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2011年11月に作成された記事

2011年11月30日 (水)

Mochimasaさん

Mochimasaさんは端的に言って、「途轍もなく、くどい」。Mochimasaさんの言動を追い続けている人からすれば、執拗。

しかしそれは、Mochimasaさん自身が正当な手段と認識した上での行為でしょうから、その事によってご自分がいかなる悪印象を受けようとも、それは受け容れる姿勢でやっておられるのでしょう。
しつこいと思うなら見なければ良いし、あまりにもくどく続くようならもう見なくなるでしょう。個人的な考えは一々書く事でも無いでしょうが、私ならそうします。

ただし。
Mochimasaさんの態度を見て、ああいうやり方じゃ周りまで悪く見られるよ、みたいにして、はっきり言及もせずにいつまでもごちゃごちゃ仄めかすような言い方するのは、それはそれで非常にくどいですね。直接ブログなりで徹底的に批判したり自身の姿勢を表明して、そういうやり方の人とは一切関わらないし触れもしない、とでもすればいいのに、とかね。

私が片瀬さんに懐いている印象は、昨日も書いたように、言及相手の年代等の属性に対する先入観から発言する事が多くてすごく危ういし、姿勢として好ましく無い、という事。けど、たくさんやり取りして、基本的に信頼の置ける方だ、と思っている訳です。その上で、もう少し配慮した方がいいのでは、と申し上げているという事で(poohさんもそうでしょう)。

常識的に考えたら、誤りを指摘された所で認識がすぐ改まるか、というとそんなに簡単にはいかないし、指摘がずっと後で効いてくる、というのもあるでしょう。

それを、いつまでも、くどくどくどくど書かれたら、嫌気がさす。まあそんなの当たり前だ。人の心なんてそう簡単に変容しないんだから。

相手の認識を改めるつもりなら、執拗にやって聞き入れるかは判らないし、そうでは無く、「いかにその論者は認識が甘いか」という指摘のつもりなら、尋常じゃ無く、くどい。こっちはそんなに馬鹿では無いので、数回くらい発言を採り上げ詳細に検討されていれば、後はその論者については自分で評価します。

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2011年11月28日 (月)

片瀬さん

指摘しておいても良いでしょう。

片瀬さんは、言及対象の年代や属性について不用意に触れ過ぎなのです。

それに基づいて批判の仕方をコントロールしている、というのをこれまた不用意に表明するのはどう考えても隙を生むでしょう。普通そういう態度を見たら、「相手を見くびっている」とか「先輩面している」などと看做されて当然です。
師匠が弟子を鍛えている訳でもあるまいし。

別にそんな複雑な話でも無く。そういうのは控えた方がいいですよね、という事で。

お前は気を付けてるのか、と言われそうですが。
はい、相当に気を付けています。

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自分で考える

だけじゃあ不充分ですよ。

他の人は何を考え見つけてきたか、を「知る」事を同時にしないと。

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2011年11月26日 (土)

検定の注意事項

良い説明があるので引用します。※強調は私による

 検定に慣れてくると陥りやすい一つの落とし穴がある。たとえば,検定では,「H0:π=0.5」という帰無仮説が棄却されたに過ぎないのに,検定結果の記述では,「『自然派』は有意に過半数を超えている」という対立仮説がむしろ強調される。そのときに標本比率が7割であれば,「『自然派』は過半数をかなり超えている」といった,程度を表わすニュアンスが伝えられてしまう危険性がある。
 検定結果には改めて記述されないが,そこで問題にされるのはあくまで帰無仮説であり,それがいかに小さい有意水準で棄却されたとしても,「π=0.5」という仮説が棄却されるのであって,「π=0.51」かもしれないし,また,「π=0.8」かもしれない。ちなみに,ここで利用した20件のサンプルデータ(図表6-1)に関しては,千葉県の168件のデータから無作為に選んだものであるが,その全体の有効回答数166件の内,「自然派」は112件の67.5%を占めている。サンプルデータは,たまたま,その母集団に近い結果を示しているのであるが,これがいつもそうであるとはいえない。通常は,そうした母数の大きさそのものについては,検定は何ら具体的な情報を与えてくれるわけではない。
たとえば,標本サイズを大きくしさえすれば,帰無仮説からのズレが小さくても,有意確率は十分小さくなり得るのである。
 では,母比率を具体的な値に限定できるような検定方法はないのだろうか。たとえば,帰無仮説に「『自然派』の割合は5割ではない」,対立仮説に「『自然派』の割合は5割」と,逆に仮説を設定できれば,より小さい有意水準でその帰無仮説が棄却されることによって,より確かに母比率の値を「5割」と推定することができるのではないかと考えられる。しかし,帰無仮説と対立仮説の設定を逆にすることは,実質的にはほとんど不可能である。母集団分布がある一つの形に仮定されて,はじめて具体的な標本分布を導出することができるのであって,帰無仮説が母数に関する無限の値を含む範囲で与えられては,標本分布を特定できなくなるからである。
 一方,「『自然派』が5割」という帰無仮説が棄却されなかったとしても,母比率が5割であると積極的にいうことはできない。「逆,かならずしも真ならず」であり,対立仮説を採用する背景には,論理学でいうところの「対偶」に相当する考え方がある。あくまで確率的な判定が行われるので,論理学がそのままあてはまるわけではないが,「A:帰無仮説が正しい」ならば「B:有意確率(p)>有意水準(α)」という命題(A→B)に対して,「¬B(引用者註:原文では文字にバー。以下同様):有意確率<有意水準」ならば「¬A:帰無仮説は正しくない」という対偶に相当する結論(¬B→¬A)が導かれるのであって,「B:有意確率>有意水準」ならば「A:帰無仮説が正しい」とは結論(B→A)できないのである。
 統計的検定では,基本的に,帰無仮説を「棄却できる」か,「棄却できないか」の判定がなされるのであって,その言及可能な範囲を常に念頭において結果の解釈を進めていく必要がある。なお,母数の値に関する具体的な推定を試みたいという場合には,区間推定の方法などが利用されている。
岩永雅也・大塚雄作・高橋一男[編著]『社会調査の基礎('01)』P146-168

つまり、有意確率が小さじからといって、それが即「帰無仮説からの離れ具合が大きい」とは言えない、という事ですね。差が小さくても、サンプルサイズを大きくすれば有意確率は小さくなり得る、と。
あくまで検定は、帰無仮説が棄却されたかどうかの判断しかされない、という事ですね。
これはかなり重要な事ですが、必ずしも統計の本に載っているとは限らない部分なので、少々長いですが、紹介してみました。

社会調査の基礎 (放送大学教材)Book社会調査の基礎 (放送大学教材)

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※↑は2003年版

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2011年11月25日 (金)

斬り方

私は、日本刀をもって斬っていくという運動について、あるやり方を志向しているのですが、その方面からアプローチしている操法を見た事が無いのですね(ある人の影響でそう考えたのですが――今の所、その人以外で同じ志向の人は見た事無いかも知れない――その人はあまり表に技を公開しない)。
動画などでそういうのがあれば、参考になるし、同じ方向性の人がいるのだな、という事を確認出来、自信も深まるだろうと思うのですが、なかなか……。
それは、現在のスタンダードからすれば外れたもの、というか、構造的に発想しにくい方向なんだと思います。もしそっち系の運動を取り入れると、体系全体を再構築させねばならない、というくらいにアプローチの仕方が違う。一般的な据え物斬りなどの体系からはちょっとあり得なそうな方向性。
なんとかそれを再現(実現で無く再現、というのがさりげないポイント)出来ればいいのですが、何しろ、実験的検討も難しいし(私は真剣を扱った事が無いからそこからハードルが高い)、理論的考察もとてつもなく複雑なのです。と言うか、そのやり方に理論的根拠をつけたい、という理由から、刃物に関する工学やインパクトバイオメカニクスを修めねばならない、と考えて関連の領域を勉強している所なのであります。

ここが明らかになれば、既存のものからのパラダイムシフトが起こるかも知れません(パラダイムシフトを使いたいだけか)。そして、剣に関する色々の要素について、どうしてそうなっているのか、どうすれば合理的か、という所が、推測にとどまらずに、はっきりと科学的・工学的に解明されるかも知れない。

まあ、どのくらいかかるか……いや、自分が死ぬまでに出来るのか、解りませんが。

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2011年11月24日 (木)

文系理系では無くて

そういう事じゃあ無くて、定量的・計量的な視座があるか否か、だと思いますよ。

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理屈じゃ無いんだよ

とはよく言うが。

直感が理屈の在り方によって変容していく、というのもしばしばある事だ。

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2011年11月23日 (水)

「当てはめる」――寺田寅彦の名文

読みませう⇒寺田寅彦 物質群として見た動物群

約80年前の文ですが、その内容は全く古くなっていません。

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2011年11月22日 (火)

勘所――豊田秀樹『調査法講義』

調査法講義 (シリーズ「調査の科学」)Book調査法講義 (シリーズ「調査の科学」)

著者:豊田 秀樹
販売元:朝倉書店
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この本も必読でしょうね。

構成としては、調査とはどういうものか、という一般論から始まり、社会調査的な部分について解説があり、その後に確率・統計の説明を行う、というもの。
1章で、いかにも尤もらしそうな主張を「トリック」として紹介し、それについて調査論的にどのような反論が出来るか、というのを書いているのですが、この部分はものすごく重要だし、参考になるでしょう。その内のいくつかを紹介してみましょう。※以下、豊田秀樹『調査法講義』の1章より引用。

自動車事故の現場の状況を正確に調べると「120キロ以上で走っていた車が事故を起こすケースは非常に少ない」ということがわかる.それ以下のスピードで走っていた車の事故の件数の方がずっと多い.それはブレーキに頼らずに,ハンドリングに集中できるためであり,ゆえにスピード違反は危険な行為ではない.

航空機と自動車とどちらが安全か比較してみよう.航空機は1億キロ飛んで平均的に1人事故死し,自動車は5千万キロ走ると平均的に1人事故死しているというデータがあったならば,航空機の方が2倍安全といえる.

さて、これらの主張にいかなる反論が出来るでしょうか。

---------

この本、他の豊田氏の本の例に漏れず、「堅実で厳密」な書き方です。実に手堅い。で、教科書風でもありますから、必ずしも取っ付きやすいものでは無いと思います。それと、読者として高校の数学を勉強していない人を想定していると書いてありますが、ここはどう考えても納得がいかない所(Amazonの書評にもある)。確かに微積分や線形代数を駆使していたりする訳では無い(ので、範囲としては高度では無い)けれども、書かれてある事がすんなり出来るならば、多分その人はかなり数学が好きでよく勉強しているだろう、というような感じがします。
とは言え、説明中に、類書にはあまり無いような視点からのものがあったり、証明や導出が比較的丁寧になされていますから、全体的に堅実な書き方と併せて、じっくり勉強したい人には良いと思います(全く勉強した事が無い、という人は、序盤以降は読めるものでは無いはず)。ああ、そこはこういう事か、という説明も結構あります。信頼区間や検定の話でも、ちゃんと注意が書かれていたり(信頼区間の意味や、有意確率が小さいのは差の大きさを即意味しない事など)。

調査法に関するエッセンスがコンパクトにまとめられている本として、お勧めの逸品です。

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2011年11月21日 (月)

検定のはなし

検定力分析入門Book検定力分析入門

著者:豊田秀樹
販売元:東京図書
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統計的検定に興味を持つ人は読んでおくべき(読んで絶対に損はしない)本の一つと思います。あまり紹介されているのを見ないのですが、この超良書があまり注目されていない風なのは わけがわからないよ。
何しろ、効果量や検定力(検出力)分析の話というのは、どう考えても「初めから」重要なものなのに、統計の入門書では触れてすらいない事がしばしばありますので。私は、まず基本的な所から教えて効果量云々はその後に、として「書かない(省く)」というのは非常にまずいやり方だと思っています。全ての入門書で紹介するべきだと考えているくらい。
特に、「実質(科学)的な差」を意識するのが、本質的に重要だと思います。ここら辺の話は、私が見た中では、比較的、医療統計系の本ではよく触れられているように感じます(医学では、臨床的に意義がある、という言い方をするように思う。工学系では、結果を固有技術的に解釈する事が重要、的な)。

別所でも紹介した事ですし、良い機会なので。


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高度に有意

この言葉遣いが許容出来るか出来ないか、については色々議論のある所かと思いますが、何となく、自分が覚える違和感(私は違和感がある)の理由が解った気がするので書きます。
別に、それが妥当だ、と頑張る気は全然ありません。

そもそも、統計的仮説検定において、「有意」というのは、予め恣意的※に決められた有意水準に照らして帰無仮説が棄却されたか否かを示す定性的な概念だから、それは単に二値的に「有意/有意で無い」と表現するものであって、そこに「程度」が入った「高度に」という表現を付け加えるのはおかしいのではないか。
というのが多分その理由です。
※「恣意的」というのは、自分勝手に、などの辞書的なネガティブな意味合いでは無くて、慣習的とか、科学者集団の合意によるとか、厳密な数学的合理性は持たない、とかその程度の意味で使っています。

だから、「有意」の語に、高度とか傾向が見られるとかを付け加えるのでは無くて、「有意確率がとても小さい」みたいな表現をすれば済むんじゃないかな、と。p値は数値ですし。もちろん、「小さい」というのは何を基準にしてるかというと、通常用いられる有意水準等に比して、という事で、それも文脈に依存している訳ですが。

追記:いきなり前言撤回みたいな事をコメントに書いてます。

うーん……考え方としては、「高度に有意」「有意傾向」を使うのはいいけど、その時には必ず「有意水準は何%か」を情報として与えるべき、というのもあるかな。線を引いた場所から大きく離れた所にあると言われても、「どこに線を引いたか」が解らないとしょうが無い、的な。
でも、10%水準で検定したら有意確率が2%だった場合、それを「高度に有意」と言えるの?て話にもなるか。それは結局、1%水準では有意にならないのだから、それを「高度」と言われてもなあ、と。極端に言えば、45%水準で検定(あり得ない)して有意確率20%だったらそれはどうする? ともなる。
とすると、結局、どの有意水準でも、「高度に有意」と看做されるのは、ある程度共通していて(0.01%以下とか)、じゃあそれなら、わざわざ高度に有意と言わず、単に有意確率が小さいと言えばいいじゃない(「小さい」の価値付けにその、有意水準の程度という文脈は関係しないのだから)、ていう風になって、最初の私の違和感に戻る、と。

と言うか、確か私は、そこまで直感的に思いついてからこのエントリーを書いたのだった。ちゃんと脳内を照らしてから整理して書くべきだったな……。

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2011年11月19日 (土)

確率

 確率は数学なり数量的方法にほとんど縁のない人々にとっても非常に興味のある対象である.多くの人々は確率そのものを研究しないまでも,確率に関係のある ある種の事象を楽しんでいる.もしそうでなければ,競馬,宝くじ,カード遊びなどの賭け事を愛好する人が多くいるという事実をどのように説明できようか.彼らを賭け事にかり立てるのは,多分彼らには確率的なセンスがないからだといえるかもしれない.しかしいずれにせよ,不確実なことに基づいてあらゆる種類の決定をしようとするときには,だれもが意識的にせよ無意識的にせよ確率を用いているのである.それゆえ,十分な教育を身につけたいと望む人々,あるいは合理的に行動したいと欲する人々は,すべて確率に関してある程度の知識をもつべきである.
P.G.ホーエル[著] 浅井晃・村上正康[訳]『原書第4版 初等統計学』(P7・8)※強調は引用者による

このホーエルの言は、現在の我々にとって、よくよく噛み締めておくべきものであると考えます。

初等統計学Book初等統計学

著者:ポール G.ホーエル
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2011年11月18日 (金)

スカイウォード

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『ゲームのじかん』で、任天堂の青沼氏出演によるゲーム紹介がありましたが……これは異常に面白そうですね。これほどゲームをやってみたいと思うのは、最近ではなかなか無いです。

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科学コミュニケーション――噛み砕け

科学の事について(科学に限らないけれど)、それをあまり知らない人向けに書く時に心がけている事。

  1. 専門用語を、なるべく日常的な言葉に言い換える。
  2. 「聞いてパッと解る」ような書き方にする。

1は、出来るだけ身近な表現を使って、専門用語の意味内容と大きな違いが出ないように言い換える、という事。「査読」を「論文の審査」にするとか。

2は、漢語(でいいのかな?)をあまり使わないようにする。あるいは、聞いた時に頭の中でいくつかの候補が出て、どの意味かな……となるようなものでは無くて、パッと認識出来るような書き方をするとかです。銀河英雄伝説のアニメを観ている時の感じを思い出すと良いでしょう。私は、数分に一回、言葉の意味が解らなくなりました。
たとえば、「機能低下」を、「働きが低下する」と書いたり、「働きが落ちる」みたいにするとかですね。
聞いて解るような文は読んでも解りやすいし、実際に読んで聞かせる時にも重要になる、というのが持論です。

それを実践したのがゲーム脳Q&Aですね。

たとえば、科学について書いた文書の内、これは、あまり専門知識に明るく無い人にも読んでもらいたい、というものを採り上げて、上記のような観点から書き直してみる、というのも試みてみる価値があるんじゃないかと思います。

前にもどこかで書きましたが、私は電子書籍で、「概念」という言葉を一度も使いませんでした。科学の話をすると当たり前に出てくる言葉ですが、これって結構、そっち方面に興味の無い人にはとっつきにくいものです。使えばテキストを節約出来て簡単なんですけど、「興味を持ち始めの人に読んでもらう」場合には、簡潔である事よりも、少々冗長なくらいが良いと思うのです。大切な所だけど意味が取りにくいが故にその語の部分だけ飛ばす、みたいな読み方ってありますからね。そこら辺も考えておくのは無駄では無いと思います。

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2011年11月17日 (木)

何が釣りだ

はてなブックマーク - Twitter(別名デマッター)でネットジャーナリストを釣る方法(フリージャーナリスト) - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記

見知った名前もいくつか見られますし、訊きますが。

あなた達は、この種の「釣り」も時には重要な役割を果たすのだ、みたいな認識を持っているんですか?

そんな行為によって何が齎されるのです? 浅はかな事をしてきた人達の本質的な不用意さが炙り出される、とかそんなのですか?
それとも、本人が不用意さに気づいて自戒する、みたいな事が期待される、とか思っているのですか?

こんなの、そもそも(挙げられた対象の)浅はかさを知っている人々が、実際に対象が釣られたさまを見て嘲る、以外に何かあるのですか。何らかの生産的な方向に行く可能性があるのですか?
本人達が自戒する? そんな事があり得るのですかね。あんなやり方で。私には想像も出来ませんが。
まさか、人の無様な振る舞いを見て自分も気をつけよう、と思わせる効果がある、とかそんな事ですか? 他人を利用して?

解ってる人は見て笑い、対象、及びその支持者は怒り狂う。そんなもん、充分予想出来た事じゃないですか。だって、そもそも対象を、どうしようも無いくらいに不用意な行動をする人々と看做していた訳でしょう。これを焚きつけると言わずに何と言いますか。そして、実際にそうなり、また嗤う。思い通りになって、さぞ快い事でしょうね。

あなた達は、自分や、自分が親しんでいる事とか人とかに同じ行為されても、許容出来るのでしょうね? 文脈によっては仕方無い、と寛容になれるんですよね? あまりにも不用意な人間は、あのくらいされて然るべきであろう、とでも思っているのでしょうか。
まさか、自分達はあのような失態は起こさない、などと考えてはおられますまい。

えっとですね。あんな事されたら、「普通怒る」(「怒り方」には色々あるだろう)。あったりまえじゃないですかそんなの。で、怒ったら(そもそも「怒らせようとしている」)、見ている人は引っかかったと嗤う。いや、大したものですよ、実際。狡猾さと悪質さのレベルという意味で。しかも、まさか釣られるとはねえ、みたいに言い抜けられるような書き方をしている(そしてブクマでは、あんなのに引っかかるなんて、みたいな反応が多数)。

皮肉も冗談も、押し付けるものでも一方向で成り立つものでも無いですからね。皮肉だと解れよ、という物言いがどれほどか暴力的なものかを認識する事です。
「ネタにマジレスとかアホか」みたいな事をどれくらい受け容れるべきかどうか、とかよく考えてみましょうね。
物事を「面白い」と思った時、そこにどす黒いものが渦巻いていないか、一旦落ち着いて内側を見つめたい所です。

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2011年11月16日 (水)

マンガでダーウィンを読む

マンガ「種の起源」 (マンガで読む科学の名著シリーズ) Book マンガ「種の起源」 (マンガで読む科学の名著シリーズ)

著者:田中 一規
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

マンガ形式で、ダーウィンの半生と進化論の説明を描いた本。

大変読みやすく、解りやすい本でした。画風やギャグのセンスは古いので、そういうのは好みが分かれるでしょうが、昔からマンガをよく見る人は、懐かしい感じで読めるでしょう。

ただ、私は生物学や進化論の勉強がそもそも不足しているので、記述がどこまで正確なのか、という判断が難しい所。色々書評を見てみると、概ね好評なようですが(Amazonレビュウに、手放しで賞賛、的なものがあったので、それは排除した)、出来れば関連の知識に通じている人の意見をうかがいたい所。c_Cさんや梨さんや黒影さんやNATROMさん辺りの。

もし、学術的な正確さが確保されている、というものであれば、これは進化論への導入としてかなりお勧め出来るのではないか、と思うのですが、いかがでしょう。

2011年11月24日追記:コメント欄にて、complex_catさんに大変参考になる解説を頂きましたので、ご覧下さい。

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2011年11月15日 (火)

科学コミュニケーション――より基本的な知識を普及させる事の大切さ

何か稀な出来事が起きた場合に、その時に自分が着目しているものと結びつけて考えようとする事、ありますよね。

今だと、「放射能」。何千人に一人しか罹らない疾患の人がいる、という情報があった時に、「放射能(←象徴的にこういう表現がされる)の影響ではないか」と結びつけて考える、というようなもの。
それで、そういう拙速な論に対して、批判が色々加えられる訳ですね。論として明快で、批判として合理的なものがある。

でも、そういう場合に気をつけておかねばならないのは、ちゃんとした説明でも、必ずしも相手やギャラリーに通ずるとは限らない、という所です。
どういう事かと言うと……。
たとえば、○○病という病気に罹った人が出たようだ、といった情報が、twitterなりブログなりでもたらされたとします。そして、その情報を得た人は、これはあの事に関係があるやも知れない、と考えて、今度はtwitterやブログで発信する。
それを見た人は、その情報から結びつけるのは(ここでは放射線被曝など)拙速では無いか、証拠が足りないのではないか、と批判する訳です。この文脈だと、次のような合理的批判がなされるでしょう。

  • その病気は、通常でも稀に起こる事だから、それ(被曝)と関係があるとは言えない。
  • 本当に関係があるかは、沢山の人を調べてみないと解らない。
  • 関係があるかは、それ(被曝)を受けた人と受けていない人とを比較しないと解らない。

これらのようにです。
しかし、これらはそれぞれ尤もな説明ではありますが、必ずしもそれがそのまますぐ理解されるとは限りません。
たとえば、通常でも稀に起こる事、というのは、特別な出来事が無くても何千人に一人とか何万人に一人の「頻度」で起こる、というのを意味しますが、これ自体が、「沢山の人々を観察して導かれた」ものです。つまり、「統計」をとって解った事。まず、そこをきちんと押さえておかなくてはなりません。広い所に散らばっている人々を、専門の医師や学者が診断し、集計してデータを処理して解ったものだ、というのを認識する。その過程自体に専門の知識が関わっています。
たとえば、「割合」と「率」と「比」の違いは解りますか? 正確には、これらは違う意味を持っている用語です(でも専門用語でも慣習的に入り交じっているからすごく厄介)。あるいは、「人年」という言葉を聞いた事はありますか? 医学に関わる話がされている時には、これらの事が「踏まえられて」議論されている、というのを理解しておく必要があります。その意味で、すごく知識に依存しています。「知っていなくては理解出来ない」事です。
ところが、的外れな主張を批判する人は、これを「当たり前」の知識として前提して説明しています。つまり、さっき書いた、割合と率の違いとか、沢山の人を観察して得られた結果だ、というのを、細かい所を省いて説明する。
それは無理も無い事です。ブログにしろtwitterにしろ、一回辺りの投稿で消費出来る文字数には限りがあるし、そもそも、そういった、「前提とする専門知識」というのは、知らない人にきちんと解説するのは簡単でありません。また、「知っている者同士で節約出来る」メリットがあるので、つい詳細を省いてしまう、という事もあるでしょう。

本当に関係があるかは沢山の人を調べてみなくてはならない、という事にも、背景には色々な考えがあります。
まず、「一人」を観察しただけでは、その人が、今着目している条件(ここでは被曝)「のせい」で罹った、というのを確定出来ません。何故なら、他に色々な条件が無数にあるからです。要するに、病気に罹る条件というのは、遺伝的な要因や生活習慣、あるいは何かの化学物質や毒物などの影響が考えられるから、その原因を、一例の観察をもって特定する事は出来ません。
また、つい我々は、「数千人に一人」というのを「ごく稀だ」と認識しがちですが、これは見方を変えると、数千万人を観察すれば相当数は確認される可能性がある、というのを意味する訳です。
ご自分が住んでいる地域の人口を思い浮かべて下さい(知らない場合には、役所のWEBサイトを参照すると良いでしょう)。それが市であれば、数十万から数百万の人口ですね。なら、数千人に一人が罹る、という病気に罹る人は、その地域の中では、「自分が直感しているよりは多い」かも知れない訳です。つまり、考えているよりは珍しい事では無いのかも知れない。着目している集団に属す成員の数、つまり「分母」を考えるのは重要です。

実際にその病気にどういう条件が関わっているのかを考えるには、沢山の人を観察し探っていく必要があります。何千人に一人しか罹らない、という事は、それに罹った人がより沢山入った集団の事を知るには、何万人もの人々を観察する必要があります。

そして、「比較」するという事。
今、ある条件(被曝)に注目して、それが原因ではないか、と考えている訳ですが、先ほども書いたように、原因となり得るものは、無数にあります。ですから、特定の条件が原因であるかを探る場合には、その条件が含まれる集団とそうで無い集団とを、「比較対照」する必要があります。
薬の効き目であれば、臨床試験といって、沢山の人を集め、ある集団には試したい薬を与え、もう一方の集団には効き目があると判っている別の薬を与えて比較する、といったやり方が出来ます。この場合、その与える薬という条件を違えて、他の事を「揃えて」比較する訳ですね。そうすれば、環境が与える影響などをそれぞれの集団で揃えて(これは必ずしも、「同じにする」という意味ではありません)、薬の与える影響を切り分けて評価出来る、という寸法です。
ところが、病気の発症とかは、そういう風に調べる事は出来ません。考えてみて下さい。その病気に罹っていない人を集めて片方に放射線を浴びせて実際に病気に罹るか調べる、などという実験が出来る訳がありません。倫理的に当然です(それはネガティブな意味で人体実験と言う)。
だから、既に放射線を浴びてしまった人とそうで無い人(のデータ)を集めて比較する、というやり方しか出来ない訳ですね。
方向としては、その病気に罹った人の内で条件に合致する人がどのくらいいるのか、というのを調べたり、まだ罹っていない人をあらかじめ集め、その後に、ある条件が与えられた人とそうで無い人とで病気に罹る人にどのくらいの差があるか、を調べる、などがあります。それは、どういう条件の事を考えるか(食事なのかタバコなのか放射線なのかワクチンなのか)、とか、今どのようなデータがあるか、などが総合的に検討され、どういう方法が出来るか探られる事になります。

また、そもそもその病気が稀な事なのであれば、「本当に違いがあるのか」というのをきちんと確かめるために、極めて多くの人を調べる必要も出てきます。そうでないと、たとえば、ある条件がある人とそうで無い人にわずかに差があったとしても、それが「たまたま」そうだったのか、それとも「本当に差があったのか」の見分けがつかない可能性があるからなのです。そうなると、調べる事自体に大きなコストや時間がかかったりする(沢山の人をちゃんと観察しないといけないから)。
ちょっと話がずれますが、仮に、本当に差があったとしても、その違いの大きさが僅かであった場合にどうするか、という視点もあります。これはまた難しい話。 たとえば、5/1000と15/1000、という違いが実際にあるとして、それをどう考えるか。ある診断方法は既存のよりも精密さが少し上がるけれど、1000人に1人は重い有害な副作用が及ぶ、といった場合にはどうしましょうか。

それから、何千人に一人罹るという「確率」である、みたいな言い方をする場合に、その「確率」ってどういう意味なのだろう、みたいな話もありますよね。確率ってそもそも何だろう、といった事を深く考え出すと、そう簡単にものが言えなくなってきます。

このように、短い文章で説明されるような事でも、実はその背景には色々な知識であったり、実際に観察された事に基づいていたり、というのがある訳です。本当は、その辺に通じていなければ、ちゃんと解るはずが無い。
時折、指摘として、対照群をとって比較しなくてはならない、みたいに言われる事がありますが、それは確かに正しいのだけれども、その内容は意外に複雑であり、それなりの知識をベースとして要求されるものです。
だから、もし本気でそこら辺の話を知っておくべきで、知識の普及が大切だと考えるのならば、まず、その基盤となる事からちゃんと教える必要があります。
たとえば、私がここで行ったいくつかの説明は、医療統計学・疫学・公衆衛生学・確率統計、などの本を読めば必ず載っている事です。その意味では、学術のある領域においてはほとんど常識的なもの。
だけれども、その事を、間をすっ飛ばして、これが大事だ、と言うのは、知識の伝達という面では無理があります。知らない状態から自分が勉強して習得するまでにかかった時間などのコストを考えれば良い。
もちろん、何か強い主張をしておきながら勉強をしていない怠慢さが責められる、という文脈はあるでしょう。ジャーナリストや学者が適当な見方をしていれば強く批判される、というのはむしろあってしかるべき、とも思います。ここで言っているのは、もっと一般的な話ですし、また、ジャーナリストや学者が相手であっても、知って欲しい、という文脈ではそういう配慮がなされても良い、という事でもあります。

「確率が」「有意差」「対照を取れ」「因果関係」「関連」「発症率が」←これらの用語は、ちゃんと押さえるのは難しいものなのです。であるのに、共有されている事が前提かのように使われているのをしばしば見かけます。通じている者同士では経済的であっても、そうで無い者にとっては意味不明な事は往々にしてある。
そして、これらを理解するには、より基礎的な分野の勉強をしなくてはならない。これは「必要」なものですからね。知らなくちゃ話が通じない、というレベルで。
ならそこを知らしめる所にもっと注力されても良いでしょう。「教科書」は退屈だから、もっと噛み砕いたテキストを書こう、という動きもあって良いでしょう。昨今、「放射能」「放射線」「放射性物質」などについては、色々と工夫された易しくて良質なテキストが見られるようになりました。では、確率や統計、医療統計や公衆衛生、などについてはどうでしょうか。これらは本質的に重要で、ややこしい用語(何がややこしいて、中途半端に用語が社会に流布しているから、それぞれが「自分勝手」に理解している可能性がある所)も一杯あります。だから、その辺もちゃんとフォローするのが必要ですよね。たとえば、「罹患率」とか「有病率」とか、「直感的には解る気がするが具体的にはよく解らない」となりません?
統計の用語で言えば、時折「有意差」の語が出てきますが、意味が説明出来る人がどのくらいいますか?
もちろんこういうのも、厳密に定義されている訳です。知らなくちゃ話が出来ないのです。

「放射性物質(に曝露される事――”曝露”って難しい言い回しですね)が特定の病気を引き起こすか」みたいな問いというのは、不幸にも身近なものとなってしまいました。そういう問いが身近になってしまった今、もちろん「放射能とは何か」などの説明というのが重要なのは間違いありませんが、それとともに、上で書いたような知識も必須となったのです。その辺りの基礎的な知識を普及させる事も、「科学コミュニケーション」や「科学リテラシー」という面から見ても重要な事なのではないでしょうか。

いくつか文献案内

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114)) Book 宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

著者:佐藤 俊哉
販売元:岩波書店
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↑私が参照した医療統計関連の本では、抜群に丁寧で読みやすい本。それでも、ピンとこない所もあると思います。そもそも色々な用語の意味内容が結構複雑で直感的に押さえにくいからですね。

統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) Book 統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) Book 確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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↑いつも勧める本。私が知っている中では確率統計の入門書として最高峰。けれど、中学辺りの数学を憶えていなかったりする人にとって、「簡単」な本ではありません。簡単かどうかと面白いかどうかは違います。この本は面白い。確率のはなしを先に読む事。

統計学100のキーワードBook統計学100のキーワード

販売元:弘文堂
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↑初学者向けの本では全然無いのですが、一般的な本ではあまり触れられない、「これはどういう事なのだろう」と疑問に思われるようなものについて色々説明してくれる本です。疫学等の用語がメインなので、今の文脈的にはうってつけでしょう。

公衆衛生学、疫学、医療統計関連の本は、いかにも教科書的なものでは無い読み物風のものがあまり見られない気がします。今や、「知識の橋渡し」をするという意味でも、そういう本は必須な情況に思われます。別にそれは、数式を排除して誰でも読めるように、とかいう話ではありません。階段があるとすれば段数を増やし、あるいは、スロープを作るように。坂があるのなら緩やかにして登りやすくなるよう工夫する、という事です。

少し参考にしたもの
岩上安身氏「デマといったね。デマだと立証してもらおうか」「えっ?」 - Togetter

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2011年11月11日 (金)

「欠如モデル」のアンケート

STSの資料を眺めていたら、次のような記述を見かけました。

欠如モデルとは「専門家と非専門家を固定的に対置し,科学知識が前者から後者へと一方向的に流れ,後者はそれをただ受け取るだけ,ととらえる」考え方である(杉山 2005, 263).
Web2.0 と科学技術コミュニケーション (PDF)

これは、しばしば見かける定義であり、平川氏などのSTSの論者が用いる意味内容とも合致しているものと思われます。

ここで、お読みの皆さんにお願いがあります。

○科学者の方には、
 そのような考え方を実際に持っている(いた)か。

○科学者「以外」の方には、
 そのような考えを科学者は持っている、と考えている(いた)か。

ここについて皆さんに訊きたい。
もしよろしければ、コメント欄に書いて頂ければ、大変ありがたいです。

これはもちろん、その結果をもって一般論を云々する、というものではありません(科学者、といっても、私が普段やり取りしていて所属が明らかで無いある 方以外、WEB上の自己申告ではすぐ信頼出来るものでは無いのもあります)。具体的な事例を知りたい、という事です。しばしば用いられる社会観(科学コミュニケーションに関する)について、実際に「どう思っている」のかを知りたいのです。

科学者や非・科学者の立場として個人的にどういう見方をしているか、というのでも構いませんし、自身が所属していた組織ではこういう傾向だった、というのもとても参考になると思います。あるいは、何か勉強や研究をする事で考えがこういう風に変遷した、という経緯もあれば興味深いですね。

もしご興味があれば、よろしくお願いします。

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世界

「論理的に可能である世界」
が、
「実際に理論的に成り立っている」
かどうかを判断するのに必要なのが、「知識」です。

世界は広く、個人の努力では知り尽くす事が出来ないから、数え切れないほど沢山の人が、途方も無い時間をかけて、「世界の在り方」を確かめていく訳です。

その過程で、「世界について解ってきた事」が、「知識」として蓄積されていきます。
何百年もかけて確かめて解ってきた事は、世界を「説明」出来るものとしても役立てられます。

「論理的に可能である世界」というのは言い換えると、「世界はこう出来ていても良い」という「可能性」の話です。
それはフィクションなどで描かれ、実際に「想像」は出来る世界です。
だけれども、その世界が、私達の住む「世界」と同じようなのかは、また別の話です。
だから実際に、私達が住む世界がどうなっているか、それを「確かめる」必要があるのです。
そして、「確かめられた事」が何なのか、というのを知る必要があります。「世界」についてものを言いたいのならば。それが「知識」であり「理論」。
「論理的に色々な世界が”可能”」である事と、「この世界でどういう理論が成り立っているか」は別なのです。前者は発想としては大切ですが、私達が今住むこの世界について何か言いたいのなら、後者を理解しなくてはなりません。

「放射能(この書き方はわざと)の味が判る」というのは、論理的には可能です。つまり、色々な事、それまでに蓄積されてきた知識を無視して考えれば、「そういう世界はあってもいい」。
けれど、「放射能」という言葉はそもそも、世界を知りたいと思って色々な実験をして確かめられた事に基づいて意味が持たされているものなのです。だから、細かい所、つまり「理論」を無視してはいけないのです、本当は。

「味」というのもそうです。私達が何かを口に入れ、「感じる」味。それがどうして感じられるのか、どういう仕組みで成り立っているのか、というのも沢山の人々が時間をかけて確かめています。それも、「世界」が実際にはどうなっているのか、を探究しようという営みです。
本当なら、そういう事も知っておかないと、「放射能の味」が判るという「感じ」が確からしいとは言えないのです。
考えてみれば、私達は「味」を「想像」する事が出来ます。あるいは、口にしていないものの味がする「気がする」時もあります。そういう、人間が持つ「感じ」というのは複雑で、外にある物そのものを反映しているとは限りません。それは、錯覚であったり、共感覚であったり、そういう事を思い浮かべてみれば、よく解ります。

だからこそ、思い込みなどをなるだけ取り除いて確かめる必要があります。まだまだ世界について解っていない事は多いけれど、もう解っている事もそれなりにあるのです。そして、私達が何気無く使っている言葉、憶えたての言葉、というのも、その「解っている」事を前提にしたものなのかも知れません。

考え方、つまり、色々な物事を組み合わせたり、想像を働かせて発想したり、はもちろんとても大切な事ですが、それとともに、「実際にどうなっているか」を知るのも大事です。「知識」を得る事。
それは、憶えなくてはならないものも多く、必ずしも面白いとは限りません。「もう解っている事」を勉強する訳ですからね。けれど、それを知らなくてはどうしようも出来ない、という情況も確かにあります。
自分が病気に罹って入院したり、身近の人がそうなったり、という経験がある人は、そうなった時に初めて、そこに関係する「知識」に触れて、いかに自分はものを知らなかったのか、と感じたり、関心を持ったら勉強する気になるものだな、と実感した事を思い出せるでしょう。診療や治療、看護がいかに、その「知識」に基づいて綿密に組み立てられているのか、を知って驚く場合もあるでしょう。

私達が泣いても喚いても、「世界の在り方」は変わりません。そして、「世界の在り方」については、沢山の事がもう確かめられています。だからそれを知るのは大事なのです。

本当は、泣いても喚いてもそれで世界が変わらない、という考え方自体も一つの前提です。「思いによって世界が変わる」というのも、「論理的には可能」とも考えられるかも知れないからです。ではそう考える事が確からしいのかどうなのか。それを知るためにも、「今解っている事」を身に着けるべきです。

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2011年11月10日 (木)

幸せ

asahi.com(朝日新聞社):日本一幸せなのは福井県、最下位は… 法政大教授が調査 - 社会

社会科学的に興味深いのは、「幸福度」という概念についてどの程度詳しく検討し、各種の経済的あるいは公衆衛生的指標と結びつけ数量化したに至ったか、といった所でしょうか。

「幸せ」とは極めて主観的で、個人的な価値付けが大きく関わってくる事でしょうから、恐らくは、社会的に共通するであろう部分にクローズアップしてあるのでしょう。犯罪の起こった率などはそうですね。
ただ、個人の感じるものでは無く、ある集団を対象にして「幸福度」という概念を設定する事が、そもそもその言葉の意味内容からして妥当であるのか、みたいな考えも出来るでしょう。ここら辺、心理学も関わってくる難しそうな問題ですね。
また、その調査が妥当であるかを確かめるには、評価された幸福度という指標と、実際にそこに居住する人々が感じている「幸福さ」といったものとの関連を調べる、などの方法が重要でしょう。その場合には、「幸せの度合い」がきちんと測れる事が判っている、つまり標準化されたテストを用いるのが肝要です。心理測定の問題ですね。たとえば⇒幸福度 尺度 site:ac.jp - Google 検索
直感的には、敢えて集団を対象として「幸福度」というものを論じたいのならば、それこそ幸福度を測るテストを集団の構成員にやらせてみて、主観的に高い幸福感を持っている人の割合が高い地域を「幸福度が高い」所だとすれば、その方が解りやすいとは思います。「直接調べてみればいいんでは?」という事ですね。そして、その結果と各種社会的指標との関連を確かめ、どの要因が効いているのか確かめていく、と。

まあこれは、あくまで記事のみを読んだだけの素朴な感想であって、実際の研究では、色々と細やかな検討がなされているものとは思いますけれども。

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2011年11月 9日 (水)

二ノ国

実は、本作にはあまり興味を向けておらず、情報を追っていなかったのですが、まさかこれ程のクオリティに仕上げてきたとは思いませんでした。

もちろん、見た目のインパクトとプレイした時の感じは違う、というのはゲームの常ですが(ストーリーを掴む事は出来ないし、ゲームシステムは「見えない」から)、それにしても、PVを観ると実に魅力的に感じます。

グラフィックは精細かつ、いかにもこちらのアニメーションらしい雰囲気ですし(なにしろジブリ)、また、やはりRPGにおいてはBGMの威力は大きいのだな、という事を感じさせてくれます。久石氏の音楽は非常に良いですね(天外魔境II を思い出す)。

発売は来週なんですね。注目タイトルの一つなので、どういう動きを見せるのか、興味深い所です。

■公式サイト⇒二ノ国 白き聖灰の女王

二ノ国 白き聖灰の女王 (初回封入特典:イマージェンプロダクトコード同梱) 予約特典:マジックマスター クラッシック 付きVideo Games二ノ国 白き聖灰の女王 (初回封入特典:イマージェンプロダクトコード同梱) 予約特典:マジックマスター クラッシック 付き

販売元:レベルファイブ
発売日:2011/11/17
Amazon.co.jpで詳細を確認する

他に、ゲームやアニメ好きとして気になる所は、やはり声の演技でしょうか。いわゆる「声優」(声をあてる演技をメインに活動する人を指すとする)以外の役者をメインキャラにあてる、という手法(これもジブリらしい)をとっているようですが、主人公役の多部未華子さんは、PVを観る限りではなかなか良さそうです。
レベルファイブといえば『ローグギャラクシー』を思い出す人もいるでしょうが(あまり深くは書かない)、果たして今作ではどのようになっているでしょうね。


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コンセプトが面白い

来週発売される、3DSダウンロードソフトです⇒ニンテンドー3DS|ひらり 桜侍|Nintendo

ジャンルは剣術系のアクション。公式では「居合いアクション」となっています(抜刀一般を「居合い」に含めているという事なのでしょう)。
このゲーム、武術に興味のある人が、「お」と思うような面白いコンセプト。
1ボタンで回避、1ボタンで攻撃、というシステムは、既存のアクションゲームでもしばしば見られるものですが、本作は、納刀状態でもって、ギリギリで相手の攻撃を避けて攻撃を繰り出す、といった感じなので、いかにもマニアの気を惹きそうです。なにしろ謳っているジャンルが「居合いアクション」ですしね。ばっさばっさと爽快に斬っていくのもアクションの醍醐味ですが、タイミングを計りつつ隙が生じたら一撃極める、というのも、名人芸を味わえたようで快感なのであります。個人的にはこういうシステムがすごく好きです。
防御などで自分の刀が相手の武器に当たったら刃毀れして切れ味が落ちる、というのも面白いですね。闇雲に防御してはリスクを追うという制限を受ける、と(MHの大剣みたいな)。
ちなみに、武術的に見れば、抜刀してあるのにわざわざ納刀する合理性は別に無いとか(多分、「納刀しているという状態が重要」というイメージがある)、そういうのはある訳ですが、その辺を上手くゲームとしての面白さや爽快さに繋げているという事なんでしょう。多分、剣を納めた所から瞬時に抜き打ちにて斬り捨てる、という精妙な業が、拳銃の早撃ち等と同様のテクニックを感じさせるのだと思われます。一言で言うと、「浪漫」。

少し眺めの動画はこちらに⇒Nintendo Direct 2011.10.21 ニンテンドーダイレクト|Nintendo
BGMも良さげですし、グラフィックもコミカルでいい感じですね。面白そうです。
実は、ニンテンドーダイレクトでの発表を見た時に、「これは公式サイトが出来たらブログで紹介しよう」と決めたのでありました(笑)

ダウンロードゲームだから価格も700円とお手頃ですし、これは結構注目かな、と思っています。

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2011年11月 8日 (火)

kikulog

スパムで荒れてますな。

余計なお世話だけど。

私も掲示板管理で途方に暮れましたけど(あまりにもスパムがひどいので制限した。しかも消すのが非常にやりにくい管理システム)、ああいうのって、溜まる前にやらないと、どんどんめんどくさくなりますからね。

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文系ならば非定量的

などという馬鹿げた考えを持っている人は、今すぐにでも改められますよう。

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2011年11月 7日 (月)

ニコニコアニメ

をよく観ていますが、その時に思った事。

コメントを、「ネタバレありコメント用」と「ネタバレなしコメント用」の二層に分けるとか出来ればいいんですけどね。
なんか、あったりまえのようにコメントでネタバレしてる人がいるんですよね。
わざと困らせようとするのは論外として、先のストーリーを知っている(原作つきなど特に)人同士で楽しむというやり方もあるだろうから、予め二つに分けて、閲覧する時に選択でも出来ればいいと思うんですけどね。もちろん、システム的な現実性とかは無視して言ってますが。とにかく、設定の細かい所をわざわざ書いたり(知らずに後で明かされ驚くとか納得するという場合もあるので)、キャラのその後をバラしたり、がよく出てくるので。

ならコメント消して観ろよ、と言われそうですが。
先のストーリーを知らないまま色々予測したりしてワイワイ楽しむ、てのもあって良いでしょう。それと、先を知りつつ、原作からどう変わっているかとか、演出がどうなるかを考える、みたいな楽しみは、別物として考えていいのでは。

たとえば、知らない人にとっては、「ざわ・・・」みたいなコメント入ると、ああ、何か起こるんだな、みたいになって白けてしまう場合もあるのですね。演出上判る場合ももちろんありますけど、不意をついた展開とかだと、えー、てなります。もちろん、知ってる場合には、そこで前もって盛り上がって楽しむ訳ですが。

今のところは、特に楽しみにしているのは、コメント無しにして観るか、コメント無し視聴→コメントあり視聴 みたいにしてますね。

まあ、そういう事しても、『WORKING'!!』観てたら『Fate/Zero』のネタバレがあった、みたいなのは防ぎようが無いですけれども。※ WORKING'!! に中田譲治さんが声をあてるキャラが出てくる→ Fate/Zero にも中田さんが声をあてるキャラが出る→それに絡めて Fate/Zero のネタバレ(先の方の展開をバラされる)される という流れ。

実際、コメントを二群に分割する、てのは概念的には考えられても実際的には実現出来ない話なんでしょうが、そうなればいいのになあ、などと、ネタバレ忌避な者としては思うのでありました。

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2011年11月 6日 (日)

「一市民の」意見

コメント欄でレスを書いていたら、自分の意見としてある程度まとまったものになったので。良い機会なのでエントリーにします。

かの人々がどの程度に自覚的あるいは意図的なのかは判りませんが、私としても、いかにも単純な構図に落とし込んでいるな、と見えます。特に、「市民」という概念でもって社会を分断し、それと科学者(専門家)が敵対(とは言わないまでも、相容れないかのごとく)するかのような図式を描いて論を展開するのは、見ていてうんざりするものがあります。
更にはその尻馬に乗って、細かい所を検討せずに揶揄を浴びせる者も散見され、残念な思いです。※尤も、徒に揶揄する連中というのはどんな議論においても出現しますが。

既に拡散された放射性物質にどう対処するか、というのは、まさに「科学」をベースにして考えていくべき問題ですね。つまり、科学以外の色々な観点が必要ではあるけれども、「まず科学」。
そもそも放射能や放射線という概念自体が科学から出てきているものなので、もし本当に真剣に議論をしたいのであれば、その基盤となる部分の知識を共有するべきだし、そこに至るまでの努力やコミュニケーションを疎かにしてはならないと思います。もちろんこれはいかなる立場の者も須らく自覚すべし事でありますが。

---------

特に、「なぜ科学者達は原子力発電所を批判してこなかったのか」という類の批難にはうんざりします。その種の意見があたかも「市民」の代表的なもの、総意であるかのごとく言われる場合があるのを見ると、勝手に代表面をしてくれるな、と思う訳であります。私は、色々な科学の知識を丁寧に発信し、誠実に応えてくれようとしてくれている科学者には感謝していますし、そういう人々の認識を蔑ろにしてメタな議論に持って行って印象を誘導しているようなものは、唾棄すべきものと考えております。

余談ですが、科学(数学)史家の佐々木力氏などは、原子力技術について批判的に言及していたりしますね(『科学論入門』)。

私は、原子力に関する物理の工学的・技術的応用をいかに評価するか、というのは、それこそ基礎科学のみならず、工学及び技術にわたる広汎な知見が無ければ真っ当な意見は言えないと考えているので、たとえば、しばしば見るような、原子力「ならば」用いてはならない、というような論には与しません。常に「何故そう言えるのか」という部分に納得出来なければ、自信を持って意見は主張してはならないと思っているからです。これを守るためならば、お前は無知であると誹られる事は何でもありません。知ったかぶりをすれば知識が増える、という道理は無いのですから。

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2011年11月 5日 (土)

クリティカルな思考の一例

 今日はお昼休みに東京のテレビ局から電話がありました。所ジョージの「目が点」とかっていう番組があるのですか? もしかしたら、「メガ天」かも。「遊園地の研究をされているそうですね?」ときくので、「いいえ、していません」と答えましたが、とても礼儀正しい人だったので、「どうして、絶叫マシンは女性に人気があるのか?」という質問に、心理学的および力学的な観点から2分ほどレクチャしてさしあげました(笑)。概略は以下のようにサマライズされます。
1)そもそも、適度に恐怖を感じる人が乗って「面白い、また乗ろう」と思う。怖くない人と、もの凄く怖い人は、乗らない傾向にある。
2)女性は泣き叫ぶことができるが男性は社会的に泣いたり叫んだりしにくい。したがって、1)のうち凄く怖い人の閾値が男性の場合は多少低くなる。
3)基本的に体重の軽い人の方が加速度には強い(F1ドライバが良い例)ので、女性は男性よりも平均的には酔わないはずである。
4)しかし、過激なスポーツや乗り物には、男性の方が慣れている現実があって、女性の方が加速度に新鮮さを感じる傾向にはあるだろう。
5)ところで、女性に人気があるというデータは本当なのか?>「え、違いますか?」とディレクタ氏。
森博嗣『ウェブ日記レプリカの使途』P148
※下線・強調は原文ママ。註釈やふり仮名は省略した

もちろん、どこに最も着目すべきか、はお判りですね?

---------

以下、無粋にも、この文を分析的に見てみます。興味の無い方は飛ばして下さい。

森さんとしては、女性がより(つまり平均的に)ジェットコースターを好む事のメカニズムについて、いくつかの観点から重要と思われるものをピックアップした訳ですね。
まず、全然怖く無いと感ずる人とあまりにも怖い人とは、ジェットコースターにはそもそも乗らないであろう、とする。これは心理的な観点。
そして、女性は泣き叫ぶ事が出来る。ここを細かく考えれば、「女性は、周りで人が見ている中でも泣いたり叫んだりする事が許容される傾向にある」という見方。いわゆるジェンダーバイアス(やジェンダーステレオタイプ)が形成されている部分に注目。これは社会心理学的な観点。
そう前提するならば、乗ってから泣いたり叫んだりする事が憚られる(社会的な拘束として)男性よりも、女性の方が乗りやすい(物理的で無く心理的に)であろう、と推測出来る。
また、物理学(より詳しくは、バイオメカニクスや生理学も含む)的観点から言えば、軽体重な人の方が加速度には強い。従って、体重の軽い傾向にある女性(これは統計的にはっきりしている事)がより酔いにくいと考えられる。
ただし、「女性に人気がある」という前提がそもそも正しいとすればそれらの推論が成り立つ可能性があるという事だけどね。
とこういった感じでしょう。もちろんミソは、最後。つまり、そもそも女性がジェットコースター好きな傾向にある、という前提は本当なのか、という所。これが成り立っていなければ、それまでのいくつかの推論がほとんど意味の無いものになる、というのを強調している訳ですね。そこまでの分析で、読む人になるほど、と思わせつつ、最後にオチをつけている。ここら辺が実に上手く、森さんらしいな、といった所です。

さてここで、ではその前提、女性の方がよりジェットコースター好きである、というのが成り立っていたとすれば、と考えてみるとどうでしょう。その場合、よりクリティカルに見る事が肝要。

当然、森さんが挙げた色々の条件がそもそも成り立っているのか、というのを確認する必要があります。観点としては、社会心理学、力学、生理学、統計学(これはそれぞれの分野に関わる)などがあるので、それぞれの分野の知識に基づき、どの程度「確かめられている」のかを見る。
そして、「女性がジェットコースターを好む(これ自体は統計的に見出されるべきもの)」という現象について、どの条件がどの程度「効いている」のか、と問う。物理的・生理的・社会的 といった色々の条件が絡み合って現象を成しているので、それを解きほぐし、どれ(因子)がより強く関わっているのかを解明する、という事です。

このように、日常的に出てくるような疑問についても、それを本当に解明するには、様々な観点から証拠を集めて、「それは本当か」と常にクリティカルに考えながら論を立てていくのが重要と言える訳ですね。

Bookウェブ日記レプリカの使途 (I say essay everyday)

著者:森 博嗣
販売元:幻冬舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2011年11月 4日 (金)

Amazonレビュウの見方

興味深い商品があった場合、Amazonのレビューを参照する事がしばしばあります。

よく見るのは、本(特に学術書)とコンピュータゲームのレビュー。

私の場合、本は、どちらかというとマニアックなものが多いので、そもそもレビュー数自体がそれほど多く無いから、それは措いておいて、ゲームだと、買う人も沢山いて、特にいわゆる話題作や大作の場合、数百件のレビューがつきます。
その時によくやるのが、高い方と低い方の数十%をトリムして参照する事。統計で、平均値を求める時にトリム平均を出すようなものですね。
極端な場合には、☆5と☆1のレビューを全て無視して(あるいは、見ても一切参考にはしない)、☆4~☆2の意見を重視する、というやり方をします。
コンピュータゲームだと、ゲームの内容と全く関係の無い部分での議論(とは呼びたく無いが)から発生するノイズが無視出来ない情況となっていて、調べる際に極めて邪魔になるので(ゲームとネットをする人は何の事か解りますね)、上記のような工夫をして見る(あるいは見ない)のがベターだと思われます。とりわけ、あるハードでの独占タイトルで大作とされるもののレビューは注意が必要。見るだけで気分を害するのも一杯あるので。

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2011年11月 3日 (木)

エア御用

原発業界御用学者リスト @ ウィキ - エア御用とは? ※2011/11/03の9時38分参照

えっと、「エア御用」という言葉は概ね、ここにある説明を踏まえて用いられている、と考えて良いですか? それを前提として進めます。

「エア」は「エアギター」とかの「エア」 空気椅子やエアギターのように、そこにないはずのものが、あたかも存在するのように振舞っている。

エアギターは、「ギターを弾くフリをする」事じゃないんですか? 一般的に言うと、「エア+○○」とは、「○○するフリをする」となると思いますが、それで言えば、「エア御用」は、御用の「フリをする」て事ですか?
もっと言うと、エアギターは普通、ギターを構えて弾くフリをするのをそうは表現しませんよね。何も持たずに弾くように見せかけるのをそう言う。
じゃあ「エア御用」は、実際には御用的な振る舞いをしていないのに御用っぽいフリをする? え?
エアギターとかは、実質的には全くその行為は「していない」のが重要でしょう。つまり、「弾いていない」のがキモなはずです。それで言えば、「エア御用」は、「御用の行為を”していない”」とならないんですか? 御用っぽく振舞ってるのに実質的には全然そうなっていない、というのをそう表現しないと、エア〇〇のアナロジーとしては全然当たらないと思うんですが。
まず最初に「エア御用」の語を見た時は、このような事を考えて、全く意味が解らなかったのですが。いやまあ、意味が解らないのは今もです。

雇われてるわけでもないのに御用を買って出る。 ありもしない使命感の空想にふけり、 なれ合いの未熟さかげんからして「エア」。

買って出る? て事は、「意図」が含まれるのですか。明確な意図をもって何らかの行動をするのをそう表現するのですか?
空想にふけり、というのは対象の内面への言及ですが、それは「エア御用」なる語の意味内容に含まれる条件ですか? それとも、エア御用に属する(と看做す)者のしばしば見せる特徴、みたいなものですか?
「からして」って、何故そこで勝手な「エア」の意味が出てくるんですかね。エアって言葉に未熟どうこうの意味がいつ含まれるようになったのだろう。

例えば、原子力産業とも原子力工学とも直接利害関係のない物理学者なんかが、 なぜか原発に都合のいい言説を垂れ流したり、原発事故を過小評価したり、 放射能はそれほど危険じゃないと触れ回ったり、反原発の人の足を引っ張ったり揚げ足とったりする。

(強調は引用者)え? 原発に都合のいい言説とやらを、「原子力産業とも原子力工学とも直接利害関係のない」者が主張するのはおかしい事なんですか? 利害関係者であれば原発を庇う発言をする、というのなら解りますけど、利害関係者で無ければ原発に都合の良い事は言わないであろう、とするのは変では? なぜそれが「決まっている事」であるかのように前提されてるんですか。

単純に推進派vs反対派の「勝ち負け」構図で考えてる人

……え?

例えば、原子力産業とも原子力工学とも直接利害関係のない物理学者なんかが、 なぜか原発に都合のいい言説を垂れ流したり、原発事故を過小評価したり、 放射能はそれほど危険じゃないと触れ回ったり、反原発の人の足を引っ張ったり揚げ足とったりする。

↑思い切り単純な構図で考えてるじゃないですか。その理屈だと、その他の情報を考慮せずに、学者であり、かつ原子力産業や原子力工学を利するような発言をする者であれば、即エア御用と看做すのでしょう? それは、推進派と反対派の勝ち負けというごく単純な見方をしているのと違うんですか? 訳が解らないのですけど。

いわゆるエア御用(直接の利権関係者でない推進派)は例外なく権威主義的価値観を持つ

(強調は引用者。以下、強調や下線など修飾は引用者による)……え? 「直接の利権関係者ではない推進派」が定義でいいんですか? 本当にその条件でいいの。それだと、少しでも原発を推進する発言をすれば、ことごとく「エア御用」になるんですか?
「例外なく権威主義的価値観を持つ」て、どうやってそんな事を確かめるんですか。価値観て内面に関わるんですよ。まさかテキストや発言からの推測ですか。それで「例外なく」みたいな強い主張をするんですか。F尺度でも使ったんですか(冗句)。

別に政府に頼まれたわけでも政府と利権で繋がっているわけでもないのに、 そうしなければならないという妙な役割意識や使命感を(おそらくは無意識のうちに)もち その結果、彼らの出してくる情報は常に一定の、露骨な傾向性をもったものになってしまっている。

出た、「無意識」。対象の内面に言及しておいて、無意識なる概念に頼る。これだと、相手がいかなる説明をしようが、「無意識」で考えているのだ、と言って決めつけ聞き入れない、という事が可能。この戦略を用いる人はしばしばいる。「役割意識」や「使命感」などというものは普通、明確に意図するものでしょう。無意識を持ち出せば、いかようにでも行為の「理由」を説明する事が可能。「原発を利する発言をする」という「出力」さえあれば(しかもその判断自体が恣意)、それに至る過程をでっちあげて「エア御用」と評価する事が出来る。本来はブラックボックスかも知れないのにね。行動の観察からは、「原発を利する発言がなされた」(繰り返すけど、これ自体が恣意)事しか判らないのに、「御用」という「方向性」を持った(明確に「意図」を想起させる)語が含まれたもの(エア+御用)を用いてカテゴライズする、という実にいびつな使い方。

御用的な発想をお上から言われる前に、自分から勝手に内面化しちゃってるエア御用(cf.フーコー) 「エア御用」は、お上の顔色を伺うとかそういう意識すらすでに消えていて、完全に内面化されてる

ほら出た。「内面化」。ここでも、自らは気付く事が不可能な無意識の構造という概念を利用して、「どうにでも言える」ようなやり方をしている。ある志向が内面化されているという事を、テキストや発言に基づいて判断・評価している訳だ。フーコーを持ち出すとかどうでもいいので。その内面化とやらはどうやって確かめるんですか? いや、「原発を利する事を言っている」→「御用的志向が内面化されているのであろう」→「何故御用的志向が内面化されていると言えるのか」→「原発を利する事を言っているからである」みたいなループなんだろうけど。
無意識という言葉を好き勝手に用いて対象の行動の理由を適当にでっちあげるとか。なんとなく、偽記憶の話を見ているようでもある。

現代思想なんかにそもそも関心は無いのに、ソーカルの尻馬に乗って 「文系」に対する「理系」の優位性を証明したいという 自己正当化、自己愛的な行動に過ぎないと思う。

なぜいきなり現代思想とかソーカルの話が出てくるのか。なぜいきなり理系文系の話が出てくるのか。自然科学用語の濫用の話をしてるんですか?
大体、ソーカルが理系の優位さを証明せんがために行動した、などという話は聞いた事が無い。もしかして、ソーカルにその気は無かったけど追随者はソーカルを利用している、と言うんですかね。それだとしても、一体誰の話をしているのか、となりますが。
引用部以降に続く文は単純に意味不明。

えっと、色々大丈夫ですか? 結局、ある行為とその「動機(や意図)」の両方に関係する語でありながら、その判断の仕方が全く洗練されていないんですけど。対象の心理に関わる所に着目しながらも、その分析にはまるで無頓着ですか。こんなの、テレビのバラエティで質問に答えさせてその人の無意識を云々する「心理ゲーム」と一体何が違うのですか?

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「中傷」について。

「エア御用」をたとえば、「原子力関係と直接の利害関係を持たないが、それらを利する志向が内面化され、結果的にその方向の行動をする者」のように定義あるいは措定する事そのものは、特に中傷であるとは言えないでしょう。言葉を作る事自体はね。その概念が注目に値するものかどうかは措いても、語を設定する事そのものは、勝手にすれば良い

しかるに、わざわざ造語しようというからには、それに何らかの有用さがあると考えているのだろうと思われます。そこでは、どのようにその言葉が使えるか、とか、どう使っているか、を検討せざるを得ない。
その段階で言えば、実際に「エア御用」の語はどう使われていますか? そもそもWikiを参照すれば、対象の意図を「無意識」という概念をもって決めつけた上でカテゴライズしていると宣言しているようにしか見えません。要するに、エア御用と決めた対象の言い分を全く聞き入れないようなやり方をしている。
「中傷」とは辞書的には、事実に基づかず相手を批難し貶める、という事を指すのですから、その判断の基準が決め手となるでしょう。ではその判断基準はと言えば……まともなものは全く無い。そして、決め付け+批難 というように用いられているから、実際的には、エア御用とカテゴライズされた、心当たりが無い人にとっては、謂れ無き誹謗となるでしょう。

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2011年11月 2日 (水)

STS

なぜ私が、STSに関わると称する論外な人達を幾人か観察した事をもって「STSは~」と一般化する、という物言いに対し、過度の一般化は危険だから止めた方がいい、と くどいくらいに言い続けるかと言うと。

自分自身が、少数事例の観察から即「○○は~」と理不尽に決めつけらているのをいくつも見聞きしているし、また自分もそのように決めつけられる事があるからなのです。それこそ、「科学者は」「理系は」「文系は」という、このブログを読んでおられる方ならしばしば見ているであろう表現を思い浮かべれば良い。あるいは、「ゲーマーは」「オタクは」みたいなもの。自分が関わっている分野でそう評されるのを見れば、おいおい待ってくれよ、てなるでしょう?

科学関連だと、科学哲学や科学社会学なんかもそうだろうと思います。科学哲学者は科学を相対化してメタな事しか言わない連中だ、みたいな一般化とかね。実際は、一口に科学哲学と言っても、色々な立場の人がいる訳です。たとえば伊勢田さんのように、実際の科学者の活動にも目を向けて極めて慎重で綿密な考察を行う優れた科学哲学者もおられるのですから。

しかし、色々な立場の者がいるといっても、何か「平均的」な、いわば「傾向」のようなものはあるのではないか、と考える人もいるでしょう。それはおそらくその通りでしょう。分野の通説みたいなものもあるだろうし、中心的な論にコミットする論者が多ければ、そこには「山」のようなものが出来ているのでしょう。
だけれど、その事を本気で主張したいのであれば、「確かめなければならない」のです。ある学問に関わる論者の全体像を捉え、そのありさまを精確に写しとって分析し、傾向や志向を客観的に明らかにする必要がある。そして、そのやり方自体が高度に学問的(社会科学的)な営みであるのです。

その事を踏まえ、小標本の観察に基づいて分野全体を云々する人に問いたいのは、本当にそう主張して良いだけの強い「証拠」はあるのか、主張を補強する説得力のある論を展開せよ、と要求された場合にすぐ応じられるだけの構えはあるのか、という事です。STSを標榜して訳の解らない事を主張している人が数人いるのを見て、「STSは……」と言う人は、そんな「主語の大きな」主張をするだけの知識を持っているのか、つまり、「あなたは自信を持って”STS”なる分野について語れるほどその分野全体を知っているのか?」と問われて的確に説明が出来るのか、と。

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