カテゴリー「ニセ科学論」の記事

2011年8月29日 (月)

「ニセ科学批判」「ニセ科学批判批判」

文字通りの意味。おそらく、この意味を含んでいる事には同意しない人はいないであろう、という最低限のもの

「ニセ科学批判」:「ニセ科学を批判する事」
「ニセ科学批判批判」:「ニセ科学批判、また、それをする人、を批判する事」

さて、これらの言葉について、「文字通り以上」の意味を込めて使う人は、その意味合いを「定めて」下さい。
別に、厳密に意味を規定せよ、などという話ではありません。もし、文字通りに読む以外に、他の意味を含意させたい、あるいはさせている、のならば、せめて、自分がどういう意味を込めているかくらいはちゃんと論じて下さい。用いている言葉の意味について了解が取れずに、まともにコミュニケーションが取れるはずが無い。


そして、その意味合いを明らかにしないままに、自分は「ニセ科学批判者である/ない」「自分はニセ科学批判批判者である/無い」などというのを一々表明するのに、一体何の意味がありますか? 真面目に考える気が本当にありますか?

「ニセ科学批判」みたいな構成の言葉は、文字通りには、○○を批判する、という意味ですが、しばしば、そういう活動に関わる「人」の意見の傾向や人格のあり方を反映させ、意味が拡大された使い方がなされる場合があります。その場合、「一般化」してる訳です。○○を批判する人はこういう物言いをする、と認識し、そこから「○○批判」の語に、「○○をこういう物言いで批判する」という意味を含ませる。

その場合には、本当にそういう傾向があるのか? とか、一般化して構わないのか、といった所が検討される必要があるでしょう。そこに無頓着で語を使うのは、たとえば、「日本人は」と言って無反省に傾向を云々する事とどんな違いがありましょうか。


こういう一般化の危険性は解りますよね。一部の印象をもって一般化した場合に、「そうで無い人」がものすごく迷惑を被るのです。たとえば、何かニュースがあった時、悪い事をした人の出身地、職業、性別、等の属性を採り上げて、「また○○か」という風に論ずるのと同じような感じです。その場合、おいおい○○全体に一般化しないでくれよ、となるでしょう。

これが、「ニセ科学を批判する会」みたいな、ある特定の組織があって、その活動を批判する、という場合なら、その組織を代表する意見、たとえば組織の理念なり会長の宣言なりを検討して、その活動を批判する事には意義があります。

しかし、「ニセ科学批判」というのは、それだけでは意味が広すぎるのです。そのままだと、ニセ科学を批判する事、という以上の意味合いは持たせられない。その活動をしているのは、明確に区別出来る組織では無いから、一般化は困難。

「だからこそ」言葉に含めている意味合いを定め、それをきちんと説明するべきだ、と言うのです。また、具体的に批判対象をクローズアップして、名指しで批判するべきだ、と言うのです。ここでニセ科学批判とは、こういう物言いや態度で批判する者達の事で、たとえば○○氏や△△氏のようなものを指す、と言われれば、その用い方に納得するかどうかはともかく、何を言いたいかは解る。私であれば、ニセ科学を批判する人の部分集合の特徴を敢えて「ニセ科学批判」という言葉で一般化してくれるな、という意見を出すでしょうけれども。


まるで他人事のように言っているな、と言われそうなので、ここに書いておきますが。

私自身が以前に、「ニセ科学批判批判」という言葉を、「ニセ科学を批判する事に筋の悪い反論や批難を加えているもの」という意味も含ませて使っていました。「NKHH」などという略称を使ったのも私です。

その後、自分自身の途轍もない粗雑さを認識して、「ニセ科学批判」「ニセ科学批判批判」を双方ともほぼ(全く、と言いたいけれど、いつの間にか使ってるのもあるかも知れないので)用いないようにしました。そこ(雑であった所)については強く反省しています。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2011年1月10日 (月)

疫学の専門家がホメオパシーを支持していたという状況

別所でうさぎ林檎さんが書いておられたのを見て知った情報です。

日本ホメオパシー医学協会

このページから引用します。

ホメオパシーは体系的な知識であると同時に、長い間の経験が蓄えた人類の知恵でもある。よりよく生きるために一人でも多くの方にこの豊かな世界にふれてほしいと 願う

このコメントを寄せているのは三砂ちづる氏。プロフィールの紹介にあるように、疫学の専門家です。ベストセラーの本を出しているので、名前を知っている人も多いでしょう。かく言う私も、高岡英夫氏との共著など、二冊を持っていました。

ホメオパシー方面の議論を追っている方には今更言うまでも無い事でしょうが、疫学は、医学や公衆衛生、あるいはもっと一般的には、効果研究や因果推論に欠かせない、科学における最重要の方法です。その疫学の専門家たる三砂氏が、臨床的に効果が無いと判明しているホメオパシーについて積極的に支持する意見を出しているのは、大変問題であると考えます。

当該ページは2009年のものですが、昨年に様々の問題が明るみに出たホメオパシーについて(しかも、コメントを寄せている当の由井氏の組織が関係している大きな事件があった)、三砂氏は果たして、現在いかなる認識を持っているのでしょうね。

私であれば、ホメオパシーについて、次のように説明する事でしょう。

ホメオパシーは着想された当時はユニークで興味深い説であったが、長い間に蓄えられた人類の体系的な知識によって、誤っている事が判明したものである。よりよく生きるために、一人でも多くの方に、この説を現在も支持する事の危うさを認識して欲しいと願う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年1月 8日 (土)

疑似科学とニセ科学との違い的な何かについて

別所でそこそこの量書いて考察しましたので、ちょっとまとめてこちらに載せてみます。ちょこちょこ省略して、内容は手直しせずにそのまま。やっつけです。読みにくいでしょうけれど、ご容赦をば。

-----------------

ニセ科学論のポイント的な。菊池さんは、敢えて価値判断を含めるという意味で「ニセ科学」の語を用い、「疑似科学」はネガティブな価値判断を含めない語として取っておきたい、という立場。伊勢田さんは、「疑似科学」の語に否定的な意味合いが含まれるから出来れば避けたかった、という立場。

菊池さんは「ニセ科学」の語を、シャーマーの訳書にヒントを得て使い始めたという。※はてなキーワードの「ニセ科学」とか見てね。情報源としては、亀さんのブログとか私のブログとかから探して下さい。

@kikumaco 個人的な語感ですが、「的」をつけると、益々ネガティブに感じないですね。疑似的、とか。似ているけど違う、というくらいの意味合いで、必ずしも否定的・攻撃的な内容は含まれていないという。ただ、科学哲学上の議論を意識すると、伊勢田さんの考えも分かりますね。

おっと、補足。先ほどの伊勢田さんの見解は、『疑似科学と科学の哲学』7・8ページを参照して書きました。

まずあるのは、「科学のようで科学でない」言説。で、これは、既存の科学的知見を用いているか、とか、科学者集団のコンセンサスは得られているか’(手続きを満たしているかなども)、とかを考えて判断される、と。

で、言説の構造の評価として、「科学のようで科学でない」ものと判断される。そして次。そういう言説が生まれる場。これは、1)事実であると主張される 2)仮構だと主張される  この二種類が考えられますね。前者は実証したとか言うやつで、後者はフィクションの設定で使われるものなど。

敢えて単純化すると、前者をニセ科学と呼び、後者を疑似科学と呼ぶ、とすることは出来ます。しかし、一応便宜的にはこう分けられるのですが、実態はもうちょい連続的というか。お互いに飛び越えることは論理的にも実際的にも可能ですね。

考えてみると、フィクションの設定で、「全ての設定が仮構」と取る人はいないし、「どこからどこまでが仮構か完全に分かる」人もそうはいない訳です。だから、フィクションの設定として創られたものであっても、その部分的な情報が伝達されて、「事実のように」扱われる、てのはあり得る。

思考実験として。ある人がフィクションで、「ゲームをやると脳機能が破壊される」という設定を創ったとしますね。で、それがヒットしたと考えます。そうすると、伝言ゲームよろしく、その設定部分が真実のように受け取られる可能性はある訳ですね。社会心理学的な論理として。

そうすると、由来、あるいは提唱者(作者)の意図としては仮構の「つもり」で創ったのに、いつの間にか真面目に受け取られる、となると。私はSFに全然詳しくないんですが、もしかしたら既にいくつも例があるやも知れませんね。で、そういうものは、両義性を持ち得ます。

つまり、言説の構造として「科学のようで科学でない」ものが、「真実と思われる」かつ「仮構と思われる」社会的状況は実現し得る、と。今の言葉遣いで考えると、ある言説が、「疑似科学」かつ「ニセ科学」であることがあり得ます。そういう意味では、強く社会的文脈に依存する言葉だと考えられます。

て訳でですね。私はしばらく前から、「科学のようで科学でない」ものをまず「ニセ科学」と呼び(ここに、「否定されるべき」という意味合いを込めない)、その内で「仮構として設定されたもの」を「疑似科学」として「おくことが出来る」と考える方がすっきりする、と認識するに至ったのですな。

フィクションてのは許容される嘘で、それを社会的に維持するには、「フィクションと分類されるものの設定は基本ウソだ」と一般に認識される必要がある訳ですね。そうすると、他者に情報を伝える際の構えが出来る、と。ひろーい意味で科学リテラシーでありクリシンなのかも知れません。

ちなみに、「否定されるべき」と「正されてしかるべき」にニュアンスをつけています。

@katot1970 たとえば、ニセ科学の要件として、「多くの人に信じられる」とか、仰るような、差別に使われるようになる、という風な判断を含める、という考え方がありますよね。私はしばらく前から、それを「含めるべきではない」と考えるに至りました。というのも(続く

@katot1970 続き)「多くの人」や「専門家以外の人びと」に信じられる。あるいは、こういう風に使われる、というのを、疑似かニセか、を分ける条件にすると、恣意の部分が強くなるし、「広がるまでニセと判断出来なくなる」と思うからなのです。

なので、血液型性格判断で言うと、仮説提示→テスト のプロセスは当然科学で、仮説自体は未科学。そして、研究が進み、仮説が誤っていることが判明し、その説は非科学となり、それでも意固地に科学的だと言い続ければ、それは「ニセ科学」。この時点でもうニセ科学と看做します。

そして、「多くの人が信ずる」「社会的影響力を持つ人が信ずる」などは、ニセかどうかを判断する条件じゃなく、「積極的に批判するかどうか」を判断する条件、と考えるべきだと思います。ニセは、ニセであるが故に正されてしかるべきで、後の「何」を批判するかは個人や組織の動機に任されると。

@katot1970 どちらかというと、集合的関係に書けない、という感じかも知れません。つまり、「基本的に正されてしかるべき」であり、それが配置された(社会的)文脈により「許容される可能性があり得る」と。考察が逆向きになっているのは確かです。追記:ここの前段保留

随時追加します。

@katot1970 さっき、「正されてしかるべき」と「否定されるべき」を敢えて分けた、と書いたのですが、それはつまり、「フィクションであっても信じる人はいるだろうからそういう場合には事実でないと指摘されてしかるべき」という意味合いですね。つまり、「咎める」意味ではない、と。

前に考えたのは、「フィクションの設定でも情報伝達の過程で事実と信じる人がいる」可能性で、そこから、「疑似科学→ニセ科学に”なる”」のだろうか、ということだったんですね。で、それは違う気がしたと。それより、「ニセ科学を疑似科学(フィクション内の設定)に仕立てる」がすっきりする。

@katot1970 フィクション内の設定を仮構かどうか見抜くのって、完全に既有知識に依存しますよね。てことは、たとえば、SFフリークが「こんなのねーよw」的に思う設定であっても、疎い人は信じる可能性があると。そういう人がいれば正されてもいいよね、という感じです。

@katot1970 んで、正されたのちに、「こりゃフィクションなんだから云々」という情報が与えられて、なるほどそうかー、的になったり。その場合には、クリエイターの意図(事実と言っていない)を護りつつ、そこから乖離した思い違いを正す、となる訳ですね。

追加

@katot1970 詳しくない人にとっては、真っ黒な非科学とグレー的な未科学を区別するのも困難だったりします。そこら辺が既有知識に依存するということですね。

ここでの私の主張の核としては、「科学のようで科学でないもの」を一律ニセ科学と呼び(これを疑似科学としても良い訳です、当然)、その内特殊な文脈におかれたものを疑似科学と呼ぶことも出来る(疑似科学の代わりに作っても良い)、という感じですね。

@katot1970 それが、「正されてしかるべき(否定的意味合いが入っている)」と同じ意味です。要するに、科学のようで科学でないという条件だけで、訂正されてしかるべきのものである、と。で、その中で疑似科学を「特別待遇」にすることが出来る、という感じで。

@katot1970 そして、「多くの人に広まった」「具体的な害悪が発生している」などの条件を、批判の強さを増幅させるものとして捉えます。科学を装っている条件のみで正すに値し(既に弱く否定的)、広まり具合により強く否定する。先ほど二つの表現にニュアンスをつけた、というのはそれ。

@katot1970 まず、科学のようで科学でない言説を、全て「正されてしかるべきもの」と否定的な意味合いで捉えます。その時点で、そういったものは全て潜在的に批判される可能性を持ちます。そして、フィクションの設定として創られたものなどを、仮構として許容する余地を残します。
そうすることで、そういった言説をフィクションに組み込むという創作行為を正当化することが出来ます。つまり、嘘だと知ってて楽しむという行為ですね。しかし、そこから出たものだとしても、「本当として信じる」人は出てくる可能性があります。そうした場合、信じた人に対して、それは誤りだと正すことが出来る(最初の前提により)とともに、創作者の責任(受け手が事実と信じることをコントロール出来ないので)を回避させることも可能になる、と考えられます。

@katot1970 思いつく所を列挙すると、1)言説は一人歩きをする 2)受け手の理解の幅が広い 3)同じ言説を複数の人間が違う意図で思いつく可能性がある 4)「フィクション専用の」科学のようで科学でない言説、は有り得ない  といった所だろうと思います。

従って、「SFの様な創作著作物と、本人が科学のつもりでやっている言説」(かとうさん)を前もって、あるいは論理構造のみで決定することが不能。このことにより、「全てニセ科学としておく」のが論理的にも実際的にもすっきりする、と考えています。

追加

@tiseda たとえばフィクションの設定が広まって、説そのものが切り取られて世間に流布される、という可能性はありますよね。その場合、クリエイターと受けとった側との捉え方に乖離が出ると思います。「道具立て」と認識しない層に伝播する、というか。

@tiseda その場合、同じ説が同時的に前者と後者の両方の意味合いで認知され得る、ということですよね。二重性のような。そして意図的な仮構であるという区別は、創作者の意図が届く範囲に限定される、というか。これは言わば、「エイプリルフールの嘘」に似ていると思います。

私の主張は、「ニセ科学と疑似科学に本質的な区別はないし出来ない」というものですね。これは、「嘘とネタに本質的な区別はないし出来ない」のと同型だと思います。出来るのは、嘘をネタとして許容し楽しむ余地であり、そもそも「まず嘘がある」。そして、嘘は嘘であるが故に正されてしかるべし、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月 5日 (水)

ホメオパシーとプラセボと一貫性

昨日の続き。コメント欄の流れも踏まえているので、そちらもお読み下さい。

昨日のエントリーでは、本文でホメオパシーの話をしています。これは、プラセボ使用と密接に関わる事柄です。

ホメオパシーを批判する論者を訝る意見として、プラセボである(←不正確だが言い方を真似る)ホメオパシーがダメというのなら、ホメオパシージャパンのごとき団体だけで無く、他団体も等しく批判するべきであろう、だのに何故ある種の団体については寛容なのだ、というものがあります。

それに対するNATROMさんをはじめ、幾人かの論者は、ある種のホメオパシーや他の代替療法の一部は許容出来る、その理由として、「標準医療を忌避しない」から、というのを挙げて反論します。※NATROMさんについては、「日本のホメオパシー」については違う、あるいは過去形として扱った方が良い、のかも知れません。

つまり、実質的にはプラセボを使用した心理療法もどきであっても、それが標準医療における重大なケースにまで積極的に関わらないのであれば、容認する事は出来るだろう、というもの。

しかし私は、これを容認や許容とは見ません。それは現代科学に基づいた医療の立場からすれば、まったき「妥協」であり、「解っている」医療従事者による、情報の非対称を意識した上でのコントロールと言えるでしょう。

ホメオパシーは、事の初めから、「標準医療を忌避」しています。それは、理論的な部分について、という意味です。既にメカニズムやその他説明原理の部分で、完全に現代医療(とその土台たる現代科学の体系)と相反します。では消極的容認を言う論者が何を主張しているかというと、それは上にも書いたように、重大な場合には身を引く、手を出さない、という態度です。その判断には標準医療のある程度の知識が必要ですから、容認意見に、医師が使うなら良いであろう、といったものがあるのも、ここら辺を踏まえてのものなのでしょう。
要するに、理論的には全く整合しないどころか相反するもの、という意味での標準医療忌避と、実際の医療行為レベルにおける標準医療の方法との折り合いの程度、の二面があると考えられます。そして、「容認」意見はその背景に、「(広い意味での)プラセボ効果による軽微な状態の改善」許容がある、のだと見る事が出来ます。

臨床的な証拠は不充分だが、メカニズム的にはあるかも知れない、あり得そうだ、といった他の代替療法とは違い、ホメオパシー(レメディ)は、メカニズムとしてはどう考えてもあり得ず、実際臨床的にも効かない事が確かめられたものですから、当該方法を容認出来るとすれば、それは明らかに、妥協です。特異的効果がレメディには無いからその意味で害も無い。だから、予防接種忌避やガンに効く、などという強烈な主張とセットにならなければ、消極的に容認出来るだろう、という意見は、インフォームド・コンセントとEBMを根本とする医療においては、明らかに妥協。そして方法的あるいは制度的に矛盾を抱え込むのをよしとする態度です。

私はそもそもプラセボ使用に反対なので、当然、ホメオパシーそのものにも反対です。率直に言って、医療からホメオパシーを排除するべきだと思っています(学術会議会長談話はそういう立場。ただし、ホメオパシー及びレメディ、以外のプラセボ使用については特に何も言っていない――「例えプラセボとしても」とあるので、そこから何かを読み取る事は可能)。というか、効かないものを効くと称して与えてはならない、という原則なので、効かないと判明しているものは、一切医療に組み込んではならないと考えている訳です。そして、仮に標準医療で広く用いられているものが、後で「実は効かない」と判った場合にも、情報を周知させ排除していくべきでしょう。それが一貫した姿勢だと思われます。

その辺を踏まえると、ホメオパシーの一部は容認出来る、という論者には、私には隙があるように思えます。何故ホメジャだけ?→それはホメジャが強い標準医療忌避だからだ→じゃあそうじゃ無ければ、効かないと判ってても、理論が妄想でもいいの? となるでしょう。少なくとも、整合的・一貫的では無い、と考えます。効かないと判っているものは排除する。効くと判ったものは積極的に取り入れる。これが一貫した態度なのですから。

| | コメント (24) | トラックバック (0)

2010年12月24日 (金)

ニセ科学論の注意事項のようなもの

ニセ科学周辺について論ずる際に注意しておいた方が良いと思う事について、改めて書いておきます。

・ニセ科学が「蔓延」している、という言明について。
それは

1)定量的な評価か。
2)日常的用法か。
3)定性的な判断か。

蔓延している、という主張が、何を指すか、という視点。時系列の割合の変化などの定量的判断(1)か、あるいは、「最近、ニュース海老蔵の話ばっかりだね。」「バナナダイエットが流行ってるらしいね。」といったような、マスメディアの影響力を前提としてある程度の「規模」を推測し、それに基づいた(だけの)判断(2)か、あるいは、たとえば学校教育においてゲーム脳や水伝が用いられる事があり、TOSSなど教育に関わるものが積極的に取り入れていた、その事実自体を重く見た(一部でも一定数の事例があるだけで問題と看做す)判断(3)か。もしくはそれらの複合的なものか。

・ニセ科学が広まる「理由」について。

ニセ科学を批判する論者にしばしば見られる主張。

1)「今の人びと」は科学リテラシーが足りない、だからニセ科学が広まる。
2)「今の人びと」は解りやすさを求め過ぎだ(解りにくさへの耐性が無い)。だから(一見解りやすい)ニセ科学が広がる。
3)「今の人びと」は二分法的思考を求める。だからニセ科学的な言い切ってくれる言説に惹かれる。

これらは、「現在の人びと」の「あり方」、たとえば「リテラシー」のような、心理学的あるいは社会学的な傾向に、ニセ科学が流布される原因を帰属している。果たしてそれは妥当か。仮説ならともかく、検証をすっ飛ばして、当然の様に論じてはいないか。

--------------

これらはいずれも、社会科学的――心理学や社会学や教育学やメディア論、等々――に検討され検証される「べき」事柄です。「こうではないか?」という問いかけに留まっているならば、それは社会科学的な仮説提示、考察に値する題材の提供、の段階として意義あるものですが、「それ以上」の事を主張する論者はしばしば見られます。

ニセ科学が蔓延している、広まっている、と言った場合、ある時点で見て(横断的)一定数信ずる人がいる、のを指しているのか、あるいは、以前と較べて(縦断的)「信ずる人(の割合など)が増えた」と言っているのか。両者はかなり異なった意味内容ですが、同じ「広まっている」などの表現が出来るものです。
仮に「増えた」と言いたいなら、何がどう増えたのかを考えなくてはなりません。これは、後の信ずる理由の考察とも関わります。

次に、何故信ずるか、という問題。これは、信ずるに至る理路、それを求める心理学的な理由、などについてのものです。しばしば見るのが、「今の人は――となったから」という、社会の成員の一般的な心理的傾向に原因を帰すもの。
それは本当か、と問わねばなりません。一見尤もらしいものに、「今の人びとは科学リテラシーが低下」して云々、というのがありますが、まずその現象は本当か、という視点がありますし、もしそれが成り立っているとして、それが原因であると看做して良いのか、というのを論証せねばなりません。

そもそもニセ科学というもの自体、時代によって中身が異なるものです(科学の内容は時期によって変化するから、当然ニセ科学の中身も変わる)。また、一般的な心理傾向なども関係しつつ、社会的に強烈なインパクトのある事象が強く影響を及ぼす可能性もあります。ある有名人がニセ科学的な本を出して超ベストセラーになる、とか、ICTの発展によって情報の伝達の速さと規模がケタ違いになった結果、言説の流布の程度も全然違う、とか。もし「ニセ科学を信じている人の割合」というシンプルな指標を考えるとすれば(測定出来るかは措く)、そういった要因によるのかも知れない訳です。

こういう事を考えておかないと、足をすくわれます。あるニセ科学言説が話題になっているのを見て、「その時の社会のあり方」に思いを馳せて嘆いてみせる、というのは気が早いのです。教育制度に即結びつける、とかね。

まず、社会的事象の複雑さと、それを構成すると思われる無数の要因とについて考えるべきです。ニセ科学言説の内容は深く考察しても、その広まり方の原因については根拠無視して良い、などという道理は無いのですから。

| | コメント (12) | トラックバック (1)

2010年12月21日 (火)

ひたすらな切断とひたすらにアド・ホック

ホメオパシー団体のごときものについてです。

色々な主張に対して批判が加えられると、ひたすらに「切断」と「アド・ホックな言い逃れ」を行います。
どういう事かと言うと。

◆切断
「あの団体とは違う」という、いわば差別化。奴らは正統(正当)では無いのだ、と主張する事によって、自身の体系を護ろうとする。こういうのは色々な文脈で起こる事でもあります。武術で分派したり、古伝順守と革新派が対立したり。ホメオパシーで言えば、由井氏系とそれ以外の対立や、クラシカルとプラクティカルの対立など。
◆アド・ホック
この部分はこれこれこういう理由で矛盾している、とか、他の証拠と衝突する、といった批判を突き付けられた場合に、全体の論の整合性を完全無視して言説を護ろうとする。現代科学擁護の援用など、まことに節操の無いやり方。これまでの知見から考えて、破綻や崩壊するしか道の無い言説なので、そうするしか、「一見維持出来ている」様には見せかけられないのでしょう。

いかに切断を試みようが、ホメオパシーを支持する人びとあるいは団体が、ハーネマンの主張の核になる部分を固持している限り、「同じ」です。そして、内部での差別化など、体系内での微妙なバリエーションでしか無い訳です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年12月19日 (日)

議論のニュアンス

科学哲学上の疑似科学の議論と、昨今の「ニセ科学」議論、もちろんかなりの程度は共通していると思うのですが、微妙な異なりもあると感じます。

科学哲学上の境界設定問題では、科学の要件を定め、それに当てはまらないものを疑似科学とする、という流れが中心であると理解していますが、その場合に対象としているのは、いずれも多少なりとも「”科学”を志向している」もの(言説や命題や仮説)、だと思います。創造科学にしても超心理学にしても精神分析にしても。どちらかというと、「科学を志向あるいは自認しているくせに」という感じ。だから、科学の頭に「疑似」がつく。進化論は科学か疑似科学か、とか、社会科学は疑似科学である、といった主張なんかも、そういう議論の流れにのっている気がします。

対して、昨今の「ニセ科学」議論。
ある言説に対し、あれはニセ科学だ、と指摘した場合、反論として、

 そもそも科学と言っていないではないか

こういう類のものを見る事があります。つまり、はじめから科学だなんて言っていないのに「ニセ”科学”」だなんて評価されて迷惑だ、とか、物事の真相にアプローチするのは科学だけでは無いのだから、科学の観点から他のものを非難するのは傲慢だ、といったようなもの。
要するに、科学を志向していないものを「ニセ”科学”」と呼ぶのは不当だ、という主張。ここら辺、科学たらんとしているものを、科学の要件を満たしているか否かで判断する議論とは、少々異なっています。

この流れで思い出すのが、江本勝氏による、いわゆる「水からの伝言」言説ですね。氏の言説に対する批判が大きくなった際に、持説を「ポエム」「ファンタジー」と称したのは、界隈の議論を追っている人にとってはよく知られた事だと思います。
江本氏の言が、まさに「言い逃れ」であるのは、江本氏の著作を参照すれば明らかであり、その具体例については以下を見て頂くとして、
江本勝達はこう言った - ublftboの日記
ホメオパシー等も、こういうアプローチをもって「そもそも科学と言っていない」として擁護する向きも見られます。

私たちがニセ科学を論ずる際、その定性的な定義として、「科学のようで科学でないもの」というのを用いる訳ですが、この「科学のようで」の部分を否定しようと試みている、と考える事が出来ます。つまり、科学で無いのはその通りだが、そもそも科学を志向していないのだから批判は当たらない、と。これは、「科学で無いと判断するのは不当だ」と返す類の反論とは性質が違う訳ですね。
ここら辺は、科学の要件を満たしていないから疑似科学だ、とシンプルに言うような議論とは異なっていますし、そう単純に論を進める人は、足をすくわれかねません。※科学哲学の議論がシンプル、と言っているのでは無いので注意

世間の科学に対する直感的な信頼を詐欺的に悪用する人(効かないのは判っているのに、効くと称してデータを捏造して食品を売りつけたり)、特に科学を意識している訳では無いが科学の言葉を援用して鏤めまくる人、など色々なパターンがニセ科学にはあります。そもそも科学とは相容れないもので、初めからそれを志向すらしていないものには、もう科学は、「科学を装っている」という視点からは何も言えません。だから、単に科学で無いものは、「非科学」と呼び、「ニセ科学」とは異なる概念として区別している訳です。※「非科学」の「非」は単に含まれないという意味を指すのみであって、劣っている、等の価値判断を含意させていない事に注意

ここで、別所で書いた、私のニセ科学定義を置いておきます。

「ニセ科学」とは、科学的専門概念を援用したり、「実証した」などと明言しているにも拘わらず、科学者共同体におけるコンセンサスと乖離している主張や知識の体系などの概念を呼称する語である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月17日 (金)

科学とニセ科学と撲滅と

科学って、「今の所解っている事」の集まりです。実験や観察、あるいは調査によって(つまり、「事実に基づいて」)、これについてはここまで解っているけど、ここはまだ明らかじゃない、といった具合の。

で、色々な場面で、色々な人が出す意見には、「今の所解っていること」から「かけ離れた」主張があります。あります、と言うか、あり得ます。騙すためにわざと「作る」事も出来れば、うっかり勘違いして理解して、それを他人に披露してしまう事もある。他にも、自分だけすごい事や物を発見したんだ、と思い込んでしまう場合もあるでしょう。

専門に調べている人達――今は科学の話なので「科学者」ですね――でも意見が分かれるようなもの、新しい説が出されて議論中のものだったり、確かめているのがとても複雑な事であってなかなか結論が出ないものなどについては、全体的に見て、両方の考えの人がいるよね、まだ議論中だよね、みたいな現状と言えます。で、そういった議論中の事について、自分はこう考えている、と意見を出したとして、されている議論の内容や、それまでに確かめられ集められた証拠と比較して、それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな、とか、そういう意見ならまあそんなに外れていないかな、とか、色々な評価を受ける訳です。まだまだ決着しておらず議論中の事柄ですから、相反する意見がぶつかり合う。どっちとも言えない。いわゆるグレーゾーンというやつです。科学的に審議中、といった所でしょうか。ですから、そういった事柄についての意見を、敢えて黒だ白だと分ける必要はあまり無いという事です。なにしろ議論中なのですから。

とはいえ、決着がついていない問題であっても、「今解っている所からかけ離れた事」を言うのは出来ます。それに、まだ議論中なのに、これが正しい事が分かった、と言っちゃったりね。もちろんそれはダメで、全体的に見れば議論中なので、そこは踏まえなくてはならない。

--------------

話は替わって。

ニセ科学を批判する人に対して反論をする人が、「本心」を見透かしたかのように、「お前らはニセ科学を撲滅したいんじゃないのか(のだろう?)」といったような意見を寄越すのを見かける事があります。これはちょっとナンセンスと言うか、考えているものについての理解が疎かなのではないかな、と。

どういう事かと言うと、そもそも「ニセ科学」というのが、「今の所解っていること」との「関係」で成り立つものだから、です。
ちょっとややこしいですね。
最初の方で書きましたが、「科学」は、「今の所解っているもの」、です。科学が、「何もかも解っている」と考える人は多分そんなにいないでしょうし、「科学”を”何もかも解っている」と考える人も、まあそんなにいないでしょう。つまり、調べる事の出来る限界と、これまで調べる事が出来た範囲、があるし、沢山の人達が、それぞれ興味関心のある事柄について沢山の時間を費やして調べていく作業(営為と言った方がポジティブかも知れませんが)と、それによって積み重ねられた知識なのだから、科学には常に限界があって、常に姿が変わる。そして、それを全部知る事は、人間には適わない。

で、知る範囲に限界がある以外にも、人間の考えについて思いを馳せてみると、人間というのは、「誤る」し、「騙す」。うっかり間違い、「解った気になる」し、知らない人を意図的に騙す行為が出来る。

「ニセ科学」とは、科学の言葉を使いつつも、今まで解っている内容とかけ離れている意見ですから、その意見を出すきっかけとして、上に挙げた、
・誤る
・騙す
これらがあります。誤るというのは、正しいと思い込んでいても実は違っている事ですし、騙すのは、誤っていると判っているのに、自分の利益のためにウソをつく事。

それを踏まえると、「ニセ科学が無くなる」には、
・誤る人がいなくなる
・騙す人がいなくなる
この必要があります。

「今解ってる事」について、「解っているつもりで実は解っていない人」って、絶対いなくならないですよね? 勉強不足だったり勘違いだったり、理由は色々。
そして、「解っている」のに「知らない人を騙す」人がいる。

科学が「知識」である以上、それを知らない人が一定の割合でいるのは、これは当たり前の事です。それに、「全部」を解っている人なんていません。
「ニセ科学を撲滅」を言い換えて、「過ちをおかす人間を撲滅したいのか?」と言われたと考えるとして、それが実現された状況というのを、私はちょっと想像出来ません。そりゃまあ、「撲滅」なんか無理でしょ、と返す他ありません。

ニセ科学を広める人というのは、過ちをおかす人間の一部ですから、それが無くならないと、ニセ科学自体もなくなりません。要するに、常に生まれる可能性があり、誰でも生み出す可能性がある訳です。

もう一つ、「科学」を撲滅すれば「ニセ科学」も撲滅されるかも知れませんが、まあ、それは冗談です。「科学が撲滅された世界」というのは想像しがたいものがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)