問題(と言うか質問)
「缶ビールをそのまま飲むよりも、グラスに注いだ方が美味い」
という意見があった場合、それは科学的に実証出来るか。実証出来るとすれば、具体的にどのような方法によって(現象の定義、作業仮説の構成、実験計画のデザイン、等)確かめる事が可能か。
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「缶ビールをそのまま飲むよりも、グラスに注いだ方が美味い」
という意見があった場合、それは科学的に実証出来るか。実証出来るとすれば、具体的にどのような方法によって(現象の定義、作業仮説の構成、実験計画のデザイン、等)確かめる事が可能か。
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FSMさんのブログ(帰無仮説と「強い相関はない」の関係|ほたるいかの書きつけ←良エントリー。読みましょう)で紹介されていた本↓
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確率・統計入門 著者:小針 あき宏 |
私は未読なのですが、FSMさんの紹介を見ると、とても面白くて勉強になりそうな本、のようです。
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いきなり話は替わりますけど。
科学における統計の扱いに関して重要なのが、統計学的に得られた結果が、それぞれの分野において実際的にどういった意味を持つのかを、きちんと考えなくてはならない、という所ですね。よく、「実質科学的」に と言われたりします。工学や実験計画、あるいは品質管理方面では、「固有技術的」なんて言ったりしますよね。
統計解析というのは、ある現象を数量化して、それを統計学的に処理する事なので、それ自体が直接、実質科学的な論を証明したりする訳では無いんですよね。
そういうのを考えないと、「統計的に有意」だったから何々の仮説が証明された、的な短絡をしてしまう。
たとえば、サイコロの目を何十回か連続で当てて、それが有意水準○○%で有意だった、という結果があったとして、それをどう解釈するかは、色々考えられる訳ですね。サイコロの構成が偏っていたのか、意図的な仕掛けがあったのか、それとも予知能力があるのか。あるいは念動力があったのか。統計的な方法「だけ」では何も言えない。そこは心得ておきたい所です。
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あぶすとらくつ: きびしくフルイにかけるからこそ良いモノが得られるという当たり前のこと
こちらのエントリーに触発されて。内容がかなりかぶりますが、少し角度を変えて見てみる、というのも意義のある事と思いますので。
まず、「科学的」とはどういう事か。これは、それだけで色々の議論が起こるようなテーマですが……おそらくある程度適切なものとして、統計学入門-第1章にある記述を借りたいと思います。すなわち、
そもそも科学的研究というものは、一見したところ多種多様な現象から、その奥底に潜む普遍的な原理を帰納的に推理・洞察し、色々な現象を統一的に説明すると同時に、その原理から演繹的に導かれる現象を予測し、実験や観測によってそれを確認・修正しながら理論を確立していく作業です。
このようなものです。ポイントは、
などでしょうか。要するに、経験的に得られる(直接・間接的に観測可能な)データによって理論を構築・検証し、それを現象の予測や制御に役立てて、より良い理論を築き上げていくという営み。
これを踏まえるならば、ある主張なりが科学的に正しい/正しく無い とはつまり、
となるでしょう。この意味で、「科学的に間違っている」というのは、「言える」訳ですね。ただしそれは、「科学的に」言える。そして、「科学的」とはどういう事か、と言うと、観測されたデータによって理論の確からしさを確認する営み、である。
科学的に正しい、とは、常に蓋然的なものであり、近似的なものである訳ですね。人間の観測によって得られたデータによって自然の(取り敢えず自然科学に限定。生命科学や社会科学に広げても同様)在り方を推測して理論を作る(ここに引っかかるなら、「発見」でも良いと思います)のだから、全く自然の在り方と一致する、というのは考えにくい。もちろん、あり得ないとは言えないけれど、想像しにくい(そもそも、理論と自然の在り方が全く過不足無く一致する、とはどういう事か、等の哲学的問いが絡んでくる)。
と、こういう風に考えれば、「科学的に正しく無い(間違っている)」という言明も可能な訳ですね。何故ならば、もとより「科学的」という文脈に乗っかっているのだから。だから、「間違いの証明」は「可能」。ただし「科学的」には。方法的には統計学が絡んでくる。
それで、科学の方法についての説明において、「科学的に(あると)確かめられていない」ものを、取り敢えず「無いものと看做す」、という場合があります。「間違っていると看做す」、もあります。
これは、注意を要する表現なのですね。どういう事かと言うと、「無い」も「間違っている」も、「取り方(解釈の仕方)」によっては誤解を生む可能性がある。要するに、確かめられていないものを「無い」と言ってしまうのは、厳密には誤っている訳です。だけれども、そういう言い方をする。何故か。それが、「科学の文脈」に基づいた、つまり前提とした言明だから(つまり、「無いと看做す」と言っても、「無い事が証明された」と同義では無い事に、コンセンサスがある)。しかし、その文脈を共有しない人にとっては、そんな意味が込められている事を知る由も無いので、誤解する。
ですから、私自身は、確かめられていないものは無い(間違っている)と看做す、という言い方は、あまりしないよう心がけています。言う時は、このエントリーのように、そもそもどういう含意があるのか、を書きつつ説明する。そういう言い方がなされる場合もあるが、それは実は……という風に。
ハブハンさんも仰るように、ニセ科学は、あると確かめられていないものをあると言ってしまえばそう判断出来るものなので、「間違いと解った訳じゃ無いだろう」、というのは、ニセ科学と指摘する批判に対しての反論としては、全くはずれているのですね。有効な反論は唯一、「あるという証拠を示す」事。「間違いと解った訳じゃ無いだろう」という反論に対しては、「はい、その通り。で、あるという証拠は?」となるのですね。不存在が証明されていないからといって、存在が証明される訳では無い。
「ニセ科学」という概念を、「あり得ない事」のように誤解しているようなものも散見されますね。おそらく、「ニセ」の語感から、そのように想像するのでしょう。でも、単に「あり得ない」と言いたいのなら、敢えて「科学」を語に含む必要は無い訳です。「間違い」、「誤り」、「嘘」、「あり得ない」、等で良い。語の構成が「ニセ + 科学」で成っているのは、科学的に(ある/無い と)確かめられていないのに、(ある/無い と)確かめられたかのごとく装うものを指したいから。
そういった誤解は、
などに基づいているのでしょう。後者に関して、説明する側も気をつける必要があると思います。
ちなみに、以前、こういうのも書いてみました(異様に煩雑ですが。一応参考として)⇒Interdisciplinary: メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か
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先日、プロモの動画を観たのですが、大変良さげでした。音楽もよろしい。
もちろん、アクションゲームなので、実際の操作感、爽快感、バランス等は、やってみなくちゃ解らない訳ですけれども、ビジュアルには惹かれるものがあります。
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朧村正 特典 特大 屏風型絵巻付き 販売元:マーベラスエンターテイメント |
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ネタバレ!!
ブログでネタバレを書く時、色々気を遣いますね。読まれたら終わりだから、工夫して、読まれる前に、ネタバレがありますよ、とちゃんと知らせる必要がある。
最近は、RSSリーダで記事を確認するのも多いと思いますが、そういう場合、タイトルにだけ「ネタバレ注意」と書いても、1行目でネタバレ本体を書いたとしたら、RSSリーダではそれがタイトルの直後に表示されたりするので、意味が無かったりするんですよね。RSSリーダで見てて、上の「ネタバレ!!」がいきなり目に入った方もおられるでしょ? まあ、これは目立つように極端にやってますが、ちょっと長めの文章でもぱっと見てしまって頭に入る事がありますね。だから、何行か改行してから書くとかして、ネタバレありますよー、というのを出来るだけ解らそうとしたり。
まあ、WEBなので、検索で引っかかる、なども考えられる訳ですが。書かないのが最も安全ですが、それを言っちゃあおしめえよ、なので。
追記:文字大きくする意味が全然無かった。後、明示してないですけど、アップ後、細かい所を何箇所か書き直し、追加しました。
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はてブにもちょっと書いたのですが。
よく、○○kg痩せた、という表現をしますよね。”kg痩せた” - Google 検索
でも、「痩せる」って、形状・形態に関する表現ですよね。なのに、重さの「kg」とくっついて、○○kg痩せた、となってる。自分も何気無く使っているのですが、よく考えてみると、違和感が。
外観に関する定量的で明確な指標があって、それが体重と綺麗な相関関係にあるのであれば、重さが減った→痩せた と表現しても良いと思いますが、別に人間の身体の組成は一様では無いし、太っただの痩せただのは、人間の「観察」で評価される訳だから、すぐに結びつくようなものでも無いんですよね。人間の主観的評価としての「太ってる」、「痩せてる」というものと、実際の体重とにそれほど強い関係が無い、のは、
「痩せた?」
「え? いや、そんな事無いと思うけど。体重は変わって無いよ。」
「そうなんだ。なんか細くなったなあ、と思って。」
というような会話がしばしばある事が、一つの傍証になるように思います。
心理社会的には、体重はやっぱり外観の形態に大きく働く要因であり、客観的な数値としてすぐ確認出来るものだから、外観の変化を即「体重の増減」で代表して表すようになった、なんていう風に考える事が出来るでしょうか。
それが、外観はほとんど変わらないのに「体重の増減」を過度に気にする心理、にも繋がってるのかも知れません。あくまで外観の変化の主要因として捉えられていた体重が、いつの間にか、それ自体をコントロールするのが重要なものと見られるようになった、と言うか。一種の逆転って感じで。
調べたら、同じような事について書いてるのがありました。こういうのって、いったん気づくと気になっちゃみますね。って言っても、日常会話では、今後も使うでしょうけど。
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やっぱあれですか。PSPとか、
てな感じになるんですかね。
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科学は,まだ本格的に生れてから数百年にしかならない学問です。科学によって説明できないことはみんな迷信だ,とわりきることこそ,本当は科学に対する迷信なのです。
科学はまだこれからどんどん発展する学問です。そうでなかったらあなた方はがっかりするでしょう。昔の学者がみつけたことを教科書にして,それを覚えるだけが科学の勉強なら,これほどつまらない勉強はありません。科学は生きている学問です。あなた方の目の前におこるすべての現象に,はてな? と疑問と探求の心をむけてごらんなさい。そこに本当におもしろい学問としての科学があるのです。
米山正信 『化学のドレミファ 1 反応式がわかるまで』(P203)
昨日ご紹介した本からの引用です。本当は、きちんとストーリーの流れを追った上で読んだ方が良いのですが、名言なので、敢えて無粋な真似をしました。是非とも、直接本書に目を通してみて下さい。
先日ご紹介した、中谷宇吉郎博士の文とも通ずる所がありますね。いずれも、よく噛み締めたい名文です。
科学は何もかも解っている訳では無いし、何もかもが解る訳では無い。だから、その限界や方法をちゃんと弁えて使っていく必要があります。解っていない事を解っている、と言ってはいけないし、まだ確かめられていないものをあり得ない、と決め付けてしまってもいけない。もちろん、もう解っている事を、まだ解っていない、と言ってしまってもいけないのです。
ところで、中谷博士の師である寺田寅彦翁は、次のような事を言われたそうです。中谷博士の姿勢とともに書いてあります。
中谷は、科学への姿勢として寺田から深い影響を受けた言葉を紹介している。
それは、
「ねえ君、不思議だと思いませんか」
という、ひと言である。自然を相手にしたとき、常に自分自身で驚きを感じなければならないという教えを、中谷はこの実にシンプルな言葉から学んだ。そして、もうひとつ、
「一番大切なことは、役に立つことだよ」
という言葉を、中谷は終生大切にしている。「役に立つ」というその科学観こそ、その後の中谷の研究を大きく方向づけるものに他ならなかった。
中谷宇吉郎への旅-雪のパラダイス:北海道人
自然を見て不思議だと思うこころ、そして、その仕組みを知りたいというこころ。科学の根本には、そのような姿勢があると思います。その事を大切にしたいものですね。
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化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで 著者:米山 正信 |
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科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) 著者:中谷 宇吉郎 |
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化学のドレミファ〈1〉反応式がわかるまで 著者:米山 正信 |
ああ……こんなすごい本があるとは思わなかった。
私は、「解りやすいテキスト」を希求しているけれど、この本は、その一つの理想形かも知れない。それほどに素晴らしい本。
なんでも、30年くらい前に出たロングセラーの本、だとか。
学生の頃にこの本に出会っていればな、と思った。知らなかった事が悔やまれる。
大人になってから勉強し直したい、という方、お子さんに、考えさせながら楽しく勉強出来る良い本を読んでもらいたい、と思っている方、また、お子さんと一緒に勉強してみたい、という方、等、色々な方にお勧めしたい本です。本当に、本当に良い本。
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科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) 著者:中谷 宇吉郎 |
再読中。何度目だろう。
やはり、最高の本。不朽の名著です。
で、Interdisciplinary: 科学の限界で引用した部分を、再び採り上げましょう。ここは、何度出しても、過ぎるという事が無い。※最初の段落はP14、次の段落はP16・17より引用
問題の種類によっては、もっと簡単な自然現象でも、科学が取り上げ得ない問題がある。これは科学が無力であるからではなく、科学が取り上げるには、場ちがいの問題なのである。自然科学というものは、自然のすべてを知っている、あるいは知るべき学問ではない。自然現象の中から、科学が取り扱い得る面だけを抜き出して、その面に当てはめるべき学問である。そういうことを知っておれば、いわゆる科学万能的な考え方に陥る心配はない。科学の内容をよく知らない人の方が、かえって科学の力を過大評価する傾向があるが、それは科学の限界がよくわかっていないからである。
世の中にはよく、科学者というものは、船が沈んだり、洪水が起きてしまったり、何か事故があったあとに出てきて、あれは原因はこうだった、ああだったということを、後からいう人間であって、ほんとうにその現場にいたら、やはり同じことだろうという人がある。気象警報を無視したり、分りきった治水策を実施しなかったりするようなことは、科学以前の問題であって、ここでは触れないことにする。本質的な問題としては、そういう非難は、ある程度まであたっている。しかしそうかといって、ちっとも科学を卑下する必要はない。科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。
科学者は科学万能主義に陥っている、と言う人は、この部分を何遍も読みましょう。周りにそういう人がいたら、本書を貸してあげましょう。ブックオフで100円で買えます(これは喜ばしい事なのか、複雑だけど……買う側としてはありがたいですけれど)。
中谷博士は、50年も前にこういう事を書かれていたのですよね。しかも、「科学万能的なものの考え方」(P1)の風潮を懸念して。
実際、中谷博士のこの本は素晴らしいので、読むべきですね。科学万能主義云々と言う人には、取り敢えずこれを読んでから ものを言ってみませんか、と申し上げたいです。
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IE8を入れてみたんですが、何やら挙動が怪しい…。いや、IE8にしたから、なのかはちょっと判りませんが。
あ、正確には、IE8を入れた後のSleipnirの挙動がおかしい、です。
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ふと思った事。
メールよりも、手書きの手紙の方が、「温かみがある」、などと言われる事がありますね。理由は、誰が書いても同じ形の文字しか送れず、比較的短文になりがちな(これは人によると思うけど)メールよりも、手書きの文字の方が、感情などが読み取れる(書き手は感情を込めやすい)、というようなもの。
テレビゲームよりも、ラジオの方が良い、という意見がありますね。理由は、ゲームよりもラジオの方が、音声だけだから、「想像力」を働かせる事が出来るので良い、というもの。場合によっては、「脳に良い」とダイレクトな言い方がされる事も。
これはなかなか面白い。
前者は、手書きの手紙の方が情報量が多く、そうであるがゆえに相手の感情等を推し量りやすい、という主張で、後者は、より情報量の少ないラジオの方が、想像力を働かせるので好ましい、という主張。
もちろん、具体的な形態が全然違う(手紙はコミュニケーションの手段、だし)ので、単純に比較するようなものでもありませんけれども。
もし両者を同時に主張している人がいたとしたら、どう説明するのでしょうね。「ちょうど良い情報量」がある、とでも言うかな。そしたらきっと、ちょうど良いとはどのくらい、と訊きたくなるでしょう。
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手書きの方が良い、と考える人は多分、手書きに要するコストの高さなどを推測して、自分のためにコストをかけてくれている、という風に認識しているのでしょうね。キーを叩いて文字を入力するよりも、「手を動かして」(キー入力もそうなのだけど。象徴表現ね)書く手書きの方を好む、という。だから、
毛筆>硬筆>メール
なんて序列をつけている人は、いそうです。和紙+毛筆 なんて最強かも知れません。
そういう意味で、明示的なメッセージとしてそういう所を重視するのは、解らないでは無いです。年賀状なんかでも、せめて宛名くらいは手書きで、と言う人がいますよね。自分はそういうのは関心ありませんけれども。
ただ、そのような論理を、「温かみ」などの比喩表現を用いて比較するのは、どうなんだろうと思いますね。
通常は、温かみという表現は、視覚的には色彩に対する比喩として用いられると思うのですが、メールと(専ら手書きの)手紙、の比較の文脈で出てくるのが面白い。これは詰まる所、「文字の形」の違い、ですよね。要するに、手書きは書き手のクセや、その時々の感情が文字の形状に顕れるが、メールは誰が送ってもほぼ同じ形状の文字である、という話。
「機械に多く頼る」→冷たい なんて直感があったりするのですかね。逆に、人間がなしたものだ、と思わせるものは、「温かい」と。
少なくとも、メールと 手書きの手紙には、普遍的な「温かさ」の違いなんてものは無い訳です。どちらも、結局は単なる記号。画一的なフォントと手書きの文字とでは、情報量が多少違う、という事に過ぎない。
私なぞ、「何で書かれているか」よりも、「何が書かれているか」を重視するので、極端に言えば、メディアの違いなどどうでも良いのであります。ああ、手間かけたのだなあ、と思いを馳せる事があっても、「温かい」などとは認識出来ない。
でも、病気の時や落ち込んでいる時に、手書きの手紙を貰ったら、感慨も一入かも知れないよ、なんて思ったアナタ。それは、あらかじめ「手書き」に高評価を与える認識があるがゆえの思い込み、なのかも知れませんぜ。
ああ、こんな無粋な事書くなんて冷たいね、私。
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メモ
最近ちょっと話題になった、淡路恵子さんがドラクエに苦言、という記事⇒73歳女優が開発遅れのドラクエに「私はいつまでも生きているわけではない」と苦言 - ロケットニュース24(β)
はてブで、この事を採り上げた別記事を知ったのですが⇒淡路恵子さん(73歳)、開発遅れのドラクエに「私はいつまでも生きているわけではない」と苦言:ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd
ここにあった画像を見て、なんとなく、あれ、と思っていました。
で、さっき、自分のブログの記事を見返してたら、これが⇒Interdisciplinary: ゲームと芸能人
そこでリンクしたのがこちら⇒女優 淡路恵子 「ドラクエ」をおおいに語る - BLUE VENUS'S BED
画像が載っていますね。そして、この画像、「ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd」に貼ってあるものと同じ、と言うか、直リン。
その画像を見ると、淡路さんの年齢は73歳となっています。エントリーが上がったのが2006年。今淡路さんは75歳だそうですから、明らかに、数年前の新潮の記事(Wikipediaによれば、2007年1/4・11新年特大号の記事との事ですが、週刊新潮のオフィシャルサイトにて確認出来ないので、詳細不明)。
しかし、「ロケットニュース24(β)」の記事を見ると、最近の話のように書かれている。まるで、先日のドラクエ9の延期発表を受けて、のように。と言うか、私は全くそうだと読みました。最近新潮で淡路さんが何か書かれたのだろうな、と。でもよく見れば、リンク先に、週刊新潮のどの号に掲載されたかは載っていないのですね。最近の新潮にも載った(つまり、新潮の記事で二度淡路さんがドラクエについて語った)可能性も考えたのですが、確認出来ませんでした。
いや、お前が思い込んだだけだろう、と言われればそれまでですが、上記リンクに対する反応を見ると、私と同じような読み方をしているだろうと思われるものが散見されます。
もし、リンク先の話が数年前の新潮の記事の事を指しているのだとすれば、
女優の淡路恵子さん(73歳)が、発売を延期した『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』(以下、ドラクエIX)や、『ドラクエ』シリーズについて語っている。
この書き方は紛らわしい。ドラクエ9が発売延期したのは事実だけれども、この書き方だと、淡路さんが、発売延期の話を受けて何か仰った、と読めるので。しかし、そもそも、ドラクエ9のDSでの開発が発表されたのは、2006年末の事(参照⇒ITmedia +D Games:「ドラゴンクエストIX」ニンテンドーDSで登場 新潮の記事とほぼ同じ時期)だから、発売延期の話など関係あるはずが無い訳ですね(最初の発売延期発表は、2007年8月。参照:スクエニのリリース⇒http://www.square-enix.com/jp/company/j/news/2007/download/20070827_40.pdf (PDF) )。少なくとも、
73歳女優が開発遅れのドラクエに
これはおかしい。なぜならば、淡路さんが73歳の当時、ドラクエ9が開発遅れ、というのはあり得ないから。過去の発売延期の事も含んでいる(つまり、ドラクエは、開発遅れによる発売延期が多い、という事実を含む)、という読解は出来なくも無いけれど、それは非常に無理があります。新潮の記事を読むと、淡路さんの仰り方は、「開発が遅れる」と言うより、「続編の発売までの期間がドラクエは長い」事について、もっと短ければ楽しめるという希望を言っている、というものだからです。別に苦言では無い(語感にもよるけれど、私はあれを苦言などとは表現出来ないです)。
これらを鑑みると、元記事の記述は、間違いとは言えないかも知れないけれど、非常に紛らわしい。と言うか、なぜあのような書き方をしているのか解らない。だって、ドラクエ9の発売延期を受けての発言だと誤解しませんか、あれじゃ。記者はどういう意図で、また、どのような過程で、あの記事をあのような書き方をするに至った、のかな。
尤も、もし、
という事実があれば、書き方の問題と言うより、私の読解の問題な訳ですけれども。そうで無いとするならば、明らかに書き方がおかしい。
情報求む。※自分は「ロケットニュース24(β)」の記事をこう読んだ。実は淡路さんの、別所での同じような記事がある。等々。
普通、記事の見出しに年齢を書く場合、現在の年齢を出すものだと思います。過去の話なら、「当時」などの記述が入るはず。ここら辺も、紛らわしいのではないでしょうか。
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前にも似たような事を書きましたが。
ここ数日、何ヶ月かぶりに、モンタ(MHP2G)をプレイしているのですが……
やばい。
前より上手くなってる。
ブランクがあったので、モンスターの行動を ど忘れしたり、というのはあったのですが、もっと一般的な部分が、前よりよく出来る。間合いの取り方や攻撃の避け方、タイミング等。
やはり、休んでいる間に脳が整理された、という事か。
ゲームに限らず、しばらく休んでから再開したら、何故か上手くなった、というのはしばしば起こりますね。面白い現象。
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健康上のリスクを、染髪への懸念、あるいはルールによる染髪禁止の根拠の一つとして挙げる場合、それがどの程度確立された知見なのか、というのをきちんと議論しなきゃいけないだろうな、と考える今日この頃。市販の物を使って自分でやるのとプロにやってもらうのはどう違うのか、とかも考えるべきかな。こういうのは、「良くなさそう」だから、というのでは全く説得力を持たない訳で。少なくともこの部分に関しては、科学の話が重要だろうと感じます。要するに、染髪反対の人は、極めて安全性が高い染髪方法が一般的になった場合(もしくは、それが確認された場合)、少なくとも健康上の理由から反対という根拠を潔く捨て去る準備はあるのか、という問いかけ。
私自身は、染髪を禁止するというルールは、若年の人間に健康上のリスクが大きい場合、以外に正当化は難しいと思っているのですが、どうなのでしょうね。ある所で話題になった、経済的理由というのは、よく解らない。継続的にお金を使って維持する、という面から批判するなら、当然、同様の他のものと比較される訳ですね。で、それへの反論は、「差異」を示すか、同様のものは悉く批判されなければならない、としないと、一貫した意見とは看做されない訳で。でも、前者(差異を示し、それを根拠とする)はおかしいですね。初めに出した論拠を自身で否定する事になるので。じゃあ最初からそれを出せばよかったのに、と。
一昔前によく見聞きした、一見尤もらしい理由としては、染髪する者は問題行動を起こしやすい、などが挙げられるでしょうか。これには疑問を持ちます。そもそも社会的に、若年の内に染髪する事が好ましく無い、逸脱する行為として価値付けられているからそうなる、という論理も考えられるのだから、あたかも、髪を染める行為そのものと緊密に結び付いているかのような見方には、納得はしにくいですね。思考実験として、全ての学校で髪型・髪の色 に関する校則を全部無くしたらどうなるか、と考えた事がありますが、さすがにこれは、極端で非現実的過ぎるかな。←髪を染める事自体を、「どうでも良いもの」と社会的に認知させたらどうなるか、という考えからやってみた
学校によっては、「染髪するな」では無く、「黒髪にしろ」という所もあると思いますが(確か、私が通った中学校はそうだった※ 女子は肩まで、男子は坊主、という奇跡の時代←今もあるみたいだけどね)、さすがに今は、それには反対する人が多いかな、という印象。元々真っ黒い髪では無い人を染髪させなきゃいけない、という論理になりますからね。そして実際、そういう風に言われた事例は、ある訳で(私の身近に、元々髪が赤い人がいますが、その人は、染髪したと疑われた事があるようです。理不尽極まり無い)。
※校則では染髪禁止、だったかも知れませんが(記憶曖昧)、教員は明らかに、「黒髪」を基準としていたように思います
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web.archiveから拾ってきたページ⇒+++ 加山雄三 オフィシャルウェブサイト +++:■No.8 バイオハザード
社会報道では、しばしばゲームソフトが子供たちに与える影響力について、さまざまな議論も持ち上がりますが、大人も体験してみてはどうでしょうか?物事の善悪や、非現実、空想娯楽ゲームの世界として認める事を子供たちに教えるのも親の責任でしょう。一緒に楽しみ、ゲームを通して内容や、操作方法、友達との情報交換などの会話が生まれ、楽しいひとときを持つことです。年齢差や社会経験差、また日常生活の時間差などあればあるほど、なんでも良いから共通の関心ごとをもつ、その一つがゲームソフトであっても、コミュニケーションをとることが僕にとっては楽しいことであり、大切な事だと思っています。
素晴らしいですね。色んな人に見せてあげたい。
加山さん、テレビ番組でも、よくゲームについて語ってますよね。前観たのでは(『ごきげんよう』だったと思うけど、記憶曖昧)、鬼武者だからバイオだかを短時間でクリアした、というのを嬉々として語っておられました。周りの人は、ちんぷんかんぷんな感じでしたが(笑)
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最近話題になっている、産総研のヒューマノイドですが⇒産総研、女性型ヒューマノイドロボット「HRP-4C」を発表~ファッションショーにも登場予定
やはり注目すべきは、その重量でしょうか。あまり詳しくは無いですが、43kgというのは、かなり軽いのでは?
ハンド部には、大きさを人間サイズとするために、人差し指から小指までが1個のモータで4本同時に屈曲する構造を採用した。
ああ、やっぱり手も可動するみたいですね>A-WINGさん
人間が主観的に力を抜いた状態だと指は屈曲しているので、そのようにした方が、よりリアルに見えて、プレゼンテーション的に良かったのではないかな、と思いますが、どうなんでしょうね。
「人間に近い形状を追求しつつ、気持ち悪くないデザインを追及した」という外観デザインにおいては、2種類のデザインを検討した。極力人間に近づけるものと、ロボットの胴体に首を載せるドール系のデザインである。前者ではリアルさを追求しても不気味な印象を与えてしまい、後者ではどうしてもおもちゃ的な印象を与えてしまう。そこで産総研ではリアル系とドール系の折衷案を採用した。メタリックなスーツはテクノロジーを強調し、違和感の解消を実現できたとしている。
ネット上の反応では、いわゆる「不気味の谷」という言葉が散見されますね。これまでのものからすると、大分「不気味さ」は軽減されているように、個人的には感じます。といっても、あくまで相対的な評価であって、画像や映像を見ると、やはり「気持ちの悪さ」というのは覚えますね。
どのような先行研究があるのかは知らないですが、どういう因子が「不気味さ」に関わっているのかを調べるのは面白そうです。
人間の動きに関する論理をおおまかに分類する事が出来るでしょうか。高岡英夫氏の身体意識論における概念、「ストラクチャ」、「モビリティ」、「クオリティ」が援用出来そうです。解りやすい言葉にすると、「形状」、「動き」、「質感」とでもなるかな。
以下、私の主観による評価。※不気味さを感じさせるのは何か、という考察なので、こういうロボットが開発された事についての批判的な評価では全くありません。て言うか、よくこれだけのものを作ったな、と驚嘆しているのであります
頭部の造形自体は、相当精巧に出来ていると思います。アングル・タイミングによっては、かなり「人間らしく」見える。たとえばこれ↓
これは、いかにも人間ぽく見える部分を見計らって動画からキャプチャしたものですが、どうでしょう、かなり違和感が無い、と私は思います。考察すると、画像が不鮮明である事が、却って人間の肌の質感に近い感じを与えているのではないかな、と。リンク先に、とても鮮明な拡大画像がありますが、それは、鮮明であるがゆえに、実際の人間の肌との違いが際立つ、という事なのでしょう。ここら辺の、肌の質感の再現という所は、3DCG方面でも研究されているものだろうと思います。シリコンが素材との事ですが、コスト的にも、現状はそれが最良のものなのかも知れませんね。下手にリアルに再現しようとするのもよろしく無いのかも。
で、動きを実際に見てみると、やはり違和感がものすごい。もちろん、人間と較べて、という事で、このロボットがよく出来ている、というのは間違い無いと思いますが、それは措いといて。何ゆえ違和感があるか、というのをちょっと考えてみます。
まず、顔面が一部しか動いていない、という所。実際の人間の顔の解剖学的構造は、頭蓋骨の上に表情筋がへばりついているようになっていて、それが収縮して表情を作る、とういものですから、顔の一部が動けば、他の部分も微妙に動いていく訳ですね。で、このロボットは、8つのモーターで表情を作り出しているとの事。私が思うに、そのメカニズムの相違が、観察者に直感的に違和感を形成せしめているのだろうな、と。現状では、制御の面でも駆動のメカニズムの面でも、これくらいが限界なのでしょうね。素人考えでも、たとえ人工筋肉のような良い素材があったとしても、実際に表情を作っていく制御は難しそうです。
次に気がついたのは、「動作の重さ」ですね。モーター駆動であるがゆえに動作が等速度的である、という所が、そういう印象を与えているのでしょうか。これは全身の運動でも言えますが。試しに、表情のアップの動画を4倍速で再生したら、幾分リアルに見えたように思います(気のせいである可能性大)。等速度的で全身各部が同時に動かないのが、「機械的」な印象を与えるのやも知れません。これまた、人間的な動きを実現させようとすると制御が大変だ、という事なのでしょうけれども。
歩行運動については、膝の屈曲角度が大きく歩幅が非常に小さい、というのがポイントなのでしょうね。方向転換の部分は、よく出来ているなあ、と思いました。さすがに、人間がやるような一瞬の転換は難しそうですが。それと、腕のスイングが乏しい。腕をやたらに動かしたら、バランスを取らすのが困難なのでしょう
それと、これは3DCGのモデルでもよく見られるのですが、腕が若干後方に伸展されたまま静止している、というのがありますね。これ、何か理由があっての事なのでしょうか? 実際に何気無く立ってみれば解りますが、主観的に力を抜いて立ったら、腕は「垂れ下がる」のですね。リンク先の画像を見ると、(横から見て)肘が正中線よりかなり後方に位置していますが、これは、「努力」しないとならないと思います。普通は、歩きの途中の局面で、腕が振られた結果として現れる訳ですね。敢えて後方で静止させる必要は、構造的にも無いように感じますが、どうでしょうか。※ここら辺を踏まえて見ると、産総研:プレス・リリース 人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功←ここにある画像と動画(「動画:12秒」の動画)の方が、より「それらしく」感じるのではないでしょうか。ここの方向転換の動画は、腕がぷらんと振られていて、実にそれっぽい。1.3~1.5倍程度で再生してみると面白いです。
後は肩甲部の構造ですね。実際には、腕は肩甲骨に繋がっていて、肩甲骨は鎖骨で胸骨に繋がり、かなり自由に動けるので、腕振りの時には、ここら辺が丸ごと運動していく。尤もこれは、実現させようとするとあまりに複雑なので、オミットしている、という事なのでしょう。
「腕が長い」という意見が見られましたが、リンク先にもあるように、腕も長いし、手も大きいみたいですね。ぴんと指が伸びているので、尚更そういう印象があるのでしょうか。さらに、指に比して掌部分が長い、というのもあると思います。これまた3DCGでたまに見られて、違和感を覚える所ですよね。
どうでもいいですが、「顔のアップ。電源オフの状態のため口は少し開きぎみ 」の画像が、菅野美穂さんにしか見えないのでありました。
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<早大>学生の1割「周囲に大麻所持者」半数以上が入手可能(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
タイトルに、「学生の1割」とありますね。でも、記事を見てみると、
調査は昨年12月~今年1月、全学部生と大学院生(計約5万3000人)を対象に実施。約4700人(8.8%)から回答を得た。周囲に違法薬物の所持・使用者が「いる」と答えたのは9.9%で、
こうあります。全学部生と大学院生を対象、となっているので、全数調査ですね。それで、回答割合が約9%と(相当低いですな)。その中で約10%が、「いる」と答えたのだから、結局、約470人程度が「いる」と答えた、という事です。それをもって、「学生の1割」とするのは、どう考えてもおかしいと思います。実際に「いる」と回答したのは、全学生中1%未満なのですし。全数調査を企図したので、結果的に集まった4700人の回答をそのままランダムサンプルと看做す訳にもいかないから、推定も単純には出来ない。
可能性としては、約470人が、特定の数十人程度の事を言っている、というのも考えられますよね。クスリなんかやってる人間は噂になるだろうし、「周囲」というのが友人関係を指すとも限らないから(これは、質問文を見ないと何とも言えませんけれど)、情報があれば「いる」と答える、というのは、考えられないでは無い。
と、こういう事を鑑みれば、やはり書き方に疑問が残る訳であります。
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前から思ってたんですが。
何で、「復号”化”」って言うんでしょう。
「暗号化」や「圧縮符号化」は解るんです。原情報と異なったものに変換する、という訳なので。でも、復号って、元に戻す事そのものですよね。なのに何で、「化」がつくのかなあって思うんですよ。たとえば「平文化」とかなら納得出来るんですけどね。
で、こんな話、とっくにされているのだろうな、と思ってちょっと調べたら、色々ありました。そりゃそうだよなあ。でも、字面の対称性を優先して「暗号化/復号化」とした、というのは(結城浩氏とか)、私には全然納得のいかないものであったりします。
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直前のエントリー(Interdisciplinary: ノート:心理学研究法(11) )の補足。統計的仮説検定の説明を。
まず、調べたい仮説を設定します。ここでは、「惑星ベジータにいるサイヤ人の尻尾の長さと戦闘力には相関関係がある」、とでもしましょうか。つまり、尻尾が長いほど戦闘力が高いか、尻尾が短いほど戦闘力が高い、というどちらかの関係があるというのを確かめたい。
この場合の目標母集団は、ある時点において惑星ベジータにいるサイヤ人、ですね。本当は、サイヤ人一般はそうなのか、というのを調べたいものだと思いますが、取り敢えずは、有限の集合として、このように設定しましょう。
さて、ここからサンプルを抽出する訳ですが、ここで、採り方が問題になります。ベジータ直属のエリート集団から採り出してきたとしても、惑星ベジータに住む人一般、という調べたい母集団の性質に一般化は出来ないという事です。
だから、本来、惑星ベジータに住む全員に番号を振って、そこから無作為に採り出してくる必要があります。実際は、そんな名簿がある社会があるのだろうか、とか、そういう問題が出てくる訳ですが、それを考えると話が複雑になって、標本調査論という専門的な領域の問題になるので、ここでは、全て一元管理されていて、台帳が存在するとしておきます。
さて、段取りは整いました。ここからは、実際に標本を抽出して相関係数を計算する、という流れです。
惑星ベジータの人口がどのくらいかは知りませんが、数万はいる事でしょう。そこから何人かを抽出して、相関係数を計算する訳ですね。
ここで、標本の抽出のされ方、を考えます。大きさ3の標本を採る、としましょうか。今は、母集団から大きさ3の標本をランダムに抽出するのですから、誰が選ばれるかは様々、となります。ベジータとナッパとブロリーが抽出される事もあれば、カカロットとラディッツとターレスが抽出される事もある(←突込んだら負け)。で、そのあり得る組み合わせでの相関係数を全て計算してグラフにすれば、標本相関係数の分布が描けます。これが、「標本分布(または標本抽出分布):sampling distribution」です。
これを踏まえて、検定の話です。
確かめたい仮説は、(以下、一部省略して書く)「尻尾の長さと戦闘力に相関関係がある」、でしたね。で、検定においては、それを調べるために、その仮説を否定する仮説を立てます。つまり、「尻尾の長さと戦闘力に相関関係が無い」という仮説。これを具体的に数学的に書くと、「尻尾の長さと戦闘力の母集団における相関係数(母相関係数)はゼロである」、となります。これを否定出来れば、元々確かめたい仮説が支持される、という寸法であります。そして、その否定したい仮説を、「帰無仮説」と呼ぶ訳です。
そして、その帰無仮説が正しいとした場合の母集団からサンプルを採り出して相関係数を計算して、その相関係数の分布を求める事が出来ます。母集団での相関係数がゼロであった場合の、標本相関係数の分布。標本統計量の分布を「標本分布」というのでしたね。で、帰無仮説が正しいとした場合の標本統計量の分布を特に、「帰無分布」と言います。要するに、帰無仮説が正しければ標本ではどういう値が出るか、という事。それは数学的に導けます。
で、実際に標本を抽出します。3とかではあまりにも小さいので、何十かにしましょう。当然、こういう検定の場合、普通は標本は一度採ります。つまり、何十人かを台帳からランダムに選んで、実際に尻尾の長さを測り、スカウターで戦闘力を測定する訳です。
そうすると、標本における相関係数が計算出来ますね。この相関係数は、標本統計量です。検定の場合は特に、「検定統計量」と呼びます。
先にも言った通り、全部を調べる事は出来ないので、一部を調べるしか無い訳です。ナッパやベジータが選ばれる場合もあれば、カカロットやブロリーが選ばれる場合もある。何通りもある訳ですね。だから、実際に得られた(実現値)相関係数は、何通りも選ばれる可能性のある相関係数の一つ、という事です。
上で、帰無仮説を立てました。そして、帰無仮説が正しい場合の、「標本相関係数の分布(帰無分布)」も数学的に導ける、と言いました。という事は、実際に得た標本から計算した相関係数が、その帰無分布のどこら辺に落ちるか、というのも解るのですね。
つまり、帰無仮説が正しいとしたら、実際に得た相関係数より極端な値が出る確率はこのくらいだ、というのを調べる事が出来る。母集団の相関係数がゼロの場合にこの標本が出るのはおかしい/おかしく無い と判断する訳です。
そして、その判断の基準を、「有意水準(危険率)」と呼ぶのです。それはあらかじめ決めておきます。で、実際に得られた統計量より極端な値をとる確率が有意水準より小さい場合、「帰無仮説が間違っているのだろう」と判断するのです(帰無仮説を棄却する)。これが、「有意」であるという事です。
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○第9章 サンプリングと統計的推測(南風原朝和)
§1 母集団とサンプル
▼目標母集団
量的調査によって仮説の検討を行う場合、その仮説が「どのような集団」において成り立つのかを考える。年齢や職業によらず一般的に成り立つのか、ある範囲の年齢や職業群において成り立つのか。←つまり、「研究結果をそこに一般化したい集団」:目標母集団(target population)
▼達成母集団
実際の研究は、目標母集団に属する全ての人を対象には出来ない→一部をサンプル(標本)として選び研究する。
第6章での例、「ある大きな大学の新入生からランダムに選んだ100人の被験者」。←目標母集団を「日本の青年」とすると、このサンプルは、目標母集団から直接選ばれた事にはならない。目標母集団の部分集合たる「ある大きな大学の新入生」から選ばれたサンプル。実際にサンプルを選ぶ際に対象となる集団を、達成母集団(achieved population)という。
▼一般化の問題
目標母集団と達成母集団が異なる場合←サンプルで得られた結果をどこまで一般化出来るか、という問題がある。
例
これらを考えて、過度の一般化を避けるよう心がける必要がある。
§2 サンプリングと統計的推測
▼サンプリングに伴う結果の変動
ある母集団からサンプルを選ぶ→実際にどういう人が選ばれるかによって、サンプルにおける結果は変化する。
本書では、100人の母集団から大きさ8のサンプルを採り出して相関係数を計算する、という例が出されている。そこでは、採られたサンプルによって、0.3程度も相関係数が異なる事があるのが示されている。つまり、100個の要素の中からランダム(無作為)に8個の要素(大きさ8のサンプル)を採り出して相関係数を計算するのを繰り返すとすると、その都度採り出されるサンプルは異なる訳だから、そこから算出される相関係数の値も異なる、というのを意味する。
大きさ100の母集団から大きさ8のサンプルを抽出して相関係数を計算するのを1万回繰り返して(つまり、標本の”数”が1万)ヒストグラムを描いた図が載っている。そこでは、かなり広く分布しており、母集団における相関係数から大きく離れた値もある程度の割合がある。これは、サンプルが小さいから誤差も大きくなるというのを意味する。
▼統計量の標本分布
平均や相関係数等の統計的指標に関して、「母集団における値」を母数(parameter)と呼ぶ。
対して、サンプルに依存して変動する値を統計量(標本統計量)と呼ぶ。母数は、全数調査を行う場合等以外、通常は未知である。
サンプリングに伴う統計量の値の変動を示す分布を、その統計量の標本分布と呼ぶ。つまり、母集団から大きさ n のサンプルを抽出して算出される統計量の分布、という事。先の例で言うと、大きさ100の母集団から大きさ8の標本を抽出して計算した相関係数をヒストグラムに描いたものが、標本分布となる。母集団に色々の仮定をおけば、標本分布は数学的・理論的に導ける。
▼サンプリングのランダム性
統計量の標本分布を数学的に導く場合、「サンプルが母集団からランダム(無作為)」に選ばれる事が前提となる。
ランダムサンプリング:その母集団に含まれるどのメンバーが選ばれる可能性も等しく、さらに、一組のサンプルとしてどのようなメンバーの組が選ばれる可能性も等しくなるようなサンプリング。
母集団が、メンバーを特定出来るようなものであれば、ランダムサンプリングはそれほど難しく無い。しかし、母集団が非常に大きい場合等は、容易では無い。
現実の心理学研究――知り合いの複数の教師に依頼して、その人達が担任する学級の子ども達を被験者にする、というようなやり方がしばしば見られる→サンプリングはランダムとは言えず、そもそも母集団が何であるかすらはっきりしない。
次節以降で述べる統計的推測――ランダムサンプリングを前提として導かれた標本分布を基礎としたもの。従って、母集団からのランダムサンプリングがなされていない場合には、その方法は厳密には適用出来ない。しかし、現実の心理学研究では、ランダムサンプリングがなされていない場合も、統計的推測の方法が適用されている。
筆者(南風原氏)の考え:「実際のサンプルに合わせて母集団を限定する」作業が必要←サンプルの結果の無制限な一般化を防ぐ。
しかし、実際のサンプルがランダムサンプルで無いという事実は変わらない。これについては、
が考えられる。本書では前者の立場。
§3 相関係数に関する検定
▼統計的検定
心理学の研究では、サンプルで得られた相関係数等の統計量の値を解釈する時に、統計的検定を利用する事が多い。
例:相関係数に関する検定→「サンプルで得られた相関係数の値は、母集団における相関がゼロであるということと矛盾するほどに大きな値であるかどうか」という判断(無相関検定)。
つまり、研究では母集団の性質を知りたいが、実際には標本しか得られないので、標本で得られた値から母集団の性質を「推測」する必要があるという事。その場合に、母集団がこうであれば、標本ではこういう値が出るであろう、というのが数学的に導かれる(標本分布)のを利用する。つまり、それを逆に使い、「標本でこういう値が出たという事は、母集団はこうなっているだろう」と「推測」するという意味。今の例では、母集団において相関関係があるかを知りたい訳だから、「母集団において相関がゼロである」という仮説を立てて、それを調べるという事になる。
▼帰無仮説と棄却域
仮説:母集団における相関係数はゼロである。
この仮説が成り立っているとしたら、その母集団から抽出してきた標本から得られた統計量はどういう値をとるか、というのが数学的に導ける。そして、どうも、母集団の相関係数がゼロであるとすると、この標本統計量(本書では標本相関係数)が出る確率的は小さいようだ、だから、そもそも仮説:「母集団における相関係数はゼロである」という仮説が間違っているのだろう、と判断する。そうすれば、そもそも確かめたい仮説である所の、母集団において相関関係がある、というのを支持する事が出来る。ここで、最初に立てた仮説を、帰無仮説(null hypothesis)と呼び、帰無仮説が正しいとした場合(帰無仮説のもとで)の標本統計量の分布(ここでは標本相関係数の分布)を帰無分布と言う。
つまり、実際に得た標本から計算した統計量よりも極端な値が出現する確率が小さい場合、それは母集団に関する最初の仮説(帰無仮説)が間違っているからだと判断する、という事。そして、その「小さい確率」の基準を有意水準と言い、そこに入れば棄却するという領域を、棄却域と呼ぶ。棄却域に入った場合、帰無仮説を棄却(reject)する。その事を有意である、と言う。
▼有意となる相関係数の値とサンプルサイズ
サンプルサイズが小さい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定せず、母集団における値(これは、母集団における定数、つまり母数)から離れる可能性も大きい。
サンプルサイズが大きい場合――サンプルから得られる相関係数の値は安定し、標本分布の広がりも小さくなる。
母集団相関係数がゼロ、という場合の標本分布(帰無分布)の広がりは、サンプルサイズが大きくなるほど、ゼロの周りに集中し(つまり、標本を抽出して相関係数を計算すれば、ゼロに近い値をとる確率が大きい)、広がりも小さくなる。
つまり、サンプルが小さい場合は、標本での相関係数がかなり大きくならないと有意にはならないし、サンプルサイズが大きいと、それほど標本での相関係数が大きく無くとも、有意になる、という事。
------------
以下、推定、信頼区間の計算、信頼区間の大きさを一定にして例数設計をする、という説明がありますが、簡潔過ぎて、まとめても訳が解らないと思うので、省略します。多分、上の検定の説明も、不案内な人は混乱必至でしょう。
不明な所があれば、コメントを頂ければ。可能な限り説明しますし、私の手に負えない部分は、手助けして下さる方がいらっしゃるかも…。統計の具体的方法について知らなくても、「有意」等の概念に関しては関心がある、という場合もあると思いますので。
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はてブ界隈で話題になっている、そばで音楽を鳴らしたら農作物がよく育つ、とか、○○が美味しくなる、という説を、どう評価するか、という問題。
これは、「メカニズムの想定」いかんによる、と考えるべきだと思います。
たとえば、植物が音声を知覚して云々、という生理・心理学的メカニズムがあるものと看做して、「音楽を植物に”聞かせたら”」などと言ってしまっては、それは明らかにアウトでしょうね。文字通り、「植物が”聞く”」のを想定している。
対して、「そばで音楽を鳴らしていたら」というものだったら、それは「あり得る」話として見る事は、一応可能。メカニズムとしては、音楽を聴いた人間がリラックスして良好な状態になり、結果的に植物の育て方に影響を及ぼす、というもの等。いずれにしろ、音楽を聞かせるという変数と、植物や動物の育ち方や味などの変数との関連を見ていって実証しなくてはならない。もちろんこれは、人間の心理状態という変数が干渉しているの可能性がある訳だから、そこら辺をきちんと操作して実験デザインを組む必要がある。
そして、特に心理状態には関係無く、音楽の種類という因子が効果を及ぼしていると判明した場合に初めて、音楽そのものが影響を与える、という科学的命題が説得力を持つ事となるでしょう。そうで無くて、心理状態が大きく関わるのだとすれば、何も音楽で無くても良い訳で。あるいは、「リラックス出来る好きな音楽」であれば良い、とも考えられます。
で、どうやら音楽そのものが影響を与えているようだぞ、と判ったら、それから、音楽の何が一体影響を与えるのか、というメカニズムの追究にも向かっていく。もちろん、アプローチとしては、同時に両面的に行っても良い訳です。
取り敢えずは、このどちらを想定しているのかを見ていくのが、問題の整理に役立つのではないかと思います。
それから、もうちょっと考えてみると、「”音楽”を聞かせる」とはなんぞや、という疑問も出てきますですね。主張によっては、「クラシックを」とか「モーツァルトを」聞かせる、なんてのがあります。で、音楽の一ジャンルを採り上げて、それが良い影響を与える、と言っている訳で、それはどうなんだろう、と。クラシックやモーツァルトの音楽に通底する物理的な因子があるのかいな、と思うんですよね。なぜメタルで無くてクラシックなのか、なぜクラシックの中でもモーツァルトなのか、とね。
それで、筋の悪い人は、その通底するものとして、「波動」などを挙げるんですよね。ニセ科学まっしぐら、と言うか。本当は、そういう事を言う前に踏み留まらないといけないのですが。
まとめると、「音楽を聞かせたらよく育つ(美味しく育つ・長持ちする、等々)」という命題自体、皆が同じように解釈する訳では無いよ、という話です。きちんと定義せず共通了解を得ないままにしておくと、議論が混乱する可能性がありますね。そもそも理論的に何を想定するか、とか、作業仮説をどう設定するか、とか。それから、実験をデザインして、それが適切かを吟味する。
こういうのは、ブラインドテスト的な実験は難しそうです。どういうやり方があるでしょうか。たとえば、いくつかのブロックを2グループに分けて、それに音楽を聞かせ、農家には、何をどれに聞かせるか教えない、というやり方があるかな。皆が寝静まった夜(何か歌の歌詞みたい…)に研究者が聞かせにいく、と。そうすれば、どちらを聞かせたかの情報を知る事による影響を無作為化出来るかも。
ここら辺を総合的に鑑みるならば、私としては、ベネッセの書き方は、かなり慎重さに欠くと思います。で、城戸氏の言い方に関しては、これはよく解らない。エントリーを見て、娘さんの教育にはあまり良く無い、もっと言い方があったのでは、という意見も見られましたけど、そこまで言える程の情報も無いでしょう。後でどんなフォローがあったか知らないし。自分はああいう言い方はしないだろう、というのはありますけど、そのくらいです。
書かれた事が水伝と同レベルであったかと言えば、全く同じようなものとまでは言えないかな、という感じですね。ただ、危ういものではあるでしょう。灰色っぽい。
参照:
ベネッセのトンデモ本:回答編 - Skepticism is beautiful
余談。
城戸氏が血液型性格判断に肯定的だ、というのも話題になっています。こちらは、専門家でも、知らない事についてはおかしな話をする場合がある、というケースと見られますね。
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マンガでわかるシーケンス制御 著者:藤瀧 和弘,高山 ヤマ,トレンドプロ |
偶然図書館で見つけたので、読んでみました。
結構良い出来なのではないかと。内容としては、ごく初級レベルのようですが、全然知識が無い人にとっては解りやすいものだと思います。
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是非、皆様の清き一票で、第二期の実現を。
私は先日投票いたしました。
ゲームも発売されます。
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バンブーブレード~それからの挑戦~(初回限定版) 販売元:ガジェットソフト |
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バンブーブレード 川添珠姫 (1/8スケールPVC塗装済み完成品) 販売元:壽屋 |
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バンブーブレードDVD 一本目 販売元:JVCエンタテインメント |
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バンブーブレード O.S.T. アーティスト:TVサントラ,石原慎一,広橋涼,小島幸子,豊口めぐみ,桑島法子,佐藤利奈 |
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BAMBOO BLADE 10 (ヤングガンガンコミックス) 著者:土塚 理弘 |
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ショートケーキの苺は最初に食すべきか、それとも最後までとっておくべきか。
この問いは、数多の人間を悩まし、喧々囂々・侃々諤々の議論を巻き起こす、究極の問いの一つであろう。
筆者は「最後までとっておく」派である。主な理由は、目立つ、あるいは主役級の存在は最後にとっておく、という志向による。これは、唐揚げを最後に食べるのと同様のメカニズムであると推測される。
さて、そのような主張に対し、「最初に食す」派からは、次のような反論が寄せられる事であろう。
「苺を最後に食べるのでは、それまでに食べたケーキの甘さによって、苺の甘さが損なわれてしまうではないか。」
と。
これは一見、尤もらしい主張である。理路としては、本来苺の甘さを楽しみたいにも拘らず、はじめに砂糖たっぷりの生クリームが掛かったケーキを食べると、その甘さに舌が馴れてしまい、後に食べる苺の甘さが著しく減衰してしまう、というものである。確かにこれは、知覚心理学的にも妥当な見解であろう。
しかし、「最初に食す」派は、重要な点を見過ごしている。それは即ち、「苺の甘さを楽しむ」という目的が果たしてそれほど普遍的であるか、という所である。あたかもその事が自明であるかのように主張する論者は、自らの価値観に囚われてしまっている、と見る事が出来るのではないだろうか。
考えても見給え。苺の甘さを楽しみたいのなら、初めから苺のみを食せば良いのである。後から食べたのでは苺の美味しさが損なわれてしまうではないか、という御仁は、「口に残った生クリームの若干のくどさを苺によってさっぱりさせる」、あるいは「生クリームに馴らされた舌で苺を食した際の、甘いのだか酸っぱいのだかよく解らない味を楽しむ」というヴァリエーションがあるのを理解出来ないのであろう。
つまり、「ショートケーキに載った苺」は初めから、苺単体で食す際のような「機能」を期待されているとは限らないのである。
------------
…。
……。
ごめんなさいごめんなさい。
ぶっちゃけ、どっちでもいいです。私は最後に食べますけど、理由は、最初に書いた、主役は最後にとっておく人だから、です。
まあ、でもあれですよ。実際、後から食べたんじゃ甘く無いだろ、て人には、「別に甘く無くてもいいだろ」、とはなりますですよ、正直。いや、甘さを尊重したい、てのも解るんですけどね。
次は、「西瓜に塩を振るべきか」、という難問でも採り上げますかね。ちなみに、私は「絶対に振らない」派、です。何故かって? 決まってるでしょう。西瓜の本来の甘さを損なうからですよ。……あれ。
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ここら辺、甲野善紀氏の考えと共通していますよね。交流があるので当然でしょうけれど。初期の(今の本は読んでいないので詳しく無い)甲野氏の本に書いてある事と、かなり重なっているように思います。私としても、桑田氏にほぼ賛同です。
大分以前、甲野氏の本も読んで納得しましたし、その部分に関しては、考えは特に変わっていません(他の大部分に関しては批判的なのですが)。
何より、チャンピオンスポーツの最高峰たるメジャーリーグにまで上り詰めた一流のアスリートであるからこその重み、がある。桑田氏がこのようなかたちで声を上げるのは、大きな影響を及ぼし得るかも知れない。
若い頃から問題意識を持っていたというのもあるだろうし、甲野氏との交流によって、より考察を深めていった、という部分もあると思いますが、おそらく、身体を開発する、という部分により意識が向いている、のでしょう。武術論の方面で見ると、甲野・黒田・高岡氏辺りの論が象徴的でしょうか。スポーツにおける、身体の制御の面を意識し、いかに精密に使っていくか、というのを考えれば、桑田氏が批判しているような指導法では役に立たない(どころか弊害がある)、と認識しておられるのでしょうね。いわゆる「しごき」というものにどういう意味があるか、本来のスポーツの指導の合目的性にそれは合致しているか、改めて見直し、洗い直してもらうよう、警鐘を鳴らしている。
こういう所については、高岡英夫氏の「擁護システム」概念が、分析に役立つでしょうね。実証的に見ていくのは、非常に難しいとは思いますが。※興味がおありなら、高岡英夫 『光と闇』などをご参照下さい
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とてもいい記事だから、じっくり読んでいってね!!!⇒「血液型性格判断」批判 前編:ニセ科学批判の練習問題 - みつどん曇天日記
ちょうどいい機会なので、私の血液型性格判断関連サイトフォルダを開放。あまり知られていないサイトもあると思います。※必ずしも、内容が信頼出来て適切、というものではありませんので、よろしく
中猫さんの所から、ちょっと引用してみます。血液型性格判断のこと再び - 油小路ニュー中猫屋
ABO式血液型によって人々の性格を分類し、判断の基準にしようという試みを批判する者は多いのです。しかしながら、その批判のなかには「駄目な」批判が含まれています。「たった四つの型に人間を分類できない」というのがそれです。四つもあれば十分に分類できるからなのです。ある分類の基準を決めさえすれば、比較的少数のカテゴリーを想定して、そのうちのどのカテゴリーにその人の性格であるとか行動パターンであるとかが含まれるのかを検討すること自体は、それほど不合理なことではないのです。「人間が四種類に分けられてたまるか、みんなひとりひとり違うんだ」のような意見は、妄信的な個性崇拝のあらわれでしょう。
私はこちらを読んでいたのですね。で、kikulogも読んだ。そして、きくちさん経由で菊池聡氏の書かれたものも読んだ。要するに、色々な方の影響がある訳で、それまでは、自分自身がダメな批判をしていたんですね。友人に対して血液型性格判断を否定する意見を言った時も、とにかく無いんだよ、的な物言いをしましたし。
そういう経験もあってか、私は、筋が悪い批判をしていたりするのを見て、ただちに強く批判したりしないんですね。必ず、「自分もしでかしている可能性がある」と考える。尤も、批判の態度というのは、対象のものの言い方や、書いた内容によって変わってはくる訳ですけれども。
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『モンハン』生誕5周年! 『3(トライ)』の新情報も発表に - ファミ通.com
色々な発表があった模様。その中でも私が個人的に注目したのは、
ゲーム中の操作方法は、Wiiリモコンとヌンチャクを使ったもの(フリースタイル操作、という)のほかに、クラシックコントローラを使った操作にふたつの種類があることが判明。ひとつは、PSPの『ポータブル』シリーズと同じようにボタンを押して攻撃をする”クラシックスタイル操作 1”というタイプ。もうひとつは、プレイステーション2版の『モンハン』と同様に、右のアナログスティックを倒して攻撃する”クラシックスタイル操作 2”というタイプだ。
ちょうど最近、知己さんと、この件についてやり取りしたのでした。
やはり、PSP系とPS2系の両方の操作系を用意してきましたね。攻撃の部分についてしか書いていないけれど、「クラシックスタイル操作1」は、攻撃だけで無く、その他もPSPと同じ、という事ですよね、多分。攻撃だけスティックに、というのはいかにも中途半端だから。とすると、Gは、このスタイルにのみ対応って事なんでしょうか。それとも、攻撃だけスティックに替えるのも出来るとか?
3種類も操作系を用意したのは、PSP/PS2 のいずれかでしかプレイしていない人のどちらもすんなり入っていけるように、という狙いもあるでしょうし、クラシックコントローラではそもそもPSP系の操作に馴染みやすいって事もあるんでしょうね。いや、と言うか、クラシックコントローラは、L・Rボタンの配置が特殊だから、そもそもPS2系と相容れない、と考えた方がいいかもですが。だからクラシックコントローラProを出して、PS2系にも対応出来るようにするのだと思います。
後、Gの料金体系も発表されましたね。30日800円で、60日は1500円、90日チケットは2000円。トライもこの料金だとすると、かなり安いですね(無料で出来ないのかよ、なんて、果たして本気かどうか解らない事を言っている人もいますが。そうなんでもかんでも無料では出来んよ)。
| モンスターハンターG スターターパック(「オリジナル仕様クラシックコントローラ」&「モンスターハンター3(トライ)体験版」同梱)(発売日以降入荷分) 販売元:カプコン |
| モンスターハンターG スターターパック(「オリジナル仕様クラシックコントローラ」&「モンスターハンター3(トライ)体験版」同梱)(初回入荷分) 販売元:カプコン |
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モンスターハンターG(通常版:「モンスターハンター3(トライ)体験版」同梱) 販売元:カプコン |
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ミニマムエッセンス統計学 著者:三土 修平 |
これは大変良い本。とても丁寧に書かれています。入門書に、というのは、若干ハードルが高いかも知れないけれども、整理したり、何故こういう考えをするのか、という所をおさらいするのにいいですね。
サンプルサイズ普及委員会的には……「標本」とはどういう概念か、について、私が今まで読んだ本の中で、最も分量を割いて詳しく説明されています。おお、と思いました。
「標本(sample)」というのは、具体的に考えると、虫ピンで蝶が留められているケース全体を指す、とすると解りやすいでしょうか。それで、中に収められている蝶一頭が、要素あるいは個体。そして、個体数が、標本の「大きさ」。だから、蝶20頭収納のケースが1つと、40頭のケースが1つあれば、標本の数は2で、標本の大きさはそれぞれ、20と40になる訳ですな。
三土 氏は、他にも統計学の本をいくつか出されているようなので、そちらも読んでみたいですね。
| 数学の要らない因子分析入門 著者:三土 修平 |
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田部勝也さんへレス書いてたら長くなったので、エントリーに。よく書く「勉強」シリーズ。個人の経験に基づいた考えに溢れています。
※昨日書いた事(「実証」や「実験」について知っているのが望ましい、という話)について、いつそういうのを勉強するか、という話題です。
・望ましいのは学校(時間的に余裕がある。先生という専門家がいる)
・それが適わなかった人は、本やWEB
となるかと思います。私はものすごく後者ですね。
と言いますか、一応この国では、ある程度は、誰でもいつでもどこでも勉強は出来なくも無い、という状況は保てているかな、と。勉強が出来ないという場合、「機会」よりも、「心理社会的嫌悪感」が効いてきそうです。もちろん、「時間」が大きな障壁になる、という場合もあるでしょう。
学校教育という最高の機を逃したら、後は、ネットのやり取り、図書館で本を読む、詳しい友達に聞く、夜間・通信教育(通信講座・放送大学等)、セミナー(QCや実験計画のやつは、企業研修なんかで結構ありそうな感じです)。
ものっすごく個人的な事を書きますが、私は実は、「学校で教えてくれない○○」というのをキャッチフレーズにするのって、かなり嫌いだったり。実は学校ではめちゃくちゃ大事な事やってたのに、見もしなかったんだよね、というのが私の実体験に基づいた感想と言いますか。←私がいかに「勉強嫌い」だったかは、このブログに鬱陶しいほど書いてますね…。
後、実験に関しては、確立された知識体系における現象が成り立つか確認するというデモンストレーション的なものが主流なのだと感じます。誤差をきちんと取り扱うデザインを学ぶのは、大学以上が一般的ですよね。だから、
・実験計画
・社会調査
・疫学
辺りは高校までに考え方を教えるのがいいんじゃないかと思っています(教科に組み込むというかたちででも)。
専門知識と言っても、高度のレベルで無い限り、導入から超絶難しいという事もそんなに無いでしょうから、詳しい友達に訊いて楽しく趣味的にやる、というのでいいと思うんですね。RPGの攻略を突き詰めるのと本質的な所では繋がってると思います。
問題は、そういうのを堅苦しい「勉強」と捉え過ぎて遠慮したり構えたり、という事かな、と。(勉強は、「難しい」からやらないと言うより、「嫌い」だからやらないケースが多くある、というのが持論です。もちろんレベルにもよりますけど)
好きなものを徹底的に突き詰める、というのも良いと思います。それに関連するものもどんどん調べる。そうすると、大概の物事は底の方でなんらかの関連を持っているので、あらゆるものが繋がって、勉強していく事そのものが楽しくなってくる訳ですね。そこまで行ければ理想。でもそれがスタートライン。
もちろん、「いつ身に着けるべきか」、という問題だと、早い方が望ましい、というのは一般的に言えるのですが、それと共に、社会に浸透させる、のも重要ですよね。要するに、「知らない大人達」が沢山いるのだから、その人達も皆勉強しましょう、という。※私は「勉強」を、滅多にネガティブな意味で使いません
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このブログを見て下さい。コメント欄で、親切で知識豊かな皆さんが、色々教えて下さっています。これってすごい事ですよ。時間的にも空間的にも、20年前には絶対不可能な事だった訳で、利用しない手は無いですね。
後、『学習科学とテクノロジ』という本が興味深いので、オススメね。
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もう、モンタに合わせて出しますよ、というのを隠しもしない潔さを感じる気がする昨今、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
純正品でこういうデザインにするとは思わなんだ。
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HORI クラシックコントローラ(ライトブルー) 販売元:ホリ |
↑これはHORIのね。
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私は、ニセ科学に対して耐性をつけるにはこうあるべきだ、といった事はほとんど書いた事が無いのですが、それは、そもそもニセ科学というのはバリエーションが豊富で多分野にわたっており、しかも、誰が・どこで 言ったか、等の心理社会的バイアスが大きく働くから、一般的にどういう知識を持っておくべきか、というのを示すのは難しい、という考えからです。
しかしそれでも、こういう所について押さえておけば、ある程度は防御力を高める事が出来るのでは、という考えは、少しは持っています。それをちょっと書いてみます。
○科学における「実証」のプロセスの把握
科学において「実証」されるとはどういう意味か。どのような手順を踏まなければならないのか、という部分。具体的には(ある程度単純化)、論文執筆→査読→採択→他の科学者による追試→科学的知識として認められる というプロセス。土俵に上がろうとしない(論文を出さない等)ものは、そもそも相手にしない。仮説を確かめたい者が立証の責任を負い(立証責任)、杜撰な研究は篩い落とされる(査読)というシステム。篩い切れなかったものは、追試の状況によって判断される。
○「実験(experiment)」に関する、ある程度の知識
ビンを一個ずつ用意してそれに文字を書いた紙を貼り、その経過を見て結論めいたものを出し満足する、というケースが見られます。それは、「実験」というものについて、認識が素朴であると言えます。
ちょっと懐疑の力を働かせるならば、一個や二個どうこうしたからといって、それは「偶然」なのではないか、と認識するのは可能です。そうすると今度は、じゃあ「偶然じゃ無い」と言えるにはどうすれば良いのか、と考えが進む。「他の要因が働いている」、という疑問も出るかも知れません。その場合は、「他の要因の影響を取り除いたりするにはどうするか」、と考える事も出来るでしょう。
そして、そこら辺に関しては、既に偉大な先人達が考察し、「実験計画法(DE:Design of Experiments)」として確立されています。
○確率・統計の知識
上の実験についての部分とも関わります。
実験において、ある要因がどれくらい効いているか確かめたいと着目し、その因子を変化させながら結果を見ていく訳ですが、では、その因子の効果をどのように定量的・客観的に評価するか、偶然で無く確かにそれが効いていると言えるには、どういう実験をデザインし、データをどう解析していけば良いのか、という視点が重要です(実験計画法の問題意識)。そしてそれには、確率論・統計学の知識が必要です。
と言っても、何も統計学の複雑な理論を理解するべきだ、という無理な話をしているのでは無くて、一見意味があるような結果が出たように思えても、実はこれは偶然の産物なのでは、と一旦保留出来る、そんな姿勢を養えるくらいの知識があれば、それで充分だと思います。
これは重要な所だと思いますが、私達の大部分は、確率の初歩は習っています。そして、おそらく(あくまでおそらく)大部分は、その知識を忘れています。
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これは、よく私が書く事ですけれど、ニセ科学かどうかの判断においては、「プロセス」を踏んだか、というのが重要なポイントとして挙げられます。つまり、科学の研究で踏まなくてはならない手順をきちんと経て主張されているか、という部分。ですから、そのプロセスについて知っておく、というのは大事。そして、その手続きに使われる「道具」である所の「実験」、あるいは実験法の理論的基盤となる確率・統計の初歩、を知るのが肝要だと言えるでしょう。
何度も書きますが、ニセ科学を見抜くためにはこうすべきだ、と言うのは、なかなか難しい。ただ、姿勢として、「目新しい話は取り敢えず保留する」のがいいのかな、と。特に、自分が全く知識を持っていない分野の場合は、無視しても良いと思います。基本的にはね(その「目新しさ」が、「人の生き死に」に直結するような場合があるから、ニセ科学問題は難しい)。そして、出来る事なら、上に挙げたようなポイントを踏まえて、「実証されているか」どうかを意識しつつ見る、のが望ましい。
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社会調査ゼミナール 著者:新 睦人 |
これは良き本。社会調査に関心のある人にとって、参照する価値のある著作ではないかと思います。
ただし、読みやすいと言うか、簡単な本では無いかな。少なくとも入門書という位置づけでは無いだろうと感じます。
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ここから、サンプルサイズ普及委員会的な。
内閣支持率調査などの場合,母集団は日本人有権者およそ1億人であり,抽出された1000から3000人が標本である。この場合の1億人のような数字を母集団の大きさ(または規模)と呼び,通常はNで表す。1000人や3000人など,抽出された標本に含まれる人数のことは標本の大きさ(または規模,sample size)と呼び,n で表記する。日本ではこの n を標本数,サンプル数と呼ぶ慣習があるが,統計学的には標本の大きさと標本の数はまったく別のものを指す重要概念であり,標本の大きさのことを標本数と呼ぶのは限りなく間違いに近い(木村 2006 : 71 頁)。個人の数のような,標本に含まれる要素・基本単位(element, elementary unit)の数を指すときには,ケース数(the number of cases)や回答者数(the number of respondents)などの単語を用いるほうが誤解がない。英語では sample person, sample unit などの言葉が使われることもあるが,あくまで抽出された基本単位全体で1つの標本(a sample of size n = 1,000, etc.)である。
新・盛山(編)『社会調査ゼミナール』(P94)より引用。著者は杉野勇 ※引用者註:引用部の「a」の強調は、原典では傍点付きだったのを強調表示に替えたもの
おお、これは、サンプルサイズとサンプル数の違いがきちんと書かれていて、いいね。この後の部分も、ちゃんとこの用法が踏まえられて書かれています。
しかーし。
たしかに標本調査は,ある程度の量のサンプル数を必要とする。また,事例調査に比べると,対象者の数はふつうは多いだろう。けれども,中には対象者の数が200人を超える事例調査があり,それよりも対象者の数の少ない標本調査もある。サンプル数の量としての大小を標本調査の第1の特質から導かれる派生的な特質と考えておいたほうがよい。(P168)より引用 著者は盛岡清志
ところで,結果を統計量で表現し,また正確な統計的検定を行うには,ある程度のサンプル数が必要となる。調査対象者数(サンプル数)が少なく,したがって回答者数も少ない場合,回答者の中で極端な反応をする者がごく少数いても,全体の結果がそれにひきずられやすいことは容易に想像できる。(P169)より引用 著者は盛岡清志
えー。「サンプル数」を、「サンプルサイズ」の意味で使ってるじゃーん。
こういうのって、しばしば見られますですね。つまり、複数著者の本において、用語の統一がはかれていない。この場合、「サンプル数」をサンプルに含まれる要素の数の意味で使ってはいけませんよ、と書かれているにも拘らず、後の方で、思いっきりその誤りをしてしまってる訳で。読む側としては、読みやすいものでは無いです。サンプルサイズ関連では、同じケースを何度も見た事があります。「重要概念」と書いてあるくらいなのだから、もうちょっと何とかして欲しかったですね。
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風邪に伴う筋肉痛の厳しい事よ。
全身がズキズキで、歩くのも億劫に。特に、目の奥とか頬の部分のは嫌ですね。ものを読んだりするのも疲れるし。
お蔭で、ほとんど眠れなかったぜ。
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オートバイ運転で脳の機能向上、ストレス軽減も――川島教授とヤマハ発の研究 - ITmedia News
某ooh氏や某-WING氏が目をつけそうなネタであります。
さて、この研究、どう見るべきか。
もちろん、記事だけからは、情報不足で、あまり適当な事は言えませんが……
オートバイを運転する生活習慣が脳に与える影響も調べた。
この実験、ちょっと気になりますですね。バイクに乗る習慣が無い人を無作為に割り付けて、というものみたいですが、何もしない群(統制群もしくは対照群)と、バイクを通勤等で使う群(処遇群)を比較したって事ですよね。
これって、素朴に、慣れないものをやる事そのものが効果を及ぼしたのでは、なんて疑問が出てきますですね。対照群として、他のものをやらせるグループとの比較もした方が良かったのでは、と。
効果の違いの大きさに関しては、この記述だけからは何とも言えないですね。「向上」って言っても、それはどのくらいなのかなー、と思ったりしないでも無いです。
リンク先に、発表に使われたスライドの画像がありますが、その中に、
統計的に有意に活性化していた
って書いてますが、これってよく考えると、なんかものすごい表現じゃありません? いやまあ、間違っている、と言うほどでは無いのかも知れませんけれど…。
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統計学でものすごく重要な概念に、「中心極限定理」というものがあります。
ところで、この定理の「中心」って、何の事だかご存知ですか? 私は深く考えた事もありませんでした。
それで、最近、
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統計的方法のしくみ―正しく理解するための30の急所 著者:永田 靖 |
この本を再読した所、その事について書かれていました。以下引用。
中心極限定理は”the central limit theorem”の訳である.「”central”は”fundamental”の意味と理解するべきだ」と The History of Statistics (S. M. Stigler, The Belknap Press of Harvard University Press) に述べられている.つまり,本来の意味は”基本的な極限定理”ということであり,”中心”という言葉に定理の内容を表す意味はないようである.
私は、なんとなく、中心という言葉は定理の内容に関わっているものと思っていましたので、これを読んで、へー、となったのでありました。※再読なのに何故今回そう思った、という突っ込みは無しの方向で
つまりこれって、言い換えると、「極限定理の内、中心的なもの」、「中心的な極限定理」といった意味って事ですよね? 「中心極限定理」とすると、いかにも数学的な内容と関わっているように見えますですね。
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ゲームなんて単純で、特に憶える事も無く、反射的に指を動かせば上手く出来るんだろ、的な事を言う人って、やっぱりいるんですかね?
いや、森昭雄氏がそういう風な事を言っている訳ですが、幸いにしてと言うか、自分の周りでそんな楽しい発言をする人ってのは、遭遇した事無いんですね。
もしそんな人がいたら、
○MHでラージャンをノーダメージで狩ってみろ。
○MGSの最高難度で、ノーキル・ノーアラートクリアしてみろ。
○ぷよぷよで18連鎖作ってみろ。
とでも言ってあげて下さい。
話はかわって。
比較的年齢が行ってからゲームを本格的にやり始めた事例を集めてみる、というのは面白いんじゃないかな、と思っています。おそらく一般的には、ゲームといえば若い年代の人がやるもの、とのイメージがあると考えているのですが、そこで、年配でゲームやる人はどのくらいいて、どういうきっかけで始めて、等を調べるのは興味深いかな、と。やる前と後でどんなイメージの変化があったのか、とかね。
著名人で年配の方がゲームをやっている例といえば、私が知る限りでは、
などの方々が思い浮かびます。
これは私の例ですが……
ゲームといえば、昔『バルーンファイト』や『ソロモンの鍵』をちょこちょこやった事がある程度の人に、ゲームをやらせました。当時50歳くらいで、やってもらったのはRPG。それまでは、なにやら文字が沢山出るだけのものだという事で、何が面白いのか解らん、という感じだったそうです。
手始めにやらせたのは、『マリオストーリー』。我ながら見事な選択。いきなり小難しいのをやらせれば投げ出すのは、目に見えている。
マリオストーリーはかなり難易度低めで、全く始めてやる人でも、それほど困難では無かったようですね。なんとかクリアしました。
それから、いくつもやってもらった訳ですね。FF8では3DCGムービーに驚愕し、10までやり、アバタールチューナーはやるわ、シャドウハーツはやるわ。マグナカルタもクリアし、ドラクエ8も制覇。私が手伝ったのもあるし、決して「上手い」という訳では無いのですが、大したものです。
その人は現在、P3をクリアし、P4(『ペルソナ4』)をプレイ中です。
面白いものですね。
ちなみにその人、RPGのみ。アクションをやらせようとMH2にチャレンジしてもらった所、ゲリョスで脱落しました。まあ、しょうが無いですな。
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あるニセ科学批判者の悩み - Skepticism is beautiful
エントリーの内容に同意します。
そして、コメント欄が大変興味深い。引用します。※以下、引用は全て原文ママ
以前私が自分のブログで「ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?」というエントリを書いたときに、lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持ったので、このエントリは正直に言って意外でした。
これは、wackyhopeさんの書かれたものです(wackyhope 2009/03/02 22:34)。wackyhopeさんと言えば、ニセ科学批判に魅力を持たせることは可能か?|Beauty Science, Beauty Marketing, and Beauty Communication. -美容・化粧の科学とマーケティングと。という良エントリーを上げられた方で、上のコメントも、そのエントリーに関して述べられています。
で、lets_skepticさんの所でのコメントが興味深いと思ったのは何故かと言いますと……。
私が知る限り、lets_skepticさんは、ニセ科学を批判する方の中でも、最も穏当で丁寧な批判をされる方のお一人である、と考えています。そのlets_skepticさんが、「相当委縮した。」とwackyhopeさんに言わしめるような物言いをしたというのは、大変意外と言いますか、えっ、と感じたのでありました。
と、ここで、lets_skepticさんがwackyhopeさんのブログに書かれたコメントを引用してみましょう(lets_skeptic 2009-02-23 14:06:23)。
というわけで、今こそwackyhopeさんのような問題意識を持った人が進んで活動を行うといいんじゃないでしょうか?お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。
この部分を読んで、wackyhopeさんは、
lets_skepticさんから「お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。」という退路を絶たれるような痛烈なコメントをいただき、まさに「批判者が怖い」とか「袋叩きにされるかもしれない」という印象を持った
との事なのですね(lets_skepticさんのブログより再度引用。途中でコメントを切ってるので、元コメントもご参照下さい)。
それで、改めて読んでみますと、もしかすると、wackyhopeさんはlets_skepticさんのコメントを若干読み違えたのではないか、と思うのです。
もう一回、件のlets_skepticさんのコメントを引用してみます。
お願いですから「科学者じゃないから」「詳しくないから」なんて事は言わないでくださいね。だからこそ、できることもあるんですから。
私はこれは、専門家では無いから、充分な知識を持っていないから、として過度に躊躇せず、あるいは萎縮せずに、ニセ科学批判の活動をされてはいかがだろうか、という意見もしくはアドバイスである、と読んだのです。と言いますか、lets_skepticさんの普段の言動を鑑みれば(敢えて書くと、「バイアスをかければ」)、そうとしか読めないのでした。つまり、「後押し」です。「退路を断つ」、では無く。ニセ科学批判はややこしいように見えるかも知れないけれど、そんなに構える事無く、真摯で丁寧にやっていけば良いのではないか、と。もっと深読みすると(し過ぎだと思うけど)、バックアップは惜しまない、というメッセージも入っているかな、なんて。
私の読解が適切かは解りません。しかし、lets_skepticさんの書くものを愛読し、やり取りを何度もしている経験から、このような読み方も出来るのではないか、というのを書いてみようと思いました。これははっきり、「擁護」です。私がニセ科学批判で重要だと思っているのは、フォローする事、だと考えています。当然それは、思ってもいないだろう事を後付けにして取り繕うのでは無くて、これはこういう意味なのでは、と解釈し、文脈を補ってフォローしていく、という事。それはとても大切です。文の解釈というのは、書き手に関する知識にも依存するから、その読み方は書き手の真意と違っているかも知れませんよ、というのを説明していく。外にいる者が補ってあげる。
もちろん、その読解自体が誤っている可能性もあるから、そこは指摘してもらう。特にWEBでのやり取りは、その辺が柔軟に出来るので、積極的にやっていきたいものです。
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ちなみに私は、wackyhopeさんのエントリーとおそらく関連するものとして、このような記事を上げました⇒Interdisciplinary: 万能包丁
これは、wackyhopeさんのブログのコメント欄でwd0さん(かも ひろやすさん)が書いておられる「銀の弾丸は存在しない」という部分と、共通すると思います。※「万能包丁」は、文字通り、「何の素材にでも使える包丁」、とでもしておいて頂ければ
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この所、特にはてな界隈で、ニセ科学批判と、それに対する批判についての議論が、かまびすしい(別にネガティブな意味合いではありません)ですね。
さて、今日こちらのエントリーを拝読いたしました⇒科学の名のもとの邪悪/およびニセ科学批判者の罠 - touhou_huhaiの日記
※touhou_huhaiさんの記事を参照していますが、当エントリーは、touhou_huhaiさんに向けて書いたエントリー、という訳では無いので、よろしくお願いします。ヒントにして整理して書いてみた、と取って頂ければ。
私は、関連のエントリーは一通り読んでいますが、こちらのエントリーを読んで、少し思う所がありましたので、書いてみます。既出の論点もあるでしょうけれど、自身の思考の整理の面もありますので、ご容赦下さい。
○「ニセ科学を批判する事」と、「現状のニセ科学批判活動に効果があるか否か」は異なる。
まず、「ニセ科学」の概念のおさらいです。ニセ科学とは、科学で無いにも拘らず、科学を装っている(意図的か否かは問わない)ものです。
そして、それを批判する、つまりニセ科学批判とは、科学で無いにも拘らず科学を装っているものを批判する、となります。
ここで、「ニセ科学批判は是か非か」という論点が現れます。つまり、そもそも科学を装っているものを批判して良いのかどうか、という見方。
この点に関しては、私は、科学で無いのに科学であるかのように情報が流布されているので、それを批判するのは当然だ、という考えです。少なくとも、「科学で無いのに科学であるかのように看做されている」ものなので、それは違う、というのは認められるべきだ、と。天羽さんがよく出されて私も援用する、ニセブランド品の喩えが解りやすいかと思います。
※ニセ科学という概念の立て方は適切か、などには触れません。議論が広がり過ぎるので
次に、「現状のニセ科学批判活動」。
これは、近年なされている、ニセ科学に対する批判の活動の仕方に着目する、と考える事が出来ますよね。要するに、「どのように」という観点。ニセ科学に肯定的な言説に対して、いかにして、それがニセ科学であるかを指摘するか、あるいは、ニセ科学を主唱する人に対してどう批判していくか。
まず、ニセ科学批判を批判する方々には、そのどちらを批判しているか、を明らかにして頂きたい、というのがあります。その方が、議論がごちゃごちゃになりにくいと考えます。
前者の観点、つまり、ニセ科学を批判する事そのものを批判する、という方もおられます。見方は色々です。ニセ科学などと判定するのは可能なのか、とか、どんな事を主張しようが自由ではないか、とか。極度に物事を相対化してしまう方もおられます。
後者の観点は要するに、「そういう批判の仕方で上手くいくの?」という見方ですよね。はっきり言ってこれは、ものすごく重要な部分だと思います。ただ、難しいと言うか、非常に複雑でもある。
前者と後者を混ぜこぜにしてしまわないようにしたいものです。たとえば、今のニセ科学批判の活動に効果があるかは判らないから、ニセ科学を批判する事そのものまで否定的に見る、等ですね。ニセ科学を批判するのは良いが、現状のやり方では……という風に主張するのかそうで無いのか。そこら辺をきっちり整理して論じて頂きたい、と思っています。
さて、ここからは、この論点の切り分けが出来たと仮定し、ニセ科学を批判するのは良いが、現状の批判の仕方が適切かどうかは……という観点から物事を見る、というのを前提して進めます。
○ニセ科学批判には効果があるのか
発端と言いますか、議論のきっかけ的なエントリーでは、こういう疑問が提出されていた訳ですね。ニセ科学を(科学的事実であると)信ずる人に、それが「ニセ科学」であると解らせる、という目的はどの程度達成されているか、という視点。
○「効果」とは何か?
上と重なりますが、そもそも、「ニセ科学批判の効果」とは何か。いかに定義し、どう数量化するか。ニセ科学批判の目的は、最も一般的には、ニセ科学をニセ科学だと理解させる(事に成功する)、とでもなるでしょうか。言い方を換えると、「科学で無いのに科学を装っているものを”科学的事実”だと思い込んでいる人に、それが”科学を装ったもの”だと”解らせる”」。それと、科学を装った科学で無いものが存在するという事実そのものを知らしめる。そして、それを数量化して実態を把握する。
touhou_huhaiさんは、案として、このように書いておられます。
どのような証明が可能だろうか。やはり実地調査しかない。
1.ニセ科学批判としてネット上にあふれている代表的なテキストを知らない人を、無作為抽出して2グループに分け、テキストを読んだあとでニセ科学を判断し警戒する能力が向上したかどうかを図るテストを実施する。
2.ニセ科学と分類できる主張に基づく詐欺事件を、警察発表の資料や報道ベースで集計し、ニセ科学批判運動の活発化と相関をとる。
一つの案として出されているものですが、敢えて詳細に検討するならば、
などの考察すべき点があります。
繰り返しですが、ニセ科学批判は、科学を装っている あるものが実は科学では無いのだと知らしめる目的もありますし、もっと一般的には、「世の中には科学を装っているものが色々ある」という情報そのものを流布させたい、という目的も持っていると思います。そこら辺の成果も「効果」と取るならば、どのようにしてそれを拾っていくか、という問題もある事でしょう。
と、このように、ニセ科学批判、もっと一般的には、何ものかを批判する活動の効果をどう評価するか、というのは、大変難しいと言えるでしょう。社会学的にも社会心理学的にも。
もちろん、それを分析していくのは、ものすごく重要な事だと思います。ここで改めて自分の考えを書いておきますと、ニセ科学批判がどのような影響を及ぼすかを確かめるのは極めて大切な部分だし、それを社会科学的に研究するのは大変有意義である、と思っています。少なくとも私は、効果について疑念があるならそっちが調べろよ、というような態度は採りません。
ただ、です。
ニセ科学批判を批判するもので、効果があるかどうか解らないという観点から、その活動そのものにあまり意味が無いかのように看做す、という意見もやはりあるから、その場合には、もうちょっときちんと考察して欲しい、と思う事はありますね。一般論的過ぎて何にでも当てはまる、とか、ニセ科学概念を押さえていない、とか、そういう書き方だとね。ちょっと困惑します。
それと、上でも検討したように、「効果」と言っても、それは結構難しい問題である、というのも考えるべきだと思うのです。「効果」と一言で表現しているけれど、それにはどういう意味合いがあるのか、具体的に考察してみたのか、批判の実例と照らし合わせてみたのか、と。※touhou_huhaiさんの事ではありません。追々々記でも、色々な観点から見ておられますし。
○率直な意見
ニセ科学を批判するテキストを練ったりするのに手一杯で、その効果を自分で検討するまでとても手が回らない、というのはあります。外部からそれを評価しよう、という動きがあれば、(その手法が適切であれば)むしろ歓迎すべき事と言えます。再三言っているように、おそろしく難しいとは思っていますけれども。
それと、上で書きましたが、あるニセ科学を批判するテキストを複数用意しているのもあります。私の場合だと、ゲーム脳関連。そもそも想定読者が異なっているテキストの役割をどう考えるか、というのは重要ですよね。
追記:後、一々ダメなニセ科学批判を指摘しない、というのもありますね。ニセ科学を批判しているのを優先しているので。もちろん、その過程で、こういうのはまずいかも、という話になる事はありますが、あまりそれが主たるテーマになる事は無いですね。あれはダメだ、と言うよりも、自分はこうする、というのを見せるのが、個人的には大切だと考えているので。
○余談:観測範囲
ニセ科学批判を批判するものを見て、非常に気になっている所。
はてなブックマークのコメントを、「ニセ科学批判の典型例」として扱っては いませんか? それは観測範囲が極めて狭いので、注意を要します。ニセ科学を批判していて はてなを使っていない、という人もいる訳ですので。
ここら辺、「具体例を出して下さい」という指摘と関わってきます。ニセ科学を批判する人が、他の批判者のやり方に全て同意している訳ではありませんから、具体例を出されれば、ああ、確かにそれは好ましいやり方では無いかもね、となる可能性もあります。それが仮にはてブコメントだとすれば、いや、それを典型例として出されても、と返す事も、また、確かにあの書き方は、となる場合もあるでしょうね。
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真・三國無双 MULTI RAID(マルチレイド) 販売元:コーエー |
※タイトルに深い意味はありません。ウソですが。
このソフトの体験版をダウンロードしてやってみたんですが。
存外面白かった。
システム的には、もう、あまりにもカプコンのとあるゲームに似ていると思う訳ですが、まあ、それは措いておきまして(後、ああいう方向性のゲームだと、ある程度デザインが共通するのは、当然と言えなくも無いかと。洗練と言うか収斂と言うか)。
体験版は少ししか出来ないので、あまり迂闊な事は言えませんけれど、結構遊べるゲームなのかな、と思いました。
やってて、そういえば、アクションってこういう軽さが爽快さを生むんだよなあ、と思い返しました。最初にモンスターハンターやった時には、なんだこの動きの重さは、なんて感じたものですが、段々と、それが絶妙にゲームシステムと関わっているのを思い知っていった訳ですね。で、今度はそれに慣れて、他のをやると、動きが軽過ぎて違和感を覚えたりするんですよね。面白いものです。最近は、アクション系は、モンタやFPS・TPSばかりだったので、サクサクフワフワ動くのをやるのは、久々だったのであります(そもそも無双シリーズを全くやった事が無い)。ある意味新鮮でした。
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マジックミラー 筋肉「透視」ソフトを開発 東大(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
マジックミラー:筋肉の動き「透視」 東大がコンピューターソフト開発 - 毎日jp(毎日新聞)
やばい、欲しい。マジで。超欲しい。
いや、個人で購入出来るような物じゃ無いというのは判ってるんだけど、それでも超欲しい。ドラゴンボールが7個あったら即刻願ってるレベル。
ええい、プレスリリースはどこだっ。東大工学部のサイトにも載って無いぞっ。
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