以下乱文! 思考が濁っている。
はてなブックマーク - イチローに学んだ ルーチンへのこだわり - モチベーションは楽しさ創造から
鈴木一朗が何故「イチロー」たりえるのか。その奇跡的なパフォーマンスを支えるものは一体何であるか。それを看破出来ている人は、どれ程いるでしょうね。はっきり言って、「自分の身体」を見つめた経験の無い人には、「解る」事は不可能でしょう。なんだか身体論めいていますが、実際、イチロー選手のパフォーマンスは、身体運動な訳です。そういう意味で、ルーチン云々というのは、本質では無い。むしろ、本質な違いがあるからこそ、そういった所が生きてくるのです。凡人がいくらそれを真似ても、イチローにはなれない。だけれど、普通は、本質的な所には、なかなか気付けない。だから、ああいった記号的な、見えやすい所が、「イチローを形成した」重要な因子として、クローズアップされてしまうのでしょう。あたかも、それが必要条件であるかのようにね。
イチロー選手の発言等を見てみると、その内容は、極意歌や武術の伝書等に書かれている様なものなのですね。だから、その意味では、目新しさがある訳ではありません。むしろ、肝腎なのは、イチロー選手が、最高のパフォーマンスを体現しつつ、そういった発言をしている事なのですね。要するに、武術の勉強をした訳でも無い人間が、野球という競技を窮める過程で感じ取ったものが、昔日の武術の達人の悟った境地に一致している、という事実をこそ、重視すべきなのです。言っている事の凄さは、ある程度認識力のある人なら、気付ける。でも、それを論理的に理解しただけでは、あまり意味が無いのです。
簡単に言ってしまうと、イチロー選手と同じ事を言うだけなら、誰にでも出来るのです。受け売りすればね。それをもって、他人を感動させるのも、さほど難しい事では無いでしょう。だけどそれは、決して、イチロー選手と同じ高みにいるのを、意味しない。言っている事を出来ているか、というのは、また別な話なのだから。
たまに、イチロー選手の発言を分析して、それが凄い、と絶賛している人を見かけますけれど、果たして、本当に解っているのかどうか。身体という観点が抜け落ちていれば、絶対に、それは不可能なのです。
余談。
かと言って、殊更に武術等の文化を持ち上げて論じたり、科学的分析的思考を忌避したり、というのも、全然ダメなのですが。いるんですよ、武術系には、そういう人が。スポーツ界にもいますよね。凄まじいパフォーマンスを体現した人が、そういう分析的なものを嫌う、という。直感に優れているから、その「まとまったもの」を切り分けられるのに、抵抗を覚えるのでしょう。気持ちは解らないでも無いですが。出来もしないのに否定する、という場合もありますが、それは論外ですね。
ちなみに、イチロー選手が何故凄いか、その本質的な所については、このカテゴリーを読むと、接近出来るかも知れません。手前味噌にもほどがありますが、気付いていない人が多過ぎる(と言うか、気付いている人が見当たらな過ぎる)ので、しょうがないですね…。
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