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2009年5月17日 (日)

脱力の論理

脱力することについて質問。合気道などでは特に脱力することを注意しますが。な... - Yahoo!知恵袋

質問者さんは、「脱力」を、あらゆる筋肉を弛緩させる、的なイメージで捉えているかも知れません。

もちろん、そんな事は不可能な訳です。人間、立っているだけでも筋肉を使う。当たり前です。

脱力の論理構造については、一般的な所は高岡英夫氏が解明しました。それは、言われてみれば何という事は無い、でも言われるまでは整理しにくい、というような論理です。

つまり、目的の運動があったとして、それに必要な筋肉を収縮させ、それ以外は弛緩させる、と。

ね、聞くと、何当たり前の事言ってんの? って感じでしょ。実際、トートロジカルです。生体力学的には、そういう事です。

それで、なぜ教えとして脱力が煩く言われるかと考えると、それは、認知と身体の在り方に常にズレが生ずる可能性があるから、なんですね。

どういう事か。

上でも書いたように、生体力学的に見れば、脱力とは、目的の運動に応じて適切に使う筋肉の収縮を配分するという事だから、そこが解明されれば、ある程度正確に記述出来ます。

だけれども、仮に記述出来た、つまり、どこそこの筋肉をどのタイミングで収縮させれば……というのが解っていたとしても、すぐさまそれが自分の身体に取り込む事が出来る訳では無い、と。

肩凝りを考えてみて下さい。「今、僧帽筋辺りが強張っているから、そこを弛緩させて。楽になるから」、なんて言われたって、出来るものではありませんよね。それが出来るなら、そもそも凝りなど存在しない。

そのように、「思った」としても、「ままならない」。

そこで、「脱力」などの概念が出てくる(←時間的順序関係を示した文じゃ無いです)。つまり、全身の筋肉を柔らかくしておく、といった所を習慣づけるための言葉。特に上腕なんかでは、筋肉を固めた時と弛緩させた時の違いの知覚は容易ですよね。で、それを応用させるようなかたちで、いついかなる時でも、あらゆる所を柔らかくさせろ、という意味合いを感じさせる「脱力」を、最重要の概念として持ってくる訳です。腕の力を抜いた時のような知覚を全身に分布させろ、凝りのような知覚がある場合、それをフィードバックして、なんとか解体しろ、と。

しかしそれは、ある意味で「大雑把」な表現でもあります。だから、ある程度深く考えると、「脱力って言っても、全身の力抜いたら動けなくなるよなあ」、などといった、至極当たり前の疑問が出てくる。つまり、直感的にでも、解剖学的な概念と繋げて認識してくるのですね。

それが高じると、質問者さんのようなクエチョンを投げかけたくなってきます。

脱力という言い回し自体がいつ頃から出てきたものかは知りませんが、そんなに新しいものでは無いでしょう。あくまで慣習的に、学習的言語として用いてきたはずですね。少なくとも、解剖学的概念ときっちり対応させてそれを使った人は、いないでしょう。上達の過程で、あたかも「全身の筋肉が弛緩したかのような(筋肉の存在は当然知っていたでしょうから)」状態の時に優れたパフォーマンスが発揮される、のを直感して、それを「脱力」という言葉で表現したのではないでしょうか。「力」は日常的に使われていますしね。

それは、ある程度有効に機能してきただろうから、ずっと広く使われ続けてきた。で、ある程度でも解剖学辺りの知識を得た人がその言葉に出会うと(あるいは、言葉に出会った後に解剖学の概念を勉強すると)、戸惑うのだと思います。

心理学的概念を使うと、(ちょっと造語します)

  • 脱力的知覚スキーマ
  • 力み的知覚スキーマ

なんて分けられますかね。本当は、どっちも筋肉を存分に使っているのだけれど、前者は合目的的合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。後者は、あたかもチェーンが錆び付いた自転車のような、不合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。前者を達成出来た時に肯定的評価を与え、後者は解体が望まれる、と。

知覚というのは、そもそも強く主観的だから、共通了解を得る言語化が非常に難しい。筋電計なんて昔はありませんしね。達人の筋電図を採って、それと知覚を細かく対応づける、なんてのも出来なかった。

で、工夫して色々の学習的・伝承的な語が生み出されてきて、中でも有効に働き注目を集め、ずっと生き残ってきたのが、「脱力」という言葉だったのでしょう。

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脱力、いつ頃から使われたのでしょうねえ。武術界で広く流行ったのは、練気柔真法辺りがきっかけなのでしょうけれど、武術の指導の現場では、もっと前に使われていたと想像します。仮に、数十年の間に出てきた新しい言葉だとしても、その論理構造は詳しく検討されてこなかった、と言ってよいでしょう。

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コメント

オートバイの操縦のコアとなるのは、重心をどこに置くか、なのですが。
コーナリング前の力んだ状態から、旋回中の弛緩した状態(力みを取って適切なポイントに体重を預ける)への移行を「抜重」と形容したりします。語法として似てる気もしますね。

投稿: pooh | 2009年5月17日 (日) 06:46

poohさん、今日は。

以前、poohさんの所で、バイク操縦の説明で抜重の語を用いているのを見た時、ほう、と思ったものです。
抜重は、スキーの分野で特に用いられ、バイオメカニクス的な研究もなされている概念ですよね。

ちなみに、武術で同様(必ずしも全く同じでは無いかもですが)の概念は、「浮身」や「無足」などを用いて説明されます(後者は足裏の方の認知かな)。後「正中線」。

おまけ
アスリート解体新書
これのどこかに、抜重の説明があったはず

投稿: TAKESAN | 2009年5月17日 (日) 13:07

ウインドサーフィンを齧ったことがあるのですが、ジャイブ(風下旋回)は高速で動くトロッコの上で太極拳をするような感じと説明してあるのを読んだことがあります。

スキー同様バランスのスポーツですが、まっすぐ走る時はセイルに寄り掛かることができます。つまり力(正確には腕力ではなく体重)を入れる感じが多少はあるのですが、ジャイブ中はそれがあまりできなくて力を入れる相手がないのです。(正確にはボードに足からは力を伝えています。この辺りはスキーに近い)つまり上半身は脱力せざるを得ないけどそれが難しいですね。

あと、ウォータースタート(セイルに風を入れて水中にある体を引き上げてもらってスタートすること)では、ブームにぶら下がろうとして懸垂するみたいに肘が曲がってしまうと体は上がりません。腕は脱力して伸ばし、足は必至で立ち泳ぎをする必要があります。しかし、腕の相手のブームは固体ですが、足の相手の水は液体なので逆になっちゃうんですね。

投稿: zorori | 2009年5月17日 (日) 15:17

zororiさん、今晩は。

これは興味深い事を教えて頂いて、ありがとうございます。

雪や水などの柔らかい物体を相手にする競技では、シビアな身体操作が要求されるのでしょうね。※それ以外では要求されない、という話では無いですが

武術では、丹田あるいはハラを中心とするのが重要となりますが、これはあらゆるスポーツでも共通する所かと思います。足を先行させて蹴ってしまうと、バランスを崩したりしてしまうから、脚を引き付けるんですよね。

投稿: TAKESAN | 2009年5月17日 (日) 22:31

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