると、宮本武蔵の書(五輪書の水之巻)とも繋がってくるように思います。もちろん、通常は、正面から斬りつけるのは大変危険なので、そこは、受けの工夫が要るのでしょう。使えない時には使わなければ良いのですし。

とまあ、こんな感じです。この辺を、科学的に考えてみたいと思ったのですが、力学も工学も、バイオメカニクスも、全く知識が足りていないので、断念したのでした。

まあ、東郷重位のエピソードなんかもありますけどね。でも、それを平均的な操法とは見られないかな、という気も。そこら辺、流派性も関わってくるので、そんなに単純では無いでしょうけど。

もちろん、碁盤まで両断して床まで達した、というのを鵜呑みにしちゃならん訳ですが。比較的近い時代の示現流の剣士のエピソードも、どこかにあったような。それも、肩から胸の辺りまで切った、という感じだったかと。トンボの構えから脱力を効かせて激烈な斬り込みを行えば、相当の斬撃にはなろうかと思います。ただそれでも、時代劇で出るような、綺麗にバッサリ剣を振り抜ける、とはならないかな。

※一応

だからフィクションは云々、という事じゃ無いです。実際の使い方からするとどう考えられるかな、というものなので。ただ、「現実にあり得そうな」ものを描写したいという目的があるならば、ここら辺の考察・考証は重要でしょうね。特に実写では難しいと思いますけれども。

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2009年4月 9日 (木)

不明確

疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記

解りにくい所があるので、いくつか質問します。

  • 「ウェブで見かける疑似科学批判」とは具体的にどのようなものを指すのか。
  • 「レッテルの帰属」とはどういう意味か。(特に「帰属」)
  • 「彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。」
    • 「志の高さ」とは何か。
    • 「いま」とはどのような範囲を指すか。
    • 「一般的な擬似科学批判」とはどのようなものか。

なるほど、江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張するとしたら、矜持を感じる。それを非難するつもりはない。しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか。

・「それでよいのか」とあるが、「それ」はそもそも当たっているのか。

臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。

見つけたら教えて下さい。私も見てみたいので。ただ、「科学のみが真理」などと馬鹿な物言いをする人間を見つけるのは、なかなか難儀とは思いますけれども。そもそも、常にアップデートされている、つまり変化していく(全くの別物に変容する訳では無い)知識の体系、およびそれにまつわる知的営為である科学について「真理」などと言える訳が無いので。科学のみが真理、と認識するのは、科学は完成された、と考えるに等しい。

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

ニセ科学批判は、

江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張

などというものではありません。寿司のアナロジーに乗っかると、江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する、ようなものです。※アナロジーなので、不正確な部分はあるかもですが

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2009年4月 6日 (月)

科学とフィクション

私は、フィクションにおける表現は、自由であるべきだと思っています。

だけれど、触れる人が、何がフィクションであるかを知っている、つまり判断出来る事が重要だとも考えています。

で、その知識は教育によって得られます。広く見れば、社会全体によってなされると考える事が出来るでしょうけれど、最も重要なのは、学校教育だと思います。

フィクションって、そこで描かれているあらゆるものがニセモノな訳じゃ無いですからね(当たり前だ)。いかにも尤もらしいものに関しては、部分的に正しいものとして捉えられたりする。それが正しいものとして流布されれば、ある程度大きな影響となりますよね。

フィクションだから大目に見ようよ、というのはご尤もです。しかし、フィクションといえど、誤解されそうなものがあれば、それを指摘するのも重要。それをもって作品全体を否定するのは考えものかも知れませんが、この部分は正確では無い、と見ていくのは大切ですよね。そういった指摘に対してただちに、野暮であるとか無粋であるとか、そういう風に言ってはよろしく無いと思うのであります。

私の立場は、フィクションで描かれているものはほぼ全て正確では無いと看做す、というものです。極端に言うと、我々が住む世界とは全く異なった世界の出来事として考える、というのかな。

気になる所があったら、ネットで調べるなり、詳しい人に聞くなりします。図書館で専門書を探したりね。必ずしも、その場で見抜くのでは無く、基本的に保留する、と言いますか。基本的な部分(小・中・高 で習うような事)は見抜ける能力を養って、知らない分野については保留する、という態度が重要だろうな、と。

自分は、すさまじくフィクションに親しんだ上で、科学にも興味を持ったので、多分メタに考える事が出来ている、と思っています。でもそれは、せいぜいここ5・6年の話ですね。それまでもかなり客観的ではあったと思うのですが、まだ足りなかった。

もちろん、色んな作品に触れるのもすごく大切、だと思います。様々なバリエーションがありますからね。それを分類して、これとこれはこう分けられる、これはあの作品に似てる、なんてメタな楽しみを自然に(いつの間にか、の意)身に着けていました。特に、マンガやゲームだと、同時並行的に楽しむ、というのが普通ですからね。スイッチを切り替えるように、別の世界観に頭を合わせる事が出来る訳です。

結局の所、色々な作品に触れつつ、どこが現実と異なっているかを見抜ける知識を得、よく知らない部分に関しては保留出来る姿勢を作り上げる、のが肝要なのかな、と思います。

中でも最も重要で基本的なのは、物理と化学の知識でしょうね。自然の振る舞いを客観的に記述する自然科学の基盤、なので。

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2009年4月 3日 (金)

脳科学

「脳科学」って語、誰がいつ頃使い出して広まったのでしょうね。

私は、脳科学という語より「神経科学」という語を先に知ったし(いや、正確には憶えていないのだけれど)、学術的にもそちらを使った方が良いのかな、と思うので(学際的な分野である事も含ませたいですし)、なるべくそちらを使うようにしているのですが(「脳科学」を使わない訳じゃ無いけど)、どうなのでしょう、専門家の間で「脳科学」という表現は、どういう風に捉えられているのだろうか。

大「脳」洋航海記 » Blog Archive » 「KY脳科学者が主人公のドラマ」?でvikingさんが、

そもそも、「脳科学者」(こう自称するのは茂木某だけなんですが・・・僕は「認知神経科学者」としか名乗るつもりはないので)

と書いておられるので、改めて考えたのでした。

これだけ脳科学という語が流布されたので、神経科学を専門とする学者が、他人に訊かれて「脳科学」をやっている、と説明するケースもあるのかも知れませんね。

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2009年4月 2日 (木)

恥の記録

先日のエントリーに関わる事。

大分前のお話。

それは、ホームシアターが出始めの頃。当時、6個のスピーカーから音が出るというのは、それはもう衝撃的で、初めて体験した時は、鳥肌が立ったものだ。

で、ある時友人宅で、映画を観てた。ホームシアターセットで。それで、ウーン、やはり5.1chはイイねー。ウーファーからの低音がクルねー。なんて言ってご満悦だった。

ふと、AVアンプを見てみた。

あれ……

ド ル ビ ー プ ロ ロ ジ ッ ク じ ゃ ん!

まっこと、先入観とは恐ろしきものよ。

体験すれば判るけど、ドルビーデジタル(の5.1ch)とプロロジックは、全然違う。でも、5.1chだと思ってたのが邪魔した訳だ。

人間の知覚と言うか認知なんて、そんなもの。

大体私、SACDと通常のCDの区別もつかなかったからね(最初聞いた時は、すげー、と思って友人にも言ったけど、よく考えればそれは、5.1chのを聞いたからだったのだ。2chのDSDのやつと較べたら、全然判らなかった)。←自慢げに言う事じゃ無い

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かがくきょー

「科学教」って、張りぼてみたいな言葉だよね。

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2009年4月 1日 (水)

脳 ト レ ド ラ マ

キムタク「土8」1話完結型“脳トレドラマ”(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース

脳トレがドラマの中で出てくるのかいな、と思ったら、ドラマで脳科学の知識が得られたりするのが「脳トレ」になる、的な意味か。解りにくい。

さて、

キムタク 1年ぶり連ドラはKY脳科学者/芸能・社会/デイリースポーツonline

「設定上でのウソはあっても、医学的なウソはつけない」と専門家からアドバイスを受け、

宣言しちゃいましたね。これ、専門的な部分はしっかりと考証して、描かれるものが科学的に合っているかを厳しく見られても構わない、という宣言ですからね。

やっぱ、モデルとしては、あの人やあの人が想定されてるんですかね。よく解りませんが。

脳画像診断で「活性化」してる部分を見て、そこから容疑者の心理状態を推測して、へへー、参りました、と言わせる安易な設定にはしてくれるなよ……と思いつつも、それ以外の設定が思いつかないのでした。大体、脳科学者が事件の解明に取り組む、って何だよ。

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2009年3月31日 (火)

問題(と言うか質問)

「缶ビールをそのまま飲むよりも、グラスに注いだ方が美味い」

という意見があった場合、それは科学的に実証出来るか。実証出来るとすれば、具体的にどのような方法によって(現象の定義、作業仮説の構成、実験計画のデザイン、等)確かめる事が可能か。

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良さそうな本

FSMさんのブログ(帰無仮説と「強い相関はない」の関係|ほたるいかの書きつけ←良エントリー。読みましょう)で紹介されていた本↓

確率・統計入門 Book 確率・統計入門

著者:小針 あき宏
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

私は未読なのですが、FSMさんの紹介を見ると、とても面白くて勉強になりそうな本、のようです。

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いきなり話は替わりますけど。

科学における統計の扱いに関して重要なのが、統計学的に得られた結果が、それぞれの分野において実際的にどういった意味を持つのかを、きちんと考えなくてはならない、という所ですね。よく、「実質科学的」に と言われたりします。工学や実験計画、あるいは品質管理方面では、「固有技術的」なんて言ったりしますよね。

統計解析というのは、ある現象を数量化して、それを統計学的に処理する事なので、それ自体が直接、実質科学的な論を証明したりする訳では無いんですよね。

そういうのを考えないと、「統計的に有意」だったから何々の仮説が証明された、的な短絡をしてしまう。

たとえば、サイコロの目を何十回か連続で当てて、それが有意水準○○%で有意だった、という結果があったとして、それをどう解釈するかは、色々考えられる訳ですね。サイコロの構成が偏っていたのか、意図的な仕掛けがあったのか、それとも予知能力があるのか。あるいは念動力があったのか。統計的な方法「だけ」では何も言えない。そこは心得ておきたい所です。

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2009年3月30日 (月)

「科学的に間違っている」

あぶすとらくつ: きびしくフルイにかけるからこそ良いモノが得られるという当たり前のこと

こちらのエントリーに触発されて。内容がかなりかぶりますが、少し角度を変えて見てみる、というのも意義のある事と思いますので。

まず、「科学的」とはどういう事か。これは、それだけで色々の議論が起こるようなテーマですが……おそらくある程度適切なものとして、統計学入門-第1章にある記述を借りたいと思います。すなわち、

 そもそも科学的研究というものは、一見したところ多種多様な現象から、その奥底に潜む普遍的な原理を帰納的に推理・洞察し、色々な現象を統一的に説明すると同時に、その原理から演繹的に導かれる現象を予測し、実験や観測によってそれを確認・修正しながら理論を確立していく作業です。

このようなものです。ポイントは、

  • 実験・観察・観測 から、帰納的に仮説や理論を構築する。
  • ある仮説や理論が適切であるかを、実験・観察・観測 によって得られたデータによって確認する。
  • (上とほとんど重なるが)ある仮説や理論から導かれた現象が実際に起こるか、を確かめる。つまり予測。
  • これらはサイクルを描き、あるいは行きつ戻りつ、をしながら、より確からしい理論を確立する。

などでしょうか。要するに、経験的に得られる(直接・間接的に観測可能な)データによって理論を構築・検証し、それを現象の予測や制御に役立てて、より良い理論を築き上げていくという営み。

これを踏まえるならば、ある主張なりが科学的に正しい/正しく無い とはつまり、

  • 実験や観察によって、成り立つ事が確認された→正しい
  • 実験や観察によって、成り立たない事が確認された→正しく無い(間違っている)

となるでしょう。この意味で、「科学的に間違っている」というのは、「言える」訳ですね。ただしそれは、「科学的に」言える。そして、「科学的」とはどういう事か、と言うと、観測されたデータによって理論の確からしさを確認する営み、である。

科学的に正しい、とは、常に蓋然的なものであり、近似的なものである訳ですね。人間の観測によって得られたデータによって自然の(取り敢えず自然科学に限定。生命科学や社会科学に広げても同様)在り方を推測して理論を作る(ここに引っかかるなら、「発見」でも良いと思います)のだから、全く自然の在り方と一致する、というのは考えにくい。もちろん、あり得ないとは言えないけれど、想像しにくい(そもそも、理論と自然の在り方が全く過不足無く一致する、とはどういう事か、等の哲学的問いが絡んでくる)。

と、こういう風に考えれば、「科学的に正しく無い(間違っている)」という言明も可能な訳ですね。何故ならば、もとより「科学的」という文脈に乗っかっているのだから。だから、「間違いの証明」は「可能」。ただし「科学的」には。方法的には統計学が絡んでくる。

それで、科学の方法についての説明において、「科学的に(あると)確かめられていない」ものを、取り敢えず「無いものと看做す」、という場合があります。「間違っていると看做す」、もあります。

これは、注意を要する表現なのですね。どういう事かと言うと、「無い」も「間違っている」も、「取り方(解釈の仕方)」によっては誤解を生む可能性がある。要するに、確かめられていないものを「無い」と言ってしまうのは、厳密には誤っている訳です。だけれども、そういう言い方をする。何故か。それが、「科学の文脈」に基づいた、つまり前提とした言明だから(つまり、「無いと看做す」と言っても、「無い事が証明された」と同義では無い事に、コンセンサスがある)。しかし、その文脈を共有しない人にとっては、そんな意味が込められている事を知る由も無いので、誤解する。

ですから、私自身は、確かめられていないものは無い(間違っている)と看做す、という言い方は、あまりしないよう心がけています。言う時は、このエントリーのように、そもそもどういう含意があるのか、を書きつつ説明する。そういう言い方がなされる場合もあるが、それは実は……という風に。

ハブハンさんも仰るように、ニセ科学は、あると確かめられていないものをあると言ってしまえばそう判断出来るものなので、「間違いと解った訳じゃ無いだろう」、というのは、ニセ科学と指摘する批判に対しての反論としては、全くはずれているのですね。有効な反論は唯一、「あるという証拠を示す」事。「間違いと解った訳じゃ無いだろう」という反論に対しては、「はい、その通り。で、あるという証拠は?」となるのですね。不存在が証明されていないからといって、存在が証明される訳では無い。

「ニセ科学」という概念を、「あり得ない事」のように誤解しているようなものも散見されますね。おそらく、「ニセ」の語感から、そのように想像するのでしょう。でも、単に「あり得ない」と言いたいのなら、敢えて「科学」を語に含む必要は無い訳です。「間違い」、「誤り」、「嘘」、「あり得ない」、等で良い。語の構成が「ニセ + 科学」で成っているのは、科学的に(ある/無い と)確かめられていないのに、(ある/無い と)確かめられたかのごとく装うものを指したいから。

そういった誤解は、

  • 科学の方法を知らない。
  • 「間違い」や「正しく無い」が文脈依存的(科学の作法的に)に用いられているにも拘らず、それを認識出来ていない。

などに基づいているのでしょう。後者に関して、説明する側も気をつける必要があると思います。

ちなみに、以前、こういうのも書いてみました(異様に煩雑ですが。一応参考として)⇒Interdisciplinary: メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か

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2009年3月25日 (水)

こころがまえ

 科学は,まだ本格的に生れてから数百年にしかならない学問です。科学によって説明できないことはみんな迷信だ,とわりきることこそ,本当は科学に対する迷信なのです。

 科学はまだこれからどんどん発展する学問です。そうでなかったらあなた方はがっかりするでしょう。昔の学者がみつけたことを教科書にして,それを覚えるだけが科学の勉強なら,これほどつまらない勉強はありません。科学は生きている学問です。あなた方の目の前におこるすべての現象に,はてな? と疑問と探求の心をむけてごらんなさい。そこに本当におもしろい学問としての科学があるのです。
米山正信 『化学のドレミファ 1 反応式がわかるまで』(P203)

昨日ご紹介した本からの引用です。本当は、きちんとストーリーの流れを追った上で読んだ方が良いのですが、名言なので、敢えて無粋な真似をしました。是非とも、直接本書に目を通してみて下さい。

先日ご紹介した、中谷宇吉郎博士の文とも通ずる所がありますね。いずれも、よく噛み締めたい名文です。

科学は何もかも解っている訳では無いし、何もかもが解る訳では無い。だから、その限界や方法をちゃんと弁えて使っていく必要があります。解っていない事を解っている、と言ってはいけないし、まだ確かめられていないものをあり得ない、と決め付けてしまってもいけない。もちろん、もう解っている事を、まだ解っていない、と言ってしまってもいけないのです。

ところで、中谷博士の師である寺田寅彦翁は、次のような事を言われたそうです。中谷博士の姿勢とともに書いてあります。

 中谷は、科学への姿勢として寺田から深い影響を受けた言葉を紹介している。
それは、
「ねえ君、不思議だと思いませんか」
という、ひと言である。自然を相手にしたとき、常に自分自身で驚きを感じなければならないという教えを、中谷はこの実にシンプルな言葉から学んだ。そして、もうひとつ、
「一番大切なことは、役に立つことだよ」
という言葉を、中谷は終生大切にしている。「役に立つ」というその科学観こそ、その後の中谷の研究を大きく方向づけるものに他ならなかった。
中谷宇吉郎への旅-雪のパラダイス:北海道人

自然を見て不思議だと思うこころ、そして、その仕組みを知りたいというこころ。科学の根本には、そのような姿勢があると思います。その事を大切にしたいものですね。

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで Book 化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

著者:米山 正信
販売元:黎明書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) Book 科学の方法 (岩波新書 青版 (313))

著者:中谷 宇吉郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年3月24日 (火)

ドレミファ

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで Book 化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

著者:米山 正信
販売元:黎明書房
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ああ……こんなすごい本があるとは思わなかった。

私は、「解りやすいテキスト」を希求しているけれど、この本は、その一つの理想形かも知れない。それほどに素晴らしい本。

なんでも、30年くらい前に出たロングセラーの本、だとか。

学生の頃にこの本に出会っていればな、と思った。知らなかった事が悔やまれる。

大人になってから勉強し直したい、という方、お子さんに、考えさせながら楽しく勉強出来る良い本を読んでもらいたい、と思っている方、また、お子さんと一緒に勉強してみたい、という方、等、色々な方にお勧めしたい本です。本当に、本当に良い本。

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2009年3月23日 (月)

万能などでは無い

科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) Book 科学の方法 (岩波新書 青版 (313))

著者:中谷 宇吉郎
販売元:岩波書店
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再読中。何度目だろう。

やはり、最高の本。不朽の名著です。

で、Interdisciplinary: 科学の限界で引用した部分を、再び採り上げましょう。ここは、何度出しても、過ぎるという事が無い。※最初の段落はP14、次の段落はP16・17より引用

 問題の種類によっては、もっと簡単な自然現象でも、科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく、科学が取り上げるには、場ちがいの問題なのである。自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。

 世の中にはよく、科学者というものは、船が沈んだり、洪水が起きてしまったり、何か事故があったあとに出てきて、あれは原因はこうだった、ああだったということを、後からいう人間であって、ほんとうにその現場にいたら、やはり同じことだろうという人がある。気象警報を無視したり、分りきった治水策を実施しなかったりするようなことは、科学以前の問題であって、ここでは触れないことにする。本質的な問題としては、そういう非難は、ある程度まであたっている。しかしそうかといって、ちっとも科学を卑下する必要はない。科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。

科学者は科学万能主義に陥っている、と言う人は、この部分を何遍も読みましょう。周りにそういう人がいたら、本書を貸してあげましょう。ブックオフで100円で買えます(これは喜ばしい事なのか、複雑だけど……買う側としてはありがたいですけれど)。

中谷博士は、50年も前にこういう事を書かれていたのですよね。しかも、「科学万能的なものの考え方」(P1)の風潮を懸念して。

実際、中谷博士のこの本は素晴らしいので、読むべきですね。科学万能主義云々と言う人には、取り敢えずこれを読んでから ものを言ってみませんか、と申し上げたいです。

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2009年3月19日 (木)

ヒューマノイド

最近話題になっている、産総研のヒューマノイドですが⇒産総研、女性型ヒューマノイドロボット「HRP-4C」を発表~ファッションショーにも登場予定

やはり注目すべきは、その重量でしょうか。あまり詳しくは無いですが、43kgというのは、かなり軽いのでは?

ハンド部には、大きさを人間サイズとするために、人差し指から小指までが1個のモータで4本同時に屈曲する構造を採用した。

ああ、やっぱり手も可動するみたいですね>A-WINGさん

人間が主観的に力を抜いた状態だと指は屈曲しているので、そのようにした方が、よりリアルに見えて、プレゼンテーション的に良かったのではないかな、と思いますが、どうなんでしょうね。

 「人間に近い形状を追求しつつ、気持ち悪くないデザインを追及した」という外観デザインにおいては、2種類のデザインを検討した。極力人間に近づけるものと、ロボットの胴体に首を載せるドール系のデザインである。前者ではリアルさを追求しても不気味な印象を与えてしまい、後者ではどうしてもおもちゃ的な印象を与えてしまう。そこで産総研ではリアル系とドール系の折衷案を採用した。メタリックなスーツはテクノロジーを強調し、違和感の解消を実現できたとしている。

ネット上の反応では、いわゆる「不気味の谷」という言葉が散見されますね。これまでのものからすると、大分「不気味さ」は軽減されているように、個人的には感じます。といっても、あくまで相対的な評価であって、画像や映像を見ると、やはり「気持ちの悪さ」というのは覚えますね。

どのような先行研究があるのかは知らないですが、どういう因子が「不気味さ」に関わっているのかを調べるのは面白そうです。

人間の動きに関する論理をおおまかに分類する事が出来るでしょうか。高岡英夫氏の身体意識論における概念、「ストラクチャ」、「モビリティ」、「クオリティ」が援用出来そうです。解りやすい言葉にすると、「形状」、「動き」、「質感」とでもなるかな。

以下、私の主観による評価。※不気味さを感じさせるのは何か、という考察なので、こういうロボットが開発された事についての批判的な評価では全くありません。て言うか、よくこれだけのものを作ったな、と驚嘆しているのであります

頭部の造形自体は、相当精巧に出来ていると思います。アングル・タイミングによっては、かなり「人間らしく」見える。たとえばこれ↓

Face_2
これは、いかにも人間ぽく見える部分を見計らって動画からキャプチャしたものですが、どうでしょう、かなり違和感が無い、と私は思います。考察すると、画像が不鮮明である事が、却って人間の肌の質感に近い感じを与えているのではないかな、と。リンク先に、とても鮮明な拡大画像がありますが、それは、鮮明であるがゆえに、実際の人間の肌との違いが際立つ、という事なのでしょう。ここら辺の、肌の質感の再現という所は、3DCG方面でも研究されているものだろうと思います。シリコンが素材との事ですが、コスト的にも、現状はそれが最良のものなのかも知れませんね。下手にリアルに再現しようとするのもよろしく無いのかも。

で、動きを実際に見てみると、やはり違和感がものすごい。もちろん、人間と較べて、という事で、このロボットがよく出来ている、というのは間違い無いと思いますが、それは措いといて。何ゆえ違和感があるか、というのをちょっと考えてみます。

まず、顔面が一部しか動いていない、という所。実際の人間の顔の解剖学的構造は、頭蓋骨の上に表情筋がへばりついているようになっていて、それが収縮して表情を作る、とういものですから、顔の一部が動けば、他の部分も微妙に動いていく訳ですね。で、このロボットは、8つのモーターで表情を作り出しているとの事。私が思うに、そのメカニズムの相違が、観察者に直感的に違和感を形成せしめているのだろうな、と。現状では、制御の面でも駆動のメカニズムの面でも、これくらいが限界なのでしょうね。素人考えでも、たとえ人工筋肉のような良い素材があったとしても、実際に表情を作っていく制御は難しそうです。

次に気がついたのは、「動作の重さ」ですね。モーター駆動であるがゆえに動作が等速度的である、という所が、そういう印象を与えているのでしょうか。これは全身の運動でも言えますが。試しに、表情のアップの動画を4倍速で再生したら、幾分リアルに見えたように思います(気のせいである可能性大)。等速度的で全身各部が同時に動かないのが、「機械的」な印象を与えるのやも知れません。これまた、人間的な動きを実現させようとすると制御が大変だ、という事なのでしょうけれども。

歩行運動については、膝の屈曲角度が大きく歩幅が非常に小さい、というのがポイントなのでしょうね。方向転換の部分は、よく出来ているなあ、と思いました。さすがに、人間がやるような一瞬の転換は難しそうですが。それと、腕のスイングが乏しい。腕をやたらに動かしたら、バランスを取らすのが困難なのでしょう

それと、これは3DCGのモデルでもよく見られるのですが、腕が若干後方に伸展されたまま静止している、というのがありますね。これ、何か理由があっての事なのでしょうか? 実際に何気無く立ってみれば解りますが、主観的に力を抜いて立ったら、腕は「垂れ下がる」のですね。リンク先の画像を見ると、(横から見て)肘が正中線よりかなり後方に位置していますが、これは、「努力」しないとならないと思います。普通は、歩きの途中の局面で、腕が振られた結果として現れる訳ですね。敢えて後方で静止させる必要は、構造的にも無いように感じますが、どうでしょうか。※ここら辺を踏まえて見ると、産総研:プレス・リリース 人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功←ここにある画像と動画(「動画:12秒」の動画)の方が、より「それらしく」感じるのではないでしょうか。ここの方向転換の動画は、腕がぷらんと振られていて、実にそれっぽい。1.3~1.5倍程度で再生してみると面白いです。

後は肩甲部の構造ですね。実際には、腕は肩甲骨に繋がっていて、肩甲骨は鎖骨で胸骨に繋がり、かなり自由に動けるので、腕振りの時には、ここら辺が丸ごと運動していく。尤もこれは、実現させようとするとあまりに複雑なので、オミットしている、という事なのでしょう。

「腕が長い」という意見が見られましたが、リンク先にもあるように、腕も長いし、手も大きいみたいですね。ぴんと指が伸びているので、尚更そういう印象があるのでしょうか。さらに、指に比して掌部分が長い、というのもあると思います。これまた3DCGでたまに見られて、違和感を覚える所ですよね。

どうでもいいですが、「顔のアップ。電源オフの状態のため口は少し開きぎみ 」の画像が、菅野美穂さんにしか見えないのでありました。

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2009年3月18日 (水)

1割?

<早大>学生の1割「周囲に大麻所持者」半数以上が入手可能(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

タイトルに、「学生の1割」とありますね。でも、記事を見てみると、

 調査は昨年12月~今年1月、全学部生と大学院生(計約5万3000人)を対象に実施。約4700人(8.8%)から回答を得た。周囲に違法薬物の所持・使用者が「いる」と答えたのは9.9%で、

こうあります。全学部生と大学院生を対象、となっているので、全数調査ですね。それで、回答割合が約9%と(相当低いですな)。その中で約10%が、「いる」と答えたのだから、結局、約470人程度が「いる」と答えた、という事です。それをもって、「学生の1割」とするのは、どう考えてもおかしいと思います。実際に「いる」と回答したのは、全学生中1%未満なのですし。全数調査を企図したので、結果的に集まった4700人の回答をそのままランダムサンプルと看做す訳にもいかないから、推定も単純には出来ない。

可能性としては、約470人が、特定の数十人程度の事を言っている、というのも考えられますよね。クスリなんかやってる人間は噂になるだろうし、「周囲」というのが友人関係を指すとも限らないから(これは、質問文を見ないと何とも言えませんけれど)、情報があれば「いる」と答える、というのは、考えられないでは無い。

と、こういう事を鑑みれば、やはり書き方に疑問が残る訳であります。

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decryption

前から思ってたんですが。

何で、「復号”化”」って言うんでしょう。

「暗号化」や「圧縮符号化」は解るんです。原情報と異なったものに変換する、という訳なので。でも、復号って、元に戻す事そのものですよね。なのに何で、「化」がつくのかなあって思うんですよ。たとえば「平文化」とかなら納得出来るんですけどね。

で、こんな話、とっくにされているのだろうな、と思ってちょっと調べたら、色々ありました。そりゃそうだよなあ。でも、字面の対称性を優先して「暗号化/復号化」とした、というのは(結城浩氏とか)、私には全然納得のいかないものであったりします。

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2009年3月17日 (火)

検定について補足

直前のエントリー(Interdisciplinary: ノート:心理学研究法(11) )の補足。統計的仮説検定の説明を。

まず、調べたい仮説を設定します。ここでは、「惑星ベジータにいるサイヤ人の尻尾の長さと戦闘力には相関関係がある」、とでもしましょうか。つまり、尻尾が長いほど戦闘力が高いか、尻尾が短いほど戦闘力が高い、というどちらかの関係があるというのを確かめたい。

この場合の目標母集団は、ある時点において惑星ベジータにいるサイヤ人、ですね。本当は、サイヤ人一般はそうなのか、というのを調べたいものだと思いますが、取り敢えずは、有限の集合として、このように設定しましょう。

さて、ここからサンプルを抽出する訳ですが、ここで、採り方が問題になります。ベジータ直属のエリート集団から採り出してきたとしても、惑星ベジータに住む人一般、という調べたい母集団の性質に一般化は出来ないという事です。

だから、本来、惑星ベジータに住む全員に番号を振って、そこから無作為に採り出してくる必要があります。実際は、そんな名簿がある社会があるのだろうか、とか、そういう問題が出てくる訳ですが、それを考えると話が複雑になって、標本調査論という専門的な領域の問題になるので、ここでは、全て一元管理されていて、台帳が存在するとしておきます。

さて、段取りは整いました。ここからは、実際に標本を抽出して相関係数を計算する、という流れです。

惑星ベジータの人口がどのくらいかは知りませんが、数万はいる事でしょう。そこから何人かを抽出して、相関係数を計算する訳ですね。

ここで、標本の抽出のされ方、を考えます。大きさ3の標本を採る、としましょうか。今は、母集団から大きさ3の標本をランダムに抽出するのですから、誰が選ばれるかは様々、となります。ベジータとナッパとブロリーが抽出される事もあれば、カカロットとラディッツとターレスが抽出される事もある(←突込んだら負け)。で、そのあり得る組み合わせでの相関係数を全て計算してグラフにすれば、標本相関係数の分布が描けます。これが、「標本分布(または標本抽出分布):sampling distribution」です。

これを踏まえて、検定の話です。

確かめたい仮説は、(以下、一部省略して書く)「尻尾の長さと戦闘力に相関関係がある」、でしたね。で、検定においては、それを調べるために、その仮説を否定する仮説を立てます。つまり、「尻尾の長さと戦闘力に相関関係が無い」という仮説。これを具体的に数学的に書くと、「尻尾の長さと戦闘力の母集団における相関係数(母相関係数)はゼロである」、となります。これを否定出来れば、元々確かめたい仮説が支持される、という寸法であります。そして、その否定したい仮説を、「帰無仮説」と呼ぶ訳です。

そして、その帰無仮説が正しいとした場合の母集団からサンプルを採り出して相関係数を計算して、その相関係数の分布を求める事が出来ます。母集団での相関係数がゼロであった場合の、標本相関係数の分布。標本統計量の分布を「標本分布」というのでしたね。で、帰無仮説が正しいとした場合の標本統計量の分布を特に、「帰無分布」と言います。要するに、帰無仮説が正しければ標本ではどういう値が出るか、という事。それは数学的に導けます。

で、実際に標本を抽出します。3とかではあまりにも小さいので、何十かにしましょう。当然、こういう検定の場合、普通は標本は一度採ります。つまり、何十人かを台帳からランダムに選んで、実際に尻尾の長さを測り、スカウターで戦闘力を測定する訳です。

そうすると、標本における相関係数が計算出来ますね。この相関係数は、標本統計量です。検定の場合は特に、「検定統計量」と呼びます。

先にも言った通り、全部を調べる事は出来ないので、一部を調べるしか無い訳です。ナッパやベジータが選ばれる場合もあれば、カカロットやブロリーが選ばれる場合もある。何通りもある訳ですね。だから、実際に得られた(実現値)相関係数は、何通りも選ばれる可能性のある相関係数の一つ、という事です。

上で、帰無仮説を立てました。そして、帰無仮説が正しい場合の、「標本相関係数の分布(帰無分布)」も数学的に導ける、と言いました。という事は、実際に得た標本から計算した相関係数が、その帰無分布のどこら辺に落ちるか、というのも解るのですね。

つまり、帰無仮説が正しいとしたら、実際に得た相関係数より極端な値が出る確率はこのくらいだ、というのを調べる事が出来る。母集団の相関係数がゼロの場合にこの標本が出るのはおかしい/おかしく無い と判断する訳です。

そして、その判断の基準を、「有意水準(危険率)」と呼ぶのです。それはあらかじめ決めておきます。で、実際に得られた統計量より極端な値をとる確率が有意水準より小さい場合、「帰無仮説が間違っているのだろう」と判断するのです(帰無仮説を棄却する)。これが、「有意」であるという事です。

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ノート:心理学研究法(11)

○第9章 サンプリングと統計的推測(南風原朝和)

§1 母集団とサンプル

▼目標母集団

量的調査によって仮説の検討を行う場合、その仮説が「どのような集団」において成り立つのかを考える。年齢や職業によらず一般的に成り立つのか、ある範囲の年齢や職業群において成り立つのか。←つまり、「研究結果をそこに一般化したい集団」:目標母集団(target population)

▼達成母集団

実際の研究は、目標母集団に属する全ての人を対象には出来ない→一部をサンプル標本)として選び研究する。

第6章での例、「ある大きな大学の新入生からランダムに選んだ100人の被験者」。←目標母集団を「日本の青年」とすると、このサンプルは、目標母集団から直接選ばれた事にはならない。目標母集団の部分集合たる「ある大きな大学の新入生」から選ばれたサンプル。実際にサンプルを選ぶ際に対象となる集団を、達成母集団(achieved population)という。

▼一般化の問題

目標母集団と達成母集団が異なる場合←サンプルで得られた結果をどこまで一般化出来るか、という問題がある。

  • 目標母集団:「60歳以上の女性」
  • サンプル:高齢者のためのスポーツ大会への参加者(短期間に大勢のデータが集められるから、などの理由)
  • →達成母集団:「60歳以上の女性の内、スポーツ大会への潜在的な参加者集団」
  • その母集団(ここでの達成母集団)は、目標母集団に較べて、身体的にも精神的にも健康度が高い事が予想される。
  • 従って、この標本調査で得られた結果を目標母集団に一般化する事には問題がある。

これらを考えて、過度の一般化を避けるよう心がける必要がある。

§2 サンプリングと統計的推測

▼サンプリングに伴う結果の変動

ある母集団からサンプルを選ぶ→実際にどういう人が選ばれるかによって、サンプルにおける結果は変化する。

本書では、100人の母集団から大きさ8のサンプルを採り出して相関係数を計算する、という例が出されている。そこでは、採られたサンプルによって、0.3程度も相関係数が異なる事があるのが示されている。つまり、100個の要素の中からランダム(無作為)に8個の要素(大きさ8のサンプル)を採り出して相関係数を計算するのを繰り返すとすると、その都度採り出されるサンプルは異なる訳だから、そこから算出される相関係数の値も異なる、というのを意味する。

大きさ100の母集団から大きさ8のサンプルを抽出して相関係数を計算するのを1万回繰り返して(つまり、標本の”数”が1万)ヒストグラムを描いた図が載っている。そこでは、かなり広く分布しており、母集団における相関係数から大きく離れた値もある程度の割合がある。これは、サンプルが小さいから誤差も大きくなるというのを意味する。

▼統計量の標本分布

平均や相関係数等の統計的指標に関して、「母集団における値」を母数(parameter)と呼ぶ。

対して、サンプルに依存して変動する値を統計量標本統計量)と呼ぶ。母数は、全数調査を行う場合等以外、通常は未知である。

サンプリングに伴う統計量の値の変動を示す分布を、その統計量の標本分布と呼ぶ。つまり、母集団から大きさ n のサンプルを抽出して算出される統計量の分布、という事。先の例で言うと、大きさ100の母集団から大きさ8の標本を抽出して計算した相関係数をヒストグラムに描いたものが、標本分布となる。母集団に色々の仮定をおけば、標本分布は数学的・理論的に導ける。

▼サンプリングのランダム性

統計量の標本分布を数学的に導く場合、「サンプルが母集団からランダム(無作為)」に選ばれる事が前提となる。

ランダムサンプリング:その母集団に含まれるどのメンバーが選ばれる可能性も等しく、さらに、一組のサンプルとしてどのようなメンバーの組が選ばれる可能性も等しくなるようなサンプリング。

母集団が、メンバーを特定出来るようなものであれば、ランダムサンプリングはそれほど難しく無い。しかし、母集団が非常に大きい場合等は、容易では無い。

現実の心理学研究――知り合いの複数の教師に依頼して、その人達が担任する学級の子ども達を被験者にする、というようなやり方がしばしば見られる→サンプリングはランダムとは言えず、そもそも母集団が何であるかすらはっきりしない。

次節以降で述べる統計的推測――ランダムサンプリングを前提として導かれた標本分布を基礎としたもの。従って、母集団からのランダムサンプリングがなされていない場合には、その方法は厳密には適用出来ない。しかし、現実の心理学研究では、ランダムサンプリングがなされていない場合も、統計的推測の方法が適用されている。

筆者(南風原氏)の考え:「実際のサンプルに合わせて母集団を限定する」作業が必要←サンプルの結果の無制限な一般化を防ぐ。

しかし、実際のサンプルがランダムサンプルで無いという事実は変わらない。これについては、

  • ランダムサンプルと看做して統計的推測の方法を利用する立場
  • それらの方法を全く利用しない立場

が考えられる。本書では前者の立場。

§3 相関係数に関する検定

▼統計的検定

心理学の研究では、サンプルで得られた相関係数等の統計量の値を解釈する時に、統計的検定を利用する事が多い。

例:相関係数に関する検定→「サンプルで得られた相関係数の値は、母集団における相関がゼロであるということと矛盾するほどに大きな値であるかどうか」という判断(無相関検定)。

つまり、研究では母集団の性質を知りたいが、実際には標本しか得られないので、標本で得られた値から母集団の性質を「推測」する必要があるという事。その場合に、母集団がこうであれば、標本ではこういう値が出るであろう、というのが数学的に導かれる(標本分布)のを利用する。つまり、それを逆に使い、「標本でこういう値が出たという事は、母集団はこうなっているだろう」と「推測」するという意味。今の例では、母集団において相関関係があるかを知りたい訳だから、「母集団において相関がゼロである」という仮説を立てて、それを調べるという事になる。

▼帰無仮説と棄却域

仮説:母集団における相関係数はゼロである。

この仮説が成り立っているとしたら、その母集団から抽出してきた標本から得られた統計量はどういう値をとるか、というのが数学的に導ける。そして、どうも、母集団の相関係数がゼロであるとすると、この標本統計量(本書では標本相関係数)が出る確率的は小さいようだ、だから、そもそも仮説:「母集団における相関係数はゼロである」という仮説が間違っているのだろう、と判断する。そうすれば、そもそも確かめたい仮説である所の、母集団において相関関係がある、というのを支持する事が出来る。ここで、最初に立てた仮説を、帰無仮説(null hypothesis)と呼び、帰無仮説が正しいとした場合(帰無仮説のもとで)の標本統計量の分布(ここでは標本相関係数の分布)を帰無分布と言う。

つまり、実際に得た標本から計算した統計量よりも極端な値が出現する確率が小さい場合、それは母集団に関する最初の仮説(帰無仮説)が間違っているからだと判断する、という事。そして、その「小さい確率」の基準を有意水準と言い、そこに入れば棄却するという領域を、棄却域と呼ぶ。棄却域に入った場合、帰無仮説を棄却(reject)する。その事を有意である、と言う。

▼有意となる相関係数の値とサンプルサイズ

サンプルサイズが小さい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定せず、母集団における値(これは、母集団における定数、つまり母数)から離れる可能性も大きい。

サンプルサイズが大きい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定し、標本分布の広がりも小さくなる。

母集団相関係数がゼロ、という場合の標本分布(帰無分布)の広がりは、サンプルサイズが大きくなるほど、ゼロの周りに集中し(つまり、標本を抽出して相関係数を計算すれば、ゼロに近い値をとる確率が大きい)、広がりも小さくなる。

つまり、サンプルが小さい場合は、標本での相関係数がかなり大きくならないと有意にはならないし、サンプルサイズが大きいと、それほど標本での相関係数が大きく無くとも、有意になる、という事。

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以下、推定、信頼区間の計算、信頼区間の大きさを一定にして例数設計をする、という説明がありますが、簡潔過ぎて、まとめても訳が解らないと思うので、省略します。多分、上の検定の説明も、不案内な人は混乱必至でしょう。

不明な所があれば、コメントを頂ければ。可能な限り説明しますし、私の手に負えない部分は、手助けして下さる方がいらっしゃるかも…。統計の具体的方法について知らなくても、「有意」等の概念に関しては関心がある、という場合もあると思いますので。

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2009年3月16日 (月)

音楽を「聞かせる」

はてブ界隈で話題になっている、そばで音楽を鳴らしたら農作物がよく育つ、とか、○○が美味しくなる、という説を、どう評価するか、という問題。

これは、「メカニズムの想定」いかんによる、と考えるべきだと思います。

たとえば、植物が音声を知覚して云々、という生理・心理学的メカニズムがあるものと看做して、「音楽を植物に”聞かせたら”」などと言ってしまっては、それは明らかにアウトでしょうね。文字通り、「植物が”聞く”」のを想定している。

対して、「そばで音楽を鳴らしていたら」というものだったら、それは「あり得る」話として見る事は、一応可能。メカニズムとしては、音楽を聴いた人間がリラックスして良好な状態になり、結果的に植物の育て方に影響を及ぼす、というもの等。いずれにしろ、音楽を聞かせるという変数と、植物や動物の育ち方や味などの変数との関連を見ていって実証しなくてはならない。もちろんこれは、人間の心理状態という変数が干渉しているの可能性がある訳だから、そこら辺をきちんと操作して実験デザインを組む必要がある。

そして、特に心理状態には関係無く、音楽の種類という因子が効果を及ぼしていると判明した場合に初めて、音楽そのものが影響を与える、という科学的命題が説得力を持つ事となるでしょう。そうで無くて、心理状態が大きく関わるのだとすれば、何も音楽で無くても良い訳で。あるいは、「リラックス出来る好きな音楽」であれば良い、とも考えられます。

で、どうやら音楽そのものが影響を与えているようだぞ、と判ったら、それから、音楽の何が一体影響を与えるのか、というメカニズムの追究にも向かっていく。もちろん、アプローチとしては、同時に両面的に行っても良い訳です。

取り敢えずは、このどちらを想定しているのかを見ていくのが、問題の整理に役立つのではないかと思います。

それから、もうちょっと考えてみると、「”音楽”を聞かせる」とはなんぞや、という疑問も出てきますですね。主張によっては、「クラシックを」とか「モーツァルトを」聞かせる、なんてのがあります。で、音楽の一ジャンルを採り上げて、それが良い影響を与える、と言っている訳で、それはどうなんだろう、と。クラシックやモーツァルトの音楽に通底する物理的な因子があるのかいな、と思うんですよね。なぜメタルで無くてクラシックなのか、なぜクラシックの中でもモーツァルトなのか、とね。

それで、筋の悪い人は、その通底するものとして、「波動」などを挙げるんですよね。ニセ科学まっしぐら、と言うか。本当は、そういう事を言う前に踏み留まらないといけないのですが。

まとめると、「音楽を聞かせたらよく育つ(美味しく育つ・長持ちする、等々)」という命題自体、皆が同じように解釈する訳では無いよ、という話です。きちんと定義せず共通了解を得ないままにしておくと、議論が混乱する可能性がありますね。そもそも理論的に何を想定するか、とか、作業仮説をどう設定するか、とか。それから、実験をデザインして、それが適切かを吟味する。

こういうのは、ブラインドテスト的な実験は難しそうです。どういうやり方があるでしょうか。たとえば、いくつかのブロックを2グループに分けて、それに音楽を聞かせ、農家には、何をどれに聞かせるか教えない、というやり方があるかな。皆が寝静まった夜(何か歌の歌詞みたい…)に研究者が聞かせにいく、と。そうすれば、どちらを聞かせたかの情報を知る事による影響を無作為化出来るかも。

ここら辺を総合的に鑑みるならば、私としては、ベネッセの書き方は、かなり慎重さに欠くと思います。で、城戸氏の言い方に関しては、これはよく解らない。エントリーを見て、娘さんの教育にはあまり良く無い、もっと言い方があったのでは、という意見も見られましたけど、そこまで言える程の情報も無いでしょう。後でどんなフォローがあったか知らないし。自分はああいう言い方はしないだろう、というのはありますけど、そのくらいです。

書かれた事が水伝と同レベルであったかと言えば、全く同じようなものとまでは言えないかな、という感じですね。ただ、危ういものではあるでしょう。灰色っぽい。

参照:

大学教授のぶっちゃけ話: トンデモ本

ベネッセのトンデモ本:回答編 - Skepticism is beautiful

余談。

城戸氏が血液型性格判断に肯定的だ、というのも話題になっています。こちらは、専門家でも、知らない事についてはおかしな話をする場合がある、というケースと見られますね。

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しいけんす

マンガでわかるシーケンス制御 Book マンガでわかるシーケンス制御

著者:藤瀧 和弘,高山 ヤマ,トレンドプロ
販売元:オーム社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

偶然図書館で見つけたので、読んでみました。

結構良い出来なのではないかと。内容としては、ごく初級レベルのようですが、全然知識が無い人にとっては解りやすいものだと思います。

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2009年3月13日 (金)

良いエントリー。フォルダ開放。自分の話

とてもいい記事だから、じっくり読んでいってね!!!⇒「血液型性格判断」批判 前編:ニセ科学批判の練習問題  - みつどん曇天日記

ちょうどいい機会なので、私の血液型性格判断関連サイトフォルダを開放。あまり知られていないサイトもあると思います。※必ずしも、内容が信頼出来て適切、というものではありませんので、よろしく

中猫さんの所から、ちょっと引用してみます。血液型性格判断のこと再び - 油小路ニュー中猫屋

 ABO式血液型によって人々の性格を分類し、判断の基準にしようという試みを批判する者は多いのです。しかしながら、その批判のなかには「駄目な」批判が含まれています。「たった四つの型に人間を分類できない」というのがそれです。四つもあれば十分に分類できるからなのです。ある分類の基準を決めさえすれば、比較的少数のカテゴリーを想定して、そのうちのどのカテゴリーにその人の性格であるとか行動パターンであるとかが含まれるのかを検討すること自体は、それほど不合理なことではないのです。「人間が四種類に分けられてたまるか、みんなひとりひとり違うんだ」のような意見は、妄信的な個性崇拝のあらわれでしょう。

私はこちらを読んでいたのですね。で、kikulogも読んだ。そして、きくちさん経由で菊池聡氏の書かれたものも読んだ。要するに、色々な方の影響がある訳で、それまでは、自分自身がダメな批判をしていたんですね。友人に対して血液型性格判断を否定する意見を言った時も、とにかく無いんだよ、的な物言いをしましたし。

そういう経験もあってか、私は、筋が悪い批判をしていたりするのを見て、ただちに強く批判したりしないんですね。必ず、「自分もしでかしている可能性がある」と考える。尤も、批判の態度というのは、対象のものの言い方や、書いた内容によって変わってはくる訳ですけれども。

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2009年3月11日 (水)

ミニマムエッセンス

ミニマムエッセンス統計学 Book ミニマムエッセンス統計学

著者:三土 修平
販売元:日本評論社
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これは大変良い本。とても丁寧に書かれています。入門書に、というのは、若干ハードルが高いかも知れないけれども、整理したり、何故こういう考えをするのか、という所をおさらいするのにいいですね。

サンプルサイズ普及委員会的には……「標本」とはどういう概念か、について、私が今まで読んだ本の中で、最も分量を割いて詳しく説明されています。おお、と思いました。

「標本(sample)」というのは、具体的に考えると、虫ピンで蝶が留められているケース全体を指す、とすると解りやすいでしょうか。それで、中に収められている蝶一頭が、要素あるいは個体。そして、個体数が、標本の「大きさ」。だから、蝶20頭収納のケースが1つと、40頭のケースが1つあれば、標本の数は2で、標本の大きさはそれぞれ、20と40になる訳ですな。

三土 氏は、他にも統計学の本をいくつか出されているようなので、そちらも読んでみたいですね。

Book 数学の要らない因子分析入門

著者:三土 修平
販売元:日本評論社
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2009年3月10日 (火)

勉強の機会

田部勝也さんへレス書いてたら長くなったので、エントリーに。よく書く「勉強」シリーズ。個人の経験に基づいた考えに溢れています。

※昨日書いた事(「実証」や「実験」について知っているのが望ましい、という話)について、いつそういうのを勉強するか、という話題です。

・望ましいのは学校(時間的に余裕がある。先生という専門家がいる)

・それが適わなかった人は、本やWEB

となるかと思います。私はものすごく後者ですね。

と言いますか、一応この国では、ある程度は、誰でもいつでもどこでも勉強は出来なくも無い、という状況は保てているかな、と。勉強が出来ないという場合、「機会」よりも、「心理社会的嫌悪感」が効いてきそうです。もちろん、「時間」が大きな障壁になる、という場合もあるでしょう。

学校教育という最高の機を逃したら、後は、ネットのやり取り、図書館で本を読む、詳しい友達に聞く、夜間・通信教育(通信講座・放送大学等)、セミナー(QCや実験計画のやつは、企業研修なんかで結構ありそうな感じです)。

ものっすごく個人的な事を書きますが、私は実は、「学校で教えてくれない○○」というのをキャッチフレーズにするのって、かなり嫌いだったり。実は学校ではめちゃくちゃ大事な事やってたのに、見もしなかったんだよね、というのが私の実体験に基づいた感想と言いますか。←私がいかに「勉強嫌い」だったかは、このブログに鬱陶しいほど書いてますね…。

後、実験に関しては、確立された知識体系における現象が成り立つか確認するというデモンストレーション的なものが主流なのだと感じます。誤差をきちんと取り扱うデザインを学ぶのは、大学以上が一般的ですよね。だから、

 ・実験計画
 ・社会調査
 ・疫学

辺りは高校までに考え方を教えるのがいいんじゃないかと思っています(教科に組み込むというかたちででも)。

専門知識と言っても、高度のレベルで無い限り、導入から超絶難しいという事もそんなに無いでしょうから、詳しい友達に訊いて楽しく趣味的にやる、というのでいいと思うんですね。RPGの攻略を突き詰めるのと本質的な所では繋がってると思います。

問題は、そういうのを堅苦しい「勉強」と捉え過ぎて遠慮したり構えたり、という事かな、と。(勉強は、「難しい」からやらないと言うより、「嫌い」だからやらないケースが多くある、というのが持論です。もちろんレベルにもよりますけど)

好きなものを徹底的に突き詰める、というのも良いと思います。それに関連するものもどんどん調べる。そうすると、大概の物事は底の方でなんらかの関連を持っているので、あらゆるものが繋がって、勉強していく事そのものが楽しくなってくる訳ですね。そこまで行ければ理想。でもそれがスタートライン。

もちろん、「いつ身に着けるべきか」、という問題だと、早い方が望ましい、というのは一般的に言えるのですが、それと共に、社会に浸透させる、のも重要ですよね。要するに、「知らない大人達」が沢山いるのだから、その人達も皆勉強しましょう、という。※私は「勉強」を、滅多にネガティブな意味で使いません

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このブログを見て下さい。コメント欄で、親切で知識豊かな皆さんが、色々教えて下さっています。これってすごい事ですよ。時間的にも空間的にも、20年前には絶対不可能な事だった訳で、利用しない手は無いですね。

後、『学習科学とテクノロジ』という本が興味深いので、オススメね。

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2009年3月 8日 (日)

身に着けたい

私は、ニセ科学に対して耐性をつけるにはこうあるべきだ、といった事はほとんど書いた事が無いのですが、それは、そもそもニセ科学というのはバリエーションが豊富で多分野にわたっており、しかも、誰が・どこで 言ったか、等の心理社会的バイアスが大きく働くから、一般的にどういう知識を持っておくべきか、というのを示すのは難しい、という考えからです。

しかしそれでも、こういう所について押さえておけば、ある程度は防御力を高める事が出来るのでは、という考えは、少しは持っています。それをちょっと書いてみます。

○科学における「実証」のプロセスの把握

科学において「実証」されるとはどういう意味か。どのような手順を踏まなければならないのか、という部分。具体的には(ある程度単純化)、論文執筆→査読→採択→他の科学者による追試→科学的知識として認められる というプロセス。土俵に上がろうとしない(論文を出さない等)ものは、そもそも相手にしない。仮説を確かめたい者が立証の責任を負い(立証責任)、杜撰な研究は篩い落とされる(査読)というシステム。篩い切れなかったものは、追試の状況によって判断される。

○「実験(experiment)」に関する、ある程度の知識

ビンを一個ずつ用意してそれに文字を書いた紙を貼り、その経過を見て結論めいたものを出し満足する、というケースが見られます。それは、「実験」というものについて、認識が素朴であると言えます。

ちょっと懐疑の力を働かせるならば、一個や二個どうこうしたからといって、それは「偶然」なのではないか、と認識するのは可能です。そうすると今度は、じゃあ「偶然じゃ無い」と言えるにはどうすれば良いのか、と考えが進む。「他の要因が働いている」、という疑問も出るかも知れません。その場合は、「他の要因の影響を取り除いたりするにはどうするか」、と考える事も出来るでしょう。

そして、そこら辺に関しては、既に偉大な先人達が考察し、「実験計画法(DE:Design of Experiments)」として確立されています。

○確率・統計の知識

上の実験についての部分とも関わります。

実験において、ある要因がどれくらい効いているか確かめたいと着目し、その因子を変化させながら結果を見ていく訳ですが、では、その因子の効果をどのように定量的・客観的に評価するか、偶然で無く確かにそれが効いていると言えるには、どういう実験をデザインし、データをどう解析していけば良いのか、という視点が重要です(実験計画法の問題意識)。そしてそれには、確率論・統計学の知識が必要です。

と言っても、何も統計学の複雑な理論を理解するべきだ、という無理な話をしているのでは無くて、一見意味があるような結果が出たように思えても、実はこれは偶然の産物なのでは、と一旦保留出来る、そんな姿勢を養えるくらいの知識があれば、それで充分だと思います。

これは重要な所だと思いますが、私達の大部分は、確率の初歩は習っています。そして、おそらく(あくまでおそらく)大部分は、その知識を忘れています。

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これは、よく私が書く事ですけれど、ニセ科学かどうかの判断においては、「プロセス」を踏んだか、というのが重要なポイントとして挙げられます。つまり、科学の研究で踏まなくてはならない手順をきちんと経て主張されているか、という部分。ですから、そのプロセスについて知っておく、というのは大事。そして、その手続きに使われる「道具」である所の「実験」、あるいは実験法の理論的基盤となる確率・統計の初歩、を知るのが肝要だと言えるでしょう。

何度も書きますが、ニセ科学を見抜くためにはこうすべきだ、と言うのは、なかなか難しい。ただ、姿勢として、「目新しい話は取り敢えず保留する」のがいいのかな、と。特に、自分が全く知識を持っていない分野の場合は、無視しても良いと思います。基本的にはね(その「目新しさ」が、「人の生き死に」に直結するような場合があるから、ニセ科学問題は難しい)。そして、出来る事なら、上に挙げたようなポイントを踏まえて、「実証されているか」どうかを意識しつつ見る、のが望ましい。

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2009年3月 7日 (土)

社会調査

社会調査ゼミナール Book 社会調査ゼミナール

著者:新 睦人
販売元:有斐閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは良き本。社会調査に関心のある人にとって、参照する価値のある著作ではないかと思います。

ただし、読みやすいと言うか、簡単な本では無いかな。少なくとも入門書という位置づけでは無いだろうと感じます。

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ここから、サンプルサイズ普及委員会的な。

 内閣支持率調査などの場合,母集団は日本人有権者およそ1億人であり,抽出された1000から3000人が標本である。この場合の1億人のような数字を母集団の大きさ(または規模)と呼び,通常はNで表す。1000人や3000人など,抽出された標本に含まれる人数のことは標本の大きさ(または規模,sample size)と呼び,n で表記する。日本ではこの n を標本数,サンプル数と呼ぶ慣習があるが,統計学的には標本の大きさと標本の数はまったく別のものを指す重要概念であり,標本の大きさのことを標本数と呼ぶのは限りなく間違いに近い(木村 2006 : 71 頁)。個人の数のような,標本に含まれる要素・基本単位(element, elementary unit)の数を指すときには,ケース数(the number of cases)や回答者数(the number of respondents)などの単語を用いるほうが誤解がない。英語では sample person, sample unit などの言葉が使われることもあるが,あくまで抽出された基本単位全体で1つの標本(a sample of size n = 1,000, etc.)である。
新・盛山(編)『社会調査ゼミナール』(P94)より引用。著者は杉野勇 ※引用者註:引用部の「a」の強調は、原典では傍点付きだったのを強調表示に替えたもの

おお、これは、サンプルサイズとサンプル数の違いがきちんと書かれていて、いいね。この後の部分も、ちゃんとこの用法が踏まえられて書かれています。

しかーし。

 たしかに標本調査は,ある程度の量のサンプル数を必要とする。また,事例調査に比べると,対象者の数はふつうは多いだろう。けれども,中には対象者の数が200人を超える事例調査があり,それよりも対象者の数の少ない標本調査もある。サンプル数の量としての大小を標本調査の第1の特質から導かれる派生的な特質と考えておいたほうがよい。(P168)より引用 著者は盛岡清志

 ところで,結果を統計量で表現し,また正確な統計的検定を行うには,ある程度のサンプル数が必要となる。調査対象者数(サンプル数)が少なく,したがって回答者数も少ない場合,回答者の中で極端な反応をする者がごく少数いても,全体の結果がそれにひきずられやすいことは容易に想像できる。(P169)より引用 著者は盛岡清志

えー。「サンプル数」を、「サンプルサイズ」の意味で使ってるじゃーん。

こういうのって、しばしば見られますですね。つまり、複数著者の本において、用語の統一がはかれていない。この場合、「サンプル数」をサンプルに含まれる要素の数の意味で使ってはいけませんよ、と書かれているにも拘らず、後の方で、思いっきりその誤りをしてしまってる訳で。読む側としては、読みやすいものでは無いです。サンプルサイズ関連では、同じケースを何度も見た事があります。「重要概念」と書いてあるくらいなのだから、もうちょっと何とかして欲しかったですね。

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2009年3月 5日 (木)

バイクで脳がっ

オートバイ運転で脳の機能向上、ストレス軽減も――川島教授とヤマハ発の研究 - ITmedia News

某ooh氏や某-WING氏が目をつけそうなネタであります。

さて、この研究、どう見るべきか。

もちろん、記事だけからは、情報不足で、あまり適当な事は言えませんが……

オートバイを運転する生活習慣が脳に与える影響も調べた。

この実験、ちょっと気になりますですね。バイクに乗る習慣が無い人を無作為に割り付けて、というものみたいですが、何もしない群(統制群もしくは対照群)と、バイクを通勤等で使う群(処遇群)を比較したって事ですよね。

これって、素朴に、慣れないものをやる事そのものが効果を及ぼしたのでは、なんて疑問が出てきますですね。対照群として、他のものをやらせるグループとの比較もした方が良かったのでは、と。

効果の違いの大きさに関しては、この記述だけからは何とも言えないですね。「向上」って言っても、それはどのくらいなのかなー、と思ったりしないでも無いです。

リンク先に、発表に使われたスライドの画像がありますが、その中に、

統計的に有意に活性化していた

って書いてますが、これってよく考えると、なんかものすごい表現じゃありません? いやまあ、間違っている、と言うほどでは無いのかも知れませんけれど…。

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中心極限定理の「中心」とは

統計学でものすごく重要な概念に、「中心極限定理」というものがあります。

ところで、この定理の「中心」って、何の事だかご存知ですか? 私は深く考えた事もありませんでした。

それで、最近、

統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所 Book 統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所

著者:永田 靖
販売元:日科技連出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本を再読した所、その事について書かれていました。以下引用。

 中心極限定理は”the central limit theorem”の訳である.「”central”は”fundamental”の意味と理解するべきだ」と The History of Statistics (S. M. Stigler, The Belknap Press of Harvard University Press) に述べられている.つまり,本来の意味は”基本的な極限定理”ということであり,”中心”という言葉に定理の内容を表す意味はないようである.

私は、なんとなく、中心という言葉は定理の内容に関わっているものと思っていましたので、これを読んで、へー、となったのでありました。※再読なのに何故今回そう思った、という突っ込みは無しの方向で

つまりこれって、言い換えると、「極限定理の内、中心的なもの」、「中心的な極限定理」といった意味って事ですよね? 「中心極限定理」とすると、いかにも数学的な内容と関わっているように見えますですね。

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2009年3月 3日 (火)

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あるニセ科学批判者の悩み - Skepticism is beautiful

エントリーの内容に同意します。

そして、コメント欄が大変興味深い。引用します。※以下、引用は全て原文ママ

以前私が自分のブログで「ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?」というエントリを書いたときに、lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持ったので、このエントリは正直に言って意外でした。

これは、wackyhopeさんの書かれたものです(wackyhope  2009/03/02 22:34)。wackyhopeさんと言えば、ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?|Beauty Science, Beauty Marketing, and Beauty Communication. -美容・化粧の科学とマーケティングと。という良エントリーを上げられた方で、上のコメントも、そのエントリーに関して述べられています。

で、lets_skepticさんの所でのコメントが興味深いと思ったのは何故かと言いますと……。

私が知る限り、lets_skepticさんは、ニセ科学を批判する方の中でも、最も穏当で丁寧な批判をされる方のお一人である、と考えています。そのlets_skepticさんが、「相当委縮した。」とwackyhopeさんに言わしめるような物言いをしたというのは、大変意外と言いますか、えっ、と感じたのでありました。

と、ここで、lets_skepticさんがwackyhopeさんのブログに書かれたコメントを引用してみましょう(lets_skeptic 2009-02-23 14:06:23)。

 というわけで、今こそwackyhopeさんのような問題意識を持った人が進んで活動を行うといいんじゃないでしょうか?お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。

この部分を読んで、wackyhopeさんは、

lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持った

との事なのですね(lets_skepticさんのブログより再度引用。途中でコメントを切ってるので、元コメントもご参照下さい)。

それで、改めて読んでみますと、もしかすると、wackyhopeさんはlets_skepticさんのコメントを若干読み違えたのではないか、と思うのです。

もう一回、件のlets_skepticさんのコメントを引用してみます。

お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。

私はこれは、専門家では無いから、充分な知識を持っていないから、として過度に躊躇せず、あるいは萎縮せずに、ニセ科学批判の活動をされてはいかがだろうか、という意見もしくはアドバイスである、と読んだのです。と言いますか、lets_skepticさんの普段の言動を鑑みれば(敢えて書くと、「バイアスをかければ」)、そうとしか読めないのでした。つまり、「後押し」です。「退路を断つ」、では無く。ニセ科学批判はややこしいように見えるかも知れないけれど、そんなに構える事無く、真摯で丁寧にやっていけば良いのではないか、と。もっと深読みすると(し過ぎだと思うけど)、バックアップは惜しまない、というメッセージも入っているかな、なんて。

私の読解が適切かは解りません。しかし、lets_skepticさんの書くものを愛読し、やり取りを何度もしている経験から、このような読み方も出来るのではないか、というのを書いてみようと思いました。これははっきり、「擁護」です。私がニセ科学批判で重要だと思っているのは、フォローする事、だと考えています。当然それは、思ってもいないだろう事を後付けにして取り繕うのでは無くて、これはこういう意味なのでは、と解釈し、文脈を補ってフォローしていく、という事。それはとても大切です。文の解釈というのは、書き手に関する知識にも依存するから、その読み方は書き手の真意と違っているかも知れませんよ、というのを説明していく。外にいる者が補ってあげる。

もちろん、その読解自体が誤っている可能性もあるから、そこは指摘してもらう。特にWEBでのやり取りは、その辺が柔軟に出来るので、積極的にやっていきたいものです。

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ちなみに私は、wackyhopeさんのエントリーとおそらく関連するものとして、このような記事を上げました⇒Interdisciplinary: 万能包丁

これは、wackyhopeさんのブログのコメント欄でwd0さん(かも ひろやすさん)が書いておられる「銀の弾丸は存在しない」という部分と、共通すると思います。※「万能包丁」は、文字通り、「何の素材にでも使える包丁」、とでもしておいて頂ければ

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2009年3月 2日 (月)

ニセ科学批判の効果についてとか色々

この所、特にはてな界隈で、ニセ科学批判と、それに対する批判についての議論が、かまびすしい(別にネガティブな意味合いではありません)ですね。

さて、今日こちらのエントリーを拝読いたしました⇒科学の名のもとの邪悪/およびニセ科学批判者の罠 - touhou_huhaiの日記

※touhou_huhaiさんの記事を参照していますが、当エントリーは、touhou_huhaiさんに向けて書いたエントリー、という訳では無いので、よろしくお願いします。ヒントにして整理して書いてみた、と取って頂ければ。

私は、関連のエントリーは一通り読んでいますが、こちらのエントリーを読んで、少し思う所がありましたので、書いてみます。既出の論点もあるでしょうけれど、自身の思考の整理の面もありますので、ご容赦下さい。

○「ニセ科学を批判する事」と、「現状のニセ科学批判活動に効果があるか否か」は異なる。

まず、「ニセ科学」の概念のおさらいです。ニセ科学とは、科学で無いにも拘らず、科学を装っている(意図的か否かは問わない)ものです。

そして、それを批判する、つまりニセ科学批判とは、科学で無いにも拘らず科学を装っているものを批判する、となります。

ここで、「ニセ科学批判は是か非か」という論点が現れます。つまり、そもそも科学を装っているものを批判して良いのかどうか、という見方。

この点に関しては、私は、科学で無いのに科学であるかのように情報が流布されているので、それを批判するのは当然だ、という考えです。少なくとも、「科学で無いのに科学であるかのように看做されている」ものなので、それは違う、というのは認められるべきだ、と。天羽さんがよく出されて私も援用する、ニセブランド品の喩えが解りやすいかと思います。

※ニセ科学という概念の立て方は適切か、などには触れません。議論が広がり過ぎるので

次に、「現状のニセ科学批判活動」。

これは、近年なされている、ニセ科学に対する批判の活動の仕方に着目する、と考える事が出来ますよね。要するに、「どのように」という観点。ニセ科学に肯定的な言説に対して、いかにして、それがニセ科学であるかを指摘するか、あるいは、ニセ科学を主唱する人に対してどう批判していくか。

まず、ニセ科学批判を批判する方々には、そのどちらを批判しているか、を明らかにして頂きたい、というのがあります。その方が、議論がごちゃごちゃになりにくいと考えます。

前者の観点、つまり、ニセ科学を批判する事そのものを批判する、という方もおられます。見方は色々です。ニセ科学などと判定するのは可能なのか、とか、どんな事を主張しようが自由ではないか、とか。極度に物事を相対化してしまう方もおられます。

後者の観点は要するに、「そういう批判の仕方で上手くいくの?」という見方ですよね。はっきり言ってこれは、ものすごく重要な部分だと思います。ただ、難しいと言うか、非常に複雑でもある。

前者と後者を混ぜこぜにしてしまわないようにしたいものです。たとえば、今のニセ科学批判の活動に効果があるかは判らないから、ニセ科学を批判する事そのものまで否定的に見る、等ですね。ニセ科学を批判するのは良いが、現状のやり方では……という風に主張するのかそうで無いのか。そこら辺をきっちり整理して論じて頂きたい、と思っています。

さて、ここからは、この論点の切り分けが出来たと仮定し、ニセ科学を批判するのは良いが、現状の批判の仕方が適切かどうかは……という観点から物事を見る、というのを前提して進めます。

○ニセ科学批判には効果があるのか

発端と言いますか、議論のきっかけ的なエントリーでは、こういう疑問が提出されていた訳ですね。ニセ科学を(科学的事実であると)信ずる人に、それが「ニセ科学」であると解らせる、という目的はどの程度達成されているか、という視点。

○「効果」とは何か?

上と重なりますが、そもそも、「ニセ科学批判の効果」とは何か。いかに定義し、どう数量化するか。ニセ科学批判の目的は、最も一般的には、ニセ科学をニセ科学だと理解させる(事に成功する)、とでもなるでしょうか。言い方を換えると、「科学で無いのに科学を装っているものを”科学的事実”だと思い込んでいる人に、それが”科学を装ったもの”だと”解らせる”」。それと、科学を装った科学で無いものが存在するという事実そのものを知らしめる。そして、それを数量化して実態を把握する。

touhou_huhaiさんは、案として、このように書いておられます。

どのような証明が可能だろうか。やはり実地調査しかない。

1.ニセ科学批判としてネット上にあふれている代表的なテキストを知らない人を、無作為抽出して2グループに分け、テキストを読んだあとでニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテストを実施する。

2.ニセ科学と分類できる主張に基づく詐欺事件を、警察発表の資料や報道ベースで集計し、ニセ科学批判運動の活発化と相関をとる。

一つの案として出されているものですが、敢えて詳細に検討するならば、

  • 「ネット上にあふれている代表的なテキスト」をどう選別するか。
  • 「ニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテスト」をどう作成するか。そもそも、「ニセ科学を判断し警戒する能力」とは何か。ニセ科学一般を判別する力か、それとも個別のニセ科学か。
  • 普通テキストは、ごく一般的な観点から書かれたものと、より個別具体的なものがあり、さらに、情報を知らしめたい特定の対象に書かれたものもある。その機能的側面に目を向けなくて良いのか。
  • ニセ科学とは、必ずしも詐欺に直結している訳では無い(例:ゲーム脳)が、それはどう考えるか。
  • 相関を取ったとして、その結果をどのように解釈するか。ネガティブな結果が得られたとして、それは批判の仕方が悪いのか、それとも量的な問題なのか。それをどう分析するか。

などの考察すべき点があります。

繰り返しですが、ニセ科学批判は、科学を装っている あるものが実は科学では無いのだと知らしめる目的もありますし、もっと一般的には、「世の中には科学を装っているものが色々ある」という情報そのものを流布させたい、という目的も持っていると思います。そこら辺の成果も「効果」と取るならば、どのようにしてそれを拾っていくか、という問題もある事でしょう。

と、このように、ニセ科学批判、もっと一般的には、何ものかを批判する活動の効果をどう評価するか、というのは、大変難しいと言えるでしょう。社会学的にも社会心理学的にも。

もちろん、それを分析していくのは、ものすごく重要な事だと思います。ここで改めて自分の考えを書いておきますと、ニセ科学批判がどのような影響を及ぼすかを確かめるのは極めて大切な部分だし、それを社会科学的に研究するのは大変有意義である、と思っています。少なくとも私は、効果について疑念があるならそっちが調べろよ、というような態度は採りません。

ただ、です。

ニセ科学批判を批判するもので、効果があるかどうか解らないという観点から、その活動そのものにあまり意味が無いかのように看做す、という意見もやはりあるから、その場合には、もうちょっときちんと考察して欲しい、と思う事はありますね。一般論的過ぎて何にでも当てはまる、とか、ニセ科学概念を押さえていない、とか、そういう書き方だとね。ちょっと困惑します。

それと、上でも検討したように、「効果」と言っても、それは結構難しい問題である、というのも考えるべきだと思うのです。「効果」と一言で表現しているけれど、それにはどういう意味合いがあるのか、具体的に考察してみたのか、批判の実例と照らし合わせてみたのか、と。※touhou_huhaiさんの事ではありません。追々々記でも、色々な観点から見ておられますし。

○率直な意見

ニセ科学を批判するテキストを練ったりするのに手一杯で、その効果を自分で検討するまでとても手が回らない、というのはあります。外部からそれを評価しよう、という動きがあれば、(その手法が適切であれば)むしろ歓迎すべき事と言えます。再三言っているように、おそろしく難しいとは思っていますけれども。

それと、上で書きましたが、あるニセ科学を批判するテキストを複数用意しているのもあります。私の場合だと、ゲーム脳関連。そもそも想定読者が異なっているテキストの役割をどう考えるか、というのは重要ですよね。

追記:後、一々ダメなニセ科学批判を指摘しない、というのもありますね。ニセ科学を批判しているのを優先しているので。もちろん、その過程で、こういうのはまずいかも、という話になる事はありますが、あまりそれが主たるテーマになる事は無いですね。あれはダメだ、と言うよりも、自分はこうする、というのを見せるのが、個人的には大切だと考えているので。

○余談:観測範囲

ニセ科学批判を批判するものを見て、非常に気になっている所。

はてなブックマークのコメントを、「ニセ科学批判の典型例」として扱っては いませんか? それは観測範囲が極めて狭いので、注意を要します。ニセ科学を批判していて はてなを使っていない、という人もいる訳ですので。

ここら辺、「具体例を出して下さい」という指摘と関わってきます。ニセ科学を批判する人が、他の批判者のやり方に全て同意している訳ではありませんから、具体例を出されれば、ああ、確かにそれは好ましいやり方では無いかもね、となる可能性もあります。それが仮にはてブコメントだとすれば、いや、それを典型例として出されても、と返す事も、また、確かにあの書き方は、となる場合もあるでしょうね。

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2009年3月 1日 (日)

魔法の鏡

マジックミラー 筋肉「透視」ソフトを開発 東大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

マジックミラー:筋肉の動き「透視」 東大がコンピューターソフト開発 - 毎日jp(毎日新聞)

やばい、欲しい。マジで。超欲しい。

いや、個人で購入出来るような物じゃ無いというのは判ってるんだけど、それでも超欲しい。ドラゴンボールが7個あったら即刻願ってるレベル。

ええい、プレスリリースはどこだっ。東大工学部のサイトにも載って無いぞっ。

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2009年2月26日 (木)

超人

幻影随想: 氷点下の海で裸で泳ぐ超人ルイス・ゴードン・ピュー

大変面白いです。

生理学的・心理学的・バイオメカニクス的に見て、とても興味深い現象ですね。

武術の論理として、心身のコントロールの観点から見ると面白いし、また、気の論として見るのも興味深い。これは、自分自身で体温をある程度コントロール出来るというのを示唆しているので、たとえば気功で被術者の体温が上がるなどの現象を、実体的な概念としての気を用いずに説明出来る可能性を示している、とも見る事が出来るように思います。あくまで施術者は媒介と言うかきっかけで、実際の変化は自身の心理学的・生理学的メカニズムによって起こる、という。

震えを押さえ込むのがどういう論理によって起こるか、というのが一番知りたい所。単に心理学的なセルフコントロールのみならず、身体の恒常的なあり方(筋肉の弛緩の程度等)も関係しているのではないか、という所に、武術の身法に関心を持つ人なら着目する事でしょう。

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2009年2月24日 (火)

偏差値

せんせー、偏差値って何ですかー。

偏差値はねー、平均点からどのくらい離れてるか数字で表したものなんだよー。

へー。どのくらい離れてるか、って何ですかー。

そーだねー。どんなのがあるー?

わかりませんー。

速いねー。

点数から平均点を引く、とかあるよねー。

あー、そーですねー。

でもそれじゃあダメなんだよねー。

どうしてですかー。

どの点をどのくらい取ったか、クラスによって違うよねー。

そうですねー。

平均点に近い点を取った人が多いクラスと、すごく高い点取った人もすごく低い点取った人もいるクラスだと、平均点が一緒でも、中身は全然違うよねー。

そうですねー。

その、点数の集まり方を、バラツキって言うんだよねー。

へー。

君は、グラフは書けるよねー。

はいー。

横が点数で、縦が人数のグラフを書くとするよー。

はいー。

平均点に近い点を取った人が多いと、そこが高くなるよねー。

そうですねー。

そのかわり、端っこは低くなるねー。すごく高い点とか低い点を取った人がいないんだからー。

そうですねー。

で、高い点取った人も低い点取った人もいたら、どうなるー。

わかりませんー。

速いねー。

平べったい感じになるよねー。

そうなんですかー。

そうなんですよー。

それで、細長くて高い山みたいな形になったら、ばらつきが小さいと言うんだねー。

へー。

その前に、「ばらつき」って分かるー?

いえー。

速いねー。

まー、バラバラさの度合い、って感じだねー。

へー。

バラバラーな感じだと、ばらつきが大きくて、ぎゅうっ、だと、ばらつきが小さいんだねー。

へー。

で、そのばらつきを数字に出来るんだねー。

へー。

それで、さっき、点数から平均点を引いたら、って言ったよねー。

はいー。

点数から平均点を引いたら、点数が平均からどれくらい離れてるか、分かるよねー。

そうですねー。

たとえば、平均点が50点だったとして、取った点数が65点なら、15点離れてるって事だよねー。

そうですねー。

それで、その離れ方が、「ばらつき何個分か」っていうのを調べるんだよねー。

へー。

どうすればいいか分かるー?

わかりませんー。

速いねー。

割るんだねー。

へー。

割るんだよー。

へー。

何を割るんですかー。

離れ方をばらつきで割るんだねー。

どうしてですかー。

割るって事は、いくつ分かってのを計算する訳だねー。

意味が分かりませんー。

素直だねー。15÷3は何ー。

5ですー。

5って何ー。

5ですー。

15個リンゴあったのを3人で分けたら5個ずつになった、って感じだよねー。

そうですねー。

じゃ、3がいくつあれば15になるー?

5ですー。

そうだねー。15÷3は、3に何を掛ければ15になるか、という計算でもあるんだねー。

へー。

だから、平均からの離れ方が、ばらつき何個分かを計算するには、どうすればいいー?

分かりませんー。

速いねー。

離れ方をばらつきで割ってやるんだねー。

へー。

実はさっき言ったんだけどねー。

へー。

さっき、平均50点で点数が65点だったら、って言ったよねー。

はいー。

それだと、離れ方は15点だよねー。

そうですねー。

今度は、ばらつきが5点だとするねー。

はいー。

さっき言った割り算憶えてるー?

忘れましたー。

すごいねー。離れ方÷ばらつき だったよねー。

そうですねー。

そしたら、15÷5になるよねー。

そうですねー。

答えは何ー?

3ですー。

すごいねー。

で、3って何ー?

分かりませんー。

速いねー。

取った点数が、平均からばらつき3個分離れてる、って事だよねー。

へー。

偏差値って、この事なんだねー。

へー。

いや、本当は違うんだけどねー。

えー。

これは難しいから、また今度ねー。

はいー。

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これが限界だ…。下書きもせずに突っ走った。

て言うか、100点満点のテストで標準偏差5点とか、あり得ないよねー。

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2009年2月21日 (土)

統計解析とバイオメカニクスの本

勉強したい人のための 統計解析のきほん Book 勉強したい人のための 統計解析のきほん

著者:松井 敬
販売元:日本実業出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは大変に良い本。

統計学を全然勉強した事が無い人が読む、という意味での入門書ではありませんけれども、ある程度学んだ後に、知識を整理・おさらいするのにいいと思います。書き方が、とても明快で解りやすく、丁寧です。オススメ。なか見!検索も出来ますね。

身体運動のバイオメカニクス研究法 Book 身体運動のバイオメカニクス研究法

著者:ゴードン ロバートソン,ジョセフ ハミル,ギャリー カーメン,ソーンダーズ ウィトルシー,グラハム コールドウェル
販売元:大修館書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本屋で見かけてめくってみたのですが、これはめちゃくちゃ面白そう…。

目次と内容紹介⇒http://thistle.est.co.jp/tsk/detail.asp?sku=40936

目次だけでグッとくるぜ…。

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2009年2月18日 (水)

のーかがく

茂木氏って、テレビなんかで「脳科学的には~」って結構言いますね。

思う訳です。

脳科学的云々と言う前に、脳科学がどんなものか説明してもいいんじゃないかな、と。

モギケンの脳科学講義って事で、観る人も多いだろうし、内容が適切なら絶賛されるんじゃないですかね。

もちろん、こういう意見が予想されますが…。

故意的に、敢えてぼかして具体的な説明をせずに「脳科学」と言って説得力を持たせてるんだから、そんな事を積極的にやるはず無いじゃないか。

と。まあ、伊勢田さんとの対談とかを見ると、多分に「分かっててやっている」風ですからね…。何て言うか、初めから、専門家以外の学問分野への理解に期待していない、あるいは普及するという意識は無い、というようにも見えますね。

中身はブラックボックスのまま「脳科学的には~」と言うのなら、せめてエビデンスが不充分なものは気をつけて紹介しない、というくらいの配慮は欲しいものですが。

今更モギケンに何を求めるか、てのは無しの方向で。

あ、茂木氏に神経科学を代表させるような言動をさせるな、という強い批判もあるかもですね。

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このエントリーを書くきっかけ:A-WINGさんのはてブコメント

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2009年2月16日 (月)

言葉を理解する

dlitさんのとこのエントリー読んだりして、言葉の認識っていうか、そこらへんの論理をわかりやすく説明するのがあればいいかな、と思って色々考えたんだけど、なかなかまとめるのは大変そうなんだよね、、、

ほう。

そうそう、でも、それを噛み砕いてまとめて説明する、というのは骨が折れそう。認知心理学者とか、あと、工学方面の人なんかの詳しい人が、文字を読む、言葉を理解する、というのをわかりやすく解説した本なんかがあればいいんだけどねえ、、、

だね。なんか難しそう。

で、私が思うに、こういうのは、トップダウン的というか、「言葉を理解するにはどういう仕組みがあればいいか」、という方向から説明したほうがいいんじゃないかな、と。

ほう。

普段から言葉というのは駆使してるわけで、まあ、大部分は無意識でやってるんだろうけど、こういう風になってるでしょ、といわれたら、けっこう納得する気がする。馴染み深いからね。

うむ。

んで、それをちょっと考えてみようと思うんだが、時間は大丈夫?

おk。今日は特にやることもないし、面白そう。

おお。んじゃ、ちょっとやってみよう。

おう。

まず、われわれは、文章を見るなり話してるのを聞くなりして、言葉を理解するわけだね。

うん。

それには、書かれたものや聞いた音を単語に分けて認識する、というのがまず必要。

うむ。

で、他の部分と比較して、この単語はここではこういう意味かな、とか考える。

うむ。文脈ってやつか。

そうそう。で、文全体の意味を考えて、理解していく。同音異義語なんかはわかりやすいね。それから、ちょっと違うけど、「カネヲクレタノム」なんて例があるよね。

何それ?

同じ文字でも読み方が色々あるってやつだね。「金をくれた、飲む」とも読めるし、「金をくれ、頼む」とも読める。書いたやつなら、まあ、こんな電報打つかってツッコミもあるかもだけどw

今の電報の話だと、点が打ってないし、漢字じゃないから、それまでの出来事とかとあわせて、意味を推測するわけだよね。音を聞く方に近いのかな。

うむ。誰に送ったか、とか、送られた人の生活のしかたとか。

たったこれだけの短い文なのに、ちゃんと読むには相当の情報がいるってことだね。

カネヲクレタノム、という文だけでは意味を確定出来ないって感じか。

だね。で、それが、文字や音と意味がきつく結びついてるわけじゃない、という話につながってくる。

ほう。

さっきの同音異義語もそうだね。同じ音なのに、いくつも意味があったりする。これは言い方をかえると、音だけじゃ意味を決められないということ。さっき出てきた文脈がわかってないといけない、という話だね。

うむ。そういえば、代名詞なんかも、単に「あれ」と言ったって、どれだよ、となるな。その人がどういう場所にいるか、とかわかってないと、意味不明だね。

そう。で、これをどんどん進めていくと、言葉のかたちっていうか、文字や音と意味の結びつき自体が、そもそも必然的には結びついてない、という話になってくる。

どういうこと?

たとえば、りんごは、あの植物を指すわけだね。赤とか青の実をつけるやつ。

うむ。

で、それは、別に「りんご」と呼ぶ必然性はないわけだ。んで、「りんご」←この文字で書く必然性もないわけだね。明日から、あの赤い実を「ろんぎ」と呼んでも、別に世界は崩壊しないw

ww

もちろん、言葉ってのは社会の約束事だから、誰かがどっかで、明日から俺はろんぎと呼ぶからみんなそうしろ、と言っても、はいはいさようなら、ってなるんだろうけどね。

うむ。そういうのは、小学校あたりでけっこうあったねえ。

だね。略語とかもそうのなかもだけど、なんかのきっかけで広まれば、それが浸透して、普通の使い方になったりする。そういう意味でも、きつく結びついてるんじゃない、と言えるね。まあ、一番簡単に言うと、世界には沢山言語があるだろって話なんだけど。別に「apple」と呼んでもいい。で、それを言いかえても世界は崩壊しないw

www

あ、もちろん、全部の言葉で、意味とかたちに何の関連もないってことじゃないけどね。擬音語とかもあるし。

ああ、確かに。

それで、これは「縦」の関係と言えるね。

言葉の意味をかたちの結びつきを矢印でつなぐようなイメージだね。上下に意味とかたちを並べて。

ああ。ってことは、横もあるわけか。

うん。これは、網の目を考えるといいかな。網が、ある言語を表してるとして、網の目が、言葉の意味の範囲や広さを表す。まあ、普通は網ってのは、目の大きさは均一だけど、あくまでたとえとして。で、その網の形は、色々な言語によって違うわけだね。

うーん、ちょっとよくわからんなあ、、、

うーん、そうだなあ、、、たとえば、四足でワンワン吠える動物をまとめて「犬」というよね。で、犬の中でも色んな種類がいて、それぞれに名前がある。この分類のしかたは色々ある。これは、網の目を細かくしたり、ということだね。まあ、動物の分類には生物学の考えが入ってくるだろうから、ちょっと単純に見すぎだけど、遠い昔の分けかた、というのをイメージするといいかな。犬と山犬と狼の区別でたとえるのもあるし、箱に入った風船でたとえた人もいたね。

ふむ。つまり、時代によっても網の形は変わるし、それは、言語の種類の違いにもよる、ってことか。

うん。ただ、今書いたみたいに、自然がどうなっているかと全く関係ない、という話ではないけどね。ただ、きつく結びついてるわけじゃない。

なるほどね。

そう。だから、まず前提として、言葉の意味とかたちに必然的な結びつきはないし、意味にどういう仕切りをつけるか、というのも必然的な決まりがあるわけじゃない、というのがある。

うむ。

んで、言葉を見たり聞いたりして理解するには、このシステムっていうか、そのルールみたいなものを知ってなくちゃならない、ということだね。

お、いいたとえを思いついたぜ。

ほう。

長い木の棒は、武器にもなるし、つっかえ棒にもなる。木の棒だけでは意味は確定出来ない、みたいな。

おお、なかなかいいね。そんな感じ。で、考え方としては、ある文字と意味とか、文字と音とか、そういう所にも応用出来るよね。

ほう。

たとえば、「あ」という文字があるね。

うむ。

これって、違う人間が「あ」と発音しても、同じ「あ」として理解出来るよね。

つまり、AさんとBさんが「あ」って発音したら、その音は、物理的には全く同じ、じゃないよね。

うむ。

でも、「あ」として認識される。これ、よく考えたら不思議じゃない?

うーん、確かに。

全く同じ音、じゃないのに、同じ意味として理解出来る。これって、元々どういう言語を使うか、とか、他の言葉との差というか違いで、それが認識されるんだろうね。あんまり詳しくないけど。ま、でも、ある音が意味と必然的につながってるんじゃない、とは言えるね。

ふむ。

境界っていうか、どこから分けるかってのもあるよね。「あ」とそれ以外の音はどう分けるか、って。物理的に測定して、こっからは「あ」だ、とも多分言えないだろうし。だって、聞く人がどうか、というのも関係してくるしね。日本語を知らない人が聞いたら、というのも。

ああ、なるほど。

文字もそう。「あ」←この文字が「あ」と認識される。でもこれ、「ア」でもいいわけだね。形でいうと、楷書・行書・草書で「あ」という文字を書いても、わかる人には全部、それが「あ」だと認識できる。でも、その文字は全然違うよね。ていうか、私は草書読めんしw

ああ、あるね。急いで書いた字だと、自分が書いた字なのに後から読めないってのもあるわw その時はわかってたはずなんだけどねえ。これも文脈的なものか。

多分そうだろうね。これも音と一緒で、どこからを「あ」とするか、というのは難しいね。ていうか、文字読み取り装置なんかは、ここらへんを研究してるんだろうね。どのくらいの精度なのかは知らんけど、違う人が書いた文字を同じものとして分類するってのは、よく考えるとすごい。

うむ。数字は比較的シンプルそうだけど、漢字あたりになると難しそうだねえ。電子辞書だと、候補が出てきて自分から選ぶ、というやつだしね。

そう。しかも、これにもやっぱ、知識というか、その人がどういう字を書くか、という癖なんかも関係してくるよね。ミミズのはったような字でも身内なら読めるってのもあるし。

あー。ノート貸したら読めなかったって言われるとかねw いや、自分じゃ読めるんだけど、的な。

そうそうw だから、言葉を理解する、というのは、他の色んな知識とかが関係してて、それがないと考えられないんだよね。で、積み上げていく方向から考えると、文章を見たり話を聞いたりして、まずそれを文字に分けて認識する、という段階がある。

うむ。

「あ」という文字ならそれを認識して、その音ならそれだと認識する。文字だと、インクとか光の形を読み取って、それを脳内辞書みたいなのと照合して、これはどの文字だな、と認識する。その認識のしかたについては、いろんな説というか、考え方があるみたいだけどね。

ほう。

んで、文字が認識出来たら、脳内辞書から単語の意味を引っ張り出したりする。でもそれだけじゃ意味が確定できないから、他の部分も見て、それで推測したりする。それがうまくいかないと、誤解されたりするよね。

うむ。

逆に、空耳アワーみたいなのは、それを利用してるって感じだけどね。

あー、確かに。

で、こういうのが、かなり短い時間で、しかも行ったりきたりを一瞬で繰り返しながらなされるわけだね。ものすごい情報処理。

うむ。一々そういうのを考えなくても、勝手に言葉は出るしねえ。

そうそう。あまりにも当たり前だから、実はその仕組みのすごさってのは、あんまり意識はされないんだろうね。

それを考えると、水が言葉を、ってのはやっぱり変だね。

そだね。中には、水が情報を保存して、、、なんてこと言う人もいるけど、仮にそういうのがあるにしても、言葉を理解するには、そんなんじゃ全然足りないわけで。文字を認識して、文脈を読んで意味を決めていって、、、ってのを水がどうやってやるの、という話。

うむ。相手がどういう人か、とか、どの言語を使うか、というのも絡んでくるから、その難しさっていうか膨大さっていうかは、ちょっと途方もないね。

そう。で、こういう所を理解すれば、水が言葉に反応するって話についても疑ってかかれる可能性はあるね。

うん。特に、意味とかたちに必然的な結びつきがないってのは重要そうだ。

だね。それをかなり華麗に表してるのが、田崎さんのおなじみのたとえだね。「shine」を見せたら?ってやつ。

ああ、あれはいいね。でもあれだね。そういうのを説明しても、わからないひとはわからないだろうね。

まあ、それはそうだねえ、、、てか、理屈をショートカットして、波動やらなにやらを持ってくるから、初めからそこらへんに耳を貸さないって人はいっぱいいるだろうね。ただ、こういうのを説明するのも大事だと思う。

うむ。信じるか信じないかの半信半疑の人とか、あまり深く考えずに信じてしまったって人には、効くことがあるかも。

うん。後、水伝が検証できる、という意見について、こういう考えもあるよ、というのを出す意味もあるね。私なんかは、水伝はそもそも検証は絶対不可能だと思ってて、まあそれは、言葉のかたちと意味に必然的な結びつきがないという所からきてるわけだけど。

そういえば、菊池さんや田崎さんや天羽さんも、物理方面からだけじゃなくて、言葉の問題としても批判してたね。

そうそう。で、そっちから詳しく見ていくと、水伝は検証はできない、となるわけだね。だから、時折出る、水伝は検証はできるけれどもされてない、というのは、本当は、水伝側にものすごく譲歩してるんだよね。実際は、検証しようがないのを実験で確かめたっていってるから、はいそれ無理、検証できないのを検証したと言ってるからニセ科学だよ、とけっこうシンプルに言えるんだね。

------------

参考にした人々。

dlitさん、池上嘉彦、ソシュール、丸山圭三郎氏、高岡英夫、J.J.ギブソン、等々。

鍵になりそうな概念達。

恣意性、アフォーダンス、記号、有契/無契、シンボル・イコン・禁書目録インデックス、音声学、音韻論、音素、形態素、二重文節、等々。

私の知識は、言語学や記号学(論)、あるいは認知心理学の入門書に書いてある基本的なものくらいしか無いので、これくらいが限界。古くなっている所もあったりするかもですが、あまりはずさないように配慮したつもりです。不備や誤りがあれば、ご指摘を頂けると幸い。

そして、誰かが、

  • やる夫で学ぶ言語学
  • やる夫で学ぶ記号論
  • やる夫で学ぶ文字認識
  • やる夫で学ぶ文字読み取り装置の仕組み
  • やる夫で学ぶ認知心理学~文字認知をテーマに~

などを書いてくれるのを祈ります。

後、こういう内容のものって、そんなの言ったって水伝を信じている人は考えを変えないよ、とか、論理で信じてる訳じゃ無いだろ、的な反応がしばしば見られますけど、そんなの言ったって、あんまり意味無いですからね。これは、水伝が検証不能だというのを示すものでもあるし、言語をどう認識するか、というのを考えた文章でもあります。

水伝の信じ方にも色々あるのだし、「どうせ考えを変えやしないよ」、なんて言うのは、かなり的外れだったりします。

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2009年2月14日 (土)

蜜の味?

最近、このニュースがにわかに注目を集めておるようであります⇒妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに:プレス発表:お知らせ:独立行政法人 放射線医学総合研究所

私としては、ある実証研究の一成果を紹介する際に、安易に喩え、つまり、ことわざや慣用句などを用いて「注目」させる、という書き方は、好ましく無いと考えます。特に、プレスリリースにおいてこのような書き方をするのは、よろしく無いでしょう。先日も、赤ちゃんの顔認知の話がありましたが・・。

さて、このような研究成果が発表された際には、そこから何が言えるか、また、何が「言えないか」、というのを丁寧に見ていくのが肝要でありましょう。

本来、原典を参照して検討していく、というのが適切でしょうけれども、それは専門の神経科学者や心理学者に任せるとして、ここでは、メディアに向けたプレスリリースである、という所に注目して、記事の書かれ方も含めて見る事にしましょう。

まずタイトル。※引用にあたり、文字修飾や改行を、適宜直します。部分的には追加。誤字脱字衍字は原文ママ

妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに
―妬みに関する脳活動が強い人ほど“他人の不幸は蜜の味”と感じやすいことが脳科学的に証明された―

ここで、「メカニズムが明らかに」、「脳科学的に証明された」と強調されています。メカニズム云々はともかく、「証明された」という言い回しは、慎重な実証科学者は使うのに躊躇いそうなものに思います。

「概要」部分。

ここでは、通常、人間は、他人の不幸に同情するものであるが、それだけでは無く、それを喜ぶような場合、つまり、「他人の不幸は蜜の味」という言い回しで表されるような現象があり、その脳機能との関係がそれまで明らかで無かった事、そして、その論理の一端が著者らの神経科学的研究によって明らかにされた事、が紹介されています。

今回の研究では、高橋らが考案した心理課題を被験者に与え、その時の脳内の活動をfMRI により解析しました。その結果、第1に妬みの感情には前部帯状回*3と呼ばれる葛藤や身体的な痛みを処理する脳内部位が関連していることがわかりました。次に、妬みの対象の人物に不幸が起こると、線条体*4と呼ばれる報酬に関連する部位が活動することがわかりました。さらに妬みに関連する前部帯状回の活動が高い人ほど、他人の不幸に対して線条体が強く反応することが明らかとなりました。

ポイント

  1. 著者らが心理測定尺度を考案。
  2. fMRIにより画像解析。
  3. →妬みの感情に前部帯状回が関連。
  4. 妬みの対象に不幸が起こる→線条体が活動。
  5. 前部帯状回の活動と線条体の活動に正の相関関係。

が見出された。

最後の段落では、本研究が各分野に今後与えるであろう影響を仄めかしています。心理測定法・教育への応用・カウンセリングへの応用 等々。

「背景」部分。

まず、妬みという感情について説明し、神経科学的にその感情については未だ明らかにされてこなかった事を紹介し、その研究の意義を説明しています。

このような私達が普通に感じる感情について脳内のどの部位が関係し、また感情と感情の関係についてはこれまでほとんどわかっていませんでした。また他人の不幸を喜んだり切望したりする感情は、しばしば非道徳的な行為や犯罪にも結びつきます。このように妬みは個人の生活の満足度や自己の評価にも関係し、この感情をマネジメントすることは個人や集団の心理的安定に重要です。本研究ではまず、自己と他者との関連性の強弱が妬みとそれに関連する脳活動にどのように影響するかを検討しました。次に妬みの対象者に不幸が起きた時の“他人の不幸は蜜の味”という感情を誘発する脳活動部位を同定し、さらに妬みに関連する脳活動との関連を調べました。

ここでは、他人の不幸に快感情を覚える事の問題点、それが反社会的行為に繋がる可能性、また、個人の心理的な安定に及ぼす影響について示唆しています。

「研究手法と結果」部分。

ポイントを箇条書き ※鉤括弧で括った部分は引用部

  1. n = 19 (健康な大学生)
  2. 被験者本人が主人公である物語を、被験者自身に読ませる。登場人物↓※この部分、主人公との違いや共通点がが解りやすいように、強調で示す
    • 主人公:「主人公は大学生で、学業成績や経済状況などにおいて平均的な物や特性を有している。」
    • 学生A :「被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通で、かつ被験者より上級であったり優れたな物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生B:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なるが、被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生C:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なり被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。」
  3. ここで便宜的に、
    • 主人公:平凡な男
    • A:出来る男
    • B:出来る女
    • C:平凡な女
    • とする ※「学生○の~」とすると、被験者の事と混同するので紛らわしいため
  4. 実験1:被験者がシナリオを読んだ後、各登場人物に対する……引用部が不明確なので、そのまま引用する。
    • 「学生A, B およびC に対する脳活動をfMRI にて計測した。」 ※「対する脳活動」というのは、変な表現。文脈から補うと、シナリオを読んだ直後に画像診断している、という事だろう
    • 各登場人物に対する「妬み」の強さを測定。6件法による。
  5. 結果1
    • 出来る男>出来る女>平凡な女 の順に妬みの評定は高かった。
    • 出来る男・出来る女のエピソード後には前部帯状回に活動。活動の強さは、出来る男>出来る女 だった。
    • 妬み尺度の成績と前部帯状回の活動に正の相関関係が見られた。
  6. 実験2:出来る男と平凡な女に不幸が起こる、というシナリオを被験者が読み、fMRIで測定。→出来る男と平凡な女に起こった不幸についての「うれしい気持ち」を6件法で評定。
  7. 結果2
    • 出来る男の不幸に対して→中程度のうれしい気持ち・線条体活動あり
    • 平凡な女の不幸に対して→うれしい気持ちは報告されず・線条体活動無し
    • うれしさ尺度の結果と線条体活動に正の相関関係が見られた。
  8. 前部帯状回の活動と線条体の活動とに正の相関関係が見られた。

以下、ここは考察する余地がある、という部分。青字で示す。 ※あくまで、記事を見る限りでは、という観点。詳しい所は、原典に載っているはずなので

  1. n = 19 (健康な大学生) n の大きさは充分か。標本抽出はどうか。母集団は何で、どのように抽出したか。神経科学的には、この n の大きさと標本の採り方で、どこまで一般化出来るか。
  2. 被験者本人が主人公である物語を、被験者自身に読ませる。登場人物↓※この部分、主人公との違いや共通点がが解りやすいように、強調で示す
    • 主人公:「主人公は大学生で、学業成績や経済状況などにおいて平均的な物や特性を有している。」
    • 学生A :「被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通で、かつ被験者より上級であったり優れたな物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生B:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なるが、被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生C:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なり被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。」
  3. ここで便宜的に、
    • 主人公:平凡な男
    • A:出来る男
    • B:出来る女
    • C:平凡な女
    • とする ※「学生○の~」とすると、被験者の事と混同するので紛らわしいため
  4. 実験1:被験者がシナリオを読んだ後、各登場人物に対する……引用部が不明確なので、そのまま引用する。
    • 「学生A, B およびC に対する脳活動をfMRI にて計測した。」 ※「対する脳活動」というのは、変な表現。文脈から補うと、シナリオを読んだ直後に画像診断している、という事だろう 読むのと計測との間に、どの程度の時間的な開きがあったか。言語的教示はどうだったか。
    • 各登場人物に対する「妬み」の強さを測定。6件法による。 この尺度は標準化されたものか。妥当性・信頼性は充分か。単に一つの質問を尺度として用いたのか、それとも他の質問も含んだ尺度として構成されていたか。そもそも、対象に対して妬みを感じるか、という質問をストレートに行うのが適切か。
  5. 結果1
    • 出来る男>出来る女>平凡な女 の順に妬みの評定は高かった。 この評定を、シンプルに間隔尺度のように扱って良いか。平均(なのか?)を出して比較して良いか。この差をどの程度実質的に意味あるものと見るか。検定などは行ったか。行ったとすればどの手法だったか。 ※ポイントは恐らく、平凡な女に対する評定の低さ(グラフ上では0に近い)にあるのでしょう
    • 出来る男・出来る女のエピソード後には前部帯状回に活動。活動の強さは、出来る男>出来る女 だった。 帯状回の活動をどのように測り、強さをどう評価するか、というのを詳しく知らないので、保留
    • 妬み尺度の成績と前部帯状回の活動に正の相関関係が見られた。 そもそも、横軸を「妬みの強さ」として本当に良いのか。上にも書いたが、その尺度はきちんと作成されたか。「妬み」という構成概念をきちんと測るものなのか。縦軸の(%)って、どういう意味なんでしょう。脳画像全体に占める割合? ピクセルとかボクセルとかの。縦軸をああいうスケールで取って見るくらい、1%と2%の差というのは大きいって事なのかな。分解能の高さと領域の大きさによる、か。
  6. 実験2:出来る男と平凡な女に不幸が起こる、というシナリオを被験者が読み、fMRIで測定。→出来る男と平凡な女に起こった不幸についての「うれしい気持ち」を6件法で評定。 「妬み」の所と同様。下も大体同じ。
  7. 結果2
    • 出来る男の不幸に対して→中程度のうれしい気持ち・線条体活動あり
    • 平凡な女の不幸に対して→うれしい気持ちは報告されず・線条体活動無し
    • うれしさ尺度の結果と線条体活動に正の相関関係が見られた。
  8. 前部帯状回の活動と線条体の活動とに正の相関関係が見られた。 図を見る限り、そんなには高く無さそうだけれども…。どのくらいかな。ところで、原点が0で無いのは何故?

「本研究の成果と今後の展望」部分。

について書こうと思ったけど、力尽きた…。コメント書いてねっ。

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図4の散布図ですが…。

もしかして、相関係数(ピアソン)、0.4ちょっとじゃないですか? 0.43くらいと見た。で、帰無仮説: ρ = 0 を棄却出来ないような。と言うか、いずれにしても、n = 19 だと、かなり(95%)信頼区間が広くなりますかね。

全然違うかもですけど。

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2009年2月11日 (水)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2

complex_catさんのコメントへのレス。

まず前提として、遠当て系の「触れずに倒す」技、つまり、相手の勢いを利用して結果的に触れずにすんだ、という技で無いものは、純粋に心理社会的論理(高岡は、「人文―社会科学的メカニズム」)によって成立する、と見て良いと思います。
※「投げる」では無く「倒す」と一般化します

その上で、「触れずに倒す」という主張は、大きく分けて、武技に利用出来ると解釈する場合と、そこは薄めて、そういう現象が起こるという事実のみを紹介する場合の、二つの分け方があると考えられます。

そして、それに共通する論理として、「お互いに顕在的・意図的な協力関係が無い」というものがあります。

尤も、武術的な色合いの薄い組織においては、必ずしも協力関係が全く無い事を強調はしないかも知れませんが、しかし、受けが「わざと飛ぼうと思って飛んでいる」と主張する所は無いと考えられます。それは即ち、完全なる「演技」であるのを認める、という事なので。

それで、それぞれの主張を個別に見ていく必要がある訳ですね。

で、「武術」の話として考えるならば、そもそも武術とは、自分に敵対的な人間、友好性がほぼ無い相手をいかに制するか、という合目的性があるので、そこにいかに技術が適合するか、というのを見る必要があります。

その観点から言えば、施術者と被術者との心理的関係を操作した実験がなされないと、武術として「触れずに倒す」技術の普遍性・汎用性は論証出来ないと考えています。

これを端的に表したのが、「リングに上がってみろ」、「実際に戦って触れずに倒してみろ」的なものだと思います。

柳龍拳氏などは、このような挑戦を受け、見事に散った訳ですけれども、このような実験であれば、個人が有する技術がどうであるか、というのをある程度客観的に確かめられますね。もちろん、遠当てなるものは敵対的な相手には絶対成立しないのだ、という強い結論は、科学的には無理ですけれども。

整理すると、「触れずに投げる(倒す)」という現象そのものが、そもそもある程度多義的であるのを押さえつつ、通底する共通性も認識しながら個別に検討していく、という見方が重要である、といった所でしょうか。

私自身は、武術、つまり敵を制する技術の紹介、という文脈で、「触れずに」制す技を仄めかすものは、強烈に忌避するのですが、これは、自分が触れた武術や、私淑した先生方(斉藤守弘先生、佐川幸義先生、塩田剛三先生、等の方々)の影響が多分にあると思います。

遠当の武術的汎用性についての個人的見解としては、遠当が武術的に普遍的に通用する技術と見るのは理論的にもほぼ不可能だ、というものです。
特に、知らない人間に襲い掛かられた(どっちも知らない)、という最も極端な状況の一つを思い浮かべるならば、襲い掛かった人間にある 襲う人間についての情報は、姿形についてのもの程度しか無い訳なので、力学的関係が存在せず、かつ心理的関係を用いた技術、は成立しないと見て良いと思います。

見方を変えるならば、友好的関係が0に近く、かつ力学的関係が0の場合に遠当が成立するには、視覚・聴覚・嗅覚などの情報のみを手がかりにするか、もしくは疑似科学的論理(無意識が繋がっている、なんちゃら電磁波がうんちゃら、気の実体性の主張、等)を仮定するしか無い訳ですね。そしてそれは、現在の知見から考えれば、成立しないと判断して良いだろうと考えます。

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有意

ほぼ、ちがやまるさんへの私信です。

統計学を拓いた異才たち 統計学を拓いた異才たち

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先日紹介したこの本で、フィッシャーが「有意」という事について語っている論文の一説が引用されていました。以下引用(P123・124)。

 生物学的方法によって生命体の研究をする際には、統計的有意性検定は不可欠である。その役割は、研究・検出しようとしている原因によってではなく、われわれがコントロールできない多くの複雑な状況から生じた偶然の出来事に惑わされないようにすることにある。もし見当をつけているものが真の原因でないために、めったに生じ得ないという場合は、その観測結果は有意であると判断される。慣例として、偶然によって生じるのが二〇回の試行のうち一回未満という程度であれば、結果は有意であると判断する。研究の実務に携わっている者にとってこれは恣意的だが、便利な有意水準である。だからといって二〇回に一回判断を誤るというわけではない。有意性検定は何を無視したらよいのかを教えてくれるだけにすぎない。言い換えれば、すべての実験で有意な結果が得られないということだ。かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている場合、現象は実験的に論証可能であると主張するにとどめたほうがよい。そのため、再現する方法がわからない有意な結果がぽつんとあっても、これはあらためて解明されるまで未決定のままなのだ。

訳の問題なのか、私が文脈を捉え切れていない、知識不足で補えない、からなのかは判りませんが(後者だと思いますけど)、ちょっと私には、この部分の意味が掴み切れなかったりします。

それはともかくとして、これが、フィッシャーが有意水準についてどういう考えだったか、というのを示す一つの資料として、参考になれば・・。

出典↓

原典:Fisher, R. A. (1929) "The Statistical Method in Psychical Research, " Proceedings of the Society for Psychical Research, 39 p. 112.

これかな?⇒Adelaide Research and Scholarship: The Statistical Method in Psychical Research.

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2009年2月 9日 (月)

統計学史

図書館や本屋を見てまわって思った事なのですが。

統計学の歴史をまとめて書いた本って、あまり多く無いように感じるんですが、これって気のせいでしょうか。統計解析の方法を紹介する本は唸るほど見かけるのだけれど…。

統計の勉強をしていると、色々な解析方法や理論があるのを知って、ではそれが歴史的にどんな流れで、どのような要請によって発見され、また編み出されたのか、という所も勉強したいな、と思う訳ですね。

で、図書館や本屋に行って探すけれど、たとえば独立したコーナーがあるくらいの量は無い、という印象。

需要はあると思うんですけどね。いや、単に私が探せていないだけかもですが。

何か良い本があれば、教えて下さい。

と、ただ教えて、というのはあれだから、私がこれまで読んだものをご紹介。

統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀 Book 統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀

著者:デイヴィッド サルツブルグ
販売元:日本経済新聞社
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↑再読中。これは面白い本だと思います。

R.A.フィッシャーの統計理論―推測統計学の形成とその社会的背景 Book R.A.フィッシャーの統計理論―推測統計学の形成とその社会的背景

著者:芝村 良
販売元:九州大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑バリバリの学術書。値段見たら、結構するのね…。図書館で借りたから気付かなかった。

確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで Book 確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで

著者:マイケル・カプラン,エレン・カプラン
販売元:朝日新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑確率の本だけど。これ、読んだっけ……記憶が曖昧。

amazonで見つけた、未読の本達。

ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語- Book ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語-

著者:丸山 健夫
販売元:日科技連出版社
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Book 統計学史

著者:小杉 肇
販売元:恒星社厚生閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 多変量解析の歴史

著者:安藤 洋美
販売元:現代数学社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

統計学史の本はいくつかヒットしましたけれど、最近刊行されたものは、あまり無い模様。

そして、国会図書館で検索しようとしたらメンテナンス中というオチ。

WEBページでまとまったものがないか、と調べたけれど、見つからないなあ。古い本だけれど、往時の事を知るという意味で、これなんかは参考になるかな⇒統計科学の三十年

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2009年2月 7日 (土)

丹田とはシステムである

Interdisciplinary: 気とはシステムであるの、「気」を「丹田」に換えても、ある程度成り立ちます。

もちろん、気は より一般的な概念で、丹田(ここでは「下丹田」、すなわち、いわゆる臍下丹田を指す)は、下腹にある、実体のように感ずる何物か、というような違いはあります。

当然、解剖学的に見れば、丹田があるとされる箇所に、それと対応する独立の組織や臓器は無い訳です。ですから、バイオメカニクス的に考えれば、その辺りの筋肉を合理的に働かせる意識、あるいは認知のポイントであり、心理学的には、そこを認知する事で精神的な安定が得られるとされているポイントである、というように、総合的・機能的なものだと考える方が、適切でしょう。高岡英夫氏は、著書において、

伊藤 正中線は、陸上競技でも肉体と直接的対応を考える段階では軸として理解することができますが、武術でしきりにいわれ、高岡先生も重要視されている「ハラ」とは、一体どういうものなのですか。

高岡 「ハラ」、「下丹田」と古来から言われてきたものは人体下腹部の中心にあるとされている点ないしは球状の部分です。しかし、その部分は、解剖学的には腸があるばかりで他には何も見いだせません。ところが、その丹田があるとされる周りには、大腰筋、腸骨筋、上下双子筋、方形筋、横隔膜などの深層筋群と腹筋、腰背筋などの浅層筋群が丹田を中心に長球状の構造を形成しているのです。

 つまり、「丹田ができる」とは、こうした「長球状筋構造体」が至適のバランスを持った統一体として筋収縮活動を行うことを指すのです。

伊藤 武道家の人達のハラに対する説明には、極めて観念的な印象を持っていたのですが、先生の説明は極めて明快ですね。

高岡 ただ、深層筋や深層小筋群は、意識化することが極めて難しいのです。そこで意識と動作の関係がまた出てきます。丹田自体は、それらの筋肉群を統一的に動員するための「意識装置」であるわけです。

伊藤 なぜ、ハラが利くと動きがよくなるのでしょう。単に意識化できない筋肉というのは、その丹田周辺の筋肉群以外にも体全体に沢山あると思いますが。

高岡 それは、四肢の運動や体幹・呼吸運動の本質的な因子を根底から支えているのが、この長球状筋肉群だからです。それが本質的な因子を担っているということは、脊椎や骨盤とのつながりを考えれば容易に推察できると思います。

 ついでに申しますと、中丹田があるといわれている胸の部位、つまり胸郭を取りまく筋肉群も長球状構造体をなしており、この意識中心が中丹田なのです。

このような見解を表明しています(『極意要談』)が、バイオメカニクス + 心理学的に考えると、このようなシステムあるいは機能を指し示す概念として「丹田」がある、というのは、それほど的外れでは無いでしょう。※高岡氏は、実証が進んでいないのに断定的に語り過ぎるきらいがあるので、読む場合は注意しましょう

もちろんこれは、きちんと解明されたものでは無いでしょう。丹田を意識すると、実際にその筋肉群が合理的に使えるようになるのか、とか、それらが使える際の知覚あるいは認知のありかたが、位置・形状的に、伝承されたきた丹田とどのくらい対応するか、とか、解剖学以外の、神経生理的なシステムはどのように関わっているか、とか、解明すべき事柄は、沢山ある訳です。そもそも、合理的な身体運動や、安定的な精神状態と、丹田があるとされる付近の構造とどう科学的に関わってくるのか、という基礎的な部分もあります。ここら辺は、たとえば腸腰筋(大腰筋・小腰筋・腸骨筋)の重要性などが関わってくるでしょう。

丹田というものは古来、そこに実感がある、とされているものですから、心理学的に見れば、何らかの体性感覚的情報の認知の体制あるいはスキーマ、と考える事が出来るでしょう。その意味では、丹田の位置に対応する臓器等が存在しないからといって、「丹田は存在しない」と言うのは、気が早いのです。

ここら辺を踏まえると、肥田春充翁が試みたような、丹田の位置を幾何学的厳密に定める、というのものは、やはり的外れであった、と私は考えます。初めから複雑なものは、複雑なままに記述しなければなりません。過度に単純化して普遍的な原理を得ようとすると、そもそも構成概念を示す言葉だったのに、無理に切り取ってしまう、という本末転倒になる事があります。

こういう概念を解明するには、認知神経科学的な研究、脳イメージングを用いた分析等が、必須となるでしょう。あるいは、言語論的な論理も考える必要があります。たとえば、甲氏が「丹田を意識」するのと、乙氏が「丹田を意識」するのが、同じ結果をもたらすとは限らないのですしね。

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2009年2月 6日 (金)

切り口

良書を読んだので、ご紹介。

心理学の切り口―身近な疑問をどう読み解くか (心理学の世界 教養編) Book 心理学の切り口―身近な疑問をどう読み解くか (心理学の世界 教養編)

著者:森正 義彦
販売元:培風館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本、培風館の「心理学の世界」というシリーズの中の一冊です。コンセプトは、「初学者でも読みこなせるように,体系的な学習ではなく,心理学の興味深い側面を選んで解説」するというもので、身近の出来事や、いかにも興味を惹きそうなトピックについて、心理学の知識で説明していきます。たとえば、無気力(1章)、外向性/内向性(3章)、オオカミ少女(4章)、詐欺(に騙される心理)(7章) 等々。これらの話題を、様々な心理学の分野の概念を説明しながら解説する、という内容。

尤も、学術書ですから、普及書あるいは啓蒙書のような平易さはありません。全く心理学の知識が無い人が読むには、ちょっと難しいでしょう。とはいえ、一般的な心理学の概説書よりは、かなり読みやすいと思います。

なかでも私は、オオカミ少女などの野生児の話(4章。藤永保氏 著)、「ど忘れ」と、詐欺に騙される心理について(6・7章。海保博之氏 著)を、面白く読みました。

また、12・13章は、個人的に最も参考になった部分です。内容は、繁桝算男氏よる、心理学における因果関係の考え方と、数量化や実験計画の入門的知識の紹介。因果関係の所は、科学一般に通ずる大変重要なもので、とかく難しくなりがちなトピックですが、比較的平易で(それでも、予備知識が無いと、読むのはきついかも知れません)、よく整理されているので、参考になりました。オススメです。

なかなか良い本なので、機会があったら読んでみて下さい。

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2009年2月 5日 (木)

対照的。そして「蛇足」

片や⇒ママまっすぐこっち向いて…横顔わからぬ5か月児(読売新聞) - Yahoo!ニュース

片や⇒赤ちゃん、8カ月までに横顔認識-中大・生理学研が確認:日刊工業新聞

同じトピックを紹介した記事なのに、味付けによってこれほど印象が変わるのだ、という一例。

研究は、脳画像診断によって、(8ヶ月児に対して)5ヶ月児はどうやら横顔を顔として認知はしないようだというのを生理学的に実証したもの。発達心理学的には、注視時間等を尺度として、乳児の認知を研究しますが、それの生理学的な部分が脳画像的に明らかになった、という事で、大変興味深いものです。

ここで、タイトルの比較。まず読売。

ママまっすぐこっち向いて…横顔わからぬ5か月児

いかにも情緒に訴えかけるような書き方。記事内容とも併せて、5ヶ月時では横顔は顔として認知されないから子育ての際には正面から見た方が良い、という印象を強く与えるようなものとなっています。

工業新聞。

赤ちゃん、8カ月までに横顔認識-中大・生理学研が確認

読売と全然違いますね。こちらは、5ヶ月児と8ヶ月児を比較して研究したのを踏まえて、5ヶ月から8ヶ月の間に横顔の顔認知が形成されるようだ、というのを説明しています。

次に、論文著者のコメントを紹介。読売から。

 実験を行った同大の仲渡江美研究員らは「特に月齢の低い赤ちゃんとは、目と目を合わせて接することが大事だ」と話している。

工業新聞。

親子間でコミュニケーションを取る際「月齢の低い赤ちゃんには、正面を見て話すことが大事と示唆される」(中央大の仲渡江美研究員)という。

明らかに印象が違いますね。ちょっと詳しく解らないのですが、これって、各社の取材に答えたのでしょうか。

工業新聞の方は、科学者として、とても慎重な言い方ですよね。「大事と示唆される」という表現。当然、月齢の低い赤ちゃんが横顔を顔として認知しない可能性が生理学的に確認された、という事なので、それは愛着(attachment)の面から言っても、とても重要な現象である、というのは言えます。正面から向き合う頻度が発達に何らかの影響を及ぼす、というのは、理論的にも的外れなものでは無いでしょう。ですが、それはまた別の実証の文脈なので、「大事と示唆される」という言い方に留まる。従って、工業新聞の方の仲渡氏の発言は、うん、確かにそうですね、と科学的にも納得のいくものです。

で、読売の方。これは、タイトルとの相乗効果があるかも知れません。つまり、タイトルで、いかにも赤ん坊が「訴えかける」ような書き方をしていて、その印象のまま読めば、「え、この研究だけからそんな事が言えるの?」と感じてしまうかも知れません。また、冒頭で、

 赤ちゃんを抱きながら、携帯電話などに夢中のパパやママはご用心--。

このような書き方をしていますからね。記事を面白くしようとしたのでしょうが、余計な部分とも言えるでしょう。

もちろん、実際に仲渡氏がどういう発言をしたか、というのも考えるべき所ですね。実際には慎重な物言いをしていたとしても、不本意な要約をされる、という可能性はあると思います。工業新聞の慎重な感じからすると、読売は若干不用意にも取れるので(タイトルなどでバイアスが掛かった、という可能性もあるけれど)。※プレスリリースのようなものが出た、というのも考えられますけれど、それにしては、内容が違い過ぎると思うので

それにしても、読売新聞の記事の書き方の微妙な事よ。せっかくの興味深い研究結果なので、あまり余計な味付けはしちゃいかんですよ。

参考資料

山口真美 研究室 -中央大学文学部 心理学研究室・科学技術振興機構 さきがけ

Wiley InterScience :: JOURNALS :: Human Brain Mapping

日本心理学会 第72回大会

新学術領域研究学際的研究による顔認知メカニズムの解明

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2009年2月 1日 (日)

タイトル

ふと思い立って、amazonで、ニセ科学関連の本がどのくらいあるのか、調べてみました。

やり方は、

  • ニセ科学
  • 疑似科学
  • エセ科学 
  • 似非科学

で検索する、というシンプルなもの。

関係無さそうなのも拾うので、タイトルにこれらの語が入っているものと、私が読んだ事があって、明らかにそれ関係の本だと知っている物だけを、ピックアップしてみます。

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書) メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

著者:松永 和紀
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

水はなんにも知らないよ (ディスカヴァー携書) 水はなんにも知らないよ (ディスカヴァー携書)

著者:左巻 健男
販売元:ディスカヴァー・トゥエンティワン
Amazon.co.jpで詳細を確認する

なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉奇妙な論理が蔓延するとき (ハヤカワ文庫NF) なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉奇妙な論理が蔓延するとき (ハヤカワ文庫NF)

著者:マイクル シャーマー
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

怪しい科学の見抜きかた―嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 怪しい科学の見抜きかた―嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説

著者:ロバート アーリック
販売元:草思社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか―ニセ科学の本性を暴く わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか―ニセ科学の本性を暴く

著者:ロバート・L. パーク
販売元:主婦の友社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

疑似科学と科学の哲学 疑似科学と科学の哲学

著者:伊勢田 哲治
販売元:名古屋大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

疑似科学入門 (岩波新書) 疑似科学入門 (岩波新書)

著者:池内 了
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

臨床心理学における科学と疑似科学 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「わかる」と「納得する」―人はなぜエセ科学にはまるのか

後、ガードナーとかハインズの本もありますが、画像が貼れないのでした。

内容がニセ科学を扱った物でも、タイトルにその語が入っているものは、そんなに無いっぽいですね。

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2009年1月28日 (水)

ニセ批判批判 + 代案提示→ニセ科学批判者(補足)

昨日のエントリーの補足。青文字が補足の部分です。

2段落目から。

complex_catさんの仰る通り、ニセ科学批判活動を批判する人で、ではこうしたらどうか、と具体的な批判活動の代案を示す人は、いませんよね。ほとんど見かけない、という事。「いない」というのが「全く無い」を示さない事は、日常的な使い方から補って下さい。

実は、私としては、代案を示して現在のニセ科学批判一般を批判するのは無理だ、と思っています。ここで「代案」とは、上の段落と対応している。「具体的な批判活動の代案」の意味。それを示しながらもニセ科学の批判活動全般(一般)を批判するのは無理だろう、と考えている。理由は下に。

元々かなり広範囲な批判活動で、テキストも色々あって、向ける対象も様々なので、そもそもニセ科学批判と括って全部を批判するのは、不可能に近いんですよね。今まで誰もやっていない批判の仕方、というのを示すのも、多分出来ない。ああ、それはあの人がやってるよ、となるでしょうから。要するに、「具体的な代案」を出して「こうすべきだ」と言いながら、「現状の批判活動一般」を批判するには、現状の批判活動の悉くが「まずいやり方」であるのを示さなくてはならないが、既に多様な角度から批判がなされているので、おそらくそれは無理(どういう具体例を示しても、どこかの分野でそれは既出だ、と言われる)だろう、と書いている。

で、それ(代案提示)をせずに批判活動一般を批判するとなると、メタメタな次元からものを言うしか無い訳ですよね。論宅さんみたいにならざるを得ない。概念そのものに無理がある、とかね。

もし、自ら批判の方法を具体的に示しながら批判批判をするとなると、その人は自動的に「批判者」に入らざるを得ない訳です。でもそれは、批判活動一般に疑問を懐いている人は、出来ないでしょう、おそらく。だって、批判活動を批判したいのだから。批判する集合に自分が含まれていちゃあ、堪らんでしょう。

私は、代案を示さなければニセ科学批判活動を批判してはならない、などとは言っていない。示さないで一般論に終始するのは非常に解りにくい、というのは思うけれども。そもそもこのエントリーは、代案を示しつつ一般的にニセ科学批判活動を批判するのは難しいだろう、と言っているのだし。

コメント欄で書いている、具体例を出せばそもそも「批判批判」とは呼ばれないのではないだろうか、という主張は、「ニセ科学批判批判」が、単に「ニセ科学を批判する活動や人間をさらに批判する」、という「文字通り」の意味では無く、ある独特の意味を持たされている言葉だと考えているから。田崎さんの水伝批判文書が発表された直後にそういう言葉が出てきた事に、思いを馳せるのが良いと思う(意味は当初は「文字通り」のものに近かったように思うけれども、時間を掛けてきて、意味が狭まった、つまり条件が付加された、ように思います)。例⇒甲虫ブログ: ニセ科学批判批判

元々このエントリーは、前日の続きでもあり、complex_catさんのコメントとも関係しているもの。ニセ科学批判批判と呼ばれるような言説が、悉く一般論過ぎて具体例(これは「代案」の意味では無い)に乏しいのは、そもそもそういうものが括られて「ニセ科学批判批判」と呼ばれているからだろうと、改めて考えた(前から考えていた)。だから、仮に、現状の批判活動を批判しつつ(ニセ科学批判批判)、代わりになるような批判の仕方を提示したとするならば(+ 代案提示)、それはもう、今の意味内容から鑑みるに、「ニセ科学批判批判」とは呼ばれず、実質的に「ニセ科学批判(者)」となる(→ニセ科学批判者)のだろう、という考えを書いた。

※タイトル中の記号は、イメージです

一応言っておきますけれど、ニセ科学批判批判という言葉はメタ論に終始して具体例が無いものを指しているから、それを踏まえて用いるべきだ、と主張してはいません。

初めはニセ科学批判を批判するもの、程度の意味だった言葉が、おそらく色々の意味を付加されて用いられるようになったのではないか、という考えに基づいて、このエントリーは書かれている訳です。具体例や代案を出して言及した時点で、「ニセ科学批判批判」とは呼ばれず、「ニセ科学批判者が内部の批判活動を批判した」と看做されるのではないだろうか、と。それくらい、「ニセ科学批判批判」という言葉には独特の意味が持たされている、と私は考えています。

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2009年1月26日 (月)

ニセ批判批判 + 代案提示→ニセ科学批判者

昨日のエントリー 2008年1月27日追記:前日のエントリー⇒Interdisciplinary: 申し開き? についたコメントを読んで、前から思っていた事を。多分、この考えを持っている人は多い、と推測します。2008年1月27日追記:出来ればコメント欄も読んでね

complex_catさんの仰る通り、ニセ科学批判活動を批判する人で、ではこうしたらどうか、と具体的な批判活動の代案を示す人は、いませんよね。

実は、私としては、代案を示して現在のニセ科学批判一般を批判するのは無理だ、と思っています。

元々かなり広範囲な批判活動で、テキストも色々あって、向ける対象も様々なので、そもそもニセ科学批判と括って全部を批判するのは、不可能に近いんですよね。今まで誰もやっていない批判の仕方、というのを示すのも、多分出来ない。ああ、それはあの人がやってるよ、となるでしょうから。

で、それ(代案提示)をせずに批判活動一般を批判するとなると、メタメタな次元からものを言うしか無い訳ですよね。論宅さんみたいにならざるを得ない。概念そのものに無理がある、とかね。

もし、自ら批判の方法を具体的に示しながら批判批判をするとなると、その人は自動的に「批判者」に入らざるを得ない訳です。でもそれは、批判活動一般に疑問を懐いている人は、出来ないでしょう、おそらく。だって、批判活動を批判したいのだから。批判する集合に自分が含まれていちゃあ、堪らんでしょう。

※タイトル中の記号は、イメージです

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2009年1月25日 (日)

申し開き?

2009-01-24 - 「で、みちアキはどうするの?」:ニセ科学はなくなんないよ~

ちょっとよく解らないですね。

その実践者は、自分で、ホメオパシーが、まじないか何かと同程度のものと看做している、って事なんでしょうか?

気休めで、効くかどうか解らん、と思っているんなら、まあ良いのではないでしょうか……と言いたいですが、そう単純でも無い気はしますね。

「あなただってもし知り合いが亡くなったら葬式に行くんじゃないですか? それって、科学的な行為なんですか?」とホメオパシー実践者に問われたら、ニセ科学批判者はどう申し開きをするのだろう?

「科学的な行為」って何ですか?

誰が、「科学的な行為」しか認めない、と言ったんですか?

ホメオパシーは、科学的で無いと認める、という事ですか?

という風な疑問は出るでしょうね。

というわけで、「ホメオパシーは科学的ではない」みたいなやりかたは、説得力に欠ける。「あなた、だまされていますよ」なら解るのだけど、それならわざわざ科学的説明を持ち出す必要もないわけで。

ここは意味が取れませんでした。解った方がいらしたら、教えて下さい。「だまされていますよ」という説明を、どういう風にするんでしょう。「どう」だまされているのかを解説するのでは?

一応言っておきますと、「科学的ではない」=「ニセ科学」、では無いです。

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2009年1月24日 (土)

今まで書いたもの

Interdisciplinary: 水からの伝言批判

もっかい上げときます。

水伝のポイントを一つ。

水伝は、検証可能であり、検証不能でもある。それは観点による。

ちょっとここは押さえておきたい所ですが。

検証不能であればニセ科学には含まれ得ない、という事は無いですからね。検証不能である事を検証した、と言えば、それは非常に解りやすいニセ科学。本質的には水伝はそれです。要するに、普遍的な「良い言葉」や「綺麗な結晶」を前提している時点で、それは本来検証不能。

で、水伝を検証可能であると看做すのは、その主張を、「言葉によって水の構造は変わるか」という風に解釈した場合。

追記:もう少し書きます。

水伝が、実験した、などの主張をしているのは、これは明らかな事です。さすがにこれを否定する人はいないでしょう。

それで、上にも書いたように、本来水伝は、検証不能です。検証可能であると言われる場合もありますが、それは、メカニズムは措いておいて、入出力の関係を見て統計解析をすれば・・・という風に見るのは一応出来る、という話です。実は、それが確認されたとしても、水伝が証明されたとはならない訳です。なぜなら、水伝はそもそも、「良い言葉」が「綺麗な結晶」を作る、という「普遍的」(社会的な共通了解としてでは無い)価値判断を論に含むから。

という訳で、そもそも検証不能なものを実験して確かめた、などと言っているのですよ、水伝は。これのどこが曖昧なのか、と思います。しかも、江本氏のサイトに「科学」と書いてあるのは、NATROMさんが採り上げられた通りです。

ところで、水伝はそもそも検証不能である、というのは、そんなに多く見られない気もしますが、どうでしょうね。

ここら辺の論理を、他にもdlitさん辺りがヴァシッと書いて下さったりしないかなあ、とか、他人任せな事を考えたり・・。

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2009年1月19日 (月)

詭弁者

はてなブックマーク - tittonのブックマーク - 2009年1月18日

titton ゲームが「学業に専念できない」という意味で有害なのは確定的に明らか。その欠点を克服しない限り有害論は栄えるであろう。それはそうと良いデータベース

画面脳レベルのダメさですね、この人。何を的外れな事を言っているのか。

追記。箇条書き。

  • 学業に専念できないとは具体的にどういう意味か。
  • 有害とはどういう意味か。
  • 確定的に明らかとはどういう意味で、根拠は何か。それは単なる主観か、実証的なデータに拠るものか。
  • 欠点を克服するとはどういう意味か。それは、ゲームによって「学業に専念できない」のを克服するという事だから、「ゲームによって学業に専念できる」のを指すのか。
  • 有害論が栄えているのが、そのゲームの欠点故なのか。
  • その欠点とやらは、ゲーム特有のものなのか。

一般的に言えば、学業そのもの以外に打ち込めば、学業には専念出来ん訳です(ちょっと考えれば、「並行」させるのは可能だけどね)。それは当たり前。スポーツだろうがケータイだろうがアニメだろうがマンガだろうが恋愛だろうが。で、そんな中学生でも解りそうな事を改めて書いている? それとも、なにがしかの根拠や考察すべき理論なりがあって書いている?

追記2

http://b.hatena.ne.jp/titton/20090119#bookmark-11722375

titton ただのオチョクリになにをマジになっているのやら。こういう余裕のない排斥姿勢が疑似科学批判自身がカルト化している証拠。いや正直こんなことにマジレスされるとは予想外。こんど水の結晶にでも相談してみよう

http://b.hatena.ne.jp/titton/20090119#bookmark-11721832

titton なにをただのネタにピリピリ神経質になってマジギレしているのやら。ネタなんだから意味不明なの当たり前じゃん。何かの宗教にでも入信して心安らかになるといいんじゃないの?

本当に面白い人ですね。

マジギレと看做してもらって結構。人が真剣に取り組んでいるものについて、ネタだのオチョクリだので訳の解らない事を言っているのを見れば、マジギレもする。

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2009年1月17日 (土)

SG

ゲームで社会問題を解決 高い教育効果、進む研究や開発(産経新聞) - Yahoo!ニュース

藤本氏や馬場氏は頑張っていらっしゃいますね。

シリアスゲーム専用のソフトっていうのは、制作が難しそうですね。特に、エンターテイメントゲームに慣れた目の肥えた人達にも高評価を受けるソフトを作るのは、困難かも。

もちろん、学術なりのシリアスな部分の学習効果をも達成させねばならない訳ですね。なんとなくシリアスとゲームを組み合わせたようなのでは、話にならない。

ゲームやる人の価値観は、ある程度はっきりしていて、「面白く無ければやらない」、ですからね。まあ、惰性でやったり義理でやったり、というのはありますけれど、ゲーム好きを自認する人には、つまらないゲームに時間を割く事が我慢ならない、という妙な感情があったりするかも。自分はつまらないゲームを見抜けるのだ、という自尊心もあったりね(笑)

理想的には、自分がシリアスゲームをやっているなどとは全く気付かないのに、クリアしたら学術的知識体系の構造が身に着いていた、というのがあればいいですね(私の持論です)。言うは易しだけどね。

この件に関しては、シリアスゲームをどう分類するか、とかのアイデアがぼんやりあったりするんですけど(主に、武術論や、高岡英夫氏の論考の概念の援用)、専門的にどういう概念があるかを押さえておかないとなあ。新しい分野なので、文献もまだまだ少ないですよね。日本語で読めるのは数冊とかかな?

シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム Book シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム

著者:藤本 徹
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2009年1月16日 (金)

テレ朝で血液型性格判断(一応否定的)

kikulogの「血液型と性格3」で、先日(テレビ朝日の)医学系の番組で血液型性格判断が採り上げられていた事が話題になっていました。

皆さん、ゲストの女性の反応が印象に残ったようです。私もそうでした。

で、録画してましたので、ちょこっと文字起こしをば。※詳細な流れは書きませんので、先にkikulogを読んで下さい⇒血液型と性格3(785辺りから)

司会(アナウンサー):まあ、医学的にはもう関係が無いんだと。
 
女性:えー、やだあ……ショック…。

※司会の発した「もう」の部分は、「既に」の意味というよりは、単に次の言葉につなぐために発したような感じ。

途中飛ばして、コーナーの締めのナレーション。

ナレーション:とはいえ、日本では大流行の血液型性格判断。遊び感覚で楽しむ程度がいいようです。

これはひどい。「抜け抜けと」と言うのがぴったりでしょう。
 
観直してたら、太田さん、いや、根拠はあります、的な事も言ってますね。全体的に茶化している印象ではありますけれども。

でもあれですね。医師の方で、じゃあ、骨髄移植したら性格が変わるのか云々、という、ある意味定番な反論を言っている方がおられました。まあ、血液型と性格に強い関連があるのならば、というのが仰りたいのでしょうけれども。

医学の番組でしたけど、血液型と性格の問題は、多分に心理学的なものでもあるんですよね。そこら辺を総合的に扱う番組なんかがあればいいんですけど、今のテレビがそこまでは踏み込まないでしょうね。

ナレーションで、どうやら医学的には、血液型と性格に関係は無いようです、というのがあって、危ういっちゃあ危ういなあ、とも感じました。

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2009年1月15日 (木)

追加しました

ゲーム脳Q&Aに、新しい質問を追加しました。

質問:ゲームをやめさせたら子どもがおとなしくなり、勉強も出来るようになりました。これはゲーム脳があって、それが治ったということではないのでしょうか。

回答:そうではありません。ゲームをやめたら勉強が出来るようになったり、性格が変わったように見えたり、といったことがあった場合、ゲームをやめさせただけではなくて、他のことも変わった可能性があります。たとえば、ゲームが怖いと思って、勉強しないと脳が壊れてしまう、という気持ちになって、勉強の時間が増えたり、ということもあるかも知れません。ですから、何かをやめたら良いことが起こった、という時に、そのやめさせたものが原因だったと、すぐに言うことは出来ないんですね。

そもそも性格の変化等が気のせいである可能性も考えられる訳ですが、それは書きません。

ここら辺、三た論法と関わる部分ですね。

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追加するかも

ゲーム脳Q&Aに、一つ書き加えるかも知れません。あるページを見て、これは書いとかなきゃいかんかな、と思ったので。

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2009年1月14日 (水)

相対主義を護れ

なんとなくキャッチィなタイトル。

前も書きましたけど、水伝って、相対主義を許さない主張なんですよ。

そこをちゃんと押さえて下さいね。

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2009年1月13日 (火)

ケータイDE学力低下

<学力・生活実態調査>携帯電話で学力低下 持ち込み禁止対応も--尼崎市教委 /兵庫(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

記事に、いくつか突っ込み所が。

  • 「携帯電話で学力低下」の、携帯電話”で”というのが何を意味するのか。それが原因となると読めるが、どういう論理か。
  • つまり、仮に、携帯電話を使う事で勉強時間が減る、といった理由があるとして、それを「携帯電話”で”」と表現する事に問題は無いか。
  • 分布のどこに位置するか、という指標の「偏差値」を、即「学力」の尺度と考えても良いのか。
  • 偏差値の数ポイントの差を、実質的な差と考えても良いか。偏差値の変化を「学力の変化」と考えるのは適切か(て言うか、何が下がったのでしょね。どのデータをどういう風に処理しているのか※)
  • 学力と携帯電話所持に関連があるとして、携帯の持込を禁止して、果たして学力が向上するか。強い因果関係が無ければ、そうはならないはず。
  • 仮に、他の干渉変数があり、それが「勉強時間」だとするなら、携帯電話所持を禁止したとしても、学力は向上するとは限らない。携帯電話が無ければ勉強をする、とはならないから(ケータイと勉強以外にする事が無いならともかく)。

※どんな方法なんでしょうね。尼崎市のサイトを見ても、資料はありませんでしたので、未確認。まさか、偏差値を平均したとか? 記事からは全く判らんですが。

他に何か突っ込みあります?

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2009年1月11日 (日)

無理がある

(考え中) : 「水からの伝言」をめぐって #3 - livedoor Blog(ブログ)

引用元文章(「水からの伝言」をめぐって)に対して心情的に共感を寄せる人にとっては、私の指摘は枝葉末節でどうでも良いことに映るかもしれません。なぜならば、心情的に共感していれば、私の指摘した点に対して違和感を抱く理由かないからです。

そういう問題ですか?

どう考えてもその読解は無理矢理だろう、という話なのでは?

水が言葉に反応するというのは、「なんとも驚くべき話」では無いのですか?

それは物理科学的に、「とんでもなく強い主張」では無いのですか?

「どういう意図」も何も無いと思うんですが。

そういうレベルでの読解なら、「何とでも言える」とはなりません? コメント欄の応答もね。

普段、あまりこういう事は言わないですが(批判する事と、実際自分が出来るかどうかは、別の話だから)、ちょっと「手本」を見せて欲しいです。ご自分がなさった指摘を全く受け付けないようなテキストというものを、書いてみて下さい。

書いてみてから、きくちさんの文章より優れているものだ、とアピールした方がいいのでは? 多くの人が、きくちさんのものより優れていると判断すれば、いずれそれが用いられ、きくちさんの文章が用いられる事は少なくなるでしょうから。

共感を寄せる人間は、内容以前に心情で判断する、だから、元々きくちさんに共感する人は、ずっとそうし続けるだろう、なんて言い分は通用しませんよ、当然。そこまでいくと、ソフィストです。

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批判を批判するのもいいですが、批判を批判する暇があるのなら「自分で適切な批判をする」方向を目指しても良いのではないか、と私は思う事があります。

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2009年1月10日 (土)

新人

最近、ABO FANさんやSSFSさん、論宅さんに匹敵する奇跡の論客が出没中。

逸材は居るものですね。

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2009年1月 7日 (水)

待つ?

FSMさんの所にも書いた事ですが。

論宅さん辺りが、ニセ科学がどのくらい広まっているか、などについて、それは社会調査によって調べられたのか、という言い方をしますよね。

あれってどういう意味?

どのくらい流布されているか、という所の現状把握の目的なら、それは有意義なものでしょう。

でも、論宅さんは、そうは書いていないようにも見える訳です。つまり、大きく広がっているのが確かめられた訳では無いのに批判して云々、という風に書いているように見えます。

素朴な疑問。

批判は、ニセ科学情報が社会に大きく広まるまで待て、って事?

そんな馬鹿な話はありませんよね、

もちろん、教育現場で使われているなどの事実の重みを考えれば、それだけで、問題として重視するに充分です。

論宅さんに関しては、そもそも社会調査論をどのくらい押さえているのか、大変疑わしい訳ですけれども。統計解析についても、果たしてどの程度の知識を持っているのか、と思います。

当然、現状に乖離した主張はすべきでは無いですが。確かめられてもいないのに、日本に住む人の○%はニセ科学的論を信じている、とかね(そういう調査は不可能な気もしますが)。

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2009年1月 2日 (金)

サンプル(標本)サイズ(大きさ)とサンプル(標本)の数

タイトルの事について、掲示板に色々書いたのですが、これは多分、統計の話の中でも重要な所だと思うので、こちらにも、適当に編集して載せてみます。

誤用や解釈の違いなどがあれば、ご指摘頂ければ幸いです。

了解しました。
じゃあ、帰無仮説が真の場合、有意水準5%で検定をやるとしたら、標本が100セットあったら、何セットぐらいは差が有意(帰無仮説が真にもかかわらず←もちろんこのことは検定をする人は知りません)となってしまってもおかしくないことになりますか?1000セットだったら?10000セットだったら?

# 「セット」という言葉は適当なんですが、検定理論ではなんというべきなんですかね?

このFSMさんの投稿(#567より引用)へのレスから書き始めたものを再構成します。

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この場合、標本「数」1000、標本「数」10000、となるのかな。「標本」とはそもそもデータの集合を指す訳ですしね。
なので、「標本サイズ(大きさ)」と分けるのですね。

だから、n が大きいのは、「多数」の標本では無く、「大標本」ですし、「少標本」では無く「小標本」。

標本に含まれる要素の数を表す時、「数」が入った語は、「データ数」とか「例数」が使われるようにも思います。

正確に考えると、そうなるのだと思います。間違っているかも知れませんけれど。

標本の大きさを n で表すように、標本の数を k で表す場合もあるようです。この場合、反復回数の1000とか10000とかですね(いくつかの統計の本で確認しましたが、ソース失念)。

でも、標本数と標本の大きさはごちゃごちゃ使われているので、セットとするのが解りやすいですよね。

青木氏@群馬大の掲示板を見ると、標本の大きさの意味で「標本数」という語を用いていたら、まずそこを指摘されるのを見ますね。

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ちなみに、「標本の大きさ」を使うべきなのは、単に、それがデータ数を指す語として使われているから、というだけでは無く、「標本数」が「別の概念を指す語」であるから、という理由もあると思います(青木氏の掲示板でのやり取りを参考にしました)。「標本」がデータの集合を指す訳ですので、そうするのが用法としても整合的であるように感じられます。

もちろん実際的には、文脈を考慮すればどちらの意味で用いているかは判別は出来ますけれども(場合によってはすごく混乱します)。

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参考資料として、この問題に言及したものをいくつか。

また見つけたら追加するかも。

最後のは、かなり強烈なエピソードが紹介されていますね。

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あー、後。

サンプルサイズを「N」とする場合がありますが、これも「n」を用いた方がいいんだと思います。「N」は母集団サイズですね。厳密にはそれが正しいのだ、と強く言っていいのかは判りませんけれども。

ちょっと、解りにくい例を考えてみました。軽くわざとらしいですが。

 ある母集団から、標本を1000個採る

データ数が1000で、ワンセットの標本? それとも、いくつかのデータのセットを1000採る?

みたいな。普通は前者でしょうけれど、標本分布の話をする場合には、後者の事もありますね。

これを、

 ある母集団から、大きさ1000の標本を採る

とすると、かなり明確ですね。

尤も、1000セット採る場合は、わざわざ「1000個」とはせず、「1000回」とするかと思いますが…(だからわざとらしい)。

追加

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数学的には、集合は英語で「set」のようですから、むしろセットが解りやすくて良いような気もするのですが、どうなのでしょうね(詳しい方がいらしたら、教えて頂ければありがたいです)。

少なくとも、私は敢えて「標本数」とする事は無いですね、FSMさんと同じく。誤解もしくは混乱させる可能性大、なので・・。

だから、「セット」を使ったり、上にも書いたように、データ数は標本サイズとして、標本数は「k ”回”抽出する」、としたりするのがいいのかなあ、と今の所は考えています。

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2008年12月31日 (水)

無理解

掲示板でABO FANさんとやり取りしていて、統計学理解のレベルが想像以上の低さだ、というのが判明して、なんだかなあ、です。

kikulogとかでは、多分理解していないだろうなあ、と思わせながらも肝心な所は はぐらかして(読解が不能になるような詭弁を弄して)いたから、もしかしてわざとやってるのかなあ、と感じていたんですが、掲示板では、面白いほどに無理解を無防備にさらけ出していますよね。なぜ? 油断しているのかな。

FSMさんの嘆きもご尤もなのであります。

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2008年12月30日 (火)

メッタメタ

ニセ科学批判を批判したり、科学をメタな視点から相対化して科学は実は絶対主義的で云々、と論をぶつ人って、なんで、具体的な実証科学の方法を採り上げて検討してみる、というのをしないんでしょうね。

最近WEBで見るものに関して言うと、科学を相対化しようとしているもので、科学哲学的な論を押さえつつ展開しているのも、あまり見かけないんですが。日本だと、伊勢田さん辺りの論は参照する価値が高いと思うのですが、どうなんでしょうね。

科学の側にいる人がメタぶった人に批判されて、いや、その論点は既に伊勢田によって考察されているから参照せよ、と返されるのを見たりするんですけど、それってどうなの、とか。

後、科学の現場の人達の方がよっぽどそういう面に目を向けている、というのもあるかも知れません。心理学なんかは、特にそうかも。確か疫学も、科学哲学的な論と密接に関連しているんですよね?

具体的な方法を採り上げて、この方法では不足している、とか、こういう方法の方が適切である、という風に批判されれば、なるほどそうか、と参考に出来ると思うんですけどね。全然見ません(科学の内部ではもちろん見る訳ですが)。

科学を批判したいのなら、実験科学の方法について書かれてある書籍に目を通したりするのが筋だと思うんですけどねえ。してます?

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2008年12月29日 (月)

ノート:心理学研究法(10)

○第8章 信頼性と妥当性(平井洋子)

数量で表される物理的な特性。身長や体重――巻尺や体重計で直接測れる

人の心理的特性――心というブラックボックスに入っていて、直接測れない。構成概念

心理学――測ろうとする心理的特性の強弱に応じて反応が分かれるような質問を与え、返ってきた反応を介して「間接的」に特性の強さを測ろうとする。

→測定誤差の混入(人の反応は状況によって変動するから)

§1 測定誤差

人の日常――行動や性格に一定の傾向と強さがある

外から観測出来る行動・態度・発言に注目し、その平均的なレベルが対象の特性レベルと考える。

心理学的測定(ここでは、古典的テスト理論の測定モデルに基づいて説明)――測定される行動や反応を、

  • 平均で示される特性レベル
  • 状況によって変動する部分

に分けて考える。

観察や心理検査の結果から、個人の特性レベルをあらわす得点を求めたとする。

  • 観測された得点:X
  • 個人の特性レベル:T
  • 状況から受ける影響:E

X=T + E

と考える。

  • T:真の得点(True Score)――同じ測定を繰り返した時、その人が示す平均的な特性のレベル。個人ごとに異なる定数。
  • E:誤差(Error)――平均的な特性レベルと観測得点 X との食い違い。
    • ランダムに発生する測定誤差
      • 内的な要因
        • 集中力、やる気、興味、体調 などの変動
        • 勘違い、見落とし、度忘れ、記入ミス
      • 外的な要因
        • 検査場所(照明、騒音、机や筆記具など)、実施者、採点者、検査項目などの違い
        • 採点ミス
    • 系統的な測定誤差――どのような状況でも一貫して生じる誤差。真の得点 X に組み込まれる(本当に知りたい特性とは無関係な要因)。
      • 内的な要因
        • テスト不安・緊張性
        • 何にでもYesと答える傾向
      • 外的な要因
        • 使用言語

↑分類は状況によって変わる。

§2 信頼性の概念

▼誤差の大きさと信頼性係数

X=T + E だから、E が小さければ、X は T に近い値になる。T=X - E

E :その時々にランダムに発生する様々な要因の和。

信頼性係数(Reliability Coefficient):誤差Eの変動がどの程度大きいかを示す測定精度の指標――観測得点 X の変動の中で誤差 E の変動が占める割合を1から引いた値

観測得点 X の分散=真の得点 T の分散 + 誤差 E の分散

信頼性係数=1 - E の分散 / X の分散=T の分散 / X の分散 ※0から1の間の値をとる

信頼性係数が高ければ(誤差の占める割合が小さければ)、真の得点 T に近い得点が安定して観測される、と言える。

▼再検査法

▼代替検査法

▼項目の内的一貫性による方法

信頼性係数の大きさを推定する方法をまとめる。

  • 再検査法――同じ被験者群に一定の時間間隔をおいて同じ測定を繰り返し、2回の得点間の相関係数を信頼性係数の推定値として用いる。
    • 高い信頼性係数が得られた場合→測定の安定性を示すつまり、同じものを繰り返して同じ様な点が出れば、安定して測定出来ている、と看做せる
  • 代替検査法
    • 同じ心理的特性を同じ難易度で測定する検査が複数ある場合。→代替検査あるいは平行検査:記憶効果(同じ検査を行った場合、以前に実施した時の事を憶えている)などを考慮する際に用いられる
    • 代替検査法――同じ被験者群に複数の代替検査を連続して実施→2回の得点間の相関係数を信頼性係数の推定値として用いる。
    • 高い信頼性係数が得られた場合→測定の等価性を示すつまり、異なるテストが同じ様な得点を示すのであれば、同じものを測れていると看做す
    • 検定試験や資格試験が好例←毎回設問が入れ替えられ、難易度は一定で、どの回を受検しても本質的な違いが無い(知っている問題が多く出るか、といったような運の要因が、ランダムな誤差として考えられる)
  • 項目の内的一貫性による方法
    • ある心理的特性を測りたい時、それを測る検査項目を多数集めて一つの尺度とする事がある。
    • →異質な項目(別の心理的特性を測る項目や、ランダムな誤差の影響を受けやすい項目)がまじると、観測得点の中で測りたい特性が占める割合が下がる。
    • 内的一貫性による方法――検査項目間の相関関係を利用して項目間の等質性を推定→クロンバックのアルファ係数(Cronbach's Coefficient Alpha)を求める
    • アルファ係数――検査項目の全ての組み合わせについて相関係数を求めた時、それが全体的に高くなるほど係数の値が大きくなる性質がある。
    • 高い信頼性係数が得られた場合→項目の等質性を示す参照⇒クロンバックの α 信頼性係数

参考資料⇒心理統計の注意点:信頼性についての注意点(大変重要な事柄が書かれていると思うので、是非参照して下さい)

§3 妥当性の概念

▼測定の適切さ

ランダムな測定誤差が少ないだけでは、良い測定とは言えない。

妥当性(Validity)――ある心理的特性を測るために、その検査なりを行うのがどの程度適切か、得られた得点がどの程度適切にしようされているか、と示す概念。つまり、測りたいものをちゃんと測れているか。測定の偏り。信頼性は、測定の精度を示す。

同一の検査でも、使い方によって妥当性が変わる。←妥当性が、被験者との適合性や測定結果の用いられ方まで含んだ概念だから

心というブラックボックスを間接的に測定せざるを得ないから、妥当性があるかどうかを常に意識しておく必要がある。体重や身長は明確だが、心理的特性のような構成概念は、測りたいものが全く測れない可能性もある

妥当性検証の局面

  • 検査や尺度
    • 適切な測定形式
    • 適切な実施
    • 適切な採点
  • 測定結果(得点)
    • 適切な解釈
    • 適切な使用
  • 心理的特性が的確に反映されているか
  • 測定対象に適合するか

▼妥当性のさまざまな証拠

例:文章理解力の測定

測定が間接的→妥当性の検証も、証拠を積み上げながら間接的に行う。

  1. 内容からみた妥当性
    • 検査や尺度が正しく、測定したい心理的尺度を反映しているか
    • 検査項目⇔測定の内容領域⇔測定したい特性 ←これらの関係を検討する
    • 一般的な文章読解力を測定した場合→バラエティに富む素材が用いられているか、一般的な文体や語彙、漢字が用いられているか、特定分野の予備知識が有利に働かないか
    • 外部の専門家や現場の人に検討を依頼する
  2. 被験者の反応からみた妥当性
    • 回答データの面から――被験者の回答が理論上想定した通りのパターンを示すかどうか。想定外のパターン→妥当性が無い。項目の正解率や項目間の相関係数、因子分析などを手掛かりにする。
    • 回答データ以外――被験者の回答行動を観察、感想を尋ねる、など。回答に要する時間や設問の難度な、解き方など。
  3. 他の変数との関連性からみた妥当性
    • 測定したい心理的特性に理論的に関連のある、別の心理的特性が存在する事が多い。例:文章読解力は、漢字能力や語彙力と理論的に強い関連があり、論理的思考力と中程度の関連があると想定出来る
    • →それらの特性を測る検査を行い、文章読解力の得点との関連を調べ、相関関係を見る。

§4 よい測定を行うために

信頼性が低い→ランダムな測定誤差の割合が大きい:測定したい心理的特性が観測得点にあまり含まれない→妥当性も望めない

信頼性を高めようとして、内的一貫性を高め過ぎる→項目が等質になり過ぎる→測定内容が偏る→測定したい内容領域が部分的にしか測れない極端な話、全部同じ質問にする、とか

必要な高さの信頼性が確保されたら、妥当性を追求した方が良い。

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2008年12月28日 (日)

ノート:心理学研究法(9)

○第7章 質問紙による研究(平井洋子)

§1 質問紙の特徴

質問紙(Questionnaire)――用紙に一連の質問を配置したもの。回答方法に関する指示なども書かれている。用紙を見せ口頭で回答を得る形式や、用紙上に質問を記し回答も用紙上に記入する形式(紙筆式:Paper and Pencil)がある。※本章では紙筆式を扱う

▼調査系の質問紙と検査系の質問紙

質問の内容や研究目的に応じて多種多様な質問紙がある。

  • 知りたい対象
    • 集団の傾向(調査系
      • 測定内容
        • 属性(性・年齢・職業など)
        • 意見
        • 行動・実態など
      • 質問紙の具体例
        • 国勢調査
        • 世論調査
        • 消費者アンケート
      • 回答の得点化は想定していない場合が多い
    • 個人の特性の強さ(検査系
      • 測定内容
        • 性格
        • 態度・価値観
        • 興味
        • 知識
      • 質問紙の具体例
        • 適性検査
        • パーソナリティ・インベントリー
        • 問診表
        • 資格試験・能力
      • 回答の得点化が行われるのが一般的

一つの質問紙に両方のタイプの質問が混在する事もある。

学力調査のように、個人の得点を出すと同時に学校や自治体単位でも集計されるなど、同じ質問が両方の目的に用いられる事もある。

▼質問項目の形式

  1. 多肢選択式(Multiple-Choice)
    • 複数の選択肢を与え、当てはまるものを選択させる形式。与える選択肢が2つの場合→強制選択式(Forced-Choice)
  2. 正誤式(True-False)
    • 質問に対し、正/誤 で答えさせる形式。性格、態度、価値観、興味などの検査でよく用いられる。
  3. チェックリスト(Checklist)
    • 形容詞や事物を複数並べ、当てはまるものをいくつでも選ばせる形式。個々の形容詞や事物について○×で評定する正誤式と実質的に同じ。調査系の質問紙でよく用いられる。
  4. 評定尺度法(Rating Scale)
    • 質問に、どの程度自分に当てはまるかを段階評定させる形式。段階によって、「○件法」と言う。4件法から7件法がよく用いられる。
  5. 自由記述式(Free Response)
    • 質問と回答欄を与え、自由に回答を記述させる形式。
      • 利点:多様な情報が集められる
      • 欠点:回答の整理が煩雑で回答の負担も大きい

▼質問紙による研究の長所と短所

面接や観察、実験などの研究法と異なり、質問紙による研究では、書面上でデータ収集が行われる。

長所

  • 多数の回答者に対し一度に実施出来る
  • データの収集条件を統一する事が出来る
  • 実施が簡単
  • 回答者の心理的負担が比較的小さい
  • 本人しか解らない内面的な事や、過去・将来の事についてもたずねられる。

短所

  • 回答者の言語的理解力に依存する
  • 再質問や回答の確認が出来ない(意味の取り違えに対処出来ない)
  • 無意識的・意識的な回答の歪曲があり得る
  • 回答者が意識していない事は測定出来ない

§2 質問紙を用いた研究の流れ

▼全体的な流れ

  1. 実施目的と対象者の明確化
    • 仕様書――実施目的や測定内容、質問項目の数・バランス・配置などを具体的に書き下ろす
  2. 質問紙の作成
    • 質問項目の作成
      • 先行研究
      • 日常的な観察
      • 専門家の知識や意見
      • 他者によるチェック
  3. 予備実施――本実施の前に、上手く機能しない質問項目や編集上のミスを見つける
    • 項目分析
    • 質問の修正と入れ替え
  4. 本実施
    • 無効回答のチェック
    • コーディング
    • データ入力
    • 100名以上のデータを集めるのが一般的
  5. 集計と分析
    • 単純集計――回答の分布、最小値・最大値、平均値、標準偏差などを確認
    • クロス表
    • 多変量解析
  6. 結果の報告

▼質問紙の設計

▼質問紙の編集

具体的事例がありますが、まとめるのが難しいので省略。

こちらなどを参考に⇒「ここはどこ」質問紙の設計

ワーディング(言い回し)について、良い質問紙を作るためのワーディング、というのが箇条書であるので、引用します(P89)。

明快で簡潔な表現を使う

  • 語彙は平易でオーソドックスに
  • 文は短く単純な文法で
  • 形容詞や副詞の使用は最小限にする

ひとつの質問文の使用にはひとつの内容のみ

否定的な表現を避ける

  • とくに二重否定を避けること

不快感をよぶような表現を避ける

  • 差別的な表現
  • 決め付ける表現
  • プライバシーに立ち入った内容

誘導的な表現を避ける

  • 規範や常識をちらつかせる
  • 好ましい(好ましくない)ニュアンスをもつ表現

用語や表記を統一する

§3 質問紙の実施と利用上の注意

実施者の果たす役割は重要。実施者の態度や行動一つでデータ収集が失敗する事もある。

  1. 回答方法の指示を徹底させる
    • 回答者は質問紙に記載された支持や注意事項を読むとは限らないので、口頭や板書でしっかり繰り返し伝える。
  2. 回答者の不安を取り除く
    • 回答者は、自分の回答データの扱いや公表の有無について不安に思う。データ処理や公表の内容などを説明する。
  3. 自発的な協力姿勢を引き出す
    • 回答者の中には、協力的で無かったり、どうでもいいといった態度の人もいる。実施目的を説明する際に解りやすく伝え、内容に興味を持ってもらうように努める。

既製の質問紙利用の際の注意――実施マニュアルや採点マニュアルが添付されていたら、手順は必ず守らなければならない。質問の削除や改変は行わない。行う場合は、自作のオリジナルな質問紙と考え、仕様書作成の段階からやり直すべき。

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2008年12月26日 (金)

対談

はてブ経由で⇒日経サイエンス 日経サイエンス 2009年2月号

茂木氏と伊勢田さんの対談が載っている模様。

spiklenci-slastiさんによれば、伊勢田さんは「忠告」をしたそうな。茂木氏の反応は微妙そうですが…。

そういえば、往復書簡はどうなったんだ、というのを最近何故か思い出したんですけど、どうなったんでしたっけ。

追記。

上で、「忠告」と括弧で括っていますが、これは、伊勢田さんの日記を踏まえたものなのですが、⇒Daily Life

書かれたものと「忠告」の意味合いに、ニュアンスはあるやも知れませんね。

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一区切り

いつの間にか、タイトルが変わっていました⇒江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記

多分、12/19から12/25までは、私の見落としが無ければ更新はされていないと思います。

少し日が経ったので、どこが更新されたかが解りづらいかも知れないので、拾えた範囲で引用します。こちらを参照⇒http://megalodon.jp/?url=http%3A//d.hatena.ne.jp/finalvent/20081117/1226930161

○2008年12月19日~12月25日までに追加・修正された部分。赤文字は私による。

▼修正

prevention and control in foodgrains")。また、その仕組みは毒性によるものです。

prevention and control in foodgrains - Contents")。また、その仕組みは毒性によるものです。

▼追加(参考文献の部分)

Uraguchi K. Mycotoxic origin of cardiac beriberi. Journal ofstored products research, 1969, 5: 227±236.

▼追加(NATROMさんへの応答)

⇒衝心脚気の原因はカビ毒か? - NATROMの日記

から

カビ毒による脚気症状と、アビタミノーゼによる脚気は異なる病気であるとすることも可能ですが、明治期以前には区別されていなかっただろうと思われます。

まで。途中省略。

後はコメント欄。

○2008年12月25日19時頃~12月25日23時頃

▼修正(タイトル)

偽科学発見テスト - finalventの日記

江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記

▼修正

2008-11-17■偽科学発見テスト

■江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか
 以下のエントリは、当初「偽科学発見テスト」と題されていて、科学的な言説と非科学的な言説をどう考えるかという、一つのテストケースとして考えていました。

 想定していなかったいくつかの契機があり、また私の考えも変わったので、その点については、書き改める予定です。

 以下は、それまでの過去の経緯として、ご関心のあるかたはその心積もりで参照してください。

後、コメント欄で、finalventさんの考えが書いてあります。

今後、考えを改めた所を踏まえてまとめられるとの事。これまでのやり取りは、「以下は、それまでの過去の経緯として、ご関心のあるかたはその心積もりで参照してください。」と書かれているので、どう考えが変化したのかを参照出来るように残す、という事でしょう。

このエントリーを書いている時点では、まだ新しいエントリーなりは無いですが、その内にアップされるのだと思います。

結局の所、「偽科学発見テスト」としての意義は無かった、と看做しても差し支え無いだろうとは思います。テストとは一般的に、明確な答えを知っている者が出題し、解答者はそれをきちんと当てる事が出来るか、というのを言うと思いますが、今回は、そのような関係は成り立っていなかった、と言えます。

早い内からそういう指摘はあり、論拠をきちんと出して主張を詳らかにするべきではないか、と言われてきたにも拘らず、非常に参照しにくい仕方で更新・修正し、論拠を小出しにして主張を明確にしてこなかった、という部分は、やはり批判されてしかるべきかと思います。と、批判をきちんと書いておくのは必要なので、書きましたが、それはそれとして。

当時カビ毒中毒がどの程度あったのか、とか、そこら辺は興味深い話だろうとは思うので(それは最初から誰も否定していないのだし…)、これからまた議論が進んで考察が深まれば良いと考えています。

本音を言うと、どうして、初めから言葉をきちんと尽くしてやり取りしなかったのだろうな、という感じなのですが、今言っても詮無い事ではあります。

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2008年12月25日 (木)

予定は未定であって決定では無い2

心理学研究法が、まだ半分くらいしかきていないのに、気が早いですが。

テキストをまとめるシリーズ、今後もやろうと思うんですが、需要ありますかね?

候補を挙げるんで、気が向いたら、これを書いてちょ(死語)、とコメントでもして下さいな。

  • 学習科学
  • 学習科学とテクノロジ
  • 社会調査の基礎
  • 科学と技術の歴史
  • 自然と文化の記号論
  • 科学の哲学
  • 心理学初歩
  • 生涯発達心理学

あ、90年代後半から、2004年くらいまでのテキストです。分野によって、最新の知識が反映されていないものもあるでしょうし、基本的な知識はほとんど変わらないので問題無い、というのもあるでしょうから、そこら辺は念頭に置いて頂ければ、と。

よろしくお願いします。

このシリーズ、テキストを写しながらまとめる、だけのように思えて、実は、自分が理解しながら、青字で意見を書いたりするので、意外と大変だったりします。それだけに、おさらいという意味でも、ものすごく勉強になります。

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2008年12月24日 (水)

学会

これ、書いといた方がいいかも。

えっと、森昭雄氏が理事長をされていた(現在は理事)「日本健康行動科学会」、Wikpedia(2008/12/24 現在)では(ゲーム脳 - Wikipedia)、

なお、同会の名称に「学会」を含んでいるが、日本学術会議に登録されている正式な学会ではない。

と書いてありますが、実は…⇒日本学術会議協力学術研究団体の称号の付与について

 このたび、平成17年12月に日本学術会議協力学術研究団体に申請しておりました結果が通知されました。平成18年4月13日付けで日本学術会議協力学術研究団体の称号が付与されました。

既に、日本学術会議に登録されているんですね。ここも⇒日本学術会議|日本学術会議協力学術研究団体一覧:日本ケ(下の方にあります)

森氏の専門分野の記述に関しても、Wikipediaは情報が古いです。

博士論文は脳神経ではなく筋肉に関する論文であり、現在も専門は運動生理学である。

日大のWEBサイトにおいて、森氏の専門分野として「脳神経科学」が書かれているのは、以前ご紹介した通りです。

Wikpediaの情報をそのまま信用して、当該学会が日本学術会議協力学術研究団体では無い、と思っている方が、もしかすると結構おられるかも知れないので、書いておきます。

もちろん、日本学術会議協力学術研究団体に指定されているからといって、活動の実態の質を保証するものでは無い、というのは言うまでもありませんが。

ここも参照(PDF)⇒http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/kanji/siryo13.pdf

日本学術会議の第13回幹事会資料。日本健康行動科学会への称号付与に関する記述があります。

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履歴

脚気 の変更履歴 - Wikipedia

実は、11月以降に結構編集されてたんですね。知らなかった。

ところで、松田誠氏の『高木兼寛伝』を読んでいます。もう少しで読み終わるかな。

松田氏の文は、WEBでも読めますが、この本は、読み物として読みやすいよう、噛み砕いて書かれていますね。

脚気にまつわる論争って、科学論・科学史的に見ても、大変興味深いと思います。

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2008年12月23日 (火)

真理対応説と真理整合説

科学とスピリチュアルと相対主義|ほたるいかの書きつけ

全く論宅さんは適当な方ですね。

いや、それは解り切っているので、ここではその話ではなくて…。

えっと、論宅さんが援用している「真理」についての説。これについて、手許の文献に記述があるので、ちょっと引用してみます。FSMさんのエントリーを読む際の理解の助けになれば幸い。

●真理対応説と真理整合説

 真理については,ふるくからふたつの代表的な説がある。ひとつは真理対応説(correspondence theory of truth)である。たとえばアリストテレスは,真理を定義して,存在するものを存在しないといい,存在しないものを存在するというのが虚偽であるのにたいして,存在するものを存在するといい,存在しないものを存在しないというのが真理である,とのべている。このように,命題(あるいは観念,言明,など)と,事実(あるいは出来事,事態,など)とが対応(correspond)するとき,その命題を真理とするのが真理対応説である。

 もうひとつは,真理整合説(coherence theory of truth)であって,これは,ある命題が一般的にみとめられている他の多くの命題と整合的であるとき(すなわち矛盾しないとき),その命題を真理とする考えかたである。

 ところで,真理にかんする以上ふたつの考えかたには,それぞれ難点がある。まず後者の真理整合説についていえば,整合性という真理の基準だけでは,たがいに整合的なさまざまな命題が得られたとしても,そうしたさまざまな命題は私たちの経験する事実(あるいは出来事,など)と関係をもたないことになる。しかし,少なくとも事実にかんする命題は、感覚的経験をのべる命題となんらかの仕方でかかわりをもたなければならない。そして感覚的経験をのべる命題は,いわば,感覚的な事実と対応する命題であるから,少なくとも私たちの経験する事実との関連を考慮するかぎり,真理整合説は真理対応説によっておぎなわれなければならないのである。

 しかし真理対応説にも重大な難点がある。というのは,事実はすべて命題によって記述されなければ,事実として知られることがないからである。それゆえ一方に命題Aがあり,他方に事実aがあって,Aと a が対応しているかどうかを知るためには,一方の命題Aのほかに,他方の事実 a を記述する命題Bが必要となる。しかしその命題Bが,そもそも事実 a と対応しているかどうかを知るためには,a にかんするまた別の命題Cが必要となり,ここに無限後退が生じる。こうして,真理対応説にも難点がみとめられるのである。

●デューイ自身の「真理対応説」

 しかしデューイはここで「対応」という言葉をひろく解釈して,この困難をのがれることをこころみる。すなわち,対応とは,鍵がその条件に合致するように「合致する(answer)」,いいかえれば鍵が鍵穴にぴったりおさまってその機能をはたすということであり,問題にたいして適切な解決をもたらすように「答える(answer)」ことであるという。要するに,対応とは問題を解決することだ,というのである。こうしてデューイはいう。「私が主張するような理論こそ,真理対応説とよばれる資格のある唯一の理論である。」

 以上のように,真理についての考えかたにおいてデューイは,一方では,パースの影響のもとに,可謬主義に立脚した究極の真理にかんするパースの定義に賛同するとともに,他方では,ジェイムズの影響のもとに,真理は有用性(すなわちデューイの場合は問題解決の可能性)を解してはじめて真理としてみとめられることを主張したのである。
魚津郁夫 『現代アメリカ思想 ―プラグマティズムの展開―(’01)』

私自身、ちゃんと理解出来ている訳では無いのですが、資料の引用として、参考にどうぞ。

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2008年12月22日 (月)

YouTubeでゲーム脳

某ブクマ経由↓

日大のPRのはずなのに、恥を発信するのですね。素晴らしい。

YouTubeのチャンネル作成を担当した人は、もしかしたら、「これもかよ…」とか思ったかも知れませんな。

一応言っときますけど、作成にあたって、元々あるコンテンツを移すだけなんだから仕方無いだろう、とか、特定のコンテンツだけを削除するのはいかがなものか、とか、そっち方面の事情は全く考慮する必要はありません。どうでも良い。重要なのは、(YouTubeにおける)日本大学の公式のチャンネルから「ゲーム脳」の情報が発信されている、という事。

参考⇒日本大学 Nihon University Official Home Page/NEWS

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からだの「楽譜」

調べものをしていて、「ベネッシュ(・ムーブメント・)ノーテーション(Benesh (Movement) Notation)」というものがあるのを知りました。

身体運動を科学的に分析する文脈で紹介されていたのですが、なんでも、踊りの動きを「楽譜」のように表すそうです。参照⇒ベネッシュ・ノーテーションについて

紹介したページで動画が観られますが、そこで澤井麻奈美さんという方(@お茶の水女子大学)が、紹介しておられます。

五線譜の線を、身体の高さのラインに見立てて記録し、運動の軌跡も表せるようです(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションの基本 ⇒ベネッシュ・ノーテーションによる記録例)。また、澤井さんによれば、骨盤や脊柱の回転の角度もある程度は記述出来るそうです。モーションキャプチャデータと比較しても、整合が見られたといいます(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションとモーションデータの比較)。

私にとってこれは、目から鱗の情報でした。このような方法は、一般的にダンス・ノーテーションと呼ばれるそうで、色々の記譜の方法があるみたいです。

おそらく、舞踊方面の方にとってはポピュラーな概念なのでしょうが(日本舞踊でも同じような方法があるとか)、そちらに全く疎い私には、ある意味カルチャーショックでした。と言うのも、このような方法は、武術の型の保存にうってつけであると考えられるにも拘らず、類似のものが見られないからです。

もちろん、私が知らないだけという可能性もあります。しかし、主に文字情報と、より具象的な画を用いて型を伝承している流派がほとんどで、ダンス・ノーテーションのごとき、高度に抽象化・記号化されて、3次元的な身体運動の情報を上手に記述してみせる、という方法は、少なくとも広く知られてはいないと言っていいでしょう(もしあれば、教えて頂けると大変ありがたいです)。

尤も、最近は、武術を研究する人と舞踊家の交流などもあるようですから、採り入れている人はいるのかも知れませんが。

いや、しかし、勉強になりました。モーションキャプチャやスティックピクチャーのデータを2次元的に不足無く抽象化して表現する、という方法自体については、思いを馳せた事はありますが、既に確立しているとは思いませんでした。動きを楽譜で表すなんてね…。

これならば、亡くなった達人の映像からモーションデータを得、それから譜面を起こして伝承や教育―学習に役立てる、という具体的な方法が考えられます。舞踊方面で、動きを科学的に解析しながら保存していこうという動きもあるようですが、おそらくこういう方法を積極的に用いているのでしょう。以前そこら辺について、ちょっと調べた事はありますが、「動きの記譜」という所にはたどり着けませんでしたね……やはり、武術以外の分野にも広く目を向けるべきだ、と思った次第。

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解る方向け。

たとえば、斉藤先生による31の杖や13の杖の示範の映像を解析して、それを譜面に起こす、というのが出来そうです。そうすれば、ビデオが参照出来ない場面なんかでも、学習に役立てられると思います。中国武術の套路の勉強にもうってつけな気がします。ただ、武術は相手との力学的関係が重要で、変化などもあるから、ある程度明確に規定された一人型を覚えるために利用する、というのに留めた方が良いのかも知れませんけれども。

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2008年12月21日 (日)

そろそろ、かな?

遅ればせながら。

白い航跡〈上〉 (講談社文庫) Book 白い航跡〈上〉 (講談社文庫)

著者:吉村 昭
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白い航跡〈下〉 (講談社文庫) Book 白い航跡〈下〉 (講談社文庫)

著者:吉村 昭
販売元:講談社
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これを借りてきました(ハードカバー版)。後、松田誠氏の本も。

今、上巻を読み始めた所。

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さて、脚気の話ですが。

Eijkman shared the 1929 Nobel Prize... - finalventの日記:finalvent 2008/12/20 20:03によると、

 辰野・浦口からはある程度まで強い主張ができるかなと思ったのですが、難しそうですね。私が当初想定した考えは大きく訂正するというか、主張しないほうがよさそうです。
 問題の発端となったエントリについても、弱い形に結論づけることになります。というか、たぶんそうしたそうした方向での結論づけをNATROMさんというかたがまとめを出されると思いますので(http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081216#c)、それを受けて一連の話はたぶん終了でしょう。

との事です。

どういう風に訂正されるのか、大変興味深い所です。そうした方向で、と言った上でNATROMさんのまとめについて触れているので、NATROMさんのまとめの方向性を予測して、自分もそれに近い主張を行うであろう、という事であるのでしょう。

そうすると、(そもそもこれが発端なのでした)Wikipediaの記述についての解釈はどういう風に変わる(あるいは修正される)のだろうか、という部分も考えますね。

詳しい説明をお待ちしています。

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2008年12月20日 (土)

用法はよく読んで

誤用される「プラセボ効果」 - Skepticism is beautiful

こういうのを読んだ場合は普通、なるほど、元々はそういう意味なのか、使い方に気をつけよう、となると思うんですけど、

はてなブックマーク - 誤用される「プラセボ効果」 - Skepticism is beautiful

ここの意見を見ると、いくつか、そうでも無い意見があるようで。

私は、特に学術概念は、本来使われた意味に常に気をつけていくべきだと思っています。その上で、拡大解釈や一般化を行う、と。で、それは慎重に行われなくてはなりませんよね(だからもちろん、あってはならない、という話では無いと思います。元々の意味から全然離れて用いられている語というのはあるでしょうから)。ですから、以前、プラセボ効果についてのエントリーを上げた際に、ちがやまるさんや他の方々に色々教えて頂いて、とても勉強になった訳です(私も相当誤解していたのです)。

当然、lets_skepticさんの説明に専門的に見て突っ込み所がある、という事もあるでしょうから、それは批判なり指摘なりすれば良い訳ですね。私も一箇所指摘しました。そういう部分は議論していって互いに理解を深めていけば良い、と。

で。

プラセボ効果が定義出来る事と、プラセボ効果がどのような仕組みで起こるのか、というのは、一応別の話ですよね。何故起こるかが解らないからといって、定義出来ない、とはならない。

実際、ある現象を説明するために用いられる概念というのは、色々あるんですよね。拡大解釈の方のプラセボ効果(オーディオ、ブレスレット、燃費、等々)ってのは、lets_skepticさんも仰るように、思い込みとでも言えば良い話で。実際、そういうのをプラセボ効果と呼ぶ必要性やメリットは、と考えると、特に思いつかないです。

こんな事を書くと、言葉の意味に拘るリジッドな認識の持ち主か、と思われそうですね(文脈がどうこうとか、ブクマコメントにあるようなのを言われそう)。別に思いたければ思えばいいですけれども(←思い込み)。

私は多分、ここでも何度も、単に心理効果のようなものを「プラセボ効果」と書いてきたと思いますが、今後は慎重に使おうと思っています。いや、ちょっと前から、一応はそうしていた訳ですが。前書いたエントリーでのやり取りの時に、より意識した、というのもあります。狭い意味で用いて困る事はありませんし、他人が拡大解釈で用いているのであれば、それに応じて理解してあげれば良い。もちろん、拡大解釈である、あるいは誤用である、というのを指摘していくのもいいと思います。

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個人的には、統計学において、標本に含まれるデータの数を「標本(サンプル)数」とは呼ばない、というのを広めてきたい次第であります(正しくは、「標本(サンプル)の”大きさ(サイズ)”」)。

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自分の用法例。

Interdisciplinary: ナイーブ

それはともかく、水伝批判に対する反論として、全くのフィクションである浦島太郎を持ち出したり(”浦島太郎は、海に潜った時点で溺死してしまう。”なんて、唖然とします)、二重盲検法を出して、「意識が”結果”に左右」するなどと言うなんて、ナンセンスでしょう。二重盲検法は、プラセボ効果という心理的効果を考慮したもので、言葉の意味内容が物質に直接作用するという説とは、全然異なるレベルの話です。

さあ、突っ込み給え。

て言うか、記事検索しても、一件しか出てきませんでした(含む「プラシーボ」)。そんなに書いて無かったのか…。

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2008年12月18日 (木)

数理心理学

Book 数理心理学―心理表現の論理と実際 (心理学の世界 専門編)

著者:吉野 諒三,山岸 侯彦,千野 直仁
販売元:培風館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本を読もうとした……が、難しすぎて撃沈した。

いや、数学に親しんでいる人ならば、さほど手ごわいものでは無いのでしょうけど…。

やっぱ、分野を問わず、ある程度の数学理解は必須だろうな、と思います。

実証科学方面だと、少なくとも統計学は知っておかないとね。で、どこまで知っておけば良いか、と言うと、構造を理解するには数理統計学的な所まで踏み込まざるを得ないだろうから、それを勉強しようとすると、当然他の分野の知識も関わってくるのですな。

結局、高校で習うような数学が、基礎としてどれほど重要であるか解ってきて、後悔する。これを、after carnival と言います。

勉強勉強・・。

余談。

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2008年12月17日 (水)

ノート:心理学研究法(8)

第6章の続き。

§3 相関仮説の検証の例

先に出た「仮説A」、つまり、「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」を例にとって説明。

▼質問紙の作成

青年を対象にし、現実自己と理想自己を測定する質問紙と、向上心の強さを測定するための質問紙を作成。

現実自己と理想自己――「他人のミスに対して寛大である」などの「よい」特性を表す項目20個を、4段階で評定。得点の範囲:20~80点。

  • 当てはまらない:1点
  • あまり当てはまらない:2点
  • やや当てはまる:3点
  • よく当てはまる:4点

「よい」特性を表す項目だけだと、「当てはまる」と答える人の得点が極端に高くなる可能性があるので、「悪い」特性(「気が短い」など)も適度に交ぜる。悪い特性は、点数を反転させる(「当てはまる」→1点)。そのような項目を、逆転項目と言う。

向上心――「何か失敗をしたときは、よく反省して次には失敗しないように心がける」などの項目10個。5件法(5段階)で評定。

▼被験者とデータ

被験者:ある大きな大学の新入生からランダムに選んだ100人母集団は、ある大きな大学の新入生全体

上の質問紙3つを被験者に実施する。量的調査のデータは、「被験者×変数」の形式の一覧表にまとめられる。※「×」はクロスって事です。この場合、縦にAさん、Bさん(あるいは割り振った番号)…を取って、横に現実自己・理想自己・ギャップ・向上心の点数を書いて表にする。

▼データの分析と結果の解釈

変数間の相関関係の強さを、相関係数という統計的指標によって表現出来る。

相関係数

  • -1から+1までの範囲の値を取る。
  • -は負の相関、+は正の相関を示す。
  • 絶対値の大きさが、相関関係の強さを表現する。

今見ているのは、ギャップが大きい人ほど向上心が強い、という仮説だから、ギャップの値と向上心の値との相関係数に着目する。ここでは(本書の架空のデータ)、0.52(本書では0が省略されていて、.52となっていますが、ブログでは見にくいのでつけます)という正の値。0を省略して書くか、とかは、論文の投稿の規程とかにもよるらしい。省略しない方がいい、という意見も見ます。

ギャップの値と向上心の得点間の関係を、散布図で図示出来る。参照⇒散布図

点が、右上がりの直線の近くに集中していれば、相関係数が大きくなり、全ての点が直線上に一列に並べば、最大値の1になる。散布図が右下がりであれば、相関係数は負の値になる。ここで解るように、この文脈で言う「相関係数」は、「直線的な関係」を見るもの。それを、「ピアソンの積率相関係数」と言います。ピアソンは人の名前。だから、曲線的な綺麗な関係があっても、この相関係数はあまり高くならなかったりします。

相関係数がいくら以上であれば、仮説が支持されたと考えて良いか?

→仮説自体が、「正の相関関係がある」という大雑把なものなので、問いに明確に答えるのは困難。

→心理学の研究でしばしば用いられる基準――得られた相関係数が統計的に有意か否か。←この基準による判定の手続き:統計的検定(第9章参照)

ちょっと触れます。この場合の統計的検定は、

「母集団において相関関係があるか」となります。

で、仮説は、

「母集団において相関係数は0である」

とします。そして、母集団から標本を採ってきて(ここでは、大きさ100)相関係数を計算して、

「母集団で相関係数0だとしたら、標本でこんな値が出るのはどのくらいの確率よ?」

というのを計算します(確率論によって)。で、その確率が前もって決めていた値(たとえば5%)より小さければ、

「こんなに小さいんだから、母集団でも相関係数は0じゃ無いに違いないぜ!」

として、最初に立てた仮説、つまり「母集団の相関係数は0である」という仮説を棄てます。

ちなみに、上に書いた、「前もって決めていた確率」より小さい場合、それを「統計的に有意」である、と言います。

§4 相関係数および関連する統計的指標

▼共分散

相関係数→共分散という、2変数間の関係を表すより基本的な指標を用いて定義される。

共分散の求め方。

変数xの相加平均を求める。いわゆる平均値です。

Xheikin_4

変数yの相加平均を求める。

Yheikin_2

変数間に正の相関関係があるとは――ギャップが(全体のギャップの)平均より大きければ向上心も(全体の向上心の)平均より大きく、ギャップが平均より小さければ向上心も平均より小さい、という関係。

→各被験者について、値と平均値との差を取る:「ギャップの値 - ギャップの平均」と「向上心の値 - 向上心の平均」これを、「(平均からの)偏差」と言います。たとえば、平均60点のテストで85点取れば、偏差は+25。50点だったら、偏差は-10

→正の相関関係があるならば、「ギャップの値 - ギャップの平均」と「向上心の値 - 向上心の平均」を掛け合わせた値は正になる、つまり、「正×正」または「負×負」一方が平均より高いのにもう一方が低ければ、プラス×マイナスで負数になる訳ですね。で、それを足し合わせれば、相関関係がどうなっているか解る。

→全ての被験者について掛け合わせた値を出し、それを足し合わせる。下の公式の分子です。これを、「偏差積和」と言います。偏差 積 和 つまり、xとyの偏差を掛け、それを全部足す(総和)。だから、「偏差積和」そして、それを平均する(被験者の総数で割る)。データ数で割らないと、データ数が増えるほど値が大きくなる。

↓クリックで拡大

Kyoubunsan

Sxy:(変数xとyの)共分散 ※ここでは、xはギャップ、yは向上心

正の値であるから、正の相関関係がある事が判る。

共分散を解釈しやすいように加工した値が相関係数。→その加工のために、標準偏差という別の指標が必要。

▼分散と標準偏差

同一変数の共分散を求めたもの:分散

Bunsan

左辺が分散。

分散は、ばらつきの指標になる。つまり、平均から離れているものが大きければ、分散の値も大きくなる。

共分散では、分子は「偏差積和」でした。分散では、「偏差平方和」と言います。何故かって? 偏差 平方 和 だから。「積」が「平方」になっているだけですね。同じ変数で平均からのずれを掛けるので、それは平方、つまり2乗になります。上の公式に出てますね。偏差積和と同じように書くと(xの平均をmとする)、

(32 - m)(32 - m) + (9 - m )(9 - m )……(30 - m)(30 - m)

となるのですね。だから、「同一変数の”共分散”」が分散になる訳なのであります。

分散の正の平方根:標準偏差

Hyoujunhensa_2

S:標準偏差

上に書いてあるように、最初に2乗したから、それを開いてやります。そうで無いと、単位が変わります。何故2乗するか、というと、平均からの偏差(ずれ)をそのまま足し合わせてデータ数で割ると、0になってしまうから。

向上心の標準偏差=4.00

▼相関係数

共分散を、それぞれの変数の標準偏差で割る。

Soukankeisu_2

r:相関係数――分子:xとyの共分散 分母:xの標準偏差とyの標準偏差の積

今の例では、

r = 16.73 / ( 8.04 * 4.00 ) = 0.52

従って、ギャップと向上心との相関係数は0.52になる。

なぜ相関係数を用いるか。

  • 共分散は、値が単位に依存する。
  • 例:身長と胸囲の関係を知りたい→単位をセンチメートルにするかインチにするかで、値が変わる。
  • 共分散を標準偏差で割った相関係数は、単位の取り方に依存しない。
  • 共分散の取り得る値の範囲は、各変数の標準偏差の大きさに依存する。
  • 相関係数の取り得る範囲は、-1 ≦ r ≦ 1 と決まっているので、都合が良い。

▼統計ソフトウェア

色々あるよ。

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2008年12月16日 (火)

にわかにホット

dankogai氏の所とか はてブ界隈とかで、血液型性格判断関連の話題がちょこちょこ出てますね。

で、眺めていて思ったのが、これはこうなのかも、と思ったのをコメントとかで書いているけど、その先を考えていないのがあるなあ、と。

□型はどういう性格で……という知識を持っていたらそういう性格に近づくかもしれない、的な推測とかですね。

実際、心理学者は物凄く調べている訳ですよね。ちょっとググれば、WEBでも結構情報が手に入る。多分その疑問への答えは既に出ているよ、というような疑問が見られました。

私自身は、kikulogの「血液型と性格」シリーズを追っていたら、いつの間にか色々な知識を得ていたようです(それまでにも色々考えてはいましたが)。あそこは、約一名(たまにゲストが登場)による凄まじいノイズがあるけれども、血液型性格判断にまつわる様々な論に関して議論がされているので、一見の価値はあると思います。

上に書いた、多分その疑問への答えは云々、というのは、きくちさんが書かれている事でもある訳ですが。

ああ、やっぱり、血液型―性格 の連関はどのくらいか、というのと、血液型性格判断を分けて考えられていない方も散見されますね。これは非常に重要な論点なんだけどなあ。

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2008年12月15日 (月)

ノート:心理学研究法(7)

第III部 量的調査の方法

○第6章 量的調査による仮説検証(南風原朝和)

§1 量的調査の特徴

▼データ

量的調査の「量的」――基本的に、データの性質をあらわす。

量的データ――知能検査の得点や性格検査における外向性、協調性などの得点のように、数値の大小によって個人の特徴をあらわすデータ。

※どの政党を支持するか、といった本来質的なデータも、集計して数量に(政党支持率など)まとめられるので、「研究法の文脈では」量的データに分類される。統計学では、性別や政党支持などのデータは、質的データと呼ばれる。尺度水準の話。性別や政党支持などのデータは、名義尺度であり、従って質的変数という事です。量的/質的 研究法の文脈ではひっくるめて「量的データ」と分類する、という意味。質的研究法との対比。

変数――個人ごとに特定の値(あるいはカテゴリ)をとるもの。あらかじめどの変数についてデータを収集するかを決めた上で調査に取り掛かる。

量的データは、データの量の多さでは無く、数量によって個人や集団の特徴をあらわすという性質を意味する言葉。場合によっては一人の被験者だけを対象にしてデータを採る。定量的に測れる、と言っても良いかも知れません。

▼研究の目的

主に、あらかじめ設定された仮説を検証する目的で実施。探索的な研究のために実施される場合もある。多くは仮説検証型の研究で用いられるという事。

▼データの分析

通常、2つ以上の(場合によって100を超える)変数について、多くの被験者に関するデータを収集。

主として変数間の関係という観点から分析。例:

  • 「家庭にある本の数が多いほど、その家の子どもの言語能力は高い」という関係をあらわす仮説が成り立つかどうかを調べる。本の数も言語能力も量的データとして数量化されます。本の数はシンプルですが、言語能力については、先行研究などが参照されて、適切な尺度(各種テスト等)が用いられるという事。

統計的方法を用いて分析される。

量的調査を実施して結果をまとめるためには、統計学に関する基礎的な知識が不可欠。絶対必要

§2 量的調査で検証される仮説とその検証

▼相関仮説

今挙げた仮説(「家庭にある本の数」云々)を統計的に捉える→ある集団において、一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値も大きいという正の相関関係を表現したもの。※一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値は小さいという関係――負の相関関係次回、散布図とか出てきます。

集団における相関関係を仮説としたもの――相関仮説

例:

  • 「現実の自己に関する評価と理想とする自己のあり方とのギャップ(←変数)が大きい人ほど、向上心(←変数)が強い」 現実自己と理想自己とのギャップという変数と向上心という変数についての相関仮説。ギャップも向上心も、各種心理測定尺度を用いて測定したりして数量化。そして、相関関係を数学的に表す(相関係数)。次回出てきます。

▼共変仮説

「現実自己と理想自己のギャップが大きいほど、向上心が強い」(仮説A)――相関仮説→集団を前提。ある一時点における関係(静的な関係)を表現。ある人がギャップと向上心という2つの変数を持つと考えて、集団の傾向を見る。そして、2つの変数に相関関係があるか調べる。

「人」を「時」に替える。

「現実自己と理想自己のギャップが大きいほど、向上心が強い」(仮説B)――共変仮説――一人ひとりの個人に対して適用出来る。時間の経過の中での変数間の個人内の共変関係をあらわす。

共変関係の直接的な検証――同一の個人について、時間をおいて繰り返しデータを収集する必要がある。1回限りの調査では原理的に検証不可能(相関仮説は可能)。時間的な変化を縦断的に見なくてはならないから、一時点を切って検証は出来ない、という事ですね。集団的な関係を見る相関仮説の場合は、横断的に時間を切るから、一回の研究で確かめる事が可能。

▼因果仮説

「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」(仮説A)

「人ほど」→「から」 表現を少し変える。

→「向上心が強いとしたら、それは現実自己と理想自己のギャップが大きいからである」(仮説C)

現実自己と理想自己のギャップの大きさ(原因)→向上心の強い弱いが決まる(結果)――因果関係を意味――因果仮説

因果仮説の直接的に検証するのは極めて困難。かりに仮説Aと仮説Bがデータによって支持されたとしても、それだけでは仮説Cの因果関係が示されたとは言えない(逆向きの因果関係でも説明出来るから)。因果関係をどう証明するかは、科学の根本の問題なのだと思います。科学哲学にも絡んでくるのでしょう。疫学の方法も参考になるでしょう。

仮説Cと正反対の因果仮説(例:向上心が強い時に、それが原因となって理想自己を押し上げる)のような、主張したい因果関係以外の説明や解釈が成り立つ可能性を論理的に、あるいは何らかのデータに基づいて弱められれば、その程度に応じて、主張したい因果関係が支持される事になる。逆向きの因果関係を否定して、そもそも検証したい因果関係を支持していく、という論理ですね。

相関仮説や共変仮説の検証――因果関係が正しいための必要条件のチェックという意味がある※因果仮説が正しくても、データの妥当性が低いなどで相関関係や共変関係が確認出来ない場合もあり、厳密な意味での必要条件のチェックにはならない。妥当性や信頼性については、後で出てきます。

次回へ続く。

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2008年12月14日 (日)

昔書いた事:ゲーム編

子どもを拘束してしまうのは、社会だ。正しい身体運動を、体でも心でも全く認識していない者が、間違った拘束的な認識に従って、教育を施してしまうのである。そして恐ろしいことに、教育者は、自分が間違ったことを教えてしまっている等とは夢にも思っていないのだ。否それどころか、彼彼女は、自分達が手塩にかけてガチガチに固め造り上げてきた「作品」を眺め、その見事な完成度に満足さえしているのである。

どこから見ても、「わが流派の最高師範」が口癖の人が書いた文章ですが、実はこれ、自分が書いたものです。

先日、poohさんの所で、自分がゲームを嫌っていた事、それを愛好する人を見下していた事、を書きました。ここでも何度か話題には出しましたが、自分がゲームについて以前どういう事を考えていたか、というのを、覚書から引っ張ってこようと思います。

25年前からゲームをやってきた人間が、何故それを嫌悪するようになったか。それは個人史的な問題なので詳しく書く事はしませんが、ゲームについてどう思っていたかを書いてみるのは、それなりに意味があるかも知れません。

なお、ここに引用するものは、ゲーム嫌悪が完全に解消された後のものですが(なので、嫌悪していた内容はほとんど無いかも)、文献や先行研究を無視した思い込みの激しい考え、という事で、載せてみます。引用の順序は時系列に従わないので、ご了承下さい。

「ゲーム脳の恐怖」という本を読んだ。非科学的な人間が科学者になれるのだ、と思った。

強烈ですね。本当の所は、よく知らない分野について手を出したら大変な事をしでかしてしまった、という感じなのかも知れません。

TVゲームの問題点

非身体運動的であるという点。記号管理的文化の最たるもの。

ゲームとは

文化として見ると、様々な文化を(記号的)部分的に包含する。TVゲームを、人間とTV画面と操作系の三項関係と見ることが出来る。この「操作」という概念が重要(必要条件といえるだろう)。

記号管理的というのは高岡英夫氏の概念ですね。両方について、もうちょっと洗練させたかたちでここに書いていますね。初期のエントリーで。ゲームの論理構造の記述としては、さほど間違ってはいないと思います。

高度な身体運動を体現することがないと、絶対にクリアできない様なTVゲーム(たとえば、フリーフルクラムが出来た時だけ先に進める)というものは、論理的には考えることができる。しかし、技術的にも経済的にも(少なくとも現在においては)不可能。

TVゲームの宿命的問題点

働きかける対象が、「TV画面」であるということ。視覚的・聴覚的存在であって、絶対に体性感覚的存在では有り得ない。操作系は部分的には身体意識的。

この頃は、Wiiやバランスボードが出るなどとは夢想だにしておりませんでしたよ。前者は、ここでもたまに書きますね。と言うか、バランスボードが出る前に書いてた訳ですけど。後者は分析が荒い。自分でも、「存在」をどういう意味で使っているか不明確。まあ、身体に触れられたりするような情報は無い、という事で、基本的にはゲームの特性として見ても構わないとは思います。

実際に、TVゲームを通して、(「物語性」という部分を持っているから)「命の大切さ」や「思いやり」を持つこと、学ぶことはできるのである。当たり前だ。絵本を読んだり小説を読む、あるいは良い映画を見ること等と、同じことなのだから。

従って、なすべきことは、当該文化に内在する有益性・問題点を分析解明し、それを正確に記述することなのだ。特に、その文化に固有の特性を見出すこと。それが非常に重要なのである。

なんか、めちゃくちゃいい事書いてるじゃないか(笑) まあ、ここら辺が、このブログを書く動機に繋がってきている訳ですな。このスタンスは今も保っているつもりです。

「リセットして人生が初めからやり直せる」という認識について。

責任の押しつけ――正常に生活していれば、その様な価値観が形成されないという可能性。

昔の子供はその様な考えを持たなかったか?――言葉が違うだけで、同じ様なことを思っていたかもしれない。

前者はちょっと解りにくいですが、ようするに、色々な経験をして、生活の時間配分等に無理が生じていなければ、文字通りに「リセット」して云々という認識には至らないのではないか、という推察です。後者は、ゲームが無い昔の人も、人生をやり直す的な認識を持つ事はあったかもよ、という話。

ここまで、2002年頃に書いたもの。

っと、ここで、2003年に面白い事を書いているので、ちょっと番外編。

「頭の良い人」≒「メタ」な認識を持っている人。

メタを装う人→メタであると思い込もうとする。実は非常に排他的。学問的認識を中途半端に持っていたりするのでたちが悪い。

めちゃめちゃ吹いた。今も結構言ってる事じゃないか。

メタはスタート地点ね。

ここから、2005年頃に書いたもの。ブログを作るちょっと前かな。

TVゲームに影響されて殺人を犯したのだ、という主張。

それはそうなのかも知れない、と考える。しかし、「だから?」とも考える。

人は、あらゆる環境に様々な影響を受けるのだ。

例えば、バイオハザードをプレイして暴力衝動が喚起され、人を殺めたとする。←これはとても個人的なことである。この様なことがあったからといって、では販売規制をするか、というと、それは待て、と思う。

基本的には今と同じ、なのかな? ちょっと荒い気もするけど。

川島隆太さんへ

あなたの実証実験に不備は有りませんか。極く少数の実験結果を、一般化し過ぎでは有りませんか。具体的な機序は解明されたのですが。コンピュータゲームに関して研究されましたか。社会科学の勉強をされましたか。

強烈に恥ずかしい。多分これ、脳トレの本で、ゲームやっている時のPETの画像かなんかが載っていて、それについての解釈を読んで怒った、というのだったと思います。川島氏のゲーム理解が怪しいと思うのは今もそうだけど、科学に関しては理解不足だなあ。

また番外編。これはマジで面白い。

実験科学的方法を順守しようとするならば、フロイトも、ユングも、高岡も、全て疑似科学のカテゴリーに押しこめられてしまう。

これはなんというニセ科学批判批判風。もちろん、ニセ科学という概念を知らない頃です。

やばい、これも面白い。今、はてな辺りで書いたら、ブクマつきまくる事必至。2002年初めの頃。

反証もできないのに、「非科学的」という評価を下す者は、自身が最も非科学的なものの見方をしているのだということに気付いていないのである。

甘いぜ、自分…。

と、こんな所か。うーん、そもそも武術系の覚書なんで、ゲームについて書いているのは少ないのは当たり前ですけど、もうちょいネガティブな事も書いてたような気がするんだけどなあ。

まあ、自分の科学についての認識の変遷も発掘出来たので、よしとしましょうか。

ゲームを嫌悪していたと言いましたが、具体的には、ゲームによって凶悪犯罪に走る奴もいるだろうな、とか、ゲームがコミュニケーションを断絶するツールになるだろうな、とか、大人になってゲームをやる奴は幼稚だ、とか、そういう感じでした。なんか、書いてて頭が痛くなりますが…。覚書をつけ始めるより前なので、やっぱり記録はしていないみたいです。振り返って書いたものがあったかもな、と思ったのですが、ありませんでした。

認識が凝り固まっていた訳ですね。色んなもののせいにしたり、直感を一般化したり。おぞましいものですよ、そういうのって。

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もうちょい続く

もうちょっと続くみたい。一応、finalventさんは、追記を進めているようです。

さすがに関心が持続している方は少ないのかも知れませんが、エントリーを作ります。コメントがあればこちらへどうぞ。

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2008年12月12日 (金)

もはや

404 Blog Not Found:もはや心理物理学 - 書評 - 心の脳科学

これは、「敢えて」書いてるんですかね。

いや、何の話かと言うと、「心理物理学」の事でして。

つまり、dankogai氏が、学術概念(あるいは分野)としての「心理物理学(精神物理学)」という語をそもそも知っていてエントリーを上げたか、という話であります。

要するに、それを知ってて語を出したのか、それとも、神経科学の方法を「物理学」のアナロジーとして捉えて、「心理物理学」を「思いついた」のか。

私としては、フェヒナーによる精神物理学の研究を知っていたとしたら、ああいう風に使うのは難しいと思うので、後者じゃないかと思ってます。「もはや」とか「むしろ」というのは、アナロジカルに思いついたというのを強調する表現なのかな、と。「呼ぶべき」もですね。

心理学史や心理学入門の本で精神物理学が触れられていないというのはほぼ考えられないと思うので、知らないのは変な気もするんですけどね。

ちょいと、大山・上村 (編著) 『心理学史(’98)』から抜粋してみましょうか(P47 この章、大山正による)。

<精神物理学>という珍しい名の学問は,フェヒナー(G.T.Fechner,1801-1887)によって19世紀半ばに提唱されたものである。今日,心理学の中の一つの研究領域ないしは研究方法として,その名を残している。一方,フェヒナーの名は,実験心理学の成立に大きな影響を与えた人として,また<フェヒナーの法則>の提唱者として心理学のテキストに広く記されている(図4-1)。

て言うか、普通、言葉を思いついたら、ググりませんか? それに、dankogai氏はWikipediaにリンクをよく張る方なんで、精神物理学←こんな感じのが貼ってあっても良さそうなのに。やっぱわざとか? いや、わざとやる意味が全く解りませんけど。

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ノート:心理学研究法(6)

○第5章 質的調査の実際と研究評価(下山晴彦)

§1 質的研究法のタイプ

質的調査――言語記述を中心とした質的データによる研究

質的研究――様々な種類の研究法が提案→研究法の分類に混乱も見られる

質的研究法の分類の枠組み――研究過程を軸/研究テーマを軸

研究過程のおおよその進行(相互に重なり合って進行)

  1. データ収集の作業
    • 面接法
    • 観察法
    • フィールドワーク
    • フォーカスグループ法
    • 日誌法
  2. データ処理の作業
    • グラウンデッドセオリー
    • 現象学的方法
    • KJ法
  3. 論文としての表現
    • エスノグラフィー
    • 事例研究法(広義にはエスノグラフィーは含まれる)

研究テーマ

  • 心理的事象――主に面接法によって収集された語り(ナラティヴ)のデータの記述・分析を通して研究
    • プロトコル分析
    • 会話分析
    • 談話分析
    • ライフストーリー研究
  • 社会的事象――主に社会的場面での参加観察やフィールドワークによって収集されたデータの記述・分析を通して研究
    • エスノグラフィー

§2 質的調査の実際例

▼質的調査の過程 ▼研究の概要:病院内学級における教育実践のエスノグラフィー

※ここでは、谷口明子氏の研究(『質的分析によるアプローチ』 大村 (編) 『教育心理学研究の技法』 福村出版 2000 に所収)を例に、質的調査の流れを紹介。まとめは省略します。

§3 質的研究の評価

▼質的研究法への批判

方法や結果のあり方についての疑問や批判

  • データの収集と処理の過程に客観性が欠如している
  • 仮説生成のプロセスが恣意的である
  • 得られた結果に一般性がない

↑量的研究法の観点からは、このような批判が見られるのは当然。

しかし、第3章で指摘したように質的研究法は,量的研究法とは異なった独自な方法論に基づいている。むしろ,研究についての理論的背景の相違を考慮するならば,両者を混同して考えること自体に問題があるといえる。

▼社会構成主義の考え方

量的研究法――唯一の客観的事実の存在を前提→客観的事実に関する理論(法則)を証明するために仮説を立てる→客観データによって論理的に検証。

質的研究法の理論的背景――社会構成主義(social constructionism)

社会構成主義――唯一の客観的事実というものを想定せず、社会的現実は人々の語りや交流から生成する相対的なものとみなし、その生成過程を記述し、そこから現実を具体的に理解するためのモデルを構成。

ここら辺の比較・対置は、私には非常にしっくりこないものがあります。

いずれも現象を整合的・論理的に説明するためのモデルを作って確かめる、という方向性を持っているはずで、そこに「客観的事実の存在」についての立場の違いを持ち出す理由が、よく解らないのです。と言うか、あるモデルで現象を説明するという立場を採る以上、それは少なからず客観的な構造を仮定しているのではないのかな。

▼質的研究の評価基準

  1. 事例の選択理論的サンプリングがなされているか
  2. データの収集と記述:データの記述の仕方は適切か
  3. データの分析:仮説(モデル)生成の仕方は適切か
  4. 産出された結果:提示された仮説(モデル)にはどのような意義があるか

§4 おわりに

比較的新しい研究法→研究の手続きや評価の仕方について、はっきりと確定した基準が確立している訳では無い。

量的研究法では把握しにくい現象を記述、分析するのに適した方法であり、今後の心理学研究方の可能性を広げるものとして期待。

質的研究法と量的研究法を組み合わせた統合的な心理学研究を発展させる事も可能。

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2008年12月11日 (木)

伸びてる

ここ数日、ゲーム脳Q&Aのアクセスが、少し多くなっているようです。

多分、きっかけとしては、あの先生のブログ(事情をご存知で無い方は無視して下さい)での出来事があるのだと思いますが、アクセスログを見てみると、Yahoo!やらgoogleやらからのアクセスが結構ありました。

それで、ちょっとググったりヤフったりしてみたんですが、「ゲーム脳」で検索して上位に出るようになってますね、いつの間にか。

自分が書いたものとしては珍しく、なるだけ多くの人に読んでもらいたい、と思っているものなので、少しでもアクセスが増えているのは嬉しい事です。

知恵袋での紹介も大きいですね。ホント、紹介してくれでありがとうです。深謝。

参考までに ※クリックで拡大

Kaiseki200811

↑2008年11月

Kaiseki200812

↑2008年12月

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掴みも技術2

Interdisciplinary: 掴みも技術の続き。

戦闘状態における「掴み」というのは、おおまかに2種類に分けられると思います。

即ち、

  • 精神的に異様に高揚した人間が動きを制するために死に物狂いで押さえる。
  • 運動として洗練された、「術」により押さえる。

前者は、とにかく相手が動けないように思い切り掴む訳ですね。体力差があれば、半端に動いても何の意味も無い。試しに、腕を差し出して両手で掴ませて、「この場所から絶対に動かさないように持っててくれ」と教示して、それを崩そうとしてみて下さい。※両手の脈の部分をギリギリ合わせるように掴ませる(剣の把持の要領)と、より難しいです。

その程度でも、ほとんど動くのは不可能なはずです。友好的な相手でもそうなのですから、積極的に害を与えようという人間が死に物狂いで掴んできたものを崩すのがいかに困難か、想像するのは容易でしょう。

後者は、より高級な掴み方。

実は合気道の諸手取り(両手で相手の片手を掴む)というのは、正面打ちからの展開だったりします。逆側の手での突きも蹴りも入らないポジションに位置取り、持たれた手を動かそうとしてもびくともしないような力の出し方をします。

解ってくると、前腕にはほとんど力を感じないのに全く動けない、という状態に相手を拘束する、というのも可能。手はセンサーの塊なので、ギリギリの筋力発揮で前腕を把持し、動かそうとする相手の動きや力を敏感に察知し、それに応じて全身の筋肉を協調的に連動させるのが重要。※昨日のエントリーで、柳川氏の概念(受動筋力)を援用しましたね。なかなか有用な概念だと私は思います

一段低級なレベルとしては、全身を一塊の銅像のごとく固める、というのがあります。全身の関節を溶接してぎっちぎちに固めた掴み方、というモデルを想定するとイメージしやすいでしょう。

そして、掴んだだけでは終わらず、そこから別の技に展開する事もある訳ですね。三教・四教など。大東流なんかでは、「掴み手」といってそれ自体が技法として対象化されているのでしたっけ?

そういうのを踏まえて、昨今の「護身」と称する何ものかを眺めてみると、実に中途半端と言わざるを得ませんね。complex_catさんが仰るように、切迫感・緊迫感がまるで無いですし、技法としても非常に稚拙。

極めて好意的に見ても、奇跡的に相手が超弱かったりした場合に何とか撃退出来る、という程度の効果しか無いでしょうね。

尤も、本気でやっている所は表には出にくい、というのはあるかも知れませんが。いずれにしても、中途半端なものが広まってしまうのは、あまりよろしく無いでしょうね。

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ちょっと「受動筋力」をググってみたのですが、どうやら学術的概念としてもそれが存在する模様。不勉強でした。

色々な人が同じ語を用いているようです。同じような概念で用いられているのかは判らないですが、私が書いているのは、空手の柳川昌弘氏のものの援用として解釈して下さい。

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2008年12月10日 (水)

ノート:心理学研究法(5)

○第4章 質的データの分析(能地正博)

§1 質的データ分析とは

よく名前が挙がる伝統的方法

  • エスノグラフィ
  • 現象学的方法
  • グラウンデッドセオリー法
  • KJ法
  • 伝記法
  • 事例研究

分析手続きが比較的細かく明示されているもの、大部分が分析者に任されているもの、がある。

データ収集と並行して分析が行われるもの、収集後に行われるもの、がある。

概略が載っているが、図なので省略。

§2 分析に着手する

分析の初期――データの読みとデータの概念化(コード化)の開始が中心の作業。

▼データの読み

質的データ――主に記述的な形。それを何度も読む→文脈に気付くという機能。状況的文脈・社会的文脈・歴史的文脈。

▼概念化の作業

ちょっとまとめにくい…。ここら辺とか参考になるのかな⇒データ分析

概念化(コード化)データの内容に名前をつけたりする。名詞でも短文のかたちでも構わない。

§3 データ間の関連を探る

データに与えられたコードを整理し、その関係が探られる。

▼概念間の構造的/過程的関係の抽出

内容的な類似性に注目→まとまりに名前(高次のコード)をつけてさらなる概念化。

▼概念間の関係の「検証」

抽象的なので、ちとまとめにくいです。抜粋するしか無い。よって省略。

§4 データを再統合する

▼統合の核

リサーチ・クエスチョン(研究設問)が明確に言語化されているかを確かめる。

データに即したかたちでテーマが焦点化され、リサーチ・クエスチョンが確定していく。

コードのまとまりが複数存在→統合の核になるようなものが選択、コードの全体を横断的に再編成できるような包括的概念が構成。

▼仮説・モデルの提示

重要概念――メンバーチェック

§5 おわりに

省略

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この章、具体例が示されずに概略が紹介されているかたちなので、整理が困難でした。抜粋しても、ちょっと抽象的で解りにくいと思います。

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2008年12月 7日 (日)

数量化

心理学研究法の所で、量的研究法なんて出てきましたね。

そこでは、直接観測出来ない人間の「心」について、生理学的な指標や質問紙への回答をデータにして定量的に把握していく、という方法が採られます。

誰しも、心って測れるの? とか、こうしたら調べられるんじゃないか、とか、考えた事はあると思うんですよね。

で、そういうのを量的なデータとして扱うのを、「数量化」と言います(「数量化理論」と言った場合には、具体的な統計解析の方法を指しますね。数量化○類、という風に)⇒数量化 quantification

それで、そういう方法について不案内な方には、断然これがお勧めです↓

 評価と数量化のはなし 科学的評価へのアプローチ 評価と数量化のはなし 科学的評価へのアプローチ
販売元:セブンアンドワイ
セブンアンドワイで詳細を確認する

Book 評価と数量化のはなし―科学的評価へのアプローチ

Amazon.co.jpで詳細を確認する

実は1/3くらいしか読んでいなかったりするのですが、最初の方を読んだだけで傑作だと断言出来ます。読み物としても面白く、惹き込まれる。巧みな話の持っていき方には、正直唸ります。

偏差値って何? 知能指数って何? という疑問を持っている方にもお勧めかな。

とにかく良い本だと思うので、ご一読を

科学について具体的に考える際、数量化とかの論理をある程度押さえておかないと、「話にならない」んじゃないかなあ、と思います。もちろん、色々な方法について熟知しなくちゃならない、というのでは無くてね。おおまかにでも知っておかないと。後、尺度水準くらいは知っておかないと、どうにもならないかと思います。

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合目的的合理性

きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog

こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。

poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。

それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。

最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。

それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。

合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。

で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない

そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。

これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。

そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。

こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。

ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)

ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。

 情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。

 Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。

合理性の定義と分類について考察されています。そして、

三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。

ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※

やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。

この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。

個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。

ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。

※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002

三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子

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2008年12月 6日 (土)

超絶適当な人の事例報告

久々にSSFSさんの話を書くよっ!

Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:原理主義者たち(その3)  2008/12/ 5 1:48

相変わらず適当に言葉を使う方ですな。

て言うか、この方、私のブログの愛読者レヴェルじゃないですか。

さて、そんな原理主義の私ですが(←繋がりがおかしい)、SSFSさんの引用の仕方には、うならざるを得ませんでした。(一応、改行はそのまま。見にくいですがご容赦を)

「マイナスイオン」とかはニセ科学度がすごく高いんじゃ
  ないかなあ、と思ったりして(略)「マイナスイオン」に
  潜むニセ科学は一般人には見破ることができない気がしま
  すね(略)「マイナスイオン」の場合は科学的間違いを指
  摘されたら、「なんだ、そうだったのか。」ってすぐ納得
  しそうだけど(略)

という意味不明な投稿に対して、このブログ主は

  マイナスイオンという概念は、それが定義されなくても身
  体に良い影響など与えなくてもいいですけど(略)マイナ
  スイオンでガンが治る、なんて主張が広まったら、また話
  が変わるかも知れません。

と、議論を「体に良い影響を与えるマイナスイオン」という固定観念に誘導しています。より新しいドライヤーの議論にも十分接しているのに、「体に良い」しか眼中にないのでしょうか

こういうのを、BMJKTI(Bunmyakuwo Musisite Jibunkatteni Kiritotta Tekitouna Inyou)と言います。

いや、固定観念に誘導とか、そういう話じゃ無いから。アウト・オブ・眼中(このネタ解る人います?)とか、そういう話じゃ無いから。

この辺に関しては、あちらでフォローして下さっている方がいらっしゃいますね。本当に、あのスレッドに書き込みされる方々の辛抱強い事よ。

Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:Re: 原理主義者たち(その3)  2008/12/ 5 6:44(原文ママ)

>意味不明な投稿

どこが意味不明なのかよくわかりません。「一般人が(ニセ科学性を)見破れない」ことと「指摘されたらすぐ納得しそう」が矛盾するとでも考えられたのでしょうか。
#「理解不能」や「意味不明」はssfs氏がよく使う表現ですので実はわかっているのかもしれませんが。

ブログ主さんの返答部分に関しては、自分でわざとわかりにくく切り出しているようにしか見えません。(略)までの部分はマイナスイオンを“否定されても困らないもの”と位置づけ、科学的間違いを説明された場合に(水伝と比較して)受け入れやすいということをおっしゃっているないでしょうか。
後半部分は(略)の部分にホメオパシーの話がありますね。ここは、マイナスイオンで癌が治ったと信じる人には受け入れ難くなるであろう、という話かと思いました。

ドライヤーに関しては、“健康に良い”と同様に実証されていないことをお忘れなく(効果のある可能性は多少高いのかもしれませんが)。ブログ主さんは一例として「体に良い」と書かれていますが、別にドライヤーの話に置き換えても成り立つ話をされているように思います。

はい、全く適切にフォロー頂いています。なんだか申し訳無いくらいであります。

ここで、私と やす さんのやり取りを載せてみるよっ(やすさんのコメントは、部分的に引用)。

不思議なのは、水伝みたいに、考えればすぐにわかりそうなものの方が逆にはびこってるような気がするんですが、もしそうだとしたら、何が原因なんでしょうかね。「マイナスイオン」の場合は科学的間違いを指摘されたら、「なんだ、そうだったのか。」ってすぐ納得しそうだけど、水伝信者にそれをやったら、延々と反論されそうな気がします。ただの印象にすぎませんけど。

投稿: やす | 2008年11月16日 (日) 18:02

やすさん、今晩は。

「ニセ科学度」というのが、「自然科学として見て判別が難しい度合」という意味でしたら、そういうのは言えるかも知れません。水伝の場合には、本質は言葉の問題ですしね。
ただ、観点の問題もあるので、一概には言えない気もします。

▼▼▼引用▼▼▼
もしそうだとしたら、何が原因なんでしょうかね。
▲▲引用終了▲▲
推測としては、前者は没価値的であるから、なのではないかと。

マイナスイオンの場合、その概念が存在しなくても、「代わり」がいくらでも出てきていい訳ですよね。しかるに水伝は、言葉という文化の根本についての性質の言明であり、「価値判断」を正当化するものだから、反発があるように思います。

マイナスイオンという概念は、それが定義されなくても身体に良い影響など与えなくてもいいですけど、「ありがとう」は、ある言語体系において感謝の意味を持つという機能を持たされた語ですから、「ありがとう」の良さを言って何が悪い、となるのかと。

もちろん、信じ方の度合にもよりますね。ホメオパシーで病気が治ったと確信している人なんかは、容易には説明に納得しないでしょうし。
だから、マイナスイオンでガンが治る、なんて主張が広まったら、また話が変わるかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年11月16日 (日) 18:42
Interdisciplinary: 調べる。何かが解る

ね、SSFSさんの話とは、全然違う文脈でしょう? ABO FANさんクラスですよ、この捻じ曲げ方は(おめでとう)。

では最後に・・

原理主義者というのは、いったんある固定観念を持つと、それを変えることができません。
Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:原理主義者たち(その3)  2008/12/ 5 1:48

マホカンタっ!

誰か、SSFSさんにどんなに痛罵されても何とも感じない私に、キアリクをかけて下さい…。

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2008年12月 4日 (木)

信じて無いのにネタにする人ってホントにいるの?

はてなブックマーク - 10位までに血液型本4冊…書籍の年間ベストセラー(読売新聞) - Yahoo!ニュース

umaaaa これマジにとって「血液型なんて嘘っぱちだってば!」とか怒る人を見ると、皆わかってるから大丈夫だよーって慰めてあげたくなる。本気で信じてる人見たことないや/いるとこにはいるのですね、決め付けて申し訳ない 2008/12/03

このコメントを読んで、いつも考えている事を書いてみようと思いました。

umaaaaさんは、本気で信じている人を見た事が無い、と最初仰った訳ですね(ブクマコメントで指摘があって、後で後半部が追加されました)。

私はそれとは全く逆で、血液型性格判断をネタにしている人で、信じていない人を見た事が無いです。十数人はいたかな。もっといたかも。

ちょっと考えてみて、こういうネタを、間違いと完全に解りつつ使うなんてあり得るのか? と感じる訳ですね。

間違いだと解ってても場の雰囲気を壊したく無いから仕方無く乗っかる、というのはあり得ると思うのです。が、それは、間違いだと解っててネタにする、というのとは、ちと違いますよね?

ネタにするって事は、少なからず信じている、自分の経験から「ありそうだ」と思っている、という事なんじゃないのかなあ、と。たとえ言葉の上では「間違いだと解ってるよ」的な言い方をしたとしても、実は信じているんじゃないの、とか。

間違いと解りつつ積極的に用いるって事は、端的に言って嘘つきな訳で。仮に、皆が間違いと解っててネタにしてるんだとしたら、それはそれでどうなのよ、とも思いますね。

よーく考えてみて下さい。

他人とコミュニケーションをとる際に、「間違いだと解りつつも、やり取りが円滑に進むからネタにする」、なんて事、普通します? 無いですよね。せいぜい、後でネタばらしをして驚かせる、という時にやるくらいでは?

なのに、血液型性格判断に関しては、時折そういう意見が見られます。なんででしょうね。

あー、占いとか、自分は信じていないけど信じている人を喜ばせる、とかありそうだな…。

どっちにしても、間違いだと解ってて使う、という人は嫌ですね。もちろん、本当だと信じて使う人も嫌ですが。

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ノート:心理学研究法(4)

第3章の続き。

§2 面接法

▼面接法とは

面接法――一定の環境において研究者が研究対象者と対面し、相互的コミュニケーションを通して情報を収集する方法。

利点

  • 対象者の内的世界を把握するのに優れている。
  • 対象者の表現に対してその場で介入出来るため、複雑な内容であっても研究者が求めているテーマに合わせて系統的にデータを収集できる。

→対象となっている人々の主観的体験を背景を含めて把握するのを目的とする質的調査に適した方法。

その一方、研究者と対象者の相互作用によって成立するものだから、研究者の影響が及びやすい。たとえば、

  • 対象者が研究者の期待を察知し、それに合った返答をしてしまう。
  • 親しさや信頼感などによって面接で語られる内容が変わってくる。

面接では、言語的コミュニケーションだけで無く非言語的コミュニケーションが交されるので、研究者には、相手の表情や身振りなどを観察し、非言語情報を的確に把握する技能も必要とされる。バーバル・コミュニケーションとノン・バーバル・コミュニケーション(NVC)。

▼構造化面接・半構造化面接・非構造化面接

面接法は、「研究者が対象者に質問する項目がどの程度決定されているか」、つまり、「そこで行われる面接の構造が事前にどの程度限定されているか」によって、構造化面接半構造化面接非構造化面接に分けられる。

構造化の程度によって、会話の自由度が異なってくる。

  • 構造化面接――事前に質問すべき項目が準備。研究者は、それを逐一質問して目標とするデータを系統的に収集。
  • 非構造化面接――質問する内容や目標とする回答をあらかじめ予想。質問項目のような明確な形態はとらず、会話の流れに応じて自ずと面接の目標に関連した内容が語られるように面接の進行を企てる。
  • 半構造化面接――構造化面接と非構造化面接の中間。あらかじめ質問項目は準備しておくが、会話の流れに応じて質問を変えたり追加したりして、目標とする情報を収集。

目的による分類

  • 調査面接――調査目的に合致した情報の収集のための面接。構造化面接や半構造化面接が主に採用される。
  • 相談面接――対象者の心理援助を目的とした面接。対象者の自発的な語りを共感的に聴く事が重視される。非構造化面接が採用される場合が多い。

調査か臨床か

  • 質的調査――調査面接
  • 臨床面接(臨床心理学の実践技法)――調査面接の一種である査定面接→相談面接(第13章で解説)

対象者に人数による分類

  • 個人面接
  • 集団面接

§3 観察法

▼観察法とは

観察法――対象の行動を注意深く見る事によって対象を理解する研究法。

分類

  • 観察事態
    • 自然観察法――条件を統制しない日常場面において、対象の行動をありのままに観察。複雑な事象をコンテクストを含めて把握出来る所が利点。
      • 日常的観察――日常生活の中で偶然に遭遇した出来事を記録。
      • 組織的観察――研究目的に沿ってあらかじめ観察単位をサンプリングし、それに絞って観察を行う方法(ただ単に対象を観察するだけで、状況を全て適確に観察するのは不可能に近い)。
        • 時間見本法――観察単位:時間
        • 場面見本法――観察単位:観察場面
        • 事象見本法――観察単位:観察する事象や行動
    • 実験観察法――ある行動に影響すると思われる条件(独立変数)を系統的に変化させ、行動や内的状態(従属変数)の変化を観察・測定し、条件と行動との因果関係を調べる。第10章で解説。
  • 観察形態
    • 参加観察――研究者が観察対象になる人々と関わりながら観察
      • 交流的観察――現実場面で観察対象と交流しつつ観察
      • 面接観察――面接場面で観察
    • 非参加観察
      • 直接観察――観察者が状況に入り込んで観察
        • 長所:観察者が様々な視点から観察出来るため、対象の状況を生き生きと、多元的に把握出来る。
        • 短所:観察者効果を及ぼし得るので、完全に自然な観察とは言えない部分も出てくる。
      • 間接観察――ビデオ等の観察装置を通して観察
        • 長所:観察者効果が弱い。
        • 短所:観察の視点が限定され、現象の一側面しか把握出来ない。

参考書では、表は大まかな分類しか書かれていませんが、細かい分類もすぐ把握出来るように、全部表に組み込んでみました。

§4 フィールドワーク

▼フィールドワークとは

フィールドワーク――研究者自らが、研究の対象となっている出来事や現象が起きている現場(フィールド)に出向き、その場で観察しながら対象となっている出来事や現象が生じる過程を調査する方法。

ただ単に研究対象の出来事や事象が生起する現場に身を置いてデータを収集すれば良いのでは無い。以下の手続きが必要(第5章で具体例とともに解説)。

  1. 参加観察
    • 研究者自身が調査対象となっている社会集団の生活に参加。
    • その一員として集団内部から対象を観察したり、内部の一員としての体験を記録。
    • そこで生起する事象を多角的に長期にわたって観察。
  2. 循環的な仮説(モデル)生成過程
    • 大まかな研究関心を決定
    • 探察的リサーチ・クエスチョンを設定
    • 初期データの収集・解釈
    • リサーチ・クエスチョンの練り直し
    • 追加データの収集と解釈
    • 追加データに基づいて仮説の修正と精緻化を繰り返してモデルを生成
  3. マルチメソッド
    • 質的調査――研究対象の出来事や事象が生じている状況を全体として把握する事が目指される。
    • →様々なデータ収集の方法(マルチメソッド)の中から研究対象となっている事象や要因に合わせて適切なデータ収集法を選択し、組み合わせる事で対象理解を試みる。
    • 参加観察が中核をなす。

§5 おわりに

  • 質的研究法は、量的研究法に比較すると新しい方法に基づくもの。
  • 様々なタイプの研究法が提案され発展しつつある段階。
  • 共通した研究方法や評価基準が最終的に確定されている訳では無い。
  • 未確立な点はあるが、心理学研究の可能性を広げる方法として、今後の発展が大いに期待。

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2008年12月 3日 (水)

finalventさんへ

偽科学発見テスト - finalventの日記

Sundalandさんとやり取りが続いているようですが。

早く続きを書きませんか?

コメントがきたら返答する、というのでは無くて。

主張を明確にし、論理構成を詳らかにして、その認識を持つに至った論拠を示してはくれませんか?

まさか、コメント欄でのやり取りがその役割を果たしている、なんて話では無いでしょう。

せめて、いつ頃書くとか、そういう見通しだけでも知らせた方が、読者に対して親切ではありませんか?

finalventさんがどういう説を持っておられるか、興味がある人間は、私も含めて少なからずいると思います。

当然、フェードアウトする事はあり得ないでしょうから、どうぞ、ご説明をお願いいたします。

いや、別に打ち切っても、それはそれで構わない訳ですが、それでしたら、その旨アナウンスするべきですよね。

なにしろ、テストを出されて、その解答編を待っている、という状況なのです。いずれにしても、何らかのアナウンスはした方がよろしいかと思います。既に出題から2週間経っているのです。さすがに悠長に過ぎるでしょう。

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2008年12月 2日 (火)

ノート:心理学研究法(3)

第II部 質的調査の方法

○第3章 質的調査の考え方とデータ収集技法(下山晴彦)

§1 質的調査とは何か

▼質的調査の特徴

質的研究法――質的データを収集→分析・解釈による仮説モデル理論の生成・構築。

質的調査――質的研究法に基づく調査。

質的データ――数字や数量によって表現された量的データとは異なり、「ことば」の形式によって記述されたデータ。

質的調査の前提――質的研究法の基本的考え方→「人間の行動はその人が生活している日常的コンテクストの中で生み出され、その中で意味を持つ」。

なるべく人が生きている現実に近い自然な状況でデータを収集。数量化するのでは無く、現実に近い形でストーリーとして叙述。→人間の心理を理解する仮説・モデルの発見・生成。

方法

  • 面接法
  • 観察法
  • 面接法観察法検査法などを組み合わせたマルチメソッドを利用するフィールドワーク

▼質的調査の理論的背景となっている質的研究法の独自性

量的研究法――設定された仮説を検証するために、統制された条件の下でデータを収集・分析。

質的研究法――自然な状況の中で得られたデータから仮説を生成することを目的。

仮説生成を目的とする質的研究は、量的研究で検証する仮説を生成するための探索的予備段階の研究と考えられがちだが、そうでは無い。

現実の現象を記述したデータの中に読み取れるパターンから新しいアイデアや概念を発見し、それを仮説やモデルとして構成していく事が目的。

研究対象、研究者の経験も含めて、主観性や主観的体験もデータとして重視。

そもそも研究のパラダイムが異なっている。

▼質的研究法および質的調査の目的と特徴

研究方法の比較の表が載っているので、それを箇条書きで引用。

・研究手続きの比較

質的研究法

  • 大まかな問題や関心のあるトピックを見分ける。
  • 探索的なリサーチ・クエスチョンを発展させる。
  • 最初のデータを集め、解釈する。
  • 試験的な仮説を発展させる。
  • 追加データを集め、解釈する。
  • 試験的仮説を洗練する。
  • 追加データを集め、解釈する。
  • より特定の仮説を発展させる。
  • 理論を生成する。

量的研究法

  • 参照する心理学理論を選択する。
  • 理論を参照して特定の仮説を設定する。
  • 特定の手続き、方法、尺度を計画する。
  • データを集める。
  • データを分析し、解析する。
  • 仮説が支持されるか棄却されるか決定する。

・方法論的比較

質的研究法

  • 人間科学
  • 現象学・社会構成主義
  • 社会的に構成され、文脈に依存した多数の真実
  • フッサール、ドイッチャー、ウェーバー、ディルタイ
  • 帰納的
  • 理論生成
  • 仮説生成
  • 理解
  • 記述化・叙述化
  • 意味の追求
  • 発見志向
  • 関与的・・相互作用的研究者
  • 綿密な面接、参与観察、尺度としての研究
  • 当事者
  • 確実性、転移可能性、依存性、確認可能性
  • 流動的で発展的な方法と手続き

量的研究法

  • 自然科学
  • 論理実証主義
  • 測定可能なひとつの真実
  • コント、デュルケム、ミル
  • 演繹的
  • 引き出された理論
  • 仮説検証
  • 予測
  • 数量化
  • 法則と原因の理解
  • 結果志向
  • 独立した客観的研究者
  • 実験デザイン、標準化された尺度
  • 第三者
  • 内的妥当性、外的妥当性、信頼性、客観性
  • 予め決められ、その通り実行される方法と手続き

質的研究法の目的――研究の対象となっている人々自身の視点から現実を理解しようとする。人々が体験している事を、その人自身が体験しているままに理解しようとする。

質的研究法の方法論的特徴

  1. 状況や人々を、変数に還元せずに全体としてみていく。全体性が保たれるように時間的コンテクストや出来事の背景などを重視する。
  2. 研究者が対象者に与える影響に自覚的である。研究の対象となる人々や出来事の状況に、研究者自身が参加してデータを収集する。そのため、研究者は、自らの関与の影響に対して敏感である事が求められる。
  3. 現象に開かれた態度を重視する。研究者の理論や先入観を押し付けるのでは無く、どのような対象でも研究する価値があるという態度で好奇心をもって現象を探求する。

次回へ続く。

うーん、正直な所、あまり記述が整理されていないように私は感じました。それと、質的研究法と量的研究法との比較、便宜的な分類なのかもですが、お互いに全く違うものという訳でも無いでしょうから、写しながら軽く首をひねったのでした。方法論的特徴という部分も、どんな方法においても自覚すべき事柄が書いてあるように見えますし。

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2008年11月30日 (日)

ドーキンスの本に

神は妄想である―宗教との決別 Book 神は妄想である―宗教との決別

著者:リチャード・ドーキンス
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本の訳者あとがきをめくっていたのですが。

「水からの伝言」の話が載ってました。ほう、と思いました。

本編の方、3/10くらい読んだかな。取り敢えず中断して、また機会があったら読むかも。

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2008年11月29日 (土)

ノート:心理学研究法(2)

○第1章 心理学の歴史と研究法の分類(下山晴彦)

§1 心理学における研究法の意味

▼心についての学問

心理学:「psychology」――ギリシア語の「psyche」(心)+「logos」(学問)

哲学――「心についての学問の総称」。心の働き(機能)に関する論理的研究。心理学の思想的起源は、哲学の歴史の中に位置づけられる。哲学の説明は、ちょっと狭く捉えられている気がします。文脈から、哲学の内、心について調べる領域についての話、と見るのが良いでしょうか。

▼心理学の起源

現代心理学の始まり――ヴント(Wilhelm Max Wundt)による心理学実験室創設(1879年)。

研究法――科学的方法の採用。その採用による、文学や哲学とは異なる(心についての)学問としての独自性の確保。ここで「科学的方法」とは、自然科学的方法と読んだ方が理解しやすいと思います。

§2 心理学研究法の文化発展の歴史

1860年、ドイツの物理学者、フェヒナー(Gustav Theodor Fechner)が、精神物理学(psychophysics)を提唱。「心理物理学」とも。ここら辺参照⇒精神物理学 (Psychophysics)

精神物理学――精神界と物質界の数量的対応を実験によって解明することを目指した。→心理学の成立に大きな影響。

心理学は,物理学が科学的実験によって物理的法則を見出そうとしたように,実験的手法を用いて心の法則の定立をめざして成立したといえる。

  1. 生理的反応や客観的行動を研究する方法が主流を形成。→ワトソン(John Broadus Watson)による行動主義(behaviorism)の心理学がこの系譜。
  2. 心理学が自然科学の原理を満たすのが困難である事が解ってきた。心理学研究の対象である「心」が、物理学の研究対象である「物」とは異なり、客観的に観察出来る対象になり得ない。→厳密に自然科学であろうとすればするほど、客観的に観察出来る行動や知覚的、生理的反応のみを研究対象とする方向に進まざるを得なくなった。
  3. 認知機能を中心に心のモデルを想定する研究が提案、発展→認知心理学

▼調査法

自然科学:普遍的法則の定立を目指す。

「心」:それぞれの個性(個人差)がある。法則定立的方法ではそれを無視してしまうという見解。→個性や個人差の研究の必要性。→知能や性格といった個人の能力や特長を測定するための心理検査の開発や相関法の発展。→計量心理学や心理統計学の発展――テストを用いて多数のデータを採って数量化し、統計的にデータを解析して一般的傾向を見出す量的調査法の発展。ここら辺の記述、なんか変な気も。計量心理学なんかでは、数学がバンバン出てきますね。知能検査は元々、学習の遅れた子どもを判別して適切な処置が出来るように考えられたものですね(ビネーによる)。

現在は、実験法の他に調査法が広く用いられる。

量的調査法:数量化や統計的方法の使用――自然科学の原理である客観性や論理性の維持が重視。

質的調査法:数量化されたデータでは人の心の現実を把握出来ないといった見解→対象の状況をストーリとして記述質的データを収集、分析する方法として開発。

質的調査・量的調査という考えは、社会調査法などでも見られますね。

▼臨床法

臨床心理学やカウンセリング心理学などの、実践に関わる心理学の位置づけ。

病態心理学や変態心理と呼ばれた異常心理への治療的介入を目的とした臨床法が、自然科学をモデルとして成立した伝統的な心理学の歴史とは別に開発。

  • フロイト(Sigmund Freud)による精神分析
  • クライエント中心療法や家族療法。

フロイトの考えには、批判も色々あるようです。しかし、心の枠組みを考える上で、無意識の概念に光を当てた(無意識の「発見」では無いですね)という功績の大きさは評価されてしかるべき、という見方もあると思います。ここら辺、立場は様々でしょう。痛罵するのも見ますし、無意識概念そのものを否定するのもあるようですね。

自然科学の原理とは異質な方法が含まれている。

  • 目的:異常心理を改善するために実践的に有効な方法の開発。
  • 自然科学で重視される論理的に正しい普遍的法則の定立は目的とはならない。
  • 自然科学の原理である客観性や論理性を厳密に保つ事は不可能――実践に関わる心理学においては、自然科学の原理に従う事が元来不可能な側面が強い。
  • 最近では、認知行動療法など、臨床法と科学的研究の協力関係を発展させる動きも見られる。

悲しい事に、テレビなどを見ると、心理学者や精神医学系の専門家と「称される」人が、犯罪を犯した人物についての断片的情報に基づいて、軽率極まりない分析をしているのを見かけます。臨床的方法の意味を考えると、それは「出来ない」はずなのですが(結局、自身の診断等の経験を一般化して、個人の行動の説明に用いている)。

▼心理学の歴史と研究法

心理学研究法――実験法・調査法・臨床法などの領域に分化。それぞれの領域でも下位領域として様々な研究技法が提案。←主に欧米においてなされた分化発展の歴史。日本では独特の展開をしている側面がある。

§3 研究法による心理学の分類

▼心理学研究法の多様性

心理学の成立に、科学的方法の採用が重要な意味を持っていた。→自然科学とは異なる多様な方法へ向けて多面的に展開。→現在――多様な原理や方法が並立する状況。→心理学を学ぶ者にとっては、心理学の全体像が見えないまま多様な方法を学ばなくてはならない錯綜した事態。本当に、勉強し始めは、途方に暮れました。何がどうなっているのか全く解らなかった。下位分類を示されても、それがどういう意味なのかが理解出来なかったですしね。ここら辺の混乱が、心理学の「科学性」について懐疑的に見られるゆえんでもあるのでしょうね。実際、他分野から見ると、あまりにも整然さに欠けている、となるのかも知れません。

▼多様性を整理する基準としての方法

心理学の全体像が解りにくくなっている原因:分類基準の混乱。

心理学の下位分類:研究方法を基準、研究内容を基準。→2つの基準の混在が、混乱の原因になっている。

研究内容による分類――対象範囲の変化で名称が異なるといった混乱。例:児童心理学・青年心理学・老人心理学・発達心理学・生涯発達心理学 (いずれも発達をテーマとする領域)

 そこで,心理学の全体像を明らかにし,心理学を学ぶ道筋を整理するためには,まず心理学の分類基準を確定することが必要となる。この点に関しては,心理学にとっては「研究の方法」が重要な意味をもっており,しかも「研究内容」による分類が不安定であることなどを考慮するならば,研究方法を基準として分類することが望ましいと考えられる。

§4 心理学研究法の分類

▼データの収集―処理の過程による段階的分類

「心理学の研究方法の段階的分類」

研究データを扱うプロセスを3段階に区切り、データの扱い方によって、下位分類を構成。→各段階の下位分類の組み合わせで研究方法を分類。

  1. データ収集の場の型――下位分類:実験・調査・実践
  2. データ収集の方法――下位分類:観察・検査・面接
  3. データ処理の方法――下位分類:質的/量的・記述/分析 のマトリックス

▼データ収集の場の型:「実験」「調査」「実践」

第1段階

実験――条件を統制し、要因間の因果関係の把握が目指される。感覚や知覚などの分野で用いられる方法。条件を統制するからこそ把握出来る事がある、という。

調査――現実生活の側面について調べるため、条件を統制せず、「その特徴を適切に抽出するようにデータ収集の場を設定」。

実践――実験・観察は、研究対象に影響を与える現実生活への介入を極力避けるように場が設定。実践は、現実生活に積極的に関与するようにデータ収集の場を設定。心理学史的には、現実に関与する研究は「臨床」と呼ばれていた→教育領域や発達領域などに広がりつつある。本書では、現実に積極的に関与してデータを収集する場の型の総称として「実践」を用いる。人類学方面ではフィールドワークとかでしょうか。直接介入する研究。

これらの領域は、それぞれ重なり合う部分がある。メタ分析などは、3者を組み合わせた統合的な研究。

↑↓ここら辺の分類、次章以降を見ると、きちんと踏襲されていないような気もします。多少混乱するかも。

▼データ収集と処理の方法

第2段階

データ収集の方法による分類。

観察――行動を見る事でデータを得る。

検査――課題の遂行結果をデータとする。

面接――会話を通してデータを得る。

これらも総合的に用いられる。面接をしながら被験者を観察するなど。

第3段階

データ処理の方法による分類。

データの

  • 処理の仕方によって
    • 質的(定性的)
    • 量的(定量的)
  • 目的によって
    • 記述
    • 分析

に分類され、マトリックスを構成し、4分類される。つまり、

  • 質的記述
  • 質的分析
  • 量的記述
  • 量的分析

▼仮説生成型研究と仮説検証型研究

仮説生成型研究――仮説の生成を目的。質的データに基づく研究が相当する事が多い。

仮説検証型研究――仮説の検証を目的。量的データに基づく研究が相当する事が多い。

従来、仮説生成型の研究は、検証型研究の準備のための予備研究として位置付けられる事が多かったが、近年は、独自の意義が強調されるようになってきている。

§5 研究法の分類と本書の構成

ここで示された研究法の全体像が本書の基本構造。

Book 心理学研究法 (放送大学教材)

販売元:放送大学教育振興会
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2008年11月28日 (金)

ノート:心理学研究法(1)

お勉強ノートみたいなもの。

用いるテキストは、

Book 心理学研究法 (放送大学教材)

販売元:放送大学教育振興会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これ。放送大学のテキストですね(2003年版)。内容的には、

心理学研究法入門―調査・実験から実践まで Book 心理学研究法入門―調査・実験から実践まで

販売元:東京大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本とかなり重なっています。

放送大学のテキストは、スカパーなりケーブルテレビなりの放送授業(無料)と併せて学習出来るというスグレモノ。大学の先生が他分野の勉強をする時にもそうしている、というのも聞きますね。

では、始めます。

※参考・引用文献 『心理学研究法』 放送大学教育振興会

※htmlによる引用箇所以外でも、適宜文章を引用して用いている。

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まえがき(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦)

▼心理学の研究は

経験に基づいて仮説を生成し、その仮説をさらに新しい経験によって検証しながらより精緻なものに鍛えあげていく活動

▼研究領域

知覚・思考・記憶・学習・発達・性格・人間関係 など広範囲。対象も、乳幼児や、人間以外の動物にわたる。

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第I部 序論

○第1章 心理学の研究とは(市川伸一)

§1 心理学は何をどう研究するのか

▼文学、哲学と心理学との違い

作家――日常的な経験の中から、人間性というものについて深く理解し、それを文学作品として表現しようとする。

心理学――ある心理的な現象がどのようなしくみから起こるのか理論を立てて説明しようとする。直接的・説明的・論理的。

哲学者――人間の認識活動、感情や欲求についての様々な理論を構築。思索的方法。

心理学――データを採る。実験・調査・心理テストなどを用いる。実証的方法

哲学は思弁的で、心理学は実証的という事。また、心理学は経験科学ですね。共通点としては、当たり前ですが、どちらも論理的である事が重要。

心理学の多様な領域。基礎的―実践的。個人的―社会的。それぞれに方法的な特徴がある。

  • 基礎的な分野(感覚・知覚・学習など)は、厳密なデータが採りやすく、法則や理論も立てやすい。大脳生理学とも密接な関係があり、自然科学的な方法論にのりやすい分野。
  • 実践的な分野――教育心理学や臨床心理学など。理論をすぐにデータによって検証するのが難しい。

心理学が学際的領域だと言われるゆえん。基礎――応用 という分け方も。

▼意識、内観、行動

心理学の研究対象とは何か?

「心」?

では、心とは何を指しているか――「思い」、「考え」、「気持ち」など、一般的に、意識を指す。

19世紀に成立したと言われる近代心理学(補足:ヴント(Wilhelm Wundt)によるライプチヒ大学における心理学実験室設立が1879年)――心理学の対象を人間の意識と看做し、研究方法として、内観による報告という方法が採られた。

心理学史的には、この年が象徴的に、近代心理学誕生の年と看做せると思いますが、もちろん、精神(心理)物理学などの潮流も忘れてはなりません。いきなり新しい学問が出現する、なんて話は無いので。

意識主義、内観主義への2つの方向からの批判。

  1. 神経症治療の分野から発した精神分析からの批判――人間の行動について、意識にのぼらない「無意識」の膨大な領域によって規定されているとした。
  2. 行動主義心理学からの批判――心理学の対象として、外部から観察可能な行動(behavior)を研究し、法則性を明らかにして、人間以外の動物をも射程に入れた自然科学の一部門としての心理学が成立すると考えた。

象徴的には、精神分析ではフロイト、行動主義ではJ・B・ワトソン、となるかな。行動主義と一口に言っても、そんな単純では無い訳ですが。

2つのアプローチは、方法も体系も全く異なるが、行動を説明する構成概念が心であるとする点は共通(補足:行動主義は「構成概念」を認めているんでしたっけ?)。

直接観測出来ない心というものを構成概念として扱う、というのは、重要なポイントだと思います。

現在は、心理学の対象は、人間の精神的行動であるとされる。精神的行動には、比較的単純な行動(生理的反射・運動機能など)は含まない。

§2 行動の法則と説明概念としての「心」

現代の心理学――被験者の内観だけに頼った研究では無い。「行動」を見ていく事で、対象を、幼児や人間以外の動物にまで広げられる。

▼発達心理学から――乳児の図形の好み

乳児に対する言語的教示(「どちらの図形が好き?」)は、言葉が解らないために、不適切。→乳児が何を選ぶかとうい「行動」を観察してデータにすれば、何らかの法則を見つけ出せる。

様々な行動を、指標とする訳ですね。言語を理解出来ない乳児などを研究対象とする際には、これが重要。視覚的断崖の実験などは面白い。

Fantz(1961)の研究が紹介されている。色々の図形を見せて、「注視時間の割合」を見て、乳児の好みを探る研究。つまり、注視時間を好みの指標としてデータを採ったということ。その研究によると、乳児は、単純な図形よりも複雑な図形を乳児は好み、なかでも、人間の顔の絵が最も好まれる、というのが明らかにされた。※Fantz(ファンツ)の実験、とかでググってみて下さい。

▼学習心理学から――動物の学習の過程

動物に学習をさせる――芸を仕込むように、上手く出来たらエサなどの報酬を与える事を繰り返して定着させる(補足。強化や強化子。条件付けの理論など)。

スキナーのハトの実験とか、トールマンの迷路の実験とか。

人間――「ひらめき」つまり「洞察」という現象がある。動物にもあるか?

チンパンジーの洞察学習――手の届かない所に吊るされているバナナを取ろうとするが上手く取れないでうろうろする。が、しばらくして、下に置いてある箱を積み重ねて足場を作り、見事にバナナを取る。ゲシュタルト心理学者のケーラーによる実験が有名。

▼行動的データとしての内観報告

現代の心理学では、内観を全く使わないという訳では無い。

人間の意識とか心は、それ自体は客観的な存在ではないので、科学的な対象にはなりえない事が、改めて確認された、というのが重要。従って心理学者は、行動を説明するためのもの、つまり構成概念として「心」を捉えている。

内観報告も、言語報告(verbal report)という一種の行動的データとして扱う。それがそのまま心の仕組みを表しているのでは無い(被験者によるバイアスの混入)。発話プロトコル法では、考えている事を出来るだけ即座に言葉に出すのを求める事で、行動の理由を後から説明する際に入るようなバイアスを避けようとする。

心理言語学なんかでは重要でしょうね。認知心理学などでも、内観報告は用いられると思います。

§3 研究のすすめ方

心理学の研究は、データ収集―考察 とが行きつ戻りつしながら、次第に認識が深められているプロセスなので、単線的なものでは無い。ここでは、時間的に短い単位を取り出して、心理学の研究の進め方を大まかに見る。

別のエントリーの、論文の書き方のまとめなんかも、参考になるかも知れません。

▼問題の設定

何に関心を持ち、何を知りたいか――日常的な経験、調査・実験・実践、学術的文献の検討、などから。

自分はこの研究において何を明らかにしたいのか:リサーチクエスチョン

▼データの収集

方法

  • 観察・面接の記録
  • 自由記述の質問紙
  • 段階評定式の質問紙
  • 能力を測定するテスト
  • 実験場面での正答率や応答時間
  • 脳画像的なデータ(fMRIなど)

漠然とした関心や仮説は、データ収集の段階で、「どのようなデータによってそれを示すのか」という具体的方法に結び付けられねばならない。予備研究(予備調査・予備実験など)が重要。

どのような理論・仮説を立て、作業仮説をどうするか。つまり、この仮説が妥当ならば、この実験ではこういうデータが採れるであろう、という見通し。それが無いのに適当に実験してやろう、というのでは、意味が無いですね。どういう方法でデータを収集するか、というのもきちんと考える。

▼分析と解釈

データの分析と解釈。

数量的データ――統計的手法

仮説検証の一つの方法として、統計的検定が伝統的によく使われる。

最重要の道具。この方法を軽視する人も多いと聞きます。でもそれは、料理するのに包丁が要らない、と言うようなもの。せめて、統計的仮説検定の基本的論理は押さえておかないと、大変な事になりますよね。あらゆる実証科学の研究の成果をきちんと検討出来なくなってしまう。でも統計学は難しいんだな。

▼研究の発表

ゼミや学会での口頭発表、報告書や論文などの文章。

研究発表の意義として、

  • 発表する事で、自身の考えの整理や再検討が出来る。
  • 発表準備や論文執筆の段階で、主張が明確になったり新たな問題点が見つかる。
  • 他者への情報提供。
  • 他者からの意見を受けるという社会的コミュニケーションの機会。

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2008年11月27日 (木)

予定は未定であって決定では無い

心理学研究法についてよく参照する本の内容紹介(連載。勉強ノートみたいなもの)を書こうかな、と前から思ってるんですが、需要ありますかね?

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ちょっとまとめ、と続き

Interdisciplinary: たまには…のコメントへのレス。

それから、Interdisciplinary: テストだそうですのコメントがかなり長くなってきたので(重いですね。今見たら150弱でした)、続きはこっちにお願いします。

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apjさんが出てこられたのは大きいなあ、と。
いや、思いっきり他人事のように言ってますが、apjさんを召喚(PseuDoctorさんのネタにのってるんですが、解りにくいので長文で説明するという野暮さ)したのは私です…。

私は、finalventさんの書くものは、ちょこちょこ見ていて、非常に広範な知識と論理的認識力を持った方だと思っています(dankogai氏と同じような感じかな)。だから、昨今のニセ科学論について語った時も、注目した訳ですね。もちろん、大きいページビューを誇るブロガーというのもポイントとしてありました。

※余談。私がリンクを示す時に「⇒」を使うのは、finalventさんの影響。

で、極めて具体的で、現在進行形の論について語る場合、既有の知識だけで対処すると、碌な事にならん訳ですよね。dankogai氏もfinalventさんも、見事にその陥穽に嵌ってしまいました。

finalventさんは、dlitさんともやり取りしてますし、ニセ科学論について調べてみれば、と指摘もされたのだから、調べて語るか、調べずに語らないかが、妥当な態度であったと思う訳です。そして、調べずに語った事を批判されるのは受け容れなくちゃならない。それが誠実さだと。

それで、一応は、ニセ科学という概念が、ご自分の認識する「偽科学」と違う、というのは解ったという風に書かれました。まあ、これに関しては、今後語る時は、補足説明なりはしてもらってもいいのかな、と思います。※これまで、「偽科学」を水伝批判などと絡めて論じているからです。 ※ニセ科学批判をする人は、同じ意味で違う語を使うな、とか、違う意味で同じ語を使うな、とは言わない。ただ、言及する時は概念を把握して欲しい、とお願いをします。

と、ここまでが、「ニセ科学論」の話。

今は、科学的な議論ですね。apjさんが突っぱねられたのはその部分。
そんなに責めるなよ、的な激しく的外れな評価がapjさんに投げ掛けられる事もありますが、事は既に、科学の話に移っている訳で。

あれだけ仄めかしておいて、apjさんの疫学理解が不足していると指摘したんだから、それが何故かを詳らかにしなければならない。そこら辺をのらりくらりやってるから、「不誠実」と言われてるんですよね。

極めて具体的な医学・医療に関わる話なんで、適当にお茶を濁されては適わんですよね。

そういう訳で、今後も注目していきたいと思います。

 まだ終わってなかったりして。というのと、この先の話の展開が理解できたら、たぶん、驚きますよ。あと、みなさんが気にしている「解答」はいずれ公開します。
偽科学発見テスト - finalventの日記

だから、それが他人のリソースを無闇に消費させてるんだって…。「興味無いなら読まなくていいよ」的な話でも無いでしょ? 私が慌て過ぎなのか? って、そんな事は無いですね。

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2008年11月26日 (水)

もっかい上げとくよっ

定期的に上げといた方が良いでしょうな⇒Interdisciplinary: process

再掲。研究論文を読むための重要なポイント。

研究上の問いは明確に述べられているか?

何を知りたいか、調べたいか、というのははっきりさせときたいよね。

導入,問題の陳述,文献の概観は,読み手に適切に設定されているか? またこの題材は研究上の問いと一致しているか?

文法、作法は大事だよね。

研究上の問いや題材からみて,仮説は適切で,明確に述べられているか?

きちんと論理的に明確で、的外れじゃ無い仮説の構築と提示が重要だよね。

鍵となる術語はきちんと定義されているか?

基本だよね。ゲーム脳は典型的なダメ例。

独立変数はこの研究上の問いに適切か? 独立変数の水準は適切か?

独立変数の基準や基準測度は適切か,妥当か,信頼性があるか?

従属変数は,この研究にとって適切か?

従属変数の基準や基準測度は適切か,妥当か,信頼性があるか? 得点化,評定,判定の手続きは妥当で信頼性があるか? 装置が用いられている場合,それは正確で信頼できるか?

統制は適切か? 結果は統制されていない変数に影響される可能性がないか? 統制群や比較対照群がある場合,それは適切に選ばれているか?

ここら辺は、実験計画の適切さに関わる部分だよね。尺度の妥当性と信頼性とか、重要だね。交絡変数には気をつけるべきだよね。中には、統制群も対照群も取ってない研究とかあるしね。

研究デザインは仮説の検証に適しているか,また研究上の問いに答えるものか?

つまり、主張した事を「確かめられる」デザインになっているか、って事だよね。

方法や手続きは理解され追試できるよう十分な詳細さをもって明瞭に記述されているか? 参加者は適切に方向づけられ,動機づけられているか? 彼らは課題をどのように理解しているのか? 教示は十分に明瞭で正確か? 参加者間のコミュニケーションが,結果への影響要因のひとつになっていないか? デザイン,データ収集,査定,分析,報告の中に実験者バイアスの徴候はないか?

何をどのようにしたか、というのが明らかじゃ無いと、「後から確かめる」事も出来ないよね。それなのに、実証した、とか言ったって、噴飯ものだね。

参加者は適切に選ばれているか? サンプルは対象をきちんと代表しており偏りがないか? 手続きは,実験参加者を保護するための指針を遵守しているか? サンプルの人数(N)は適切か? 参加者をグループ,処理,あるいは条件に割り当てるのに適切な手続きが使われているか? マッチング,均等化,ランダマイズのような群の等価性を確立するための適切な技法が使われているか? 参加者の欠落が生じているか? また生じている場合,それはサンプルを偏らせていないか?

これは統計的な視点だね。とても重要。ランダムサンプリングとか、ランダムアロケーションなどの無作為化の話。ちなみに、サンプルサイズは、一般的には(n)だよね(Nは一般的に、母集団サイズ。間違い、て事でも無いだろうけど)。

統計的検定は適切か? そして,その使用の前提条件に合っているか? 自由度は正しいか? 誤差の測度は妥当か? 計算や統計的な結果の表示に間違いがないか?

やってはいけない事をことごとく実現している人が、血液型性格判断方面にいるよね。

表や図ははっきりと凡例がつけられ正しく表示されているか?

寝屋川調査のグラフとかすごいよね。わざと見る人に解らないようにしてるんじゃないか、と思うくらい。

結果は正しく解釈され,適切に報告され,意味づけられ,きちんと書かれているか?

考察はデータの概観からみて適切か?

結論はデータからみて妥当であり,データによって保証されるものか?

同じデータを処理しても、わがままに解釈する人はいるよね。このデータからはどこまでが言えて、どこは保留すべきか、というのを、きちんと見ないとね。

結果の一般化は妥当か?

一般化可能性への気配りは重要だよね。心理学では、「生態学的妥当性」が重視されたりするよね。達成母集団と目標母集団の関係を考えるのも大切だね。サンプルから得られた結果をどの集団まで拡大するか、という事。

引用文献は本文の中の引用と対応しているか?

倫理的な基準は研究のすべての段階で遵守されているか?

超基本だよね。

この研究を改善し,再デザインするとしたらあなたはどうするか?

これは大切だね。研究の問題点を把握して、より洗練されたデザインにする。総合的な力量が問われるんだろうね。

クリティカルシンキング―研究論文篇 Book クリティカルシンキング―研究論文篇

著者:ジュリアン メルツォフ
販売元:北大路書房
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2008年11月25日 (火)

たまには…

たまには、ある程度感情をむき出しにした率直な意見も、書かせてくれませんか?

戦略的にもダメだし、印象を悪くするのは覚悟で書きます。

エセ科学批判はとっくに死んでいた

じゃあ自分でやってみろよ。

まともにものを見ず、適当な解釈とめちゃくちゃに曲解した認識を露呈しといて、誤解されないようにしろ、とか、ふざけるのは大概にした方がいいんじゃないか?

コメントは冷静に丁寧にお願いしますね……とばっちりを受けて、皆さんの印象まで敢えて悪くする必要は全然無いので・・。

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確率の話

確率について、以前から疑問に思っている事があります。

はっきり言って、中学生レベルの疑問かも知れません。でもまあ、解らないものは解らない(開き直りか…)。

------

私が、友達と喋っているとします。

ふと思いついて、私はその友達に、当てずっぽうで、「血液型、A型でしょ?」と訊きました。

この場合、私の予想が当たる確率はどのくらいなのでしょうか。

疑問

  • この場合、友達を、「母集団からランダムに選んだ要素」と看做して良いのか。
  • 母集団からランダムに選んだ要素と考えて良い場合、母集団として何が設定出来るのか。世界中に住む人? 日本に住む人?
  • 理想的には、日本に住む人の血液型構成比を仮に、調査によって推定された値の通りだとして、ランダムに要素を取り出した場合の確率を出す、というのは容易。A型と言えば40%の確率で当たる、といったように。
  • で、日常の行動でそれをどこまで適用出来るのか、という所に疑問が出る。出会った人に片っ端からA型と言えば40%当たる、と言うのがどの程度妥当か。

確率論的には極めて幼稚な疑問なのかも知れませんが、とにかく解らないのです。うーむ。こういうのが書いてある本というのが無いもので…。もしかしたら、「その情報だけでは確率を云々するのは不可能だ」、と言えるのかも知れませんが、それも解らないのです。

確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) Book 確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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演習 確率のはなし Book 演習 確率のはなし

著者:大村 平,小幡 卓
販売元:日科技連出版社
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2008年11月22日 (土)

問題意識

偽科学発見テスト - finalventの日記

テストに関してとか、ニセ科学概念についての理解はどうか、というのは取り敢えず措いておきまして。

この部分が、端的にfinalventさんの認識を物語っているなあ、と思いました↓

 このエントリの提起ですが、よく見かける偽科学批判として出てくるものは、水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに、私に対して「お前は偽科学だのオカルトだ」といったの揶揄が飛んでくる。それなら、もう少し難しい例題で、私を批判する人がどれだけ科学的に物事を考えるのか、例題をやってみましょうかということで提起ました。(原文ママ)偽科学発見テスト - finalventの日記(finalvent 2008/11/21 16:33)

特に、

水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに(ママ)

この部分ですね。ニセ科学論に興味を持ち、継続的に批判的活動を行っている方は、頭を抱えてしまうのではないかな、と。

まず、マイナスイオンや血液型性格判断が「ちょっと利発な小学生」に簡単に解る、というのが理解出来ません。前者は物理学の知識が必要で、健康効果や美容効果に関しては、条件を統制した実験によって確認されたか、という所が重要であって(具体的にはたとえば、松下のナノイーの技報を検討したりしてますね)、後者に関しては、血液型―性格 の連関という部分と「性格判断」を分けて考える必要があって、そこを誤認している学者なんかもいます。そもそも、性格判断自体は、その現象があっても全くおかしく無いのですから。

水伝に関しては、その構造自体のおかしさは一般常識レベルで見抜ける、という判断は妥当であろうかと思います。しかし、現実に信じている人が、かなりいます。それは、現象の構造を把握する認識力よりも価値判断を優先したりする人がいるのを示しています。もちろん、自然のメカニズムとして信じている人もいる訳です。

たとえばゲーム脳は、保育学の教科書に、肯定的扱いで載りました(削除される予定)。現在も、森氏による講演は続けられていて、凶悪犯罪が起こると、未だに森氏の見解を訊く新聞社があるほどです。

そういう現状を鑑みると、「そんなものを批判してもたいした意味もない」という捉え方は、私には的外れと言うか、あまりにも「見ていない」としか思えないのです。

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2008年11月21日 (金)

数学思考。ドーキンス

仕事力を10倍高める数学思考トレーニング: 大村 平: Amazon.co.jp: 本

仕事力を10倍高める数学思考トレーニング | 書籍 | PHP研究所

今読んでいますが、これは素晴らしい本。とても解りやすいですし、面白い。

こんな文章が書きたいものだよなあ、と痛感しますよ…。

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ドーキンスの本を借りてきました。

手始めに、これを読もうと思ってます↓

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか Book 虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

著者:リチャード ドーキンス
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ドーキンスの本に関しては、a-geminiさんがよく採り上げておられるので、読んだ後にそちらを参照しようと考えています。

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2008年11月20日 (木)

テストだそうです

偽科学発見テスト - finalventの日記

【偽科学批判者の科学的資質を問うための、偽科学発見テスト】

だそうですが、皆さん、どう思われますか?

私の疑問いくつか。

  • finalventさんの言う「偽科学的説明」という意味が掴み取れない。
  • 歴史的経緯の要約に関して「偽科学的」部分を指摘するという意味が掴み取れない。まずその記述が要約として適切か、という視点もあるし、それは知識にも依存する。
  • ある言説がニセ科学的であるかどうかというのは、様々な資料を検討して行われるものだから、どう答えるべきか判然としない。
  • ある言説がニセ科学的であるかどうかを個人で頑張って判断する必要は無い。解らなきゃ訊けばいいんだし。
  • 名指しして(dlitさんは、「偽科学批判ぽい言説を投げかけた」んですか?)解答を促すにしては、問題設定が曖昧。しかも、「科学的資質を問う」なんて言い方ですしね。

「少くとも「偽科学」は明らかに大げさ。知識自慢したいだけ?」

そうじゃ無くて、ニセ科学に関する知識の無さをどうにかすれば? じゃないかと。

個人的に見解を伺いたい方(本当は、こういうかたちで名指しするのは、リソースを消費させてしまうという意味でも、大変に失礼な訳ですが、アドバイス頂ければありがたいです)

⇒ちがやまるさん

⇒PseuDoctorさん

⇒complex_catさん

⇒たかぎFさん

⇒apjさん

選んだ理由は、ニセ科学論、実証科学の具体的方法、あるいは、医学や疫学の方法に関して明るい皆さんであるからです。

科学的に見て不充分な記述はどこか、という程度の問題ならともかく、わざわざニセ科学批判者を名指しして「科学的資質」を問うなどという言い方でテストと称して問題を出す、という所に違和感を持ちました。マジレスと言われようが柔軟で無いと言われようが、指摘します。

たとえば、finalventさんは、ゲーム脳や血液型性格判断が何故ニセ科学と言われているか、押さえておいでなのかな。

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血液型性格判断関連2つ

いずれ劣らぬ強烈なものをば。

B型の人は英語が得意って本当?! - [英語の学びなおし]All About

[決着]なるべく回答して下さい。血液型と性格に決着をつけましょう。 Q1.血液型... - Yahoo!知恵袋

いかがですか。前者はギャグレベルの根拠でものを言っていて、後者は、結局自分の直感に合う回答に共感する、というもの。

「直感は必ずしも事実を反映しない」という「実感」を得るのが、すごく重要だと思います。その実感は、「数字を読む」事を意識したりしないと、なかなか得られないものですが…。

思えば、少年犯罪が激増していると思い込んでいた所に、それが間違いだというのをデータを示されて説明されているのを見た時には、愕然としたものです。

それから、色んな分野で、直感を相対化して「事実」を調べる事にどれだけ工夫しているか、というのを知りました。ああ、なるほどなあ、と。

それにしても、前者の記事、推定も検定も、誤差も、何も考えていないですね。このレベルのものは、さすがにそうは見かけない。どんなにダメなのでも、かたちだけ独立性の検定をしてみせたりするものですが、これは群を抜いています。

後者は、「決着」と言っているのに、自分はこういう意見を受け付けませんよ、というのを初めから書いていて、ほとんど意味が無いですよね、質問として。一体何がしたいのだか…。質の高い回答がいくつかあるのがせめてもの救い、でしょうか。

不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門 Book 不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

著者:菊池 聡,宮元 博章,谷口 高士
販売元:北大路書房
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統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス 120) Book 統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス 120)

著者:ダレル・ハフ
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑大村さんの『数字のトリック』が貼れなかったので、評判の良いロングセラーを。恥ずかしながら、読んでません。参考文献として色々な所で紹介されるので、載せます(大村さんの本でも紹介されていました)。

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2008年11月19日 (水)

さすがにそれは無いです

脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想

私は科学的区別を排除しようとしたのだが、疑似科学批判と言う疑似科学を批判することで自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。

そして、意図せずして科学的に行われた私の疑似科学批判もまた疑似科学に陥る。これを脱するには自らが疑似科学である可能性に常に科学的に言及しなくてはならない。さらに言えばここで行われる科学的言及もまた疑似科学化する。

いくらなんでも、

自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。

この発言は考えられないでしょう。何を意味するのかさっぱり解りません。

正直、言ってる事がめちゃくちゃだと思います。

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メモ:科学的とは。因果関係。Wikipediaの使い方

科学的とはどういう事か、とか、ニセ科学や未科学をどう考えるか、などのテーマでごちゃごちゃ(本当にごちゃごちゃ)書いたのをいくつか。

応用編

余計な一言。

「気」を見聞きした瞬間にニセ科学だ、そんなものありゃしない、と考える人は、猛省すべきです。

うーん、ごちゃごちゃ。

科学といった場合、「実証科学」を指すのは押さえておきたい所。概念を最大限広げると、「学問」や「個別諸科学」というような、ごく一般的な知識の体系という意味合いを持つので、観察や実験によってデータを集めて理論を構築するという意味での「実証科学」と捉えておくのが妥当だろうと考えています。

------------

因果関係について。

参考文献:加納克己・高橋秀人 編 『疫学概論 -理論と方法-』

II.疫学の基礎―2.原因と結果(因果関係) を参照して書く。

▼因果関係と関連性

統計学的な関連(association)は必ずしも因果関係(causality)を意味するものでは無い。

▼疫学における因果関係

宿主(host)・病因(agent)・環境(environment)の動的な相互関係、「三角モデル」による因果関係の説明→非感染性疾患についての多要因原因説(multiple causation theory)→従来の3大要因による考え方では因果関係を十分に説明出来なくなった。

アメリカの公衆衛生総監の諮問委員会による、「喫煙と肺がん」の因果関係の判断の5つの条件

  1. 普遍性(consistency):再現性・追試による確認。
  2. 強度(strength):よく用いられる指標―相対危険度・寄与危険度。疾病の発症と原因の関係の量的な強さ→量-反応関係(dose-response relationship)。
  3. 特異性(specificity):特異性―1対1の関係にある状態。非感染性の疾患などの、複雑に多数の原因が絡み合ったものは、特異性が低い(特異性が低くても因果関係を否定出来ない場合もある)。
  4. 時間的関係(temporal relationship):疾病発生の原因は必ず疾病発生に先行しなければならない。
  5. 論理的一致(coherence):既存の医学的・生物学的知識・論理に合致し、矛盾の無い事が必要。

Evans AS→非感染症まで適応範囲を広げた8項目を提示。以下箇条書き部分は9ページより引用。

  1. その疾病の有病割合は曝露群のほうが,非曝露群より高いこと.
  2. 患者群は,非患者群に比べて推定原因への曝露がより高頻度にみられること.
  3. 前向き調査(第5章参照)で,曝露群は非曝露群よりその疾病の発生率が高いこと.
  4. 容疑要因への曝露がその疾病の発生に先行すること.
  5. 宿主側の反応に,測定可能な生物学的スペクトルが存在すること.
  6. 実験的にその疾病が再現できること.
  7. 推定原因を除去すれば,その疾病の発生率が減少すること.
  8. 宿主側の反応を防止または緩和すればその疾病の出現を減少または除去できること.

これらは、因果関係立証のための必要条件では無い。疫学的因果関係を判断するための目安。

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余談。

Wikipediaの使い方。私の場合。

ブログのエントリーなどで、Wikipediaの引用がなされる事がありますね。

で、それに対して、Wikipediaの記事を引用するとは……という批判がつく場合がある。記事に信頼性があるとは限らないではないか、というようにですね。

私の使い方は、こうです。

●当該対象について詳しく無い場合

この場合は、記事に書かれてある内容が適切であるか判断出来ない訳ですね。当然です。知らない事について、Wikipediaによればこういう意味のようである、と紹介するのだから。一般的な辞書を用いるのと同じ文脈。

で、私はこういう時には、記述が正確で無い事をあらかじめ断って引用します。WEBで他に参考資料が見つからない際には、そうやっていますね。

まあ、でも、知らないものについては、なるだけ引用しないのが無難とは言えます。学術的なものである場合なんかは、時間を掛けてでも、大学の専門家のサイトを探す、とか。なので私は、芸能とかサブカルチャーが主かな。

●当該対象についてある程度詳しい場合

この場合だと、記事がどの程度信頼出来るか判断出来るので、参考資料としてきちんと提示する訳ですね。自分はこれについて調べているが、このWikipediaの記事はよく出来ている、だから参考資料として紹介する。といった具合です。もちろん、その信頼性の評価は、紹介した時点での版に関してですが。

この観点からすると、Wikipedia「だから」信用ならない、とは必ずしも言えない訳ですね。中には専門家が編集していたり、豊富に参考文献を示していたり、といった、優れた記事もあるのですから。

ですから、Wikipediaの記事を紹介している事をもって、全体が信用出来ないものである、とするのは妥当では無いでしょうね。Wikipediaに信用ならない記事があるからといって、他のものも概ねそうであろう、とは論理的にならない。編集の仕組みからいってもそうなんじゃないかな、と。

もちろん、基本的には、専門書や論文レベルの文献よりは、資料的価値としては劣る、と考えていた方が良いとは思います。あるいは、固定された記事と考えるのでは無く、ノートや編集履歴も含めて一つのコンテンツとして見る、という。

いずれにしても、使い方によっては有用なものとなろうかと思います。

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2008年11月18日 (火)

科学とか信仰とかやってるけど…

あのですね。

科学と信仰は違う、一緒にするな。そうやって語るな。

というんじゃ無いんですよ。

科学を信仰という面から見るのは、人文・社会科学的にも非常に大切な論点でしょう。初めからその視点が問題とされているなら、そのテーマで有意義な議論をすれば良い。

んで、ニセ科学論てのはそうじゃ無くて、極めて具体的な話な訳です。実証のプロセスを経ているか、とか、実験や観察の方法の適用は妥当か、とか。

そこをすっとばしてメタなレベルに視点を持っていって、科学と宗教の共通点を見出したりして一般論を語るのは、筋が違うのです。相違点もかなりある訳なので。

だから言ったのです。私が発端なのに置いてけぼりにされた、と。

私は初めから、「ニセ科学」の論について理解していますか、という意味でコメントしたのですよ。ニセ科学と看做されるものにどういうのもがあって、それが何故ニセ科学と判断されるか、というのを知っているか、と。

ニセ科学論の重要な論点として、その当時のスタンダードな方法に則っているか、というものがあります。たとえば、古川の血液型と気質の連関を調べた研究というのは、科学であった訳です。

現在ニセ科学と看做されているものが、将来実証される場合も、可能性としてはある。だけれど、それが、現在のニセ科学という評価を覆すのでは無い。

と、こういう論理を理解しているのか、という話だったのです。

科学哲学の議論そのものでは無いし、関連しない訳でも無い。実証科学の方法という観点から判断する問題。

にも拘らず、どんどんずれていってしまったんですね。

まあ、そういう事です。

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ニセ科学の見方2

Interdisciplinary: ニセ科学の見方の続き。

はてなの方は、ニセ科学の議論でも何でも無いというのが判明したので、こちらの有意義なやり取りを進めましょう。

lifecrack - Blog: ニセ科学を信じることを許してはならないか?

しかし、やはりニセ科学と未科学を見分けるのは、なかなか難しいですね。
それでも、少しは理解できたと思います。

たとえて言うと、ゲームのジャンル分けにも通ずる所がある気もします(もしゲームをされないのでしたら、有用な喩えになりませんが、だとしたらごめんなさい)。基本的には専門的な知識なので、具体的に見分けていくのが難しいのは、ある意味当然ですよね。

とすると「ニセ科学を信じる」というこ(原文ママ)に対して、いかなる寛容さも許すべきではないということでしょうか。

これはちょっと違うと思います。何を信じるかは、個人の自由かと。ただ、考える訳です。信じる事は他者に情報を広める可能性を必然的に持つ、と。

だから、信じる事を許さない、と言うより、信じるからには批判されるリスクは甘受すべきである、と言った方が良いでしょうか。

ところで、「寛容さも許すべきではない」という文は、「信じている事そのものを非難する」、という意味合いに取れます。文脈からも、そう見えます。その後に、

どうも私には、最近「ニセ科学への批判」ではなく、「ニセ科学を信じる人」や「ニセ科学を信じる人(こと)へ寛容さを示す人」を一切許さないというような批判が増えているように思えて、そこに違和感を感じるのです。

こう書いておられる事からも。

この引用文については、まず、

「増えているように思えて」の部分が妥当であるか、という所を考える必要があります。

私達は、あるトピックについて議論が盛り上がった際、その目立った部分に着目します。しかし、そこで見た反応が典型であるとは限らない訳です。

また、言葉が広まった結果、「知っている」人間が増え、そして、強い非難を向けている人も多く目につくように「感じる」という可能性もあります。

ちょっと伺いたいのですが、「増えているように思える」のは、何を観察した結果の考察でしょうか。もしかすると、はてブの反応、あるいはあのエントリーにTBをつけたエントリー群、でしょうか。

端的に言って、はてブのコメント等も、ニセ科学の概念をきちんと理解していないだろうと推測されるものが、かなりあります。それは当然ですよね。また、ブクマコメントの文字数制限なんかも、印象形成に影響しているかも知れません。

もし信じる人に対して一切の寛容さを示さない論者がいるとするなら、私は賛同しません(下でも書きます)。

そもそも田崎教授が水からの伝言に対して批判を行われたのは、影響力が大きい教育の場でニセ科学が使われるという"実害"の大きさに危機感を感じたからではなかったですか?

その通りです。優先順位の評価というのは、論者の対象への重み付け次第です。私がゲーム脳に最も重きを置いているように。そして、教育現場で用いられる、等を問題視する人は多いでしょうから、強く批判されるものは、ある程度リストアップされてきます。

ニセ科学批判というものが盛り上がりを見せる中で、ニセ科学のみならず、オカルトやスピリチュアルなどに否定的な人まで参加して、"ニセ科学やオカルトを信じている人"への批判、さらには批判とよべないような"叩き"が増えているように思います。

上と同じです。オカルトやスピリチュアルを含めて無反省に「ニセ科学」として批判するのは、少なくとも昨今の日本におけるニセ科学論に関して無知である、と言えます。そういう人は批判します。

思うのです。

何故そういう反応を一緒くたにして、ニセ科学批判者の態度一般であるように表現なさるのでしょう。それは、かなり早計ではないでしょうか。

それがあまりに攻撃的だったりすると、正直、見ていてうんざりしてしまうこともあります。

私もうんざりします。とてもうんざりします。

質問です。

私の認識や態度は「攻撃的」でしょうか。

「ニセ科学」という語を用いてそれを批判する論者には、色々いる訳です。誤った認識で用いていても、それを見抜くにはニセ科学論の知識が必要だから、誤解も相当受けるのです。

ニセ科学批判者というのは、あまり知識が無い人からすると、ニセ科学という語を用いて何かを批判している集団、としか捉えられないのですね。でも、実態は、様々な論者が様々な理解で批判しているのです。

だから私は、菊池教授や田崎教授、天羽准教授の論を踏まえるべきだ、と言っているし、なるだけ丁寧に説明しようと心掛ける訳です。色々な態度の人がいる以上、自分が丁寧な態度を示すべきだと考えているのです。こうした方が良い、と言いつつ、自分もやる。

知識不足を埋めるための方法には、2つあります。

一つは、勉強して知識を増やす事。

もう一つは、自分の知識に合わせるように現象を解釈する事。

ニセ科学はこう用いられていて、こう誤解する人もいる、というのを理解するよりは、ニセ科学という語を用いて何かを批判している人達には一般的にこういう傾向がある、とメタに解釈してしまった方が、楽な訳です。

「ニセ科学を信じること」や「ニセ科学を信じることや、ニセ科学を信じている人を『まぁ、害がないなら良いんじゃないの』と許容すること」それらは許してはならないことなのでしょうか?

もしかすると、ニセ科学を信じる人への対応や考えが一様である、と思ってはおられないでしょうか? 信じ方、広め方、用い方、は様々です。ですから、色々なアプローチがあります。ニセ科学の主唱者への言及と、ふとしたきっかけで信じるに至った人への言及は、違う訳です。一般論として、上にも書いたように、ニセモノを信じる人は、それはニセモノだ、と批判されるリスクは負うべきです。しかし、具体的にどう接するかは異なるでしょう(ああ、ここら辺は、poohさんの所を見てもらった方がいいかも…)。

ちなみに、ゲーム脳Q&Aは私が作ったものですが、ここでは、「ニセ科学」という言葉は一度も出していません。そういうアプローチもある、という事です。

ものすごく端的・率直に言うと、私だってニセ科学的なものをいくつも信じてきた訳です。それを棚に上げて、信じる人間一切を許容しない、なんて考えは、持った事は無いのです。多分(多分、ね)、ここをよく読んで下さる方は、理解して下さっています。なぜなら、そういう事をくどいほど書いてきたから。

アドバイスと言うとすごく偉そうですが……はてな辺りの議論は一端忘れて、kikulogPSJ渋谷研究所X  Chromeplated Rat:So-net blogなどのログを読んでみて下さい。もしかすると、印象が変わるかも知れません。批判者同士で批判、とかよくやってますしね。

なんか、返答になっているのかなっていないのかよく解らない文章になってしまいましたが、こういう感じですね。

関連エントリーいくつか。

Interdisciplinary: メモ:ニセ科学批判者

Interdisciplinary: 万能包丁

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2008年11月17日 (月)

ニセ科学がニセである事を同時に言えば

ニセ科学は、それがニセ科学だと表明されていれば問題は無い、という類のロジックの話。

これはニセモノですよ、と言いながら説を紹介したりするので、「本物と誤認させる」という意味でのニセ科学では無くなりますね。

ただ、実態としてはニセモノである事には変わり無い。

呼び方として、ニセモノだと皆が解っている、言っている人自身がそう認めている、のであれば、その場合には、価値判断をはずした「疑似科学」とする、というのも出来るかも知れないですね。使用する目的の偽造紙幣を「偽札」と言う事はあるけど、似せて作ったおもちゃのお札を「偽札」とはあまり呼ばないように。

まあ、そう使い分けるべきだ、という事でもありませんけれど、押さえておいても良いかな、と。

だから、SFで世界設定に用いられたりするのを「ニセ科学」と呼ばず「疑似科学」とする、というきくちさんの用法2008年11月18日追記:コメント欄参照の事っていうのは、やはりなかなか考えられたものだな、と思う訳であります。

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ニセ科学の見方

lifecrack - Blog: 私もわからんです。:2008/11/16 14:39

こちらのコメント欄でやり取りをしていたのですが、あまり何度も長文を投稿するのは良くないので、エントリーを上げます。

▼▼▼引用▼▼▼
これは、ほぼイコールだと見る事が出来ます。なぜなら、「効果がある」という主張そのものが、「効果の実証」を含意するからです。
見方を変えると、「効果がある」に「実証された」という意味を含ませないとするならば、「効果」が何を根拠に主張されるのか、という事です。
▲▲引用終了▲▲

▼▼▼引用▼▼▼
そうすると、初めから超越的・形而上学的な概念を説明の体系に組み込むものは、基本的にはニセ科学とは看做さない、という事にもなると思います。
▲▲引用終了▲▲


どうもまだよく理解できていないみたいです。
物分りが悪くて申し訳ありません。

「効果がある」というのは論理的に、

  • 多くの人に効く。
  • 効果が安定している。
  • 他の要因を排除しても効く。

などの意味を含んでいますよね。そうで無いと、あるものの「効果」と言う事は出来ない。効く人もいるけど効かない人もいる、という意味合いでは、普通「効果」は謳わない訳で。

後者。

説明原理に、神や気の概念等を持ち込んで、閉じた論理体系を構築すれば、それをニセ科学と看做す事は、私はしません。神の方は検証不能ですし、気の方は、構成概念のメカニズムがブラックボックスの仮説と看做せるからです。気はある種の電磁波だ、などと言ったりすれば、それはアウトでしょうね。

やはり私にはニセ科学とは看做されないものと、ニセ科学と看做されるものを見分ける基準を理解するのが難しいです。

前にも書いたように、基本的には実証の手続きを経たか、という観点から判断されるものなので、それは比較的容易な訳です。グレーゾーンであるものや、説明が込み入っているものを、敢えて「ニセ科学」と判別する必要は無いので。それが、別にニセ科学批判は、説をニセ科学と判断してまわる事では無い、という言い方に繋がってきます。

TAKESANさんは「針治療はニセ科学だとは考えていない」とおっしゃいました。
私は不勉強なので、現在針の効果がどの程度科学的に実証されているものなのか知りません。

確か、一時期アメリカで「針治療を保険の対象に含めるか」で揉めたことがあったと思うのですが、そのときも結局明確な結論はでないままだった気がします。
やはり、東洋医学の根底に流れる、経絡、つぼ、気”の循環などが議論の対象となっていたと思います。

針治療と気功による治療、またつぼを刺激することで「治療効果がある」と主張する治療行為、これら違いは何でしょうか。
東洋医学とホリスティック医療などで用いられるインド医学「アーユルヴェーダ」を分ける差異というのもよくわかりません。

どっちも、いわゆる科学から外れた理論によって構築された医学であるように思えますし、東洋医学の方が広く普及したぶん、科学的な検証も多くなされて解明され実証されたもの多いのでしょうけど、ならばインド医学だって今後普及して行く過程でさまざまな検証が行われていくんだろうから、頭っから否定することも無いのかな? と思ってしまいます。

これについては、そもそも、「鍼治療」や「気」の概念等が多義的である、というのを押さえておく必要があると思います。鍼治療を、気や経絡等の東洋的な思想と絡み合った複雑なシステム総体と看做すなら、それ自体がニセ科学であるか否か、というのを判断するのは難しいでしょう。

ですから、ある部分を取り出したりしてきちんと定義して確認する、という必要があるかと思います。鍼治療であれば、特定の部位に鍼を刺して、体調や心理状態が改善するかどうか、というのを、メカニズムはひとまず棚上げにして(無視する訳ではありませんが)確認していく。そうして効果が確認されれば、鍼治療は科学的である、となるでしょう。現在の所は未科学と見るのが良いと思いますが、これは論者によるかも知れません。

ちなみにニセ科学とは、実状と主張との乖離の度合の評価でもある訳です。どうやら鍼には体調改善効果があるようだ、というエビデンス(証拠)が見つけられたとして、それをそのまま言えば充分科学的ですが、「ガンが鍼によって根治した」などと言ってしまってはいけないのです。

※繰り返しますが、田崎さんの文は読まれましたよね? よくまとまっているので、是非お読み下さい。

余談ですが、私の「気」についての考えは、こちらで書いています。ご参考まで⇒●Interdisciplinary: 気感を科学的に考える ●Interdisciplinary: 気とはシステムである

アーユルヴェーダに関しては、私は知識を持っていないので、何とも言えないです。一般論としては、どのように効果を謳うか、原理として何を用いるか、というのが総合的に検討されると言えるでしょう。グレーゾーンならグレーと言えばいいのですし。温泉の効能書きはニセ科学か、という議論もありましたが、議論があるという時点で、それほど真っ黒とは看做せないのかな、という判断も出来ると言えますね。

ニセ科学批判というものをみていると、オカルトやらスピリチュアルやら時には宗教まで"ニセ科学"の枠のなかに一緒くたに入れられて批判されているものなどもよくみます。

私も見ます。そして、それを批判します。右サイドバーにwikiがありますが、私はその記述と同じ認識です。

でも、ニセ科学に対する批判というのは「"ニセ科学を信じること"そのものが問題だ」という批判だと思います。
「実害がなければ、別に信じてても良いんじゃないの」という話ではないようですし。

一行目。

信じる事はすなわち、ウソを本当だと信じる事なので、それは問題だと思います。要するに、科学ではこうなっているのに、科学では「こうでは無い」と言っている人がいて、それを信じ込む人がいる、という話ですよね。

二行目。

これはよく解らないのです。実害がある/無い をどう分けるか、という問題もありますし、ニセ科学は偽札を本物だと言ってばら撒くようなものなので、それ自体批判の対象となります。偽札を掴まされた人は、本物だと信じて店で使うかも知れない訳で。個人で信じて他者に全く影響を及ぼさない、という状況が、かなり珍しいのではないかな、と。他者と交流せずにニセ科学を信じる、というのが果たして現実的にあり得るのかどうか…。

しかし、「ニセ科学」とそれ以外のものを見分けることが多くの人にとって本当に可能でしょうか?

当然不可能です。不可能であるから、実はニセ科学というものがあるのだ、と周知しようと試みている訳です。重要なのは、「専門家」や「科学者」がニセモノを広める、という事なので、それを知らせているという面があります。

実際のところ、水伝に対する批判がこれだけ盛り上がったのは、"水伝を批判するのに科学的なリテラシーなんてたいして必要ではなかった"からではないでしょうか?

いや、水伝を批判するには、それなりの科学のリテラシーが必要だと思います。自然科学の面では。水伝批判が盛り上がったのは、それが象徴的に批判者によって採り上げられるというのもあるし、「言葉」という人間にとって普遍的で馴染み深い(自然科学より遥かに)トピックに関わるものであり、さらに、それが道徳教育にも用いられた、という事情があるからではないかと考えています。

実害への批判ならば誰にとっても解りやすいし、「"ニセ科学やオカルトや宗教やその他もろもろが一緒くたにされたもの"への批判」であっても、「信じることで発生する実害」に対する批判ということで統一されて、それほどおかしなことにもならなし、混乱も少ないのかな? と思ったのです。

私はそうは思えません。ニセ科学とオカルトが一括りで批判されるのは、レイヤが異なるものを一緒にしていまっていると考えます。ニセ科学は、ある程度対象を狭める事で、問題を解りやすく、論点を明確にしたものです。未だに、ニセ科学批判を科学哲学上の問題とほぼ同じように捉えている人もいるのですが、それは、伝統的な境界設定問題を引きずり過ぎていると思うのです。

「ニセ科学やオカルトや宗教やその他もろもろが一緒くたにされたもの」を批判するならば、それらに共通する要素をきちんと見出して概念を定義する必要があると思います。

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2008年11月16日 (日)

調べる。何かが解る

知らない言葉があったら、ドラッグして、検索窓に、入れてみよう。

みたいな。なんか標語のようですが。もちろん、トップに出たのが信頼出来るとは限らないですが。

はてブつけたりした人で、改めてニセ科学とは何ぞや、というのを調べた人はどのくらいいたのだろうな、と思ったりするのでした。

------------

ニセ科学に関しては、きくちさんの『ニセ科学入門』と、ニセ科学批判まとめ %作成中 - トップページ(執筆時点でメンテ中)の内容は、押さえておくべきだと思います。wiki周知されな過ぎ。最高に優れたコンテンツの一つなのに。

昨日のエントリー関連で、色々な反応があったようです。いくつか見ていきます。

まず、科学とニセ科学の境界について、それは反証可能性の有無によって判別される、という意見がありました。反証可能性は大変重要な概念ですが、それだけでは基準とはならない、というのが、今の科学哲学的な見方だと思います。伊勢田哲治氏の論考を参照。

次に、「ニセ科学」が「詐欺」を含意している、という所。これはどうなのでしょう。「詐欺」というのは、一般的には、故意である事が含意されるのかな。だとすれば、ニセ科学は必ずしも詐欺とは言えないと思います。正しいと思い込んでいる場合があるから。で、わざとだろうがそうじゃ無かろうが、間違った主張をしているので、批判の対象になる訳です。

▽ここから追記部分▽

はてなブックマーク - 科学とニセ科学と宗教 - 不動産屋のラノベ読み

2008年11月15日  filinion 読み物, これはすごい, 科学 科学はその主張の真偽を検証できる。宗教は検証できないが故に反証不可能である。疑似科学は、検証可能でしかも誤っている。/人間の理性も有限で、常に正しいとは思えない。が、もっとマシな道具がないのも事実。

「ニセ科学」論として見ると、ニセ科学は、検証可能か否かは条件では無く、「間違っている」事が必要条件という訳でも無いですね。ニセ科学は、まだ解っていないものを「解った」といったり、既に解りきっているものに「間違っている」と言ったりするもの。

後者は、前者と裏表だったりもしますね。たとえば水伝は、物質の振る舞いについての新しい論理を見出したと主張すると同時に、これまで積み上げられてきた知識が全て間違っているのが解った、と言っているに等しい。それは、理論の部分の修正によって取り入れる事が可能な主張では無く、自然科学の体系を崩壊させるものですから。

△ここまで追記部分△

ブログでの反応について。

ニセ科学批判はとっても重要です - Atom III

大筋で同意ですが、細かい所をいくつか。

「ニセ科学批判」というのは,社会的に有害な疑似科学を問題とすることです。

これは、Wikipediaの「疑似科学」の項の記述を踏まえたものだと思います。ですが、もう少し丁寧に見ていく事も出来ます。

まず、一般的に言って、「ニセ科学批判」というのは、「社会的に有害か否か」という部分が必要条件では無いと思います。というのも、ニセ科学というのは、科学を騙っているというその部分が批判される所であるからです。有害か否か、というのは、社会的な評価が関わってきますよね。当然そこには、論者の価値観が影響してきます。私が何よりもゲーム脳説を優先して採り上げているのも、私なりの理由があります。

また、有害性を批判の根拠にすると、有害で無ければ批判出来ないという事になってしまうので、それはちょっと異なると思います。

もちろん(これは重要です)、これは有害である、と多くの人が判断する対象、というものに傾向が見られるのはあると思います。たとえば、教育現場に持ち込まれる(水伝、ゲーム脳)、医療現場に持ち込まれる(ホメオパシー)、それ自体が差別的構造を持っている(血液型性格判断)、等。後、今どのくらい流布しているか、という量的な観点も考慮されるでしょう。

だから結果として、高い有害性を持っていると思われやすいものに対する批判が目立つ、というのはあるでしょうね。ただそれは、有害だから批判する、というのとは、少し異なるかと。いわゆる「優先順位問題」とも関わるかも知れません。

それで、

科学であると偽っていることではなく,社会に対して害があることを批判しているのです。

この部分については、まず批判されるのは「偽っている事である」、となるかと思います。その上で、有害性が高いと思われるものが優先して批判されている、と。

そして、これがかなりポイント。

Wikipediaの「疑似科学」の項は、ある人が編集した形跡があるので、そのまま信用は出来ないので、ご注意を。

他の部分については、とても丁寧に論じておられて、参考になります。中でも、

ただ,一つ言えるのは「ニセ科学批判をする科学信者たちが集う唯一の純粋な科学教団」みたいなものは存在しませんよ,ということです。

ここは重要ですよねえ。

2008-11-15 - trash Box eXchange

読み違いをされているという事では無いと思うのですが、一応説明しておきますと、

 この観点の違いは、「ちょっとくらい調べてみて」わかることがらではないと俺は思う。

私は、ちょっとくらい調べてみれば解る、という含みは持たせたつもりはありませんでした。むしろ、ちょっと調べてみれば、そんなに簡単に論ずる事が出来ないのが「解る」かも知れない、という意味を含ませたかな。だから、さっぱりわからないと書いたからには「説明」出来ますよね、と指摘した訳です。ニセ科学のどこが問題か解らないという意見の表明は、ニセ科学など別に問題では無い事が解っている、という主張と、あまり変わらないので(文脈を考えると、「この数学の問題はさっぱり解らない」というのと同じ用法とは考えにくいので)。

変な言い方ですが、ニセ科学論がちょっと調べたくらいで理解出来ないのは、私は多分、よく解ってます(笑) 私自身、物凄く調べたという経緯があったりしますしね。

他の部分は、興味深いですね。個人的には、哲学からのニセ科学論への言及なんかは、もっとあってもいいんじゃないかと。

余談ですが、はてブでの反応で、これだから文系は、的なコメントがありましたね。そういうのは止めましょうよ。哲学とか、徹底的に概念を突き詰めていくめちゃくちゃ厳しい分野じゃないですか。まるで、文科系学問の議論が基本的に粗雑であるかのような物言いはね…。自然科学に詳しく無いという意味で「文系」が用いられる事もあるけれど、ニセ科学論は、もうちょい広いですからね。それも妥当じゃ無いと思います。

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2008年11月15日 (土)

さっぱりわからんそうです

はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。 / 2008年11月14日

あんま関係ないけど、ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん。本人が信じてればいいんじゃないのか。/そしてこの記事にこれ見よがしに並ぶ怪しい広告たち。世の中は奥が深い。

「ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん」そうですよ。

何が問題だとされているか、とか、そもそもニセ科学とは何であるか、とか、ちゃんと調べた上で書いているはずですよね、当然……と言いたいけど、「本人が信じてればいいんじゃないのか。」なんて書いている時点で、ほとんど何も調べていないんだろうなあ、というのが推察されますが。

ちょっとくらい調べてみてからものを言えば良いのでは、という感じです。

ここから追記。2008年11月15日記。

はてブに対して反応がありました⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想

問題視している人が沢山いることと私の説明責任の関係はいまいち不明だが

私は、説明責任の話はしておりません。「ニセ科学の何がいけないのかが解らないと言うからには、それを説明する責任がある」、という事では無く、「非常に多くの人が問題視している対象に関して、何がいけないのか解らないと言うからには、”ニセ科学という概念を理解した上で、その理由を詳しく説明出来るはずだ”」、という意味です。

しかし、エントリーを読むと、おそらくほとんど調べておられない事が、よく解ります。

ニセ科学に関しては、右サイドバーにあるリンクや、ここの「科学」カテゴリー(ニセ科学論と科学一般の話は分けていないので、ごちゃごちゃしています)、あるいは、菊池誠教授@大阪大学のWEBサイト等をご覧下さい。

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2008年11月14日 (金)

読み違いのような

Interdisciplinary: 科学や若者を嫌いな人達に反応がありましたニセ科学批判のエビデンス - SS1 の日記

読み方として筋が良くないもののように思われましたので、言及します(スラドの日記って、TB出来ないんでしたっけ?)。

「その批判のやりかたはどうなのよ」とおもったので

これは、言及したエントリー、つまり私に対しての文と思いますので、その前提で進めます。

それは「ニセ科学的な批判だから」じゃなくて

ここがちょっと解りません。私はそもそも、「ニセ科学的な批判をした」事をもって甲野氏を批判した訳では無いですし。いや、その前に、どの部分にこの文が掛かっているか判りづらいのですけれど…。

参照しやすいように、元々の甲野氏の発言(著作に収録されたもの)を再掲しておきます。

甲野氏:科学者というのは、自説を正しいと信じ込むと、広い立場で客観的に検討することを嫌いますよね。例えば、よく地震の時に「地震雲」という独特の形の雲が出ることが伝承で知られてきているのですが、科学的な地震学者は決して認めようとしません。

 一度私は、高名な地震の専門家が地震雲に対してある所で「地震と雲は関係ありません」と断言したので、「いままでの歴史を調べてみると、人が死ぬような大地震の時、雨が降っていたという話は全く聞いたことがありません。とすれば統計学という学問もあるのですから、天候と地震の間には、何か関係があるのではないかと考える方が、科学的な態度ではないのですか」と尋ねたのです。

 そうするとその人は、「ああ、これだから素人を相手に話すのは嫌なんだよ」といった白けた顔をして黙ってしまいました。(P252・253)

これです。この部分について、

ようするに,これって科学的な言い方に翻訳すれば「その話の,根拠(エビデンス)は何ですか?」っていうのを甲野さんが聞いたという話ですよね。それに対して「いい質問ですね^^;」の一言も返せずに,指導教官にレポート叩かれた学部生みたいにむっつりと押し黙ったのが,その(私の推測では教授職以上の)センセーですよね。つまりエビデンスないんでしょ。そんな教授いたらバカにされて当然じゃん。と私は思います。

こう読み取るのは、どうでしょう。甲野氏がエビデンスの話をした、なんていうのは、甲野氏にあまりに好意的過ぎる解釈なのでは? 翻訳として妥当かは疑問です。

私が言ったのは、科学に関する議論で、統計学的ツールを用いて解析するのは当たり前だ、という事です。つまり、料理人に対して「包丁という便利な道具があるからそれで調理してみては?」と言うようなものでしょう。対して、エビデンスはあるのか、という指摘は、どういう包丁を使ってどう調理したのか、と問う事だとたとえられるでしょう。

そう考えてみると、エビデンス云々という所を甲野氏が意識出来ているとは、過去の発言等を鑑みても、非常に考えにくい訳です。統計的にどういう根拠があるのですか、という話じゃあ無くて、統計っていうツールがあるんだからそれで調べれば、という話。そんな事をプロが言われれば、普通はつっけんどんになるでしょう。もちろん、専門家氏に対する甲野氏の印象も、甲野氏の主観によるものです。私はその記述を一応前提としていますが、詳細なやり取りは無い、というのも押さえておくべきだと思います。

私は、甲野氏の一連の発言を考慮して批判を展開しているので、そこは踏まえて頂きたい所です。

で,その教授は,きちんとした日本語で説明できさえすれば納得していただけるだけの教養のある甲野氏のような人物に,ちょっとつっこまれただけで,厨房よろしく押し黙ったわけですよね。

その設定はどこから? 甲野氏は、ムチャクチャな科学批判を展開している方ですよ。それはご存知ですよね? 甲野氏の記述から、専門家氏が「厨房よろしく押し黙った」とは、私には全く読めませんでしたけれど。専門家が痛い所を突っ込まれて黙り込んだ、というストーリーを設定しているのかな。

そんな人間が入学したときに指導教官になることを考えて御覧なさい。まともなエビデンス・ベースドの会話が出来る能力が,その生徒に身につくわけ無いでしょう。そんなの許していいわけないです。

いや、ですから、上の設定を前提にしてるのは何故? それと、高名な武術研究家(と自称)とのコミュニケーションが、即学生とのやり取りと対比され得るのでしょうか。

そういう類(たぐい)の質問を甲野氏はぶつけたわけですから,やっぱり「いじわるだなぁ・・・」というのが,私の感想。

過大評価じゃないかな。大体、いじわるでもなんでも無い質問です。そんなのをいじわるだと思うような専門家なら、それはかなりダメなレベルな訳ですが、そんな事は、甲野氏の記述だけからは読み取れません。むしろ、これまでの甲野氏の発言を鑑みて、あまりに初歩的な所を訊かれたので困惑、あるいは呆れた、という解釈の方が妥当でしょう。無論、実際どうだったかを断定するのは不能ですが(専門家氏が誰であったかが判明しない限り)。

後半は、どこの文が誰の発言や主張に掛かっているのか、かなり判然としません…。

証拠が無いから無いと看做すのは、科学として当然の態度。あ、一応。証拠が見つかっていないのは、「関係無い証拠が見つかった」、というのと必ずしも一致しません。定義の問題もありますし。そこを考えると、専門家氏の「断言」の程度がどのくらいであったか、というのが気になる所ではあります。

ところで、apjさんの所をお読みなくらいだから、ニセ科学の概念については押さえていらっしゃいますよね。

なんか、血液型性格判断の話とかぶる気もしますが、気のせいかも知れません。

って、私、

話に出てくる学者氏が、その様な態度を取ったのも、ある意味当然だと思います。甲野氏が指摘された様な事は、「当たり前」です。で、(推測ですが)それを踏まえた上で、「地震と雲は関係ありません」とした筈です(地震雲と呼ばれるものと、地震との関係については、余り知りません。科学的には概ね否定されている、というのを見聞きした事がある程度です。「関係無い」と本当に断言したかも気になる所ではありますが)。勿論、学者氏が、具体的にどの様な言い方をしたのか、態度を取ったのかは、定かではありませんが、いかにも、科学者の「融通の利かなさ」を仄めかす様な文章です。

ちゃんと慎重に書いてるじゃないですか。

もちろん、私は甲野氏にバイアス掛けて論評している訳です。そのバイアスとは、それまでの言動に基づいて、今までこういった事を言ってるからここではこんな考えだったのだろう、と推測をする、という事です(それをわざわざバイアスとは言わない気もするけど)。『現代のエスプリ』なんかでも、ムチャクチャな話をしてるんですよね(手許に無いので引用出来ませんが)。

あ、ドーキンスについてのやり取りに似てるような…。他者の主張の解釈は、こういった展開になりますね。

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2008年11月12日 (水)

理系に興味を持ってもらう

野尻ボードを覗いたら、女子高生に、理系に興味を持ってもらうにはどうすれば良いか、という話題が出ていて、エントリーを何か書こうと思って考えていたけど、思いっ切りはずしているような気がして、結局、一般的に「理系に興味を持ってもらうには」、という部分について書こうと思った今日この頃。

特に根拠も無く、自分の経験に基づいて書きますが、たまにはそういうのも良いでしょう。

------------

ここで「理系」とは、たとえば、そうイメージされやすい職業、技術者とか企業の研究者とか、そういうのでは無くて、自然科学的な知識、とします。理系に興味を持つとは、自然科学を志向する、毛嫌いしない、という事。

個人的に思うのは、理系に興味を持ってもらうために、それをイメージさせるいかにも「典型的」な職業などに関心を持たせる、というのは、どうなのだろうな、と。

うーん、何て言うんでしょうね。ほら、友人にしろ家族にしろ、その人が興味を持っている事について、良さをプレゼンテーションされる、というのがあるじゃないですか。いかにそれが素晴らしいかを、熱くなって語る。

でもそういうのって、言われる側としては、結構冷めたりしませんか? 場合によっては引く。その人が熱意を持ってそれに取り組んでいたり興味を持っているのは解るんだけど……と。

だから、理系の知識一般に興味を持ってもらうのがいいんじゃないかと。そういう一般的な所に興味を持てば、総体として、理系の分野の職業にも関心を持たれる事が期待される、と言いますか。

で、一般的な所に興味を持たせるにはどうするか、と考えると、「元々興味を持っているもの」について徹底的に突き詰めるよう促す、というのがポイントかと思っています。

要するに、ほら、科学は素晴らしいだろう? と直接的に言うのでは無くてですね、いつの間にかそれに興味を持たざるを得ない状況に持っていく、という方向性。

大概の物事を突き詰めていくと、自然科学の知識に行き着く訳ですね。具体的な所を学ぶという所にまでは行かなくても、仕組みがどうなっているか、つまり「メカニズム」を意識するという所には行くと思います。

ホント、なんでもいいと思います。どうしてそうなっているのか、というのを考えさせる。ケータイの仕組みでも、ゲームの仕組みでもPCの働きでも、何でも。化粧品の仕組みでもいいし、料理の構造でもいい。模型とかでも。

思うにですね。

理系(の知識の体系とか職業とか)そのものに興味を持たれないという前に、物事の仕組みを考える事を避けたりする、というのがあると感じるんですよ。まずそこら辺から考えていくべきなんじゃないかと。

以上、武術の事を知りたいのが高じて解剖学や生理学・心理学等に興味を持ったり、模型の塗装について勉強していて結局化学的な論理が働いている事を実感したり、昔やっていたプログラミングが実は論理学等の数学的論理に基づいているのだと知ったり、とか、ゲーム脳が何故おかしいかを考える内にニセ科学論に触れ、理論の妥当性を考える際に統計学的方法が重要になる事を知り、それを勉強するに至った、等の経験からの考えを書きました。

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今はもう大丈夫だろう的な雰囲気

『AERA』11/19:血液型性格判断を肯定|ほたるいかの書きつけ

雑誌の意見としては中立……と言えば聞こえはいいけれど、要するに、これまでの知見を無視している、という話。

これは、はてブ経由で⇒Business Media 誠:血液型で見る、歯ブラシ1本の交換期間 (1/2)

ジョンソン・エンド・ジョンソンのプレスリリース⇒プレスリリース | ジョンソン・エンド・ジョンソン

血液型別の歯ブラシの交換時期を調べたそうです。何じゃそりゃ。

なんか、今はもう、強い関連があると断言しなければ適当な事言っていい、と思ってるんじゃないですかね。かなりひどいんですが。後者は別に、性格云々と直接言っている訳ではありませんけれど、医療に関わる企業が、

歯ブラシの交換時期の目安と言われている1ヶ月以内に歯ブラシを変えているのはB型が一番で29.9%。

◆歯ブラシの交換時期は?
  1ヵ月以内に交換している割合が多いのは、B型、A型、AB型、O型の順。
  1週間以内に交換している割合が多いのは、AB型。

◆もてるためには、「白い歯」が重要?
  「重要」と感じているのは、O型女性(重要度71.0%)。
  「重要でない」と感じているのは、A型男性(重要度49.6%)。

こんなものをプレスリリースに載せてどうするんですか。誰も何も言わなかったのかな。少なからず、株を下げるでしょう。医療従事者はどう思うでしょうね。

サンプルは信頼出来るのか、というのは、いつもの通りです。

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2008年11月11日 (火)

詳しく調べる事を勧めます2

Interdisciplinary: 詳しく調べる事を勧めますの続きです。

(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログにて、anomyさんや私へ返答がありました。ご自身の主張に反する意見を冷静に受け止めて頂いて、ありがたいです。

さて、森昭雄氏の論は、端的に言って、破綻しています。あらゆるレベルで矛盾や自分勝手な解釈をした部分があり、科学と呼べる代物ではありません。

コメント欄からいくつか引用します。

森昭雄教授は本の中で「ゲーム脳」の定義を説明していますが、
あなたの「ゲーム脳」の定義とは違うのでは?と感じました。

anomyさんのエントリーへの返答です。

森氏の本を読むと、ゲーム脳の明確な、定量的な定義は見出せないはずです。グラフのパターンの分類のように見えるかも知れませんが、同じようなグラフに別の解釈をしている所もあります。

「前頭前野の活動が低下」という部分、生理学的に賦活していないという意味なら、そういう研究結果はあります(ある種のゲームのプレイ時において)。しかしそれは、認知機能等の低下を即示す訳では全くありません。参照⇒テレビゲームが脳に与える影響

そして、この学生たちの80%が、自分はすぐキレる、
すぐ忘れ、忘れ物が多いなどをコメントしているとのこと。

このような、単なる自己申告では、科学的に充分とは全く言えません。仮に、忘れ物が多いというのが合っているとして、それを「脳の機能低下」に即結び付けてはなりません。

この本に対する受け止め方が、貴方と私で違うようですね。
この本を、貴方は読みましたか?

受け止め方の違い、と相対化してはいけません。森氏の論は「間違っている」のですから。

私は、森氏の本について、当ブログで詳しく検討しました。大部ですが、ご覧頂ければ幸いです⇒Interdisciplinary: 『ゲーム脳の恐怖』を読む

また、ゲーム脳論の問題点を平易にまとめたQ&Aもあります。よろしければご覧下さい⇒ゲーム脳Q&A

ゲーム脳は、まともな概念の定義も無く、科学としての方法や手続きも踏んでいないにも拘らず科学的に実証されていると謳っている説として、多数の科学者・専門家から批判を受けている説です。恐らく、批判がある事自体はご承知と思います。上に出した私のテキスト等の批判的言説も吟味して、冷静にご判断頂きたいと思います。

子ども達の健康について考えるならば、森氏の論を受け容れるというのは、良策であるとは言えないのです。

森氏の専門が「脳神経科学」であるというのは、最近森氏のプロフィールにも載っているので、あながち間違いとは言えないようです。ただ、ゲームのような文化が認知や行動にどう影響を与えるか、というのは、実験科学的な論点だけでは無く、広く文化や社会を射程にした方法を用いる必要がある訳です。その意味で言えば、全く不充分であると考えられます。もちろん、実験的な手続き自体が全く不足しているという部分は押さえておくべきで、それは、このブログの一連のエントリーで指摘しています。

ゲームによる認知や行動への影響という面を研究している科学者として、坂元章氏(お茶の水女子大学教授。社会心理学)が挙げられます。冷静で客観的にゲームの影響について研究しておられる第一人者ですので、もしゲームの影響に関心がおありでしたら、坂元氏の著作を参照するのをお勧めします。

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森氏の専門分野について

昨日も書きましたが、改めてエントリーを。

森昭雄氏に関して、これまで、森氏は脳神経科学者だと本に書いてあり、メディアでも紹介される事があるが、実はそうでは無い、という批判がなされてきました。

しかし現在、日本大学のサイトの教員情報に、専門分野が「脳神経科学」と明記されています⇒日本大学文理学部 人文科学研究所

いつ頃書かれたかは定かではありません。私は日大のサイトを、一年に数回はチェックしているはずなので、それほど以前では無いとは思うのですが、いつの間にか追加されていて、驚きました。

さて、今までは、森氏は脳神経科学者では無い、日大のサイトを参照の事、と言ってきた訳ですが、これからは、単純にそう言うだけでは不充分であり、情報としても不正確なものである、と考えられます。

教えて頂いたところ、専門分野を大学のサイトで謳う事等は自己申告で、関連の研究者の弟子筋であったりすれば、特に問題も無く名乗れるという事だそうです。従って、これからは、森氏は脳神経科学者では無い、と言うのではなくて、森氏は脳神経科学専門と言っているが、実は業績的には……と説明するのが正確であると思います。実際、公式の場でそれが専門であると謳っている所を鑑みても、「脳神経科学者では無い」と端的に言って批判するのは妥当では無くなった、と考えて良いでしょう。公的な資格のような、明確に判断出来るものでも無いですしね。

いくらおかしな事を言っているとしても、批判は、正確な情報に基づいて行われなければならないので、ここら辺は押さえておくべきだと考えます。

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2008年11月10日 (月)

詳しく調べる事を勧めます

(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログ

コメントへの反応などを見ると、強く信じ込んでいるようです。

聞き入れて頂くのは難しいでしょうけれど、いくつか事実誤認があるので、そこを指摘したいと思います。誤った情報を広めるのは良くありませんので。

森昭雄・日本大学大学院教授

えっと、「大学院教授」って肩書きは一般的なんですかね? 少なくとも、森氏はそう紹介される事は無いかと思います。

「ゲーム脳の恐怖」には、脳波データを用いて解説しています。
この本を読むことをお薦めします。(コメント欄)

ゲーム脳になっている人が、テレビゲームをしている最中の脳を
脳波計で測り、痴呆者の脳と同じようなパターンになることを
実際のデータで説明しています。(コメント欄)

森氏の用いた機器に関しては、信頼性が疑われる物であると各所で指摘されています。また、それによって認知症が診断出来るという説は、全く科学的根拠はありません。

森昭雄教授は、脳神経科学が専門で、(コメント欄)

※ここ重要。意見求む。森氏の専門は元々神経科学ではありません。尤も、今はプロフィール(日本大学文理学部 人文科学研究所:森昭雄)に書いているようですが(書かれてしまっては、業績を考慮するしかないでしょうね。Q&Aに補足しといた方がいいかな。それにしても、大学の関係者は何も言わないの?)、そちら方面でのまともな論文は無く、ゲーム脳論に関する信頼出来る論文もありません。※森氏の専攻が脳神経科学では無い、という批判の指摘の説得力が乏しくなりましたね。業績まで見る人は少ないだろうから。

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ニセ科学フォーラム

行われましたね。

私も行きたいのだけれど、あまりにも遠方。

某ブクマで、参加者の感想のブクマが集められているので、GO(超他人任せ)。

個人的には、ゲーム脳について紹介されるのが、ありがたかったりするのでした。

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誤解に基づいた批判。科学のツール

要素還元主義的である科学は、要素が複雑に絡み合った現象を解きほぐす事は出来ないし、方法も持ち合わせていない。それどころか、考えた事すら無いだろっ。だからホリスティックな見方が大事なんだっ、的な思いを持っている人に、次の文章を捧げましょう。

 ところが、科学技術の力をもってしても,どこから手をつけていいのかわからないような難問も少なくありませんでした.能力の高い社員を採用するためには入社試験の科目として何を選んだらいいでしょうか.そもそも能力とは何でしょうか.色,形,味などに対する好き嫌いは何によって決まるのでしょうか.デパートの商品はどのように分類して配列するのが顧客のためでしょうか.そのほか,この手の難問は枚挙にいとまがありません.

 これらの難問の共通点は,たくさんの要素が複雑にからみ合っている点です.たとえば,能力について考えてみてください.知力,体力,気力が能力に大きな影響を与えそうですが,それと,合理的な思考力,発表・説得力,調整力,忍耐力などはどうからみあっているのでしょうか.あまりたくさんの要素が複雑にからみ合っているので,科学のメスをどこから入れていいかわからないではありませんか.このため,このような難問に対してはさしもの科学も無力と諦め,古来の習慣に従うか,経験と勘を頼りに若干の改善を試みるくらいがせいいっぱいの努力であったのが実情でしょう.ところが,近年になってこの種の難問に挑戦する科学的な手法が急速に開発されはじめました.その理由の第1は,巨大なシステムとしてとらえた人間社会の効率化,最適化を追求するに当たって,ぜひともこの種の難問を解決しなければならないというニーズが発生したからです.そして第2の理由は,この種の難問を解くために必要なツール――統計学とコンピュータ――が準備されたからです.統計とコンピュータの使用を前提として,多くの要因が複雑にからみあった現象を解明し,本質的な骨組みを描きだす手法の群,それを多変量解析法といいます。そして,多変量解析法はひょっとすると,セメントや鉄を抽出したり石油を医療や食料に変えてしまう技術よりも,もっとすごい科学技術なのかもしれません. 大村平 『多変量解析のはなし』 まえがきより

この本の初版が、1985年。上記のまえがきには、昭和59年12月とあります。

つまり、科学は、様々な要因が複雑に絡み合った現象というものを対象化し、解明する方法を開発・発展させてきた訳です。とっくに。

たとえばこの本⇒多変量解析論

出版は1967年、40年も前です。

何が言いたいか。詰まる所、「自分が考えた程度の事は、誰か思いついた人がいるだろう」、という事です。現象が複雑で、とても解明出来そうも無い、と思ったら、ではそれを追究した人や分野、方法は無いのだろうか、と考えるのが筋なのです。

多変量解析、もっと一般的には統計解析の方法というのは、今や科学の方法に欠かせないツールになっていると思います。文化・社会現象をも数量化して解析している訳ですね。だから、そういう現状は把握しておくべきでしょう。そうで無いと、「中の人が常識として弁えている」事に関して、あたかも新しく気付いた事であるかのように指摘する、という恥ずかしい言動をしてしまいかねないのです。

言った本人が恥を掻くだけならいいんですけどね。そういうのを流布させるのは、各方面に多大な迷惑を掛けてしまうのですよ。誤解させてしまう。

科学の方法を批判したいなら、まず科学のツールについて見てみるのが順序というものです。

という訳で、科学や技術に関する方法について知りたい人は、大村平さんの本を読みましょう。さりげなく普及活動です。

統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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多変量解析のはなし―複雑さから本質を探る (Best selected Business Books) 多変量解析のはなし―複雑さから本質を探る (Best selected Business Books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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統計解析のはなし―データに語らせるテクニック (Best selected Business Books) 統計解析のはなし―データに語らせるテクニック (Best selected Business Books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

大村さんの本が、もっともっと普及して欲しいですね。いや、実はものすごいロングセラーな訳ですが(今手許にある『確率のはなし 改訂版』を見ると、1968年1刷、1999年45刷)、それでも、もっと読まれて欲しい。

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2008年11月 9日 (日)

寝屋川調査のデータとグラフ

魚住絹代 『いまどき中学生白書』より、『メディアの利用状況と認知などへの影響に関する調査』(2005)、通称「寝屋川調査」(以下、「寝屋川調査」と記述)に関するデータについて書かれている部分を検討し、掲載されているグラフについても言及します。

以下、「本書」と記述した場合、『いまどき中学生白書』を指します。

○寝屋川調査のデータ

 二〇〇五年七月に行われたアンケートには、寝屋川市、そして、講演を通じて知己を得た長崎県の教育庁、教育委員会、東京都の中学校の生徒、保護者計四千七百六十二人に協力を求め、三千五百人余が回答してくれた。(P12)

▼時期

2005年7月

▼場所・調査対象

寝屋川市・長崎県・東京都の中学生、保護者

▼調査人数

回答の依頼:4762人

回答人数:約3500人

▼調査法に関して

 精神医学の専門家などの協力を得て、調査が医学的・科学的な裏付けを持つようにした。(P12)

▼集計

寝屋川市教育委員会、寝屋川市立中学校のスタッフ

▼問題点

  • サンプルが無作為に抽出されたものでは無い。たとえば、社会調査でよく用いられるような、層化多段抽出法のような方法は採っていないようである。
  • 従って、当該調査によって得られたデータを検定した場合(本書では行われていないが、岡田の著作では、たびたび検定の結果が書かれている)の確率論的な根拠が失われる。目標母集団(調べたい全体)はおそらく、全国の中学生とでもなるであろうが、達成母集団(実際に得られた、あるいは一般化出来る集団)としては、可能な限り一般化したとしても、各地域の中学生(と保護者)総体となるだろう(これも無理な仮定であるが)。
  • 精神医学の専門家などの協力、とあるが、質問項目等、どのような専門家が関わっていたのか、甚だ疑問である(当ブログの他のエントリーを参照の事)。

○グラフの検討

本書に掲載されているグラフを、いくつか紹介する。新たに筆者が同じようなグラフを作成した。

注意点

  • 必ずしも正確な数値が書かれている訳では無いので、大体同様だと視覚的に確認出来るよう、適当に数値を入力した。
  • 本書では、グラフが掲載されてあるページに、タイトルとして、たとえば「ゲーム族には偏食が多い」などの、その節での主張とグラフの解釈の文言が当てられており、グラフによっては、下部にそのグラフを説明する文章が書かれている。本エントリーに掲載するグラフのタイトルは、そのタイトルをそのまま用い、縦軸・横軸の文もそのまま引用した。
  • 本書のグラフは、ほぼ3Dグラフである。それも再現した。
  • グラフのカテゴリーに、「3時間(くらい)以上」とあるが、これは、グラフによって、最も大きいカテゴリーが、「3時間以上」と「4時間以上」の場合があるからである。最大が「4時間以上」の場合には、「3時間くらい」とする。
  • あくまで参考として、再現したグラフを掲載するので、不正確な部分がある事をお断りしておく。
  • 「▼」の後に、「○□△(Pxxx)」と書いた場合には、文が、グラフが掲載されている節のタイトル、「Pxxx」は、節が始まるページ数。
  • グラフは、クリックで拡大。

▼ゲーム族は偏食が多い(P49)

P50_html_m669237e9

一日のゲーム時間が長い子どもほど、偏食が多い。三十分程度の子に比べ、三時間以上ゲームをする子は三倍以上、二時間以上の子は倍以上である。(P50)

この節、「ゲーム族の子は、なぜか肉が好きなケースが多いと感じる。もっとも、これはきちんとした統計に基づくものではなく、経験的な話である。」(P49)という記述もある。

▼落ち着きがなく、注意散漫(P51)

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長時間ゲームをする子は、注意散漫で、ミスが多くなる。一日三時間以上ゲームをする子の場合、三割以上が「注意散漫」と自己認識している。(P52)

他に、「じっと座っていることができず、たえず動きたがる」、「気が散りやすく、よくよそ見をしたり、忘れ物やミスが多い」などの質問への回答(いずれも保護者回答)を参照しているようである。

▼傷つけられると仕返ししたくなる(P55)

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ゲーム時間が長い子どもほど、傷つきやすく、それを根に持つ傾向がある。四時間以上ゲームをする子は、まったくゲームをしない子に比べ顕著にその傾向が強い。(P56)

「仕返し」と「復讐」では随分意味合いが異なるように思える。

この質問に答えた子どもについて、「全体で19.7%であったのに対し、四時間以上ゲームをやる子は約二倍だった。」(P55)とある。何が二倍だったのかすぐには解らないし、「4時間以上ゲームをする」子どものカテゴリー内の割合だとしても、全体での割合と比較して何の意味があるのか不明である。

▼無気力・無関心・投げやり(P60)

P62_html_m5dc824f0

ゲーム族は、「新しいもの」を好まない。ネット族、メール族、マンガ族らに比べ新奇なものに対する興味を持つ度合が半分程度で、目立って低い。(P62)

2倍といっても10%と20%との差。しかも標本調査であり、更には、無作為で無いので、誤差の評価、一般化も出来ない。また、保護者の回答である。「とても新しいもの」というのが何を指すのか不明。

▼人付き合いは苦手(P67)

P68_html_m4047a863

もともと社交的だった子どもが、長時間ゲームをすることで内向的になっていく傾向がある。ゲーム時間が長いほど対人関係に消極的になる。(P68)

心理学的に、内向性の高さと社交性の低さは同じでは無かったはずである(詳細未確認)。いずれにしても、既存の測定尺度は使われていないようである。

縦軸の説明が意味不明。質問は、「人付き合いや集団行動は苦手」(子ども回答)、「やや消極的で、人と接するのがとても苦手」(保護者回答)であるのに、何故縦軸が、時間的な変化を反映したものであるかのように説明されているのか。「幼い頃の対人関係について問うと、必ずしも消極的な子どもでなかったことがわかる。」(P69)という記述があるが、ここのグラフの割合がいかにして導き出されたのかは、全く不明である。

▼対人依存症(P105)

P106_html_m14d98c22

ゲーム族と対照的に、メール族は人との交流を好む。ゲーム族、ネット族と比べると、「人と接するのが好き」と答えた割合が顕著に高い。(P107)

保護者回答である。横軸の「熱中しているメディア」というのがどこから導き出されたのか解らない。中学生が心理テストに答えて云々という記述があるが、寝屋川調査での話なのか、別の話なのか、不明である。

見出しに「依存症」と書くのはミスリーディングである。

▼メル友をストック(P119)

P121_html_1dc1b620

一日にやりとりするメールの数が多い子どもは、「友達になったり、絶交したり」が激しい。とくに一日五十通以上メールをする子は、顕著にその割合が高い。(P121)

何故かここでは、他の部分では見られなかった、回答の2つのカテゴリーをグラフにしている。しかし、これも何故か解らないが、積み上げ型の棒グラフで描かれている。

「絶交」という概念は解りにくい。いわゆる「ケンカ」との境界も曖昧。

▼きまぐれで衝動的(P124)

P126_html_m104ef39f_2

一日にやりとりするメールの数が増えるにつれて、気分の起伏が激しくなる。一日五十通以上メールをする子どもは、半数近くが起伏が激しいと答えている。(P126)

「差が激しい」というのも、多分に主観による違いがあるだろう。

その他に、「あまり考えず行動したり、危険なことをしてしまうことがある。」という質問もあったようである。

グラフを見ると、縦軸の目盛りは5刻みで、それほど大きく違うのか、という疑問も出る。そこで、違うグラフを作成してみた。

P126b_html_m4717075f

何件法か判らないので、便宜的に、カテゴリーを2つにして帯グラフを作成した。随分印象が変わると思うが、いかがだろうか。

それ以前に、メールの頻度に関して、何故このような階級分けをしているのか、全く意味が解らない。何故、「20通以内(この”以内”というのもよく解らないが)」の次が、「50通以内」なのか。

▼メール族の生い立ちと家族(P134)

P135_html_m18589ee5

ゲーム族やネット族が「親に認めてもらいたい」と考えているのに対して、メール族は「友達や先輩」と答える率が高く、「親」を逆転している。(P135)

この節、「甘やかされて育ったと思う」という問いに、メール族(今更だが、「○○族」の定義は不明)の約45%がいいえと答えた事から、「メール族は親に甘えることができなかったと感じている子の割合が図抜けて高い」(P134)としているが(他に、「ほめられるより叱られることのほうが多かった」と回答した頻度が高いとしている)、「甘える」と「甘やかされる」は、異なる概念であろう。

P137_html_26c0dc9a_2

メール族の保護者に対するアンケートによると、小学生までに愛情不足の時期があった子どもは、「メール中毒」になりやすい傾向がみられた。(P137)

※縦軸の説明が切れているが、「就学前」である。

このグラフ、目盛りの上限が12%である。いかにも、差を強調している意図が見える。そこで再び、別のグラフを作成してみた。

P137b_html_m322f4e5_2

何度も書いているが、サンプルが無作為で無いから、このデータから、検定等によって母集団について言及する事は難しい。出来るとしても、母集団を限定する必要があるだろう。

仮に、これを記述統計的なデータと看做すとすると、調査対象の保護者の回答の構成比、としか見る事が出来ない。そこでのこの程度の差を意味あるものと看做せるかどうか、という疑問が出てくる。

肯定割合が、最大のカテゴリーでも12%以下である。従って、他の選択肢が何であったか、という所について疑問が出てくる。仮に、「肯定」、「否定」の2つであったとすると、全てのカテゴリーで90%近くがこの質問に否定的に答えたという事だから、全体としては極めて親子関係は良好である、と解釈する事も可能である(あくまで仮定)。

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どうでした?

わたし的には、こんなものが本に載り、新聞で紹介され、電子メディアの害悪を訴える著作の論拠とされる事そのものが、信じがたい話であると思うのです。

ここに載せたグラフは、あくまで一部分です。

とにかく、概念の定義が無い。何の何に対する割合かがはっきりしない。解釈が自分勝手。特に、○○族というのは、ゲーム脳や半ゲーム脳に匹敵する不明確さ。

根本的な問題として、このようなデータからは、より大きな集団について一般化するのがほとんど不可能である、と言えます。にも関わらず、魚住氏は全体の傾向であるかのごとく言い、岡田氏は、検定などしてしまっている訳です。

garbage in, garbage outみたいなもので、本来、検討にすら値しないようなものだと思うんですけどね。何故だか、鵜呑みにする人がいる。

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2008年11月 7日 (金)

岡田氏の論拠2

脳内汚染関連のエントリーを続けます。

岡田氏の主張とその論拠について、簡潔にまとめてみます。「▼」の後に、節の見出しを引用し、岡田氏が援用した論拠を示します。

▼覚醒剤の静脈注射にも匹敵(P46)

テレビゲーム中のドーパミンの分泌を調べた研究。ゲームプレイによるドーパミン放出の増加が、覚醒剤(アンフェタミン。0.2mg/kg)の静脈注射時と同等。

論拠

  • M.J.Koepp et al., "Evidence for striatal dopamine release during a video game"(nature 1998)

▼ゲーム・ネット依存は治療の対象となる病気(P52)

マレッサ・オルザックやキンバリー・S・ヤングらの診断基準を紹介。ゲームやネットの依存を治療するクリニックの増加を指摘。

論拠

  • K.S.Young, "Internet Addiction: The emergence of a new clinical disorder" CyberPsychology and Behavior, 1 (3) 1998

▼各国のゲーム、ネット依存の調査(P61)

イギリス・アメリカ・ノルウェーの調査を紹介。日本での調査として、魚住の調査を紹介。

利用実態や依存症状のみならず、認知の傾向や発達の問題、家庭環境などの背景要因にまで踏み込んで調べた点は、世界的に見ても、非常に画期的な調査である。本人のみならず、保護者からも回答を得ることで、非常に精度の高いデータとなっている。(P62)

論拠

  • M.D.Griffiths et al, "Dependence on computer games by adolescents" Psychol. Rep. 82 (2) 1998
  • A.Johansson and K.G.Götestam, "Problems with computer games without monetary reward: similarity to pathological gambling" Psychol. Rep. 95 (2) 2004
  • 魚住絹代 「メディアの利用状況と認知などへの影響に関する調査」 2005

▼恐ろしい中長期的影響(P64)

 しかし、ゲーム、ネット依存で本当に恐ろしいのは、依存症状よりも、長期間使用を続けた場合の中長期的な影響である。その点も非常に薬物中毒に似る(P64)

一般的な薬物中毒の精神医学的な解説。ゲームによる症状についての具体的記述は無し。

▼テレビが村にやってきた(P81)

テレビによる悪影響の説明。テレビが無い地域にケーブルテレビが引かれた。その前後の変化について研究(タニス・ウィリアムズらによる)。テレビが、特に子どもに悪影響(暴力性を高める等)を与える事を示唆。

▼重要な幼い日の体験(P83)

アメリカのローウェル・ヒューズマンらのコホート研究を紹介。

  1. 8歳までにどれだけテレビを見ていたかによって、30歳までに犯した犯罪行為の程度を予測出来た。
  2. 30歳の時点での攻撃性の強さや犯罪歴は、今の時点より、8歳の時点でどれだけテレビを見ていたかに左右された。
  3. 8歳の時点でテレビをよく見ていた人は、親になったときに、子どもを厳しく罰する傾向があった。

これらが示されたと主張。

論拠

  • L.R.Huesmann et al., "Longitudinal relations between children’s exposure to TV violence and their aggressive and violent behavior in young adulthood: 1977-1992" Dev. Psychol. 39 (2), 2003

▼因果関係の認定と法的規制(P84)

アメリカのブランドン・センターウォールの報告書によって、テレビの発達への影響、攻撃性・犯罪増加との因果関係が示されたと主張。

テレビ所有率と殺人率との関係を示した、何を描いているか非常に解りにくいグラフを載せている(Centerwallの原著のグラフを改変)。

岡田によれば、

 さらにセンターウォールは、さまざまな疫学的データを検証した上で、アメリカで起きる殺人の原因の半分がテレビによると因果関係を断定したのである。(P87・89)

論拠

  • B.S.Centerwall, "Television and violence The scale of the problem and where to go from here" JAMA 267 (22), 1992

▼覇気のない青年(P136)

グラフが紹介されている。魚住の著作(『いまどき中学生白書』)にも同じようなグラフが示されている。同じような種類のグラフがたびたび載っている。

ここでのグラフは、横向きの棒グラフ。縦軸:「1日平均のゲーム時間」、横軸:”「何事にも無気力で興味がわかない」と答えた子の割合”(%) となっている。縦軸は、「まったくしない」、「30分くらい」、「1時間くらい」、「2時間くらい」、「3時間くらい」、「4時間以上」。カテゴリーとして選択させたのか、自由に記述させて階級に分けたのかは不明。ヒストグラムでは無く棒グラフである事から、カテゴリーデータと思われる。「4時間以上」とまとめている所や、1時間刻みである所(何故30分刻みが混じっているのか?)の理論的根拠が不明。

質問に対する回答の選択肢(何件法か、等)も不明。

単純集計の度数分布図で無いのに、棒グラフにしている。従って、%の合計は100にならない。だから、一般的な、相対度数とカテゴリーとの関係を視覚的に把握する図では無く、帯グラフを一部切り出したような図になっていて、非常に紛らわしい(しかも、横軸は、25%までしか目盛られていない)。質的変数同士の関係なので、通常は、帯グラフやクロス集計表(分割表)が用いられる。

以前、魚住の著作を参考に作成したグラフがあるので、再掲する。全然違うグラフだったので、後で載せます。追記:岡田氏の本を元にグラフを作成(クリックで拡大)。グラフの向きを縦方向にしました。

Nounaiosengurahu1

この右側にあるようなグラフが頻出する。そして、分母が異なるにも拘らず、「○○は□□の何倍」と記述している。意味が無い事は無いが、紛らわしい。

岡田は、このようなグラフを図示し、そこに、検定の結果を示している。多くのグラフの説明に、カイ二乗検定を行ったとある。たとえば137ページでは、有意確率は0.0001とあるが、n=1830と巨大なサンプル。それ以前に、サンプルの無作為性に疑いが持たれるので、検定の結果をどこまで一般化出来るか(目標母集団と達成母集団との違い)は疑問である。

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取り敢えず、前半はこんな感じ。後半は、発達障害との関連等について書かれています。

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2008年11月 6日 (木)

岡田氏の論拠

参考資料として、『脳内汚染からの脱出』に載っている参考文献をメモしておきます(取り敢えず、日本語のものだけ)。WEBに参照出来るページがある場合、リンクを張ります。

○書籍

○報告書、論文

情報メディア白書〈2005〉 情報メディア白書〈2005〉

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CESAゲーム白書〈2005〉 CESAゲーム白書〈2005〉

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CESA一般生活者調査報告書―日本・韓国ゲームユーザー&非ユーザー調査〈2005〉

子どもの放課後改革がなぜ必要か―「放課後の過ごし方」で子どもの人格は変わる? (学級教育の改革シリーズ) 子どもの放課後改革がなぜ必要か―「放課後の過ごし方」で子どもの人格は変わる? (学級教育の改革シリーズ)

著者:明石 要一,川上 敬二郎
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テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している! (危険警告Books) テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している! (危険警告Books)

著者:片岡 直樹
販売元:メタモル出版
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いまどき中学生白書 いまどき中学生白書

著者:魚住 絹代
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

心が脳を変える―脳科学と「心の力」 心が脳を変える―脳科学と「心の力」

著者:ジェフリー・M. シュウォーツ,シャロン ベグレイ
販売元:サンマーク出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

脳内汚染 (文春文庫 お 46-1) 脳内汚染 (文春文庫 お 46-1)

著者:岡田 尊司
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

脳内汚染 脳内汚染

著者:岡田 尊司
販売元:文藝春秋
Amazon.co.jpで詳細を確認する

悲しみの子どもたち―罪と病を背負って (集英社新書) 悲しみの子どもたち―罪と病を背負って (集英社新書)

著者:岡田 尊司
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2008年11月 5日 (水)

クリティカルシンカーじゃ無い

人を見る目 (内田樹の研究室)

けれども、evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。

そんな人が一体どこにいるのでしょうね。

そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。

その仮定は、「手持ちの度量衝では考量できない」か否かを徹底的に考察した上で行うべきでしょうね。考量出来るがそうで無いように思える、という現象はある訳です。それに、まず、人間の知覚や認知のエラーについて思いを馳せる必要があります。

ところが、いま私たちに取り憑いている「数値主義」という病態では「私たちの手持ちの度量衡で考量できないもの」は「存在しないもの」とみなさなければならない。

”「数値主義」という病態”とは、いかにも解りやすい表現ですね。「私たちの手持ちの度量衝で考量できない」のならば、それは取り敢えず存在しないものと看做す、というのは当たり前の態度でしょう。もちろん、存在しないのが証明された、というのとは別の話ですが。

同じように、私たちの現在の自然科学では、「未来はわからない」ということになっている。
だから、「人がなしたこと」については評価は可能だが、「人がこれからなすこと」についての評価は不可能であるということになっている。

ここは意味が解らなかったので、解った方がおられたら、教えて頂きたいです。

しかし、「人がこれからなすこと」については現に高い確率でそれを言い当てている人が存在する。

その「高い確率」というのは、どのようにして調べたのでしょうね。それが偶然で無いという保証はどこにあるのでしょうか。

もちろん、直感的に様々な情報を総合的・合理的に把握・処理し、高い精度で予測を行う、というのはあるでしょう。しかし、それを個人のレベルできちんと確認するのは、凄まじく難しいでしょうね。絡み合う因子の数と、状況のめまぐるしい変化は物凄いだろうから。ちょっと文脈は違いますが、参照⇒大「脳」洋航海記 » Blog Archive » そんな脚光なら浴びたくない

これは当たり前ですが、「高い確率で言い当てている」ように「見えている」可能性を、まず考えるべきですね。

私は「そういう能力が存在する」ということを前提にしないと「話のつじつまが合わない」事例があまりに多い場合には、自然科学の骨法に倣って、仮説として「存在する」ということにして話を進めているのである。

「そういう能力の存在」を仮定しないと「話のつじつまが合わ」せられないのは確かか、その事例が「多い」のは確かか、それまでの理論によって「説明出来ない」事が徹底的に調べられたか、等をきちんと確認した上で、そういう主張をするべきでしょう。剃刀を使うのです(このエントリーに関しては、dankogai氏が真っ当な論評をしていたと思う)。

「自然科学の骨法」(しかし、独特の言い回しが多いな…)に倣うのならば、自然科学の体系を学び、それによって解明していくのが道理で、それによって「解明出来ない」と判断するのは一番最後。もちろん、超能力云々の話だと、心理社会的な要因が関わる、というのは言うまでもありません。

「超能力」とか「霊能力」と呼ばれる能力は現に存在する

言い切っちゃってるし。どういうのがあるかを示して頂きたいものですね。

この後も、なんと言うか、かなり微妙ですね。

関連エントリー⇒○Interdisciplinary: 科学や若者を嫌いな人達 ○Interdisciplinary: 分子生物学的?

なんか、はてブとか見てると、内田氏の主張の一般論的な所を見て、そこが興味深い、だから良いのでは、的な意見もありますね。わたし的には、具体論のレベルでかなりダメな記述が散見されるから、高く評価しようが無い(しかも、主張されている事は、科学としては当たり前の話だったりする)、と思っているのですが、私が間違ってるんですかね?

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2008年11月 3日 (月)

ややこしい

脳内汚染からの脱出 (文春新書 573) Book 脳内汚染からの脱出 (文春新書 573)

著者:岡田 尊司
販売元:文藝春秋
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図書館で借りてきて、ざっと再読しました。

やっぱり、ややこしい本ですね。

岡田氏の論は、かなりムチャクチャです。でも、知識に乏しいと、見抜くのはやっぱり難しいかも知れない。ゲーム脳本よりは圧倒的に難しい。

色々ごちゃごちゃ集めて書かれると、尤もらしく見えるんですよねえ。更に、小説風の味付けもしてあり、恐怖感を煽る内容になっている。ややこしい。

この本では、論拠として、大規模な社会調査である(と岡田氏が認識している)寝屋川調査が援用されている訳ですが、それがそもそもおかしいのですね。

岡田氏は、何回も何回も、統計的に有意である事を協調しています。しかも、寝屋川調査のデータを元にした、独立性の検定。そもそも標本の無作為性がとても怪しいのに、検定をして一般化出来るのか、という問題がありますし、また、有意確率を「関連の強さ」の度合として誤認させるような書き方が散見されます。例:「p=0.0000というのは、間違いである確率が十万分の五未満であるということである。こうした強い関連性が、偶然の支配する現実の現象で観察されることは滅多になく、その場合、そこには因果関係が存在することがおおいのである。」(P63)

寝屋川調査では、ゲーム・ネット依存についてのチェックリストが用いられていたそうですが、これも疑問を持つ内容。そもそも信頼性や妥当性が本当にきちんと確認されているのか、というのもそうですが、何よりおかしいのが、その解釈。

そのチェックリストは、全部で8項目。4件法です。一つ挙げると、「ゲームやネットができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなることがある。」という質問。回答の選択肢は、「よくある/ときどきある/あまりない/まったくない」という具合。

それで、ですね。「ときどきある」を1点、「よくある」を2点として得点をつける訳なのですが、その解釈が非常に疑問。抜粋しましょう(P65)。

判定基準

0点  依存傾向なし  49.7%が該当
1~3点  要注意  28.6%が該当
4~7点  軽度依存レベル  16.0%が該当
8~11点  中度依存レベル  4.3%が該当
12~16点  重度依存レベル  1.4%が該当

こういう具合です。

これ、おかしいと思いませんか? だって、「ときどきある」が一つでもあれば、「要注意」であると判定されるんですよ。しかもこのチェックリスト、「依存」という精神医学的な概念を調べるものなのです。更に、です。質問項目には、こんなのもあるんです。

止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。

典型的なダブル・バーレルですね。これだと、怒り出したのか暴言を吐いたのか、あるいは暴力に走ったのか、全然解らない。止めさせようとすれば怒り出すというのは、どんなものでも起こり得る訳です。それを、「暴言・暴力」というかなり強い言葉とくっつけている。

こういうのが出てきて、メディアでは数値だけ発表される訳ですね。たとえば、依存の危険がある人が半数もいた、というように。実際岡田氏自身、「逆に言うと、中学生の約半数に何らかの依存症状が認められたことになる。」(P64)と解釈しているのです。「症状」ですよ。そしてその実態は、質問に一つでも「ときどきある」あるいは「よくある」を答えた人が半数いた、という事に過ぎないのです。

岡田氏の著作や主張には、この手の論が散見されます。実にややこしい。

最後に、上で紹介したチェックリストを全部、ちょっと変えて書いてみましょう(P65を元に一部改変して書く)。

  1. ○○や□□ができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなる。
  2. 家族や友人と過ごすよりも、○○や□□を優先することがある。
  3. ○○や□□に熱中しすぎて、学校(仕事)のことがおろそかになったことがある。
  4. 時間を決めてやろうとして、守れなかったことがある。
  5. やりすぎて、夜が遅くなったり、朝が起きられなくなったことがある。
  6. していることをごまかしたり、ウソをついたことがある。
  7. やりすぎて、手や目や頭や腰などが痛くなったり、体調が悪くなったことがある。
  8. 止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。

この○○と□□の部分に、ゲームとネットが入る訳ですが……いかがですか? ゲームやネットに限らず、何かを当てはめて、0点を取れますか? 取れなければ、「要注意」だそうですよ。

その前に、「ときどきある」と「あまりない」はどう違うんでしょうね。

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2008年11月 2日 (日)

気とはシステムである

「気」の話。

現代科学を批判しつつ、気の概念の有効性を説いたりする人っていますよね。

科学の要素還元主義性を欠点として指摘し、東洋の知識体系の優位を主張する人もいます。

で、そういう風に科学を批判しつつ気の概念に興味を持っていながら、気が実体であると仄めかす場合もあるんですよね。仮想の物質を想定したり、身体から出る電磁波の一種と言ったり。

気という言葉の用いられ方を考えてみると、それは極めて多義的です。心理的関係であったり、知覚のパターンだったり。それで、それを全て説明し尽くす根本的な原理として、気の実体性を主張したりする訳です。それに全部を説明してもらう。アルケーみたいなものですかね。

でもそれって、自分達が批判している要素還元主義的な考えをそのまま用いている事になるのではないでしょうか。何らかの実体であると仮定してしまえば、楽ですしね。

そもそも科学は、そういう単純な考えをしない訳です。現象は総合的なシステムとして捉える。社会現象や心理現象に関しても、様々な要因が絡み合い、それが影響を与え合って複雑な現象を構成している、と見る。

そのような観点から言うと、気というものは、心理的関係のあり方であったり複雑な知覚であったりを、複雑なシステムのまま丸ごと表そうとした概念、と考える事が出来ます。それは、○○という物質の働き、などという単純な論理に還元出来ない。

あるいは、まだ解明されていなかった現象に名前をつけてみたもの、とも言えるかも知れません。メカニズムがブラックボックスであるものの説明原理。だから、歴史的に、極めて多義的に用いられてきた。

それを考えるならば、気というものは、理論をいくつか組み合わせてそれに名前をつけたもの、つまり、システムである、となるでしょう。以前A-WINGさんが、それは工学などで言うモジュール的な概念ではないか、と言われましたが、私も、そう捉えるのが妥当だと考えます。

そうすると、たとえば、気は未解明の実体的な何か、という風に考察するのは、あまり意味が無い、と言えるでしょう。気がモジュール的な概念と考えれば、歴史的に見て、この時代に用いられていた「気」の語は、現代における科学的概念をいくつかまとめたようなものだ、と解釈するのも可能でしょうし、気概念を用いる体系を頭ごなしに否定する事無く、メタに分析し、体系特有の説明概念として尊重し、認める事も出来るのではないでしょうか。

気は構成概念だ、と考えると、結構色々解ってくると思うんですが、なぜそうしないんでしょうね。原理と言うか、究極の何か、的なものを求めたい、とか。良い言葉や綺麗な形、というものの究極を求めたいのと一緒なのかな。私としては、世の中は複雑だから面白いと思うんですどね。

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2008年10月31日 (金)

全体・総体・システム

水伝の一部を見て擁護したりする人は、「システム」として捉える事が出来ていないんでしょうね。

水伝は、江本氏の思想をコアにして、実験という模様のついた科学の衣(贋物の)を纏わせた主張ですよね。そしてそれは、他の論者の主張や波動論とも絡み合って、複雑なシステムをなしている。総体としてそういう風になっている。

でもその実態は、あちらこちらにほつれや破れがあって、しかも、ブランドを示す模様も紛い物。

模様をクローズアップしてみれば綺麗に見えるのかも知れないけれども、もっと引いて、全体を見てみようよ、という感じですよね。

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2008年10月30日 (木)

情報の与え方