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2009年4月に作成された記事

2009年4月30日 (木)

違います

不連続な茶飲み話: 文脈

きちんとお読み下さい。

自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

思わぬ文脈で読み取られて、の意味がよく解りません。文脈とは、発言がなされた場がどのようなものであったか、という事なので、文脈の把握そのものが誤っていたのだとすれば、それは単に誤読です。こちらは、どういう文脈であったか、言葉にどういう意味を持たせていたか、などを説明するまでです。文句は言えない、とは? 好きなように解釈されてもしょうが無い、という話ですか? そんな訳無いでしょう。適当に読まれたのなら、文句を言うに決まっています。

 まして上の場合、「科学とは何ぞや」という話をしているわけですから、

いや、そこまで一般的な話では無いのでは。と言うか、科学とは何ぞや、という問題なら、初めにそういう論題を設定してからやればよろしいかと。

とても「哲学的論議に持っていくこと自体がナンセンス」とは言えないのではないかと。

何故ですか? 私は、一つの文を採り上げてそれを哲学的に云々し、発言者の真理観まで憶測混じりに推論するのはおかしいだろう、と言ったのですが。ところで、その部分、私のコメントの引用かな。ちょっと探し切れないのですが、多分、最近「哲学的論議」という言葉を使ったのは、

quine10さんのように哲学的論議に持っていくのがいかにナンセンスか、

ここだけだったと思います(http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/lets_skeptic-28.html#comment-56085433)。ここではちゃんと、「quine10さんのように」と書いていますね。「ナンセンス」もここ以外で書いた記憶が無いので、もし別の箇所の引用だとしたら、教えて下さい。ともかく、科学哲学の話をする事自体がナンセンスだ、と言った覚えは無いです。

とりわけ「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人の発言であれば――、ダブルスタンダードに聞こえます。

判然としません。何がどうダブルスタンダードなのでしょう。それと、何で、”「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人”が強調されているのでしょうか。

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をしへて

「嬉々しい」

↑これ、なんて読むんですか? いくら調べても解らぬのですが。

て言うか、「嬉々(きき)」以外で使えるんですか、これ。

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2009年4月29日 (水)

>lets_skepticさん

「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ - あらきけいすけの雑記帳

lets_skeptic さんに問いたい:「真理」を前提に置いているのは(1)誰のどの学説なのか?(2)その学説のどの部分がどのように問題なのか?この程度のコメントでは十分に合理的な説明になっていないので説明して欲しい…って問い返されても仕方ないよね。(この件、回答は不要です。)

※引用に際し、リンク等はずす

だそうです。これは結構クリティカルなので、検討する必要があると思います。

>あらきけいすけさん

批判的に言及しておいて、回答は不要、などと一々仰らないように。

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ぼくが TAKESAN さんにツッコんだ理由は、これが「ニセ科学」説明しようとした apj さんのエントリに、自分なりの哲学的意見をまとめようとした quine10 さんの議論に対する TAKESAN さんのブコメとして書かれていたからこそだ。

いいえ。「現場の科学者の体験的知識の表明」(かも ひろやすさんによる)として、文脈を考慮して特に問題無いと思われた記述に、その文脈を無視して哲学の議論に引き付けたので問題だと思ったのです。私のブクマコメントは、apjさんが色々の場でああ書くのは適切だ、と言った訳ですが、それは、あの文脈であれば適当、という事です。そもそも、quine10さんは、「どこの誰の表現かを、きちんと明示」していません。にも拘らず、「科学は自然の近似」という言い回しのみを取り出して論評しています。だから私は、おそらくapjさんの表現の事だろう、と仮定して、その言い回しが出てくる文脈ごと検討しています。

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BEYONETTA

BAYONETTA - ベヨネッタ | OFFICIAL WEBSITE

Xbox LIVEでPV配信されてたので、何となく観てみたのですよ。

…。

……。

やばい。

超面白そう。

これは、久々のテンションの上がり方。思わずPVを数回連続で観てしまったレベル。

このセンスは個人的に、どストライクですよ。あのクドさ・濃さがなかなかイイ。デビル・メイ・クライ×GOD OF WAR×魔女 て感じですか。

これは期待大だなあ。

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2009年4月28日 (火)

色々説明

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ - 日記

「血液型性格診断」に科学的根拠がないことは、すでに心理学の実験で証明されている」

ホントか?ソース出せよ。

→正確には、「心理学の実験で証明」、では無い(普通は、質問紙調査を「実験」とは言わない)。血液型性格判断は、大規模な社会心理学的研究などにより、反証されている。ソースは、大規模な研究では、松井や山崎・坂元 等。その他、多くの小規模な研究がある。参考資料⇒■(シリーズ)「血液型と性格」論文レビューをするにあたって|ほたるいかの書きつけ ■(シリーズ)忘却からの帰還: "Blood type and personality" に手を出したことがある研究者(1) Cattell ~ 忘却からの帰還: "Blood type and personality" に言及したことがある研究者 (4) Kosaku Yoshino

「性格」なんてものが科学で定量的に扱えるわけないだろ。

→それは性格心理学そのものの否定。質問紙調査等により性格特性を把握する事をも否定する。その立場自体はあって良いが、「仮に性格が科学的定量的に研究出来なくとも」、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

こんなものを科学的に反証できると考えている人間こそニセ科学の側だ。

→性格心理学や社会心理学のパラダイムに則れば、科学的に反証出来る。仮に、上の理由により、性格を定量化出来ず、従って反証出来なくとも、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

「血液型は単に抗原の違いを示しているに過ぎないのだから、性格とは何の関係もない」って批判は意味がない。

→それは、血液型性格判断に対する筋の悪い批判なので、そのような想定はあまり意味が無い。

そもそも科学でないことを「ニセ科学」だとか「科学的根拠がない」とか言い出すのを止めろと。

→科学で無いとして、それを「科学的根拠が無い」と評価するのは、全くおかしく無い。そして「ニセ科学」は、科学的根拠が無いにも拘らず、それが成り立っているかのように主張もしくは認識されるものである。

頭の悪い人はAが「科学的に」否定されてると思っちゃうから、警戒しないと。

→血液型性格判断は、心理学的に反証されている。繰り返し研究され、その結果強い関連が見出されなければ、反証されたと見て構わない。ごく慎重な態度を採り、それでも反証なされていない、と主張しても良いが、それは、「ニセ科学という評価が出来なくなる」条件では無い。

仮に、今までの全ての心理学における、血液型―性格 関連説の研究に不備があったとして、数十年後にそれが明らかになり、「実は血液型と性格に強い連関があった」事が解った、とする。その場合でも、「現在における、血液型性格判断を”ニセ科学”とする評価」は変わらない。確かめられていないにも拘らず、「確かめたかのように」主張してはならない。

血液型性格判断の否定と、「血液型と性格に関係が無い」、という論は必ずしも同じでは無い(文脈にもよる)。

20年前は加熱した牛からヤコブ病が感染する「科学的根拠はない」、

30年前は注射器の使い回しで病気が感染する「科学的根拠はない」って言ってましたよ。

→「科学的根拠は無い」、と、「科学的に考えてあり得ない」、は別である。現象が実証的に確認されていないなら、それは一般に「科学的根拠は無い」、と評価される。そしてそれは、必ずしも、「これまでの科学の体系から見て、原理的に成り立たない」というのを意味しない。現象が確認されていないのに「確認された」と言えば、それは批判される。「仮に成り立っているとしても」、である。成り立っている事と、それが「確かめられる」事は同じでは無い。

血液型性格判断がニセ科学だなんてニセ科学だぜ

→この文は、血液型性格判断をニセ科学と評価する事そのものが「ニセ科学」だと言っている。という事は、ニセ科学という概念を理解した上で、それに当てはまると考えた、のを意味する。では、ニセ科学概念の意味を説明出来るはずである。単なる揶揄で、特に深く考えずに使ったので無ければ。

<追記>こちらもどうぞ⇒血液型性格判断・ニセ科学・差別、あるいは「科学」と「価値」|ほたるいかの書きつけ<追記終わり>

資料

リンク集:

書籍(私が未読のもの含む):

不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門 Book 不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

著者:菊池 聡,宮元 博章,谷口 高士
販売元:北大路書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「モード性格」論―心理学のかしこい使い方 Book 「モード性格」論―心理学のかしこい使い方

著者:サトウ タツヤ,渡邊 芳之
販売元:紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

心理学 (図解雑学) Book 心理学 (図解雑学)

著者:大村 政男
販売元:ナツメ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book 血液型と性格

著者:大村 政男
販売元:福村出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年4月27日 (月)

科学と哲学

私が、哲学的な問題には立ち入らない、と何度か書いたのは、もしそこに入っていくとすると、広く深い議論にならざるを得ないから、なんですね。哲学の人は科学をよく勉強しなくちゃならないし、科学の人は哲学をよく勉強しなくちゃならない。その上で、実際の科学の方法と哲学の概念との関係を考えたりする。

加えて最近は、科学を哲学的に考察する場合、単に「科学哲学」では無く、科学哲学・科学史・科学社会学 等を含んだ総合的なものとして、「科学”の”哲学」と言われたりもするようで、いずれにしても、非常に広範囲で、しかも深い議論が必要とされる訳ですね。

それで、ありていに言ってしまうと、この場でそれを仕切るには、私にはちょっと力不足であるな、と。

実は、関心はすごくあるんですよね。元々哲学の本を結構読んだりもしているので。でも、今は実証科学の方法を主として勉強していこうと思っている時期でして、実験科学や統計学方面にウエイトを掛けている所だったりします。

これは、以前の自分が、「科学」を知らず、しかも、哲学をほんの少し眺めただけにも拘らず、実証科学に批判的であった、という苦い経験から来ています。

科学を勉強するにつれ、哲学の人達はこう言うけど、科学の人達は普通に踏まえてるじゃない、と思う事が、かなりありました。もしかすると、中途半端に哲学をやった人の的外れな科学批判、に当たってしまった、のもあるのかも知れません。

考えてみれば当然でもあるんですよね。科学者で科学哲学的な思索を深めた人も沢山いるのですし、それが科学の方法にフィードバックされないと考える方に無理がある訳で。心理学方面だと、方法的な対立が色々あったりして、科学哲学と絡めて論じられる本も結構ありますね。

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2009年4月26日 (日)

スラーッシュ!

『モンスターハンター3(トライ)』の新武器が明らかに! - ファミ通.com

4Gamer.net ― 「モンスターハンター3(トライ)」で初登場となる武器カテゴリ“スラッシュアックス”を紹介(モンスターハンター3(トライ))

斧はアクションゲーム定番の武器なので、出てくるのでは、と思ってた人も多いでしょうね。大剣に含まれていましたし。

でもあれですね。双剣・弓・ガンランス・狩猟笛 使いのガッカリ感は異常かも…。私はハンマー・大剣・太刀 が主なので、残っている組ですが・・。個人的には、遠距離武器は複数の種類あってもいいと思うんですけどね。

ところで、MH3の体験版をプレイした友人の感想ですが。

画面が結構キツイそうです。友人は、結構な大画面のディスプレイを持っているのですが、HD画質に慣れていると、SDを引き伸ばしたのは、やはりキツい模様。MHは、グラフィックの向上に期待する人もいるでしょうし(私もそうですが)、ここら辺、印象としてはマイナスなのかも。

尤も、こういうのは、初めから気にしない人は気にしない、とか、やっている内に慣れてくる、というのがある訳ですけれども。

今度見せてもらうので、楽しみです。画面を見て、えー、と思うのかも知れませんけど。

あ、そうそう。別の友人の話ですが、クラシックコントーラはやりにくいっぽいです。詳細を聞いていないので、どういった部分が、は解っていないのですが。

モンスターハンターG(通常版:「モンスターハンター3(トライ)体験版」同梱) Video Games モンスターハンターG(通常版:「モンスターハンター3(トライ)体験版」同梱)

販売元:カプコン
発売日:2009/04/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2009年4月25日 (土)

PangYa

ファンタジーゴルフ パンヤ PORTABLE Video Games ファンタジーゴルフ パンヤ PORTABLE

販売元:タカラトミー
発売日:2009/04/16
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ちょいとしたきっかけがあって、今プレイしているのですが。

パンヤシリーズをやるのは初めてなんですが、かなり面白いですね、これ。

友人がPC版からプレイしてたのですが、特に興味を懐く事も無かったのですよね、実は。

システムも、良い感じ。て言うか、私は、ゴルフゲームといえば、オーソドックスなタイプをやるのがほとんど(みんゴルとか)なので、新鮮。

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2009年4月24日 (金)

意味不明

なんか、「大声で意味不明の事を叫んでいた」、というのが繰り返し言われてますけど。

酔っ払いが発する大声なんて、大抵意味不明でしょうよ。

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「科学は自然の近似」

きっかけはこちら⇒科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

では、本題へ。

えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。

「科学は自然の近似である」

「えっ?」と。

「マジで言ってんの?」と。

こう切り出し、ここから、「科学は自然の近似である」という見方を、哲学的な真理観の立場から批判しています。※引用にあたり、強調等の修飾は はずします

さて、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄、というのがどのブログかは判りませんけれども、疑似科学あるいはニセ科学を批判し、「科学は自然の近似である」という表現をよくされるのは、天羽さん(apjさん。以下apjさんで統一)なので、apjさんの論に対する批判と読みました。私が同じような言い回しをする際も、apjさんの論に賛同して使っています。

※念のために書いておきます。ここでは、ニセ科学の話は措いておいて、「科学は自然の近似」という表現がどういう意味を持つのか(持たされているのか)、を考えてみたいと思います。ですので、ニセ科学批判者がどうだ、などの話はしません。ここは踏まえて頂ければ

(ちなみに、これをいきなり真理対応説・真理整合説 と関連付けて論ずる意味は、私にはよく解りません。関連はするが、一応別の話、と捉えるべきだと思います)

上記リンクについた、はてなブックマークはこちら(私がブクマミスしたので、ブクマのページが2つ存在します)⇒はてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

ここで私は、

ublftbo   科学論 いや、自然科学(の理論)が自然の近似、というのは適切な表現だと思いますけど。というか、あれは「定義」じゃないでしょう…。なんか誤読してるんじゃないかな。

こう書きました。※一部抜粋

ここで私は、自然の振る舞いを近似的に記述したものが科学である、と取れば、特に問題無い表現だと思うし、哲学の真理観の話は、一応別の問題だろう、と考えたので、このコメントを書きました。

で、もう一つ引用。

arakik10 「自然科学が自然の近似」というのは杜撰な表現ですよ> id:ublftbo さま。もちろん、このエントリも quine10 さんには申し訳ないが、哲学的に「古くさい」議論ではある。

「杜撰」、との事。私はこれがどういう意味合いなのか、今ひとつ掴めませんでした。科学を定義せよ、と問われて「自然科学が自然の近似」と答えるのならともかく、自然の振る舞いを近似的に記述する、科学にはそもそもそういう側面がある、という意味合いでそう表現するのは、問題無いと思うからです。杜撰、とはよく解りません。

次に、同じエントリーに言及したsteam_heartさんの記事と、それについた はてなブックマークのページにリンクします⇒■細かいなあ、オレも。 - Gavagai ■はてなブックマーク - 細かいなあ、オレも。 - Gavagai

ブックマークコメントを引用。

oanus 反ニセ科学 地球のカタチを球とみなすのは「数学」に過ぎない / 自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの? / 真理が「モデル」を指すなら問題ない / 環境と環世界が混ざってるよーな…

ここでoanusさんは、「自然科学の仕事は (後に球に近似されるかもしれない) 何かを観測する作業じゃないの?」、”真理が「モデル」を指すなら”と書いておられます。

私は後者の方にちょっと違和感を懐きました。多分、apjさんが、「科学は自然の近似」という言い回しをされる際の「真理」は、そういう意味では無いのでは、と思ったからです。

で、私は、近似の意味などを調べたり、ブクマをつけたりしていたのですが、別のブックマーク(はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)でoanusさんから、

oanus meta id:ublftboさん, 「近似」ではなく「自然」という言葉が問題なのかと.暗黙の了解としている物質世界の全体を指すのか,人間の認知系を通した世界の像を指すのかという違いでしょう / id コールで誤入力してすみません

と教示を頂き、なるほど、「近似」で無く「自然」の方もよく考えるべきか、と思いました。

oanusさんが仰る2つの「自然」、前者は「実在」や「外界」と呼べるでしょうし、後者は「現象界」とでも呼べるでしょうか。あるいは、物理空間と現象空間、とか。※現象界や現象空間は、哲学などで用いられる概念だと思います

私は、「科学は自然の近似」とapjさんが仰る場合、「自然」は前者の意味で読んでいます。つまり、人間とは独立した自然現象があり、その構造を知覚を通じて解明していく、という営みを「科学」と呼ぶ、と。「実在」をどう捉えるか、はまた別の議論があるでしょうが、自然科学の方法としては、観測や実験を通じて自然現象のメカニズムを追究するものである、と言って差し支え無いと思います。

そういった意味で、私は同ブックマークで、

ublftbo   ↓なるほど。実在を仮定する(←これが「自然」)として、人間の知覚による観測には限界があるから、その意味で「自然の近似に過ぎない」という言い方になっていると読んで、特に問題ない表現と考えた次第です。

こう書きました。つまり、まず実在を仮定する。人間とは独立した世界があると看做す訳ですね。そして、それを「自然」と呼ぶ。その上で、人間の観測によってメカニズムを解明していく訳で、そこには実験科学的な誤差もあるし、精度にも限界がある。その意味で、私は、「科学は自然の近似でしか無い」、「科学は自然の近似に過ぎない」、などの言い回しは出来るし、それは的外れなものでは無いと考えます。

別のページ(はてなブックマーク - はてなブックマーク - はてなブックマーク - きんじ 【近似】の意味 国語辞典 - goo辞書)で私は、

ublftbo   続き。 / 私は、「真理」が「モデル」を指すのではなくて、「自然」や「(仮説としての)実在」を指し、「近似」が「モデル」を指す、と読んだのですね。要するに、科学はモデル(近似)でしかない、という風に。

こうも書きました。これは、上のoanusさんのブックマークコメントを参照してのものです。要するに、apjさんが「科学は自然の近似である」と発言する文脈では、同時に「真理」が出てくる訳ですけれど(科学は真理などでは無い、という風に)、そこでの真理とは、「自然がどうなっているか」という事であり、それに科学は接近は出来るけれども、完全に一致したりする事は無い、というように、apjさんは考えておられるのではないかな、と思ったのです。

ここまでは、主にはてなブックマークでのやり取りの話。どう読解したか、という所。

で、こういうのは、ご本人がどう風に使っているのか、が最も重要なので、それを見ていきましょう。

ヴィトンのバッグに置き換えろ :: Archives

 科学には客観性があるけど、自然の「近似」であって「真理」ではない。それも、大勢の人が莫大な手間と資源をつぎ込んでどうにかこうにか今の精度にまで持ってきた近似。

これは、他の方の主張を受けてのものですね。ここで「精度」の話が出てきますね。apjさんは実験科学の専門家ですから、誤差や精度、公差などについてのプロフェッショナルな訳で、測定の限界や有効桁の話に関して、熟知されているはずです。この文は、そこら辺の論理を踏まえての発言だと思います。これはある意味、「科学の限界の表明」な訳ですね。

還元電解水に関する議論(その2)

 物理学の分野では、教科書に出ている法則などはすべて「自然」の近似です。近似の精度が悪くて現実をうまく説明しない場合は、近似の精度を上げる(新しい、別の形で法則を立てる)ということがなされます。たまに法則が絶対だと誤解する人が居るので困りますけど。

こちらでも、同様の説明がなされています。

特命リサーチXへのコメントに関するやりとりでは、

 ただ、完璧なものになるというのはちょっと行き過ぎな気がします。

 物理法則はすべて近似である、というのが私が常々思っていることです。この場合の「近似」は、測定誤差をうまく処理して真の値を考える、という意味ではないです、念のため。
 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。
「法則」を「理論」と置き換えてもかまわないです。
 特殊相対論がニュートン力学を含む形で作られた時は取り込まれ型でしたが、化学分野の燃焼のフロギストン説は捨てられました。
 思い切った理論的予測が成功することもたまにはありますが、そういうのは科学の歴史を見てもめずらしいことなので、歴史に残るできごとになりますね。

こう書かれています。誤差を評価して真値を推定するという意味では無い、とはっきり書かれていますね。一部を抜き出します↓

 できるだけたくさんの現象を説明する法則がさしあたり正しいとされるが、研究が進むに従って、その法則では説明できない現象が見つかって、法則がより一般的なものに書き換えられる。説明できない現象がたくさんある法則は誤りとして捨てられるか、より一般的な法則の一部として取り込まれる形で残る。この意味で法則は(自然の)近似だということです。

これは明瞭な説明だと思います。ここでは「法則」、「理論」となっていますが、これを「科学」と置き換えても、特に問題は無いでしょう。科学という語は、理論あるいは法則などの説明の体系を指す事もあるし、それらを追究する営みそのものを指す場合もあるので、文脈に沿って読めば良い。

これらの記述を鑑みて、「科学は自然の近似である」、という言い回し、表現は、問題のあるものと思わないですし、ましてや杜撰なものとは私は感じません。そもそもは、科学は絶対か、真理に達し得るか、などの問いに対する答え、という場面で出てくる表現な訳ですし、その文脈を考慮せずにどうこうするのは、適切なものでは無いように思います。

要するに、この表現は、科学の限界を示すもの、なのですね。科学を定義したものでも無く、科学の本質的な特徴の説明の一つ、と捉えるのが妥当なのではないでしょうか。

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えっと。

apjさん、もしお読みでしたら。

私はこのように解釈しているのですが、いかがでしょうか? こういうのは、説明されているご本人に伺うのが、一番正確で良いと思うので……で、いきなり「どういう意味ですか?」とブログなりで訊くのは ただの失礼な人なので、色々調べて、自分なりの読解を示してみました。

ご説明・ご批判を頂ければ幸いです。

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2009年4月23日 (木)

口伝2

大分前に書いたInterdisciplinary: 口伝の続き。重複するかも。

  • 自分を、「肉という服を着ている」存在のように意識する。もぞもぞ、もぞもぞ。
  • 力を発する時。蟻が腰から背中を伝って肩を通り、拳から飛び出すかのように。
  • 脚。地面を掃くように(高岡を参照)。
  • 足。足が扇子になったかのように。
  • 手。「掌が」扇子になったかのように。指では無く「掌が」。
  • 肩周り。「肩を千切る」ように。
  • 杖。仮想的な筒の中を通すように。その筒は、前の手に固定されているとする。
  • 腰。浮かせた足の方の腰が落っこちていくかのように。
  • 首。「へい、そうですか」、と時代劇の商人が胡麻を摺る時のように。
  • 腰腹。風船が「全方向に」膨らむように。
  • 剣。剣で自分の身体を支えるようにするが、剣には油が塗られていてツルツルしている、とイメージする。剣先まで滑ってゆく。
  • 腰。転換。戦車が方向を変えるように。
  • 腹と脚。腹の中に小人がいて、脚を竿にして釣りをしている。
  • 脚裏。見えない椅子があるかのごとく(高岡を参照)。
  • 半身を替える体捌き。30cmくらいしか開いていない襖に触れずに向こう側に通り抜けるように。
  • 剣の振りかぶり。身体の中にベルトコンベアが内蔵されているかのごとく。
  • 剣の手の内。柄を「クリップ」する。がしりと握るのでは無く、挟むように。

こんな感じ。

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青木さんの本

Rによる統計解析 Book Rによる統計解析

著者:青木 繁伸
販売元:オーム社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

本屋で見つけて、ビビッときた。目にして0.24秒で、いつか絶対読む本リストに入れた。

中身はパラパラめくっただけ。青木氏が書いているというだけで、信頼出来る本と確定出来るので。じっくり腰を据えて読もう。

図書館に入らんかな、と勝手な期待を。いや、やはり座右に置いておくべき本かな、これは。

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2009年4月22日 (水)

態度の問題とか

くどいくらい書いた方がいいと思うので。

Interdisciplinary: メモ:ニセ科学批判者

私はここで、「ニセ科学批判者」という言葉は、最も意味を広くとれば、ニセ科学を批判する人達、という意味だし、また、そうとるべきだと書きました。もし「批判者」と括るのならそうした方がいい、と。

で、ニセ科学を批判する一部の人の態度をもって、ニセ科学を批判する人々へ一般化をしちゃダメなのでは、というのも書いた。これは、何度も何度も書いている事です。

コメントでも触れていますが、もしやるなら、まず批判活動一般について論ずるのが適切だろうと思います。その上で、ニセ科学を批判する人々の大部分に共通するものがあり、それが批判という観点から好ましく無いのであれば、「ニセ科学批判者」を批判する、のが意味ある事になるでしょう。しかし、それが可能なのかどうかを、よく考える必要があるのではないでしょうか。

たとえば、ニセ科学を批判する際に手本とすべき態度、というのは考える事は出来ると思ってます。つまり、きくちさんとかですね。かと言って、そういう態度を採って無い人を「ニセ科学批判者」と呼びたくは無い、なんて考えが出てきちゃったりすると、それは言葉を大袈裟に捉えている事になるんじゃないかな、と。なので、このエントリーを書きました。

ニセ科学批判者か否か、というのは、ニセ科学という概念を正確に捉え用いているか、という部分で判断するべきだと思います。ニセ科学概念に誤解があれば、ニセ科学を批判しているとは言えない訳ですしね。

これは、自分のコメントから抜粋したものですが、今もこの考えは変わりません。きくちさんの態度がお手本となるものだと私は考えているし、「ニセ科学批判者」と括るなら、そうであるかどうかは、「ニセ科学」の概念をきちんと捉えているか否か、で考えるべきだと思います(括る必要があるかは別の話として)。批判の態度が一様であるかどうかは考慮しない方が良い、と私は明確に考えています。

というか、逆に聞きたいのです。

こうであるのが望ましい、という批判の態度が、明確にありますか? それは、批判を行う者が一様に、一貫して持っておくべきものですか? 批判の「効果」というが、批判の態度と強く関連しているものですか? それは、対象の多様性を考慮しなくてはならないのではないですか?

私は、はっきり言って(こう言うしか無い)「解らない」のです。このやり方は良く無かったのでは、と後から思う事はあるし、見ていて、それはまずいんじゃ、とも感じる場合がある。でも、こうすれば良かったのでは、と思ったとして、それが本当に良いのか、どうすべきだったか、は、そんなに簡単な話では無いですよね? いや、簡単な話じゃ無いからどうでもいい、という事ではありませんけれども。それと、批判の仕方って、一人の人間のやり方ですら、多様ですよね。

自分も、こういう態度はいかんよな、とか、こういう態度だけは採らない、というのがありますし、多分ここでも書いた事があります(名前も挙げたかも知れない)。しかし、それを指摘する事そのものにどういう意味があるのか、それによって何が改善されるのか、は、難しい問題ですよね。そうじゃありません?

私の考えは、こういうものです。それは、以前から変わっていません。

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さらしてしまっている

ちょっとWEBを彷徨ってて、武器術の動画を見つけました。いや、正確に言うと、以前も見た事があったけど、またそれを改めて観察した、と。

内容は、杖なんですが……

ううむ。

怖いね。WEBで動きを公開するのは。

だって、「これはやっちゃいけないよ」、と最初の方で教えられるはずの事を、全部やっちゃっているのですもの。多分高段位の方なのに。

うーん、やっぱ怖いね、WEBで動きを公開するのは。ぶるぶる。

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よく出てくる

私は毎週、アニメ関連のWEBラジオをいくつか聴いているのですが、ほぼ確実と言っていいくらい、血液型の話をしているのを、週に一度以上耳にします。ちょっとびっくりする頻度です。

いわゆる「コミュニケーションの潤滑油」的な捉えられ方なのでしょうね。もう、「当たり前」な感じになっているようです。極めてライトで、かなり信じている、という。

インターネットラジオ・TVの番組表

↑ここから面白そうなのをチョイスして聴いているのですが、せいぜい週に10本前後かな。それでも、結構血液型性格判断の話を耳にします。少なくない人達に聞かれるものだから、その影響力は、馬鹿に出来ないでしょうね。

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2009年4月21日 (火)

はばき

日本刀のイラストで、鎺(はばき)が描かれていないもの、たまに見かけますよね。

模擬刀一本でも観察すれば、すぐに解るものなのですが、意外と知られていないものなんですかね。いや、そうで無くとも、時代劇を観れば解りますけれども。観察力の問題もあるのかな。実在する道具なのだから、資料にあたっても良いと思うんですけどね。

余談。日本刀じゃ無いですけど、反りが急過ぎて、そんなもん、鞘に納められるかいな、という剣も見かけますですね(笑) もしかすると、ギターケースのごとく展開するとか。

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2009年4月20日 (月)

ちょいメモ

今まで書いたのをいくつかまとめ。

Interdisciplinary: ニセ科学の見方

Interdisciplinary: ニセ科学批判の効果についてとか色々

Interdisciplinary: 論点

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冷凍炒飯。職人業と大量生産品と

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(265)冷凍炒飯ができるまで

大変面白かった。

初めに著名な料理人が炒飯を作る工程を紹介し、次に、実際の商品の製造工程でそれを再現するのを見せる、という構成です。

手順としては、譚氏の技法を忠実になぞる、というかたちですね。つまり、

  1. 鍋を熱する
  2. 油を敷く
  3. 卵を投入
  4. 卵を掻き混ぜる
  5. ご飯を投入
  6. 掻き混ぜる
  7. 調味料や焼き豚を投入
  8. 掻き混ぜる
  9. 醤油を投入
  10. 掻き混ぜる
  11. 葱を最後に入れる

という工程。

映像をよく観察すると、炒飯をパラパラに仕上げるための工夫が随所に見られます。米を炊かずに蒸す、鍋を煙が出るまで加熱する、卵に少し火が入った段階で飯を投入する、等々。恐らく、掻き混ぜる羽の形状にも、工学的・技術的な工夫がなされているのでしょう。

炒めた後に葱を投入し、火が通り過ぎないようにしていますね。冷凍工程までに掻き混ぜられ運ばれていくので、程よく火が通るのでしょう。

このように、職人の卓越した技術を大量生産の工業製品として再現する、という試みは、実に面白いものですね。そして、その工程を細かく観られるコンテンツがあるのも素晴らしい。

たまに、大量生産品に嫌悪を覚える人もいますが、こういう所を見て色々考えるのもいいのではないでしょうか。劇画原作者とかね。至高の味を求め、精密な仕事をする職人もすごいし、それを大量生産の現場で再現し、一定の品質で提供する、というのも素晴らしい。「両方すごい」訳で。

紹介されている商品は、多分これかな↓

あおり炒め焼豚炒飯|冷凍食品|商品カテゴリー|商品情報|株式会社マルハニチロ食品

私はこれは食べた事ありませんが(炒飯は自分で作る)、材料がシンプルだから、一般に受け入れられる味になっているのではないかな、と思います。

それにしても、この頃の冷凍食品は、驚異的なクオリティですね。

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手作業で精密な仕事をやってのける職人の業も観たい、というあなたのために、こちらも。

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(105)そろばんができるまで

サイエンス チャンネル | 番組紹介:THE MAKING:(237)竹刀ができるまで

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2009年4月19日 (日)

いんしょうがかわる(アップして1分でタイトル変更)

あまりにも下らな過ぎてアレですが。

「まったくこの馬鹿野郎が・・・。」

と書くと、途轍もないバトー罵倒表現ですが、

「まったくこの馬鹿野郎が・・・。」(CV:茅原実里)

とすると、全く印象が違いますですな。

これまさしく、ブンミャクイソンセイ。

ネタが解らない人は、このエントリーを無視するように。

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そろそろ…

掲示板のあのスレが再始動するやも知れません。

一部の皆さん、準備はよろしいですか?

準備って言っても、いわゆる心の準備ですが。

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論点

およそ、「何かを批判する」という現象に関して、おおまかに見て、次のような複数の観点があると思われる。論点をいくつかに分けて見ていく事は、議論を円滑に行うためにも、大切であると考える。「何について」議論しているかを把握しておかないと、錯綜し、いつまでも話が噛み合わない、となりかねない。

1)「何を批判しているか」

批判する対象は何か。その意味は共有されているか。そもそもきっちりとした定義があるものか、無いものなのか。

必ずしも厳密な定義を行わなくとも良いが、議論の根本に関わる所なので、意味を確認し、共通了解を形成するのが肝要。

2)「それを批判するのは適切か」

批判対象を批判する事に、どのような理由付け・根拠付けがなされているか。それは、様々な観点から妥当なものであるか。あるいは合理的であるか。

3)「批判の態度はどのようなものか」

言葉遣い、タイミング、論理構成、等々。どういったものがあるか。典型的なパターンは見出せるのか。

4)「批判によって何を目指すか」、「批判は効果的であるか」

批判の目的、どのようになって欲しいのか。その目的はどの程度達せられているか。それは定量的に評価出来るか、出来るとしたら、具体的にどのように可能か。理論的に可能として、それは実際的に可能か。※これは、対象を批判する事の正当性に了解があるのが前提となる

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これらは全く独立したもの、では無く、それぞれの論点同士の関係も含めて考察していくのが重要。

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2009年4月18日 (土)

続き

以前にコメント欄かどっかで触れた、小学生が(今は中学生なのかな)ゲーム脳について肯定的に書いていた、というブログですが。(私がゲーム脳Q&Aを紹介した)

ふと思い立って、再び覗いたら、コメントで、支持するような意見を書いている方が。

うーん。記事が書かれてから一月以上後に書かれたコメントなのですが、それにわざわざ説明をする、というのもなあ。ブログ主さんはおそらく、もらった意見をひとまず好意的に受け止める、という方のようなので(新しいコメントも、素直に受け取っている様子。少なくとも表面上はね)、あまり何度もやると、却って負担をかけてしまいますね。

なんで改めて採り上げたか、と言うと。

ニセ科学を信じたりする人に対して、必ずしも全く同じ態度をとる訳でも無いし、必ずしもリンクを張って報告する事も無い、のは知って欲しいと思ったからでした。「やり方が一様で無い」事は特に理解してもらいたいです。※一様で無いから良いのだ、という話ではありません。一様だと看做すのは適切じゃ無いですよ、という事

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仮定

自分も気をつけたい所だけど。

「だとすれば」とか、「もしそうならば」、とか。

そういう仮定の表現を多用して、そこから論を長く進めるのは、ほどほどにしたいですね。

違った時の、反論や説明が、非常に骨の折れるものになります。

○○だとしたら△△なので……という言い方って、○○が間違っていたら、△△は当たらないし、その後の論も妥当では無くなるので。

で、仮定から導かれたものを組み合わせて論を作られたりすると、ものすごく困ったりする。

当たり前ですけど、使うな、という事じゃ無いですよ。仮定して進める前に訊く、なども出来るよね、という事で。ブログや掲示板は、それがやりやすいのがメリットの一つだったりするでしょう?

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2009年4月17日 (金)

答えます

疑似科学批判批判批判批判:王様は裸だ!Annex:So-net blog

量が膨大なので、引用しつつ簡潔に書きます。文体は、で・ある調にします。

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 なお、mizusumashiさんの発言を読む限りに置いて、「ウェブで見かける疑似科学批判」=「ニセ科学批判」と捉えてよさそうなので、以後そう読み替える。

→議論が進むにつれ、この部分に関しても誤解があった事が判明した。

 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ

→「だけ」では無い。そもそも「ニセ科学批判」と、論理実証主義のような科学哲学上の立場を混同しているように思えたので指摘した。論理実証主義とは、科学哲学において重要な概念であり、その主張はニセ科学を批判する者が共通して持っているものでは無い。

さらにものすごく意訳すれば...

(引用者註:途中略。リンク先参照の事)

 ...てな感じではないだろうか(「あっはっは」はともかく)。

→違う。ウェブで見かける擬似科学批判とは何か、と問われ、菊池教授のテキストを挙げた、にも拘らず、菊池教授らが主張する「ニセ科学」概念を正確に理解されていなかった。という事は、「ウェブで見かける擬似科学批判」が、「菊池教授らが行っている活動」であるのは認識していたが、その内容を正確に理解していなかった、というずれがあった事になる。

それに対し、「ニセ科学批判の枠組みではそれはおかしい」と文句を言うのも適切ではないだろう。何故なら、「ニセ科学批判」の枠組みを批判するために、それより大きな枠組みを示しているのだから。

→私は、「ニセ科学批判」の立場から、「ニセ科学として」宗教等を罵倒する事は出来ない、と書いた。「擬似科学批判」が菊池教授らの活動を指すのなら、その立場からは、宗教・道徳批判は導かれない。「総括」を参照の事。

と言うだろう。それだけの話だ。

→違う。私は、較べられた事を批判したのでは無い。「混同」している可能性を指摘した。

 TAKESANさんとこの掲示板のやり取りでmizusumashiさんが「セクショナリズム」を撤回してしまったのは非常に残念な事だと思う(本気で間違ったと思って撤回したのか、ヒートアップを怖れて撤回したのか知らないけれど)。

→私は、「セクショナリズム」という概念は、少なくとも一般に用いられるような馴染みのあるものでは無い、と認識した。だから、その意味内容を問うた。そして、「支配」や「独占」等を含意しているという答えを得、法的な概念としては、必ずしもネガティブな意味合いでは無い、というのを教わった。が、私はそれは(法的な用法)、一般的では無い使い方だろうから、そう解釈が可能だとしても、セクショナリズムという語を使う事に賛同は出来ない、と書いた。※ここは掲示板ではありません。

 その上で、「ニセ科学批判」とは、ひとつの思考形態と言うよりも、ある種の『排斥運動』ではないかと感じた。

→「語」に「批判」と入っているので、それ自体が思考形態と解釈出来ないのは確かにそうだろうと思う。科学を騙っているものを指摘するのだから、論理的には排斥と解釈し得る。そう呼ぶかは人それぞれだろう。※「菊地」じゃ無く「菊池」さんですね

 『ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである』とアナウンスしているのが「ニセ科学批判”まとめ”」と題したページである事に非常に矛盾したものを感じざるを得ない。

→私の解釈だが。「一派」と看做すべきでは無い、というのは、ニセ科学を批判する事以外の思想的部分についても「軌を一にする」ようなものでは無い、という意味だと考えられる。ニセ科学を批判する人達、という意味で「一派」であるのは当たり前である。しかし、「一派」とすると、別の含みが持たされる、という可能性にも思いを馳せるべきと考えている。※「思想的部分」には、「宗教を否定する」等も含まれる訳です

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。

→違う。ニセ科学批判をしている人に対して異論を唱えるものの中に、「批判の態度や人格、その他の思想的な方向性」をも共有しているかのように主張するのがある。だから、そのような認識は改めて頂きたい、という事である。当該wikiは、関心を持った人の「案内」の役割を果たすものでもある。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。

→ここは読み取りにくい。動機とニセ科学批判を「組み合わせなくてはならない」とは、どこかで主張されているのだろうか。

ニセ科学批判者っぽい人達は、「ニセ科学批判をどう捉えて欲しくないのか」という話を好むが、「どう捉えて欲しいのか」について、あまり語りたくないような素振りを感じる。

→どう捉えて欲しく無い、という主張は、どう捉えて欲しい、という主張の裏返しであるようにも思うし、そもそも、「語りたくない」と評価されるほど、「素振り」を疑わせるほど、「書いていない」のだろうか。

 「ニセ科学批判」をする数々の動機を示されても、かえって「ニセ科学批判」とは何か分からないし、何故その動機で行われているものを「ニセ科学批判」と捉えなくてはならないのかも分からない。

→違う。ニセ科学批判とは「文字通り」、ニセ科学を批判する事であって、動機は概念に含まれない。「捉えなくてはならない」という解釈がどこから来たのか知りたい。

 何故細々とした線引きをするのだろう?
 そして、その線引きをそこに置く理由は何だろう?
 それが良く分からないのだ。

→「細々とした線引き」とは? 「そこに置く」の「そこ」とは?

 線を引いているのは「ニセ科学批判」側であり、それによって「科学とニセ科学」を区分しようとしている。
 それは端から見れば「矢が当たったところに丸を書く」の如くではないか。

→「端から見れば」というのが「どこから」という問題もある。ニセ科学を主張する人から見れば、そう思われるのも当然。当たり前だが、「ニセ科学」と判断する側も、それを批判される余地があるし、批判に対しては開かれなければならない。

 「科学-非科学間のグレーゾーン問題」だってそうだ。
 シメに『どれも (専門家の目から見れば)「明らかに真っ黒」なものばかりである。』と言われても、「その“専門家”って、結局排斥したい側でしょ」という気持ちがわき上がってしまう。

→「科学-非科学」という文脈からいけば、専門家集団がそれを判断するのは当然。それを否定すると、「科学的」という言明は不能になる可能性がある。科学的という判断が出来るなら、非科学的という判断も出来る。※「非科学的」とは、必ずしも「起こらない事」、を指さない

 それに比べれば、「ラベル貼りか剥がしか」とか「アナロジーとして寿司と江戸前のどっちが妥当か」という話なんて正直どうでもいい、と私は思う。

→よくない。寿司のアナロジーは、意味が明らかに違う、というのを指摘したものである。※「比べ」る必要がありますか?

 「批判する以上は批判する相手をよく知れ」、こう言いたくなる気持ちは『批判される立場』に立てば良く分かる。しかし、この物言いは、極端な話、「知らないヤツは口を挟むな」と言っているに等しいと感じられた。

→「極端な話」、としているが、そもそも私は極端な話はしていない。調べた上で書いたのだとしても、おそらく概念に混同があるから、調べ直してみた方がいい、という意味で言った。「知らないヤツは口を挟むな」については、どの程度知らないか、どの程度口を挟むか、による。

 さらに、「もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。」なんて、「批判が不当であると自分で分かるまで調べろ。」と言っているのと同じに聞こえる。

→私は、同時に「質問」をした。コメント欄でも何度もやり取りをし、ニセ科学概念について説明している。「聞こえる」とすれば、私はそのような認識は持っていない、と返すしか無い。もし私が、解るまで調べろ、と思ったなら、「そのままそう書く」。

 このような言い振りがどれだけ虚しいかは、某氏の「まずは心理学の入門書を読んで下さい」発言に眉をしかめた事のある人にとっては知っているはずだろうに。

→さすがにこれは無いわ、と思った。ベクトルの向きが同じだからといって、長さが同じ訳でも無いでしょう。ABO FANさんがどういう流れであんな発言をするかは、Jさんが一番よく知っているはずなのにね。

 それに、調べているのは、「自分が押さえるべきと判断した情報」でしかなく、「信奉者側が押さえて欲しいと思う情報」ではないのではないのでしょうか。

→ニセ科学や擬似科学の話なのだから、その概念について調べるのが大切なのが当然。「調べながら批判する」事は否定しない。しかし、「調べながら批判している事を批判する」のも否定されない。

 となれば、否定されたニセ科学支持者だってこう言いたいはずです。
 『もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。』

→当たり前。訊かれれば、どこまで調べたかを示す必要もある。それは、「批判」が関わるもの一般に言えるでしょう?

 だからこそ、そんなニセ科学批判側が、批判される側になった途端に「批判する以上は批判する相手をよく知ってからしろ」といった発言をしてしまう事に非常に身勝手さを感じました。

→いいえ。批判するなら相手をよく知ってから、というのが妥当だと私は思っている。訊かれて答えられるか、という問題。混同していると思われるものに対して、調べるのを促すのがそんなに問題ですか? 上にも書いたが、私は質問込みでエントリーを上げた。最初から説明する気があった、という事です。書き方が足りない、初めからある程度の説明を入れておくべきだった、などの指摘はあるだろうし、それは甘んじて受けるけれども。

 あと、「ウェブで見かける疑似科学批判」とは何かを聞き出す事に拘っていたようですが、そもそも、「出典」を知ればmizusumashiさんの主張の何が分かるのでしょう?

→出典を知れば、何を参照したかが判る。それが判れば、用語の概念についてどう認識しているか、の手がかりを得られる。

それ以前に、「ウェブで見かける擬似科学批判」というのはかなり一般的な言い回しなので、具体的にどのようなものを指すのかを訊くのは、当たり前である。これが、私達の言う「ニセ科学」を指していないのが判明すれば、それを踏まえた方向に進む可能性があった。拘っていた、としているが、ここはそもそも、「最も注意深く見るべき」部分である。「擬似科学」が、科学哲学上の境界設定問題において出てくるような概念であれば、話が変わってくるから。※「論理実証主義」を出しておられたでしょう? これは、ものすごく重要な点なのです。他のエントリーも見て下さい。哲学的な論考をいくつも書いておられますので。だから、「混同」の可能性を考えた訳です

 また、そう言う意味ではmizusumashiさんは“自分の言及に必要な範囲”で、ニセ科学批判側の実態を的確に把握していたと言えるのではないのか?

→違う。「そうしていない」の解釈が異なる。哲学的な立場なら、「しない」かも知れないが、ニセ科学批判の立場でれば、「出来ない」、になるから。

 すごい失礼なもの言いになるけど、そんな事に拘るのは「出典は何だ」としつこく聞く某氏に似てしまっている。

→これは無いわ、と思った。失礼、と言うか、喩えとして不適当と思う。

 だからといって、mizusumashiさんはその類の人だったのでしょうか?
 やくたいも無い事をいってイチャモンをふっかけるような人?

→私は、mizusumashiさんを、「その類の人」と看做したのですか?

私にすら普通に読める文章だったし、筋も通っていたと思う。

→おそらく筋が通っていないと読めたから、指摘した。

 「ハイハイ、また例の如くの疑似科学批判批判ね。」
 なんて軽く捉えてはいなかっただろうか。
 題材となった人の意見を理解する事よりも
 仲間と共感し、共感される事に意識の大部分が行っていなかっただろうか。

 もしそうであれば、それは別な意味で「排他的なセクショナリズム」を感じさせる。
 また、ステレオタイプ的な相手の見方をする一方で、自分達に関しては「ニセ科学批判だからといって一派とみなすな」と要求するのは勝手としか言えない。
 何より、ニセ科学批判者がそんな判断をしているかのように受け取られるという事は、ニセ科学批判者の「ニセ科学」の認定の妥当性自体、色眼鏡で見られる事になってしまうだろう。

→三言

  1. Jさんがそう思うのは自由
  2. そもそも私はそう考えていない
  3. 考えていないのを前提とされて論を展開されるのは不本意

---

なんか「読み取れました。」とか”勝手な問いかけ”とか”仮定”ばかりですまぬ。

→はい、仮定はほどほどに。当たっていない仮定なので、本当に、不本意としか言いようが無いです。その上で、そうで無かったら無視してね、というのは、何と言うか、勘弁して欲しい。自分への言及なので、私は本気で読んでいるのだから。

 そんな方々の発言に、「ニセ科学側」チックな物言いが混じってきたような気がして、なんだがいたたまれなくなったんです。

→”「ニセ科学側」チック”、というのは、説明を読んでもよく解らない。

「ニセ科学批判」とは何か?

→ニセ科学を批判する事。

何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?

→科学を装っているのに科学で無いものが存在するのを周知させる目的。科学という概念を知っている人、それに信頼を(意識的・無意識的に拘らず)置く人に対して知らしめる。

罵倒されても蔑まれてもいいから、

何 で そ ん な 書 き 方 す る の ?

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2009年4月16日 (木)

焼きそぱスタ

最近、自分の中で流行っている料理。

野菜(玉葱・人参・キャベツ等)を、そこそこ多めの油で炒めつつ、パスタを茹でる(塩を沢山入れる。これ基本ね)。

野菜は、じっくりしっかり炒める。甘みを出す。バーベキューでもするつもりでやると良い。

一緒に叉焼の切れ端を炒める(某ルート経由で常備)。塩胡椒をする。

パスタは、若干軟らかめに茹でて良い。お好みで。

具がよく炒められ、パスタが茹で上がったら、パスタを投入し、絡める。

せうゆを一たらしして、よく絡める。

バリエーション。

麺との合わせ方

  1. パスタ風――茹で汁を完全には切らずに投入し、火を止めて絡める。ひたすら和えて、ソースを乳化させるべし。
  2. 焼きそば風――茹で汁は完全に切ってしばらく置き、投入。麺ごと「焼く」感じ。じゅうじゅう言わすべし。

トッピング

  • ラー油
  • 揚げ玉葱(ラーメンに入れる用。某ルート経由で常備)
  • ○○節の粉末。鰹やら鯖やら。
  • 青海苔

ソースを入れると、ソース焼きそぱスタになる。

食べる。

んまい。

片付ける。

歯を磨く。

寝る。

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2009年4月15日 (水)

総括

疑似科学批判・批判について - mzsmsの雑記にコメントしようと思ったのですが、長くなってしまったので、エントリーにしてTBを送ります。※一部、コメントの体裁そのままで。

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今晩は。

まとめ、お疲れ様です。

一点気になる所がありましたので、そこを。
▼引   用▼
ほぼ繰り返しになりますが、「ニセ科学批判」を行う方々が科学と道徳・宗教の関係について真摯に考えればそれしかありえない、少なくとも干渉を積極的に行うべきだとか、罵倒するとかはありえないというお考えならば、前述のようにそうではないというのが私の意見です。
▲引用終わり▲
ここは、依然として誤解があるように思います。

少なくとも私は、「ニセ科学批判をする人が、科学の立場から宗教等を罵倒する事はあり得ない」、と「言ってはいない」、のですね。

じゃあ何を考えるか、というと、「宗教や道徳に対して、それを”ニセ科学”として批判する事は無い」、という事です。なぜならば、宗教などは「ニセ科学」では無いから。で、どうしてそう考えたか、と言えば、mzsmsさんが最初のエントリーで、
▼引   用▼
臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。
▲引用終わり▲
と言われたからなのですね。これは、「宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判」となっていますから、宗教や道徳を「疑似科学」と看做してそれを批判する、と読めます(たとえば、「擬似科学批判者による宗教批判」、とは明らかに意味が異なる)。しかるに、一連のやり取りで恐らくご理解頂けたと思いますが、「ニセ科学批判として」は、それは不可能です。
で、ここでの「擬似科学」が、今私達が使っている「ニセ科学」で無いとすれば、そういう立場(科学の立場から、宗教等を擬似科学として否定するという事)もあるかも知れない、と言えると思います。なぜなら、そもそも「擬似科学」に込められている意味が異なっているから。(それでも、「科学のみが真理」などと言う人はいないと思うし、そんな事を言う人は、やはり馬鹿だと考えます。)

※「科学のみが真理」と考えるのと、「宗教や道徳を罵倒するような擬似科学批判」は、一応独立

しかるに、mzsmsさんは最初の段落で、「ウェブで見かける疑似科学批判に」と書かれた。ウェブで見かける、という事は、最近よく目にする、等の意味が含まれている、と私は読みました。とすると、最近行われている「ニセ科学」批判を、mzsmsさんが「あらかじめ認識している”擬似科学”批判」に変換してしまった可能性がある、と考えたのです。それで、その場合にどうなるか、というと、たとえば菊池教授や田崎教授、天羽准教授などが行っている批判活動を精読せずとも、「ニセ科学」という語を用いて何かを批判しているのを「見る(知る)だけ」で、「mzsmsさんが認識する”擬似科学批判”を行っている」と「誤認」する可能性があります。※あるシニフィアンを見ただけで、きちんと精読せずに、自分が持ってるシニフィエを一般化する(してしまう)、という事です

ですから私は、「不明確」と評し、ウェブで見かけるものとは何か、等の質問をしたのですね。確認という訳です。そして、その後に「混同」という風に書きました。実は、不明確で、

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

とちゃんと書いているんですよね。

※これは重要な所なのですが、私達は、「”ニセ科学”はこのように使うべきだ」、とは言わないのです。そうで無くて、今私達が使っている「ニセ科学」はこういう意味だから、それを踏まえているのだろうか、と考える訳です。だから、「確認」をしに行く。科学哲学上の「擬似科学」という言葉と同じような意味で「ニセ科学」が用いられる事もあるし、逆に、今私達が使う「ニセ科学」の意味で「擬似科学」が使われる場合もある。だから、その意味を共有しないと、議論が出来なくなったりする。

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謝罪

別に私が謝罪する訳じゃ無いです。

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批判的に言及してからいくつかやり取りして、「謝罪」される事、何度かありました。そのたびに、「謝罪は要らない」と言ってきました。

明らかな誹謗・中傷などでは無いのだから(そういうのは無視するので)、謝罪は別に要らないんですね。そもそも、誤解を解きたい、広めるのを止めたい、という考えから批判するのですから。いや、もちろん、誤解した事を詫びる、というのもあると思いますけれど、それもほどほどがいいですよね。

後、これは余計なお話ですけれど。

謝る対象(相手)が明確じゃ無かったり、何(の事)について謝っているかが判然としない場合、「謝れば済むと思っているんじゃ?」と勘繰る人も出ますから(色んな人がいる)、気をつけたいですね。

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2009年4月14日 (火)

3DCG

そこそこ精密な人間のモデルがデフォルトで入っていて、ある程度簡単にポーズがつけられる3DCGソフトというと、やはりPoser辺りになるんでしょうか。さすがにフリーでそういうのは無いのかな。

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2009年4月13日 (月)

ユーザーに優しく無い

まず、下のリンクを。

g.catmateの管理者の方はどなたですか?(解決しました) - 鼻が赤くなりにくいティッシュです

はてなブックマーク - g.catmateの管理者の方はどなたですか? - 鼻が赤くなりにくいティッシュです

招待された|ほたるいかの書きつけ

掻い摘んで言うと、はてなグループというサービスから、はてなidの登録メールアドレスに、あるグループに「招待」された旨のメールが届いたが、色々解らなくて戸惑った、という話。

で、はてなグループを使った事が無い人にとっては、文章だけでは解りにくいと思うので、画像で説明。※クリックで拡大

まず、最初にきたメール↓

Mail

これだけ。

FSMさんの所にも書きましたが、これだけじゃ訳が解らず、スパムの類か、と思ったので、先にはてなグループのサイトを見て色々調べたけど全く意味が解らないので、取り敢えず、 「参加承認」とやらに行ってみたら…。

Group

? ワカラン。「参加中」って何だ? もう承認されたのか。アクセスしただけだぞ。

で、ここからリンクを辿っても、はてなグループのトップページに戻るだけ。グループ検索でも引っかからないし、管理者、参加メンバーも判らず。「退会」を選んでも、何も変わらず。

それで、多分あの方だろうなあ、と思い当たる方が幾人かおられたので、エントリーを上げてみようかな、と思っていたら、ちょうどFSMさんがエントリーを書いておられたので、そちらにコメントしました。そして、今日、feather_angelさんのエントリーを読んで、なるほどやっぱりな、と。

それにしても、あんまりにも説明不足でしょ、はてなは。意味が解る訳が無い。feather_angelさんが訝るのも当然。私は、はてなグループというサービス自体知らなかったので、本当に戸惑いました。

はてなユーザーは、サービスを知らないまま招待される可能性があるのだから、そこら辺の説明をきっちりするべきじゃないのかな、と思います。ヘルプ見ても、全然ですよ。

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美髪

香椎由宇 美髪が輝く! ココログニュース

「美髪」←これ、何て読むんですか?

びかみ?

びはつ?

びがみ?

わたし的には、「びはつ」なのですが。

と思ったら、

びはつ 【美髪】の意味 国語辞典 - goo辞書

普通に辞書に載ってるしっ。

いや、何となく、最近造語されたものだと思ったのですよ。なぜそう思ったかは全く解らないですが。少なくとも、そのような語を読む機会がほとんど無かった、というのは確かですね。あるいは、目にしても意識に上らなかった、か。

元々知ってた人にとっては、何でそんな疑問が出たのかすら理解出来ない事でしょう。

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2009年4月12日 (日)

混同

疑似科学批判・批判の補足(たぶん最後) - mzsmsの雑記

ただ、ある科学者が科学者としての領分の問題ではなく、その人の個人の意見としてこのような立場に立ち、また疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということがありえないということは納得できません。実際、エルンスト・マッハは「科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのである」といった立場に近いところにいたはずだと思いますし、リチャード・ドーキンスは宗教を罵倒しています。

もう何度書いたか知れませんが。

「ウェブで見かける疑似科学批判」を念頭に置いておられるのでしょう? そして、菊池教授のテキストを例示された。だから、私達は、その概念(ニセ科学)に基づいて話をしている訳です。

ニセ科学批判は、科学を装うものを批判するのだから、それを前提として宗教等を批判するのは、無理ですよね。そんなに複雑な話ですか?

マッハにしろドーキンスにしろ(マッハの主張はよく知らない。ドーキンスは読んだけれど、その表現が当たっているかは判らない。以下は、一応そういうものと前提して書きます)、真理追究に科学が最も優れた方法である、というような主張で、その観点から他の文化を批判しているのだと思いますが、それは、「科学を装っている」から、では無いですよね。

別に、科学のみが真理である、と考えて他の文化を非難する人間がいる事そのものは、否定していないのです。恐らくいないだろうな、というのは、「疑似科学批判の前提として採用し、さらにその中で表明するということ」です。ここで「擬似科学批判」とは、「ウェブで見かける」もの、菊池教授の主張のようなもの、では無いのですか? そうであるなら、その批判の根拠(科学を装っているから批判する)に基づいて宗教等を批判する事は、出来ません。出来ないから、恐らくやる人はいないだろう、と推測出来る訳です。逆に言えば、そんな事を言う人は、「ニセ科学」概念を知らない。

たんに、宗教や道徳に「本当の答え」などないという立場が哲学的立場としてありえ、その立場からは宗教や道徳を罵倒する行動もありえるだろう、と言っているにすぎません。

これは個人的な姿勢の表明ですが。

あり得るか否か、といえば、ある事でしょう。いないとは言えない、程度でしょうか。

私自身の考えでは、文化に相対性があるのをもってそれらを罵倒するのは、よく解らない事ではあります。

後、「すぎません」てのは変ですね。ならそれだけ書けばよろしい。一々「擬似科学批判」に絡める必要はありません。何ゆえ絡めて論じたのですか? その一文のみであれば、そりゃ同意します。でも、初めから、そんな事は言っておられませんよね。

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つぶやき。

宗教や道徳を実証的に分析する「科学」もあると思うんですけどね。社会学とか、文化心理学とか、社会心理学もそうじゃないのかな。研究者や学派の立場にもよるかも知れないけれども。

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没った

※このエントリー、剣術について書いています。真剣をもって斬る、というのを主題にしているので、そういう話を好まない方は、読まない方がよろしいと思います。

とある武術ネタを書こうと思ったのだけれど、自分に知識が無さ過ぎて断念。

ちなみにそのネタは。

「時代劇で見るような袈裟斬りが実際に可能であるか」

というテーマ。

時代劇でよく、肩口から逆側の腰辺りにかけてバッサリ斬って捨てる、という描写がありますよね。それです。

え、何が問題なの、と思われたかも知れませんね。どこに疑問があるの、と。

えっと、その場面を想像しながら、ちょっとよく考えてみて下さい。

ほぼ正面から向き合って、相手の身体を、肩から逆の腰にかけて、斜めに斬っていく訳ですね。

もっと具体的に考えます。

ほぼ正対して、間合いは大体中間ですね。あまり近付き過ぎずに斬りつける、というシチュエーション。

そうすると、剣先の方で斬っていく、となります。

で、剣先の軌道を考えると、それは曲線を描きますね。という事は、この現象を別の言葉で表現すると、細長い刃物の先の部分で、相手の身体を広く(長く)斬る、と言えます。

つまり、かなり長い刃物の先で、筋肉や骨の塊である人体を斬る。って事は、直感的にも、ものすごい負担がかかる、のが解りますよね。

多分、剣先は円弧に近い軌道を描くと思うのですが、そうだとすると、剣を振って斬っていくとなると、「段々身体に深く入り込みつつ刃が進行していく」、と言えます。

としますと、恐らく、「剣は途中で止まる」のが、実際に起こる事だ、と推測出来ます。途中、鎖骨・肋骨・胸骨 等の骨格に当たる訳で、それを切断しつつ腰まで到達させて剣を振り下ろす、というのは、力学的に非常に困難なのではないか、そう考えたのです。力学的に、というのは当然、日本刀にかかる負担と、剣を運用する筋肉への負担の両方がありますね。仮に、日本刀が構造上そういう使い方に耐えられるとしても、肉体が刀を充分運動せしめるほどの働きをする事が可能であるか、と。

で、これを前提として、時代劇で見るような描写をどう解釈出来るか。

一つは、「斬りが浅い」と考える。

つまり、剣先を、「身体を掠めるように」斬っていく、という事ですね。

ただ、それはシチュエーションとしては、結構考えにくい。だって、殺す気満々なのですからね。わざわざ皮だけ斬るような事を、するはずが無い。それと、上にも書いたように、剣先は曲線を描くのですから、深く入り込まず、かつ傷を長くつけるような斬り方をするには、わざわざ「剣先を前後にコントロールしながら斬る」必要がある。ちょっとでも深く入ると、止まっちゃうのですしね。

もう一つは、「思い切り振り下ろしているが、実は肩口の辺りを切っているだけ」。

つまり、肩口を斬って、引きながら振り下ろす訳ですね。そうすれば、さほど負担もかからないでしょう。

その場合には、そんな中途半端な技をする必要があるのか、という話になります。他に動き方があるだろうし、逆に隙が生れる可能性もある。

それと、相手の傷口を見るのも大切ですね。肩から腰にかけて傷がついて、ビシャアアアッと血が迸り出る、なんて描写があったら、上のような斬り方では無い訳ですな。ちゃんと斬りつけている。だけどそうすると、一つ目のように、多分すごく難しい運動。

三つ目。「一つ目の運動が容易に出来るようなウルトラパウワーの持ち主だった」。

要するに、時代劇で描かれる武士の類は、斧か鉈のように刀を使い、バッサリ斬り下ろす事が出来る、と考える。

ここはどうなんでしょうねえ。刀をもって合理的に致命傷を与え、なるべく身体にも刀にも負担を与えないようにする、という目的を考えるならば、そんな乱暴な使い方はしないだろうと思うのですね。シグルイでもあるまいし。

で、最後に、私の考え。

「そもそもそんな斬り方はしなかった」

これです。

戦闘というシチュエーションで、反りを持ち鍔元まで刃を入れてある日本刀を運用していく場合に、剣の先10cm程度を使って中間から袈裟に斬る、というのは大変不合理に思います。※ここ、高岡英夫氏の論考を参照にした

だから、もし袈裟斬りのような技法を使うとしたら、時代劇で見られるような感じでは無く、恐らく、ごく密着して、「刃全体を当てるようにして、鍔元から引きずって斬っていく」のではないかと考えます。料理をする人に解りやすい喩えを用いると、「刺身を切るように」使う訳ですね。「撫で斬り」って言葉もありますですね。

だから、傍目だと、ほとんど「体当たり」のように見えるのではないかな、と。そこら辺を考えると、宮本武蔵の書(五輪書の水之巻)とも繋がってくるように思います。もちろん、通常は、正面から斬りつけるのは大変危険なので、そこは、受けの工夫が要るのでしょう。使えない時には使わなければ良いのですし。

とまあ、こんな感じです。この辺を、科学的に考えてみたいと思ったのですが、力学も工学も、バイオメカニクスも、全く知識が足りていないので、断念したのでした。

まあ、東郷重位のエピソードなんかもありますけどね。でも、それを平均的な操法とは見られないかな、という気も。そこら辺、流派性も関わってくるので、そんなに単純では無いでしょうけど。

もちろん、碁盤まで両断して床まで達した、というのを鵜呑みにしちゃならん訳ですが。比較的近い時代の示現流の剣士のエピソードも、どこかにあったような。それも、肩から胸の辺りまで切った、という感じだったかと。トンボの構えから脱力を効かせて激烈な斬り込みを行えば、相当の斬撃にはなろうかと思います。ただそれでも、時代劇で出るような、綺麗にバッサリ剣を振り抜ける、とはならないかな。

※一応

だからフィクションは云々、という事じゃ無いです。実際の使い方からするとどう考えられるかな、というものなので。ただ、「現実にあり得そうな」ものを描写したいという目的があるならば、ここら辺の考察・考証は重要でしょうね。特に実写では難しいと思いますけれども。

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2009年4月11日 (土)

暴挙

対局中の羽生名人に記者がサイン求める 厳重注意(産経新聞) - Yahoo!ニュース

想像に過ぎませんが、羽生さんは、

  • 下らない事にその場で腹を立てるより、下らない事に一瞬だけ付き合い、後は忘れ去って、集中力を乱さないようにした。小さい波は、その内消える。
  • 全く気にならなかった。この程度の事では集中力は乱されず、気軽に応じた。
  • ほとんど自動的に手が動き、思考の大部分は将棋の展開に割かれていた。
  • 実ははらわたが煮えくり返るほど怒ったが、書きつつ心を鎮めた。
  • はらわたが煮えくり返るほど怒りながら勝った。

の内のどれかだったと思われます。

 休憩時間に担当者が、問題の記者に「対局中に声をかけるような行動は慎んでほしい」と注意したところ「郷田さんの手番だと思っていた。うかつだった」と釈明したという。

一見何もしていないかのように思える時にも思考がフル回転しており超絶パフォーマンスが発揮されている、というのは、将棋をほとんど知らない(指す事は出来る程度)私ですら認識出来るのですが。いや、それ以前の話な気もしますけど。色々状況を把握する事が出来ていなかったのでしょうね。

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2009年4月10日 (金)

ASIOSの本

ASIOS公式ブログ: ASIOSの本が出版されます

こりゃあ、良さげ。

定番のものから、ほほー、こんなのあるのか、というものまで。

中には、

チェーンメール「神の手雲」

これもあります。この件、追究をリアルタイムで見てましたからねえ。

懐疑主義的に見れば、この本にある誤りを探す、というのも一興ではありませんか。ASIOSの皆さんも、それを望む事でしょう。

謎解き 超常現象 Book 謎解き 超常現象

著者:ASIOS
販売元:彩図社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここで、ジュセリーノばりの予言。

この本、kikulogで紹介されて注目を浴びる。コメント欄か、きくちさんが直接、か。

的中率は100%にする事が可能(私が書き込めば良い)。

「注目を浴びる」を定量化していないので、当たるも何も無い、と、某ちがやまるさん辺りに突っ込まれそうですが。

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2009年4月 9日 (木)

不明確

疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記

解りにくい所があるので、いくつか質問します。

  • 「ウェブで見かける疑似科学批判」とは具体的にどのようなものを指すのか。
  • 「レッテルの帰属」とはどういう意味か。(特に「帰属」)
  • 「彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。」
    • 「志の高さ」とは何か。
    • 「いま」とはどのような範囲を指すか。
    • 「一般的な擬似科学批判」とはどのようなものか。

なるほど、江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張するとしたら、矜持を感じる。それを非難するつもりはない。しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか。

・「それでよいのか」とあるが、「それ」はそもそも当たっているのか。

臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ。

見つけたら教えて下さい。私も見てみたいので。ただ、「科学のみが真理」などと馬鹿な物言いをする人間を見つけるのは、なかなか難儀とは思いますけれども。そもそも、常にアップデートされている、つまり変化していく(全くの別物に変容する訳では無い)知識の体系、およびそれにまつわる知的営為である科学について「真理」などと言える訳が無いので。科学のみが真理、と認識するのは、科学は完成された、と考えるに等しい。

後、「ニセ科学」について調べるくらいはしてもいいんじゃないかな、と。「ウェブで見かける擬似科学批判」について語るのですから、昨今どのような議論があるか、は押さえておくのが肝要でしょう。もし調べた上で書かれたのだとすれば、調べ直して下さい、と申し上げたいです。

ニセ科学批判は、

江戸前寿司の職人がカルフォルニア・ロールは寿司ではないと主張

などというものではありません。寿司のアナロジーに乗っかると、江戸前の技法に則ったと称して全然違うやり方で握った寿司を、「それは江戸前では無い」と指摘する、ようなものです。※アナロジーなので、不正確な部分はあるかもですが

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まぎらわ

My Yahoo!を見てたら↓

Kyaputiya

これは、

  • 妻が夫より52歳年下なのか
  • 52歳の夫が年下の妻につきまとったのか
  • 妻の年齢が52歳なのか

の内、どれだ?

まあ、一番目は、さすがに52歳差ってのは無いだろうから、下二つの内どっちかだろうなあ。

52歳年下の妻につきまとう、76歳を逮捕…熊本(読売新聞) - Yahoo!ニュース

52歳年下の妻(24)につきまとったとして、

尾方勇次郎容疑者(76)を

!!

げに先入見とは恐ろしきものよ。

なんかもう、色々な事に思いを馳せたくなるけど、自重自重。

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2009年4月 8日 (水)

セミナー

任天堂ゲームセミナー2009、受講生募集スタート - ファミ通.com

これは良い試みですよね。10ヶ月の講座が無料という事で、応募者が殺到するのでしょう。

任天堂ゲームセミナー

受講生の作品がDSダウンロードサービスで配信されるというのも面白い。こういうのはモチベーションが劇的に上がりそうです。

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2009年4月 7日 (火)

提言?

日々是遊戯:いっそJRPGは全部ポータブル化すべき? 海外ユーザーから大胆な提言 - ITmedia +D Games

フーン。もしこの夢想通りになったら(ならないだろう)、私などは絶望するけどね。

いちいちキャラクターがセリフを読み終えるのを待つこともない。

い、意味が解らない…。これは携帯機云々という問題じゃ無いと思うんだけど。て言うか、記事の日本語全体が変な気が。

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2009年4月 6日 (月)

科学とフィクション

私は、フィクションにおける表現は、自由であるべきだと思っています。

だけれど、触れる人が、何がフィクションであるかを知っている、つまり判断出来る事が重要だとも考えています。

で、その知識は教育によって得られます。広く見れば、社会全体によってなされると考える事が出来るでしょうけれど、最も重要なのは、学校教育だと思います。

フィクションって、そこで描かれているあらゆるものがニセモノな訳じゃ無いですからね(当たり前だ)。いかにも尤もらしいものに関しては、部分的に正しいものとして捉えられたりする。それが正しいものとして流布されれば、ある程度大きな影響となりますよね。

フィクションだから大目に見ようよ、というのはご尤もです。しかし、フィクションといえど、誤解されそうなものがあれば、それを指摘するのも重要。それをもって作品全体を否定するのは考えものかも知れませんが、この部分は正確では無い、と見ていくのは大切ですよね。そういった指摘に対してただちに、野暮であるとか無粋であるとか、そういう風に言ってはよろしく無いと思うのであります。

私の立場は、フィクションで描かれているものはほぼ全て正確では無いと看做す、というものです。極端に言うと、我々が住む世界とは全く異なった世界の出来事として考える、というのかな。

気になる所があったら、ネットで調べるなり、詳しい人に聞くなりします。図書館で専門書を探したりね。必ずしも、その場で見抜くのでは無く、基本的に保留する、と言いますか。基本的な部分(小・中・高 で習うような事)は見抜ける能力を養って、知らない分野については保留する、という態度が重要だろうな、と。

自分は、すさまじくフィクションに親しんだ上で、科学にも興味を持ったので、多分メタに考える事が出来ている、と思っています。でもそれは、せいぜいここ5・6年の話ですね。それまでもかなり客観的ではあったと思うのですが、まだ足りなかった。

もちろん、色んな作品に触れるのもすごく大切、だと思います。様々なバリエーションがありますからね。それを分類して、これとこれはこう分けられる、これはあの作品に似てる、なんてメタな楽しみを自然に(いつの間にか、の意)身に着けていました。特に、マンガやゲームだと、同時並行的に楽しむ、というのが普通ですからね。スイッチを切り替えるように、別の世界観に頭を合わせる事が出来る訳です。

結局の所、色々な作品に触れつつ、どこが現実と異なっているかを見抜ける知識を得、よく知らない部分に関しては保留出来る姿勢を作り上げる、のが肝要なのかな、と思います。

中でも最も重要で基本的なのは、物理と化学の知識でしょうね。自然の振る舞いを客観的に記述する自然科学の基盤、なので。

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2009年4月 5日 (日)

ググって書く

生キャラメルや生チョコの「生」は、どんな意味があるのですか? - Yahoo!知恵袋

何いっ!

じゃあ、「生クリームキャラメル」って事か?

て事は、「ショートニングケーキ」と一緒か?

しかしっ。

なぜ「クリーム」を略すのだ?

その場合、「生クリームキャラメル」と対照なキャラメルがあるべきではないか。それならば、生か否かが分類の条件になるから、理解出来る。

生キャラメルって何が生なんでしょう? -OKWave

何いっ!

上と全然違うじゃないか!

なるほど、水分の含有が多いものを指す、のか。私が元々持っていたイメージと一緒だ。「生菓子」という語があるから、こちらの方が説得力を感ずる。

しかし、菓子一般に関してはそうでも、ことキャラメルにおいては生クリームを意味する、という可能性が無きにしも非ず。

辞書はどうか。なまがし 【生菓子】の意味 国語辞典 - goo辞書

なまがし 【生菓子】

(1)水分を多く含んだ、主に餡(あん)類を用いた菓子。餅菓子・蒸し菓子・饅頭(まんじゆう)・練り切りなど。⇔干菓子(ひがし)
(2)生クリーム・果物などを用いた洋菓子

ふむ。どうやら、水分が多いものをそう呼ぶ、のが一般的な所で、生クリームを用いた洋菓子を生菓子と呼ぶ場合もある、と。生と言えば、火を通していない、というイメージが強いが、水分が多い、のも意味するという事か。あまり意識していなかった。火を通さねば水分は減らない→水分が多いものも生と呼ぶ という感じか。

結局は、水分が多く軟らかいキャラメルを指す、というのでいいのかな。必ずしも生クリームを使う訳では無いみたいだし。

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2009年4月 4日 (土)

ググらずに書く

ずっと前から思っている事。なのにちゃんと調べて無い事。

生キャラメルって、

「何が」

「生」

なんでしょうね。

昔、「半生○○」なるものもあったけど、あれは何だったのだろう。食感? 製法?

バリバリ熱を加えるのに、なにゆえ生なのであろうか。

 北海道生キャラメル 北海道生キャラメル
販売元:セシール
セシールで詳細を確認する

↑こんなのがあった。

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2009年4月 3日 (金)

脳科学

「脳科学」って語、誰がいつ頃使い出して広まったのでしょうね。

私は、脳科学という語より「神経科学」という語を先に知ったし(いや、正確には憶えていないのだけれど)、学術的にもそちらを使った方が良いのかな、と思うので(学際的な分野である事も含ませたいですし)、なるべくそちらを使うようにしているのですが(「脳科学」を使わない訳じゃ無いけど)、どうなのでしょう、専門家の間で「脳科学」という表現は、どういう風に捉えられているのだろうか。

大「脳」洋航海記 » Blog Archive » 「KY脳科学者が主人公のドラマ」?でvikingさんが、

そもそも、「脳科学者」(こう自称するのは茂木某だけなんですが・・・僕は「認知神経科学者」としか名乗るつもりはないので)

と書いておられるので、改めて考えたのでした。

これだけ脳科学という語が流布されたので、神経科学を専門とする学者が、他人に訊かれて「脳科学」をやっている、と説明するケースもあるのかも知れませんね。

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2009年4月 2日 (木)

恥の記録

先日のエントリーに関わる事。

大分前のお話。

それは、ホームシアターが出始めの頃。当時、6個のスピーカーから音が出るというのは、それはもう衝撃的で、初めて体験した時は、鳥肌が立ったものだ。

で、ある時友人宅で、映画を観てた。ホームシアターセットで。それで、ウーン、やはり5.1chはイイねー。ウーファーからの低音がクルねー。なんて言ってご満悦だった。

ふと、AVアンプを見てみた。

あれ……

ド ル ビ ー プ ロ ロ ジ ッ ク じ ゃ ん!

まっこと、先入観とは恐ろしきものよ。

体験すれば判るけど、ドルビーデジタル(の5.1ch)とプロロジックは、全然違う。でも、5.1chだと思ってたのが邪魔した訳だ。

人間の知覚と言うか認知なんて、そんなもの。

大体私、SACDと通常のCDの区別もつかなかったからね(最初聞いた時は、すげー、と思って友人にも言ったけど、よく考えればそれは、5.1chのを聞いたからだったのだ。2chのDSDのやつと較べたら、全然判らなかった)。←自慢げに言う事じゃ無い

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かがくきょー

「科学教」って、張りぼてみたいな言葉だよね。

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2009年4月 1日 (水)

脳 ト レ ド ラ マ

キムタク「土8」1話完結型“脳トレドラマ”(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース

脳トレがドラマの中で出てくるのかいな、と思ったら、ドラマで脳科学の知識が得られたりするのが「脳トレ」になる、的な意味か。解りにくい。

さて、

キムタク 1年ぶり連ドラはKY脳科学者/芸能・社会/デイリースポーツonline

「設定上でのウソはあっても、医学的なウソはつけない」と専門家からアドバイスを受け、

宣言しちゃいましたね。これ、専門的な部分はしっかりと考証して、描かれるものが科学的に合っているかを厳しく見られても構わない、という宣言ですからね。

やっぱ、モデルとしては、あの人やあの人が想定されてるんですかね。よく解りませんが。

脳画像診断で「活性化」してる部分を見て、そこから容疑者の心理状態を推測して、へへー、参りました、と言わせる安易な設定にはしてくれるなよ……と思いつつも、それ以外の設定が思いつかないのでした。大体、脳科学者が事件の解明に取り組む、って何だよ。

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ああっ

エイプリルフールネタ考えようとしたけど、全然思いつかなかったぞっ!

毎年なんかやってみようかと思ってるのに、いっつもこれだよ!

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