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2011年11月15日 (火)

科学コミュニケーション――より基本的な知識を普及させる事の大切さ

何か稀な出来事が起きた場合に、その時に自分が着目しているものと結びつけて考えようとする事、ありますよね。

今だと、「放射能」。何千人に一人しか罹らない疾患の人がいる、という情報があった時に、「放射能(←象徴的にこういう表現がされる)の影響ではないか」と結びつけて考える、というようなもの。
それで、そういう拙速な論に対して、批判が色々加えられる訳ですね。論として明快で、批判として合理的なものがある。

でも、そういう場合に気をつけておかねばならないのは、ちゃんとした説明でも、必ずしも相手やギャラリーに通ずるとは限らない、という所です。
どういう事かと言うと……。
たとえば、○○病という病気に罹った人が出たようだ、といった情報が、twitterなりブログなりでもたらされたとします。そして、その情報を得た人は、これはあの事に関係があるやも知れない、と考えて、今度はtwitterやブログで発信する。
それを見た人は、その情報から結びつけるのは(ここでは放射線被曝など)拙速では無いか、証拠が足りないのではないか、と批判する訳です。この文脈だと、次のような合理的批判がなされるでしょう。

  • その病気は、通常でも稀に起こる事だから、それ(被曝)と関係があるとは言えない。
  • 本当に関係があるかは、沢山の人を調べてみないと解らない。
  • 関係があるかは、それ(被曝)を受けた人と受けていない人とを比較しないと解らない。

これらのようにです。
しかし、これらはそれぞれ尤もな説明ではありますが、必ずしもそれがそのまますぐ理解されるとは限りません。
たとえば、通常でも稀に起こる事、というのは、特別な出来事が無くても何千人に一人とか何万人に一人の「頻度」で起こる、というのを意味しますが、これ自体が、「沢山の人々を観察して導かれた」ものです。つまり、「統計」をとって解った事。まず、そこをきちんと押さえておかなくてはなりません。広い所に散らばっている人々を、専門の医師や学者が診断し、集計してデータを処理して解ったものだ、というのを認識する。その過程自体に専門の知識が関わっています。
たとえば、「割合」と「率」と「比」の違いは解りますか? 正確には、これらは違う意味を持っている用語です(でも専門用語でも慣習的に入り交じっているからすごく厄介)。あるいは、「人年」という言葉を聞いた事はありますか? 医学に関わる話がされている時には、これらの事が「踏まえられて」議論されている、というのを理解しておく必要があります。その意味で、すごく知識に依存しています。「知っていなくては理解出来ない」事です。
ところが、的外れな主張を批判する人は、これを「当たり前」の知識として前提して説明しています。つまり、さっき書いた、割合と率の違いとか、沢山の人を観察して得られた結果だ、というのを、細かい所を省いて説明する。
それは無理も無い事です。ブログにしろtwitterにしろ、一回辺りの投稿で消費出来る文字数には限りがあるし、そもそも、そういった、「前提とする専門知識」というのは、知らない人にきちんと解説するのは簡単でありません。また、「知っている者同士で節約出来る」メリットがあるので、つい詳細を省いてしまう、という事もあるでしょう。

本当に関係があるかは沢山の人を調べてみなくてはならない、という事にも、背景には色々な考えがあります。
まず、「一人」を観察しただけでは、その人が、今着目している条件(ここでは被曝)「のせい」で罹った、というのを確定出来ません。何故なら、他に色々な条件が無数にあるからです。要するに、病気に罹る条件というのは、遺伝的な要因や生活習慣、あるいは何かの化学物質や毒物などの影響が考えられるから、その原因を、一例の観察をもって特定する事は出来ません。
また、つい我々は、「数千人に一人」というのを「ごく稀だ」と認識しがちですが、これは見方を変えると、数千万人を観察すれば相当数は確認される可能性がある、というのを意味する訳です。
ご自分が住んでいる地域の人口を思い浮かべて下さい(知らない場合には、役所のWEBサイトを参照すると良いでしょう)。それが市であれば、数十万から数百万の人口ですね。なら、数千人に一人が罹る、という病気に罹る人は、その地域の中では、「自分が直感しているよりは多い」かも知れない訳です。つまり、考えているよりは珍しい事では無いのかも知れない。着目している集団に属す成員の数、つまり「分母」を考えるのは重要です。

実際にその病気にどういう条件が関わっているのかを考えるには、沢山の人を観察し探っていく必要があります。何千人に一人しか罹らない、という事は、それに罹った人がより沢山入った集団の事を知るには、何万人もの人々を観察する必要があります。

そして、「比較」するという事。
今、ある条件(被曝)に注目して、それが原因ではないか、と考えている訳ですが、先ほども書いたように、原因となり得るものは、無数にあります。ですから、特定の条件が原因であるかを探る場合には、その条件が含まれる集団とそうで無い集団とを、「比較対照」する必要があります。
薬の効き目であれば、臨床試験といって、沢山の人を集め、ある集団には試したい薬を与え、もう一方の集団には効き目があると判っている別の薬を与えて比較する、といったやり方が出来ます。この場合、その与える薬という条件を違えて、他の事を「揃えて」比較する訳ですね。そうすれば、環境が与える影響などをそれぞれの集団で揃えて(これは必ずしも、「同じにする」という意味ではありません)、薬の与える影響を切り分けて評価出来る、という寸法です。
ところが、病気の発症とかは、そういう風に調べる事は出来ません。考えてみて下さい。その病気に罹っていない人を集めて片方に放射線を浴びせて実際に病気に罹るか調べる、などという実験が出来る訳がありません。倫理的に当然です(それはネガティブな意味で人体実験と言う)。
だから、既に放射線を浴びてしまった人とそうで無い人(のデータ)を集めて比較する、というやり方しか出来ない訳ですね。
方向としては、その病気に罹った人の内で条件に合致する人がどのくらいいるのか、というのを調べたり、まだ罹っていない人をあらかじめ集め、その後に、ある条件が与えられた人とそうで無い人とで病気に罹る人にどのくらいの差があるか、を調べる、などがあります。それは、どういう条件の事を考えるか(食事なのかタバコなのか放射線なのかワクチンなのか)、とか、今どのようなデータがあるか、などが総合的に検討され、どういう方法が出来るか探られる事になります。

また、そもそもその病気が稀な事なのであれば、「本当に違いがあるのか」というのをきちんと確かめるために、極めて多くの人を調べる必要も出てきます。そうでないと、たとえば、ある条件がある人とそうで無い人にわずかに差があったとしても、それが「たまたま」そうだったのか、それとも「本当に差があったのか」の見分けがつかない可能性があるからなのです。そうなると、調べる事自体に大きなコストや時間がかかったりする(沢山の人をちゃんと観察しないといけないから)。
ちょっと話がずれますが、仮に、本当に差があったとしても、その違いの大きさが僅かであった場合にどうするか、という視点もあります。これはまた難しい話。 たとえば、5/1000と15/1000、という違いが実際にあるとして、それをどう考えるか。ある診断方法は既存のよりも精密さが少し上がるけれど、1000人に1人は重い有害な副作用が及ぶ、といった場合にはどうしましょうか。

それから、何千人に一人罹るという「確率」である、みたいな言い方をする場合に、その「確率」ってどういう意味なのだろう、みたいな話もありますよね。確率ってそもそも何だろう、といった事を深く考え出すと、そう簡単にものが言えなくなってきます。

このように、短い文章で説明されるような事でも、実はその背景には色々な知識であったり、実際に観察された事に基づいていたり、というのがある訳です。本当は、その辺に通じていなければ、ちゃんと解るはずが無い。
時折、指摘として、対照群をとって比較しなくてはならない、みたいに言われる事がありますが、それは確かに正しいのだけれども、その内容は意外に複雑であり、それなりの知識をベースとして要求されるものです。
だから、もし本気でそこら辺の話を知っておくべきで、知識の普及が大切だと考えるのならば、まず、その基盤となる事からちゃんと教える必要があります。
たとえば、私がここで行ったいくつかの説明は、医療統計学・疫学・公衆衛生学・確率統計、などの本を読めば必ず載っている事です。その意味では、学術のある領域においてはほとんど常識的なもの。
だけれども、その事を、間をすっ飛ばして、これが大事だ、と言うのは、知識の伝達という面では無理があります。知らない状態から自分が勉強して習得するまでにかかった時間などのコストを考えれば良い。
もちろん、何か強い主張をしておきながら勉強をしていない怠慢さが責められる、という文脈はあるでしょう。ジャーナリストや学者が適当な見方をしていれば強く批判される、というのはむしろあってしかるべき、とも思います。ここで言っているのは、もっと一般的な話ですし、また、ジャーナリストや学者が相手であっても、知って欲しい、という文脈ではそういう配慮がなされても良い、という事でもあります。

「確率が」「有意差」「対照を取れ」「因果関係」「関連」「発症率が」←これらの用語は、ちゃんと押さえるのは難しいものなのです。であるのに、共有されている事が前提かのように使われているのをしばしば見かけます。通じている者同士では経済的であっても、そうで無い者にとっては意味不明な事は往々にしてある。
そして、これらを理解するには、より基礎的な分野の勉強をしなくてはならない。これは「必要」なものですからね。知らなくちゃ話が通じない、というレベルで。
ならそこを知らしめる所にもっと注力されても良いでしょう。「教科書」は退屈だから、もっと噛み砕いたテキストを書こう、という動きもあって良いでしょう。昨今、「放射能」「放射線」「放射性物質」などについては、色々と工夫された易しくて良質なテキストが見られるようになりました。では、確率や統計、医療統計や公衆衛生、などについてはどうでしょうか。これらは本質的に重要で、ややこしい用語(何がややこしいて、中途半端に用語が社会に流布しているから、それぞれが「自分勝手」に理解している可能性がある所)も一杯あります。だから、その辺もちゃんとフォローするのが必要ですよね。たとえば、「罹患率」とか「有病率」とか、「直感的には解る気がするが具体的にはよく解らない」となりません?
統計の用語で言えば、時折「有意差」の語が出てきますが、意味が説明出来る人がどのくらいいますか?
もちろんこういうのも、厳密に定義されている訳です。知らなくちゃ話が出来ないのです。

「放射性物質(に曝露される事――”曝露”って難しい言い回しですね)が特定の病気を引き起こすか」みたいな問いというのは、不幸にも身近なものとなってしまいました。そういう問いが身近になってしまった今、もちろん「放射能とは何か」などの説明というのが重要なのは間違いありませんが、それとともに、上で書いたような知識も必須となったのです。その辺りの基礎的な知識を普及させる事も、「科学コミュニケーション」や「科学リテラシー」という面から見ても重要な事なのではないでしょうか。

いくつか文献案内

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114)) Book 宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

著者:佐藤 俊哉
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↑私が参照した医療統計関連の本では、抜群に丁寧で読みやすい本。それでも、ピンとこない所もあると思います。そもそも色々な用語の意味内容が結構複雑で直感的に押さえにくいからですね。

統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) Book 統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
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確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) Book 確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
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↑いつも勧める本。私が知っている中では確率統計の入門書として最高峰。けれど、中学辺りの数学を憶えていなかったりする人にとって、「簡単」な本ではありません。簡単かどうかと面白いかどうかは違います。この本は面白い。確率のはなしを先に読む事。

統計学100のキーワードBook統計学100のキーワード

販売元:弘文堂
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↑初学者向けの本では全然無いのですが、一般的な本ではあまり触れられない、「これはどういう事なのだろう」と疑問に思われるようなものについて色々説明してくれる本です。疫学等の用語がメインなので、今の文脈的にはうってつけでしょう。

公衆衛生学、疫学、医療統計関連の本は、いかにも教科書的なものでは無い読み物風のものがあまり見られない気がします。今や、「知識の橋渡し」をするという意味でも、そういう本は必須な情況に思われます。別にそれは、数式を排除して誰でも読めるように、とかいう話ではありません。階段があるとすれば段数を増やし、あるいは、スロープを作るように。坂があるのなら緩やかにして登りやすくなるよう工夫する、という事です。

少し参考にしたもの
岩上安身氏「デマといったね。デマだと立証してもらおうか」「えっ?」 - Togetter

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コメント

ひとつだけお願いがあります

自分がものを知らなかった時の事
時々でいいから……

思い出してください

(CV:青木まゆこ)

※元ネタ知りたい人はググるように(あるゲームのネタバレなので注意)。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 14:25

解りにくいかな、という場所には文章を足してます。文意が大きく変わるような所では無いので、逐一記録しません。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 16:47

明らかに話題が交じっていたので修正。推敲が足りませんでしたね。

▼ 修正前 ▼
また、つい我々は、「数千人に一人」というのを「ごく稀だ」と認識しがちですが、これは見方を変えると、数千万人を観察すれば相当数は確認される可能性がある、というのを意味する訳です。着目している集団に属す成員の数、つまり「分母」を考えるのは重要です。だから、その病気にどういう条件が関わっているのかを考えるには、沢山の人を観察し探っていく必要があります。何千人に一人しか罹らない、という事は、それに罹った人がより沢山入った集団の事を知るには、何万人もの人々を観察する必要があります。
▲ 修正前 ▲

▼ 修正後 ▼
また、つい我々は、「数千人に一人」というのを「ごく稀だ」と認識しがちですが、これは見方を変えると、数千万人を観察すれば相当数は確認される可能性がある、というのを意味する訳です。
ご自分が住んでいる地域の人口を思い浮かべて下さい(知らない場合には、役所のWEBサイトを参照すると良いでしょう)。それが市であれば、数十万から数百万の人口ですね。なら、数千人に一人が罹る、という病気に罹る人は、その地域の中では、「自分が直感しているよりは多い」かも知れない訳です。つまり、考えているよりは珍しい事では無いのかも知れない。着目している集団に属す成員の数、つまり「分母」を考えるのは重要です。

実際にその病気にどういう条件が関わっているのかを考えるには、沢山の人を観察し探っていく必要があります。何千人に一人しか罹らない、という事は、それに罹った人がより沢山入った集団の事を知るには、何万人もの人々を観察する必要があります。
▲ 修正後 ▲

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 17:13

医療統計や疫学の知識、といっても、基本的な部分は、高校くらいまでの領域をきちんと勉強していれば、さほど理解が難しいものでは無いでしょう。
しかるに問題は、その高校程度の範囲の勉強をしていない大人も少なくないであろう、という所でしょう。
だからこそ、大人が再勉強する機会などもどんどん増やしていく必要があるし、前提として、後からそこら辺の知識を得るのは、学生時代にサボった所を取り戻すようなものだからやっぱり一筋縄ではいかないよ、というのも解ってもらう必要があると思います。

今はWEBで色々な良質のコンテンツも無料で参照出来るし、ブログや掲示板やtwitterなどでやり取りも出来る。それにeラーニングなども使えるから、かなりいい時代にはなってきていると感じます。
後は、マスメディアに周知を期待するとか、出版物で良いものを出していくとか、サイエンスカフェで確率統計関係の所をもっと充実させるとか、色々あるでしょう。

ブクマコメントにも書きましたが、外国語での会話を習得しようとする人は、教室に通って数年かけ、費用もそれなりに使ってやりますよね? それと同じ事です。確率統計は難しいし、中高の数学をやり直す事を考えると、やっぱり数年くらいを見る必要があると思います。でも、ある分野を勉強する訳だから。科学の分野だから無理そう、と言ってしまってもしょうがないでしょう?

モンスターハンターでいっぱしの狩人になるのにも数年かかるのだ。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 20:28

僕は大学レベルの教科書にお金を払えるか、読む気があるかがこの内容に限らず学問に対する本気度の目安になるかなと考えてます。教科書の読めない、読む気もない人は何やったって駄目だと。

投稿: | 2011年11月15日 (火) 21:17

梨さん、今晩は。

大学のテキストレベルが、一つの基準と言うか標準という感じですね。
とは言え、大学の教科書でも読んだ方がいい、と言われるのは実際にはハードルが高いと。そもそも、これ読むといいよ、て言われて本を読む、というのは、相手が友人などであってもなかなかしないものですしね。
それに、大学の教科書はやはり堅苦しいし、面白く読めるのはあまり見かけないというのもあります。心理学の教科書にいきなり説明無しで哲学の用語や数学の話が出てくると、やはり面食らいます。

そういうのもあって、そこまでに行く段階を作ったり案内をしたり、というのが重要だろうな、という事で。
で、それと同時に、「入門書程度読んだくらいではついて行けないよ」というのも現実としてあるから、そこもちゃんと言っておかないとならないと思いますね。科学というものが、証拠を集めてそれを沢山の人で確かめて精密な知識の体系を作る社会的な営みだ、というのを知らしめるのが、科学コミュニケーションの一つの到達目標でしょうし。そこでは、「そんなに甘く無いぜ」的なメッセージを伝えるのが、一つの誠実さと思います。もしかするとそこが一番重要かも知れない。

プロスポーツの話の文脈で、「プロ舐めるなよ」みたいな話が出てくる事ってありますよね。いや、スポーツに限りませんが。
科学もそれと同じく、プロフェッショナルによる知的な営みで、そうそう簡単には解らないよ、というのを正直に教えるのは重要。ただし、たまにあるように、「なんかよく解らないけど滅茶苦茶頭の良い人がやってる事で、自分では理解出来ないし縁も無いものだ」みたいに突き放したような印象は解消しなくてはならないので、そこは難しいですが。

---------

レウスをソロで狩れ。話はそれからだ。

みたいな。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 22:47

後、これはよく書く事ですが。

私が、成人を過ぎてから小学生向けの算数の参考書から勉強し直した、というのは何度か書きました。それは、算数―数学の体系が積み重ねのものであり、いきなり大学向けの数学の本を読むのは、それまでの勉強をサボっていれば不可能だったから、ですね。
で、重要だと私が思うのは、私がやったような、小学生向けの本を読んだりする事を、当たり前の話のように考えられるような社会的な雰囲気作りがなされて良いのではないか、という所なんですね。場合によっては、そういう事をするのは恥ずかしい、と思う人もいるかも知れませんし。

尤も、最近は、大人向けの数学再入門みたいな本も沢山あるので、それは良い事です。『なぜ分数の割り算はひっくり返すのか?』という本も最近出ました。そういうものに関心を持ってもらうのと、今立ち向かっている社会問題を「本気で考える」にはそれらの知識が必須であるのを解らせる、というのが重要なんでしょうね(だから私は大村さんの本がアホみたいに勧める)。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 22:57

ああ、それだと大学レベルの教科書=終焉を喰らうものなのかなとも思います。
確かに堅苦しいのが多いのは同意ですが、とっつきやすい新書(僕の場合は進化、生態学)あたりは地雷率が高くて悩ましいところです。その点では、このブログなどでしばしばブックガイドをしていただけるのは助かっています。
でも、難しいで尻込みしてたらいつまでたっても何もできないわけで。僕にしても高校のころから保全生態学の本を読んでいますし。難しくて読まないなんて人を見てイラつくのは僕の人間が練れてないからかもしれません(笑)

投稿: | 2011年11月15日 (火) 23:12

実はちょうど、進化論についての本のレビューを書いた所でした(0:00に上げます)。
で、そこでは、「留保」をつけてます。自分には進化論の知識がそんなに無いので、もしかすると地雷の可能性も……という感じで、もし詳しい人で読んだ方がいれば情報求ム、みたいな風にして(梨さんとかの名前をさりげなく…)、情報提供&留保、みたいに書きました。
それも一つのレビューの仕方かな、と。読みやすさ解りやすさと「正確さ」が対応しているとは限らない、というのは嫌になるほど見てきましたからねえ。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 23:19

こんにちは、TAKESANさん。

基本の所に我々人間の認識の仕様と統計というのが相容れない面があると思うんですね。私のように日頃から統計を使っていて、「目先のデータの傾向に迷わされるな、全部のデータを並べて解析してみないと分からないぞ」と分かっていても、その100以上のデータを測定している最中は「もしかしたら、こんな傾向がでるかも」みたいな目先のデータに現れる擬似的な傾向に心惹かれながら測定します。そして全部を並べて解析して、「測定途中に思ったのは気の迷いだったんだな」と思うわけです。

この少数データに現れる傾向に心惹かれるのは仕方ないとして、それに身をゆだねずに多数データの解析に進むのは、確かに統計学の知識の部分もあるのだけど、むしろ、体験というか経験の部分が大きい気がするんですね。バラツキの或る程度大きい母集団から少数の測定データを得て、それから全体を推察しては、失敗してしまったような経験を私は何度かしているということなんですね。

よく考えてみると、少数データから全体を推察する経験というのは日常的にしているかも知れないのだけど、それを多数データと比較して、「あれ、ずいぶん違う」と経験するというのは普通の人はあまり経験しないんじゃないかと思ったりします。

私が「子供たちにやらせてみたい」なんて思っている実験として、白玉と黒玉が同じ数入っている袋から10個取り出して、袋の中の白黒比率を推察するという実験なんですね。50人の子供にやらせると、5:5を取り出す子は20人もいないはずです。それを2回やらせると2回とも5:5になる子は5人程度になります。しかし、50人の子が10個ずつ2回取り出した結果を全て足し合わせると1000個の取り出しになりますね。足し合わせた結果で見ると10の桁で四捨五入したら500:500になることがほとんどでしょう。こういう体験をさせたいと思ったりするんですね。

知識というのも確かに大事なんだけど、こんな実体験みたいなものも必要ではないかと思ったリするんですね。

投稿: 技術開発者 | 2011年11月17日 (木) 08:33

技術開発者さん、お早うございます。

確率的な論理が直感的・経験的な「感じ」に反する、というのはしばしば論点になる所ですね。ここはやはり、ヒトの認識というものが必ずしも理論的な事と一致しない、というのを、これまた「体験」によって教える、のが重要だと思っています。言わば、経験を経験で更新する訳ですね。確率の問題もそうだし、4枚カード問題みたいなものもありますし、錯覚などで解らせる、という手もあります。
そして、それらが学術的・科学的な「知識」として整理され体系化されたものと結びついている、のを解ってもらうと。

たとえば、視聴率調査で1%程度の差が意味あるものかどうかを考える(それは採ってきたサンプルの大きさや採り方に依存する)、みたいなものも一つ科学リテラシーの問題として良い材料かと思います。

投稿: TAKESAN | 2011年11月17日 (木) 09:57

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