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2011年8月18日 (木)

「効く/効かない」再び

先日作った電子書籍より、「効くこと」や「効かないこと」について書いた部分を再録します。この事は、何百回でも繰り返し説明するべき所ですし、色々な説明のしかたを工夫して何とか理解してもらうべきものでもあります。
この話題、それほど「簡単」な話ではありません。多少込み入っています。けれど、ある程度丁寧に考えていけば、理解出来ないものでは決してありません。既にこの辺の事情を認識している皆さんには、なるだけ噛み砕いて正確に説明する試みを積極的に行う事を期待したい所です。「解っている」人にとってはもはや自明とも思える事でも、それを「知らない」人に簡潔に整理して論じれば済む、というものでは必ずしも無いのですから。

「科学的」に考えるために - TAKESAN | ブクログのパブーより抜粋

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○効くことと効かないこと
「原発事故が起きてから毎日のように、《ベクレル》とか《シーベルト》が、テレビ番組とか雑誌とかで踊るようになったね。」
「悪い意味で歴史に残る大事故ですからね。しかも放射性物質は直接目に見えないですから、怖く感じる人がたくさんいるだろうし、それを率先して取り上げるのはやっぱそうなるだろうなと思います。それにしても、そういう流れで、放射線の害にこれが効くとか、これなら予防出来るとか、そういうのがいろいろ出てきてうんざりしてます。ああいうの、やり過ぎなんじゃないかなって。」
「ちょうどその話をしようとしてたところ。なんかいろいろ怪しげなのがあるね。不安につけこんだ商売をやってる、あくどいのもいるだろうけど、善意で、良かれと思ってやってる人もたくさんいるだろうから、すごく厄介な所で。」
「そうですね。その動機とか行動力とかは大したものだと思います。でもやっぱ、結果的に害になるかも知れないものを勧めてたりする訳だから……。」
「そうだね。そういう部分は、きちんと批判しておく必要があると思う。批判と言っても、頭ごなしに否定したり罵ったりすることではもちろんなくて、理詰めと感情的な理解を両方合わせてやっていくのがいい、というか、そうすべき。まあ、言うのは簡単だけどね。強い動機付けがある人に理解してもらうというのはとても難しいから。」
「そうですね……。」
「で、これから、《効く》ことと《効かない》ことの話をしようとしてたんだけど、きみは、このことについて説明出来る?」
「え。えっと……うーん、さっき、関連と因果関係とか、前後関係とかの話がありましたよね。そういうことと絡んでんのかなあ、て気がします。」
「そうだね。そこら辺も関係してる。あれは因果関係に注目した話だったよね。関連や相関があっても因果関係があるとは限らないという話。今からやるのは、ちょっと違う説明。」

「というと?」
「さっき言った、放射線被害に効くとか言ってるものって、批判もすごくあるよね。」
「ありますね。宣伝する人と反対する人で、罵り合いみたいなことしてるのも結構見ます。」
「うん。私もそれをよく見かけるんだけど、もちろんそういう所でやってるのは、一方が《効く》と言ってて、もう一方が《効かない》て返してるような議論。まあ、あれを議論と言っていいのかは分からないけどそれは置いといて、もちろん宣伝するほうも、意識してデタラメ言ってるのはともかくとして、自分で使ったらなんか体調が良くなった、という感じを、自分なりの根拠としてる訳だよね。体調不良とかを放射線の被害だと思ってること自体が間違いだろう、て話でもあるけど、それも置いとく。でまあ、個人的な経験があったり、場合によっては論文がどうこうとか言うのもあって。
 それをとがめるほうは、もちろん《効かない》て言う。そんなの効きゃあしないよ、て。そしたらやっぱり、言われる側はたまらないから、《効かない証拠はあるのか》なんて返したりする。中には、《効かないと言うなら自分で証明しろ》なんて人もいる。
「ああ、ありますね。でも、《効かない》て言ってるんだから、その証拠を出せ、ていうのは合ってるというか、ごもっともな気も。」
「実はそこがものすごく難しい所で。私が見てると、《効く》《効かない》という言葉の使い方が全然噛み合ってなくて、そのせいでやり取りもめちゃくちゃになってるのが結構あると思うんだよね。お互いに言葉の意味をつかんでいないと、建設的な議論になんかなるはずないんだから、そこをちゃんと考えといた方がいいんじゃないかなと。」
「さっきも答えられませんでしたけど、《効く》《効かない》って、改めて意味を聞かれると困りますね。日常では普通に使ってる言葉なのに。」
「そうなんだよね。だから今から、ちょっと詳しくここの所を説明してみようと思う。それと、検証の話ね。効かないと思うのならそっちがやれ、みたいな意見。そういうのがもっともなのかどうか、とかね。」
「これは効果があるとか宣伝するものは後を断ちませんしね。きちんと考えておくのは重要かも知れません。」
「うん。しかも、効くって主張してるのって、《実験》したとか、どこぞの教授のお墨付きを謳ってたりしてて、《科学っぽい》のもたくさんあるからね。効く効かないの話は医学の分野にも直結してるから、当然科学の話と密接に絡んでる。だから、効く効かないのことを考えておくのは、科学っぽいけど実は科学ではないものに騙されないようにするためにも大切だと思う。」

○効くとはどういうことか
「前に説明したけども、薬とかが効くかどうか調べるのは……今は、《効く》というのは、とりあえずなんとなくの理解でいいので……調べるのは、かなり難しい。」

「比較するというのが基本でしたよね。」
「うん。なるべくたくさんの人を集めて、それを複数の集団に分けてから比較する。で、薬そのものの影響と一緒に、人間の思い込みみたいなものが絡んでくるから、そういうのをちゃんと切り分けて確かめられるように、二重盲検法などのやり方で調べるんだったね。
 実験が出来れば、いろんな条件を揃えることが出来て、時間的な前後関係もきちんと調べられるから、因果関係を確かめるのには実験が一番いいけど、それが出来なくても、観察的なやり方とかも組み合わせて確かめることが出来るんだったよね。
 さっき言った、関連はそのまま因果関係とは言えないってことを考慮するから、複数の集団を用意して、なるべく調べたい条件、今は薬を与えるとかそういうのだけど、それ以外をちゃんと揃えて、与える人達と与えない人達の前後の変化の程度を比較する、ていうやり方が発展してきたという訳だね。二重盲検法は、薬自体の影響を切り出すためのやり方だし、偏りを減らすために、それぞれの集団に属する人達の性質をなるべく均質にするように、それぞれの集団に選ばれるかどうかをくじ引きで決める、てやり方もある。いや、実は統計的にはこちらが遥かに重要なんだけどね。さっき言った無作為抽出と同じような考えで、臨床試験ではこういうのを《無作為化》とか《無作為割り付け》とか《無作為割り当て》と言ったりする。」
「なるほど。医学でもちゃんと、そういう部分が考えられてるんですね。しかし、二重盲検法とか上手く出来てますね。よく考えつくものだなあ。」
「科学とは何か、て所でも言ったけど、昔は、瀉血なんかが医療行為とされてたりしたんだよね。経験的に効いてる感じがする、という理由で広く使われてきた。で、そういうやり方に疑いを持ってきた人が方法を工夫して調べるようになったんだね。比較試験のやり方も、壊血病の原因と対処法を調べる時に使われて成果を上げたり。」
「そういう風にして、えっと、変な言い方ですけど、医学は科学的になってきた、という感じですか。」
「観察に頼りっきりだったり個人の経験ばかり言ったり、という所から脱却したって意味では、そういう面もあるかも。特に人体の仕組みは複雑だし、医療行為には心理的な部分が絡んでくるからね。きちんと因果関係を確かめたいという動機づけが出てきて、優秀な人達が医学を発展させてきたのは、流れとしては当然ではあるね。日本だと、高木兼寛の脚気研究は有名。疫学の方法の有効さを教えてくれる例の一つだと思う。まあ、ここら辺の話はとても興味深いので、関連する本を読むといいかも。」
「それで、たくさんの人を集めて比較する。で、集団のあいだに、平均的に大きな差が出てきたら、それは《効果がある》と考える訳だね。個人の経験だけじゃ参考にならないのは前に言った通りだし、個人差がどのくらいあるのかをちゃんと確かめておかないといけないから、多数を比較して、それぞれの集団で平均的な所はどのくらいか、ていうのを調べて……って、今《平均》って言ってるけど、これは、全部の和を出して個数で割るという意味の平均だけじゃなくて、集団を代表する数値とでも考えておいて。場合によっては改善した人の割合になるかも知れないし、なんかの検査結果の平均値かも知れない。それは調べる目的によるから。」

「単純に言っちゃうと、グラフをかいてみて、与えていない人達と与えた人達とのあいだに大きな差がある時、《効いた》という風に判断するんですね。」
「そう。もちろん注意しなくちゃいけないのは、ただ集めて調べてグラフかいただけじゃダメってことで、それは関連と因果の所で言ったとおり。必ずこういうものの奥には、統計とか臨床試験とか、疫学とか、そういう方法がきちんと使われている、という風に考えて。逆に言うと、そういうやり方してないものは、信用出来るものじゃない、てことになるね。」
「そういえば、ふと思いついたんですが、薬とかって、効くだけじゃなくて、《害がある》こともありますよね。」
「そうだね。方向性としては、効くことと逆方向になるかな。大まかな考え方としては同じだと考えてて良いと思う。」

○効かないことを確かめられるか
「次に、《効かない》ことの話。まず言えるのは、あるものが、全く絶対に《効かない》のは、証明することが出来ないってこと。」
「え、そうなんですか?」
「うん。全く絶対に、という意味ならね。科学は《ない》ことの証明は普通出来ないから、薬なりの効果がそういう意味合いで《効かない》て言ってるんだとしたら、それは証明は出来ない。ほら、調べるといっても、限られた人しか調べられないよね。アンケートの所でも言ったけど、薬の効果を調べるのも標本調査だから、全体は調べられない。しかも、考え方によっては母集団は、今病気にかかってる人だけじゃなくて、これからかかる人、というものまで想定するから、母集団の大きさは無限であると見ることも出来る。そう考えたらやっぱり、母集団を全部調べ尽くすことは不可能だから、《全く効かない》と言うことは出来ない。」
「仮に全員調べられたとしても、その時のいろんな条件があるから、薬自体の影響だけ完全に調べるのは難しそうですね。」
「そうだね。だからそもそも、こういう話題の時の《効く》とか《効かない》とかは、初めから、統計的な、幅をとって見ていくやり方が重要。」
「《ない》ことは証明出来ないという所をもうちょっと詳しく知りたいです。」
「これはよく使われる説明だけど、カラスの話があるね。《白いカラスはいない》という主張があると考えてみて。どう思う?」
「えっと……カラスは黒いですよね。だから、白いカラスはいない……ってことにはならないですね。カラスって言ってもものすごい数いるだろうし、それを全部調べるのは、難しいんじゃないかなあ。いや、ていうか、カラスってどんどん生まれてるんだから、そもそも不可能なのかな……。」

「そういうことだね。調べるものが、簡単に確かめられる少ないものだったら、何々がない、みたいなことを言うことは出来るよね。たとえば、このテーブルに置いてある6つの碁石の中に黒石はない、みたいなことだったら、すぐに調べられる。」
「そうですね。でもカラスとかだと出来ないですね。数が多すぎるというか、無限?なんですし。」
「科学は、世界の仕組みがどうなってるかを確かめるものだから、よりたくさんのことを説明出来たり、他のことを予測出来たり、という方向に進んでいるよね。だから、そこで問うのは、多すぎて全体を数えられないような大規模のものだったり、そもそも全体が無限で数えることそのものが不可能だったりするものを相手にする。白いカラスの話も、カラス全体は数えられないから、《いない》とか《ない》というのは断言出来ないってことになる。」
「それは《効かない》ということでも同じって訳ですね。何かの病気にかかった人に効く、というのだと、その病気にかかった人全体を考えてみると、将来かかる人も入ってくるんだから、調べようがないですね。」
「極端に言うと、まだ生まれていない人も入るのだからね。いやまあ、ここら辺はかなり難しい哲学の話も入ってくるだろうから、あんまり適当なことは言えないけど、実際に、知りたいもの全体のことを調べるのは不可能なことがよくあるのは間違いない。なのでそういう意味では、完全に誰にも《効かない》とは言えない。これは、科学や医学の限界。」
「だから、偏りなく標本を取ってきて調べる標本調査をして、そこから統計的に母集団について考えていくのが大切なんですね。」
「うん。統計的推測だったね。疫学なんかもやっぱり、統計学と強く関係してる。で、そういうことを踏まえた上で、《効かない》と言えるかどうか考える。」

○意味のない差
「たくさんの人を調べれば、いくら理論的に全然効かなそうでも、《差》は出てくるかも知れない。メカニズムは分からなくても因果関係は確かめられるという説明を前にしたけど、これは科学の原則と考えておいていいと思う。ただもちろん、理論的な考察みたいなものはすごく重要で、これはまた後で話す予定。」
「仕組みとしてはありそうになくても、臨床試験とかの方法で調べることは出来るってことですね。それで、《差》が出るかも、というのは?」
「大勢の人を確かめてみた結果、確かに違いは認められるかも知れないってこと。ただ、差の《大きさ》を考えるのが重要。医学では、色々な検査の結果とかを、病気が治ったり改善したりといったことの《尺度》と考えると思うんだけど、それは数値として出るものだよね。要するに《定量的》な評価。そうすると、全体的な傾向としての数値が分かる。それで、お互いの集団で、誤差の範囲内でない違いが出てきたとしたら、と考える訳だね。それは、確かに《差》があると認めることになる。」

「じゃあたとえば、ある食べ物が何かの病気に効くと言ってる人がいたとして、それを実際にちゃんとしたやり方で検討してみて、確かに《差》があった場合を考えるということですね。てことは、《差》があるんだから、それは《効く》ということなんじゃないでしょうか?」
「そこがポイント。たとえば、《平均体重が500g違う》という場合、その差に意味はある?」
「え? 意味はあるかと言われても……何を基準にして意味があるのかがよく分からないです……。」
「そうそう、それでいいの。その違いにどんな意味があるのかっていうのは、どういう状況の話なのかをちゃんと考えないと出てこないんだよね。もっと極端なことでたとえると、たとえば、あるダイエット法を試したら、別のダイエット法を行った人達よりも、半年で平均100g体重の減り方が大きかった、という話があったとしたら、そのダイエット法に意義があると言えるかどうか。いろいろ複雑なことを入れるとめんどうなので、誤差とかは考えずに、とにかくはっきりそのくらいの差があった、と納得しとくこと。」
「うーん、半年で100gって、ぶっちゃけほとんど意味ないような気が。見た目もほとんど違わないだろうし。」
「まあ、多くの人はそう感じるんじゃないかなとは思う。それで、医学的な検査とかの話でもそういう見かたが出来る訳だね。たとえば、血圧のほんの数ポイントの違いをなんらかの治療法がもたらしたとして、それを意義があることとして認めるかどうか。今の血圧はただの例ね。私は医学の知識に疎いから、それがどれくらい意義があるかはよく知らないし、どういう病気かなどにも関わってくるだろうから。」
「ということは、たくさんの人を調べて、確かに差があるというのが分かったとしても、それに意味があるかは違う話ということですね。」
「うん、そうなる。だから、差の《大きさ》が重要ということ。要するに、医学的に見てこれくらい変化することには注目出来る、というような差があるかどうか。そういうのを、《臨床的に意義がある》と言ったりもする。で、繰り返し調べてみて……繰り返し調べて再現性を確かめるのは何回も言ったよね……調べてみたら、差はあるかも知れないけど、それは特に《臨床的に意義のある差》ではなかった場合には、その薬なりは《効かない》と判断することになる。平たく言うと、差があったとしても、《実質的な違い》じゃなければそれは効いたとは言えないし、実質的な差がないことが《再現》されれば、それはもう《効かない》と言えるってこと。」
「そういえば、《統計的に有意》とかなんとか言う人もいますよね。だから効くんだ、という感じで。」
「いるね。で、これまた厄介なことで、この部分をちゃんと考えずに、《有意》を連発する人がいてこまる……えっと、ものすごく大まかな言い方すると、実は、《統計的に有意》というのは、《差がゼロではないことが示唆された》くらいの意味なんだよ。」

「差がゼロではない、ですか?」
「うん。これまで何度も、医学では全体を調べることが出来ないから、標本調査的なやり方をしていくって言ってきたけど、集団同士を比較する時によくされるのが、まず《お互いに差がない》という仮定を立てること。で、実際に実験なり観察なりをして確かめてみて、《その集団のあいだに差がないとすればこのデータが出るのはおかしい》というような結果が出た時に、《お互いに差がないという仮定がおかしい》と考えて、その仮定の方が間違っていたと考える訳だね。だからその結果分かったのは、《お互いに差がある》ってなる。」
「それは、差が《ある》ことが分かるだけで、差の《大きさ》には触れていないんですね。」
「そうそう。仮定が、《差がゼロ》である、ていうものだからね。その否定は、差がある、となる。で、これは統計的な方法だから、《差がある》というのも確定的な判断じゃなくて、もっと詳しく言うと、《差がゼロだとすれば、この実験結果より極端な結果が出る可能性はものすごく低い》という感じになる。標本調査の時に説明したみたいに、標本から母集団のことは完全には分からないから、こんな風な言い方しか出来ないということ。」
「てことは、《差の大きさ》にも触れていないし、その上《確定的》じゃないんですね。」
「もちろん、確定的……えっと、今は、《絶対に正しい》という意味で使うけど……確定的じゃなくて確率的な判断にしかならないのは、これは科学の限界だからどうしようもない部分はあるけど、何度も繰り返して再現性を確かめるというサイクルでどんどん証拠を積み重ねていけばいいんだよね。だけど、差の大きさは重要。
 結局、《統計的に有意》というのは、差がないとしたら出にくいようなデータが出た、という意味だから、それだけを主張したって何もならないんだね。差の大きさはどれくらいなのか、とか、同じような結果が安定して出ているのか、という所を考えつつ、その上で、《統計的に有意》って事実を証拠の補強のように使わなくちゃいけないってこと。」
「じゃあ、《有意だった》って言うだけじゃ、そんなに意味はないと。」
「そう。どのくらいの大きさの差を見つけようとしたのかとか、サンプルサイズはどのくらいだったかとか、解析にはどんな方法を使ったのか、とかそういう情報をセットにしてきちんと提出せずに、《有意》だったと言われても、あ、そう、それで? としかならない」

○理論的考察
「さっき、理論的な考察も大事だって言ったけど、今まで積み重ねてきた知識から考えて、《効かなそうだ》ていう判断は、もちろんすごく大事。」
「三回まわってワン、を毎日続ければガンが治る、とか言ってたりしたら、それは実際に実験しなくても、まあ効かなそうだと判断して良さそうですよね。」

「そうそう。すごく短時間で三回回転してから声出すことが、一体ガンに対してどんな風に作用するんだ、てことから考えて、まあ効かなそうだということは判断しておいていいよね。」
「てことは、《効かない》という言葉で、《理論的考察をしてみたらどう考えても効かなそうだ》みたいなことを言いたい人もいるっていう訳ですね。」
「まあ、多分、理論的に考えて、そんなもの効く訳ないとか、絶対効かない、て思う人もいるんだと思う。気持ちは分からないでもないけども。だって、科学は《ない》ことは証明出来ないとは言っても、これまでものすごく発展して、技術とかに応用されてるからね。《科学はそこそこ分かってる》みたいな自信と言うか自負と言うか、そういうのもあるんだとは思う。それまでのあらゆる科学の研究が、《効かないことの間接的な実証》になっているんだろう、という見かたも一応出来るし。」
「でも、厳密に考えるとやっぱり、《効かない》と言い切っちゃいけないってことなんですよね。結局は、《効く》か《効かない》かは、臨床試験とか疫学とかでそれをきちんと調べないといけないらしいから……。」
「そうなる。効かないと思いたい気持ちは分かるけど、それでも、《差が小さくて臨床的に意義がないことが再現されている》って証拠がなければ、効かないって言っちゃいけない。」

○証拠を提出する責任の所在
「じゃあ、そういう証拠がないのに、やっぱり《効かない》って言ってる人には、《じゃあ効かない証拠を出してみろ》と返すのは、それなりに筋が通ってるってことですか?」
「うん、私はそう思ってる。もちろんそれは、さっき言ったような、何が何でも誰にも効かない、ていう話とは全然違うよ。まあそれはここでは論外として……本当に批判する方が、差が小さすぎて意義がないことの再現性を認められるって意味で《効かない》と言ってるならね。実際、治療法を謳ってるものの中に、効かないことがもう分かってる方法というのはあるし。そういう話であるなら、証拠を提出する責任は、批判する方にあると思うね。」
「じゃあ、《効かない》というのを、理論的に考えて効かなそうだという意味で使っている場合はどうなるんでしょう。」
「うん、これはもちろん、これまでの科学とか医学とかの知識からいろいろ考えての推測だから、それがちゃんとしたものなら、その推測は構わないと思う。」
「ただこれって、ある意味《科学》とか《医学》を《信用》してる人達の言いぶんみたいに見えるかも知れませんね。」
「そうそう、それがとても難しい所で、この種のコミュニケーションでは一番厄介なんじゃないかと感じてる。だって、医学や科学の目から見て効かなそうだ、というのは、《現在の科学や医学を信用していない》人にはあんまり意味がないからね。《科学的にはそうかも知れないが、所詮科学は……》と返されることもある。実際、何度もそういうのを見てきたし。」

「ということは、いろいろ宣伝したり支持したりしてる人に対して、理論的考察の意味ででも《効かない》って言ってしまうのは、あんまり上手くないですね。」
「そう思う。出来れば使わない方がいいとも考えてる。だって、《効かない》という言いかたのインパクトは大きいからね。本当は、それは、実際に確かめて効かないことが分かったもの以外には使っちゃいけないとは思うんだよね、議論の場では。もちろん、親しい人との日常会話では私も使うけどね。」
「ところで、理論的考察じゃなしに、実際に効かないことが分かっている、という意味で《効かない》って言いたいのなら、そっちの方が証拠を出す責任があるんでしたよね。で、理論的に効かなそうだ、て言ってる人に対して、《ならそちらが証拠を出せ》とか《そっちが検証しろ》とか言うのはどうなんでしょう。いろいろ宣伝してる人に対して、理論を考えて、それは効きそうにないですよね、て慎重に言う人もいる訳ですよね。」
「これはもうはっきりと、《効く》と言っている方に証拠を出す責任があるね。要するに、《それは理論的に考えて効きそうにないんじゃ?》て言ってる人は、効かないという臨床とか疫学の証拠があると言ってる訳じゃないからね。そもそも誰かが《効く》と主張してる説に関する議論なんだから、《効くという証拠》を出さないといけないのは当然。もちろん、証拠がある、て主張する人もいるけど、よく見てみたら、ただの個人的な体験とか伝聞とかだったりする。」
「よく考えると変な話ですよね。自分が効くと主張してて、それ効かないんじゃ?って反論されたら、じゃあ効かないという証拠を出せって言うんですから。
 それって、もし仮に、《効かない証拠》……えっと、理論的な考察で出てきたものじゃなくて、臨床試験とか疫学とかの証拠ですね……そういう証拠を出せなかったとしても、別に《効くことが実証》される訳じゃないですよね。」
「そうだね。ツチノコを見た、と主張する人に対して、いや、そういう動物はちょっといそうにないのでは? て反論したら、じゃあいない証拠を見せろ、調べつくしてみろ、と返されるようなものかな。別に、いない証拠を挙げられなくても、それでツチノコがいることが実証される訳じゃないからね。見たって言ってるんだから、そっちが写真撮るなり捕獲するなりしましょうよ、てなる。もちろん、いないと思ってる側が、そんなの絶対いる訳ないよ、なんて言ったら、また別の話。本当に調べつくしたりしなきゃならない。まあ、これはあくまでたとえだけども。
 ニセ科学とかの議論では、こういうのを立証責任の転嫁なんて言ったりするけど……別に法律で罰せられるという話ではないよ……何かあると言い出した人が、ないと言う人に、ない証拠を出せ、という風に変な反論をする理由として私が考えてるのは、《効かない証拠が出ない》って事実さえあれば、効く証拠がなくても《粘れる》から、なんじゃないかって気がする。」

○確かめられていないもの
「粘れるっていうと?」
「要するに、《たとえ効く証拠がなくても、まだ効かないと分かった訳じゃない》て言っとけば、それを維持したまんま宣伝したり出来るってこと。」
「ああ。確かにまだ効くとは分かってないけど、効かないって証拠もないんだから、試してみる価値はあるんじゃないか、みたいに勧めるってことですね。」
「重病とかでいろいろ試して、どんなものでも救ってくれるのならすがる、て思ってる人には、そういうのが響いて、魅力的に映ってしまうかも知れないんだよね。」
「うーん、そういうのに気を取られてたら、もしかしたら有望な治療法が既にあったり開発されていたりしても見逃しそうですね。」
「それがかなり重要。まあ、本当に何でもかんでも試そうとする人なら選り好みしないかも知れないけど、人によっては医学を避けて、いかにも目新しいものにすがったりするからね。場合によっちゃ、《西洋医学》は、とか言って、医学に不信を持ってたりする人もいるし。医学は西洋由来だろうが東洋由来だろうが、《効く》ものを取り入れるから、西洋医学なんて言い方は的外れなんだけどね。」
「そういうのって、たまに健康被害のニュースで見ますよね……。」
「良い治療法がある病気なのに、医学嫌いを助長させて取り返しがつかなくなるようなこともあるからね。ここで大事なのは、《確かめられていないもの》の可能性のパターンなんだけどねえ。」
「確かめられていないもの、っていうと、効果のことですか?」
「うん。今は、《効く》証拠はないけど、《効かない》証拠もある訳じゃないってのを考えてるんだよね。中には確かめられてる最中なのもあるだろうし、ものすごくマイナーで、そういう研究自体の手が入ってないものもあるだろうけど、とにかく、効くにしろ効かないにしろ害があるにしろ、決定的な強い証拠はまだないっていう段階だね。再現性がある結果がまだ出てない。」
「それが《確かめられていない》ってことですね。宙ぶらりんていうのとはまた違うかもですが、まだ検討されてないものから検討途中のものも含むと。」
「そう。で、その確かめられていないものって、大まかに見ると、今言ったみたいに可能性は三つあるよね。要するに、効く、効かない、害がある、のどれか。」
「そうですね。まだ確認は取れてないけど、実際にはその内のどれかってことですね。」
「それで、この内、《効く》んだったらいいんだよね。まだマイナーなもので効くものに出会えてラッキーだったね、て言えるし。それから、《害がある》のが論外なのは当然。何かを飲んだら悪化したとか死んでしまったとかは、ニュースでよく見る。
 そして、《効かない》もの。軽症の風邪くらいならいいかも知れないけど、重病だったりすれば、《ちゃんとした治療を避けさせる》危険性がある訳で。《効かない証拠がない》のを理由に、なら試してみる価値があるじゃないか、て主張する人がいるけど、そういう人は、害がある場合と効かない場合のデメリットをあまり考えてない。」

「害があるのは分かりやすいですけど、効かないことが間接的にデメリットになるっていうのは結構気づきにくそうですね。」
「まあもちろん、調べていなくても、含まれてる成分とか、運動なら身体への負担の程度とか、そういうものを検討して、その3パターンのどこらへんになりそうか、て《あたりをつける》ことは一応出来るけどね。それこそ理論的な考察。だけど、その考察で《効かなそう》だとしても、宣伝する人は、先鋭化と言うか、過激になってしまって、これは万病に効く、的なことを言うこともあるからね。その時は、もの自体は、ただ《効かないもの》なのに、結果的にとんでもない被害を与えかねない。極端に言えば、水5ccでも人は殺せる。これは万物の気を込めた霊水で万病に効く、とでも言えばね。善意で人は死ぬ。」

○証拠に委ねること
「効くことにしても効かないことにしても、《証拠》が大事だということですね。」
「科学では……いやまあ、科学に限らないけど……科学は、ものごとの本当の所はどうなっているのかを知りたい、て目的で進んできたのだから、《証拠》を一番重視するね。」
「それはやっぱり、実験で確認出来た方がいいってことですよね。」
「いや、一概には言えないと思う。もちろん、実験というのは、いろいろな条件を揃えて確かめられて、より精密に調べられるから、出来るようならやっておくのはもちろんいいだろうけどね。天文学の観測とか、社会的なこととか心理的なこととか……たとえば、血液型と性格に強い関連がある、みたいなことね。そういうのはそもそも実験で直接確かめられないか、確かめるのが難しいから、観測や観察によって調べて、それが同じような条件を持った他の場所や集団でも成り立つか、というのを調べたり、《予測》をして、その通りになったら説が支持される証拠として考えたり、という風に進めて行く。で、もちろん、もっと基礎的な部分については、実験なんかで精密に確かめたことも証拠として補強する。天文学は物理学が基盤だろうし、血液型の話は、生物学とか心理学がベースになってるだろうから、そういう分野の知識を参考にしていく。」
「前に説明にあった疫学なんかもそうですか?」
「うん。疫学自体が、実験研究とか観察研究とかを引っくるめて考える分野だからね。きちんと設定された実験で確かめたのか、とか、たくさんの人を偏りなく観察して調査したのか、とか。そういう、やり方の質と数をいろいろ検討して、説を支持する証拠がどのくらい集まっているかを見ていく訳だね。医学分野なんかでは特に、そういうのを総合的に考えた意味での《証拠》のことを《エビデンス:Evidence》と言ったりもする。」
「ああ、《エビデンス》っていうのはたまに見聞きしますね。EBM、でしたっけ?」

「エビデンス・ベイスト・メディスン(《Evidence Based Medicine:EBM》)ね。直訳的には《証拠に基づいた医療》のこと。医学は以前は瀉血とかが使われてて、比較試験などのやり方が積極的にされるようになってきたのは、そんなに前のことじゃないみたいなんだけど、そういう流れで、いかに《効く証拠》が重要かを痛感してきたんじゃないかなと思う。人体は複雑で全部は明らかにならないし、個人差も、人間独特の心理的な性質もあるから、とにかく難しい。しかも、与える薬とか療法だって、考えていなかった作用……副作用ね……副作用もあるし、その副作用はものすごく有害かも知れない。だから、実験や観察をして《証拠》を集めて知識としていかないといけないってこと。」
「職人芸的な判断で活躍する医師もいるみたいですけど、社会で共有するものって意味で医学を考えたら、証拠に基づいて、ていうのは大事そうですね。」
「人体に関する知識と言うか、そういう所に高い直感力を発揮して、深い所まで分かる、ていう人はいるのかも知れない。医療は技術的な要素も大きく関わってくるだろうしね。でも、だからといって、個人的な経験を無闇に広げて宣伝したりしちゃいけないんだよね。よりたくさんの人に安定して効くかどうか、というのを確かめるのが、科学であり医学なんだから。
 ちなみに、EBMという考えが個人差を無視するっていうのは思い込みね。たまにそういう批判を見ることあるけども。広く認められた知識を参照しながら個人差を考えて、いろいろ経過を観察しながら、その人個人に合ったやり方を模索していく、ていうのがプロだろうと思う。歯医者にでも行けばすぐ分かると思うんだけどね。」
「証拠ということで言えば、アンケート調査で調べたいようなことでも、これこれこういう人が多い、と簡単に言うのは怖いものがありますね。」
「ある性質を持った人はこういう人が多い、とかね。個人の経験からそういうことを言う人もいるけど、一人が経験したり観察したり出来る範囲の狭さを考えると、それが《まともな証拠》には全然ならないってことが分かるよね。血液型の話で言うと、まあ、普通の人は、生涯で何万人にも会って血液型と性格を一々記録するってことはないだろうし、しかも、移動する場所も限られてる。」
「全国行脚して血液型と性格を調べまくる人はいないでしょうねえ。」
「そういう人がいれば、もはや研究者クラスだね。でも、もしそういうことした熱心な人がいても、それで充分な《証拠》とは言えないしね。」
「えっと、《尺度》ですか?」
「そう。たくさん調べた、まんべんなく調べた、でもものさしが狂っていました、では話にならない訳。きちんとした証拠を集めるというのはそのくらい難しい。」
「で、巷では、そういうのを考えていない《証拠らしきもの》でいろいろ言っている、と。」
「テレビやネット見てたりすると、定期的に見かけるね。関連の本もまだ出てるようだし。

それで、そういうのを見て……もちろん、まともな証拠がないものね……A型にはこういう人が多い、みたいなことが広まっていく訳だね。こういった、型にはめたような見かたは、いわゆる《ステレオタイプ》ってやつだね。文系はこうだとか理系はこうだ、なんてのもよく見聞きする。これがとにかく、きちんとものを見ようとするのに邪魔になる。」
「先入観ってやつですね。結論が先にあるみたいな。」
「科学というのはある意味で、こういう先入観とかが入り込まないように工夫した方法でもある、と言えるよね。だから、標本調査で言うと、偏りを減らしてたくさんの人を、きちんと作ったものさしでもって調べる、ていうやり方で出た結果に任せると。先入観はあってもしかたないけれど、《実際どうなっているか》は、《証拠》に委ねるしかない。」

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