カテゴリー「科学論」の記事

2009年5月28日 (木)

眉唾

かなりブクマを集めたネタ⇒▼はてなブックマーク - 大紀元時報−日本: やってみよう、世界で最も正確な性格テスト ▼大紀元時報-日本 ※ザイーガのエントリーの方がブクマ集まってますけど、あそこは広告とか下品系なので、こっちを貼りました。

いわゆる性格判断系のネタですね。内容は、9枚の絵を見て、なるだけ短時間に、1枚気に入った絵を選ぶ、というもの。で、それぞれの絵に応じて、それを選んだ人はこういう性格である、と言われる訳ですね。

んで、ですね。このネタ、めちゃくちゃ気になる部分があるのですよ。

 この9枚の写真は、海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの。世界中で何度も実験を繰り返し、図案の形や色を調整して、選び抜かれた写真だ。この9枚の写真が、9つの異なる性格を現している。

これはつまり、科学者(中でも心理学者)によって繰り返し研究が行われて追試され、確立した知見として学界で周知されている、というのを示していますが、そんな話は、私は知りません。

今手許に、臨床系も含めて何十冊か、心理学の本がありますが、こんな性格検査など、見た事ありません。と言うか、今まで読んだ全ての心理学の文献で、見た事無いです。では、ごく最近の知見であるのか、という話にもなりますが、つい最近読んだ2008年発行のパーソナリティ心理学の本にも、載ってませんでしたね。充分研究された、妥当性・信頼性の高い検査法ならば、専門書で紹介されてしかるべきでしょう。

そもそも、単に絵を見せて、それから性格類型に当てはめる、というやり方自体が、極めて疑わしいものです。そんなものが、

スピーディーで、かつ正確率も世界一高いといわれる有名なテストなのだ。

とは、まさに眉唾。(正確率ってaccuracyの事? 工学とか技術方面でよく使われますかね。て言うか、「世界一高い」という意味が解らない)

ブクマでは、当たってる、的な意見もありますが、それはバーナム効果あるいはフォアラー効果が効いているからでは、という指摘もされていますね。平たく言うと、どれを選んでも、誰にでも当てはまるように感じさせる答えが出される、というものですね。松岡氏の、「究極の血液型心理検査」サイトが思い起こされます。

いわゆる心理ゲーム的なものなら、まだネタとして済むのかも知れませんが(個人的には大嫌いですが)、最初に引用した文を入れてあるのは、全く頂けませんね。いや、実は、私が知らないだけで、学術論文等が存在するのかも知れませんけど(その可能性は極めて小さいと思ってますが)。しかし、仮にそれがいくつかあるとしても、まるで心理学的にスタンダードな性格検査であるかのような説明は、いかんでしょう。

もう何度も書いてますが、テレビなんかで、心理学の専門家を自称する人なんかが、バウムテストもどきをやって性格を云々したりしますからね。そういうのは勘弁。

パーソナリティと臨床の心理学―次元モデルによる統合 (心理学の世界 教養編) Book パーソナリティと臨床の心理学―次元モデルによる統合 (心理学の世界 教養編)

著者:杉浦 義典,丹野 義彦
販売元:培風館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月22日 (金)

GJな記事

id:kamezoさんにもGJと言う他ありますまい。

ゲーム脳と脳波 - 教育プロジェクト 脳の迷信・うそ - 大阪大学大学院 認知脳科学研究室:藤田研究室

ゲーム・漫画の好きな自分としてはゲーム脳仮説はいい気がしなかった、というと実はそうでもなく、大してその中身については理解していませんでした。これを書くにあたって、初めてその大本の主張を知ったほどです。今回の調査を通して、脳波の検査などで脳波と実際の現象とを結びつけるのはまだ安全かもしれないけれども、そこから何かしらの意味付け(アルファ波はリラックス、ベータ波は集中、そしてゲーム脳など)を行うのは危険である、するべきではないという印象を持ちました。参考文献の中には「脳波についてはまだはっきりしたことが分かっていない」(例えば、上では触れませんでしたが、何がアルファ波を発生させているのか、など)と書かれているものもあり、ホットではないにしてもまだまだ知るべきことの多い分野であるように感じました。今後もこの分野に対する興味を持ち続けていきたいと思います。

同意。森氏は、「結びつけ」を非常に安易に行っているんですよね。

しかし読みやすい文章ね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月15日 (金)

後で効くかも

kikulogにコメント書いたのですが、こちらに再掲します。前々から思ってて、ここにも度々書く事です。

「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」
 
この言い回し、「後から効いてくる」ものだと考えています。
つまりこれ、物理学・化学・生理学・心理学・言語学・情報処理 等々の論理を知っていれば、なるほどそうだよな、と納得出来る表現ですよね。そもそも「感覚器官」が生理学・心理学的 概念な訳ですから。
この表現は、メカニズム的にあり得ないというのを、既存の理論・知識体系に則って説明するものだから、その知識をある程度得た人は納得出来る、でもそうで無い人には、端的に言って「意味の解らない」ものになる、と思われます。つまり、科学の理解度に依存している、と。
 
しかし、何かのきっかけで、生理学やら何やらを勉強して色々解り、水伝が成り立ちようが無いのを認識する事はあり得ます。そして、そういえば、「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」なんて言い回しがあったなあ、今考えると納得出来るなあ、と振り返る場合もあろうかと思います。
そういう意味で、「後から効いてくる」ものではないかな、と。
 
ですからこれは、水伝を信じている人にいきなりダイレクトに言うのでは無くて、水伝を批判する文書に組み込んでおく、などがベターだと思ってます。
 
ちなみにこれ、私が超能力捜査否定にいたった道筋を、そのままトレースして書いています。
 
何と言いますか、「信じ方の段階」というのが考えられてしかるべきかな、と。段階、と言っても綺麗に分類出来るようなものじゃ無いでしょうけれど、既有の知識、誰に教わったか、などの事情が複雑に絡まって信念は形成されるから、そこは押さえておきたいです。
kikulog:「ニセ科学」シンポジウム(物理学会):TAKESAN — May 15, 2009 @01:12:17

水は感覚器官も云々、というのは、「科学に依存した」説明です。それをきちんと把握するには、ある程度の科学についての知識が要る。だから、知識は持っていたが、水伝に対してはうっかりそれを適用しなかった人は※ あ、言われてみればそうか、と思うかも知れない。しかし、知識がかなり不足していれば、そもそも意味不明な表現にしか見えない、と。そもそも、「感覚器官」という言葉自体、難しい訳です。理科や生物で習うものだろうけれど、真面目に勉強しなかった、やったが忘れた、選択などの関係でそもそもやらなかった、と色々の場合があります。もっと言うと、水、感覚、感覚器官、頭脳、神経、のそれぞれが、科学に依存している、と。

※そんなうっかりはそもそも少ないでしょうけれども。誰から聞いたか、などの字状、心理学的な所も絡んできそうですが。

そこら辺を鑑みると、信じている人にいきなりそれを言うのは、あまり得策では無い訳ですね。だから、そういった表現は、独立した批判テキストに組み込むのがいいと思います。そうすれば、後から勉強して、ああ、そういえば、と思い返す可能性もあるので。

コメントでも書きましたが、私はほんの数年前まで、超能力捜査について、もしかするとあるかも、と思っていまして、それを否定するに至ったのが、上のような道筋によってだったのです。具体的には、心理学の勉強が大きい。でも、その更に数年前から心理学は勉強してた、というのは記しておきたい所。ウエイトのかけかたに問題があったのでしょうし、もっと基礎的なレベルの勉強が足りていなかった、のもあるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月11日 (月)

疑似科学の特徴と科学との違い:後編

Interdisciplinary: 疑似科学の特徴と科学との違い:前編の続き。

○6.関連性の欠如

最も科学的な研究プログラムに対して,疑似的研究プログラムは他の科学的原理との「連結性」を欠く(Bunge, 1983; Stanovich, 2001)。言い換えれば,疑似科学は,現存のパラダイムを建て増すのではなく,むしろすべてを脱ぎ捨てた完全に新しいパラダイムを作り上げると主張する。そうするためによく作り上げられた科学的原理,あるいは強固な科学的知識を往々にして無視する。たとえばESPの多くの支持者は,報告されたESPのケースがほとんどあらゆる主要な物理学的シグナルの法則に反していても(たとえば,ESPは,その称するところでは,数フィートの距離からと同様に数千マイルのかなたからも同じほどの強さで作用する),それは本物の(これまで検出されなかったのであるが)知覚の物理的プロセスであると主張する。科学者は,完全に新しいパラダイムが先に存在したすべてのパラダイムをくつがえすのに成功することがあるということは常に心にとめておくべきなのだが,そのように結論する前には標準的な事実に基づいた主張をしなければならない。

ニセ科学論でもよく話題に出るところの、他の理論などとの整合性の問題ですね。ニセ/疑似 科学的な主張はしばしば、既存の科学の体系を全部引っ繰り返す(引っ繰り返さねばならなくなる)ような事を主張します。水伝しかり。覆すなら、覆すに足る証拠を見つけ出し、提出する必要があります。

6. Absence of connectivity.

In contrast to most scientific research pro-
grams, pseudoscientific research programs tend to lack "connectivity"
with other scientific disciplines (Bunge, 1983; Stanovich, 2001). In other
words, pseudoscienccs often purport to create entirely new paradigms out
of whole cloth rather than to build on extant paradigms. In so doing, they
often neglect well-established scientific principles or hard-won scientific
knowledge. For example, many proponents of ESP argue that it is a genu-
ine (although heretofore undetected) physical process of perception, even
though reported cases of ESP violate almost every major law of physical
signals (e.g., ESP purportedly operates just as strongly from thousands of
miles away as it does from a few feet away). Although scientists should al-
ways remain open to the possibility that an entirely novel paradigm has
successfully overturned all preexisting paradigms, they must insist on very
high standards of evidence before drawing such a conclusion.

○7.逸話的な事実への過信

逸話的な事実は科学的研究の初期段階では非常に有益でありうる。すなわち,証明の文脈においてよりも(すなわち,仮説検証 : Reichenbach, 1938),典型的な発見の文脈においてである(すなわち,仮説生成)。疑似科学的主張の支持者は,主張に合った事実を涵養するために,しばしば選ばれたケースからの報告を頼りにする(たとえば,「パーソンXはこの治療を受けて著しく改善したので,この治療は明らかにパーソンXに効いた」)。たとえば,自閉性障害(第13章を参照)に対するある治療法(たとえばセクレチン)では,支持的事実として統制のとれていない改善ケース報告が強調された。

 しかし,ギロヴィッチ(Gilovich, 1991)が述べたように,ケース報告は,主張に必要な事実を提供しているが,その主張にとって十分な事実を提供することができない。たとえば,新しい心理療法の効果があるならば,少なくとも改善したケース報告を複数期待すべきであろう。しかしそのようなケース報告は,改善が心理療法に依存しているという適切な事実を示すことをしない。この改善は多くの他の原因によって惹き起こされたかもしれない(たとえば,偽薬効果,平均への回帰,自発的な改善,成熟 ; Cook  Campbell, 1979 を参照)。

事例報告を証拠として過信する、という感じですかね。いわゆる「三た論法」にも通じます。効いたと見えるケースの観察から、確かにある人に効いた→一般的に効く と誤認する訳ですね。科学的には、ほんとうにそれが効果を及ぼしているのか、を調べるために、色々のものを対照としてとって、効き目を確かめる。効き目があると解っている薬であるとか、効かないのが解っている擬薬とか。それらを与えた群との比較を行って(もちろん無作為化して)、薬なり療法なりの効果を確認していく、と。

7. Overreliance on testimonial and anecdotal evidence.

Testimonial and anecdotal evidence can be quite useful in the early stages of scientific
investigation. Nevertheless, such evidence is typically much more helpful in
the context of discovery (i.e., hypothesis generation) than in the context of
justification (i.e., hypothesis testing; see Reichenbach, 1938). Proponents
of pseudoscientific claims frequently invoke reports from selected cases
(e.g., "This treatment clearly worked for Person X, because Person X im-
proved markedly following the treatment") as a means of furnishing
dispositive evidence for these claims. For example, proponents of certain
treatments (e.g., secretin) for autistic disorder (see Chapter 13) have often
pointed to uncontrolled case reports of improvement as supportive evi-
dence.

As Gilovich (1991) observed, however, case reports almost never pro-
vide sufficient evidence for a claim, although they often provide necessary
evidence for this claim. For example, if a new form of psychotherapy is ef-
ficacious, one should certainly expect at least some positive case reports of
improvement. But such case reports do not provide adequate evidence that
the improvement was attributable to the psychotherapy, because this im-
provement could have been produced by a host of other influences (e.g.,
placebo effects, regression to the mean, spontaneous remission, matura-
tion; see Cook & Campbell, 1979).

○8.反啓蒙主義の言語使用

多くの疑似科学の支持者は,科学を表面的に装った学問分野を供給しようとし,高度に専門的なわけのわからない大げさな言葉を印象深く使用する(疑似科学の「偽装方略」の考察のために van Rillaer, 1991 を参照)。そのような言語は,問題になっている主張の科学的な土台になじみのない人々に説得力を持つ。そのためそれらの主張に,認可状が与えられ,科学的合法性が認められてしまうかもしれない。

 たとえばEMDRの開発者は,この治療法の効果を次のように説明した(第9章も参照)。

 受容神経ネットワークの神経受容体(シナプスの電位)の力価は,さまざまな情報の高原状態と適応的情報レベルを別々に保存するが,AからZまでの文字によって表象される。高力価を持つターゲット・ネットワーク(Z)はより適応的な情報と結合できない。より適応的な情報はより低い力価のネットワークに貯蔵される。すなわち,シナプス力価はさまざまな神経ネットワークに貯蔵される感情の各レベルとは異なっている。……この理論は,処理システムがEMDRに触媒されているときに,受容体の力価は下方向にシフトされるので,前進的により低い力価を持つ神経ネットワークの受容体と連結できるということである。(Shapiro, 1995, pp.317-318)

ここで引用されているEMDRの説明とやらは、もはや読解不能のレベルですが、なにやら生理学的概念を仄めかし、いかにも科学と誤認させるようなものですね。「偽装方略」とは、私達が関心を持つ「ニセ科学」論に通ずるものなのかも知れません。意図的にしろ無意図的にしろ、「科学を装う」訳ですね。

ところで、「反啓蒙主義的」って、この文脈では、具体的にはどういった意味を持たされているのでしょうか。

8. Use of obscurantist language.
Many proponents of pseudoscience
use impressive sounding or highly technical jargon in an effort to provide
their disciplines with the superficial trappings of science (see van Rillaer,
1991, for a discussion of "strategies of dissimulation" in pseudoscience).
Such language may be convincing to individuals unfamiliar with the scien-
tific underpinnings of the claims in question, and may therefore lend these
claims an unwarranted imprimatur of scientific legitimacy.
For example, the developer of EMDR explained the efficacy of this
treatment as follows (see also Chapter 9):

(The) valences of the neural receptors (synaptic potential) of the respective
neuro networks, which separately store various information plateaus and
levels of adaptive information, are represented by the letters through A.
It is hypothesized that the high-valence target network (Z) cannot link up
with the more adaptive information, which is stored in networks with a
lower valence. That is, the synaptic potential is different for each level of
affect held in the various neuro networks....The theory is that when the
processing system is catalyzed in EMDR, the valence of the receptors is
shifted downward so that they are capable of linking with the receptors of
the neuro networks with progressively lower valences....(Shapiro, 1995,
pp. 317-318)

○9.境界条件の欠如

最もよく支持された科学的理論は境界条件,すなわち予測された現象が起こるとか起こらないということに関してよく分節化された範囲を有している。逆に,多くの,あるいはほとんどの疑似科学現象は過度に広範囲の条件に作用すると称される。ハインズ(Hines, 1988, 2001)が述べているように,心理療法周辺のよくみられる特徴は,病因が何であるかにかかわらず,表面上はほとんどすべての障害に効果的である。たておば,ある思考場理論の支持者(第9章を参照)は,この治療法はほとんどすべての精神障害に有効であると主張する。さらにこの治療法の開発者は,人間ばかりでなく,「馬,犬,猫,幼児,とても小さな子ども」(Callahan, 2001b, p. 1255)にも効果があると主張する。

これは、万能性と言い換える事も出来るかも知れません。ニセ科学で言うと、EMなんかは典型的でしょうか。

9. Absence of boundary conditions.

Most well-supported scientific
theories possess boundary conditions, that is, well-articulated limits under
which predicted phenomena do and do not apply. In contrast, many or
most pseudoscientific phenomena are purported to operate across an ex-
ceedingly wide range of conditions. As Hines (1988, 2001) noted, one fre-
quent characteristic of fringe psychotherapies is that they are ostensibly ef-
ficacious for almost all disorders regardless of their etiology. For example,
some proponents of Thought Field Therapy (see Chapter 9) have proposed
that this treatment is beneficial for virtually all mental disorders. More-
over, the developer of this treatment has posited that it is eftlcacious not
only for adults but for "horses, dogs, cats, infants, and very young chil-
dren" (Callahan, 2001b, p. 1255).

○10.全体論のマントラ

特に器質医学と精神健康における疑似科学の主張の支持者は,しばしば「全体論のマントラ」(Ruscio, 2001)に頼る。このマントラに頼るときには,科学的主張がより広範囲の主張の文脈内でだけ評価されうる。それゆえ個々では批判されないと主張するのが典型的なやり方である。たとえばロールシャッハテストの支持者は,臨床家はロールシャッハの結果を孤立させては実際上解釈できないと述べることで,この技法に対する批判者たちに反応し続けてきた。代わりに,実際には,訓練された臨床家はたくさんの情報の断片,要するにロールシャッハ・プロトコルを考慮する。この推論の流れには大きな困難が2つある。第1に,臨床家は多様な情報源からのたくさんの複雑な心理測定にかかわる情報を頭のなかでうまく結びつけてしようすると述べる。これは臨床的判断における研究の流れからは疑わしい主張である(第2章を参照)。第2に,全体論のマントラに頼ることによって,ロールシャッハおよび他の技法への支持者は,常に反証される危機を回避する。言い換えれば,研究結果が特定のロールシャッハ指標の妥当性を強めるならば,ロールシャッハの支持者たちはそれらの結果が事実を支持していると主張するが,それらの結果が否定的なものであるならば,「いずれにしても臨床家はこの指標を独立には使用しない」と釈明する(例としてMerlo & Barnett, 2001 を参照)。この「頭は勝つ,尻尾は負ける」式の推論は,これら支持者の主張を科学の範囲を大きく越えたところにおくことになる。

最近、holismはそのまま「ホーリズム」とした方がいいんじゃないか、と思う今日この頃だったりしますが、それはともかくとして。

ええっと、これって、「マントラ」でいいんですかね。原典でもそのままの意味で用いているのかな。要するに、ホーリズムのスローガン(信念・信条・方針)、て事ですよね。まあ、象徴表現として、そのままマントラでいいのかな。

ロールシャッハ批判に関しては、色々と反論もあるみたいですし、それ自体をここで検討する事は出来ませんけれども、一般論として、何らかの主張について、他のものとの繋がりを考える、というのはある訳ですね。それが行き過ぎると、いかようにでも正当化する事が出来てしまう、と。実際、組み合わせによって有効に機能する、というのはあるでしょうから、ホリスティックな主張をするからといって、即批判出来るものでは無いとは思います。尤も、注意深い論者は、「ホーリズム」を哲学的文脈以外では積極的に使わない、というのはあるやも知れません。アヤシゲな概念とセットで持ち出される場合もありますから…。敢えてそういう象徴的・スローガン的表現を使う必要もありませんしね。

10. The mantra of holism.

Proponents of pseudoscientific claims, es-
pecially in organic medicine and mental health, often resort to the "mantra
of holism" (Ruscio, 2001) to explain away negative findings. When invok-
ing this mantra, they typically maintain that scientific claims can be evalu-
ated only within the context of broader claims and therefore cannot be
judged in isolation. For example, some proponents of the Rorschach Ink-
blot Test have responded to criticisms of this technique (see Chapter 3) by
asserting that clinicians virtually never interpret results from a Rorschach
in isolation. Instead, in actual practice clinicians consider numerous pieces
of information, only one of which may be a Rorschach protocol. There are
two major difficulties with this line of reasoning. First, it implies that clini-
cians can effectively integrate in their heads a great deal of complex psy-
chometric information from diverse sources, a claim that is doubtful given
the research literature on clinical judgment (see Chapter 2). Second, by in-
voking the mantra of holism, proponents of the Rorschach and other tech-
niques can readily avoid subjecting their claims to the risk of falsification.
In other words, if research findings corroborate the validity of a specific
Rorschach index, Rorschach proponents can point to these findings as sup-
portive evidence, but if these findings are negative, Rorschach proponents
can explain them away by maintaining that "clinicians never interpret this
index in isolation anyway" (see Merlo & Barnett, 2001, for an example).
This "heads I win, tails you lose" reasoning places the claims of these pro-
ponents largely outside of the boundaries of science.

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年5月10日 (日)

疑似科学の特徴と科学との違い:前編

昨日のエントリー(Interdisciplinary: 参考資料として)の続き。

そこで、疑似科学の持つ特徴として10の項目を紹介しましたが、さすがにあれだけじゃ解りにくいので、説明も引用します。

で、コメント欄で、ちがやまるさんに、

臨床心理学における科学と疑似科学 Book 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本の原典の一部がgoogle booksで参照出来ると教えて頂きました⇒Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索

それで、訳書の文章が非常に解りにくく、訳に問題がある可能性があるので、原典の対応する部分も一緒に引用します。

引用箇所は、

訳書:P5-9

原典:Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索(P6~)※OCRを使いテキストに変換。改行はそのままで直してありませんが、ご了承下さい。タイポあれば、ご指摘頂ければ超感謝・・

※構成は、訳書の引用―私の感想―原典の引用

※感想は、訳書のみを読んでのものです

※この訳はどう考えてもおかしいだろが、という部分があれば、教えて頂ければめちゃくちゃありがたいです

○1.反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用

ポッパリアンあるいは新ポッパリアンの観点(Popper, 1959 を参照)からすれば,間違いをおかすことがないという主張は,原理的に,非科学的である(しかしポッパリアンの批判として,McNally, 2003 を参照)。否定的結果をごまかすために,その場限りの仮説を繰り返し考え出すことは,疑似科学的主張の支持者が共通して行っている方略である。さらに最高の疑似科学では,疑問視された理論上の欠点を埋めるためにその場限りの仮説を、ただ単に張りつける。極端なものでは,その場限りの仮説は、論破できない障壁となる。たとえば,眼球運動脱感作とリプロセッシング(EMDR)の支持者たちは,EMDRについての否定的な結果は,ほとんどが忠実に治療手続きに従っていないことに原因があると述べてきた(第9章を参照)。しかし治療忠実度の概念のあてはめには一貫性が欠ける(Rosen, 1999)。

 否定的な事実に直面し,その場限りの仮説を設定することが,時には科学における合理的な方略であることは強調されるべきである。しかし,科学的な研究プログラムにおいてそのような仮説は、理論の内容,予測力,あるいは両者を高める傾向にある。

アド・ホックな仮説を積み重ねて主張を正当化する、という事ですね。そして、他の理論との整合性を無視してしまう。二段落目は、アド・ホックに仮説を出す事そのものが問題である訳では無い、という強調ですね。理論的整合性や現象の予測の精度等を高めるものであるのが望ましい、という感じでしょうか。

1. An overuse of ad hoc hypotheses designed to immunize claims from falsification

From a Popperian or neo-Popperian standpoint (see
Popper, 1959) assertions that could never in principle be falsified are un-
scientific (but see McNally, in press, for a critique of Popperian notions).
The repeated invocation of ad hoc hypotheses to explain away negative
findings is a common tactic among proponents of pseudoscientific claims.
Moreover, in most pseudosciences, ad hoc hypotheses are simply "pasted
on" to plug holes in the theory in question. When taken to an extreme,
ad hoc hypotheses can provide an impenetrable barrier against potential
refutation. For example, some proponents of eye movement desensitiza-
tion and reprocessing (EMDR) have argued that negative findings con-
cerning EMDR are almost certainly attributable to low levels of fidelity
to the treatment procedure (see Chapter 9). But they have typically been
inconsistent in their application of the treatment fidelity concept (Rosen,
1999).
It is crucial to emphasize that the invocation of ad hoc hypotheses in
the face of negative evidence is sometimes a legitimate strategy in science.
In scientific research programs, however, such maneuvers tend to enhance
the theory's content, predictive power, or both (see Lakatos, 1978).

○2.自己訂正の欠如

科学研究プログラムは,その主張の本当らしさにおいて,必ずしも疑似科学的研究プログラムと区別できない。なぜなら両プログラムの支持者たちはしばしば間違った提案を提出するからである。長期的にみると,最も科学的なプログラムは間違った提案を取り除く傾向にある。一方,最も疑似科学的なプログラムはそうではない。要するに,疑似科学的プログラムを最もよく証明する証拠は,知的な面での停滞が起こることにある(Ruscio, 2001)。たとえば,占星学は過去2500年の間に著しい変化はほとんど起こらなかった(Hines, 1988)

間違った提案は両方とも出す事があるが、科学側は間違いを取り除き、疑似科学側はそうでは無い、という事かな。正しいと主張したいものを正当化するためにアド・ホックな説明を重ねていく、とか。

2. Absence of self-correction.

Scientific research programs are not
necessarily distinguished from pseudoscientific research programs in the
verisimilitude of their claims, because proponents of both programs fre-
quently advance incorrect assertions. Nevertheless, in the long run most
scientific research programs tend to eliminate these errors, whereas most
pseudoscientific research programs do not. Consequently, intellectual stag-
nation is a hallmark of most psendoscientific research programs (Ruscio,
2001). For example, astrology has changed remarkably little in the past
2,500 years (Hines, 1988).

○3.再調査の回避

上記に関連し,多くの疑似科学の支持者は,再調査によって問題点が発見されるおそれあがるようなプロセスを避ける(Ruscio, 2001; 例証としてGardner, 1957 も参照)。再調査プロセスが,よく構成されたパラダイムと矛盾するような主張や結果がでるようにバイアスをかけているという根拠で,回避されるかもしれない(たとえば,思考場理論に関連した例証としてCallahan, 2001a を参照;第9章も参照)。標準の科学的方法ではとうてい適切に評価できないということを理由に,再調査を避けるかもしれない。再調査は完璧からは程遠い(代表的な例としてPeters & Ceci, 1982 を参照)。そうだとしても,科学における自己訂正の最高のメカニズムとして,また推論,方法論,分析における誤りを特定し,研究者を援助する最高のメカニズムとしてあり続けている。再調査プロセスから大きく隔絶されたままでいることによって,疑似科学の支持者は,調整的なフィードバックを得る貴重な機会を失う。

追試や再検討を拒む、といった所でしょうか。で、既存の方法ではバイアスがかかって適切に主張を論証出来ない、などと言ったりする。実際、検証への消極的な態度を採れば、「いかにしてそれを確かめるのか」と指摘されるのは当然ですね。

3. Evasion of peer review.

On a related note, many proponents of
pseudoscience avoid subjecting their work to the often ego-bruising pro-
cess of peer review (Ruscio, 2001; see also Gardner, 1957, for illustra-
tions). In some cases, they may do so on the grounds that the peer review
process is inherently biased against findings or claims that contradict well-
established paradigms (e.g., Callahan, 2001a, for an illustration involv-
ing Thought Field Therapy; see also Chapter 9).  In other cases, they may
avoid the peer review process on the grounds that their assertions cannot
be evaluated adequately using standard scientific methods. Although the
peer review process is far from flawless (sec Peters & Ceci, 1982, for a
striking example), it remains the best mechanism for self-correction in sci-
ence, and assists investigators in identifying errors in their reasoning, meth-
odology, and analyses. By remaining largely insulated from the peer review
process, some proponents of pseudoscience forfeit an invaluable opportu-
nity to obtain corrective feedback from informed colleagues.

○4.論破よりは確証の強調

明敏な科学者フェイマン(Feynman, 1985)は,科学の本質は一生懸命になって自分自身の間違いを証明しようとするものだと述べている。バートレイ(Bartley, 1962)も同様に最高の科学は最大の構成的批評主義を含んでいると述べている。理想的な科学者は,論駁の危険を葬り去るために,育ててきた問題を研究テーマにする(Meehl, 1978; Ruscio, 2001 も参照)。逆に,疑似科学者は自分自身の主張にあう事実だけを探そうとする。強固な支持者は,主張に合致する事実を必ず見つけ出すことができる(Popper, 1959)。そのため確証するための仮説―検証方略は,信念に凝り固まっているときには誤りを根絶する効果的な手段とはならない。

 さらに,バンジ(Bunge, 1967)が述べているように,ほとんどの疑似科学者は,彼らの主張の確証として否定的な,あるいは異例な結果を都合のよいように再解釈する(Herbert et al., 2000 も参照)。たとえば,超感覚知覚(ESP)の支持者は,超心理学の課題(”psi missing”として知られる)におけるチャンスレベルの成績よりもさらに悪い個別的なケースを解釈してきた(Gilovich, 1991; Hines, 1988)。

Feynmanをフェイマン、Bungeをバンジ、と表記するのは一般的じゃ無いような気が激しくするのは取り敢えず措いておいて……自分の間違いを一生懸命になって、というのは、長期的・総合的に見た場合、だろうと思います。あるいは、そういう姿勢を採ろうとしない者はほんとうの科学者とは看做さない、とか。一段落目の後半とか、ぶっちゃけ意味が全然解らない。

4. Emphasis on confirmation rather refutation.

The brilliant physicist
Richard Feynman (1985) maintained that the essence of science is a bend-
ing over backwards to prove oneself wrong. Bartley (1962) similarly main-
tained that science at its best involves the maximization of constructive
criticism. Ideally, scientists subject their cherished claims to grave risk of
refutation (Meehl, 1978; see also Ruscio, 2001). In contrast, pseudo-
scientists tend to seek only confirming evidence for their claims. Because a
determined advocate can find at least some supportive evidence for virtu-
ally any claim (Popper, 1959), this confirmatory hypothesis-testing strategy
is not an efficient means of rooting out error in one's web of beliefs.
Moreover, as Bunge (1967) observed, most pseudosciences manage to
reinterpret negative or anomalous findings as corroborations of their
claims (see Herbert et al., 2000). For example, proponents of extrasensory
perception (ESP) have sometimes interpreted isolated cases of worse than
chance performance on parapsychological tasks (known as "psi missing")
as evidence of ESP (Gilovich, 1991; Hines, 1988).

○5.逆転された証明の重み

先に述べたように,科学における証明の重みは,常に,主張にかかっているのであり,批判にあるのではない。疑似科学の支持者はこの原理をしばしば無視し,その代わりに主張が間違っているということを無心論者が論理の限界を越えて言い張ろうとするようなことを行う(たとえばある新しい治療技法の効果に関する言及)。この誤りは,論理学者の無知による誤りに似ている(たとえば,無知による論争)。それに反対する事実が存在しないというためだけで,単純に主張は正しいと思い込んでしまう仮説の誤りに似ている(Shermer, 1997)。たとえば,未確認飛行物体(UFO)の支持者は,空にある変則的な出来事のなかには説明できないものがあるという懐疑論者の主張に対して,すべてが説明できると主張した(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし,基本的には,例外なく否定的なものすべてに当てはまりうるような証明は不可能なので,この戦略では主張者よりもむしろ懐疑論者に過度に証明を求めるという誤りをおかす。

かなり意味が取れない文ですね。ここは、ちがやまるさんがコメントで訳して下さったものがあります。Interdisciplinary: 参考資料として:投稿: ちがやまる | 2009年5月 9日 (土) 21:02より引用。

前に述べたように、科学においては必ず、証明の責を担うのは個々の主張を立てる方であって、批判する方ではない。ニセ科学を唱道する人々はよくこの原則を無視して、懐疑者たちがある主張(たとえば新規の治療法の効能に関する主張)が誤りであるという理にかなった疑惑を越えて、実証することを要求する。
この誤りは、論理学者の"ad ignoranthum fallacy" (すなわち、無知による誤謬)に似ている。この誤りは、ある主張が単に対立する証拠がないというだけで正しいとみなしてしまう事である(Shermer, 1997)。たとえば、UFOについて言いふらす人には、懐疑者たちは空中の異常現象に関する報告で説明されてない物をすべて説明すべきだと言い張った人もいた(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし、一般的な否定を証明することは本質的に不可能であるから、この戦術は証明の責を主張者でなく懐疑者に誤って負わせてしまうのである。

遥かに明瞭ですね。つまり、科学における立証責任の話。新奇の主張をする側が、説を立証する責任を負う、という事。その転嫁をするのは見られます。無いと思うなら証明してみろ、というやつ。経験科学において、○○は無い、というのを証明するのは一般に不可能ですが、それを求めたりする訳ですね。

UFOの例は、懐疑主義者が変則的な事例を説明出来ないのを衝いて、全部説明してみせろ、と要求する。それは端的に言って、「話が違う」んですよね。確かに変則的なものはあるかも知れないが、それを説明出来ないからといって、それで地球外からの飛行物が存在すると論証される訳では無し、と。

5. Reversed burden of proof.

As noted earlier, the burden of proof in
science rests invariably on the individual making a claim, not on the critic.
Proponents of pseudoscience frequently neglect this principle and instead
demand that skeptics demonstrate beyond a reasonable doubt that a claim
(e.g., an assertion regarding the efficacy of a novel therapeutic technique) is
false. This error is similar to the logician's ad ignorantium fallacy (i.e., the
argument from ignorance), the mistake of assuming that a claim is likely to
be correct merely because there is no compelling evidence against it
(Shermer, 1997). For example, some proponents of unidentified flying ob-
jects (UFOs) have insisted that skeptics account for every unexplained re-
port of an anomalous event in the sky (Hines, 1988; Sagan, l995a). But
because it is essentially impossible to prove a universal negative, this tactic
incorrectly places the burden of proof on the skeptic rather than the claim-
ant.

------------

続きは次回

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月 9日 (土)

参考資料として

とりあえず作ってみた :: Archivesのコメント欄の話ともちょっと関連して。

『臨床心理学における科学と疑似科学』から、疑似科学の特徴が挙げられている部分を参考資料として。

(前略)多くの科学哲学者(たとえばBunge, 1984)と心理学者(たとえばRuscio, 2001)は,最もよく認められる疑似科学の特徴を概説した。それらの特徴は次のようなものである(さらなる議論のためには,Herber et al., 2000;Hines, 1988; Lilienfeld, 1998 を参照)。

とあり(P5)、いくつかの項目があります。取り敢えず、10個挙げられている項目を紹介します

  1. 反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用
  2. 自己訂正の欠如
  3. 再調査の回避
  4. 論破よりは確証の強調
  5. 逆転された証明の重み
  6. 関連性の欠如
  7. 逸話的な事実への過信
  8. 反啓蒙主義の言語使用
  9. 境界条件の欠如
  10. 全体論のマントラ

※ここはどういう事が書かれてあるのか、などありましたら、コメント欄でどうぞ。要約してご紹介します(引用するには長過ぎるので)。

これはどちらかと言うと、「方法を備えているか」という観点ですよね。あるいは、「態度」がどうか。ですから、「ニセ科学」とは、共通する部分がありつつも、異なる所がある。

ニセ科学の話では、たとえば、○○治療というのがあるとして、それをどう謳うか、という乖離の度合いが関わってくる訳ですね。そのままでは、単に実証途中の理論(apjさんのテキストでの「非科学」)であったとしても、エビデンスが充分で無いのに「ガンに効く」などと言ってしまうとニセ科学とされる、といった具合に。

ですから、上の条件を多数満たしていない場合に即「ニセ科学」と呼ぶ、という事でも無い。あるいは、上の条件を満たしているからといって「ニセ科学で無い」とは限らない、と。そこら辺に異なりがあるのだと思います。

臨床心理学における科学と疑似科学 Book 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

しまりす

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114)) Book 宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

著者:佐藤 俊哉
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ただいま再読ちう。

この本を知ったのは、川端裕人さんのブログがきっかけ⇒リヴァイアさん、日々のわざ: 宇宙怪人しまりす

とてもユニークな著作ですね。内容は、しまりすに先生が医療統計を教える、って感じ(←少なっ)。詳しくは、川端さんの書評を見て下さい(←他人任せ)。

ところで、前から思ってるのですが。

統計では、「比」と「割合」と「率」は区別されますが、医療統計や疫学等の本以外では、あまりそれが説明されているのを見ない気がします。何ででしょう。いや、たまたまそういう本に当たっただけかもですけれど。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

メモ:ガイドライン試案を見る

※未整理

apjさんによる、ニセ科学判定ガイドライン試案 — Y.Amo(apj) Lab

ニセ科学判定ガイドライン試案 :: Archives

apjさんのこういうまとめ、さすがだな、と思います。

ちょっと、ガイドラインに書かれた内容を参照して、「血液型性格判断」について考えてみました。

ガイドラインによれば、「科学である」とは、

    1. 試験・調査によって得られた結果
    2. 専門家、専門家団体若しくは専門機関の見解又は学術文献

によって実証されている事、となっています。これに当てはめると、血液型性格判断は、

「血液型と性格に強い関連がある」事は、1.と2.によって確認されていない、つまり「実証」されていない。よって、その命題は「科学で無い」と評価される。「装っている」に関しては、

  • 「ABO血液型」は生物学的概念で、学校教育の内容や、輸血に関する知識から、一般的にそれは周知されていると考えられる。
  • 「性格」は、人間の行動傾向のパターン、と一般に認識される。経験的に、それはある程度少数の類型や特性に分けられると考えられている。
  • 血液型性格判断は、これらが強く関連している、という言説である。血液型という生物学的概念と、性格という心理学的概念との結びつきに関する言明である。
  • 能見などの論者のように、「統計」を仄めかす場合がある。
  • そもそも、心理学的に研究されてきた言説である。
  • マスメディアによって、「実験」を仄めかして論証(もどきを)する場合がある。たとえば、幼稚園での実験もどき。

こういった諸々の条件から、科学と誤認させるに充分と評価して良いと考えます。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009年5月 6日 (水)

禁ずる

ゲーム禁止を「強要」するのはおかしいと思う。 姪っ子は小学3年生。新学期に入り... - Yahoo!知恵袋

なんと言うか、愕然としますよね。

禁止の理由も、どれも主観の域を出ていないですよね。いわゆる「起こり得る」事であって、コンピュータゲームに特有のものとは言いがたい。要するに、他の文化に較べてそういう悪影響を顕著に与える、というのは明確では無い。(ゲームが視覚の機能低下をもたらすというエビデンスは充分にあるのでしたっけ?)

今までは宿題をした後、30分~1時間程度ゲームをしていた様ですが、妹は納得したのでしょう。
先日「ゲーム機」「ソフト」を全て売り払いました。

子供は泣きながら「やめて」と言ったそうですが、これは親の考えですので私は何も言えません。

これはなあ。お子さんはどんな気分だったろうなあ…。質問者さんの意見が柔軟で適切ですよね↓

が、それは各家庭で取り決めをし、子供に理解・納得をさせた上で、時間を決めてゲームをさせる。
約束を破ったら、数日禁止。

これでいいと思うのです。

担任の先生が家庭の教育方針にまで踏み込んでゲームを禁止する(させる)、というのは やり過ぎでしょう。

| | コメント (30) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

apjさんによるニセ科学まとめ

ニセ科学まとめ — Y.Amo(apj) Lab

apjさんによる、ニセ科学論のまとめです。

現時点で、よくまとまって参照しやすいものになっている、と思います。

関連エントリー

とりあえず作ってみた :: Archives

↑apjさんのエントリー

PSJ渋谷研究所X: 【種】apj版「ニセ科学まとめ」

↑重要な指摘

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 4日 (月)

基本的なところから

インフルエンザ、あるいは感染症一般について、ある事無い事触れ回る人がおり、中には妄言に近いものすら見られる現状、基本の知識をおさらいしておくのは大変重要ではないか、と考え、これらの本を読んでみました。

ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ) Book ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ)

著者:岡部 信彦
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック Book Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック

著者:岡田 晴恵
販売元:朝日新聞出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学) Book かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学)

販売元:学生社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ) Book 感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ)

著者:宮地 勇人
販売元:東海大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

いずれも簡潔にまとめられていて読みやすく、参考になる本だと思います(一番下は読書中)。

やっぱり大切なのは、「適切に怖がる」(PSJ渋谷研究所X: 適切に怖がるための「リスクとハザード」)事だと思うのです。楽観も過度の悲観も、よろしく無い。であるから、これまで対象に真剣に取り組んできた人達が蓄積した知識をよく参照する。

場合によっては、無知な人よりも、知識があると思い込んで、曖昧な情報を(善意であっても)人に勧めたりする方が害になる場合がありますね。感染症対策なんかは、特にそうではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 3日 (日)

参考に

「科学は自然の近似」について、以前、『ファインマン物理学』で同様の事が書かれてあるのを見た記憶がある、と言いましたが、確認しましたので、引用します。参考資料として見て頂ければ。※強調は原文ママ

 自然全体のなかの一齣,あるいは一部分というものは,完全な真理――といっても我々の知る限りにおける真理――に対する一つの近似に過ぎないのが常である.じっさい,我々の知っていることは,すべてなんらなかの近似である.というのは,我々はまだすべての法則を知りつくしているのではないということを承知しているからである.だから,これからいろいろいのことを勉強しても,それはやがて忘れてしまわなければならず,そうでないにしても,多くの場合,修正を加えなければならないのである.
ファインマン,レイトン,サンズ (坪井忠二訳) 『ファインマン物理学 力学』(P2)

ファインマン物理学 (1) Book ファインマン物理学 (1)

著者:ファインマン
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 1日 (金)

プラセボフォルダ開放

需要があるかは判りませんが、ブラセボってなあに、的な記述があるサイトのリンクをいくつか紹介します。

------------

余談ですが。

色々考えてみて、いわゆるプラセボの事を、今度から、「擬薬」と表記しようかな、なんて思っています。

理由は、「偽薬」の「偽」よりも、「擬薬」の「擬える」の方が、用いられる目的をよく言い表しているように思うし(多分に個人的な語感の気もするけれど)、語に「薬」が入っているから、「プラセボ」のように、有効で無いと判っている方法一般(手術とか)に敷衍する事が出来ず、あくまで「薬を擬したもの」、という意味を伝えやすい、と考えるから。「プラセボ効果」よりも、「擬薬効果」の方が、字面からも意味を取りやすいようにも感じます。

という訳で、今後はそれを用いるかも知れません。もちろん、文脈によってプラセボという語も使うでしょうけれど、ちょっと気をつけてみようかな、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月30日 (木)

違います

不連続な茶飲み話: 文脈

きちんとお読み下さい。

自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

思わぬ文脈で読み取られて、の意味がよく解りません。文脈とは、発言がなされた場がどのようなものであったか、という事なので、文脈の把握そのものが誤っていたのだとすれば、それは単に誤読です。こちらは、どういう文脈であったか、言葉にどういう意味を持たせていたか、などを説明するまでです。文句は言えない、とは? 好きなように解釈されてもしょうが無い、という話ですか? そんな訳無いでしょう。適当に読まれたのなら、文句を言うに決まっています。

 まして上の場合、「科学とは何ぞや」という話をしているわけですから、

いや、そこまで一般的な話では無いのでは。と言うか、科学とは何ぞや、という問題なら、初めにそういう論題を設定してからやればよろしいかと。

とても「哲学的論議に持っていくこと自体がナンセンス」とは言えないのではないかと。

何故ですか? 私は、一つの文を採り上げてそれを哲学的に云々し、発言者の真理観まで憶測混じりに推論するのはおかしいだろう、と言ったのですが。ところで、その部分、私のコメントの引用かな。ちょっと探し切れないのですが、多分、最近「哲学的論議」という言葉を使ったのは、

quine10さんのように哲学的論議に持っていくのがいかにナンセンスか、

ここだけだったと思います(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/lets_skeptic-28.html#comment-56085433)。ここではちゃんと、「quine10さんのように」と書いていますね。「ナンセンス」もここ以外で書いた記憶が無いので、もし別の箇所の引用だとしたら、教えて下さい。ともかく、科学哲学の話をする事自体がナンセンスだ、と言った覚えは無いです。

とりわけ「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人の発言であれば――、ダブルスタンダードに聞こえます。

判然としません。何がどうダブルスタンダードなのでしょう。それと、何で、”「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人”が強調されているのでしょうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月29日 (水)

>lets_skepticさん

「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ - あらきけいすけの雑記帳

lets_skeptic さんに問いたい:「真理」を前提に置いているのは(1)誰のどの学説なのか?(2)その学説のどの部分がどのように問題なのか?この程度のコメントでは十分に合理的な説明になっていないので説明して欲しい…って問い返されても仕方ないよね。(この件、回答は不要です。)

※引用に際し、リンク等はずす

だそうです。これは結構クリティカルなので、検討する必要があると思います。

>あらきけいすけさん

批判的に言及しておいて、回答は不要、などと一々仰らないように。

------------

ぼくが TAKESAN さんにツッコんだ理由は、これが「ニセ科学」説明しようとした apj さんのエントリに、自分なりの哲学的意見をまとめようとした quine10 さんの議論に対する TAKESAN さんのブコメとして書かれていたからこそだ。

いいえ。「現場の科学者の体験的知識の表明」(かも ひろやすさんによる)として、文脈を考慮して特に問題無いと思われた記述に、その文脈を無視して哲学の議論に引き付けたので問題だと思ったのです。私のブクマコメントは、apjさんが色々の場でああ書くのは適切だ、と言った訳ですが、それは、あの文脈であれば適当、という事です。そもそも、quine10さんは、「どこの誰の表現かを、きちんと明示」していません。にも拘らず、「科学は自然の近似」という言い回しのみを取り出して論評しています。だから私は、おそらくapjさんの表現の事だろう、と仮定して、その言い回しが出てくる文脈ごと検討しています。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009年4月28日 (火)

色々説明

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ - 日記

「血液型性格診断」に科学的根拠がないことは、すでに心理学の実験で証明されている」

ホントか?ソース出せよ。

→正確には、「心理学の実験で証明」、では無い(普通は、質問紙調査を「実験」とは言わない)。血液型性格判断は、大規模な社会心理学的研究などにより、反証されている。ソースは、大規模な研究では、松井や山崎・坂元 等。その他、多くの小規模な研究がある。参考資料⇒■(シリーズ)「血液型と性格」論文レビューをするにあたって|ほたるいかの書きつけ ■(シリーズ)忘却からの帰還: "Blood type and personality" に手を出したことがある研究者(1) Cattell ~ 忘却からの帰還: "Blood type and personality" に言及したことがある研究者 (4) Kosaku Yoshino

「性格」なんてものが科学で定量的に扱えるわけないだろ。

→それは性格心理学そのものの否定。質問紙調査等により性格特性を把握する事をも否定する。その立場自体はあって良いが、「仮に性格が科学的定量的に研究出来なくとも」、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

こんなものを科学的に反証できると考えている人間こそニセ科学の側だ。

→性格心理学や社会心理学のパラダイムに則れば、科学的に反証出来る。仮に、上の理由により、性格を定量化出来ず、従って反証出来なくとも、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

「血液型は単に抗原の違いを示しているに過ぎないのだから、性格とは何の関係もない」って批判は意味がない。

→それは、血液型性格判断に対する筋の悪い批判なので、そのような想定はあまり意味が無い。

そもそも科学でないことを「ニセ科学」だとか「科学的根拠がない」とか言い出すのを止めろと。

→科学で無いとして、それを「科学的根拠が無い」と評価するのは、全くおかしく無い。そして「ニセ科学」は、科学的根拠が無いにも拘らず、それが成り立っているかのように主張もしくは認識されるものである。

頭の悪い人はAが「科学的に」否定されてると思っちゃうから、警戒しないと。

→血液型性格判断は、心理学的に反証されている。繰り返し研究され、その結果強い関連が見出されなければ、反証されたと見て構わない。ごく慎重な態度を採り、それでも反証なされていない、と主張しても良いが、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

仮に、今までの全ての心理学における、血液型―性格 関連説の研究に不備があったとして、数十年後にそれが明らかになり、「実は血液型と性格に強い連関があった」事が解った、とする。その場合でも、「現在における、血液型性格判断を”ニセ科学”とする評価」は変わらない。確かめられていないにも拘らず、「確かめたかのように」主張してはならない。

血液型性格判断の否定と、「血液型と性格に関係が無い」、という論は必ずしも同じでは無い(文脈にもよる)。

20年前は加熱した牛からヤコブ病が感染する「科学的根拠はない」、

30年前は注射器の使い回しで病気が感染する「科学的根拠はない」って言ってましたよ。

→「科学的根拠は無い」、と、「科学的に考えてあり得ない」、は別である。現象が実証的に確認されていないなら、それは一般に「科学的根拠は無い」、と評価される。そしてそれは、必ずしも、「これまでの科学の体系から見て、原理的に成り立たない」というのを意味しない。現象が確認されていないのに「確認された」と言えば、それは批判される。「仮に成り立っているとしても」、である。成り立っている事と、それが「確かめられる」事は同じでは無い。

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ

→この文は、血液型性格判断をニセ科学と評価する事そのものが「ニセ科学」だと言っている。という事は、ニセ科学という概念を理解した上で、それに当てはまると考えた、のを意味する。では、ニセ科学概念の意味を説明出来るはずである。単なる揶揄で、特に深く考えずに使ったので無ければ。

<追記>こちらもどうぞ⇒血液型性格判断・ニセ科学・差別、あるいは「科学」と「価値」|ほたるいかの書きつけ<追記終わり>

資料

リンク集:

書籍(私が未読のもの含む):

不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門 Book 不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

著者:菊池 聡,宮元 博章,谷口 高士
販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「モード性格」論―心理学のかしこい使い方 Book 「モード性格」論―心理学のかしこい使い方

著者:サトウ タツヤ,渡邊 芳之
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

心理学 (図解雑学) Book 心理学 (図解雑学)

著者:大村 政男
販売元:ナツメ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 血液型と性格

著者:大村 政男
販売元:福村出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年4月27日 (月)

科学と哲学

私が、哲学的な問題には立ち入らない、と何度か書いたのは、もしそこに入っていくとすると、広く深い議論にならざるを得ないから、なんですね。哲学の人は科学をよく勉強しなくちゃならないし、科学の人は哲学をよく勉強しなくちゃならない。その上で、実際の科学の方法と哲学の概念との関係を考えたりする。

加えて最近は、科学を哲学的に考察する場合、単に「科学哲学」では無く、科学哲学・科学史・科学社会学 等を含んだ総合的なものとして、「科学”の”哲学」と言われたりもするようで、いずれにしても、非常に広範囲で、しかも深い議論が必要とされる訳ですね。

それで、ありていに言ってしまうと、この場でそれを仕切るには、私にはちょっと力不足であるな、と。

実は、関心はすごくあるんですよね。元々哲学の本を結構読んだりもしているので。でも、今は実証科学の方法を主として勉強していこうと思っている時期でして、実験科学や統計学方面にウエイトを掛けている所だったりします。

これは、以前の自分が、「科学」を知らず、しかも、哲学をほんの少し眺めただけにも拘らず、実証科学に批判的であった、という苦い経験から来ています。

科学を勉強するにつれ、哲学の人達はこう言うけど、科学の人達は普通に踏まえてるじゃない、と思う事が、かなりありました。もしかすると、中途半端に哲学をやった人の的外れな科学批判、に当たってしまった、のもあるのかも知れません。

考えてみれば当然でもあるんですよね。科学者で科学哲学的な思索を深めた人も沢山いるのですし、それが科学の方法にフィードバックされないと考える方に無理がある訳で。心理学方面だと、方法的な対立が色々あったりして、科学哲学と絡めて論じられる本も結構ありますね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年4月24日 (金)

「科学は自然の近似」

きっかけはこちら⇒科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

では、本題へ。

えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。

「科学は自然の近似である」

「えっ?」と。

「マジで言ってんの?」と。

こう切り出し、ここから、「科学は自然の近似である」という見方を、哲学的な真理観の立場から批判しています。※引用にあたり、強調等の修飾は はずします

さて、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄、というのがどのブログかは判りませんけれども、疑似科学あるいはニセ科学を批判し、「科学は自然の近似である」という表現をよくされるのは、天羽さん(apjさん。以下apjさんで統一)なので、apjさんの論に対する批判と読みました。私が同じような言い回しをする際も、apjさんの論に賛同して使っています。

※念のために書いておきます。ここでは、ニセ科学の話は措いておいて、「科学は自然の近似」という表現がどういう意味を持つのか(持たされているのか)、を考えてみたいと思います。ですので、ニセ科学批判者がどうだ、などの話はしません。ここは踏まえて頂ければ

(ちなみに、これをいきなり真理対応説・真理整合説 と関連付けて論ずる意味は、私にはよく解りません。関連はするが、一応別の話、と捉えるべきだと思います)

上記リンクについた、はてなブックマークはこちら(私がブクマミスしたので、ブクマのページが2つ存在します)⇒はてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

ここで私は、

ublftbo   科学論 いや、自然科学(の理論)が自然の近似、というのは適切な表現だと思いますけど。というか、あれは「定義」じゃないでしょう…。なんか誤読してるんじゃないかな。

こう書きました。※一部抜粋

ここで私は、自然の振る舞いを近似的に記述したものが科学である、と取れば、特に問題無い表現だと思うし、哲学の真理観の話は、一応別の問題だろう、と考えたので、このコメントを書きました。

で、もう一つ引用。

arakik10 「自然科学が自然の近似」というのは杜撰な表現ですよ> id:ublftbo さま。もちろん、このエントリも quine10 さんには申し訳ないが、哲学的に「古くさい」議論ではある。

「杜撰」、との事。私はこれがどういう意味合いなのか、今ひとつ掴めませんでした。科学を定義せよ、と問われて「自然科学が自然の近似」と答えるのならともかく、自然の振る舞いを近似的に記述する、科学にはそもそもそういう側面がある、という意味合いでそう表現するのは、問題無いと思うからです。杜撰、とはよく解りません。

次に、同じエントリーに言及したsteam_heartさんの記事と、それについた はてなブックマークのページにリンクします⇒■細かいなあ、オレも。 - Gavagai ■はてなブックマーク - 細かいなあ、オレも。 - Gavagai

ブックマークコメントを引用。

oanus 反ニセ科学 地球のカタチを球とみなすのは「数学」に過ぎない / 自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの? / 真理が「モデル」を指すなら問題ない / 環境と環世界が混ざってるよーな…

ここでoanusさんは、「自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの?」、”真理が「モデル」を指すなら”と書いておられます。

私は後者の方にちょっと違和感を懐きました。多分、apjさんが、「科学は自然の近似」という言い回しをされる際の「真理」は、そういう意味では無いのでは、と思ったからです。

で、私は、近似の意味などを調べたり、ブクマをつけたりしていたのですが、別のブックマーク(はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)でoanusさんから、

oanus meta id:ublftboさん, 「近似」ではなく「自然」という言葉が問題なのかと.暗黙の了解としている物質世界の全体を指すのか,人間の認知系を通した世界の像を指すのかという違いでしょう / id コールで誤入力してすみません

と教示を頂き、なるほど、「近似」で無く「自然」の方もよく考えるべきか、と思いました。

oanusさんが仰る2つの「自然」、前者は「実在」や「外界」と呼べるでしょうし、後者は「現象界」とでも呼べるでしょうか。あるいは、物理空間と現象空間、とか。※現象界や現象空間は、哲学などで用いられる概念だと思います

私は、「科学は自然の近似」とapjさんが仰る場合、「自然」は前者の意味で読んでいます。つまり、人間とは独立した自然現象があり、その構造を知覚を通じて解明していく、という営みを「科学」と呼ぶ、と。「実在」をどう捉えるか、はまた別の議論があるでしょうが、自然科学の方法としては、観測や実験を通じて自然現象のメカニズムを追究するものである、と言って差し支え無いと思います。

そういった意味で、私は同ブックマークで、

ublftbo   ↓なるほど。実在を仮定する(←これが「自然」)として、人間の知覚による観測には限界があるから、その意味で「自然の近似に過ぎない」という言い方になっていると読んで、特に問題ない表現と考えた次第です。

こう書きました。つまり、まず実在を仮定する。人間とは独立した世界があると看做す訳ですね。そして、それを「自然」と呼ぶ。その上で、人間の観測によってメカニズムを解明していく訳で、そこには実験科学的な誤差もあるし、精度にも限界がある。その意味で、私は、「科学は自然の近似でしか無い」、「科学は自然の近似に過ぎない」、などの言い回しは出来るし、それは的外れなものでは無いと考えます。

別のページ(はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)で私は、

ublftbo   続き。 / 私は、「真理」が「モデル」を指すのではなくて、「自然」や「(仮説としての)実在」を指し、「近似」が「モデル」を指す、と読んだのですね。要するに、科学はモデル(近似)でしかない、という風に。

こうも書きました。これは、上のoanusさんのブックマークコメントを参照してのものです。要するに、apjさんが「科学は自然の近似である」と発言する文脈では、同時に「真理」が出てくる訳ですけれど(科学は真理などでは無い、という風に)、そこでの真理とは、「自然がどうなっているか」という事であり、それに科学は接近は出来るけれども、完全に一致したりする事は無い、というように、apjさんは考えておられるのではないかな、と思ったのです。

ここまでは、主にはてなブックマークでのやり取りの話。どう読解したか、という所。

で、こういうのは、ご本人がどう風に使っているのか、が最も重要なので、それを見ていきましょう。

ヴィトンのバッグに置き換えろ :: Archives

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

これは、他の方の主張を受けてのものですね。ここで「精度」の話が出てきますね。apjさんは実験科学の専門家ですから、誤差や精度、公差などについてのプロフェッショナルな訳で、測定の限界や有効桁の話に関して、熟知されているはずです。この文は、そこら辺の論理を踏まえての発言だと思います。これはある意味、「科学の限界の表明」な訳ですね。

還元電解水に関する議論(その2)

 物理学の分野では、教科書に出ている法則などはすべて「自然」の近似です。近似の精度が悪くて現実をうまく説明しない場合は、近似の精度を上げる(新しい、別の形で法則を立てる)ということがなされます。たまに法則が絶対だと誤解する人が居るので困りますけど。

こちらでも、同様の説明がなされています。

特命リサーチXへのコメントに関するやりとりでは、

 ただ、完璧なものになるというのはちょっと行き過ぎな気がします。

 物理法則はすべて近似である、というのが私が常々思っていることです。この場合の「近似」は、測定誤差をうまく処理して真の値を考える、という意味ではないです、念のため。
 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。
「法則」を「理論」と置き換えてもかまわないです。
 特殊相対論がニュートン力学を含む形で作られた時は取り込まれ型でしたが、化学分野の燃焼のフロギストン説は捨てられました。
 思い切った理論的予測が成功することもたまにはありますが、そういうのは科学の歴史を見てもめずらしいことなので、歴史に残るできごとになりますね。

こう書かれています。誤差を評価して真値を推定するという意味では無い、とはっきり書かれていますね。一部を抜き出します↓

 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。

これは明瞭な説明だと思います。ここでは「法則」、「理論」となっていますが、これを「科学」と置き換えても、特に問題は無いでしょう。科学という語は、理論あるいは法則などの説明の体系を指す事もあるし、それらを追究する営みそのものを指す場合もあるので、文脈に沿って読めば良い。

これらの記述を鑑みて、「科学は自然の近似である」、という言い回し、表現は、問題のあるものと思わないですし、ましてや杜撰なものとは私は感じません。そもそもは、科学は絶対か、真理に達し得るか、などの問いに対する答え、という場面で出てくる表現な訳ですし、その文脈を考慮せずにどうこうするのは、適切なものでは無いように思います。

要するに、この表現は、科学の限界を示すもの、なのですね。科学を定義したものでも無く、科学の本質的な特徴の説明の一つ、と捉えるのが妥当なのではないでしょうか。

------------

えっと。

apjさん、もしお読みでしたら。

私はこのように解釈しているのですが、いかがでしょうか? こういうのは、説明されているご本人に伺うのが、一番正確で良いと思うので……で、いきなり「どういう意味ですか?」とブログなりで訊くのは ただの失礼な人なので、色々調べて、自分なりの読解を示してみました。

ご説明・ご批判を頂ければ幸いです。

| | コメント (51) | トラックバック (1)

2009年4月23日 (木)

青木さんの本

Rによる統計解析 Book Rによる統計解析

著者:青木 繁伸
販売元:オーム社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本屋で見つけて、ビビッときた。目にして0.24秒で、いつか絶対読む本リストに入れた。

中身はパラパラめくっただけ。青木氏が書いているというだけで、信頼出来る本と確定出来るので。じっくり腰を据えて読もう。

図書館に入らんかな、と勝手な期待を。いや、やはり座右に置いておくべき本かな、これは。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水)

態度の問題とか

くどいくらい書いた方がいいと思うので。

Interdisciplinary: メモ:ニセ科学批判者

私はここで、「ニセ科学批判者」という言葉は、最も意味を広くとれば、ニセ科学を批判する人達、という意味だし、また、そうとるべきだと書きました。もし「批判者」と括るのならそうした方がいい、と。

で、ニセ科学を批判する一部の人の態度をもって、ニセ科学を批判する人々へ一般化をしちゃダメなのでは、というのも書いた。これは、何度も何度も書いている事です。

コメントでも触れていますが、もしやるなら、まず批判活動一般について論ずるのが適切だろうと思います。その上で、ニセ科学を批判する人々の大部分に共通するものがあり、それが批判という観点から好ましく無いのであれば、「ニセ科学批判者」を批判する、のが意味ある事になるでしょう。しかし、それが可能なのかどうかを、よく考える必要があるのではないでしょうか。

たとえば、ニセ科学を批判する際に手本とすべき態度、というのは考える事は出来ると思ってます。つまり、きくちさんとかですね。かと言って、そういう態度を採って無い人を「ニセ科学批判者」と呼びたくは無い、なんて考えが出てきちゃったりすると、それは言葉を大袈裟に捉えている事になるんじゃないかな、と。なので、このエントリーを書きました。

ニセ科学批判者か否か、というのは、ニセ科学という概念を正確に捉え用いているか、という部分で判断するべきだと思います。ニセ科学概念に誤解があれば、ニセ科学を批判しているとは言えない訳ですしね。

これは、自分のコメントから抜粋したものですが、今もこの考えは変わりません。きくちさんの態度がお手本となるものだと私は考えているし、「ニセ科学批判者」と括るなら、そうであるかどうかは、「ニセ科学」の概念をきちんと捉えているか否か、で考えるべきだと思います(括る必要があるかは別の話として)。批判の態度が一様であるかどうかは考慮しない方が良い、と私は明確に考えています。

というか、逆に聞きたいのです。

こうであるのが望ましい、という批判の態度が、明確にありますか? それは、批判を行う者が一様に、一貫して持っておくべきものですか? 批判の「効果」というが、批判の態度と強く関連しているものですか? それは、対象の多様性を考慮しなくてはならないのではないですか?

私は、はっきり言って(こう言うしか無い)「解らない」のです。このやり方は良く無かったのでは、と後から思う事はあるし、見ていて、それはまずいんじゃ、とも感じる場合がある。でも、こうすれば良かったのでは、と思ったとして、それが本当に良いのか、どうすべきだったか、は、そんなに簡単な話では無いですよね? いや、簡単な話じゃ無いからどうでもいい、という事ではありませんけれども。それと、批判の仕方って、一人の人間のやり方ですら、多様ですよね。

自分も、こういう態度はいかんよな、とか、こういう態度だけは採らない、というのがありますし、多分ここでも書いた事があります(名前も挙げたかも知れない)。しかし、それを指摘する事そのものにどういう意味があるのか、それによって何が改善されるのか、は、難しい問題ですよね。そうじゃありません?

私の考えは、こういうものです。それは、以前から変わっていません。

| | コメント (11) | トラックバック (2)

2009年4月20日 (月)

ちょいメモ

今まで書いたのをいくつかまとめ。

Interdisciplinary: ニセ科学の見方

Interdisciplinary: ニセ科学批判の効果についてとか色々

Interdisciplinary: 論点

| | コメント (0) | トラックバック (0)

冷凍炒飯。職人業と大量生産品と

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(265)冷凍炒飯ができるまで

大変面白かった。

初めに著名な料理人が炒飯を作る工程を紹介し、次に、実際の商品の製造工程でそれを再現するのを見せる、という構成です。

手順としては、譚氏の技法を忠実になぞる、というかたちですね。つまり、

  1. 鍋を熱する
  2. 油を敷く
  3. 卵を投入
  4. 卵を掻き混ぜる
  5. ご飯を投入
  6. 掻き混ぜる
  7. 調味料や焼き豚を投入
  8. 掻き混ぜる
  9. 醤油を投入
  10. 掻き混ぜる
  11. 葱を最後に入れる

という工程。

映像をよく観察すると、炒飯をパラパラに仕上げるための工夫が随所に見られます。米を炊かずに蒸す、鍋を煙が出るまで加熱する、卵に少し火が入った段階で飯を投入する、等々。恐らく、掻き混ぜる羽の形状にも、工学的・技術的な工夫がなされているのでしょう。

炒めた後に葱を投入し、火が通り過ぎないようにしていますね。冷凍工程までに掻き混ぜられ運ばれていくので、程よく火が通るのでしょう。

このように、職人の卓越した技術を大量生産の工業製品として再現する、という試みは、実に面白いものですね。そして、その工程を細かく観られるコンテンツがあるのも素晴らしい。

たまに、大量生産品に嫌悪を覚える人もいますが、こういう所を見て色々考えるのもいいのではないでしょうか。劇画原作者とかね。至高の味を求め、精密な仕事をする職人もすごいし、それを大量生産の現場で再現し、一定の品質で提供する、というのも素晴らしい。「両方すごい」訳で。

紹介されている商品は、多分これかな↓

あおり炒め焼豚炒飯|冷凍食品|商品カテゴリー|商品情報|株式会社マルハニチロ食品

私はこれは食べた事ありませんが(炒飯は自分で作る)、材料がシンプルだから、一般に受け入れられる味になっているのではないかな、と思います。

それにしても、この頃の冷凍食品は、驚異的なクオリティですね。

------------

手作業で精密な仕事をやってのける職人の業も観たい、というあなたのために、こちらも。

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(105)そろばんができるまで

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(237)竹刀ができるまで

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月17日 (金)

答えます

疑似科学批判批判批判批判:王様は裸だ!Annex:So-net blog

量が膨大なので、引用しつつ簡潔に書きます。文体は、で・ある調にします。

------

 なお、mizusumashiさんの発言を読む限りに置いて、「ウェブで見かける疑似科学批判」=「ニセ科学批判」と捉えてよさそうなので、以後そう読み替える。

→議論が進むにつれ、この部分に関しても誤解があった事が判明した。

 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ

→「だけ」では無い。そもそも「ニセ科学批判」と、論理実証主義のような科学哲学上の立場を混同しているように思えたので指摘した。論理実証主義とは、科学哲学において重要な概念であり、その主張はニセ科学を批判する者が共通して持っているものでは無い。

さらにものすごく意訳すれば...

(引用者註:途中略。リンク先参照の事)

 ...てな感じではないだろうか(「あっはっは」はともかく)。

→違う。ウェブで見かける擬似科学批判とは何か、と問われ、菊池教授のテキストを挙げた、にも拘らず、菊池教授らが主張する「ニセ科学」概念を正確に理解されていなかった。という事は、「ウェブで見かける擬似科学批判」が、「菊池教授らが行っている活動」であるのは認識していたが、その内容を正確に理解していなかった、というずれがあった事になる。

それに対し、「ニセ科学批判の枠組みではそれはおかしい」と文句を言うのも適切ではないだろう。何故なら、「ニセ科学批判」の枠組みを批判するために、それより大きな枠組みを示しているのだから。

→私は、「ニセ科学批判」の立場から、「ニセ科学として」宗教等を罵倒する事は出来ない、と書いた。「擬似科学批判」が菊池教授らの活動を指すのなら、その立場からは、宗教・道徳批判は導かれない。「総括」を参照の事。

と言うだろう。それだけの話だ。

→違う。私は、較べられた事を批判したのでは無い。「混同」している可能性を指摘した。

 TAKESANさんとこの掲示板のやり取りでmizusumashiさんが「セクショナリズム」を撤回してしまったのは非常に残念な事だと思う(本気で間違ったと思って撤回したのか、ヒートアップを怖れて撤回したのか知らないけれど)。

→私は、「セクショナリズム」という概念は、少なくとも一般に用いられるような馴染みのあるものでは無い、と認識した。だから、その意味内容を問うた。そして、「支配」や「独占」等を含意しているという答えを得、法的な概念としては、必ずしもネガティブな意味合いでは無い、というのを教わった。が、私はそれは(法的な用法)、一般的では無い使い方だろうから、そう解釈が可能だとしても、セクショナリズムという語を使う事に賛同は出来ない、と書いた。※ここは掲示板ではありません。

 その上で、「ニセ科学批判」とは、ひとつの思考形態と言うよりも、ある種の『排斥運動』ではないかと感じた。

→「語」に「批判」と入っているので、それ自体が思考形態と解釈出来ないのは確かにそうだろうと思う。科学を騙っているものを指摘するのだから、論理的には排斥と解釈し得る。そう呼ぶかは人それぞれだろう。※「菊地」じゃ無く「菊池」さんですね

 『ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである』とアナウンスしているのが「ニセ科学批判”まとめ”」と題したページである事に非常に矛盾したものを感じざるを得ない。

→私の解釈だが。「一派」と看做すべきでは無い、というのは、ニセ科学を批判する事以外の思想的部分についても「軌を一にする」ようなものでは無い、という意味だと考えられる。ニセ科学を批判する人達、という意味で「一派」であるのは当たり前である。しかし、「一派」とすると、別の含みが持たされる、という可能性にも思いを馳せるべきと考えている。※「思想的部分」には、「宗教を否定する」等も含まれる訳です

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。

→違う。ニセ科学批判をしている人に対して異論を唱えるものの中に、「批判の態度や人格、その他の思想的な方向性」をも共有しているかのように主張するのがある。だから、そのような認識は改めて頂きたい、という事である。当該wikiは、関心を持った人の「案内」の役割を果たすものでもある。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。

→ここは読み取りにくい。動機とニセ科学批判を「組み合わせなくてはならない」とは、どこかで主張されているのだろうか。

ニセ科学批判者っぽい人達は、「ニセ科学批判をどう捉えて欲しくないのか」という話を好むが、「どう捉えて欲しいのか」について、あまり語りたくないような素振りを感じる。

→どう捉えて欲しく無い、という主張は、どう捉えて欲しい、という主張の裏返しであるようにも思うし、そもそも、「語りたくない」と評価されるほど、「素振り」を疑わせるほど、「書いていない」のだろうか。

 「ニセ科学批判」をする数々の動機を示されても、かえって「ニセ科学批判」とは何か分からないし、何故その動機で行われているものを「ニセ科学批判」と捉えなくてはならないのかも分からない。

→違う。ニセ科学批判とは「文字通り」、ニセ科学を批判する事であって、動機は概念に含まれない。「捉えなくてはならない」という解釈がどこから来たのか知りたい。

 何故細々とした線引きをするのだろう?
 そして、その線引きをそこに置く理由は何だろう?
 それが良く分からないのだ。

→「細々とした線引き」とは? 「そこに置く」の「そこ」とは?

 線を引いているのは「ニセ科学批判」側であり、それによって「科学とニセ科学」を区分しようとしている。
 それは端から見れば「矢が当たったところに丸を書く」の如くではないか。

→「端から見れば」というのが「どこから」という問題もある。ニセ科学を主張する人から見れば、そう思われるのも当然。当たり前だが、「ニセ科学」と判断する側も、それを批判される余地があるし、批判に対しては開かれなければならない。

 「科学-非科学間のグレーゾーン問題」だってそうだ。
 シメに『どれも (専門家の目から見れば)「明らかに真っ黒」なものばかりである。』と言われても、「その“専門家”って、結局排斥したい側でしょ」という気持ちがわき上がってしまう。

→「科学-非科学」という文脈からいけば、専門家集団がそれを判断するのは当然。それを否定すると、「科学的」という言明は不能になる可能性がある。科学的という判断が出来るなら、非科学的という判断も出来る。※「非科学的」とは、必ずしも「起こらない事」、を指さない

 それに比べれば、「ラベル貼りか剥がしか」とか「アナロジーとして寿司と江戸前のどっちが妥当か」という話なんて正直どうでもいい、と私は思う。

→よくない。寿司のアナロジーは、意味が明らかに違う、というのを指摘したものである。※「比べ」る必要がありますか?

 「批判する以上は批判する相手をよく知れ」、こう言いたくなる気持ちは『批判される立場』に立てば良く分かる。しかし、この物言いは、極端な話、「知らないヤツは口を挟むな」と言っているに等しいと感じられた。

→「極端な話」、としているが、そもそも私は極端な話はしていない。調べた上で書いたのだとしても、おそらく概念に混同があるから、調べ直してみた方がいい、という意味で言った。「知らないヤツは口を挟むな」については、どの程度知らないか、どの程度口を挟むか、による。

 さらに、「もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。」なんて、「批判が不当であると自分で分かるまで調べろ。」と言っているのと同じに聞こえる。

→私は、同時に「質問」をした。コメント欄でも何度もやり取りをし、ニセ科学概念について説明している。「聞こえる」とすれば、私はそのような認識は持っていない、と返すしか無い。もし私が、解るまで調べろ、と思ったなら、「そのままそう書く」。

 このような言い振りがどれだけ虚しいかは、某氏の「まずは心理学の入門書を読んで下さい」発言に眉をしかめた事のある人にとっては知っているはずだろうに。

→さすがにこれは無いわ、と思った。ベクトルの向きが同じだからといって、長さが同じ訳でも無いでしょう。ABO FANさんがどういう流れであんな発言をするかは、Jさんが一番よく知っているはずなのにね。

 それに、調べているのは、「自分が押さえるべきと判断した情報」でしかなく、「信奉者側が押さえて欲しいと思う情報」ではないのではないのでしょうか。

→ニセ科学や擬似科学の話なのだから、その概念について調べるのが大切なのが当然。「調べながら批判する」事は否定しない。しかし、「調べながら批判している事を批判する」のも否定されない。

 となれば、否定されたニセ科学支持者だってこう言いたいはずです。
 『もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。』

→当たり前。訊かれれば、どこまで調べたかを示す必要もある。それは、「批判」が関わるもの一般に言えるでしょう?

 だからこそ、そんなニセ科学批判側が、批判される側になった途端に「批判する以上は批判する相手をよく知ってからしろ」といった発言をしてしまう事に非常に身勝手さを感じました。

→いいえ。批判するなら相手をよく知ってから、というのが妥当だと私は思っている。訊かれて答えられるか、という問題。混同していると思われるものに対して、調べるのを促すのがそんなに問題ですか? 上にも書いたが、私は質問込みでエントリーを上げた。最初から説明する気があった、という事です。書き方が足りない、初めからある程度の説明を入れておくべきだった、などの指摘はあるだろうし、それは甘んじて受けるけれども。

 あと、「ウェブで見かける疑似科学批判」とは何かを聞き出す事に拘っていたようですが、そもそも、「出典」を知ればmizusumashiさんの主張の何が分かるのでしょう?

→出典を知れば、何を参照したかが判る。それが判れば、用語の概念についてどう認識しているか、の手がかりを得られる。

それ以前に、「ウェブで見かける擬似科学批判」というのはかなり一般的な言い回しなので、具体的にどのようなものを指すのかを訊くのは、当たり前である。これが、私達の言う「ニセ科学」を指していないのが判明すれば、それを踏まえた方向に進む可能性があった。拘っていた、としているが、ここはそもそも、「最も注意深く見るべき」部分である。「擬似科学」が、科学哲学上の境界設定問題において出てくるような概念であれば、話が変わってくるから。※「論理実証主義」を出しておられたでしょう? これは、ものすごく重要な点なのです。他のエントリーも見て下さい。哲学的な論考をいくつも書いておられますので。だから、「混同」の可能性を考えた訳です

 また、そう言う意味ではmizusumashiさんは“自分の言及に必要な範囲”で、ニセ科学批判側の実態を的確に把握していたと言えるのではないのか?

→違う。「そうしていない」の解釈が異なる。哲学的な立場なら、「しない」かも知れないが、ニセ科学批判の立場でれば、「出来ない」、になるから。

 すごい失礼なもの言いになるけど、そんな事に拘るのは「出典は何だ」としつこく聞く某氏に似てしまっている。

→これは無いわ、と思った。失礼、と言うか、喩えとして不適当と思う。

 だからといって、mizusumashiさんはその類の人だったのでしょうか?
 やくたいも無い事をいってイチャモンをふっかけるような人?

→私は、mizusumashiさんを、「その類の人」と看做したのですか?

私にすら普通に読める文章だったし、筋も通っていたと思う。

→おそらく筋が通っていないと読めたから、指摘した。

 「ハイハイ、また例の如くの疑似科学批判批判ね。」
 なんて軽く捉えてはいなかっただろうか。
 題材となった人の意見を理解する事よりも
 仲間と共感し、共感される事に意識の大部分が行っていなかっただろうか。

 もしそうであれば、それは別な意味で「排他的なセクショナリズム」を感じさせる。
 また、ステレオタイプ的な相手の見方をする一方で、自分達に関しては「ニセ科学批判だからといって一派とみなすな」と要求するのは勝手としか言えない。
 何より、ニセ科学批判者がそんな判断をしているかのように受け取られるという事は、ニセ科学批判者の「ニセ科学」の認定の妥当性自体、色眼鏡で見られる事になってしまうだろう。

→三言

  1. Jさんがそう思うのは自由
  2. そもそも私はそう考えていない
  3. 考えていないのを前提とされて論を展開されるのは不本意

---

なんか「読み取れました。」とか”勝手な問いかけ”とか”仮定”ばかりですまぬ。

→はい、仮定はほどほどに。当たっていない仮定なので、本当に、不本意としか言いようが無いです。その上で、そうで無かったら無視してね、というのは、何と言うか、勘弁して欲しい。自分への言及なので、私は本気で読んでいるのだから。

 そんな方々の発言に、「ニセ科学側」チックな物言いが混じってきたような気がして、なんだがいたたまれなくなったんです。

→”「ニセ科学側」チック”、というのは、説明を読んでもよく解らない。

「ニセ科学批判」とは何か?

→ニセ科学を批判する事。

何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?

→科学を装っているのに科学で無いものが存在するのを周知させる目的。科学という概念を知っている人、それに信頼を(意識的・無意識的に拘らず)置く人に対して知らしめる。

罵倒されても蔑まれてもいいから、

何 で そ ん な 書 き 方 す る の ?

| | コメント (10) | トラックバック (3)

2009年4月15日 (水)

総括

疑似科学批判・批判について - mzsmsの雑記にコメントしようと思ったのですが、長くなってしまったので、エントリーにしてTBを送ります。※一部、コメントの体裁そのままで。

------------

今晩は。

まとめ、お疲れ様です。

一点気になる所がありましたので、そこを。
▼引   用▼
ほぼ繰り返しになりますが、「ニセ科学批判」を行う方々が科学と道徳・宗教の関係について真摯に考えればそれしかありえない、少なくとも干渉を積極的に行うべきだとか、罵倒するとかはありえないというお考えならば、前述のようにそうではないというのが私の意見です。
▲引用終わり▲
ここは、依然として誤解があるように思います。

少なくとも私は、「ニセ科学批判をする人が、科学の立場から宗教等を罵倒する事はあり得ない」、と「言ってはいない」、のですね。

じゃあ何を考えるか、というと、「宗教や道徳に対して、それを”ニセ科学”として批判する事は無い」、という事です。なぜならば、宗教などは「ニセ科学」では無いから。で、どうしてそう考えたか、と言えば、mzsmsさんが最初のエントリーで、
▼引   用▼
臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。
▲引用終わり▲
と言われたからなのですね。これは、「宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」となっていますから、宗教や道徳を「疑似科学」と看做してそれを批判する、と読めます(たとえば、「擬似科学批判者による宗教批判」、とは明らかに意味が異なる)。しかるに、一連のやり取りで恐らくご理解頂けたと思いますが、「ニセ科学批判として」は、それは不可能です。
で、ここでの「擬似科学」が、今私達が使っている「ニセ科学」で無いとすれば、そういう立場(科学の立場から、宗教等を擬似科学として否定するという事)もあるかも知れない、と言えると思います。なぜなら、そもそも「擬似科学」に込められている意味が異なっているから。(それでも、「科学のみが真理」などと言う人はいないと思うし、そんな事を言う人は、やはり馬鹿だと考えます。)

※「科学のみが真理」と考えるのと、「宗教や道徳を罵倒するような擬似科学批判」は、一応独立

しかるに、mzsmsさんは最初の段落で、「ウェブで見かける疑似科学批判に」と書かれた。ウェブで見かける、という事は、最近よく目にする、等の意味が含まれている、と私は読みました。とすると、最近行われている「ニセ科学」批判を、mzsmsさんが「あらかじめ認識している”擬似科学”批判」に変換してしまった可能性がある、と考えたのです。それで、その場合にどうなるか、というと、たとえば菊池教授や田崎教授、天羽准教授などが行っている批判活動を精読せずとも、「ニセ科学」という語を用いて何かを批判しているのを「見る(知る)だけ」で、「mzsmsさんが認識する”擬似科学批判”を行っている」と「誤認」する可能性があります。※あるシニフィアンを見ただけで、きちんと精読せずに、自分が持ってるシニフィエを一般化する(してしまう)、という事です

ですから私は、「不明確」と評し、ウェブで見かけるものとは何か、等の質問をしたのですね。確認という訳です。そして、その後に「混同」という風に書きました。実は、不明確で、

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

とちゃんと書いているんですよね。

※これは重要な所なのですが、私達は、「”ニセ科学”はこのように使うべきだ」、とは言わないのです。そうで無くて、今私達が使っている「ニセ科学」はこういう意味だから、それを踏まえているのだろうか、と考える訳です。だから、「確認」をしに行く。科学哲学上の「擬似科学」という言葉と同じような意味で「ニセ科学」が用いられる事もあるし、逆に、今私達が使う「ニセ科学」の意味で「擬似科学」が使われる場合もある。だから、その意味を共有しないと、議論が出来なくなったりする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

混同

疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後) - mzsmsの雑記

ただ、ある科学者が科学者としての領分の問題ではなく、その人の個人の意見としてこのような立場に立ち、また疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということがありえないということは納得できません。実際、エルンスト・マッハは「科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのである」といった立場に近いところにいたはずだと思いますし、リチャード・ドーキンスは宗教を罵倒しています。

もう何度書いたか知れませんが。

「ウェブで見かける疑似科学批判」を念頭に置いておられるのでしょう? そして、菊池教授のテキストを例示された。だから、私達は、その概念(ニセ科学)に基づいて話をしている訳です。

ニセ科学批判は、科学を装うものを批判するのだから、それを前提として宗教等を批判するのは、無理ですよね。そんなに複雑な話ですか?

マッハにしろドーキンスにしろ(マッハの主張はよく知らない。ドーキンスは読んだけれど、その表現が当たっているかは判らない。以下は、一応そういうものと前提して書きます)、真理追究に科学が最も優れた方法である、というような主張で、その観点から他の文化を批判しているのだと思いますが、それは、「科学を装っている」から、では無いですよね。

別に、科学のみが真理である、と考えて他の文化を非難する人間がいる事そのものは、否定していないのです。恐らくいないだろうな、というのは、「疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということ」です。ここで「擬似科学批判」とは、「ウェブで見かける」もの、菊池教授の主張のようなもの、では無いのですか? そうであるなら、その批判の根拠(科学を装っているから批判する)に基づいて宗教等を批判する事は、出来ません。出来ないから、恐らくやる人はいないだろう、と推測出来る訳です。逆に言えば、そんな事を言う人は、「ニセ科学」概念を知らない。

たんに、宗教や道徳に「本当の答え」などないという立場が哲学的立場としてありえ、その立場からは宗教や道徳を罵倒する行動もありえるだろう、と言っているにすぎません。

これは個人的な姿勢の表明ですが。

あり得るか否か、といえば、ある事でしょう。いないとは言えない、程度でしょうか。

私自身の考えでは、文化に相対性があるのをもってそれらを罵倒するのは、よく解らない事ではあります。

後、「すぎません」てのは変ですね。ならそれだけ書けばよろしい。一々「擬似科学批判」に絡める必要はありません。何ゆえ絡めて論じたのですか? その一文のみであれば、そりゃ同意します。でも、初めから、そんな事は言っておられませんよね。

------------

つぶやき。

宗教や道徳を実証的に分析する「科学」もあると思うんですけどね。社会学とか、文化心理学とか、社会心理学もそうじゃないのかな。研究者や学派の立場にもよるかも知れないけれども。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

没った

※このエントリー、剣術について書いています。真剣をもって斬る、というのを主題にしているので、そういう話を好まない方は、読まない方がよろしいと思います。

とある武術ネタを書こうと思ったのだけれど、自分に知識が無さ過ぎて断念。

ちなみにそのネタは。

「時代劇で見るような袈裟斬りが実際に可能であるか」

というテーマ。

時代劇でよく、肩口から逆側の腰辺りにかけてバッサリ斬って捨てる、という描写がありますよね。それです。

え、何が問題なの、と思われたかも知れませんね。どこに疑問があるの、と。

えっと、その場面を想像しながら、ちょっとよく考えてみて下さい。

ほぼ正面から向き合って、相手の身体を、肩から逆の腰にかけて、斜めに斬っていく訳ですね。

もっと具体的に考えます。

ほぼ正対して、間合いは大体中間ですね。あまり近付き過ぎずに斬りつける、というシチュエーション。

そうすると、剣先の方で斬っていく、となります。

で、剣先の軌道を考えると、それは曲線を描きますね。という事は、この現象を別の言葉で表現すると、細長い刃物の先の部分で、相手の身体を広く(長く)斬る、と言えます。

つまり、かなり長い刃物の先で、筋肉や骨の塊である人体を斬る。って事は、直感的にも、ものすごい負担がかかる、のが解りますよね。

多分、剣先は円弧に近い軌道を描くと思うのですが、そうだとすると、剣を振って斬っていくとなると、「段々身体に深く入り込みつつ刃が進行していく」、と言えます。

としますと、恐らく、「剣は途中で止まる」のが、実際に起こる事だ、と推測出来ます。途中、鎖骨・肋骨・胸骨 等の骨格に当たる訳で、それを切断しつつ腰まで到達させて剣を振り下ろす、というのは、力学的に非常に困難なのではないか、そう考えたのです。力学的に、というのは当然、日本刀にかかる負担と、剣を運用する筋肉への負担の両方がありますね。仮に、日本刀が構造上そういう使い方に耐えられるとしても、肉体が刀を充分運動せしめるほどの働きをする事が可能であるか、と。

で、これを前提として、時代劇で見るような描写をどう解釈出来るか。

一つは、「斬りが浅い」と考える。

つまり、剣先を、「身体を掠めるように」斬っていく、という事ですね。

ただ、それはシチュエーションとしては、結構考えにくい。だって、殺す気満々なのですからね。わざわざ皮だけ斬るような事を、するはずが無い。それと、上にも書いたように、剣先は曲線を描くのですから、深く入り込まず、かつ傷を長くつけるような斬り方をするには、わざわざ「剣先を前後にコントロールしながら斬る」必要がある。ちょっとでも深く入ると、止まっちゃうのですしね。

もう一つは、「思い切り振り下ろしているが、実は肩口の辺りを切っているだけ」。

つまり、肩口を斬って、引きながら振り下ろす訳ですね。そうすれば、さほど負担もかからないでしょう。

その場合には、そんな中途半端な技をする必要があるのか、という話になります。他に動き方があるだろうし、逆に隙が生れる可能性もある。

それと、相手の傷口を見るのも大切ですね。肩から腰にかけて傷がついて、ビシャアアアッと血が迸り出る、なんて描写があったら、上のような斬り方では無い訳ですな。ちゃんと斬りつけている。だけどそうすると、一つ目のように、多分すごく難しい運動。

三つ目。「一つ目の運動が容易に出来るようなウルトラパウワーの持ち主だった」。

要するに、時代劇で描かれる武士の類は、斧か鉈のように刀を使い、バッサリ斬り下ろす事が出来る、と考える。

ここはどうなんでしょうねえ。刀をもって合理的に致命傷を与え、なるべく身体にも刀にも負担を与えないようにする、という目的を考えるならば、そんな乱暴な使い方はしないだろうと思うのですね。シグルイでもあるまいし。

で、最後に、私の考え。

「そもそもそんな斬り方はしなかった」

これです。

戦闘というシチュエーションで、反りを持ち鍔元まで刃を入れてある日本刀を運用していく場合に、剣の先10cm程度を使って中間から袈裟に斬る、というのは大変不合理に思います。※ここ、高岡英夫氏の論考を参照にした

だから、もし袈裟斬りのような技法を使うとしたら、時代劇で見られるような感じでは無く、恐らく、ごく密着して、「刃全体を当てるようにして、鍔元から引きずって斬っていく」のではないかと考えます。料理をする人に解りやすい喩えを用いると、「刺身を切るように」使う訳ですね。「撫で斬り」って言葉もありますですね。

だから、傍目だと、ほとんど「体当たり」のように見えるのではないかな、と。そこら辺を考えると、宮本武蔵の書(五輪書の水之巻)とも繋がってくるように思います。もちろん、通常は、正面から斬りつけるのは大変危険なので、そこは、受けの工夫が要るのでしょう。使えない時には使わなければ良いのですし。

とまあ、こんな感じです。この辺を、科学的に考えてみたいと思ったのですが、力学も工学も、バイオメカニクスも、全く知識が足りていないので、断念したのでした。

まあ、東郷重位のエピソードなんかもありますけどね。でも、それを平均的な操法とは見られないかな、という気も。そこら辺、流派性も関わってくるので、そんなに単純では無いでしょうけど。

もちろん、碁盤まで両断して床まで達した、というのを鵜呑みにしちゃならん訳ですが。比較的近い時代の示現流の剣士のエピソードも、どこかにあったような。それも、肩から胸の辺りまで切った、という感じだったかと。トンボの構えから脱力を効かせて激烈な斬り込みを行えば、相当の斬撃にはなろうかと思います。ただそれでも、時代劇で出るような、綺麗にバッサリ剣を振り抜ける、とはならないかな。

※一応

だからフィクションは云々、という事じゃ無いです。実際の使い方からするとどう考えられるかな、というものなので。ただ、「現実にあり得そうな」ものを描写したいという目的があるならば、ここら辺の考察・考証は重要でしょうね。特に実写では難しいと思いますけれども。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月 9日 (木)

不明確

疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記

解りにくい所があるので、いくつか質問します。

  • 「ウェブで見かける疑似科学批判」とは具体的にどのようなものを指すのか。
  • 「レッテルの帰属」とはどういう意味か。(特に「帰属」)
  • 「彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。」
    • 「志の高さ」とは何か。
    • 「いま」とはどのような範囲を指すか。
    • 「一般的な擬似科学批判」とはどのようなものか。

なるほど、江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張するとしたら、矜持を感じる。それを非難するつもりはない。しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか。

・「それでよいのか」とあるが、「それ」はそもそも当たっているのか。

臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。

見つけたら教えて下さい。私も見てみたいので。ただ、「科学のみが真理」などと馬鹿な物言いをする人間を見つけるのは、なかなか難儀とは思いますけれども。そもそも、常にアップデートされている、つまり変化していく(全くの別物に変容する訳では無い)知識の体系、およびそれにまつわる知的営為である科学について「真理」などと言える訳が無いので。科学のみが真理、と認識するのは、科学は完成された、と考えるに等しい。

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

ニセ科学批判は、

江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張

などというものではありません。寿司のアナロジーに乗っかると、江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する、ようなものです。※アナロジーなので、不正確な部分はあるかもですが

| | コメント (65) | トラックバック (3)

2009年4月 6日 (月)

科学とフィクション

私は、フィクションにおける表現は、自由であるべきだと思っています。

だけれど、触れる人が、何がフィクションであるかを知っている、つまり判断出来る事が重要だとも考えています。

で、その知識は教育によって得られます。広く見れば、社会全体によってなされると考える事が出来るでしょうけれど、最も重要なのは、学校教育だと思います。

フィクションって、そこで描かれているあらゆるものがニセモノな訳じゃ無いですからね(当たり前だ)。いかにも尤もらしいものに関しては、部分的に正しいものとして捉えられたりする。それが正しいものとして流布されれば、ある程度大きな影響となりますよね。

フィクションだから大目に見ようよ、というのはご尤もです。しかし、フィクションといえど、誤解されそうなものがあれば、それを指摘するのも重要。それをもって作品全体を否定するのは考えものかも知れませんが、この部分は正確では無い、と見ていくのは大切ですよね。そういった指摘に対してただちに、野暮であるとか無粋であるとか、そういう風に言ってはよろしく無いと思うのであります。

私の立場は、フィクションで描かれているものはほぼ全て正確では無いと看做す、というものです。極端に言うと、我々が住む世界とは全く異なった世界の出来事として考える、というのかな。

気になる所があったら、ネットで調べるなり、詳しい人に聞くなりします。図書館で専門書を探したりね。必ずしも、その場で見抜くのでは無く、基本的に保留する、と言いますか。基本的な部分(小・中・高 で習うような事)は見抜ける能力を養って、知らない分野については保留する、という態度が重要だろうな、と。

自分は、すさまじくフィクションに親しんだ上で、科学にも興味を持ったので、多分メタに考える事が出来ている、と思っています。でもそれは、せいぜいここ5・6年の話ですね。それまでもかなり客観的ではあったと思うのですが、まだ足りなかった。

もちろん、色んな作品に触れるのもすごく大切、だと思います。様々なバリエーションがありますからね。それを分類して、これとこれはこう分けられる、これはあの作品に似てる、なんてメタな楽しみを自然に(いつの間にか、の意)身に着けていました。特に、マンガやゲームだと、同時並行的に楽しむ、というのが普通ですからね。スイッチを切り替えるように、別の世界観に頭を合わせる事が出来る訳です。

結局の所、色々な作品に触れつつ、どこが現実と異なっているかを見抜ける知識を得、よく知らない部分に関しては保留出来る姿勢を作り上げる、のが肝要なのかな、と思います。

中でも最も重要で基本的なのは、物理と化学の知識でしょうね。自然の振る舞いを客観的に記述する自然科学の基盤、なので。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2009年4月 3日 (金)

脳科学

「脳科学」って語、誰がいつ頃使い出して広まったのでしょうね。

私は、脳科学という語より「神経科学」という語を先に知ったし(いや、正確には憶えていないのだけれど)、学術的にもそちらを使った方が良いのかな、と思うので(学際的な分野である事も含ませたいですし)、なるべくそちらを使うようにしているのですが(「脳科学」を使わない訳じゃ無いけど)、どうなのでしょう、専門家の間で「脳科学」という表現は、どういう風に捉えられているのだろうか。

大「脳」洋航海記 » Blog Archive » 「KY脳科学者が主人公のドラマ」?でvikingさんが、

そもそも、「脳科学者」(こう自称するのは茂木某だけなんですが・・・僕は「認知神経科学者」としか名乗るつもりはないので)

と書いておられるので、改めて考えたのでした。

これだけ脳科学という語が流布されたので、神経科学を専門とする学者が、他人に訊かれて「脳科学」をやっている、と説明するケースもあるのかも知れませんね。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2009年4月 2日 (木)

恥の記録

先日のエントリーに関わる事。

大分前のお話。

それは、ホームシアターが出始めの頃。当時、6個のスピーカーから音が出るというのは、それはもう衝撃的で、初めて体験した時は、鳥肌が立ったものだ。

で、ある時友人宅で、映画を観てた。ホームシアターセットで。それで、ウーン、やはり5.1chはイイねー。ウーファーからの低音がクルねー。なんて言ってご満悦だった。

ふと、AVアンプを見てみた。

あれ……

ド ル ビ ー プ ロ ロ ジ ッ ク じ ゃ ん!

まっこと、先入観とは恐ろしきものよ。

体験すれば判るけど、ドルビーデジタル(の5.1ch)とプロロジックは、全然違う。でも、5.1chだと思ってたのが邪魔した訳だ。

人間の知覚と言うか認知なんて、そんなもの。

大体私、SACDと通常のCDの区別もつかなかったからね(最初聞いた時は、すげー、と思って友人にも言ったけど、よく考えればそれは、5.1chのを聞いたからだったのだ。2chのDSDのやつと較べたら、全然判らなかった)。←自慢げに言う事じゃ無い

| | コメント (7) | トラックバック (0)

かがくきょー

「科学教」って、張りぼてみたいな言葉だよね。

| | コメント (48) | トラックバック (0)

2009年4月 1日 (水)

脳 ト レ ド ラ マ

キムタク「土8」1話完結型“脳トレドラマ”(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース

脳トレがドラマの中で出てくるのかいな、と思ったら、ドラマで脳科学の知識が得られたりするのが「脳トレ」になる、的な意味か。解りにくい。

さて、

キムタク 1年ぶり連ドラはKY脳科学者/芸能・社会/デイリースポーツonline

「設定上でのウソはあっても、医学的なウソはつけない」と専門家からアドバイスを受け、

宣言しちゃいましたね。これ、専門的な部分はしっかりと考証して、描かれるものが科学的に合っているかを厳しく見られても構わない、という宣言ですからね。

やっぱ、モデルとしては、あの人やあの人が想定されてるんですかね。よく解りませんが。

脳画像診断で「活性化」してる部分を見て、そこから容疑者の心理状態を推測して、へへー、参りました、と言わせる安易な設定にはしてくれるなよ……と思いつつも、それ以外の設定が思いつかないのでした。大体、脳科学者が事件の解明に取り組む、って何だよ。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2009年3月31日 (火)

問題(と言うか質問)

「缶ビールをそのまま飲むよりも、グラスに注いだ方が美味い」

という意見があった場合、それは科学的に実証出来るか。実証出来るとすれば、具体的にどのような方法によって(現象の定義、作業仮説の構成、実験計画のデザイン、等)確かめる事が可能か。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

良さそうな本

FSMさんのブログ(帰無仮説と「強い相関はない」の関係|ほたるいかの書きつけ←良エントリー。読みましょう)で紹介されていた本↓

確率・統計入門 Book 確率・統計入門

著者:小針 あき宏
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

私は未読なのですが、FSMさんの紹介を見ると、とても面白くて勉強になりそうな本、のようです。

------------

いきなり話は替わりますけど。

科学における統計の扱いに関して重要なのが、統計学的に得られた結果が、それぞれの分野において実際的にどういった意味を持つのかを、きちんと考えなくてはならない、という所ですね。よく、「実質科学的」に と言われたりします。工学や実験計画、あるいは品質管理方面では、「固有技術的」なんて言ったりしますよね。

統計解析というのは、ある現象を数量化して、それを統計学的に処理する事なので、それ自体が直接、実質科学的な論を証明したりする訳では無いんですよね。

そういうのを考えないと、「統計的に有意」だったから何々の仮説が証明された、的な短絡をしてしまう。

たとえば、サイコロの目を何十回か連続で当てて、それが有意水準○○%で有意だった、という結果があったとして、それをどう解釈するかは、色々考えられる訳ですね。サイコロの構成が偏っていたのか、意図的な仕掛けがあったのか、それとも予知能力があるのか。あるいは念動力があったのか。統計的な方法「だけ」では何も言えない。そこは心得ておきたい所です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月30日 (月)

「科学的に間違っている」

あぶすとらくつ: きびしくフルイにかけるからこそ良いモノが得られるという当たり前のこと

こちらのエントリーに触発されて。内容がかなりかぶりますが、少し角度を変えて見てみる、というのも意義のある事と思いますので。

まず、「科学的」とはどういう事か。これは、それだけで色々の議論が起こるようなテーマですが……おそらくある程度適切なものとして、統計学入門-第1章にある記述を借りたいと思います。すなわち、

 そもそも科学的研究というものは、一見したところ多種多様な現象から、その奥底に潜む普遍的な原理を帰納的に推理・洞察し、色々な現象を統一的に説明すると同時に、その原理から演繹的に導かれる現象を予測し、実験や観測によってそれを確認・修正しながら理論を確立していく作業です。

このようなものです。ポイントは、

  • 実験・観察・観測 から、帰納的に仮説や理論を構築する。
  • ある仮説や理論が適切であるかを、実験・観察・観測 によって得られたデータによって確認する。
  • (上とほとんど重なるが)ある仮説や理論から導かれた現象が実際に起こるか、を確かめる。つまり予測。
  • これらはサイクルを描き、あるいは行きつ戻りつ、をしながら、より確からしい理論を確立する。

などでしょうか。要するに、経験的に得られる(直接・間接的に観測可能な)データによって理論を構築・検証し、それを現象の予測や制御に役立てて、より良い理論を築き上げていくという営み。

これを踏まえるならば、ある主張なりが科学的に正しい/正しく無い とはつまり、

  • 実験や観察によって、成り立つ事が確認された→正しい
  • 実験や観察によって、成り立たない事が確認された→正しく無い(間違っている)

となるでしょう。この意味で、「科学的に間違っている」というのは、「言える」訳ですね。ただしそれは、「科学的に」言える。そして、「科学的」とはどういう事か、と言うと、観測されたデータによって理論の確からしさを確認する営み、である。

科学的に正しい、とは、常に蓋然的なものであり、近似的なものである訳ですね。人間の観測によって得られたデータによって自然の(取り敢えず自然科学に限定。生命科学や社会科学に広げても同様)在り方を推測して理論を作る(ここに引っかかるなら、「発見」でも良いと思います)のだから、全く自然の在り方と一致する、というのは考えにくい。もちろん、あり得ないとは言えないけれど、想像しにくい(そもそも、理論と自然の在り方が全く過不足無く一致する、とはどういう事か、等の哲学的問いが絡んでくる)。

と、こういう風に考えれば、「科学的に正しく無い(間違っている)」という言明も可能な訳ですね。何故ならば、もとより「科学的」という文脈に乗っかっているのだから。だから、「間違いの証明」は「可能」。ただし「科学的」には。方法的には統計学が絡んでくる。

それで、科学の方法についての説明において、「科学的に(あると)確かめられていない」ものを、取り敢えず「無いものと看做す」、という場合があります。「間違っていると看做す」、もあります。

これは、注意を要する表現なのですね。どういう事かと言うと、「無い」も「間違っている」も、「取り方(解釈の仕方)」によっては誤解を生む可能性がある。要するに、確かめられていないものを「無い」と言ってしまうのは、厳密には誤っている訳です。だけれども、そういう言い方をする。何故か。それが、「科学の文脈」に基づいた、つまり前提とした言明だから(つまり、「無いと看做す」と言っても、「無い事が証明された」と同義では無い事に、コンセンサスがある)。しかし、その文脈を共有しない人にとっては、そんな意味が込められている事を知る由も無いので、誤解する。

ですから、私自身は、確かめられていないものは無い(間違っている)と看做す、という言い方は、あまりしないよう心がけています。言う時は、このエントリーのように、そもそもどういう含意があるのか、を書きつつ説明する。そういう言い方がなされる場合もあるが、それは実は……という風に。

ハブハンさんも仰るように、ニセ科学は、あると確かめられていないものをあると言ってしまえばそう判断出来るものなので、「間違いと解った訳じゃ無いだろう」、というのは、ニセ科学と指摘する批判に対しての反論としては、全くはずれているのですね。有効な反論は唯一、「あるという証拠を示す」事。「間違いと解った訳じゃ無いだろう」という反論に対しては、「はい、その通り。で、あるという証拠は?」となるのですね。不存在が証明されていないからといって、存在が証明される訳では無い。

「ニセ科学」という概念を、「あり得ない事」のように誤解しているようなものも散見されますね。おそらく、「ニセ」の語感から、そのように想像するのでしょう。でも、単に「あり得ない」と言いたいのなら、敢えて「科学」を語に含む必要は無い訳です。「間違い」、「誤り」、「嘘」、「あり得ない」、等で良い。語の構成が「ニセ + 科学」で成っているのは、科学的に(ある/無い と)確かめられていないのに、(ある/無い と)確かめられたかのごとく装うものを指したいから。

そういった誤解は、

  • 科学の方法を知らない。
  • 「間違い」や「正しく無い」が文脈依存的(科学の作法的に)に用いられているにも拘らず、それを認識出来ていない。

などに基づいているのでしょう。後者に関して、説明する側も気をつける必要があると思います。

ちなみに、以前、こういうのも書いてみました(異様に煩雑ですが。一応参考として)⇒Interdisciplinary: メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年3月25日 (水)

こころがまえ

 科学は,まだ本格的に生れてから数百年にしかならない学問です。科学によって説明できないことはみんな迷信だ,とわりきることこそ,本当は科学に対する迷信なのです。

 科学はまだこれからどんどん発展する学問です。そうでなかったらあなた方はがっかりするでしょう。昔の学者がみつけたことを教科書にして,それを覚えるだけが科学の勉強なら,これほどつまらない勉強はありません。科学は生きている学問です。あなた方の目の前におこるすべての現象に,はてな? と疑問と探求の心をむけてごらんなさい。そこに本当におもしろい学問としての科学があるのです。
米山正信 『化学のドレミファ 1 反応式がわかるまで』(P203)

昨日ご紹介した本からの引用です。本当は、きちんとストーリーの流れを追った上で読んだ方が良いのですが、名言なので、敢えて無粋な真似をしました。是非とも、直接本書に目を通してみて下さい。

先日ご紹介した、中谷宇吉郎博士の文とも通ずる所がありますね。いずれも、よく噛み締めたい名文です。

科学は何もかも解っている訳では無いし、何もかもが解る訳では無い。だから、その限界や方法をちゃんと弁えて使っていく必要があります。解っていない事を解っている、と言ってはいけないし、まだ確かめられていないものをあり得ない、と決め付けてしまってもいけない。もちろん、もう解っている事を、まだ解っていない、と言ってしまってもいけないのです。

ところで、中谷博士の師である寺田寅彦翁は、次のような事を言われたそうです。中谷博士の姿勢とともに書いてあります。

 中谷は、科学への姿勢として寺田から深い影響を受けた言葉を紹介している。
それは、
「ねえ君、不思議だと思いませんか」
という、ひと言である。自然を相手にしたとき、常に自分自身で驚きを感じなければならないという教えを、中谷はこの実にシンプルな言葉から学んだ。そして、もうひとつ、
「一番大切なことは、役に立つことだよ」
という言葉を、中谷は終生大切にしている。「役に立つ」というその科学観こそ、その後の中谷の研究を大きく方向づけるものに他ならなかった。
中谷宇吉郎への旅-雪のパラダイス:北海道人

自然を見て不思議だと思うこころ、そして、その仕組みを知りたいというこころ。科学の根本には、そのような姿勢があると思います。その事を大切にしたいものですね。

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで Book 化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

著者:米山 正信
販売元:黎明書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) Book 科学の方法 (岩波新書 青版 (313))

著者:中谷 宇吉郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月24日 (火)

ドレミファ

化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで Book 化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで

著者:米山 正信
販売元:黎明書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ああ……こんなすごい本があるとは思わなかった。

私は、「解りやすいテキスト」を希求しているけれど、この本は、その一つの理想形かも知れない。それほどに素晴らしい本。

なんでも、30年くらい前に出たロングセラーの本、だとか。

学生の頃にこの本に出会っていればな、と思った。知らなかった事が悔やまれる。

大人になってから勉強し直したい、という方、お子さんに、考えさせながら楽しく勉強出来る良い本を読んでもらいたい、と思っている方、また、お子さんと一緒に勉強してみたい、という方、等、色々な方にお勧めしたい本です。本当に、本当に良い本。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月23日 (月)

万能などでは無い

科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) Book 科学の方法 (岩波新書 青版 (313))

著者:中谷 宇吉郎
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

再読中。何度目だろう。

やはり、最高の本。不朽の名著です。

で、Interdisciplinary: 科学の限界で引用した部分を、再び採り上げましょう。ここは、何度出しても、過ぎるという事が無い。※最初の段落はP14、次の段落はP16・17より引用

 問題の種類によっては、もっと簡単な自然現象でも、科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく、科学が取り上げるには、場ちがいの問題なのである。自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。

 世の中にはよく、科学者というものは、船が沈んだり、洪水が起きてしまったり、何か事故があったあとに出てきて、あれは原因はこうだった、ああだったということを、後からいう人間であって、ほんとうにその現場にいたら、やはり同じことだろうという人がある。気象警報を無視したり、分りきった治水策を実施しなかったりするようなことは、科学以前の問題であって、ここでは触れないことにする。本質的な問題としては、そういう非難は、ある程度まであたっている。しかしそうかといって、ちっとも科学を卑下する必要はない。科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。

科学者は科学万能主義に陥っている、と言う人は、この部分を何遍も読みましょう。周りにそういう人がいたら、本書を貸してあげましょう。ブックオフで100円で買えます(これは喜ばしい事なのか、複雑だけど……買う側としてはありがたいですけれど)。

中谷博士は、50年も前にこういう事を書かれていたのですよね。しかも、「科学万能的なものの考え方」(P1)の風潮を懸念して。

実際、中谷博士のこの本は素晴らしいので、読むべきですね。科学万能主義云々と言う人には、取り敢えずこれを読んでから ものを言ってみませんか、と申し上げたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年3月19日 (木)

ヒューマノイド

最近話題になっている、産総研のヒューマノイドですが⇒産総研、女性型ヒューマノイドロボット「HRP-4C」を発表~ファッションショーにも登場予定

やはり注目すべきは、その重量でしょうか。あまり詳しくは無いですが、43kgというのは、かなり軽いのでは?

ハンド部には、大きさを人間サイズとするために、人差し指から小指までが1個のモータで4本同時に屈曲する構造を採用した。

ああ、やっぱり手も可動するみたいですね>A-WINGさん

人間が主観的に力を抜いた状態だと指は屈曲しているので、そのようにした方が、よりリアルに見えて、プレゼンテーション的に良かったのではないかな、と思いますが、どうなんでしょうね。

 「人間に近い形状を追求しつつ、気持ち悪くないデザインを追及した」という外観デザインにおいては、2種類のデザインを検討した。極力人間に近づけるものと、ロボットの胴体に首を載せるドール系のデザインである。前者ではリアルさを追求しても不気味な印象を与えてしまい、後者ではどうしてもおもちゃ的な印象を与えてしまう。そこで産総研ではリアル系とドール系の折衷案を採用した。メタリックなスーツはテクノロジーを強調し、違和感の解消を実現できたとしている。

ネット上の反応では、いわゆる「不気味の谷」という言葉が散見されますね。これまでのものからすると、大分「不気味さ」は軽減されているように、個人的には感じます。といっても、あくまで相対的な評価であって、画像や映像を見ると、やはり「気持ちの悪さ」というのは覚えますね。

どのような先行研究があるのかは知らないですが、どういう因子が「不気味さ」に関わっているのかを調べるのは面白そうです。

人間の動きに関する論理をおおまかに分類する事が出来るでしょうか。高岡英夫氏の身体意識論における概念、「ストラクチャ」、「モビリティ」、「クオリティ」が援用出来そうです。解りやすい言葉にすると、「形状」、「動き」、「質感」とでもなるかな。

以下、私の主観による評価。※不気味さを感じさせるのは何か、という考察なので、こういうロボットが開発された事についての批判的な評価では全くありません。て言うか、よくこれだけのものを作ったな、と驚嘆しているのであります

頭部の造形自体は、相当精巧に出来ていると思います。アングル・タイミングによっては、かなり「人間らしく」見える。たとえばこれ↓

Face_2
これは、いかにも人間ぽく見える部分を見計らって動画からキャプチャしたものですが、どうでしょう、かなり違和感が無い、と私は思います。考察すると、画像が不鮮明である事が、却って人間の肌の質感に近い感じを与えているのではないかな、と。リンク先に、とても鮮明な拡大画像がありますが、それは、鮮明であるがゆえに、実際の人間の肌との違いが際立つ、という事なのでしょう。ここら辺の、肌の質感の再現という所は、3DCG方面でも研究されているものだろうと思います。シリコンが素材との事ですが、コスト的にも、現状はそれが最良のものなのかも知れませんね。下手にリアルに再現しようとするのもよろしく無いのかも。

で、動きを実際に見てみると、やはり違和感がものすごい。もちろん、人間と較べて、という事で、このロボットがよく出来ている、というのは間違い無いと思いますが、それは措いといて。何ゆえ違和感があるか、というのをちょっと考えてみます。

まず、顔面が一部しか動いていない、という所。実際の人間の顔の解剖学的構造は、頭蓋骨の上に表情筋がへばりついているようになっていて、それが収縮して表情を作る、とういものですから、顔の一部が動けば、他の部分も微妙に動いていく訳ですね。で、このロボットは、8つのモーターで表情を作り出しているとの事。私が思うに、そのメカニズムの相違が、観察者に直感的に違和感を形成せしめているのだろうな、と。現状では、制御の面でも駆動のメカニズムの面でも、これくらいが限界なのでしょうね。素人考えでも、たとえ人工筋肉のような良い素材があったとしても、実際に表情を作っていく制御は難しそうです。

次に気がついたのは、「動作の重さ」ですね。モーター駆動であるがゆえに動作が等速度的である、という所が、そういう印象を与えているのでしょうか。これは全身の運動でも言えますが。試しに、表情のアップの動画を4倍速で再生したら、幾分リアルに見えたように思います(気のせいである可能性大)。等速度的で全身各部が同時に動かないのが、「機械的」な印象を与えるのやも知れません。これまた、人間的な動きを実現させようとすると制御が大変だ、という事なのでしょうけれども。

歩行運動については、膝の屈曲角度が大きく歩幅が非常に小さい、というのがポイントなのでしょうね。方向転換の部分は、よく出来ているなあ、と思いました。さすがに、人間がやるような一瞬の転換は難しそうですが。それと、腕のスイングが乏しい。腕をやたらに動かしたら、バランスを取らすのが困難なのでしょう

それと、これは3DCGのモデルでもよく見られるのですが、腕が若干後方に伸展されたまま静止している、というのがありますね。これ、何か理由があっての事なのでしょうか? 実際に何気無く立ってみれば解りますが、主観的に力を抜いて立ったら、腕は「垂れ下がる」のですね。リンク先の画像を見ると、(横から見て)肘が正中線よりかなり後方に位置していますが、これは、「努力」しないとならないと思います。普通は、歩きの途中の局面で、腕が振られた結果として現れる訳ですね。敢えて後方で静止させる必要は、構造的にも無いように感じますが、どうでしょうか。※ここら辺を踏まえて見ると、産総研:プレス・リリース 人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功←ここにある画像と動画(「動画:12秒」の動画)の方が、より「それらしく」感じるのではないでしょうか。ここの方向転換の動画は、腕がぷらんと振られていて、実にそれっぽい。1.3~1.5倍程度で再生してみると面白いです。

後は肩甲部の構造ですね。実際には、腕は肩甲骨に繋がっていて、肩甲骨は鎖骨で胸骨に繋がり、かなり自由に動けるので、腕振りの時には、ここら辺が丸ごと運動していく。尤もこれは、実現させようとするとあまりに複雑なので、オミットしている、という事なのでしょう。

「腕が長い」という意見が見られましたが、リンク先にもあるように、腕も長いし、手も大きいみたいですね。ぴんと指が伸びているので、尚更そういう印象があるのでしょうか。さらに、指に比して掌部分が長い、というのもあると思います。これまた3DCGでたまに見られて、違和感を覚える所ですよね。

どうでもいいですが、「顔のアップ。電源オフの状態のため口は少し開きぎみ 」の画像が、菅野美穂さんにしか見えないのでありました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年3月18日 (水)

1割?

<早大>学生の1割「周囲に大麻所持者」半数以上が入手可能(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

タイトルに、「学生の1割」とありますね。でも、記事を見てみると、

 調査は昨年12月~今年1月、全学部生と大学院生(計約5万3000人)を対象に実施。約4700人(8.8%)から回答を得た。周囲に違法薬物の所持・使用者が「いる」と答えたのは9.9%で、

こうあります。全学部生と大学院生を対象、となっているので、全数調査ですね。それで、回答割合が約9%と(相当低いですな)。その中で約10%が、「いる」と答えたのだから、結局、約470人程度が「いる」と答えた、という事です。それをもって、「学生の1割」とするのは、どう考えてもおかしいと思います。実際に「いる」と回答したのは、全学生中1%未満なのですし。全数調査を企図したので、結果的に集まった4700人の回答をそのままランダムサンプルと看做す訳にもいかないから、推定も単純には出来ない。

可能性としては、約470人が、特定の数十人程度の事を言っている、というのも考えられますよね。クスリなんかやってる人間は噂になるだろうし、「周囲」というのが友人関係を指すとも限らないから(これは、質問文を見ないと何とも言えませんけれど)、情報があれば「いる」と答える、というのは、考えられないでは無い。

と、こういう事を鑑みれば、やはり書き方に疑問が残る訳であります。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

decryption

前から思ってたんですが。

何で、「復号”化”」って言うんでしょう。

「暗号化」や「圧縮符号化」は解るんです。原情報と異なったものに変換する、という訳なので。でも、復号って、元に戻す事そのものですよね。なのに何で、「化」がつくのかなあって思うんですよ。たとえば「平文化」とかなら納得出来るんですけどね。

で、こんな話、とっくにされているのだろうな、と思ってちょっと調べたら、色々ありました。そりゃそうだよなあ。でも、字面の対称性を優先して「暗号化/復号化」とした、というのは(結城浩氏とか)、私には全然納得のいかないものであったりします。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年3月17日 (火)

検定について補足

直前のエントリー(Interdisciplinary: ノート:心理学研究法(11) )の補足。統計的仮説検定の説明を。

まず、調べたい仮説を設定します。ここでは、「惑星ベジータにいるサイヤ人の尻尾の長さと戦闘力には相関関係がある」、とでもしましょうか。つまり、尻尾が長いほど戦闘力が高いか、尻尾が短いほど戦闘力が高い、というどちらかの関係があるというのを確かめたい。

この場合の目標母集団は、ある時点において惑星ベジータにいるサイヤ人、ですね。本当は、サイヤ人一般はそうなのか、というのを調べたいものだと思いますが、取り敢えずは、有限の集合として、このように設定しましょう。

さて、ここからサンプルを抽出する訳ですが、ここで、採り方が問題になります。ベジータ直属のエリート集団から採り出してきたとしても、惑星ベジータに住む人一般、という調べたい母集団の性質に一般化は出来ないという事です。

だから、本来、惑星ベジータに住む全員に番号を振って、そこから無作為に採り出してくる必要があります。実際は、そんな名簿がある社会があるのだろうか、とか、そういう問題が出てくる訳ですが、それを考えると話が複雑になって、標本調査論という専門的な領域の問題になるので、ここでは、全て一元管理されていて、台帳が存在するとしておきます。

さて、段取りは整いました。ここからは、実際に標本を抽出して相関係数を計算する、という流れです。

惑星ベジータの人口がどのくらいかは知りませんが、数万はいる事でしょう。そこから何人かを抽出して、相関係数を計算する訳ですね。

ここで、標本の抽出のされ方、を考えます。大きさ3の標本を採る、としましょうか。今は、母集団から大きさ3の標本をランダムに抽出するのですから、誰が選ばれるかは様々、となります。ベジータとナッパとブロリーが抽出される事もあれば、カカロットとラディッツとターレスが抽出される事もある(←突込んだら負け)。で、そのあり得る組み合わせでの相関係数を全て計算してグラフにすれば、標本相関係数の分布が描けます。これが、「標本分布(または標本抽出分布):sampling distribution」です。

これを踏まえて、検定の話です。

確かめたい仮説は、(以下、一部省略して書く)「尻尾の長さと戦闘力に相関関係がある」、でしたね。で、検定においては、それを調べるために、その仮説を否定する仮説を立てます。つまり、「尻尾の長さと戦闘力に相関関係が無い」という仮説。これを具体的に数学的に書くと、「尻尾の長さと戦闘力の母集団における相関係数(母相関係数)はゼロである」、となります。これを否定出来れば、元々確かめたい仮説が支持される、という寸法であります。そして、その否定したい仮説を、「帰無仮説」と呼ぶ訳です。

そして、その帰無仮説が正しいとした場合の母集団からサンプルを採り出して相関係数を計算して、その相関係数の分布を求める事が出来ます。母集団での相関係数がゼロであった場合の、標本相関係数の分布。標本統計量の分布を「標本分布」というのでしたね。で、帰無仮説が正しいとした場合の標本統計量の分布を特に、「帰無分布」と言います。要するに、帰無仮説が正しければ標本ではどういう値が出るか、という事。それは数学的に導けます。

で、実際に標本を抽出します。3とかではあまりにも小さいので、何十かにしましょう。当然、こういう検定の場合、普通は標本は一度採ります。つまり、何十人かを台帳からランダムに選んで、実際に尻尾の長さを測り、スカウターで戦闘力を測定する訳です。

そうすると、標本における相関係数が計算出来ますね。この相関係数は、標本統計量です。検定の場合は特に、「検定統計量」と呼びます。

先にも言った通り、全部を調べる事は出来ないので、一部を調べるしか無い訳です。ナッパやベジータが選ばれる場合もあれば、カカロットやブロリーが選ばれる場合もある。何通りもある訳ですね。だから、実際に得られた(実現値)相関係数は、何通りも選ばれる可能性のある相関係数の一つ、という事です。

上で、帰無仮説を立てました。そして、帰無仮説が正しい場合の、「標本相関係数の分布(帰無分布)」も数学的に導ける、と言いました。という事は、実際に得た標本から計算した相関係数が、その帰無分布のどこら辺に落ちるか、というのも解るのですね。

つまり、帰無仮説が正しいとしたら、実際に得た相関係数より極端な値が出る確率はこのくらいだ、というのを調べる事が出来る。母集団の相関係数がゼロの場合にこの標本が出るのはおかしい/おかしく無い と判断する訳です。

そして、その判断の基準を、「有意水準(危険率)」と呼ぶのです。それはあらかじめ決めておきます。で、実際に得られた統計量より極端な値をとる確率が有意水準より小さい場合、「帰無仮説が間違っているのだろう」と判断するのです(帰無仮説を棄却する)。これが、「有意」であるという事です。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

ノート:心理学研究法(11)

○第9章 サンプリングと統計的推測(南風原朝和)

§1 母集団とサンプル

▼目標母集団

量的調査によって仮説の検討を行う場合、その仮説が「どのような集団」において成り立つのかを考える。年齢や職業によらず一般的に成り立つのか、ある範囲の年齢や職業群において成り立つのか。←つまり、「研究結果をそこに一般化したい集団」:目標母集団(target population)

▼達成母集団

実際の研究は、目標母集団に属する全ての人を対象には出来ない→一部をサンプル標本)として選び研究する。

第6章での例、「ある大きな大学の新入生からランダムに選んだ100人の被験者」。←目標母集団を「日本の青年」とすると、このサンプルは、目標母集団から直接選ばれた事にはならない。目標母集団の部分集合たる「ある大きな大学の新入生」から選ばれたサンプル。実際にサンプルを選ぶ際に対象となる集団を、達成母集団(achieved population)という。

▼一般化の問題

目標母集団と達成母集団が異なる場合←サンプルで得られた結果をどこまで一般化出来るか、という問題がある。

  • 目標母集団:「60歳以上の女性」
  • サンプル:高齢者のためのスポーツ大会への参加者(短期間に大勢のデータが集められるから、などの理由)
  • →達成母集団:「60歳以上の女性の内、スポーツ大会への潜在的な参加者集団」
  • その母集団(ここでの達成母集団)は、目標母集団に較べて、身体的にも精神的にも健康度が高い事が予想される。
  • 従って、この標本調査で得られた結果を目標母集団に一般化する事には問題がある。

これらを考えて、過度の一般化を避けるよう心がける必要がある。

§2 サンプリングと統計的推測

▼サンプリングに伴う結果の変動

ある母集団からサンプルを選ぶ→実際にどういう人が選ばれるかによって、サンプルにおける結果は変化する。

本書では、100人の母集団から大きさ8のサンプルを採り出して相関係数を計算する、という例が出されている。そこでは、採られたサンプルによって、0.3程度も相関係数が異なる事があるのが示されている。つまり、100個の要素の中からランダム(無作為)に8個の要素(大きさ8のサンプル)を採り出して相関係数を計算するのを繰り返すとすると、その都度採り出されるサンプルは異なる訳だから、そこから算出される相関係数の値も異なる、というのを意味する。

大きさ100の母集団から大きさ8のサンプルを抽出して相関係数を計算するのを1万回繰り返して(つまり、標本の”数”が1万)ヒストグラムを描いた図が載っている。そこでは、かなり広く分布しており、母集団における相関係数から大きく離れた値もある程度の割合がある。これは、サンプルが小さいから誤差も大きくなるというのを意味する。

▼統計量の標本分布

平均や相関係数等の統計的指標に関して、「母集団における値」を母数(parameter)と呼ぶ。

対して、サンプルに依存して変動する値を統計量標本統計量)と呼ぶ。母数は、全数調査を行う場合等以外、通常は未知である。

サンプリングに伴う統計量の値の変動を示す分布を、その統計量の標本分布と呼ぶ。つまり、母集団から大きさ n のサンプルを抽出して算出される統計量の分布、という事。先の例で言うと、大きさ100の母集団から大きさ8の標本を抽出して計算した相関係数をヒストグラムに描いたものが、標本分布となる。母集団に色々の仮定をおけば、標本分布は数学的・理論的に導ける。

▼サンプリングのランダム性

統計量の標本分布を数学的に導く場合、「サンプルが母集団からランダム(無作為)」に選ばれる事が前提となる。

ランダムサンプリング:その母集団に含まれるどのメンバーが選ばれる可能性も等しく、さらに、一組のサンプルとしてどのようなメンバーの組が選ばれる可能性も等しくなるようなサンプリング。

母集団が、メンバーを特定出来るようなものであれば、ランダムサンプリングはそれほど難しく無い。しかし、母集団が非常に大きい場合等は、容易では無い。

現実の心理学研究――知り合いの複数の教師に依頼して、その人達が担任する学級の子ども達を被験者にする、というようなやり方がしばしば見られる→サンプリングはランダムとは言えず、そもそも母集団が何であるかすらはっきりしない。

次節以降で述べる統計的推測――ランダムサンプリングを前提として導かれた標本分布を基礎としたもの。従って、母集団からのランダムサンプリングがなされていない場合には、その方法は厳密には適用出来ない。しかし、現実の心理学研究では、ランダムサンプリングがなされていない場合も、統計的推測の方法が適用されている。

筆者(南風原氏)の考え:「実際のサンプルに合わせて母集団を限定する」作業が必要←サンプルの結果の無制限な一般化を防ぐ。

しかし、実際のサンプルがランダムサンプルで無いという事実は変わらない。これについては、

  • ランダムサンプルと看做して統計的推測の方法を利用する立場
  • それらの方法を全く利用しない立場

が考えられる。本書では前者の立場。

§3 相関係数に関する検定

▼統計的検定

心理学の研究では、サンプルで得られた相関係数等の統計量の値を解釈する時に、統計的検定を利用する事が多い。

例:相関係数に関する検定→「サンプルで得られた相関係数の値は、母集団における相関がゼロであるということと矛盾するほどに大きな値であるかどうか」という判断(無相関検定)。

つまり、研究では母集団の性質を知りたいが、実際には標本しか得られないので、標本で得られた値から母集団の性質を「推測」する必要があるという事。その場合に、母集団がこうであれば、標本ではこういう値が出るであろう、というのが数学的に導かれる(標本分布)のを利用する。つまり、それを逆に使い、「標本でこういう値が出たという事は、母集団はこうなっているだろう」と「推測」するという意味。今の例では、母集団において相関関係があるかを知りたい訳だから、「母集団において相関がゼロである」という仮説を立てて、それを調べるという事になる。

▼帰無仮説と棄却域

仮説:母集団における相関係数はゼロである。

この仮説が成り立っているとしたら、その母集団から抽出してきた標本から得られた統計量はどういう値をとるか、というのが数学的に導ける。そして、どうも、母集団の相関係数がゼロであるとすると、この標本統計量(本書では標本相関係数)が出る確率的は小さいようだ、だから、そもそも仮説:「母集団における相関係数はゼロである」という仮説が間違っているのだろう、と判断する。そうすれば、そもそも確かめたい仮説である所の、母集団において相関関係がある、というのを支持する事が出来る。ここで、最初に立てた仮説を、帰無仮説(null hypothesis)と呼び、帰無仮説が正しいとした場合(帰無仮説のもとで)の標本統計量の分布(ここでは標本相関係数の分布)を帰無分布と言う。

つまり、実際に得た標本から計算した統計量よりも極端な値が出現する確率が小さい場合、それは母集団に関する最初の仮説(帰無仮説)が間違っているからだと判断する、という事。そして、その「小さい確率」の基準を有意水準と言い、そこに入れば棄却するという領域を、棄却域と呼ぶ。棄却域に入った場合、帰無仮説を棄却(reject)する。その事を有意である、と言う。

▼有意となる相関係数の値とサンプルサイズ

サンプルサイズが小さい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定せず、母集団における値(これは、母集団における定数、つまり母数)から離れる可能性も大きい。

サンプルサイズが大きい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定し、標本分布の広がりも小さくなる。

母集団相関係数がゼロ、という場合の標本分布(帰無分布)の広がりは、サンプルサイズが大きくなるほど、ゼロの周りに集中し(つまり、標本を抽出して相関係数を計算すれば、ゼロに近い値をとる確率が大きい)、広がりも小さくなる。

つまり、サンプルが小さい場合は、標本での相関係数がかなり大きくならないと有意にはならないし、サンプルサイズが大きいと、それほど標本での相関係数が大きく無くとも、有意になる、という事。

------------

以下、推定、信頼区間の計算、信頼区間の大きさを一定にして例数設計をする、という説明がありますが、簡潔過ぎて、まとめても訳が解らないと思うので、省略します。多分、上の検定の説明も、不案内な人は混乱必至でしょう。

不明な所があれば、コメントを頂ければ。可能な限り説明しますし、私の手に負えない部分は、手助けして下さる方がいらっしゃるかも…。統計の具体的方法について知らなくても、「有意」等の概念に関しては関心がある、という場合もあると思いますので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月16日 (月)

音楽を「聞かせる」

はてブ界隈で話題になっている、そばで音楽を鳴らしたら農作物がよく育つ、とか、○○が美味しくなる、という説を、どう評価するか、という問題。

これは、「メカニズムの想定」いかんによる、と考えるべきだと思います。

たとえば、植物が音声を知覚して云々、という生理・心理学的メカニズムがあるものと看做して、「音楽を植物に”聞かせたら”」などと言ってしまっては、それは明らかにアウトでしょうね。文字通り、「植物が”聞く”」のを想定している。

対して、「そばで音楽を鳴らしていたら」というものだったら、それは「あり得る」話として見る事は、一応可能。メカニズムとしては、音楽を聴いた人間がリラックスして良好な状態になり、結果的に植物の育て方に影響を及ぼす、というもの等。いずれにしろ、音楽を聞かせるという変数と、植物や動物の育ち方や味などの変数との関連を見ていって実証しなくてはならない。もちろんこれは、人間の心理状態という変数が干渉しているの可能性がある訳だから、そこら辺をきちんと操作して実験デザインを組む必要がある。

そして、特に心理状態には関係無く、音楽の種類という因子が効果を及ぼしていると判明した場合に初めて、音楽そのものが影響を与える、という科学的命題が説得力を持つ事となるでしょう。そうで無くて、心理状態が大きく関わるのだとすれば、何も音楽で無くても良い訳で。あるいは、「リラックス出来る好きな音楽」であれば良い、とも考えられます。

で、どうやら音楽そのものが影響を与えているようだぞ、と判ったら、それから、音楽の何が一体影響を与えるのか、というメカニズムの追究にも向かっていく。もちろん、アプローチとしては、同時に両面的に行っても良い訳です。

取り敢えずは、このどちらを想定しているのかを見ていくのが、問題の整理に役立つのではないかと思います。

それから、もうちょっと考えてみると、「”音楽”を聞かせる」とはなんぞや、という疑問も出てきますですね。主張によっては、「クラシックを」とか「モーツァルトを」聞かせる、なんてのがあります。で、音楽の一ジャンルを採り上げて、それが良い影響を与える、と言っている訳で、それはどうなんだろう、と。クラシックやモーツァルトの音楽に通底する物理的な因子があるのかいな、と思うんですよね。なぜメタルで無くてクラシックなのか、なぜクラシックの中でもモーツァルトなのか、とね。

それで、筋の悪い人は、その通底するものとして、「波動」などを挙げるんですよね。ニセ科学まっしぐら、と言うか。本当は、そういう事を言う前に踏み留まらないといけないのですが。

まとめると、「音楽を聞かせたらよく育つ(美味しく育つ・長持ちする、等々)」という命題自体、皆が同じように解釈する訳では無いよ、という話です。きちんと定義せず共通了解を得ないままにしておくと、議論が混乱する可能性がありますね。そもそも理論的に何を想定するか、とか、作業仮説をどう設定するか、とか。それから、実験をデザインして、それが適切かを吟味する。

こういうのは、ブラインドテスト的な実験は難しそうです。どういうやり方があるでしょうか。たとえば、いくつかのブロックを2グループに分けて、それに音楽を聞かせ、農家には、何をどれに聞かせるか教えない、というやり方があるかな。皆が寝静まった夜(何か歌の歌詞みたい…)に研究者が聞かせにいく、と。そうすれば、どちらを聞かせたかの情報を知る事による影響を無作為化出来るかも。

ここら辺を総合的に鑑みるならば、私としては、ベネッセの書き方は、かなり慎重さに欠くと思います。で、城戸氏の言い方に関しては、これはよく解らない。エントリーを見て、娘さんの教育にはあまり良く無い、もっと言い方があったのでは、という意見も見られましたけど、そこまで言える程の情報も無いでしょう。後でどんなフォローがあったか知らないし。自分はああいう言い方はしないだろう、というのはありますけど、そのくらいです。

書かれた事が水伝と同レベルであったかと言えば、全く同じようなものとまでは言えないかな、という感じですね。ただ、危ういものではあるでしょう。灰色っぽい。

参照:

大学教授のぶっちゃけ話: トンデモ本

ベネッセのトンデモ本:回答編 - Skepticism is beautiful

余談。

城戸氏が血液型性格判断に肯定的だ、というのも話題になっています。こちらは、専門家でも、知らない事についてはおかしな話をする場合がある、というケースと見られますね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

しいけんす

マンガでわかるシーケンス制御 Book マンガでわかるシーケンス制御

著者:藤瀧 和弘,高山 ヤマ,トレンドプロ
販売元:オーム社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

偶然図書館で見つけたので、読んでみました。

結構良い出来なのではないかと。内容としては、ごく初級レベルのようですが、全然知識が無い人にとっては解りやすいものだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月13日 (金)

良いエントリー。フォルダ開放。自分の話

とてもいい記事だから、じっくり読んでいってね!!!⇒「血液型性格判断」批判 前編:ニセ科学批判の練習問題  - みつどん曇天日記

ちょうどいい機会なので、私の血液型性格判断関連サイトフォルダを開放。あまり知られていないサイトもあると思います。※必ずしも、内容が信頼出来て適切、というものではありませんので、よろしく

中猫さんの所から、ちょっと引用してみます。血液型性格判断のこと再び - 油小路ニュー中猫屋

 ABO式血液型によって人々の性格を分類し、判断の基準にしようという試みを批判する者は多いのです。しかしながら、その批判のなかには「駄目な」批判が含まれています。「たった四つの型に人間を分類できない」というのがそれです。四つもあれば十分に分類できるからなのです。ある分類の基準を決めさえすれば、比較的少数のカテゴリーを想定して、そのうちのどのカテゴリーにその人の性格であるとか行動パターンであるとかが含まれるのかを検討すること自体は、それほど不合理なことではないのです。「人間が四種類に分けられてたまるか、みんなひとりひとり違うんだ」のような意見は、妄信的な個性崇拝のあらわれでしょう。

私はこちらを読んでいたのですね。で、kikulogも読んだ。そして、きくちさん経由で菊池聡氏の書かれたものも読んだ。要するに、色々な方の影響がある訳で、それまでは、自分自身がダメな批判をしていたんですね。友人に対して血液型性格判断を否定する意見を言った時も、とにかく無いんだよ、的な物言いをしましたし。

そういう経験もあってか、私は、筋が悪い批判をしていたりするのを見て、ただちに強く批判したりしないんですね。必ず、「自分もしでかしている可能性がある」と考える。尤も、批判の態度というのは、対象のものの言い方や、書いた内容によって変わってはくる訳ですけれども。

| | コメント (7) | トラックバック (2)

2009年3月11日 (水)

ミニマムエッセンス

ミニマムエッセンス統計学 Book ミニマムエッセンス統計学

著者:三土 修平
販売元:日本評論社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは大変良い本。とても丁寧に書かれています。入門書に、というのは、若干ハードルが高いかも知れないけれども、整理したり、何故こういう考えをするのか、という所をおさらいするのにいいですね。

サンプルサイズ普及委員会的には……「標本」とはどういう概念か、について、私が今まで読んだ本の中で、最も分量を割いて詳しく説明されています。おお、と思いました。

「標本(sample)」というのは、具体的に考えると、虫ピンで蝶が留められているケース全体を指す、とすると解りやすいでしょうか。それで、中に収められている蝶一頭が、要素あるいは個体。そして、個体数が、標本の「大きさ」。だから、蝶20頭収納のケースが1つと、40頭のケースが1つあれば、標本の数は2で、標本の大きさはそれぞれ、20と40になる訳ですな。

三土 氏は、他にも統計学の本をいくつか出されているようなので、そちらも読んでみたいですね。

Book 数学の要らない因子分析入門

著者:三土 修平
販売元:日本評論社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月10日 (火)

勉強の機会

田部勝也さんへレス書いてたら長くなったので、エントリーに。よく書く「勉強」シリーズ。個人の経験に基づいた考えに溢れています。

※昨日書いた事(「実証」や「実験」について知っているのが望ましい、という話)について、いつそういうのを勉強するか、という話題です。

・望ましいのは学校(時間的に余裕がある。先生という専門家がいる)

・それが適わなかった人は、本やWEB

となるかと思います。私はものすごく後者ですね。

と言いますか、一応この国では、ある程度は、誰でもいつでもどこでも勉強は出来なくも無い、という状況は保てているかな、と。勉強が出来ないという場合、「機会」よりも、「心理社会的嫌悪感」が効いてきそうです。もちろん、「時間」が大きな障壁になる、という場合もあるでしょう。

学校教育という最高の機を逃したら、後は、ネットのやり取り、図書館で本を読む、詳しい友達に聞く、夜間・通信教育(通信講座・放送大学等)、セミナー(QCや実験計画のやつは、企業研修なんかで結構ありそうな感じです)。

ものっすごく個人的な事を書きますが、私は実は、「学校で教えてくれない○○」というのをキャッチフレーズにするのって、かなり嫌いだったり。実は学校ではめちゃくちゃ大事な事やってたのに、見もしなかったんだよね、というのが私の実体験に基づいた感想と言いますか。←私がいかに「勉強嫌い」だったかは、このブログに鬱陶しいほど書いてますね…。

後、実験に関しては、確立された知識体系における現象が成り立つか確認するというデモンストレーション的なものが主流なのだと感じます。誤差をきちんと取り扱うデザインを学ぶのは、大学以上が一般的ですよね。だから、

 ・実験計画
 ・社会調査
 ・疫学

辺りは高校までに考え方を教えるのがいいんじゃないかと思っています(教科に組み込むというかたちででも)。

専門知識と言っても、高度のレベルで無い限り、導入から超絶難しいという事もそんなに無いでしょうから、詳しい友達に訊いて楽しく趣味的にやる、というのでいいと思うんですね。RPGの攻略を突き詰めるのと本質的な所では繋がってると思います。

問題は、そういうのを堅苦しい「勉強」と捉え過ぎて遠慮したり構えたり、という事かな、と。(勉強は、「難しい」からやらないと言うより、「嫌い」だからやらないケースが多くある、というのが持論です。もちろんレベルにもよりますけど)

好きなものを徹底的に突き詰める、というのも良いと思います。それに関連するものもどんどん調べる。そうすると、大概の物事は底の方でなんらかの関連を持っているので、あらゆるものが繋がって、勉強していく事そのものが楽しくなってくる訳ですね。そこまで行ければ理想。でもそれがスタートライン。

もちろん、「いつ身に着けるべきか」、という問題だと、早い方が望ましい、というのは一般的に言えるのですが、それと共に、社会に浸透させる、のも重要ですよね。要するに、「知らない大人達」が沢山いるのだから、その人達も皆勉強しましょう、という。※私は「勉強」を、滅多にネガティブな意味で使いません

------------

このブログを見て下さい。コメント欄で、親切で知識豊かな皆さんが、色々教えて下さっています。これってすごい事ですよ。時間的にも空間的にも、20年前には絶対不可能な事だった訳で、利用しない手は無いですね。

後、『学習科学とテクノロジ』という本が興味深いので、オススメね。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2009年3月 8日 (日)

身に着けたい

私は、ニセ科学に対して耐性をつけるにはこうあるべきだ、といった事はほとんど書いた事が無いのですが、それは、そもそもニセ科学というのはバリエーションが豊富で多分野にわたっており、しかも、誰が・どこで 言ったか、等の心理社会的バイアスが大きく働くから、一般的にどういう知識を持っておくべきか、というのを示すのは難しい、という考えからです。

しかしそれでも、こういう所について押さえておけば、ある程度は防御力を高める事が出来るのでは、という考えは、少しは持っています。それをちょっと書いてみます。

○科学における「実証」のプロセスの把握

科学において「実証」されるとはどういう意味か。どのような手順を踏まなければならないのか、という部分。具体的には(ある程度単純化)、論文執筆→査読→採択→他の科学者による追試→科学的知識として認められる というプロセス。土俵に上がろうとしない(論文を出さない等)ものは、そもそも相手にしない。仮説を確かめたい者が立証の責任を負い(立証責任)、杜撰な研究は篩い落とされる(査読)というシステム。篩い切れなかったものは、追試の状況によって判断される。

○「実験(experiment)」に関する、ある程度の知識

ビンを一個ずつ用意してそれに文字を書いた紙を貼り、その経過を見て結論めいたものを出し満足する、というケースが見られます。それは、「実験」というものについて、認識が素朴であると言えます。

ちょっと懐疑の力を働かせるならば、一個や二個どうこうしたからといって、それは「偶然」なのではないか、と認識するのは可能です。そうすると今度は、じゃあ「偶然じゃ無い」と言えるにはどうすれば良いのか、と考えが進む。「他の要因が働いている」、という疑問も出るかも知れません。その場合は、「他の要因の影響を取り除いたりするにはどうするか」、と考える事も出来るでしょう。

そして、そこら辺に関しては、既に偉大な先人達が考察し、「実験計画法(DE:Design of Experiments)」として確立されています。

○確率・統計の知識

上の実験についての部分とも関わります。

実験において、ある要因がどれくらい効いているか確かめたいと着目し、その因子を変化させながら結果を見ていく訳ですが、では、その因子の効果をどのように定量的・客観的に評価するか、偶然で無く確かにそれが効いていると言えるには、どういう実験をデザインし、データをどう解析していけば良いのか、という視点が重要です(実験計画法の問題意識)。そしてそれには、確率論・統計学の知識が必要です。

と言っても、何も統計学の複雑な理論を理解するべきだ、という無理な話をしているのでは無くて、一見意味があるような結果が出たように思えても、実はこれは偶然の産物なのでは、と一旦保留出来る、そんな姿勢を養えるくらいの知識があれば、それで充分だと思います。

これは重要な所だと思いますが、私達の大部分は、確率の初歩は習っています。そして、おそらく(あくまでおそらく)大部分は、その知識を忘れています。

-------------

これは、よく私が書く事ですけれど、ニセ科学かどうかの判断においては、「プロセス」を踏んだか、というのが重要なポイントとして挙げられます。つまり、科学の研究で踏まなくてはならない手順をきちんと経て主張されているか、という部分。ですから、そのプロセスについて知っておく、というのは大事。そして、その手続きに使われる「道具」である所の「実験」、あるいは実験法の理論的基盤となる確率・統計の初歩、を知るのが肝要だと言えるでしょう。

何度も書きますが、ニセ科学を見抜くためにはこうすべきだ、と言うのは、なかなか難しい。ただ、姿勢として、「目新しい話は取り敢えず保留する」のがいいのかな、と。特に、自分が全く知識を持っていない分野の場合は、無視しても良いと思います。基本的にはね(その「目新しさ」が、「人の生き死に」に直結するような場合があるから、ニセ科学問題は難しい)。そして、出来る事なら、上に挙げたようなポイントを踏まえて、「実証されているか」どうかを意識しつつ見る、のが望ましい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月 7日 (土)

社会調査

社会調査ゼミナール Book 社会調査ゼミナール

著者:新 睦人
販売元:有斐閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは良き本。社会調査に関心のある人にとって、参照する価値のある著作ではないかと思います。

ただし、読みやすいと言うか、簡単な本では無いかな。少なくとも入門書という位置づけでは無いだろうと感じます。

-----------

ここから、サンプルサイズ普及委員会的な。

 内閣支持率調査などの場合,母集団は日本人有権者およそ1億人であり,抽出された1000から3000人が標本である。この場合の1億人のような数字を母集団の大きさ(または規模)と呼び,通常はNで表す。1000人や3000人など,抽出された標本に含まれる人数のことは標本の大きさ(または規模,sample size)と呼び,n で表記する。日本ではこの n を標本数,サンプル数と呼ぶ慣習があるが,統計学的には標本の大きさと標本の数はまったく別のものを指す重要概念であり,標本の大きさのことを標本数と呼ぶのは限りなく間違いに近い(木村 2006 : 71 頁)。個人の数のような,標本に含まれる要素・基本単位(element, elementary unit)の数を指すときには,ケース数(the number of cases)や回答者数(the number of respondents)などの単語を用いるほうが誤解がない。英語では sample person, sample unit などの言葉が使われることもあるが,あくまで抽出された基本単位全体で1つの標本(a sample of size n = 1,000, etc.)である。
新・盛山(編)『社会調査ゼミナール』(P94)より引用。著者は杉野勇 ※引用者註:引用部の「a」の強調は、原典では傍点付きだったのを強調表示に替えたもの

おお、これは、サンプルサイズとサンプル数の違いがきちんと書かれていて、いいね。この後の部分も、ちゃんとこの用法が踏まえられて書かれています。

しかーし。

 たしかに標本調査は,ある程度の量のサンプル数を必要とする。また,事例調査に比べると,対象者の数はふつうは多いだろう。けれども,中には対象者の数が200人を超える事例調査があり,それよりも対象者の数の少ない標本調査もある。サンプル数の量としての大小を標本調査の第1の特質から導かれる派生的な特質と考えておいたほうがよい。(P168)より引用 著者は盛岡清志

 ところで,結果を統計量で表現し,また正確な統計的検定を行うには,ある程度のサンプル数が必要となる。調査対象者数(サンプル数)が少なく,したがって回答者数も少ない場合,回答者の中で極端な反応をする者がごく少数いても,全体の結果がそれにひきずられやすいことは容易に想像できる。(P169)より引用 著者は盛岡清志

えー。「サンプル数」を、「サンプルサイズ」の意味で使ってるじゃーん。

こういうのって、しばしば見られますですね。つまり、複数著者の本において、用語の統一がはかれていない。この場合、「サンプル数」をサンプルに含まれる要素の数の意味で使ってはいけませんよ、と書かれているにも拘らず、後の方で、思いっきりその誤りをしてしまってる訳で。読む側としては、読みやすいものでは無いです。サンプルサイズ関連では、同じケースを何度も見た事があります。「重要概念」と書いてあるくらいなのだから、もうちょっと何とかして欲しかったですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 5日 (木)

バイクで脳がっ

オートバイ運転で脳の機能向上、ストレス軽減も――川島教授とヤマハ発の研究 - ITmedia News

某ooh氏や某-WING氏が目をつけそうなネタであります。

さて、この研究、どう見るべきか。

もちろん、記事だけからは、情報不足で、あまり適当な事は言えませんが……

オートバイを運転する生活習慣が脳に与える影響も調べた。

この実験、ちょっと気になりますですね。バイクに乗る習慣が無い人を無作為に割り付けて、というものみたいですが、何もしない群(統制群もしくは対照群)と、バイクを通勤等で使う群(処遇群)を比較したって事ですよね。

これって、素朴に、慣れないものをやる事そのものが効果を及ぼしたのでは、なんて疑問が出てきますですね。対照群として、他のものをやらせるグループとの比較もした方が良かったのでは、と。

効果の違いの大きさに関しては、この記述だけからは何とも言えないですね。「向上」って言っても、それはどのくらいなのかなー、と思ったりしないでも無いです。

リンク先に、発表に使われたスライドの画像がありますが、その中に、

統計的に有意に活性化していた

って書いてますが、これってよく考えると、なんかものすごい表現じゃありません? いやまあ、間違っている、と言うほどでは無いのかも知れませんけれど…。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

中心極限定理の「中心」とは

統計学でものすごく重要な概念に、「中心極限定理」というものがあります。

ところで、この定理の「中心」って、何の事だかご存知ですか? 私は深く考えた事もありませんでした。

それで、最近、

統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所 Book 統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所

著者:永田 靖
販売元:日科技連出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本を再読した所、その事について書かれていました。以下引用。

 中心極限定理は”the central limit theorem”の訳である.「”central”は”fundamental”の意味と理解するべきだ」と The History of Statistics (S. M. Stigler, The Belknap Press of Harvard University Press) に述べられている.つまり,本来の意味は”基本的な極限定理”ということであり,”中心”という言葉に定理の内容を表す意味はないようである.

私は、なんとなく、中心という言葉は定理の内容に関わっているものと思っていましたので、これを読んで、へー、となったのでありました。※再読なのに何故今回そう思った、という突っ込みは無しの方向で

つまりこれって、言い換えると、「極限定理の内、中心的なもの」、「中心的な極限定理」といった意味って事ですよね? 「中心極限定理」とすると、いかにも数学的な内容と関わっているように見えますですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 3日 (火)

フォロー

あるニセ科学批判者の悩み - Skepticism is beautiful

エントリーの内容に同意します。

そして、コメント欄が大変興味深い。引用します。※以下、引用は全て原文ママ

以前私が自分のブログで「ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?」というエントリを書いたときに、lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持ったので、このエントリは正直に言って意外でした。

これは、wackyhopeさんの書かれたものです(wackyhope  2009/03/02 22:34)。wackyhopeさんと言えば、ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?|Beauty Science, Beauty Marketing, and Beauty Communication. -美容・化粧の科学とマーケティングと。という良エントリーを上げられた方で、上のコメントも、そのエントリーに関して述べられています。

で、lets_skepticさんの所でのコメントが興味深いと思ったのは何故かと言いますと……。

私が知る限り、lets_skepticさんは、ニセ科学を批判する方の中でも、最も穏当で丁寧な批判をされる方のお一人である、と考えています。そのlets_skepticさんが、「相当委縮した。」とwackyhopeさんに言わしめるような物言いをしたというのは、大変意外と言いますか、えっ、と感じたのでありました。

と、ここで、lets_skepticさんがwackyhopeさんのブログに書かれたコメントを引用してみましょう(lets_skeptic 2009-02-23 14:06:23)。

 というわけで、今こそwackyhopeさんのような問題意識を持った人が進んで活動を行うといいんじゃないでしょうか?お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。

この部分を読んで、wackyhopeさんは、

lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持った

との事なのですね(lets_skepticさんのブログより再度引用。途中でコメントを切ってるので、元コメントもご参照下さい)。

それで、改めて読んでみますと、もしかすると、wackyhopeさんはlets_skepticさんのコメントを若干読み違えたのではないか、と思うのです。

もう一回、件のlets_skepticさんのコメントを引用してみます。

お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。

私はこれは、専門家では無いから、充分な知識を持っていないから、として過度に躊躇せず、あるいは萎縮せずに、ニセ科学批判の活動をされてはいかがだろうか、という意見もしくはアドバイスである、と読んだのです。と言いますか、lets_skepticさんの普段の言動を鑑みれば(敢えて書くと、「バイアスをかければ」)、そうとしか読めないのでした。つまり、「後押し」です。「退路を断つ」、では無く。ニセ科学批判はややこしいように見えるかも知れないけれど、そんなに構える事無く、真摯で丁寧にやっていけば良いのではないか、と。もっと深読みすると(し過ぎだと思うけど)、バックアップは惜しまない、というメッセージも入っているかな、なんて。

私の読解が適切かは解りません。しかし、lets_skepticさんの書くものを愛読し、やり取りを何度もしている経験から、このような読み方も出来るのではないか、というのを書いてみようと思いました。これははっきり、「擁護」です。私がニセ科学批判で重要だと思っているのは、フォローする事、だと考えています。当然それは、思ってもいないだろう事を後付けにして取り繕うのでは無くて、これはこういう意味なのでは、と解釈し、文脈を補ってフォローしていく、という事。それはとても大切です。文の解釈というのは、書き手に関する知識にも依存するから、その読み方は書き手の真意と違っているかも知れませんよ、というのを説明していく。外にいる者が補ってあげる。

もちろん、その読解自体が誤っている可能性もあるから、そこは指摘してもらう。特にWEBでのやり取りは、その辺が柔軟に出来るので、積極的にやっていきたいものです。

------------

ちなみに私は、wackyhopeさんのエントリーとおそらく関連するものとして、このような記事を上げました⇒Interdisciplinary: 万能包丁

これは、wackyhopeさんのブログのコメント欄でwd0さん(かも ひろやすさん)が書いておられる「銀の弾丸は存在しない」という部分と、共通すると思います。※「万能包丁」は、文字通り、「何の素材にでも使える包丁」、とでもしておいて頂ければ

| | コメント (30) | トラックバック (1)

2009年3月 2日 (月)

ニセ科学批判の効果についてとか色々

この所、特にはてな界隈で、ニセ科学批判と、それに対する批判についての議論が、かまびすしい(別にネガティブな意味合いではありません)ですね。

さて、今日こちらのエントリーを拝読いたしました⇒科学の名のもとの邪悪/およびニセ科学批判者の罠 - touhou_huhaiの日記

※touhou_huhaiさんの記事を参照していますが、当エントリーは、touhou_huhaiさんに向けて書いたエントリー、という訳では無いので、よろしくお願いします。ヒントにして整理して書いてみた、と取って頂ければ。

私は、関連のエントリーは一通り読んでいますが、こちらのエントリーを読んで、少し思う所がありましたので、書いてみます。既出の論点もあるでしょうけれど、自身の思考の整理の面もありますので、ご容赦下さい。

○「ニセ科学を批判する事」と、「現状のニセ科学批判活動に効果があるか否か」は異なる。

まず、「ニセ科学」の概念のおさらいです。ニセ科学とは、科学で無いにも拘らず、科学を装っている(意図的か否かは問わない)ものです。

そして、それを批判する、つまりニセ科学批判とは、科学で無いにも拘らず科学を装っているものを批判する、となります。

ここで、「ニセ科学批判は是か非か」という論点が現れます。つまり、そもそも科学を装っているものを批判して良いのかどうか、という見方。

この点に関しては、私は、科学で無いのに科学であるかのように情報が流布されているので、それを批判するのは当然だ、という考えです。少なくとも、「科学で無いのに科学であるかのように看做されている」ものなので、それは違う、というのは認められるべきだ、と。天羽さんがよく出されて私も援用する、ニセブランド品の喩えが解りやすいかと思います。

※ニセ科学という概念の立て方は適切か、などには触れません。議論が広がり過ぎるので

次に、「現状のニセ科学批判活動」。

これは、近年なされている、ニセ科学に対する批判の活動の仕方に着目する、と考える事が出来ますよね。要するに、「どのように」という観点。ニセ科学に肯定的な言説に対して、いかにして、それがニセ科学であるかを指摘するか、あるいは、ニセ科学を主唱する人に対してどう批判していくか。

まず、ニセ科学批判を批判する方々には、そのどちらを批判しているか、を明らかにして頂きたい、というのがあります。その方が、議論がごちゃごちゃになりにくいと考えます。

前者の観点、つまり、ニセ科学を批判する事そのものを批判する、という方もおられます。見方は色々です。ニセ科学などと判定するのは可能なのか、とか、どんな事を主張しようが自由ではないか、とか。極度に物事を相対化してしまう方もおられます。

後者の観点は要するに、「そういう批判の仕方で上手くいくの?」という見方ですよね。はっきり言ってこれは、ものすごく重要な部分だと思います。ただ、難しいと言うか、非常に複雑でもある。

前者と後者を混ぜこぜにしてしまわないようにしたいものです。たとえば、今のニセ科学批判の活動に効果があるかは判らないから、ニセ科学を批判する事そのものまで否定的に見る、等ですね。ニセ科学を批判するのは良いが、現状のやり方では……という風に主張するのかそうで無いのか。そこら辺をきっちり整理して論じて頂きたい、と思っています。

さて、ここからは、この論点の切り分けが出来たと仮定し、ニセ科学を批判するのは良いが、現状の批判の仕方が適切かどうかは……という観点から物事を見る、というのを前提して進めます。

○ニセ科学批判には効果があるのか

発端と言いますか、議論のきっかけ的なエントリーでは、こういう疑問が提出されていた訳ですね。ニセ科学を(科学的事実であると)信ずる人に、それが「ニセ科学」であると解らせる、という目的はどの程度達成されているか、という視点。

○「効果」とは何か?

上と重なりますが、そもそも、「ニセ科学批判の効果」とは何か。いかに定義し、どう数量化するか。ニセ科学批判の目的は、最も一般的には、ニセ科学をニセ科学だと理解させる(事に成功する)、とでもなるでしょうか。言い方を換えると、「科学で無いのに科学を装っているものを”科学的事実”だと思い込んでいる人に、それが”科学を装ったもの”だと”解らせる”」。それと、科学を装った科学で無いものが存在するという事実そのものを知らしめる。そして、それを数量化して実態を把握する。

touhou_huhaiさんは、案として、このように書いておられます。

どのような証明が可能だろうか。やはり実地調査しかない。

1.ニセ科学批判としてネット上にあふれている代表的なテキストを知らない人を、無作為抽出して2グループに分け、テキストを読んだあとでニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテストを実施する。

2.ニセ科学と分類できる主張に基づく詐欺事件を、警察発表の資料や報道ベースで集計し、ニセ科学批判運動の活発化と相関をとる。

一つの案として出されているものですが、敢えて詳細に検討するならば、

  • 「ネット上にあふれている代表的なテキスト」をどう選別するか。
  • 「ニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテスト」をどう作成するか。そもそも、「ニセ科学を判断し警戒する能力」とは何か。ニセ科学一般を判別する力か、それとも個別のニセ科学か。
  • 普通テキストは、ごく一般的な観点から書かれたものと、より個別具体的なものがあり、さらに、情報を知らしめたい特定の対象に書かれたものもある。その機能的側面に目を向けなくて良いのか。
  • ニセ科学とは、必ずしも詐欺に直結している訳では無い(例:ゲーム脳)が、それはどう考えるか。
  • 相関を取ったとして、その結果をどのように解釈するか。ネガティブな結果が得られたとして、それは批判の仕方が悪いのか、それとも量的な問題なのか。それをどう分析するか。

などの考察すべき点があります。

繰り返しですが、ニセ科学批判は、科学を装っている あるものが実は科学では無いのだと知らしめる目的もありますし、もっと一般的には、「世の中には科学を装っているものが色々ある」という情報そのものを流布させたい、という目的も持っていると思います。そこら辺の成果も「効果」と取るならば、どのようにしてそれを拾っていくか、という問題もある事でしょう。

と、このように、ニセ科学批判、もっと一般的には、何ものかを批判する活動の効果をどう評価するか、というのは、大変難しいと言えるでしょう。社会学的にも社会心理学的にも。

もちろん、それを分析していくのは、ものすごく重要な事だと思います。ここで改めて自分の考えを書いておきますと、ニセ科学批判がどのような影響を及ぼすかを確かめるのは極めて大切な部分だし、それを社会科学的に研究するのは大変有意義である、と思っています。少なくとも私は、効果について疑念があるならそっちが調べろよ、というような態度は採りません。

ただ、です。

ニセ科学批判を批判するもので、効果があるかどうか解らないという観点から、その活動そのものにあまり意味が無いかのように看做す、という意見もやはりあるから、その場合には、もうちょっときちんと考察して欲しい、と思う事はありますね。一般論的過ぎて何にでも当てはまる、とか、ニセ科学概念を押さえていない、とか、そういう書き方だとね。ちょっと困惑します。

それと、上でも検討したように、「効果」と言っても、それは結構難しい問題である、というのも考えるべきだと思うのです。「効果」と一言で表現しているけれど、それにはどういう意味合いがあるのか、具体的に考察してみたのか、批判の実例と照らし合わせてみたのか、と。※touhou_huhaiさんの事ではありません。追々々記でも、色々な観点から見ておられますし。

○率直な意見

ニセ科学を批判するテキストを練ったりするのに手一杯で、その効果を自分で検討するまでとても手が回らない、というのはあります。外部からそれを評価しよう、という動きがあれば、(その手法が適切であれば)むしろ歓迎すべき事と言えます。再三言っているように、おそろしく難しいとは思っていますけれども。

それと、上で書きましたが、あるニセ科学を批判するテキストを複数用意しているのもあります。私の場合だと、ゲーム脳関連。そもそも想定読者が異なっているテキストの役割をどう考えるか、というのは重要ですよね。

追記:後、一々ダメなニセ科学批判を指摘しない、というのもありますね。ニセ科学を批判しているのを優先しているので。もちろん、その過程で、こういうのはまずいかも、という話になる事はありますが、あまりそれが主たるテーマになる事は無いですね。あれはダメだ、と言うよりも、自分はこうする、というのを見せるのが、個人的には大切だと考えているので。

○余談:観測範囲

ニセ科学批判を批判するものを見て、非常に気になっている所。

はてなブックマークのコメントを、「ニセ科学批判の典型例」として扱っては いませんか? それは観測範囲が極めて狭いので、注意を要します。ニセ科学を批判していて はてなを使っていない、という人もいる訳ですので。

ここら辺、「具体例を出して下さい」という指摘と関わってきます。ニセ科学を批判する人が、他の批判者のやり方に全て同意している訳ではありませんから、具体例を出されれば、ああ、確かにそれは好ましいやり方では無いかもね、となる可能性もあります。それが仮にはてブコメントだとすれば、いや、それを典型例として出されても、と返す事も、また、確かにあの書き方は、となる場合もあるでしょうね。

| | コメント (5) | トラックバック (2)

2009年3月 1日 (日)

魔法の鏡

マジックミラー 筋肉「透視」ソフトを開発 東大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

マジックミラー:筋肉の動き「透視」 東大がコンピューターソフト開発 - 毎日jp(毎日新聞)

やばい、欲しい。マジで。超欲しい。

いや、個人で購入出来るような物じゃ無いというのは判ってるんだけど、それでも超欲しい。ドラゴンボールが7個あったら即刻願ってるレベル。

ええい、プレスリリースはどこだっ。東大工学部のサイトにも載って無いぞっ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年2月26日 (木)

超人

幻影随想: 氷点下の海で裸で泳ぐ超人ルイス・ゴードン・ピュー

大変面白いです。

生理学的・心理学的・バイオメカニクス的に見て、とても興味深い現象ですね。

武術の論理として、心身のコントロールの観点から見ると面白いし、また、気の論として見るのも興味深い。これは、自分自身で体温をある程度コントロール出来るというのを示唆しているので、たとえば気功で被術者の体温が上がるなどの現象を、実体的な概念としての気を用いずに説明出来る可能性を示している、とも見る事が出来るように思います。あくまで施術者は媒介と言うかきっかけで、実際の変化は自身の心理学的・生理学的メカニズムによって起こる、という。

震えを押さえ込むのがどういう論理によって起こるか、というのが一番知りたい所。単に心理学的なセルフコントロールのみならず、身体の恒常的なあり方(筋肉の弛緩の程度等)も関係しているのではないか、という所に、武術の身法に関心を持つ人なら着目する事でしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月24日 (火)

偏差値

せんせー、偏差値って何ですかー。

偏差値はねー、平均点からどのくらい離れてるか数字で表したものなんだよー。

へー。どのくらい離れてるか、って何ですかー。

そーだねー。どんなのがあるー?

わかりませんー。

速いねー。

点数から平均点を引く、とかあるよねー。

あー、そーですねー。

でもそれじゃあダメなんだよねー。

どうしてですかー。

どの点をどのくらい取ったか、クラスによって違うよねー。

そうですねー。

平均点に近い点を取った人が多いクラスと、すごく高い点取った人もすごく低い点取った人もいるクラスだと、平均点が一緒でも、中身は全然違うよねー。

そうですねー。

その、点数の集まり方を、バラツキって言うんだよねー。

へー。

君は、グラフは書けるよねー。

はいー。

横が点数で、縦が人数のグラフを書くとするよー。

はいー。

平均点に近い点を取った人が多いと、そこが高くなるよねー。

そうですねー。

そのかわり、端っこは低くなるねー。すごく高い点とか低い点を取った人がいないんだからー。

そうですねー。

で、高い点取った人も低い点取った人もいたら、どうなるー。

わかりませんー。

速いねー。

平べったい感じになるよねー。

そうなんですかー。

そうなんですよー。

それで、細長くて高い山みたいな形になったら、ばらつきが小さいと言うんだねー。

へー。

その前に、「ばらつき」って分かるー?

いえー。

速いねー。

まー、バラバラさの度合い、って感じだねー。

へー。

バラバラーな感じだと、ばらつきが大きくて、ぎゅうっ、だと、ばらつきが小さいんだねー。

へー。

で、そのばらつきを数字に出来るんだねー。

へー。

それで、さっき、点数から平均点を引いたら、って言ったよねー。

はいー。

点数から平均点を引いたら、点数が平均からどれくらい離れてるか、分かるよねー。

そうですねー。

たとえば、平均点が50点だったとして、取った点数が65点なら、15点離れてるって事だよねー。

そうですねー。

それで、その離れ方が、「ばらつき何個分か」っていうのを調べるんだよねー。

へー。

どうすればいいか分かるー?

わかりませんー。

速いねー。

割るんだねー。

へー。

割るんだよー。

へー。

何を割るんですかー。

離れ方をばらつきで割るんだねー。

どうしてですかー。

割るって事は、いくつ分かってのを計算する訳だねー。

意味が分かりませんー。

素直だねー。15÷3は何ー。

5ですー。

5って何ー。

5ですー。

15個リンゴあったのを3人で分けたら5個ずつになった、って感じだよねー。

そうですねー。

じゃ、3がいくつあれば15になるー?

5ですー。

そうだねー。15÷3は、3に何を掛ければ15になるか、という計算でもあるんだねー。

へー。

だから、平均からの離れ方が、ばらつき何個分かを計算するには、どうすればいいー?

分かりませんー。

速いねー。

離れ方をばらつきで割ってやるんだねー。

へー。

実はさっき言ったんだけどねー。

へー。

さっき、平均50点で点数が65点だったら、って言ったよねー。

はいー。

それだと、離れ方は15点だよねー。

そうですねー。

今度は、ばらつきが5点だとするねー。

はいー。

さっき言った割り算憶えてるー?

忘れましたー。

すごいねー。離れ方÷ばらつき だったよねー。

そうですねー。

そしたら、15÷5になるよねー。

そうですねー。

答えは何ー?

3ですー。

すごいねー。

で、3って何ー?

分かりませんー。

速いねー。

取った点数が、平均からばらつき3個分離れてる、って事だよねー。

へー。

偏差値って、この事なんだねー。

へー。

いや、本当は違うんだけどねー。

えー。

これは難しいから、また今度ねー。

はいー。

------------

これが限界だ…。下書きもせずに突っ走った。

て言うか、100点満点のテストで標準偏差5点とか、あり得ないよねー。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

統計解析とバイオメカニクスの本

勉強したい人のための 統計解析のきほん Book 勉強したい人のための 統計解析のきほん

著者:松井 敬
販売元:日本実業出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

これは大変に良い本。

統計学を全然勉強した事が無い人が読む、という意味での入門書ではありませんけれども、ある程度学んだ後に、知識を整理・おさらいするのにいいと思います。書き方が、とても明快で解りやすく、丁寧です。オススメ。なか見!検索も出来ますね。

身体運動のバイオメカニクス研究法 Book 身体運動のバイオメカニクス研究法

著者:ゴードン ロバートソン,ジョセフ ハミル,ギャリー カーメン,ソーンダーズ ウィトルシー,グラハム コールドウェル
販売元:大修館書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本屋で見かけてめくってみたのですが、これはめちゃくちゃ面白そう…。

目次と内容紹介⇒http://thistle.est.co.jp/tsk/detail.asp?sku=40936

目次だけでグッとくるぜ…。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年2月18日 (水)

のーかがく

茂木氏って、テレビなんかで「脳科学的には~」って結構言いますね。

思う訳です。

脳科学的云々と言う前に、脳科学がどんなものか説明してもいいんじゃないかな、と。

モギケンの脳科学講義って事で、観る人も多いだろうし、内容が適切なら絶賛されるんじゃないですかね。

もちろん、こういう意見が予想されますが…。

故意的に、敢えてぼかして具体的な説明をせずに「脳科学」と言って説得力を持たせてるんだから、そんな事を積極的にやるはず無いじゃないか。

と。まあ、伊勢田さんとの対談とかを見ると、多分に「分かっててやっている」風ですからね…。何て言うか、初めから、専門家以外の学問分野への理解に期待していない、あるいは普及するという意識は無い、というようにも見えますね。

中身はブラックボックスのまま「脳科学的には~」と言うのなら、せめてエビデンスが不充分なものは気をつけて紹介しない、というくらいの配慮は欲しいものですが。

今更モギケンに何を求めるか、てのは無しの方向で。

あ、茂木氏に神経科学を代表させるような言動をさせるな、という強い批判もあるかもですね。

------------

このエントリーを書くきっかけ:A-WINGさんのはてブコメント

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年2月16日 (月)

言葉を理解する

dlitさんのとこのエントリー読んだりして、言葉の認識っていうか、そこらへんの論理をわかりやすく説明するのがあればいいかな、と思って色々考えたんだけど、なかなかまとめるのは大変そうなんだよね、、、

ほう。

そうそう、でも、それを噛み砕いてまとめて説明する、というのは骨が折れそう。認知心理学者とか、あと、工学方面の人なんかの詳しい人が、文字を読む、言葉を理解する、というのをわかりやすく解説した本なんかがあればいいんだけどねえ、、、

だね。なんか難しそう。

で、私が思うに、こういうのは、トップダウン的というか、「言葉を理解するにはどういう仕組みがあればいいか」、という方向から説明したほうがいいんじゃないかな、と。

ほう。

普段から言葉というのは駆使してるわけで、まあ、大部分は無意識でやってるんだろうけど、こういう風になってるでしょ、といわれたら、けっこう納得する気がする。馴染み深いからね。

うむ。

んで、それをちょっと考えてみようと思うんだが、時間は大丈夫?

おk。今日は特にやることもないし、面白そう。

おお。んじゃ、ちょっとやってみよう。

おう。

まず、われわれは、文章を見るなり話してるのを聞くなりして、言葉を理解するわけだね。

うん。

それには、書かれたものや聞いた音を単語に分けて認識する、というのがまず必要。

うむ。

で、他の部分と比較して、この単語はここではこういう意味かな、とか考える。

うむ。文脈ってやつか。

そうそう。で、文全体の意味を考えて、理解していく。同音異義語なんかはわかりやすいね。それから、ちょっと違うけど、「カネヲクレタノム」なんて例があるよね。

何それ?

同じ文字でも読み方が色々あるってやつだね。「金をくれた、飲む」とも読めるし、「金をくれ、頼む」とも読める。書いたやつなら、まあ、こんな電報打つかってツッコミもあるかもだけどw

今の電報の話だと、点が打ってないし、漢字じゃないから、それまでの出来事とかとあわせて、意味を推測するわけだよね。音を聞く方に近いのかな。

うむ。誰に送ったか、とか、送られた人の生活のしかたとか。

たったこれだけの短い文なのに、ちゃんと読むには相当の情報がいるってことだね。

カネヲクレタノム、という文だけでは意味を確定出来ないって感じか。

だね。で、それが、文字や音と意味がきつく結びついてるわけじゃない、という話につながってくる。

ほう。

さっきの同音異義語もそうだね。同じ音なのに、いくつも意味があったりする。これは言い方をかえると、音だけじゃ意味を決められないということ。さっき出てきた文脈がわかってないといけない、という話だね。

うむ。そういえば、代名詞なんかも、単に「あれ」と言ったって、どれだよ、となるな。その人がどういう場所にいるか、とかわかってないと、意味不明だね。

そう。で、これをどんどん進めていくと、言葉のかたちっていうか、文字や音と意味の結びつき自体が、そもそも必然的には結びついてない、という話になってくる。

どういうこと?

たとえば、りんごは、あの植物を指すわけだね。赤とか青の実をつけるやつ。

うむ。

で、それは、別に「りんご」と呼ぶ必然性はないわけだ。んで、「りんご」←この文字で書く必然性もないわけだね。明日から、あの赤い実を「ろんぎ」と呼んでも、別に世界は崩壊しないw

ww

もちろん、言葉ってのは社会の約束事だから、誰かがどっかで、明日から俺はろんぎと呼ぶからみんなそうしろ、と言っても、はいはいさようなら、ってなるんだろうけどね。

うむ。そういうのは、小学校あたりでけっこうあったねえ。

だね。略語とかもそうのなかもだけど、なんかのきっかけで広まれば、それが浸透して、普通の使い方になったりする。そういう意味でも、きつく結びついてるんじゃない、と言えるね。まあ、一番簡単に言うと、世界には沢山言語があるだろって話なんだけど。別に「apple」と呼んでもいい。で、それを言いかえても世界は崩壊しないw

www

あ、もちろん、全部の言葉で、意味とかたちに何の関連もないってことじゃないけどね。擬音語とかもあるし。

ああ、確かに。

それで、これは「縦」の関係と言えるね。

言葉の意味をかたちの結びつきを矢印でつなぐようなイメージだね。上下に意味とかたちを並べて。

ああ。ってことは、横もあるわけか。

うん。これは、網の目を考えるといいかな。網が、ある言語を表してるとして、網の目が、言葉の意味の範囲や広さを表す。まあ、普通は網ってのは、目の大きさは均一だけど、あくまでたとえとして。で、その網の形は、色々な言語によって違うわけだね。

うーん、ちょっとよくわからんなあ、、、

うーん、そうだなあ、、、たとえば、四足でワンワン吠える動物をまとめて「犬」というよね。で、犬の中でも色んな種類がいて、それぞれに名前がある。この分類のしかたは色々ある。これは、網の目を細かくしたり、ということだね。まあ、動物の分類には生物学の考えが入ってくるだろうから、ちょっと単純に見すぎだけど、遠い昔の分けかた、というのをイメージするといいかな。犬と山犬と狼の区別でたとえるのもあるし、箱に入った風船でたとえた人もいたね。

ふむ。つまり、時代によっても網の形は変わるし、それは、言語の種類の違いにもよる、ってことか。

うん。ただ、今書いたみたいに、自然がどうなっているかと全く関係ない、という話ではないけどね。ただ、きつく結びついてるわけじゃない。

なるほどね。

そう。だから、まず前提として、言葉の意味とかたちに必然的な結びつきはないし、意味にどういう仕切りをつけるか、というのも必然的な決まりがあるわけじゃない、というのがある。

うむ。

んで、言葉を見たり聞いたりして理解するには、このシステムっていうか、そのルールみたいなものを知ってなくちゃならない、ということだね。

お、いいたとえを思いついたぜ。

ほう。

長い木の棒は、武器にもなるし、つっかえ棒にもなる。木の棒だけでは意味は確定出来ない、みたいな。

おお、なかなかいいね。そんな感じ。で、考え方としては、ある文字と意味とか、文字と音とか、そういう所にも応用出来るよね。

ほう。

たとえば、「あ」という文字があるね。

うむ。

これって、違う人間が「あ」と発音しても、同じ「あ」として理解出来るよね。

つまり、AさんとBさんが「あ」って発音したら、その音は、物理的には全く同じ、じゃないよね。

うむ。

でも、「あ」として認識される。これ、よく考えたら不思議じゃない?

うーん、確かに。

全く同じ音、じゃないのに、同じ意味として理解出来る。これって、元々どういう言語を使うか、とか、他の言葉との差というか違いで、それが認識されるんだろうね。あんまり詳しくないけど。ま、でも、ある音が意味と必然的につながってるんじゃない、とは言えるね。

ふむ。

境界っていうか、どこから分けるかってのもあるよね。「あ」とそれ以外の音はどう分けるか、って。物理的に測定して、こっからは「あ」だ、とも多分言えないだろうし。だって、聞く人がどうか、というのも関係してくるしね。日本語を知らない人が聞いたら、というのも。

ああ、なるほど。

文字もそう。「あ」←この文字が「あ」と認識される。でもこれ、「ア」でもいいわけだね。形でいうと、楷書・行書・草書で「あ」という文字を書いても、わかる人には全部、それが「あ」だと認識できる。でも、その文字は全然違うよね。ていうか、私は草書読めんしw

ああ、あるね。急いで書いた字だと、自分が書いた字なのに後から読めないってのもあるわw その時はわかってたはずなんだけどねえ。これも文脈的なものか。

多分そうだろうね。これも音と一緒で、どこからを「あ」とするか、というのは難しいね。ていうか、文字読み取り装置なんかは、ここらへんを研究してるんだろうね。どのくらいの精度なのかは知らんけど、違う人が書いた文字を同じものとして分類するってのは、よく考えるとすごい。

うむ。数字は比較的シンプルそうだけど、漢字あたりになると難しそうだねえ。電子辞書だと、候補が出てきて自分から選ぶ、というやつだしね。

そう。しかも、これにもやっぱ、知識というか、その人がどういう字を書くか、という癖なんかも関係してくるよね。ミミズのはったような字でも身内なら読めるってのもあるし。

あー。ノート貸したら読めなかったって言われるとかねw いや、自分じゃ読めるんだけど、的な。

そうそうw だから、言葉を理解する、というのは、他の色んな知識とかが関係してて、それがないと考えられないんだよね。で、積み上げていく方向から考えると、文章を見たり話を聞いたりして、まずそれを文字に分けて認識する、という段階がある。

うむ。

「あ」という文字ならそれを認識して、その音ならそれだと認識する。文字だと、インクとか光の形を読み取って、それを脳内辞書みたいなのと照合して、これはどの文字だな、と認識する。その認識のしかたについては、いろんな説というか、考え方があるみたいだけどね。

ほう。

んで、文字が認識出来たら、脳内辞書から単語の意味を引っ張り出したりする。でもそれだけじゃ意味が確定できないから、他の部分も見て、それで推測したりする。それがうまくいかないと、誤解されたりするよね。

うむ。

逆に、空耳アワーみたいなのは、それを利用してるって感じだけどね。

あー、確かに。

で、こういうのが、かなり短い時間で、しかも行ったりきたりを一瞬で繰り返しながらなされるわけだね。ものすごい情報処理。

うむ。一々そういうのを考えなくても、勝手に言葉は出るしねえ。

そうそう。あまりにも当たり前だから、実はその仕組みのすごさってのは、あんまり意識はされないんだろうね。

それを考えると、水が言葉を、ってのはやっぱり変だね。

そだね。中には、水が情報を保存して、、、なんてこと言う人もいるけど、仮にそういうのがあるにしても、言葉を理解するには、そんなんじゃ全然足りないわけで。文字を認識して、文脈を読んで意味を決めていって、、、ってのを水がどうやってやるの、という話。

うむ。相手がどういう人か、とか、どの言語を使うか、というのも絡んでくるから、その難しさっていうか膨大さっていうかは、ちょっと途方もないね。

そう。で、こういう所を理解すれば、水が言葉に反応するって話についても疑ってかかれる可能性はあるね。

うん。特に、意味とかたちに必然的な結びつきがないってのは重要そうだ。

だね。それをかなり華麗に表してるのが、田崎さんのおなじみのたとえだね。「shine」を見せたら?ってやつ。

ああ、あれはいいね。でもあれだね。そういうのを説明しても、わからないひとはわからないだろうね。

まあ、それはそうだねえ、、、てか、理屈をショートカットして、波動やらなにやらを持ってくるから、初めからそこらへんに耳を貸さないって人はいっぱいいるだろうね。ただ、こういうのを説明するのも大事だと思う。

うむ。信じるか信じないかの半信半疑の人とか、あまり深く考えずに信じてしまったって人には、効くことがあるかも。

うん。後、水伝が検証できる、という意見について、こういう考えもあるよ、というのを出す意味もあるね。私なんかは、水伝はそもそも検証は絶対不可能だと思ってて、まあそれは、言葉のかたちと意味に必然的な結びつきがないという所からきてるわけだけど。

そういえば、菊池さんや田崎さんや天羽さんも、物理方面からだけじゃなくて、言葉の問題としても批判してたね。

そうそう。で、そっちから詳しく見ていくと、水伝は検証はできない、となるわけだね。だから、時折出る、水伝は検証はできるけれどもされてない、というのは、本当は、水伝側にものすごく譲歩してるんだよね。実際は、検証しようがないのを実験で確かめたっていってるから、はいそれ無理、検証できないのを検証したと言ってるからニセ科学だよ、とけっこうシンプルに言えるんだね。

------------

参考にした人々。

dlitさん、池上嘉彦、ソシュール、丸山圭三郎氏、高岡英夫、J.J.ギブソン、等々。

鍵になりそうな概念達。

恣意性、アフォーダンス、記号、有契/無契、シンボル・イコン・禁書目録インデックス、音声学、音韻論、音素、形態素、二重文節、等々。

私の知識は、言語学や記号学(論)、あるいは認知心理学の入門書に書いてある基本的なものくらいしか無いので、これくらいが限界。古くなっている所もあったりするかもですが、あまりはずさないように配慮したつもりです。不備や誤りがあれば、ご指摘を頂けると幸い。

そして、誰かが、

  • やる夫で学ぶ言語学
  • やる夫で学ぶ記号論
  • やる夫で学ぶ文字認識
  • やる夫で学ぶ文字読み取り装置の仕組み
  • やる夫で学ぶ認知心理学~文字認知をテーマに~

などを書いてくれるのを祈ります。

後、こういう内容のものって、そんなの言ったって水伝を信じている人は考えを変えないよ、とか、論理で信じてる訳じゃ無いだろ、的な反応がしばしば見られますけど、そんなの言ったって、あんまり意味無いですからね。これは、水伝が検証不能だというのを示すものでもあるし、言語をどう認識するか、というのを考えた文章でもあります。

水伝の信じ方にも色々あるのだし、「どうせ考えを変えやしないよ」、なんて言うのは、かなり的外れだったりします。

| | コメント (36) | トラックバック (2)

2009年2月14日 (土)

蜜の味?

最近、このニュースがにわかに注目を集めておるようであります⇒妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに:プレス発表:お知らせ:独立行政法人 放射線医学総合研究所

私としては、ある実証研究の一成果を紹介する際に、安易に喩え、つまり、ことわざや慣用句などを用いて「注目」させる、という書き方は、好ましく無いと考えます。特に、プレスリリースにおいてこのような書き方をするのは、よろしく無いでしょう。先日も、赤ちゃんの顔認知の話がありましたが・・。

さて、このような研究成果が発表された際には、そこから何が言えるか、また、何が「言えないか」、というのを丁寧に見ていくのが肝要でありましょう。

本来、原典を参照して検討していく、というのが適切でしょうけれども、それは専門の神経科学者や心理学者に任せるとして、ここでは、メディアに向けたプレスリリースである、という所に注目して、記事の書かれ方も含めて見る事にしましょう。

まずタイトル。※引用にあたり、文字修飾や改行を、適宜直します。部分的には追加。誤字脱字衍字は原文ママ

妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに
―妬みに関する脳活動が強い人ほど“他人の不幸は蜜の味”と感じやすいことが脳科学的に証明された―

ここで、「メカニズムが明らかに」、「脳科学的に証明された」と強調されています。メカニズム云々はともかく、「証明された」という言い回しは、慎重な実証科学者は使うのに躊躇いそうなものに思います。

「概要」部分。

ここでは、通常、人間は、他人の不幸に同情するものであるが、それだけでは無く、それを喜ぶような場合、つまり、「他人の不幸は蜜の味」という言い回しで表されるような現象があり、その脳機能との関係がそれまで明らかで無かった事、そして、その論理の一端が著者らの神経科学的研究によって明らかにされた事、が紹介されています。

今回の研究では、高橋らが考案した心理課題を被験者に与え、その時の脳内の活動をfMRI により解析しました。その結果、第1に妬みの感情には前部帯状回*3と呼ばれる葛藤や身体的な痛みを処理する脳内部位が関連していることがわかりました。次に、妬みの対象の人物に不幸が起こると、線条体*4と呼ばれる報酬に関連する部位が活動することがわかりました。さらに妬みに関連する前部帯状回の活動が高い人ほど、他人の不幸に対して線条体が強く反応することが明らかとなりました。

ポイント

  1. 著者らが心理測定尺度を考案。
  2. fMRIにより画像解析。
  3. →妬みの感情に前部帯状回が関連。
  4. 妬みの対象に不幸が起こる→線条体が活動。
  5. 前部帯状回の活動と線条体の活動に正の相関関係。

が見出された。

最後の段落では、本研究が各分野に今後与えるであろう影響を仄めかしています。心理測定法・教育への応用・カウンセリングへの応用 等々。

「背景」部分。

まず、妬みという感情について説明し、神経科学的にその感情については未だ明らかにされてこなかった事を紹介し、その研究の意義を説明しています。

このような私達が普通に感じる感情について脳内のどの部位が関係し、また感情と感情の関係についてはこれまでほとんどわかっていませんでした。また他人の不幸を喜んだり切望したりする感情は、しばしば非道徳的な行為や犯罪にも結びつきます。このように妬みは個人の生活の満足度や自己の評価にも関係し、この感情をマネジメントすることは個人や集団の心理的安定に重要です。本研究ではまず、自己と他者との関連性の強弱が妬みとそれに関連する脳活動にどのように影響するかを検討しました。次に妬みの対象者に不幸が起きた時の“他人の不幸は蜜の味”という感情を誘発する脳活動部位を同定し、さらに妬みに関連する脳活動との関連を調べました。

ここでは、他人の不幸に快感情を覚える事の問題点、それが反社会的行為に繋がる可能性、また、個人の心理的な安定に及ぼす影響について示唆しています。

「研究手法と結果」部分。

ポイントを箇条書き ※鉤括弧で括った部分は引用部

  1. n = 19 (健康な大学生)
  2. 被験者本人が主人公である物語を、被験者自身に読ませる。登場人物↓※この部分、主人公との違いや共通点がが解りやすいように、強調で示す
    • 主人公:「主人公は大学生で、学業成績や経済状況などにおいて平均的な物や特性を有している。」
    • 学生A :「被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通で、かつ被験者より上級であったり優れたな物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生B:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なるが、被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生C:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なり被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。」
  3. ここで便宜的に、
    • 主人公:平凡な男
    • A:出来る男
    • B:出来る女
    • C:平凡な女
    • とする ※「学生○の~」とすると、被験者の事と混同するので紛らわしいため
  4. 実験1:被験者がシナリオを読んだ後、各登場人物に対する……引用部が不明確なので、そのまま引用する。
    • 「学生A, B およびC に対する脳活動をfMRI にて計測した。」 ※「対する脳活動」というのは、変な表現。文脈から補うと、シナリオを読んだ直後に画像診断している、という事だろう
    • 各登場人物に対する「妬み」の強さを測定。6件法による。
  5. 結果1
    • 出来る男>出来る女>平凡な女 の順に妬みの評定は高かった。
    • 出来る男・出来る女のエピソード後には前部帯状回に活動。活動の強さは、出来る男>出来る女 だった。
    • 妬み尺度の成績と前部帯状回の活動に正の相関関係が見られた。
  6. 実験2:出来る男と平凡な女に不幸が起こる、というシナリオを被験者が読み、fMRIで測定。→出来る男と平凡な女に起こった不幸についての「うれしい気持ち」を6件法で評定。
  7. 結果2
    • 出来る男の不幸に対して→中程度のうれしい気持ち・線条体活動あり
    • 平凡な女の不幸に対して→うれしい気持ちは報告されず・線条体活動無し
    • うれしさ尺度の結果と線条体活動に正の相関関係が見られた。
  8. 前部帯状回の活動と線条体の活動とに正の相関関係が見られた。

以下、ここは考察する余地がある、という部分。青字で示す。 ※あくまで、記事を見る限りでは、という観点。詳しい所は、原典に載っているはずなので

  1. n = 19 (健康な大学生) n の大きさは充分か。標本抽出はどうか。母集団は何で、どのように抽出したか。神経科学的には、この n の大きさと標本の採り方で、どこまで一般化出来るか。
  2. 被験者本人が主人公である物語を、被験者自身に読ませる。登場人物↓※この部分、主人公との違いや共通点がが解りやすいように、強調で示す
    • 主人公:「主人公は大学生で、学業成績や経済状況などにおいて平均的な物や特性を有している。」
    • 学生A :「被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通で、かつ被験者より上級であったり優れたな物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生B:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なるが、被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。」
    • 学生C:「被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なり被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。」
  3. ここで便宜的に、
    • 主人公:平凡な男
    • A:出来る男
    • B:出来る女
    • C:平凡な女
    • とする ※「学生○の~」とすると、被験者の事と混同するので紛らわしいため
  4. 実験1:被験者がシナリオを読んだ後、各登場人物に対する……引用部が不明確なので、そのまま引用する。
    • 「学生A, B およびC に対する脳活動をfMRI にて計測した。」 ※「対する脳活動」というのは、変な表現。文脈から補うと、シナリオを読んだ直後に画像診断している、という事だろう 読むのと計測との間に、どの程度の時間的な開きがあったか。言語的教示はどうだったか。
    • 各登場人物に対する「妬み」の強さを測定。6件法による。 この尺度は標準化されたものか。妥当性・信頼性は充分か。単に一つの質問を尺度として用いたのか、それとも他の質問も含んだ尺度として構成されていたか。そもそも、対象に対して妬みを感じるか、という質問をストレートに行うのが適切か。
  5. 結果1
    • 出来る男>出来る女>平凡な女 の順に妬みの評定は高かった。 この評定を、シンプルに間隔尺度のように扱って良いか。平均(なのか?)を出して比較して良いか。この差をどの程度実質的に意味あるものと見るか。検定などは行ったか。行ったとすればどの手法だったか。 ※ポイントは恐らく、平凡な女に対する評定の低さ(グラフ上では0に近い)にあるのでしょう
    • 出来る男・出来る女のエピソード後には前部帯状回に活動。活動の強さは、出来る男>出来る女 だった。 帯状回の活動をどのように測り、強さをどう評価するか、というのを詳しく知らないので、保留
    • 妬み尺度の成績と前部帯状回の活動に正の相関関係が見られた。 そもそも、横軸を「妬みの強さ」として本当に良いのか。上にも書いたが、その尺度はきちんと作成されたか。「妬み」という構成概念をきちんと測るものなのか。縦軸の(%)って、どういう意味なんでしょう。脳画像全体に占める割合? ピクセルとかボクセルとかの。縦軸をああいうスケールで取って見るくらい、1%と2%の差というのは大きいって事なのかな。分解能の高さと領域の大きさによる、か。
  6. 実験2:出来る男と平凡な女に不幸が起こる、というシナリオを被験者が読み、fMRIで測定。→出来る男と平凡な女に起こった不幸についての「うれしい気持ち」を6件法で評定。 「妬み」の所と同様。下も大体同じ。
  7. 結果2
    • 出来る男の不幸に対して→中程度のうれしい気持ち・線条体活動あり
    • 平凡な女の不幸に対して→うれしい気持ちは報告されず・線条体活動無し
    • うれしさ尺度の結果と線条体活動に正の相関関係が見られた。
  8. 前部帯状回の活動と線条体の活動とに正の相関関係が見られた。 図を見る限り、そんなには高く無さそうだけれども…。どのくらいかな。ところで、原点が0で無いのは何故?

「本研究の成果と今後の展望」部分。

について書こうと思ったけど、力尽きた…。コメント書いてねっ。

------------

図4の散布図ですが…。

もしかして、相関係数(ピアソン)、0.4ちょっとじゃないですか? 0.43くらいと見た。で、帰無仮説: ρ = 0 を棄却出来ないような。と言うか、いずれにしても、n = 19 だと、かなり(95%)信頼区間が広くなりますかね。

全然違うかもですけど。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年2月11日 (水)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2

complex_catさんのコメントへのレス。

まず前提として、遠当て系の「触れずに倒す」技、つまり、相手の勢いを利用して結果的に触れずにすんだ、という技で無いものは、純粋に心理社会的論理(高岡は、「人文―社会科学的メカニズム」)によって成立する、と見て良いと思います。
※「投げる」では無く「倒す」と一般化します

その上で、「触れずに倒す」という主張は、大きく分けて、武技に利用出来ると解釈する場合と、そこは薄めて、そういう現象が起こるという事実のみを紹介する場合の、二つの分け方があると考えられます。

そして、それに共通する論理として、「お互いに顕在的・意図的な協力関係が無い」というものがあります。

尤も、武術的な色合いの薄い組織においては、必ずしも協力関係が全く無い事を強調はしないかも知れませんが、しかし、受けが「わざと飛ぼうと思って飛んでいる」と主張する所は無いと考えられます。それは即ち、完全なる「演技」であるのを認める、という事なので。

それで、それぞれの主張を個別に見ていく必要がある訳ですね。

で、「武術」の話として考えるならば、そもそも武術とは、自分に敵対的な人間、友好性がほぼ無い相手をいかに制するか、という合目的性があるので、そこにいかに技術が適合するか、というのを見る必要があります。

その観点から言えば、施術者と被術者との心理的関係を操作した実験がなされないと、武術として「触れずに倒す」技術の普遍性・汎用性は論証出来ないと考えています。

これを端的に表したのが、「リングに上がってみろ」、「実際に戦って触れずに倒してみろ」的なものだと思います。

柳龍拳氏などは、このような挑戦を受け、見事に散った訳ですけれども、このような実験であれば、個人が有する技術がどうであるか、というのをある程度客観的に確かめられますね。もちろん、遠当てなるものは敵対的な相手には絶対成立しないのだ、という強い結論は、科学的には無理ですけれども。

整理すると、「触れずに投げる(倒す)」という現象そのものが、そもそもある程度多義的であるのを押さえつつ、通底する共通性も認識しながら個別に検討していく、という見方が重要である、といった所でしょうか。

私自身は、武術、つまり敵を制する技術の紹介、という文脈で、「触れずに」制す技を仄めかすものは、強烈に忌避するのですが、これは、自分が触れた武術や、私淑した先生方(斉藤守弘先生、佐川幸義先生、塩田剛三先生、等の方々)の影響が多分にあると思います。

遠当の武術的汎用性についての個人的見解としては、遠当が武術的に普遍的に通用する技術と見るのは理論的にもほぼ不可能だ、というものです。
特に、知らない人間に襲い掛かられた(どっちも知らない)、という最も極端な状況の一つを思い浮かべるならば、襲い掛かった人間にある 襲う人間についての情報は、姿形についてのもの程度しか無い訳なので、力学的関係が存在せず、かつ心理的関係を用いた技術、は成立しないと見て良いと思います。

見方を変えるならば、友好的関係が0に近く、かつ力学的関係が0の場合に遠当が成立するには、視覚・聴覚・嗅覚などの情報のみを手がかりにするか、もしくは疑似科学的論理(無意識が繋がっている、なんちゃら電磁波がうんちゃら、気の実体性の主張、等)を仮定するしか無い訳ですね。そしてそれは、現在の知見から考えれば、成立しないと判断して良いだろうと考えます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

有意

ほぼ、ちがやまるさんへの私信です。

統計学を拓いた異才たち 統計学を拓いた異才たち

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

先日紹介したこの本で、フィッシャーが「有意」という事について語っている論文の一説が引用されていました。以下引用(P123・124)。

 生物学的方法によって生命体の研究をする際には、統計的有意性検定は不可欠である。その役割は、研究・検出しようとしている原因によってではなく、われわれがコントロールできない多くの複雑な状況から生じた偶然の出来事に惑わされないようにすることにある。もし見当をつけているものが真の原因でないために、めったに生じ得ないという場合は、その観測結果は有意であると判断される。慣例として、偶然によって生じるのが二〇回の試行のうち一回未満という程度であれば、結果は有意であると判断する。研究の実務に携わっている者にとってこれは恣意的だが、便利な有意水準である。だからといって二〇回に一回判断を誤るというわけではない。有意性検定は何を無視したらよいのかを教えてくれるだけにすぎない。言い換えれば、すべての実験で有意な結果が得られないということだ。かなり高い頻度で有意な結果が得られるような実験計画を知っている場合、現象は実験的に論証可能であると主張するにとどめたほうがよい。そのため、再現する方法がわからない有意な結果がぽつんとあっても、これはあらためて解明されるまで未決定のままなのだ。

訳の問題なのか、私が文脈を捉え切れていない、知識不足で補えない、からなのかは判りませんが(後者だと思いますけど)、ちょっと私には、この部分の意味が掴み切れなかったりします。

それはともかくとして、これが、フィッシャーが有意水準についてどういう考えだったか、というのを示す一つの資料として、参考になれば・・。

出典↓

原典:Fisher, R. A. (1929) "The Statistical Method in Psychical Research, " Proceedings of the Society for Psychical Research, 39 p. 112.

これかな?⇒Adelaide Research and Scholarship: The Statistical Method in Psychical Research.

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

統計学史

図書館や本屋を見てまわって思った事なのですが。

統計学の歴史をまとめて書いた本って、あまり多く無いように感じるんですが、これって気のせいでしょうか。統計解析の方法を紹介する本は唸るほど見かけるのだけれど…。

統計の勉強をしていると、色々な解析方法や理論があるのを知って、ではそれが歴史的にどんな流れで、どのような要請によって発見され、また編み出されたのか、という所も勉強したいな、と思う訳ですね。

で、図書館や本屋に行って探すけれど、たとえば独立したコーナーがあるくらいの量は無い、という印象。

需要はあると思うんですけどね。いや、単に私が探せていないだけかもですが。

何か良い本があれば、教えて下さい。

と、ただ教えて、というのはあれだから、私がこれまで読んだものをご紹介。

統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀 Book 統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀

著者:デイヴィッド サルツブルグ
販売元:日本経済新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑再読中。これは面白い本だと思います。

R.A.フィッシャーの統計理論―推測統計学の形成とその社会的背景 Book R.A.フィッシャーの統計理論―推測統計学の形成とその社会的背景

著者:芝村 良
販売元:九州大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑バリバリの学術書。値段見たら、結構するのね…。図書館で借りたから気付かなかった。

確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで Book 確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで

著者:マイケル・カプラン,エレン・カプラン
販売元:朝日新聞社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

↑確率の本だけど。これ、読んだっけ……記憶が曖昧。

amazonで見つけた、未読の本達。

ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語- Book ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語-

著者:丸山 健夫
販売元:日科技連出版社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 統計学史

著者:小杉 肇
販売元:恒星社厚生閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 多変量解析の歴史

著者:安藤 洋美
販売元:現代数学社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

統計学史の本はいくつかヒットしましたけれど、最近刊行されたものは、あまり無い模様。

そして、国会図書館で検索しようとしたらメンテナンス中というオチ。

WEBページでまとまったものがないか、と調べたけれど、見つからないなあ。古い本だけれど、往時の事を知るという意味で、これなんかは参考になるかな⇒統計科学の三十年

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年2月 7日 (土)

丹田とはシステムである

Interdisciplinary: 気とはシステムであるの、「気」を「丹田」に換えても、ある程度成り立ちます。

もちろん、気は より一般的な概念で、丹田(ここでは「下丹田」、すなわち、いわゆる臍下丹田を指す)は、下腹にある、実体のように感ずる何物か、というような違いはあります。

当然、解剖学的に見れば、丹田があるとされる箇所に、それと対応する独立の組織や臓器は無い訳です。ですから、バイオメカニクス的に考えれば、その辺りの筋肉を合理的に働かせる意識、あるいは認知のポイントであり、心理学的には、そこを認知する事で精神的な安定が得られるとされているポイントである、というように、総合的・機能的なものだと考える方が、適切でしょう。高岡英夫氏は、著書において、

伊藤 正中線は、陸上競技でも肉体と直接的対応を考える段階では軸として理解することができますが、武術でしきりにいわれ、高岡先生も重要視されている「ハラ」とは、一体どういうものなのですか。

高岡 「ハラ」、「下丹田」と古来から言われてきたものは人体下腹部の中心にあるとされている点ないしは球状の部分です。しかし、その部分は、解剖学的には腸があるばかりで他には何も見いだせません。ところが、その丹田があるとされる周りには、大腰筋、腸骨筋、上下双子筋、方形筋、横隔膜などの深層筋群と腹筋、腰背筋などの浅層筋群が丹田を中心に長球状の構造を形成しているのです。

 つまり、「丹田ができる」とは、こうした「長球状筋構造体」が至適のバランスを持った統一体として筋収縮活動を行うことを指すのです。

伊藤 武道家の人達のハラに対する説明には、極めて観念的な印象を持っていたのですが、先生の説明は極めて明快ですね。

高岡 ただ、深層筋や深層小筋群は、意識化することが極めて難しいのです。そこで意識と動作の関係がまた出てきます。丹田自体は、それらの筋肉群を統一的に動員するための「意識装置」であるわけです。

伊藤 なぜ、ハラが利くと動きがよくなるのでしょう。単に意識化できない筋肉というのは、その丹田周辺の筋肉群以外にも体全体に沢山あると思いますが。

高岡 それは、四肢の運動や体幹・呼吸運動の本質的な因子を根底から支えているのが、この長球状筋肉群だからです。それが本質的な因子を担っているということは、脊椎や骨盤とのつながりを考えれば容易に推察できると思います。

 ついでに申しますと、中丹田があるといわれている胸の部位、つまり胸郭を取りまく筋肉群も長球状構造体をなしており、この意識中心が中丹田なのです。

このような見解を表明しています(『極意要談』)が、バイオメカニクス + 心理学的に考えると、このようなシステムあるいは機能を指し示す概念として「丹田」がある、というのは、それほど的外れでは無いでしょう。※高岡氏は、実証が進んでいないのに断定的に語り過ぎるきらいがあるので、読む場合は注意しましょう

もちろんこれは、きちんと解明されたものでは無いでしょう。丹田を意識すると、実際にその筋肉群が合理的に使えるようになるのか、とか、それらが使える際の知覚あるいは認知のありかたが、位置・形状的に、伝承されたきた丹田とどのくらい対応するか、とか、解剖学以外の、神経生理的なシステムはどのように関わっているか、とか、解明すべき事柄は、沢山ある訳です。そもそも、合理的な身体運動や、安定的な精神状態と、丹田があるとされる付近の構造とどう科学的に関わってくるのか、という基礎的な部分もあります。ここら辺は、たとえば腸腰筋(大腰筋・小腰筋・腸骨筋)の重要性などが関わってくるでしょう。

丹田というものは古来、そこに実感がある、とされているものですから、心理学的に見れば、何らかの体性感覚的情報の認知の体制あるいはスキーマ、と考える事が出来るでしょう。その意味では、丹田の位置に対応する臓器等が存在しないからといって、「丹田は存在しない」と言うのは、気が早いのです。

ここら辺を踏まえると、肥田春充翁が試みたような、丹田の位置を幾何学的厳密に定める、というのものは、やはり的外れであった、と私は考えます。初めから複雑なものは、複雑なままに記述しなければなりません。過度に単純化して普遍的な原理を得ようとすると、そもそも構成概念を示す言葉だったのに、無理に切り取ってしまう、という本末転倒になる事があります。

こういう概念を解明するには、認知神経科学的な研究、脳イメージングを用いた分析等が、必須となるでしょう。あるいは、言語論的な論理も考える必要があります。たとえば、甲氏が「丹田を意識」するのと、乙氏が「丹田を意識」するのが、同じ結果をもたらすとは限らないのですしね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 6日 (金)

切り口

良書を読んだので、ご紹介。

心理学の切り口―身近な疑問をどう読み解くか (心理学の世界 教養編) Book 心理学の切り口―身近な疑問をどう読み解くか (心理学の世界 教養編)

著者:森正 義彦
販売元:培風館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本、培風館の「心理学の世界」というシリーズの中の一冊です。コンセプトは、「初学者でも読みこなせるように,体系的な学習ではなく,心理学の興味深い側面を選んで解説」するというもので、身近の出来事や、いかにも興味を惹きそうなトピックについて、心理学の知識で説明していきます。たとえば、無気力(1章)、外向性/内向性(3章)、オオカミ少女(4章)、詐欺(に騙される心理)(7章) 等々。これらの話題を、様々な心理学の分野の概念を説明しながら解説する、という内容。

尤も、学術書ですから、普及書あるいは啓蒙書のような平易さはありません。全く心理学の知識が無い人が読むには、ちょっと難しいでしょう。とはいえ、一般的な心理学の概説書よりは、かなり読みやすいと思います。

なかでも私は、オオカミ少女などの野生児の話(4章。藤永保氏 著)、「ど忘れ」と、詐欺に騙される心理について(6・7章。海保博之氏 著)を、面白く読みました。

また、12・13章は、個人的に最も参考になった部分です。内容は、繁桝算男氏よる、心理学における因果関係の考え方と、数量化や実験計画の入門的知識の紹介。因果関係の所は、科学一般に通ずる大変重要なもので、とかく難しくなりがちなトピックですが、比較的平易で(それでも、予備知識が無いと、読むのはきついかも知れません)、よく整理されているので、参考になりました。オススメです。

なかなか良い本なので、機会があったら読んでみて下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 5日 (木)

対照的。そして「蛇足」

片や⇒ママまっすぐこっち向いて…横顔わからぬ5か月児(読売新聞) - Yahoo!ニュース

片や⇒赤ちゃん、8カ月までに横顔認識-中大・生理学研が確認:日刊工業新聞

同じトピックを紹介した記事なのに、味付けによってこれほど印象が変わるのだ、という一例。

研究は、脳画像診断によって、(8ヶ月児に対して)5ヶ月児はどうやら横顔を顔として認知はしないようだというのを生理学的に実証したもの。発達心理学的には、注視時間等を尺度として、乳児の認知を研究しますが、それの生理学的な部分が脳画像的に明らかになった、という事で、大変興味深いものです。

ここで、タイトルの比較。まず読売。

ママまっすぐこっち向いて…横顔わからぬ5か月児

いかにも情緒に訴えかけるような書き方。記事内容とも併せて、5ヶ月時では横顔は顔として認知されないから子育ての際には正面から見た方が良い、という印象を強く与えるようなものとなっています。

工業新聞。

赤ちゃん、8カ月までに横顔認識-中大・生理学研が確認

読売と全然違いますね。こちらは、5ヶ月児と8ヶ月児を比較して研究したのを踏まえて、5ヶ月から8ヶ月の間に横顔の顔認知が形成されるようだ、というのを説明しています。

次に、論文著者のコメントを紹介。読売から。

 実験を行った同大の仲渡江美研究員らは「特に月齢の低い赤ちゃんとは、目と目を合わせて接することが大事だ」と話している。

工業新聞。

親子間でコミュニケーションを取る際「月齢の低い赤ちゃんには、正面を見て話すことが大事と示唆される」(中央大の仲渡江美研究員)という。

明らかに印象が違いますね。ちょっと詳しく解らないのですが、これって、各社の取材に答えたのでしょうか。

工業新聞の方は、科学者として、とても慎重な言い方ですよね。「大事と示唆される」という表現。当然、月齢の低い赤ちゃんが横顔を顔として認知しない可能性が生理学的に確認された、という事なので、それは愛着(attachment)の面から言っても、とても重要な現象である、というのは言えます。正面から向き合う頻度が発達に何らかの影響を及ぼす、というのは、理論的にも的外れなものでは無いでしょう。ですが、それはまた別の実証の文脈なので、「大事と示唆される」という言い方に留まる。従って、工業新聞の方の仲渡氏の発言は、うん、確かにそうですね、と科学的にも納得のいくものです。

で、読売の方。これは、タイトルとの相乗効果があるかも知れません。つまり、タイトルで、いかにも赤ん坊が「訴えかける」ような書き方をしていて、その印象のまま読めば、「え、この研究だけからそんな事が言えるの?」と感じてしまうかも知れません。また、冒頭で、

 赤ちゃんを抱きながら、携帯電話などに夢中のパパやママはご用心--。

このような書き方をしていますからね。記事を面白くしようとしたのでしょうが、余計な部分とも言えるでしょう。

もちろん、実際に仲渡氏がどういう発言をしたか、というのも考えるべき所ですね。実際には慎重な物言いをしていたとしても、不本意な要約をされる、という可能性はあると思います。工業新聞の慎重な感じからすると、読売は若干不用意にも取れるので(タイトルなどでバイアスが掛かった、という可能性もあるけれど)。※プレスリリースのようなものが出た、というのも考えられますけれど、それにしては、内容が違い過ぎると思うので

それにしても、読売新聞の記事の書き方の微妙な事よ。せっかくの興味深い研究結果なので、あまり余計な味付けはしちゃいかんですよ。

参考資料

山口真美 研究室 -中央大学文学部 心理学研究室・科学技術振興機構 さきがけ

Wiley InterScience :: JOURNALS :: Human Brain Mapping

日本心理学会 第72回大会

新学術領域研究学際的研究による顔認知メカニズムの解明

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年2月 1日 (日)

タイトル

ふと思い立って、amazonで、ニセ科学関連の本がどのくらいあるのか、調べてみました。

やり方は、

  • ニセ科学
  • 疑似科学
  • エセ科学 
  • 似非科学

で検索する、というシンプルなもの。

関係無さそうなのも拾うので、タイトルにこれらの語が入っているものと、私が読んだ事があって、明らかにそれ関係の本だと知っている物だけを、ピックアップしてみます。

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書) メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

著者:松永 和紀
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

水はなんにも知らないよ (ディスカヴァー携書) 水はなんにも知らないよ (ディスカヴァー携書)

著者:左巻 健男
販売元:ディスカヴァー・トゥエンティワン
Amazon.co.jpで詳細を確認する

なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉奇妙な論理が蔓延するとき (ハヤカワ文庫NF) なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉奇妙な論理が蔓延するとき (ハヤカワ文庫NF)

著者:マイクル シャーマー
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

怪しい科学の見抜きかた―嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 怪しい科学の見抜きかた―嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説

著者:ロバート アーリック
販売元:草思社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか―ニセ科学の本性を暴く わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか―ニセ科学の本性を暴く

著者:ロバート・L. パーク
販売元:主婦の友社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

疑似科学と科学の哲学 疑似科学と科学の哲学

著者:伊勢田 哲治
販売元:名古屋大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する

疑似科学入門 (岩波新書) 疑似科学入門 (岩波新書)

著者:池内 了
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

臨床心理学における科学と疑似科学 臨床心理学における科学と疑似科学

販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「わかる」と「納得する」―人はなぜエセ科学にはまるのか

後、ガードナーとかハインズの本もありますが、画像が貼れないのでした。

内容がニセ科学を扱った物でも、タイトルにその語が入っているものは、そんなに無いっぽいですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月28日 (水)

ニセ批判批判 + 代案提示→ニセ科学批判者(補足)

昨日のエントリーの補足。青文字が補足の部分です。

2段落目から。

complex_catさんの仰る通り、ニセ科学批判活動を批判する人で、ではこうしたらどうか、と具体的な批判活動の代案を示す人は、いませんよね。ほとんど見かけない、という事。「いない」というのが「全く無い」を示さない事は、日常的な使い方から補って下さい。

実は、私としては、代案を示して現在のニセ科学批判一般を批判するのは無理だ、と思っています。ここで「代案」とは、上の段落と対応している。「具体的な批判活動の代案」の意味。それを示しながらもニセ科学の批判活動全般(一般)を批判するのは無理だろう、と考えている。理由は下に。

元々かなり広範囲な批判活動で、テキストも色々あって、向ける対象も様々なので、そもそもニセ科学批判と括って全部を批判するのは、不可能に近いんですよね。今まで誰もやっていない批判の仕方、というのを示すのも、多分出来ない。ああ、それはあの人がやってるよ、となるでしょうから。要するに、「具体的な代案」を出して「こうすべきだ」と言いながら、「現状の批判活動一般」を批判するには、現状の批判活動の悉くが「まずいやり方」であるのを示さなくてはならないが、既に多様な角度から批判がなされているので、おそらくそれは無理(どういう具体例を示しても、どこかの分野でそれは既出だ、と言われる)だろう、と書いている。

で、それ(代案提示)をせずに批判活動一般を批判するとなると、メタメタな次元からものを言うしか無い訳ですよね。論宅さんみたいにならざるを得ない。概念そのものに無理がある、とかね。

もし、自ら批判の方法を具体的に示しながら批判批判をするとなると、その人は自動的に「批判者」に入らざるを得ない訳です。でもそれは、批判活動一般に疑問を懐いている人は、出来ないでしょう、おそらく。だって、批判活動を批判したいのだから。批判する集合に自分が含まれていちゃあ、堪らんでしょう。

私は、代案を示さなければニセ科学批判活動を批判してはならない、などとは言っていない。示さないで一般論に終始するのは非常に解りにくい、というのは思うけれども。そもそもこのエントリーは、代案を示しつつ一般的にニセ科学批判活動を批判するのは難しいだろう、と言っているのだし。

コメント欄で書いている、具体例を出せばそもそも「批判批判」とは呼ばれないのではないだろうか、という主張は、「ニセ科学批判批判」が、単に「ニセ科学を批判する活動や人間をさらに批判する」、という「文字通り」の意味では無く、ある独特の意味を持たされている言葉だと考えているから。田崎さんの水伝批判文書が発表された直後にそういう言葉が出てきた事に、思いを馳せるのが良いと思う(意味は当初は「文字通り」のものに近かったように思うけれども、時間を掛けてきて、意味が狭まった、つまり条件が付加された、ように思います)。例⇒甲虫ブログ: ニセ科学批判批判

元々このエントリーは、前日の続きでもあり、complex_catさんのコメントとも関係しているもの。ニセ科学批判批判と呼ばれるような言説が、悉く一般論過ぎて具体例(これは「代案」の意味では無い)に乏しいのは、そもそもそういうものが括られて「ニセ科学批判批判」と呼ばれているからだろうと、改めて考えた(前から考えていた)。だから、仮に、現状の批判活動を批判しつつ(ニセ科学批判批判)、代わりになるような批判の仕方を提示したとするならば(+ 代案提示)、それはもう、今の意味内容から鑑みるに、「ニセ科学批判批判」とは呼ばれず、実質的に「ニセ科学批判(者)」となる(→ニセ科学批判者)のだろう、という考えを書いた。

※タイトル中の記号は、イメージです

一応言っておきますけれど、ニセ科学批判批判という言葉はメタ論に終始して具体例が無いものを指しているから、それを踏まえて用いるべきだ、と主張してはいません。

初めはニセ科学批判を批判するもの、程度の意味だった言葉が、おそらく色々の意味を付加されて用いられるようになったのではないか、という考えに基づいて、このエントリーは書かれている訳です。具体例や代案を出して言及した時点で、「ニセ科学批判批判」とは呼ばれず、「ニセ科学批判者が内部の批判活動を批判した」と看做されるのではないだろうか、と。それくらい、「ニセ科学批判批判」という言葉には独特の意味が持たされている、と私は考えています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月26日 (月)

ニセ批判批判 + 代案提示→ニセ科学批判者

昨日のエントリー 2008年1月27日追記:前日のエントリー⇒Interdisciplinary: 申し開き? についたコメントを読んで、前から思っていた事を。多分、この考えを持っている人は多い、と推測します。2008年1月27日追記:出来ればコメント欄も読んでね

complex_catさんの仰る通り、ニセ科学批判活動を批判する人で、ではこうしたらどうか、と具体的な批判活動の代案を示す人は、いませんよね。

実は、私としては、代案を示して現在のニセ科学批判一般を批判するのは無理だ、と思っています。

元々かなり広範囲な批判活動で、テキストも色々あって、向ける対象も様々なので、そもそもニセ科学批判と括って全部を批判するのは、不可能に近いんですよね。今まで誰もやっていない批判の仕方、というのを示すのも、多分出来ない。ああ、それはあの人がやってるよ、となるでしょうから。

で、それ(代案提示)をせずに批判活動一般を批判するとなると、メタメタな次元からものを言うしか無い訳ですよね。論宅さんみたいにならざるを得ない。概念そのものに無理がある、とかね。

もし、自ら批判の方法を具体的に示しながら批判批判をするとなると、その人は自動的に「批判者」に入らざるを得ない訳です。でもそれは、批判活動一般に疑問を懐いている人は、出来ないでしょう、おそらく。だって、批判活動を批判したいのだから。批判する集合に自分が含まれていちゃあ、堪らんでしょう。

※タイトル中の記号は、イメージです

| | コメント (55) | トラックバック (2)

2009年1月25日 (日)

申し開き?

2009-01-24 - 「で、みちアキはどうするの?」:ニセ科学はなくなんないよ~

ちょっとよく解らないですね。

その実践者は、自分で、ホメオパシーが、まじないか何かと同程度のものと看做している、って事なんでしょうか?

気休めで、効くかどうか解らん、と思っているんなら、まあ良いのではないでしょうか……と言いたいですが、そう単純でも無い気はしますね。

「あなただっ