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2009年2月10日 (火)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)

前も書きましたが(Interdisciplinary: 「遠当て実験」から考える)、改めて採り上げます。もうちょい武術論寄りで。

武術に興味を持つ人でも、それほどでも無い人でも、「触れずに投げる」という現象は、一つの関心事であろうと思います。

テレビでも、以前は結構観ましたですね。突っ立っている人に気合をかけたら、後ろに転がったり、後ずさりして吹っ飛んでいったり。

有名な所では、西野流呼吸法。合気道の一部でも、行われます。現象的には、西野流の場合、術を掛けられた側が、あたかも「踊る」ように吹っ飛んでいく、というもの。もちろん、手は一切触れられていない訳です。

って事で、現象としては、あります。で、問題は、武術として有用なものであるか、という所。

武術は当然、敵対する相手から害を受ける事無く、戦闘不能に陥らせる、というのが目的のものです。

そういう合目的性がある訳だから、非協力的な人間に対して一般的に効果的である、というので無いと、「武術」としては役に立たないのですね。

その観点から言うと、「触れずに投げる」というのは、武術の技としては、まあ、考慮する必要は無いでしょう。むしろ、そんな夢想のようなものは、積極的に排除するべき、という話です。

これまでは、いわゆる「遠当て」の話。ここからは、表現としては同じ「触れずに投げる」というものでも、実態として若干異なる話題になります。

ここで、ちょっと想像をしてみて頂きたいと思います。

あなたは、鞄を泥棒に盗まれました。その中には、とても大事な物が入っています。何としてでも取り戻さねばなりません。

無我夢中で泥棒を追いかけます。全力疾走、息も絶え絶えです。泥棒も疲れたと見えて、スピードが遅くなりました。後ちょっとで追いつきます。

もう少し、手を伸ばせば捕らえられる、と、後ろから思い切り抱き付こうとしました。

よし、捕まえた……と思った瞬間、相手の姿は突然消え去りました。なんと、実はマンホールのフタが開いていて、泥棒は運悪く(良く?)、そこへ落ち込んでしまったのです。

かくして、捉えたはずの泥棒の身体は目の前には無く、地面に泥棒を組み伏せようと張り切って飛び付いたあなたは、見事につんのめり、スッテンコロリンと派手に転んでしまったのでありました…。

※通常、マンホールのフタが開いている事は無い。仮に開いているとしても、疾走している人間がストンと落ちる訳が無い、などのディテールに思いを馳せてはなりません。ここで、マンガやゲーム的な想像力を働かせるべきなのであります。

と、喩えが異常に長くなりましたが、要するに、勢いをつけて相手を捕らえようとした時に、相手が上手く身体を躱して誘導すれば、見事に吹っ飛んでしまう訳ですね。主役を逆転させれば、こちらに害を加えようと襲い掛かってくる敵を上手く誘えば、見事に投げをうつ事が可能なのです。

これが、合気道の「気の流れ」技の基本的な論理に繋がってきます。合気道では、(※気の流れは、進んだ段階で学びます)「掴ませる」訳ですね。そして、取りにきたのを誘導する。よく言われる、「合気道は相手の力を利用」して云々、というのはつまり、そういう話です。

ここまで前置きが長くなれば、既にお気づきでしょうが、つまり、このようなメカニズムであれば、上の遠当てのような、おそらく友好的な関係を前提した心理的反応によらずとも、「触れずに投げる」という現象は成り立つであろう、という事です。

解りやすく言えば、相手によほどの勢いがあり、上手くバランスが崩れ、しかも、制する方がたまたま「触れるまでも無い」場合に、「偶然的に」それが現象する、という論理。

以前コメント欄かどこかに書きましたが、私の先生が、「触れずに投げる」という技について仰ったのは、「先生の先生(故・斉藤守弘先生)が仰るには、よほどタイミングが合えばそういう事は起こるかも知れない」(記憶に基づいて要約)との事でした。

要するに、色んな条件が重なり合えば、偶然そういうのは起こるだろうね、という話だったんですね。つまり、積極的な技として用いられるような性質のものでは無いし、そんなのを目指しても、あまり意味が無いのです。

よーく考えてみて下さい。

触れずに投げるより、相手の身体や服を掴んで投げた方が、確実だし、やりやすいでしょう? 武術という、敵を制する方法において、「相手に触れない」というのが、一体何のメリットになるというのでしょう。

「触れずに投げる」ってのは、単に、「凄そう」と思わせるだけの、象徴的なものなのです。現象するにはするが、誰にでもいつでも普遍的に通用するものでは無いし、そもそも、触れずに投げる意味が無い。

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もう一つおまけの、「触れずに投げる」お話。

触れずに「投げる」というのは、厳密にはちょっと違うんですけどね。

ジョギングしてたら、いきなり、首の高さの辺りに棒を差し出された、と想像してみて下さい。

そうすると、膝を意図的に屈したり、首を反らしたりして、何とか当たらないようにしますよね。

もう一回。

「当たらないように」しますよね?

上手くいけば、当たらないで済みます。ある程度派手に倒れても、首に棒が当たってからぶっ倒れるよりは、マシです。

これ、外から見れば、「触れずに投げる」技の出来上がり。合気道的には、入身投げという技の、高度の段階のもの。何の事は無い。触れてないというのはつまり、受けの反応が早い訳ですな。

で、それが行き過ぎてしまって、とくにタイミングが合っている訳でも体勢が崩れている訳でも無いのに、勝手に倒れてしまう、という風になっていく場合もあります。嘆かわしい事です。

だから、「かかってもいないのに倒れるな」、と真面目な指導者は言うのです。そうじゃ無いと、相手が倒れているのが、技が上手だからなのか、それとも、形をなぞっているだけなのか、解らなくなって、練習にならないから。

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ここから追記。

武術を知っている人向け。

塩田先生の技で、ほとんど動かないのに受けが崩れ倒れていく、という絶技がありますよね。これとか⇒YouTube - 呼吸力の神髄 塩田剛三直伝 合気道養神館研修会vol.2(動画再生注意)

率直に言うと、ここら辺のは、理合は私には「解らない」です。解らんものは解らんので、しょうが無いですな。

一応、仮説的なものはありますが(高岡英夫氏とか)、明らかに、動きを外から観察するだけじゃ、限界がある訳です。

で、受けを取っているのは弟子なので、どうしてもそこで、協力的関係という変数の排除が困難になる。無意識的な反応というのが考えられるから。

だから、全然武術の事を知らない人に持たせて、という風に条件を統制して実験する、という方法が試されるべきなのですね。

ところが、ここでは、達人の技がどれくらい普遍的に成り立つか、というのを検証したいのですけど、達人というのは、そもそも世の中にほとんど存在しない訳です。なので、そういう実験を組む事自体が難しい。科学的研究に協力的であるとも限らないし、佐川先生にしろ塩田先生にしろ、大変残念な事に、物故されてしまったので…。

触れないで投げる、というものなら、そもそも力学的関係が無いので、比較的簡単に論じられるんですが、この動画にあるような技――こういうのを象徴的に「合気」と称したりもしますが(岡本正剛師範、堀川幸道翁、などが代表的か)――は、検証が異常に難しいんですね。力学的・心理学的・生理学的論理が複雑に関わってくる可能性があるから、そこら辺の条件のコントロールをきちんとやって、現象を解析していかなくちゃならないですし。

もちろん、武術的には、ああいう技は、特に出来る必要は無いのですが(そんな事は、塩田先生が最もよくお考えだったのでしょう)。←いかにも岩間な人の台詞…。

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コメント

このエントリーを書くきっかけ⇒http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318958568

本気なのか何なのか知りませんけど、さすがにこの質問はダメ過ぎ。

……とも思ったのですけど、案外こういう感想が普通なのかな、とも感じたり。

武術の技の見せ方、はよく考えないといけないな、というのはたびたび思います。

投稿: TAKESAN | 2009年2月10日 (火) 02:28

西野流呼吸法の遠当てについてのやらせ事件は,由美かおる嬢をネゴシエーターに使って空手の黒帯の人間に飛んでもらうように頼んだ顛末が当時の空手雑誌にきっちり顛末が書かれていました。
 USA大山空手の大山茂総帥が,その映像を一目見て「どういう理由があるか分からないが,悲しい事情が背景にあるだろう」と看破されていて,果たしてその通りの事実があがってきました。これは,世代が変わるたびにトンデモのゾンビ的再利用が生じて,繰り返し上がってくる事例なので、ここではきっちり書いておきたいと思います。

 翻って,気違いじみた空手修行も経験された上での新軀道の青木先生のものは,掛けるものと掛けられるものとの間に,一種の同調現象みたいなものが生じている中での事例として私は考えております。武技的な「戦闘」という土俵の上で生じているものではないことを想起させる表現が多く,大変興味深い現象ということで紹介されていました。
 私のような凡人と違って、物理的な強さを追求した果ての方々には,人間とはいったいなんだろうという部分にコミットされる事例として,むしろ興味深い話なのかも知れません。

 穿った見方をすれば、仮に遠当てが一種の特殊な稽古を積んできた故にかかる本人も気がつかない同調,無意識のやらせということであれば,そうです,特定の条件において再現できて、それが実戦でも当てはまる可能性があって、本人も気がつかなければ,武技的には術としての意味と価値はあるかと思います。超能力ではないという意味では精神誘導技術の延長線上にある術=戦闘法という可能性の領域で考えても良い可能性はわずかにはあるかもしれません。

 ただ,逆に言えば,物理的な武技の解析からは全く見当違いのノイズにしかならない話で,この辺りの前提を理解した上で、区別して論考をしていく必要があると思います。

投稿: complex_cat | 2009年2月11日 (水) 09:13

complex_catさん、今日は。

レス書いてたら超絶長文になったので、新しいエントリーを上げますです・・。

投稿: TAKESAN | 2009年2月11日 (水) 12:34

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