カテゴリー「随想」の記事

2009年5月31日 (日)

振り返り

今日でひとまずお休み、ってことで、このブログについて、ちと振り返ってみましょう。

(このエントリー執筆開始時、22時頃)

ええと、ブログ始めたのが2005年12月17日のようですね。途中、確か10日ほど書いていない日があるので、それを踏まえて算出すると、大体1250日くらいですかね。

で、エントリー数。

…。

……。

(このエントリー含めて)1999!

平均すると、1日辺り1エントリーを超えてる。まあ、よう書いたな…。

dankogai氏ほどでは無いけれども、これは、なかなかのペースですな。一つのエントリーの文字数が結構多いので、文字総数にすると、そこそこいってるかも知れません。

トラックバックは310件。これは、あんまり多く無いでしょうね。よく判りませんが。

コメント数、11193 ! ありがたや。このブログのほとんどの成分はコメントだ、とは私が公言している事ですね。色々の分野に精通する方に助けてもらって勉強する事が出来るのは、これは本当にありがたいですよ。改めて深謝。

カテゴリー毎の記事数を知りたかったのですが、調べられないみたいで。どれが多いのかな。ああ、圧倒的に、「科学」か。ニセ科学関連も全部放り込んでますからね。テーマ的には、ゲーム脳が多いのかな。武術系もかなり書いてますが、こちらは、実は最も読んでもらいたいジャンルだったりするのですが、他に較べて(コメントの)反応は多く無い(笑) 尤も、その多く無いコメントの質が異様に高かったりするのがありがたく、そして面白い訳ですけれども。

せっかくなんで、このブログを作った目的などについて、少々書いてみましょうか。

何度か触れた事がありますが、このブログを開設した目的は、大きく分けて二つあります。

一つは、ゲーム脳についてまとまった批判を行う事。

もう一つは、高岡英夫氏の論について分析する事。

どちらも、WEBを調べた結果、それらを詳しく適切に論じた論考がほとんど見当たらないと感じて、なら自分で書いてみようではないか、と考えたのですね。どれを見ても、今一つ物足りない、と感じた訳です。まあ、自分の知識不足による考え違いや自惚れが多々あって、それを自覚していく過程も、ここには記録されているのですな。

ゲーム脳に関しては、それまでに、ゲイムマンさんがまとめられたものを筆頭として、優れた批判テキストは、既に多数存在していました(今思い返せば)。でも、ゲームを行う際のユーザーの心理を詳しく書いたり、そもそもゲームの定義を考察したものが余り見られなかったのですね。それが、初期のエントリー群を書く動機(あるいは、このブログ開設の動機)に繋がっています。今見ると、相当思弁的で、学術的ではありません。なにしろ、坂元教授に対して的外れな懐疑を持ったりしましたしね。

ただ、ゲームがどういった構造を持っているか、をユーザーの観点から分析していくテキストとしては、あまり類似のものは見当たらない、そういうのは書けたのかな、とは思います。

その後、ニセ科学論に出会い、また、興味の対象が、自然科学、技術、工学、「実証」の方法、などに広まるにつれて、具体的な「科学の方法」について、色々と考えるようになりました。で、ゲーム脳批判も、それに連れて、書き方が変化してきた訳ですね(主観的には「洗練」された)。その(現時点での)集大成は、ゲーム脳本を読むシリーズであり、ゲーム脳Q&Aです。手前味噌ではありますが、ある程度の完成度に仕上がっていると思っています。私は、「色々な層」に目を向けるというクセがあるので、難:ゲーム脳本を読むシリーズ  易:Q&A  という風に、異なる対象に向けてのテキストを用意したのでした。ちなみに、このテキスト群、私がゲーム脳批判のまとまったテキストを書いてみようかな、と呟いたのを某遊鬱氏が見逃さなかった事により完成した、というものです。

高岡氏について。

WEB上で見かける高岡氏評というのは(他のメディアでは、言及自体がほとんど無かった)、まさに毀誉褒貶相半ばする、という感じで、それを眺めていて、もやもやしてたのですね。やたら鵜呑みにしているのがあったり、的外れな非難があったり。なにしろ、高岡氏の論は、私が学問に興味を持つきっかけとなったものですし、初期の本であれば、どの本に何が書かれてあるかは大体憶えているくらいには読み込んでいたので、思い入れが深かった訳です。

とは言え、思い返せば当時は、若干「擁護寄り」だったのですね。というのも、自分自身、科学に対する知識、特に「実証」のプロセスについてナイーブであったので、高岡氏の論の未科学的~疑似科学的 部分に対して、考察が足りないままに賛同していた、という所があったのです。

今は、大分知識も積み上がり、それに基づいて、高岡氏の論を整理して認識する事が出来るようになりました。特に身体意識論は、科学的にはかなりギリギリの所にあるものですので、そこら辺の評価は難しかった。

なにしろ氏の論は学際的ですから、肯定するにも批判するにも、まず勉強しなければならなりませんでした。使われている語がそもそも適切な用法であるか、を判断するには、まず当該分野を調べる必要がある訳ですしね。

と、ここで「学際的」という言葉を使いました。そうです、このブログのタイトル。ゲーム脳にしても身体運動論にしても、一つの分野で分析するなどという考えはナンセンスだし、領域横断的な、分野協調的な考えを必ずするべきだ、と、元々思っていたのですね。私は高岡氏の論の影響を強烈に受けていて、氏の言う「関係主義(的実証主義)」に傾倒していたから、それは当然だったと言えるでしょう。そして、それは今でも変わりません。※変わったのは、高岡氏のその考えを、「科学界が念頭に置いていない訳が無かった」と評する認識に至った、という部分

まあ、そういう考えがあったので、学際的を意味する英語を持ってきたのでした。タイトルは、そこに書かれるもの一般に通底するようなものをつけよう、と思っていましたから、好きな言葉であり、基本的な姿勢として持っておくべきと考えていた「学際的」という言葉にしよう、と。英語にしたのは、「○○的」、という日本語にするのはタイトルにはそぐわない気がしたからです。

アドレスは、高岡氏の論を踏まえてつけました。つまり、精神―身体意識―身体 という高岡氏の主張する構造ですね。どれについての認識を欠いてもダメだし、それらをテーマにして色々書こうと思っていたので、それをアドレスにしたのでした。

また手前味噌めきますが……高岡氏評も、あまり類似なものは無いんじゃないかな、と。これは何も、自分が優れている、と言いたいのでは無く、そもそも高岡氏が一部で知られる存在である事を前提として(今は、ゆる体操考案者として、そこそこの知名度があるかも知れません)、高岡氏に興味があり、かつ科学に強い興味を持ち、かつWEBで情報を発信する人が少ないから、と考えています。

そして、「ニセ科学」論。

これは大きいですね。ブログ始める当初は、この論についてこんなにコミットするとは、全く考えてもいませんでした。ゲーム脳批判は書こうと思っていたけれど、それをニセ科学という概念で捉えるのは、想定していなかった。ゲーム脳が似非科学などと言われていたのは多分認識していましたが(ググって片っ端から調べたので※)、似非科学という言葉の意味を、おそらく「非科学」と同じようなものと捉えていました。しかし、よく調べてみると、科学的根拠に乏しいのに科学的であるかのように振舞うものが「ニセ科学」と呼ばれている、のが解ってきた。そして、水伝の存在を知り、血液型性格判断もその観点で批判されているのを知ったのです。

※私の頭の中でゲーム脳とニセ科学の概念を繋げたのは、多分中猫さんのブログが大きなきっかけです。それをきっかけにして、菊池さんや天羽さんのテキストを読んだと(曖昧ではあるけれど)記憶しています。

古い記事では、私は水伝を「エセ科学」とか書いていると思います。まだ勉強し始めだったからですね。それまでに一応、科学哲学の本は読んでいたので(たとえば、野家啓一氏の『科学の哲学』を読んだのは、ブログ開設以前)、疑似科学という言葉を知ってはいましたから、それと同じなのかな、と思っていたけれど、実は、科学の現場におられる皆さんが問題にしているもので、それは微妙に科学哲学上のものとは異なっているのも解ってきた。で、その問題に強い興味を持ち、ちょっとコミットした、と。そして今に至ります。

菊池さんや天羽さん、田崎さんのニセ科学論に触れられたのは、まさしく幸運でした。それによって、科学における「実証」を強く意識する事になったし、未実証なのに実証したかのように言っているものが多くあるのを知る事が出来た。ニセ科学を知るには「科学」を知らなくてはどうしようも無いから、とにかく勉強しなきゃ、と思ったのですね。それから、あらゆる本を読む際の「読み方」が変わったし、自分の自然科学系への無知を より思い知る事が出来た。ゲーム脳とニセ科学を繋げて論じた川端裕人さんのブログのお蔭で伊勢田さんの本を知って読んだ、のも大きいです。ソーカルとブリクモンの本に纏わる論争について関心を持ったのも収穫ですね(上記の野家氏の本でも触れられているのにね。何を読んでいたのだか)。

まあとにかく、このブログでも、色々と変遷があったのですね。ニセ科学論に触れたのがきっかけで、当初は予定していなかった、血液型性格判断や水伝を考察する事にもなりましたし。ゲーム脳論も高岡英夫論も、初めの計画からすると、かなり変わりました。自分の知識の無さに愕然とし、これじゃダメだ、と考えて、勉強したんですよね。

それも、ブログという形式で、皆さんに批判やアドバイスを頂きながら練磨してこられたからこそ出来たのだと思います。皆さんには、重ねて深謝。「繋がり」と「広がり」は大事だね。

しばらく休みますが、復帰したら、またよろしく頼みますぜ。

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2009年5月29日 (金)

マンガのよう

塩と砂糖を間違えたぜ。

異常に塩辛い天つゆが出来上がったぜ。

天つゆに砂糖? という突っ込みは無しだぜ。

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2009年5月27日 (水)

みお繋がり

巷では、諫山黄泉と秋山澪が酷似している事が指摘されていますが・・・

諫山黄泉と秋山澪が似ている

諫山と澪が似ている

諫山と みお が似ている

諫山+みお

諫山実生

おお、これは。なんという謎解き。

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同じ穴の狢

全く嘆かわしい事である。

まずは、以下のエントリー群をお読み頂きたい。

これらのエントリーは、朝日新聞の非科学的記事、aサロン_科学面にようこそ_DO科学/「3」を究める を発端として書かれたものである。発端の記事は、数字の中でも「3」が特別な力を持つと主張し、それを科学的に考察すると仄めかしていながら、全く考察に不備がある代物であり、その非科学性については異論の無い所であろう。

上記エントリー群では、非科学的な朝日の記事や、互いの考察を批判し合い、それぞれのブロガーの「数字観」が開陳されている訳であるが、その内容たるや、朝日の記事と大差は無い、恣意と憶測によって塗り固められた非科学的なものであった。非科学的言説を批判せんとするその意気や佳し、であるが、しかし、肝心の批判のlogicが脆弱では、「お話にならない」のである。論客で知られたブロガー達が、思い入れの強い対象に対しては冷静な認識を保っていられない、のは真に残念な事態であるが、それは心理学的に興味深い現象とも言えよう。

だが、嘆いてばかりもいられない。非科学的言説を垂れ流す、かの人達を放っておく訳にはいかない。WEB上で情報発信をする事の意味に思いを馳せるならば、ここで筆者が、「科学的に尤もらしい」説を披瀝しておく事は、重要であると考える。

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さて、結論から先に述べよう。即ち、数字において究極の存在とは、

「7」

である。

それでは、以下に、この言明の根拠となるlogicを記そう。当該分野に馴染みの無い読者にとっては、驚嘆の事実と受け取られるであろうが、しかしこれは、「既に解っている事」なのである。

たとえば、我々は、一週間をサイクルとして日常生活をおくっているが、一週間は7日で構成されている。これは、人間が「7」を一つのまとまりとして認識しやすい事に由来している。心理学においてつとに有名な概念に、「マジカルナンバー7」というものがある。これは心理学者のミラーによるもので、彼は、人間は短期的には、一度に7程度のもの(まとまり。これを「チャンク」という)をしか記憶出来ない事を見出した。つまり、7とは、人間の認知能力の根本に関わる数字なのである。それを経験的・直感的に捉えて曜日の概念に組み込んだ先人の知的能力には感嘆せざるを得ない。

また、この数字は、「幸福」に関わる概念と結びつく場合が多い。

たとえば「七福神」。これは縁起の良いものとして扱われるが、この神は七柱である。

「ラッキーセブン」。スロットのナンバーや、野球における重要な回として捉えられる概念である。

そして「七夕」。これも馴染み深いものである。短冊に願い事を書いて飾った方も多いであろう。

次に、大変興味深い事実をご紹介しよう。

それは、人体の解剖学的構造に関わる事である。即ち、

「頭部には”穴”が7つ存在する」という事実である。もちろん7つとは、

  • 左右の目:2
  • 左右の耳:2
  • 左右の鼻の穴:2

の7つである。

ところで、これについては、上でご紹介したリンクの内の一つ、みつどん氏のブログでも考察されている。引用してみよう。

顔には5つの穴が開いています。鼻と入口・出口を一つの穴と見なせば、人は全部で5つの穴を持っています。

筆者はこの部分を読んで、嘆息を禁じ得なかった。常に、見事に冷静で論理的な考察を行っているみつどん氏にしてこの体たらく。考えてもみよ。「一つの穴と見なせば」とあるではないか。これを恣意(註:わがまま の意)的と言わずして何と言おうか。これは、事象を客観的に見つめる科学とは正反対の態度であろう。

ここで、勘の鋭い読者は、「それは他の骨格にも見出せるのではないか」、と気付いたかも知れない。ご明察である。そう、「頚椎」の数は7個である。これは、生体力学的にも最も合理的な構造である事が解っている(ウソツ 1985)。最も重要である頭部を支える部分が「7」と関わっているのだ。この重要性は、いくら強調しても、し過ぎる事は無い。

また、自然界の構造にもこの数字は関わっている。そう、「色」である。虹が7色に分けられるのは、誰でも知っているであろう。

それだけでは無い。驚く事に、7という数字が心理的に効果を及ぼす事が、脳科学的に明らかにされたのである。スイスの心理学者、ホラフの著作から引用してみよう。

 そこで私は、同僚の神経科学者であるデタラ・メッスに協力を得、fMRIによる研究を行った。その結果、私の仮説は支持されたのである。

 その研究の概要を以下に示す。

1)筆者が所属する大学から学生を無作為に200人抽出し、

  • 「7」の文字を見せる群
  • それ以外の文字を見せる群(0~9の内、7以外)

の各群に分ける。

2)被験者が文字を見ている際の脳の活動を、fMRI によって測定した。

3)その結果、「7」の文字を見せた群は、幸福感に関わる部分が賦活した。これは、他の群より有意に高かった(図21)。

4)その後、被験者に、主観的幸福感を測定する心理検査を行った。その結果、やはり「7」を見せた群は有意に幸福感を感じていることが分かった。

 以上により、「7という数字はヒトに幸福感をもたらす」という仮説が、認知神経科学的に確認されたと言って良いであろう。

 本研究にあたって、同僚であり友人でもあるメッス教授には多大な尽力を頂いた。彼の協力なくしては、サンプル数200という神経科学的には相当大規模である実験を実現するのは不可能であっただろう。この場を借りて、メッスにはお礼を言いたい。
ホラフ・キスギー著 『数字心理学への招待』 P172 東大路書房 刊

このように、「7」について、神経科学のレベルでも、その「威力」が確認されているのである。さらに興味深い事には、この「7」という数字、様々な言語体系における「7」を意味する語でも同様の効果を及ぼすのが確認されているのである。これは、波動学の大家である江本勝の論とも通ずる。筆者としては、江本とホラフに共同で、よりホリスティックな観点からの「真理」を追究して頂きたいものである。近い将来、ホラフ・キスギー=江本勝 理論が完成するやも知れない……おっと、さすがに夢想が過ぎたようだ。

余談であるが、矢沢あい作の大人気マンガである『NANA』は、編集部に数字心理学に精通する編集者がおり、その編集者からのアドバイスによってタイトルがつけられたという。当該作品が大ヒットしたのも頷けよう。既にこの研究は、マーケティングの場にまで応用されているのである。

いかがであろうか。読者諸氏は、「7」の威力が学術的に証明されているという「事実」に驚愕したのではないだろうか。初めに示したリンク先のブロガー達は、このような事実、あるいはevidenceと言った方が良いだろうか、それを無視して持論を「思い込み」によって正しいものと結論づけているのである。お互いに批判し合っているが、筆者に言わせれば、それは所詮、「同じ穴の狢」なのだ。是非、本論考を熟読玩味の上、猛省を促したい。

参考文献

ウソツ・キダロウ 『機能解剖学概論』 小修館書店

ホラフ・キスギー 『数字心理学への招待』 東大路書房

別冊宝鳥ムック 『大人気マンガはなぜ売れた? その真実に迫る』 宝鳥社

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勢いでやった。後悔はしていない。公開はするが。

…。

……。

ごめんなさいごめんなさい。もうしません。

一応。

ほぼ全てデタラメです。マジカルナンバー7の話は、ちょっと本当が混じってますけど。

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2009年5月26日 (火)

過度の一般化

日本人女性の精神が軟弱になってきている

以前日本人女性と付き合っていた経験から言えば、明らかに今の日本人女性の精神は軟弱になっている。

「以前日本人女性と付き合っていた経験」から、「今の日本人女性の精神」にまで帰納・一般化するのは妥当では無い。従って、それを前提とした、以降の論は ほぼ意味が無い。終了。

観測(観察)範囲が狭いという指摘に対して、「反例を」、とは適切な返し方では無い。そもそも増田氏の言明が、「今の日本人女性」という集合についてのものなのだから、それを論証する責任があるのは増田氏自身。

一般化しすぎるのは良くない→気づいたらすぐ発言する。これが俺のやり方です。間違ってると思うなら反例をどうぞ。

↑だから、これなんて、相当筋が悪い。

統計的推測の論理を全く踏まえて無いでしょ? でないと、

それに、観測者が俺であることによるサンプルの偏りには気を配って、今回の一般化に踏み切っているよ。

というのも、俺はいろんな人が証言する日本人女性の話やいろんな日本人女性がする俺以外の人間との人間関係の話を聴いてきている。

こんな文は出てきません。

  • 「今の」の「今」
  • 「日本人女性」
  • 「精神」
  • 「軟弱」

これらを定義・数量化した上で、適切に標本を抽出して確かめ、誤差を評価して、どの程度の割合か、などを調べないといけない訳です。分野としては、社会心理学辺り。

増田氏は、「今の日本人女性」からランダムに抜き出して付き合ってきた訳ではありますまい。

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2009年5月21日 (木)

博識

野球拳とはどのような拳法なのでしょうか?強いんでしょうか? - Yahoo!知恵袋

上手い。

そしてここ↓

蛇拳と形意拳を学び、その経験を元に「蛇意拳」を創始した。

西の方ではジャンケンの事を「ジャイケン」と言ったりしますが、それをも考慮していたとすると……ぶるぶる。

このエントリーのタイトル、初めは、「知っているのか雷電」にしようと思ったんですけど、それじゃ、リンク先を読む前にネタが解ってしまうという野暮助の所業になってしまうので、やめたのでした。

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ガノス

グッジョブ>某氏

エビは、ガノトトスの食料なのであります。

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2009年5月16日 (土)

感じさせるか否か

とある声優がいる。

演技の幅が広く、その才能の高さを認める評をよく目にする。

確かにその人は、バリエーションに富む役をしっかり演じこなしており、平均的な役者とは一線を画すと評価されている事には、頷ける。

しかし、である。

何か違和感を覚える。演技を聞いて。

その違和感が何か、としばらく考えた。

おそらく、

「感じさせる」から、なのではないかと思った。

何を、か。

「努力の跡」を、あるいは「気の遣い方」を、である。

つまり、演技に対する真剣な姿勢、構え、きめ細やかな演じ分けなどの配慮が、演技を通じて見えてくる、ように感じられる。

具体的には、声の出し方などがそう感じさせるのだろうが、ありていに言ってしまうと、「わざとらしさ」が見える。

他に、自分が高く評価する役者がいる。

その人は、「何も感じさせない」。

演技しよう、などの構えたような雰囲気や、淀みというものが全く無い。陳腐な言い回しを用いれば、「自然な演技」といった所だろうか。

自然に、というのは、努力の跡を感じさせない、のと同じで、そのキャラクターそのものが喋っているようにしか思えない、そんな演技。いや、もはや「演技」では無い、と言うのが適切だろうか。

「感じさせる」方は、「二重」に見える。つまり、キャラクターと、それを演ずる役者が。

しかし、「感じさせない」方は、全く同化している、と言うか、まさにそのキャラクターが喋っているとしか思えない、そんな風である。

この違いが、本当に優れた役者であるか否か、の分かれ目、なのであろうか。

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2009年4月30日 (木)

をしへて

「嬉々しい」

↑これ、なんて読むんですか? いくら調べても解らぬのですが。

て言うか、「嬉々(きき)」以外で使えるんですか、これ。

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2009年4月24日 (金)

意味不明

なんか、「大声で意味不明の事を叫んでいた」、というのが繰り返し言われてますけど。

酔っ払いが発する大声なんて、大抵意味不明でしょうよ。

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