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2011年1月 5日 (水)

ホメオパシーとプラセボと一貫性

昨日の続き。コメント欄の流れも踏まえているので、そちらもお読み下さい。

昨日のエントリーでは、本文でホメオパシーの話をしています。これは、プラセボ使用と密接に関わる事柄です。

ホメオパシーを批判する論者を訝る意見として、プラセボである(←不正確だが言い方を真似る)ホメオパシーがダメというのなら、ホメオパシージャパンのごとき団体だけで無く、他団体も等しく批判するべきであろう、だのに何故ある種の団体については寛容なのだ、というものがあります。

それに対するNATROMさんをはじめ、幾人かの論者は、ある種のホメオパシーや他の代替療法の一部は許容出来る、その理由として、「標準医療を忌避しない」から、というのを挙げて反論します。※NATROMさんについては、「日本のホメオパシー」については違う、あるいは過去形として扱った方が良い、のかも知れません。

つまり、実質的にはプラセボを使用した心理療法もどきであっても、それが標準医療における重大なケースにまで積極的に関わらないのであれば、容認する事は出来るだろう、というもの。

しかし私は、これを容認や許容とは見ません。それは現代科学に基づいた医療の立場からすれば、まったき「妥協」であり、「解っている」医療従事者による、情報の非対称を意識した上でのコントロールと言えるでしょう。

ホメオパシーは、事の初めから、「標準医療を忌避」しています。それは、理論的な部分について、という意味です。既にメカニズムやその他説明原理の部分で、完全に現代医療(とその土台たる現代科学の体系)と相反します。では消極的容認を言う論者が何を主張しているかというと、それは上にも書いたように、重大な場合には身を引く、手を出さない、という態度です。その判断には標準医療のある程度の知識が必要ですから、容認意見に、医師が使うなら良いであろう、といったものがあるのも、ここら辺を踏まえてのものなのでしょう。
要するに、理論的には全く整合しないどころか相反するもの、という意味での標準医療忌避と、実際の医療行為レベルにおける標準医療の方法との折り合いの程度、の二面があると考えられます。そして、「容認」意見はその背景に、「(広い意味での)プラセボ効果による軽微な状態の改善」許容がある、のだと見る事が出来ます。

臨床的な証拠は不充分だが、メカニズム的にはあるかも知れない、あり得そうだ、といった他の代替療法とは違い、ホメオパシー(レメディ)は、メカニズムとしてはどう考えてもあり得ず、実際臨床的にも効かない事が確かめられたものですから、当該方法を容認出来るとすれば、それは明らかに、妥協です。特異的効果がレメディには無いからその意味で害も無い。だから、予防接種忌避やガンに効く、などという強烈な主張とセットにならなければ、消極的に容認出来るだろう、という意見は、インフォームド・コンセントとEBMを根本とする医療においては、明らかに妥協。そして方法的あるいは制度的に矛盾を抱え込むのをよしとする態度です。

私はそもそもプラセボ使用に反対なので、当然、ホメオパシーそのものにも反対です。率直に言って、医療からホメオパシーを排除するべきだと思っています(学術会議会長談話はそういう立場。ただし、ホメオパシー及びレメディ、以外のプラセボ使用については特に何も言っていない――「例えプラセボとしても」とあるので、そこから何かを読み取る事は可能)。というか、効かないものを効くと称して与えてはならない、という原則なので、効かないと判明しているものは、一切医療に組み込んではならないと考えている訳です。そして、仮に標準医療で広く用いられているものが、後で「実は効かない」と判った場合にも、情報を周知させ排除していくべきでしょう。それが一貫した姿勢だと思われます。

その辺を踏まえると、ホメオパシーの一部は容認出来る、という論者には、私には隙があるように思えます。何故ホメジャだけ?→それはホメジャが強い標準医療忌避だからだ→じゃあそうじゃ無ければ、効かないと判ってても、理論が妄想でもいいの? となるでしょう。少なくとも、整合的・一貫的では無い、と考えます。効かないと判っているものは排除する。効くと判ったものは積極的に取り入れる。これが一貫した態度なのですから。

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コメント

この議論については、いくらかはぼくのことも意識されているのではないか、と云う気もするので、コメントします。

まず、消極的容認、と云うスタンスは、NATROM先生の主張への同意からそもそも採ったものです。なので、昨日お書きのエントリについたNATROM先生のコメントと基本的におなじ理路になります。

でまぁ、話の順序としては、まず刑法上の責任まで問われうる専門職としての医師によって、一連の医療行為のなかでプラシーボが使用されることを容認するか、と云うところから始まると思うんです。
ここで(第一義的に、ではなく)うそが許容されうるか、と云う話になると思うんですよ。で、人倫的な問題は当然あるとして、現状追認的にひとまずは許容せざるを得ない場合がある、とぼくは考えています(ただここで、以前にも指摘をいただいたとおりに、その部分に関する議論が現状充分になされているとは云いがたい、と云うのも事実だと思います)。その意味では妥協でもあるでしょうし、この容認そのものも恒久的なものではもちろんありません。

で、じゃあプラシーボを発動せしめるためにホメオパシーを用いることは許容されるのか、と云うお話になるかと思うんですね。
で、前述のロジックから云えば、責任を取りうる範囲で使用するのは許容される、と云う話になります。つまり逆に云えば、それが(やや緩い意味で、ですが)最善ではない場合には、許容され得ない。ほかの代替医療も、同様に選択肢に含めたうえで。

で、現在のこの国、この社会のなかでは、基本的にホメオパシーを用いる、または併用することが最善の方策である、と云うことはまずない、と思っています。要するにツールとして使い出がない。このへん、kikulogのコメント欄でフランスにおけるホメオパシー利用の現状についてお書きになった方のコメントに言及して、自分のところで書きました。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-11-12
たぶん、関連することがらについては、複数回論じていると思います。

それでまぁ、プラシーボ利用のための手段としてホメオパシーを用いよう、と云うのは、責任を持った医療行為としては現実問題まず無理だし、逆に原理上ホメオパシーは患者を責任を持った医療行為から遠ざける方向で作用する傾向がきわめて強い(これはここまでの議論とはまた別の部分で、いろんな方と論じてきたことです)ので、まず広められるべきじゃないなぁ、と云う当座の結論になる、と云う順序ですね。

これはぼく個人の考え方の話で、たしかに折衷的でもあるし、異論をはねつける強靭な一貫性にも欠けているかもしれません。ただ、医療と云うことばの含む射程を考えると、あまりくっきりした輪郭を与えるのは難しいのではないかなぁ、みたいにも思ったりしています。

投稿: pooh | 2011年1月 5日 (水) 22:09

poohさん、今晩は。

患者に嘘をつく可能性を許容するというのはつまり、取り敢えずはそうしておかないと立ちいかないから、という風な消極的な承認、という事ですよね。
私の認識は、激烈な変化は望めないにしても(というか不可能)、プラセボ使用を排除していく姿勢を積極的にとるべきだ、というものです。

プラセボ効果が(「プラシーボを発動」は、文脈上読み取るのは容易ですが、表現としては使わない方が良いと思います)強く発揮されるのが期待出来、その便益が他のリスクを上回る(実薬使用のリスク等)であろう場合には使う事も容認されるだろう、という立場なのだと思いますが、その場合、標準医療内でのプラセボ使用を容認するというのと、代替療法であっても強い標準医療忌避で無ければ容認出来る、という二つの立場がありえますね。

このどちらを許容するか、というのでも色々考える事が出来ます。前者だけ許容出来るとすれば、何故後者は認められないのか、となるし、両方認めても構わない、と言われれば、じゃあ何故ホメオパシーは排除するのか、となります。帯津系は良いのか? とか、いやホメジャの問題があったから日本ではホメオパシー全体を認めるべきでは無い、とか。じゃあ他国のような運用のされ方なら「許容出来た」のか、という問いかけもあり得、そこの恣意は衝かれてしかるべきだと思われます。

論理的に、代替療法はいくらでも生まれ得る訳で、その中には、敢えて定性的に書けば、効くものと効かないものとがあるでしょう。その時に、「効かないと判っても容認される可能性」があるという姿勢が医療側にあるというのは、私には解せません。

少なくとも、インフォームド・コンセントやEBM(これは、得られた証拠に基づいて最良の医療を提供する、という根本的な思想なので、とてつもない重みを持っているはずです)の観点から言って一貫しないだろうと考えます。※当然、一貫させるべきだと認識しています。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 5日 (水) 23:36

こんばんは。前記事のコメント欄も踏まえているとの事ですので、こちらに書かせて頂きます。
プラセボの許容に関しては、以前TAKESANさんと結構お話しましたけれど、結論は出ませんでした(と言うか、私が十分に意を尽くせなかったです)ね。
なのでちょっと、その時に言えなかった部分まで何とか踏み込んで述べたいと思います。
私の述べたい事は、大きく2つに分けられます。それは、技術的側面と倫理的側面です。

まず、技術的な観点から。

医療者がプラセボを許容出来ると考えるのは、それによるベネフィットがコスト及びリスクを上回ると判断したからです。つまり、その患者・その病態・その時点での状況を背景にして、プラセボを用いたときのメリットとデメリット、標準医療を用いた時のメリットとデメリット、心理療法を用いようとした時の手間と時間(そもそも心理療法が出来るスタッフが確保出来るのか)といったものを全て含めて考慮した場合に、プラセボを用いるのが最も効果的だと判断した場合に使います(この場合の「効果的」とは、ベネフィットからコストとリスクを差し引いたものが最大になる事を意味します)。

ですから、極めて限られた状況ではありますが、現実には確かに存在する状況でもあります。これを具体的な事例に当て嵌めれば、例えばNATROMさんの挙げられた様な例になるのだと考えます。
本文に「効かないと判っているものは排除する」という言葉がありましたが、少なくとも上記の具体例の様な状況に於いては、プラセボは最も「効く」治療法(たとえそれが単なる「非特異効果」に過ぎないとしても)であると判断します。

次に、倫理的な観点です。

そもそも、医療の目的は何か。それは、
病を治す事 であり、
もし治らなければ、治らないなりに少しでも軽快させる事 であり、
もし軽快も出来ないのであれば、せめて悪化を食い止める事 であり、
もし悪化も食い止められないのであれば、せめて少しでも悪化の速度を遅くする事 です。

勿論、医療者は患者に対して誠実であるべきです。しかしそれは、最優先事項ではない。最優先なのは、上記に書いた目的です。逆に言えば、上記の目的を達成する為に必要だと思えば、患者に対する誠実さが犠牲にされる事もあり得る、という事です。

但し、大急ぎで言っておかなくてはならないのは、上記の「医療の目的」も決して永遠不変のものではない、という事です。それどころか、むしろダイナミックに変化し続けていると言うべきでしょう。
例えば、つい40年ほど前までの終末期医療は「一分一秒でも長く心臓を動かし続ける事」が最大の目的でした。しかし現在ではそんな風に考えている人は誰も居ません。
これは「安楽死」の問題にも関わってきます。自己決定権をどこまで認めるかというのは難しい問題で、もしこれを無制限に認めるのであれば、例えば「自殺企図者は救命すべきではない」という意見なども出てくるでしょう。

要するに「医療の目的」とは社会的コンセンサスによって変化し得るものなのですが、おそらくその点は既に御理解頂いていると考えます。何故なら、TAKESANさんは本文で「医者は患者に嘘をつく事があるという社会的コンセンサスが得られているのか」という問いを投げかけられているからです。
この点について社会的な議論が足りないのは認めますが、それでも多くの医療者は「嘘も方便」だと認識しているでしょう。もっと言えば「真実を述べるよりも大切な事がある」という倫理観です。
責任を社会の側に投げてしまう様な言い方で、いささか気が重いのですが、もし「患者に嘘をつかない事が何よりも優先される」社会になるのであれば、プラセボの使用は禁止される筈です(最近では、プラセボだと解って使用しても効果があるという報告もなされている様ですが、それはまた別の話ですね)。

「社会的な議論が足りない」と書いた部分をもう少し述べます。ある患者が「自分は何時如何なる場合でも嘘をつかれたくない」と望んだ場合にどうなるかは、上の議論ではすっかり抜け落ちています。それは前記事のコメント欄でTAKESANさんが御指摘された通りです。現状では、そもそも選択肢さえ示されていない訳ですから。
上に書いた様に、自己決定権をどこまで認めるかというのは、難しい問題です。下手をすれば、患者に対して「あなたは自己決定権を行使したいですか」というメタ的な問いを最初にしなければならなくなるかもしれません。
ただ、前にも述べた様に「標準医療の現場でもプラセボが使われる可能性はある」という事実は、もっと知らしめるべきでしょう。嫌な人は「嫌だ」と事前に意思表示出来る様に。

それから「プラセボの許容がホメオパシーに対する隙になる」という御意見に対しては、私は全く逆の見解を持っています。標準医療の現場からプラセボを完全に駆逐してしまった方がむしろ、標準医療の「外部」でホメオパシーの跳梁跋扈を許してしまうのではないかという危惧を抱いています。

最後に、これは大事な点なので以前にも述べた事を繰り返しますが、現状でも、おそらく殆どの医療者はプラセボを「出来れば使うべきではない」と考えている筈です。ホメオパシーの如くに標準医療の否定に繋がる場合は論外であり、標準医療の邪魔をしない(出来れば標準医療をアシストする)形で使われる場合に限って、かろうじて許容出来るのだと考えます。

今回も、到底充分に意を尽くせたとは言い難いのですが、主要な論点には概ね触れられたかな、と思います。御参考になれば。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月 5日 (水) 23:37

多分、poohさんに差し上げたお返事のある程度の部分がレスになると思います。

ちょうど昼間にtigayam2さんが話をされ、以前にNATROMさんともやり取りしましたが、効果と効能の概念の関係については、一応ある程度押さえていると自覚しています。だからこそ、特異的/非特異的 効果をくどいくらい書く、と言いましょうか。

ところで、仰るような事が最重要事項である、そして、プラセボ使用がそれについて合目的的である、という論理はもちろん解ります。

しかるに(既に読み取って頂いているように)、社会的に最大級の問題である、「誠実さを求められているであろう医療従事者が嘘をつく可能性」についてのコンセンサスが得られているか、得られていないとすれば、その現状について反省するべきではないのか、あるいは、コンセンサスを得てまで、そして医療に対して部分的に信頼を損なってまで維持しておく価値がある方法か、等の部分についての考察がなされているか、といった問題がやはりある訳です。

プラセボ使用許容→隙を与える のはどちらかと言うと、論理的な反論の隙を与える、という事ですね。じゃあ何でホメオパシーは……という反論はあり得るし、実際にある、と。

他にたとえば、鍼に特異的効果が無いとしても構わない、全て心理療法的であるとしても構わない、という意見がありますが、仮に二重盲検用鍼を用いた試験で「鍼が効かない」という臨床的な知見が充分得られた場合に、そういう意見は許容出来るのか、とか。

ところで、これは以前にも別所で発した疑問も含む素朴な問いなのですが。もしよろしければ、教示頂ければ幸いです。

1)プラセボを与えた患者、あるいはその家族などが仮に、こないだ貰った薬の詳細が知りたい、と言ってきた場合、どんな説明をするんでしょうか? いや、本当に素朴な疑問です。

2)PseuDoctorさんの周辺には当然、プロの医療従事者が沢山いると思いますが、そういった方々と、プラセボ使用について論ずる機会というのはあるでしょうか。また、それがあるとして、やはり見解は分かれるものなのでしょうか。

私の意見というのは、恐らくプロから見れば、「現場の運用を無視した理想論」と取られるであろう、論理的にはある程度一貫しているが現実的にはそぐわない論でしょうけれど(それを認識しつつ、敢えて書いている、とうのはあります)、非専門家たる私の意見と同様のものを持っている専門家はどのくらいいるのだろうか、と思いまして。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 00:27

>TAKESAN さん

医療の現場でプラセボ使用が許容されるべきなのかと謂う問題それ自体については、NATROM先生ほど詳しくないので意見は差し控えます。

>>プラセボ使用許容→隙を与える のはどちらかと言うと、論理的な反論の隙を与える、という事ですね。

この論理は少し順序がおかしいのではないかと思います。現実の社会問題を相手取っている以上、反論の隙は論者が個別に採用する立ち位置に左右されるものではないと思いますので、「与える」とか「与えない」と謂う観点の問題ではなく「ある」か「ない」かと謂う観点の問題でしょう。

少なくとも、「プラセボ使用を容認すればホメオパシー批判に隙が出来るから認められない」と謂う論理は、順序が逆であると考えます。プラセボ使用を認めるか認めないかは、ホメオパシー批判とはまた独立して考えるべきことではないかと謂うのがオレの意見です。

>>じゃあ何でホメオパシーは……という反論はあり得るし、実際にある、と。

あります。…と謂うか、基本的にオレは「ホメオパシーは実効がないから許されるべきではない」と謂う意味合いにおいて批判したことはありません。ホメオパシーを批判するのは、それが「通常医療忌避を強く志向するから」であって、「プラセボ以上の効果はない」と謂うのはその足掛かりとなる単なる事実以上のものではありません。

その意味で、オレの基本的な批判のスタンスは「何故ホメオパシーは許されないのか」と謂う個別事情にフォーカスしたもので、「実効がない代替医療一般」を対象としたものではありませんし、たとえばもしも鍼灸に「実効がない」と確認された場合は、それもまた独立して個別に考えるべきことだろうと考えています。

ウチのブログでもホメオパシーのことをいろいろ考察しておりますが、ホメオパシーの「嘘」の最も本質的なものは「実効がない」と謂うことにあるわけではないと謂うのが基本認識です。

たとえば「慢性病論」に述べられているように、すでにハーネマンの時代から「ホメオパシーが効かないのはアロパシーの治療が原因だ」と謂う付会が為されていて、現代のトラコパシーではさらにそれを曲解して宗教紛いの出鱈目に基づく「すべての病気の原因は通常医療の治療による症状の抑圧に基づくもので、謂わば医原病だ」と謂う奇怪な主張を根幹に据えています。

本質的な「嘘」を問うのなら、その主張こそが問題なのであって、すべてのホメオパシーには原理的に強い通常医療忌避の志向があるから有害なのだと思います。ただ単に「実効がない」だけであればそれほどの有害性はないし、それこそ「生きる為の杖」となることもあるだろうと考えます。

つまり、極論すれば「実効のない代替医療を選択すること」それ自体は個人の愚行権の範疇の事柄だと謂えますが、ホメオパシーにはホメオパシー固有の事情に基づく強い有害性があるから忌避されるべきだと謂うのがオレの考えです。

つまり、ホメオパシーの本質的な問題点は、「実効がない」と謂う部分にあるのではなく、「有害である」と謂う部分にあると謂うことですし、「実効がない」と謂うことと「有害である」と謂うことはイコールではないと考えています。

TAKESAN さんも本文のほうで、

>>(学術会議会長談話はそういう立場。ただし、ホメオパシー及びレメディ、以外のプラセボ使用については特に何も言っていない――「例えプラセボとしても」とあるので、そこから何かを読み取る事は可能)

…と書いておられますが、論座に再掲されたニコ生シノドスのテキストによると、学術会議は二年前からホメオパシーの問題を考えていたそうですが、すでにその時点では上述の事実は判明していたはずで、では何故そんなに時間が掛かったのかと謂えば、ホメオパシーの有害性と有効性のバランスを適切に見極める必要があったからではないでしょうか。

また、医療現場における「嘘」が許容されるべきか否かと謂う問題については、冒頭で述べたように詳しい知識はありませんが、たとえば癌の患者が「もしも末期癌だったら告知しないでほしい」と希望したり、家族が「本人には識らせないでほしい」と希望することは間違っていると言えるのか、と謂う問題はどうでしょう。

医師の側が告知しないのであれば、少なくともその患者に対しては嘘を吐き通すことになります。現在では癌告知は治療の為に必須と考える流れになっているようですが、それまでに為された激しい議論は「嘘は良くない」と謂う観点のものではなかったのではないかと思います。

少し調べてみた限りでは、それが患者の治療において有益であるか否かと謂う有用性に基づく論点が本質的な部分で、「嘘を吐くのはフェアではないから」と謂う意味合いの議論は、少なくともそれほど重要な論点ではなかったと理解しております。

これはつまり、それが患者の治療にとって有用であれば癌告知をしない、つまり「嘘を吐くこと」が推奨されていた可能性があると謂うことです。

投稿: 黒猫亭 | 2011年1月 6日 (木) 01:34

黒猫亭さん、今晩は。

▼ 引  用 ▼
少なくとも、「プラセボ使用を容認すればホメオパシー批判に隙が出来るから認められない」と謂う論理は
▲ 引  用 ▲
いや、私の意見は、隙が出来る「から」認められない、というのでは無く、プラセボ容認を主張すればこう返されるであろう、というパターンを示したもので、そういう意味で、隙を与えると書きました。
プラセボ使用の是非とホメオパシー批判は、独立して論ずるのは非常にむつかしい問題と思います。

▼ 引  用 ▼
基本的にオレは「ホメオパシーは実効がないから許されるべきではない」と謂う意味合いにおいて批判したことはありません。
▲ 引  用 ▲
私は、「レメディに特異的効果が無い」というのが、ホメオパシー批判の根本的な理由です。これこそ順序が逆で、そもそもホメオパシーをニセ科学として批判し続けていた所に、ホメジャのごとき先鋭的な団体が現れたので、それを率先して強く批判した、という流れだと理解しています。

つまり、私は、そもそも「プラセボを使うべきでは無い」というのが「先」にあります。それに従って論じるので、何であれ(標準医療内のものでさえ)、効かないものを排除する、と書く訳です。

ガン告知に関しては、前のエントリーのコメント欄に書いてあり、また、以前にもtwitter等で書きました。

嘘を許容するのか、というのは、当然倫理的な話でもありますが、それとともに、「医療の整合性を蔑ろにして良いのか」という問題提起でもあります。仮にそれをよしとするとして、そこはどの程度にとどめておくのが良いのか、と。
インフォームド・コンセントやEBMは、体系を支える根本的な思想であり方法です。なので、少なくとも議論される必要があります。そのものは効かないと判っているのに効くと称して与えられる事を我々がどのくらい知っているのか、という部分です。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 01:59

もちろん、ホメジャのごとき―現れた、というのは、あの関連組織によるおぞましい事例が次々と明らかになった、という現象を示しています。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 02:15

こんにちは、皆様。
皆様のコメント、ひとつひとつかみ締めながら読んでおります。

>嘘を許容するのか、というのは、当然倫理的な話でもありますが、それとともに、「医療の整合性を蔑ろにして良いのか」という問題提起でもあります。仮にそれをよしとするとして、そこはどの程度にとどめておくのが良いのか、

と、TAKESANは書かれていますね。
うーん・・・。
おそらく、病棟や外来では頻回にプラセボは登場しないと思うのです。
「医療の整合性」・・・うーん、おそらく患者さん御自身が、整合性の取れない不穏な言動、行動をとられてしまう時、登場するのがプラセボなのではないかと考えます。

ですので、限定した局面にのみ使用されるべきだと思います。

>1)プラセボを与えた患者、あるいはその家族などが仮に、こないだ貰った薬の詳細が知りたい、と言ってきた場合、どんな説明をするんでしょうか? いや、本当に素朴な疑問です。

私の事例で申し訳ないのですが、
私が経験した例では、プラセボ投与した患者さんは、一時的な錯乱状態であったり、不安定な状態であったので、
「あの薬は、なんですか?」といった冷静な質問を後にした方はいませんでした。
錯乱状態であったことも、落ち着いた後は
あまり良く覚えていらっしゃらなかったようです。

いずれにしても、苦肉の策とはいえ、使用時には「嘘をついている」といった倫理上逸脱している問題について、常に意識していなければならない事でもあると考えます。


投稿: たま | 2011年1月 6日 (木) 16:08

たまさん、今晩は。

別エントリーに頂いたコメントも読みました。現場での実際を知る事が出来、大変参考になります。

現場で用いられるのは主に、緊急的な状況、あるいは標準薬とプラセボ
の便益とリスクを勘案して使用して良いと判断する状況、などと理解しました。
また、純粋に医学的な部分だけでは無く、リソースの問題も鑑みて、プラセボを使うのが合目的的である、との判断もあるのだろうと思います。

私の問題意識は、幾度も書いてきているように(kikulogでも書いたように)、効かないと判っているものを効くと思い込ませて使うのを許容出来るか、出来るとすれば「どこまで」か、そして、それが「周知」されるか、という部分です。

おそらく、ですが、たまさんの仰るようなケースを、「こうして使われる場合がある」と説明されれば、まあ仕方が無いよね、とか、お医者さんや看護師さんも大変だからね、となると思う訳です。

ちょっと家族の話をしますと、私の亡くなった家族は特定疾患を患っていて、晩年はガンに冒されました。
で、元々神経質な所があったのですが、それが高じ、「暇があれば病院に行く」という状態になり、夜中三時頃に家族をたたき起こして、身体に不調があるから病院に連れて行け、となる事もありました。

それで、病院に行って色々貰ってくるんですね。家族はそれを見て、気休めなんだろうな、とか、色々思ったりする訳です。で、病院の人はああいう患者がいると大変なんだろうなあ、とも思うのですね(そういう時って家族はドライですよね)。

そんな事もありますし、プラセボのようなものを限定的に与えられる場合があるのだよ、と説明されれば、多分、納得はすると思うんですね。いわんや、緊急的な場合であれば、なお許容はしやすいだろうと考えます。

だけれども、やはりそれは、周知とは違うのでして。周知とはたとえば、学校教育レベルで知らしめる、というようなものを想定しています。恐らく、臨床試験以外の場でのプラセボ使用に関するガイドラインのようなもの、社会一般に知らされているようなもの、は無いですよね。そういうのも含めて周知(や議論)が必要では無いか、と認識しています。

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医療の整合性というのは、医学という科学的知見をいかに用いていくか、といった社会的なシステムの整合性、ですが、プラセボ使用を組み込むのは、システムに嘘をつく行為が含まれる、のを意味します。しばしば話を出すガン告知などもそうだと思います。※上で書いた家族はガンでしたが、告知はしていません。家族ともども嘘をつき通したのです。多分本人は最期は気づいていたでしょうが。

それで、社会的に許容出来るとして、「どこまで」という限定を明らかにしておく必要があると考えます。たとえば、正常な判断力を失っている状態、あるいは意思決定が困難な場合で、かつ、標準薬を与えるとリスクが大きそうな場合、などに使うという話であれば、コンセンサスは得られるかも知れません。しかし、コンセンサスは「得られていない」はずです。

おそらく、プラセボ・プラシーボ・偽薬 の名前や概念は、一般に知られていないと推察されます。
多分、臨床試験に参加したとか、家族が与えられたとか(看護計画にプラセボ使用と書かれていたという話も見ました)、そういう特殊な状況で知るのでしょう。

そこら辺も考えあわせながら、社会全体で議論していくのが肝要と思います。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 19:05

ちなみに、「プラセボ使用許容」と「一部のホメオパシー許容」との関連を、別所に書いていたりします。
http://d.hatena.ne.jp/ublftbo/20100901/1283307220

ここでも、少し違う意味で整合性の問題を出しています。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 6日 (木) 19:09

こんにちは、TAKESANさん。今日は沁みるほど寒い風がふいてますね。

丁寧なお返事ありがとうございます。
TAKESANさんの書かれた
「医療の整合性」について、どうも私はきちんと理解できておらずに、コメントしてしてしまったようです。すみません(大汗
更に、説明してくださった事で、理解がすすみました。
本当に、お手数かけてしまってすみませぬ。

そして、ご家族の大切なお話も聞かせてくださり、ありがとうございました。

また、ご紹介してくださった、TAKESANさんの別のブログの記事も拝見いたしました。

実は、これは恥ずかしい事なのですが、
プラセボに関しては同業者でも、暗黙の了解というか、後ろめたさはあるものの、表立って議論しか事がなかったのです。
少し話はズレますが、プラセボと似たような
倫理的に問題を孕む「抑制」については
看護師間ではよく議論になるのですが、プラセボ
については、その是非を問う・・といった意味での議論はあまりしませんでした。

上記に記した抑制というのはご存知でしょうか。
精神科を連想されるかもしれませんが、内科でも「抑制帯」を使用するときがあります。
重症患者さんで、病状から不穏状態に陥った時、生命維持に必要なライン、チューブ類を自己抜去してしまいそうになると時があります。

それらの危険を予防する時に、手などを専用の部品を使って縛らせていただくのです。

これも、常に患者さんの側にスタッフがいれば、患者さんにとっても不自由な思いはさせなくて良いのですが、緊急的な措置で用いられているのです。もちろん、ご家族にも了承を得ますし、抑制帯で、体が傷付かないような縛り方、保護もしてはいます。

医療者は、時にヒトとしての尊厳に関して深く逸脱する行為をしてしまう恐れのある職業です。
いつも、自分が大きな力をもって患者さんを抑圧していないか自問自答が必要な職業です。

抑制に関しても、倫理的には非常に患者さんの尊厳を奪う、行為でもあります。
これに関しては多くに議論が表立ってされているのですが

やはりプラセボという、倫理的には大きく矛盾の孕んだ事柄については、医療者同士、大きな議論になっていないように感じます。
よく考えたらおかしいなことですよね・・もっと議論されて良い事柄であるのに。
すみません、これは、私の周囲の問題なのかもしれませんが・・・うう。
どうぞ、もし間違った感じ方でしたらご指摘くださいね。

ですから、今回、TAKESANさんのご指摘でハッといたしました。
このように、じっくりと考える機会を与えてくださって感謝です。

そして、
>そこら辺も考えあわせながら、社会全体で議論していくのが肝要と思います。

とても大切であるとおもうのですが、プラセボに関しての社会的なコンセンサスを得るには・・・
とても難しい問題もあるのでは・・と
考え、うーーーむぅと唸ってしまいます。

「プラセボと許容」のエントリでzororisさんが

>暗黙の了解というか、後ろめたさプラセボが悩ましいのは,個別の患者だけに限定して考えると確かにメリットがあるからではないでしょうか。しかし,社会全体に無制限に拡大してしまうと嘘の効力は無くなり,医療への不信感を増長するという弊害の方が大きくなりそうです。常に嘘の可能性があるとなると,もう嘘は信じられなくなります。

と、書かれたように、コンセンサスが得られた時点でプラセボは効力を失うのではないか・・といった問題が浮上しそうです。

うーん・・難しいです。

投稿: たま | 2011年1月 7日 (金) 14:59

たまさん、今日は。

恥ずかしながら、抑制帯というものについて議論がある事、存じませんでした。教示頂いて、ありがとうございます。

医療の整合性については、敢えて便宜的に分けて、理論的な整合性と理念的な整合性があると考えました。

私は以前に、心臓外科医の平 明 先生の講義を受けた事があって、そこで、医学と医療は異なるものだ、と教わりました。(必ずしも峻別は出来ないかも知れませんが)つまり、医学は科学であり、医療とは、それを含めた社会的な要因が絡んだものである、と。

プラセボ使用にしても、たまさんの教えて下さった抑制の問題にしても、合目的的ではあるが倫理的な部分が絡んでくる医療問題、と見る事が出来るのだと思います。

zororiさんへのレスでも書いたように、現状特に大きな問題になっていないのは、それ(プラセボ使用)が
よく考えられて運用されているから、なのだと認識しています。そこに敢えて議論を行うべきだ、というのは、なかなか面倒な話だろうな、と思っています。

プラセボ使用の可能性について世間が知ったら、それによる心理的な作用が減殺される、のは恐らくそうでしょうね。
と言うよりも、私はそれをすべきだと考えているのですね。

一般に臨床試験においてすら、実験協力者はどちらの群かに割り付けられる、のは教えられる訳で。よく書くように、プラセボ効果期待というのは、情報の非対称を利用して作用を大きくする面があると思います。プラセボと同時に与えられた「価格」の情報がプラセボ効果の大きさに関連する知見もありますね。

そして、最も有効な、情報の非対称性の利用は、「効かない物を効くと称して与える」事そのものであろうと考えられますが、そこに、「効かない物がわざと与えられるかも知れない」という情報を入れておくのが最低限必要、というのが私の主張です(仮にプラセボを許容するとするならば)。※

ちなみに、先般、「プラセボだと知っていても効く」という研究が話題になりましたが、これも色々解釈出来るでしょうね(実験デザインの適切さは措くとして)。社会全体の認知によっても変化し得る現象なのかも知れません。

※プラセボを使用するにしても社会全体のコンセンサスが必要→しかしそれは、医療に対する不信を生む可能性を有する→だから私は、プラセボ使用に反対
という認識です、少なくとも現状は。可能性としては、社会全体で、「上手く嘘を許容する」事も有り得ないでは無い、とも思いますが、あくまで論理的な可能性です。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 7日 (金) 15:43

NATROMさんやたまさんのコメントからは、悩みながらやむを得ず使っているという気持ちが伝わってきます。医療関係者でもない私がいうのも口幅ったいですが、このような方なら安心です。例えが悪いかもしれませんがプラセボは正当防衛的にしか使えないのではないでしょうか。一方で「プラセボでも効くから良いではないか」という軽い意見は「合法なのだから殺人したってよいではないか」に繋がる危うさを感じます。

また,TAKESANさんのミニアンケートの回答にみられる「まあ,いいんじゃない」という感覚は,「まあ,仲間内の低いレートの賭け麻雀だからいいんじゃない」と似たようなものかと思います。法にしても倫理にしても必ずしも厳格に運用されるわけではなく,軽微なものは見逃されますし,見逃さないと警察や検察,裁判所はパンクしてしまいます。「まあ,いいんじゃない」というのは,そういう「軽微」が前提になっているのだと思います。

ただプラセボの場合は軽微から深刻に変わっていくのに気付きにくく、被害を引き起こしているのだと思います。kikulogで,「フランスでは普通の薬を飲むほどではない症状などで使われている」というコメントを見ましたが,その欧米でも死者を出す深刻な事件も起こっていますし。ホメジャに至っては軽微どころか,がんにも効くといっているわけで非常に罪作りです。

「まあ,いいんじゃない」から「現代医学は危険だ」という信者になったり,自称精神科医の某氏のように,やむにやまれない事情で使っていたはずが,プラセボを積極的に使おうとするように変わってしまうところが恐ろしいところかと思います。

投稿: zorori | 2011年1月 8日 (土) 07:17

プラセボ使用について、メリットとデメリットの兼ね合いで判断することについて考えてみました。
PseuDoctorさんが書かれている「プラセボと分かっていても効く」とすれば、嘘をつく必要は無いわけで,それならば,何の問題もないと思います。しかし,プラセボと分からない場合より効果は落ちるでしょうから、より効果すなわちメリットを求めればウソが必要になります。

さらに通常は,プラセボ使用を医師は分かっていますから,ダブルブラインドではなく,医師も信じている場合より効果は落ちるはずです。もし,より強い効果を望むなら,筋金入りのホメオパスのような信者の医師になる必要が有ります。もちろんそうなりたいなどという医師がいないことを願いますが,メリットがあるから使うのだとすれば,ホメオパス医師も認めることになりかねません。もちろん,メリットとデメリットの総合的判断によるわけですから,ホメオパスになることのデメリットを考えればそうはならないだろうとは思います。ただ,当面のその患者のことだけを考えれば,ホメオパス医師に任せた方が良いということもあり得るわけです。デメリットの見積もりにはその患者のことだけでなく,広い視点が必要だと思います。

例えば,やむにやまれずプラセボを使わざるを得ないような終末期ケアの患者ばかり扱うホスピスのような場合を考えると悩ましい気持ちになります。頻繁にプラセボばかり使っていると疑問が生じないでしょうか。もっと別の心理的ケアが有るのではないかという気がしないでしょうか。

こういう極端な仮想例を考えてみると、プラセボを心理的抵抗にも関わらず使えるのは、その医師に取ってそれほど頻繁なことではないからという気もします。取りあえず、当面のその患者のことを考えることで手いっぱいで、医療全体にプラセボが蔓延した状況を考えるような状況ではないからではないでしょうか。正当防衛の殺人が頻繁に起こるような世の中が望ましいはずがありませんが、自分が身を守らなければならない状況では世の中のことを考える余裕がある人は殆どいないでしょう。しかし、人を傷つけることに躊躇はあるはずです。その躊躇すらない方が、身を守れる可能性は高くなりますが、それが良いとは思えません。プラセボも悩まずに使った方が効果が大きいいと思いますが、悩んで欲しいですね。

投稿: zorori | 2011年1月 8日 (土) 07:41

zororiさん、お早うございます。

正当防衛的、なるほどそうかも知れませんね。あるいは、受動的とか消極的、とも言えるかも知れません。

プラセボと教えられても効く、という現象は、(※それが再現性ある現象と仮定する)現状の社会的な認知を前提としている、とも言えるように思います。つまり、本当に世間一般に知らしめるならば、偽物とは言うけど実は……といった作用自体が減殺される可能性がある訳ですね。
ここら辺は心理学的にも非常に複雑で難しい所と考えられます。

他に良いやり方があるのではないだろうか、という疑問は、なかなか率直に言えない所もありますね。
というのも、たとえば心理療法的アプローチを充実させるとか、ケアが充分出来るような体制を作るとかは、「理論的」には正当であっても、資源的に現状だといかんともしがたい、という事だろうからです。

つまり、「出来るならやってるよ」と返されるであろうし、また、その反論は正当です。そういう部分に想い馳せると、大変悩ましいです。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 8日 (土) 10:46

こんばんは。

TAKESANさんの御意見について「理想論」だという批判は有り得るでしょう。ただ、理想論を口にする人も必要な筈なのです。理想論だけでも困りますが、現状追認だけでもやはり、困りますから。

さて、まずは御質問に対する私の答えです。
1)「訊かれた時にどう答えるか」は、厳密に言えばケースバイケースなのですが、それでも一応の考えは持っておりますので、それを書きます。
尋ねてきたのが家族であれば、本当の事を言うと思います。やはり、嘘は最低限にするべきだと思っていますので。一方で、本人に訊かれる事はあまり想定してないです。これは、たまさんも仰っている様に、プラセボを使わざるを得ない様な状況であれば、御本人が知りたがるというのは、かなり確率が低いと考えているからです。でも、もし実際にあったら、どうするか。「その場の状況を全て勘案して、最も適切な方法を選択した」みたいな事を言うかもしれません。あるいは、薬の成分や作用機序を理解しようと思って訊いてくる方に対してであれば、プラセボの説明(非特異効果も含めて)をする場合があるかもしれませんが、かなり稀な例になると思います。
2)医療従事者同士で臨床現場におけるプラセボ使用について論じる事は、殆ど無いです。何となく、あまり大っぴらに語ってはいけない様な空気を(気のせいかもしれませんが)感じます。なので私は「必要悪」という言い方をよくするのですが、たまさんやNATROMさんの見解を拝見すると、ほぼ同じ様に考えているのではないかと感じます。ちょっと感覚的な物言いばかりで申し訳無いです。

ただ、医療従事者の間でも、もっと話し合われるべきだとは思います。プラセボを日陰者扱いにしていては何も変わりませんから。もう少し言うと、医療者側から「プラセボ使用のガイドライン」みたいなものを策定して、それを社会に対して問うべきだと思います。つまり、どの様な状況であれば・どれだけの条件を満たせば、プラセボを使い得るかという事を、まず医療者の間でコンセンサスを得て、社会に対して公表すべきでしょう。
そのうえで、社会がその条件を認めなければプラセボは使えなくなります(医療とは基本的に社会の要請に応えるものであるから)。また認めるにしても「社会が認めても俺は嫌だ」という人には自己決定権が行使できる様にしておく必要もあるでしょう。
ただ、プラセボに関してはオプトイン方式(事前に承諾を得る)は原理的に難しいですからオプトアウト方式(嫌だったらそう言ってね)の方が現実的です。そうすると、その方式を有効に機能させる為にはやはり、社会に対して充分に周知させておかなくてはならない。

ところで、私はTAKESANさんの御意見とは違って「充分に周知させたうえで、社会がプラセボ使用を許容する」可能性は結構高いと思います。勿論、医療者の裁量ひとつで無制限に使えるという条件ではダメでしょうが、予め使用条件を規定しておけば「嘘も方便」という考え方が受け入れられる余地はあると考えます。即ちその場合には、上述の如くガイドラインの策定は必須だと思います。
これは一言で言えば、社会に対して説明責任(アカウンタビリティ)を果たす事です。この「説明責任」という言葉こそ、EBMとインフォームド・コンセントを繋ぐキーワードでもあると考えています。EBMとは「根拠に基づいて客観的な医療を行う事」でありますが、そのもう一方の側面として「説明出来ない様な事はしない」という意味もあります。そして「医療者が医療の内容について説明できる事」は、インフォームド・コンセントを行ううえでも必須である訳です。

さてそう考えてくると、TAKESANさんが繰り返し問うておられる「医療体系に嘘を組み込むのを許容するのか」という問いに帰ってきます。実のところ、これはかなり苛烈な問いであり、これに答えようとするとどうしても受け身になってしまいますが、なるべく頑張って応じてみましょう。
まず、上述の様に「医療側が使用条件を提示し、社会側がそれを容認する」のならば許容出来る、と言えましょう。これは責任を社会の側に丸投げしている様に見えるかもしれませんが、医療側から提案を行っている訳ですから、決して単なる丸投げではないと考えます。

次に「医療そのものの本質は何か」という問題があります。
医療とは、行為だけを取り出してみれば、相手を裸にしてあちこち触ったり、鋭利な針を刺したり、体を切り開いて内臓を取り出したり、毒物(と敢えて書きますが、勿論これは薬物の事です)を体内に注入したりする事です。これらは全て、医療でなかったら明白な犯罪行為です。
言い換えれば、医療とは「明白な犯罪であるにも関わらず、どういう訳か社会に許容されている行為の集合体」と述べる事も出来ます。では何故社会に許容されているのか。
勿論それは、医療の目的ゆえです。医療という目的に限って使用するからこそ、明白な犯罪行為であっても許容され(ているどころか、感謝すらされ)ているのでしょう。
つまり医療行為とは「罪」の集合体なのですが、それが罪にならないのは、その目的によるものなのです。そう考えれば「嘘を組み込む事」も許容される余地はあると考えます。

但し、当然ながら、目的が行為を全て正当化する訳ではありません。医療行為が犯罪にならないのは、その目的のゆえもありますが、決してそれだけではなく「その行使の方法が厳密に定められているから」という要素も極めて重要です。だからこそ私は「プラセボ使用に関しても、その要件を定めるべき」という意見を持っている訳です。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月10日 (月) 22:45

PseuDoctorさん、遅くなりました。

敢えてプラセボを使わねばならない状況を考えれば、後からそれについて詳しく訊ねられる頻度は小さいであろう、というのは、たまさんが教えて下さったのを考えても、なるほどそうだろうな、と思います。それでも実際に起こった場合の説明はなかなかにむつかしいのでしょうね。

▼ 引  用 ▼
ただ、医療従事者の間でも、もっと話し合われるべきだとは思います。プラセボを日陰者扱いにしていては何も変わりませんから。もう少し言うと、医療者側から「プラセボ使用のガイドライン」みたいなものを策定して、それを社会に対して問うべきだと思います。つまり、どの様な状況であれば・どれだけの条件を満たせば、プラセボを使い得るかという事を、まず医療者の間でコンセンサスを得て、社会に対して公表すべきでしょう。
▲ 引用終了 ▲
これがまさに、私が希望する所ですね。たとえば、医療従事者に対して、プラセボを使用した事があるか、などといった調査が行われた、というのを見たりしますが、それを医療を受ける側に訊ねた(使われる事があるのを知っているか、など)、のようなケースは寡聞にして知らないのですが、そういう調査も含めて、積極的に行われてしかるべきだと思います。

▼ 引  用 ▼
「充分に周知させたうえで、社会がプラセボ使用を許容する」可能性
▲ 引用終了 ▲
ここはやはり、どのように周知させるか、とか、「どこまで」周知させるか、などの条件が関わってくるように思います。本質的に「効かない」というのを徹底的に分からせるか、とかですね。※そのためには特異的・非特異的 効果の概念を周到に教える必要がある

医療体系に嘘を、というのを考える場合に、どうしても念頭に置かざるを得ないのが、

・今、「普通に病院で供される」療法が全く効かないと判明した場合にどうするか

・効かないと判っているホメオパシーのごときものでも、部分的には許容出来るかどうか

というような事ですね。これらは、「効かない療法(変な言葉ですが)」をどう扱うか、という問題で、いわゆるプラセボ使用との連続線上に位置づけられるのだろうと思います。※で、はてなに書いた考察などに繋がっている

投稿: TAKESAN | 2011年1月11日 (火) 23:09

こんばんは。

使用条件(ガイドライン)を策定し、周知し、コンセンサスを得たうえで使う、という風に出来ると良いですね。ただ、そういう方向で行くとした場合に最も問題となりそうなのが

>特異的・非特異的 効果の概念を周到に教える必要がある

の部分でしょう。これは非常に誤解されやすい所でもありますが、絶対に外せない内容でもありますので。

それから、現在標準的に使用されている治療法がもし「効かない(非特異的効果しかない)」と判明した場合の話ですが、私は原則として棄却されるべきだと考えます。
もし、どうしても残すというのであれば、その場合には改めて使用条件を厳密に決めたうえで使うという事になるでしょう(つまり、プラセボと同等の扱いになります)。
ホメオパシーを部分的に許容する場合でも同じです。非特異効果しかない事を明確にし、かつ、使用条件を規定したうえでならば、許容出来る可能性はあります。逆に言えば、これらの条件をクリア出来なければ使うべきではないと考えます。

勿論、これは私の個人的な意見です。「標準医療の邪魔さえしなければ許容出来る」という考え方もあるでしょうし、それもある程度は理解できますが、やはり私の意見とは異なります。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月12日 (水) 00:28

PseuDoctorさん、今晩は。

ポイントは、プラセボの概念のややこしさ、でしょうね。専門家のあいだでも議論があったり、また非専門家の中で意味を捉え損なっていたりする例もよく見かけるので(「プラセボでも効けばいいんでは?」という反応の一部が典型)、そこら辺をどういう風に解らせるか、の部分ですね。

効かなくなったものはどうするか、はこれまた難しいです。今それを受けている人にどう説明するかという観点もありますしね。

私自身は、(これまでの主張から明らかなように)効かないものを排除するべき、と思っている訳ですね。と言うか、効くか否か(特異的に)、を標準医療の規準とすべきである、という認識であると。
それは新しいエントリーに書いた代替医療概念とも関わってくる事ですね。

投稿: TAKESAN | 2011年1月12日 (水) 17:53

さて、このNATROMさんのご主張ですが。

http://twitter.com/#!/NATROM/status/25405275527712768

皆さんはどう捉えるでしょう。これはまさに、「プラセボのみならず」です。実質的には同じ砂糖玉であっても、「意味論的に違う」もの。

投稿: TAKESAN | 2011年1月13日 (木) 13:22

こんばんは。

ちょっとkikulogでの議論とは違った切り口から。
件のNATROMさんのTweet、最初は私も「医療従事者によるプラセボ使用のみならずホメオパシーも(条件によっては)許容」と読んだのですが、よく考えるとそうではないな、と思い直しました。

そう思ったのはやはり、後半部分の記述によります。「日本ホメオパシー医学協会の主張をおかしいと思わないのが大問題」な訳です。
もし「日本ホメオパシー医学協会の主張はおかしい」と思いつつ行ったと(おそらく事実とは違うでしょうが、その様に)仮定すれば、レメディの投与はプラセボと本質的に変わらない事になります。
信じていないのであれば必ず標準医療を行うでしょうし、本人や家族に「ホメオパシーを使った」と言う事も無い筈です。
だからこそ、信じてしまう(おかしいと思わない)事は大きな問題である、という主張なのだろうと考えています。

とは言え、プラセボ問題に限ったとしても、非常にややこしい、難しい問題です。これはもう何回も書いている事ですが、直ちに結論の出せない問題であるのは間違いないと思います。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月16日 (日) 20:34

>PseuDoctorさん

うーん、少なくともこの件については結構言いたい事はシンプルで、

・医療者がレメディを使う事自体がすごくダメ

・ホメジャの主張信じているとしたら完全にダメ

・レメディを用いた事を知った他の医療者が「何が問題」と認識(現代医学忌避じゃ無ければいいのでは、と看做す)するのがダメ

という事なのです。

投稿: TAKESAN | 2011年1月16日 (日) 22:10

TAKESANさんの主張は理解できます。
個人的には同意できます。

ただ、現状ではホメオパシーとプラセボの区別がつけられない医療従事者は沢山居ます。少なくとも私の周囲では大部分の人がそうです。
非常に残念ですが、実態はそんなものです。

ですから、問題の所在すら解らない医療従事者が大勢居る訳で、とてももどかしさを感じている部分です。
最終目標と、とりあえず対処すべき事との間にあるギャップがあまりにも大きくて、時々途方に暮れたりしています。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月16日 (日) 23:30

たとえば、「ホメオパシーって何?」という反応であれば、まあ知らないのは仕方無いよね、となると思うんですね。

でもこの例って、ホメオパシーの存在は知っていて、その上で、標準医療忌避しなければ、と言っている訳だから、当然、それが依拠するりろんが荒唐無稽である事は認識しているはずです。それで、「どうせ砂糖玉なんだから」と反応しているのですよね。そこに無頓着さを感ずるのです。

「どうせ砂糖玉だ」と認識するのは与える側、もしくはそれを見る「医学に通じている」人であって、与えられる側はそうで無い訳ですから。

投稿: TAKESAN | 2011年1月16日 (日) 23:40

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