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2011年1月 4日 (火)

プラセボ許容

kikulogなどでも、ホメオパシーに絡んで議論が出ましたが、医療においてプラセボが用いられる事を許容する、出来る、という意見があります。

私にはそれが理解出来ません。プラセボを使用する事など、臨床試験において試験協力者の同意が得られる等の状況を除いて、一般的な医療から排除すべきだと思っています。

一体、どういった理路で医療におけるプラセボ使用が許容出来ると考えられるのか、教えて下さい。

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コメント

こんにちは。インフォームドコンセントがなされるようになってから、プラセボが臨床の現場で運用されることは少なくなりました。しかし、少数でありますが、プラセボが利用されることもあります。「どういった理路で医療におけるプラセボ使用が許容出来ると考えられるのか」と質問に答えるとしたら、「場合によってはプラセボの使用が有用なことがあるから」となります。

具体的な例を挙げるのがわかりやすいでしょう。転倒のリスクがある軽症の認知症の患者さんが入院したとしましょう。長年、入眠剤を使用していましたので、薬に対する期待感は大きいです。定期の入眠剤は内服しましたがそれでも眠られないため、入眠剤の追加の希望がありました。こうしたケースでプラセボを処方することがあります。

追加で入眠剤を使用するという選択肢もありますが、転倒のリスクが増えます。また、翌日の覚醒が悪くなるかもしれません。この患者さんにプラセボを処方することで、「薬を飲んだ安心感」を与え、あるいは定期で内服した入眠剤が効いてくるまでの時間稼ぎを行い、結果として入眠剤の追加なしに入眠させることが、それほど問題になるとは思いません。

これは「患者を騙す」ことであり、「インフォームド・コンセント」抜きの「パターナリズム的な医療」です。しかしながら、医師の裁量権の範囲内で容認可能な範囲内に収まると考えます。プラセボ使用がダメとなると、転倒覚悟で入眠剤を追加するか(もちろん十分なインフォームドコンセントを行って。夜中に家族に電話するか、認知症の人に説明するかして)、もう何も処方しない(ナースコールが鳴りまくって病棟業務に差し障るでしょう)かです。

プラセボの使用を容認すると、別のデメリットが生じます。ただし、メリットもありますので、どちらが大きいかを十分に考慮しないと結論がでないと考えます。とにかく詳しい説明を聞いた上で自己決定したという患者さんもいますが(おそらくそういう人はプラセボ使用に批判的でしょう)、難しいことは聞いてもわからんから医師にお任せしたいという人もいるのです。プラセボを一律排除してしまうと、後者のような患者さんに対する治療の選択肢が狭まります。

投稿: NATROM | 2011年1月 5日 (水) 02:08

NATROMさん、お早うございます。

許容あるいは容認と言った場合、「誰が」というのがあります。NATROMさんの仰るのは、「プラセボの合目的性を考えると”医療従事者”はその使用を容認する事は可能であろう」というものですよね。

しかしそれは、医療を受ける側、つまり、患者とその家族(場合により医療従事者も含まれる)が許容する事を意味しませんよね? NATROMさんがご自分ではっきりと仰るように、プラセボ使用は「患者を騙す」行為です。便益とリスクを勘案して安全に使用されている事を信じられるとはいえ、その騙すという部分は無視出来ぬほど大きいと考えます。

プラセボ対照臨床試験においても、実験協力者に対して、プラセボを与えられる群に割り付けられるかも知れないのは知らされますよね。それと同様に、「一般的な医療においてプラセボ使用が”社会的に”許容される」とすれば、それは「医療から自分が騙される可能性」を社会全体で許容する事にほかなりません。
そうで無ければ、医療従事者が患者と家族に対して、情報の非対称を意図的に利用する事が、潜在的に行われる、のを意味します。

前にも言ったように、パターナリズムと「騙す」のは次元の異なるものだと思います。パターナリムズ的な、「最善を尽くすから任せておけ」という態度に身を任せるのを許容出来るのと、「時に嘘をつかれる」のを許容するのとは、やはり全然違います。

プラセボを与える事の便益とリスクの比較は、まず科学的あるいは医学的な観点ですが、「患者を騙す」事は、そこと違う社会的な部分に関する事柄ですよね。端的に言うと(twitterの繰り返しですが)、

「プラセボを使う事があるというのが社会全体として議論されたか」

が肝要です。具体的な話であれば、NATROMさんが例に出された入眠剤を装った偽薬のような物について、事後的に説明されれば、それを「仕方の無い事だ」と捉えるのはあり得ます。医療従事者の方々の負担、家族が認知症患者である事、などを考え合わせれば、逆に、尽力に感謝する場合すらあるかも知れません。が、その事と、社会一般に事前に許容されるのとは、異なる現象だと思います。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 5日 (水) 10:18

ちょっと身近の人にミニアンケートをとってみました。

認知症の人にプラセボ(プラセボという言葉は使っていない)が与えられる事があるそうだがどうか?

もうぼけているのだから構わないのではないか。※この人は、家族に認知症患者(と、介護する人が尋常で無い負担を強いられていたのを見ていた)がいた経験あり

それは家族に知らされずになされるが、良いのか?

別に構わないのではないか。

たとえば認知症で無いあなたがそれ(特異的効果が無いという意味で効きもしないのを効くと称して与えられる)をされるかも知れないのが、それでも良いのか?

良いのではないか。人間には色々いる。←ちょっと意図が取れなかった。

この話(プラセボ使用がある)を知っていたか?

知らなかった。

この人は、家族の危機を何度も医療に救って貰った人で、医療に感謝しており、おそらくかなり高い度合いで信頼感を持っている人です。用いられる治療法などに関しても、基本は医師に任せる、という感じ。つまり、まさにNATROMさんが想定されているようなケース。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 5日 (水) 10:32

ここでNATROMさんに うかがいたいのは、

 プラセボ使用の可能性を、医療を受ける側がどのくらい認識しているか。また、医療者が「周知させているか」

という事です。少なくとも私は、10年くらい前にプラシーボという言葉を知って以来、数年前までは、それが臨床試験以外の場で用いられるのを知らなかったし、そういう話を見聞きしたのもありませんでした。受けた標準的な学校教育においても、一度も出てきた事はありません。

つまりそこから、社会一般に周知(ガン告知で嘘をつかれる場合がある事などと同程度に)されていないであろう事を推察する事が出来ます。

おそらくそれは、医療従事者の方々も認識していて、その理由として、重大なケースで用いる事が無いようコントロールしているから敢えて周知させる必要は無い、というのがあるのではないでしょうか。

ですが、嘘をつかれるかどうか、というのは、社会的な面から見て原則的根本的な問題です。インフォームド・コンセントや証拠に基づく医療といったものを土台として運用するのならば、前もって周知しておく必要があると考えます。現状の雰囲気として、多くは事後的に承認されるようなものだとしても、それはそれ、です。

それから、プラセボ使用に関して、医療従事者同士でも議論があるはずです。臨床試験においてさえ、プラセボを使う事を批判する論者もいますよね。ヘルシンキ宣言の文言を批判している人も確かいたと思います。
専門家内でもそういう議論がある。いわんや、非専門家が関わる治療現場においてをや、です。

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ちなみに、私はパターナリズム的なものは、ある程度致し方無いと考えている訳です。任せたいと思う人もいるでしょうから。しかし、それとこれとは異なる(運用の場としては密接に関わっているとはいえ)話だ、というのがキモです。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 5日 (水) 10:50

こんにちは、こちらは初めてお邪魔いたします。
たまです。
ツイッターでこちらの記事について知り、拝見させていただきました。

現場を離れて久しいので、あまり具体例としてはふさわしくないと思いますが、重症患者がを多く抱えた混合内科でのプラセボ投与についての経験を書かせていただきますね。

プラセボ投与については、常に当直、主治医と良く話し合って指示をいただいていました。

率直に申しますと、「いたしかたない、苦肉の策」といった感じで選択されていたように思います。
後ろめたいきもちはあるのですが、それしか
「その時はのりきれない」と言う場合が多かったように思います。
そう、確かにTAKESANさんの書かれたように

>ですが、嘘をつかれるかどうか、というのは、社会的な面から見て原則的根本的な問題です。インフォームド・コンセントや証拠に基づく医療といったものを土台として運用するのならば、前もって周知しておく必要があると考えます。現状の雰囲気として、多くは事後的に承認されるようなものだとしても、それはそれ、です


いや・・ほんとうにそうですね。
読みながら・・むぅーんと考え込んでしまいました。
倫理的な問題はある事は、医療従事者も理解はしているのですが、重症を多くかかえつつ、緊急入院や夜間の急変などを対応しつつ限られた人員で対応しなければならず、40人近くの入院患者さんの安全を守るには、どこかでひずみがでてしまいます。

ひずみを飲みこまないと立ち行かないのが、私の現場の現状でありました。

おそらくどこの病院もぎりぎりの人員で夜間も走り回っている状態で、問題だとは思いながら、立ち止まって考える余裕が無いのかもしれません。
でも・・それは忙しさに負けて考える事から離れてしまっていたからかも・・と自分をふり返って
反省いたします。

ああ、すいません。少し話題からずれてしまいましたね。


どういった場合においてプラセボが投与されたかといえば、

主に

A)精神的に興奮状態でこちらの説明にまったく耳をかしてくれない患者さんで、過剰に痛み止め、や精神安定剤を過剰に要求する場合。

B)または、DRの指示通りに眠剤、鎮痛剤を投与したにもかかわらず、やはり精神的な不安定さから、すぐに追加を要求する患者さんの場合。


C)あきらかに鎮痛剤中毒ではないのか?と推察される事例があり、精神的なフォローがいちばんかかせないが、24時間びっちりついているわけにいかず、痛み止めを切る為にも、離脱に向けて、数回、痛み止めでなく生食(生理食塩水)を筋肉注射し、患者さんの注射を強く要求する回数をしのいだ例。

A、B、C、いずれの事例も、本来なら人員が確保でき、患者さんが納得がいくまで、側にいられれば、もしかしたらプラセボ投与もしなくて、良い事例なのかもしれません。

しかし、人は疾患の進行状態からも精神的な興奮状態におちちりますし、長期の閉鎖空間の中で療養しても、錯乱状態にもおちちります。
電解質のバランスの狂いからも、正常とは違った異常な言動に陥る事もあります。

そのような時、興奮状態でこちらの説明がとどかず、NSコールはひっきりなしに鳴り、当直の先生の説明も中々理解してもらえない・・・その上で、過剰に薬剤を要求される場合は・・・プラセボを使用して患者さんの「薬を投与してもらった」という欲求に対応して納得してもらっていたように思います。

おそらく、正確に受ける医療に対して理解や選択が出来る場合や、おちついて「その追加の薬はなんですか?」と確認されるような冷静さを持った患者さんには、絶対にプラセボは使用しないと思います。
非常に傲慢な考えで自分で書いていて辛いのですが、「理屈が通らない、通じない」といった状態になった時(この判断は医療者側のみのもので、
精神的不安定になった方にも、その方にはきちんと整合する道理があるのですが)、患者さんの気持を納得させる為に、プラセボを使用していた
場合があったように思います。

長文失礼いたしました。

投稿: たま | 2011年1月 6日 (木) 15:36

こんばんは,またお邪魔します。

NATROMさんの示された認知症の例は自立していない患者の場合かと思います。他には子どもや終末期のケア(精神科?)も同様な扱いになるかと思います。このような患者は医師と対等の関係になくて,保護されるべき対象と言うことになりますから,パターナリズム対応にならざるを得ないかもしれません。患者だけでは,一人前と認められませんが,保護者と合わせて社会的には一人の人間という扱いになり,医者は保護者に説明するということではないでしょうか。これらの代理者を含めると,医師と患者は対等な関係になりますから,何も分からない認知症患者だからといって医師が好き勝手にできる訳でもないし,医師の良心次第のパターナリズムという危うい関係でも無いことになるかと思います。

保護者,代理人の権限を認めるということは,社会的取り決めが必要ですから,TAKESANさんの仰る「社会全体で議論された」に相当すると思います。また,社会的合意は自立した人間の間のものであり,被保護者は埒外と言うこともあります。自立した成人が「自分に分からない様にプラセボを使用することに同意する」という社会的合意はあまり意味があるようには思えませんし,本物の薬への疑心暗鬼を引き起こし,トータルでは不利益の方が多いということも考えられます。
プラセボが悩ましいのは,個別の患者だけに限定して考えると確かにメリットがあるからではないでしょうか。しかし,社会全体に無制限に拡大してしまうと嘘の効力は無くなり,医療への不信感を増長するという弊害の方が大きくなりそうです。常に嘘の可能性があるとなると,もう嘘は信じられなくなります。従って,嘘に関する社会的合意とは,騙される対象は当事者以外の保護を必要とする人に限定せざるを得なくなります。いずれ自分自身も嘘をつかれる立場になるかもしれませんが,その時は当事者ではなくなっています。以前は合意したが,考えが変わったとしても,もはや合意を変更できる立場ではありませんから。

また,たまさんが説明されている,不要な薬を欲しがる患者を説得する時間がなくやむを得ない事例というのは,プラセボは緊急避難であり正道ではないことを表していると思います。このような緊急避難措置が行われることが患者に広く知られてしまうと,効果がなくなってしまいます。従って,極一部でしか使えない裏技のようなものかと思います。それから認知症患者などの保護者の同意が有る場合と違い,プラセボ使用を患者が知ってしまったときに,トラブルになる可能性が有るんじゃないでしょうか。今まではその可能性は殆ど無かったと思いますが,情報公開,インフォームド・コンセントの社会的傾向を考えると,今後は不用意なプラセボ使用はかえって手間を増やす可能性もあるのではないでしょうか。

投稿: zorori | 2011年1月 6日 (木) 21:50

長文の連投で失礼します。

確か,医療の広告では治療効果は謳えないはずですね。治療効果は不確実なもので約束出来るものでは無いからです。そして,治療費は治療効果に対して支払うものでは無くて,行った治療の実費が元になっています。だから,治らなくても治療費は支払う必要が有るわけですね。

しかし,患者も医師も治療効果を当然期待するわけで,ここに治療費と満足感の齟齬が生じます。もし治療効果に対して対価を支払うものだとすると,プラセボの代金も砂糖玉の値段ではなく,高価な薬価並にしてよいことになります。むしろ安ければプラセボ効果を減じるかもしれません。いわゆるブランド品が安いと売れないようなものです。高級ブランド品は原価でプライスが決まるのではなく,イメージの価格であるわけです。そのブランド品でも,偽ブランド品は違法です。お客の満足という結果に応じた対価を貰うことは許されていますが,満足を与えるための嘘までは許されていません。

医療のプラセボの場合,治療効果と嘘は分離出来ませんから,対価も治療効果に応じたものとせざるを得ません。ただし,子どもや認知症の患者は自分で医療費を支払う能力が無く,保護者が支払いますから,こういう問題は生じません。虚構は保護されている患者の頭の中だけの世界で閉じています。

このように考えて見ると,保護されている患者へのプラセボ使用は,経済活動の範疇を超えると思います。例えば,治療法がない不治の病に気休めのプラセボを与えるような状況を考えて見ると,医者としては,患者に絶望感を味合わせたくないという思いでしかなく,その治療費(騙し賃)をもらう気分にはなれないと思います。たまさんも書いていらっしゃいますが,患者さんの気持ちを納得させるためであり,治療費を頂く治療行為とは別という気がします。

この視点から見ると,ホメオパシーはプラセボしかなくて,騙し賃のみで成り立つものですから,ビジネスの仕組みとして,標準医療のプラセボ使用とは全く異質だと言うことが分かります。映画,小説,マジックなども一見騙し賃のようですが,ブランド品同様,虚構であることをお客が了解しています。ホメオパシーは偽ブランド品やマジックを超能力だと偽るようなものかと思います。

投稿: zorori | 2011年1月 6日 (木) 21:54

zororiさん、今晩は。

おそらく、現状大きな問題になっている訳でも無い事を考えると、今現在、特に破綻無く運用出来ている、というのがあると思います。
それについて敢えて議論するべきだ、と言うのは、ある意味で、余計な事の提案、と言えるのかも知れません。
仮にその使用可能性を広く知らせて是非を問う、という段になったとすると、仰るように、相当の不信を一般に懐かせる虞があります。もちろん、限定された嘘を許容する柔軟さを人間は持ち合わせているでしょうから、実際にどうなるか、は想像しか出来ませんが。

別エントリーにもリンクを貼った先でもzororiさんとやり取りしましたが、ホメオパシーと「標準医療内でのプラセボ使用」は、質的に異なりますね。前者はどうしたって、現代医療の理論体系と整合しないので、仮に一部を許容するとしたら、言葉は悪いですが、医療に寄生させるようなものだと思います。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 22:29

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