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2011年7月に作成された記事

2011年7月22日 (金)

「効く」「効かない」 挙証の責任

このご時世、放射性物質への曝露(さらされる事)に関する議論が激しくなされるのをしばしばみます。原発事故という重大なきっかけがあり、私達の健康に直接関わり得るシリアスな事柄ですので、時には相手を痛罵するような物言いも見かけます。

よくなされるのが、「放射線被曝による健康影響を防ぐ、あるいは曝露による健康被害(があると前提して)を改善する」という触れ込みで、特定の食べ物などを勧める人と、それに反対する人とのやり取りです。
そこでは、片方が「効く」と言い、もう一方が「効かない」と言う。あるいは、「効かない」という意見に対して、「全く効かない証拠はあるのか?」とか、「効かないと言うのなら自分で検証してみるべきだ」といった反論が出てきます。
どうもそういうのを見ていると、「効く」「効かない」という言葉に関する意味の捉え方が噛み合っていないように思えます。また、「効か無いと言うなら検証せよ」といった反論についても、その反論は適切では無い、と返す場合があるのですが、それについてもきちんと理解されていないように思えます。

そこで、「効く」とはどういう事か、「効かない」とはどういう意味か。そして、「効かない」と言いたいならそう言いたい人が検証するべきかどうなのか、というのを説明してみたいと思います。直感的に把握しやすいように、アクションゲームなどで用いられる「体力ゲージ」で説明します。視覚的な直感を優先するため、現象をとても単純化して解説するので、そこはご了承下さい。

○試す前

Default

まずは、放射線被曝なりを心配して何か使おうと思っているが、まだ実行していない段階です。このゲージを基準にして考えます。※真ん中辺りに設定していますが、特にそこが、万全の状態の半分くらいの健康状態を示しているという事ではありません。後の説明がしやすいようにそうしました。

緑が「体力」や「HP(ヒットポイント)」みたいなものだと考えて下さい。もちろんこれは、「その時の健康状態」を表しています。ゲージ一本で色々な要素が入った健康状態を表せるのか、という疑問もあるでしょうが、そこは簡単のためにシンプルにしている訳です。ちょっとモンスターハンターの言葉を使ってたとえてみますが、ご存知無い方は、その部分は読み飛ばして下さい。

○効く

Kiku

これが、「効いた」状態です。薬でも食べ物でも、あるいは体操でも祈りでも何でも構いませんが、とにかくそれを試した後に、それが「効く」場合のゲージ、つまり健康状態の変化を示しています。回復薬系のアイテムを使ったようなものです。

○効かない

Kikanai

これは「効かなかった」状態。試したものが何の作用も及ぼさなかったという事ですね。体力を回復させたいのに にが虫や怪力の種を使うようなものです。

○有害

Gai

これは、「逆に害があった」のを表しています。要するに、毒を飲んでしまったようなものですね。あるいは、悪くなる方に手助け(悪化)してしまう。体力を回復させたいのに毒テングダケを使ってどんどん体力が減っていくような感じです。

--------------------

基本的には、この3つのパターンが考えられます。もちろん、効く場合と害がある場合には、「程度」があります。大きく効く、ちょっとは効く、大きく害を与える、ちょっと悪い方向に加速してしまう。というように。薬草か回復薬か回復薬Gか、使ったアイテムによって回復量が異なるようなものです。

○個人と集団

さて、アクションゲームなどだと、「アイテムによる回復量は決まっている」のが普通です。つまり、回復薬を用いたら50回復する、といったようにですね。でも、ちょっと考えれば解る事ですが、健康状態の回復や悪化の仕方は、与えるものの品質のバラツキであったり、与えられる側の体調のあり方などが関わって、色々に変わってきます。RPGをやる人は、ケアルやホイミなどが、かけるたびに回復量が微妙に違う、という事を思い出して下さい。実際には、とても沢山の要因が重なって、効果が外に現れます(効いたかどうかは、体調の変化や検査によって確かめられます)。
ですから、本当の事を言うと、これまで示してきたゲージのように「きっかりと」効果を測るというのは、出来ないのです。個人の場合でも、体調その他の色々の要因が関わっている訳ですから。
では「効く」という事は言えないの? と思われるかも知れませんが、もちろんそんな話ではありません。じゃあどうするのか、というと、「集団」を調べるのですね。沢山の人が試したのを観察し、検査などをして、全体の傾向としてどうであるかを確かめる。図にするとこういう感じです。

Syudankiku

点線は大体平均の所、紫の部分は「変動」、つまり、どのくらい「ばらついていたか」を示していると見て下さい。
このように、沢山の人々に試してみて調べ、全体の傾向を見て「効くだろう」と判断されるという訳です。
これは全体的傾向で、変動は個人差のばらつき度合いを示しているのですが、これでも、「個人として効かない」場合はあります。体質や環境その他の要因で、効かない、という事ですね。もちろん効果を調べるにあたっては、環境を揃えたり、同じような体質や年齢の人を集めるなどして、「こういった層の人には効くようだ」という風にする場合もあります。効果を実証するのはそれほど複雑なのですね。
これは、見方を変えると、「個人の経験はあてにならない」のを意味します。「実はそれが効いた訳じゃ無かった」という可能性は措いておいて、仮に個人に効いたとしても、それが「他の皆にも効く」とは限らないのです。ですから、集団を調べてみるのが大切です。

今、「それが効かなかった」可能性と書きましたが、それについて少し。
ゲームでは、ホイミを使えば回復する、というのは「判っている」訳ですが、今考えているのは、「何が効くか」自体を確かめたいというのが問題となっています。という事は、「何かを与えてみて、”それ自体”が効くか」を確かめる必要があります。
つまり、何かを与えて、その結果

Kiku_2

こうなったとしても、与えたものが効いたのでは無く、他に同時に変化した何か――時間の経過だったり、他の生活習慣だったり――が影響を及ぼして改善した可能性があるのです。
なので、先ほど紹介した「集団を調べる」方法には、確かめたいそのもの以外の影響を切り取って調べる、というやり方が発展してきています。ここでは詳しい説明は省略します。これだけでとても難しい話なので、興味のある方は、「臨床試験」「RCT」「ブラインドテスト」などで調べると良いでしょう。

もちろんここで書いた事は、「害がある」のを確かめる場合にも当てはまります。効く場合と逆方向に考える。

○「効かない」事。多義性1:論理的に「効かない」

さて、効く効かないの議論でよく見られるのが、効かないから不用意に勧めないように、と言う人に、「全く効かないと言い切れるのか?」と返すものです。ここには、「効かない」という言葉のややこしさが関係しています。詳しく見ていきましょう。
まず、先ほど示した「効かない」図をもう一度。

Kikanai_2

これは、ゲームの体力ゲージでたとえたもので、単純化している事を説明しました。ゲームであれば、体力回復、もしくはダメージアイテムで無ければゲージに何の変化も無いのは予め決められているのが普通です。
ですが、病気に何が効くのか、という話だと、事はもっと複雑です。先ほど「効く」の所で解説したように、色々の要因が絡み合って、体調や医学の指標に変化を及ぼすので、この種の問題では、集団を確かめて全体的な傾向を調べる必要がありますが、これは「効かない」でも同様です。
ですから、上の図のような意味で「効かない」というのは「証明出来ない」のです。これは非常に大切です。厳密に、公理を設定し、言葉を定義し、寸分の漏れもないロジックでもって命題を証明する、という数学との違いがここにあります。何かが効くか効かないか、という現象は、とても色々の条件が絡んでくるので、何が効いて何が効かなかったかを完全に確かめる、個人レベルでどう変化するかを完璧に調べ切る、というのは出来ないのですね。ですから、集団を確かめて統計的に考えていく必要があります。

という事は、もし問う側が文字通りに、すぐ上の図にあるような意味で「皆に」「全く」効かないのか、と言っているのだとすれば、それには、「その意味で”効かない”とは確かに言えない」としか答えられません。無限の可能性を調べ切るのは不可能で、それが科学や医学の限界ですから、慎重に、誠実に答えるとすれば、そう言うしか無いのです。

○「効かない」事。多義性2:「実質的に効かない」

こう説明すると、では、「効かない」と言う人はデタラメを言っているのか? そんな不誠実な事で良いのか? という疑問が出てくるでしょう。
しかし、先に書いたように、「効く」場合と同様に、「集団を調べる」事を考えれば、違う見方が出来ます。きちんとした論者が「効かない」と言った場合には、その見方が念頭にあるのです。
その見方というのは、再三言っている、「集団を調べる」事です。「効く」所でも書いたように、色々の要因が絡んで結果が現れる以上、沢山の人々を調べて全体的な傾向を調べる必要があります。個人に効いたからといって他の人に効く保証は無いですし、普通は「効く」と言ったら、「皆(その範囲は色々あるでしょうが)に効く」という話でしょうから。
つまりこういう事です。

Syudankikanai

この画像、緑ゲージの部分が、さっきの「効かない」図と同じに見えると思いますが、実は水色の部分があります(拡大すると解ります)。要するに、集団を確かめてみた所、確かに変化はあったが、その変化がものすごく小さい、というイメージです。
人間の状態は、体調など刻々と変化しています。その意味で、健康状態のゲージがずっと完全に一定なんて事はあり得ません。ですから、効く効かないを確かめる場合、その変化を出来るだけ揃える訳です。それで、その変動を見越した上で、何かを与えたとして、全体の変化から自然の変化を差し引いて、「与えたもの」による変化を調べます。
そして、確かに「与えたものによって変化した」のが判ったとしても、「その変化が”意味のあるものか”」どうかが重要です。それがごく小さい場合、「それが変化しても人間の健康状態などに大した意味は無い」場合がある訳ですね。色々条件を揃えて確かめてみたらほんの少し変化が認められた。でも日常生活ではそれは他の条件の影響などに埋もれてしまうし、そもそも変化が小さすぎて「実質的な意味が無い」と。
これで解りましたね。つまり、きちんとした論者が「効かない」と言った場合には、その言い回しに、「調べた結果、”実質的に効かない”事が確かめられた」という意味が込められているのです。たとえばホメオパシーにおけるホメオパシーレメディなどがそうです。

○「確かめられていない」場合

ここまで、「効く」「効かない」「害がある」の3パターンがあると考えて見てきましたが、これは「確かめられた」場合を主に想定しました。
しかし、当然の事ながら、病気なりに効くと称するものには、「まだ検討されていない」のも含まれます。誰かが新たに考えついたものだったり、発祥は古い広くは知られていなかったものが脚光を浴びたり。
その場合には、「まだ解らない」とするのが慎重な態度と言えます。

Humei

○「効かない」事。多義性3――理論的考察:「おそらく効かないであろう」

慎重、というか、正確に言えば、ある確かめられていない方法は、確かめられていないが故に、その効果のほどは「解らない」とするのが適当です。
しかし、理論的な考察、つまり、それまでに得られた知識に基づいて推測し、「おそらく効かないであろう」と判断する場合もあります。厳密には「解らない」だが、「それは効きそうに無い」とは一応言える(当然、「それは効くかも知れない」という方向もある)。もちろん、「それは絶対に効かない」などと言ってはいけません。調べていないのですからね。ただし、「効かないであろう」を「効かない」と言う場合があり、それは文脈を共有していない相手には通じない可能性があるので、丁寧に説明するのも大切です。

○解らないのなら「試してみる価値がある」?

未検証なのだから、試してみるべきではないか。有効かも知れないのだから、と言う人がいます。
しかしそういう人は、見落としている所があります。つまり、

Kiitehosii

この方向に過大な期待を抱いている。実際には、3つのパターンがあるので、この他にも、1)効かない 2)害がある  という可能性がある訳ですね。そこをちゃんと考えれば、「有効かも知れない」ものは常に、「無効」、場合によっては「有害」かも知れないというのが解ります。

○証拠を提出する責任1:「効かない」に込められた意味

「効かないと言うのなら、言う側が検証すべきである」と主張する人がいます。ここについて考えてみましょう。

まず、「効かない」と言う側がどういう意味合いで言っているかが重要です。これが、
「絶対に効かない」というレベルの強烈な意見なのであれば、「言う側が検証すべきである」とするのは「正しい」。何故ならば、その主張は、「あるものが”効かないとする積極的な主張”」だからです。何かが効かないとするのは、何かが効く、とするのと同様に強い意見です。そして、実質的に「”効かない”事は確かめられる」、というのを先に考察しました。それを念頭に置けば、「効かないと言いたいならそっちが確かめるべきだ」と言うのは妥当です。

○証拠を提出する責任2:「確かめられていないものは無いものと看做す」

科学では、「確かめられていないものは”無い”と看做す」のが基本的な考え方です。
と言うと、「何故そう判断出来るのか。”見つかっていない”のと”いない”のとは別ではないか」と反論される事があります。これは、「文字通り」に取ればその通りです。つまり、「見つかっていない」のは「いない」事の直接の証明にはならない。ですが、「確かめられていないものは”無い”と看做す」とは、そういう意味合いではありません。
ツチノコとか雪男とか、UMA的なもので考えてみます。ああいうのは、目撃証言はあっても、捕獲して検討されたという(事が懐疑的な人間にも認められているという)例は無く、従って「見つかっていない」訳ですね。で、日常会話などで、そういう対象を「いない」と表現する事はよくあります。「ツチノコ? いないよね。」といった具合に。
もちろん、本当に存在しないと思っている場合もあるでしょうが、「まあ見つかってないんだし、いないと思ってもいいのでは?」といった感じの場合も多いでしょう。科学でもそうで、見つかっていないものは、「取り敢えず無いものとしておく」のです。

Siraberu

Siraberu2

これを効果の話に広げると、「確かめられていない」ものは、「効果が無い」ものとしておく、という態度に繋がります。ここで「効果が無い」とは、全く効かないという意味では無いのですね。効くのかも知れないが効かないとしておく、というのが正確。でも、話を共有していない人には誤解される表現ではあります。説明の際には注意を払いたい所です。
※UFOとツチノコと雪男とスカイフィッシュのそれぞれに、「存在しそうな度合い」というものが考えられるように、効果の話においても、「効きそうな(効かなそうな)度合い」というのも当然考えられる。上で書いた理論的考察の事。

○証拠を提出する責任3:効果があると主張する側に責任がある

何故、取り敢えずは「無いものと看做す」かと言うと、何かが存在するとか、効果がある、と言った仮説は無数に生み出せるからです。たとえば私が、「この姿勢を15分取れば腰痛が消え去る」などと言って、独特の主張をしたとしましょう。その場合に誰かが、「そんなの効かないよ」と反応するでしょう。その反応に私が、「効かないと思うのならそちらが検証せよ。効かない証拠が無いのなら自分はこれを奨励する」と反論したらどう思われるでしょうか。
少し考えれば解るように、こういった論法を許すのなら、「キリが無い」という事です。つまり、新奇の主張を一々、「主張者以外に」検討させるのは、徒にリソースを消費させますし、さらに、「効かないと判った訳では無い」という事実を「効くかも知れない」という風に喧伝する危険性があります。文字通りにはその通りですが、実際は、確かめられていない事が3つのパターンの可能性を持つのは再三書いてきている通りです。

ですから、何かをあるとか効くとか主張する場合、「証拠を提出する」責任を持つのは、効くと主張する側です。これは、自分で実験なりして実証するのでも、埋もれた研究を発掘して持説の補強とするのでも、自腹を切って、誰か研究者に依頼するのでも、いずれでも構いません。とにかく、効くと言いたいなら、言う側が証拠を示す必要があるのです。

という事で、何かが効くと誰かが主張し、他の誰かが「効かないよ」と反応したとして、その「効かない」が、「絶対効かない」という強烈なもので無いのなら、そう看做すのは当然です。それに対して「そっちが検証せよ」と言うのは ずれているのですね。ニセ科学などの議論では、こういうのを「立証責任の転嫁」と言い、ニセ科学を主張する論者の特徴として挙げられる事がよくあります。

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2011年7月20日 (水)

「害がある」

害がある。

非正統的な療法を批判する際に使われる表現。○○には害がある。あるいはそれに似たものとして、○○は有害だ、とか。
この言い回し、大まかに考えて2つの意味を持つ、というのは押さえておいた方がいいでしょう。つまり、

1)それ自体が好ましく無い方向の作用をもたらす。

与えるものが直接害を与える事です。毒物とかそういうの。医療の話だと、ある病気にこれが効く、と称しているものに、実は(薬理学的な作用の結果としての)害がある、といった場合。効くと称して販売されたものが健康被害を生む事例がありますね。

2)適切な処置を受ける機会を奪う。

そのものが物質として悪影響を与えなくても、適切な対処をする事を拒ませる。たとえば、ある病気に罹った人がいたとします。そして、その病気に有効であると判っている治療法□□があるとします。で、その人に対して誰かが、この病気には○○が効くから使うと良い、と勧めた場合、その○○自体に直接的悪影響を及ぼす作用が無くても、「□□を受ける機会」を奪う事があります。その病気が軽症であったり自然に治る類のものなら結果的には重大な事にはならないかも知れませんが、適切な療法を行わないと命に関わる、といったものの場合には、大きな問題になります。

「害がある」という言い回しを用いる際には、これらの意味が付与され得るという多義性を念頭に置いておく必要があります。そうで無いと、やり取りが噛み合わない事がある。たとえば、「ホメオパシーには害がある」と言った場合。批判する側は、2)の観点から、スタンダードの医療から忌避させてしまうという意味で「害がある」と主張する。対して庇う側、あるいはホメオパシー問題を過小評価する人は、レメディは砂糖(色々材料はあるが)玉だから「害は無い」ではないか、と言い、それで噛み合わなかったりする。

モンスターハンターでたとえると、リオレウス希少種と交戦中、体力10くらいの状態の人に、「これで体力が回復するぞ!」と毒テングダケを与えるのが 1)の意味で「害がある」。「これで体力が回復するぞ!」と にが虫を与えるのは 2)の意味で「害がある」。

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2011年7月19日 (火)

お知らせ

先日のエントリーに追記しました。

或るトンデモ支持者の履歴――科学的懐疑主義に目覚めるまで(2011年7月19日追記): Interdisciplinary

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なるだけ短く「科学・非科学・ニセ科学」を説明

○科学

1)実験、観察や観測、調査などで得られたデータを処理する事によって、現象の仕組みや法則を明らかにする知的な営み。誤りを防ぎ修正を促す制度として、専門家による審査、あるいは現象の再現による確認(追試)などのシステムが存在する。 2)それによって確立された知識の体系。科学は常に書き換えられる可能性を持つが、蓄積されてきた知識は様々なテストや実用によって確かめられてきているので、根本の部分が簡単に覆されるという事では無い。

○非科学

科学以外の物事。上の1)の観点からすると、経験的に得られたデータを処理して現象の法則性や関連性を考察していこうとする営みで無ければ科学では無い。多くの宗教など。2)の観点からは、科学の方法から確かめられる事柄だが、現状の知見では認められない、あるいは既に否定的な結論が出ている、といったもの――科学史上における誤った説:化学での燃素説や炎素説など。それは、「可能性としては」、後から正しい事が確認され得るが(あくまで可能性)、現状(評価時点)の科学からは認められないという所がポイント。

○ニセ科学

科学のようで科学で無いもの。その時点での科学の知見から外れた事を、あたかも外れていないかのように位置づける言説。仮説段階のものを実証されたと主張するもの(例:ゲームをする事で脳が深刻なダメージを受ける、という説を実証したと主張する)など。科学の専門概念を現象の説明に組み込んでいるもの(血液型を知る事で性格を高い確からしさで言い当てる事が出来る、といったもの)。科学で明らかになっている事から大きく外れた何らかの現象が起こると主張し、「実験」や「論文」などを持説の根拠とするもの。既に充分確からしさが認められているにも拘らず、それが誤っていると主張するもの(相対性理論は間違っている、など)。

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2011年7月16日 (土)

科学コミュニケーション――「態度」の問題

ニセ科学の議論において、「態度」が問題になる事があります。ばっさり切り捨てるような物言いだったり、他者を罵倒するような言葉遣いだったり。

ニセ科学を批判し、それをニセ科学支持者に理解(同意・賛同)してもらうというのは、相手の信念や認識を変えさせる事にほかなりません。
しかし、ニセ科学を信ずる人も、「ただ適当に」信じている訳ではありません。その信念が形成されるには、色々な人の話を聞いたり文献を調べたり、あるいは身近の人の力になりたいという動機があったり、あるいは自分自身の知識を向上させたいという真剣なきっかけがあったりと、様々な経緯、もっと言えば「歴史」があるはずです。その意味で、支持している側だって真面目なのだ、というのは基本的な認識として持っておくべきでしょう。

そういった人達の認識を変えたい、というのはつまり、「説得」の文脈を必ず含むという事です。

言われる側の事を考えてみます。
先日も書きましたが、私が超常現象などにむしろ親和的であった頃に、大槻教授や松尾貴史氏に対し、嫌悪感に近い感情を持っていました。物言いや嘲笑的な態度(に見えたという意味です)を見て、一体何様のつもりだ、と思いました。自分が好ましく思っていたり、信念や生活を支えるものを否定的に言われて、いい気分がするはずはありません。ものの言い方は重要です。要するに、「言っている内容が正しいだけでは駄目だ」という事です。
たまに、物言いについて不満を表明された際に、正しい事を言っているから構わないではないか、と返す人がいます。私はこういうのは開き直りと見ます。内容(論理的、科学的な正確さ)が正しければ、という意見には反対ですし、そう言う人は、心理的・社会的な部分、つまりコミュニケーションの仕方を軽視していると考えます。
自らの事を振り返り、自分自身が頑なで「物言い」に敏感だった頃、あるいは、身近の人の「話の聞かなさ」や「説得の難しさ」を思い出してみれば、いかにその部分が重要かは理解出来ます。

とはいえ、「どういう態度をとるべきか」という一般的な事を決めるのは難しい。いや、厳密に、「このような言い方をしなければならない」と規定するのは不可能だと思います。
と言うのも、特にWEB上などでは、お互いの背景を充分把握しないままにコミュニケーションをとる事が多いからです。対話というのは、互いの知識の程度、好き嫌いの傾向、言葉遣いのクセ、などを総合して、様子を見つつ展開していく行為です。心理社会的現象の価値依存性というか相対性(主に言語の相対性に依存する)が関わるので、まさに一筋縄ではいきません。

ですが、ある種「平均的」な好ましい態度というのはあるでしょう。たとえば話しかける際には挨拶をするとか、文体を丁寧にするとか、そういった簡単な事でも、印象は大分変わるし、誰でも出来るものです。いわば、厳密に範囲を決められないがある程度社会的なコンセンサスを得られている「常識」があるであろう、という事です。
もちろん、だからといって、キツイ(と一般に看做されるであろう)言葉遣いなどが全然役に立たないとは言えません。対話の展開によっては、強い一言が大きな説得力を持つ場合もあるでしょう。それも文脈に依存しており、対話者の関係性が関わっています。

そういうのを考えて、私自身は、なるだけ「常識的」に考えて安全側の言い方をしようと心がけています。具体的には、先ほど書いたような、挨拶をする事、文体を です・ます調にする事などです。WEB上に書いたものは通常、「読む人を選択」出来ないので、誰に読まれるか判らない(読まれやすい層は想定出来るが)という性質を持っています。ですから、平均的に見て好ましい側に倒して書いているのです。

それでもつい書き過ぎてしまう事はあるし、言い方がキツくなる場合もあるでしょう。だから、近しい者同士の相互批判が重要です。
私自身は結構頻繁にやります。さすがにその物言いはダメなのでは? そんな言い方する必要は無いのでは? といった具合に。
ただしそれでも、「そうすべきでは無い」という主張はしません。と言うか、出来ません。何故ならば、先にも書いたように、言葉の受け取られ方は文脈や関係性に依存するからです。こうすべきだ、と言えないのと同じで、こうすべきでは無い、ともなかなか言えない。
また、自分が物言いにお叱りを受けた事もあります。そのやり方では、あまり議論を知らない人が見たら好ましく無い印象を持たれるのではないか、というご批判ですね。
なので、近い所にいる者がお互いにチェックして、コミュニケーションの仕方を調整していく動きが絶えず行われる必要があると思う訳です。

ここではニセ科学議論を例に話をしましたが、もちろんこれは、相手を説得する目的のコミュニケーション一般で考えるべき事だろうと思います。「文字通り」の内容が合っていれば言い方などどうでもいい、という態度は、色々なものを軽視していると言えるでしょう。心理の動きや社会の動きに眼を向けるならば、その部分を蔑ろには出来ません。

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2011年7月15日 (金)

科学コミュニケーション―― 一素人の方法

昨日の続きです。昨日は、「3)」が最も根本的な部分だと思い、長文にもなりましたので、そこだけ独立させて上げました。

※引用元⇒サイエンスコミュニケーションで素人にできることを考える(改題)(2) - ばらこの日記

○発掘

1)金を払ってでも読みたい人を発掘する。

よく本を出している論者以外にも、WEB上に優れた方は沢山おられますね。アンテナを張って、そういった方を補足して紹介する、というのは意義がある事だと思います。
探すコツとしては、はてな辺りの情報に目を向けておく、などが良いかも知れません。はてなブックマークを使うとかですね。そうすれば、様々な方面からの情報が手に入り、優れた論者を見つける事が可能になるでしょう。興味深いブックマークをよくするブックマーカーを押さえておく、というのもありますね。「ニセ科学」タグなどで探すと見つかりやすいです。

○勉強

2)自分が少しでも勉強して受信能力を上げる。受け手の受信能力が上がれば発信する側のハードルが下がる。面白い入門書みたいのがあったら紹介したり話題にする。入門書が間違ってることも往々にしてあるけれど、その場合はそれに対する専門家の突込みを読むことが勉強になる。

ニセ科学、あるいはその他の「不思議現象(超常現象などの事)」に向きあう時に、そういう事そのものを取り扱うのを参考にするのは当然必要ですが、それと同時に、もっと基本的な、「科学」に関する勉強をするのも大切です。たとえば中学・高校の数学や理科を復習するなどですね。そうした地道な事がとても肝腎です。

ここで、いくつか紹介しましょう。

統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books)

著者:大村 平
販売元:日科技連出版社
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昨日も紹介した大村平氏の本。「はなし」シリーズです。いわゆる数学の入門書ですが、非常に面白く、数学とはこんなに役立っているのか、身近の現象と繋がっているのか、という事がよく解るシリーズです。
ただし、中学・高校の数学などほぼ全く憶えていない、という人にとっては、大村氏の本でも難しく感ずるはずです。そういう場合には、中学や高校向けの本を改めて復習するなどすると良いでしょう。高橋一雄氏の本

語りかける中学数学 語りかける中学数学

著者:高橋 一雄
販売元:ベレ出版
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などが良いでしょうか。
他に数学関連でのお勧めは、新井紀子氏や瀬山士郎氏の本が面白く読めると思います。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書) 科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

著者:森博嗣
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先日紹介した森博嗣氏の本です。科学の営みについて丁寧で平易に説明されており、読み物としても面白いです。特に「科学」というものが何か、と意識をした事が無い人にとって良い本だと思います。

科学の方法 (岩波新書 青版 313) Book 科学の方法 (岩波新書 青版 313)

著者:中谷 宇吉郎
販売元:岩波書店
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不朽の名著。私は、何か良い本はないか、と問われれば、迷わずにこの本を勧めます。そのくらいに中谷博士の本は優れています。科学とはどういう営みか。どんな手順で進み、どのような限界を持つか。そういう事が平易に説明されています。

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) 悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

著者:カール セーガン
販売元:早川書房
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科学的懐疑論の界隈では知らぬ者はいないであろう、カール・セーガンの本です。
セーガンのエッセイも、色々の事例を用いて、科学という方法について丁寧に描かれています。なにより、語り口が優しい。他の懐疑主義者であるガードナーやファインマンは(彼らの本も大変面白い)、時に挑発的な鋭い物言いをしますが、セーガンは柔らかいと感じます。個人的にはセーガンの語り口が好みです。

科学と神秘のあいだ(双書Zero) 科学と神秘のあいだ(双書Zero)

著者:菊池 誠
販売元:筑摩書房
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日本のニセ科学論で特に有名な、大阪大学の菊池誠教授の本。菊池さんの本も、非常に優しい眼差しで書かれているというか、頭ごなしに否定するような態度をとりません(人によってはそう見えないだろうけれどそれは措く)。そこが、界隈の論者の信頼を得ている理由でもあるのでしょう。
内容というか問題意識は、森氏やセーガンなどに通ずるものがあると思います。ある意味で当然かも知れませんが。

疑似科学と科学の哲学 疑似科学と科学の哲学

著者:伊勢田 哲治
販売元:名古屋大学出版会
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ここからは、より本格的な本を二冊。まず、科学哲学者の伊勢田哲治さんの本です。
伊勢田さんの本は、科学哲学の中心的な問いの一つである「科学とは何か」という問題を、「疑似科学」、つまり、「科学のようで科学で無い」言説を検討する事によって考察していこうという、科学哲学の本の中でもユニークなものです。そこでは、疑似科学と世間で捉えられている色々の例が分析され、なぜそれが疑似科学と言われるのか、そもそも科学とはどういった営みなのか、という事が、非常に丁寧に論理的に考察されます。より進んだ勉強をしたい人にはうってつけの一冊でしょう。

クリティカルシンキング 不思議現象篇 クリティカルシンキング 不思議現象篇

著者:T・シック・ジュニア,菊池 聡,新田 玲子,L・ヴォーン,Jr. Theodore Schick,Lewis Vaughn
販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

クリティカル・シンキング(批判的思考)の入門書。ものごとを慎重に、健全な懐疑的姿勢でもって見ていく方法を、「不思議現象」という概念を検討しつつ考えようという本です。私は、ニセ科学やクリシンの本格的な本で良いのは何かないか、と訊かれれば、まずこの本と伊勢田さんの本を勧めます。これらを読めば、関連の議論における大体の論点は押さえられるでしょう。
また、この本の訳者である心理学者の菊池聡氏の本も大変良いです。「不思議現象」というのは、超能力やいわゆるUFO、あるいは万能の治療法、といったものの総称ですが、これらは身近で見聞きするトピックだけに、興味も惹きやすく、読み物としても楽しく読める事でしょう。

○履歴

3)もし、自分が過去にトンデモな情報を信じていたとか、信じるだけでなくて他の人にも自信満々発信していたとか(私です)そういうことがあれば、そのプロセスをできる範囲で言語化し公開する。それは必ず同じ轍を踏む人が立ち戻る際の参考になる。だまされる人が減れば「だまされる人を減らす」ために費やされているエネルギーをもっと生産的な方向に振り向けることができる。

ここに関しては、冒頭でリンクした昨日の記事で書きました。少々長いですが、よろしければお読み下さい。

○ネットワーク

4)信頼できる書き手の情報を共有する。自分が毎回全部追わなくてもだいたいこの方向の情報を追っていそうな人と知り合いになっておく。必ずしも本当に知り合う必要はなく、この問題に関してこの人は詳しいなと見たら一方的に友達に(なったつもりに)なる。なんかあった時に精神的に近いところにその問題に詳しい人がいれば落ち着いて考えられる。

ここはやはりWEBの強みで、最近は、はてなブックマークやtwitterなどがありますね。この人の発信する情報は興味深い、と思った場合に、お気に入りに入れたりフォローしたりしておけば、リアルタイムで追っていなくても、ちょっとした(整理は必ずしもされていませんが)データベース的なものが自動的に構築されていく事でしょう。時には直接の対話により、アドバイスをもらったり情報を教えられたり、というのもあります。

○説明を強いる事は相手にリソースを消費せしめる事

5)無茶を言わない。即座に適切な説明が与えられないからといって逆切れしない。専門家はそんなに暇ではないことを知る。無責任な煽りには動じない。

しばしば、「詳しい者が説明するのが当然」であるかのような考えを持っている人がいます。しかし、説明しろしろ、というのは頂けませんね。対象はプロフェッショナルであり、弛まぬ努力で知識と認識力を磨き上げてきた人達です。そういう人々から知識を得るというのは、相手に資源を消費させている事にほかなりません。本来、「金を払って得る」類の知識である訳です。そういう観点から、専門家には敬意と感謝の念を持っておくべきでしょう。あるいは、自身の能力で補足出来る部分があれば、フォローしていく、というのも重要でしょう。

○実行と表明

6)積極的にだます方に加担している人、影響力のある立場にいながらデマを振りまいて改めない人については批判できればする、している人を支持する、最低でもちやほやしない。騙されないぞということをはっきり見せつければ詐欺師は退散する。上に書いたことともかぶるが(そして前回チョムスキーを持ち出していいたかったことなのだが)サイエンスコミュニケーションのうち、「アホな言説を振りまいている人に騙される対策」に注がれるリソースは騙される人がいなければもっと生産的なものに振り向けられる。

私自身の事で言えば、まずゲーム脳言説(と森昭雄氏)を継続して批判してきました。関連する情報をマスメディアが肯定的に採りあげた場合にも、ブログで記事を上げて批判しています。その影響は大したものではないでしょうが、少しでも情報発信として役立てられれば良い、と思っています。
また、WEB上でニセ科学的言説を支持している人に対して意見を言う事もあります。ブログで書いている場合には、コメントしたりなどですね。この時には気を遣います。挨拶は必ずする、言葉遣いはなるだけ丁寧にする、といった具合に。小学生が書いているブログ(ゲーム脳を支持していた)にコメントをした事もあります。
それから重要なのは、「相互批判」でしょうね。つまり、同じ対象を批判する者同士で批判する。批判が雑であったり的外れだったりすれば、批判活動にとってはマイナスになるかも知れないし、相手を罵るような態度も好ましく無いので、なるだけ言うようにしています。尤も、言葉遣いに関しては社会的なコミュニケーションの問題で、一般にこうすべきである、となかなか言えないものがあるので、また違ったむつかしさがあります。

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以上、ばらこさんが示された6個のポイントについて、それぞれ考えを書いてみました。
到達した所が同じでも、「道筋」は色々のバリエーションがあります。人間の経験とは非常に複雑なものです。ですから、それぞれの論者が自身の経験に基づいて情報発信していく事で、同じような道を辿っている人に何らかのヒントになったり、自分の経験してきた事との違いが意識出来て有用な情報が得られる、というのもあるでしょう。ばらこさんの提案には大きな意義があり、賛同出来ると考えましたので、昨日と今日、自分の経験をある程度詳しく書いたエントリーを上げました。

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2011年7月14日 (木)

或るトンデモ支持者の履歴――科学的懐疑主義に目覚めるまで(2011年7月19日追記)

ばらこさんのエントリー⇒サイエンスコミュニケーションで素人にできることを考える(改題)(2) - ばらこの日記

3)もし、自分が過去にトンデモな情報を信じていたとか、信じるだけでなくて他の人にも自信満々発信していたとか(私です)そういうことがあれば、そのプロセスをできる範囲で言語化し公開する。それは必ず同じ轍を踏む人が立ち戻る際の参考になる。だまされる人が減れば「だまされる人を減らす」ために費やされているエネルギーをもっと生産的な方向に振り向けることができる。

この部分について、私自身を例にして記述します。今まで何度か書いてきましたが、時系列に沿ってまとめて書いてみましょう。
特に普遍性も無く、そのまま他者の参考になるものでもありませんが、トンデモ的言説に親和的であった人間の変遷の事例として見てもらえれば良いかと思います。

※ここで「トンデモ」とは、オカルトや超能力、ニセ科学的な言説の総称として用いました。語源からすれば適切ではありませんが、総合して上手く言い表せる語が他にありませんでしたので、使いました。

※2011年7月19日追記:「トンデモ」の語について、より詳しく補足する必要があると考えたので、twitterでのむいみ氏・うさぎ林檎氏とのやり取りを載せます。

○子どもの頃

御多分に漏れず、と言いましょうか、幽霊、超能力、その他のいわゆる超自然的な現象というものは、「ある」と認識していました。テレビでよくやっていた怪談もの、超能力か?という演出がなされたマジックショー、そしてオカルトや幽霊を扱っているマンガ。

フィクションからも強烈に影響を受けました。代表的なものは、つのだじろう作品。『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』ですね。うしろの百太郎を読んで、守護霊を呼びだそうなんて事もやったものです。夜眠れなくなる、なんて当たり前でしたし。

『ムー』も読んでいて、付録でついてきた御札を箪笥に貼ったり(実際にやったのはきょうだいですが)、という事も。

こういう事を信じていた子どもというのは、自分の周りではよくある話というか、まあ「普通」でしたね。と言っても、積極的に話題に上げる、というのはあまり無かったように記憶しています(多分、きょうだいの影響が大きい)。

○子どもの頃2

※少々特殊、というか、シリアスな話です

私は、同居していた家族に、特定の宗教の信者はいませんでした。祖父母が仏教徒ですが、周りの人間によって形成された自身の宗教観としては、神様がいるのだろうな、というくらいだったのだと思います。素朴で、誰にでもあるものですね。

でも、いつ頃からでしょう。小学三年とかそのくらいかな。まあ、色々な心理的な動きがあったのでしょう(詳しく書きません)。自分で「神」を「創造」しました。既存の宗教にある超越的な概念を信仰する、のでは無く、自分で作った訳です。つまり、自身を含め人間全体を常に監視する存在。人格的かどうかはもう憶えていませんが、自分は日頃の行いに応じた報いをその存在から受ける、と認識し、超越的監視者として脳内に据えたのです。
その概念の形成については、周りの人間からの情報、フィクションやテレビから得た情報、などが総合されてなされたのでしょう。社会心理学や発達心理学などで色々考察されていそうですが、よく知りません。

ともかく、そういう経緯があり、形而上学的概念を受け入れた、というか、自身の人格を留めるものとして強烈に刻み込んだ訳です。

○子どもの頃3

なんとなく、この頃の人格形成に大きな影響を与えたと思われるものとして、ゲームとおもちゃがある、と自己分析しています。

ゲームに関しては、後で書くように、プログラムに興味を持つきっかけになっているというのもありますし、典型的な「デジタル」な物でしたから、そういう部分に親和的になったと思います。
おもちゃ、ですが、変形ものが大好きでした。きっかけはよく判りませんが、とにかく好きで、手順を踏んで動かしていけば別の物(乗り物→ロボット とか)に変化する、というのが堪らなく好きだったのです。
他にも、エアガンだったりモータで動くおもちゃだったり、メカニカルな物は好きでしたね。自分では、今もある「仕組み(メカニズム)」を強烈に志向する人格はそれらによって作られたと思っています。

○学生時代~

大体、中学~高校卒業後、辺りを示すとしましょう。
とにかく勉強が嫌いでした。特に数学。多分、論理的思考が嫌いとかそういうのでは無いと思います。と言うのも、小学六年生くらいに(これまで、小四くらい、と書いた事がありますが、多分小六が正しい)コンピュータプログラミングに偶然触れ、プログラミング言語(BASIC)を独学していたので、論理的に考えたりアルゴリズムを辿ったり、といった事には、むしろ興味があった方なのかも知れません。
でも、それと「数学」が結び付けられる事は無かったのですね。これもよくある話ですが、「一体何の役に立つのか」と強烈に思っていたのです。中学になって習う内容がいきなり抽象化され、身近の現象と対応付ける事が出来なくなって、「面白く無い」という認識が強烈に形成されました。かといって、抽象的で壮麗な数学体系の美しさと面白さに気付く、などという方向に行くはずもなく、やってられるか、となりました。
数学的な抽象化された知識体系を学ぶのは重要ですが、いきなりジャンプして教えられたから、興味を持てなかったし、反発を覚えたのでしょうね。元々実学志向的な所があるので(今もそうです)、役に立たない事は詰まらない、と。あるいは、周りが「嫌わせる教育をする」のもあったでしょう。「将来役に立たないよ」という嘘を大人が教えたのです。

そういう事もあり、特に理科系分野(自然科学諸分野)が嫌いでした。メカニズム志向だったのに嫌い、というアンバランスがあったのですね。自分が好きなものを支える理論的・技術的な基盤はまさに理科や数学だった訳ですが、気づけなかった。

オカルト的なものなどに対する姿勢は、大きくは変わりませんでした。といっても、学生時代に、充分にひねくれた思考を鍛えられたので、「本当にあるのかいな」という目で見るようにはなっていたかも知れません。ほら、「そんなの信じてるのかよ(笑)」というの、ありますよね。サンタクロースを信じているか否か、というのなんかは典型的かも知れませんが、そういうのが、オカルトや超能力辺りにもある。子ども時代のナイーブさからは段々離れてはくるのですね。でも、超能力はあるかも知れないと思っていたし、幽霊もいるかも、と考えていた、と記憶しています。

○大槻教授や松尾貴史氏

これは、学生時代~によく思っていた事です。
今もたまにありますが、ビートたけし氏司会の番組で、超常現象について、肯定側と否定側に分かれて議論を行う、という番組が放送されていましたね。あれをしばしば観ていました。

そういう番組を観ていて強く思ったのは、「否定側の頭の固さ」です。
つまり、否定側は、頭ごなしに肯定側の言う事を蔑ろにし、時に嘲笑する、非常に態度の悪い人達である、と認識したのです。小見出しに挙げたお二方は、その象徴です。なんなんだこの人達は、という感情を懐いていました。
そういう時に同時に持つ認識は、「自身の思考の柔軟さ」だったりするのですね。つまり、宇宙人の観測にしろ、超能力の実在にしろ、「完全に否定出来ないではないか」という「慎重な思考」を自覚していたのです。典型的な物言いである、「見たものしか信じないのは傲慢だ」という見方。

大槻教授や、否定側の「学者」などの物言いというのは、演出や編集によっても印象誘導がなされていたのでしょう。まんまと引っかかっていた訳です。その結果、「科学」(と明確に意識したのでは無いが)というものに直感的な不信感を懐きました。

○『美味しんぼ』への傾倒

フィクションが強い影響を与えた例

出た最初は、いわゆるグルメマンガ、程度にしか認識していませんでしたが、ちゃんと読むようになってから、その「本物」志向的な部分にやられました。
同じような経験をした人が結構いると思うのですが、この作品によって作られた偏った認識は多いです。たとえば食品添加物・化学調味料忌避であったり、自然・天然志向だったり。それから、画一的な製品を作る工業製品にも嫌悪感を持った覚えがあります。塩は食卓塩じゃダメなんだ、天然が良いのだ、みたいに。
本質的なものを求める、という方向性を持つ人は、そうなりやすいのかも知れませんね。今も、食に関する論を展開する人で、似たような主張を展開している人は、よく見かけます。工業製品忌避とセットになって科学に対する非難を行うのもありますね。

○武術への関心

私が武術に関心を持ち始めたのは、確か高校を卒業するより少し前くらいでした。それまでは格闘技が好きで、その流れでちょっとしたきっかけがあり、という感じで。
で、武術の知識を持っている方はご存知だと思いますが、武術は、思想的基盤あるいは技法の説明についても、東洋の神秘思想的なものを用いる事が頻繁にあります。宗教的概念であったり、自然科学的自然観に対立するような自然観だったり(初めから科学的分析を忌避する「気」概念はかなり普遍的でしょう)。ですので、そういう概念を用いつつ、「科学では解明出来ない」「科学を超えた現象」を前面に押し出してアピールするものもしばしばありました。

その流れで、武術における「達人のエピソード」の知識も色々仕入れる訳ですね。ちょっと触れただけで相手が絶命する神技とか、軽く数メートル跳躍するとか、そういった類の。
そういうのに触れていると、「科学を意識した」言説にも出会います。上で書いたように、科学では解明出来ないのだ、とはっきり書いているものなど。

○高岡英夫

そういった流れの中で触れた論者の一人が、高岡英夫という人です。武術界では著名だと思いますが、武術を「科学的に」解明する事を主張する論者で、多分、当時の界隈では結構珍しい存在でした。
このブログでもしばしば書いている事ですが、私は高岡氏に強烈な影響を受けています。人生を大きく動かした、と言っても全く大げさではありません。それは、「”科学”で武術を見る」事と、東洋神秘思想や武術における信じがたいエピソードの肯定的分析、といったものです。そこでは、ポパーやクーンなどの、科学哲学でお馴染みの名前、ソシュールやポアンカレ、ヒルベルト、フロイト、あるいは現代思想の巨人達、といった「科学を変えた(と高岡が看做している)」人達の名前が出てきて、「反証可能性」といった言葉も知りました。つまり、分野的には、科学史・科学哲学・現代思想・記号論 といったものからのアプローチで、当時の「流行り」の思想でもあったのだと思います。「ホーリズム」なんかもそこで知ったのですね。
そこで私は、「科学」を「意識」したのです。それまで「科学って」という事自体全く考えてもみなかった自分が、理科や数学を真面目に勉強せずに理論の体系にまともに触れてこなかった自分が最初に触れた「科学を意識させる」言説が、まずメタ科学的なものだったのです。

○「意識」とニューサイエンス的な

高岡英夫氏は、いわゆるニューサイエンス的な言説を展開していました(今もそうですが)。つまり、「意識」の概念をよく持ち出し、「ホリスティック」な見方の重要さを説く。そして、現代実証科学の「アトミズム」を批判的に検討し、「新たなアプローチ」を主張する。
そういう論者ですから、超能力やオカルト的なものに、むしろ親和的です。自分でもそういう事が出来た、と主張するくらいですから、「科学に明るい者がそれを支持する」という印象は強烈です。しかも、高岡氏はすさまじく頭が良い(本を読めば判る)。ですから、そういう論に触れて私も、「”科学的”に見ても無いとは言えないのだろう。いや寧ろあるのだろう」となったのです。

「意識」を意識してきたので、「意識とは何か」といった類の本も読むようになりました。茂木健一郎氏と天外伺朗氏の共著を読んで感銘を受けた(と思う、多分)のも、今では懐かしい思い出です。科学哲学や科学史に関する本も読みました。村上陽一郎氏の本などですね。

○そして、時が経ち

そういう情況が続き、方向性はともかく「科学に関心を持つようになった」のですが、その流れで、心理学や社会科学方面にも興味を持つようになりました。と言うのも、高岡氏がそういう分野の概念も援用していたから、これはそっちもちゃんと勉強しておかなければならないな、と思ったのです。最初は、入門書を読んでも、「全く意味が解らなかった」のですが、当たり前ですね。なにしろ高校で生物すらやっていない(心理学では知覚の所で、必ず生物学的な部分が出てきます)し、術語の塊だから、どこからどう調べればこの書かれてある日本語が読めるのか、途方に暮れました。元々高岡氏の本もそうで(哲学の用語も沢山出てくる)、1ページに出てくる語で10個くらい解らないものがあり、一々辞書で調べて読む……というやり方をしたのですが、心理学では、先に書いたように生物学の知識が必要だったり、数式が出てきたり、という風に、理科の話が満載だったので、きつかったですね。

と、こうして見ると、色々な分野に幅広く興味を持って、と思われるかも知れませんが、全くそうでは無くて、自然科学方面の分野は無視していたのです。「自分が興味のある分野を集中してやるのが良いのだ」という都合の良い先入観と、自然科学・数学 嫌いが、「そこに関わる部分だけを読み飛ばす」という所業に繋がりました。心理学で言うと、統計の部分を読み飛ばしたり。

○2002年 すべてがFになる 森博嗣作品との出会い

私がゲーム好きなのは、このブログの読者なら痛いほど解る(不思議表現)と思いますが、ある時、同じくゲーム好きの友人から勧められたのが(実は、友人は森博嗣好きじゃなく、キッドのソフトをよくやっていた、という経緯)、『すべてがFになる』のプレイステーションソフトでした。
実に面白かった。先にも書いたように、私は数学嫌いだったとはいえ、論理的思考というか、パズル的に言葉を組み立てていくものは好きだったのですね。そして、森博嗣氏の描く、それまでとは全く違う類の人格を持ったキャラクター達。もともと冷笑的な自分にはぴったりの設定で、書籍版を読んで完全にハマったのです。
森氏を知っている人にはお馴染みですが、彼は「理系作家」と呼ばれていましたね。書いてあるのは、工学的な知識や考え方で、それまで自分が全然知らないものでした。いやあ、この人はすごいなあ、と思ったものです。サイトを見に行って、WEB日記なども読みましたね。
そこで展開されている論が、本当に面白かった。今思い返すと、実証科学方面、工学方面のスタンダードな見方でしたが、自分は全く不案内の事だったから、一々新鮮でした。
「少年犯罪は実は増えていない」というのも、森氏の本(と「反社会学講座」)を読んで、え、そうだったのか? となった事でした。とにかく、常識と直感しているものを全て解体するくらいの姿勢でなくてはならない、というのを(勝手に)教わったのですね。

森氏は、高岡氏、後述の大村氏、とともに、私に影響を与えてくれた方です。今では、森氏の本を批判的にも検討するようになり、なんだか感慨深いものがあります。

○2002年 ゲーム脳の恐怖

この新書が売れた事は、ゲーム史史上最悪の出来事の一つといって良いでしょう。
きっかけは、おそらくファミ通での浜村氏の評論だったと記憶していますが、定かではありません。とにかく、存在を知ってから、これは読まねばならないな、と思い買いました。
本を読んでどう思ったか、はここで何度も書いたので、詳細はそちらに譲りますが、「ひどい本だ」というのが一言での感想です。
今もその時買った本は持っていますが、赤の書き込みだらけです、本で見られる矛盾点や論の展開のおかしさをチェックし、批判を書き込んでいます。あの本は、科学云々の前に、そういうレベルでのおかしさに満ち溢れていたのですね。
もちろん、当時の私に科学(主に実証科学の方法や手続き)に関する知識はほぼありませんでしたから、そういう批判しか出来なかった、というのもあります。

○~2004年頃 それでも超能力捜査を……

マクモニーグルの番組だったと思いますが、超能力捜査関連の番組を、家族と観ていました。そこで私が家族に問うたのは、

「このような現象はあり得るか?」

というものでした。私はこの時、「充分起こり得るだろう」と思いながら訊いたのです。家族の返答は気の無いものでしたが(内容も憶えていない)、当時にはもう心理学の勉強を始めていたにも拘らず、こういう考えでいたのです。要するに、「世界がそうなっていれば可能である」という認識。もちろん論理的にはそれは正しい。が、「世界に関する知識」が足りなすぎたのですね。「まあ起こらないと言っても構うまい」というのが、科学の知識によって与えられる答えだったのだから。

○2004年頃~

きっかけは、多分掲示板です。

私がネットを使い始めたのはそんなに早く無く、確か2000年か2001年頃です。それまでは、パソコン怖い、ネット怖い(友人経由で少しは使った事があった)、という認識だったのですが、ちょっとしたきっかけで使うようになりました。
で、掲示板なども見るようになる訳ですね。そこで痛感するのが、「世の中にはこんなに頭の良い、ものを知っている人が沢山いるのか」という事で。
そうすると、自分の無知さを否応無しに思い知らされます。いやこれは自分馬鹿過ぎるだろう、と。
それで、2004年くらいにあるきっかけがあって、
「身近のあらゆるものの仕組み知りたい」
と思うようになったのです。ふと考えてみれば、自分はあまりにもものを知らない。身近にあるテレビ・扇風機・ゲーム、蛍光灯、PC、自動車などの乗り物、等々、あらゆるものを知らない。これではいけない、と考えて、勉強しようと思い立った訳です。

身近にある物の仕組み、それはほぼ工業製品ですので、当然、自然科学と工業の知識が基盤になっています。ですから、そちら方面に関心を向けるようになったのですね。手始めにナツメ社の図解雑学シリーズを読みまくろう、とかそういう事から考えました。

ここら辺で、興味関心を持つ分野が飛躍的に広がりました。専ら人文・社会科学系を志向していたのが、いわゆる理系にも広がるようになったのです。

○200*年? 数学の面白さに気づき始める

多分これは偶然

私の周りに、数学に興味のある人間は皆無です。従って、その分野の面白さや実用性に気づかせてくれる人も皆無です。既に高校卒業は遥か彼方なので、数学に触れる人間自体が全くいませんでした。

先に書いた2004年の話とどちらが先かはちょっと憶えていないのですが……ある時本屋をまわっていて、工業・工学方面のコーナー付近を歩いていました。数学の解りやすい本がないかな、といった動機だったかはもう忘れましたが、そこで、ある本に出会ったのです。

それが、大村平さんの本、「はなし」シリーズでした。立ち読みして、この本は良い、と直感したのだと思います。最初に買ったのは、『幾何のはなし』か『論理と集合のはなし』のどちからでしたが、衝撃を受けたのです。こんなに解りやすくて面白い数学の本が存在するのか、と。
あまりに陳腐で、こういう言い方をするのもどうかと思いますが、「この(著者の)本にもっと早く出会っていれば」としみじみ感じました。時折、大村さんの本に救われた、と書くのは、大げさな話では無く、本音です。

○ターニングポイント:2005年 ブログを作る 疑似科学概念に触れる

当時、高岡英夫氏の論と、ゲーム脳についての論に興味を持っていて、WEBで情報を収集していましたが、そこで思ったのは、「これでは足りない」という事でした。
高岡氏には賛否両論ありましたが、褒める側はなんでもかんでも褒め、批判する側(主に長野峻也氏を想定する)も、尤もな部分はあるが的外れな論も展開している、という風な不満を持っていました。
ゲーム脳に関しては、どうもアプローチの仕方が足りないのではないか、もっと他に書けるのではないだろうか、と感じていたのです。

そこで、なら自分で書いてみよう、と思い至ったのですね。それが2005年。前の休止直前のエントリーで書きましたが、ブログを作るきっかけは明確で、「高岡英夫評論」と「ゲーム脳論」の2つです。

それにしても、今思い返すと、随分と自惚れていたというか、思い上がっていたものです。自分なら、他の人には出来ない観点からのものが書けるかも知れない、というよくわからない自信があったのですからね。まあ、どの程度達成出来ているか、その評価は読者に委ねます。

ブログを作る時期の前後に(多分、前です)、色々調べていた訳ですが、「ゲーム脳」や「血液型 性格」などでWEBを検索する内に、「疑似科学」「似非科学」といった言葉を見るようになりました。疑似科学の語は、科学哲学の本などで目にした事はありましたが、そんなに強く意識して考えてはいませんでした。それが、自分の興味を持つ事柄に結びつけて用いられていたのですね。大きなきっかけは、血液型性格判断で鋭い論考を書かれていた中猫さんです。

そして、同時期に、天羽優子さんや菊池誠さん、田崎晴明さん等の「ニセ科学」論にも触れた訳です。中猫さんの論も含め、そこでは、「科学のようで科学で無い」という意味で「疑似科学」「ニセ科学」の語が使われていたのです。これが、「出会い」といって良いでしょう。

○2006年辺り 統計学や疫学に興味を持つ メカニズム論からの脱却

ニセ科学論に触れると、統計解析や疫学の重要さがしばしば説かれています。つまり、集団を観察してその全体的な傾向を見出したり、色々の条件を統制して実験を行い、そこで得られたデータを処理して因果関係を見出す、といった科学のプロセスにおいて、誤差の評価を行ったり各種統計量でデータのあらましを記述するツールとしての統計学の重要さに気付き、現象の詳細な構造は解らずとも入力と出力のあいだの因果関係は解明出来る、と考える疫学の方法を知ったのです(特に、作家の川端裕人さんと、菊池誠さんの案内がきっかけとなった)。

これは、心理学の本を読んでいて、統計の部分だけ飛ばす、という愚行をしていた頃からすれば、劇的な変化です。このような部分の重要さに気づけるかどうか、というのは本当に色々なきっかけが関係しているのだな、と思います。

疫学や、それに類似の方法を用いる社会心理学などの重要さは、ニセ科学論においては、血液型性格判断を考える際に重要です。菊池さんがこれを「練習問題」と位置づけているように、科学を知っている人でも勘違いしやすい問題だからです。つまり、「仕組み」が解らなくても、科学的命題を検証する事は出来るし、「メカニズムが解らなければ科学では無い」という判断自体が狭い見方である、という事です。ここが理解出来ていない人がいるというのを知りました。

○科学の手続き

この前後で、科学には「手続き」が重要だというのを認識しました。査読制度であったり、他者の追試による、主張の確からしさの確認、といったもの。読むものが、セーガンやファインマン、中谷、ガードナー、フリードランダー、パーク、などといった科学者による物にシフトしていった、のも大きいでしょう。それまでは、科学に関心がありつつも、読むものはメタ論を展開しているものが主でしたからね。もちろんその観点は大事ですが、それだけでは見えてこないものがあります。ベタとメタは両方必要で、メタな認識を得る事は、むしろスタート地点なのです。

○2007年辺り クリティカル・シンキング

何故かはよく解りませんが、このブログには、大変優秀で思慮深い方々がコメントを下さります。ブログの本体はコメント欄である、と自負しているくらいです。
それで色々交流していて、「クリティカル・シンキング」という考えを知りました。日本語だと批判的思考ですね。つまり、物事に接するにあたり、健全な懐疑的精神を持つ姿勢、という事です。これだけだと抽象的過ぎるでしょうから、詳しくは、『クリティカルシンキング 不思議現象篇』を読んだり、ASIOSのサイトを参照するなどすると良いでしょう。

おそらく無自覚の内に、ニセ科学批判論に触れる事で、クリティカル・シンキング的な見方も備わってきていた、と思います。それが、その概念を教えてもらい、より明確に自覚するようになったのでしょうね。クリシンとニセ科学批判は通ずる所が多分にありますので。

○今に至る

おそらくその辺りで、現在の基本姿勢のようなものが かたまった、と思います。結構長かったですね。回り道を大分しました。
ただ、(これは自分への慰めでもあるでしょう)回り道をしただけに、「回り道をしてきた人」の気持ちも多少は解るのではないかな、と思っています。なにしろ、超能力捜査を信じていたのが2000年代なのです。つい最近です。
だから、「信じている人」を私は哂う事は出来ない。いや、自分を棚に上げて他者を哂う人は沢山いますし、私もそれが無いとは言えませんが、この事に関しては、どうしてもそういう反応が出来ない。時折、批判者の言葉遣いや態度に噛み付く(と自分で表現しておきましょう)のはそのためです。誰にだって、「知らなかった時代」はあるのです。それがたとえ、最高の知性を持った懐疑主義者であろうとも。

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以上、科学者でも無い、平凡な知性を持った人間が辿った履歴です。たとえば数学者が「数学は苦手だった」と言ったり、自然科学者が「理科が嫌いだった」というのとは次元の違う(もちろん、私の方が低いという意味)体験です。なにしろ20歳過ぎまで割り算の意味も円周率の意味も知らなかった人間です。掛け値なしに無知であった者の証言です。
特に参考にはならない話ですが、全く科学というものを考えてもこなかった人間が、そこに興味を持ち、さらにはニセ科学や科学コミュニケーションといったものにまで関心を持つようになった道筋を記述するのは、まあ少しは意味があるのかも知れません。

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2011年7月13日 (水)

メモ:抜刀局面2

もうちょい具体的に。

※メモ。内容の妥当さは保証しない。力学的、解剖学的な正確さも同様。

  • 手。握り締め。
  • 拇指球と小指によって刀の時計回りの回転運動を促す。
  • 鞘の中に刀があるから、運動として邪魔。
  • 木剣を持つ。手で鞘を作ってふんわり握る。抜刀する。右手は握り締めつつ抜いていく。
  • 鞘を持っている手が腰から遠ざかるように動く。これを実際の鞘であれば、と想像せよ。
  • 刀は薬指と小指でしっかり握る、とよく言われる。抜刀局面と比較する。
  • 抜刀時、右手は身体から遠ざかる。そして鞘から離れる。
  • 鞘と刀身の位置関係が拘束を受けることを考える。
  • 抜刀の際、薬指と小指を意識して握るとどうなるか、想像する(最初に書いた事に繋がる)。
  • 抜刀の鞘走り局面には、抜刀後の操法と共通しない事を考える。あるいは、「共通しなくてはならない」理由はどこにも無いと考えよ。
  • 鞘離れ局面では、斬る対象に刀は接しない。
  • 従って、手は「物を切る」ための持ち方をする必要は全く無い。
  • 合目的性。ここでの目的は。
  • 「いかにぶつからず、いかに速く、いかに無駄な体力を用いずに」抜くか。
  • 回転の支点。
  • 鞘をレールと考える。その中を刀身が走行する。
  • 抜刀局面において、刀の刃が下を向く事は(通常)無い。
  • 刀身は鞘内を「滑っていく」。
  • その際、右手で「握る」とどうなるか考える。
  • 最初に書いた事が関わってくる。
  • 手で刀に近いのは、虎口の方。ここらへんで挟む。
  • そうして刀身を引き摺ると、そこを支点としたような運動を刀はする。刃は上向きなので、峰側が重力で鞘に押し付けられ、引っ張れば鞘内を滑る。金属と(油を含んだ?)鞘が滑るので、かなりなめらかな運動となるだろう。それより余計な運動を刀にさせてはならない。
  • 鞘の内側の空間の大きさを考えれば、刀身との摩擦を無くす事は不可能。であるから、いかに綺麗に中を接しながら走っていくか、と考える。
  • 支点。といっても、ある程度大きい面で柄に接している。手の表面は軟組織であり、緩みがある。そういう意味では、一軸周りの回転運動では無い。手を柔らかく保っておく事で、刀は自動的に適切な角度を保つ。
  • 実験。柄を「親指と人差し指で挟むように」持って抜刀(木剣が軽いのでやりやすい)。
  • 手全体(人差し指~小指)までを密着させようとすると、手と柄との角度が制限されるため、刀身と鞘の関係が崩れる。手首の撓屈角度にも限界がある事を考慮せよ。撓屈の限界をカバーするには肘関節が屈曲しなくてはならず、それでは刀を充分に前に持って行けず……となり、無理が生ずる。
  • 刀は抜ければ良い。柄を「グッ」と持つ必要は無い。それは刀身を素早く動かす運動に寄与しない。
  • グッと持つ事で、掌から柄に、色々の方向からの力が加わる。それは単に柄に密着させるために働くだけ。
  • むしろ、(手が無駄に刀身を回転させてしまう事は先に書いた)前腕の筋肉を余計に働かせる事で、手首関節の柔らかい運動を阻害する可能性がある(吉福康郎の『武術「奥義」の科学』を参照せよ)。
  • 手が柄から滑ってしまわない最小限の力を加えれば良い。
  • どちらかと言えば、「鞘離れまでは」手を「振るのと逆側」に運動させる「感じ」。合気道経験者は、小指側の手首付け根辺りを意識して鋭く斬り下ろす正面打ちを想像せよ。手首の返し(尺屈方向)などは「我慢」する事。
  • 測定。上のような理由から、上手な達人の抜刀局面、鞘離れまでは、前腕の筋群は強力には活動しない事が想像出来る。
  • 当然、刀を振っていく局面では激烈に活動するはず。剣術の達人が、全身はごつく無くても前腕が異様に太い場合がある、というのを考えよ(刀のスイングと静止に働く)。
  • 刀が鞘にぶつからずに運動するように身体を奉仕させる。刀が主。腰と左手の引きも、右手の出し方も。そして、刀の為にこの両者が合理的整合的に働いた時に、身体を「割る」操作が実現したと認識される。

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2011年7月 9日 (土)

メモ:抜刀局面

何日か前に、抜刀時の手(鞘離れまで)に関して気づきが得られたのでメモ。多分、この視点から考えている人はほとんど存在しないと思う。

はっきりとは解らないように列挙(きちんと書くには知識とデータが不足しているので)。

  • 手。握り締めるかどうか。
  • 握り締め、手によって刀に与えられるトルク。
  • 鞘と刀身。刀身の向き。レール。刀身の回転が与える何か。
  • 鞘と刀身。摩擦。金属と木(油含まれる)。
  • 持ち方。クリップ。人差し指側。指が与える力の方向と数。引き摺る。
  • 手と柄。摩擦。動摩擦係数。ギリギリ離れない。
  • ヒンジ。柔らかい構造。
  • 握り締め。固定。固い構造。要らない内力(と言っていいか?)。刀身の運動に必要最小限の外力。
  • 鞘離れまで。並進運動中心。回さない。
  • 測定。達人。鞘離れまで。前腕の筋群。おそらく強くない。鞘離れ以降に強烈に活動か。
  • 「刀はどう運動すべき」を考えよ。合目的性。刀を中心に。

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2011年7月 5日 (火)

科学コミュニケーション:一撃の威力

昨日紹介した森博嗣氏の本。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書) Book 科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

著者:森博嗣
販売元:幻冬舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する

昨日twitterでも書いたのですが、この本は、科学コミュニケーションの領域において大きな意味を持つ本となる可能性を持っているのではないかな、と思います。

というのも、いわゆる科学コミュニケータや専業の科学者が書く物と比較して、想定される、言説が届く広さ、層、総量、などが全く違う、と考えられるからです。森氏は著名な小説家ですので、潜在的に獲得し得る読者層は幅広く、人数も多いでしょう。「科学」にそこまで強い興味を持っていなかったが、森さんが書いたものなら、と思って手にとる、という人もいるでしょうし(森氏の本が好きなら既に科学に興味がある、という人も多いかも知れないけれど)、新刊書として書店に平積みされていれば(私が買った書店ではそうだった)、著者を知らない人でも目に入る可能性も高いでしょう。いわゆる「桁違い」の影響力を及ぼし得るであろうな、と。そして、その結果(及ぼした影響の程度)はデータ、つまり端的には「売り上げ」を指標として評価する事が出来るでしょう。

これは、「名前」「知名度」といったものが普及に大きく働くという現象だろうと思います。構造的には、「ホンマでっか」に出ている武田邦彦氏の本が、「武田先生の本だから」といって手に取られる可能性が高い、というのと似ているのでしょう。内容以前に名前が先にあって言説の普及の度合いに大きく影響する、のは、良し悪しはともかく、現実だと受け取っておく必要があるでしょう。そんな事で左右されるのは気に食わない、と言っていてはしょうが無い部分が確かにある(嘆くのみでは変化は無いので)。

私は森氏の本を、科学という営みを紹介する優れた物だと評価しています。昨日書いたように、位置づけとしては、ファインマンやセーガンのエッセイに近い。日本で言うと、中谷宇吉郎博士の本と共通している、と私は感じました(後、菊池さんとか)。
で、(ニセ科学論を追っている人などは皆そうでしょうが)常々、科学的思考やクリティカル・シンキングの考えが広まるべきだと考えていた訳ですが、その観点から言えば、この本が出たという事実はとても大きい。

もちろん、森氏は自身をマイナーな作家と自覚しており、実際、全分野の中ではそう評価されるのかも知れません。しかしそれでも、科学コミュニケータやライター、専業科学者が書く物と比較すれば、相対的に圧倒的な影響力の違いを持つものと想像します。
そして、その影響が、「もう少し科学の事を知りたい」という動機付けになって、他の科学に関する本を読んだり関連の催しに参加したり、科学もののテレビ番組を観たり、という風に波及していけば、それはまさに、サイエンスコミュニケーションとして好ましい現象だと思うのです。

とは言え、たとえ森氏の本が相当売れたとしても、関心を持つのは一時期・一過性のものかも知れないし、他の科学関連の物に触れて、つまらないと感じて離れる、という事もあるかも知れません。でも、総体として少しでも動いてくれれば良い。そういう意味で、いきなり変わる、みたいな事は望むべくも無いし、また望む必要も無いと思います。そう簡単に社会のあり方が変わらないのは、痛いほど解っていますので。全体として少しずつ動いていけば良い、と。ただ、その動きを生み出す一撃には、それなりの威力が要ります。重い物は動きにくいですからね。森氏の本はそういう役割を果たす本と見る事が出来るのではないかな、と見ているのです。

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2011年7月 4日 (月)

科学とは何か――森博嗣の見方

 まず、科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。ただ、数や実験があるから科学というわけではない。 個人ではなく、みんなで築きあげていく、その方法こそが科学そのものといって良い。
森博嗣 『科学的とはどういう意味か』 P107

森博嗣による、「科学とは」「科学的とは」どういったものか、に関して自らの経験に基づいて書かれたエッセイ。言わずと知れた「理系作家」の書いたものであり、個人的にも一番好きな作家であるので、刊行前から注目していた。

本書では、エンジニアとしての森(彼は自身を「科学者」とは言わない)の、大学教員としての生活――教育や研究の経験――などが踏まえられ、「科学」とはどういったものであるか、というテーマが考察されている。あくまでも工学系技術者としての見方が開陳されている内容であり、たとえば科学哲学のように、本格的に科学の概念を精密に論理的に分析する類の書では無い。その意味では、タイトルを見て構えていた人は、本文を読んでみて、肩透かしを食らうかも知れない。

森は、科学的なものの見方を欠いていては「損をする」のではないかと危惧し、色々の例を挙げてその理由を説明する。科学的な考えとはどんなものか、その認識を持たない場合にはどうなるのか、と。それは、現象を捉える際の考察の仕方の違い、つまり現象を客観的に(主観を過度に一般化しない)見たり数量的に分析したり、という事であったり、そもそも科学を基盤として成立している現代社会においてその基盤となる科学に関する知識を備えていないのでは様々な不利益を被るであろう、という見方である。これは本書に通底するテーマと言えるだろう。

さすがに人気の小説家だけあって、実に読ませる文である。いわゆる読み物としてもとても面白い。切れ味鋭い洗練された筆致で、時に挑戦的だ。また、経験談も興味深いし、時折挿まれる工学的・力学的 な説明は、明快で唸らされる。とりわけ、ジャイロモノレール研究のエピソードは、読んでいて軽く震えを覚えた部分であった。森の日記にて製作過程を見、動画を観た事があったが、そこにそんなにも興味深いエピソードが含まれていたとは、不覚にも押さえていなかったのであった。

第2章 「科学的とはどういう方法か」では、いわゆる「非科学」的なトピックについて考察されている。科学とはどういった営みであるか、非科学的なものとはどんな事か。科学がどういう方法を用いて何を見出していくのか、どのような限界があるか。それが丁寧に説明される。とりわけ、「ある技術者の返答」は興味深い。

ここで一つ2章から引用する。

 しかし、科学を目の敵のように言う人もいる。「科学ですべてが説明できるのか?そんなふうに思っているのは科学者の傲りだ」と。それは違う。科学者は、すべてが説明できることを願っているけれど、すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけだ。しかし、科学で予測できないことが、ほかのもので予測できるわけではない。(P85)

この章の前半部分を初めとして、菊池誠 『科学と神秘のあいだ』に共通する問題意識が感じられる。といっても、「書き方が似ている」という印象がある訳では無い。菊池が、丁寧に親しみやすい言葉で考察を重ねるのに対し、森は、先にも書いたように、剃刀のごとき切れ味の文章で鋭く抉る。時に挑戦的な物言いを発し、読者に突きつけてくる。同じく非科学的(ここでは敢えてこの表現を使う)なものの広まりを危惧する論者のこの対比は面白かった。

本書は、ニセ科学に関する議論や科学哲学、クリティカル・シンキングなどに興味を持っている人、あるいは、森の著作やWEB日記を好んで読んできた人にとっては、「なるほどそうだったのか」となるよりも、「そうなんだよな」と思わされるのではないかと思う。その意味で、この種の議論に精通する人からすれば、目新しい、新奇の視点が提供される、という物では無いかも知れない。しかし、科学や技術・工学のプロフェッショナルとしての森の、「科学」という営みに関しての、ある意味集大成と言えるまとめであるので、一読の価値はあるものと思う。学術的に洗練されている訳でも、精密・厳密な議論がされているものでも無いが、そこはエッセイとしての体裁という文脈を押さえつつ読めば良いだろう(これは、「大目に見て批判的に捉えるべきでは無い」という主張では無いので。念のため)。位置づけとしては、ファインマンやセーガンなどのエッセイのようなもの、とでも言えるであろうか。
ニセ科学論を追っている人は、「似非科学」「マイナスイオン」といった文字列を目にして、ほう、と思ったりニヤリとするだろう。また、この部分はあの議論に繋がっているのだろうな、とか、あの論者の本などを参照しているかも知れない、といったようにも読めて楽しめると思う。

もちろん、森の見方を全面的に受け容れる必要は無い。科学的な思考の備えや知識・情報の取得の仕方、捉え方、処理の仕方、といった一般的な部分はともかく、森の観察から導かれた社会的な部分に関する分析には、自分が知っている分野については、果たしてそうかな、と思わされる所もあり、用語の使い方で気になった部分もある。また、ほとんど知識の無い分野の事は(私の例で具体的に言えば、政治・経済・法 といった社会科学諸分野)、そもそも検討が出来ない。
少々こじつけのような言い方だが、そういった森の見解自体を細かく批判的に捉え、それは妥当なのか、と懐疑的に検討するのも、一つ「科学的」なものの見方、あるいは「構え」と言えるであろうし、森もそう読まれるのを望んでいるだろう。

ここで、私自身が批判的な事も書いておこう。
それは、森による、「理系/文系」の語の用い方に関してである。
最初の方で、それらの語の大まかな意味合いが示され、概ねそれに従って(そして意味がブレつつ)用いられていく訳だが、本書が、現象を客観的に捉え数量的なものの見方をする肝腎さを説く事がメインになっているが故に、どうしても、対照とされる「文系(として想起される代表的な学問分野とそれに取り組む人、とでも言っておこう)」にはネガティブに映る。もちろん森は、単純にそういう分類が出来る、あるいは分類の必要があるとは言っていないし、文系(と森がカテゴライズしている集合)を非難したいのでは無い、としばしば語っている。しかし、語ってはいるものの、やはりネガティブな文脈でその語が連発されれば、文科系学問に親しむ者としては、あまり面白く無いであろう。森の意図を正確に把握していてもそうであろうから、彼の著作に親しんでいない人からは、尚の事 反発を呼ぶやも知れない(あるいは、浅い読みしか出来ない人は、文系に対する揶揄的印象を、森への賛意と共に強化するかも知れない)。
森は、人文・社会科学においても定量的・数学的 方法を駆使する分野がある事を当然押さえており、それら学問の意義を把握しており、その上で語を使っているのであるが、それでも、ああいった「文系/理系」の用い方は行わなくても良かった、否、出来れば避けてもらいたかった、と思う。いかにも勿体無い、あるいは「隙を作ってしまっている」というのが私個人としての率直な感想である(もちろん、「”文系を自覚”する者」の思考の形態としてそういうものはあり得るのだろう、という意味で理解出来る部分はある)。

本書の注目すべき特徴は、森が東日本大震災に関する記述に ある程度の分量を割いている事であろう。森の読者ならば、WEB日記など以外では、あまり時事的な事柄については書かないという印象を持っていると思う。その森が、今回の震災には多く言及している。森にとっても、あの震災が、様々な意味で――特に「科学」にまつわる事に関連して――ターニングポイントであったと看做すべき出来事であった、という事なのだろうか。そこでは、マスメディアの報道の仕方や専門家の発言の考察、定量的な物の見方、リスクの丁寧な評価の重要さなどが説かれる。放射線関連の単位や用語(ベクレルやシーベルトやグレイの物理的単位、ミリやマイクロの接頭語、など)にも言及している。そういう、現在進行形の社会的な現象を森が積極的に扱っている事を新鮮に感じた。

ちなみに、本書は売れているようである。Amazonで見ると、現時点で

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※エントリー執筆時にAmazonのページよりコピーした

この売れ行きのようだ。これにはやはり、作家としての知名度も強く関連しているのだろう。なにしろ「科学」とは、という実にマイナー(とも言えない?)な話題を取り扱っているのである。もちろん、新書である事、震災に関する事柄が書かれている事、もあるだろうが、放射線や原発の語がタイトルに含まれている訳では無い(帯の文句は、眼を引くためか、少々品が無いが)。著者の人気という所(格好をつければ、因子あるいは変数)は大きく関わっているのだと推察する(こういう「売り上げ」の面から言及をしたのには、実は理由がある)。

ここまで、大まかな内容を紹介してきたが、一言で言って、「面白い」本である。そして、ありがちな感想として、「考えさせられる」ものであるとも言える。それまで「科学」にあまり関心を持ってこなかった人は、著者の考えに時に賛同し、時に反発しつつ、科学という営みを意識しながらどんどん読み進めていけるだろうし、元々関心を持ってきた人にとっても、科学的な方法が要領よくまとめられていて平易に解説されている良書と感ずるだろう。

最後に、本書(P112)から再び引用しよう。

「科学者とは、科学でなんでも解決できると傲っている」と言う人がいるけれど、それは、その人が勝手に思い込んでいる印象である。むしろ、科学ほど「謙虚」なものはない。ものごとを少しずつ確かめながら進んでいる科学の基本姿勢は、傍目には、楽観ではなく悲観である。そこまで慎重になる必要があるのか、と思えるほどだ。 ちょっとした質問に対しても、「まあ、だいたいそうですね」と割り切って答えることができないのが、科学者である。それは、少しでも例外が認められるなら、僅かでも違う可能性が考えられるならば、肯定することはできないという姿勢であり、なによりも謙虚さの表れといっても良い。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書) Book 科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

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