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2011年11月11日 (金)

「欠如モデル」のアンケート

STSの資料を眺めていたら、次のような記述を見かけました。

欠如モデルとは「専門家と非専門家を固定的に対置し,科学知識が前者から後者へと一方向的に流れ,後者はそれをただ受け取るだけ,ととらえる」考え方である(杉山 2005, 263).
Web2.0 と科学技術コミュニケーション (PDF)

これは、しばしば見かける定義であり、平川氏などのSTSの論者が用いる意味内容とも合致しているものと思われます。

ここで、お読みの皆さんにお願いがあります。

○科学者の方には、
 そのような考え方を実際に持っている(いた)か。

○科学者「以外」の方には、
 そのような考えを科学者は持っている、と考えている(いた)か。

ここについて皆さんに訊きたい。
もしよろしければ、コメント欄に書いて頂ければ、大変ありがたいです。

これはもちろん、その結果をもって一般論を云々する、というものではありません(科学者、といっても、私が普段やり取りしていて所属が明らかで無いある 方以外、WEB上の自己申告ではすぐ信頼出来るものでは無いのもあります)。具体的な事例を知りたい、という事です。しばしば用いられる社会観(科学コミュニケーションに関する)について、実際に「どう思っている」のかを知りたいのです。

科学者や非・科学者の立場として個人的にどういう見方をしているか、というのでも構いませんし、自身が所属していた組織ではこういう傾向だった、というのもとても参考になると思います。あるいは、何か勉強や研究をする事で考えがこういう風に変遷した、という経緯もあれば興味深いですね。

もしご興味があれば、よろしくお願いします。

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コメント

では私から。

私が科学に興味を持ったのは十数年前ですが、その頃は、科学コミュニケーション自体について考えた事が無かったように記憶しています。どちらかというと、知識や考え方を得る事に注力していた。

で、科学知識の普及等について考え出したのは、やはりゲーム脳論がきっかけで、その流れで菊池さんや天羽さんの論を知る事となりました。
そういう経緯ですから、事象の地平線やkikulogを、科学コミュニケーション(言葉そのものではなく現象)を意識し出してから最初の方に、そこに集まる科学者の方の論を見、実際にやり取りをした訳ですね。

で、そこで認識したのは、「科学者は社会的な部分についても物事を単純には見ていない」という事でした。象徴的なのは、ニセ科学とオウム。いずれについても、「知識を得る、与える」という事だけでは足りない、そういう見方は単純化している、といった議論がなされていました。この間コメント欄でも書きましたが、かも ひろやす さんがしばしばその辺りを指摘なさっていたのが印象的でした。

ですので、自分の問いに戻って、「科学者は欠如モデルを想定していると思うか」と問われれば、「無い」と答えます。
正確に言えば、少なくとも私の観察範囲内で、現状(ある時間的範囲を切り取った中で)ではそんな考えの人は稀だ(憶えている限りではいない)、とでもなるでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2011年11月11日 (金) 17:30

ああ、STSでは多分、科学界は最初は欠如モデルだったがそれに対して批判されて反省が出てきて……みたいな図式を描いているでしょうから、その観点からいくと、「昔」どう考えていたか、の方が、そもそもどう見ていたのか、を知る上では参考になるとは思います。ベテランの科学者の方の見解がうかがえると嬉しいですね。

投稿: TAKESAN | 2011年11月11日 (金) 17:36

こんにちは、TAKESANさん。

>そのような考え方を実際に持っている(いた)か。

う~ん。「場による」としか答えられません。

例えば、会社の若い測定者さんを集めた講習会で自分の専門の分析法を話すという場では、そういう考え方が基本に想定されている訳です。その想定を裏切ると「駄目講師」と言われてしまいますからね(笑)。あるいは、私の仕事場に工場や研究所で起きた不具合にお困りで解決策を求めておいでになる方との相談では、私というより相談者が基本にこういう考え方でお見えになります。ただ、この場合は、逆方向の情報インプット、つまり「何が起きていて、何が知りたいか」の情報を私にインプットしないと、私の中から知りたい情報が引き出せないのですけどね。

ではもっとざっくばらんな雑談の場では・・・、正直な話として、科学知識をそんなに伝達する必要性を感じた事がないので話さない(笑)。ただ、話題として間違った知識が話されると、「それは違うよ」という事はあることはありますけどね。その時、私が話すのは、はたして「科学知識」なのかどうか疑問です。多くは「昔はそう言われた時代もあったけど、いついつくらいに違うと分かってね」みたいな科学史の話をしていることの方が多い気がしますね。

という事で、あまりドンピシャな回答にならなくてスミマセン。

投稿: 技術開発者 | 2011年11月11日 (金) 18:02

技術開発者さん、今晩は。

いや、むしろそういったご意見の方が参考になると言いますか、きっちりピンポイントでこういう風に考えていない、という事も、大変重要な情報だと思っています。なのでありがたいです。

--------

※このエントリーでは、レスは簡潔、もしくはやらない、事とします。私の解釈が入った余計なレスするのも何なので。そのまま見てもらった方がいいと思います。

投稿: TAKESAN | 2011年11月11日 (金) 18:16

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/hs/publication/files/ningen_9/85.pdf (PDF)

▼ 引  用 ▼
林は「市民は知識が欠如しているので,むずかしい科学を理解することはできず,その判断は間違っているので,正しい知識をわかりやすく伝えることが公衆の科学理解のために不可欠だ」(2004, pp314)とする考え方を「欠如モデル」と定義し,現在の日本においても根強く残っていることを指摘している。
▲ 引用終了 ▲
この種の定義もよく見るんですが。正直、意味が解らない。
だって、ここの「市民」を、ある専門家以外の者、とするならば、その見方自体は「正しい」と思う訳ですよ。目的が、公衆の科学理解、つまり、専門家・非専門家問わなず社会全体の知識の底上げなのであれば、「正しい知識をわかりやすく伝える」のが合目的的であるのは、どう考えても妥当じゃないですか。と言うか、ほとんどトートロジカルで。

要するに、「欠如モデル」って、上記のような見方と、「それをすれば充分」という考えまで含んだものがある、と見えるんですね。結局コンセンサスが得られている定義というのは、もう少し精密に記述するとどんな感じなのだろうか、と。

投稿: TAKESAN | 2011年11月11日 (金) 18:22

「そう考えている部分はある」みたいに思ってました。で、菊池誠なんかに「そう考えてるんじゃないか」みたいに噛み付いた記憶もあるような。

こう、なんか「場を設定する」みたいな段階では、そう云う導入段階を踏まざるを得ないんじゃないか、みたいな気もしますけどね。双方向的「欠如モデル」対応、みたいなのも必要な段階はあるんじゃないかと。

投稿: pooh | 2011年11月12日 (土) 07:54

お早うございます。

解らないのは、「欠如モデル」が、

・専門家とそれ以外には知識の格差があるからそれを埋めるのが重要
というだけなのか、それともそこに、
・専門家が非専門家に知識を普及させれば「事足りる」
という事まで含んでいるのか否か、ですね。

前者だけであれば、それはもう正しいとしか言いようが無い訳で。で、後者も含んでいるのであれば、確かにそれは心理学的、社会学的な要因を無視した社会の単純なモデル化という事で批判されるべきものと思いますが、じゃあ本当にそれを考えていた科学者はどのくらいいたのか、と疑問に感ずる訳です。科学知識の普及につとめている人がいる事は、後者の社会観を持っているのを即座に意味するのでは無いのですし。

投稿: TAKESAN | 2011年11月12日 (土) 08:36

「農家と非農家を固定的に対置し,農産物が前者から後者へと一方向的に流れ,後者はそれをただ受け取るだけ,ととらえる」と置き換えれば、マヌケなことは一目瞭然だと思うんですけど。「芸人と非芸人を固定的に対置し,お笑いが前者から後者へと一方向的に流れ,後者はそれをただ受け取るだけ,ととらえる」でもいいですけど。

科学者がそんなマヌケなことを考えていたとみるなんて、ずいぶんとバカにされたものです。

投稿: かも ひろやす | 2011年11月15日 (火) 10:04

かも ひろやすさん、今日は。

ポイントとしては、私が引用したようなもの(しかも多義的風)が「欠如モデル」の定義として一般に用いられているらしい、という所でしょうね。
で、「本当にそうだったの?」とものすごく疑問に思う訳ですが、今ひとつ――いや、私として「全然」――それを支持するような説得力のある論が見えてこない訳です。

科学論(←科学史とか科学哲学とか科学社会学とかSTSを引っくるめてます)って、「科学者はこう考えてきたが……」的に過去を総括したり、それを導入で書いて論を進めたりしますよね。でも、そこの所を具体的に、データに基づいてきちんと論じているのを見かけない。それって社会心理学で言う所のステロタイプの可能性(想像された「科学者」像形成)無いの?と思いながら読んでも、その疑問は解消されずじまいで。
関連の本を見てぱらっとめくってすぐ閉じるのは、こういう場合だったりします。

これは、「あれば教えて欲しい」という事でもあります。科学者共同体が総体としてそんな素朴な社会観を持っていたとすれば大問題だし、もしそう指摘したいのなら、それなりの証拠が必要であろう、て話でしょうから。

関連の議論では何だか、以前は科学者(集団)は欠如モデル前提であった、というのが自明の話みたいになってて、ちょっと待ってくれないかな、と。
それ以前に、どう考えても「欠如モデル」の意味内容の捉え方にコンセンサスが無いだろ、みたいにも思いますけれども。学術的な議論だろうに、そこら辺のすり合わせをしないのね、とか。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 11:24

補足。
上記の私のコメントの
▼ 引  用 ▼
私が引用したようなもの(しかも多義的風)が「欠如モデル」の定義として一般に用いられているらしい、
▲ 引用終了 ▲
「一般に」というのは、「STSにおいて」という事。ac.jp で検索し論文を拾って、そこで説明や引用されている定義を参照したものが根拠。少なくとも、
 ・専門家/非専門家 に知識の格差があるという見方。

 ・専門家→非専門家 という風にスムーズに知識が伝達される事が重要。

というのは共有される。そして、文献によっては、

 ・専門家→非専門家 という知識の流れを一方向のものとリジッドに捉える。

 ・専門家→非専門家 という知識の流れを作って普及・啓蒙すれば「事足れりとする」。

これらの内容をも含む。その意味で多義的だが、それ以上の大きな意味のブレは無いように思われる。だが、後の方まで含めて「欠如モデル」概念とするかどうか、で全然話は違ってくるから、そこにコンセンサスがあるのが重要。だって、最初の二つに反対する人はあまりいないでしょう? そこだけ見れば、当たり前じゃん、てなって、「欠如モデルも文脈によって必要じゃない?」となる。そして議論に齟齬が生ずる。

投稿: TAKESAN | 2011年11月15日 (火) 11:36

http://www.science-for-all.jp/link/download/siryou-iden.pdf (PDF)

ここに欠如モデルの図示があるけれど……一体、本当に科学者(集団)がこんなヒエラルキー的単純構造を想定してたのか?

投稿: TAKESAN | 2011年11月19日 (土) 21:34

https://dspace.jaist.ac.jp/dspace/bitstream/10119/4403/2/paper.pdf (PDF)

投稿: TAKESAN | 2011年11月19日 (土) 21:38

▼ 引  用 ▼
こうした考え方は科学技術コミュニケーションの分野においてブライアン・ウィン(Bryan Wynne)が批判した「欠如モデル」にあたる.「欠如モデル」とはすなわち,一般市民は必要な科学知識が欠如したいわば空っぽの容器のようなもので,そこに科学知識をどんどん注入することが科学技術コミュニケーションの仕事であり,それによって一般市民の科学への理解が次第に進んでいくという考え方である.
▲ 引用終了 ▲
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34804/1/JJSC_no4_p3-18.pdf (PDF)

投稿: TAKESAN | 2011年11月19日 (土) 21:41

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/files/606e956caa358b8e0f6c3a12832f7226.pdf (PDF)

欠如モデル批判に言及した上で、非専門家への情報伝達の必要さを強調している。

----------

キリが無いのでこのくらい。CiNiiやGoogle scolarで検索すれば沢山出てくる。それでもピンと来ない。

投稿: TAKESAN | 2011年11月19日 (土) 21:48

twitter(「欠如モデル」をリアルタイム検索含む)や はてブを見てて腹が痛くなった。

要するに、まともに文献を参照して定義を押さえていく、という労力すら割かない人が沢山いた、という事ですな。その上で、欠如モデルという言葉自体は使って云々していくという。
そんな事やったらやり取りが噛み合わないのは当たり前じゃないですか。齟齬が齟齬を生んでめちゃくちゃになる……と言うかなってる。

ちょっともう失笑するしか無い。繰り返しなんだね。色んな人が色んな人を見縊りまくって。共通了解を取ろうという気すら無いんだろう。知らないのなら、調べるか使わないかするのが当然なのに。

投稿: TAKESAN | 2011年11月20日 (日) 13:13

こんばんは。
こちらのコメント欄に貼られたリンクが、とても参考になりました。
お蔭様で、エントリを一つ書く事が出来ましたので、御礼と御紹介を致します。
TAKESANさんの事ですから既にチェック済みとは思いますが、改めて、宜しければ御覧ください。
http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com/2012/02/p02-04-2.html

投稿: PseuDoctor | 2012年2月15日 (水) 22:28

あの散布図について、2変数をいずれも量的変数と仮定した上での考察、というのは強調しても良いかも知れませんね。あれは、「もし量的変数であり、図に表す事が出来るならば」みたいな前提がある訳ですが、細かく見、かつ斟酌してくれない人は、単純化として批難するやも知れません(もちろん、「意図的に単純化している」のですが)。

投稿: TAKESAN | 2012年2月16日 (木) 07:43

ちなみに、私自身は、量的変数であるという仮定に大体納得してもらえるかな、と思わない時は、散布図的なもの(に限らず仮想的なグラフ
)はおそらく描かないでしょうね。あれは直感的に解りやすい図であるが故に、怖いものでもあるから、ある程度汲み取ってくれる人向けの場合以外にはなかなか難しいと言うか。載せる場合には、沢山註釈などをつけるかも。

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ブクマコメント見るに、何やら非難的なコメントがあった模様。果たしてtari-G氏かツァラトゥストラ氏か。

投稿: TAKESAN | 2012年2月16日 (木) 07:50

はてブコメの方でも幾つか指摘があったので、ちょっと追記してみました。最初はあくまでもイメージのつもりだったのですが、確かに注釈が無いと解り難いですね。

ネガコメはTAKESANさんの予想通り、tari-Gさんでした。ああいう方にdisられるのは、むしろ勲章だと思う様にしています(笑)。

投稿: PseuDoctor | 2012年2月17日 (金) 00:22

PseuDoctorさん、今晩は。

図示は難しいですね。
あくまで、仮想的と言うか仮説的と言うか、その辺は強調しておくに越した事は無いですね。

昨日見ましたが、やはりあの人ですね。またか、という感じではあります<はてブ

投稿: TAKESAN | 2012年2月17日 (金) 21:16

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