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2011年9月に作成された記事

2011年9月29日 (木)

しばらく

ちょっとヤボ用で、数週間ほどネットに繋げなくなります。

コメントへのレスはその後になってしまいますが、ご意見等あればご自由にお書き下さい。

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2011年9月28日 (水)

高岡英夫と遠当て

はてブで高岡氏の話になったので、少し。

高岡氏は、『空手・合気・少林寺』などで、大変優れた論考を書いていますね。力学的関係が云々、みたいな事もそこで出てきます。私の論は高岡氏の論に拠っている所が大きくある(その上で無駄な所を排除し洗練させようとしている)ので、結構共通しています。

また、近年の合気論においても、かける側とかけられる側との協力関係によって成り立つものを、「人文―社会科学的メカニズム」などと高岡氏は呼んでいます。要するに、師弟関係であるとか、「技を信じたい」心理などが、「自分はわざとやっていない」のに「倒れてしまう」といったような現象を成立せしめる、という論理。そういう現象を経験すれば、「技は本物」との認識が強化され、益々それらの「触れずに倒す」みたいなものを追い求めていく、という循環的な構造が形成される可能性があります。

つまり、合気という「現象」は、純粋に力学的・生理学的なメカニズムと心理社会的な論理とが組み合わさっている、と考えている訳ですね。
その観点、言われてみれば当たり前のものではあるのですが、武術を対象として論理を抽出し整理した事は、やはり高岡氏の業績と言えると思います。ところが……

にも拘わらず、高岡氏は、離れ合気、みたいな事をパフォーマンスとしてやります。離れているのだから当然、力学的な関係は取り結べません。かと言って、心理的な「協力関係」も無い、と主張します。で、どういう論理でその現象を説明するかと言うと、「意識操作」という概念。そこに、高岡氏独特の「身体意識」論が入ってくるのです。それはユング的な論と共通していると思いますが、他者の「身体意識」をコントロール出来る、と称しているのですね。
そこで、それまで穏当で科学的にも妥当だった論が、いきなり飛躍する、という訳です。高岡氏の身体意識論は高岡理論の中核ですから、それを基に体系が組み立てられていて、「遠当てのような現象」についても、「心理社会的協力関係」「力学的・生理学的関係」以外に成立させるメカニズムとして「置ける」訳です。で、当然それは、現在認められていない、いわばニューサイエンス的な主張と共通した概念ですので、「良く言っても仮説」程度の論です(あるいは、超能力のサイ仮説にも似ているでしょうか)。そこの所も踏まえ、注意して見ておく必要があります。力学的でも無い、かといって心理的な協力で成り立っているのでも無い、なら他のメカニズムが……という事を「知りたい」人には実に魅力的に映る論の立て方なので、とても厄介なのです。これは、先日書いた「ゆる体操」の話とも実は繋がってきます。

c_Cさんは見事にこの辺りの論理を看破なさいました。

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2011年9月27日 (火)

柳龍拳氏が

テレビに出演したようで。

その話には色々思う所がありますが、それは措いて、関連しそうな過去のエントリーを貼っておきます。関心を持つ方には、それなりに興味を持って読んでもらえると思います。

「遠当て実験」から考える: Interdisciplinary

気とはシステムである: Interdisciplinary

触れずに投げる(と、その他ちょこっと): Interdisciplinary

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2: Interdisciplinary

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掃除

以前から思っている事。

学校での教室掃除ありますよね。給食後のやつ。
その時には、椅子を机の上に載っけて片側に全部寄せて、床を大きく出して、箒で掃いたり雑巾をかけたりします。
で、これって、わざわざ机を大きく移動させるから、結構面倒ですよね。
そこで思ったのが、各自が「自分が座っている所を掃除する」と合理的なんじゃないかな、と。
自分がいる所の机と椅子が占めている+α辺りの床を、小さい箒で掃いて雑巾で拭く、みたいな。別に小さなモップとかでも構いませんが。人がごちゃごちゃするかも知れませんが、そのくらいはどうにでもなるでしょう。
教卓周りや棚付近は日直が担当する、といった感じで。 そうすれば、一々机を動かす必要は無いし、ものの数分で掃除が終わると思うんですけど、どうなんでしょう。

まあ、中にはそんな感じの所はあるんでしょうけれど。私の時は違ったのでした。……て、高校の時どうやってたか全く憶えていない…。

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2011年9月26日 (月)

科学・科学哲学いろいろ

別所に書いた、科学や科学哲学についての雑文をまとめます。

○眼差し

伊勢田さんが優れているのは、科学にも哲学にもよく目を向けてきちんと論じている所だろうと思う。科学(者)に対してメタな所から、科学の実践を無視したあまりにも抽象的な議論を吹っかけたりしない※

だから菊池さんも、伊勢田さんの本の内容には賛同出来る所がある、と評したのだろう。

当然、科学の側から哲学へ半可通的な議論を吹っかけるのも好ましいことではないが(いや、「議論せずにほったらかす」か「小馬鹿にする」というのがむしろ観察範囲ではしばしば見られる。後で何となく関連するようなしないようなことを書く)。

※メタな議論自体は重要なので。当たり前の話だけど釘刺し

○「科学」

私が「科学」と言った場合、それは19世紀頃に制度化された所の科学を指す。従ってそれは、専門家集団の相互批判による知識の集積・検討という仕組みそのものをも含む概念として捉える。

最も広義には、人文・社会・自然諸科学総体、つまり「学問」と同様の意味とする。それぞれの分野におけるスタンダードの方法を踏まえた知的な営み全体を科学とする。であるからその場合には、哲学や数学などの分野も含む。哲学にしろ数学にしろ、学術論文を執筆しそれが査読され専門家集団に認められて標準的な知識となっていく、という営みを行う。その意味では制度そのものを科学と言う、とも看做せる。

それを踏まえるならば、古代における占星術は科学であったのか、などの問いに関しては、「その問題に興味はない」と答えることが出来るだろう。そのトピック自体は科学哲学的に興味深いものであるが、現在社会的(狭く捉えれば専門家集団)に得られているであろうコンセンサスとして、洗練された社会制度によって知識をふるい落とし、あるいは体系として確立していく知的な営為のことを「科学」と称している、と考えて良いだろう。そう捉えるならば、「古代にそもそも”科学”は”ない”」と主張することが可能だと認識しているのである。

また、「科学」を狭義には、経験科学を指すものとして用いる。すなわち、自然・人文・社会科学の内、経験的に得られたデータに基づいて理論を確立していく分野を言う。そのことを「実証」と表現するならば(かつ、哲学や数学の論証を「実証と呼ばないことにする」ならば)、実証科学と言っても良い。

一般に哲学や数学は、経験的なデータ、つまり観測・観察・実験・調査、等によって得られたデータによって理論を作り上げ検討していくのを前提としないので、この意味での「科学」には含めない。

科学史の教える所によれば、「科学」という日本語は、その出自からして「個別諸科学」を指していた、つまりそもそも「学問」と同様の意味合いを持つと看做せる内容であったとのことであるから、それは押さえておくべきであろう。

当たり前だが、これは「定義」と言うほど具体的なものでは無い。現代社会において社会的なコンセンサスが得られているであろう意味内容を踏まえて自分の認識を整理したものである。

※野家啓一『科学の哲学』を参考にした

○ポパー

『批判と挑戦』において、「ポパーへの誤解」について非常に詳しく説明されている。

もしこれらの大部分が妥当であるとして(少なくとも、ポパー自身の記述をひいている部分は信用出来るだろう)、本当に数十年間もポパーに対する誤解が広まってきたのだとすれば、これは「相当なこと」であると言える。

この本に関しては、以前twitterで、ポパーの思想もホリスティックであったらしい、と紹介をした所、伊勢田さんにアドバイスを受けたことがある。
https://twitter.com/#!/tiseda/status/8495958597

余談であるけれども、この本、ポパーを擁護しようという気持ちが前面に押し出されすぎていて、そこの所は少々鼻につく。いやもちろん、重要な論者の思想や主張が長年にわたって誤解されてきた(と著者は言っている)のだから、怒りや呆れを文面に反映させることはあるだろうし、その感情は分かるのだが、論者への思い入れが特になく、ただ「正確な知識を仕入れたい」と思う者にとっては、その雰囲気に少し引いてしまったのであった。

その著者らの主張への(特に科学哲学者からの)再反論などがあれば、教えて頂ければありがたい。

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2011年9月25日 (日)

クーン

 このような私の主張に対して、多数の哲学者たちは今も私を驚かせ続けているような仕方で対応したのである。それによれば、私の見解というのは理論選択を「群集心理学の問題」に帰するものである。また、クーンは「新しいパラダイムを採用しようとする科学者集団の決断というものは、事実的あるいはそれ以外の何らかの適切な理由によって基礎づけられるようなものではない」と信じている、とも言われている。私を批判している人びとは、クーンにっとっては理論選択をめぐる科学者間の論争は「熟考すべき実質のない、単なる説得行為の展開にすぎない」に違いないと主張した。この種の評価は、まったくの誤解である。
トーマス・クーン[著]安孫子誠也・佐野正博[訳]『客観性、価値判断、理論選択』(『科学革命における本質的緊張 トーマス・クーン論文集』所収―P416)
※註釈の番号は省略した
※強調は引用者による

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メモ:高島弘文『科学の哲学』

  • 範囲は比較的狭い。ポパーやファイヤアーベント辺りまで。ラカトシュなども出てこない風。
  • ミルの因果関係論の解説が詳しい。
  • 科学史的な具体的事例を豊富に扱って科学哲学的議論に結びつけて解説しているのが良い。主に科学の「方法」に焦点を合わせている。
  • ファイヤアーベントには批判的。

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2011年9月23日 (金)

茂木健一郎氏の世論調査観

このようなものを見かけました⇒茂木健一郎さん kenichiromogi 「サンプリングは、もしやるとしたら、まじめにやった方がいい。」 - Togetter ※アットマークを外した

これは、twitterにおいて茂木健一郎氏が世論調査についてつぶやいたのをまとめたものです。その意見を見ていて、ちょっと首を傾げた所がいくつかあったので、検討してみます。

さま(1)そもそも、統計には限界がある。「5年後に生存している確率が30%」と言ったって、自分が実際に5年後に生きているかどうかは0%か100%のどちらかだ。それでも統計的真理を追うのはある程度は仕方がない。問題は、サンプリングをちゃんとやること。

統計的なデータが、個人に起こる出来事を完全に予測出来るものでは無い、というのはその通りです。起こってしまったらその人にとっては100である、みたいな言い方もしばしば見られます。しかし、その事が、なぜ「サンプリングをちゃんとやること」と繋がってくるのかよく解りません。それは、○○年生存率などの概念とはまた別の文脈だと思うのですが。

ちなみに、そういう統計的指標というのは、個人に振りかかる出来事を精密に予測するものでは無いけれども、保険等の資料にしたり、医療において治療の指針にしたり、個人の生活設計などに役立てたり、という役割がある訳です。そもそもが集団に関するデータなので、それを認識して使えば良い。たとえば、重篤な病気に罹って○○年生存率は……などという情報が与えられる事で、今後の余生をどう過ごすかの参考にする場合もあるでしょう。見通しとして用いるという事です。

さま(2)統計学を人間に当てはめるときには特に注意しなければならない。世の中には多種多様な人々がいる。その中から、きちんと「サンプリング」をしなければ、結果が偏ってしまう。「民意」が実は「文句モンスター」の平均に過ぎないということは、しばしば起こる。

きちんとサンプリングしなければ偏る、というのは一般論としてはその通りです。少し補足すると、サンプリングというのは、まず、何か興味を持って調べたい対象があるとして、その全部が調べられない場合に一部を調べるというやり方を考え、その一部を全体から採り出す、という事です。調べたい対象全体を「母集団」と言い、実際に調べる対象を「標本」と言います。その用語を踏まえると、サンプリングとは、母集団から標本を「採る(抽出)」事を意味します。

たとえば、日本人全体の何らかの考えを知りたいとします。ここでは、日本人の内どれくらいの人がカツカレーを好きか、というのを調べたいとしましょう。この場合、「母集団」は「日本人(本当を言えば、これは抽象的過ぎますが。実際には、○○歳から△△歳の有権者、のように限定される事が普通でしょう)」、そして、実際に調べる人々が「標本」です。その考え方からすると、標本は、母集団を「代表」するような選ばれ方をされなければなりません。日本人全体の傾向を調べたいのに、○○県の人々だけを対象にしたのでは、調べたい全体の実際の値から大きく外れる可能性があります。その意味では、茂木氏の言っている事はご尤もです。あくまで書かれた文章をそのまま読めば。

さま(3)花火が中止になったり、送り火がダメになったり、震災関係で心が痛むニュースが多かった。このような時に、役所や主催者に抗議の電話をかけてくるような人は、サンプル的に偏っている可能性が高い。「本当に統計的に意味があるのか」と自省するリテラシーが必要である。

ここは、積極的に意見を言う人の意見内容が、イベントについて感想を持つ人全体の意見を「代表」するとは限らない、というのが言いたいのでしょう。ただ、このような状況、つまり、あるイベントを中止するに至ったきっかけとなった「意見」について、それを「サンプル」と表現する事には少々違和感があります。普通は、ある目的をもって意図的に抽出する集団の事を「標本」と言う訳ですから。まあこれは、それくらいは良いではないか、と言われそうですが。

さま(4)新聞などの「世論調査」においても、昼間に固定電話を受ける人、という時点でサンプルとして偏っている可能性が高い。そのような偏りを排除できないから、そもそも「支持率」などという幻にあまり一喜一憂しない方がいいし、新聞社も伝家の宝刀のように振り回さない方がいい。

「昼間に固定電話を受ける人」という文がある事から、茂木氏が想定しているのは、「RDD」と呼ばれる手法だと思われます。RDDとは「Random Digit Dialing」の略で、コンピュータで確率的に番号を生成し、その生成された番号へ電話をかけアンケートを採る、という方式です。この方式は、電話をかける時に在宅している人がアンケートに答えるとか、最初に電話を受けた人が答える事になるとか、あるいは、固定電話を持っている層しか答えないので回答が偏る、などの批判があります(標本に属する人々は、数学的に処理出来るように、偏らないように採られなければなりません。この偏りの事を、「バイアス」と言います)。茂木氏もそれを考えているのでしょう。

しかしながら、このような方式も、色々と洗練・工夫され、よりバイアスがかからないようなやり方が編み出されています。たとえば朝日新聞では、朝日RDDという方式で調査が行われているようです⇒asahi.com(朝日新聞社):世論調査 - ニュース特集

これを見ると、バイアスを小さくするために様々な工夫が凝らされているのが窺えます。特に、「集計方法にも工夫」の所が重要でしょう。茂木氏は、昼間に電話が、と言っていますが、当然、プロはその事は考慮している訳です。もちろん、調査によってはよく設計されていないものもあるでしょうが、茂木氏のように、新聞の調査があたかもことごとくそういうものであるかのごとく評するのは、いささか新聞社の調査法を甘く見ていると言えるでしょう。

ちなみに、調査の方式というのは、色々なものがありますが、それぞれ一長一短で、偏りが全く無く正確な結果が出る、というのは無いと考えておくべきでしょう。コストの兼ね合いもあります。回収の割合は高いが結果は正確さを欠く、とか、逆に、回収の割合はそれほど大きくはならないが、詳細に訊く事が出来る、というものもあります。電話で訊かれる、封書が送付される、家に訪問される、自分でアンケートを読んで書く、質問者が質問を読み上げてそれに答える、などの色々なパターンを考え、それぞれのシチュエーションでどれが答えやすいかとか、正確な回答が得られるか、などを考えてみるのも良いでしょう。

結果をパッと見てそれに一喜一憂しないのが良い、というのはそうだと思います。当のマスメディアの説明にもあります(この事については後ほども触れます)⇒テレビの街頭アンケート調査、信頼できる? : COME ON ギモン:その他 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

さま(5)「婚活」という言葉は好きではないが、もしやるとしたら、サンプリングに留意した方がいい。結婚紹介サービスや、合コンに来る人たちは、サンプル的に特定の傾向があるかもしれない。良い悪いではない。社会の人々の多様性を十分に反映していない可能性があるのである。

さま(6)もし出会いを求めているのならば、特定の目的のために集められた集団よりも、社会の中でランダムに出会うプロセスの方がサンプリングとして信頼できる。出会ってすぐに人間として打ち解ける技術を磨いた方が、結婚紹介サービスに登録するよりも統計的には良質である。

ここも用語の使い方が気になります。結婚紹介系のサービスに参加する人や合コンに参加する人を、「サンプル」と表現する所に違和感を覚えます。参加者に社会の多様性というものが反映されていないのはおそらくそうでしょうが、そもそもそれは、ある全体(母集団)を知りたいと思い、そこから一部を採って調べる、という目的は無いのですから、当たり前の話だろうと思います。そういうのに参加する人は、社会全体の多様さが参加者にも反映されているのだろう、と期待しているのでしょうか? 疑問です。趣味嗜好が共有出来る人とか、ある年齢層の人とか職業の人とか、そういうのを任意に選べるようなサービスを利用する、と思っていたのですが。

それから、「社会の中で」出会う人が「ランダム」なのかよく解りませんし(そもそも人間は、色々な社会的関係を築いて行動の範囲を限定し、コミュニケーションをとるものでしょう)、「統計的には良質」という言葉も不明瞭です。尤も、漠然と考えている人がこういうのを見て、なるほどそうなのか、と(漠然と)思う場合はあるでしょうけれども。

さま(7)時には、統計的な集団から外れた「outlier」こそが興味深いこともある。高校の時に出会った和仁陽、大学で出会った塩谷賢などはまさにそうだった。ぼくの親友は、みなoutlierばかりだ。ぼくが、世論調査で支持率が何パーセントとかいう数字を一向に尊敬しない理由である。

前段と後段が全然別の話なのに、後段の内容の理由を前段に帰しています。平均的な所から外れた人が魅力的だと感ずるのはそれこそ個人の考えなのでとやかく言う事ではありませんが、なぜそれが「世論調査」を「尊敬しない」となるのか不明です。それ以前に、数字を尊敬しない、というのは意味がよく解りませんが(適当に補うと、支持率が高いからといってその人を尊敬出来るとは限らない、という事でしょうか。しかし、単に統計の結果を信用しない、という説明なのかも知れない)。

支持率というのはそもそも、確かめたい全体(たとえば「有権者」)の内、どの程度の割合が支持しているか、を調べようとして出てきた結果です。そういう「目的」をもって出てきたデータなのだから、尊敬も何も無い、と思う訳であります。まして、それを、「外れ値(変なメタファーですが)」の人を好むという心理と対応させるのはどういう事でしょうか。

さま(8)サンプル数最大の選挙でさえ、あの程度のもの、統計なんて、しょせんそんなものである。ましてや、ネットにしろ、電話にしろ、向こうから能動的に何か意見を言ってくる時には、サンプルは偏っているというのが当然の前提なのだから、主催者はこれからびびらないで欲しい。

まず、「サンプル数」は誤り。正確には「サンプルサイズ」です。あるいは「標本の大きさ」。標本というのは集合を表すので。尤も、これは教科書的な本ですらよくある誤りなので、仕方無い面があります(後で紹介するサイトもほぼそうなっている)。

さて、「サンプル数最大の選挙」とはどういう意味でしょうか。「あの程度のもの」とは? 選挙というのは一般に標本調査では無く、有権者全体を対象とするものですから、「サンプル数最大」というのは不可解です。もしかすると、対象全体を調べる事をそう表現しているのでしょうか。もしそうだとすれば、コメント欄でかとうさんも言っているように、敢えて統計の言葉で表現すると、「全数調査」もしくは「悉皆(しっかい)調査」となるでしょう。それをサンプルとは言わないと思います。たとえば、有名な全数調査としては国勢調査があります。

後段は、文脈を補うならば、先ほどあったような、「声の大きい人」の意見は全体の意見を必ずしも反映しない、というのを示しているのでしょうか(その意見自体は尤もでしょう)。それをサンプルと表現する事に違和感があるのというのも先に書いた通りです。

さま(9)何よりも世界に「私」は一人しかいない。私たちは、世論調査を構成する原子などではない。個性こそが輝き。新聞が世論調査をやたらと持ち出してくるのは、自分たちの凋落を自覚してのことだろう。首相が取材に応じないといってもぶら下がっているのが記者クラブじゃ語るに落ちる。

上で書いたように、そもそも世論調査というのは、対象とする人々の平均的な意見を調べるものです。それが「目的」。ですから、その目的を認識して、実際にどう調べたかを確かめながら検討すれば良い話なのであって。それを、「個性」というものの尊さを訴えるために引き合いに出すというのは、的外れと言うしか無いと思います。※支持率という指標を前面に押し出して色々アピールするのに違和感を持つ事自体は理解出来ますが、それはまた違う話でしょう。指標は指標としての役割をきっちりと認識する、というのを理解するのが先決です。

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茂木氏の言う「サンプリングは、もしやるとしたら、まじめにやった方がいい。」という事そのものは、一般論として正しいです。河豚を食べるとしたら毒部分は取り除いた方がいい、というくらい一般的に妥当(なんか違う)。しかし、マスメディアの調査を見ると、かなり「まじめ」にやられているようです。ここでいくつか、調査方式の情報を掲載しているマスメディア各社の世論調査に関する記事を紹介しましょう。※サンプルサイズは、有効回答者数(こちらが実際得られたサンプルサイズ)では無く調査対象者数を示す

▼NHK⇒世論調査の手順 - 調査相手の抽出 | NHK放送文化研究所

標本抽出――層化二段抽出法。サンプルサイズ:3600

調査方式――面接法・配布回収法・郵送法・RDD

▼FNN⇒FNN世論調査

電話調査とあるので、おそらくRDD サンプルサイズ:1000

※「2011年9月3日(土)~4日(日)分」を参照

▼テレビ朝日(『報道ステーション』)⇒世論調査|報道ステーション|テレビ朝日

標本抽出――層化二段抽出。サンプルサイズ:1000

調査方式――不明

※2011年9月調査を参照

▼日本テレビ⇒日本テレビ世論調査

RDD サンプルサイズ:2032

※2011年9月調査を参照

▼時事通信⇒時事通信社 時事世論調査特報

標本抽出――層化二段抽出。サンプルサイズ:2000

調査方式――個別面接法

▼産経⇒【世論調査】質問と回答全文+(7/7ページ) - MSN産経ニュース

RDD サンプルサイズ:1000

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こういった具合です。これらを参照すると、さすがにマスメディア、つまり新聞やテレビの「世論調査」というものは、標本抽出の仕方くらいはしっかりしている、と見えます。ですから、茂木氏の言うような意味でサンプリングをしっかり行うべきだというのは、既に「行われている」と考えて良いでしょう。もちろん、ニュース番組やバラエティで簡易に行われているアンケートなどはまた別に考える必要があるでしょうが、今はいわゆる世論調査というものを対象に考えています。

当然、マスメディアが行うものの中にも、ひどいとしか言えないものもあります。たとえば、産経の「eアンケート」(検索するとすぐ出てきます)。これなどは、質問も全く練られておらず(中には誘導的なものすらある)、回答は、見ている人が任意に答えられるという形式で、偏りを小さくする工夫など全く見えません。WEBアンケートの悪い所を凝縮したようなやり方です。

新聞やテレビが行う「世論調査」に関しては、それなりにしっかりと行われています。ですから、サンプリングをちゃんとしよう、という事を求めるよりは、「記事中に情報を正確に記述する」のを求めるのが重要と思います。つまり、調査をしたと称する記事のことごとくに、標本抽出の方法や調査方式について概要を書くのをユーザーが求めるのが大切、という事です。たとえば、次のような情報くらいは漏らさず掲載する、といった具合に。

  • 対象とする全体(母集団)
  • 標本の抽出の仕方
  • 標本の大きさ
  • 調査の方式

上で紹介したように、さすがに世論調査ではこれらの情報は書いてあります。しかし、これもメディアによって違いがありますね。NHKのサイトは特に詳しい。朝日の場合、問題があると指摘される事がよくあるRDD方式に加えた工夫を詳らかに解説している。他の所は見つけられず。その部分についても、各社が解りやすい所に詳細に書くのが望ましいでしょう。

これ以外の調査報道に関しては、更にバラバラです。調査したという事以外に全く情報が無いものもあれば、きちんとサンプルサイズや調査方式が書かれているものもある。私は、調査をしたと言う以上、どんな記事でも、基本的にその情報を同時に示すべきである、と思う訳です。それくらいに大事で基本的な情報なのです。

そして、先ほど紹介した読売のページのように、標本調査というのは参考程度に留めておくべき(正確に言えば、実際に行われた具体的なやり方を確かめ信頼の程度を決めていく。読者や視聴者がそれを出来るためにも上に書いたような情報提供が重要)、というのをマスメディア自ら発信すべきでしょう。どういうやり方が望ましく、どういうやり方に偏りが出やすいか、などを示すべきです。バラエティなどでひどい「調査」が紹介されているのがしばしば見られるので、テレビ番組などで積極的に正確な情報を出していくというのは考えにくいのでは、と言われそうですが、それでも、そういう動きを求めていくのが重要でしょう。以前、NHKの番組で大変良い特集もありました⇒数字トリック見破り術 : ためしてガッテン - NHK

また、そういうのを求めるばかりでは無く、自分で本を探して読んで勉強してみる、というのも重要だと思います。そこで仕入れた知識を周りに教えていくのも大切。世論調査なども含んだ、社会に関する調査を行う事を、「社会調査」と呼びますが、その分野を説明したものとして、たとえばこの本をお勧めします。

社会調査法入門 (有斐閣ブックス) Book 社会調査法入門 (有斐閣ブックス)

著者:盛山 和夫
販売元:有斐閣
Amazon.co.jpで詳細を確認する

敢えて、普及書・啓蒙書の類では無く、ごりごりに専門的な本を選んでみました。非常に手堅い本ですが、本質的な所から詳しく説明されているので、むつかしい本を読み慣れている人には興味深く読めると思います。時折見かける、「無味乾燥な教科書」とは一味違うし、サンプリングやワーディング(質問を行う際の言葉の選び方)についても大変詳細に書いてあるので、この本を推したいです。もちろん、統計学一般の入門書で、標本調査の理論を勉強するのも良いでしょう。

間違っても、マスメディアによる世論調査は大体信用出来る、などと言っているのでは無いので誤解無きよう。RDDの欠点がどこでも解消された、と言っているのでもありません。これだけ色々書いても誤解する人はいるだろうから、予め釘を刺しておきます。

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気と超能力

※後から詳細を追記した

伊勢田さんの本を再読していて、私の「気」に対する姿勢は、ブラックモアの超能力に対する姿勢に共通しているのではないか、という気がした。

気がしただけで、ブラックモアの著作を精読してみないと、はっきりとは言えないけれど。

詳しく書くと。

伊勢田さんによれば、ブラックモアは、超心理学のプログラムがラカトシュの言う後退的プログラムに陥っていると指摘し、超心理学は「サイ仮説」を放棄して前進的プログラムを志向すべきだ(放棄しても現象の研究は出来る)と主張したそうだけれど、これは、私がよく言っている、「気」概念を超自然的な、あるいは生気論的(と言うと意味合いが違うのかもだけど)なものとしなくても、「気と”される”」現象を、既存の心理学や生理学等などから考究出来る、という意見に似ている、と思った次第。

「気」と言うとすぐさま忌避したり、あるいはそれを自然科学的に研究する事を志向しながらも、悪い意味で要素還元的に結論を出したがる(何らかの少数の物理学的概念をもって説明しようとするなど)人もしばしば見かけるので、ここら辺はよく考えておきたい所。だから、ブラックモアによる、体外離脱経験の考察などは興味深い。

さて、ここから類推して、「鍼灸の効果」についての専門家の研究の態度は後退的であるか前進的であるか、と考える事が出来る。現状の在り方を考察するのもそうだけれど、もうすぐ、二重盲検用鍼による研究が蓄積され、相当な事が解ってくるだろうから、その時に、かなりはっきりと判明するだろうと思われる。

参考文献

疑似科学と科学の哲学Book疑似科学と科学の哲学


著者:伊勢田 哲治

販売元:名古屋大学出版会
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2011年9月22日 (木)

言葉のマジック

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸

茸茸茸茸茸茸









生きのこる









今日、「生きのこる」を「生キノコる」と読んだ。

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どこに投げているのか

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)Bookもうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)

著者:菊池 誠,松永 和紀,伊勢田 哲治,平川 秀幸,片瀬 久美子
販売元:光文社
発売日:2011/09/16
Amazon.co.jpで詳細を確認する

感想。

良い素材を買い込んできたが、それをよく下処理もせずにぶち込んでごった煮にし、デザートを食べたがっている人のテーブルに置いた、という感じ。

個別の記事は面白い。けれど、「誰に向けた本?」というのをすごく感じた。どんな層に届けたいんですか? この本を。

なので、これまで科学というものを意識してこなかったけれど、このご時世だし、ひとつ勉強してみたい、みたいな人には、私にはこの「本」は勧められない。
色々な話題について、その話に関してはこの本にある記事が参考になるだろう、という風に教える事はあるだろうけれど、それくらい。初めからこの本を興味深く読める人は、そもそもある程度科学に関心を持っている人ではないかと思う。そういう人が知識を得たりするのにはそれなりに役立つ、というか。

少なくとも、公式サイト もうダマされないための「科学」講義 菊池誠、松永和紀、伊勢田哲治、平川秀幸、飯田泰之+SYNODOS/編 | 光文社新書 | 光文社 にある、

――学校が教えてくれない科学的な考え方を、稀代の論客たちが講義形式でわかりやすく解説。3・11以降の科学に対するモヤモヤがきれいになくなる一冊。

この宣伝文句は全く受け容れられないものがある。※「宣伝文句やタイトルに著者の意向は反映されていないだろう」という反論は受け付けない。個別の記事は興味深いもの(それぞれの論がどのくらい正確か、は詳細に検討する必要があるが)だと言っているし、そもそも本をどういう構成にしてどの層に向けているか、という話をしているのだから

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2011年9月20日 (火)

ゆる体操

はてな匿名ダイアリーに、このようなエントリーが上がっていました。
※以下、はてなの慣習に従い、エントリー及び書き手の事を「増田」と表記する

「ある体操法と出会って1年で人生が変わった」話を頼むから拡散してくれ

そして、ここに、はてなブックマーク(以下、はてブと略す)がたくさんついています。はてなブックマーク - 「ある体操法と出会って1年で人生が変わった」話を頼むから拡散してくれ 今見た時点で、1600近く。はてブで1000超えというのは、上位にランク入りするくらいの相当な数ですが、健康情報的なものではしばしば見られます。はてブ界隈では、体調不調を改善するメソッドに関心が大きい、という事なのでしょうか。

さて、当該エントリーでは、高岡英夫氏が創始したメソッドである「ゆる体操」が絶賛されており、自身が体験したエピソードを拡散して欲しい、とアピールされています。長年困っていた体調不良が劇的に改善されたという事で、これは是非とも広めたい、という風に考えたのでしょう。※なお、「いかにも業者っぽい」という見方はここでは措いておきます
そして、はてブでも、試してみようかな、という意見が結構見られます。もちろん、胡散臭さを読み取る人も沢山いるようです。中には、そこまで関心を持っているのでは無いが、話題にのぼっていたので取り敢えずブックマークしておこう、という人もいるでしょう。いずれにしても、はてブ界隈というローカルな空間とはいえ、ある程度注目を集めていると見る事が出来るでしょう。

このブログをご覧くださっている方はご存知の事ですが、私は以前、高岡英夫氏の論に強く影響され、ゆる体操というメソッドにも関心を持ってきました。ですので、ほんの少し知識を持っています。そこでこのエントリーでは、増田のエントリー、および「ゆる体操」について、考察してみたいと思います。

○増田氏の経緯

まず、増田氏が辿った経緯を箇条書きしてみましょう。重要と思われる所を強調します。

  • 1年くらい前まで、肩凝りや頭痛、目の疲れに悩まされていた。
  • 親類の不幸により、心理的にもダメージを負っていた。
  • 不調の悩みから脱却すべく、筋トレや各種体操法に取り組んだ。
  • それらは効果を齎さなかった。
  • 体操法については、辛いと感じた。気力を消耗した。
  • マッサージは経済的にコストがかかり過ぎ、効果も一過性であった。
  • その後に「ゆる体操」に出会った。
  • 要望として、時間を大きく割かず、高い効果を持ち、気力を使わない、というのを求めていた。
  • 具体的な身体的不調は、1)強い肩凝り、呼吸がし辛いという自覚 2)目の疲労 3)腰痛や腰の重さ
  • ゆる体操実施。参考書は、高岡英夫の『仕事力が倍増するゆる体操』
  • 「膝コゾコゾ体操」を実施→快眠 「1日」で顕著な効果を自覚。
  • 他の体操も実施。「1週間」で、目および腰の不調の改善を自覚。呼吸も改善。
  • 肩凝りの改善。自覚は3ヶ月後。
  • 1年経過。心身ともに改善を自覚。

こういった感じですね。このような経過を辿って増田氏は、ゆる体操に劇的な効果があると実感し、それを広めたいと認識してエントリーを書いた、という流れ。

この流れを見ると、増田氏は、不調を改善すべく、色々試したという経験があり、そしてゆる体操に「辿り着いた」という事のようです。ここでは、「他のものが効かなかった」という経験が、ゆる体操が「効いた」という認識を強く形成させるきっかけとなっているのだと思われます。そして、「短期間」である事。長年悩んでいたものが、ものによっては1日で、肩凝りも数ヶ月で改善された、という実感は、取り組んだメソッドの効果を強く印象づけたのでしょう。また、低コスト(時間や、体操としての簡便さ)という面も、簡単に出来る、という事で重要な点です。痩身法(○○する「だけで」痩せる、といった謳い文句)なども思い起こすと良いでしょう。

ここで重要なのは、個人的に色々工夫したり探求したりして、その結果見つけた、という事、つまり、「比較しふるい落としてきた」という経緯である所です。たとえば、ほとんど運動してこなかった人が ゆる体操をやってみたら改善された、という場合には、運動をする事そのものが身体的に好影響を与えた、つまり、「運動ならなんでも良かった」可能性がある訳ですが、増田氏のケースでは、色々な体操法や、筋トレを試みてきた、という事で、それらと較べてより高い効果が得られた、と主張していると。

○効果

では、その体操は、確かに増田氏に高い効果を齎したと言えるのか。……確実には言えません。
今回のケースは、一人の人間が色々試してみた、というものです。つまり、シングルケース(一事例)。科学の研究においても、シングルケース(一人、もしくはごく少数)を対象として行われる場合は当然ありますが、その際にも、色々な条件を考慮してデザインして行われます。
簡単な所で言うと、たとえば、年を取ってきて体質が変わってきた、とか、他に変化してきた要因、食生活や交友関係が変化してきたとか、あるいは、他の体操の効果が「後になって現れてきた」という可能性なども、厳密に見ると考えられます。
もちろん、食生活や交友関係などは、体調や精神に強く関わる事が簡単に推測出来るでしょうから、増田氏も強く意識していた所でしょうし、それがあれば書いていたはずです。また、体操が後になって効いたというのは、あくまでも「論理的な可能性」であって、運動生理学などから考えて、そういう事があり得そうかそうで無いか、などはまた別の話です。要するに、あるものの効果を確かめるには、そのくらい色々な事を考慮しなくてはならない、と。

参考:教育実践研究のための一事例研究法

さらに言えば、「体調が良くなった」という「実感」自体が錯誤の可能性すらあります。いわゆる「気のせい」というもの。心理的にも切羽詰まった状況であった事が、身体的な改善を誤認させる、という可能性。あるいは、体操そのものに効果が無くても、その体操が良いのだ、という思い込みが心理的に作用して、それが実際に身体に好影響を与える、という事すら考えられます。その場合には、身体が改善されたのは事実だけれども、「ゆる体操」は効かなかったと言えるのです。
もちろん、効いたという実感が錯誤である可能性というのも、論理的な可能性です。肩凝りの改善などの実感が全部誤認というのが、生理学や心理学の観点から果たしてあるのか、と見る事も出来ますので。ただ、ここで言っているのは、そういった、身体的な状態が改善されたかどうか、についても、きちんと「はかる」必要がある、という事です。たとえば、肩凝りの改善といった場合に、「実感」だけに頼るのでは無く(それも当然、主観的なものさしとして重要です)、筋肉の固さを正確に測る機械を用いたりしないと、本当に「効いた」かどうかは言えない、という意味です。つまり、ものをはかる「ものさし」が肝腎。これを「尺度」とも言います。

○効果2 他人に勧めて良いのか

ここで、仮に、ゆる体操が増田氏に「効いた」とします。つまり、本当に増田氏に効果を齎した、と「仮定」します。さて、その場合に、増田氏が「広める」事は構わない、と言えるでしょうか。……言えません。

なぜそうなるか、と言うと。もし増田氏に効いたのだとしても、それは、「増田氏だから」効いた、という可能性があるからです。増田氏は、自分に効いた(と自覚した)から勧めようとした訳ですが、もしかすると、ゆる体操が増田氏に効果を及ぼしたのは、増田氏の年齢や性別、体質などがあったからこそである、と見る事が出来るのです。

ここで、「効く」という「情報伝達」について考える必要が解ります。増田氏は、効くと感じて勧めたのですが、それはすなわち、「集団に対して効果がある」という「メッセージ」になっているのを意味します。しかも、増田では、「万人向けに作ってある」と書いてあります。つまり、かなり意図的に「メッセージ」を発信している。これにはおそらく、高岡氏の書き方が影響しているのでしょう。高岡氏は、かなり尤もらしい論を展開して、汎用性を主張するので。

○エビデンス

「メッセージ」に、「多くの人に効く」という意味合いが込められている。つまりそれは、詳しく書けば、「ゆる体操は集団に安定して効果を齎す」という含意があります。そうなれば、「増田氏に効いた」という事(もちろんこれは仮定です)だけでは、「証拠」として弱い。従って、他者に効くと広めたいなら、集団に広く安定的に効果がある、というのを示す必要があります。無ければ無責任、とも言えるでしょう。

では具体的にはどう調べるか、と言うと、それは、実際に沢山の人を集めた集団に対し、ゆる体操をやらせてみて効果を見る、となります。もちろん、先ほど書いた「ものさし」がきちんと作られているか、とか、誤差が小さくなるように沢山の人を集めるとか、他の方法などと較べて効くか、という「比較」の観点が重要です。それに関しては、以前に書いた事があるので、よければ参照下さい(超長文です)。

「効く/効かない」再び: Interdisciplinary

なお、こういった事に関して効果を確かめるのを、「効果研究」などと言います。確かめる方法や分野として、「疫学」などがあります。また、そういった方法によって得られた証拠を、カタカナで「エビデンス」と表現する場合があります。疫学や臨床によって得られたデータはどの程度のものか、という事ですね。それらを検討して、本当に効くかどうか、が確かめられる、という寸法です。

○試すのはまずいのか

では、そういった証拠、つまり効く事の「エビデンス」が無い、もしくは少ない場合、宣伝されているものを試してはいけないのか。そういう観点があります。

この事については、「ものによる」というのが適切な答えでしょう。たとえばこれが、「痩せ薬」みたいなものだとしたら、おいおいちょっと危ないぞ、となりますよね。そういうのは飲んだり食べたりする物ですから、それは身体に吸収され、色々な反応を及ぼします。そこに危険な毒物などが含まれていれば、取り返しのつかない結果になりかねません。だから、薬事法などで厳しく取り締まられている訳ですね。そこから外れている業者が摘発されるのもしばしばです。

ゆる体操に関して言えば、それは、運動療法に分類されると言えます。つまり、薬物を使ったり、電気などによって刺激を与えたりする(物理療法)のでは無く、身体運動を工夫する事で改善していくアプローチ。
従って、それが齎し得るリスクを考えるとすると、薬物中毒などでは無く、運動を行う事による、生体の疲労や破壊など、と考えられます。

増田経由で ゆる体操の映像を観た人は、おそらく、「これは簡単だ」という風に感じた事でしょう。増田でも触れられている3つのメソッドなどは、寝た状態で身体をくにゃくにゃ動かすものですし、誰にでも出来て負担は少なそう、と思うはず。
おそらく、その印象は正しいものと思われます。運動療法の場合、見た目から、身体にどのような負担がどのくらいかかるか、というのは、ある程度判断出来るでしょう。その観点から言うと、ゆる体操は、かなり負担が少ないというのは一応言えると思います。その意味では、まあやってみるのは別にいいんじゃない、と。
もう少し詳しく書けば、そもそも高岡氏が、「ゆる」の概念を提唱した当初、頭や首を激しく揺する事について、批判がありました。それでは頭部や頸部に対して非常に危険なのではないか、と。武術関連で言うと、長野峻也氏などが強く批判していました。そしてその後、高岡氏がその内容の批判を受け容れ、首は優しく揺するように、と著書で書くようになった、という経緯があります(『からだには希望がある』付近だったと記憶)。
参照:長野峻也ブログ  新体道DVDはスグレ物! ※あくまで批判例。私が長野氏の論の全体を参考にしているという事は無い。「頭蓋骨内部で脳がぶつかって非常に危険」という事が、ゆる体操程度の運動の実践でバイオメカニクス的に起こるとはっきり言って良いのかは不明。そもそも高岡氏は、色々なスポーツの運動を参考にしている、と最初に表明しているのだから、一々、元ネタ?みたいな指摘をするのは特に意味が無い
そのような流れがあり、「ゆる体操」が著書で発表されるようになった訳ですが、その体操は、元々「誰でも出来る」ように、つまり、高齢者なども安全に出来るように志向されてきた、というものです。だから、まあ体力的に大きな不安が無ければ、軽く試すくらいならいいだろう、とは言えます。もちろん、高齢であったり、強い腰痛などを持っていたりする人は、かかりつけの医師などに体操を見てもらって判断を仰ぐのが良いでしょう(普及する側もそれは奨励しているはず)。

○効果の実感

はてブは1000以上ついています。実際に読んだ人は、この数倍以上はいるものと思われます。そして、ゆる体操は見た目は簡単なので、試す人は、まあ粗く見積もって、多くて数千人はいると推定しても良いでしょう。
先にも書いたように、それまでほとんど運動をやってなかった人は、全身をゆする運動をして、実際に不調が改善される可能性があります。つまり、「運動そのもの」が効果を齎す可能性。その場合、「ゆる体操”だから”」効いた、という事実が無くても、「ゆる体操”が”効いた」と認識するかも知れません。 で、分母が数千にもなると、その実感を持つ人が数%いたとしても、その人がブログで書くなどすれば、また情報が伝播する可能性があります。分母が大きくなるのは、結構怖い事です。その中に、情報伝達という意味で影響力を持つ人などがいれば、波及の仕方は大規模になりかねません。

○効かない場合

ゆる体操が効かない場合のデメリットを考えます。

多分、増田に注目した内の多くの人は、「本当かいな」て思って見ているでしょう。まあ効かなくてもいいけどやってみるか、と考えてやる人もいるはずです。そういう人は、やってみても別に危険な訳では無いし、とも思っているでしょう。実際そうであろう事は、上でも書いた通りです。
で、増田は、肩凝りや腰痛などに効く、と紹介しているので、読み手で同様の自覚がある人が試すでしょう。それで「効かない」場合、まずあるのは、「時間を無駄にする」事。でもそれは、当然解っているはずです。ゆる体操は、一回十数分でいい、という低コストも売りですから、そのくらいなら別に捨ててもいいや、効果があれば儲け物、といった具合で。
こういう体操に目を向けるくらいだから、腰痛や肩凝りが超重度、の人はそれほど多くはいないかも知れません。重度の人は病院に行く公算が高いので。そういう人には、大きな弊害というのは無いものと思います。ただ、何をやっても駄目だった、病院にも行ったのに、という人で、もしかすれば良質な整形外科を受診すれば改善される場合などは、適切な処置を受けさせなくなる、という虞はあります。

体操そのものの害、という事で言うと、これまで説明したように、改善されてきて、より軽微な運動で整備されているので、おそらくは少ない、と考えて良いだろうと思います。ですから、効かないとしても、害も無いだろう、という事で、「風邪に砂糖玉を与える」のに似ている、とも言えるかも知れません。※ただし、風邪に砂糖玉を与える事は、「効かないのが解っている」のが異なる。体操は、生体に力学的・生理学的に働きかける、という部分が必ずある。

しかし、だからと言って、まあやってみればいいんじゃない? とすぐなるか、と問われると、そのままそうだ、とは返せません。何故ならば……

○効果の謳い方

増田では、肩凝りや腰痛、眼精疲労がクローズアップされています。ここで考えるべきは、療法の「謳う効果の範囲」です。
高岡氏は、ものすごく広く、ゆる体操の効果の範囲を謳っています。これは、書籍を参照すると解りますし、マキノ出版の雑誌などでもしばしば特集が組まれています。全体を総合すると、ほとんど「万能」を謳っているかのようです。例:マキノ出版|書籍・ムック 頭が必ずよくなる!「手ゆる」トレーニング

このような事情があるので、おいそれと、まあやってみていいんじゃない、とは言えないものがあります。言うとすれば、運動療法として、肩凝りや腰痛などに何らかの良い影響を与える事は既存の知識からはあり得そうだから、そのくらいの気持ちでやるならいいんじゃない? でも他人には勧めず、深みにも嵌らないように、とアドバイスするのが適当であると思います。特に、高岡氏の思想全体がかなり独特で、そこに嵌っていくのはとても危ういのです(深くは書きませんが、高岡氏は「身体意識」論という、現在では仮説の塊のような体系を理論的な支柱としており、ゆる体操(元々は「ゆる」という概念で、それは今は、基礎ゆる、と呼ばれているようです)も、その論と密接不可分なので、「単なる運動療法」として「切り離して」検討するのがとても重要)。

○ゆる体操の理論とエビデンス

ここからは、実際に、ゆる体操にどの程度のエビデンス――疫学や効果研究による「証拠」の事でしたね――があるのか、という事と、そもそも「ゆる」がどのようにして出てきたか、という部分の解説をします。マニアックな所なので、興味の無い方は読まなくて良いと思います。

高岡氏によれば、スポーツの動作を観察していて、ゴルフのワッグルや、水泳選手が競技前に手をプラプラ揺する事などを見て、身体を揺する事が重要だと気づき、それを「ダイナミックリラクゼーション」として位置づけたようです。そして、そのエッセンスを取り出し、身体を揺すってリラックスさせるメソッドとして体系化しました。「ゆる」という言葉は、「ゆする」→「ゆれる」→「ゆるむ」という現象のサイクルを考え、そこに含まれる「ゆ」「る」からとったらしいです。
高岡氏が重視しているのが、「ゆるむ」事。これは、筋肉などの組織が弛緩すべき時に弛緩する、という生理的な状態もですし、それ以前の、身体の状態を支配する「意識」にも働きかける、という論でもあります。だから、筋肉を弛緩させる、という事のみならず、「骨がゆるむ(ゆるませる)」みたいな事も言われます。ほゆる(骨のゆる)、ぞゆる(内蔵のゆる)、きゆる(筋肉のゆる)。
ゆる体操以前から、「声を出す」事が重視されていました。これは、発声するという運動自体(発声器官が運動するし、それによって、全身的に振動が伝達される)が良いという観点もあるし、「どういう言葉を発するか」というのも考えている。高岡氏は記号論を援用するので、言葉の持つ意味世界というのを重視しています。基礎ゆるだと、ほゆるをやる時に、「ほ~ゆ~る~」みたいに声を出したり。後、ダジャレを積極的に取り入れるのもありましたね。肋骨をゆるめる時に、「あーバラバラ」と言ったり、とか。心理的なリラックスを促す事も狙っているようです。実際、本質的に ゆる体操を、運動療法+心理療法 といった風に扱っているように思われます。
今、肋骨をゆるめる、て書きましたが、ゆる では、色々な器官をピンポイントにゆする、というのがあります。それ自体は非常に有用だろうと思います。それまでの日常生活では運動させる機会の無い筋肉などを意識(位置と知覚を結びつける)して、そこを積極的に運動させていく、というのは、生理学の観点からも着目出来るやり方だろうと思います。「意識する」というのは、古来武術でも言われてきた所ですし(意識という語は使わなくとも)、昨今の色々なメソッドでも強調されていますね。他の分野だと、楽器演奏や声楽などでもあると聞きます。
ただし、高岡氏はそこに留まりません。ゆする→ゆるむ というのは、随意的に運動させられる骨格筋の話なら、まあそれは面白いよね、となりますが、これが進んで、一つ一つの細胞までゆるめる、みたいな話になってきます。ここら辺、いかにもニューサイエンス風です。だから危うい訳です。既存の知識と証拠に基づいた堅実なアプローチをポンと飛び越えてしまう。

生理学的な見方で言うと、ゆるを行う事により、それぞれの器官が、適した機能を発揮するよう促す、のを期待しているようです。筋肉であれば、よく弛緩させ、使う時には適切に収縮させる、といったように。
どの器官を活動させているか、しているか、を常にモニタさせる、といった所でしょうか。バイオフィードバック的な面もあるのでしょう。その理論的な志向自体は面白い。

このような理論的な考えがあって、そこから、「ゆる体操」が出てきます。2000年くらいからでしょうか。より馴染みやすいように、とっつきやすいように、と工夫して、いかにも「体操」といったかたちに整備されてきた、という印象です。増田で紹介されている3点セットも、結構後に出てきたと思います。その頃から強調されてきているのが、「低コスト」で「高効果」というもの。コストは、経済的なものもですし(知識を得れば、金は全く要らない)、身体的な部分もです。つまり、「よし、やるぜ」みたいに気合を入れなくても簡単に出来る。家に帰ってきて部屋に寝転がってそのまま出来る、という簡便さがある訳です(増田氏が紹介している本で特に強調されている)。

さて、「効果」についてです。つまりエビデンス。

高岡氏の本を見ると、筑波大学の征矢英昭氏の協力を仰いだというのがよく出てきます。指標としては、各種心理学的指標。ただ、それらしい論文は出ていないようです。メディカルオンラインなどで数件見られるのみ。
また、行政とも協力して効果を検討しているのもあります。これは、運動科学総合研究所のサイトでも紹介されています。規模としてはある程度大きく、公衆衛生の専門家の協力もあるようです。
そして、RCTがあります。ゆる体操関連論文ー運動科学総合研究所・日本ゆる協会 もちろん、RCTが一件あるからといって、それで証拠が充分とは言えません。研究デザインが適切か、という観点もありますし、追試はどうなっているか、の見方もある。良い雑誌に掲載された学術論文は果たして充分か。
その意味で言うと、ゆる体操に関しては、色々な実践が行われ、学術的な研究も一部あるが、証拠の量としては充分とは言えず、効果があると自信を持って言う事は現在の所出来ない、とするのが今の所の適切な評価だと考えられます。また、これはあくまで、ゆる体操を運動療法として見たものであって、それは、高岡氏の他の思想であるとか、万能の効果を謳っている所などとは、切り離して考えるべきでしょう。

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以上、「十数年前から今に至るまで、毎日身体をゆすり続けている」私による、拙い考察でした。

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2011年9月19日 (月)

DQNネーム

と呼ばれる名前。

漢字表記で読みは英語的なものとか、そういうのですね。尤も、「そう言われているもの」を観察すると、もっと色々の意味が含まれているように思われますが。

で、そういう名前をつける事に批難があったりします。なんて名前つけるんだ、的な。
平均から大きく離れた事を危惧したり批判したり、というの自体は、まああるのだと思います。何事においても。
でもこういうのって、命名者及び、その「名前自体」を思い切り揶揄する意見も見られますね。そういう時に、当の子どもに奇異の目が向けられるのは避けたい所です。
「名前で馬鹿にする」ってよくある話なので。小学生とかだと、名前がカタカナ表記だったりするだけで小馬鹿にしたり。すごく醜いですからね、それって。身体的な特徴を揶揄するのと変わらない。
養育者が、なんだあの名前は、みたいに言っていると、それが情報伝達され、子どもになにがしかのネガティブな感情が形成される、というのは充分に考えられるでしょう。
そういう虞がある場合に、どのように「教える」のが最善でしょう。「変な」名前をつけられているけど、悪いのはつけた大人であって、つけられた子どもは責められるべきでは無い、みたいに「教育」しますか? その時、「その名前が命名される」事が問題である、というのは「前提」になっていますが、それで良いですか? つまり、「名前をつけられた事は可哀想」というのも「前提」にしていますが、それで良いですか?
別の批難として、この漢字でこの読み方なんて解らないよ、みたいな文句もありますね。一般的な読みからは想像も出来ない、というような(英訳して読ませるような)。その時、「いかにも読めやすい」読み方が標準である、という事が「前提」になっていますが、それで良いですか? その、許容される「幅」というのはどういうものでしょう。

この問題、そんなに簡単な話では無いと思っています。社会的な事や言語的な事、色々なものが絡んでいる。その時、「今ある”常識”」を基準にして論ずるのが、果たしてどの程度妥当なのでしょうね。

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2011年9月16日 (金)

エビデンス ベイスト メディスン

糖尿病関連の書籍から、「医師はどのように治療法を決めるのか」という部分を引用。現場の医師の考え方の一例として参考になると思います。

 では、医師はどのようにして個々の糖尿病患者の治療方法を決めるのでしょうか? 医師が治療方法を決定するときには、一般に次のような問題を考慮します。
(1)RCTではないが、多数の患者の治療結果をまとめた臨床データにもとづいた意見。
 これらはRCTの結果に比べると不確実ではあるものの、治療目標を立てる際の手がかりを与えてくれます。
(2)医師自身が治療を行った患者の経過観察から得た経験や印象。
つまり、どんな状態の患者が、どんな治療によって、どんな経過をたどったかについての個々の医師の経験です。
(3)医師が他の医師から得た経験や印象やデータ。
 これには、個人的な会話、学会での研究発表、症例報告(学術論文)などが含まれます。
(4)特定の患者の状態に比較的近い患者についての大規模RCTのデータ。
 一般的には、経験豊富な臨床医が前記の(1)~(3)にもとづいて推奨していた治療方針と、(4)のRCTの結果にもとづいた治療方針とは、かなり似ています。
 したがって一般的には、RCTの結果がなくても、十分な治療経験のある医師が注意深く治療を進めれば、おおむね妥当な治療を行うことができると考えられます。
。 ただし、どのような治療をすれば、あるエンド・ポイント(合併症など)の生じる危険性が何パーセント増減するのかという数量的な評価は、RCTの結果なしには得られません。
 糖尿病治療にたずさわる医師は、日々こうしたことに悩みながらひとりひとりの患者と向き合っています。糖尿病であるという診断を受けた場合、患者自身が糖尿病についての知識をいかに蓄積しても、医師の指導と管理、そして検査を受けずに、自分だけの知識や判断で糖尿病を厳密に管理することはとうてい不可能です。
 病気の治療には患者の自己流の判断や治療は禁物です。まして、根拠のはっきりしない民間療法に自分の生命を預けるような危険は、けっして冒してはいけません。
矢沢サイエンスオフィス[編]『糖尿病のすべてがわかる 改訂新版』 P153
※丸囲み数字は丸括弧に変更。ルビは省略した

実はこの部分、医師はどのようにして糖尿病の治療法を決めるのか、というテーマで書かれている所から一部引用したもので、そこではまず、RCT(ランダム化対照試験)の紹介をし、それが最も重要なものである、と説明されています。そして、糖尿病に関しては、必ずしもRCTが充分に行われていない事が指摘され(RCT自体が難しい。エンドポイントが多様、エンドポイントまでの期間が長い。既存の外国で得られた大規模RCTのデータをそのまま日本人に適用出来ない、事などを説明)、それを踏まえて、では現場の医師はどのように治療法を考えていくのか、という流れで引用部に繋がります。
これを見て解るのは、現場での治療にあたっては、より良質な「証拠」を参照していく、という事です。カタカナで書くと「エビデンス」。しっかりデザインされたRCT(沢山の人を集めて、比較対照するように「群」を複数に分ける。そして、その群の分け方は「偏らない」ように行われる)の結果や、複数のRCTの結果を総合的に検討して得られたデータを「エビデンスレベルが高い」などと言う、つまり良質な証拠と看做しますが、それが充分に無い場合も、なるだけ信頼のおけるデータなどを参照しながら、個別の患者に対処していく、と。まさにこれが、証拠に基づいた医療の実践的な在り方なのでしょう。

糖尿病のすべてがわかる本 Book 糖尿病のすべてがわかる本

販売元:学習研究社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今回引用した本。糖尿病のメカニズムや治療法などについて、実に詳しく書かれていて参考になります。医療がどれほど複雑に物事を考えていくか、細やかに対処を行うか。また、これまでの医学の発展によって、方法が改善されたり、以前は対処しにくいと思われていたものについてもより優れた方法が編み出されてきた事なども解ります。もちろん、有効だと思われた薬剤が重大な副作用を及ぼし使われなくなった(あるいは、その後また見直されてきた)、などの歴史も押さえておくべき記述でしょう。

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2011年9月15日 (木)

きれいな情報

かつて公衆衛生医のミュアー・グレイが語ったように、十九世紀にはきれいな水を提供することで私たちは大きな進歩を遂げた。二十一世紀にはきれいな情報を提供することが私たちを前進させる原動力となる。
ベン・ゴールドエイカー[著]梶山あゆみ[訳]『デタラメ健康科学』 P113より抜粋
※「一九世紀」→「十九世紀」 「二一世紀」→「二十一世紀」に表記を変更した

よくよく噛み締めておくべき言葉だろう。※本書ではこの後で、(コクラン共同計画の)システマティックレビューがそのための優れた方法であると評している

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2011年9月14日 (水)

SCEカンファレンス感想

プレゼンテーションとしては、率直に言ってひどいものだと思った。

ロンチタイトル二十数種というのは、出だしとしてはかなり充実していると思う。単純に数で言うと、相当多いですよね。内容的にも、アンチャーテッドや かまいたちの夜なんかは結構訴求するタイトルでしょうし。ちゃんと確認していないけど、これまでの機種のロンチタイトルには無いくらい充実してません?
というか、速く流れすぎて、結局何が出るのかさっぱり分からなかったという。そういう流れをプレゼンでやるか?て。もうすぐ特設サイトに一覧が出るだろうから、その時に確認。

ただ、今後の展望と言うか展開として、これは期待、と思わせる力には欠けていたように感じた。既存のタイトルのHD化なんかも、楽しみではあるけれども、おおっ、と感じるかと言うと、さほどでも、と。

個人的には、FFのHD版(リメイクなのかリマスターなのか分からなかった)に期待。イースのセルセタの樹海は超楽しみ(イース4は未プレイ)。GRAVITY DAZEも良さそうですね。

3Gの料金体系は、プリペイドの方は、直感的にはものすごく高い感じがした。もちろんサービス次第ではあるけれども、肝腎のそこが全然明らかで無いので、何とも。

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SCEカンファレンス

観中。

今の所の印象。
抽象的なコンセプトの話を続けるというのは、やはりインパクトには欠ける、と思いますですね。より関心を持っている詳しい人は興味深く聴けるでしょうが、そうで無い人にとっては、結局ゲームは何が出るの、的な。
構成としては、ソフトラインナップを一気に発表して、その後にそれぞれを具体的に説明していく、というのだと興味がより惹かれるんじゃないかな、とか。

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2011年9月13日 (火)

3DSカンファレンス

相当タイトルを充実させてきましたね。Vitaも控えているし、ソフトラインナップで訴求して一気に攻勢をかけたいという所でしょうか。

それにしても、MH4はサプライズでした。

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2011年9月12日 (月)

数学の本

小針晛宏氏(コハリ アキヒロ アキは日に見)の本が無性に読みたいのであります。

書評を見ると、実に独特な文で、とても楽しそうなのです。ビビっとくるのです。

最初に知ったのは、確かFSMさんによる『確率・統計入門』の紹介でだったと思います。その時にも、随分と面白い説明だなあ、と思ったものです。
で、まだ読めずにいたのですが、最近、ある本で、小針氏の本の一部が引用されているのを見、他の書評ページで言及されている所を読んで、改めて、やはりこれは興味深いな、と思ったのでした。

しかし、本が結構手に入りにくいようで。地元図書館にも一冊も無い模様。中古本屋でも廻って探すしか無いようです。あるいは、Amazonマーケットプレイスにもいくらか中古の在庫があるようなので、いずれ手に入れて読もうと思います。

確率・統計入門Book確率・統計入門

著者:小針 アキ宏
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2011年9月11日 (日)

科学の歴史と科学の力

 科学的方法は、今日世界中の至るところで実践されている。証拠に基づいて理論を構築し、理論に合致しない新たな証拠が見つかったら、理論を修正しなければならないのだ。このようにして、科学は発展していく。科学者の動機がどれほど怪しくても、経済的、政治的、人的な圧力がどれほど科学者に加えられても、結論がどれほど不快なものであっても、証拠の後を付いていくことで科学は進歩するのである。

科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱Book科学は歴史をどう変えてきたか: その力・証拠・情熱

著者:マイケル モーズリー,ジョン リンチ
販売元:東京書籍
Amazon.co.jpで詳細を確認する

扱っている内容は、科学史と技術史を併せたもの、といった感じでしょうか。分野は、物理学、化学、天文学、生物学、地質学、神経科学、等々です。
Amazonの紹介にもあるように、BBCの放送と連携して作られた本だそうで、図がことごとくカラーであるのがとても良いですね。類書でこれほど豊富な図が入っているのは、読んだ事が無いです。

書き方は、いかにも教科書、という感じでは無く、読み物として親しみやすくなっていると思います。ただ、広範なトピックを扱っているためか、説明が簡略されすぎて、科学史の本に親しんでいない人にはちょっと端折り過ぎかな、と感じられるきらいがあるようにも思います。また、訳文が熟れていないのか(余談ですが、訳者の経歴が実に独特。なにやら出版翻訳オーディションというのを経ているようですが、私はそこら辺の事情は全然知らない)元の文がそうなのか、あるいは私の読み方が良くないのか判りませんが、文章として読みにくく感じました(個人的にはかなり)。あれ、この文は誰について語っているのだっけ?みたいに思った所が結構あります。
神経科学の部分の記述など、あれ、そうなんだっけか、と思うような部分もありましたが、これは自分の知識不足なのか、実際に記述が微妙だったのか、よく判りません。

科学史の本はこれまでいくつか読んできましたが、そこでは触れられていない人物の紹介もあり、また、知っている人でもより詳細にエピソードが書かれていたりして、それは収穫でした。
教科書系のテキストよりは読みやすいですし、科学や技術の歴史を大まかに押さえるには、なかなか良い本なのではないかと思います。

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2011年9月 7日 (水)

ノート:心理学研究法(12)

もはや誰も憶えていないであろうコンテンツ、ノート:心理学研究法(11)の続きです。

第10章 実験の考え方

まず冒頭部分に「心理実験」の説明。

心理実験とは,人間の精神的行動を研究するにあたって,研究者が何らかの意図的な状況を設定して組織的なデータをとることである。P125

1.なぜ実験するのか

○幾何学的錯視を例に

例に挙げられているのは、ミュラー・リヤーの錯視。お馴染みの、矢羽のあれですね。それを用いて、「錯視量」を測る。で、変化させていくのは、矢羽の「角度」や「長さ」。つまり、それらの条件を変化させていって、被験者が感ずる錯視の大きさを測定して、どの条件が錯視に効いているのか、を確かめていくという寸法。

ここで問題なのが、「錯視量」をどうやって測るかという所。「見え方」自体を直接測るのは困難ですからね。だから、そこで重要となるのが、心理物理学(psychophsics)という分野の手法。具体的には、矢羽無しの線を提示し、その長さを変化させて、矢羽つきの線と長さを比較させ、同じと「見える」長さの平均をとって、それを指標とするなど。そうすると、主観的な見え方を、物理的な長さのデータとして取り出す事が出来る訳ですね。

○独立変数と従属変数

「行動は刺激の関数」という文があります。関数は数学の考えですが、噛み砕いて表現するとどうなるでしょう。イぽうが変化するに応じてもう一方も変化する、という関係とでも言えるでしょうか。もちろん数学の厳密な定義は別です(そもそも私には説明出来ない)。行動は刺激の関数、という事は、刺激を変化させればそれに応じて行動も変わる、て意味ですね。刺激とはこの場合、矢羽の長さとか角度とかですね。「行動」は、ここでは線の長さの見え方。で、変化させる条件、つまり刺激を独立変数、行動の方は従属変数、と呼びます。説明変数と被説明変数とか、他にもいくつか表現がありますね。y は x を変数とする関数である、みたいなのが数学にはありますね。x が独立変数で y が従属変数、のように。

クルト・レヴィン曰く、「B = f (E, P)」という図式を提案したそうです。Bは行動(behavior)、Eは環境(environment)でPは個人(person)。つまり、行動は環境と個人を変数とする関数である、という感じですね。
結局、心理実験では、与える刺激、という条件、これが独立変数ですね。それを「操作」して、従属変数としての行動にどう影響を与えるか見ていく、と。それは自然科学などと共通している所だろうと思います。

○変数の影響から内的メカニズムを推測する

 認知心理学では,実験データから内的な情報処理メカニズムを推測しようとする。そのときに,しばしば使われる論理は,ある変数の影響が一様でないならば,そこには異なる内的メカニズムが存在するということである。変数の影響とは,実験的な操作が及ぼす影響と言い換えてもよい。P127

認知心理学の方法は、ヒトの心を一種の情報処理過程と看做すというやり方ですね。で、内部のメカニズムを想定して、それが合っているならこういう実験を行えばこういう結果が出るであろう、と推測して、実際に確かめていくと。それが心理実験な訳ですね。もちろん、実験結果からメカニズムを推論する事もあるだろうし、生物学的な所から、いわゆるハード的な基盤を考えていくというアプローチもあるだろうと思います。

ここでは、記憶の実験が例に出ています。初頭効果親近効果という現象。これは、単語のリストを見せて、それを再生(後からその言葉を言わせる)させると、リストの初めの方と終わりの方の単語の方が、再生率が高くなるという事です。
で、初頭効果は、リストの提示速度を「遅く」すると顕著になり、速くすると目立たなくなり、親近効果は速度の影響を受けにくいらしい。
それで、初頭効果の説明としては、最初に提示された刺激は相対的に多く繰り返され(リハーサル)、長期記憶に貯蔵されやすい、というもの。なので、リストの提示が速くなると、リハーサルにかけられる時間が短くなり、再生もしにくいと。親近効果の方は、憶えたばかりだから短期記憶に残っているという事ですね。だから、再生させる前に暗算などの課題を与えたら、親近効果は消失するそうです。暗算に短期記憶を使っちゃう訳ですね。

こういう風に、刺激の与え方と、それに対する反応(あるいは行動)の仕方を見、記憶のモデルなどのメカニズムを考えながら研究を進めていくのですね。

2.干渉変数の統制と被験者の割り当て

○干渉変数とその統制

まずこういう文があります。

 他の科学における実験と同様に,心理学の実験でもその目的を一言でいえば,「こうしてみたらどうなるかを試す」ということになる。P129

シンプルですが、まさにこういう事ですね。もちろん、その方法は色々洗練されていて、そこに科学独特のアプローチの仕方があります。

例では、教育方法の効果、が挙げられています。3つの教育方法A、B、Cによる教育効果の違い。ここでは、教育方法が「独立変数」で、教育効果が「従属変数」。教育方法を変化させる事で、結果的に現われる効果がどう違ってくるか、を知りたい訳です。変数の型は、連続量の事もあるしカテゴリーの場合もある。……尺度水準の話ってもう出てきましたっけか。えっと、要するに、この変数というやつ、色々種類があります。血液型みたいなのは、「分類」しか出来ないですね。四種類。こういうのを「名義尺度」と言います。かけっこの順番だと、順位がつけられます。でも、1と2と3と……の間の大きさが等しいとは限らないですね。これは「順序尺度」。間の大きさに意味があって、差を論じられるのは、「間隔尺度」と言います。摂氏温度などですね。「比例尺度」は、「ゼロ」が考えられるもの。体重や身長などです。原点が考えられるから、「比」を論じられる。何倍である、という事が言えます。

ヒトの行動を従属変数とする、と言いましたが、もちろん、それに関係する独立変数は、様々なものがあります。だから、ある独立変数(今だと教育方法ですね)の影響を知りたいなら、「その変数だけ」が変わるようにして、他の変数が一緒に変わらないようにする必要があります。一緒に色々変わったら、結果的に行動に変化があったとしても、どの変数の影響なのか解らない、となっちゃいますから。そういう時、着目している変数以外の独立変数を、干渉変数と言います。他にも色々な言い方ありますね。第三の変数とか剰余変数とか(厳密には意味が違う、と考える事も出来るでしょうけれど)。
で、それら干渉変数の影響を等しくする事、つまり揃える事ですね。それを統制する(control)と言います。
余談ですが。私はこれらの知識に最初に触れたので、対照をとる事を「コントロール」をとる、と表現する事にちょっと違和感を持っていたり。語感の問題ですけれどね。コントロールとは、色々な条件を操作する事、という風にとる訳です。対照はコントラストと言えばいいのに、なんて思ったり。しかも、心理学で「統制群」みたいな用語もあったりします。
ここで引用。

実験とは,干渉変数をできるだけ統制し,着目したい独立変数の値を変化させた状況を人為的に作り出して,従属変数の変化を測定するという手続きにほかならない。調査においては,自然な状況で独立変数と従属変数をそれぞれ測定し,相互の関連を見ようとするのと対照的である。
P129

重要なのは、人為的にある状況をきっちりと設定し、変数を統制する、という所。こうする事で、実験は因果関係を見出しやすい方法と言える訳ですね。これは見方をかえると、もしここら辺の設定がきちんとされていないなら全く結果が信用出来なくなる虞がある、というのを意味します。
それから、心理学では、こういった人工的な状況で得られた結論が、実際の人間の活動の場にも当てはまるのか、という見方もなされます。つまり、「生態学的妥当性」と言われるものですね。噛み砕いて言うと、それって私達が生活してる状況を説明するのに役立つの? といった問題意識ですね。この事については、説明の範囲を注意深く弁えていれば、実験研究によって得られた知見はとても役に立つだろう、と思っています。あるいは、基礎的な心理的原書については、条件を厳密に統制したからこそものが解る、という事もあるでしょう。

○被験者の割り当て

干渉変数を統制する、と言っても、あらゆる条件を掘り出して全部コントロールしていく、ていうのはもちろん不可能です。だから、特別に影響を与えそうな変数に着目してそれを揃えるとか(男女の性別を考える、とか)、各群に(今の場合だと、どの教育方法を行わせるか、という事になるでしょうか)「無作為」に割り当てる、という方法などがあります。ここで無作為というのは、適当て意味では無く、確率的な手続きに基づいて、という事。そうすると、着目する独立変数以外を全部ひっくるめてばらけさせる事が出来る訳です。もちろん、結果的に偏ってしまう場合もありますが、偏り方は数学的(統計学的)に評価出来る、というのがポイントです。たとえば、薬剤の効果を見るのに、確かめたい薬とプラセボ群を比較する、というのが重要な方法として紹介される事がよくありますが、そこで本質的に重要なのは、実は無作為化です。RCTのR。

3.実験における指標のとり方の工夫

○反応時間―知識構造と文の真偽課題

心理学で測る指標、色々あります。「心」を直接は測れないから、外側に出てくる「行動」を測る、というのが心理学の手法です。測るのは、さっき例に出てきた、見えた長さをガイドを用いて測るものや、再生出来た単語の割合など。で、よく用いられるものとして他に、反応時間(reaction time)があります。

本章で紹介されているのは、コリンズとキリアンの実験。「意味ネットワークモデル」というものを検証した実験です。
彼らは、人間の知識の構造が、「階層的」なネットワーク構造をなしていると考え、それを実験によって検討しました。これだけじゃ解りにくいので、意味ネットワーク、辺りで検索してみて下さい。

そこで実験されたのは、1)カナリヤは黄色い 2)カナリヤは飛ぶ 3)カナリヤは食べる  などの文の真偽を判定させその反応時間を測定する、というもの。前の方ほどカナリヤ固有の特徴で、後に行くほど「カテゴリーを上にたどって判断」しなければならないので、後の方ほど反応時間が長くなる、と予想した訳ですね。意味ネットワークモデルが適切ならば、後の方ほど判断に時間がかかるであろう、と。そして実際、その通りの結果になり、モデルは支持された、という事です。※ここら辺、本当は哲学上の難しい問題が絡んできますが、そこは措いておきましょう
このように、反応時間という指標が、一つの理論的なモデルを検討するために用いられる、という訳ですね。

○自発的な課題の遂行時間――内発的動機づけの強さ

ここは略。デシによる研究の紹介。

○操作的定義とさまざまな測度

内発的動機づけみたいに、「直接観察出来ない」ものを測りたい場合、外に出てくる反応を測る訳ですね。内発的動機づけだと、それを、「自由時間内でパズルにとりくむ時間」という風にして、その時間を測って内発的動機づけの程度とする。そういう風に、心理的なものを測定可能な指標で表現する事を、「操作的定義」と呼びます。そして、指標を測度(measure)と言います。

これ、ちょっと考えるとものすごく難しい事ですよね。ある心理的な事を測りたいとして、何らかの測度(尺度)を考える。で、その測度が適切なのか、という所が議論を呼ぶ所。元々測れないものを測ろうとしている訳ですからね。だから、すでに良いものと確認された他の指標と比較して、よく出来ているかを慎重に検討したり、という事が重要となります。つまり、心を測る「ものさし」を作って使う、という感じですね。ある心の状態を調べたいとする、その状態は、この「ものさし」で測った結果だ、と定義(操作的定義)する。そして、その「ものさし」を、測度や尺度と呼ぶ、と。


参考文献


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2011年9月 6日 (火)

止めます

twitterアカウントを消しました。

やはりこのメディア、議論的な事を行うにはちょっと難しいものがありますね。
時間的なタイミングや文字数から、短文がものすごく複雑に絡んでTLが形成され、それを他人も共有しているものだと思い込んだり。その結果、他のメディアであれば起こらなかったであろう諍いや争いがどんどん起こる。

それがニセ科学関連の議論でも起こってきて、もう疲れたし、少なくとも自分には建設的な議論を深めていく事は無理だと認識しました。色々な人が仄めかしまくって直接ものを言わず、どうせ見ているであろう、気づいているだろう? みたいな雰囲気だったりね。どう考えても気持ちの悪い在り方でしょう。異様です。さすがに耐え切れません。耐え切れないので消して見ないという単純な話です。
ひたすらに趣味的な事をつぶやくものとして使っていれば、もっと楽しめたのかも知れませんね。

ブログは、もうニセ科学の話は書かない事にします。他の人の所にも書き込みに行きません。
ゲーム脳についてはそこそこ満足行くものを書いてきたと思うし、集大成も作りました。それなりに、と言うか、ある程度の事を出来た、と自負しています。それは記録として残しておきます。自由に使って下さい。
はてブもニセ科学の話には使わないようにします。消すかどうかは決めていませんが。
そろそろ頃合いでしょう。後は任せます。

じゃあ。

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2011年9月 4日 (日)

哲学

非科学的な非科学狩り

「狩り」とはなかなか強い表現です。

その効果が科学的に証明されていないとして、さまざまな「療法」を否定する動きが広がっている。

この「否定」というのは、効かないので止めましょうね、とか、効く証拠は無いので安易に勧めないようにしましょうね、みたいなアドバイスも含む訳ですね。

というのも私自身、そうしたいわば「非科学的」療法に救われた経験があるからだ。

ここで”「非科学的」療法”というのは、多分代替医療の事を指していると思います。そして、個人的な経験を語っていると。

しかし近代医学は、もうこれ以上治療の方法がないという。後遺症は治らない宣言だ。

医師の診断の正確さ、というのは取り敢えず措いておきます(色々なものについて、見落としもあれば、あまり知られていないものである可能性もあるので)。「もうこれ以上治療の方法がない」というのは、医学の限界を正直に表明している、という事なのでは? 「治療の方法がない」というのは、「医学の知見として未だ有効な方法が知られていない」の意味で、「その症状に対する治療はこの世に存在し得ない」という主張では無いですよね。

どれが利いたか分からない。あるいは全部効かなかったのかもしれない。しかし一部のものについては効果を主観的に実感し、最終的に完治したのは事実である。

一部のものついては―のくだりは、比較的時間的に接近して、「与えた―改善した」という関係が見られた場合、「効いた」と認識する、という事ですね。当然、書かれているように、「全部効かなかったのかもしれない」です。

患者にとって、科学的に効果が証明されているかどうかは最終的な関心事ではない。

これは全くその通り。今苦しんでいる情況から脱せられるなら、何であっても、エビデンスがあろうが無かろうが、とにかく効きさえしてくれればいい、と思うのは理解出来ます。私でもそうです。痛みで苦しんでいる時に、薬を飲んだ「瞬間」に効いた気がする、みたいな事もしょっちゅうです。そのくらいに人間の心理というものは動きやすいし、期待などもしてしまう。
自分で色々方法を開発する人もいるでしょう。そうして試行錯誤していく。ただし、自分でも、自分でやった事が効いたかどうかは、確実には解りません(自然変動、あるいは他の要因の同時の変更、などがある。だからこそ条件をコントロールした実験が重要となる)。
「効果が証明されるかどうかは、自分の身体で実験すれば十分なのである。」というのは、「証明」の語義がエントリー内で統一されていないようで、意味が掴めないですね(すぐ下で、科学における証明の話をしている)。

考えてみるに、効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。
※強調は引用者による。以下引用文も同様

有意な効果、という部分、ちゃんと意味を理解した上で使っているのでしょうか。有意とは統計学的な概念、つまり「帰無仮説が棄却された」事を表現するものであって、それはある対象の効果を判断する一つの指標でしかありません(しかし重要な指標である)。実際には、何を確かめるか、とか、どのように実験をデザインするか、などが周到に考えられ、有意かどうかだけでは無く、「効果の大きさ」などが考慮され、総合的に検討されます。

その薬物が目の前にいる、ある状況にあるこの個人(私)に効くかどうかについては、検証していないのである。統計的に有意でなくても、この今の私には効くかもしれない。その可能性を否定する実験は為されていない。

この論法だと、「何かが効くと主張する」事が絶対に不可能になりますね。かと言って、「これが自分に効いた」というのが確実に主張出来るのでもありません(既に理由は書いた)。市販の薬や処方される薬については、一体どのように考えているのでしょうね。

とすれば、科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することはできないことになる。

出来ます。ご自分で「科学的な証明」とやらを紹介しているではありませんか。集団について実験や観察を行って有効である事が確認されていないものを使ったり行ったりするのだから、それは「科学的で無い」つまり「非科学的」な行為です。「科学」の語義がぶれていませんか?

これはまた、科学的にみて安全、という言い方もまた非科学的となりうる局面を示唆している。それは統計的にみて有意な差が得られないという意味であって、その物質が目の前にいるこの人に対して安全かどうかを検証したものではない。たとえその人が何かの特異体質を持っていてイチコロで死んだとしても、膨大な母数がその「例外」を吸収してしまうなら、そこに有意な差は現れない。ごく低線量の被曝で急性白血病になったと訴えても、それは科学的にあり得ないと却下されてしまう。だがそうした却下はとても非科学的なことなのだ。

「有意な差が得られない」の意味は分かっていますか? 統計的検定の話であれば、「帰無仮説を棄却するに足る証拠が得られなかった(保留:maintain)」という意味です。別に一回そういう結果が出たからどうだ、という話でも無いですし。安全かどうか、というのは、疫学の知見や理論的根拠によって判断される事でしょう。その薬などに期待していない作用の現れ方やその確率については、副作用として評価されているでしょう。「特異体質」が原因となって有害作用が及ぶという事はあるし、そういうのは層別して検討していずれ詳細が判明するでしょう。単にそういう所の指摘なのであれば話は理解出来ますが、どうもそういう話をしているようには思えません。
「ごく低線量の被曝で急性白血病になったと訴えても」という話がある事から、最近のニュース(NATROMさんによって詳しく検討された)を念頭に置いているのだと考えられますが、「科学的に」あり得ない事を科学的にあり得ないと却下するのは、それは科学的な判断です。「科学的にあり得ない」という主張や表現は、「その現象は起こり得ない」というのと等価ではありませんからね。
「母数」をどういう意味で使っているでしょうか。「分母」を指しているとすれば誤りです。

前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。

ほとんど意味が解りません。「科学」の意味がぶれすぎです。

そもそも、個人に試してみていない、という理由で効くとも効かないとも言えないのだとすれば、

こうすれば放射能を防げますとか、こうすれば病気を予防できます、直せます、などという話をする人たち
※原文ママ

こういう話は絶対に許容出来ないはずですよね。他人には何も勧められなくなる。だって、「放射能を防(原文ママ)」ぐどころか、安全とされるものでも、「特異体質を持っていてイチコロで」死ぬかも知れないんですよね?
※実際、一部のものについては科学の側から、健康被害が出る可能性が指摘されている訳ですが。まさかそれについては、「効くかも知れないではないか。害があるなどと断ずるのは非科学的である」と返すのでしょうか

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この問題、本質的に、「他人に勧める」所が最も重要な部分です。個人で開発して試す分には構いませんが、苦労して作って効くと認識したら勧めたくなるもの。他人の役に立ちたい、という善意もあります。だからこそ「広まる」のでしょう? これ良いよ、良いらしいよ、と言って情報を伝達して、それが広まる。そしてその中には、「単に効かない」ものから、「害を及ぼす」もの、も入り得るのです(もちろん、「これまで注目されてこなかった”効くもの”」も含み得るが)。今まで知られてこなかったものについては、これまでの知見を総動員して検討するしかありません。そして、これは効かないだろう、とか、これは効きそうに無い、あるいは、これは有害であろう、などの評価がなされると。
もしかしたら、「自分が使った結果を書いているだけだ」と言う人もいるかも知れませんが、それをWEB上に発信したりする事を考えると、果たしてその言い分が通用するでしょうか。

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