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2010年12月24日 (金)

ニセ科学論の注意事項のようなもの

ニセ科学周辺について論ずる際に注意しておいた方が良いと思う事について、改めて書いておきます。

・ニセ科学が「蔓延」している、という言明について。
それは

1)定量的な評価か。
2)日常的用法か。
3)定性的な判断か。

蔓延している、という主張が、何を指すか、という視点。時系列の割合の変化などの定量的判断(1)か、あるいは、「最近、ニュース海老蔵の話ばっかりだね。」「バナナダイエットが流行ってるらしいね。」といったような、マスメディアの影響力を前提としてある程度の「規模」を推測し、それに基づいた(だけの)判断(2)か、あるいは、たとえば学校教育においてゲーム脳や水伝が用いられる事があり、TOSSなど教育に関わるものが積極的に取り入れていた、その事実自体を重く見た(一部でも一定数の事例があるだけで問題と看做す)判断(3)か。もしくはそれらの複合的なものか。

・ニセ科学が広まる「理由」について。

ニセ科学を批判する論者にしばしば見られる主張。

1)「今の人びと」は科学リテラシーが足りない、だからニセ科学が広まる。
2)「今の人びと」は解りやすさを求め過ぎだ(解りにくさへの耐性が無い)。だから(一見解りやすい)ニセ科学が広がる。
3)「今の人びと」は二分法的思考を求める。だからニセ科学的な言い切ってくれる言説に惹かれる。

これらは、「現在の人びと」の「あり方」、たとえば「リテラシー」のような、心理学的あるいは社会学的な傾向に、ニセ科学が流布される原因を帰属している。果たしてそれは妥当か。仮説ならともかく、検証をすっ飛ばして、当然の様に論じてはいないか。

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これらはいずれも、社会科学的――心理学や社会学や教育学やメディア論、等々――に検討され検証される「べき」事柄です。「こうではないか?」という問いかけに留まっているならば、それは社会科学的な仮説提示、考察に値する題材の提供、の段階として意義あるものですが、「それ以上」の事を主張する論者はしばしば見られます。

ニセ科学が蔓延している、広まっている、と言った場合、ある時点で見て(横断的)一定数信ずる人がいる、のを指しているのか、あるいは、以前と較べて(縦断的)「信ずる人(の割合など)が増えた」と言っているのか。両者はかなり異なった意味内容ですが、同じ「広まっている」などの表現が出来るものです。
仮に「増えた」と言いたいなら、何がどう増えたのかを考えなくてはなりません。これは、後の信ずる理由の考察とも関わります。

次に、何故信ずるか、という問題。これは、信ずるに至る理路、それを求める心理学的な理由、などについてのものです。しばしば見るのが、「今の人は――となったから」という、社会の成員の一般的な心理的傾向に原因を帰すもの。
それは本当か、と問わねばなりません。一見尤もらしいものに、「今の人びとは科学リテラシーが低下」して云々、というのがありますが、まずその現象は本当か、という視点がありますし、もしそれが成り立っているとして、それが原因であると看做して良いのか、というのを論証せねばなりません。

そもそもニセ科学というもの自体、時代によって中身が異なるものです(科学の内容は時期によって変化するから、当然ニセ科学の中身も変わる)。また、一般的な心理傾向なども関係しつつ、社会的に強烈なインパクトのある事象が強く影響を及ぼす可能性もあります。ある有名人がニセ科学的な本を出して超ベストセラーになる、とか、ICTの発展によって情報の伝達の速さと規模がケタ違いになった結果、言説の流布の程度も全然違う、とか。もし「ニセ科学を信じている人の割合」というシンプルな指標を考えるとすれば(測定出来るかは措く)、そういった要因によるのかも知れない訳です。

こういう事を考えておかないと、足をすくわれます。あるニセ科学言説が話題になっているのを見て、「その時の社会のあり方」に思いを馳せて嘆いてみせる、というのは気が早いのです。教育制度に即結びつける、とかね。

まず、社会的事象の複雑さと、それを構成すると思われる無数の要因とについて考えるべきです。ニセ科学言説の内容は深く考察しても、その広まり方の原因については根拠無視して良い、などという道理は無いのですから。

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ニセ科学論」カテゴリの記事

コメント

これはとりわけ、ぼくみたいなスタンスの論者は留意しなければいけない部分ですね。改めて自戒します。

投稿: pooh | 2010年12月25日 (土) 04:54

poohさん、お早うございます。

しばしば書く事を、改めてまとめてみました。
て、他ならぬpoohさんの所でいつも言ってる事だったりしますね。

ちなみに、poohさん(や亀さんも?)がおっしゃるような、解りやすさの希求があるのでは、という主張については、
・それは本当か
・それがあるとどう問題か
の両方を、根拠に基づいて明らかにする必要があると思っています。

投稿: TAKESAN | 2010年12月25日 (土) 10:03

遅ればせの反応です。相変わらずことばに不自由な状況が続いているので、気づいてもすぐに反応できませんでした、すいません。

先般、dlitさんのところでお話をして、ぼくが気にしている「解りやすさの希求」みたいなのは、どうも編集屋やライターの職業病的なものを強くイメージしている結果というか、自戒・反省点みたいな傾きが強いようだなあ、などと考えはじめています。もっとも、読者・視聴者がそれに慣らされてしまっていないかという危惧もありますけど。

しかし、それはともかく、やっぱり個人の体験の範囲での考察というか、印象に基づく憶測にすぎない話なのは間違いないです。ですから、本当にそうなのか、それはどういう影響を及ぼし得るのかといったことについては、おっしゃるとおりちゃんと調べてみないと確かなことはナニも言えないと思います。

こういう「気がする」レベルの話は、妙に断定したりせずに「気がする」と書くように努めてきたつもりですが、ちゃんとできていたかというと、あんまり自信がありません。また以前のように文章が読み書きできるようになったら、改めて読み返したり、さらに気をつけたいところではあります。乱暴な主張に対するに、同じような乱暴な考察では不毛だと思うので。

投稿: かめぞ=亀@渋研X | 2011年1月 3日 (月) 17:23

亀さん、今日は。すいません、コメント確認を怠っていました。

poohさんにもTB頂いていますので、ここに少し書いてみます。

私がここら辺に拘る理由として、「今の人は解りやすさを(昔と較べて相対的に)特段希求など”していないという実感がある”」から、というのがあります。要するに、「そんなの無いでしょ」と思っている訳です。「実感」として。

観測範囲で言えば、高年齢の人の方が明らかに勉強する気も無いし、難しい事はいいから……と考えてる風です。解りやすさすら求めていない、と。それが実感。

で、その感じというのは、極めて限定された範囲の観察の結果である訳なので、それを一般化するに何の根拠もありません。私はしばしば、解りやすさの希求があるのでは、という意見に、それホントですか?としか書きませんが、それはもう、自分の実感を書いてもほとんど情報として何の価値も無いからなのですね。亀さんが仰る事と同様ですが、実感に実感をぶつけるのはやはり不毛です。

基本的な認識としては、本文の後半で論じていますが、たとえば、「学力低下」をPISAの調査の順位をもって軽率に論ずる人がいますよね。そういった所から、根拠無しな様々の「今の若者のあり方」(俗流若者論)に敷衍するような意見に繋がる、というのもあります。

社会的な現象の説明は、それが一見すると尤もらしく感じられるという所が厄介なので、そこにとにかく気をつけるべきだ、と思っています。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 4日 (火) 14:26

こんばんは。
確かに、TAKESANさんがよく仰っている内容ですね。
今更かもしれませんが、勝手ながら私なりに纏め直してみます。

一般的に「昔の人々に比べて今の人々は云々」という内容を定量的に述べるのは難しいです。何故なら、それらはいずれも社会科学的に大きなテーマになるから。言い換えれば、過去と現在の比較を仮説として述べる事は出来ても、それを検証するのは極めて困難な場合が多い、と言えましょう。
ただ、だからと言って、何も言えないという訳では無いですね。内容的には本文の繰り返しになってしまいますが、自らの主張がどういう性質のものであるか、そしてそれを裏付ける根拠なり理論が存在するのかどうか、そういう点に自覚的になって欲しいという話だと思います。

少なくとも、未検証のものを検証済みの様な顔をして述べる事は好ましくないでしょう、たとえニセ科学批判の為であっても。何故なら「未検証のものを検証済みの様な顔をして述べる」のでは、ニセ科学そのものになってしまうからです。「毒を以って毒を制す」という考え方もありましょうが、私はそういう考え方に与したくはありません。

ちょっと話は変わりますが。
例えば、次の様な主張はどうでしょう。
「ニセ科学なんかにハマるのは、科学リテラシーが足りないからだ」
かなり乱暴な主張ですが、これ自体は時系列的な変化に関しては何も言っていません。これは「科学リテラシーが足りていれば、ニセ科学にハマらない」と言い換える事も出来ます。全称命題として言い切るのは極端なので、もう少し控え目な表現に後退させましょう。
「科学リテラシーが高いほど、ニセ科学に対する耐性も高くなる」
この主張なら、そういう傾向は確かにありそうです。しかしやはり、この場合も社会科学的検証が充分であるとは言えないでしょう。では何故「そういう傾向がありそう」と思ってしまうのでしょう。

それは「メカニズム論」だと思います。たとえ、科学リテラシーとニセ科学耐性との間で、因果関係はもとより、相関関係ですら調べられていなかったとしても、認知とか判断のメカニズムを考えた場合に、科学リテラシーが高いほどニセ科学にハマり難くなるというのは、極めて妥当性の高い仮説であると考えられます。そして更に、今のところ、その仮説に対する強力な反証は見つかっていない。
以上の様な理由から、とりあえず仮説を採用しているのであり、それに基づいて私などは「ニセ科学への対策として、科学リテラシーを高めるのも大切である」とか述べている訳です。

何とも奥歯に物の挟まった様な表現ですが、なるべく正確に誠意を持って述べようとすると、どうしてもこういう言い回しになってしまいます。これは科学そのものの営みでも同じ事ですね。
要するに、結論は常に暫定的であるという事。(繰り返しになりますが)暫定的ではあるのだけれど、それがどの程度の根拠に裏打ちされた、どの程度に確度の高いものであるかという事、それを(時々忘れそうになっちゃうから)なるべく忘れないでいて欲しい、という事だと思っています。

極めて大雑把に纏めるならば「ニセ自然科学に敏感な筈の人達が、ニセ社会科学に鈍感になってはイカン」という感じでしょうか。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月 5日 (水) 23:33

PseuDoctorさん、今晩は。

確か『クリティカルシンキング 不思議現象篇』だったかと思いますが(うろ覚えなのでよろしく)、「主張(信念?)は証拠に比例させる」という言い方をしていました(元ネタはヒュームかも知れません)。

要するに、解らない事は解らないまま置いておく、解った部分について解ったなりに論ずる、という感じでしょうか。
▼ 引  用 ▼
「ニセ科学なんかにハマるのは、科学リテラシーが足りないからだ」
▲ 引  用 ▲
これは、社会科学的な命題として考え、全ての構成概念についてあらかじめ定義し、そこから作業仮説を見出す、というプロセスが必要となります。
場合によっては、「ニセ科学的主張を見破る能力」を「科学リテラシー」概念に含める事もあるかも知れませんし、学校教育で学んだ内容をテストした結果を指標として用いるかも知れません。そういった、概念の絡み合いをも考察する必要がある訳です。そうじゃ無いと、途中で循環したりして、何を対象としているのか混乱する虞もありますし、そもそも意味内容に対する社会的な了解が変容する可能性を常に持つので、そこも念頭に置くのが肝要と思います。

最後の段落について、まさにそういう事を書きたかったというか、ニセ科学論界隈に限らず、しばしば、専門外の人が社会的事象について恐ろしく危うい考察をしているのを目にするので(最近では、Web論座でのノーベル賞ばなし)、エントリーを上げた次第です。

投稿: TAKESAN | 2011年1月 5日 (水) 23:54

こんばんは。

>専門外の人が社会的事象について恐ろしく危うい考察をしているのを目にする
これは、ありますね。社会科学的検証というのが非常に難しいだけに、尤もらしい事を言っても反論するのは難しいでしょう。
勿論、仮説として述べるのなら構わないのですが、しばしば事実の様にして述べられてしまうのが最大の問題であると考えます。

ここはひとつ、社会科学の専門家による「ニセ社会科学批判」を期待したいところです。
しかし残念ながら、寡聞にして社会科学の専門家を存じ上げないというorz

投稿: PseuDoctor | 2011年1月10日 (月) 22:42

PseuDoctorさん、今晩は。

社会科学の専門家、というと、飯田泰之氏辺りでしょうか。後、谷岡一郎氏などもおられますが、ニセ科学の積極的批判、というのとは若干違いますですね。
治安悪化言説で言うと、芹沢一也氏や浜井浩一氏が。

後藤和智さんなんかは非常に積極的ですが、後藤さんも社会科学者、とはちょっと違いますねえ。

投稿: TAKESAN | 2011年1月10日 (月) 23:07

すみません。覗いていないあいだに、議論が進んでいますね。

「わかりやすさ」志向をぼくが云々するのはニセ科学に言及しだす前からの話なので、不安になって自分のエントリを読み返してみました。とりあえずぼくは「昨今の『わかりやすさ』志向の『拡大』がニセ科学の蔓延の背景にある」みたいに主張したことはない、はずだと思っていたので。

まず、PowerPointやKeyNoteと云った「わかりやすくする」ためのソフトウェアのプレゼンスが(例えば15年前から比較すると格段に)高まっていることや、ビジネスマンのスキルのなかで「プレゼンテーション技能」みたいなものへの重心が拡大していること、みたいな、現実的に変化しているいろんな要素から感じ取れる総合的な印象として、「リアルで経済が動いている部分で『わかりやすく伝える』ことが強く求められるようになっている」みたいな実感があるわけです。これはまぁぼくから見れば現実に見られる事柄なんですけれど、数値的な裏付けがあるわけではないわけで(その手法自体も確立されていませんし)、その意味ではPseuDoctorさんのおっしゃるような、メカニズム論的仮説であるわけです。

で、個々のニセ科学の問題に関する言及と考察は、そう云ったことに関するケーススタディ(と云うか、精度を上げていくための試み)みたいな側面があるんですよ。高まっているのか、増加しているのかはともかくとして、ぼくの捉える「わかりやすさ」志向に感じる問題点とニセ科学の問題は関係していると思えるし、ぼくはそこを個別に考察してきています。
微妙なんですけど、「『わかりやすさ』志向とニセ科学の問題の関連性」と「『わかりやすさ』志向の拡大している昨今の世情」についてはそれぞれ論じていますけれど、「だからニセ科学が蔓延しているんだ」みたいな直線的な結びつけかたはしてきていない、はずなんですよ(可能性も示唆していない、と云うわけではないですが、すくなくとも後者を前者の論拠にしてなにかを論じたことはないはず)。こちらの最初のコメントで書いた「留意しなければいけない」と云うのは、そう云う意味だったりします(そう受け取られる向きがある、と云うことですので)。

でまぁ、例えばじっさいにその「わかりやすさ」志向が拡大しているのかどうか、それがニセ科学の蔓延と関係しているのか、みたいなことを論証するには、例えば20年とかの時間が経ったあとで振り返って、みたいな方法なら多少精度の高いことが云えるかもしれません(以前こちらのコメント欄で、バブル、と云うものについてちょっと書いたことがあります。例えばそれは、20年ほどの時間が経ったあとで振り返って、と云う場所からだから書けたことだったりもします)。来世紀になれば、その時点で最新の歴史学に準拠した考察の提供が可能になるかもしれない。社会科学的な一回性の事象に対して客観的・合理的で精度の高い理解をするためには、たぶんその対象がそれぐらい枯れてないと無理でしょうから。
ただまぁ、その水準じゃないと考察を提示すべきではない、と云うスタンスをとると、例えば「歴史に学ぶ」みたいなことは不可能になりますよねぇ。過去の事例にどれほど酷似していて、同様の推移が予測される場合でも、やっぱり現在進行形の事象は一回性のものであって、過去に生じた事柄から類推される対策の適用が合理的だ、と云うのを自然科学的な精度で証明することは原理的に不可能ですから。

投稿: pooh | 2011年1月13日 (木) 22:13

poohさん、今晩は。

結局の所、問題をどういうレイヤで見るか、というのと、主張をどう絞るか、そして、主張と証拠は釣り合わされているか、という事だろうと思います。

社会学的なものか心理学的なものか。数量化はどうするか(そもそも可能か)、尺度はどう作るか。関連を調べたいか因果まで踏み込むか。

当然、経験的に尤もらしいと思われる仮説を提示してそれを考察していく、というのはあるし、それ無しに進むとは考えにくい訳ですが、その場合、「主張の強さを証拠に釣り合わせる」事と、「主張したいならそれに見合った証拠を持ってくる」事のいずれかが必要になります。

一般論ではありますが。

投稿: TAKESAN | 2011年1月13日 (木) 22:32

こんばんは。

飯田泰之さんの御名前は時々見ます(YJSZKさんとかも時々言及されてますね)が、きちんと読んだ事は無いのです。
とりあえず御本人のブログからぼちぼち拝見する事にします。

あと、後藤和智さんって、この間御自身でTogetterされてた方ですね。実名批判なさってるからかもしれませんが、何と言いますか、抜き身の刃の様な言葉の力を感じましたですね。

投稿: PseuDoctor | 2011年1月17日 (月) 00:17

飯田さんはかなり評価されていますね。きくちさんが出演されたニコ生の進行もされていました。

後藤さんは非常に切れ味が鋭いです。いわゆる治安悪化言説批判などにコミットされてきて、社会学系のアヤシゲな言説にお詳しいですね。

投稿: TAKESAN | 2011年1月17日 (月) 00:38

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すこし時間が経ってしまったのは、このことについて書くことに(きわめて個人的な意味合いを含めて)なんらかの意味があるんだろうか、みたいに思ったから。その部分について結論はでていないし、すっきりした回答もないのだけれど、そんなことを考えていてもしかたがないので書く。 TAKESANさんのニセ科学論の注意事項のようなものと云うエントリでとりあげられていることと、コメント欄でのやりとりに関して。正直この部分については自分自身明解に把握できていない(最終的におそらくできない)部分なので、これから書くことは回答... [続きを読む]

受信: 2010年12月30日 (木) 19:41

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