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2008年12月 7日 (日)

合目的的合理性

きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog

こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。

poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。

それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。

最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。

それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。

合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。

で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない

そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。

これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。

そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。

こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。

ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)

ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。

 情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。

 Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。

合理性の定義と分類について考察されています。そして、

三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。

ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※

やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。

この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。

個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。

ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。

※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002

三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子

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