カテゴリー「随想」の記事

2011年12月15日 (木)

ぐだぽよー

『gdgd妖精s』の最新回を観てて、これを思い出した。
答えられないですよ: Interdisciplinary ※10話の内容と関連しています。未見の人は注意

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2011年12月 4日 (日)

知識の使い方

これは自分の恥を晒すような話ですが、結構重要な事でもあると思うので。

先日来話題にしてきた「患者調査」ですが、私はこの話が出ているのを見かけて、「”患者調査”って何だっけ……?」となったのでした。そして、厚労省のサイト等を探して調べてみた、と。
ところが、患者調査という調査は、公衆衛生ではよく出てくるものなのですよね。実際、私が勉強した事のある公衆衛生学の教科書をいくつか改めて参照した所、やはり当たり前に解説がありました(受療率を調べる重要な調査として)。

にも拘わらず、私の記憶からはすっぽりと抜け落ちてしまっていたのです。「知っていたはず」なのに。
これは、いかに「使わない知識は忘れる」かを示す良い悪例(?)と言えると思います。
やはり、どういう時にそれを参照するかというのをちゃんと解っておかないと、重要な知識として把握しないという事ですね。ここら辺は、行政や医療関係者のように、現場でよく参照し、意思決定に役立てる人達と、私のように専門外だが当該分野に興味を持って教科書で勉強した、という程度の人との重み付けの違いも関わってくるのでしょう。

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2011年11月30日 (水)

Mochimasaさん

Mochimasaさんは端的に言って、「途轍もなく、くどい」。Mochimasaさんの言動を追い続けている人からすれば、執拗。

しかしそれは、Mochimasaさん自身が正当な手段と認識した上での行為でしょうから、その事によってご自分がいかなる悪印象を受けようとも、それは受け容れる姿勢でやっておられるのでしょう。
しつこいと思うなら見なければ良いし、あまりにもくどく続くようならもう見なくなるでしょう。個人的な考えは一々書く事でも無いでしょうが、私ならそうします。

ただし。
Mochimasaさんの態度を見て、ああいうやり方じゃ周りまで悪く見られるよ、みたいにして、はっきり言及もせずにいつまでもごちゃごちゃ仄めかすような言い方するのは、それはそれで非常にくどいですね。直接ブログなりで徹底的に批判したり自身の姿勢を表明して、そういうやり方の人とは一切関わらないし触れもしない、とでもすればいいのに、とかね。

私が片瀬さんに懐いている印象は、昨日も書いたように、言及相手の年代等の属性に対する先入観から発言する事が多くてすごく危ういし、姿勢として好ましく無い、という事。けど、たくさんやり取りして、基本的に信頼の置ける方だ、と思っている訳です。その上で、もう少し配慮した方がいいのでは、と申し上げているという事で(poohさんもそうでしょう)。

常識的に考えたら、誤りを指摘された所で認識がすぐ改まるか、というとそんなに簡単にはいかないし、指摘がずっと後で効いてくる、というのもあるでしょう。

それを、いつまでも、くどくどくどくど書かれたら、嫌気がさす。まあそんなの当たり前だ。人の心なんてそう簡単に変容しないんだから。

相手の認識を改めるつもりなら、執拗にやって聞き入れるかは判らないし、そうでは無く、「いかにその論者は認識が甘いか」という指摘のつもりなら、尋常じゃ無く、くどい。こっちはそんなに馬鹿では無いので、数回くらい発言を採り上げ詳細に検討されていれば、後はその論者については自分で評価します。

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2011年11月28日 (月)

片瀬さん

指摘しておいても良いでしょう。

片瀬さんは、言及対象の年代や属性について不用意に触れ過ぎなのです。

それに基づいて批判の仕方をコントロールしている、というのをこれまた不用意に表明するのはどう考えても隙を生むでしょう。普通そういう態度を見たら、「相手を見くびっている」とか「先輩面している」などと看做されて当然です。
師匠が弟子を鍛えている訳でもあるまいし。

別にそんな複雑な話でも無く。そういうのは控えた方がいいですよね、という事で。

お前は気を付けてるのか、と言われそうですが。
はい、相当に気を付けています。

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自分で考える

だけじゃあ不充分ですよ。

他の人は何を考え見つけてきたか、を「知る」事を同時にしないと。

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2011年11月24日 (木)

理屈じゃ無いんだよ

とはよく言うが。

直感が理屈の在り方によって変容していく、というのもしばしばある事だ。

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2011年11月11日 (金)

世界

「論理的に可能である世界」
が、
「実際に理論的に成り立っている」
かどうかを判断するのに必要なのが、「知識」です。

世界は広く、個人の努力では知り尽くす事が出来ないから、数え切れないほど沢山の人が、途方も無い時間をかけて、「世界の在り方」を確かめていく訳です。

その過程で、「世界について解ってきた事」が、「知識」として蓄積されていきます。
何百年もかけて確かめて解ってきた事は、世界を「説明」出来るものとしても役立てられます。

「論理的に可能である世界」というのは言い換えると、「世界はこう出来ていても良い」という「可能性」の話です。
それはフィクションなどで描かれ、実際に「想像」は出来る世界です。
だけれども、その世界が、私達の住む「世界」と同じようなのかは、また別の話です。
だから実際に、私達が住む世界がどうなっているか、それを「確かめる」必要があるのです。
そして、「確かめられた事」が何なのか、というのを知る必要があります。「世界」についてものを言いたいのならば。それが「知識」であり「理論」。
「論理的に色々な世界が”可能”」である事と、「この世界でどういう理論が成り立っているか」は別なのです。前者は発想としては大切ですが、私達が今住むこの世界について何か言いたいのなら、後者を理解しなくてはなりません。

「放射能(この書き方はわざと)の味が判る」というのは、論理的には可能です。つまり、色々な事、それまでに蓄積されてきた知識を無視して考えれば、「そういう世界はあってもいい」。
けれど、「放射能」という言葉はそもそも、世界を知りたいと思って色々な実験をして確かめられた事に基づいて意味が持たされているものなのです。だから、細かい所、つまり「理論」を無視してはいけないのです、本当は。

「味」というのもそうです。私達が何かを口に入れ、「感じる」味。それがどうして感じられるのか、どういう仕組みで成り立っているのか、というのも沢山の人々が時間をかけて確かめています。それも、「世界」が実際にはどうなっているのか、を探究しようという営みです。
本当なら、そういう事も知っておかないと、「放射能の味」が判るという「感じ」が確からしいとは言えないのです。
考えてみれば、私達は「味」を「想像」する事が出来ます。あるいは、口にしていないものの味がする「気がする」時もあります。そういう、人間が持つ「感じ」というのは複雑で、外にある物そのものを反映しているとは限りません。それは、錯覚であったり、共感覚であったり、そういう事を思い浮かべてみれば、よく解ります。

だからこそ、思い込みなどをなるだけ取り除いて確かめる必要があります。まだまだ世界について解っていない事は多いけれど、もう解っている事もそれなりにあるのです。そして、私達が何気無く使っている言葉、憶えたての言葉、というのも、その「解っている」事を前提にしたものなのかも知れません。

考え方、つまり、色々な物事を組み合わせたり、想像を働かせて発想したり、はもちろんとても大切な事ですが、それとともに、「実際にどうなっているか」を知るのも大事です。「知識」を得る事。
それは、憶えなくてはならないものも多く、必ずしも面白いとは限りません。「もう解っている事」を勉強する訳ですからね。けれど、それを知らなくてはどうしようも出来ない、という情況も確かにあります。
自分が病気に罹って入院したり、身近の人がそうなったり、という経験がある人は、そうなった時に初めて、そこに関係する「知識」に触れて、いかに自分はものを知らなかったのか、と感じたり、関心を持ったら勉強する気になるものだな、と実感した事を思い出せるでしょう。診療や治療、看護がいかに、その「知識」に基づいて綿密に組み立てられているのか、を知って驚く場合もあるでしょう。

私達が泣いても喚いても、「世界の在り方」は変わりません。そして、「世界の在り方」については、沢山の事がもう確かめられています。だからそれを知るのは大事なのです。

本当は、泣いても喚いてもそれで世界が変わらない、という考え方自体も一つの前提です。「思いによって世界が変わる」というのも、「論理的には可能」とも考えられるかも知れないからです。ではそう考える事が確からしいのかどうなのか。それを知るためにも、「今解っている事」を身に着けるべきです。

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2011年11月 8日 (火)

kikulog

スパムで荒れてますな。

余計なお世話だけど。

私も掲示板管理で途方に暮れましたけど(あまりにもスパムがひどいので制限した。しかも消すのが非常にやりにくい管理システム)、ああいうのって、溜まる前にやらないと、どんどんめんどくさくなりますからね。

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2011年11月 4日 (金)

Amazonレビュウの見方

興味深い商品があった場合、Amazonのレビューを参照する事がしばしばあります。

よく見るのは、本(特に学術書)とコンピュータゲームのレビュー。

私の場合、本は、どちらかというとマニアックなものが多いので、そもそもレビュー数自体がそれほど多く無いから、それは措いておいて、ゲームだと、買う人も沢山いて、特にいわゆる話題作や大作の場合、数百件のレビューがつきます。
その時によくやるのが、高い方と低い方の数十%をトリムして参照する事。統計で、平均値を求める時にトリム平均を出すようなものですね。
極端な場合には、☆5と☆1のレビューを全て無視して(あるいは、見ても一切参考にはしない)、☆4~☆2の意見を重視する、というやり方をします。
コンピュータゲームだと、ゲームの内容と全く関係の無い部分での議論(とは呼びたく無いが)から発生するノイズが無視出来ない情況となっていて、調べる際に極めて邪魔になるので(ゲームとネットをする人は何の事か解りますね)、上記のような工夫をして見る(あるいは見ない)のがベターだと思われます。とりわけ、あるハードでの独占タイトルで大作とされるもののレビューは注意が必要。見るだけで気分を害するのも一杯あるので。

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2011年11月 2日 (水)

STS

なぜ私が、STSに関わると称する論外な人達を幾人か観察した事をもって「STSは~」と一般化する、という物言いに対し、過度の一般化は危険だから止めた方がいい、と くどいくらいに言い続けるかと言うと。

自分自身が、少数事例の観察から即「○○は~」と理不尽に決めつけらているのをいくつも見聞きしているし、また自分もそのように決めつけられる事があるからなのです。それこそ、「科学者は」「理系は」「文系は」という、このブログを読んでおられる方ならしばしば見ているであろう表現を思い浮かべれば良い。あるいは、「ゲーマーは」「オタクは」みたいなもの。自分が関わっている分野でそう評されるのを見れば、おいおい待ってくれよ、てなるでしょう?

科学関連だと、科学哲学や科学社会学なんかもそうだろうと思います。科学哲学者は科学を相対化してメタな事しか言わない連中だ、みたいな一般化とかね。実際は、一口に科学哲学と言っても、色々な立場の人がいる訳です。たとえば伊勢田さんのように、実際の科学者の活動にも目を向けて極めて慎重で綿密な考察を行う優れた科学哲学者もおられるのですから。

しかし、色々な立場の者がいるといっても、何か「平均的」な、いわば「傾向」のようなものはあるのではないか、と考える人もいるでしょう。それはおそらくその通りでしょう。分野の通説みたいなものもあるだろうし、中心的な論にコミットする論者が多ければ、そこには「山」のようなものが出来ているのでしょう。
だけれど、その事を本気で主張したいのであれば、「確かめなければならない」のです。ある学問に関わる論者の全体像を捉え、そのありさまを精確に写しとって分析し、傾向や志向を客観的に明らかにする必要がある。そして、そのやり方自体が高度に学問的(社会科学的)な営みであるのです。

その事を踏まえ、小標本の観察に基づいて分野全体を云々する人に問いたいのは、本当にそう主張して良いだけの強い「証拠」はあるのか、主張を補強する説得力のある論を展開せよ、と要求された場合にすぐ応じられるだけの構えはあるのか、という事です。STSを標榜して訳の解らない事を主張している人が数人いるのを見て、「STSは……」と言う人は、そんな「主語の大きな」主張をするだけの知識を持っているのか、つまり、「あなたは自信を持って”STS”なる分野について語れるほどその分野全体を知っているのか?」と問われて的確に説明が出来るのか、と。

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