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2011年2月14日 (月)

見え方

雑感、など。|てんかん(癲癇)と生きる

「態度」の問題――これは、主にテキストベースなWEB上においては「書き方」と同じと看做せますが――に関しては、それは受け手の解釈によるものだし、具体的にどういうものが好ましいとかそうで無い、などといった例示が無いとピンと来ないものなので措いておきます。

2.「エビデンス」という言葉がわからないとメールが届いたことがありました。エビデンスはニセ医療批判をする者が日常的に使っている言葉ですが、科学・医学に明るくない者にとっては意味不明の「身内言葉」なのです。(「エビデンスの認知率は23.6%、理解率は8.5%。一般には理解されておらず、患者には使うべきではない」とする意見があります。http://www.ninjal.ac.jp/byoin/teian/ruikeibetu/teiango/teiango-ruikei-a/evidence.html)「エビデンス」という言葉がわからないと私にメールを書いた人は、「わからない言葉が出てきた瞬間に読む気がなくなる」、「難しいことがわかる人たちだけやってるもの、と思うようになった」と言っています。「エビデンス」という単語を使うなとか、「エビデンス」と書いたときは単語の説明を補足しろ、という話ではなく、このような些細なことから「特殊な人たち」だけでやっていて自分には遠い世界のできごとという印象を与える可能性があるという例です。

馴染み無い術語が用いられている場合に読む気が失せる、のはしばしばある事です。とはいえ、こういう文脈で用いられるエビデンスという語は、単に直訳的に「証拠」とするのでは押さえきれない意味内容を持つので、敢えてカタカナ語を使っている訳ですね。文章は色々の層に向けて書かれるもので、どんな人に対しても同じように読まれるのはありえないので(既有知識――これも易しく無い言葉かも知れない――に依存する)、沢山の種類のものが用意されてある、という状況が望ましいでしょう。

私自身の実践として、科学に全く関心の無い人でも読めるように書いたのが、ゲーム脳Q&Aです。これは、「中学生くらいが頑張れば読める」くらいのものを意識して書きました。もう少し下の、たとえば小学生くらいの子どもでも読めるように、とも考えましたが、話題の性質からしてそれはちょっと自分には無理だと認識し、小学生くらいの子の養育者なら読めるように、と思いつつ書きました。

人によっては「前頭前野」の言葉が出てきた時点で読む気を無くすかも知れません。そういう部分について詳しく噛み砕いた説明を入れる事も出来るでしょうが、そうすると文章量が増えます。そして、中には「長文を読みたくない」という人もいるので、そこともバランスを取りたい。なかなか難しいものがあります。

ゲーム脳Q&Aは、それほど長くはありませんが、皆さんから想定Q&Aを募集・検討したり、文体や語の選択を含めて、数十時間かけて書いたものです。解りやすさを念頭には置きましたが、それでもある程度は難しくなるのを避けられない、と仕上げたものです。

何が言いたいか。つまり、WEB上に置かれた文は、様々な知識をもった、様々な立場の人に読まれる、そういう可能性を持っているのですから、そもそも多様な種類のものがあるのが望ましいし、必ずしも個人がバリエーションを引き受けずとも良く、連携して発信していけば良いのではないかな、と思うのです。

しばしば言う事ですが、何でも自在に切れる万能の包丁というのは無いのですから。

あ、でも、「切れない包丁」は論外。きちんと研いで出したいものですね。
万能包丁: Interdisciplinary
説得という事: Interdisciplinary

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

ごめんね。おれの愚痴で。
このエントリで言及しているblog記事だけど、どうももやもやする。
やっていることは素晴らしいし、だから足を引っ張りたくない。
でも、どうやらツイッターは見てらっしゃるようであそこで書くと反応
されてしまうので、ここにきてしまいました。
自分達の活動だけは一切批判されることさえない至高のものであり、他の人
は一段したに見てる様に思えてしまう。該当記事じゃなく、その前の二つも含めてですが。
一人一人を救ってくのは当然大事ですが、大元の元凶にマスコミ等も
含めた言論の力で対抗して、大元が大ぴらに活動できなくなれば、
被害者も減るわけで、人を見てないことにもならないし、手段は違う
けど結果は同じですよね。
でも、足を引っ張ってるかのように言われちゃうともやもやします。

自分は自分が一番正しいと思うやり方でやる。でも他の人がその人自身
が正しいと思ってやってる事は尊重する。この一言が書いてあれば、
他の人が違和感を表明することも無かったと思うんですが、結局3
エントリを費やして、多様性に寛容なところがなかったのが残念でした。

最後になりましたが、こういう僕の愚痴など気にせずに、彼の人は
ご自分の活動に邁進していただき、一人でも多くの人を救って欲しい
です。

TAKESANさん、僕の愚痴につきあわせてしまい、すいません。
ありがとうございました。

投稿: かとう | 2011年2月14日 (月) 01:12

ある事柄についての、あるひとの発信があったとして。
それを読んで、たとえばそれで充分だ、付け加える(付け加えられる)ことはない、みたいに思ったら、関心があることでもなにも書かなかったり。
大事なことが書いてあるからもっと読まれてほしいけど、ちょっと難しいな、みたいに思ったら、言及して噛み砕くようなエントリを書いたり。
別の視点からの補足が必要なんじゃないかな、とか思ったら、引用しつつそこを補ったり。

だいたい、そんな感じです。
それで必要だと思われるものが揃えばいいのです。まぁ、充分かどうかはだれにもわからないんですけど。

投稿: pooh | 2011年2月14日 (月) 07:55

かとうさん、今日は。

私も、「もやもや」するというのが正直な所です。

批判的な言説については、大まかに、態度の問題と論の正当さの問題とに分けて考える事が出来る、と思います。後者は要するに、きちんと根拠を提示して論じているか、整合性を備えているか、解釈は妥当か、といったもので、前者は、言葉遣いや対象への気遣い、という感じでしょうか。

前者は特に、本文でも書いたように、それぞれ受け取られ方が異なるもので、情動的な部分を含めた所で企図したように読まれるかも判らない。だから、態度の問題に言及するとしたら、ごく一般論を言うのでは無く、こういうものは好ましく無いと具体的に指摘するか、「自分がこういう態度を採る理由」を書くかしないと、はっきりしないと思う訳ですね。自分はあういう態度を採るのは好ましく無いと思っているからこんな書き方をしている、と。そうすれば、なるほどそうか、とか、いやそれは違うのでは、と評価もしやすい。

態度って客観的・一次元的に「好ましい―好ましく無い」という風に評価が可能なものでは無いでしょうから(それが可能なら、こういう書き方をせよ、と示せますが)、結局、「自分ならこうする」と主張するくらいしか出来ないんじゃないかな、と思います。私の場合だと、基本的に、です・ます調で書くとか。

---------

poohさん、今日は。

理想的には、色んな知識や立場の人が見て同じように説得力を感ずるものが書ければ良いですが、それは非現実的なので、カバーし合って、つまり相補的に言説群を作り上げていくのが肝要だと考えます。本文にも書いたように、言説の妥当さの観点を規準として篩い落とす事をまず考える(切れない物は無い方がいい)。
で、態度にしても語の選択にしても、ある程度の広がりを持ったものが存在していいのではないかな、と。

もちろん、相手に汚い言葉を投げかけるといったものは、基本のコミュニケーション上の礼儀の問題として論外なので除いていく。

投稿: TAKESAN | 2011年2月14日 (月) 11:27

普通の人だ一般の人だ、と言ってしまったら、もう話は続かないんじゃないかな。知識や関心の量で分類して、そういう人(「一般の人」とか)は読まない、と言ってる訳で。大多数の人はそうなのでは、というのは、もう、そりゃそうでしょう、としか。どんな分野だってそうですよね。
スポーツだろうが学術だろうが料理だろうが武術だろうがなんだろうが。

じゃあ私とかは普通の人、じゃ無いのかな。

投稿: TAKESAN | 2011年2月14日 (月) 17:27

こういう場合は、

・具体例を示してもらえば解りやすい
・範を示してもらえば解りやすい

ですね。示さねば指摘は出来ない、という意味では無く。

自分だと
「説明」の文脈で言えば、ゲーム脳Q&Aを書き、親子の会話を想定した水伝批判をした。
「説得」や「態度」の観点だと、一定・一様のものを書こうとはそもそも思っておらず、一つのブログ内で様々なバリエーションのものを鏤めている。何故なら、受け取り方というのは色々だから。

という感じ。先日書いた数学の話でもそう。色んなアプローチがあって良いし、それは階段のようなものだと思っているから。

テンプレートをケロロにしていたのだって、扱っている内容のシリアスさが醸す印象が少しでも和らげば、という意図もあったし(二次的ではあるけれど)。

投稿: TAKESAN | 2011年2月14日 (月) 17:39

私もPOOHさん達のブログなんかで出て来るカタカナ文字は、知らない単語が時々出て来て、Google等で検索して、その意味を調べることがありますが、漢語でも、その意味を知っているのか?は、あやしいこともありますが、
カタカナ文字は、その文において適切な日本語とするには難しいと存じます。
英語のカタカナ語など、変に日本語化すると、ニュアンスがずれたりしますし…。

明治開化時の当時の日本人の英語他を漢字化した能力には感心し、かつ、現代一般日本人もその恩恵に感謝すべきと思います。
私は、明治期の文豪では、夏目漱石は素晴らしいが、森鴎外は、ダメと思っています。フランス語か何か分からないカタカナ語や何かを、文に散りばめ、何を云わんとしようとしているか?分からず、読む気にはなりませんでした…。

何でも「クオリア」(感覚感)と云う茂木某氏のなんかは、今だ、よく、頭の中で変換出来ませんが…。

投稿: mohariza | 2011年2月14日 (月) 19:09

moharizaさん、今晩は。

一般的に言って、自分の興味無い分野の言葉は専門用語に見え得る訳ですね。
で、それを他の言葉に言い換えて解りやすくする、という方法もあるでしょうが、中にはどうしても術語をそのまま使わないと意味を伝えきれないものがあり、それについてはなかなかむずかしいものがあります。

感覚質に関しては、哲学上の議論を丁寧に追うのが重要かな、と。それでもきちんとした理解に到達出来るかは判りませんけれど(私もよく解っていないという)。で、そういうものを無理に日常的な言葉で説明しようとすると、本来の意味から乖離したり、受け取る側としては解ったような解らないような、となったり…。

投稿: TAKESAN | 2011年2月14日 (月) 20:28

こんにちは、TAKESANさん、皆さん。
南関東もうっすら雪化粧からからりと明るい晴天になりました。ちっこい雪だるまを作る間もなく、雪はとけてしまいました。

本エントリと、ご紹介してくださった
「万能包丁」「説得という事」も拝見いたしました。


「説得という事」より

>だから、私はたびたび、「万能包丁」は無い、色々な人が色々の方法でやっていって、「色々ある事そのもの」を知らしめていくのが良いのではないか、と書いています。どういう方法が良い/悪い と初めに決定するよりも、ね。

上記、引用させていただいた文章に同意いたします。

moon3さんのブログを読み、ななしのMさんへのお返事などを読んで、「うーん・・多元的な議論の有効性についてどう思われているのだろう?どこを最終目標としておられるのだろう?」と疑問に感じて、長文になってしまったのですが、書かせていただきました。

かとうさーん。
moon3さんも、お書きになっているうちに【多様性について不寛容と読み手に受け取られている】と、気がつかれたと、思うのですが
(私も実際、最初は、そのような読後感でした)
お話してみると、そうではなく、いろんな立場での情報発信を好ましい形態とお考えになっておられるようですよー。
それと、これはわたしの考えですけど、
kikulogでの、かとうさんを含め皆さんの情報発信や情報の精度への修正など、必ずどなたかが、質問に答えたりしてくださっているので、いつも、あそこに書き込むのは緊張もしますが、心強くも思っていますのぅ。

TAKESANさん。
私も、「一般の人」と・・書いてしまっています(汗
確かに何を持って一般とするのか・・というと
大変あやふやになってしまいますね。

私としては、医療者以外で、ホメオパシーのなどの批判記事の書き手やコアなどの読者層以外、を想定して使ってしまいましたが・・それが「一般」なのかというと、うーん、ちょっと使い方を間違っていたかな・・とも反省します。

moon3さんとお話させていただいて感じたのは
「万能な包丁」を模索していらしているのだな、それが
実現不可能なことでもあるとわかっているから、余計に
悩まれているのだな・・と感じました。
実際に、最新エントリなどを読むと・・確かにずっしりと重い現実に唸ってしまいますが。

私も看護協会へ送った意見がまったくスルーされている
現実に途方に暮れたりしますが、年下の友人はグループで長年看護協会に(ホメとは別の件ですが)意見を送り続けているので・・こつんこつん、と小石を投げるがごとく、問いかけ続けないとなぁ・・とは思っています。

あ、まったく別の事柄で、申し訳ないのですが・・。
私も「月のワルツ」大好きです。
リアルタイムで「みんなのうた」本放送で聴いた瞬間にあまりに素敵で、テレビの前、棒立ちでした。
お風呂場で熱傷しています・・あわわ、熱唱していますー。
「みんなのうた」は大貫妙子さんや椎名林檎さんが登場したりで中々侮れませんです。

投稿: たま | 2011年2月15日 (火) 16:43

たまさん、今晩は。

敢えて包丁の喩えを再び用いるならば、批判的な言説や啓蒙普及の言説といった場合に、一つで多機能の万能な包丁を作ろうとするよりも、色々な材料を切れるものの集まり、つまり「包丁セット」を用意する方が、現実的だし目的にも適っているのではないかな、という事なんですね。

でも何でもあっていいのか、と言われると当然そうでは無い訳で、規準としては、本文でも書いた「切れる」かどうか、つまり論は明確な根拠に基づいて丁寧に書かれているか、という所になるかと思います。

そういう風に「包丁セット」を意識していると、たとえばある言説に触れた人が納得いかないと感じた場合に、そこではちょっと解りにくいかも知れないからこれを参考にしたらどうか、とか、解りにくいかも知れないけどそこで言いたい事はこうで……という風にフォローしたり案内したり、と出来ると考える訳です。

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諫山さんの歌は最高ですね。みんなのうたは、時々超ハイクオリティなものを繰り出すので侮れません。

投稿: TAKESAN | 2011年2月16日 (水) 03:18

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