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2010年12月19日 (日)

議論のニュアンス

科学哲学上の疑似科学の議論と、昨今の「ニセ科学」議論、もちろんかなりの程度は共通していると思うのですが、微妙な異なりもあると感じます。

科学哲学上の境界設定問題では、科学の要件を定め、それに当てはまらないものを疑似科学とする、という流れが中心であると理解していますが、その場合に対象としているのは、いずれも多少なりとも「”科学”を志向している」もの(言説や命題や仮説)、だと思います。創造科学にしても超心理学にしても精神分析にしても。どちらかというと、「科学を志向あるいは自認しているくせに」という感じ。だから、科学の頭に「疑似」がつく。進化論は科学か疑似科学か、とか、社会科学は疑似科学である、といった主張なんかも、そういう議論の流れにのっている気がします。

対して、昨今の「ニセ科学」議論。
ある言説に対し、あれはニセ科学だ、と指摘した場合、反論として、

 そもそも科学と言っていないではないか

こういう類のものを見る事があります。つまり、はじめから科学だなんて言っていないのに「ニセ”科学”」だなんて評価されて迷惑だ、とか、物事の真相にアプローチするのは科学だけでは無いのだから、科学の観点から他のものを非難するのは傲慢だ、といったようなもの。
要するに、科学を志向していないものを「ニセ”科学”」と呼ぶのは不当だ、という主張。ここら辺、科学たらんとしているものを、科学の要件を満たしているか否かで判断する議論とは、少々異なっています。

この流れで思い出すのが、江本勝氏による、いわゆる「水からの伝言」言説ですね。氏の言説に対する批判が大きくなった際に、持説を「ポエム」「ファンタジー」と称したのは、界隈の議論を追っている人にとってはよく知られた事だと思います。
江本氏の言が、まさに「言い逃れ」であるのは、江本氏の著作を参照すれば明らかであり、その具体例については以下を見て頂くとして、
江本勝達はこう言った - ublftboの日記
ホメオパシー等も、こういうアプローチをもって「そもそも科学と言っていない」として擁護する向きも見られます。

私たちがニセ科学を論ずる際、その定性的な定義として、「科学のようで科学でないもの」というのを用いる訳ですが、この「科学のようで」の部分を否定しようと試みている、と考える事が出来ます。つまり、科学で無いのはその通りだが、そもそも科学を志向していないのだから批判は当たらない、と。これは、「科学で無いと判断するのは不当だ」と返す類の反論とは性質が違う訳ですね。
ここら辺は、科学の要件を満たしていないから疑似科学だ、とシンプルに言うような議論とは異なっていますし、そう単純に論を進める人は、足をすくわれかねません。※科学哲学の議論がシンプル、と言っているのでは無いので注意

世間の科学に対する直感的な信頼を詐欺的に悪用する人(効かないのは判っているのに、効くと称してデータを捏造して食品を売りつけたり)、特に科学を意識している訳では無いが科学の言葉を援用して鏤めまくる人、など色々なパターンがニセ科学にはあります。そもそも科学とは相容れないもので、初めからそれを志向すらしていないものには、もう科学は、「科学を装っている」という視点からは何も言えません。だから、単に科学で無いものは、「非科学」と呼び、「ニセ科学」とは異なる概念として区別している訳です。※「非科学」の「非」は単に含まれないという意味を指すのみであって、劣っている、等の価値判断を含意させていない事に注意

ここで、別所で書いた、私のニセ科学定義を置いておきます。

「ニセ科学」とは、科学的専門概念を援用したり、「実証した」などと明言しているにも拘わらず、科学者共同体におけるコンセンサスと乖離している主張や知識の体系などの概念を呼称する語である。

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