科学とフィクション
私は、フィクションにおける表現は、自由であるべきだと思っています。
だけれど、触れる人が、何がフィクションであるかを知っている、つまり判断出来る事が重要だとも考えています。
で、その知識は教育によって得られます。広く見れば、社会全体によってなされると考える事が出来るでしょうけれど、最も重要なのは、学校教育だと思います。
フィクションって、そこで描かれているあらゆるものがニセモノな訳じゃ無いですからね(当たり前だ)。いかにも尤もらしいものに関しては、部分的に正しいものとして捉えられたりする。それが正しいものとして流布されれば、ある程度大きな影響となりますよね。
フィクションだから大目に見ようよ、というのはご尤もです。しかし、フィクションといえど、誤解されそうなものがあれば、それを指摘するのも重要。それをもって作品全体を否定するのは考えものかも知れませんが、この部分は正確では無い、と見ていくのは大切ですよね。そういった指摘に対してただちに、野暮であるとか無粋であるとか、そういう風に言ってはよろしく無いと思うのであります。
私の立場は、フィクションで描かれているものはほぼ全て正確では無いと看做す、というものです。極端に言うと、我々が住む世界とは全く異なった世界の出来事として考える、というのかな。
気になる所があったら、ネットで調べるなり、詳しい人に聞くなりします。図書館で専門書を探したりね。必ずしも、その場で見抜くのでは無く、基本的に保留する、と言いますか。基本的な部分(小・中・高 で習うような事)は見抜ける能力を養って、知らない分野については保留する、という態度が重要だろうな、と。
自分は、すさまじくフィクションに親しんだ上で、科学にも興味を持ったので、多分メタに考える事が出来ている、と思っています。でもそれは、せいぜいここ5・6年の話ですね。それまでもかなり客観的ではあったと思うのですが、まだ足りなかった。
もちろん、色んな作品に触れるのもすごく大切、だと思います。様々なバリエーションがありますからね。それを分類して、これとこれはこう分けられる、これはあの作品に似てる、なんてメタな楽しみを自然に(いつの間にか、の意)身に着けていました。特に、マンガやゲームだと、同時並行的に楽しむ、というのが普通ですからね。スイッチを切り替えるように、別の世界観に頭を合わせる事が出来る訳です。
結局の所、色々な作品に触れつつ、どこが現実と異なっているかを見抜ける知識を得、よく知らない部分に関しては保留出来る姿勢を作り上げる、のが肝要なのかな、と思います。
中でも最も重要で基本的なのは、物理と化学の知識でしょうね。自然の振る舞いを客観的に記述する自然科学の基盤、なので。
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コメント
私は、あまりに突飛な(というか理不尽な)設定だと、「フィクション」過ぎて入り込めなかったりします。
些細な理由の拒絶反応で楽しめない、というのが正しいのかな。
そこの「突飛な設定」と感じる部分も極端に主観的なんですけど・・・(例えば、ウルトラマンとかOKだけど、亡国のイージスとか全くダメ。)
投稿: トンデモブラウ | 2009年4月 6日 (月) 09:05
トンデモブラウさん、今日は。
自分がある程度詳しく知っている事についてのものだと、気になったりしますよね。私の場合、武術関連の設定には気がついたり。
尤も、それを中心的に位置付けているかどうかによっても違いますね。武術が柱のフィクションで無ければ、許容出来たり。
SFなんかだと、ギリギリあるっぽい、という設定が求められたりするのかな。私はほとんど読まないのでよく解らないですが、書かれた当時の知識を踏まえた「上手なウソ」があれば、唸るような気がします。
投稿: TAKESAN | 2009年4月 6日 (月) 12:06
これは難しい話です。
まず、大半のフィクションは考証(時代、科学など)が酷いことになっています。
これを指摘すると作品そのもの(あるいは作品の鑑賞者)まで否定されたかのような反応があるので、ややこしいことになります。
例えば私の日記で書いたフィクションの銃の話の反応にもあったように。
フィクションで伝わった知識は、結構信じられてしまいます。特にそれが考証部分だけは事実であるかのように語られると信じられてしまいます(『聖書の暗号』は典型例)。
私の考えは「誤解を呼びそうな、真に受ける人が多い間違いや嘘は誰かが指摘しておくべき」というものです。
感覚的なものなので、この判断にもかなり個人差がありそうですが。
投稿: 町田 | 2009年4月 6日 (月) 18:47
上の『聖書の暗号』は『ダヴィンチ・コード』の間違いです(どっちもトンデモですがフィクションかどうかでえらい違い)。
失礼しました。
投稿: 町田 | 2009年4月 6日 (月) 18:49
町田さん、今晩は。
そうですね。指摘される事即ち作品そのものを否定、と取る場合もありますよね。町田さんのエントリー に対する反応は私も見ましたが、うーん、そう読むのか、と思いました。
私は、前に便乗エントリー(刀の持ち方のやつ)で、
▼▼ここから▼▼
注意事項
剣術の流派は、数え方によっては数百もあると言われており、当然、かなり特殊な操法を採用しているものもあるでしょう。ここでは、平均的に見られる操法を基準として書きました。
もちろん、知っている人から見て甘い描写があるからといって、即その作品の価値が下がる訳ではありません。それは、剣を扱う事に関して、作品中でどういう重み付けがされているか、という部分と関わってくるでしょう。
▲▲ここまで▲▲
こんな但し書き的なものを添えたのですが、これも、作品を否定されると感ずる人のためにあらかじめ書いておきたい、という意図からでした。
▼▼▼引用▼▼▼
私の考えは「誤解を呼びそうな、真に受ける人が多い間違いや嘘は誰かが指摘しておくべき」というものです。
▲▲引用終了▲▲
同感です。
私の興味のある分野で言うと、武術の誤りなんかは、相当あるでしょうね。格闘アクションゲームの設定部分を信じたり、マンガや小説での描写を真に受けたり。中国武術なんか、誤解はものすごいんじゃないかな、と推測。
私としては、こういう所で何でもアリの描写をして楽しむためにも、誤りを指摘するのは重要だと思ってます。フィクションを楽しみたいんですよね、否定じゃ無くて。
投稿: TAKESAN | 2009年4月 6日 (月) 20:16
「民明書房」ときたら、とりあえずそんな本は無いと。
投稿: apj | 2009年4月 6日 (月) 23:53
フィクションに書かれていることを「それは実際とは違う」と指摘するのは、実際はその作品の価値を貶めることでも、やぼなことでもないんじゃないか、とか思ったりします。違っていても、うそでも、基本的にその評価軸は「上手な(面白い)うそかどうか」にあると思うので。荒唐無稽でも面白ければそれでいいし、リアルな描写の小さな瑕疵でもそれが全体を台無しにしていれば「下手なうそ」ですよね。
わりとちいさなころからSF読みで、そう云う角度でフィクションと云うものに触れることになじみがあるから、そう思うのかもしれないですけど。
投稿: pooh | 2009年4月 7日 (火) 08:05
apjさん、今日は。
私自慢じゃ無いですけど、民明書房経由の知識を本物だと信じた事がありますよ(笑)
後、ゆでたまご(作品の)知識とか。
------
poohさん、今日は。
やはり、重み付けがポイントなんじゃないかと思います。物語においてどういう位置づけなのか、という。武術マンガなのに動きの描写があまりに稚拙だと、やっぱりそれはダメだ、とか。
投稿: TAKESAN | 2009年4月 7日 (火) 11:58
こんばんは。
以前Momongaの名前で書き込んでいた者です。名前の表記を統一いたします。
フィクションの嘘については、SFよりも、歴史上の事実を扱っていると思われがちな歴史物の方が問題が大きいように思えます。
勿論、感じ方には個人差があって、以前kikulogにも書いたことがありますが、私などは建築史的なあからさまで下手な嘘があると、かなり気になってしまいます。単なる背景程度なら良いのですが、主要な舞台でそんなことがあるとがっかりしますね。
逆に、嘘が上手く物語に嵌っている場合は感心します。
ですから、自分が詳しくない分野でもそうした「実際とは違うのだ」との指摘があって欲しいと思います。その結果、その嘘が面白ければ「上手いな」とより高く評価できるようになる訳ですし。
一方、物語において重要でない部分についての誤りであっても、その質と量は作品の評価に関連するのではないでしょうか。
重要でない部分とはいえ、誤りが多ければ評価は低くなるように思うのです。私には、(科学的なものにせよ、歴史的なものにせよ)誤りの量的・質的な多さは“重要な嘘”を支えるための考証に余り労力を割いていないことをうかがわせ、物語全体の説得力を大きく削ぐ原因となっているように思えるのです。
こうした瑕疵は、積極的・意図的な嘘とも言えないものかもしれませんが、物語の出来不出来を判断する指標の一つになるのではないかと考えています。
投稿: 摸捫窩 | 2009年4月 8日 (水) 02:44
こんにちは、皆さん。
半村良という伝奇小説、SF小説作家がいまして、「大きな嘘を付くときは、細部をリアルに書かないといけない」という名言を残しています。
例えば「庄ノ内民話考」というのを書いたときに、実在のローカルな鉄道線の駅名をトントンと並べ、そのうち一つの駅から架空のありそうな名前の鉄道線をつくりあげ、そこにもありそうな名前をトントンとリズム浴並べて、「たどり着くのが庄ノ内である」とする訳です。でもってそこに有るという自作の民話をSF的に解釈していく訳ですね(笑)。実はこの話には最初から種明かしがしこんであるんですね。「庄ノ内」は「しょうのうち」と読んではいけないんです「しょうのない」民話なんですね(笑)。
半村良の小説なんかは「嘘に酔わせる」力がある気がします。嘘部なんていう架空の職能集団を創造したりするんですが、そこの小説に使われている名字の由来のほとんどは事実なんですね。その中にポツンと嘘を混ぜると、なんとなく、とても真実味を帯びる訳です(笑)。
投稿: 技術開発者 | 2009年4月 8日 (水) 13:00
摸捫窩さん、今晩は。
そうですよね。自分が詳しく無い分野について指摘されたものがあれば、大変参考になります。町田さんが書かれた銃器の扱いについてのエントリーも、ためになりました。
もちろんそれで、不正確な描写がある→即ダメだと看做す のでは無いのですよね。町田さんもそう書いておられましたが、しかし誤解も出てきたり。
論理的な整合性も関係しそうな気がします。全体的にウソで塗り固められていても、その内部で整合していれば、それなりの説得力を感ずる、と言いますか。
------
技術開発者さん、今晩は。
あ、半村さんの作品は、何作か読んだ事があります。『亜空間要塞』とかだったかな。
大分前だったので、もやは作品のストーリーも憶えていませんが、子どもながらにすごく楽しんだという記憶がありますね。
▼▼▼引用▼▼▼
「大きな嘘を付くときは、細部をリアルに書かないといけない」
▲▲引用終了▲▲
これは良い言葉ですね。
投稿: TAKESAN | 2009年4月 8日 (水) 23:52
私は、文芸系のフィクションの小説はほとんど読まず、科学物、語学系、文化人類学系をもっぱら読んでいますが、たまに息抜きにSF小説を読んでいます。
SF小説においては、作家の構築したSFの世界<現実とは違う「仮定の世界」:現在の理論(正しいかどうか問わず)とは違う世界、異次元の世界>を味わうことになりますが、その世界に酔えるのは、そのSF世界で構築された中でも、その理論及び次元(理論)が破綻無く話が進んでいくか?が問題で、破綻すると、読めなくなります。
「仮定の理論」が大事かと思います。
SF小説の中では、ジェイムズ・P・ホーガン、神林長平のファンですが、1年半ほど前読んだホーガンの「聡明の星」(「揺籃の星」の続編)は、宇宙人の<荒唐無稽な世界観>について行けなくなり、神林の「帝王の殻」は、その前の「あなたの魂に安らぎあれ」は抵抗なく読めた筈なのに、その続編の物語の<前提条件>が掴めず、両方とも途中で読めなくなり、そのままになっています。
手塚治虫のSFマンガも好きですが、初期のマンガは、そのストーリー展開に必然性が無く、どうも読みづらく、あまり読んでいません。
投稿: mohariza | 2009年4月 9日 (木) 03:58
moharizaさん、今晩は。
▼引 用▼
そのSF世界で構築された中でも、その理論及び次元(理論)が破綻無く話が進んでいくか?が問題で、破綻すると、読めなくなります。
▲引用終わり▲
そうですよね。世界観の整合性、と言いますか。尤もらしさの重要性。
実は、神林長平氏の本は読んだ事が無いのですね。こちらでもちらっと話題に出たりするので、その内読んでみたいと思っているのですけれども。て言うか、小説自体をほとんど読まなかったり(笑) フィクションは、ゲームとマンガが専らで、小説は、森博嗣さんくらいです。昔は赤川次郎さんをよく読んでいましたが。
投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 21:13