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2009年5月に作成された記事

2009年5月31日 (日)

振り返り

今日でひとまずお休み、ってことで、このブログについて、ちと振り返ってみましょう。

(このエントリー執筆開始時、22時頃)

ええと、ブログ始めたのが2005年12月17日のようですね。途中、確か10日ほど書いていない日があるので、それを踏まえて算出すると、大体1250日くらいですかね。

で、エントリー数。

…。

……。

(このエントリー含めて)1999!

平均すると、1日辺り1エントリーを超えてる。まあ、よう書いたな…。

dankogai氏ほどでは無いけれども、これは、なかなかのペースですな。一つのエントリーの文字数が結構多いので、文字総数にすると、そこそこいってるかも知れません。

トラックバックは310件。これは、あんまり多く無いでしょうね。よく判りませんが。

コメント数、11193 ! ありがたや。このブログのほとんどの成分はコメントだ、とは私が公言している事ですね。色々の分野に精通する方に助けてもらって勉強する事が出来るのは、これは本当にありがたいですよ。改めて深謝。

カテゴリー毎の記事数を知りたかったのですが、調べられないみたいで。どれが多いのかな。ああ、圧倒的に、「科学」か。ニセ科学関連も全部放り込んでますからね。テーマ的には、ゲーム脳が多いのかな。武術系もかなり書いてますが、こちらは、実は最も読んでもらいたいジャンルだったりするのですが、他に較べて(コメントの)反応は多く無い(笑) 尤も、その多く無いコメントの質が異様に高かったりするのがありがたく、そして面白い訳ですけれども。

せっかくなんで、このブログを作った目的などについて、少々書いてみましょうか。

何度か触れた事がありますが、このブログを開設した目的は、大きく分けて二つあります。

一つは、ゲーム脳についてまとまった批判を行う事。

もう一つは、高岡英夫氏の論について分析する事。

どちらも、WEBを調べた結果、それらを詳しく適切に論じた論考がほとんど見当たらないと感じて、なら自分で書いてみようではないか、と考えたのですね。どれを見ても、今一つ物足りない、と感じた訳です。まあ、自分の知識不足による考え違いや自惚れが多々あって、それを自覚していく過程も、ここには記録されているのですな。

ゲーム脳に関しては、それまでに、ゲイムマンさんがまとめられたものを筆頭として、優れた批判テキストは、既に多数存在していました(今思い返せば)。でも、ゲームを行う際のユーザーの心理を詳しく書いたり、そもそもゲームの定義を考察したものが余り見られなかったのですね。それが、初期のエントリー群を書く動機(あるいは、このブログ開設の動機)に繋がっています。今見ると、相当思弁的で、学術的ではありません。なにしろ、坂元教授に対して的外れな懐疑を持ったりしましたしね。

ただ、ゲームがどういった構造を持っているか、をユーザーの観点から分析していくテキストとしては、あまり類似のものは見当たらない、そういうのは書けたのかな、とは思います。

その後、ニセ科学論に出会い、また、興味の対象が、自然科学、技術、工学、「実証」の方法、などに広まるにつれて、具体的な「科学の方法」について、色々と考えるようになりました。で、ゲーム脳批判も、それに連れて、書き方が変化してきた訳ですね(主観的には「洗練」された)。その(現時点での)集大成は、ゲーム脳本を読むシリーズであり、ゲーム脳Q&Aです。手前味噌ではありますが、ある程度の完成度に仕上がっていると思っています。私は、「色々な層」に目を向けるというクセがあるので、難:ゲーム脳本を読むシリーズ  易:Q&A  という風に、異なる対象に向けてのテキストを用意したのでした。ちなみに、このテキスト群、私がゲーム脳批判のまとまったテキストを書いてみようかな、と呟いたのを某遊鬱氏が見逃さなかった事により完成した、というものです。

高岡氏について。

WEB上で見かける高岡氏評というのは(他のメディアでは、言及自体がほとんど無かった)、まさに毀誉褒貶相半ばする、という感じで、それを眺めていて、もやもやしてたのですね。やたら鵜呑みにしているのがあったり、的外れな非難があったり。なにしろ、高岡氏の論は、私が学問に興味を持つきっかけとなったものですし、初期の本であれば、どの本に何が書かれてあるかは大体憶えているくらいには読み込んでいたので、思い入れが深かった訳です。

とは言え、思い返せば当時は、若干「擁護寄り」だったのですね。というのも、自分自身、科学に対する知識、特に「実証」のプロセスについてナイーブであったので、高岡氏の論の未科学的~疑似科学的 部分に対して、考察が足りないままに賛同していた、という所があったのです。

今は、大分知識も積み上がり、それに基づいて、高岡氏の論を整理して認識する事が出来るようになりました。特に身体意識論は、科学的にはかなりギリギリの所にあるものですので、そこら辺の評価は難しかった。

なにしろ氏の論は学際的ですから、肯定するにも批判するにも、まず勉強しなければならなりませんでした。使われている語がそもそも適切な用法であるか、を判断するには、まず当該分野を調べる必要がある訳ですしね。

と、ここで「学際的」という言葉を使いました。そうです、このブログのタイトル。ゲーム脳にしても身体運動論にしても、一つの分野で分析するなどという考えはナンセンスだし、領域横断的な、分野協調的な考えを必ずするべきだ、と、元々思っていたのですね。私は高岡氏の論の影響を強烈に受けていて、氏の言う「関係主義(的実証主義)」に傾倒していたから、それは当然だったと言えるでしょう。そして、それは今でも変わりません。※変わったのは、高岡氏のその考えを、「科学界が念頭に置いていない訳が無かった」と評する認識に至った、という部分

まあ、そういう考えがあったので、学際的を意味する英語を持ってきたのでした。タイトルは、そこに書かれるもの一般に通底するようなものをつけよう、と思っていましたから、好きな言葉であり、基本的な姿勢として持っておくべきと考えていた「学際的」という言葉にしよう、と。英語にしたのは、「○○的」、という日本語にするのはタイトルにはそぐわない気がしたからです。

アドレスは、高岡氏の論を踏まえてつけました。つまり、精神―身体意識―身体 という高岡氏の主張する構造ですね。どれについての認識を欠いてもダメだし、それらをテーマにして色々書こうと思っていたので、それをアドレスにしたのでした。

また手前味噌めきますが……高岡氏評も、あまり類似なものは無いんじゃないかな、と。これは何も、自分が優れている、と言いたいのでは無く、そもそも高岡氏が一部で知られる存在である事を前提として(今は、ゆる体操考案者として、そこそこの知名度があるかも知れません)、高岡氏に興味があり、かつ科学に強い興味を持ち、かつWEBで情報を発信する人が少ないから、と考えています。

そして、「ニセ科学」論。

これは大きいですね。ブログ始める当初は、この論についてこんなにコミットするとは、全く考えてもいませんでした。ゲーム脳批判は書こうと思っていたけれど、それをニセ科学という概念で捉えるのは、想定していなかった。ゲーム脳が似非科学などと言われていたのは多分認識していましたが(ググって片っ端から調べたので※)、似非科学という言葉の意味を、おそらく「非科学」と同じようなものと捉えていました。しかし、よく調べてみると、科学的根拠に乏しいのに科学的であるかのように振舞うものが「ニセ科学」と呼ばれている、のが解ってきた。そして、水伝の存在を知り、血液型性格判断もその観点で批判されているのを知ったのです。

※私の頭の中でゲーム脳とニセ科学の概念を繋げたのは、多分中猫さんのブログが大きなきっかけです。それをきっかけにして、菊池さんや天羽さんのテキストを読んだと(曖昧ではあるけれど)記憶しています。

古い記事では、私は水伝を「エセ科学」とか書いていると思います。まだ勉強し始めだったからですね。それまでに一応、科学哲学の本は読んでいたので(たとえば、野家啓一氏の『科学の哲学』を読んだのは、ブログ開設以前)、疑似科学という言葉を知ってはいましたから、それと同じなのかな、と思っていたけれど、実は、科学の現場におられる皆さんが問題にしているもので、それは微妙に科学哲学上のものとは異なっているのも解ってきた。で、その問題に強い興味を持ち、ちょっとコミットした、と。そして今に至ります。

菊池さんや天羽さん、田崎さんのニセ科学論に触れられたのは、まさしく幸運でした。それによって、科学における「実証」を強く意識する事になったし、未実証なのに実証したかのように言っているものが多くあるのを知る事が出来た。ニセ科学を知るには「科学」を知らなくてはどうしようも無いから、とにかく勉強しなきゃ、と思ったのですね。それから、あらゆる本を読む際の「読み方」が変わったし、自分の自然科学系への無知を より思い知る事が出来た。ゲーム脳とニセ科学を繋げて論じた川端裕人さんのブログのお蔭で伊勢田さんの本を知って読んだ、のも大きいです。ソーカルとブリクモンの本に纏わる論争について関心を持ったのも収穫ですね(上記の野家氏の本でも触れられているのにね。何を読んでいたのだか)。

まあとにかく、このブログでも、色々と変遷があったのですね。ニセ科学論に触れたのがきっかけで、当初は予定していなかった、血液型性格判断や水伝を考察する事にもなりましたし。ゲーム脳論も高岡英夫論も、初めの計画からすると、かなり変わりました。自分の知識の無さに愕然とし、これじゃダメだ、と考えて、勉強したんですよね。

それも、ブログという形式で、皆さんに批判やアドバイスを頂きながら練磨してこられたからこそ出来たのだと思います。皆さんには、重ねて深謝。「繋がり」と「広がり」は大事だね。

しばらく休みますが、復帰したら、またよろしく頼みますぜ。

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2009年5月30日 (土)

宮本武蔵

宮本武蔵は、なぜ強かったのか? 『五輪書』に隠された究極の奥義「水」 Book 宮本武蔵は、なぜ強かったのか? 『五輪書』に隠された究極の奥義「水」

著者:高岡 英夫
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

大変面白い本。

書いてある事に全面的に賛同出来るような内容ではありませんけれども、とても示唆に富んでいると言えると思います。五輪書の読解としては、高岡氏の分析は、全く他の追随を許さないものなのではないでしょうか。

中でも個人的に注目したのは・・・

以下、

内容について書いているので、読むのを楽しみにしている方は、ご注意下さい。

高岡氏が武蔵を描いた(とされる)画のポーズを再現している写真と、バガボンドについての指摘。

写真については、なるほど見事な姿勢。あまりにも頭部が前に出ている気もしたけれども。

バガボンドの変化に関しては、読んで吹いてしまいました。というのも、

Interdisciplinary: ゆーらゆらー

Interdisciplinary: 独断と偏見による、アクションを描けている漫画家

ここで、同じような事を書いたのです。尤も、私が言及したのは武蔵についてでしたが、他の登場人物にも影響が及ぶのは考えられる事です。小次郎は武蔵に匹敵する剣客として描かれる訳ですしね。

私も、五輪書の水之巻の読解を試みたエントリーを挙げた事があるので、よろしければどうぞ⇒Interdisciplinary: 水之巻を読む

------

ちなみに、本書では、かなり書き方が慎重で、主張のある部分については、推測的理論である事を、きちんと各所で説明しています。中でも、「科学/未科学」について言及していた所には、おっ、と思いました。高岡氏は、自身の主張が未科学的であるのは相当自覚してるんですよね。色々な著書での記述で、それが垣間見えます。

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2009年5月29日 (金)

マンガのよう

塩と砂糖を間違えたぜ。

異常に塩辛い天つゆが出来上がったぜ。

天つゆに砂糖? という突っ込みは無しだぜ。

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2009年5月28日 (木)

眉唾

かなりブクマを集めたネタ⇒▼はてなブックマーク - 大紀元時報−日本: やってみよう、世界で最も正確な性格テスト ▼大紀元時報-日本 ※ザイーガのエントリーの方がブクマ集まってますけど、あそこは広告とか下品系なので、こっちを貼りました。

いわゆる性格判断系のネタですね。内容は、9枚の絵を見て、なるだけ短時間に、1枚気に入った絵を選ぶ、というもの。で、それぞれの絵に応じて、それを選んだ人はこういう性格である、と言われる訳ですね。

んで、ですね。このネタ、めちゃくちゃ気になる部分があるのですよ。

 この9枚の写真は、海外の科学者や心理学者らが共同で研究し、何年もかけて作り上げたもの。世界中で何度も実験を繰り返し、図案の形や色を調整して、選び抜かれた写真だ。この9枚の写真が、9つの異なる性格を現している。

これはつまり、科学者(中でも心理学者)によって繰り返し研究が行われて追試され、確立した知見として学界で周知されている、というのを示していますが、そんな話は、私は知りません。

今手許に、臨床系も含めて何十冊か、心理学の本がありますが、こんな性格検査など、見た事ありません。と言うか、今まで読んだ全ての心理学の文献で、見た事無いです。では、ごく最近の知見であるのか、という話にもなりますが、つい最近読んだ2008年発行のパーソナリティ心理学の本にも、載ってませんでしたね。充分研究された、妥当性・信頼性の高い検査法ならば、専門書で紹介されてしかるべきでしょう。

そもそも、単に絵を見せて、それから性格類型に当てはめる、というやり方自体が、極めて疑わしいものです。そんなものが、

スピーディーで、かつ正確率も世界一高いといわれる有名なテストなのだ。

とは、まさに眉唾。(正確率ってaccuracyの事? 工学とか技術方面でよく使われますかね。て言うか、「世界一高い」という意味が解らない)

ブクマでは、当たってる、的な意見もありますが、それはバーナム効果あるいはフォアラー効果が効いているからでは、という指摘もされていますね。平たく言うと、どれを選んでも、誰にでも当てはまるように感じさせる答えが出される、というものですね。松岡氏の、「究極の血液型心理検査」サイトが思い起こされます。

いわゆる心理ゲーム的なものなら、まだネタとして済むのかも知れませんが(個人的には大嫌いですが)、最初に引用した文を入れてあるのは、全く頂けませんね。いや、実は、私が知らないだけで、学術論文等が存在するのかも知れませんけど(その可能性は極めて小さいと思ってますが)。しかし、仮にそれがいくつかあるとしても、まるで心理学的にスタンダードな性格検査であるかのような説明は、いかんでしょう。

もう何度も書いてますが、テレビなんかで、心理学の専門家を自称する人なんかが、バウムテストもどきをやって性格を云々したりしますからね。そういうのは勘弁。

パーソナリティと臨床の心理学―次元モデルによる統合 (心理学の世界 教養編) Book パーソナリティと臨床の心理学―次元モデルによる統合 (心理学の世界 教養編)

著者:杉浦 義典,丹野 義彦
販売元:培風館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年5月27日 (水)

みお繋がり

巷では、諫山黄泉と秋山澪が酷似している事が指摘されていますが・・・

諫山黄泉と秋山澪が似ている

諫山と澪が似ている

諫山と みお が似ている

諫山+みお

諫山実生

おお、これは。なんという謎解き。

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同じ穴の狢

全く嘆かわしい事である。

まずは、以下のエントリー群をお読み頂きたい。

これらのエントリーは、朝日新聞の非科学的記事、aサロン_科学面にようこそ_DO科学/「3」を究める を発端として書かれたものである。発端の記事は、数字の中でも「3」が特別な力を持つと主張し、それを科学的に考察すると仄めかしていながら、全く考察に不備がある代物であり、その非科学性については異論の無い所であろう。

上記エントリー群では、非科学的な朝日の記事や、互いの考察を批判し合い、それぞれのブロガーの「数字観」が開陳されている訳であるが、その内容たるや、朝日の記事と大差は無い、恣意と憶測によって塗り固められた非科学的なものであった。非科学的言説を批判せんとするその意気や佳し、であるが、しかし、肝心の批判のlogicが脆弱では、「お話にならない」のである。論客で知られたブロガー達が、思い入れの強い対象に対しては冷静な認識を保っていられない、のは真に残念な事態であるが、それは心理学的に興味深い現象とも言えよう。

だが、嘆いてばかりもいられない。非科学的言説を垂れ流す、かの人達を放っておく訳にはいかない。WEB上で情報発信をする事の意味に思いを馳せるならば、ここで筆者が、「科学的に尤もらしい」説を披瀝しておく事は、重要であると考える。

------

さて、結論から先に述べよう。即ち、数字において究極の存在とは、

「7」

である。

それでは、以下に、この言明の根拠となるlogicを記そう。当該分野に馴染みの無い読者にとっては、驚嘆の事実と受け取られるであろうが、しかしこれは、「既に解っている事」なのである。

たとえば、我々は、一週間をサイクルとして日常生活をおくっているが、一週間は7日で構成されている。これは、人間が「7」を一つのまとまりとして認識しやすい事に由来している。心理学においてつとに有名な概念に、「マジカルナンバー7」というものがある。これは心理学者のミラーによるもので、彼は、人間は短期的には、一度に7程度のもの(まとまり。これを「チャンク」という)をしか記憶出来ない事を見出した。つまり、7とは、人間の認知能力の根本に関わる数字なのである。それを経験的・直感的に捉えて曜日の概念に組み込んだ先人の知的能力には感嘆せざるを得ない。

また、この数字は、「幸福」に関わる概念と結びつく場合が多い。

たとえば「七福神」。これは縁起の良いものとして扱われるが、この神は七柱である。

「ラッキーセブン」。スロットのナンバーや、野球における重要な回として捉えられる概念である。

そして「七夕」。これも馴染み深いものである。短冊に願い事を書いて飾った方も多いであろう。

次に、大変興味深い事実をご紹介しよう。

それは、人体の解剖学的構造に関わる事である。即ち、

「頭部には”穴”が7つ存在する」という事実である。もちろん7つとは、

  • 左右の目:2
  • 左右の耳:2
  • 左右の鼻の穴:2

の7つである。

ところで、これについては、上でご紹介したリンクの内の一つ、みつどん氏のブログでも考察されている。引用してみよう。

顔には5つの穴が開いています。鼻と入口・出口を一つの穴と見なせば、人は全部で5つの穴を持っています。

筆者はこの部分を読んで、嘆息を禁じ得なかった。常に、見事に冷静で論理的な考察を行っているみつどん氏にしてこの体たらく。考えてもみよ。「一つの穴と見なせば」とあるではないか。これを恣意(註:わがまま の意)的と言わずして何と言おうか。これは、事象を客観的に見つめる科学とは正反対の態度であろう。

ここで、勘の鋭い読者は、「それは他の骨格にも見出せるのではないか」、と気付いたかも知れない。ご明察である。そう、「頚椎」の数は7個である。これは、生体力学的にも最も合理的な構造である事が解っている(ウソツ 1985)。最も重要である頭部を支える部分が「7」と関わっているのだ。この重要性は、いくら強調しても、し過ぎる事は無い。

また、自然界の構造にもこの数字は関わっている。そう、「色」である。虹が7色に分けられるのは、誰でも知っているであろう。

それだけでは無い。驚く事に、7という数字が心理的に効果を及ぼす事が、脳科学的に明らかにされたのである。スイスの心理学者、ホラフの著作から引用してみよう。

 そこで私は、同僚の神経科学者であるデタラ・メッスに協力を得、fMRIによる研究を行った。その結果、私の仮説は支持されたのである。

 その研究の概要を以下に示す。

1)筆者が所属する大学から学生を無作為に200人抽出し、

  • 「7」の文字を見せる群
  • それ以外の文字を見せる群(0~9の内、7以外)

の各群に分ける。

2)被験者が文字を見ている際の脳の活動を、fMRI によって測定した。

3)その結果、「7」の文字を見せた群は、幸福感に関わる部分が賦活した。これは、他の群より有意に高かった(図21)。

4)その後、被験者に、主観的幸福感を測定する心理検査を行った。その結果、やはり「7」を見せた群は有意に幸福感を感じていることが分かった。

 以上により、「7という数字はヒトに幸福感をもたらす」という仮説が、認知神経科学的に確認されたと言って良いであろう。

 本研究にあたって、同僚であり友人でもあるメッス教授には多大な尽力を頂いた。彼の協力なくしては、サンプル数200という神経科学的には相当大規模である実験を実現するのは不可能であっただろう。この場を借りて、メッスにはお礼を言いたい。
ホラフ・キスギー著 『数字心理学への招待』 P172 東大路書房 刊

このように、「7」について、神経科学のレベルでも、その「威力」が確認されているのである。さらに興味深い事には、この「7」という数字、様々な言語体系における「7」を意味する語でも同様の効果を及ぼすのが確認されているのである。これは、波動学の大家である江本勝の論とも通ずる。筆者としては、江本とホラフに共同で、よりホリスティックな観点からの「真理」を追究して頂きたいものである。近い将来、ホラフ・キスギー=江本勝 理論が完成するやも知れない……おっと、さすがに夢想が過ぎたようだ。

余談であるが、矢沢あい作の大人気マンガである『NANA』は、編集部に数字心理学に精通する編集者がおり、その編集者からのアドバイスによってタイトルがつけられたという。当該作品が大ヒットしたのも頷けよう。既にこの研究は、マーケティングの場にまで応用されているのである。

いかがであろうか。読者諸氏は、「7」の威力が学術的に証明されているという「事実」に驚愕したのではないだろうか。初めに示したリンク先のブロガー達は、このような事実、あるいはevidenceと言った方が良いだろうか、それを無視して持論を「思い込み」によって正しいものと結論づけているのである。お互いに批判し合っているが、筆者に言わせれば、それは所詮、「同じ穴の狢」なのだ。是非、本論考を熟読玩味の上、猛省を促したい。

参考文献

ウソツ・キダロウ 『機能解剖学概論』 小修館書店

ホラフ・キスギー 『数字心理学への招待』 東大路書房

別冊宝鳥ムック 『大人気マンガはなぜ売れた? その真実に迫る』 宝鳥社

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勢いでやった。後悔はしていない。公開はするが。

…。

……。

ごめんなさいごめんなさい。もうしません。

一応。

ほぼ全てデタラメです。マジカルナンバー7の話は、ちょっと本当が混じってますけど。

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2009年5月26日 (火)

過度の一般化

日本人女性の精神が軟弱になってきている

以前日本人女性と付き合っていた経験から言えば、明らかに今の日本人女性の精神は軟弱になっている。

「以前日本人女性と付き合っていた経験」から、「今の日本人女性の精神」にまで帰納・一般化するのは妥当では無い。従って、それを前提とした、以降の論は ほぼ意味が無い。終了。

観測(観察)範囲が狭いという指摘に対して、「反例を」、とは適切な返し方では無い。そもそも増田氏の言明が、「今の日本人女性」という集合についてのものなのだから、それを論証する責任があるのは増田氏自身。

一般化しすぎるのは良くない→気づいたらすぐ発言する。これが俺のやり方です。間違ってると思うなら反例をどうぞ。

↑だから、これなんて、相当筋が悪い。

統計的推測の論理を全く踏まえて無いでしょ? でないと、

それに、観測者が俺であることによるサンプルの偏りには気を配って、今回の一般化に踏み切っているよ。

というのも、俺はいろんな人が証言する日本人女性の話やいろんな日本人女性がする俺以外の人間との人間関係の話を聴いてきている。

こんな文は出てきません。

  • 「今の」の「今」
  • 「日本人女性」
  • 「精神」
  • 「軟弱」

これらを定義・数量化した上で、適切に標本を抽出して確かめ、誤差を評価して、どの程度の割合か、などを調べないといけない訳です。分野としては、社会心理学辺り。

増田氏は、「今の日本人女性」からランダムに抜き出して付き合ってきた訳ではありますまい。

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小休止

えっと、6月から、しばらく更新を停止します。諸事情により。

で、コメントとTBですが。

ココログフリーでは、全てのエントリーのコメントを一括で閉じるのは出来ないみたいなので、a-geminiさんに倣って、承認制にする事にします。コメントを入れるのは可能ですが、公開されず、レスはつかないので、ご了承下さい。本当は開放しときたいのですが、スパムが来るからなあ…。

期間は不明。1月かも知れないし、半年かも知れません。まあ、ブログをやめる事は無いので、その内復活します。

掲示板は、自由にお使い下さい。

多分、ネットにアクセスする頻度が激減するので、皆さんの所にお邪魔するのも少なくなると思います。はてブも休みます。メールにもリプライ出来ませんので、よろしく。

て訳で、いつの間にか復活すると思いますが、それまでは、しばし眠ります。

コメントへのレスは、31日まで行います。

あ、もちろん、リンク・TB・引用 は一切自由にしてもらって構いませんので。当たり前の話ですけど、一応。

追記

TBは承認制にするのでブログ上には反映されませんが、どこで言及されたか確認出来るので、出来れば送って頂ければありがたいです。

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2009年5月25日 (月)

やばいやばいやばい

某氏のブログ経由で知ったゲーム↓

これはマジでやばいですね。

前に見た、某せいんとモノもあからさまだったけれど、これはもう、やばい。

今度は「モンスターハンター」に酷似、またしても中国でとんでもないゲームが登場 - GIGAZINE

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2009年5月24日 (日)

レア?

どうでもいいのですが。

家に、こげなものがあります。

ズギャアアアッ!

Hangon1_2

Hangon3_2

Hangon2_2

懐かしさに打ち震える御仁もおられるのでは? パッケージのボロさが年季を感じさせますな。

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ぶれいん

TBS ドラマ 『 MR.BRAIN (ミスターブレイン) 』

面白いではないか。

以下。

報。

1話のネタバレ、ラストの部分まで含みます。

あれです。

このドラマを観て得心したのが、これは、逆転裁判的コミカルフィクションだ、という事。そう考えて観れば、結構面白い。数十箇所あった突っ込み所も、そういう前提で考えれば大丈夫。

間違っても、本格的科学物ミステリーなどでは無いのですな。

まあ、あれです。

や っ ぱ キ ム タ ク だ よ ね

キムタク補正が相当かかっているかも知れない。

神経科学的考証の部分については、vikingさん辺りの突っ込みなんか見たいなあ、と思ったり。フィクションの考証部分を突っ込むのも、一つの楽しみどころでしょう。

ここからは真面目な話として。

放送前にちょっと話題になった、ドラマが神経科学に対して誤った印象と言うか知識を与える可能性、について。

うーん、九十九が、他の登場人物をおちょくるために(後、はったりを利かせて犯人をはめる、とか)エセ脳科学的な話を吹聴している、という設定で無ければ、微妙な所は色々あったように思いますね。

へえ、脳科学ではこんな事も解ってるのね、的なイメージは与え得る、とは観てて感じました。最後のあれなんかはどうなんでしょうね。証言を引き出すためのトラップだった、て事だろうけれど。とすれば、fMRIは あっても無くてもどっちでもいい、という話になっちゃいますですね。

それにしても、狡猾で怜悧な犯人が、よくあんな程度の事で、自供するものだ。て言うか、科学捜査を勉強したのなら、脳イメージングが証拠としてまだ認められるようなものでは無い、なんてのは知ってそうですけどね。

あのドラマ、別に「脳科学」入って無くても成り立つじゃない、て思った視聴者が、数十万人はいたかも。いや、後から密接に絡んでくるのやもですが。

------

まあ、一番強く思ったのは、

ギャラどんだけかかってんだ

て事でしたけどね。

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2009年5月23日 (土)

当身

合気道に対する根強い誤解の一つに、「当身をほぼ使用しない」、なんてのがあったりするんじゃないかな、と思っています。

いや、もちろん、打撃系武術では無いから、そういう意味で当身を多用する、というのはもちろん無いです。

合気道は、ほぼ「仮当て」、つまり、移動したり相手の体勢を崩す際の助け、として主に用いる訳ですね。

古流柔術では逆技や当てをよく使うが、合気道ではそれが取り払われている、なんてイメージ持ってません? ません?

実際問題として、当身は重要なのです。技を掛けるべく動こうとすると、相手もそれを避けたいと思う訳ですね。だから、体勢を崩しつつ顔面に当身を入れて足留めする、相手の正面側を通る際は、相手からの当身が来る可能性があるので、こちらからあらかじめ当身を入れて、相手の「手を使わせる」のです。場合によっては、その手を捕って技に移行する、というのもあります。

後ろ襟取りなんかも、崩しつつ相手の顔面に手刀を入れます。肩取り面打ちでは、手刀(正面を打つ)と拳(腹部に当てる)を同時に行います。両肩取り呼吸投げの変化では、足の甲に当身して脚を掬って投げる、なんてのもあるんですよ。(首絞めからの)首投げだと、顎に当身→崩し&顔面に当身 という流れ。

文字だけだと具体的にイメージはしにくいでしょうけれど、とにかく、合気道において当身はすごく重要、という事で。

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2009年5月22日 (金)

GJな記事

id:kamezoさんにもGJと言う他ありますまい。

ゲーム脳と脳波 - 教育プロジェクト 脳の迷信・うそ - 大阪大学大学院 認知脳科学研究室:藤田研究室

ゲーム・漫画の好きな自分としてはゲーム脳仮説はいい気がしなかった、というと実はそうでもなく、大してその中身については理解していませんでした。これを書くにあたって、初めてその大本の主張を知ったほどです。今回の調査を通して、脳波の検査などで脳波と実際の現象とを結びつけるのはまだ安全かもしれないけれども、そこから何かしらの意味付け(アルファ波はリラックス、ベータ波は集中、そしてゲーム脳など)を行うのは危険である、するべきではないという印象を持ちました。参考文献の中には「脳波についてはまだはっきりしたことが分かっていない」(例えば、上では触れませんでしたが、何がアルファ波を発生させているのか、など)と書かれているものもあり、ホットではないにしてもまだまだ知るべきことの多い分野であるように感じました。今後もこの分野に対する興味を持ち続けていきたいと思います。

同意。森氏は、「結びつけ」を非常に安易に行っているんですよね。

しかし読みやすい文章ね。

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2009年5月21日 (木)

博識

野球拳とはどのような拳法なのでしょうか?強いんでしょうか? - Yahoo!知恵袋

上手い。

そしてここ↓

蛇拳と形意拳を学び、その経験を元に「蛇意拳」を創始した。

西の方ではジャンケンの事を「ジャイケン」と言ったりしますが、それをも考慮していたとすると……ぶるぶる。

このエントリーのタイトル、初めは、「知っているのか雷電」にしようと思ったんですけど、それじゃ、リンク先を読む前にネタが解ってしまうという野暮助の所業になってしまうので、やめたのでした。

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ガノス

グッジョブ>某氏

エビは、ガノトトスの食料なのであります。

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2009年5月20日 (水)

お世話になった本

門外でありますが、私が相当参照した本↓

陳式心意混元太極拳 陳式心意混元太極拳

販売元:楽天ブックス
楽天市場で詳細を確認する

もう10年近く前かな。図書館でたまたま見つけて読んだのでした。

当時は確か、姿勢の要訣について、色々調べていた時期だったと思います。中国武術の本を結構読みました。

この本は、その中でも、特に詳しく書いてあって、ものすごく参考になったと記憶しています。重要な箇所をノートに丸写し して、何度も読み返しました。

日本武術の文献では、事細かに姿勢(についてと、身体意識との対応)について記述しているものは、それほど多く見かけないように思うので、大変重宝したのでした。

ちなみに。

ここでも何度か書いた気がしますが、

私が、動く姿を見る事が出来た武術家の中で、馮志強氏は、最もすごい方の中のお一人だと思っています(他に、合気道の斉藤守弘先生等)。何ヶ月か前に動画を改めて観て、あまりのものすごさに身体が震え、言葉が出なかった、という記憶があります。

------------

余談大会。

今、上で話題に出したノートを引っ張り出して、写した所を探し中。

で、ちょっと面白いメモを見つけました。

1997年4月17日

勁道=気の流れ(自分の体内)

complex_catさんがコメントでよく書かれるのを見て、「ほほう、中国武術では”勁道”なんて言い方をするのか。それは大変便利な概念だなあ。」なんて思っていたのですが……。

忘 れ て た の か よ>自分

ちなみにこの後には、

気の流れ→自分の体内 自分と相手とのつながり 気の膜云々

なんてのがあります。結構いい事書いてるじゃん(笑)

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写した部分、確認したけど、そんなに沢山じゃ無かった…。なんという記憶の曖昧な事よ。多分、本を何十回も読み返したのでしょう。

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あ、そうだ。

上で、日本武術の本ではあまり姿勢について細かく記したのは見かけない、と書きましたが、弓道・弓術関連の本は、相当に細かい教えがありますよね。私は、こちらの本をかなり参考にしたのでした↓

型の完成にむかって Book 型の完成にむかって

著者:浦上 博子
販売元:言叢社
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2009年5月19日 (火)

芋チョコ

ポテチョコ革命 - 水原薫の「ありがとうにありがとう」 - Yahoo!ブログ

ロイズ ポテトチップチョコレート ロイズ ポテトチップチョコレート

販売元:北海道お土産探検隊
楽天市場で詳細を確認する

タイムリーと言うか。

何日か前に、家に何故かあったのですよ。貰い物だったのかな。それで、ん、これはどっかで聞いた事あるかも、と思い、ものは試し、とばかりに食してみたのですよ。

…。

……。

これは。

きた。

実に不思議な味。

食べる前は、単にじゃがいもを揚げたものにチョコレートを塗った物だと思ってたんですが、違うのですね。ポテトチップに、しっかり塩がしてある。それで、その塩味とチョコレートの甘さとのコントラストが妙味。

食べる前は、うーん…これはどんなものなのかいな、と若干怪しく見ていたのですが、やられましたね。だって、「じゃがいもとチョコ?!」てなりません? それがいい意味で覆されましたよ。

食べてみると、クセになる味で、止まりませんでしたぜ。ヤメラレナイトマラナイ。

どうですか、皆さんもお一つ。

ポテトチップチョコレート - ロイズ オンラインショッピング

おまけ↓

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らき☆すた キャラクターソング 13 日下部みさお Music らき☆すた キャラクターソング 13 日下部みさお

アーティスト:日下部みさお(水原薫)
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発売日:2008/03/26
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2009年5月18日 (月)

折れない腕

合気道で、「折れない腕」と呼ばれるものがあります。どういうものかというと・・・

まず、腕を伸ばして前に差し出します。で、その腕を誰かに曲げようとしてもらいます。あらかじめ、曲げられないように頑張るよう指示します。

普通は、腕に力を込めて頑張っても、すぐに曲がってしまいます。

次に、色々なイメージを持ってもらいます。たとえば、

  • 腕がホースになって指先から水が出ているかのように
  • 腕はリラックスさせて、気が指先からほとばしり出る感じで

など。そういう意識を持たせて腕を伸ばしてもらい、再びやります。

すると、アラ不思議。

今度は容易に曲がりません。しかも、腕を伸ばしている側は、特に頑張っている感じもせず、楽にその状態を保てます。

これが、「折れない腕」です。すごく簡単で劇的なので、ご家庭でやってみるのも良いでしょう。面白いですよ。※あまり無理せず、急激にやらないようにしましょう

さて、このパフォーマンス、いわゆる「気」の説明、あるいは「脱力」の有効性を示すためのものとして、結構見られます。簡単に出来るし、効果も解りやすいので、よく使われるのでしょう。

これがどういった論理で成立しているか、見ていきたいと思います。

まず、腕を前方に伸ばし、「今から曲げようとするから、曲がらないように頑張って」、と指示された、と想像してみて下さい。仮想的に、曲げられようとしている、とイメージするのもいいでしょう。

いかがですか。腕全体に力が籠もる感じがして、場合によっては、ピクピクと震えるのではないでしょうか。

これは、腕を曲げる筋肉(屈筋)と、伸ばす筋肉(伸筋)が一緒に働いて、肘関節を固定している状態です。えっと、たとえると、内側と外側から同時にドアを開けようとしている、という感じです。同じくらいの力で引っ張り合えば、ドアは固定されたままですね。それが、「自分の身体の中で」起こっている、と考えて下さい。

上にも書いたように、この時、腕には「力が籠もった感じ」がすると思います。曲げられまいと頑張る、その目的に従って最良の運動をしている、という主観があって、それに合致した「身体の感じ」がある、と。

次に、「折れない腕」の方です。

折れない腕を行う場合、あらかじめ、指示を受けます。たとえば、腕はリラックスさせ、指を伸ばし、指先から水がほとばしるように……と。今、ちょっと腕を前に出して、想像してみて下さい。

特に大切なのは、リラックスさせる、という所。これはつまり、主に肘を曲げる筋肉を弛緩させる、という役割を果たします。どうでしょう。「頑張って」と指示された時とは、明らかに「感じ」が違うはずです。

そして、やってみると、こちらの方が、遥かに耐えられる。あれ、不思議だなあ、力は入れていないはずなのに…という感想が出てくる。

理由としては、結構簡単です。今やっているのは、腕を曲げられようとするのを耐える、という目的ですから、行うべきは、「肘を伸ばす」事です。そして、それを達成するのは、曲げられようとするのに合わせて、肘を伸ばす筋肉が収縮するのが必要になる。

しかし、「頑張って」と言われた場合に起こっているのは、「肘を曲げる」のと「肘を伸ばす」のを同時にやってしまっている。ものすごく簡単に言えば、「無駄な力を入れている」、もっと言えば、「自分自身で、”曲げるのに手を貸している”」、となるでしょう。

もし、場に三人いれば、あまっている人は、「折れない腕」を行っている際の、上腕の、いわゆる力コブが出来る所を触ってみて下さい。柔らかいはずです。対して、頑張っている際は、収縮して硬くなっているはず。

ここに、人間の心理、あるいは感覚(知覚、と言った方がいいかも知れない)の面から見て、とても興味深い現象を見出す事が出来る訳ですね。

やろうとしているのは、「肘を曲げられんとするのに耐える」、というものです。そしてそれに最も合理的な運動は、肘を曲げる筋肉を弛緩させ、肘を伸ばす筋肉を収縮させる事。

しかし、「頑張って」と指示された場合は、「目的に適うよう運動しているはず」なのに(認知)、実際は、「自分で曲げるのを手伝って」(実際の運動)しまっている、のですね。当然、「今目的に適った運動が出来ているかどうか」は、感覚・知覚を基にして判断しています。つまり、腕の筋肉の収縮などから得られる感覚を手がかりにして、「この感じ」は合理的である、と判断する。

しかし実際は、合目的的(ここでは、腕を曲げられんとする)な運動を行っていると思っているにも拘らず、運動としては実に不合理なものになっている。ここに、日常的な「身体の”感じ”」と実際の運動との乖離、が浮き彫りにされてくるのです。

「折れない腕」というのは、そこを端的に解らせるための、簡単で示唆的なパフォーマンスです。要するに、「主観的な、”感じ”」はあてにならないよ、と。それを、事前の、イメージを用いる指示などを使い、認識させる訳ですね。イメージが有効なのは、

  • 誰しもが解剖学の知識を持っている訳では無い
  • なんとなく知識を持っていたとしても、それをすぐに感覚・知覚と対応付けられない
  • イメージによって、上肢全体の運動の枠組みを変容させるよう促す

などの理由による、と推測出来ます。いきなり、上腕三頭筋を使って屈筋はリラックスさせよ、と言われても出来るはずが無いし、仮にそれをすぐ理解出来るなら、そもそもこのパフォーマンスを行う意味が無いですから。

ところで、この「折れない腕」、たまに、「気」の考えを補強するために用いられる事があります。ほら、力を抜いているのに曲げられないでしょう、これが「気」なのだよ、といった具合に。

しかし、ここまで見てきたように、このパフォーマンスは、「(合目的的)合理的な筋肉の使い方」を促すものなのです。ですから、筋力否定の文脈で「気」を持ち出し、このパフォーマンスを論の補強に用いるのは、誤っている訳ですね。実際、大きな力の差があれば、リラックスさせたとしても、やはり曲がってしまうのです。

これが、いわゆる「折れない腕」パフォーマンスの論理構造です。もし、何かのきっかけで、このパフォーマンスに触れる事があれば、ははあ、これは知っとるぞ、と冷静に見ると、面白く観察出来るでしょう。

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おまけ。

このパフォーマンス、おそらく実験的に研究した例は無いだろうと思います。そこで、軽く試案的なものを。

サンプルを3群に分け、

  • 指示:「頑張る」―群
  • 指示:「リラックス」―群
  • 何も指示しない群

に割り付け、腕を曲げてもらう。もしくは、同一被験者で水準(ここでは指示の仕方)を変えて実験を行う。

腕の「曲げられにくさ」を測る。尺度は、曲がってしまうまでの時間とか?

実験時に、筋電計で、上肢の筋収縮の度合いを観測する。

それぞれの条件で、主観的な「感じ」を、質問紙などで測る。

解る事

  • 曲げられにくい場合の筋活動の具合
  • 言語的指示が、曲げられにくさにどう影響するか
  • 主観的な腕の「感じ」が、筋活動や曲げられにくさとどう関連するか

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2009年5月17日 (日)

脱力の論理

脱力することについて質問。合気道などでは特に脱力することを注意しますが。な... - Yahoo!知恵袋

質問者さんは、「脱力」を、あらゆる筋肉を弛緩させる、的なイメージで捉えているかも知れません。

もちろん、そんな事は不可能な訳です。人間、立っているだけでも筋肉を使う。当たり前です。

脱力の論理構造については、一般的な所は高岡英夫氏が解明しました。それは、言われてみれば何という事は無い、でも言われるまでは整理しにくい、というような論理です。

つまり、目的の運動があったとして、それに必要な筋肉を収縮させ、それ以外は弛緩させる、と。

ね、聞くと、何当たり前の事言ってんの? って感じでしょ。実際、トートロジカルです。生体力学的には、そういう事です。

それで、なぜ教えとして脱力が煩く言われるかと考えると、それは、認知と身体の在り方に常にズレが生ずる可能性があるから、なんですね。

どういう事か。

上でも書いたように、生体力学的に見れば、脱力とは、目的の運動に応じて適切に使う筋肉の収縮を配分するという事だから、そこが解明されれば、ある程度正確に記述出来ます。

だけれども、仮に記述出来た、つまり、どこそこの筋肉をどのタイミングで収縮させれば……というのが解っていたとしても、すぐさまそれが自分の身体に取り込む事が出来る訳では無い、と。

肩凝りを考えてみて下さい。「今、僧帽筋辺りが強張っているから、そこを弛緩させて。楽になるから」、なんて言われたって、出来るものではありませんよね。それが出来るなら、そもそも凝りなど存在しない。

そのように、「思った」としても、「ままならない」。

そこで、「脱力」などの概念が出てくる(←時間的順序関係を示した文じゃ無いです)。つまり、全身の筋肉を柔らかくしておく、といった所を習慣づけるための言葉。特に上腕なんかでは、筋肉を固めた時と弛緩させた時の違いの知覚は容易ですよね。で、それを応用させるようなかたちで、いついかなる時でも、あらゆる所を柔らかくさせろ、という意味合いを感じさせる「脱力」を、最重要の概念として持ってくる訳です。腕の力を抜いた時のような知覚を全身に分布させろ、凝りのような知覚がある場合、それをフィードバックして、なんとか解体しろ、と。

しかしそれは、ある意味で「大雑把」な表現でもあります。だから、ある程度深く考えると、「脱力って言っても、全身の力抜いたら動けなくなるよなあ」、などといった、至極当たり前の疑問が出てくる。つまり、直感的にでも、解剖学的な概念と繋げて認識してくるのですね。

それが高じると、質問者さんのようなクエチョンを投げかけたくなってきます。

脱力という言い回し自体がいつ頃から出てきたものかは知りませんが、そんなに新しいものでは無いでしょう。あくまで慣習的に、学習的言語として用いてきたはずですね。少なくとも、解剖学的概念ときっちり対応させてそれを使った人は、いないでしょう。上達の過程で、あたかも「全身の筋肉が弛緩したかのような(筋肉の存在は当然知っていたでしょうから)」状態の時に優れたパフォーマンスが発揮される、のを直感して、それを「脱力」という言葉で表現したのではないでしょうか。「力」は日常的に使われていますしね。

それは、ある程度有効に機能してきただろうから、ずっと広く使われ続けてきた。で、ある程度でも解剖学辺りの知識を得た人がその言葉に出会うと(あるいは、言葉に出会った後に解剖学の概念を勉強すると)、戸惑うのだと思います。

心理学的概念を使うと、(ちょっと造語します)

  • 脱力的知覚スキーマ
  • 力み的知覚スキーマ

なんて分けられますかね。本当は、どっちも筋肉を存分に使っているのだけれど、前者は合目的的合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。後者は、あたかもチェーンが錆び付いた自転車のような、不合理的な身体運動に付随する知覚のスキーマ。前者を達成出来た時に肯定的評価を与え、後者は解体が望まれる、と。

知覚というのは、そもそも強く主観的だから、共通了解を得る言語化が非常に難しい。筋電計なんて昔はありませんしね。達人の筋電図を採って、それと知覚を細かく対応づける、なんてのも出来なかった。

で、工夫して色々の学習的・伝承的な語が生み出されてきて、中でも有効に働き注目を集め、ずっと生き残ってきたのが、「脱力」という言葉だったのでしょう。

------------

脱力、いつ頃から使われたのでしょうねえ。武術界で広く流行ったのは、練気柔真法辺りがきっかけなのでしょうけれど、武術の指導の現場では、もっと前に使われていたと想像します。仮に、数十年の間に出てきた新しい言葉だとしても、その論理構造は詳しく検討されてこなかった、と言ってよいでしょう。

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2009年5月16日 (土)

感じさせるか否か

とある声優がいる。

演技の幅が広く、その才能の高さを認める評をよく目にする。

確かにその人は、バリエーションに富む役をしっかり演じこなしており、平均的な役者とは一線を画すと評価されている事には、頷ける。

しかし、である。

何か違和感を覚える。演技を聞いて。

その違和感が何か、としばらく考えた。

おそらく、

「感じさせる」から、なのではないかと思った。

何を、か。

「努力の跡」を、あるいは「気の遣い方」を、である。

つまり、演技に対する真剣な姿勢、構え、きめ細やかな演じ分けなどの配慮が、演技を通じて見えてくる、ように感じられる。

具体的には、声の出し方などがそう感じさせるのだろうが、ありていに言ってしまうと、「わざとらしさ」が見える。

他に、自分が高く評価する役者がいる。

その人は、「何も感じさせない」。

演技しよう、などの構えたような雰囲気や、淀みというものが全く無い。陳腐な言い回しを用いれば、「自然な演技」といった所だろうか。

自然に、というのは、努力の跡を感じさせない、のと同じで、そのキャラクターそのものが喋っているようにしか思えない、そんな演技。いや、もはや「演技」では無い、と言うのが適切だろうか。

「感じさせる」方は、「二重」に見える。つまり、キャラクターと、それを演ずる役者が。

しかし、「感じさせない」方は、全く同化している、と言うか、まさにそのキャラクターが喋っているとしか思えない、そんな風である。

この違いが、本当に優れた役者であるか否か、の分かれ目、なのであろうか。

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2009年5月15日 (金)

後で効くかも

kikulogにコメント書いたのですが、こちらに再掲します。前々から思ってて、ここにも度々書く事です。

「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」
 
この言い回し、「後から効いてくる」ものだと考えています。
つまりこれ、物理学・化学・生理学・心理学・言語学・情報処理 等々の論理を知っていれば、なるほどそうだよな、と納得出来る表現ですよね。そもそも「感覚器官」が生理学・心理学的 概念な訳ですから。
この表現は、メカニズム的にあり得ないというのを、既存の理論・知識体系に則って説明するものだから、その知識をある程度得た人は納得出来る、でもそうで無い人には、端的に言って「意味の解らない」ものになる、と思われます。つまり、科学の理解度に依存している、と。
 
しかし、何かのきっかけで、生理学やら何やらを勉強して色々解り、水伝が成り立ちようが無いのを認識する事はあり得ます。そして、そういえば、「水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質だから、言葉に反応するはずがない」なんて言い回しがあったなあ、今考えると納得出来るなあ、と振り返る場合もあろうかと思います。
そういう意味で、「後から効いてくる」ものではないかな、と。
 
ですからこれは、水伝を信じている人にいきなりダイレクトに言うのでは無くて、水伝を批判する文書に組み込んでおく、などがベターだと思ってます。
 
ちなみにこれ、私が超能力捜査否定にいたった道筋を、そのままトレースして書いています。
 
何と言いますか、「信じ方の段階」というのが考えられてしかるべきかな、と。段階、と言っても綺麗に分類出来るようなものじゃ無いでしょうけれど、既有の知識、誰に教わったか、などの事情が複雑に絡まって信念は形成されるから、そこは押さえておきたいです。
kikulog:「ニセ科学」シンポジウム(物理学会):TAKESAN — May 15, 2009 @01:12:17

水は感覚器官も云々、というのは、「科学に依存した」説明です。それをきちんと把握するには、ある程度の科学についての知識が要る。だから、知識は持っていたが、水伝に対してはうっかりそれを適用しなかった人は※ あ、言われてみればそうか、と思うかも知れない。しかし、知識がかなり不足していれば、そもそも意味不明な表現にしか見えない、と。そもそも、「感覚器官」という言葉自体、難しい訳です。理科や生物で習うものだろうけれど、真面目に勉強しなかった、やったが忘れた、選択などの関係でそもそもやらなかった、と色々の場合があります。もっと言うと、水、感覚、感覚器官、頭脳、神経、のそれぞれが、科学に依存している、と。

※そんなうっかりはそもそも少ないでしょうけれども。誰から聞いたか、などの字状、心理学的な所も絡んできそうですが。

そこら辺を鑑みると、信じている人にいきなりそれを言うのは、あまり得策では無い訳ですね。だから、そういった表現は、独立した批判テキストに組み込むのがいいと思います。そうすれば、後から勉強して、ああ、そういえば、と思い返す可能性もあるので。

コメントでも書きましたが、私はほんの数年前まで、超能力捜査について、もしかするとあるかも、と思っていまして、それを否定するに至ったのが、上のような道筋によってだったのです。具体的には、心理学の勉強が大きい。でも、その更に数年前から心理学は勉強してた、というのは記しておきたい所。ウエイトのかけかたに問題があったのでしょうし、もっと基礎的なレベルの勉強が足りていなかった、のもあるでしょう。

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2009年5月14日 (木)

必要無い

日本水連、代表選手の茶髪禁止など再指導 - MSN産経ニュース

「必要ない」という理由で「禁止」するのなら、大概の事は禁止出来てしまいますな。

禁止が正当化されるのは、「やらない必要がある」のが合理的に説明出来る場合のみ、でしょう。

で、どう説明します?

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kita-

最新映像も到着――『モンスターハンター3(トライ)』の発売日が2009年8月1日に決定! - ファミ通.com

ついに決まりましたか。

最新映像、相変わらずモンタのPVはテンションを上げる。

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2009年5月13日 (水)

メモ:知りたい・調べてみたい事

  • 剣素振りの際の、肩・肘・手首の各関節の軌道。そこそこ高性能のカメラがあれば、(精度をある程度無視すれば)比較的簡単に確かめられる。
  • 剣素振りの際の、剣そのものの運動の推移。これも、1秒/60フレーム 程度で撮影出来れば、ある程度は把握出来る。
  • 視覚情報を遮断した場合、技のかかりかたは違うか。基本の呼吸法(や合気上げ)で。視覚情報によるフィードフォワード有り条件→(視覚情報遮断による)体性感覚のみ条件(聴覚・嗅覚情報は影響しないと前提) との比較。
  • 動いている時の、下腿の筋群の活動状態。特に、接地時にどのように収縮するか。
  • 同じく、大腿の筋群の活動。特にハムストリングス。
  • 手を開いた場合と、力を抜いた場合(つまり、前腕の筋群の収縮/弛緩 条件)の、被術者の前腕筋群の反応の違い。つまり、合気道・合気柔術における、「手を開く」事の意味。
  • 肩甲骨・鎖骨 の可動性について
    • どの程度動くか――可動域の問題。どのくらい「動き得るのか」←解剖学的・心理学的論理が関わってくる
    • どの程度「動かせるか」――制御の問題。意識してどのくらい動きをコントロール出来るか
  • 上の可動性に関して
    • 「動きにくい」のが明らかになった群が、トレーニングによってどのくらい改善されるか
    • それを実際の動きに取り入れる事が出来るか
    • 色々の条件あるいは属性による違いは見出せるか。たとえば、運動習慣、その運動の種目、取り組む時間、指導における教示の種類、等々
  • 剣素振りにおける、前腕筋群の収縮の分布および時間的変化。達人とその他の違い。剣道のバイオメカニクス的研究に、既にあるかも知れない。
  • 剣素振りにおいて、真っ直ぐ立った時の解剖学的正中面を基準にして、骨盤がどの程度の角度を取り、そのように回転するか。あるいは杖との違い(杖は、半身よりさらに開く)。斉藤守弘先生の映像を解析したい。上面からの映像があれば理想的だが、多分無い。※動画配信サイトで色々観ていて、岩間スタイルなのに半身が全く出来ておらず、腰の捻りがなっていないのが散見されたのが、残念至極

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2009年5月12日 (火)

いまはあんたが いちばん たのしみだぜ!

発売時期が2009年秋に決定! 『サガ2秘宝伝説 GODDESS OF DESTINY』 - ファミ通.com

発売時期が決定しました。

私は、リメイク上等、2D→3Dはへっちゃら、な人なので、これは期待。オフィシャルサイトでBGMがいきなり流れてきて……ぐっときます⇒SaGa2(※音量注意)

あの曲とかあの曲のアレンジがどうなってるか、というのも興味深いですな。

早速壁紙ダウンロードしましたぜ。

Sa・Ga 全曲集 Music Sa・Ga 全曲集

アーティスト:ゲーム・ミュージック
販売元:プライエイド
発売日:2004/12/15
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2009年5月11日 (月)

疑似科学の特徴と科学との違い:後編

Interdisciplinary: 疑似科学の特徴と科学との違い:前編の続き。

○6.関連性の欠如

最も科学的な研究プログラムに対して,疑似的研究プログラムは他の科学的原理との「連結性」を欠く(Bunge, 1983; Stanovich, 2001)。言い換えれば,疑似科学は,現存のパラダイムを建て増すのではなく,むしろすべてを脱ぎ捨てた完全に新しいパラダイムを作り上げると主張する。そうするためによく作り上げられた科学的原理,あるいは強固な科学的知識を往々にして無視する。たとえばESPの多くの支持者は,報告されたESPのケースがほとんどあらゆる主要な物理学的シグナルの法則に反していても(たとえば,ESPは,その称するところでは,数フィートの距離からと同様に数千マイルのかなたからも同じほどの強さで作用する),それは本物の(これまで検出されなかったのであるが)知覚の物理的プロセスであると主張する。科学者は,完全に新しいパラダイムが先に存在したすべてのパラダイムをくつがえすのに成功することがあるということは常に心にとめておくべきなのだが,そのように結論する前には標準的な事実に基づいた主張をしなければならない。

ニセ科学論でもよく話題に出るところの、他の理論などとの整合性の問題ですね。ニセ/疑似 科学的な主張はしばしば、既存の科学の体系を全部引っ繰り返す(引っ繰り返さねばならなくなる)ような事を主張します。水伝しかり。覆すなら、覆すに足る証拠を見つけ出し、提出する必要があります。

6. Absence of connectivity.

In contrast to most scientific research pro-
grams, pseudoscientific research programs tend to lack "connectivity"
with other scientific disciplines (Bunge, 1983; Stanovich, 2001). In other
words, pseudoscienccs often purport to create entirely new paradigms out
of whole cloth rather than to build on extant paradigms. In so doing, they
often neglect well-established scientific principles or hard-won scientific
knowledge. For example, many proponents of ESP argue that it is a genu-
ine (although heretofore undetected) physical process of perception, even
though reported cases of ESP violate almost every major law of physical
signals (e.g., ESP purportedly operates just as strongly from thousands of
miles away as it does from a few feet away). Although scientists should al-
ways remain open to the possibility that an entirely novel paradigm has
successfully overturned all preexisting paradigms, they must insist on very
high standards of evidence before drawing such a conclusion.

○7.逸話的な事実への過信

逸話的な事実は科学的研究の初期段階では非常に有益でありうる。すなわち,証明の文脈においてよりも(すなわち,仮説検証 : Reichenbach, 1938),典型的な発見の文脈においてである(すなわち,仮説生成)。疑似科学的主張の支持者は,主張に合った事実を涵養するために,しばしば選ばれたケースからの報告を頼りにする(たとえば,「パーソンXはこの治療を受けて著しく改善したので,この治療は明らかにパーソンXに効いた」)。たとえば,自閉性障害(第13章を参照)に対するある治療法(たとえばセクレチン)では,支持的事実として統制のとれていない改善ケース報告が強調された。

 しかし,ギロヴィッチ(Gilovich, 1991)が述べたように,ケース報告は,主張に必要な事実を提供しているが,その主張にとって十分な事実を提供することができない。たとえば,新しい心理療法の効果があるならば,少なくとも改善したケース報告を複数期待すべきであろう。しかしそのようなケース報告は,改善が心理療法に依存しているという適切な事実を示すことをしない。この改善は多くの他の原因によって惹き起こされたかもしれない(たとえば,偽薬効果,平均への回帰,自発的な改善,成熟 ; Cook  Campbell, 1979 を参照)。

事例報告を証拠として過信する、という感じですかね。いわゆる「三た論法」にも通じます。効いたと見えるケースの観察から、確かにある人に効いた→一般的に効く と誤認する訳ですね。科学的には、ほんとうにそれが効果を及ぼしているのか、を調べるために、色々のものを対照としてとって、効き目を確かめる。効き目があると解っている薬であるとか、効かないのが解っている擬薬とか。それらを与えた群との比較を行って(もちろん無作為化して)、薬なり療法なりの効果を確認していく、と。

7. Overreliance on testimonial and anecdotal evidence.

Testimonial and anecdotal evidence can be quite useful in the early stages of scientific
investigation. Nevertheless, such evidence is typically much more helpful in
the context of discovery (i.e., hypothesis generation) than in the context of
justification (i.e., hypothesis testing; see Reichenbach, 1938). Proponents
of pseudoscientific claims frequently invoke reports from selected cases
(e.g., "This treatment clearly worked for Person X, because Person X im-
proved markedly following the treatment") as a means of furnishing
dispositive evidence for these claims. For example, proponents of certain
treatments (e.g., secretin) for autistic disorder (see Chapter 13) have often
pointed to uncontrolled case reports of improvement as supportive evi-
dence.

As Gilovich (1991) observed, however, case reports almost never pro-
vide sufficient evidence for a claim, although they often provide necessary
evidence for this claim. For example, if a new form of psychotherapy is ef-
ficacious, one should certainly expect at least some positive case reports of
improvement. But such case reports do not provide adequate evidence that
the improvement was attributable to the psychotherapy, because this im-
provement could have been produced by a host of other influences (e.g.,
placebo effects, regression to the mean, spontaneous remission, matura-
tion; see Cook & Campbell, 1979).

○8.反啓蒙主義の言語使用

多くの疑似科学の支持者は,科学を表面的に装った学問分野を供給しようとし,高度に専門的なわけのわからない大げさな言葉を印象深く使用する(疑似科学の「偽装方略」の考察のために van Rillaer, 1991 を参照)。そのような言語は,問題になっている主張の科学的な土台になじみのない人々に説得力を持つ。そのためそれらの主張に,認可状が与えられ,科学的合法性が認められてしまうかもしれない。

 たとえばEMDRの開発者は,この治療法の効果を次のように説明した(第9章も参照)。

 受容神経ネットワークの神経受容体(シナプスの電位)の力価は,さまざまな情報の高原状態と適応的情報レベルを別々に保存するが,AからZまでの文字によって表象される。高力価を持つターゲット・ネットワーク(Z)はより適応的な情報と結合できない。より適応的な情報はより低い力価のネットワークに貯蔵される。すなわち,シナプス力価はさまざまな神経ネットワークに貯蔵される感情の各レベルとは異なっている。……この理論は,処理システムがEMDRに触媒されているときに,受容体の力価は下方向にシフトされるので,前進的により低い力価を持つ神経ネットワークの受容体と連結できるということである。(Shapiro, 1995, pp.317-318)

ここで引用されているEMDRの説明とやらは、もはや読解不能のレベルですが、なにやら生理学的概念を仄めかし、いかにも科学と誤認させるようなものですね。「偽装方略」とは、私達が関心を持つ「ニセ科学」論に通ずるものなのかも知れません。意図的にしろ無意図的にしろ、「科学を装う」訳ですね。

ところで、「反啓蒙主義的」って、この文脈では、具体的にはどういった意味を持たされているのでしょうか。

8. Use of obscurantist language.
Many proponents of pseudoscience
use impressive sounding or highly technical jargon in an effort to provide
their disciplines with the superficial trappings of science (see van Rillaer,
1991, for a discussion of "strategies of dissimulation" in pseudoscience).
Such language may be convincing to individuals unfamiliar with the scien-
tific underpinnings of the claims in question, and may therefore lend these
claims an unwarranted imprimatur of scientific legitimacy.
For example, the developer of EMDR explained the efficacy of this
treatment as follows (see also Chapter 9):

(The) valences of the neural receptors (synaptic potential) of the respective
neuro networks, which separately store various information plateaus and
levels of adaptive information, are represented by the letters through A.
It is hypothesized that the high-valence target network (Z) cannot link up
with the more adaptive information, which is stored in networks with a
lower valence. That is, the synaptic potential is different for each level of
affect held in the various neuro networks....The theory is that when the
processing system is catalyzed in EMDR, the valence of the receptors is
shifted downward so that they are capable of linking with the receptors of
the neuro networks with progressively lower valences....(Shapiro, 1995,
pp. 317-318)

○9.境界条件の欠如

最もよく支持された科学的理論は境界条件,すなわち予測された現象が起こるとか起こらないということに関してよく分節化された範囲を有している。逆に,多くの,あるいはほとんどの疑似科学現象は過度に広範囲の条件に作用すると称される。ハインズ(Hines, 1988, 2001)が述べているように,心理療法周辺のよくみられる特徴は,病因が何であるかにかかわらず,表面上はほとんどすべての障害に効果的である。たておば,ある思考場理論の支持者(第9章を参照)は,この治療法はほとんどすべての精神障害に有効であると主張する。さらにこの治療法の開発者は,人間ばかりでなく,「馬,犬,猫,幼児,とても小さな子ども」(Callahan, 2001b, p. 1255)にも効果があると主張する。

これは、万能性と言い換える事も出来るかも知れません。ニセ科学で言うと、EMなんかは典型的でしょうか。

9. Absence of boundary conditions.

Most well-supported scientific
theories possess boundary conditions, that is, well-articulated limits under
which predicted phenomena do and do not apply. In contrast, many or
most pseudoscientific phenomena are purported to operate across an ex-
ceedingly wide range of conditions. As Hines (1988, 2001) noted, one fre-
quent characteristic of fringe psychotherapies is that they are ostensibly ef-
ficacious for almost all disorders regardless of their etiology. For example,
some proponents of Thought Field Therapy (see Chapter 9) have proposed
that this treatment is beneficial for virtually all mental disorders. More-
over, the developer of this treatment has posited that it is eftlcacious not
only for adults but for "horses, dogs, cats, infants, and very young chil-
dren" (Callahan, 2001b, p. 1255).

○10.全体論のマントラ

特に器質医学と精神健康における疑似科学の主張の支持者は,しばしば「全体論のマントラ」(Ruscio, 2001)に頼る。このマントラに頼るときには,科学的主張がより広範囲の主張の文脈内でだけ評価されうる。それゆえ個々では批判されないと主張するのが典型的なやり方である。たとえばロールシャッハテストの支持者は,臨床家はロールシャッハの結果を孤立させては実際上解釈できないと述べることで,この技法に対する批判者たちに反応し続けてきた。代わりに,実際には,訓練された臨床家はたくさんの情報の断片,要するにロールシャッハ・プロトコルを考慮する。この推論の流れには大きな困難が2つある。第1に,臨床家は多様な情報源からのたくさんの複雑な心理測定にかかわる情報を頭のなかでうまく結びつけてしようすると述べる。これは臨床的判断における研究の流れからは疑わしい主張である(第2章を参照)。第2に,全体論のマントラに頼ることによって,ロールシャッハおよび他の技法への支持者は,常に反証される危機を回避する。言い換えれば,研究結果が特定のロールシャッハ指標の妥当性を強めるならば,ロールシャッハの支持者たちはそれらの結果が事実を支持していると主張するが,それらの結果が否定的なものであるならば,「いずれにしても臨床家はこの指標を独立には使用しない」と釈明する(例としてMerlo & Barnett, 2001 を参照)。この「頭は勝つ,尻尾は負ける」式の推論は,これら支持者の主張を科学の範囲を大きく越えたところにおくことになる。

最近、holismはそのまま「ホーリズム」とした方がいいんじゃないか、と思う今日この頃だったりしますが、それはともかくとして。

ええっと、これって、「マントラ」でいいんですかね。原典でもそのままの意味で用いているのかな。要するに、ホーリズムのスローガン(信念・信条・方針)、て事ですよね。まあ、象徴表現として、そのままマントラでいいのかな。

ロールシャッハ批判に関しては、色々と反論もあるみたいですし、それ自体をここで検討する事は出来ませんけれども、一般論として、何らかの主張について、他のものとの繋がりを考える、というのはある訳ですね。それが行き過ぎると、いかようにでも正当化する事が出来てしまう、と。実際、組み合わせによって有効に機能する、というのはあるでしょうから、ホリスティックな主張をするからといって、即批判出来るものでは無いとは思います。尤も、注意深い論者は、「ホーリズム」を哲学的文脈以外では積極的に使わない、というのはあるやも知れません。アヤシゲな概念とセットで持ち出される場合もありますから…。敢えてそういう象徴的・スローガン的表現を使う必要もありませんしね。

10. The mantra of holism.

Proponents of pseudoscientific claims, es-
pecially in organic medicine and mental health, often resort to the "mantra
of holism" (Ruscio, 2001) to explain away negative findings. When invok-
ing this mantra, they typically maintain that scientific claims can be evalu-
ated only within the context of broader claims and therefore cannot be
judged in isolation. For example, some proponents of the Rorschach Ink-
blot Test have responded to criticisms of this technique (see Chapter 3) by
asserting that clinicians virtually never interpret results from a Rorschach
in isolation. Instead, in actual practice clinicians consider numerous pieces
of information, only one of which may be a Rorschach protocol. There are
two major difficulties with this line of reasoning. First, it implies that clini-
cians can effectively integrate in their heads a great deal of complex psy-
chometric information from diverse sources, a claim that is doubtful given
the research literature on clinical judgment (see Chapter 2). Second, by in-
voking the mantra of holism, proponents of the Rorschach and other tech-
niques can readily avoid subjecting their claims to the risk of falsification.
In other words, if research findings corroborate the validity of a specific
Rorschach index, Rorschach proponents can point to these findings as sup-
portive evidence, but if these findings are negative, Rorschach proponents
can explain them away by maintaining that "clinicians never interpret this
index in isolation anyway" (see Merlo & Barnett, 2001, for an example).
This "heads I win, tails you lose" reasoning places the claims of these pro-
ponents largely outside of the boundaries of science.

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2009年5月10日 (日)

疑似科学の特徴と科学との違い:前編

昨日のエントリー(Interdisciplinary: 参考資料として)の続き。

そこで、疑似科学の持つ特徴として10の項目を紹介しましたが、さすがにあれだけじゃ解りにくいので、説明も引用します。

で、コメント欄で、ちがやまるさんに、

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この本の原典の一部がgoogle booksで参照出来ると教えて頂きました⇒Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索

それで、訳書の文章が非常に解りにくく、訳に問題がある可能性があるので、原典の対応する部分も一緒に引用します。

引用箇所は、

訳書:P5-9

原典:Science and Pseudoscience in ... - Google ブック検索(P6~)※OCRを使いテキストに変換。改行はそのままで直してありませんが、ご了承下さい。タイポあれば、ご指摘頂ければ超感謝・・

※構成は、訳書の引用―私の感想―原典の引用

※感想は、訳書のみを読んでのものです

※この訳はどう考えてもおかしいだろが、という部分があれば、教えて頂ければめちゃくちゃありがたいです

○1.反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用

ポッパリアンあるいは新ポッパリアンの観点(Popper, 1959 を参照)からすれば,間違いをおかすことがないという主張は,原理的に,非科学的である(しかしポッパリアンの批判として,McNally, 2003 を参照)。否定的結果をごまかすために,その場限りの仮説を繰り返し考え出すことは,疑似科学的主張の支持者が共通して行っている方略である。さらに最高の疑似科学では,疑問視された理論上の欠点を埋めるためにその場限りの仮説を、ただ単に張りつける。極端なものでは,その場限りの仮説は、論破できない障壁となる。たとえば,眼球運動脱感作とリプロセッシング(EMDR)の支持者たちは,EMDRについての否定的な結果は,ほとんどが忠実に治療手続きに従っていないことに原因があると述べてきた(第9章を参照)。しかし治療忠実度の概念のあてはめには一貫性が欠ける(Rosen, 1999)。

 否定的な事実に直面し,その場限りの仮説を設定することが,時には科学における合理的な方略であることは強調されるべきである。しかし,科学的な研究プログラムにおいてそのような仮説は、理論の内容,予測力,あるいは両者を高める傾向にある。

アド・ホックな仮説を積み重ねて主張を正当化する、という事ですね。そして、他の理論との整合性を無視してしまう。二段落目は、アド・ホックに仮説を出す事そのものが問題である訳では無い、という強調ですね。理論的整合性や現象の予測の精度等を高めるものであるのが望ましい、という感じでしょうか。

1. An overuse of ad hoc hypotheses designed to immunize claims from falsification

From a Popperian or neo-Popperian standpoint (see
Popper, 1959) assertions that could never in principle be falsified are un-
scientific (but see McNally, in press, for a critique of Popperian notions).
The repeated invocation of ad hoc hypotheses to explain away negative
findings is a common tactic among proponents of pseudoscientific claims.
Moreover, in most pseudosciences, ad hoc hypotheses are simply "pasted
on" to plug holes in the theory in question. When taken to an extreme,
ad hoc hypotheses can provide an impenetrable barrier against potential
refutation. For example, some proponents of eye movement desensitiza-
tion and reprocessing (EMDR) have argued that negative findings con-
cerning EMDR are almost certainly attributable to low levels of fidelity
to the treatment procedure (see Chapter 9). But they have typically been
inconsistent in their application of the treatment fidelity concept (Rosen,
1999).
It is crucial to emphasize that the invocation of ad hoc hypotheses in
the face of negative evidence is sometimes a legitimate strategy in science.
In scientific research programs, however, such maneuvers tend to enhance
the theory's content, predictive power, or both (see Lakatos, 1978).

○2.自己訂正の欠如

科学研究プログラムは,その主張の本当らしさにおいて,必ずしも疑似科学的研究プログラムと区別できない。なぜなら両プログラムの支持者たちはしばしば間違った提案を提出するからである。長期的にみると,最も科学的なプログラムは間違った提案を取り除く傾向にある。一方,最も疑似科学的なプログラムはそうではない。要するに,疑似科学的プログラムを最もよく証明する証拠は,知的な面での停滞が起こることにある(Ruscio, 2001)。たとえば,占星学は過去2500年の間に著しい変化はほとんど起こらなかった(Hines, 1988)

間違った提案は両方とも出す事があるが、科学側は間違いを取り除き、疑似科学側はそうでは無い、という事かな。正しいと主張したいものを正当化するためにアド・ホックな説明を重ねていく、とか。

2. Absence of self-correction.

Scientific research programs are not
necessarily distinguished from pseudoscientific research programs in the
verisimilitude of their claims, because proponents of both programs fre-
quently advance incorrect assertions. Nevertheless, in the long run most
scientific research programs tend to eliminate these errors, whereas most
pseudoscientific research programs do not. Consequently, intellectual stag-
nation is a hallmark of most psendoscientific research programs (Ruscio,
2001). For example, astrology has changed remarkably little in the past
2,500 years (Hines, 1988).

○3.再調査の回避

上記に関連し,多くの疑似科学の支持者は,再調査によって問題点が発見されるおそれあがるようなプロセスを避ける(Ruscio, 2001; 例証としてGardner, 1957 も参照)。再調査プロセスが,よく構成されたパラダイムと矛盾するような主張や結果がでるようにバイアスをかけているという根拠で,回避されるかもしれない(たとえば,思考場理論に関連した例証としてCallahan, 2001a を参照;第9章も参照)。標準の科学的方法ではとうてい適切に評価できないということを理由に,再調査を避けるかもしれない。再調査は完璧からは程遠い(代表的な例としてPeters & Ceci, 1982 を参照)。そうだとしても,科学における自己訂正の最高のメカニズムとして,また推論,方法論,分析における誤りを特定し,研究者を援助する最高のメカニズムとしてあり続けている。再調査プロセスから大きく隔絶されたままでいることによって,疑似科学の支持者は,調整的なフィードバックを得る貴重な機会を失う。

追試や再検討を拒む、といった所でしょうか。で、既存の方法ではバイアスがかかって適切に主張を論証出来ない、などと言ったりする。実際、検証への消極的な態度を採れば、「いかにしてそれを確かめるのか」と指摘されるのは当然ですね。

3. Evasion of peer review.

On a related note, many proponents of
pseudoscience avoid subjecting their work to the often ego-bruising pro-
cess of peer review (Ruscio, 2001; see also Gardner, 1957, for illustra-
tions). In some cases, they may do so on the grounds that the peer review
process is inherently biased against findings or claims that contradict well-
established paradigms (e.g., Callahan, 2001a, for an illustration involv-
ing Thought Field Therapy; see also Chapter 9).  In other cases, they may
avoid the peer review process on the grounds that their assertions cannot
be evaluated adequately using standard scientific methods. Although the
peer review process is far from flawless (sec Peters & Ceci, 1982, for a
striking example), it remains the best mechanism for self-correction in sci-
ence, and assists investigators in identifying errors in their reasoning, meth-
odology, and analyses. By remaining largely insulated from the peer review
process, some proponents of pseudoscience forfeit an invaluable opportu-
nity to obtain corrective feedback from informed colleagues.

○4.論破よりは確証の強調

明敏な科学者フェイマン(Feynman, 1985)は,科学の本質は一生懸命になって自分自身の間違いを証明しようとするものだと述べている。バートレイ(Bartley, 1962)も同様に最高の科学は最大の構成的批評主義を含んでいると述べている。理想的な科学者は,論駁の危険を葬り去るために,育ててきた問題を研究テーマにする(Meehl, 1978; Ruscio, 2001 も参照)。逆に,疑似科学者は自分自身の主張にあう事実だけを探そうとする。強固な支持者は,主張に合致する事実を必ず見つけ出すことができる(Popper, 1959)。そのため確証するための仮説―検証方略は,信念に凝り固まっているときには誤りを根絶する効果的な手段とはならない。

 さらに,バンジ(Bunge, 1967)が述べているように,ほとんどの疑似科学者は,彼らの主張の確証として否定的な,あるいは異例な結果を都合のよいように再解釈する(Herbert et al., 2000 も参照)。たとえば,超感覚知覚(ESP)の支持者は,超心理学の課題(”psi missing”として知られる)におけるチャンスレベルの成績よりもさらに悪い個別的なケースを解釈してきた(Gilovich, 1991; Hines, 1988)。

Feynmanをフェイマン、Bungeをバンジ、と表記するのは一般的じゃ無いような気が激しくするのは取り敢えず措いておいて……自分の間違いを一生懸命になって、というのは、長期的・総合的に見た場合、だろうと思います。あるいは、そういう姿勢を採ろうとしない者はほんとうの科学者とは看做さない、とか。一段落目の後半とか、ぶっちゃけ意味が全然解らない。

4. Emphasis on confirmation rather refutation.

The brilliant physicist
Richard Feynman (1985) maintained that the essence of science is a bend-
ing over backwards to prove oneself wrong. Bartley (1962) similarly main-
tained that science at its best involves the maximization of constructive
criticism. Ideally, scientists subject their cherished claims to grave risk of
refutation (Meehl, 1978; see also Ruscio, 2001). In contrast, pseudo-
scientists tend to seek only confirming evidence for their claims. Because a
determined advocate can find at least some supportive evidence for virtu-
ally any claim (Popper, 1959), this confirmatory hypothesis-testing strategy
is not an efficient means of rooting out error in one's web of beliefs.
Moreover, as Bunge (1967) observed, most pseudosciences manage to
reinterpret negative or anomalous findings as corroborations of their
claims (see Herbert et al., 2000). For example, proponents of extrasensory
perception (ESP) have sometimes interpreted isolated cases of worse than
chance performance on parapsychological tasks (known as "psi missing")
as evidence of ESP (Gilovich, 1991; Hines, 1988).

○5.逆転された証明の重み

先に述べたように,科学における証明の重みは,常に,主張にかかっているのであり,批判にあるのではない。疑似科学の支持者はこの原理をしばしば無視し,その代わりに主張が間違っているということを無心論者が論理の限界を越えて言い張ろうとするようなことを行う(たとえばある新しい治療技法の効果に関する言及)。この誤りは,論理学者の無知による誤りに似ている(たとえば,無知による論争)。それに反対する事実が存在しないというためだけで,単純に主張は正しいと思い込んでしまう仮説の誤りに似ている(Shermer, 1997)。たとえば,未確認飛行物体(UFO)の支持者は,空にある変則的な出来事のなかには説明できないものがあるという懐疑論者の主張に対して,すべてが説明できると主張した(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし,基本的には,例外なく否定的なものすべてに当てはまりうるような証明は不可能なので,この戦略では主張者よりもむしろ懐疑論者に過度に証明を求めるという誤りをおかす。

かなり意味が取れない文ですね。ここは、ちがやまるさんがコメントで訳して下さったものがあります。Interdisciplinary: 参考資料として:投稿: ちがやまる | 2009年5月 9日 (土) 21:02より引用。

前に述べたように、科学においては必ず、証明の責を担うのは個々の主張を立てる方であって、批判する方ではない。ニセ科学を唱道する人々はよくこの原則を無視して、懐疑者たちがある主張(たとえば新規の治療法の効能に関する主張)が誤りであるという理にかなった疑惑を越えて、実証することを要求する。
この誤りは、論理学者の"ad ignoranthum fallacy" (すなわち、無知による誤謬)に似ている。この誤りは、ある主張が単に対立する証拠がないというだけで正しいとみなしてしまう事である(Shermer, 1997)。たとえば、UFOについて言いふらす人には、懐疑者たちは空中の異常現象に関する報告で説明されてない物をすべて説明すべきだと言い張った人もいた(Hines, 1988; Sagan, 1995a)。しかし、一般的な否定を証明することは本質的に不可能であるから、この戦術は証明の責を主張者でなく懐疑者に誤って負わせてしまうのである。

遥かに明瞭ですね。つまり、科学における立証責任の話。新奇の主張をする側が、説を立証する責任を負う、という事。その転嫁をするのは見られます。無いと思うなら証明してみろ、というやつ。経験科学において、○○は無い、というのを証明するのは一般に不可能ですが、それを求めたりする訳ですね。

UFOの例は、懐疑主義者が変則的な事例を説明出来ないのを衝いて、全部説明してみせろ、と要求する。それは端的に言って、「話が違う」んですよね。確かに変則的なものはあるかも知れないが、それを説明出来ないからといって、それで地球外からの飛行物が存在すると論証される訳では無し、と。

5. Reversed burden of proof.

As noted earlier, the burden of proof in
science rests invariably on the individual making a claim, not on the critic.
Proponents of pseudoscience frequently neglect this principle and instead
demand that skeptics demonstrate beyond a reasonable doubt that a claim
(e.g., an assertion regarding the efficacy of a novel therapeutic technique) is
false. This error is similar to the logician's ad ignorantium fallacy (i.e., the
argument from ignorance), the mistake of assuming that a claim is likely to
be correct merely because there is no compelling evidence against it
(Shermer, 1997). For example, some proponents of unidentified flying ob-
jects (UFOs) have insisted that skeptics account for every unexplained re-
port of an anomalous event in the sky (Hines, 1988; Sagan, l995a). But
because it is essentially impossible to prove a universal negative, this tactic
incorrectly places the burden of proof on the skeptic rather than the claim-
ant.

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続きは次回

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2009年5月 9日 (土)

参考資料として

とりあえず作ってみた :: Archivesのコメント欄の話ともちょっと関連して。

『臨床心理学における科学と疑似科学』から、疑似科学の特徴が挙げられている部分を参考資料として。

(前略)多くの科学哲学者(たとえばBunge, 1984)と心理学者(たとえばRuscio, 2001)は,最もよく認められる疑似科学の特徴を概説した。それらの特徴は次のようなものである(さらなる議論のためには,Herber et al., 2000;Hines, 1988; Lilienfeld, 1998 を参照)。

とあり(P5)、いくつかの項目があります。取り敢えず、10個挙げられている項目を紹介します

  1. 反証からの主張に対して免疫をつくるためにデザインされた一時的な仮説の濫用
  2. 自己訂正の欠如
  3. 再調査の回避
  4. 論破よりは確証の強調
  5. 逆転された証明の重み
  6. 関連性の欠如
  7. 逸話的な事実への過信
  8. 反啓蒙主義の言語使用
  9. 境界条件の欠如
  10. 全体論のマントラ

※ここはどういう事が書かれてあるのか、などありましたら、コメント欄でどうぞ。要約してご紹介します(引用するには長過ぎるので)。

これはどちらかと言うと、「方法を備えているか」という観点ですよね。あるいは、「態度」がどうか。ですから、「ニセ科学」とは、共通する部分がありつつも、異なる所がある。

ニセ科学の話では、たとえば、○○治療というのがあるとして、それをどう謳うか、という乖離の度合いが関わってくる訳ですね。そのままでは、単に実証途中の理論(apjさんのテキストでの「非科学」)であったとしても、エビデンスが充分で無いのに「ガンに効く」などと言ってしまうとニセ科学とされる、といった具合に。

ですから、上の条件を多数満たしていない場合に即「ニセ科学」と呼ぶ、という事でも無い。あるいは、上の条件を満たしているからといって「ニセ科学で無い」とは限らない、と。そこら辺に異なりがあるのだと思います。

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2009年5月 8日 (金)

しまりす

宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114)) Book 宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ (岩波科学ライブラリー (114))

著者:佐藤 俊哉
販売元:岩波書店
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ただいま再読ちう。

この本を知ったのは、川端裕人さんのブログがきっかけ⇒リヴァイアさん、日々のわざ: 宇宙怪人しまりす

とてもユニークな著作ですね。内容は、しまりすに先生が医療統計を教える、って感じ(←少なっ)。詳しくは、川端さんの書評を見て下さい(←他人任せ)。

ところで、前から思ってるのですが。

統計では、「比」と「割合」と「率」は区別されますが、医療統計や疫学等の本以外では、あまりそれが説明されているのを見ない気がします。何ででしょう。いや、たまたまそういう本に当たっただけかもですけれど。

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2009年5月 7日 (木)

ヴァルキュリア

明日へのキズナ Music 明日へのキズナ

アーティスト:HIMEKA
販売元:ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
発売日:2009/05/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ちょっくらOnGenあたりでダウンロードしてくるか、と思ったら、発売日がまだだという事に気付いて泣いた。

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メモ:ガイドライン試案を見る

※未整理

apjさんによる、ニセ科学判定ガイドライン試案 — Y.Amo(apj) Lab

ニセ科学判定ガイドライン試案 :: Archives

apjさんのこういうまとめ、さすがだな、と思います。

ちょっと、ガイドラインに書かれた内容を参照して、「血液型性格判断」について考えてみました。

ガイドラインによれば、「科学である」とは、

    1. 試験・調査によって得られた結果
    2. 専門家、専門家団体若しくは専門機関の見解又は学術文献

によって実証されている事、となっています。これに当てはめると、血液型性格判断は、

「血液型と性格に強い関連がある」事は、1.と2.によって確認されていない、つまり「実証」されていない。よって、その命題は「科学で無い」と評価される。「装っている」に関しては、

  • 「ABO血液型」は生物学的概念で、学校教育の内容や、輸血に関する知識から、一般的にそれは周知されていると考えられる。
  • 「性格」は、人間の行動傾向のパターン、と一般に認識される。経験的に、それはある程度少数の類型や特性に分けられると考えられている。
  • 血液型性格判断は、これらが強く関連している、という言説である。血液型という生物学的概念と、性格という心理学的概念との結びつきに関する言明である。
  • 能見などの論者のように、「統計」を仄めかす場合がある。
  • そもそも、心理学的に研究されてきた言説である。
  • マスメディアによって、「実験」を仄めかして論証(もどきを)する場合がある。たとえば、幼稚園での実験もどき。

こういった諸々の条件から、科学と誤認させるに充分と評価して良いと考えます。

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2009年5月 6日 (水)

禁ずる

ゲーム禁止を「強要」するのはおかしいと思う。 姪っ子は小学3年生。新学期に入り... - Yahoo!知恵袋

なんと言うか、愕然としますよね。

禁止の理由も、どれも主観の域を出ていないですよね。いわゆる「起こり得る」事であって、コンピュータゲームに特有のものとは言いがたい。要するに、他の文化に較べてそういう悪影響を顕著に与える、というのは明確では無い。(ゲームが視覚の機能低下をもたらすというエビデンスは充分にあるのでしたっけ?)

今までは宿題をした後、30分~1時間程度ゲームをしていた様ですが、妹は納得したのでしょう。
先日「ゲーム機」「ソフト」を全て売り払いました。

子供は泣きながら「やめて」と言ったそうですが、これは親の考えですので私は何も言えません。

これはなあ。お子さんはどんな気分だったろうなあ…。質問者さんの意見が柔軟で適切ですよね↓

が、それは各家庭で取り決めをし、子供に理解・納得をさせた上で、時間を決めてゲームをさせる。
約束を破ったら、数日禁止。

これでいいと思うのです。

担任の先生が家庭の教育方針にまで踏み込んでゲームを禁止する(させる)、というのは やり過ぎでしょう。

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2009年5月 5日 (火)

スパムストーム

ゴールデンウィーク期間のスパムの鬱陶しさは異常。

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apjさんによるニセ科学まとめ

ニセ科学まとめ — Y.Amo(apj) Lab

apjさんによる、ニセ科学論のまとめです。

現時点で、よくまとまって参照しやすいものになっている、と思います。

関連エントリー

とりあえず作ってみた :: Archives

↑apjさんのエントリー

PSJ渋谷研究所X: 【種】apj版「ニセ科学まとめ」

↑重要な指摘

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2009年5月 4日 (月)

基本的なところから

インフルエンザ、あるいは感染症一般について、ある事無い事触れ回る人がおり、中には妄言に近いものすら見られる現状、基本の知識をおさらいしておくのは大変重要ではないか、と考え、これらの本を読んでみました。

ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ) Book ササッとわかる 感染症 (図解大安心シリーズ)

著者:岡部 信彦
販売元:講談社
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Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック Book Xデーにそなえる新型インフルエンザ完全対策ブック

著者:岡田 晴恵
販売元:朝日新聞出版
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かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学) Book かぜとインフルエンザ―日常生活の注意、予防、治療 (順天堂のやさしい医学)

販売元:学生社
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感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ) Book 感染症の科学―うつるしくみと予防 (メディカルサイエンスシリーズ)

著者:宮地 勇人
販売元:東海大学出版会
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いずれも簡潔にまとめられていて読みやすく、参考になる本だと思います(一番下は読書中)。

やっぱり大切なのは、「適切に怖がる」(PSJ渋谷研究所X: 適切に怖がるための「リスクとハザード」)事だと思うのです。楽観も過度の悲観も、よろしく無い。であるから、これまで対象に真剣に取り組んできた人達が蓄積した知識をよく参照する。

場合によっては、無知な人よりも、知識があると思い込んで、曖昧な情報を(善意であっても)人に勧めたりする方が害になる場合がありますね。感染症対策なんかは、特にそうではないかと思います。

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2009年5月 3日 (日)

参考に

「科学は自然の近似」について、以前、『ファインマン物理学』で同様の事が書かれてあるのを見た記憶がある、と言いましたが、確認しましたので、引用します。参考資料として見て頂ければ。※強調は原文ママ

 自然全体のなかの一齣,あるいは一部分というものは,完全な真理――といっても我々の知る限りにおける真理――に対する一つの近似に過ぎないのが常である.じっさい,我々の知っていることは,すべてなんらなかの近似である.というのは,我々はまだすべての法則を知りつくしているのではないということを承知しているからである.だから,これからいろいろいのことを勉強しても,それはやがて忘れてしまわなければならず,そうでないにしても,多くの場合,修正を加えなければならないのである.
ファインマン,レイトン,サンズ (坪井忠二訳) 『ファインマン物理学 力学』(P2)

ファインマン物理学 (1) Book ファインマン物理学 (1)

著者:ファインマン
販売元:岩波書店
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2009年5月 2日 (土)

えいちてぃえむえる

お知らせです。

コメント欄で、HTMLタグを使える設定にしてみました。

今までは、URLを入れれば自動でリンクするようになっていて、タグは使えないようにしていたのですが、コメントでもテキストを色々修飾出来た方がいいのかな、なんて考えまして。

という訳で、これからは、自動にリンクにはならないので、よろしくです。

使えるタグは、こちら↓ ここから引用⇒ブログ:ココログ:ココログサポート:使い方ガイド:2:コメント管理

コメント欄で使用できる HTML タグは以下のものとなります。

・リンク <a href=""> </a>
・ボールド <b> </b>
・イタリック <i> </i>
・改行 <br />
・最強調 <strong> </strong>
・強調 <em> </em>
・リスト <ul type="disc">
     <li> </li>
     </ul>

※「disc」のほか「square」「circle」や番号つきリストもご利用いただけます。

・段落 <p> </p>
・番号付きリスト <ol> </ol>
・引用 <blockquote> </blockquote>
・整形済みテキスト <pre> </pre>

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motion

BEYONETTA』のPVを観てスーパーハイテンションになった、のは先日書いた通りですが、このタイトルのスタッフブログに、こんなエントリーがありました⇒ベヨネッタのデザイン:モーション | BAYONETTA - ベヨブログ

や、開発中のタイトルに関してこういうのを紹介するブログがある、というのは素晴らしいですね。プロフェッショナルによるゲーム制作について垣間見る事が出来て、すごく興味深いです。

で、このリンク先のエントリーでは、ベヨネッタのアクションのモーションのつけかたについて説明されています。

モーション制作において一番心掛けたのはアクションゲームということもあり

レスポンスと爽快感!!いかに短いフレーム数で力の溜めと開放を表現できるかです。

ユーザーの立場からも、そうだよなあ、と思います。レスポンスそのものがいわゆる爽快感と密接に繋がっている、のもあるでしょうね。それと、後の方の、「力の溜めと開放を表現」というのは、すごく大事だと感じます。

私は武術に関心を持ってて、しかも格闘ゲームを17・18年やってきているので、そこら辺、結構気になります。

しかしベヨネッタ開発初期にはパンチやキックが1フレームで出るバージョン

(これは短期間でゲームの感じを掴む為に制作)というのを作ってテストしていたのですが

そのプレイ感覚が忘れられないらしく未だに神谷Dは『あの頃の方が良かった』って言うんですよね。

それじゃモーションいらねぇぇぇ!!って。

なるほどな、と。あまり正確に滑らかに動きをつけると、却って爽快さが損なわれたり、力を発していると言うか、攻撃が入り込んでいくような、そんな感じが少なくなってしまったり、もあるのかも知れません。

ここから私見。

上にも書いたように、格闘アクションでは、動きの滑らかさや再現の仕方、それから、力の溜め、発し方、などをよく見ます。で、ちょっと、既存の3D格闘アクションのタイトルを例にとって、自分はこう見た、というのを。

最も動きが滑らかで、動きと動きの繋がりが綺麗に見えるのは、『DEAD OR ALIVE』シリーズに思います。DOA2を観た時には、おお、と感じましたね。ただ、攻撃が当たった時が、入った感、があまり無い、と言うか。

そこら辺、いかにも力を発している感がよく出ているのが、『バーチャファイター』シリーズかな、と。特にアキラのは、なかなか。動作を止める時のモーションのつけ方が上手いのかな、なんて思ったりします。攻撃が、「バッ」と出る感じがしますですね。で、こちらの方は、動きの繋ぎ目などに、滑らかさが感じにくい。ぶつ切れのような、と言いますか。

で、こういうのって、アクションゲームだから、動きのつけ方そのものがゲームシステムと直結しているだろうから、色々トレードオフな関係があったりもするのかな、と思います。

それから、爽快感やスピード感と、攻撃の入った感(何じゃそりゃ)との関係、もありますよね。

動きのレスポンスを良くして、スピード感を出し、連続攻撃がサクサク入る、という系統のゲームだと、バッサバッサと敵をなぎ倒していくような、そういった爽快感が味わえる。無双シリーズなんかはそんな感じでしょうか。『DEVIL MAY CRY』とかもかな。

対して、なるだけ人間の動きを再現してモーションをつけるのもありますね。『モンスターハンター』辺りはそうだと思うのですが、あのゲームは、たとえば急停止のモーションがありますね。クルッと上手く回らないと、キュッ、という感じでストップする。これって、アクションゲーム的には、さくさくスピーディに動かす、という面から考えると、結構違和感を覚えたりするんですよね。だけれども、人間の動きの表現としてのリアルさを感じさせるし、やっていく内に、その動きをいかに「出さない」かがとても重要で、それがゲームシステムと密接に関わってくるのが解ってくる。ターンに失敗して急停止→レイアのブレス→死亡 というコンボとかね。

それと、モンタは、いわゆるさくさくという意味での爽快感はあまり味わえないけれども、ヒットストップを結構取ってあるから、攻撃が入った時の感じというのが、実に爽快。あのゲーム、「武器の重さ」を感じさせ、やり始めはそれが鈍重に思えたりするのですが、慣れてくると、ばしっと攻撃が入った時の感覚が堪らない。ここら辺、カプコンの2Dアクションを踏襲(ストII辺りから)しているのかな、なんて思ったりするのですが、よく知りません。

こういったのも、トレードオフ、と言うか、どういった方向性でゲームを作っていくか、で色々選択され、組み合されていくものなのでしょうね。

ところで、上でちょっと書いた、人間の動きの急停止の話ですが。

先日、FF13の体験版の映像を観たんですけど、あれも、キャラクターが方向転換する時に、キュッ、と動きが止まりますね。あれを観て、ほう、と思いました。

と言うのも……

アクションゲームでは、モンタの例のように、そういう動きが不利な状況になったり、とアクションゲームとしてのシステムに関わって面白さを演出する事になりますけれど、RPGでは、そういうモーションをつけると、逆に煩わしくなる可能性があるんですよね。

アクションゲーム性の低いRPGでは、キャラクターを動かす場面は一般に、フィールド移動などで、そういう場面では、キャラを動かしてフィールドやダンジョンを探索するのが主目的だから、動きに細かさ(人間の動きに近いという意味で)を入れると、却ってストレスが溜まる場合も考えられる。

だけれども、現在のように、キャラクターのモデリングが精密になり、あるいはフォトリアル方面になったりすると、既存の動きのままでは、「人間の動き」としての違和感を覚える。ほら、RPGって、レバーをニュートラルにした瞬間にキャラクターが直立したりするじゃないですか。それです。私の場合だと、FF10辺りからこういう事を考えていたのですが(もう8年も経つのか…)、そういうのもあって、FF13を観て、おお、と感じたのでした。入れてきたのかあ、と。いかに操作に煩わしさを感じさせずにああいったモーションを組み込んだのか、興味がありますね(やった人の感想希望)。

という訳で、モデリングが「人間らしさ」を想起させるような精密なものになってくると、「動き」の正確さの再現が低いと、ものすごく違和感を覚える場合がある、という事なんですよね。で、動きを再現しようとすると今度は、ゲームシステム上都合が悪くなったりする。そこら辺をいかに折り合いつけて演出していくか、というのが重要なんでしょうね。特に、リアル志向のFPS辺りだと、いわゆる「動きの不自然さ」というものがあると、大変目立つように思います。だからこそ、すごくモーションのつけ方が丁寧なのかな、なんて推察したりします。

そこら辺の観点で考えても、BEYONETTAはよく出来ているなあ、と直感してテンションが上がったのでありました。

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2009年5月 1日 (金)

かかってき給え

うさぎ林檎さんっ!

天ぷらにソースはデフォルトですって!!

あれです。全く気を遣わずに混ぜて粘りが出まくった衣をつけて揚げたイカの天ぷらにウスターソースですよっ。

↓天ぷらにソース派 VS 天ぷらにソース(笑)派 の論争が。私はソース一派だ。

ちなみに私、揚げ物やハンバーグに おろしポン酢上等派、なので、みつどん&黒猫亭連合と戦う運命にあるのですが、ひとまずその戦いは措いておく事にしませう。

タイトルごめんなさい、マジで。皆好きな物食べればいいじゃないですか、はは・・・。

ネタ元:ルールは破るためにある。 - みつどん曇天日記

 天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線 天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線
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プラセボフォルダ開放

需要があるかは判りませんが、ブラセボってなあに、的な記述があるサイトのリンクをいくつか紹介します。

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余談ですが。

色々考えてみて、いわゆるプラセボの事を、今度から、「擬薬」と表記しようかな、なんて思っています。

理由は、「偽薬」の「偽」よりも、「擬薬」の「擬える」の方が、用いられる目的をよく言い表しているように思うし(多分に個人的な語感の気もするけれど)、語に「薬」が入っているから、「プラセボ」のように、有効で無いと判っている方法一般(手術とか)に敷衍する事が出来ず、あくまで「薬を擬したもの」、という意味を伝えやすい、と考えるから。「プラセボ効果」よりも、「擬薬効果」の方が、字面からも意味を取りやすいようにも感じます。

という訳で、今後はそれを用いるかも知れません。もちろん、文脈によってプラセボという語も使うでしょうけれど、ちょっと気をつけてみようかな、と。

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