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2011年9月 4日 (日)

哲学

非科学的な非科学狩り

「狩り」とはなかなか強い表現です。

その効果が科学的に証明されていないとして、さまざまな「療法」を否定する動きが広がっている。

この「否定」というのは、効かないので止めましょうね、とか、効く証拠は無いので安易に勧めないようにしましょうね、みたいなアドバイスも含む訳ですね。

というのも私自身、そうしたいわば「非科学的」療法に救われた経験があるからだ。

ここで”「非科学的」療法”というのは、多分代替医療の事を指していると思います。そして、個人的な経験を語っていると。

しかし近代医学は、もうこれ以上治療の方法がないという。後遺症は治らない宣言だ。

医師の診断の正確さ、というのは取り敢えず措いておきます(色々なものについて、見落としもあれば、あまり知られていないものである可能性もあるので)。「もうこれ以上治療の方法がない」というのは、医学の限界を正直に表明している、という事なのでは? 「治療の方法がない」というのは、「医学の知見として未だ有効な方法が知られていない」の意味で、「その症状に対する治療はこの世に存在し得ない」という主張では無いですよね。

どれが利いたか分からない。あるいは全部効かなかったのかもしれない。しかし一部のものについては効果を主観的に実感し、最終的に完治したのは事実である。

一部のものついては―のくだりは、比較的時間的に接近して、「与えた―改善した」という関係が見られた場合、「効いた」と認識する、という事ですね。当然、書かれているように、「全部効かなかったのかもしれない」です。

患者にとって、科学的に効果が証明されているかどうかは最終的な関心事ではない。

これは全くその通り。今苦しんでいる情況から脱せられるなら、何であっても、エビデンスがあろうが無かろうが、とにかく効きさえしてくれればいい、と思うのは理解出来ます。私でもそうです。痛みで苦しんでいる時に、薬を飲んだ「瞬間」に効いた気がする、みたいな事もしょっちゅうです。そのくらいに人間の心理というものは動きやすいし、期待などもしてしまう。
自分で色々方法を開発する人もいるでしょう。そうして試行錯誤していく。ただし、自分でも、自分でやった事が効いたかどうかは、確実には解りません(自然変動、あるいは他の要因の同時の変更、などがある。だからこそ条件をコントロールした実験が重要となる)。
「効果が証明されるかどうかは、自分の身体で実験すれば十分なのである。」というのは、「証明」の語義がエントリー内で統一されていないようで、意味が掴めないですね(すぐ下で、科学における証明の話をしている)。

考えてみるに、効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。
※強調は引用者による。以下引用文も同様

有意な効果、という部分、ちゃんと意味を理解した上で使っているのでしょうか。有意とは統計学的な概念、つまり「帰無仮説が棄却された」事を表現するものであって、それはある対象の効果を判断する一つの指標でしかありません(しかし重要な指標である)。実際には、何を確かめるか、とか、どのように実験をデザインするか、などが周到に考えられ、有意かどうかだけでは無く、「効果の大きさ」などが考慮され、総合的に検討されます。

その薬物が目の前にいる、ある状況にあるこの個人(私)に効くかどうかについては、検証していないのである。統計的に有意でなくても、この今の私には効くかもしれない。その可能性を否定する実験は為されていない。

この論法だと、「何かが効くと主張する」事が絶対に不可能になりますね。かと言って、「これが自分に効いた」というのが確実に主張出来るのでもありません(既に理由は書いた)。市販の薬や処方される薬については、一体どのように考えているのでしょうね。

とすれば、科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することはできないことになる。

出来ます。ご自分で「科学的な証明」とやらを紹介しているではありませんか。集団について実験や観察を行って有効である事が確認されていないものを使ったり行ったりするのだから、それは「科学的で無い」つまり「非科学的」な行為です。「科学」の語義がぶれていませんか?

これはまた、科学的にみて安全、という言い方もまた非科学的となりうる局面を示唆している。それは統計的にみて有意な差が得られないという意味であって、その物質が目の前にいるこの人に対して安全かどうかを検証したものではない。たとえその人が何かの特異体質を持っていてイチコロで死んだとしても、膨大な母数がその「例外」を吸収してしまうなら、そこに有意な差は現れない。ごく低線量の被曝で急性白血病になったと訴えても、それは科学的にあり得ないと却下されてしまう。だがそうした却下はとても非科学的なことなのだ。

「有意な差が得られない」の意味は分かっていますか? 統計的検定の話であれば、「帰無仮説を棄却するに足る証拠が得られなかった(保留:maintain)」という意味です。別に一回そういう結果が出たからどうだ、という話でも無いですし。安全かどうか、というのは、疫学の知見や理論的根拠によって判断される事でしょう。その薬などに期待していない作用の現れ方やその確率については、副作用として評価されているでしょう。「特異体質」が原因となって有害作用が及ぶという事はあるし、そういうのは層別して検討していずれ詳細が判明するでしょう。単にそういう所の指摘なのであれば話は理解出来ますが、どうもそういう話をしているようには思えません。
「ごく低線量の被曝で急性白血病になったと訴えても」という話がある事から、最近のニュース(NATROMさんによって詳しく検討された)を念頭に置いているのだと考えられますが、「科学的に」あり得ない事を科学的にあり得ないと却下するのは、それは科学的な判断です。「科学的にあり得ない」という主張や表現は、「その現象は起こり得ない」というのと等価ではありませんからね。
「母数」をどういう意味で使っているでしょうか。「分母」を指しているとすれば誤りです。

前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。

ほとんど意味が解りません。「科学」の意味がぶれすぎです。

そもそも、個人に試してみていない、という理由で効くとも効かないとも言えないのだとすれば、

こうすれば放射能を防げますとか、こうすれば病気を予防できます、直せます、などという話をする人たち
※原文ママ

こういう話は絶対に許容出来ないはずですよね。他人には何も勧められなくなる。だって、「放射能を防(原文ママ)」ぐどころか、安全とされるものでも、「特異体質を持っていてイチコロで」死ぬかも知れないんですよね?
※実際、一部のものについては科学の側から、健康被害が出る可能性が指摘されている訳ですが。まさかそれについては、「効くかも知れないではないか。害があるなどと断ずるのは非科学的である」と返すのでしょうか

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この問題、本質的に、「他人に勧める」所が最も重要な部分です。個人で開発して試す分には構いませんが、苦労して作って効くと認識したら勧めたくなるもの。他人の役に立ちたい、という善意もあります。だからこそ「広まる」のでしょう? これ良いよ、良いらしいよ、と言って情報を伝達して、それが広まる。そしてその中には、「単に効かない」ものから、「害を及ぼす」もの、も入り得るのです(もちろん、「これまで注目されてこなかった”効くもの”」も含み得るが)。今まで知られてこなかったものについては、これまでの知見を総動員して検討するしかありません。そして、これは効かないだろう、とか、これは効きそうに無い、あるいは、これは有害であろう、などの評価がなされると。
もしかしたら、「自分が使った結果を書いているだけだ」と言う人もいるかも知れませんが、それをWEB上に発信したりする事を考えると、果たしてその言い分が通用するでしょうか。

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コメント

修正

作用などの表れ方

作用の現れ方

投稿: TAKESAN | 2011年9月 4日 (日) 17:56

 本題とはほとんど関係ないのですが「狩り」については「魔女狩り」から来たものだと思います。私は、こういった気易い使い方に極端な嫌悪感を感じます。魔女狩りがどれほど悲劇的だったか、どんなに絶望的な出来事だったか、そういう背景を知っていて使っているとしたら、実際にその体験をして頂きたいぐらいに。

 何が魔女狩りを産んだのか。現代の魔女狩りである「失われた虐待の記憶問題(偽記憶症候群)」を産んだのは何か。真剣に考えて欲しいと思います。裏には非合理信仰がある。…感情的になってしまうほど許せない。

投稿: lets_skeptic | 2011年9月 5日 (月) 09:30

lets_skepticさん、今日は。

この種の議論では、魔女狩りのアナロジーはしばしば見られますね。ここでもその言葉の用い方についてやり取りがありましたが、もう数年前でしたか。

偽記憶の問題は、比較的最近に起こったまさに悲劇の出来事だったと思います。
なんでしょう、「魔女狩り(やそれを連想させるもの)」という言葉の使われ方が、仰るように「気易く」使われているのだろうな、と。

投稿: TAKESAN | 2011年9月 5日 (月) 14:13

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