折れない腕
合気道で、「折れない腕」と呼ばれるものがあります。どういうものかというと・・・
まず、腕を伸ばして前に差し出します。で、その腕を誰かに曲げようとしてもらいます。あらかじめ、曲げられないように頑張るよう指示します。
普通は、腕に力を込めて頑張っても、すぐに曲がってしまいます。
次に、色々なイメージを持ってもらいます。たとえば、
- 腕がホースになって指先から水が出ているかのように
- 腕はリラックスさせて、気が指先からほとばしり出る感じで
など。そういう意識を持たせて腕を伸ばしてもらい、再びやります。
すると、アラ不思議。
今度は容易に曲がりません。しかも、腕を伸ばしている側は、特に頑張っている感じもせず、楽にその状態を保てます。
これが、「折れない腕」です。すごく簡単で劇的なので、ご家庭でやってみるのも良いでしょう。面白いですよ。※あまり無理せず、急激にやらないようにしましょう
さて、このパフォーマンス、いわゆる「気」の説明、あるいは「脱力」の有効性を示すためのものとして、結構見られます。簡単に出来るし、効果も解りやすいので、よく使われるのでしょう。
これがどういった論理で成立しているか、見ていきたいと思います。
まず、腕を前方に伸ばし、「今から曲げようとするから、曲がらないように頑張って」、と指示された、と想像してみて下さい。仮想的に、曲げられようとしている、とイメージするのもいいでしょう。
いかがですか。腕全体に力が籠もる感じがして、場合によっては、ピクピクと震えるのではないでしょうか。
これは、腕を曲げる筋肉(屈筋)と、伸ばす筋肉(伸筋)が一緒に働いて、肘関節を固定している状態です。えっと、たとえると、内側と外側から同時にドアを開けようとしている、という感じです。同じくらいの力で引っ張り合えば、ドアは固定されたままですね。それが、「自分の身体の中で」起こっている、と考えて下さい。
上にも書いたように、この時、腕には「力が籠もった感じ」がすると思います。曲げられまいと頑張る、その目的に従って最良の運動をしている、という主観があって、それに合致した「身体の感じ」がある、と。
次に、「折れない腕」の方です。
折れない腕を行う場合、あらかじめ、指示を受けます。たとえば、腕はリラックスさせ、指を伸ばし、指先から水がほとばしるように……と。今、ちょっと腕を前に出して、想像してみて下さい。
特に大切なのは、リラックスさせる、という所。これはつまり、主に肘を曲げる筋肉を弛緩させる、という役割を果たします。どうでしょう。「頑張って」と指示された時とは、明らかに「感じ」が違うはずです。
そして、やってみると、こちらの方が、遥かに耐えられる。あれ、不思議だなあ、力は入れていないはずなのに…という感想が出てくる。
理由としては、結構簡単です。今やっているのは、腕を曲げられようとするのを耐える、という目的ですから、行うべきは、「肘を伸ばす」事です。そして、それを達成するのは、曲げられようとするのに合わせて、肘を伸ばす筋肉が収縮するのが必要になる。
しかし、「頑張って」と言われた場合に起こっているのは、「肘を曲げる」のと「肘を伸ばす」のを同時にやってしまっている。ものすごく簡単に言えば、「無駄な力を入れている」、もっと言えば、「自分自身で、”曲げるのに手を貸している”」、となるでしょう。
もし、場に三人いれば、あまっている人は、「折れない腕」を行っている際の、上腕の、いわゆる力コブが出来る所を触ってみて下さい。柔らかいはずです。対して、頑張っている際は、収縮して硬くなっているはず。
ここに、人間の心理、あるいは感覚(知覚、と言った方がいいかも知れない)の面から見て、とても興味深い現象を見出す事が出来る訳ですね。
やろうとしているのは、「肘を曲げられんとするのに耐える」、というものです。そしてそれに最も合理的な運動は、肘を曲げる筋肉を弛緩させ、肘を伸ばす筋肉を収縮させる事。
しかし、「頑張って」と指示された場合は、「目的に適うよう運動しているはず」なのに(認知)、実際は、「自分で曲げるのを手伝って」(実際の運動)しまっている、のですね。当然、「今目的に適った運動が出来ているかどうか」は、感覚・知覚を基にして判断しています。つまり、腕の筋肉の収縮などから得られる感覚を手がかりにして、「この感じ」は合理的である、と判断する。
しかし実際は、合目的的(ここでは、腕を曲げられんとする)な運動を行っていると思っているにも拘らず、運動としては実に不合理なものになっている。ここに、日常的な「身体の”感じ”」と実際の運動との乖離、が浮き彫りにされてくるのです。
「折れない腕」というのは、そこを端的に解らせるための、簡単で示唆的なパフォーマンスです。要するに、「主観的な、”感じ”」はあてにならないよ、と。それを、事前の、イメージを用いる指示などを使い、認識させる訳ですね。イメージが有効なのは、
- 誰しもが解剖学の知識を持っている訳では無い
- なんとなく知識を持っていたとしても、それをすぐに感覚・知覚と対応付けられない
- イメージによって、上肢全体の運動の枠組みを変容させるよう促す
などの理由による、と推測出来ます。いきなり、上腕三頭筋を使って屈筋はリラックスさせよ、と言われても出来るはずが無いし、仮にそれをすぐ理解出来るなら、そもそもこのパフォーマンスを行う意味が無いですから。
ところで、この「折れない腕」、たまに、「気」の考えを補強するために用いられる事があります。ほら、力を抜いているのに曲げられないでしょう、これが「気」なのだよ、といった具合に。
しかし、ここまで見てきたように、このパフォーマンスは、「(合目的的)合理的な筋肉の使い方」を促すものなのです。ですから、筋力否定の文脈で「気」を持ち出し、このパフォーマンスを論の補強に用いるのは、誤っている訳ですね。実際、大きな力の差があれば、リラックスさせたとしても、やはり曲がってしまうのです。
これが、いわゆる「折れない腕」パフォーマンスの論理構造です。もし、何かのきっかけで、このパフォーマンスに触れる事があれば、ははあ、これは知っとるぞ、と冷静に見ると、面白く観察出来るでしょう。
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おまけ。
このパフォーマンス、おそらく実験的に研究した例は無いだろうと思います。そこで、軽く試案的なものを。
サンプルを3群に分け、
- 指示:「頑張る」―群
- 指示:「リラックス」―群
- 何も指示しない群
に割り付け、腕を曲げてもらう。もしくは、同一被験者で水準(ここでは指示の仕方)を変えて実験を行う。
腕の「曲げられにくさ」を測る。尺度は、曲がってしまうまでの時間とか?
実験時に、筋電計で、上肢の筋収縮の度合いを観測する。
それぞれの条件で、主観的な「感じ」を、質問紙などで測る。
解る事
- 曲げられにくい場合の筋活動の具合
- 言語的指示が、曲げられにくさにどう影響するか
- 主観的な腕の「感じ」が、筋活動や曲げられにくさとどう関連するか
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コメント
これに関しては海外の合気道の紹介でも頻繁に見ます。
他の武術でもあるのかもしれませんが、ほぼ合気道の専売特許と言って良いでしょう。
英語圏では"unbendable arm"といわれているので、"unbendable arm"や"unbendable arm aikido"で検索すると色々な解説のサイトがみつかりますよ。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001095367
こんな研究があるようです。内容が気になります。
投稿: 町田 | 2009年5月19日 (火) 22:57
町田さん、今晩は。
ほう、結構やられているのですね。色々見つかって面白いです。
印象としては、広く武術界に知れ渡ったのは、吉丸氏の本がきっかけなのかな、と感じています。合気道界でよくやるのは、やはり藤平先生の所かな。ああ、練気柔真法辺りもやってますか。
>こんな研究があるようです。
おおっ、国際生命情報科学会。ああ、私の環境じゃ、これ本文読めないですね。テーマ的には、突飛な結果は導いていなそうですけれど。
この学会の論文や研究テーマは、色々な意味で個性的ですよね(超絶穏当表現)。
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余談ですが。
腕をリラックスさせて指を張った感じを「気を出す」と説明するのが、このパフォーマンスでよく見られる所だと思いますが、会派によっては、そっちじゃ無くて、「肩」に着目して、ぐっと肩入れて、柔らかく落ちた状態を、「気を入れる(気を出す)」と言ったりしますね。手―前腕―上腕 に着目するか、肩甲骨・鎖骨・肩関節 辺りに着目するか、の違い。
これも余談ですが。
個人的には、折れない腕は、きっかけとして行うくらいが良くて、あまり強調しない方がいいと思っています。あまりやり過ぎると(伸展を意識し過ぎると)、フレキシブルに屈曲させる事が出来なくなりますしね。←経験者
投稿: TAKESAN | 2009年5月19日 (火) 23:56