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2009年3月22日 (日)

どっち?

ふと思った事。

メールよりも、手書きの手紙の方が、「温かみがある」、などと言われる事がありますね。理由は、誰が書いても同じ形の文字しか送れず、比較的短文になりがちな(これは人によると思うけど)メールよりも、手書きの文字の方が、感情などが読み取れる(書き手は感情を込めやすい)、というようなもの。

テレビゲームよりも、ラジオの方が良い、という意見がありますね。理由は、ゲームよりもラジオの方が、音声だけだから、「想像力」を働かせる事が出来るので良い、というもの。場合によっては、「脳に良い」とダイレクトな言い方がされる事も。

これはなかなか面白い。

前者は、手書きの手紙の方が情報量が多く、そうであるがゆえに相手の感情等を推し量りやすい、という主張で、後者は、より情報量の少ないラジオの方が、想像力を働かせるので好ましい、という主張。

もちろん、具体的な形態が全然違う(手紙はコミュニケーションの手段、だし)ので、単純に比較するようなものでもありませんけれども。

もし両者を同時に主張している人がいたとしたら、どう説明するのでしょうね。「ちょうど良い情報量」がある、とでも言うかな。そしたらきっと、ちょうど良いとはどのくらい、と訊きたくなるでしょう。

------

手書きの方が良い、と考える人は多分、手書きに要するコストの高さなどを推測して、自分のためにコストをかけてくれている、という風に認識しているのでしょうね。キーを叩いて文字を入力するよりも、「手を動かして」(キー入力もそうなのだけど。象徴表現ね)書く手書きの方を好む、という。だから、

毛筆>硬筆>メール

なんて序列をつけている人は、いそうです。和紙+毛筆 なんて最強かも知れません。

そういう意味で、明示的なメッセージとしてそういう所を重視するのは、解らないでは無いです。年賀状なんかでも、せめて宛名くらいは手書きで、と言う人がいますよね。自分はそういうのは関心ありませんけれども。

ただ、そのような論理を、「温かみ」などの比喩表現を用いて比較するのは、どうなんだろうと思いますね。

通常は、温かみという表現は、視覚的には色彩に対する比喩として用いられると思うのですが、メールと(専ら手書きの)手紙、の比較の文脈で出てくるのが面白い。これは詰まる所、「文字の形」の違い、ですよね。要するに、手書きは書き手のクセや、その時々の感情が文字の形状に顕れるが、メールは誰が送ってもほぼ同じ形状の文字である、という話。

「機械に多く頼る」→冷たい なんて直感があったりするのですかね。逆に、人間がなしたものだ、と思わせるものは、「温かい」と。

少なくとも、メールと 手書きの手紙には、普遍的な「温かさ」の違いなんてものは無い訳です。どちらも、結局は単なる記号。画一的なフォントと手書きの文字とでは、情報量が多少違う、という事に過ぎない。

私なぞ、「何で書かれているか」よりも、「何が書かれているか」を重視するので、極端に言えば、メディアの違いなどどうでも良いのであります。ああ、手間かけたのだなあ、と思いを馳せる事があっても、「温かい」などとは認識出来ない。

でも、病気の時や落ち込んでいる時に、手書きの手紙を貰ったら、感慨も一入かも知れないよ、なんて思ったアナタ。それは、あらかじめ「手書き」に高評価を与える認識があるがゆえの思い込み、なのかも知れませんぜ。

ああ、こんな無粋な事書くなんて冷たいね、私。

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「随想」カテゴリの記事

コメント

 こんばんは。

 「テレビドラマよりもラジオドラマの方が良い」という話なら意味が分かりますけれど、ゲームとラジオを比較するのは分からないです。双六と報道を比較しているようで。


>少なくとも、メールと 手書きの手紙には、普遍的な「温かさ」の違いなんてものは無い訳です。どちらも、結局は単なる記号。画一的なフォントと手書きの文字とでは、情報量が多少違う、という事に過ぎない。
 私は毛筆とフォント作りを両方、ちょっとずつ齧りましたけれど、それぞれ用途が違うので、どっちが上等ということは無いです。違うのは情報量でなくて情報の質です。それに、フォントが画一的ということもないです。
 「普遍的な『暖かさ』の違いなんてものは無い」「毛筆が硬筆より上とは限らない」なら分かりますが、「結局は単なる記号」は、ちょっと仰る意味がよくわかりません。事務的な書類に使う文字の話をしているのならそれでいいと思いますが、手紙の話ですよね。であれば手紙の目的や相手に合わせて、便箋や封筒のデザインを変えるのは普通のことですし、文字も同じことと思いますけれど。

>ああ、手間かけたのだなあ、と思いを馳せる事があっても、「温かい」などとは認識出来ない。
 手間より、文字の一つ一つを書き手が大切にしているかどうか、推敲の上に本気で書いたかどうか、ですね。私が見ているのは。

>ああ、こんな無粋な事書くなんて冷たいね、私。
 無粋かどうかはともかく、それよりもエントリの要点がよく分からないです。「手書き絶対主義」は間違いである、という批判が目的なのか、それとも「手書きだろうと画一的なフォントだろうと大差ない、記号としての意味だけが問題だ」という主張が目的なのか。
 ゲームソフトも書体を選んで作られてますし、少なくともそういう点では「メディアの違いなどどうでも良い」という話では無いはずだと思うんですが。

投稿: Narr | 2009年3月22日 (日) 02:17

Narrさん、今日は。

・ゲームよりラジオが良い、と言った人が実際存在します

・フォントは画一的です。多分、画一的という言葉の解釈が違います

・情報の質というのは情報の量に依存すると思います

・「記号」の解釈が違うかも知れません

・手書きの文字に温かみがある、という論理は自明あるいは普遍的では無い、という事です

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 11:06

情報量に依存、というのはちょっと違うか。と言うか、情報量という言葉は、本来術語だから、無闇に使ってはいけないかも知れない。

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 11:19

私なんか、手書きのはがき(封書)は、ずっとしばらく出していません。
メールがもっぱらです。(そのメールも時々ですが…。)
年賀状は、手書きの文字をプリントゴッコなり、コピーで印刷しますが、分かりやすい文字に心がけています。表書きは、相変わらず、手書きですが…。

はがきは、筆跡によって、その人の「個性」・「温かみ」は、出るとは思いますが、「字の上手い、下手が出る」とも云え、「暖かみ」と感じるのは、字形に対する受け手の感情的、感覚的反応とも云えると思います。
感情が乱れている時は、その感情が字に表われると思いますが、字形はその人の「癖」で、見る(読む)ひとは、その「癖」のある「筆跡」を見て、書き手を思い出すのだと思います。

要は、相手に伝わるものとは、書き手の気持ちだと思います。
メールでも、十分伝わると思います。それは、文脈なりではないでしょうか?

<本の内容は、手書きの原本(「癖」のある「筆跡」)より、文脈が分かる活字体の方が、筆者の気持ち(訴えたいこと)が、読者に伝わるのではないでしょうか?>

メールは、わざわざ手書きで書き、ポストへ入れると云う煩わしさが無く、その煩わしさのため、時期を逸することもあります。
その点メールは、思った時、即時的に意志を伝達出来る利点があると思います。

仕事上も、電話の方が気持ちが伝わると云いますが、(誤解無く伝えると云う意味での)情報の正確さでは、メールでの伝達の方が優れていると思います。
そのため、その文は十分に吟味しなくてはいけ無く、却って、時間が掛かることはありますが…。

(但し、パソコンを持って無い人、メールアドレスを持ってない人へは、メールでの伝達手段が無く、旧来の伝達手段にならざるを得ない不便さはあるのですが…。)

投稿: mohariza | 2009年3月22日 (日) 11:22

moharizaさん、今日は。

手書きの文字、に対する読み手の認識として、その時々の感情や気分が字形に顕れる、という期待があるのだと思います。
ですから、手書きの文字を見たら、そこから相手の心理を推し量るのでしょうね。まず「手書き」の事実があって、そこから、具体的な形態を見て、それぞれの知識に基づいて、どういう心理なのか、と読み取って(解釈して)いく。

これはちょっとした思考実験ですけれども(moharizaさんのお書きの事を読んで思いつきました)。

年賀状なんかで、手書きしてそれを印刷して送ると、送られた側は、ぱっと見て、ああ、手書きしてくれたんだな、と思う訳ですね。
で、よく見ると印刷である事に気づいた、あるいは、実は何百枚か刷ったと教えられた、場合にどう認識するか、というのが考えられます。手書きは手書きだけれど、印刷したのかあ、なんて思う可能性はある。
多分、手書きを奨励するのは、ある送り手へ限定している、のが重要だと見ていると思うので、印刷という事実を知った途端に、「画一的」だと看做す、というのは、あり得ない事では無いですね。

▼▼▼引用▼▼▼
仕事上も、電話の方が気持ちが伝わると云いますが、(誤解無く伝えると云う意味での)情報の正確さでは、メールでの伝達の方が優れていると思います。
▲▲引用終了▲▲
これは重要な所ですよね。電話の方が、というのは、声の調子や間の取り方などの部分で「気持ち」が推し量れるけれども、要件を伝えるには必ずしもそちらの方が良い訳では無い、ですね。何を目的とするか、によっても異なるのだろうと思います。初めから無駄な情報を含まない(読み手あるいは聞き手に感じさせない)メディアを選んだ方が、適切な場合がある、という。

印刷であったり、形が決まっているフォントを使ったり、というのは、「事務的」な印象を与えるのかも知れません。

------

※追記:ここから、moharizaさんへのレスでは無く、自分の考えの記述

ちなみに、フォントの書体を選択出来るのでは、というのは、ちょっと話が違っています。初めから、「手書き」するのを重視する意見に着目しているので。書体が選択出来ようが、コンピュータを使っている、誰が使っても同じ出力がなされる(つまり画一的)、などの知識がある時点で、手書きと対立させる認識を持つ事があるのでしょう。
手書き風フォントに温かみを感ずる、という見方もあると思いますが、それは、元々持っている認識に訴えかけるものだと考えます。
そして、メールで手書き風フォントで書かれたものが送られたとして(そのフォントで読めたとして)、それに温かみというものを感ずるかどうかは、一概には言えない。知識にもよる。

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 12:09

後、「単なる記号」の「単なる」には、「どうでも良い」、などの意味は含めていません。
文字の具体的な形状や書かれた媒体それ自体に普遍的な意味があるのでは無く、読む人間の解釈いかんによる、という事です。それを認識するのは重要だろう、と。

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 12:21

こんにちは。

「単なる記号」を重視する場合は、その伝達能力が問われると思います。有り体に言うと字の汚い人の手書きは読めない、問題です。私と長らく仕事をしている人は、超のつく悪筆で時間が経過すると本人にも判別不能です。打ち合わせをしながら、私はボードに書かれた文字を必ずメモします。ボードをプリントアウトしても、はっきり言って使えない。本人も自覚しているのでよっぽどでない限り手書きはしませんね。

私は手書きのきれいな文字を見た時は、単純に感動しますよ。きれいな景色や絵を見たときのように。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年3月22日 (日) 13:26

うさぎ林檎さん、今日は。

ポイントは、文字は「単なる記号」である「からこそ」、色々な意味を付与出来る、という事だと思います。

▼▼▼引用▼▼▼
私は手書きのきれいな文字を見た時は、単純に感動しますよ。きれいな景色や絵を見たときのように。
▲▲引用終了▲▲
同意です。

後から自分でも読めない、というのはありますね。確かにその場では、意味が解らないほどには崩していないよう書いたのに、と。即席に文字を開発しているようなものなのかも知れません。で、その場でしか通用しない字だから、後からは読めない、と。
もちろん、強烈に眠くて、普段と同じように書いているつもりなのに、文字がぐちゃぐちゃになる、場合もありますね。その場合は、多分に無意識的な訳ですけれど。

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 13:42

 すいません、どうしてもTAKESANさんが何を仰っているのか分かりません。
 「TAKESANさんご自身の意見」と、「TAKESANさんが出会った『手書きを重視する人』の内面をTAKESANさんが想像した仮説」との区別がつかないです。
 たとえば「フォントは画一的である」の意味も、です。「手書きを重視する人はフォントを画一的だと認識しているのだろう」と、TAKESANさんご自身が「フォントは画一的だ」と主張するのは別物ですよね。


>・手書きの文字に温かみがある、という論理は自明あるいは普遍的では無い、という事です
 これと「フォントは画一的」は関係が無いのではないですか? 関係のない強い主張がいきなり出てきて、びっくりしているんですが……。

 「手書きの文字に温かみがある、という論理は自明あるいは普遍的では無い」だけならば、「手書きの文字でも温かみが無い例」を例示すればいい。「手書きの手紙は温かみがあるが、フォントの手紙には温かみが無い、とは限らない」であれば、「温かみのあるフォントの手紙の例」を例示すればいい。これらは弱い主張ですし、こういうことなら仰ることは分かりますが。


 他にも、ここもよくわかりません。

▽エントリ本文から
>私なぞ、「何で書かれているか」よりも、「何が書かれているか」を重視するので、極端に言えば、メディアの違いなどどうでも良いのであります。ああ、手間かけたのだなあ、と思いを馳せる事があっても、「温かい」などとは認識出来ない。

▽うさぎ林檎さんへのレスから
>▼▼▼引用▼▼▼
>私は手書きのきれいな文字を見た時は、単純に感動しますよ。きれいな景色や絵を見たときのように。
>▲▲引用終了▲▲
>同意です。

 どうやって矛盾無く読み取ればいいのか、ちょっと分からないです。
 「全ての手書きを等しく温かいと認識することは無いが、美しい文字を見た場合のみは感動する」ということですか?

投稿: Narr | 2009年3月22日 (日) 14:45

えっと。

フォントの形状は画一的では無い、のでしょうか? 同じ書体を選択して出力させれば、全く同じ文字が出る、という意味で画一的である、と私は認識しているのですけれども。

たとえば、市販のお菓子と手作りのお菓子を対比させる、という考えがありますよね。手作りの方が好ましい、と。※菓子に限らず、調理品一般でいいですが
で、市販のお菓子は工業製品で、品質が一定ですよね。誰がどこで買っても、同じ味だし同じ重量だし、同じ形(誤差の話は措く)。
その場合、市販のお菓子は「画一的」である、と表現するのは、まずい事でしょうか。
「一様」と言い換えても構いません。

もしかすると、私が「画一的」という語に何らかのネガティブな意味を付与している、と思っておられるのでしょうか。私は特にそういうつもりは無いです。

▼▼▼引用▼▼▼
 どうやって矛盾無く読み取ればいいのか、ちょっと分からないです。
▲▲引用終了▲▲
すみません、どう矛盾しているのかが解りません。手紙に書かれてある文字が手書きである、のをもって「温かみ」を感ずる事は私はありませんが、文字の形状を見て、それが美しい、と思う事はあります。特に矛盾はしないかと。「温かい」という比喩と「美しい」という表現は、違いますよね?

---

ちなみに、ラジオの話はここ⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7b33.html

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 17:20

>フォントの形状は画一的では無い、のでしょうか? 同じ書体を選択して出力させれば、全く同じ文字が出る、という意味で画一的である、と私は認識しているのですけれども。

 画一的になるとすれば、それは「ある特定のフォントで印刷された沢山の手紙」であって、「フォントの形状」ではないです。「フォントそのもの」と「フォントを使って作られた製品を複製したもの」は違います。
 「フォントファイルそのもの」と、「フォントファイルに内蔵された書体デザインのデータ」と、「フォントデータを使って作られた文書」とは、別物です。単に「フォントの形状」と言えば、「あるフォントのデザイン」を指すと思います。

-----
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%94%BB%E4%B8%80%E7%9A%84&stype=0&dtype=0
【画一的】
[形動]何もかも一様で、個性や特徴のないさま。「―な教育」
-----
「フォントの形状は、画一的」
→「フォントのデザインは、何もかも一様で個性や特徴がない」

 同じフォントを使ったからといって文書が同じになるわけではないですけれど、「特定のフォントで印刷された文書の集まり」が、一様な品質を持っている場合がある、というのであれば話の意味は分かります。でもそれは、どんなフォントを使おうとも関係なく製品は一様になるという話であって、個々のフォントの形状、デザインの問題ではないですよね?


>もしかすると、私が「画一的」という語に何らかのネガティブな意味を付与している、と思っておられるのでしょうか。私は特にそういうつもりは無いです。

 つもりが無いというよりは、つもりが無いことを他人が読んでくれるのが当然、と期待しておられるように感じます。「記号に過ぎない」の後ですから余計に、です。私からすると、TAKESANさんは非常に怖いことを言っておられるんですけれど…。
 私の場合は特殊ですけれど、私のブログはフォント紹介サイトで宣伝させてもらってますから、私が自分のブログで「フォントの形状は画一的である」と書くのは、どんな文脈であれ、フォントを探しに来てくれた閲覧者や、フォントデザイナーに喧嘩を売っているのに等しいと思ってます。実際にそう言ったことは無いので、本当のところは分かりませんけれど。
 そのあたりの感覚が分かるかどうかの問題でもありますが。


>「温かい」という比喩と「美しい」という表現は、違いますよね?

 「温かい手書き文字」というのは、「冷たいまでに整ったパソコンのフォント」に対して、色々な手書きをまとめて「温かい」と表現しているに過ぎないのだと思うのですけれど。特に「温かい」に深い意味は無いんじゃなかろうかと思うんですが。「柔らかい手書き文字」「個性が出る手書き文字」でもいいはずです。
 丁寧な手書き文字を見て「美しい」と述べることも、「温かい手書き文字」に含まれると思いますが。

投稿: Narr | 2009年3月22日 (日) 18:56

文字は記号に過ぎません。その言い回しにどういう印象を受けられようが、意見は変わりません。ネガティブな意味は含めていないです。

それから、私はここで、画一的とはどういう意味か、とか、フォントは画一的である、とはどういう事か、を説明しました。もちろん、言葉の用い方が誤解を招くものだ、という批判は甘んじて受けます。
「当然」などとは思っていません。そんな事を考えていたら、改めて説明などしません。

▼▼▼引用▼▼▼
 同じフォントを使ったからといって文書が同じになるわけではないですけれど、「特定のフォントで印刷された文書の集まり」が、一様な品質を持っている場合がある、というのであれば話の意味は分かります。でもそれは、どんなフォントを使おうとも関係なく製品は一様になるという話であって、個々のフォントの形状、デザインの問題ではないですよね?
▲▲引用終了▲▲
私は初めからそういう話をしております。それを「画一的」と言っています。もちろん、印刷に限りません。と言うか、私は、個々のフォントの話をしたのでしょうか? 最初から、同じ書体で出力させれば同じ形状(単に形、でいいです)になるという話をしているつもりです。

画一的については、
▼▼▼引用▼▼▼
何もかも一様にそろえるさま。一つの枠にはめこむさま。
▲▲引用終了▲▲
http://ext.dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/32056/m0u/%E7%94%BB%E4%B8%80%E7%9A%84/
また、
「画一」
▼▼▼引用▼▼▼
個々の性質や事情は重視せず、全体を一様にそろえること。
▲▲引用終了▲▲
http://ext.dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/32055/m0u/%E7%94%BB%E4%B8%80/

フォントは、
▼▼▼引用▼▼▼
(1)大文字・小文字・数字など,同一書体で,同一の大きさの欧文活字のひとそろい。

(2)コンピューターが表示,または印刷に使う文字の形を収めたデータ。

(3)(2)により表示された文字。
▲▲引用終了▲▲
http://ext.dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/227034/m0u/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%88/

の意味で使っています。

それにしても、ある辞書の記述をもって、
▼▼▼引用▼▼▼
→「フォントのデザインは、何もかも一様で個性や特徴がない」
▲▲引用終了▲▲
こういう風に書かれるのは、あまり好ましくありません。
私は、画一的とは一様という意味であり、ネガティブな意味は込めていない、と言っています。
一般的に、画一的という語があまり良い印象を与えないような用いられ方をしている、だからその語を選択したのはあまり良くない、という批判なら甘んじて受けますが、私自身そういう認識(画一的という語にネガティブな印象を受ける事)はあまり無いです。全くその意味に取りようが無い、と看做せるような、いわゆる誤用でもありませんよね。

何度も言いますが、画一的という語にネガティブな意味は込めてません。一様あるいは一定と表現出来るかも知れません。ともかく、工業製品の品質が一定であるような意味で「画一的」を用いました。これはもう、そういうつもりで書いた、と言う以外にありません。

投稿: TAKESAN | 2009年3月22日 (日) 20:04

 「ネガティブな意味」が無いのは了解しました。

 個々のフォントの良し悪しの話というよりは、それよりもっと強い主張、フォントのデザインがどのようなものだろうと、手書きの文字がどうだろうと、たとえ手紙であっても、文章の内容が大事なのである、手書きの良さを主張する人は思い込みがあるのではないか、という話に聞こえました。
 しかしそれだと非常に強烈な主張になるので、「仰ることがよく分からない」と申し上げました。

 「文字は記号である」なら違和感ありませんが、「結局は『単なる』記号、情報量が多少違う」ならば、文字に絵としての価値といったものは確かにあるけれど、それほど重要では無い、という主張に読めました。


>最初から、同じ書体で出力させれば同じ形状(単に形、でいいです)になるという話をしているつもりです。

 「同じ書体で出力させれば同じ形状になる場合がある」ならば分かりますが、基本的には「同じ書体で同じ処理をした結果の画像データを出力させれば同じ形状になる」だと思います。
 手紙であっても、色の選択や文字サイズ、行間設定、変形などだけでも、だいぶ雰囲気は変わりますし。
 フォントは素材です。最終的な出力は文書のデザイナー、手紙の場合は手紙を書く人が決めます。同じ書体を使っても、必ずしも画一的とは限らないです。
 ある一つのフォントファイルをもとに作られた文書だけでも多彩ですから、「フォントは画一的である」と言われると、もっと原型でのフォントが画一的である、つまりフォントの書体デザインが画一的、という意味かと思いました。
 もし「最終的な印刷物が画一的である」という話なら、「フォントを使って印刷する人々が、みんな同じような印刷設定しかしないから、誰でも似たような画一的な文書の見た目が出来上がる」という話になるはずだと思ってました。

投稿: Narr | 2009年3月22日 (日) 21:12

 もしかすると、「メール」というのは、「プレーンのテキストメール」のみを指して仰ってたのですか?

 HTMLメールや、紙にパソコンで印刷した手紙を封書で郵送する手紙、英文タイプライター、そういったものを全て含めての話だと思っていました。
 手書きが良いか、PCのフォントが良いかという比較の話ならば、文字以外を全て手書きの手紙と同じ条件にしているはずであり、であれば手書きの文字と同じくフォントのデザインを手紙の筆者が選択して、紙で送る手紙も含むと思っていました。
 今見直すと「メール」としかありませんので、だとするとこれは私のミスです。

投稿: Narr | 2009年3月22日 (日) 21:42

いえ、メールというのは、PCや携帯電話で送受するもの一般です。印刷した物も含むかな、という感覚ではいますが、それはコメント欄で思いついた事かも知れません。

私は初めから、「手書きは温かみがある」という意見を採り上げています。そして、そういう事を言う人は、おそらく「細部まで考えないだろう」というのを前提にしています。

書体の選択や、行間・文字間隔等の書式の設定などによるデザインの異なりを知っていて、その細部にまで目がいく人は、そもそも「手書きの手紙は温かみがある」という大雑把な印象で ものは言わないだろう、という前提です。フォントの画一性は、手書きとメールとの違いの一つとして提示しました。

▼▼▼引用▼▼▼
 フォントは素材です。最終的な出力は文書のデザイナー、手紙の場合は手紙を書く人が決めます。同じ書体を使っても、必ずしも画一的とは限らないです。
▲▲引用終了▲▲
もし私がそれを認識していなかったら、ゲーム脳Q&Aの作成の際に、皆さんから教えを請う事はしなかったでしょう。
それから、何度も言うように、画一的とは、出力される文字の形状は一定であるという意味です。

ものすごく誤解されている気がしますが、私は、書体や書式によって文章にバリエーションが出る、というのを否定はしておりません。と言うか、そのバリエーションに思いを馳せない場合に、「手書きは温かみがある」というような見方が出るのだろうな、と推察した訳です。

上で、市販(と言うか、大量生産品)のお菓子の話をしています。調理済みで一定の品質の食品よりも手料理が好ましい、という見方
を例示しました。近頃の社会のあり方を嘆く象徴的な物言いとして、そういう話題になる場合がありますね。出来合いの料理が食卓に並ぶ、誰もが同じような物を食べる、など。出来合いのものばかり与えるのでは愛情が足りない、という意見すらあります。
それをもって手料理の良さを訴えたりする訳ですが、それは普遍的な論理では無いよね、というのが自分の認識です。

要するに、大量生産品の食品を与える事そのものを否定的に見るのは妥当では無い、という事です。で、なぜ否定的に見るのか、と考えると、おそらく、大量生産品は品質が一定である所からそう認識するのだと思われます。「外食」ばかりする、などもそうですが。

でも、そういう物が一様の品質だからといって、それを与える事そのものを否定的に見るのは妥当では無いだろう、と。様々な商品があり、その組み合わせのバリエーションは豊富な訳ですから。

これは、ほとんどメール(&手紙)の話と同じ構造と見ています。と言うか、この事を考えながら本文を書いた訳ですけれども。

私は、メールだから「”何もかもが”画一的」だと看做すのは誤りである、と考えています。で、手書きが良いと言う人は、おそらくそう考えているのだろうな、と思い、その一因として、字体の画一性があるのだろうな、と推察したのです。

本文では、「ほぼ同じ形状の文字」と書いていたりします。「ほぼ」ですね。ある程度注意深くやっているつもりではあります。

それから、
▼▼▼引用▼▼▼
画一的なフォントと手書きの文字とでは、情報量が多少違う、という事に過ぎない。
▲▲引用終了▲▲
とも書いていますね。これは、手書き文字の過度な重視への反論、と見て頂くと良いと思います。本来、その他の部分に色々のメッセージを含む事が出来る、という意味です。

最後辺りに書いた、結局「何が書かれているか」を読む、とは私の基本姿勢です。文字の配置や書体が何であっても、結局は書かれた文そのものを検討する、というのが自分の見方です。何で書かれているか、より、どういう言葉か、を重視したいからです。どんな書体であろうが、テキストカラーであろうが、絵文字顔文字を使っていようが、それはメタに見る準備があります。

一応、「極端に言えば」と入れているのですが、それは措いておきます。

要するに、手書きかそうで無いか、の部分だけで判断せず、全体を見ようよ、というのが主旨です。
最後に自分の姿勢を書いているから、矛盾しているように見えるのかな、と思います。それは書き方がまずかったかも知れません。私は、手書きか否か、どういう書体か書式か、も含めて、相対化して読む(読みたい)、という事です。

投稿: TAKESAN | 2009年3月23日 (月) 00:04

フォントとか字の書き方というお題から外れますが、
私が思い出したのは リチャード・レスタック「脳トレ」155ページより引用
↓↓引用開始↓↓
> 多くの人は「書く」ということを考えるとき、新聞や本、雑誌を思い浮かべます。しかし、これらの形態は、書かれた物の十分の一にも満たないでしょう。書くことの残りの十分の九は仕事上の文書です。さらにそのほとんどはコンピュータで書かれています。
> コンピュータで読んだり書いたりすることは、テレビを観ることと共通する部分が少なくありません。テレビもコンピュータも、情報を寄せ集め、バックライト式のスクリーンで移し出し、瞬間的なスピードで映像が変化します。この三つの特性すべてが組み合わさったときには、右半球が占拠され、感情面に影響を与えることになります。これはもちろん、言葉を司る左半球での合理的で調整的な性質とは対照的なものです。さらに、言葉がコンピュータ画面にあらわれると、ノートに同じ言葉を書いたときには起きないような方法で、右半球が動き始めます。事実、コンピュータ画面上で何かを記すときに使われる脳領域と、紙に書くときに使われる脳領域とは異なります。この脳機能の違いは、eメールになると軽率なメッセージを書いてしまうという、不可解とも思える現象にあらわれているでしょう。このような失敗をすると、左半球の前頭皮質に備わっている脳の批評能力が失われてしまったかのように思えてきます。
↑↑引用終了↑↑

人にもよるのかも知れませんが、画面の文字情報と紙の文字情報の脳における扱われ方が違うことがあることに私は注目します。
引用文ではメールですが、こうした傾向は日本では掲示板の罵詈雑言やブログの炎上などに見て取れるものです。
この本「脳トレ」の、特に引用元の第17章「注意力と集中力を強化する」は「テレビとコンピュータがADDを増加させている」(anomy注:ADD=注意力欠陥障害)の副題があり、私が情報技術と脳(そして、ぶっちゃけるとゲーム脳)というテーマを考えるきっかけを与えてくれた文章です。
プロセスを考察することなく「テレビとコンピュータがADD患者を増やしている」と吹聴して回るのは危険ですが、
情報技術に頼ることで集中力や注意力や論理思考力が低下したり、その結果掲示板に軽率な発言をしたりすることがあるのであれば、そうしたものが無いとはいえないし、
だからといってコンピュータなしの生活を望むのは時代錯誤ですから、注意力や集中力や論理思考力を損なわない使い方を考えるのが現実的でしょう。
(それが(特に利用時間の調整)難しいから、バランスを崩す人が増えるという意味での警告としては間違ってないと思います。)

長くなりましたが、画面の文字情報と紙の文字情報では脳内での扱われ方に差があることがあることと、それが発言に差を生むことがあるという2点です。

投稿: anomy | 2009年3月23日 (月) 00:19

anomyさん、今晩は。

メディア(媒体)によって脳の活動領域が異なる、というのはあり得そうですが、それが認知にどう影響を与えるか、は一応別の現象と考えるのが良いと思います。

ですので、掲示板やブログでの炎上や罵詈雑言が何によるのか、も個別に考える必要があるのではないかな、と。

▼▼▼引用▼▼▼
事実、コンピュータ画面上で何かを記すときに使われる脳領域と、紙に書くときに使われる脳領域とは異なります。この脳機能の違いは、eメールになると軽率なメッセージを書いてしまうという、不可解とも思える現象にあらわれているでしょう。
▲▲引用終了▲▲
あくまで引用部のみを見た意見ですが、ここ、科学的な飛躍がありますよね。脳画像診断で異なる結果が現れた事と、メールで軽率なメッセージを書く事とを結ぶ理路がはっきりしないです。メールで軽率な文を書くのが事実だとしても、それがメディアの物理的特性の違いによるかどうかは、かなり慎重に見なければならないと感じます。

もちろん、メディアの違いによる脳活動や行動の変化について調べるのは、有意義な事と考えています。

後、ディスプレイと紙に描かれた文字を見た場合、顕著な脳活動の違いが見られる、というのは確立された知見なのでしょうか。恥ずかしながら、寡聞にしてその辺の事情をよく知らないのです。
当然、上にも書いたように、それが確立された知見だとしても、ブログや掲示板に汚い言葉を書く、という現象とは切り離した方が無難ですね。むしろその部分は、主に認知心理学や社会心理学の分析を行うのが良いと思います。

投稿: TAKESAN | 2009年3月23日 (月) 00:52

>私は初めから、「手書きは温かみがある」という意見を採り上げています。そして、そういう事を言う人は、おそらく「細部まで考えないだろう」というのを前提にしています。
>「手書きの手紙は温かみがある」という大雑把な印象で ものは言わないだろう

>ものすごく誤解されている気がしますが、私は、書体や書式によって文章にバリエーションが出る、というのを否定はしておりません。と言うか、そのバリエーションに思いを馳せない場合に、「手書きは温かみがある」というような見方が出るのだろうな、と推察した訳です。

 「誤解」については了承しました。
 「推察」については、私は「細部まで考えないだろう」を前提にして推察できる人を知りませんので、よく分かりません。

>私は、メールだから「”何もかもが”画一的」だと看做すのは誤りである、と考えています。で、手書きが良いと言う人は、おそらくそう考えているのだろうな、と思い、その一因として、字体の画一性があるのだろうな、と推察したのです。

 私の場合で言えば、個人的には、メールは嫌いです。自分で作ったフォントで印刷するよりも、手書きの手紙を選びます。でも、メールが何もかも画一的、とは思っていません。
 私が手書きを好む理由は、手書きだと自分の能力以上の文字は書けないということと、丁寧に書く限り大抵は相手に失礼にならないから、などです。

 必ずしも自分の行動に合理的な理由をつけてるわけではないです。ここに書けないような理由もたくさんありますし。


 色々とご迷惑おかけしました。

投稿: Narr | 2009年3月23日 (月) 03:13

Narrさん、お早うございます。

主旨としては、id:kamezoさんがブクマで書いて下さった通りです。

私は、自分の行動は合理的であるか、を確認します。そうで無いと、他者を不当に評価してしまう可能性があるからです。
手書きは温かい、と端的に看做すのは、それ以外は温かく無い(あるいは「冷たい」)というネガティブな評価を下す事で、それはメール等を積極的に用いる事への適切で無い評価に繋がる場合がある、のを書きたかった訳です。

---

http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E6%89%8B%E6%9B%B8%E3%81%8D+%E6%B8%A9%E3%81%8B%E3%81%BF&num=50

投稿: TAKESAN | 2009年3月23日 (月) 10:22

もう20年位前の話ですが。
 理系の学科の卒論や修論はワープロやエディタを使ってパソコンで作る人が多数となっていました。
 ところが、文学専攻の学科では「万年筆で手書きしろ」という縛りがありまして。
 「伝統に則って書けというなら仕方がないけど、それならば夏目漱石の作品の研究なら万年筆でもいいけど、源氏物語の研究なら筆で書けって言わないとおかしいよなぁ」というツッコミが入っておりました……。

投稿: apj | 2009年3月24日 (火) 00:38

年賀状とかに限って言えば、
「印刷したもの」→「誰宛でも同じ文章」
「手書き(を添えたもの)」→「その人用に考えて書かれた(と思わせる)文章」
ということで、手書き文章に愛情を感じるのは不思議ではない気がしますけど。
それを「温かみ」と呼ぶのは、細部まで考えない人というよりは、ネガティブな深読みをしない素直な人に感じます。(懐疑的でないとみると、実に危うい領域の人ですけど・・・)

投稿: トンデモブラウ | 2009年3月24日 (火) 09:22

apjさん、今日は。

結構最近でも、学生のレポートは手書きさせる、という大学教授がいるらしいです。
と白々しく書いてますが、実は森昭雄氏の事だったりします。まあ、森氏の場合、情緒的な理由というより、脳に良いから、的な観点ですけれども。

▼▼▼引用▼▼▼
 ところが、文学専攻の学科では「万年筆で手書きしろ」という縛りがありまして。
▲▲引用終了▲▲
こういうのがあったのですねえ。何て言うか、すごいです。何か合理的な理由でもあるのかな、と考えても思いつかない…。

------

トンデモブラウさん、今日は。

愛情って言うか、「気遣い」を感じさせるんだと思います。上にも書きましたが、個別に考えてくれてるんだな、と。印刷のものにも一言手書きを添える、というのは、年賀状の書き方の作法、的な所でも見られますね。

投稿: TAKESAN | 2009年3月24日 (火) 11:20

>結構最近でも、学生のレポートは手書きさせる、という大学教授がいるらしいです。
>と白々しく書いてますが、実は森昭雄氏の事だったりします。

 そういえば、「レポートはワープロでもいいですか」って、学生からの定番の質問ですよ。

「どっちでもいいけど、手書きするなら、他人が読める字で。達筆すぎるのはダメ。自他共に認める悪筆の人はむしろワープロの使用を推奨」って答えています。

#だって読めなきゃそもそも採点が不可能だし。

投稿: apj | 2009年3月24日 (火) 23:19

apjさん、今晩は。

 >ワープロでもいいですか

あ、なるほど。そもそも手書きをデフォルトだと認識してる訳ですね。
確かに、高校までは一般的に手書きだし、そうでなくちゃならない、と考えるのは、むしろ成り行き的に普通なのかも知れません。

レポートや論文って、まさに、「何が書いてあるか」が重要なものの筆頭ですものね。その意味では、文字が視認しやすい形状である事と、文の構成が明瞭である事が、重要なんですよね。文字の話で言うと、一定の形になるワープロの方が、目的に適う、と。

投稿: TAKESAN | 2009年3月24日 (火) 23:27

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