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2009年2月11日 (水)

触れずに投げる(と、その他ちょこっと)2

complex_catさんのコメントへのレス。

まず前提として、遠当て系の「触れずに倒す」技、つまり、相手の勢いを利用して結果的に触れずにすんだ、という技で無いものは、純粋に心理社会的論理(高岡は、「人文―社会科学的メカニズム」)によって成立する、と見て良いと思います。
※「投げる」では無く「倒す」と一般化します

その上で、「触れずに倒す」という主張は、大きく分けて、武技に利用出来ると解釈する場合と、そこは薄めて、そういう現象が起こるという事実のみを紹介する場合の、二つの分け方があると考えられます。

そして、それに共通する論理として、「お互いに顕在的・意図的な協力関係が無い」というものがあります。

尤も、武術的な色合いの薄い組織においては、必ずしも協力関係が全く無い事を強調はしないかも知れませんが、しかし、受けが「わざと飛ぼうと思って飛んでいる」と主張する所は無いと考えられます。それは即ち、完全なる「演技」であるのを認める、という事なので。

それで、それぞれの主張を個別に見ていく必要がある訳ですね。

で、「武術」の話として考えるならば、そもそも武術とは、自分に敵対的な人間、友好性がほぼ無い相手をいかに制するか、という合目的性があるので、そこにいかに技術が適合するか、というのを見る必要があります。

その観点から言えば、施術者と被術者との心理的関係を操作した実験がなされないと、武術として「触れずに倒す」技術の普遍性・汎用性は論証出来ないと考えています。

これを端的に表したのが、「リングに上がってみろ」、「実際に戦って触れずに倒してみろ」的なものだと思います。

柳龍拳氏などは、このような挑戦を受け、見事に散った訳ですけれども、このような実験であれば、個人が有する技術がどうであるか、というのをある程度客観的に確かめられますね。もちろん、遠当てなるものは敵対的な相手には絶対成立しないのだ、という強い結論は、科学的には無理ですけれども。

整理すると、「触れずに投げる(倒す)」という現象そのものが、そもそもある程度多義的であるのを押さえつつ、通底する共通性も認識しながら個別に検討していく、という見方が重要である、といった所でしょうか。

私自身は、武術、つまり敵を制する技術の紹介、という文脈で、「触れずに」制す技を仄めかすものは、強烈に忌避するのですが、これは、自分が触れた武術や、私淑した先生方(斉藤守弘先生、佐川幸義先生、塩田剛三先生、等の方々)の影響が多分にあると思います。

遠当の武術的汎用性についての個人的見解としては、遠当が武術的に普遍的に通用する技術と見るのは理論的にもほぼ不可能だ、というものです。
特に、知らない人間に襲い掛かられた(どっちも知らない)、という最も極端な状況の一つを思い浮かべるならば、襲い掛かった人間にある 襲う人間についての情報は、姿形についてのもの程度しか無い訳なので、力学的関係が存在せず、かつ心理的関係を用いた技術、は成立しないと見て良いと思います。

見方を変えるならば、友好的関係が0に近く、かつ力学的関係が0の場合に遠当が成立するには、視覚・聴覚・嗅覚などの情報のみを手がかりにするか、もしくは疑似科学的論理(無意識が繋がっている、なんちゃら電磁波がうんちゃら、気の実体性の主張、等)を仮定するしか無い訳ですね。そしてそれは、現在の知見から考えれば、成立しないと判断して良いだろうと考えます。

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コメント

私も遠当ての武術的価値は,限りなくないと思います。ただし、現象面で二種類あると。
 意識的にやらせで飛んでいるのと,無意識で飛んでいるのと。
 後者については,人間とか意識とか言う次元で考えれば,非常に面白いかもしれないと考える人も居ると。

 で,TAKESANの仰っている,接触の前に既に崩しを仕掛ける技としての遠当てについての原理解明は,武術的には重要な価値を持っていると思います。

 簡単に書くとこういうことなんですけど。ちなみに,私の関わった中国武術では,気であろうがなんであろうが,触らずに人を飛ばすなんて,詐欺みたいな話を問題にする門派は一つもありませんでした。

 誤解のなきよう追記しておきます。

投稿: complex_cat | 2009年2月11日 (水) 15:42

非接触時に意図せずに飛んでいってしまう、という現象は、仰るように、とても興味深いと思います。むしろ、心理学的現象として、これほどに面白いものは、なかなか無いだろうと考えています。当然、科学として分析するのが甚だ困難ですが(だから面白い、とも言える)。
尤も、面白いとは言いましたが、それは人間心理をコントロールしてしまうものとしても機能し得るので、「恐ろしい」ものでもある訳ですけれども。そこも大変重要ですね。

▼▼▼引用▼▼▼
触らずに人を飛ばすなんて,詐欺みたいな話を問題にする門派は一つもありませんでした。
▲▲引用終了▲▲
多分、私の問題意識というのは、合気道の内部で「触れずに倒す」技を見せ付ける人がいる、という所の危惧からきているのだと思います。

ご存知のように、西野流は合気道を標榜したりしますし、合気会の演武大会で、遠当系の技を使う師範もいます。大東流辺りにもいますね。
当然、合気道は武道として社会に認知されている訳で、その延長として「触れずに投げ飛ばす」なんて認識を持ってしまう人は出てくるんですよね。そうすると、「武道の稽古によって、有効な遠当が出来るかも知れない」という風に錯覚する人も出てきます。私のように。

そんな事もあるので、現象の多義性の認識、切り分けの重要さ、などが周知される必要があるだろうな、と思っています。

たとえば、「合気道 触れず」などで検索してみると、なかなか興味深いです。

投稿: TAKESAN | 2009年2月11日 (水) 16:00

あと,西野氏は,大気拳の創始者である故沢井健一翁とも近しいことを著書に示していたので,武技的な部分は,しっかりされているのだということで,あの遠当については勘違いをされた方もかなり居られたと思います。
 いろいろ罪深いパフォーマンスであったと思います。

 ご存じかと思いますが,ついでに申しますと,故人となられた二人の達人,沢井先生と大山館長がいつも恐縮して面会されておられた不世出の達人が塩田剛三館長で,その使われる武技のレベルは,本当に別格であったようです。

投稿: complex_cat | 2009年2月13日 (金) 21:52

complex_catさん、今晩は。

なるほど、澤井翁との繋がりも仄めかしていた訳ですね。

マス大山が塩田先生に一目置いておられた、というのは聞いた事がありますが、そのお二方とも、というエピソードは、初耳でした。

塩田先生にしても佐川先生にしても、そして斉藤先生にしても、触れずに倒す、というような話を忌避されていました。斉藤先生は、「気」の概念を無闇に用いて説明する者を叱責した、とも聞いています。

多分、固い稽古(しっかり掴ませた所から始める)を重視したから、というのが関係しているのでしょうね。

※斉藤先生は、開祖のもとで、23年間も修行を積まれました。講習会で斉藤先生が仰っていましたが、開祖は、気の流れの稽古を弟子が行っているのを見ると激昂し、「気の流れは三段からだ」と窘められたそうです。また、「わしは60年固い稽古をやったからこの域がある」、という趣旨の事も言われたそうです。

投稿: TAKESAN | 2009年2月13日 (金) 23:38

高岡英夫氏も触れずに投げるパフォーマンスを演じます。参考まで。何故それを見せたのかは分かりません。

投稿: ミニストップ | 2009年5月22日 (金) 22:20

ミニストップさん、今晩は。

「意識操作」ってやつですよね。
高岡氏は、身体意識がユングの集合無意識的構造を持っていると考えていて、直接他者の意識を操作出来る、という論を展開している訳ですね。で、それは、私が高岡氏を批判している部分でもあります。

見せた理由としては、合気がバイオメカニクスや心理学以外の論理をも用いている、のを強調したかったから、だろうと思います。『秘伝』の特集か何かで披露していましたね。

ここら辺をどう捉えるかが、一つの「分かれ目」なんだろうと考えてます。

投稿: TAKESAN | 2009年5月22日 (金) 23:22

最新エントリー(2011/09/28現在)と繋がってるので、このコメント欄もどうぞ。

投稿: TAKESAN | 2011年9月28日 (水) 10:18

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