「効く」「効かない」 挙証の責任
このご時世、放射性物質への曝露(さらされる事)に関する議論が激しくなされるのをしばしばみます。原発事故という重大なきっかけがあり、私達の健康に直接関わり得るシリアスな事柄ですので、時には相手を痛罵するような物言いも見かけます。
よくなされるのが、「放射線被曝による健康影響を防ぐ、あるいは曝露による健康被害(があると前提して)を改善する」という触れ込みで、特定の食べ物などを勧める人と、それに反対する人とのやり取りです。
そこでは、片方が「効く」と言い、もう一方が「効かない」と言う。あるいは、「効かない」という意見に対して、「全く効かない証拠はあるのか?」とか、「効かないと言うのなら自分で検証してみるべきだ」といった反論が出てきます。
どうもそういうのを見ていると、「効く」「効かない」という言葉に関する意味の捉え方が噛み合っていないように思えます。また、「効か無いと言うなら検証せよ」といった反論についても、その反論は適切では無い、と返す場合があるのですが、それについてもきちんと理解されていないように思えます。
そこで、「効く」とはどういう事か、「効かない」とはどういう意味か。そして、「効かない」と言いたいならそう言いたい人が検証するべきかどうなのか、というのを説明してみたいと思います。直感的に把握しやすいように、アクションゲームなどで用いられる「体力ゲージ」で説明します。視覚的な直感を優先するため、現象をとても単純化して解説するので、そこはご了承下さい。
○試す前
まずは、放射線被曝なりを心配して何か使おうと思っているが、まだ実行していない段階です。このゲージを基準にして考えます。※真ん中辺りに設定していますが、特にそこが、万全の状態の半分くらいの健康状態を示しているという事ではありません。後の説明がしやすいようにそうしました。
緑が「体力」や「HP(ヒットポイント)」みたいなものだと考えて下さい。もちろんこれは、「その時の健康状態」を表しています。ゲージ一本で色々な要素が入った健康状態を表せるのか、という疑問もあるでしょうが、そこは簡単のためにシンプルにしている訳です。ちょっとモンスターハンターの言葉を使ってたとえてみますが、ご存知無い方は、その部分は読み飛ばして下さい。
○効く
これが、「効いた」状態です。薬でも食べ物でも、あるいは体操でも祈りでも何でも構いませんが、とにかくそれを試した後に、それが「効く」場合のゲージ、つまり健康状態の変化を示しています。回復薬系のアイテムを使ったようなものです。
○効かない
これは「効かなかった」状態。試したものが何の作用も及ぼさなかったという事ですね。体力を回復させたいのに にが虫や怪力の種を使うようなものです。
○有害
これは、「逆に害があった」のを表しています。要するに、毒を飲んでしまったようなものですね。あるいは、悪くなる方に手助け(悪化)してしまう。体力を回復させたいのに毒テングダケを使ってどんどん体力が減っていくような感じです。
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基本的には、この3つのパターンが考えられます。もちろん、効く場合と害がある場合には、「程度」があります。大きく効く、ちょっとは効く、大きく害を与える、ちょっと悪い方向に加速してしまう。というように。薬草か回復薬か回復薬Gか、使ったアイテムによって回復量が異なるようなものです。
○個人と集団
さて、アクションゲームなどだと、「アイテムによる回復量は決まっている」のが普通です。つまり、回復薬を用いたら50回復する、といったようにですね。でも、ちょっと考えれば解る事ですが、健康状態の回復や悪化の仕方は、与えるものの品質のバラツキであったり、与えられる側の体調のあり方などが関わって、色々に変わってきます。RPGをやる人は、ケアルやホイミなどが、かけるたびに回復量が微妙に違う、という事を思い出して下さい。実際には、とても沢山の要因が重なって、効果が外に現れます(効いたかどうかは、体調の変化や検査によって確かめられます)。
ですから、本当の事を言うと、これまで示してきたゲージのように「きっかりと」効果を測るというのは、出来ないのです。個人の場合でも、体調その他の色々の要因が関わっている訳ですから。
では「効く」という事は言えないの? と思われるかも知れませんが、もちろんそんな話ではありません。じゃあどうするのか、というと、「集団」を調べるのですね。沢山の人が試したのを観察し、検査などをして、全体の傾向としてどうであるかを確かめる。図にするとこういう感じです。
点線は大体平均の所、紫の部分は「変動」、つまり、どのくらい「ばらついていたか」を示していると見て下さい。
このように、沢山の人々に試してみて調べ、全体の傾向を見て「効くだろう」と判断されるという訳です。
これは全体的傾向で、変動は個人差のばらつき度合いを示しているのですが、これでも、「個人として効かない」場合はあります。体質や環境その他の要因で、効かない、という事ですね。もちろん効果を調べるにあたっては、環境を揃えたり、同じような体質や年齢の人を集めるなどして、「こういった層の人には効くようだ」という風にする場合もあります。効果を実証するのはそれほど複雑なのですね。
これは、見方を変えると、「個人の経験はあてにならない」のを意味します。「実はそれが効いた訳じゃ無かった」という可能性は措いておいて、仮に個人に効いたとしても、それが「他の皆にも効く」とは限らないのです。ですから、集団を調べてみるのが大切です。
今、「それが効かなかった」可能性と書きましたが、それについて少し。
ゲームでは、ホイミを使えば回復する、というのは「判っている」訳ですが、今考えているのは、「何が効くか」自体を確かめたいというのが問題となっています。という事は、「何かを与えてみて、”それ自体”が効くか」を確かめる必要があります。
つまり、何かを与えて、その結果
こうなったとしても、与えたものが効いたのでは無く、他に同時に変化した何か――時間の経過だったり、他の生活習慣だったり――が影響を及ぼして改善した可能性があるのです。
なので、先ほど紹介した「集団を調べる」方法には、確かめたいそのもの以外の影響を切り取って調べる、というやり方が発展してきています。ここでは詳しい説明は省略します。これだけでとても難しい話なので、興味のある方は、「臨床試験」「RCT」「ブラインドテスト」などで調べると良いでしょう。
もちろんここで書いた事は、「害がある」のを確かめる場合にも当てはまります。効く場合と逆方向に考える。
○「効かない」事。多義性1:論理的に「効かない」
さて、効く効かないの議論でよく見られるのが、効かないから不用意に勧めないように、と言う人に、「全く効かないと言い切れるのか?」と返すものです。ここには、「効かない」という言葉のややこしさが関係しています。詳しく見ていきましょう。
まず、先ほど示した「効かない」図をもう一度。
これは、ゲームの体力ゲージでたとえたもので、単純化している事を説明しました。ゲームであれば、体力回復、もしくはダメージアイテムで無ければゲージに何の変化も無いのは予め決められているのが普通です。
ですが、病気に何が効くのか、という話だと、事はもっと複雑です。先ほど「効く」の所で解説したように、色々の要因が絡み合って、体調や医学の指標に変化を及ぼすので、この種の問題では、集団を確かめて全体的な傾向を調べる必要がありますが、これは「効かない」でも同様です。
ですから、上の図のような意味で「効かない」というのは「証明出来ない」のです。これは非常に大切です。厳密に、公理を設定し、言葉を定義し、寸分の漏れもないロジックでもって命題を証明する、という数学との違いがここにあります。何かが効くか効かないか、という現象は、とても色々の条件が絡んでくるので、何が効いて何が効かなかったかを完全に確かめる、個人レベルでどう変化するかを完璧に調べ切る、というのは出来ないのですね。ですから、集団を確かめて統計的に考えていく必要があります。
という事は、もし問う側が文字通りに、すぐ上の図にあるような意味で「皆に」「全く」効かないのか、と言っているのだとすれば、それには、「その意味で”効かない”とは確かに言えない」としか答えられません。無限の可能性を調べ切るのは不可能で、それが科学や医学の限界ですから、慎重に、誠実に答えるとすれば、そう言うしか無いのです。
○「効かない」事。多義性2:「実質的に効かない」
こう説明すると、では、「効かない」と言う人はデタラメを言っているのか? そんな不誠実な事で良いのか? という疑問が出てくるでしょう。
しかし、先に書いたように、「効く」場合と同様に、「集団を調べる」事を考えれば、違う見方が出来ます。きちんとした論者が「効かない」と言った場合には、その見方が念頭にあるのです。
その見方というのは、再三言っている、「集団を調べる」事です。「効く」所でも書いたように、色々の要因が絡んで結果が現れる以上、沢山の人々を調べて全体的な傾向を調べる必要があります。個人に効いたからといって他の人に効く保証は無いですし、普通は「効く」と言ったら、「皆(その範囲は色々あるでしょうが)に効く」という話でしょうから。
つまりこういう事です。
この画像、緑ゲージの部分が、さっきの「効かない」図と同じに見えると思いますが、実は水色の部分があります(拡大すると解ります)。要するに、集団を確かめてみた所、確かに変化はあったが、その変化がものすごく小さい、というイメージです。
人間の状態は、体調など刻々と変化しています。その意味で、健康状態のゲージがずっと完全に一定なんて事はあり得ません。ですから、効く効かないを確かめる場合、その変化を出来るだけ揃える訳です。それで、その変動を見越した上で、何かを与えたとして、全体の変化から自然の変化を差し引いて、「与えたもの」による変化を調べます。
そして、確かに「与えたものによって変化した」のが判ったとしても、「その変化が”意味のあるものか”」どうかが重要です。それがごく小さい場合、「それが変化しても人間の健康状態などに大した意味は無い」場合がある訳ですね。色々条件を揃えて確かめてみたらほんの少し変化が認められた。でも日常生活ではそれは他の条件の影響などに埋もれてしまうし、そもそも変化が小さすぎて「実質的な意味が無い」と。
これで解りましたね。つまり、きちんとした論者が「効かない」と言った場合には、その言い回しに、「調べた結果、”実質的に効かない”事が確かめられた」という意味が込められているのです。たとえばホメオパシーにおけるホメオパシーレメディなどがそうです。
○「確かめられていない」場合
ここまで、「効く」「効かない」「害がある」の3パターンがあると考えて見てきましたが、これは「確かめられた」場合を主に想定しました。
しかし、当然の事ながら、病気なりに効くと称するものには、「まだ検討されていない」のも含まれます。誰かが新たに考えついたものだったり、発祥は古い広くは知られていなかったものが脚光を浴びたり。
その場合には、「まだ解らない」とするのが慎重な態度と言えます。
○「効かない」事。多義性3――理論的考察:「おそらく効かないであろう」
慎重、というか、正確に言えば、ある確かめられていない方法は、確かめられていないが故に、その効果のほどは「解らない」とするのが適当です。
しかし、理論的な考察、つまり、それまでに得られた知識に基づいて推測し、「おそらく効かないであろう」と判断する場合もあります。厳密には「解らない」だが、「それは効きそうに無い」とは一応言える(当然、「それは効くかも知れない」という方向もある)。もちろん、「それは絶対に効かない」などと言ってはいけません。調べていないのですからね。ただし、「効かないであろう」を「効かない」と言う場合があり、それは文脈を共有していない相手には通じない可能性があるので、丁寧に説明するのも大切です。
○解らないのなら「試してみる価値がある」?
未検証なのだから、試してみるべきではないか。有効かも知れないのだから、と言う人がいます。
しかしそういう人は、見落としている所があります。つまり、
この方向に過大な期待を抱いている。実際には、3つのパターンがあるので、この他にも、1)効かない 2)害がある という可能性がある訳ですね。そこをちゃんと考えれば、「有効かも知れない」ものは常に、「無効」、場合によっては「有害」かも知れないというのが解ります。
○証拠を提出する責任1:「効かない」に込められた意味
「効かないと言うのなら、言う側が検証すべきである」と主張する人がいます。ここについて考えてみましょう。
まず、「効かない」と言う側がどういう意味合いで言っているかが重要です。これが、
「絶対に効かない」というレベルの強烈な意見なのであれば、「言う側が検証すべきである」とするのは「正しい」。何故ならば、その主張は、「あるものが”効かないとする積極的な主張”」だからです。何かが効かないとするのは、何かが効く、とするのと同様に強い意見です。そして、実質的に「”効かない”事は確かめられる」、というのを先に考察しました。それを念頭に置けば、「効かないと言いたいならそっちが確かめるべきだ」と言うのは妥当です。
○証拠を提出する責任2:「確かめられていないものは無いものと看做す」
科学では、「確かめられていないものは”無い”と看做す」のが基本的な考え方です。
と言うと、「何故そう判断出来るのか。”見つかっていない”のと”いない”のとは別ではないか」と反論される事があります。これは、「文字通り」に取ればその通りです。つまり、「見つかっていない」のは「いない」事の直接の証明にはならない。ですが、「確かめられていないものは”無い”と看做す」とは、そういう意味合いではありません。
ツチノコとか雪男とか、UMA的なもので考えてみます。ああいうのは、目撃証言はあっても、捕獲して検討されたという(事が懐疑的な人間にも認められているという)例は無く、従って「見つかっていない」訳ですね。で、日常会話などで、そういう対象を「いない」と表現する事はよくあります。「ツチノコ? いないよね。」といった具合に。
もちろん、本当に存在しないと思っている場合もあるでしょうが、「まあ見つかってないんだし、いないと思ってもいいのでは?」といった感じの場合も多いでしょう。科学でもそうで、見つかっていないものは、「取り敢えず無いものとしておく」のです。
これを効果の話に広げると、「確かめられていない」ものは、「効果が無い」ものとしておく、という態度に繋がります。ここで「効果が無い」とは、全く効かないという意味では無いのですね。効くのかも知れないが効かないとしておく、というのが正確。でも、話を共有していない人には誤解される表現ではあります。説明の際には注意を払いたい所です。
※UFOとツチノコと雪男とスカイフィッシュのそれぞれに、「存在しそうな度合い」というものが考えられるように、効果の話においても、「効きそうな(効かなそうな)度合い」というのも当然考えられる。上で書いた理論的考察の事。
○証拠を提出する責任3:効果があると主張する側に責任がある
何故、取り敢えずは「無いものと看做す」かと言うと、何かが存在するとか、効果がある、と言った仮説は無数に生み出せるからです。たとえば私が、「この姿勢を15分取れば腰痛が消え去る」などと言って、独特の主張をしたとしましょう。その場合に誰かが、「そんなの効かないよ」と反応するでしょう。その反応に私が、「効かないと思うのならそちらが検証せよ。効かない証拠が無いのなら自分はこれを奨励する」と反論したらどう思われるでしょうか。
少し考えれば解るように、こういった論法を許すのなら、「キリが無い」という事です。つまり、新奇の主張を一々、「主張者以外に」検討させるのは、徒にリソースを消費させますし、さらに、「効かないと判った訳では無い」という事実を「効くかも知れない」という風に喧伝する危険性があります。文字通りにはその通りですが、実際は、確かめられていない事が3つのパターンの可能性を持つのは再三書いてきている通りです。
ですから、何かをあるとか効くとか主張する場合、「証拠を提出する」責任を持つのは、効くと主張する側です。これは、自分で実験なりして実証するのでも、埋もれた研究を発掘して持説の補強とするのでも、自腹を切って、誰か研究者に依頼するのでも、いずれでも構いません。とにかく、効くと言いたいなら、言う側が証拠を示す必要があるのです。
という事で、何かが効くと誰かが主張し、他の誰かが「効かないよ」と反応したとして、その「効かない」が、「絶対効かない」という強烈なもので無いのなら、そう看做すのは当然です。それに対して「そっちが検証せよ」と言うのは ずれているのですね。ニセ科学などの議論では、こういうのを「立証責任の転嫁」と言い、ニセ科学を主張する論者の特徴として挙げられる事がよくあります。
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