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2011年7月16日 (土)

科学コミュニケーション――「態度」の問題

ニセ科学の議論において、「態度」が問題になる事があります。ばっさり切り捨てるような物言いだったり、他者を罵倒するような言葉遣いだったり。

ニセ科学を批判し、それをニセ科学支持者に理解(同意・賛同)してもらうというのは、相手の信念や認識を変えさせる事にほかなりません。

しかし、ニセ科学を信ずる人も、「ただ適当に」信じている訳ではありません。その信念が形成されるには、色々な人の話を聞いたり文献を調べたり、あるいは身近の人の力になりたいという動機があったり、あるいは自分自身の知識を向上させたいという真剣なきっかけがあったりと、様々な経緯、もっと言えば「歴史」があるはずです。その意味で、支持している側だって真面目なのだ、というのは基本的な認識として持っておくべきでしょう。


そういった人達の認識を変えたい、というのはつまり、「説得」の文脈を必ず含むという事です。

言われる側の事を考えてみます。

先日も書きましたが、私が超常現象などにむしろ親和的であった頃に、大槻教授や松尾貴史氏に対し、嫌悪感に近い感情を持っていました。物言いや嘲笑的な態度(に見えたという意味です)を見て、一体何様のつもりだ、と思いました。自分が好ましく思っていたり、信念や生活を支えるものを否定的に言われて、いい気分がするはずはありません。ものの言い方は重要です。要するに、「言っている内容が正しいだけでは駄目だ」という事です。

たまに、物言いについて不満を表明された際に、正しい事を言っているから構わないではないか、と返す人がいます。私はこういうのは開き直りと見ます。内容(論理的、科学的な正確さ)が正しければ、という意見には反対ですし、そう言う人は、心理的・社会的な部分、つまりコミュニケーションの仕方を軽視していると考えます。

自らの事を振り返り、自分自身が頑なで「物言い」に敏感だった頃、あるいは、身近の人の「話の聞かなさ」や「説得の難しさ」を思い出してみれば、いかにその部分が重要かは理解出来ます。


とはいえ、「どういう態度をとるべきか」という一般的な事を決めるのは難しい。いや、厳密に、「このような言い方をしなければならない」と規定するのは不可能だと思います。

と言うのも、特にWEB上などでは、お互いの背景を充分把握しないままにコミュニケーションをとる事が多いからです。対話というのは、互いの知識の程度、好き嫌いの傾向、言葉遣いのクセ、などを総合して、様子を見つつ展開していく行為です。心理社会的現象の価値依存性というか相対性(主に言語の相対性に依存する)が関わるので、まさに一筋縄ではいきません。


ですが、ある種「平均的」な好ましい態度というのはあるでしょう。たとえば話しかける際には挨拶をするとか、文体を丁寧にするとか、そういった簡単な事でも、印象は大分変わるし、誰でも出来るものです。いわば、厳密に範囲を決められないがある程度社会的なコンセンサスを得られている「常識」があるであろう、という事です。

もちろん、だからといって、キツイ(と一般に看做されるであろう)言葉遣いなどが全然役に立たないとは言えません。対話の展開によっては、強い一言が大きな説得力を持つ場合もあるでしょう。それも文脈に依存しており、対話者の関係性が関わっています。

そういうのを考えて、私自身は、なるだけ「常識的」に考えて安全側の言い方をしようと心がけています。具体的には、先ほど書いたような、挨拶をする事、文体を です・ます調にする事などです。WEB上に書いたものは通常、「読む人を選択」出来ないので、誰に読まれるか判らない(読まれやすい層は想定出来るが)という性質を持っています。ですから、平均的に見て好ましい側に倒して書いているのです。

それでもつい書き過ぎてしまう事はあるし、言い方がキツくなる場合もあるでしょう。だから、近しい者同士の相互批判が重要です。

私自身は結構頻繁にやります。さすがにその物言いはダメなのでは? そんな言い方する必要は無いのでは? といった具合に。

ただしそれでも、「そうすべきでは無い」という主張はしません。と言うか、出来ません。何故ならば、先にも書いたように、言葉の受け取られ方は文脈や関係性に依存するからです。こうすべきだ、と言えないのと同じで、こうすべきでは無い、ともなかなか言えない。

また、自分が物言いにお叱りを受けた事もあります。そのやり方では、あまり議論を知らない人が見たら好ましく無い印象を持たれるのではないか、というご批判ですね。


なので、近い所にいる者がお互いにチェックして、コミュニケーションの仕方を調整していく動きが絶えず行われる必要があると思う訳です。

ここではニセ科学議論を例に話をしましたが、もちろんこれは、相手を説得する目的のコミュニケーション一般で考えるべき事だろうと思います。「文字通り」の内容が合っていれば言い方などどうでもいい、という態度は、色々なものを軽視していると言えるでしょう。心理の動きや社会の動きに眼を向けるならば、その部分を蔑ろには出来ません。

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コメント

当然、喧々囂々のやり取りが行われて議論が深まる事もあるけど、それはある程度対等な立場というか、お膳立てがなされている場合でしょうね。構えをとっていない内に不意に強烈な言葉をかけられれば、戸惑うに違いない。

投稿: TAKESAN | 2011年7月16日 (土) 18:59

はじめまして。私は、このエントリ内容に同意します。
私は以前、疑似科学・歴史修正主義・反知性主義を批判するのに罵倒・嘲笑の手法を用いていたあるブログで言葉の選び方に疑問を呈するコメントをしたら「厳しい言葉で目を覚まさせる狙いがある」という旨の返答を頂いた経験があります。
このように、一部の“理性的”な方々は、スパルタ主義的精神論との親和性を示すことがありますね。この現象は、合理主義的思考に「馬鹿な奴は自己改善努力を怠っている→そいつ自身が悪いのだから配慮は必要ない」という自己責任論が内在することに起因するのではないかという仮説を私は考えています。

投稿: RAS | 2011年7月16日 (土) 23:53

RASさん、今晩は。

▼ 引  用 ▼
「厳しい言葉で目を覚まさせる狙いがある」
▲ 引用終了 ▲
おそらく、その狙いが功を奏する場合はあるのだと思います。ただ一歩引いて考えると、果たしてその狙いというものがそれほど普遍的に有効なのか、独りよがりではないか、と感ずる訳ですね。

どういう経緯でそういうやり方を選択したか、というのには色々なものがあるのでしょうから、こうではないか、という推測も難しいものがあります。

投稿: TAKESAN | 2011年7月17日 (日) 03:34

私なんか、poohさん達の指摘で、「水からの伝言」の間違いに気が付いた方ですが、

科学等の説は、定説はあっても、「絶対の説」は無い、との考えで、ブログを記し、
自分で正しいと思う説でも、常に疑問を抱きながら、記し、根本に帰り、間違いがあったら訂正するするよう心掛けています。

人に自分の信じている説を理解してもらうには、そのような態度が大事で、頭から、他説を否定すると、強固な反論が反って来て、ブログが平常でなくなる気がしています。
(今の所、弊ブログではそう起こっていませんが…。)

後、ブログ上、その道の権威があるとしても、いつも誰が読んでも分かりやすい平易な言葉を使い、意を汲んでもらうような態度で記すことが大事で、
「言っている内容が正しいだけでは駄目だ」に繋がると思います。

投稿: mohariza | 2011年7月18日 (月) 15:40

とは云っても、普段の言語(会話)社会では、
面倒なのと、血が上ることが多く、
余計なこと(皮肉や揶揄を含んだ言葉)を云ったり、
特に権力者には、半分敵意が剥き出しの言葉を、つい、使っているようですが・・・。

但し、官僚に対しては、敵に回すより、上手く使うことが大事と思い、そうならないよう心掛けるようにしていますが・・・。

家でも、論理的に話すことはほとんどありません。

「文言一致」の論理の会話が出来れば、良いのでしょうが、「理解されなければ、それもよし」との生き方なので、致し方ありません・・・。

投稿: mohariza | 2011年7月18日 (月) 16:16

moharizaさん、今日は。

私が心がけているのは、「間違わない」事より「間違ったらすぐに訂正なりをする」、というのと、「なるだけ解りやすい書き方をする」という事ですね。
といっても、扱う題材によっては、難しくしか書けない場合もあるし、解る人に解ってもらえば構わないというのもあるので(私で言うと武術関連のもの)、色々なバリエーションはあり得ます。

現実の場では、やはりWEB上とは異なったコミュニケーションの仕方になりますね。それに、関係が近い、たとえば家族くらい近いと、やっぱり感情が先行したり、言い方がぞんざいになったりも。尤も、家族だからそれが効いてくる、という場合も確かにあるので、やはり色々だな、と。

投稿: TAKESAN | 2011年7月18日 (月) 16:22

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