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2009年4月24日 (金)

「科学は自然の近似」

きっかけはこちら⇒科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

では、本題へ。

えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。

「科学は自然の近似である」

「えっ?」と。

「マジで言ってんの?」と。

こう切り出し、ここから、「科学は自然の近似である」という見方を、哲学的な真理観の立場から批判しています。※引用にあたり、強調等の修飾は はずします

さて、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄、というのがどのブログかは判りませんけれども、疑似科学あるいはニセ科学を批判し、「科学は自然の近似である」という表現をよくされるのは、天羽さん(apjさん。以下apjさんで統一)なので、apjさんの論に対する批判と読みました。私が同じような言い回しをする際も、apjさんの論に賛同して使っています。

※念のために書いておきます。ここでは、ニセ科学の話は措いておいて、「科学は自然の近似」という表現がどういう意味を持つのか(持たされているのか)、を考えてみたいと思います。ですので、ニセ科学批判者がどうだ、などの話はしません。ここは踏まえて頂ければ

(ちなみに、これをいきなり真理対応説・真理整合説 と関連付けて論ずる意味は、私にはよく解りません。関連はするが、一応別の話、と捉えるべきだと思います)

上記リンクについた、はてなブックマークはこちら(私がブクマミスしたので、ブクマのページが2つ存在します)⇒はてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

ここで私は、

ublftbo   科学論 いや、自然科学(の理論)が自然の近似、というのは適切な表現だと思いますけど。というか、あれは「定義」じゃないでしょう…。なんか誤読してるんじゃないかな。

こう書きました。※一部抜粋

ここで私は、自然の振る舞いを近似的に記述したものが科学である、と取れば、特に問題無い表現だと思うし、哲学の真理観の話は、一応別の問題だろう、と考えたので、このコメントを書きました。

で、もう一つ引用。

arakik10 「自然科学が自然の近似」というのは杜撰な表現ですよ> id:ublftbo さま。もちろん、このエントリも quine10 さんには申し訳ないが、哲学的に「古くさい」議論ではある。

「杜撰」、との事。私はこれがどういう意味合いなのか、今ひとつ掴めませんでした。科学を定義せよ、と問われて「自然科学が自然の近似」と答えるのならともかく、自然の振る舞いを近似的に記述する、科学にはそもそもそういう側面がある、という意味合いでそう表現するのは、問題無いと思うからです。杜撰、とはよく解りません。

次に、同じエントリーに言及したsteam_heartさんの記事と、それについた はてなブックマークのページにリンクします⇒■細かいなあ、オレも。 - Gavagai ■はてなブックマーク - 細かいなあ、オレも。 - Gavagai

ブックマークコメントを引用。

oanus 反ニセ科学 地球のカタチを球とみなすのは「数学」に過ぎない / 自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの? / 真理が「モデル」を指すなら問題ない / 環境と環世界が混ざってるよーな…

ここでoanusさんは、「自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの?」、”真理が「モデル」を指すなら”と書いておられます。

私は後者の方にちょっと違和感を懐きました。多分、apjさんが、「科学は自然の近似」という言い回しをされる際の「真理」は、そういう意味では無いのでは、と思ったからです。

で、私は、近似の意味などを調べたり、ブクマをつけたりしていたのですが、別のブックマーク(はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)でoanusさんから、

oanus meta id:ublftboさん, 「近似」ではなく「自然」という言葉が問題なのかと.暗黙の了解としている物質世界の全体を指すのか,人間の認知系を通した世界の像を指すのかという違いでしょう / id コールで誤入力してすみません

と教示を頂き、なるほど、「近似」で無く「自然」の方もよく考えるべきか、と思いました。

oanusさんが仰る2つの「自然」、前者は「実在」や「外界」と呼べるでしょうし、後者は「現象界」とでも呼べるでしょうか。あるいは、物理空間と現象空間、とか。※現象界や現象空間は、哲学などで用いられる概念だと思います

私は、「科学は自然の近似」とapjさんが仰る場合、「自然」は前者の意味で読んでいます。つまり、人間とは独立した自然現象があり、その構造を知覚を通じて解明していく、という営みを「科学」と呼ぶ、と。「実在」をどう捉えるか、はまた別の議論があるでしょうが、自然科学の方法としては、観測や実験を通じて自然現象のメカニズムを追究するものである、と言って差し支え無いと思います。

そういった意味で、私は同ブックマークで、

ublftbo   ↓なるほど。実在を仮定する(←これが「自然」)として、人間の知覚による観測には限界があるから、その意味で「自然の近似に過ぎない」という言い方になっていると読んで、特に問題ない表現と考えた次第です。

こう書きました。つまり、まず実在を仮定する。人間とは独立した世界があると看做す訳ですね。そして、それを「自然」と呼ぶ。その上で、人間の観測によってメカニズムを解明していく訳で、そこには実験科学的な誤差もあるし、精度にも限界がある。その意味で、私は、「科学は自然の近似でしか無い」、「科学は自然の近似に過ぎない」、などの言い回しは出来るし、それは的外れなものでは無いと考えます。

別のページ(はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)で私は、

ublftbo   続き。 / 私は、「真理」が「モデル」を指すのではなくて、「自然」や「(仮説としての)実在」を指し、「近似」が「モデル」を指す、と読んだのですね。要するに、科学はモデル(近似)でしかない、という風に。

こうも書きました。これは、上のoanusさんのブックマークコメントを参照してのものです。要するに、apjさんが「科学は自然の近似である」と発言する文脈では、同時に「真理」が出てくる訳ですけれど(科学は真理などでは無い、という風に)、そこでの真理とは、「自然がどうなっているか」という事であり、それに科学は接近は出来るけれども、完全に一致したりする事は無い、というように、apjさんは考えておられるのではないかな、と思ったのです。

ここまでは、主にはてなブックマークでのやり取りの話。どう読解したか、という所。

で、こういうのは、ご本人がどう風に使っているのか、が最も重要なので、それを見ていきましょう。

ヴィトンのバッグに置き換えろ :: Archives

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

これは、他の方の主張を受けてのものですね。ここで「精度」の話が出てきますね。apjさんは実験科学の専門家ですから、誤差や精度、公差などについてのプロフェッショナルな訳で、測定の限界や有効桁の話に関して、熟知されているはずです。この文は、そこら辺の論理を踏まえての発言だと思います。これはある意味、「科学の限界の表明」な訳ですね。

還元電解水に関する議論(その2)

 物理学の分野では、教科書に出ている法則などはすべて「自然」の近似です。近似の精度が悪くて現実をうまく説明しない場合は、近似の精度を上げる(新しい、別の形で法則を立てる)ということがなされます。たまに法則が絶対だと誤解する人が居るので困りますけど。

こちらでも、同様の説明がなされています。

特命リサーチXへのコメントに関するやりとりでは、

 ただ、完璧なものになるというのはちょっと行き過ぎな気がします。

 物理法則はすべて近似である、というのが私が常々思っていることです。この場合の「近似」は、測定誤差をうまく処理して真の値を考える、という意味ではないです、念のため。
 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。
「法則」を「理論」と置き換えてもかまわないです。
 特殊相対論がニュートン力学を含む形で作られた時は取り込まれ型でしたが、化学分野の燃焼のフロギストン説は捨てられました。
 思い切った理論的予測が成功することもたまにはありますが、そういうのは科学の歴史を見てもめずらしいことなので、歴史に残るできごとになりますね。

こう書かれています。誤差を評価して真値を推定するという意味では無い、とはっきり書かれていますね。一部を抜き出します↓

 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。

これは明瞭な説明だと思います。ここでは「法則」、「理論」となっていますが、これを「科学」と置き換えても、特に問題は無いでしょう。科学という語は、理論あるいは法則などの説明の体系を指す事もあるし、それらを追究する営みそのものを指す場合もあるので、文脈に沿って読めば良い。

これらの記述を鑑みて、「科学は自然の近似である」、という言い回し、表現は、問題のあるものと思わないですし、ましてや杜撰なものとは私は感じません。そもそもは、科学は絶対か、真理に達し得るか、などの問いに対する答え、という場面で出てくる表現な訳ですし、その文脈を考慮せずにどうこうするのは、適切なものでは無いように思います。

要するに、この表現は、科学の限界を示すもの、なのですね。科学を定義したものでも無く、科学の本質的な特徴の説明の一つ、と捉えるのが妥当なのではないでしょうか。

------------

えっと。

apjさん、もしお読みでしたら。

私はこのように解釈しているのですが、いかがでしょうか? こういうのは、説明されているご本人に伺うのが、一番正確で良いと思うので……で、いきなり「どういう意味ですか?」とブログなりで訊くのは ただの失礼な人なので、色々調べて、自分なりの読解を示してみました。

ご説明・ご批判を頂ければ幸いです。

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コメント

TAKESANさん、こんばんは。

 丁寧に読んでくださってありがとうございます。
 私が書いたのは、TAKESANさんの読まれた通りの意味です。

 私は哲学は専門ではないのですが、科学の方法で「自然」を理解しようとしたとき、問いの立て方として、Howを追求するやり方とWhyを追求するやり方があると思います。Howを追求するというのは、いろんな観測を行い、観測して得られたものの間にはどんな関係が成り立っているかを記述しようとすることです。Whyを追求するというのは、なぜ関係ががそうなっているのかを考えようというものです。

 Howを追求している限り、自然科学の枠組みからそうそう踏み出すこともないでしょうし、私が書いた、科学は自然の近似であるということが言えるでしょう。普通の科学者の仕事はほとんどがこちらです。
 Whyを追求するのは、本質的なものを見ようとするやり方に見えますが、あまりこれをやり過ぎると形而上学に突っ込んでしまいます。こちらは、科学者ではなく哲学者の領分です。

 物理学者がWhyを追求する方向に進むこともあり、それによって記述の枠組みがより整理される場合があります。おそらく、「解析力学」がこの例だろうと私は考えています。ニュートンの運動の法則が現実の物体の運動と対応していたのに比べ、より一般的になったかわりに、普通に観測して得られる運動を素直に反映したものにはなっていません。作った人達がどれだけWhyを意識しながらやっていたのかはわかりませんが、出来上がったものを見ると、どうもWhyの方に関心があったのかな、と。それでも物理学者の仕事ですから、形而上学には行かずに、物理法則の構築の範疇での話となっています。

 実のところ、新しい観測事実が出てきたりしたら、現行の自然法則が書き換わることはあり得るわけです。すると、今手にしているものはそれなりによく自然を記述していたけどまだ足りなかった、ということになりますよね。全能の神ならぬ人間のすることですから、現状が結構いい状態でも、「これで永劫この法則が書き換わることはない」とは誰にも言えないわけです。ですから、今手にしている科学の成果は、どこまでいっても「自然」の近似なのです。

 「自然」を、人間の認知系を通したものと解釈しようが、人間とは独立に存在する物質世界全体と考えようが、いずれの場合も、これから先「見落とし」「不十分なところ」が出てこないとは言えない以上、近似だというしかないでしょう。

 ただ、観測者と対象を分離できないと考える立場と、分離できると考える立場とでは、「近似」の意味合いが変わってくるかもしれません。「分離が近似的にしか成立しない」ということが入ってくるかどうかという違いが出そうに思います。ただ、ここから先は、実験屋には荷が重いので、科学哲学の方で面倒を見てほしいです。

投稿: apj | 2009年4月24日 (金) 02:51

 私は科学哲学の人が現状の科学の営み及び認識について、批判的な言及をする際に、常にひとつの間違いをおかしているように感じたりします。
 それは、「真理」を前提に置くことです。

 科学は「真理」ではなく、「観測事実」の近似をしているのが実態だと思います。あくまでその結果として、多くの人が「真理」と感じるものに近付いていくということのはずです。

 極端な話、科学が近似するものが「真理」である必要はゼロだともいえると思います。

 また、更に極端な話をすれば、「観測事実」が実在する外界を反映するものではなく、たんなる人間の認識世界でしかなくとも構わないといえるのではないでしょうか。

投稿: lets_skeptic | 2009年4月24日 (金) 09:30

「たんなる人間の認識世界でしかなくとも構わないといえるのではないでしょうか。」(lets_skepticさん)
そうですよね。そうでしかないならしょうがない、とでもいうか。「素朴な科学者」がその程度の事も考えたり感じたりしていない、と概説書を読んだ程度の人が思い込んでいるフシのあるのも不思議な事です。

投稿: | 2009年4月24日 (金) 10:35

apjさん、lets_skepticさん、お早うございます。

私がapjさんの文を、特に疑問を持たずに読んだのは、中谷博士の本を読んだり、あるいは大村平さんの本を読んだりしたから、なのだと思います。
中谷博士の本では、有効桁を上げる、つまり測定の精度を高める事の困難さや限界が説かれ、まさに「科学は自然の近似である」という意味合いの事が書かれていますよね。
大村さんの本は工学系の入門書ですから、誤差論などがよく出てきて、精度や近似の話が、具体的に説明されています。

で、apjさんは実験科学者でいらっしゃるので、当然、そこら辺の論理を踏まえておられる訳ですよね。科学はどういう営みか、その特徴の説明となっている。
真理の対応説/整合説 などを持ち出す前に、実際の科学研究はそうなっている、という話ですよね。

それと、哲学方面だと、プラグマティズムの議論は、結構解りやすいと個人的に思います。

実在を仮定しようと、それに強く懐疑的であろうと、いずれにしても、自然の振る舞いは客観的に観測出来る、と前提しないと、研究は成り立ちませんよね。
そこを議論すると、それこそ哲学の話になる訳ですが、ここでの「科学は自然の近似」というのはそういう話では無く、観測には常に誤差がつきまとい、法則は改定の余地がある、その意味で、「近似」という事が主張されているんですよね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 10:37

すみません。名無しは私でした。

投稿: ちがやまる | 2009年4月24日 (金) 10:40

ちがやまるさん、お早うございます。

一応は、科学は実在を仮説として前提している、とは思います。前提しなくとも、観測事実があって、それを上手く説明する、というのは変わらないですよね。

仰るように、「そうでしかないならしょうがない、」というのがあるんですよね。いずれにしても、科学は観測を行い、その事実を上手く説明する理論を記述していく。で、それには誤差や精度の問題がつきまとうから、結局は近似でしか無い、と。理論にしても、改定の余地がある。

ここら辺がまた、「素朴」と指摘される所だったりするんでしょうね。あるいは開き直り。
でも、考えない訳じゃ無くて、考えてもしょうが無い事、だったりする。ああ、こう書くと、また素朴と思われるか…。

いずれにしても、科学の説明の話を、徒に哲学の問題に引き付けて論じてはならないと思うのであります。

------

さっき、あらきけいすけさんに、idコールしました。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 10:52

あ、後。

steam_heartさんのエントリーにある、地球を球体と看做す、という話、中谷博士の本に基づいているかも、と思いました。『科学の方法』をこないだ再読していたので、すんなり理解出来たのでした。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 10:59

釘刺し。

ポイントは、apjさんが「科学は自然の近似」と説明される際、ほぼ、科学は真理であるか(真理に到達出来るか)、等の話とセットにして語られている、という所です。
つまり、科学についてこういうイメージを持っている人があるかも知れないが、実はそうでは無い、というのを説明する場面。
これがコンテクストです。

で、そのコンテクストを無視して抜き出して検討する、まして、いきなり哲学の話に持っていったりするのは、端的に言ってナンセンスです。

要するに、実証科学者にとっては当然の事と了解されているものについて、それ以外の人には誤解されているかも知れないから説明する、という文脈なのですね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 11:10

ブクマで良いご指摘を頂きました。
▼引   用▼
pollyanna 議論 「近似」という概念は「真の値」を仮定して用いるので、この場合「自然」における「真の値」をどう考えるか説明しないと、絶対に正しい真理がどこかにあると考えているという誤解を受けやすいかもなと思いました。
▲引用終わり▲
どういう風に説明するのが良いかな。

ここでは、「真理」とはそもそも何あるか、という議論も含むので、あまり深入りすると、哲学の話になってきそうです。

ここの説明とかどうでしょう⇒http://www.str.ce.akita-u.ac.jp/~gotou/tebiki/tadasii.html

そうですね……取り敢えずは、真理や実在があるものだと看做さなくとも、科学は自然の近似、という表現を検討する事は出来る、というのを改めて強調するとともに、私自身の認識を書いておきます。

・真理は証明出来ない。科学的には、これが真理だ、と確定する事は出来ない

・実在を仮定する。観測出来る自然には斉一性があると看做す、と言っても良い。実在も真理と同じく、証明出来ない

・自然の斉一性は、科学の理論による予測・制御、技術への応用、等によって、それを前提して良いと看做す。

こんな感じ。

※このエントリー、哲学の話に持っていきたく無いので、よろしくです。何度も書くように、科学の実態からして、「科学は自然の近似」という言い回しはどうであるか、というのが主旨なので。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 12:03

おつかれさまです、と云おうと思ったんですが、なんか「起点がどこであれ有益な議論は可能である」と云うサンプルみたいになってますね。

投稿: pooh | 2009年4月24日 (金) 12:15

 pollyannaさんの言われる「真の値」については、「未来に観測されるものも含めた観測事実」というのが適切な気がしますね。

投稿: lets_skeptic | 2009年4月24日 (金) 12:28

自分のトコに引きこもってモニョモニョ言ってる内に話が進んでいたようで.

既に釘を刺されていますが…

> 実証科学者にとっては当然の事と了解されているものについて、それ以外の人には誤解されているかも知れないから説明する

という目的があるのならば,その暗黙の了解を当然と思っていない人間には,その前提が十分妥当であることが説明される機会が与えられないとマズいでしょう.なので,科学的に対象を扱う場と科学自体を対象とする場は混在するべきではありませんが,それぞれが存在することは構わないと思います.そして,apj さんのトコロでの発言はともかくとして,quine10 さんのトコロの発言以降は,既にメタな話をする場になってしまっていると思います.

などと「思う」を連呼した上で,この件に関する oanus の発言の真意について少々.

私は相変わらず Descartes の名台詞から抜け出せない人間なので lets_skeptics さんの言うように
> 「観測事実」が実在する外界を反映するものではなく、たんなる人間の認識世界でしかなくとも構わない
と考えています.ただ,夢オチが無限連鎖するのを避けるための策として唯物論にすがりつくのは十分妥当だと思っており,それが Uexkull の言う環境 (Umgebung) と環世界 (Umwelt) の対比にこだわる理由です.

少なくとも私が問題にしたのは,「近似」「自然」「真理」などという文字列が何を指すかという問題です.quine10 さんや arakik10 さんの発言などにも言及したのは,いずれの発言も「自然科学は自然の近似」という言い回しに解釈のブレが生じうるということの指摘だと解釈したからです.

個人的な解釈の詳細は自分の blog にも書いていますが,ご指摘のあった
> 真理が「モデル」を指すなら問題ない
という,今になって読み返してみれば自分でもやや解読困難な発言をした真意は,上のように前提から出発して「最も確実で合理的でわかりやすいもの」あるいは「見えているもの」は環境ではなく環世界じゃないのかな?という意味でした.

投稿: oanus | 2009年4月24日 (金) 12:34

poohさん、今日は。

これはニセ科学の話では無い、と念を押しているのがポイントだったりします。この場合、科学という営みをどう見るか、の部分にクローズアップして考えるのは、有意義だと考えました。

------

>lets_skepticさん

近似には、統計学的な考えも入ってくるので、突き詰めると難しい話題にもなってきますね。
oanusさんへのレスへ続く

oanusさん、今日は。

この件でポイントは2つあって、

1)「科学は自然の近似」という言い回しがどういう「文脈」で出てきたか

2)「近似」という語を用いる事そのものは適切か否か

と見る事が出来ると思います。
それで、apjさんがどういう風に使われたか、を見ていくのが1)の観点で、それについては本文で検討し、「科学は自然の近似」にはこういう意味が持たされている、と考察しました。

それで、2)については、oanusさんが仰る、fittingとmodel selectionを併せて「近似」と呼んで良いのか、という所が関わってきますが、私は、それで構わないと感じます。辞書的な意味での「近似」と、専門的な概念としての「近似」の意味を併せて考えると、科学の特徴をそう表すのは構わないかな、と。

後、真理にしろ実在にしろ自然にしろ、その詳細な議論を棚上げして、「現象そのもの」と呼んで、科学は「現象そのもの」の「近似」である、とでもするといいかな、とも
思いました。つまり、「そのもの」を「ありのまま」に記述する事は不可能、という意味で、「近似」。

ちなみに、こういう場合(本文で挙げたような「説明」の文脈)の言い回しでは、厳密な用語の定義の文脈では無いので、「明らかに不適当」な場合以外は、許容されて良いと思っています。

quine10さんの採り上げ方が問題なのは、文脈から切り取ってきて、その表現自体を検討し、そこから、その表現を用いる人の科学観そのものを云々した所だと思います。端的に言って、ちょっと捩れた論評だった訳ですね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 13:41

「文脈を無視して言葉の意味を解釈することへの批判」と「文脈を踏まえた上で解釈された意味への批判」の違いについては了解しました.
お目汚し失礼しました.

投稿: oanus | 2009年4月24日 (金) 14:20

いえいえ、色々考えるきっかけにもなりましたので、むしろありがたいくらいです。

------

この「近似」という言い回し、調べてみたら、自分でも結構使っている事に気付きました。

--

http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_a394.html

▼引   用▼
科学の理論は実際の現象を近似したものと考える事が出来るので、
▲引用終わり▲

--

http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-33ac.html

▼引   用▼
科学的に正しい、とは、常に蓋然的なものであり、近似的なものである訳ですね。人間の観測によって得られたデータによって自然の(取り敢えず自然科学に限定。生命科学や社会科学に広げても同様)在り方を推測して理論を作る(ここに引っかかるなら、「発見」でも良いと思います)のだから、全く自然の在り方と一致する、というのは考えにくい。もちろん、あり得ないとは言えないけれど、想像しにくい(そもそも、理論と自然の在り方が全く過不足無く一致する、とはどういう事か、等の哲学的問いが絡んでくる)。
▲引用終わり▲

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http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-96cb.html

▼引   用▼
 >科学の真理観

これについては、apjさんがよく書かれる、「科学は自然の近似である」という言い回しが、端的かつ的を射た表現だと思います。ファインマンにしろ中谷博士にしろ、同様の事を書いていたと思います。

尤も、対象を実証科学全般に広げるならば、「自然の」は、他と入れ替える場合もあるでしょう。社会でもいいし、実在や現象、であるかも知れません。
▲引用終わり▲(コメント欄)

※ファインマンについては、『ファインマン物理学』の力学の本だったと思いますが、手許に無いので確認出来ないです。記憶違いの可能性もあります。

---

やっぱり、辞書的な意味も含めて用いていますね。つまり、「似ているだろうが同じとまでは言えない」、という感じでしょうか。大概は、真理を云々する言い方へのカウンターだったりするんですよね。

後、私は「自然」を、自然現象などの意味で捉えています。自然/人文/社会 科学という分類(と言うか、クローズアップと言うか)をした内どれを対象にするか、という。
だから、apjさんの言い回しを援用して、「社会科学は社会の近似である」、と(私は)使えます。そういう解釈でしたから、そもそも違和感を覚えなかった訳です。

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 14:54

こんにちは、TAKESANさん。

私は分析化学の人間でして、我々は結構良くこの問題に悩まされるんですね。

目の前にケイ素を含んでいる鉄の塊があるとするじゃないですか。でもって、ここにその塊がある以上塊を構成している元素は数は分からなくても有限個であるということは証明可能です。中のケイ素も数は分からなくても有限個の個数であるということも証明可能です。そのケイ素の完全な数を塊の中の元素の完全な数で割るとモル分率で表した濃度となります。有限個÷有限個は有限な値であることは証明出来ます。我々はそういう値を「真値」と呼んでいます。我々はそうやって「真値がある」事は証明可能な塊を分析して、分析値という近似値を測定します。可能なら、元素全てを分類して数え上げれば良いわけですが、分析化学の能力的にできません。

つまり、理論上「真値」はある訳ですよ。ところが技術上「真値」を求めることができない訳です。できるのは、ある不確かさを提示して、「この不確かさの範囲に真値がある」というだけですね。

なんていうか、我々分析屋は「真値は存在する」という証明可能な真理に対して、分析値という近似値を提示している訳ですね。

投稿: 技術開発者 | 2009年4月24日 (金) 17:23

「近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ」には、数理論理学に反例があることを指摘しておきましょう。

例えば、3, 3.1, 3.14, 3.141, 3.1415, 3.14159, ... はπの近似列です。通常は、これは、実数πが存在して、πと上記の列の各項との差がだんだんと小さくなっていくとして処理します。ところが、πの存在をアプリオリには仮定せず、先に上記の近似列が存在して、近似列が存在するからその極限が存在するという議論をすることもあります。さらに極端な場合は、極限の存在すら仮定せず、上記の近似列そのものがπであるとして議論をすることも可能です。いずれを出発点に採用しても、その後の数学的な議論に違いは出ません。3, 3.1, 3.14, 3.141, 3.1415, 3.14159, ... がπの近似列であることは、どの場合でもいえます。

哲学的な議論をするつもりなら、「近似値とは真の値を前提にはじめて意味を持つ」をアプリオリに認めてはいけません。まず、そこから疑わないと、哲学的な議論になりません。一方、哲学的な議論ではないのなら、実際の活動に影響しない部分であることが経験的にわかっていることなんだから、不必要にこだわるなということになります。

投稿: かも ひろやす | 2009年4月24日 (金) 18:43

「科学は自然の近似を目指す」というのはどうでしょう?
真理に近づきたい。

投稿: トンデモブラウ | 2009年4月24日 (金) 19:41

>また、更に極端な話をすれば、「観測事実」が実在する外界を反映するものではなく、たんなる人間の認識世界でしかなくとも構わないといえるのではないでしょうか。

極端どころか、それしかできないという気がしますが。科学は人間の営みですから人間の認識できる事しか扱えませんよね。私は哲学をよく知らないのですが、哲学は認識できないことを扱えるでしょうかね?人間の認識できない「真理」ってなによってなりませんか。ところが、そんなものが有ると人間には感じられるんですね。土屋賢三氏が書いてましたけど、「哲学の問題とは、問題自体が勘違いであることを明らかにすることかもしれない。つまり、哲学の営みとは自分自身の領域をどんどん狭めることだ」

投稿: zorori | 2009年4月24日 (金) 20:20

かもひろやすさんの話は分かりやすくて、なるほどですね。

「真の値」は有っても無くてもよいし、複数あっても良いという感じでしょうか。科学は観測事実(人間の認識)を矛盾無く説明する理論を作ることですよね。で、現実には全く無矛盾の理論は今のところなくて、わずかな矛盾があるから「近似」といっている、という説明はどうでしょうか。複数の「真の値」が有ってそれが矛盾することなく共存すれば別にそれでも良いのでしょうし、将来的にも、説明できない事柄は残るとすれば、「真の値」はあるかないかわからないとしか言えないけど近似値はあるわけで。

粒子か波動かどちらかはっきりしてくれないと人間は気持ちが落ちつきませんが、科学者はそんなこと気にしない訳ですよね。で、哲学者は人間はなぜ落ち着かないのか、それがどのような勘違いによるものかを説明してくれるものじゃないかと。

投稿: zorori | 2009年4月24日 (金) 20:36

皆さん、今晩は。

うん、やはり、なかなか難しい話になってきますですね。

技術開発者さんのコメントは、今ちょうど化学系の統計の本(『これならわかる 化学のための統計手法』)を読んでいるので、タイムリーです。

ところで、quine10さんの新しいエントリーが上がってますね。steam_heartさんのエントリーへの反応。(私TB送らなかったな…。)

って、かも ひろやすさんも言及されてたんですね(何故か大滝秀治さんになってますね)。今気付きました…。

「近似でしか無い」や「近似を目指す」(トンデモブラウさん)という表現をしたとしても、多分聞き入れられないでしょうね。

いずれにしても、私はapjさんに直接伺い、その意味合いを確認して、辞書的な意味や実験科学的な意味での近似を用いて表現しても、特にに差し支え無い、と判断しました。

>zororiさん

(コメント欄が長くなったブログの場合、どなたの発言へのレスかを書いた方が、読みやすいかも知れません。)

その部分、存在論・認識論の話なので、もろに哲学の話になると思います。
実在論に関しては、それこそ科学哲学辺りで色々の議論がなされている所かと。

哲学の突っ込んだ話はここではしませんが、参考資料として⇒http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~tiseda/works/realism.html

投稿: TAKESAN | 2009年4月24日 (金) 20:47

 ちょっとひらきなおってしまうと、哲学者が何をどう言おうが、目の前の鉄の塊に含まれている鉄原子の濃度はある精度でしかわからないし、物理学者ががんばってより普遍的な自然法則を見出そうとして研究を続けてると、そのうち、今ある法則が書き換わったりして、まあ、古い物よりは適用範囲の広いものになっていくわけですよ。ただそれだけなんです、人にできることは。

投稿: apj | 2009年4月24日 (金) 23:29

TAKESAN さん、

哲学には踏み込まないという注意事項は読んでいたのですが、すみません。ただし、言い訳すると、そもそものquine10さんの疑問に応えようとすると、哲学に踏み込まざるをえないような気がします。

科学として考えれば、「近似」はあたりまえで議論するまでもないことに思えます。

投稿: zorori | 2009年4月25日 (土) 08:12

前のコメントの補足です。

quine10さんの真意はわからないのですが、内容的に哲学の話だとしか私には思えません。ところが、「科学は自然の近似である」という見方は(apjさんにしても、他の科学者のものにしても)哲学的なややこしい議論をしているのではないのですよね。にもかかわらず、勝手に哲学の土俵に引き込んで科学者としても「トンデモ」な見方であると批判しているようで、引っかかるんじゃないかと思います。

へんな例えですが、「借金は返さなければならない」とごく普通のことを言ったところ、
資本主義社会の問題や搾取の話をして批判されたような場違いな印象があります。

日常生活のレベルなら、「そんなの当たり前じゃん」でしょうし、あるべき社会体制の議論をするのなら、それはそれで難しいのでしょうけど。

投稿: zorori | 2009年4月25日 (土) 09:09

apjさん、今日は。

そうなんですよね。メタな議論も大事とは思うのですが、きちんと文脈を考慮してやっていかないと、あまり有意義なものにならないのでは、と思っています。

-------

zororiさん、今日は。

私としては、本来科学の話として済む話を、quine10さんが、哲学の話に引き込んでしまった、と見ています。なので、そもそもapjさんによる用法がどういうものであったか、を調べて、哲学的な真理観の問題とは違う(全く関係無いとは言えない、のがむつかしいですが)、と示した訳ですね。

quine10さんは、「近似」の語に、近づいていくという意味合いがある所に着目して、そこから素朴な真理観を見て取ったようですが、私は、理論や法則が現象をよく説明する事を近似と呼ぶのは、差し支え無いと思っています。
と言いますか、理論が現象に「似通っている」と看做すのが、そんなにおかしいか、と。

「自然」はもちろん、人間が観測出来る自然現象の事で、それがそもそも実在と対応しているか、とか、実在そのものを仮定していいのか、というのは棚上げしても議論は出来る、と思ったのでした。
元々、真理なり実在なりをどう考えるとしても、そういうものに科学が一致する事は無い、というのが、あの言い回しが用いられる文脈ですしね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月25日 (土) 12:16

どうにも腑に落ちないのでひとつだけ.

「俺理論」から出発することが不適当なのは承知ですが,適当な引用元が思いつかないので勘弁してください.個人的には,言葉 (論理) を誤解無く解釈するためには形式的な定義と操作が必要だ,というのが持論です.その意味で,言い換えの規則が明示されている限り,どのような言い換えをしても構わないでしょうし,その規則に従わずに勝手な解釈が行われるのは不適当でしょう.TAKESAN さんが再三繰り返される「文脈 / コンテキスト」というのは,この言い換えの規則を指しているものと理解していますし,件の発言において apj さんはその規則を十分に示していると思います.

そのような「文脈」において
>> 法則は(自然の)近似だ
と主張することについては,全く異存ありません.
> ここでは「法則」、「理論」となっていますが、これを「科学」と置き換えても、特に問題は無いでしょう。
という主張も同様に認めます.

私が問題だと思うのは,他の分野でも形式的に用いられている語と衝突した場合の対処法です.「自然」とか「真理」とか「近似」などといった言葉を自然科学を説明するために取り込む際には,その他の分野での意味に十分配慮する必要があると考えます.ソーカル事件の逆で,というと語弊があるかもしれませんが,生物学者が他分野で用いられる「進化」という言葉に敏感になるように,「真理」とか「自然」とかいった概念をひたむきに考える哲学者,あるいは「近似」という概念を素朴な論理ではなく形式的に扱う数学者にとって,それらの安易な流用は腹立たしい行為に見えはしないか,ということです.例えば,かも ひろやすさんが「近似」の概念の誤用について指摘したことには,そのような意味合いがあると私は解釈しています.

既に明示された「言い換えの規則」に容易にアクセスできる状態にもかかわらず無視される場合には,糾弾されるのも仕方ないでしょう.また「科学的な思考のためには『文脈』を読むことが必要だ」と主張することもよいでしょう.しかし,日常的に目にする全ての言葉について「言い換えの定義」を追跡することは不可能であり,一時的には個々の経験などに基づく意味で捉え,対話の後に然るべく修正するという「言語ゲーム」的な作業が必要とされます.つまり,何かを説明する場合には,言葉選びに細心の注意を払う必要があるだろうということです.

そういうわけで,たとえば
> 哲学者が何をどう言おうが、目の前の鉄の塊に含まれている鉄原子の濃度はある精度でしかわからない
という apj さんの発言は,観察事実そのものはどのような言葉で表現しようとも変わらない,という観点では至極妥当だと考えますが,哲学者にも理解してもらうためには具体的にどのような言葉を選ぶべきか,という観点からは不当とも思えます.

投稿: oanus | 2009年4月25日 (土) 15:24

oanusさん、誤解です。私は「近似」の誤用を指摘したのではありません。「近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ」に対する反例を提示して、もとの議論の哲学上の瑕疵を指摘したのです。こちら側(数学)の文脈でおかしいとはいっていません。あちら側(哲学)の土俵にのった上で、あちら側としての弱点をついたものです。

投稿: かも ひろやす | 2009年4月25日 (土) 15:57

ご指摘ありがとうございます > かもさん
確かに,私の主張は両者の論理に共に矛盾がない場合を想定した話でしたので,それよりも先に相手の矛盾を相手の土俵で指摘する必要があること (さらに今回の件でそのような弱点が見いだせること) には同意します.

「誤用」という新たな火種を残してしまった気もしますが,個々の公理系自体の矛盾と,複数の公理系を混同する誤りとが混ざった概念として使っていた (つまり私の言葉選びのミス),とでも解釈してください.

投稿: oanus | 2009年4月25日 (土) 16:39

oanusさん、かも ひろやすさん、今日は。

ちょっとoanusさんに確認したいのですが、よろしいでしょうか。

たとえば、「自然科学とは、自然(現象)の法則性を明らかにする学問だ」、という言い回しは可能だとお考えでしょうか?

後、「真理」は、「他の人が持ち出してきている」、と私は見ているのですけれど、いかがでしょうか。
調べた限りでは、apjさんが真理という語を出して説明される際は、科学は真理、というような素朴な言い方に対するカウンターの場合、だと認識しています。

つまり、「真理をどう捉えるかはともかく……」、というかたちになっていて、それは実は、哲学的な議論の尊重、と言えると考えています。

これは「初めから科学哲学の議論をしている」ケースでは無い、というのが私が書いている事ですし、そういう場面だとまた違う話になるかも知れないが、というのを前提しています。

つまり、
▼引   用▼
哲学者にも理解してもらうためには具体的にどのような言葉を選ぶべきか,という観点からは
▲引用終わり▲
それは「別の」観点では、という事ですね。

私は、厳密に定義された学術用語で無いならば、「その場で意味を確認する」のがコミュニケーション上最も大切だ、と考えています。たとえば、心理学において「発達」は、一般に認識されるものとはかなり意味が異なると思いますが、そもそも日常的に用いられる言葉でもあるから、そういう用法も鑑みれば、(全くはずれた使い方をしない限りで)色々な使い方が出来るのでは、という事なのではないかと。

えっと、そうですね。ソーカル事件の話が出てきたので、水を向ける、と言っては何ですが。かも ひろやすさんに伺ってみます。

>かも ひろやすさん

apjさんによる、「科学は自然の近似である」という言い回しについては、どのようにお考えでしょうか。私の認識は、これまでに書いたようなものです。oanusさんは、「ソーカル事件の逆」、と表現されていますが・・。※語弊があるかも、と断ってもおいでですが

投稿: TAKESAN | 2009年4月25日 (土) 17:45

> たとえば、「自然科学とは、自然(現象)の法則性を明らかにする学問だ」、という言い回しは可能だとお考えでしょうか?

然るべき文脈があれば,可能かもしれません.逆に,一切の文脈無しに全ての人が一切の誤解を起こさないような短い言葉で表現することは,私にはできません.そうしてできた言葉は,どうとでも解釈できるかもしれませんし,そのような解釈の一部は私の意に反した意味になるかもしれません.

全く同様に,私がはてなブックマーク等で支持を表明した文言は,私が一方的に解釈した上で賛同の意を表明したものにすぎませんので,元の発言者の意図と一致しているか,私にはわかりません.もしかすると,何らかの皮肉を文字通りに受け取っているかもしれません.また,私がココなどに書き連ねてきた言葉は,私の意を汲んでいただくには不足しているかもしれません.その意味で,こうしてまだ対話らしきものが続いていることには感謝します.

--
> 調べた限りでは、apjさんが真理という語を出して説明される際は、科学は真理、というような素朴な言い方に対するカウンターの場合、だと認識しています。
> つまり、「真理をどう捉えるかはともかく……」、というかたちになっていて、それは実は、哲学的な議論の尊重、と言えると考えています。

そういう意図であれば,そう理解します.不当な批判と受け取られたり,あるいは不快感を味わったというのであれば,撤回します.この件を長引かせているのは,端的に言えば,私が文脈を無視していたためです.これについては

>> 日常的に目にする全ての言葉について「言い換えの定義」を追跡することは不可能であり,一時的には個々の経験などに基づく意味で捉え,対話の後に然るべく修正する

の中途だったと理解していただけると幸いです.もちろん,最早この話題はこの業界では FAQ 入りしており「過去ログ読め」と一喝される問題でしょうから,それを正確に読み取らずに口を挟んだ当方の落ち度です.この件でみなさまに余計なコストをかけさせてしまったことについては素直に詫びます.

> 「その場で意味を確認する」のがコミュニケーション上最も大切だ

という考え方に基づき,お許し願います.

--
> それは「別の」観点では、という事ですね。

という問いへの解答は「はい」です.ここでは元の文脈でのみ解釈せよ,という注文を無視しましたので,上と同様の理由によりお詫び申し上げます.

投稿: oanus | 2009年4月25日 (土) 20:18

TAKESANさん、

>調べた限りでは、apjさんが真理という語を出して説明される際は、科学は真理、というような素朴な言い方に対するカウンターの場合、だと認識しています。

 まったくもってその通りです。

 この表現に至る前に、ニセ科学言説を用いてインチキ商品を買わせるような商売が現実には山ほどあり、それに対して、具体的な批判をしていたら、「科学万能主義」「科学教」「科学的の真理だけが大事なのではない」と、科学でわかっていること=真理で、それを押しつけるのは傲慢、といった内容の反論が出てきていました。インチキ商品の宣伝を批判するのに「科学的真実でないからダメ」という言い方をする人も中には居て、余計な反発を呼び込んでしまうこともありました。さらに、「科学的真実と思われていたものが間違っているとわかったことがあったじゃないか。だから、今宣伝で使っている(ほとんど明らかにインチキな)言説だって、科学的真実かもしれないじゃないか。なのに科学的に間違っているというのはけしからん」といった反論が出てきたりしたのです。

 これらの意味のない誤解の応酬を防止する目的で、私は、「科学は自然の近似である」と言ったのです。
 近似であれば、精度を問題にすればよくなります。すると、実際問題として
現行の科学の精度>>(越えられない壁)>>インチキ宣伝で使われるニセ科学の精度
となりますから、科学的真実云々に触れずに、議論を進めることができます。

投稿: apj | 2009年4月25日 (土) 20:37

 追加です。

 科学に対して過剰な期待をすることも、その裏返しで過度の不信感を持つことも、あまり健全な態度とはいえないと思います。

 近似ということであれば、科学を絶対視するという態度とは結びつきませんし、科学を絶対視する態度に反発するという態度とも結びつきません。

投稿: apj | 2009年4月25日 (土) 20:41

apj さんのコメントで疑問が氷解しました.こちらとしては「近似」とか「誤差」という単語の意味に惑わされていたのですが「精度」という観点での発言ならば納得です.

投稿: oanus | 2009年4月25日 (土) 21:41

oanus さん、こんばんは、

>然るべき文脈があれば,可能かもしれません.逆に,一切の文脈無しに全ての人が一切の誤解を起こさないような短い言葉で表現することは,私にはできません.そうしてできた言葉は,どうとでも解釈できるかもしれませんし,そのような解釈の一部は私の意に反した意味になるかもしれません.

横から失礼します。辞書の例文でも文脈はありますよね。特に説明はなくても、ごく一般的状況という暗黙の了解があるのだと思います。それで、そういう暗黙の了解が一切ないとすると、文脈の説明が無限に必要になって、言葉でのコミュニケーションは不可能ではないかという気がします。哲学的議論をする場合は、文脈の説明を非常に詳細にする必要があるでしょうし、日常会話ではものすごく省略しても済むのだと思います。そういう違いはありますが、少なくとも当事者は哲学の議論をしているのか、日常会話をしているのかは分かっているはずなので、大まかな文脈は了解済みだと思います。

それで、「自然科学とは、自然(現象)の法則性を明らかにする学問だ」という言い回しが不可能だという場合がここでの議論の範囲で考えられるのでしょうか。私にはちょっと想像できないのです。

投稿: zorori | 2009年4月25日 (土) 21:50

> そういう暗黙の了解が一切ないとすると、文脈の説明が無限に必要になって、言葉でのコミュニケーションは不可能ではないかという気がします。

一切なければ不可能でしょう.そういう意味で,この仮定は悪意に満ちていたと認めざるをえません.一切の了解がないことでも大まかな了解があることでもなく,十分な了解があるか,が問題となるわけです.事前に学習することで十分な知識を身につける必要もありますが,学習で得たものが適切であるかを確認するための「対話」も同様に必要だと考えています.対話抜きにして,私にはそれを確信することができない,という意味です.

> 「自然科学とは、自然(現象)の法則性を明らかにする学問だ」という言い回しが不可能だという場合

これが非文だとは思いませんので,単純に各単語 (と書くと誤りのような気もする) をどう言い換えるかという問題になるかと思います.しかし,それこそ,この一連のコメントの最初の頃に問題とした「自然」がどのような概念を指すかという問題になるため,私の解釈と他人の解釈が同じであるかは未検証である,と言うにとどめさせてください.

投稿: oanus | 2009年4月25日 (土) 22:39

皆さん、今晩は。

>oanusさん

多分、精度という言葉は、近似や誤差などとセットになったりして、ここで何度か出てきていると思います。
精度や偏りの概念に関しては、実験科学や工学で重要かつ基本的なものでしょうし、apjさんや技術開発者さんは専門家ですので、そちらを念頭に置いている、と私は初めから読んでいます(し、本文にもかなり書いてます)。

▼引   用▼
たとえば、「自然科学とは、自然(現象)の法則性を明らかにする学問だ」、という言い回しは可能だとお考えでしょうか?
▲引用終わり▲
これを質問した意図ですが。

このような表現が可能、あるいは許容される、とするならば、自然科学の対象(物体・物質の運動の仕方や構造を確かめる、という程度でも)を知っている人々の間で、その対象を表す概念をひとまず「自然」として良い、つまり共通了解を得ているものと看做して良い、そして、「科学は自然の~」、という言い回しをしても良い、と言えるのではないか、と考えたからでした。

そして、そのコンテクストで「近似」を持ってくるのは構わないのではないか、と。

後、こういうやり取りを、私はネガティブな意味での批判と捉えたり、不快になったりする事はありませんので、そこはお気遣い頂くと、逆に恐縮します。

▼引   用▼
最早この話題はこの業界では FAQ 入りしており「過去ログ読め」と一喝される問題でしょうから,
▲引用終わり▲
いえ、そう思っていたとしたら、そのまま言ったかと。そうで無くて、色々な解釈の余地があるのかも知れないから改めて考えてみよう、と思って書いたのが、このエントリーですし。

quine10さんに対しては批判的ですが、それは端的に言って、ある程度でも調べる前に、いきなり哲学の話に持っていったから、です。つまり、apjさんの表現は、いきなりそこ(哲学的真理観の話)に持っていけるような言い回しでは無かっただろう、というのが私の認識でした。

------

>apjさん

あの表現が出てくるのは、科学は万能あるいは完全、というような考えに対する説明ですよね。
「近似」というのは、決して「達する」事は無いが、かといって、現象の予測や制御に役に立たない訳では無い、つまり「相当使える」、という両方の説明をしたもの、ですね。
だから、単に「モデル」でも表しきれない意味合いを「近似」で表されている、と私は読み取ったのでした。だから、別の解釈があるのを見て、あ、なるほど、とも思ったんですね。元々すんなり受け入れられた表現でしたから。

------

>zororiさん

oanusさんの仰るのは、人文科学方面で深い議論が行われているであろう「真理」や「自然」を安易に持ってくるのは、人文系の人々が自然科学や数学の概念を濫用した事の逆のようなものではないか、という事だと思うのですが、しかし「自然」とは、ごく一般的な概念であり(抽象的、という意味でもあるし、世間に広く普及している、という意味でもありますが)、物理や化学の研究対象としても了解がある言葉だから、その事を踏まえた「自然科学は自然の法則を~」的な言い回しが許容されるのなら、科学は自然の近似、という言い方も使って構わないのではないか、と私は思っています。

その意味では、たとえば、前に話題に出た「プラセボ効果」の誤用や意味の拡張、などの話とは、違っているのではないかと考えるんですね。

------

端的に言ってしまうと・・

ここに書かれたような会話をする人は、おそらくほとんどの人が、小学・中学で理科を習ってきた訳で、物質や物体の振る舞いの仕組みを確かめる学問がどういうものか、というのを知っていますよね。で、それらの学問の総称が「自然科学」であり、その学問分野で対象とするのが「自然」である、というある程度の共通了解があると看做して構わないだろう、という事です。

つまり、理科を習った事の無い人に対しては、科学は自然の~と言った所で意味が無いかも知れないけれども、そうでは無いですよね、という。

そして、apjさんの説明は、理科は習ったけど深く追求せず、科学は自然現象を解明し尽くしている、とか、このままいけば全部説明し尽くすのか、と考える人(あるいは、科学者はそう考えている、という勘違い)に対してのものになっている、と。

投稿: TAKESAN | 2009年4月25日 (土) 23:07

ああ、余談。

>oanusさん

私は多分、言語の恣意性については、ほんの少し気を回している方の人間だと思っています。多分ですけど。

と、ここまで書いて、もしかしたらこの場での話じゃ無い可能性に気付きました(いくつかの場について書いておられるようなので)。
もしここの話じゃ無かったら、単に私の認識の表明と取って頂ければ(要らん情報ですが…)。

投稿: TAKESAN | 2009年4月25日 (土) 23:27

apjさんの「科学は自然の近似」については、現場の科学者の体験的知識の表明として、何の違和感も感じませんでした。同系統のことは、表現は個々に異なっていますが、多くの科学者のいっていることです。たとえば、菊池さんの「科学は間違うがニセ科学は間違わない」などです。ごぞんじのとおり、私自身も「科学が万能なら科学者は失業する」と日頃言っています。

そのapjさんに対して、「それは科学哲学的に素朴すぎるだろう」と文句をつけたのが quine10さんでした。問題の設定がずれているのはTAKESANさんのご指摘のとおりですが、それだけでなく、文句のほうが哲学的に粗雑でした。結局、文句として二重に不発でした。風車にむかって突進するドンキホーテの刀が錆びている状態で痛々しいですね。

もちろん、ソーカル事件とは状況が全然違います。

投稿: かも ひろやす | 2009年4月26日 (日) 00:22

>かも ひろやすさん

ありがとうございます。

確かにそうですね。皆さんが使われるそれらの表現、使われる文脈も含め、同じような系統の言い回しですよね。

後、
▼引   用▼
現場の科学者の体験的知識の表明
▲引用終わり▲
ここがものすごく重要だと思います。というか、見事に一言で言い表して下さった…。
そのようにして発せられた言をいきなり真理対応説に結びつける、のが頂けなかったんですよね。

投稿: TAKESAN | 2009年4月26日 (日) 00:53

あらためて片っ端から読み返してみまして,まとめです.私の最大のミスは,最初に「科学は自然の近似である」という命題を見たときに,この「近似」という概念を即ち「精度の高さ」として解釈できなかったことです.TAKESAN さんをはじめとし,様々な方々 (というか,ほとんど全ての方々) が説明してくださったにも関わらずです.また,そのような中でのソーカル云々は失言でした.この点は猛省しています.ただ,依然として「自然」という言葉の使い方だけは何とも言い表わしがたいものが残るので,これはもう少し時間をかけて考え直してみます.ひとまず,みなさまありがとうございました.

追:某所 (隠れていない) での発言はこの議論への言及を含みます.すでに書いてしまったことであり,言い繕いようの無いことも承知ですので,あのままとします.

投稿: oanus | 2009年4月26日 (日) 02:30

すみません。ドンキホーテの使う武器は刀ではなく槍でした。お詫びして訂正します。

投稿: かも ひろやす | 2009年4月26日 (日) 04:00

横レスで、かつ、本筋とはだいぶずれるのですがお許しください。
鉄やケイ素についてです。

鉄の中のケイ素の個数がある真の値を持つことになっていますが、これは物理学としては疑問なのではないでしょうか。個数演算子の固有状態をとっている保証はありませんし、固体といえども蒸気圧は有限の値を持ちますからグランドカノニカルと思えますよね。
もちろん、これは真の値をこういうモデルでは持たないといっているだけであり、また化学者が普段使うモデルでは古典的なので真の値があることは正しいと思います。それに実験誤差からすればこんなのは話にならないほど小さいというのもそのとおりでしょう。

ここの話がモデル適用の際の実験誤差ということは承知しているので、余計な話ではあるのですが、先方の文句との間の断絶を埋めるにはこういう議論もしておかなくてはいけないように思います。
「光速度は定義値であるし、光速度の存在をアプリオリに認めるのか」という向こう側につけたコメントも、近似の話をするときに「モデル」を「自然」と置き換えて話を進めていないかという懸念から発したものです。

投稿: 白のカピバラ | 2009年4月26日 (日) 04:54

皆さん、今日は。

何度か書いているように、apjさんの言い回しの「近似」には、辞書的な一般的意味に加え、実験科学の精度や偏りやら、モデルやら、そういう概念を踏まえた上で、「実際の現象に近い」という意味で用いている、と読みました。で、その実際の現象、つまり自然(現象)にはある程度の共通了解がある、と言うか、共通了解がある場だからこそ出てくる表現、と見るのが適切だ、と思った次第です。

あ、なるほど、ドン・キホーテは槍か。全然考えもしませんでした・・。

>白のカピバラさん

ありがとうございます。
私にはちょっとむつかしいですが、こちらでそれについてのやり取りをして頂いて構いませんので、よろしくお願いします。

投稿: TAKESAN | 2009年4月26日 (日) 17:21

直接ここの話題と関連はしないかもですが、先日のmizusumashiさんのエントリーとも関係あると思うし、参考になると考えたので、少し。後、ちょうどdlitさんが上げられたエントリーにも関連するかも。

少し、と言いながら、相当長いですが・・。
▼引   用▼
そこでクワインは次のようにいう。「経験主義者として,私は科学のもちいる概念図式が,究極のところ,過去の経験にてらして未来の経験を予測するための道具(tool)である,と考えつづけている。物理的対象は,便利(convenient)な仲介物としてこの場面に概念的に導入されたものである。……私自身,素人の物理学者として,物理的対象の存在を信じ,ホメロスの神々の存在を信じることはない。そして私とはちがった信じ方をするのは,科学的に誤りであると考える。」(※)
 「しかし」とクワインはつづける。「認識論的な地位のうえで,物理的対象と神々のあいだには,程度の差があるだけで,種類のちがいがあるわけではない。どちらの存在も,文化的仮定(cultural posit)としてのみ私たちの考えかたにはいってくるのである。物理的対象という神話が,たいていの他の神話よりも認識論的にすぐれているのは,経験の流れ(the flux of experience)のなかに,とりあつかいやすい構造をつくりだす装置(device)として,より有効(efficacious)であることがわかっているためである。」
▲引用終わり▲
・引用元:魚津郁夫 『現代アメリカ思想 ―プラグマティズムの展開―(’01)』P219・220

・同書における参考文献:クワイン 著,飯田隆 訳『論理的観点から』勁草書房,1992年
※'Two Dogmas of Empiricism' P44 (飯田訳,61頁)

かなり示唆的ですし、現場の科学者の科学観とも、そんなにずれていないんじゃないかな、と。

投稿: TAKESAN | 2009年4月26日 (日) 18:39

あ、書き忘れ。

言うまでも無いですが、'Two Dogmas of Empiricism'の著者は、Quine です。

投稿: TAKESAN | 2009年4月26日 (日) 18:42

こんにちは。

もうほぼ収束している状態だとは思うのですが。
私がこのエントリーでのコメントを拝見していてちょっと不思議に思ったのは、じゃあ哲学では理論や説が深まったり進歩したり、あるいは良い説明と良くない説明ということをどのようにとらえるのだろう?、ということでした。

化学でも生物学でも物理学でも、あるいは数学でも、これまでより理論が進歩したとか更に精度が向上したとか、そのように言えるような基準があるわけですよね。それぞれの分野での方法論においては当然として、ある程度は化学や生物学や物理学で共通して認められるような方法論というのがあったりもするわけです。
それにしたがえば、これまでの理論より更に広い範囲に適用できるとか、理論に矛盾すると思われていた実験結果にもきちんと説明がつけられるとか、そんな蓄積があるわけで、その結果として「今までより良く自然を記述できるようになっている。」とか「今までより自然の姿に近づいている。」とか「(自然の限られた部分しか調べられてない)科学は自然の近似に過ぎないかもしれないが(過去より現在の方が)近似の精度が向上している。」とか考えてもよろしかろう、と。

これは言ってみれば、真の値だとか真の機構だとかが判らなくても(実際、それを在ると仮定してそれを追求しているのですから当然ですが)、真の値や真の機構だとかをコレコレと定める事ができなかたとしても、普通に言える事だと思うんですよね。
しかも、それで科学がかなり上手くやれてるのは、さすがにコンセンサスが取れていると考えて良いでしょう。

で。冒頭の疑問になるのですが、哲学的な議論において「これは今までよりよい説明だ」とか「これまでの議論を包括できるフレームワークだ」とか、別に何でも良いのですが「進歩の基準」というのはあるのだろうか、と。仮に「そんなものはない」となると、良い議論とそうでない議論の区別も難しくなってしまう気がして。
一方、もしそれに類する基準が哲学にもあるとしたら、その基準に従って「真の自然(それがなんであったとしても)の姿に前よりは近づいている。」とか言っても支障がないように思うし、真のXXを記述することなく「XXの近似」という用語を使って良くなるように思います。

とはいえ、TAKESANさんが当初から注意書きに記しているように、哲学にあまり立ち入るつもりはなくて、どちらかといえば「哲学のやり方は科学できるのか?」みたいなものかもしれません。

まぁ、あまりおもしろい話にはならないかもしれませんし、科学は科学で(使う用語の定義も含めて)自分野のことで忙しいから、哲学側で科学を分析したいなら科学の用語を知るのは哲学側であるべきな気もしますし。

P.S.
TAKESANさんは既にご存知かもしれませんが、統計学にもAIC(Akaike Information Criterion)などの情報量規準があり、いくつかの条件を満足してさえいれば、真の分布の想定無しに統計モデル間の優劣を付けられるようになってますよね。

投稿: YJS | 2009年4月26日 (日) 22:41

YJSさん、今晩は。

なかなか難しい所だと思います。
立場にもよる、でしょうね。極端な相対化をする人でしたら、いかに科学が説明の体系として優れていると言っても、それでも、「全く何も言えない」、と主張するかも知れません。

科学では、観測事実があって、それを整合的に説明する、のを目指していく訳ですよね。で、現象の予測や制御に用いて、その理論なり法則なりがどうであるかを見ていく。それで多分、より良く観測事実を説明するようになる(つまり、進んでいく)、というのを認める人は、おそらく大部分であろうと思います。それは、上で引いたクワインの言にも見て取れますね。

で、そこから先(と言うか、「外」と言った方がいいかも知れませんが)をどう考えるか、という部分で、色々考えが違ってくるのだと思います。つまり、「真理」、「実在」などの概念との関連。「自然」も出てくる。

進んでいくのを認めるとして、それは「何かに”近づいて”いく」と看做すのか否か、とか。

私自身は、ビジュアル的なイメージとして、地図の解像度が段々上がっていくようなものを持っているのですが、これもおそらく、素朴な真理観や進歩観と取られる所でしょうね。

ちょっと余談めきます。

上で、極端な相対化の話を書きましたが。
そういう立場だと、科学と他の文化では全く同じようなものである、という風な強い考えを持つ人もいるかも知れません。
で、それはたとえば、上で引いたクワインの言から導き出されたりする、かも知れないですね。そこで、改めて書いておきたいのですが、私は、クワインの、
▼引   用▼
「認識論的な地位のうえで,物理的対象と神々のあいだには,程度の差があるだけで,種類のちがいがあるわけではない。
▲引用終わり▲
この主張に賛同するものですが、しかし、ここにこのように付け加えたいとも思います。すなわち、

 種類の違いがある訳では無い。程度の差があるだけだ。しかし、その「程度の差」は、圧倒的に大きい。

と。現象の予測・制御・メカニズムの記述 等において、科学は全く他の文化に抜きん出ており、それを維持するために、様々なシステムが構築されている、というのが自分の主張です。
これは、poohさんの所でよく私が書く事なんですが、ここは結構、強調しておきたい部分だったりします。

---

各種情報量基準、勉強せねば、と思っているのですが、手をつけていない状態でして……勉強したい事が多過ぎるのも困りますね(笑)

投稿: TAKESAN | 2009年4月27日 (月) 00:16

白のカピバラさん:

個数演算子の話をしなくても、たとえば、厳密に言うとどんな物体であっても位置と運動量は同時に決まらないはず、という話でいいのでは。
もちろん、実際には、日常スケールの物体なら、位置と運動量を充分な精度で同時に決めることができます。
これは、古典力学と量子力学という「違う力学」があるからではなく、大きな物体は「古典的」に見えるという一般的な事情であると思います。

投稿: きくち | 2009年4月27日 (月) 19:57

きくちさん、今晩は。

引き続き、やり取りして頂いて構いませんので、よろしくです。

投稿: TAKESAN | 2009年4月27日 (月) 23:30

きくちさん
こんにちは。

共役なペアとして、位置と運動量の方が一般的に親しみがあるというのはそのとおりだと思います。また、マクロスケールなら古典的と差がないようにふるまうというのもまったくもっておっしゃる通りです。
量子的描像では個数も「充分な精度で決める」ことができるというのもそうでしょう。そして塊が量子的に扱えるかには疑問は残るかもしれません。

私が問いたかったのは、技術開発者さんの「塊を構成している元素は数は分からなくても有限個であるということは証明可能」という発言は古典的描像の素朴実在論によるものではないか、ということです。化学では古典的な描像で素朴に実在しているように表現しても問題が起きることはあまりないのでしょうが、実在がどうこうという話もでているので念のために「真の値」がどのような意味であるかを補足する必要があると感じたのです。なので個数演算子を選びました。これは、たとえば、「ばね定数、屈折率や抵抗値は「真値は存在する」が技術上近似値しか求まらない。」に対しては、弾性限界、光の強度や温度や電流に依存しているなど精度を上げればより細かい構造がみえる(あるいは見えるだろう)ことを(実在の話をする場合には)断るべきと思うのと同様です。すくなくとも、科学の与える豊かな世界観を表現しきれていないので、もったいないのではないでしょうか。

私は本筋に関しては、本エントリーの通り quine10 さんの誤読だというのでいいと思っています。

投稿: 白のカピバラ | 2009年4月29日 (水) 13:50

白のカピバラさん、今日は。

ご説明、ありがとうございます。その点、私の見方も素朴に過ぎたように思います。

引き続き、もし補足等がありましたら、こちらを使って頂ければ、私としてもありがたいです。

投稿: TAKESAN | 2009年4月29日 (水) 14:01

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