混同
疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後) - mzsmsの雑記
ただ、ある科学者が科学者としての領分の問題ではなく、その人の個人の意見としてこのような立場に立ち、また疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということがありえないということは納得できません。実際、エルンスト・マッハは「科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのである」といった立場に近いところにいたはずだと思いますし、リチャード・ドーキンスは宗教を罵倒しています。
もう何度書いたか知れませんが。
「ウェブで見かける疑似科学批判」を念頭に置いておられるのでしょう? そして、菊池教授のテキストを例示された。だから、私達は、その概念(ニセ科学)に基づいて話をしている訳です。
ニセ科学批判は、科学を装うものを批判するのだから、それを前提として宗教等を批判するのは、無理ですよね。そんなに複雑な話ですか?
マッハにしろドーキンスにしろ(マッハの主張はよく知らない。ドーキンスは読んだけれど、その表現が当たっているかは判らない。以下は、一応そういうものと前提して書きます)、真理追究に科学が最も優れた方法である、というような主張で、その観点から他の文化を批判しているのだと思いますが、それは、「科学を装っている」から、では無いですよね。
別に、科学のみが真理である、と考えて他の文化を非難する人間がいる事そのものは、否定していないのです。恐らくいないだろうな、というのは、「疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということ」です。ここで「擬似科学批判」とは、「ウェブで見かける」もの、菊池教授の主張のようなもの、では無いのですか? そうであるなら、その批判の根拠(科学を装っているから批判する)に基づいて宗教等を批判する事は、出来ません。出来ないから、恐らくやる人はいないだろう、と推測出来る訳です。逆に言えば、そんな事を言う人は、「ニセ科学」概念を知らない。
たんに、宗教や道徳に「本当の答え」などないという立場が哲学的立場としてありえ、その立場からは宗教や道徳を罵倒する行動もありえるだろう、と言っているにすぎません。
これは個人的な姿勢の表明ですが。
あり得るか否か、といえば、ある事でしょう。いないとは言えない、程度でしょうか。
私自身の考えでは、文化に相対性があるのをもってそれらを罵倒するのは、よく解らない事ではあります。
後、「すぎません」てのは変ですね。ならそれだけ書けばよろしい。一々「擬似科学批判」に絡める必要はありません。何ゆえ絡めて論じたのですか? その一文のみであれば、そりゃ同意します。でも、初めから、そんな事は言っておられませんよね。
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つぶやき。
宗教や道徳を実証的に分析する「科学」もあると思うんですけどね。社会学とか、文化心理学とか、社会心理学もそうじゃないのかな。研究者や学派の立場にもよるかも知れないけれども。
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