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2009年4月 9日 (木)

不明確

疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記

解りにくい所があるので、いくつか質問します。

  • 「ウェブで見かける疑似科学批判」とは具体的にどのようなものを指すのか。
  • 「レッテルの帰属」とはどういう意味か。(特に「帰属」)
  • 「彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。」
    • 「志の高さ」とは何か。
    • 「いま」とはどのような範囲を指すか。
    • 「一般的な擬似科学批判」とはどのようなものか。

なるほど、江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張するとしたら、矜持を感じる。それを非難するつもりはない。しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか。

・「それでよいのか」とあるが、「それ」はそもそも当たっているのか。

臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。

見つけたら教えて下さい。私も見てみたいので。ただ、「科学のみが真理」などと馬鹿な物言いをする人間を見つけるのは、なかなか難儀とは思いますけれども。そもそも、常にアップデートされている、つまり変化していく(全くの別物に変容する訳では無い)知識の体系、およびそれにまつわる知的営為である科学について「真理」などと言える訳が無いので。科学のみが真理、と認識するのは、科学は完成された、と考えるに等しい。

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

ニセ科学批判は、

江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張

などというものではありません。寿司のアナロジーに乗っかると、江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する、ようなものです。※アナロジーなので、不正確な部分はあるかもですが

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

トラックバックありがとうございます。簡単にコメントいたします。

> 「ウェブで見かける疑似科学批判」とは具体的にどのようなものを指すのか。
具体例を挙げるまでもないと思います。

というのは、『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』ではない疑似科学批判が、ここで私が批判しているものであり、ウェブ上に疑似科学がいくらかは存在し、他方で『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』の疑似科学批判がほとんど存在しないことはTAKESANさんも同意されているようですから、『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』ではない疑似科学批判がいくらかは存在していることをTAKESANさんはお認めになるだろうからです。

しかし、いちおう具体例を挙げておきます:
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html


> 「レッテルの帰属」とはどういう意味か。(特に「帰属」)
疑似科学が自らを「科学」あいは「科学的」と表現する、ということです。


> 「志の高さ」とは何か。
もちろん、文脈から分かるように、論理実証主義者が知識・事実・命題の基準として検証主義を唱えた(『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』をした)、その思想です。


> 「いま」とはどのような範囲を指すか。
2009年とそれ以前の数年。


> 「一般的な擬似科学批判」とはどのようなものか。
『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』をしない疑似科学批判。


> 「それでよいのか」とあるが、「それ」はそもそも当たっているのか。
『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言い』をせず、疑似科学が自らを「科学」あいは「科学的」と表現するかどうかにこだわっていることのアナロジーなのですから、そのアナロジーが適切かどうかはともかく、意図しているところはあたっているでしょう(少なくとも、『「科学のみが真理」などと馬鹿な物言いをする人間を見つけるのは、なかなか難儀』とTAKESANさんはお認めになられています)。


> 寿司のアナロジーに乗っかると、江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する、ようなものです
そう読み替えていて結構です。


私が疑似科学批判に不満があることについて、別の表現をすれば、なぜ「検証」なり「反証」なり「実証」なりに価値があるのかを説明していない、ということです。そして、私は、それを説明するまでもなく明らかなことだというのでは納得できません。もっとも、説明などできない、価値などないからだ、といのであれば理解はできます。

投稿: mizusumashi | 2009年4月 9日 (木) 19:24

mizusumashi さん、

>私が疑似科学批判に不満があることについて、別の表現をすれば、なぜ「検証」なり「反証」なり「実証」なりに価値があるのかを説明していない、ということです。そして、私は、それを説明するまでもなく明らかなことだというのでは納得できません。

大抵のニセ科学は、「実証」は大事だと言っているんじゃないでしょうか。ところが、その実証と称するものが全く実証になっていないという技術的問題を持っているわけです。このような場合の批判では、「実証」の価値はニセ科学側も理解しているので、説明する必要はなくて、技術的間違いを指摘すればよいでしょう。

もちろん、「実証」など不要だというニセ科学ならば、「実証」の価値を説明せねばなりませんが、そういうニセ科学の実例は私には思いつきません。

投稿: zorori | 2009年4月 9日 (木) 20:56

mizusumashiさん、今晩は。

大部分、意味が取れませんが、つまり、論理実証主義者は「科学のみが真理」という物言いをする(した)という事でしょうか。

ところで、菊池教授のテキストを示されたという事は、「ニセ科学」という概念の意味はご存知ですね?

 >そう読み替えていて結構です。

読み替え、とは?
▼引   用▼
江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張
▲引用終わり▲

と、私が書いた

▼引   用▼
江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する
▲引用終わり▲
が同じ意味である(同じ意味と取って差し支え無い)、という事でしょうか。
だとすれば、「ニセ科学」の概念について誤解があるかも知れません。

▼引   用▼
私が疑似科学批判に不満があることについて、別の表現をすれば、なぜ「検証」なり「反証」なり「実証」なりに価値があるのかを説明していない、ということです。
▲引用終わり▲
それは、ニセ科学の批判とは関連しつつも違う文脈だと思います。もちろん、その事を説明するのが重要、という所に異論はありませんが、それは「科学」の話です。

そして、お書きのエントリーから、それを読み取る事は難しいです。「別の表現」と言うより、「別の話」に見えます。

ニセ科学は、科学的に確かめられていないにも拘らず、科学的に実証された、と言ったり認知されているものです。従って、「ニセ科学を批判する」とは、科学の手続きに照らし合わせて不充分である事を示す、となります。
そもそも科学において実証等がなぜ重要か、というのは、科学哲学等の文脈と思います。

江戸前寿司を騙って違うものを出す行為を批判する際に、必ずしも江戸前寿司の技法の正当性(あるいは正統性)を説明しなくとも良い、という事です。

釘を刺しておきますが。
ニセ科学批判は、検証出来ないものを「科学で無い」と批判してまわる事「では無い」、というのはご理解下さい。

投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 20:57

zororiさん、今晩は。入れ違いになりました。

仰るように、ニセ科学を主張する人の大部分は、実証というプロセスは重要と考えているでしょうね。ゲーム脳にしろ水伝にしろ、あるいは血液型性格判断にしろ、実証した、と言っているのですから。

mizusumashiさんが仰っているのは、もっと一般的な、そもそも科学において実証が重要なのは何故か、の説明が欠けている事がご不満、という事のようです。
上に書いたように、私はそれは、文脈の違うものなのだと思いますけれども。

尤も、科学において実証が大事である、のを説明していない事も無いと思うのですが、どうでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 21:04

レスポンスありがとうございます。

zororiさん
> 大抵のニセ科学は、「実証」は大事だと言っているんじゃないでしょうか。ところが、その実証と称するものが全く実証になっていないという技術的問題を持っているわけです。

よく批判される『水伝』が、たんに実証したことを装っているだけではなく実際に「実証が大事だ」と主張しているのかどうかは疑問ですが、私は『水伝』にあまり詳しくないので、実際に主張しているかもしれません。

いずれにせよ、「実証が大事だ」と主張しつつ、自らはその努力をしていないのであれば、それは言行不一致であり、批判されるべきでしょう。しかし、たかだかそれだけのことであれば、それはマスコミが芸能人の詐称を問題にするのと何が違うのでしょうか。


TAKESANさん
> それは、ニセ科学の批判とは関連しつつも違う文脈だと思います。もちろん、その事を説明するのが重要、という所に異論はありませんが、それは「科学」の話です。

別の話だというのであれば、それはそうなのかもしれません。

他方で、その「別の話」を説明しない限り、たんなるセクショナリズム(縄張り意識)にすぎない、ということを私は述べています。もっとも、まさに縄張り争いが疑似科学批判の意図しているところであるというのであれば、縄張り争いであるかぎりで疑似科学批判は妥当なのかもしれません。

> 江戸前寿司を騙って違うものを出す行為を批判する際に、必ずしも江戸前寿司の技法の正当性(あるいは正統性)を説明しなくとも良い、という事です。

はい。それを説明する義務はありません。しかし、その正当性を主張しなければ、それはたんなる縄張り争いではないでしょうか。

> ニセ科学批判は、検証出来ないものを「科学で無い」と批判してまわる事「では無い」、というのはご理解下さい。

私には、それを踏み越えているように思えます。マイナスイオンをうたった製品の業者がすべて「科学的だ」と主張しているのでしょうか。疑似科学批判、ニセ科学批判は、実際には「一般人に科学的だと誤認されそうな振る舞いをしているもの」を批判しているように思います。とはいえ、その点については踏み込みません。

いずれにせよ、科学を装っていれば「科学で無い」と批判するのに、科学を装っていなければスルーするというのは、縄張り争いか、芸能人の経歴詐称を非難するという程度以上に正当化できるのでしょうか。

----
たぶん細かいことですが。

> ▼引   用▼
> 江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張
> ▲引用終わり▲
>
> と、私が書いた
>
> ▼引   用▼
> 江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する
> ▲引用終わり▲
> が同じ意味である(同じ意味と取って差し支え無い)、という事でしょうか。

はい、そうです。もっとも、*厳密にいえば* 意味は異なるでしょうが、アナロジーとしては置換可能だと考えています(「1+1=2」のように明白だというのと「1+2=3」のように明白だというのでは、厳密にいえば意味は異なるだろうがアナロジーとしては置換可能だ、というように)。

投稿: mizusumashi | 2009年4月 9日 (木) 22:04

>mizusumashiさん

まず、mizusumashiさんの主張を確認しておきたいと思います。
mizusumashiは「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ」と書かれましたが、これは、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」が書かれるべきだ――ないし、そのような主張をするのが本当の「疑似科学批判」だ――という主張でしょうか。

--------------------
さて、以下は、私個人の感想です。私は「ニセ科学批判者」と他者から名指された事はありますが、継続的に「ニセ科学批判」にコミットされている方々とは、言動も考え方もだいぶ異なっている人間であると自覚している者です。

mizusumashiさんが「科学を装っていれば“科学で無い”と批判するのに、科学を装っていなければスルーするというのは、縄張り争いか、芸能人の経歴詐称を非難するという程度以上に正当化できるのでしょうか」と書かれている意味で、私は「ニセ科学批判」を「縄張り争い」と見なされても特に異論はありません(この点について、多くの「ニセ科学批判者」たちは異論があるだろうとは思いますけど)。
ただ、「ニセ科学」が「科学」の「縄張り」を蹂躙する事がどれほど私たちの社会の脅威であるのかは、強く訴えていきたいと思っていますし、その点についてはまだまだ、あらゆる意味で不十分であり、力不足を感じています。

「科学を装っていなければスルーする」という点については、『ニセ科学批判まとめ %作成中』内の「ニセ科学でないものは批判すべきでないのか?」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html#id_26a6bacf
や「そんなやり方じゃダメだよ…"批判の仕方"批判(もっと他に大事なことがある )」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html#id_346a758f
を参照いただければと思います。
ちなみに、私はたぶん極端な反宗教主義者・宗教根絶主義者ですが、それに関する主張を「ニセ科学批判」に絡めてした事はありませんし、しようとも(現在までのところ)思いません。また、「科学のみが真理である」という主張を(「真理」の意味する内容にもよると思いますが)した事はありませんし、しようとも(現在までのところ)思いません。

投稿: 田部勝也 | 2009年4月 9日 (木) 23:01

 >たかだかそれだけ

たかだか、ですか。

 >置換可能

私はそうは思いませんけれども。

シンプルな質問をしますが。
▼引   用▼
いずれにせよ、科学を装っていれば「科学で無い」と批判するのに、科学を装っていなければスルーするというのは、縄張り争いか、芸能人の経歴詐称を非難するという程度以上に正当化できるのでしょうか。
▲引用終わり▲
ニセブランド品を売りつけたり、エンブレムが酷似しているものについて正規品で無いと指摘する、のは社会的に重要な事ではありませんか?

たとえば、ゲーム脳説は、主唱者が実証したと言っていて、しかも、今も教育の現場で用いられているものです。これを「科学的に実証されているように謳っているが、実はそうで無い」、と批判するのは重要では無いのでしょうか? これは、教育に直接関わる事ですし、ホメオパシーなどは、医療に関連します。

後、余談。
芸能人の詐称を指摘する事、それはそれで重要だと思いますけれど。

投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 23:01

田部勝也さん、今晩は。

「縄張り争い」というのは、それをどう意味づけるか、によると思います。仮に、ニセブランド品を正規品では無いと指摘するのも「縄張り争い」という語で表せるとするのなら、ニセ科学と科学との関係は、縄張り争いと言っても別に良いとは感じます。

ただ、語感として、色々な意味が付与されそうですし、辞書的な意味と照らすと、当たらないように見えるので、敢えてそんな言葉を使う事も無い、と思います。

紛らわしい看板を掲げているのを指摘するのを、普通は縄張り争いとは言わないかな、と。別に言いたければ言えばいいと思いますけど、いずれにしても、ニセ科学とは科学を装うもので、ニセ科学批判とは、それを批判する事です。それを敢えて慣用句でたとえる必要も無い訳で。

------

mizusumashiさんの仰りたい事は、補足エントリーも含めて何度か読み返し、ようやく解りつつあります。

要するに、何かを擬似科学として批判するのなら、宗教等も「真理で無い」として批判するくらいの気概を見せてみろ、という事でよろしいですかね。つまり、科学が真理であり、その立場から他の文化も否定してみせろ、と。
そうであるならば、
▼引   用▼
臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。
▲引用終わり▲
と書かれた事も、確かに理解出来ます。

しかし、何回か書いたように、そんな事を言う人はいないでしょうね。
具体的には、中谷博士の『科学の方法』辺りの立場を採る人が多いと思います。

それから、多分mizusumashiさんは、「ニセ科学が科学になる可能性がある」、という論理を把握しておられないですね、多分。

投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 23:29

mizusumashiさんはじまめして
申し訳ありませんが僕にはmizusumasshiさんの
言いたい事が理解できません(読解できない)

例えばここでの最初のコメントに
>私が疑似科学批判に不満があることについて、別の表現をすれば、なぜ「検証」なり「反証」なり「実証」なりに価値があるのかを説明していない

具体例にあげられた菊池さんの「ニセ科学」入門の7で
>科学の発展は仮説と実証の積み重ねであるから

と簡素に必要にして十分な記述がありますが、説明と
なっていないという事でしょうか。

投稿: tune | 2009年4月 9日 (木) 23:40

tuneさん、今晩は。

横レス失礼します。

恐らく、ですが。

mizusumasshiさんの仰りたいのは、科学に実証が重要である、というのを説明するだけでは無く、「何故科学では実証が重要なのか」も擬似科学批判においてはなされなければならない、という事なのかな、と。(あるいは、そうで無いと「縄張り争い」に見えるよ、と)

つまり、意味の検証理論であるとか批判的合理主義であるとか、あるいはプラグマティズム等の哲学的観点から、そもそも科学では実証が重要である、というのを説明すべきだ、というのを言われたのだと思います。
これは、真理観とか実在観とか、そこら辺も関わってくる哲学的・科学哲学的問いですよね。

で、私は、それはまた別の話ですよね、と書いたんですよね。つまり、ニセ科学は元々、科学に依存しているものな訳で、それを批判するのが目的。ですから、科学そのものの正しさとか、それは異なる文脈。

にも拘らず、mizusumashiさんは、「ウェブで見かける疑似科学批判」と絡めて書かれた。なので、恐らくニセ科学という概念もあまりご存知無かったのだろうな、と思いました。

------

当然、ニセ科学を批判する際に、どうして実証が大切か、というのを説明する事もあるのですよね。別に科学哲学的な一般論で無くても、統計の話をするのもそうだし、臨床試験(ブラインドテストの方法等)を説明するのもそう。で、そこに着目して説明すれば、「科学の方法」の解説になるので、別の所ででも行えば良いのだと思います。

もちろん、それを同時にする、あるいは、目につく所にまとめておくべきだ、と言うのは一つの見解だろうとは感じます。

投稿: TAKESAN | 2009年4月10日 (金) 00:02

レスポンスありがとうございます。

---
田部勝也さん

> まず、mizusumashiさんの主張を確認しておきたいと思います。
mizusumashiは「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ」と書かれましたが、これは、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」が書かれるべきだ――ないし、そのような主張をするのが本当の「疑似科学批判」だ――という主張でしょうか。

いえ、それは文字通りの意味では、たんなる願望です。私の主張は、ほとんどのウェブでみる疑似科学はセクショナリズム(縄張り争い)に留まっている、とういものです。

ただ、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」というのを、それを肯定的な視点で書いたのか、否定的な視点で書いたのかは、補足しておく必要があるように思います。

これは、肯定的な意図で書きました。

私自身は、「科学のみが真理」「検証可能な事実のみが事実」といった考えにコミットしていませんし、宗教はともかく、道徳一般を罵倒するつもりはありません。しかし、「実証」「検証」「反証」になぜ意味があるのか、私たちはなぜ疑似科学ではなく科学に基いて思考し、政策を考えるべきか、ということについて疑似科学批判が十分な説明を行っていないことに不満があります。つまり、科学というものの価値へのコミットメントが、縄張りを守ろうとする忠誠心と大差ないものとしてしか表明されていない、ということに不満を感じています。そのような方向性ではない、縄張り意識以上のコミットメントの極端な例として、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」を挙げたわけです。

----
TAKESANさん
> ニセブランド品を売りつけたり、エンブレムが酷似しているものについて正規品で無いと指摘する、のは社会的に重要な事ではありませんか?

たぶん、もう回答する必要もないことだと思いますが、いちおう回答いたします。健全な商取引を保護するために重要なことだと思います。

> 要するに、何かを擬似科学として批判するのなら、宗教等も「真理で無い」として批判するくらいの気概を見せてみろ、という事でよろしいですかね。

はい。私は、「科学のみが真理」「検証可能な事実のみが事実」といった考えそのものにはコミットしていませんので、ひとつの極端な例として出しましたが、そういうようなまさに「気概」を持って欲しいとは思っています。

----
tuneさん
> 具体例にあげられた菊池さんの「ニセ科学」入門の7で
> >科学の発展は仮説と実証の積み重ねであるから

私の書き方が悪かったのかもしれませんが、それは「これが科学のやり方だ」という以上の説明には思えません。たとえば、人によっては「芸術の発展は、空想の積み重ねである」というかもしれません。ではなぜ、空想の積み重ねによる主張を、科学的だとしてはならないのでしょう。その説明では、「それは、科学のやり方ではない」という以上のことは言えないのではないでしょうか。そういう説明だけでは、セクショナリズムになってしまう、ということを申し上げているのです。

----
再び、

TAKESAN さん
> つまり、意味の検証理論であるとか批判的合理主義であるとか、あるいはプラグマティズム等の哲学的観点から、そもそも科学では実証が重要である、というのを説明すべきだ、というのを言われたのだと思います。

概ね、そのとおりです。ただ、私はそこまで説明するべきだとまでいっているのではなくて、それを説明しないとセクショナリズムに留まるということを言っています。

> で、私は、それはまた別の話ですよね、と書いたんですよね。つまり、ニセ科学は元々、科学に依存しているものな訳で、それを批判するのが目的。ですから、科学そのものの正しさとか、それは異なる文脈。

繰り返しになりますが、それが別の話であるということを否定してはいません。ただ、それを一緒にしないと、(その表明されている範囲では)セクショナリズムに留まる、ということを言っているに過ぎません。

投稿: mizusumashi | 2009年4月10日 (金) 00:43

すみません、「セクショナリズム」、「縄張り争い」を、具体的に説明して下さい。はっきり言って、意味が解りません。

エントリーを上げるなり、ここに書くなり、どちらでもよろしいですので、きちんとご説明下さい。

説明といっても、一般に用いられる定義をただ示すのでは無く、ニセ科学批判の具体例と結びつけて説明して頂きたい、という事です。

ああ、訊き方をちょっと変えます。

mizusumashiさんは、

ニセモノのブランド品を本物だと言って売っている、その行為を、「それはニセモノだから注意せよ」と指摘・批判する

のを、「セクショナリズム」、「縄張り意識」と看做しますか?

これは、答えるのは容易かと思います。

で、「留まる」とはどういう事でしょう。留まるも何も、という感じですけれども。

そもそも、本当に、ニセ科学という概念について調べましたか?

投稿: TAKESAN | 2009年4月10日 (金) 02:31

三点

・「セクショナリズム」、「縄張り争い」の定義

・定義に基づいて、それに当てはまるニセ科学批判の具体例の提示

・”ニセモノのブランド品を本物だと言って売っている、その行為を、「それはニセモノだから注意せよ」と指摘・批判する”のは「セクショナリズム」、「縄張り争い」か否か

について教えて下さい。

投稿: TAKESAN | 2009年4月10日 (金) 02:38

おはようございます。
とりあえず、目に着いたところだけ、コメントします。

>私の書き方が悪かったのかもしれませんが、それは「これが科学のやり方だ」という以上の説明には思えません。たとえば、人によっては「芸術の発展は、空想の積み重ねである」というかもしれません。ではなぜ、空想の積み重ねによる主張を、科学的だとしてはならないのでしょう。その説明では、「それは、科学のやり方ではない」という以上のことは言えないのではないでしょうか。そういう説明だけでは、セクショナリズムになってしまう、ということを申し上げているのです。


セクショナリズムというと、否定的響きがありますが、ご説明の内容をセクショナリズムと称するのなら、別に何の問題もないと思います。

科学とはこういうもので、芸術とはああいうものだと分類しただけでしょう。どちらが優れているとか劣っているという話でもないし。空想の積み重ねによる主張を、科学的だとしてはならないのは単に定義の問題に過ぎないでしょう。両方を包括した呼び方には「文化」とかいろいろあるんじゃないでしょうか。

何を問題にされているのかよく分かりません。

投稿: zorori | 2009年4月10日 (金) 06:56

結局これは、当たり前のことをネガティブな語感の言葉で表現しただけで、問題がありそうに見えるのは単にその語感の印象だけ、何が問題であるのかについての具体的な説明は一切ない、と謂うことのように思えます。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月10日 (金) 07:07

「『科学(的)』って良く意味が分からないから、もっと詳しく説明してよ。>ニセ科学批判者」ということでは?
自分が良く分からないのを、一般化して書こうとするから、第三者に理解されないんじゃなかろうか。

投稿: トンデモブラウ | 2009年4月10日 (金) 09:40

皆さん、今日は。

そうですね。なので、ニセブランド品を批判する事もセクショナリズムと呼べるか、という、質問と言うか確認をしてみました。それをもセクショナリズムと呼ぶのなら、まあニセ科学批判もそう呼べばよろしいのでは、と。
個人的には、専門用語としてのセクショナリズムの意味と乖離しているように思うし、すごくネガティブな響きなので、それは使わないし、使うのは不適当と考えますけれども。用法に賛同する人も、あまりいないような気もします。
で、その語に引きずられてニセ科学批判にネガティブな印象を持たれるのは困るので、出来れば他の語を用いた方がいいんじゃないかとも。

端的に言って、縄張り意識に基づいた排他的態度と、ある看板を掲げているのに中身が異なっているものを批判する事とは、「全然違う」訳で。他人をだます、あるいは誤解させる行為の批判を、普通は縄張り争いとは言わないでしょう。

投稿: TAKESAN | 2009年4月10日 (金) 11:26

レスポンス、ありがとうございます。

TAKESANさん
> 「セクショナリズム」、「縄張り争い」の定義

いま、私なりに定義すると
・セクショナリズム: 自分の属している集団が支配している領域を独占しようとする傾向
・縄張り争い: ある領域を独占しようとする闘争


> 定義に基づいて、それに当てはまるニセ科学批判の具体例の提示

すでに菊池先生のページを具体例として挙げました。もともと、誰にトラックバックしたわけでも、コメントしたわけでもなく日記に書いたことですから、「これがまさにそうだ!」という形で具体例をあげて議論の場を広げることを望みません(菊池先生はこの分野で評価されている著名人であり、私が引き合いに出してもご本人がそれでショックを受けるということはないだろうと思うので、出させていただきました)。

> ”ニセモノのブランド品を本物だと言って売っている、その行為を、「それはニセモノだから注意せよ」と指摘・批判する”のは「セクショナリズム」、「縄張り争い」か否か

その設問では、相手側がニセモノであるという仮定が、あらかじめ導入されています。実際、多くのブランド品は、商法・商標法・意匠法などで保護されているでしょうから、どちらがニセモノであるかは明白です(法律の見地からは)。このような場合、私は「セクショナリズム」「縄張り争い」と呼びたいとは思いません。

もし、商法・商標法・意匠法などで保護されておらず、どちらが「ニセモノ」か確定していない場合であれば、「セクショナリズム」「縄張り意識」と呼ぶこともできると考えます。

投稿: | 2009年4月10日 (金) 18:18

私の言葉に対する感覚からすると、セクショナリズムっていうのは、本来の目的を離れて帰属する小集団の繁栄を目的にしてしまう事をいうような気がします。さらに、すでに「支配している領域を」さらに「独占しようとする」ってよくわかりません。

大体、「検証」というのは理性の働きで、ニセ科学というのは理性の「変性」でしょうから。ニセ科学が批判される局面で高度な理性の働きを見たいという期待を持つ感覚もわかりません。お汁粉屋に寄って酒を求むる、とでも言うか。

投稿: ちがやまる | 2009年4月10日 (金) 19:15

ここは名前入力無しで投稿出来てしまうので、お気をつけ下さい(私もたまにやります)。

------

つまり、ニセ科学批判とは、
「自分の属している集団が支配している領域を独占しようとする傾向」
を有している、と。

再び伺います。
具体例を挙げて下さい。

誰かが書いたものにリンクして欲しい、という事でも無いですよ。ニセ科学批判のこれこれこういう所がそれに当てはまる、と書いて頂ければ。論旨のパターンを挙げれば良い事なので。
たとえば、ゲーム脳批判について、どの部分が「自分の属している集団が支配している領域を独占」、に当たるとお考えですか? 具体的にご存知で無いかも知れないので、別の例でも構いませんが。

それと、何が何を独占しているのですか。
また、科学はアップデートされる知識の体系であると私は考えますが、同意されますか?

ところで、もう一つ(一組)質問ですが。

ある理論なり主張について、「これは科学的である」と評価する事は可能である、とお考えですか? それとも、不可能だと思われますか。

ある理論なり主張、あるいは仮説について、「これは科学的で無い」と評価する事は可能ですか? それとも、不可能ですか。

よろしければお答え下さい。

------

>皆さん

どうやら、縄張り争いにしろセクショナリズムにしろ、文字通りの意味でお使いのようですよ。

------

>ちがやまるさん

わたし的には、「独占」、「支配」という意味そのものがよく解らないです。プロセスを厳しくチェックして、ダメなものは篩い落とす、というのが科学ですけれど、それを通常「独占」などとは言わないですよね。

そもそも、常に変化している知識の体系としての科学が、一体何を「支配」しているのでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月10日 (金) 19:22

mizusumashi さん、

>よく批判される『水伝』が、たんに実証したことを装っているだけではなく実際に「実証が大事だ」と主張しているのかどうかは疑問ですが

『水伝』はずるいですね。言い訳として「科学ではない、ポエムである」などと言いながら、科学のブランドイメージを利用しています。つまり、「良い言葉がきれいな結晶を作る」という事が実験で実証されたと装っているわけです。実証は説得力を持つことを知っているので、「実証」されたと思わせる訳です。これは、TVのやらせ番組が発覚したときの言い訳と似ています。「実話」が視聴率を上げる武器だと知っているから、「ドキュメンタリー」を装うのですが、ばれると「たかがTVのバラエティ番組じゃないか」と開き直る訳ですね。でも最初から正直にそう言えば視聴率は稼げません。

正確に言えば『水伝』は「実証が大事だ」とは思っていないくて、「実証が宣伝に有効だ」と思っているのかもしれません。そして、本物の実証ではなくて実証風に見えれば良いのです。だから、「水伝本」には沢山の「実験結果の写真」が載せてあるのでしょう。本当に科学だと思い込んでいるトンデモさんと意図的に科学を装う悪党の関係に付いては、次のブログで述べられています。
http://blackshadow.seesaa.net/article/103236187.html
ポエムであるなどという言い訳をするのは、後者の悪党である可能性が高いでしょう。

>マイナスイオンをうたった製品の業者がすべて「科学的だ」と主張しているのでしょうか。

上述したことの繰り返しになりますが、明示的に「科学的だ」と主張していないからと言って科学を装っていないという言い訳を真に受けるのはあまりにもお人好しでしょう。「消防署の方から来ました」とは「消防署の方角から来たと言っただけで、消防署を装っているのではない」という言い訳が通じるとは思えません。マイナスイオンは科学的に効果が確かめられているという一般消費者の誤解を利用して売り上げを伸ばそうという意図であれば、「科学的です」と云わなくても「マイナスイオンが出ます」と言うだけで済むのです。

>しかし、たかだかそれだけのことであれば、それはマスコミが芸能人の詐称を問題にするのと何が違うのでしょうか。

違わないと思います。mizusumashi さんから見れば「たかだかそれだけの事」をニセ科学批判者はしているのだと思います。「たかだかそれだけの事」には財産や命、差別や偏見に関わることも沢山有りますけど。ニセ科学批判とは難解な科学哲学みたいなものではなくて、「詐欺商法批判」と同様にもう少し現実的な行為ではないでしょうか。そういうところが、mizusumashi さんには志が低いように思えるのかもしれませんね。

投稿: zorori | 2009年4月10日 (金) 21:05

基本的にはzororiさんが書かれたとおりでよいのではないかと思います。
もうひとつ付け加えるとすれば、物質の性質についての事実の言明である限りは、科学による検討の対象となります。
 
もちろん、すべてを検討しなくてはならないという意味ではないことは言うまでもありません。
 
「志」についてですが、科学者としての志はやはり「新しい発見」のほうに発揮されるのが望ましく、その意味で「ニセ科学をなんとかする」というのは科学者として志の高い行為ではありません。単になんとかしたいだけであって、そういう志のようなものはあまりないです。科学者が言ったほうがいいだろうと思っているだけです。
所詮、相手は「詐称」ですし。

投稿: きくち | 2009年4月10日 (金) 21:18

トラックバックして成功と出るけど、ここでうまく表示されないようなので、私の方でもエントリーを上げたことを連絡しておきます。

http://www.cml-office.org/archive/?logid=327

投稿: apj | 2009年4月11日 (土) 02:12

皆さん、今晩は。

>zororiさん

▼引   用▼
正確に言えば『水伝』は「実証が大事だ」とは思っていないくて、「実証が宣伝に有効だ」と思っているのかもしれません。
▲引用終わり▲
あるいは、「水伝側は、”実証が大事であるのを知っている”」、という感じでしょうか。知っているからこそああいった本を出した訳ですが、しかし、本当に大切な事で、それを突き詰めて行きたいと本気で考えているかは疑わしい。本気だとしたら不足。どちらにしてもダメな訳ですね。

水伝に関しては、NATROMさんが以前書かれましたね⇒http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20090119

マイナスイオンの所に関しては、物質科学の体系に則って話を進めるのだから、一々「科学的」と謳っていなくてもそう判断されるのが当然、となるでしょうね。イオンとはそもそも化学の概念なのですし。

------

>きくちさん

ニセモノを批判するのだから、そこに、”mizusumashiさんが仰る所の”志、や気概を見せる、というのがよく解りませんよね。科学の方法の重要性を説明するのが大切なのはそうですけど、そもそも合目的性が違う、と言いますか。

------

>apjさん

承認制などにはしていないのですが、反映に時間が掛かる事があるようです。今確認したら、反映されてますね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月11日 (土) 03:21

こんにちは。

うーん、確かに何を仰っているのか解り難いですね。それでもここのコメントとかapjさんのエントリとかを読んで少しは見えてきた様な気もします。

一言で言うと、科学や科学者に多大な期待を寄せ過ぎなのではないでしょうか。科学が思想的な部分に影響を及ぼす事を望んでおられる様にも見えますが、そんな事は出来ないし、すべきでない。
で、そのギャップを埋める為に「実証主義」という言葉を持ち出したのかもしれませんが、そうやって「ニセ科学批判」の範囲を勝手に拡張されては困るし、たとえ拡張したとしても、上記のギャップは埋め切れないのではないかと思います。

あと「志」については「そんなに高い志は持ってないよ~」と言うしかないですね。いや、もしかしたら高い志をお持ちの方が居らっしゃるのかもしれませんが、少なくとも私は違います。
自嘲気味かつ失礼な言い方をさせてもらえば、ニセ科学批判なんて「必要悪」なのですから、もし批判活動をしなくても済む世の中が来るのなら、そりゃあその方が良いに決まってるんですよ。

その意味では医療・消防・警察などに似ているとも言えます。ただ決定的に違うのは、被害が誰の目にも明らかとは言えない事、そしておそらくそれ故に、社会的認知度がまだまだ低い事でしょう。だからボランティアにならざるを得ない。

そういった諸々の意味を含めて「科学や科学者に過大な期待を寄せ過ぎ」と表現してみました。

投稿: PseuDoctor | 2009年4月11日 (土) 12:40

TAKESANさん、
 コメントを投稿してしばらくしたらトラックバックの方も見えるようになっていました。どうも、遅れることがあるようですね。

PseuDoctorさん、
 必要悪、というか「余分なこと」なんですよ。
 誰かが、ニセ科学を広めたりしなければ、批判に労力を使う必要は無いわけで。

「志」というものがあるとしても、それは科学本体にコミットするようなものではなくて、「何であろうとニセ物が広まると社会全体に影響が及ぶから、科学の側でできることは科学の側でするので、他についてはどなたかお願いしますね」といった、健全な相互扶助が成り立つ様な社会を目指す、といったあたりのものになるかと。

投稿: apj | 2009年4月11日 (土) 13:22

PseuDoctor さん、apjさん、今晩は。

前にapjさんが表現された「ラベル剥がし」というのがしっくりきます。
科学は変化していく、人間は誤りを犯し得る、意図せずに誤る事がある、というのを考えれば、ニセ科学は無くなり得ないでしょうから、それを批判していくのは重要だと思います。特に、「声のデカい」人がそういうものを広めている場合には、科学という営みと、それによって集積された知識について広く誤解させる虞があるから、それを防ぐためにも肝要。

投稿: TAKESAN | 2009年4月11日 (土) 22:46

皆様、こんばんは。

まず、2009年4月10日18:18の投稿は、私、mizusumashiのものです。名前入力なしで投稿してしまい、たいへん失礼いたしました。

黒猫亭さんの
> 結局これは、当たり前のことをネガティブな語感の言葉で表現しただけで、問題がありそうに見えるのは単にその語感の印象だけ、何が問題であるのかについての具体的な説明は一切ない、と謂うことのように思えます。

という投稿を、しばらく考えていましたが、ご指摘のとおりであり、「セクショナリズム」という言葉がそこまでネガティブな印象を与えていたのだと分かりましたので、この「セクショナリズム」という表現を撤回いたします。

正直、もちろん揶揄ですから否定的なニュアンスがあることは分かった上で使ったものの、それがその争いは正当性のないものだとか、間違ったものだとかというまでの判断を込めたつもりはなかったのですが、そういった判断を読み取る人が多いということは、結果的にそこまでの判断・評価を込めたことになり、私の言葉の表現が間違っていたのでしょう。

「セクショナリズム」という表現は撤回し、これが正当性のないものだとか、間違ったものだとかといった強い非難の意味を込めることになってしまったことをお詫びします。

これでここでの主要な話は終わりだと思うのですが、これには回答せよという点があれば回答いたしますので、お手数ですが再度ご指摘いただければ幸いです。

投稿: mizusumashi | 2009年4月11日 (土) 23:10

>mizusumashiさん

ご理解を戴きまして有り難うございます。

行き違いでapjさんのところでは少し強い調子の意見も書き込んでしまいましたが、たとえばapjさんやきくちさんのような本職の科学者の方がニセ科学批判の言論を積極的に展開しておられるのは、別段「本業そっちのけで糾弾活動に熱中している」と謂うような性格のものではないんですよ。

ニセ科学と謂うのは、「科学」と謂う「おまじないのお札」のあらたかな霊験を嵩に着て効能を詐称する「嘘」です。勿論そのお札はニセモノですし、多分マトモな常識さえあればそれがニセモノであることはわかりますが、「ニセモノだ」と確信を持って言い得るのは、本物のお札を発行している本職の方だけであり、本職の方にはそのお札がニセモノであることを専門の立場から指摘する社会的責任のようなものがあります。

何故なら、「科学」と謂う本物のお札はニセモノと違って本当に「効く」からであって、それが効くことを保証する立場にあるのが本職の科学者だからですね。このお札が「効く」ことが現代社会の一大基本原理になっていますから、科学者集団一般には、本物のお札は効くがニセモノのお札は効かないことを社会に向かって説明する責任があります。どちらか一つだけではダメなのであって、両方を説明しないといけないのですね。

これはたしかに、真理の探究と謂うような高邁な営為には見えないかもしれませんし、下世話な汚れ仕事に見えるかもしれませんが、それでも科学者集団が社会に対する責任としてちゃんとやっておかねばならないことです。

そして、それを進んで行おうとする方がいると謂うことが科学者集団の誠意の証明にもなっていると思います。つまり、ニセ科学批判だって歴とした科学者の社会に対する責任履行なんですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月11日 (土) 23:35

mizusumashiさん、黒猫亭さん、今晩は。

名前入力忘れは、私も含めて結構ある事なので、投稿ボタンを押す時にでも注意して頂ければ。

セクショナリズムにしろ縄張り争いにしろ、そこに否定的な意味合いが込められていたから、と言うよりは、そもそもの意味からしてニセ科学批判を評するには当たらない語だろうと思ったので、質問した次第です。

揶揄の意味合いを込められていた「から」何度も訊いた、のでは無い事は、強調しておきたい所です。

再び書きますが、科学は、色々の手続きを踏んで確かめられて初めて、科学の理論として認められます。仮に、ある言明があったとして、それが論理的に正しいのだとしても、それだけでは科学では無い訳ですよね。「確かめる」必要がある。だから、「正しくても」、「確かめられていなければ」、それは科学の知識とは言えません。

そして、科学として確かめられていなかったり、誤りだというのが確かめられたにも拘らず、あたかも科学であるかのように誤認されるものが、ニセ科学と判断されます。

先に、
▼引   用▼
「自分の属している集団が支配している領域を独占しようとする傾向」
▲引用終わり▲
こうニセ科学批判を評されましたよね。セクショナリズムという語は使われないとしても、ニセ科学批判に対するこういった印象は、恐らく変わっていないですよね?
とすれば、ニセ科学批判の具体的にどういう部分がそれに当たるのか、を伺いたいです。

手続きを満たしていないのに、それを満たしたかのように思われるものを批判するのは、通常「独占」などとは言わないと考えられます。
先にも、「ニセ科学」の意味を本当に確かめられたか、と書きましたけれども、ここで「支配」、「独占」と書かれたのは、「科学/ニセ科学」では無く、科学とそれ以外、という視点から出てくるのでは無いでしょうか。

たとえば、自然現象のメカニズムを解明するに科学が最も優れた方法である、と主張する立場があるとして(私はそうですが)、それならば、何ゆえ科学の方法がその合目的性において優れているか、を説明するのが重要である、と言えますし、そうお考えであろうと思います。
しかしそれは、何度も言うように、「ニセ科学/科学」の話とは「違う」のです。要するに、ニセ科学とは、科学に依存し、縋っている訳です。だから、科学が何かを独占して排他的である、という話では無いのです。科学で無いのに科学を装うものを指摘する訳なので。

もしよろしければ、
▼引   用▼
ある理論なり主張について、「これは科学的である」と評価する事は可能である、とお考えですか? それとも、不可能だと思われますか。

ある理論なり主張、あるいは仮説について、「これは科学的で無い」と評価する事は可能ですか? それとも、不可能ですか。
▲引用終わり▲
一つの確認として、これは伺いたいです。

それと、上で、apjさんが「ラベル剥がし」で喩えた、というのを紹介しましたが、これについて簡単に。

ニセ科学批判は、科学で無いのに科学というラベルが貼られているように見えるものについて、そのラベルを剥がしていく行為、と言えます。ゲーム脳であれば、学術論文が無い、神経科学の論理を用いているが全く不正確、追試で確認されていない、用語の混乱、などが、「実は科学では無い」根拠です。
なぜ科学的に見えるか、は簡単。自称脳神経科学者(標榜している)であり、日大の教授であり、神経科学の概念を用いて説明している、等々。そもそも、脳が精神の座であるというのは、科学の話なのですし。

初めから科学のラベルを貼っていないものについては、ラベルを剥がしようが無いのですね。

で、こういうものを、独占や支配、と表現するのは、はっきり言うと、理解出来かねるのです。

mizusumashiさんは、科学が可謬主義に立つ事をご存知のはずです。そして、科学の真理観が、「科学のみが真理である」という言明をさせる余地が無い事も、よくご存知でしょう。

端的に言って、「ウェブで見かける疑似科学批判」に絡めた揶揄は失敗です。そもそも、ニセ科学という概念をあまりご存知で無かったのだから。もし、私が伺った時、伝統的な科学哲学上の境界設定問題であったり、それに基づいた、私の知らない所で行われた批判であったりの話だという事であれば、ああ、違う話だったのだな、となったんですね。
これは要するに、「擬似科学」と「ニセ科学」が異なる意味で用いられる事がある、という話です。私が、
 ・どこで行われた話か。
 ・「擬似科学」概念はどういうものか。
 ・「ニセ科学」概念はちゃんと知っているか。

等を訊くのは、ちゃんと理由がある訳です。

投稿: TAKESAN | 2009年4月12日 (日) 00:45

 >科学の真理観

これについては、apjさんがよく書かれる、「科学は自然の近似である」という言い回しが、端的かつ的を射た表現だと思います。ファインマンにしろ中谷博士にしろ、同様の事を書いていたと思います。

尤も、対象を実証科学全般に広げるならば、「自然の」は、他と入れ替える場合もあるでしょう。社会でもいいし、実在や現象、であるかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2009年4月12日 (日) 00:53

おはようございます。

>手続きを満たしていないのに、それを満たしたかのように思われるものを批判するのは、通常「独占」などとは言わないと考えられます。

ずいぶん前に閉鎖されたETCの公式掲示板で、「ETCユーザーのみに割引措置を「独占」させるのは不公平だ」という意見が結構あったのを思い出しました。でもETCユーザーには手続きさえすれば誰でもなれるんですね。(当時はクレジットカード審査に通らない人は使えないという制限があったのですが、今は可能です。可能になったのは、その掲示板での意見が反映されたともいえます。)割引してほしければETCユーザーになれば済むんです。というより、ETC導入を図るために割引をしているんはずなんですけどね。

たぶんETCそのものに問題があると考えていれば、そんな問題のあるシステムに割引を与えるのはよろしくないという意見になると思います。そういう意見ならまだしも理解できるんですけどね。「独占」だの「不公平」という問題ではないだろうと。

投稿: zorori | 2009年4月12日 (日) 08:17

zororiさん、今晩は。

条件を満たしていないものを指摘するので、「独占」というのとはちょっと違うと思うのですよね。これはやっぱり、語感の違いなどでも無く、ニセ科学という概念の誤解からきているのだろうと感じます。

投稿: TAKESAN | 2009年4月12日 (日) 22:46

こんばんは。mizusumashiです。
関連するコメントをまとめさせていただいたため、かなり、引用が前後していますがご容赦ください。

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TAKESANさん
> で、こういうものを、独占や支配、と表現するのは、はっきり言うと、理解出来かねるのです。

zororiさん
> たぶんETCそのものに問題があると考えていれば、そんな問題のあるシステムに割引を与えるのはよろしくないという意見になると思います。そういう意見ならまだしも理解できるんですけどね。「独占」だの「不公平」という問題ではないだろうと。

「支配」や「独占」というのは、それが正当ではない、問題がある、という前提がなくとも使われます。たとえば、以前、ブランド品の例を挙げられましたが、

> いしょうけん【意匠権】〔…〕意匠を、ある特定の物品につき業として製造し、使用し、譲渡すること等ができる独占的、排他的権利
> しょうひょうけん【商標権】〔…〕登録を受けた商標を指定商品等につき業として使用することのできる独占的権利
(法令用語研究会、代表 秋山収『有斐閣 法律用語辞典 [第2版]』有斐閣、2000.10.30)

いうまでもなく、少なくとも法律の立場からは、意匠権や商標権があればその範囲でブランドを自分だけが使用し、ニセモノを排除することはまったく正当なのですが、それは「独占」「排他的」だと表現されています。「支配」については、知的財産権からはなれますが、

> しょゆうけん【所有権】目的物を全面的・一般的に支配する物権で、〔…〕
> しょゆうのいし【所有の意思】物を自己の所有として支配しようとする意思
(同上)

同様に、「支配」は正当な場合にも使われています。

そういういわばニュートラルな「独占」や「支配」の意味は、一般的ではないというのであればもしかしたらそうなのかもしれませんが、私はそうだろうと思う根拠は皆さんが反対されている以上には見つかりません(そのような反対でも、それが十分多いと思えば、私の誤解として撤回しますが)。

「セクショナリズム」という言葉は非難の印象・意味合いが強すぎたと分かって撤回したのですから、その言葉自体の説明は不要だと思いますが、「セクショナリズム」という言葉の説明を離れて、「独占」や「支配」はそれが不当な場合にしか使わないのではないかといわれれば、以上のように、正当な場合にも使う、と考えています。

----
TAKESANさんへ

> こうニセ科学批判を評されましたよね。セクショナリズムという語は使われないとしても、ニセ科学批判に対するこういった印象は、恐らく変わっていないですよね?

はい。変わっていません。ただし、「支配」や「独占」について、否定的な意味合いを込めてではありませんが。


TAKESANさん
> とすれば、ニセ科学批判の具体的にどういう部分がそれに当たるのか、を伺いたいです。

分かりました。説明します。

説明しますが、結局、「当たり前のことをネガティブな語感の言葉で表現しただけで、問題がありそうに見えるのは単にその語感の印象だけ」という以上の評価はいただけないでしょう。しかし、その評価に落ち着いてもらえるよう、努力します。

さて、説明。以前、ゲーム脳批判での例をお求めでしたので、躊躇していましたが、それで具体的な例を提示します(実際のところ、具体的な例を提示せずにしても水掛け論でしょう):
http://www5a.biglobe.ne.jp/~gjoitch/profile/review2002.htm#%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%84%B3%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96

これの一番上の書評がまさに疑似科学批判ですが、『本書の「立証」が「科学」的ではないと考える理由』を述べ、『「素人」に対してそれを恰も「科学」的であるかのように説くことは消極的に評価せざるを得ない』という評価を述べているだけであって、それ以上のことは述べていません。

これが「科学」という用語を独占しようとする傾向であって、「科学」という用語の独占を争う闘争だと言っているわけです。この書評を書かれている方が科学者ではなければ、「自分の属している集団」という言い方は少し難しくなりますが、少なくとも本人の自己認識としては科学の陣営に属していると考えているでしょう。そして、自らの陣営は一定の言葉を使うことを認めており、他方の陣営に対してはその言葉を使うことを非難しているのですから、「独占しようとする傾向」はあるといえるでしょう。

----
引き続き、TAKESANさんへ

> 先にも、「ニセ科学」の意味を本当に確かめられたか、と書きましたけれども、ここで「支配」、「独占」と書かれたのは、「科学/ニセ科学」では無く、科学とそれ以外、という視点から出てくるのでは無いでしょうか。

たしかに、私は、科学とそれ以外という視点を導入して、それと「科学/ニセ科学」という視点と比較しています。しかし、後者の視点は、前者の視点を限定したものであって、前者の視点を裏づけとしているのではないでしょうか(もし、「ニセ科学」が科学以外のものの一つではないのであれば、それがどう「ニセ」なのか分からなくなります)。ですから、前者の視点で「支配」「独占」という用語を使えるのであれば、どうして後者の視点で使えなくなるのか良く分かりません。


> ニセ科学批判は、科学で無いのに科学というラベルが貼られているように見えるものについて、そのラベルを剥がしていく行為、と言えます。

その認識は、同じだと思います。すでに私のエントリに書いたとおり「批判」は必ずしも「非難」「否定」を意味しませんが、仮に私が強い非難・否定を意図していて、「ラベルが貼られているように見えるものについて、そのラベルを剥がしていく行為」だけでは価値がまったくないと主張したとしていた場合でも、疑似科学批判の意図を私が誤解してているということにはなるとしても、その行っている内容を誤解しているということにはなりません。

なんというか… 私のはじめのエントリが分かりにくかったことは認めますし、私の欲求が見当はずれなものであるというのであれば、それはそうなのでしょうと思います。少なくとも、疑似科学批判をされている方々が、私の願望に応える義務はないのは確実です。私にまったく誤解がないとは言い切りませんが、私が誤解しているから不満なのだという先入観は止めてください。


> たとえば、自然現象のメカニズムを解明するに科学が最も優れた方法である、と主張する立場があるとして(私はそうですが)、それならば、何ゆえ科学の方法がその合目的性において優れているか、を説明するのが重要である、と言えますし、そうお考えであろうと思います。
> しかしそれは、何度も言うように、「ニセ科学/科学」の話とは「違う」のです。要するに、ニセ科学とは、科学に依存し、縋っている訳です。だから、科学が何かを独占して排他的である、という話では無いのです。科学で無いのに科学を装うものを指摘する訳なので。

そのご主張は、おおむね理解しています。しかし、すでに説明したように、「独占」「排他的」というのは正当性があろうと、ニセモノを排除することであろうと、使われます(少なくとも知的財産法の文脈では)。


この引用させていただいた三つの部分すべてについて、「支配」「独占」「排他的」という言葉の使い方の齟齬というものがあると思います(私の使い方が「正しい」とまではいいません。そういう使い方もされる、という程度です)。しかし、それとは別の認識の違いもたしかにあると思います。それは、科学やニセ科学批判・疑似科学批判についての認識の違いではなく、宗教や道徳についての認識の違いだろうと私は思います。

私のはじめのエントリは、たしかに科学とそれ以外という視点を導入したものでした。そして、その科学以外のものとして宗教と道徳におおむね代表させていたわけです。この科学とそれ以外という視点での理解、評価、問題意識、そして「ニセ科学/科学」という視点との比較、評価といったものに齟齬があるのであれば、それは科学や疑似科学批判についての認識の違いであるという可能性と、科学以外のものとくに私が代表させた宗教や道徳についての認識の違いであるという可能性は、もともと同程度にあるのではないでしょうか。

そして、科学とはこういうものである、ニセ科学批判とはこういうものであるという説明に、私は「セクショナリズム」「支配」「独占」「排他的」といった表現について以上にはとくに反論もせず、ほとんどご指摘のとおりと同意しているはずだと思いますが、それならば、、科学以外のものとくに宗教や道徳についての認識の違いであるという可能性のほうが高くなるのではないでしょうか。

おそらく、TAKESANさんが「ニセ科学/科学」という視点と、科学とそれ以外という視点の区別を強調されるのは、つぎのような考え方からだろうと思います。科学の領域というのものがあって、それには価値があり、疑似科学はいわば半分、あるいは口先だけその領域に入り込んでいるので、それは、その意味では科学の領域内の問題であり、他方でそもそも科学の領域外の問題である宗教や道徳とは、全然異なる話なのだ、ということだろうと思います。

それは、一つの見方として理解できます。

しかし、科学という領域になぜ価値があるのかといえば、それは科学が少なくとも自然や自然の一部としての人体についての知識を得る優れた方法だからでしょう。そうならば、宗教が自然や自然の一部としての人体について科学と矛盾することを語ったり、社会規範が科学的知見をもとにすればおちいらないような差別に陥っているときに(らい病など)、それは科学が手を伸ばせない領域なのでしょうか。

いや、宗教や道徳はそういうものではない、宗教とは神やそういった科学では手をつけられない超自然的存在についての信仰であるし、道徳は事実とは関係のないものだと、おっしゃるかもしれません。しかし、明らかに宗教は自然について科学と矛盾する、少なくとも科学的知見をもとにするとほとんどありそうにないことを語っていますし、科学者が好むと好まざると、科学はその知見によって宗教や道徳に影響を与えてきました。

宗教は自然の事実について語り、道徳は自然の事実についての知見から影響を受けるというのが、私の「科学以外のもの」の認識であり、科学についての認識ではなく、この認識のためにTAKESANさんと科学とそれ以外の関係について齟齬があるのだろうと思います。そして、その私のとっている認識に立てば、「ニセ科学/科学」という視点と、科学とそれ以外という視点の区別は、少なくともTAKESANさんが強調されるような形ではありませんし、(必ずそうなるかというのは断定できませんが)その区別も比較的連続的なものなのです。

----
さらに、TAKESANさんへ

> mizusumashiさんは、科学が可謬主義に立つ事をご存知のはずです。そして、科学の真理観が、「科学のみが真理である」という言明をさせる余地が無い事も、よくご存知でしょう。

これについては、新しいエントリにまとめてコメントさせていただいたほうが良いと思うので、そうさせてください。

投稿: mizusumashi | 2009年4月12日 (日) 22:57

mizusumashiさん、今晩は。

て事は、ニセ科学批判について、通常認識されるであろう所の「独占」や「支配」というのは当てはまらない、という意見に賛同出来ない事も無い、と。
敢えて一般には馴染みの無いであろう法的な用法を紹介されるって事は、それが(日常的には)特殊であるのを理解されてるって話ですよね。

それなら別に構いません。独占や支配という語を用いて評価してはならない、というのでは無く、通常の意味ではそれは当てはまらないだろう、というのを最初から言っていたので。私は上で、
▼引   用▼
それを通常「独占」などとは言わないですよね。
▲引用終わり▲
と書いています。「齟齬」と言うか、私はそもそも、「それってどういう意味?」と疑問を呈していた訳です。

後の部分、はっきり言いますけど、論旨不明確ですし、本当に私が書いた文をきちんと読んでいるのか、と思わせる所も散見されます。

ゲーム脳の具体例の所については、いまいち意味が掴めません。

投稿: TAKESAN | 2009年4月12日 (日) 23:37

すみません。上の、
▼引   用▼
ゲーム脳の具体例の所については、いまいち意味が掴めません。
▲引用終わり▲
というのは、初め、それを「独占」の具体例として挙げるのは解らない、という意味で書いたのでしたが、同じコメントで、「独占」や「支配」について説明を頂いているので、それを前提とすれば、特に意味が解らないという事も無いですね。

それを独占と表現するには違和感を覚えるが、そう表現する場合もあるのかも知れない(個人的には賛同はしませんが)、というような意味と取って頂ければ。

投稿: TAKESAN | 2009年4月13日 (月) 00:29

個人的な印象論にすぎないんですけど、私にはどうしても、mizusumashiさんから「水からの伝言」肯定者と同じような心的傾向を感じてしまうんですね。それが私が不快感を覚える最大の理由のような気がします。
要するに、自分の価値観・道徳観をそのまま他者に向けて主張する自信・勇気がないから、自分の価値観・道徳観を代弁してくれる「科学」を切実に求めている姿ですね。カントの劣化版と言っても良いかも知れない。

私なんかは、たとえば仮に、「ありがとう」という言葉を見せた水は汚い結晶を作る事が「科学的手法」によって「実証」されたとしても、「“ありがとう”と言われた私はとても嬉しくて、あたたかな気持ちになる」という紛れもない「事実」(この「事実」をmizusumashiさんはどう「検証」するのか知りませんが)をもとに、「“ありがとう”は素敵な言葉だ」という自分の価値観・道徳観を主張し続けると思いますし、もしも仮に、「他人の不幸を見ると脳神経学的に脳に強い報酬が与えられる」という「事実」が「科学的手法」によって「実証」されたとしても、「他人の不幸を喜ぶような人間になるべきではない」という自分の価値観・道徳観を主張し続けると思います。ただし、もちろん、それらを「ニセ科学批判」と絡めてしようとは少しも思いませんけど……。
一方のmizusumashiさんは、「“宗教的事実”に基いて子どもをレイプするような宗教者」に対して、その「宗教的事実」が「(mizusumashiさんの言う)事実」ではないという点についてだけしか非難ができない――だから「科学的事実」だけが「事実」のすべてではないという「空気」に対して「僕は、その空気が大嫌いだ」となるし、「宗教や道徳に“ほんとうの答え”などない」という当たり前の事を言うために「科学」を持ち出したがるし、「“疑似科学”批判だけではなく、“非科学”批判として通用するような枠組みを持って欲しい」などと願望を述べる――程度の脆弱な価値観・道徳観しかお持ちでないように、私には見えるわけです。

おそらく、「ニセ科学批判」に継続的にコミットしている人の多くは、『kikulog』のエントリ記事「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」(↓)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987
の主旨に賛同していると思います。だから、いくらmizusumashiさんが望んだとしても、「ニセ科学批判者」が「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」を書く事はありえないと思います。というよりも、むしろ、そういう文章を書いたり書かれる事を望んだりする人がいたら、その時点でその人は「ニセ科学批判者」ではなくなる(「ニセ科学批判者」とは見なされなくなる)でしょう。
私は、「ニセ科学」に限らず広く一般に「疑似科学」を批判する「疑似科学批判者」にも同じ事が成り立つと信じます。つまり、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」を書く人や書かれる事を望む人が仮にいたとして、その人を「疑似科学批判者」と呼ぶ事に、私は強い抵抗を感じます(そういう人に相応しい名称を考えるとしたら「科学原理主義者」か「科学教信者」?)。
私には、「(mizusumashiさんの言う)非科学批判」がもし実際にあったとしたら、まっさきにそれを非難するのは、継続的に「ニセ科学批判」にコミットしている人たちだろう――という予感があります(ただし、「ニセ科学批判」という立場・論拠からは非難しないと思うけど)。それくらい、「(mizusumashiさんの言う)非科学批判」と「ニセ科学批判」は敵対した概念のように、私には見えます。

なお、上記『kikulog』のエントリ記事に私が書いたコメントをいくつかリンクしておきます(↓)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170079605
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1169988833
このような文章を書く私のような「“ニセ科学”は糾弾するけど“非科学(の一部)”は擁護する」人間が、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ」などという文章に対して、心情的・感情的に不快感を抱くのは、まぁ当然予想された範囲内の事だと思うのですけど、それに対するmizusumashiさんの返答はとても一貫したものとは思えず、不快感は募るばかりです。見解が違うから不快なのではありません。mizusumashiさんの主張が一貫していないから不快なのです。
とりあえず、mizusumashiさんは、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」が、「願望の話」なのか、「たんに、ありえるだろうと言っているにすぎない」のか、態度をはっきりすべきだと強く思います。
「誰あてに書いたわけでない日記」だろうと、一般に広く公開されている以上、それを読んだ人間が不満を表明したり、強く非難したりするのに何の不都合があるのか、私には分かりません。そもそも、「こうあって欲しい」と名指しで要求された「疑似科学批判者」たる当人たちが、「そんな事はすべきだとは思わないし、したくもない」と返答する事の何が問題なのか、私にはさっぱり理解できません。

投稿: 田部勝也 | 2009年4月13日 (月) 07:36

以下は本題には(たぶん)無関係な余談3つです。

1点目。
mizusumashiさんは、リチャード・ドーキンスが「宗教」の「何を」罵倒しているのかに、もっと注意してみるべきだと、私は強く思います。その上で、先に紹介した『kikulog』のエントリ記事やそのコメント欄を読めば、mizusumashiさんが雑駁に「宗教」「道徳」とだけ書いて済ましている意味内容について、mizusumashiさん以外の人たちが(少なくともmizusumashiさんに比べれば)どれだけ深い議論と考察を重ねてきているのか、読みとれるだろうと思います。
さらに、「創造説・ID論」を批判する「ニセ科学批判者」は多いけれど、キリスト教一般・キリスト教そのものを批判する「ニセ科学批判者」がほとんどいない事には、ちゃんとした理由があるのかも知れない……と、もう少し好意的に考察が及んでも良かったと思います。それには実際に戦略的なさまざまな理由があり、その事はこのコメント欄だけでも私やzororiさんやPseuDoctorさんやapjさんなどが示唆しています。たとえば、情報の受け手に対して「抽象的な哲学的命題を論じているだけで、実生活に即した具体的な何かを批判しているわけではないと思われる」「“ニセ”である事を非難しているのに、“科学でない”事を非難していると思われる」「ニセ科学とオカルトと宗教の区別がついていない雑駁な議論だと思われる」といった事は、経験的に目的のためには得策ではない――というのも、その1つです。また、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言を肝に銘じ、行き過ぎた批判を自らに戒める意味もあると思います。

2つ目。
mizusumashiさんには、論理実証主義者は「志が高い」と見えているようです。
一方、私は、「(mizusumashiさんのいう)論理実証主義者」が「志が高い」ならば、カントや共産主義者や国家社会主義者やファシストたちも「志が高い」と言いたくなる衝動にかられます。要するに、「非現実的な理想だけ高くて、身の程知らずな人たち」といった程度のニュアンスです。
論理実証主義者として知られるウィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と語ったそうですけど、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ」と語るmizusumashiさんがその意志を正しく理解しているのかどうか、論理実証主義の事をよく知らない私には分かりません。少なくとも私には、「科学」が「宗教」や「道徳」を語りえるのかどうか、mizusumashiさんの文章からは説得力ある見解を読みとれません。

3点目。
mizusumashiさんは、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」「“科学のみが真理”などと馬鹿な物言い」がされる事を望んでいると言明しているのに、なぜ、「理想というか、むしろ願望の話です。だから、“こうあるべき”ではなくて、“こうあって欲しい”なのです」などと弁解しだすのか、私は理解に苦しんでいます。自分の理想に自信がなくなった言い逃れとしか思えません。
だいたい、「こうあるべき」と思っていないのに「そうあって欲しい」と願う事がありうるのでしょうか。もしそうなら、それは端的に言って「自己欺瞞」としか思えない。少なくとも、めちゃくちゃに「志が低い」と蔑んでも決して不当ではないでしょう。
そりゃあ、「決してベストではないけど、現実的なベターな選択肢として、こうあって欲しい」とか「この理想が実現するのは現実的に不可能であるのは分かっているけど、こうあって欲しい」とかいう事はいくらでもあるでしょうけど、それでも、その事を表現するのに「“こうあるべき”ではなくて、“こうあって欲しい”なのです」と言うのは、いくらなんでも無理がある。正直に言って、言い逃れや自己欺瞞でないのだとしたら、「理想というか、むしろ願望の話です。だから、“こうあるべき”ではなくて、“こうあって欲しい”なのです」という文章の意味は、今の私にはまったく理解不可能です。

投稿: 田部勝也 | 2009年4月13日 (月) 07:49

田部勝也さん、今日は。

私としては、「メタ」に立っておられるという事なのかな、と。少なくとも、色々相対化して言及している(と考えておられる)、という所は窺えます。

でもまあ、私は初めから、ニセ科学の話ときちんと分けて考えておられるか、というのを見ていましたし、その願望の部分については、そもそも擬似科学概念をどう捉えているかによる、と思ったのでした。

とにかく、擬似科学を、きくちさんが仰るニセ科学と同じような意味で用いているのなら、「願望」の部分はそもそも的外れだし、科学哲学上の話を前提としているなら、「ウェブで見かける疑似科学批判」というのは当たらない、と。

ウェブで見かけるものが、そもそも、私達が行っているニセ科学批判の事を指していないのだとすれば、あ、違う話なのか、となったんですよね。きくちさんの用法での「ニセ科学」が広まったのは最近ですから、私はよく確認するんですね。最近のニセ科学批判を、伝統的擬似科学批判と混同するのが見られるので。
しかし、わざわざ「ウェブで見かける」と評するほど、科学哲学上の境界設定問題が盛り上がっているとは思えないのですね。なので、混同している可能性が高い、と思って言及したのでした。

------

ひえたろうさんがTB下さったので、そちらも読むのが良いと思います>関心をお持ちの皆さん

投稿: TAKESAN | 2009年4月13日 (月) 12:12

実例として僕の文章を名指しで挙げておいて、その読みはないだろう、というのが感想ですね。

別のまったく知らない文章が実例として挙がっていれば、まだ理解できたかもしれませんけど。

もちろん、書かれた文章をどう誤読するのも自由ですし、誤読される書き方が悪いといういいかたもできますが。
ただ、名指しするなら、もうちょっときちんと読んでくれてもいいのではないかなあという気がすることは、最近何度かありました。

投稿: きくち | 2009年4月13日 (月) 15:33

手抜き建築なんか危なくてしょうがないわけでしょうけれども、具体的にどこがどう危ないかは私なんかには分からないわけです。そんな状況で危険を指摘する建築家に対して、「専門家の専横だ」とは言わないわけです。

しかし、説明や了承もなしに取り壊しや耐震工事をはじめられた家の持ち主や、一方的に支払いを要求されたりした人から見れば「専横」という言葉を使いたい場面もあるでしょう。

よく出されるオオカミ少年の話ではないですが、「専横」なんていうことばは、趣味やその時の気分で使うにしては不穏なものですね。どういう場合なら適用されるのか、目前の状況はそれに適合するのか、責任を持って吟味が必要でしょう。

今回の場合は、傍若無人に通りでバットを振ってる子どもに通りかかったよそのおじさんが、危ないから注意するんだよ、と声をかけた、という図に見えました。

投稿: ちがやまる | 2009年4月13日 (月) 16:42

きくちさん、今晩は。

名指ししているのに、おいおい、読んでいないだろう、と感じるものはありますよね。まあ、最近の内の一件は、ものをまともに読解するのを期待するのが全く無駄であるような方でしたけれども。

------

ちがやまるさん、今晩は。

その、建築での喩えは、的を射ていると思います。
mizusumashiさんは、あまり馴染みの無い用法を説明された訳ですが、これはつまり、ご自分が使われた「独占」や「支配」があまり一般的で無いと仰っているのと同じですよね。

もちろん、どういう意味を持たせるか、という所は、色々考えなければならないですが。

投稿: TAKESAN | 2009年4月13日 (月) 19:02

mizusumashiさん,

>「支配」や「独占」というのは、それが正当ではない、問題がある、という前提がなくとも使われます。

その通りですが、ニュートラルなのか、否定的意味合いなのかは、普通、文脈で判別できます。ところが、mizusumashiさんは読み手が誤解するような書き方をわざとしているように思えるんですよ。「自分の集団が支配している領域を独占しようとする傾向」とはどちらの意味合いなのでしょうか?もし、否定的意味合いでないとしたら、どういう意図でこんな表現が出てきているのでしょうか。文脈上、どういう必要性があるのかさっぱり分かりません。

>そうならば、宗教が自然や自然の一部としての人体について科学と矛盾することを語ったり、社会規範が科学的知見をもとにすればおちいらないような差別に陥っているときに(らい病など)、それは科学が手を伸ばせない領域なのでしょうか。

そういうことなら、すでに科学は手をのばしていると思いますよ。ニセ科学批判もその種のことはしているでしょう。現在では科学の領域であることも、昔は宗教の管轄だったことはたくさんあります。科学が宗教の修正を促したことは普通のことでしょう。ところが、mizusumashiさんは、「宗教の役目は終わった。宗教は一切不要だと、なぜ誰も批判しないのだ。」と言いたいような印象を与えています。わざと極論めいた奇をてらった書き方をしているので、真意を確かめると、上記のようなごく穏当な返答が返ってくるわけです。「セクショナリズム」も「独占」も同様です。

投稿: zorori | 2009年4月13日 (月) 20:58

zororiさん、今晩は。

意図的かは私には判りませんが、色々込み入った文だな、というのは思いました。

このエントリーに書いた質問も、それほど複雑な事を訊いたつもりは無かったのですけれど…。基本的には、擬似科学概念の確認をしたかった訳ですし。

投稿: TAKESAN | 2009年4月14日 (火) 00:26

本論については、話題の記事の著者自身による問題箇所の把握と修正がとりあえず進んでいるようなので、別の感想を。

この人、論理実証主義にいまさら何を期待しているのかがわかりません。論理実証主義による科学の基礎づけの試みは半世紀以上前に破綻したときいています。しかも、一部の論理実証主義者が論理実証主義を根拠に原子論の否定に走って、結果的に物理学の足を引っ張った負の遺産もあります。

結果はふるわなかったけど志は良かったということでしょうか。私には共感できませんが。

投稿: かも ひろやす | 2009年4月14日 (火) 11:31

かも ひろやすさん、今日は。

志というのが、やる気とか気概とか、そこら辺のと同様の意味なのかな、という風に私は感じました。
それだけで無く、ある方向性も含めて志、と仰っていたのだとすると、今 論理実証主義の考えをそのまま主張する人が果たしているのかな、というのが感想ですね。なので、願望を持っても実現はしにくいと。

------

mizusumashiさんがご覧になっていたら。
先日から話題に出している中谷博士の文を、再び引用したいと思います。

▼引   用▼
 問題の種類によっては、もっと簡単な自然現象でも、科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく、科学が取り上げるには、場ちがいの問題なのである。自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。
▲引用終わり▲

投稿: TAKESAN | 2009年4月14日 (火) 12:31

>かも ひろやすさん

「論理実証主義」については、私も同じ事を感じてました。
でも、「水からの伝言」や「ゲーム脳」などに強く惹かれるような心理的傾向を持つ人たちが、現在のアカデミズムにおける「論理実証主義」の地位について何も知らない状態で、「論理実証主義」の主張に触れたならば、たぶんとても強く共感するだろうなぁ……とは容易に想像できます。
そういう人たちが、「論理実証主義」の歴史についても、きちんと学んでくれれば良いのですけど、あまり期待はできないのかも知れません……単なる不勉強とか、確証バイアスとか……自分も他人の事は言えませんけど。
なんというか、「自分が思いつく・考えるような事は、すでに誰かが(もっと優秀な人たちによってもっと徹底的に)検討しているだろう」という(TAKESANさんの良く言う)言葉が、身にしみます。

投稿: 田部勝也 | 2009年4月16日 (木) 00:13

田部勝也さん、今晩は。

「論理実証主義」そのものが全く一般的で無い語ですから、へえ、そういうものか、と特に考えもせずに思ってしまう、のはあるかもですね。

ところで、論理実証主義は、現代の科学の立場として言われる所の「実証主義」とは、必ずしも同じ意味では無いですよね。前者は、論理学を用いて哲学的な一般化を推し進めようとした立場で、後者は、社会学方面で用いられるようなものも含まれる、という印象もあります。
それと、今の科学の文脈での「検証可能性」と、論理実証主義が初めに行っていた「検証可能性」も、中身が違っていたりしますよね※検証可能性のテーゼの欠陥を指摘され、カルナップによって「確証」の概念が出された、などもあるそうですが、現在の科学の方法について書かれた書物を見ると、確率・統計を基盤としたその概念が用いられるのを、結構目にします。

▼引   用▼
なんというか、「自分が思いつく・考えるような事は、すでに誰かが(もっと優秀な人たちによってもっと徹底的に)検討しているだろう」という(TAKESANさんの良く言う)言葉が、身にしみます。
▲引用終わり▲
ニセ科学論に関しても、こう思うがどのように考えられているのだろう、と調べてみるのが良いですよね。ある程度は調査してからでも遅くは無いと思います。特に批判的に言及する場合には。

投稿: TAKESAN | 2009年4月16日 (木) 01:02

補足。

上の論理実証主義についての部分は、野家啓一 『科学の哲学』を参照しました。

投稿: TAKESAN | 2009年4月16日 (木) 01:03

>田部さん

>>なんというか、「自分が思いつく・考えるような事は、すでに誰かが(もっと優秀な人たちによってもっと徹底的に)検討しているだろう」という(TAKESANさんの良く言う)言葉が、身にしみます。

これに類する言葉でオレが座右の銘としているのは、「ガメラ」や「ローレライ」で識られる樋口真嗣監督の「ヒトがやらないことにはやらないだけの理由がある」と謂う言葉ですね。

ただ樋口監督は、その「ヒトがやらないこと」をやってみて散々な辛酸を嘗めて「やらないだけの理由」を痛感しながらも、失敗と同じくらい一定の成果を挙げているわけですが。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月16日 (木) 04:02

▼引   用▼
「ヒトがやらないことにはやらないだけの理由がある」
▲引用終わり▲
これは良い表現だと思います。

で、それをやってみて色々考える、というのも大切ですね。やってみた後に反省するか、自己を過大評価してしまうか、が分かれ目、と言うか。

投稿: TAKESAN | 2009年4月16日 (木) 17:34

ひえたろうさんやJさんの反応を見て思うのですが。

そんなにこのエントリーの内容は変ですか?

投稿: TAKESAN | 2009年4月16日 (木) 19:48

「科学を装っていない、ないし科学でない事が“明らか”なもの(水伝など…)を“非科学的である”と批判するのは思い上がりだ」みたいな方向の的外れは飽きるほど見ましたが、“科学的でない”という一点で以てもっと何でもかんでも批判してくれ、という方向のは初めて見た気がします。
凡そ科学者たるもの、須らく“科学教徒”たるべし…という考えなんでしょうかねぇ…。ご本人はむしろ味方的立場から「もっとがんばれ」と叱咤激励したつもりだったり?

そういう意味では、“いつも”とは真逆のボケに対して“いつも通り”の突っ込みが為されたのでなんかちぐはぐになったのかな、という気はします。

投稿: disraff | 2009年4月17日 (金) 13:05

disraffさん、今日は。

ニセ科学批判を行うならば、論理実証主義が行うような志の高い方向性も目指しては、というようなご意見でしたよね。で、願望を出した、と。

それで私は、mizusumashiさんが、ニセ科学を批判する者の認識は論理実証主義の考えと共通していると思っている、と読んだんですね。
それは、
▼引   用▼
臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判
▲引用終わり▲
ここを読んで懐いた感想なのですね。少なくとも私達が行うニセ科学批判は、科学で無いものを真理探究の面から排除するようなものでは無いから、その願望の実現は見る事は出来ないだろうな、と。
ニセ科学批判をする人が宗教を罵倒するのはあるだろうけれど、それは別の文脈ですよね。非合理性批判とか、そっち方面かな。ともかく、宗教をニセ科学として批判する事は無いし、宗教を「擬似科学」と看做す立場はあるだろうけれど、だとすると、別の話になる。

そういう所から、質問をしたのでした。

------

私は、「論理実証主義」が引き合いに出されているのを重く見たんですね。それは科学哲学(一般には哲学)の文脈での最重要の概念なので、注意深く検討する必要がある、と。

投稿: TAKESAN | 2009年4月17日 (金) 13:28

mizusumashiさんの問題は、結局は印象の問題に決着するように思います。その大本には「ニセ科学批判は疑似科学批判の一種」と謂う誤解があったわけで、本当はニセ科学批判に関心はなくて疑似科学批判の話がしたかったわけですが、その書き方がもたらした印象で一連の議論が推移したと謂うことなのかな、と思います。

hietaroさんが指摘しておられるのはその辺のことでしょうし、Jさんは印象の問題を重視するあまりに話が明後日のほうに行っていると謂う感じでしょうか。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月17日 (金) 14:40

じゃあどうすればいいのか?と聞かれればよくわからない分、モゴモゴとならざるを得なくて、「残念」という言葉以上のものが見つからないのですが。

mzsmsさんの書かれている「疑似科学批判」が「ニセ科学批判」のことではないということを、早い段階でお互いが認識できれば、あるいは後からでも認識して一度スタートラインに戻ってから対話できればよかったのになあと思っています。

最初のエントリは、漠然とした疑似科学批判一般(非含「ニセ科学批判」)について「こんなのがあれば一度見てみたいよなー(無理とは思うけど)」くらいの独り言だったと思うんですよね。で、勝手な推測ですが、はっきりした具体例は想定していなかったのではないかあと。だからこそああいうムリめというか、キツめ?の文言も書けたのかなあと思います。(これ自体は問題あることとは思いません)

実際、そういう文脈で見たら、わざわざ「それは無理な相談ですよ」と語りかけるほどのものですらなかったと思うんですよ。「へえ」で終わるような。

確かに「具体例」から始まってその後のmzsmsさんの対応には、(「ニセ科学」という文脈で読んでいる人にとっては)マズいところがあったのだろうなとは感じているんですが、だからこそというか、その齟齬を「早い段階でお互いが認識できれば、あるいは後からでも認識して一度スタートラインに戻ってから対話できればよかったのになあ」という感想なんですね。

私は最初のエントリがそういうもの(漠然とした疑似科学批判一般(非含「ニセ科学批判」)について語っている)である分、このエントリ自体の評価はそれ以降のボタンの掛け違えとは別の話だと思っています。

私はJudgementさんほど深くは考えてなくて、さほど明確な主張はないのですけども。なんか、「残念」と。(^^;

投稿: hietaro | 2009年4月17日 (金) 19:11

hietaroさんとだいたい同じなんですけど、実例と言われて僕の文書を挙げちゃった段階で引っ込みがつかなくなったのかなという印象。ほとんど読まずに名前を挙げたんだと思うんだよねえ。

投稿: きくち | 2009年4月17日 (金) 20:26

皆さん、今晩は。

私は当初より、特にニセ科学という概念に気をかけていないのだろうと思っていましたし、ウェブで見かけるもの、というのも、誰かが擬似科学批判というものをしている事実のみをご存知な程度なのだろう、と思っていました。
だから、質問と批判(もっと調べた方がいい、と)を両方書きました。そもそも区別もしていないだろうという認識でしたので。もし違ったら、というのもありますが、それだとウェブで見かける、と強調した表現をするのは適切では無いと感じたので、いずれにしてもどこかに誤解や混同がある、と思った訳です。

こんな事を言っては何ですが、mizusumashiさんの最初のいくつかのコメントは、「ニセ科学の意味を知らずとも、擬似科学との相違を知らずとも」、書ける文章になっています。私が、ニセ科学の概念について誤解があるかも知れない、と言ったにも拘らず、です。この時点で、知らないままに話を進め(ようとし)ている、と感じました。

私は「投稿: TAKESAN | 2009年4月 9日 (木) 20:57」までに、要点をまとめて書いたつもりでした。今読み返しても、さほど的は外していないように感じます。それ以降、大分錯綜しましたけれども。それを「ボタンの掛け違え」と評されるのは、確かにそうなのかも知れませんが…。

こういった意味で、齟齬と言うか、そこら辺を初めから認識していた人も多いのではないか、とも思うのですが、どうなんでしょうね…。

------

もう一度書いておくと、私は、論理実証主義という語を書いていた所を重く見た、というのがあります。その他、「真理」、「検証」、「擬似科学」等は、哲学上最重要な概念でもあります。真理観については、別エントリーでmizusumashiさんも書いておられますしね。
かも ひろやすさんのコメントは重要と思います。

------

私の書き方を見て、強情・頑迷 等の感想を懐く方も多いでしょうが、少なくともこの件に関しては、書いた当初とあまり認識は変わっていませんし、それを振り返りながら書くと、こういったものになります。

投稿: TAKESAN | 2009年4月17日 (金) 21:00

私は、本当に「科学」の事を語りたいなら「科学」という言葉を使っていてはだめだろうと思っています。最も「科学」らしいコアはどういう社会的領域で観察されるどういう現象に現われている、というような話を慎重に連ねていく必要があるでしょう。
ニセ科学は科学かどうか、という判断で問題になる境界は、「科学」そのものの限界にあるのでなく、ニセ科学領域から科学領域に線を引いてそこを辿っていくとはっきりした境界をまたいで接していないことが確かめられるのではないでしょうか。そんなところで胸のすくような論理のメスさばきが見たい、というのは、お門違いというか何かの勘違いであろうと思います。
そう思ってますから、mzsmsさんの言うことは「ニセ科学批判批判」には初めから見えていませんでした。TAKESANさんはニセ科学批判を一般論としてとらえようとする場合にそういうものとして見るのは誤りだよ、ということを説明しに行ったのだと思いました。そこまでする必要もあるのか、ご苦労なことだ、とも思いました。
これは私の思いつきでしかないのですが、TAKESANさんのmzsmsさんへの働きかけにネガティブな印象を持っておられるように見えるJさんひえたろうさんはmzsmsさんのはじめの発想になんらかの価値を見出しているのではないでしょうか。もしもそうなら、事の成り行きが残念というのではなく、論として彼の発想を救い上げてあげればいい話だろうと思います。

投稿: ちがやまる | 2009年4月18日 (土) 06:41

ちがやまるさん、今日は。

繰り返すと、私は、擬似科学という言葉とニセ科学という言葉が同じものを指すとは限らないし、ある批判活動を評価する際は、どういう意味を持たせているのかを見る必要がある、という意識を持っています。

いくつか自分の主張を整理すると、
1)ニセ科学とは、科学を装うものである。
2)擬似科学という概念は科学哲学上も用いられるもので、ニセ科学がそれと同じ意味で扱われる場合があるから、混同に気をつけねばならない。
3)擬似科学とニセ科学は違うと言っても、全く異なるという訳でも無い。たとえば、きくちさんは、伊勢田さんの論が科学の現場の考えに近い、と評されている。
4)論理実証主義は、哲学史上重要な立場であり、その目的は極めてラジカル。しかも、その後様々な批判を受け、そのままの主張を維持出来なくなったものである。従って、それを改めて持ってきて比較して見るのは注意する必要がある。
5)ニセ科学を批判する人が宗教を罵倒する事はあり得る。しかしそれは、ニセ科学として批判するのを意味しない。

等ですね。

------

呟き。

一連のやり取りを追った方で、「論理実証主義」をおさらいした人、どのくらいいるのかな。mizusumashiさんが過去どういう論考を上げたかを調べた人、どのくらいいるかな。私は、哲学や思想カテゴリーの記事を大部分読んで、色々考えてみた訳ですけれども。そうすると、mizusumasshiさんが相対主義に言及したり、真理観(整合説と対応説)について書いたのも把握出来るのですが。

その上で、「ウェブでみかける」ようなものを、哲学的な問題意識に引き付けて考えると、的を外しますよ、というのを書いた訳です。

投稿: TAKESAN | 2009年4月18日 (土) 11:51

あれれ。

いや、私はTAKESANさんのはたらきかけに「ネガティブな」というほどの印象は持っていません。
強いて言えば、「状況」が「残念」。
これは誰がどう悪いというわけでもないので、「モゴモゴとなる」ということなんです。

あと、私はmzsmsさんの最初のエントリにも価値を見出していません。(^^;
だから前のコメントでも

---------------------
実際、そういう文脈で見たら、わざわざ「それは無理な相談ですよ」と語りかけるほどのものですらなかったと思うんですよ。「へえ」で終わるような。
---------------------

と書いたのですね。

投稿: hietaro | 2009年4月18日 (土) 13:04

あ、もちろん「価値がない」という意味ではないです。
ごめんなさい。

投稿: hietaro | 2009年4月18日 (土) 13:07

hietaroさん、今日は。

mizusumashiさんのエントリーに対しても、色々な印象と言うか、捉え方があるのでしょうね。
私自身は、「科学の観点から宗教を否定したりする立場はあるだろうけれど、ニセ科学批判の立場としてそれは多分無いだろうし、それをやるとすると、私達の認識するニセ科学という概念とは ずれているでしょうね」、とを思ったのですね。
だから、「訊いた」訳です。

投稿: TAKESAN | 2009年4月18日 (土) 13:15

mizusumashiです。一連の騒動ではお騒がせして、申し訳ありませんでした。

田部勝也さんへの応答の趣旨を含むエントリをアップいたしました:
http://d.hatena.ne.jp/mzsms/20090418/1240045713

田部勝也さんへの応答の趣旨を含んでおり、また、実際にも田部勝也さんのお名前を出していますが、大部分は、私が「科学は道徳に干渉しようとするべきではない」というような考え方に固執するべきではないと考えている理由を説明するものです。

いちおう、このコメント欄の流れを受けたものであることと、たぶん私のほうのコメント欄よりも田部勝也さんが読む可能性が高いだろうことを期待して、こちらに報告させていただきました。

投稿: mizusumashi | 2009年4月18日 (土) 18:18

お知らせ頂いて、どうもです。

科学と道徳の関連、については、色々と考えるべき興味深い問題だと思います。

投稿: TAKESAN | 2009年4月18日 (土) 18:53

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