別所でそこそこの量書いて考察しましたので、ちょっとまとめてこちらに載せてみます。ちょこちょこ省略して、内容は手直しせずにそのまま。やっつけです。読みにくいでしょうけれど、ご容赦をば。
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ニセ科学論のポイント的な。菊池さんは、敢えて価値判断を含めるという意味で「ニセ科学」の語を用い、「疑似科学」はネガティブな価値判断を含めない語として取っておきたい、という立場。伊勢田さんは、「疑似科学」の語に否定的な意味合いが含まれるから出来れば避けたかった、という立場。
菊池さんは「ニセ科学」の語を、シャーマーの訳書にヒントを得て使い始めたという。※はてなキーワードの「ニセ科学」とか見てね。情報源としては、亀さんのブログとか私のブログとかから探して下さい。
@kikumaco 個人的な語感ですが、「的」をつけると、益々ネガティブに感じないですね。疑似的、とか。似ているけど違う、というくらいの意味合いで、必ずしも否定的・攻撃的な内容は含まれていないという。ただ、科学哲学上の議論を意識すると、伊勢田さんの考えも分かりますね。
おっと、補足。先ほどの伊勢田さんの見解は、『疑似科学と科学の哲学』7・8ページを参照して書きました。
まずあるのは、「科学のようで科学でない」言説。で、これは、既存の科学的知見を用いているか、とか、科学者集団のコンセンサスは得られているか’(手続きを満たしているかなども)、とかを考えて判断される、と。
で、言説の構造の評価として、「科学のようで科学でない」ものと判断される。そして次。そういう言説が生まれる場。これは、1)事実であると主張される 2)仮構だと主張される この二種類が考えられますね。前者は実証したとか言うやつで、後者はフィクションの設定で使われるものなど。
敢えて単純化すると、前者をニセ科学と呼び、後者を疑似科学と呼ぶ、とすることは出来ます。しかし、一応便宜的にはこう分けられるのですが、実態はもうちょい連続的というか。お互いに飛び越えることは論理的にも実際的にも可能ですね。
考えてみると、フィクションの設定で、「全ての設定が仮構」と取る人はいないし、「どこからどこまでが仮構か完全に分かる」人もそうはいない訳です。だから、フィクションの設定として創られたものであっても、その部分的な情報が伝達されて、「事実のように」扱われる、てのはあり得る。
思考実験として。ある人がフィクションで、「ゲームをやると脳機能が破壊される」という設定を創ったとしますね。で、それがヒットしたと考えます。そうすると、伝言ゲームよろしく、その設定部分が真実のように受け取られる可能性はある訳ですね。社会心理学的な論理として。
そうすると、由来、あるいは提唱者(作者)の意図としては仮構の「つもり」で創ったのに、いつの間にか真面目に受け取られる、となると。私はSFに全然詳しくないんですが、もしかしたら既にいくつも例があるやも知れませんね。で、そういうものは、両義性を持ち得ます。
つまり、言説の構造として「科学のようで科学でない」ものが、「真実と思われる」かつ「仮構と思われる」社会的状況は実現し得る、と。今の言葉遣いで考えると、ある言説が、「疑似科学」かつ「ニセ科学」であることがあり得ます。そういう意味では、強く社会的文脈に依存する言葉だと考えられます。
て訳でですね。私はしばらく前から、「科学のようで科学でない」ものをまず「ニセ科学」と呼び(ここに、「否定されるべき」という意味合いを込めない)、その内で「仮構として設定されたもの」を「疑似科学」として「おくことが出来る」と考える方がすっきりする、と認識するに至ったのですな。
フィクションてのは許容される嘘で、それを社会的に維持するには、「フィクションと分類されるものの設定は基本ウソだ」と一般に認識される必要がある訳ですね。そうすると、他者に情報を伝える際の構えが出来る、と。ひろーい意味で科学リテラシーでありクリシンなのかも知れません。
ちなみに、「否定されるべき」と「正されてしかるべき」にニュアンスをつけています。
@katot1970 たとえば、ニセ科学の要件として、「多くの人に信じられる」とか、仰るような、差別に使われるようになる、という風な判断を含める、という考え方がありますよね。私はしばらく前から、それを「含めるべきではない」と考えるに至りました。というのも(続く
@katot1970 続き)「多くの人」や「専門家以外の人びと」に信じられる。あるいは、こういう風に使われる、というのを、疑似かニセか、を分ける条件にすると、恣意の部分が強くなるし、「広がるまでニセと判断出来なくなる」と思うからなのです。
なので、血液型性格判断で言うと、仮説提示→テスト のプロセスは当然科学で、仮説自体は未科学。そして、研究が進み、仮説が誤っていることが判明し、その説は非科学となり、それでも意固地に科学的だと言い続ければ、それは「ニセ科学」。この時点でもうニセ科学と看做します。
そして、「多くの人が信ずる」「社会的影響力を持つ人が信ずる」などは、ニセかどうかを判断する条件じゃなく、「積極的に批判するかどうか」を判断する条件、と考えるべきだと思います。ニセは、ニセであるが故に正されてしかるべきで、後の「何」を批判するかは個人や組織の動機に任されると。
@katot1970 どちらかというと、集合的関係に書けない、という感じかも知れません。つまり、「基本的に正されてしかるべき」であり、それが配置された(社会的)文脈により「許容される可能性があり得る」と。考察が逆向きになっているのは確かです。追記:ここの前段保留
随時追加します。
@katot1970 さっき、「正されてしかるべき」と「否定されるべき」を敢えて分けた、と書いたのですが、それはつまり、「フィクションであっても信じる人はいるだろうからそういう場合には事実でないと指摘されてしかるべき」という意味合いですね。つまり、「咎める」意味ではない、と。
前に考えたのは、「フィクションの設定でも情報伝達の過程で事実と信じる人がいる」可能性で、そこから、「疑似科学→ニセ科学に”なる”」のだろうか、ということだったんですね。で、それは違う気がしたと。それより、「ニセ科学を疑似科学(フィクション内の設定)に仕立てる」がすっきりする。
@katot1970 フィクション内の設定を仮構かどうか見抜くのって、完全に既有知識に依存しますよね。てことは、たとえば、SFフリークが「こんなのねーよw」的に思う設定であっても、疎い人は信じる可能性があると。そういう人がいれば正されてもいいよね、という感じです。
@katot1970 んで、正されたのちに、「こりゃフィクションなんだから云々」という情報が与えられて、なるほどそうかー、的になったり。その場合には、クリエイターの意図(事実と言っていない)を護りつつ、そこから乖離した思い違いを正す、となる訳ですね。
追加
@katot1970 詳しくない人にとっては、真っ黒な非科学とグレー的な未科学を区別するのも困難だったりします。そこら辺が既有知識に依存するということですね。
ここでの私の主張の核としては、「科学のようで科学でないもの」を一律ニセ科学と呼び(これを疑似科学としても良い訳です、当然)、その内特殊な文脈におかれたものを疑似科学と呼ぶことも出来る(疑似科学の代わりに作っても良い)、という感じですね。
@katot1970 それが、「正されてしかるべき(否定的意味合いが入っている)」と同じ意味です。要するに、科学のようで科学でないという条件だけで、訂正されてしかるべきのものである、と。で、その中で疑似科学を「特別待遇」にすることが出来る、という感じで。
@katot1970 そして、「多くの人に広まった」「具体的な害悪が発生している」などの条件を、批判の強さを増幅させるものとして捉えます。科学を装っている条件のみで正すに値し(既に弱く否定的)、広まり具合により強く否定する。先ほど二つの表現にニュアンスをつけた、というのはそれ。
@katot1970 まず、科学のようで科学でない言説を、全て「正されてしかるべきもの」と否定的な意味合いで捉えます。その時点で、そういったものは全て潜在的に批判される可能性を持ちます。そして、フィクションの設定として創られたものなどを、仮構として許容する余地を残します。
そうすることで、そういった言説をフィクションに組み込むという創作行為を正当化することが出来ます。つまり、嘘だと知ってて楽しむという行為ですね。しかし、そこから出たものだとしても、「本当として信じる」人は出てくる可能性があります。そうした場合、信じた人に対して、それは誤りだと正すことが出来る(最初の前提により)とともに、創作者の責任(受け手が事実と信じることをコントロール出来ないので)を回避させることも可能になる、と考えられます。
@katot1970 思いつく所を列挙すると、1)言説は一人歩きをする 2)受け手の理解の幅が広い 3)同じ言説を複数の人間が違う意図で思いつく可能性がある 4)「フィクション専用の」科学のようで科学でない言説、は有り得ない といった所だろうと思います。
従って、「SFの様な創作著作物と、本人が科学のつもりでやっている言説」(かとうさん)を前もって、あるいは論理構造のみで決定することが不能。このことにより、「全てニセ科学としておく」のが論理的にも実際的にもすっきりする、と考えています。
追加
@tiseda たとえばフィクションの設定が広まって、説そのものが切り取られて世間に流布される、という可能性はありますよね。その場合、クリエイターと受けとった側との捉え方に乖離が出ると思います。「道具立て」と認識しない層に伝播する、というか。
@tiseda その場合、同じ説が同時的に前者と後者の両方の意味合いで認知され得る、ということですよね。二重性のような。そして意図的な仮構であるという区別は、創作者の意図が届く範囲に限定される、というか。これは言わば、「エイプリルフールの嘘」に似ていると思います。
私の主張は、「ニセ科学と疑似科学に本質的な区別はないし出来ない」というものですね。これは、「嘘とネタに本質的な区別はないし出来ない」のと同型だと思います。出来るのは、嘘をネタとして許容し楽しむ余地であり、そもそも「まず嘘がある」。そして、嘘は嘘であるが故に正されてしかるべし、と。
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