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2010年12月に作成された記事

2010年12月31日 (金)

クリティカル・シンキング

餅食らう

体重増加

あ…れ……?

いや待て。比較的接近した時間的前後関係があるからといって、即因果関係があるとは言えない。「前後即因果の誤謬」は避ける必要がある。

危ない危ない。批判的思考を疎かにする所だったぜ……。

さて、安心したところで、特製ぜんざいでも食べるかあ。

※こ れ は フ ィ ク シ ョ ン で す

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2010年12月28日 (火)

傑作RPGの予感

ラストストーリー 特典 エレメント オブ ザ ラストストーリー(サントラCD+ビジュアルブック)付きVideo Gamesラストストーリー 特典 エレメント オブ ザ ラストストーリー(サントラCD+ビジュアルブック)付き

販売元:任天堂
発売日:2011/01/27
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Wii本体 ラストストーリー スペシャルパック(RVL-S-WABA) 特典 エレメント オブ ザ ラストストーリー(サントラCD+ビジュアルブック)付きVideo GamesWii本体 ラストストーリー スペシャルパック(RVL-S-WABA) 特典 エレメント オブ ザ ラストストーリー(サントラCD+ビジュアルブック)付き


販売元:任天堂

発売日:2011/01/27
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Wiiで発売される『THE LAST STORY』、坂口博信氏によるプレゼンテーションの動画が観られます。

これは全く期待せざるを得ませんね。実によく作りこまれているという印象。BGMもいいし(やっぱ植松さんの音楽はいいですね)、戦闘にも、ほどよくアクション要素が組み込まれていて(最近はこういった方向のものがよく見られますね)、飽きさせない様に工夫されている風に見受けられます。戦略性も高そう。グラフィック面も、キャラクターのモーションもなかなか丁寧に作られていますね(特に人間の動きは、つい他ジャンルのゲームの動きとかと比較してしまいがちですが、再現の度合いをあまり求めると際限が無くなりますからね)。

最近はあまりRPGをやっておらず(最後にやったのはなんだっけ……というくらい。RPG大好き人間だったのに)、広告を観ても、今ひとつ触手が伸びなかったのですが、本作は、久しぶりに、きましたですね。

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2010年12月25日 (土)

科学の哲学の本

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)Book科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

著者:サミール オカーシャ
販売元:岩波書店
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この本を再読中。
科学哲学の本は、それ自体が複雑な問題を扱う分野で、しかも問題のことごとくが議論中という事あって、なかなか勉強するのが難しいのですが、本書はコンパクトにまとめられ、すっきり整理されていて、(哲学の本としては)非常に読みやすいと思います。入門書としては、本書と、野家啓一氏の『科学の哲学』をお勧めします。※野家氏の本は、多分非常に手に入りにくいです。

伊勢田さんの本なんかは、扱われているトピックが大変興味深くて面白いですが、そこそこ大部で、ガッツリ系なので、じっくり腰をすえて読む、という感じでしょうか。もちろん、ニセ科学や疑似科学に興味を持つ人がまず手に取る、というのもいいと思いますが、結構歯応えがあるので、途中で息切れするかも知れません。

疑似科学と科学の哲学Book疑似科学と科学の哲学

著者:伊勢田 哲治
販売元:名古屋大学出版会
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科学哲学の本そのもの、では無いのですが、

クリティカルシンキング 不思議現象篇Bookクリティカルシンキング 不思議現象篇

著者:T・シック・ジュニア,菊池 聡,新田 玲子,L・ヴォーン,Jr. Theodore Schick,Lewis Vaughn
販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本は、なにげに科学哲学的な勉強にも非常に役立ちます。私が、ニセ科学関連のお勧め書籍を挙げろ、と言われたならば、これと伊勢田さんの本を真っ先に紹介するでしょう。非常に豊富な具体例があって、読み物としても面白いものです。それと、科学者などの名言が紹介されていて、それだけでも読む価値があります。

科学哲学っていうと、論証の問題や実在論の議論や因果関係の話などが絡んでくる、とても難しい分野ですが(「科学とは何か」を扱う学問だから、問いが根本的になるのは当然)、それだけに刺激的で面白くもあります。

追記:

この本も、理解しやすい様に工夫されていて良いですね。

理系人に役立つ科学哲学Book理系人に役立つ科学哲学


著者:森田 邦久

販売元:化学同人
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2010年12月24日 (金)

ニセ科学論の注意事項のようなもの

ニセ科学周辺について論ずる際に注意しておいた方が良いと思う事について、改めて書いておきます。

・ニセ科学が「蔓延」している、という言明について。
それは

1)定量的な評価か。
2)日常的用法か。
3)定性的な判断か。

蔓延している、という主張が、何を指すか、という視点。時系列の割合の変化などの定量的判断(1)か、あるいは、「最近、ニュース海老蔵の話ばっかりだね。」「バナナダイエットが流行ってるらしいね。」といったような、マスメディアの影響力を前提としてある程度の「規模」を推測し、それに基づいた(だけの)判断(2)か、あるいは、たとえば学校教育においてゲーム脳や水伝が用いられる事があり、TOSSなど教育に関わるものが積極的に取り入れていた、その事実自体を重く見た(一部でも一定数の事例があるだけで問題と看做す)判断(3)か。もしくはそれらの複合的なものか。

・ニセ科学が広まる「理由」について。

ニセ科学を批判する論者にしばしば見られる主張。

1)「今の人びと」は科学リテラシーが足りない、だからニセ科学が広まる。
2)「今の人びと」は解りやすさを求め過ぎだ(解りにくさへの耐性が無い)。だから(一見解りやすい)ニセ科学が広がる。
3)「今の人びと」は二分法的思考を求める。だからニセ科学的な言い切ってくれる言説に惹かれる。

これらは、「現在の人びと」の「あり方」、たとえば「リテラシー」のような、心理学的あるいは社会学的な傾向に、ニセ科学が流布される原因を帰属している。果たしてそれは妥当か。仮説ならともかく、検証をすっ飛ばして、当然の様に論じてはいないか。

--------------

これらはいずれも、社会科学的――心理学や社会学や教育学やメディア論、等々――に検討され検証される「べき」事柄です。「こうではないか?」という問いかけに留まっているならば、それは社会科学的な仮説提示、考察に値する題材の提供、の段階として意義あるものですが、「それ以上」の事を主張する論者はしばしば見られます。

ニセ科学が蔓延している、広まっている、と言った場合、ある時点で見て(横断的)一定数信ずる人がいる、のを指しているのか、あるいは、以前と較べて(縦断的)「信ずる人(の割合など)が増えた」と言っているのか。両者はかなり異なった意味内容ですが、同じ「広まっている」などの表現が出来るものです。
仮に「増えた」と言いたいなら、何がどう増えたのかを考えなくてはなりません。これは、後の信ずる理由の考察とも関わります。

次に、何故信ずるか、という問題。これは、信ずるに至る理路、それを求める心理学的な理由、などについてのものです。しばしば見るのが、「今の人は――となったから」という、社会の成員の一般的な心理的傾向に原因を帰すもの。
それは本当か、と問わねばなりません。一見尤もらしいものに、「今の人びとは科学リテラシーが低下」して云々、というのがありますが、まずその現象は本当か、という視点がありますし、もしそれが成り立っているとして、それが原因であると看做して良いのか、というのを論証せねばなりません。

そもそもニセ科学というもの自体、時代によって中身が異なるものです(科学の内容は時期によって変化するから、当然ニセ科学の中身も変わる)。また、一般的な心理傾向なども関係しつつ、社会的に強烈なインパクトのある事象が強く影響を及ぼす可能性もあります。ある有名人がニセ科学的な本を出して超ベストセラーになる、とか、ICTの発展によって情報の伝達の速さと規模がケタ違いになった結果、言説の流布の程度も全然違う、とか。もし「ニセ科学を信じている人の割合」というシンプルな指標を考えるとすれば(測定出来るかは措く)、そういった要因によるのかも知れない訳です。

こういう事を考えておかないと、足をすくわれます。あるニセ科学言説が話題になっているのを見て、「その時の社会のあり方」に思いを馳せて嘆いてみせる、というのは気が早いのです。教育制度に即結びつける、とかね。

まず、社会的事象の複雑さと、それを構成すると思われる無数の要因とについて考えるべきです。ニセ科学言説の内容は深く考察しても、その広まり方の原因については根拠無視して良い、などという道理は無いのですから。

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2010年12月21日 (火)

ひたすらな切断とひたすらにアド・ホック

ホメオパシー団体のごときものについてです。

色々な主張に対して批判が加えられると、ひたすらに「切断」と「アド・ホックな言い逃れ」を行います。
どういう事かと言うと。

◆切断
「あの団体とは違う」という、いわば差別化。奴らは正統(正当)では無いのだ、と主張する事によって、自身の体系を護ろうとする。こういうのは色々な文脈で起こる事でもあります。武術で分派したり、古伝順守と革新派が対立したり。ホメオパシーで言えば、由井氏系とそれ以外の対立や、クラシカルとプラクティカルの対立など。
◆アド・ホック
この部分はこれこれこういう理由で矛盾している、とか、他の証拠と衝突する、といった批判を突き付けられた場合に、全体の論の整合性を完全無視して言説を護ろうとする。現代科学擁護の援用など、まことに節操の無いやり方。これまでの知見から考えて、破綻や崩壊するしか道の無い言説なので、そうするしか、「一見維持出来ている」様には見せかけられないのでしょう。

いかに切断を試みようが、ホメオパシーを支持する人びとあるいは団体が、ハーネマンの主張の核になる部分を固持している限り、「同じ」です。そして、内部での差別化など、体系内での微妙なバリエーションでしか無い訳です。

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2010年12月20日 (月)

模型のわかりやすい「教科書」

モデラーのオオゴシさんが、新しい本を出されたそうです。

はじめてだってうまくいくガンプラの教科書 (012Hobby)Bookはじめてだってうまくいくガンプラの教科書 (012Hobby)


著者:オオゴシ トモエ

販売元:大泉書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

私は、今の住環境その他の事情から、今はちょっと模型はお休み中なのですが、いずれにしても一生の趣味にしようと考えているものです。

思えば、大分前に友人がプラモを買うというので模型屋に一緒について行き、そこで作例を見て衝撃を受けたのをきっかけとして俄然模型製作に興味を持って、ホビージャパン誌や模型の入門書を読みあさっていて、その時に、オオゴシさんとMAX渡辺氏の連載、そして本に出会ったのでした↓

MAX渡辺&大越友恵のガンプラ大好き!ビギナーのための模型制作ガイドMAX渡辺&大越友恵のガンプラ大好き!ビギナーのための模型制作ガイド
販売元:遊び・クリエイション
遊び・クリエイションで詳細を確認する

オオゴシさんはスタンスとして、懇切丁寧な説明や、ビギナーと模型製作との橋渡しをする事を心がけておられるようで、テキストの書き方にもそれが現れていて、「解りやすいテキスト」を志向する自分としても、とても好感が持てます。興味はあるんだけどハードル高そうだな……という人に関心を懐いて貰う、というのは、文化の盛り上がりに関わる事だし、とても難しい事でもあると思う訳です。

冒頭で紹介した新刊、私は未読ですが、内容の一部が紹介されているページ はじめてだってうまくいくガンプラの教科書 大泉書店 で、配慮の行き届いたものである事が見て取れますね。読むのが楽しみな本です。

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2010年12月19日 (日)

バットマンは達した武術家だったのだ

バットマンになる! スーパーヒーローの運動生理学 Book バットマンになる! スーパーヒーローの運動生理学

著者:E・ポール・ゼーア
販売元:青土社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本は実にエキサイティングだ。

言わずと知れたスーパーヒーロー、バットマン。彼の魅力の一つに、彼が「人間」である事が挙げられる。つまり、何か特殊な薬物を用いた訳でも、遺伝子操作をされた訳でも無く、また別の星からやって来たのでも無く、私たちと同じ意味で「人間」という事である。この条件が、彼の長く続く人気を保つものの一つなのだろう。そして、多くの若者に、一流のスポーツ選手に憧れるがごとく「バットマンになれるかも」と思わせているに違いない。

本書は、バットマンをバットマンたらしめているのは何か、私たちが到達する、つまり「バットマンになる!」事は出来るのか、それを、主に運動生理学の視点からアプローチして解明を試みるものである。

著者はE・ポール・ゼーア。運動生理学や神経科学を専門とする科学のエキスパートだ。彼はその豊富な生理学的知識をもって、バットマン――そしてブルース・ウェイン――のパフォーマンスを構成する色々の要素、筋肉の働きや構造、あるいは遺伝の仕組み、などを丁寧に教えてくれる。

これだけなら、「なんだ、要するにトレーニング理論の教科書をバットマンに当てはめて適当に論じているだけか。」と訝る向きもあるだろう。特に、いわゆる西洋科学的トレーニング理論に懐疑的な目を向ける、武術志向の方はそう見るかも知れない。しかし、安心して頂きたい。実は著者のゼーアは、大変面白いプロフィールの持ち主である。すなわち、出版社のサイトに掲載されているプロフィールによれば、

空手と琉球古武術で黒帯。

このような経歴を持っているという。バットマンになる!:目次 - 「ユリイカ」「現代思想」の雑誌発行、人文諸科学の専門書の出版社「青土社」 ここで、更に疑り深い方は、なんだ、「カラテ」や「カンフー」を齧った人間の視点から書いたものなのか、と見るであろう。しかし、この点についてもご安心を。まえがきで紹介されているが、彼は、井上貴勝、千歳強直の各氏をマーシャル・アーツの師として挙げている。「琉球古武術」の語でピンと来た方もあるかも知れない。つまり、著者は20年以上にわたって武器術を含んだ武術の体系を練磨してきた本格派なのである。
本文では、一般への普及過程における、武器術や明確に危険な技の排除など(古流柔術から柔道が興されたり、空手の総合武術的側面が減ったり)についても言及されており、彼の武術に対する造詣の深さを窺わせる。※いわゆる武術のスポーツ化を否定していない事に注意
また、「マーシャル・アーツ」や「カンフー」、漢字の「武術」の語源や字義解釈についても、読者を唸らせる解説をしてくれている。

さて、本書は、文体や扱っている題材(バットマン)から、大変親しみやすくはあるが、しかし、必ずしも「気軽に」読める代物では無い、という事は言っておこう。なにしろ副題が「スーパーヒーローの運動生理学」というだけあって、かなりの部分が、体力科学系学問の教科書的知識の説明に割かれている。その意味で、実に読み応えのある内容だ。とは言え、ゴリゴリの専門知識を整理し列挙している様な風では無く、様々な喩えを用いてなるだけ読みやすくさせる工夫がなされている所に好感が持てる。材料や構造の観点から骨格等を論ずるバイオメカニクス(生体力学)的な説明も押さえてあり、そこから鍛錬法や試割りのメカニズムに迫っていて、実に面白い話の進め方である。運動生理学の入門書の入門書、といった位置付けで考えると、恰好の物であると言えよう。

もちろん、ただ単に運動生理学の知識をシンプルに当てはめてバットマンのパフォーマンスを適当に論ずる、などという事はしていない。ゼーアの視点は、実に多角的でありシステマティックだ。自身が武術を修行しており、老齢の達人の技に触れている事も、彼の見方に何かしらの影響を与えていると推察出来る。加齢によってパフォーマンスはどう低下するか、あるいはどこまで維持出来るか、というのは武術やトレーニングに関心を持つ者が皆考える所であろうが、その部分についても考察されている。

ところどころ、格闘技・武術フリークがニヤリとするに違い無い、様々のトピックが挿入されているのも面白い。「射程距離」という因子によりマーシャル・アーツを分類し(この見方自体も著者の認識力の高さを窺わせる面白い論である)、それぞれを代表する例を映画俳優から挙げる、という所などがそうだ(ジャッキー・チェンやスティーブン・セガール……と書くだけでニヤリとされるであろう)。

本書では、必ずしも「目新しい」視点、読者が度肝を抜かれる様な説明が出てくる訳では無い。科学的な知見に基づいた、実に堅実な記述である。だが、そこがこの本の良さであると私は見る。必ずしも、トリッキーだったりアクロバティックだったりするものが読者の心を掴むのでは無いのである。
とは言ったものの、8章における著者のアプローチはなかなかにトリッキーで面白い。この章では、ブルース・ウェインが取り組んだマーシャル・アーツは何か、というのを題材として、マーシャル・アーツに含まれる要素を見出し、実際の武術・格闘技に当てはめて考察するのであるが、後半においてゼーアは、もしバットマンが無人島に流されたとして、マーシャル・アーツの一流派だけを持って行けるとするならば、と仮定するのである。それについての回答が実に興味深い。その答えとは……おっと、ここで本を読む楽しみを奪ってはいけない。後は読んでのお楽しみ、である。

これは些か余談めいているが。
ゼーアは、試割りのバイオメカニクス的説明の部分で、マイケル・フェルド、ロナルド・マクネイア、スティーヴン・ウィルク、の研究を援用している。どこかで見た記憶があるな、と思い本棚を見ると、彼らの『空手の物理学』(日経サイエンス社)がそこにあった。随分前に古書店で購入した物だ。そういえば持っていたなあ、と感じつつ、マクネイアの悲劇を知り(恥ずかしながら、今まで知らなかった)、考えさせられた次第である。

上にも書いた様に、この本はさくさくと読み進められる本では無い。少なからず専門的な概念が出てくる、なかなかに歯応えのある本だ。いわば知識のトレーニングとなる本で、読み終わった頃には、あなたの知力も鍛えられている事だろう。

間違い無く、お勧めの一冊である。

---------

この本の事は、別所で ゆんゆん探偵さんが紹介されていたのを見て知りました。教えて頂いて、深謝です。今年読んだ本の中でもトップクラスに面白い本でしたし、武術を科学的に考えるという視点を持っている人にとってもすごく参考になる本だと思います。

また、松浦俊輔氏の訳も大変読みやすいものです。大部の本ですが、読み進めるのは苦になりません。もちろん専門的知識はむつかしいですが、きついけど面白い、という感じです。まるで稽古の様ではありませんか。

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議論のニュアンス

科学哲学上の疑似科学の議論と、昨今の「ニセ科学」議論、もちろんかなりの程度は共通していると思うのですが、微妙な異なりもあると感じます。

科学哲学上の境界設定問題では、科学の要件を定め、それに当てはまらないものを疑似科学とする、という流れが中心であると理解していますが、その場合に対象としているのは、いずれも多少なりとも「”科学”を志向している」もの(言説や命題や仮説)、だと思います。創造科学にしても超心理学にしても精神分析にしても。どちらかというと、「科学を志向あるいは自認しているくせに」という感じ。だから、科学の頭に「疑似」がつく。進化論は科学か疑似科学か、とか、社会科学は疑似科学である、といった主張なんかも、そういう議論の流れにのっている気がします。

対して、昨今の「ニセ科学」議論。
ある言説に対し、あれはニセ科学だ、と指摘した場合、反論として、

 そもそも科学と言っていないではないか

こういう類のものを見る事があります。つまり、はじめから科学だなんて言っていないのに「ニセ”科学”」だなんて評価されて迷惑だ、とか、物事の真相にアプローチするのは科学だけでは無いのだから、科学の観点から他のものを非難するのは傲慢だ、といったようなもの。
要するに、科学を志向していないものを「ニセ”科学”」と呼ぶのは不当だ、という主張。ここら辺、科学たらんとしているものを、科学の要件を満たしているか否かで判断する議論とは、少々異なっています。

この流れで思い出すのが、江本勝氏による、いわゆる「水からの伝言」言説ですね。氏の言説に対する批判が大きくなった際に、持説を「ポエム」「ファンタジー」と称したのは、界隈の議論を追っている人にとってはよく知られた事だと思います。
江本氏の言が、まさに「言い逃れ」であるのは、江本氏の著作を参照すれば明らかであり、その具体例については以下を見て頂くとして、
江本勝達はこう言った - ublftboの日記
ホメオパシー等も、こういうアプローチをもって「そもそも科学と言っていない」として擁護する向きも見られます。

私たちがニセ科学を論ずる際、その定性的な定義として、「科学のようで科学でないもの」というのを用いる訳ですが、この「科学のようで」の部分を否定しようと試みている、と考える事が出来ます。つまり、科学で無いのはその通りだが、そもそも科学を志向していないのだから批判は当たらない、と。これは、「科学で無いと判断するのは不当だ」と返す類の反論とは性質が違う訳ですね。
ここら辺は、科学の要件を満たしていないから疑似科学だ、とシンプルに言うような議論とは異なっていますし、そう単純に論を進める人は、足をすくわれかねません。※科学哲学の議論がシンプル、と言っているのでは無いので注意

世間の科学に対する直感的な信頼を詐欺的に悪用する人(効かないのは判っているのに、効くと称してデータを捏造して食品を売りつけたり)、特に科学を意識している訳では無いが科学の言葉を援用して鏤めまくる人、など色々なパターンがニセ科学にはあります。そもそも科学とは相容れないもので、初めからそれを志向すらしていないものには、もう科学は、「科学を装っている」という視点からは何も言えません。だから、単に科学で無いものは、「非科学」と呼び、「ニセ科学」とは異なる概念として区別している訳です。※「非科学」の「非」は単に含まれないという意味を指すのみであって、劣っている、等の価値判断を含意させていない事に注意

ここで、別所で書いた、私のニセ科学定義を置いておきます。

「ニセ科学」とは、科学的専門概念を援用したり、「実証した」などと明言しているにも拘わらず、科学者共同体におけるコンセンサスと乖離している主張や知識の体系などの概念を呼称する語である。

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2010年12月18日 (土)

ものさし

人間(に限らないのかも知れませんが)というのは、色々のものを「はかる」存在です。長さを計り、重さを量り、嵩を量る。「図る」事もありますが、まあそれは措いておきましょう。

ところで、ものを「はかる」際には、

・はかりたいものをちゃんとはかれているか
・いつどこではかってもちゃんとはかれるか

これがちゃんと出来ているかが大切です。

まず、「はかりたいものをちゃんとはかれているか。」という事を考えてみましょう。

友人や家族に物を贈りたい、オークションで品物を発送したい、とします。大概の宅配は、荷物のサイズで料金が決まるので、前もってサイズを計って、送料がどのくらいかを知っておこうと思います。そこで、長さを計るために定規を使うとしましょう。

そして、送料はこのくらいか、と調べてコンビニに持っていった所……あれ、料金が違う……?
実は、定規を使う前に、どこからともなくいたずらな妖精さんが現れ、気づかれないように定規をすり替えていたのです。そしてその定規は、一目盛が1.5mmの物だったのです。それだと、一目盛につき0.5mmの差が出ますから、ある程度の大きさの荷物のサイズだと、縦+横+高さの合計の長さの差(60cm、80cm、といった段階で料金が変わる)は馬鹿になりません。

この場合は、目盛を読み間違えたのでは無く、計る道具そのものが間違っていた訳ですね。だから、何度使ってちゃんと目盛を読んでも、それは正確な長さとは全然異なってくる。これがつまり、「はかりたいものをちゃんとはかれていない」という事です。

もう一つ考えてみましょう。シチュエーションは先ほどと同様で、荷物を送りたいのでサイズを計る、そういう場面です。
さっきの例と同じように、辺を定規で計りたいのですが、ここで、その定規が温度や湿度などの環境の変化に敏感な材料で出来ていて、荷物を計るには無視出来ないくらいに伸び縮みする、としましょう。

とすると、計る状況によって、随分と結果が違ってくる事が考えられます。つまり、計る場所や計る時間帯によって定規自体が伸び縮みするから、一目盛あたりの幅も変わる。それに、定規を荷物のどこに当てるか、というのも毎回少しずつ違ってくるからそれも相まって、色々な値になってしまう。言い換えると、「ばらつき」が出る。これがつまり、「いつどこではかってもちゃんとはかれている訳ではない」という事です。

このように、「はかる」行為を見ると、大きく分けて、上で述べた様な二つの視点で考える必要があります。はかりたいものはちゃんとはかれるか、いつでもどこでも同じ様にはかれるか、という視点。たとえば、体重計(昔懐かしい、針が数値を指すあれを思い出して下さい)に乗る時、前に乗った人がいたずらで、ちょっと大きめに針を合わせていたとして、それをちゃんと確認せずに乗ったら、「あれ、太った!?」となりますね。たとえ ばらつきが小さくても、常に大きめの数値が出てしまうという意味で、はかりたいものがちゃんとはかれていない。
逆に、最初に0の目盛にきちんと合っていたとしても、違う部屋で量ったら数kgも違ったりとか、室温によって違ったりする場合もある。つまり、ばらつきが大きい。

いきなり話は飛んで。

皆さんは、「こころをはかる」、もっと広げて、「見えないものをはかる」のを、しばしば目にする事があると思います。

え、そんなの見た事無い、って? いえいえ、多分それは、意識していないだけで、何度も見ているはずです。

一番身近で誰もが経験した事があるのが、「テスト」の点数でしょう。あれは、直接見られない、ある種の能力を「はかっている」訳です。表現としては色々あります。「学力」「知力」「頭の良さ」等々。どの言葉を使うにしても、見えないものをはかろうとしています。
新聞記事等で、「○○が攻撃性を高める事が判った」といったものが世間を賑わす場合もあります。これも、直接見えない「こころ」のあり方を「はかる」ものです。この場合は、○○に触れさせた後に何をするか、という実験や観察を頼りにして、見えない「攻撃性」というものの程度を考える。

さて、これらの情報に触れる際に、気をつけておくべき事があります。そうです、これまで長々と書いて説明してきた二点。もう一度書くと、

・はかりたいものをちゃんとはかれているか
・いつどこではかってもちゃんとはかれるか

この二点。

今の話では、「見えない」ものについて考えています。長さや質量といったものは、ある基準によって単位が厳密に決められて、はかる事も非常に精密に行われていますが、「攻撃性」や「学力」といったものは、そもそも直接見たり感じたりする事は出来ないものです。しかもこれらは、言葉に触れる人によって、意味の取り方が違うかも知れない。

ですから、こういった事については特に、はかっている「ものさし」――むつかしい言葉で表すと、「尺度」と言います――はちゃんとしているのか、を注意しなくてはなりません。

巷では、血液型と性格を結びつける話題(以下、「血液型性格判断」と書きます)がいまだ根強いですが、解りやすいので、これを例にとってみましょう。

血液型性格判断では、たとえば、「あなたは○○ですか?」というアンケートに沢山答えさせて、その後に分類して、「あなたはこれこれこういう性格ですね。」と「言い当てて」みせる。そして、それをABO血液型と対応させて、あなたは○○型なので△△な性格です、と教えて、すごい当たった! と思わせる。

ここで「ものさし」について考えてみましょう。たとえば、

・「性格」はそもそもはかれるようなものなのか
・はかれるとして、それはおこなった「アンケート」で判るものなのか
・誰がどこでやってもちゃんと判るものなのか

こういった見方が出来ます。心理学では、大体誰でも持っているだろう考えに当てはまるような質問をして、「当たっている」と思わせるやり方について調べられています。そういうのを使って分類してみせた「性格」が、本当にちゃんとはかれているのか、そんな風に注意深く見る事が出来ます。※そもそも「性格」とははかり得るものなのか、といった問いは、それ自体が大変深い哲学的な問題なので、ここでは触れない事にしましょう。

テストでも同じですね。資格試験や進学進級のためのテストであれば、それは資格を取れるかどうか、を判定するためのものさし、と言えますが、もっと根本的な事を考えると、そのテストでは、「能力」をはかりたい訳ですね。資格試験であれば、ある分野について充分な知識を有しているのか、とか、将来仕事に役立てられるくらいの力があるのか、とか。テストでいい点を取った人が、「頭が良い」と言われる事がありますが、その「頭が良い」とは何だろう? テストではかられているのは本当にそれなのだろうか? と考えるのも出来ます。

私達はついつい、あまり考えずに「見えないものをはかっている」としているのを鵜呑みにしたり、そもそも「はかる」対象を物の重さや長さなど以外で考えなかったり、あるいは、人の能力なんてはかる事は出来ないのだ、と思い込んだりしがちです。でも、それはどれもまずい考えで、見るべきは、「そのものさしはきちんと出来ているか」という所なのです。それをはかるものさしなんてないんだ、と言って、実際に作られているものさしを無視してはならないし、デタラメに作られたものさしをちゃんとした道具だと考えてもいけない。尤も、こういったのをはかるものさしの適切さというのは素人が簡単に判断出来ませんが(定規や量りなどは、直感的にも理解しやすいですし、工業製品としての品質が一定に保たれている。そこら辺で買った定規で安心して長さを計れるって、幸せな事なんですよ)、鵜呑みや毛嫌いをせずにちょっと立ち止まって考えてみる、そういうクセをつけておくのも、色々な情報が流れてくる世の中では大切な事なのではないかな、と思います。

※補足※

機械などでは、ばらつきの方が厄介な事があります。本文で出した体重計の例で言うと、結果の数値は実際の体重とは全然違いますが、初めに指す目盛をダイアルで変化させれば、簡単に調整が出来ます。対して、ばらつきが大きいのは、材料の歪みなどの機械的なトラブルが原因だったりして、そう簡単には対処出来ません。時刻合わせを間違った時計は竜頭で調整すれば簡単だが、指す時刻のばらつきが大きい場合は内部の機械の問題なので厄介、とは大村平さんの説明です。

ただ、学力やこころのあり方(性格)のようなものはそうとも言えなくて、そもそもはかりたいと思っているものがちゃんとはかれているのか、自体が非常に難しい事だったりします。時計なんかだと、少なくとも日常的なレベルでは時報に合わせるなどすれば良いですが、能力などはややこしい。そういうのは押さえておきたい所です。


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2010年12月17日 (金)

科学とニセ科学と撲滅と

科学って、「今の所解っている事」の集まりです。実験や観察、あるいは調査によって(つまり、「事実に基づいて」)、これについてはここまで解っているけど、ここはまだ明らかじゃない、といった具合の。

で、色々な場面で、色々な人が出す意見には、「今の所解っていること」から「かけ離れた」主張があります。あります、と言うか、あり得ます。騙すためにわざと「作る」事も出来れば、うっかり勘違いして理解して、それを他人に披露してしまう事もある。他にも、自分だけすごい事や物を発見したんだ、と思い込んでしまう場合もあるでしょう。

専門に調べている人達――今は科学の話なので「科学者」ですね――でも意見が分かれるようなもの、新しい説が出されて議論中のものだったり、確かめているのがとても複雑な事であってなかなか結論が出ないものなどについては、全体的に見て、両方の考えの人がいるよね、まだ議論中だよね、みたいな現状と言えます。で、そういった議論中の事について、自分はこう考えている、と意見を出したとして、されている議論の内容や、それまでに確かめられ集められた証拠と比較して、それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな、とか、そういう意見ならまあそんなに外れていないかな、とか、色々な評価を受ける訳です。まだまだ決着しておらず議論中の事柄ですから、相反する意見がぶつかり合う。どっちとも言えない。いわゆるグレーゾーンというやつです。科学的に審議中、といった所でしょうか。ですから、そういった事柄についての意見を、敢えて黒だ白だと分ける必要はあまり無いという事です。なにしろ議論中なのですから。

とはいえ、決着がついていない問題であっても、「今解っている所からかけ離れた事」を言うのは出来ます。それに、まだ議論中なのに、これが正しい事が分かった、と言っちゃったりね。もちろんそれはダメで、全体的に見れば議論中なので、そこは踏まえなくてはならない。

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話は替わって。

ニセ科学を批判する人に対して反論をする人が、「本心」を見透かしたかのように、「お前らはニセ科学を撲滅したいんじゃないのか(のだろう?)」といったような意見を寄越すのを見かける事があります。これはちょっとナンセンスと言うか、考えているものについての理解が疎かなのではないかな、と。

どういう事かと言うと、そもそも「ニセ科学」というのが、「今の所解っていること」との「関係」で成り立つものだから、です。
ちょっとややこしいですね。
最初の方で書きましたが、「科学」は、「今の所解っているもの」、です。科学が、「何もかも解っている」と考える人は多分そんなにいないでしょうし、「科学”を”何もかも解っている」と考える人も、まあそんなにいないでしょう。つまり、調べる事の出来る限界と、これまで調べる事が出来た範囲、があるし、沢山の人達が、それぞれ興味関心のある事柄について沢山の時間を費やして調べていく作業(営為と言った方がポジティブかも知れませんが)と、それによって積み重ねられた知識なのだから、科学には常に限界があって、常に姿が変わる。そして、それを全部知る事は、人間には適わない。

で、知る範囲に限界がある以外にも、人間の考えについて思いを馳せてみると、人間というのは、「誤る」し、「騙す」。うっかり間違い、「解った気になる」し、知らない人を意図的に騙す行為が出来る。

「ニセ科学」とは、科学の言葉を使いつつも、今まで解っている内容とかけ離れている意見ですから、その意見を出すきっかけとして、上に挙げた、
・誤る
・騙す
これらがあります。誤るというのは、正しいと思い込んでいても実は違っている事ですし、騙すのは、誤っていると判っているのに、自分の利益のためにウソをつく事。

それを踏まえると、「ニセ科学が無くなる」には、
・誤る人がいなくなる
・騙す人がいなくなる
この必要があります。

「今解ってる事」について、「解っているつもりで実は解っていない人」って、絶対いなくならないですよね? 勉強不足だったり勘違いだったり、理由は色々。
そして、「解っている」のに「知らない人を騙す」人がいる。

科学が「知識」である以上、それを知らない人が一定の割合でいるのは、これは当たり前の事です。それに、「全部」を解っている人なんていません。
「ニセ科学を撲滅」を言い換えて、「過ちをおかす人間を撲滅したいのか?」と言われたと考えるとして、それが実現された状況というのを、私はちょっと想像出来ません。そりゃまあ、「撲滅」なんか無理でしょ、と返す他ありません。

ニセ科学を広める人というのは、過ちをおかす人間の一部ですから、それが無くならないと、ニセ科学自体もなくなりません。要するに、常に生まれる可能性があり、誰でも生み出す可能性がある訳です。

もう一つ、「科学」を撲滅すれば「ニセ科学」も撲滅されるかも知れませんが、まあ、それは冗談です。「科学が撲滅された世界」というのは想像しがたいものがあります。

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ゴッネーン。ぼちぼち…

今日で(多分)、ブログ開設して5年経ちます。めでとうございますね。

と言っても、昨年の6月に休止した訳なので、ここでは実質3年半くらいしかブログ活動(という言葉はなんか変だけれど)はしてない訳ですが。

尤も、はてなダイアリーの方でちょくちょく書いていたので、そんなに長くあけた感じもしないですね。

て事で(唐突)、ぼちぼち再開します。とはいえ、前みたいに毎日更新、という訳では無く、何か書く事を思いついたらアップする、そんなかたちになるでしょう。考えてみると、毎日更新してたってのは結構すごいですよね。我ながらそんな風に思ったり。

ここを休ませている間には、はてなでメモ的に色々書いてきたので、それをリメイクしてアップする、というのもやっていきます。正直、走り書きみたいなものなので、文章めちゃくちゃでしたから。もう少し読める状態にしてから改めて出しましょう。

という訳で、改めて、よろしくお願いしますね、皆さん。

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