« もうちょい続く | トップページ | ノート:心理学研究法(7) »

2008年12月14日 (日)

昔書いた事:ゲーム編

子どもを拘束してしまうのは、社会だ。正しい身体運動を、体でも心でも全く認識していない者が、間違った拘束的な認識に従って、教育を施してしまうのである。そして恐ろしいことに、教育者は、自分が間違ったことを教えてしまっている等とは夢にも思っていないのだ。否それどころか、彼彼女は、自分達が手塩にかけてガチガチに固め造り上げてきた「作品」を眺め、その見事な完成度に満足さえしているのである。

どこから見ても、「わが流派の最高師範」が口癖の人が書いた文章ですが、実はこれ、自分が書いたものです。

先日、poohさんの所で、自分がゲームを嫌っていた事、それを愛好する人を見下していた事、を書きました。ここでも何度か話題には出しましたが、自分がゲームについて以前どういう事を考えていたか、というのを、覚書から引っ張ってこようと思います。

25年前からゲームをやってきた人間が、何故それを嫌悪するようになったか。それは個人史的な問題なので詳しく書く事はしませんが、ゲームについてどう思っていたかを書いてみるのは、それなりに意味があるかも知れません。

なお、ここに引用するものは、ゲーム嫌悪が完全に解消された後のものですが(なので、嫌悪していた内容はほとんど無いかも)、文献や先行研究を無視した思い込みの激しい考え、という事で、載せてみます。引用の順序は時系列に従わないので、ご了承下さい。

「ゲーム脳の恐怖」という本を読んだ。非科学的な人間が科学者になれるのだ、と思った。

強烈ですね。本当の所は、よく知らない分野について手を出したら大変な事をしでかしてしまった、という感じなのかも知れません。

TVゲームの問題点

非身体運動的であるという点。記号管理的文化の最たるもの。

ゲームとは

文化として見ると、様々な文化を(記号的)部分的に包含する。TVゲームを、人間とTV画面と操作系の三項関係と見ることが出来る。この「操作」という概念が重要(必要条件といえるだろう)。

記号管理的というのは高岡英夫氏の概念ですね。両方について、もうちょっと洗練させたかたちでここに書いていますね。初期のエントリーで。ゲームの論理構造の記述としては、さほど間違ってはいないと思います。

高度な身体運動を体現することがないと、絶対にクリアできない様なTVゲーム(たとえば、フリーフルクラムが出来た時だけ先に進める)というものは、論理的には考えることができる。しかし、技術的にも経済的にも(少なくとも現在においては)不可能。

TVゲームの宿命的問題点

働きかける対象が、「TV画面」であるということ。視覚的・聴覚的存在であって、絶対に体性感覚的存在では有り得ない。操作系は部分的には身体意識的。

この頃は、Wiiやバランスボードが出るなどとは夢想だにしておりませんでしたよ。前者は、ここでもたまに書きますね。と言うか、バランスボードが出る前に書いてた訳ですけど。後者は分析が荒い。自分でも、「存在」をどういう意味で使っているか不明確。まあ、身体に触れられたりするような情報は無い、という事で、基本的にはゲームの特性として見ても構わないとは思います。

実際に、TVゲームを通して、(「物語性」という部分を持っているから)「命の大切さ」や「思いやり」を持つこと、学ぶことはできるのである。当たり前だ。絵本を読んだり小説を読む、あるいは良い映画を見ること等と、同じことなのだから。

従って、なすべきことは、当該文化に内在する有益性・問題点を分析解明し、それを正確に記述することなのだ。特に、その文化に固有の特性を見出すこと。それが非常に重要なのである。

なんか、めちゃくちゃいい事書いてるじゃないか(笑) まあ、ここら辺が、このブログを書く動機に繋がってきている訳ですな。このスタンスは今も保っているつもりです。

「リセットして人生が初めからやり直せる」という認識について。

責任の押しつけ――正常に生活していれば、その様な価値観が形成されないという可能性。

昔の子供はその様な考えを持たなかったか?――言葉が違うだけで、同じ様なことを思っていたかもしれない。

前者はちょっと解りにくいですが、ようするに、色々な経験をして、生活の時間配分等に無理が生じていなければ、文字通りに「リセット」して云々という認識には至らないのではないか、という推察です。後者は、ゲームが無い昔の人も、人生をやり直す的な認識を持つ事はあったかもよ、という話。

ここまで、2002年頃に書いたもの。

っと、ここで、2003年に面白い事を書いているので、ちょっと番外編。

「頭の良い人」≒「メタ」な認識を持っている人。

メタを装う人→メタであると思い込もうとする。実は非常に排他的。学問的認識を中途半端に持っていたりするのでたちが悪い。

めちゃめちゃ吹いた。今も結構言ってる事じゃないか。

メタはスタート地点ね。

ここから、2005年頃に書いたもの。ブログを作るちょっと前かな。

TVゲームに影響されて殺人を犯したのだ、という主張。

それはそうなのかも知れない、と考える。しかし、「だから?」とも考える。

人は、あらゆる環境に様々な影響を受けるのだ。

例えば、バイオハザードをプレイして暴力衝動が喚起され、人を殺めたとする。←これはとても個人的なことである。この様なことがあったからといって、では販売規制をするか、というと、それは待て、と思う。

基本的には今と同じ、なのかな? ちょっと荒い気もするけど。

川島隆太さんへ

あなたの実証実験に不備は有りませんか。極く少数の実験結果を、一般化し過ぎでは有りませんか。具体的な機序は解明されたのですが。コンピュータゲームに関して研究されましたか。社会科学の勉強をされましたか。

強烈に恥ずかしい。多分これ、脳トレの本で、ゲームやっている時のPETの画像かなんかが載っていて、それについての解釈を読んで怒った、というのだったと思います。川島氏のゲーム理解が怪しいと思うのは今もそうだけど、科学に関しては理解不足だなあ。

また番外編。これはマジで面白い。

実験科学的方法を順守しようとするならば、フロイトも、ユングも、高岡も、全て疑似科学のカテゴリーに押しこめられてしまう。

これはなんというニセ科学批判批判風。もちろん、ニセ科学という概念を知らない頃です。

やばい、これも面白い。今、はてな辺りで書いたら、ブクマつきまくる事必至。2002年初めの頃。

反証もできないのに、「非科学的」という評価を下す者は、自身が最も非科学的なものの見方をしているのだということに気付いていないのである。

甘いぜ、自分…。

と、こんな所か。うーん、そもそも武術系の覚書なんで、ゲームについて書いているのは少ないのは当たり前ですけど、もうちょいネガティブな事も書いてたような気がするんだけどなあ。

まあ、自分の科学についての認識の変遷も発掘出来たので、よしとしましょうか。

ゲームを嫌悪していたと言いましたが、具体的には、ゲームによって凶悪犯罪に走る奴もいるだろうな、とか、ゲームがコミュニケーションを断絶するツールになるだろうな、とか、大人になってゲームをやる奴は幼稚だ、とか、そういう感じでした。なんか、書いてて頭が痛くなりますが…。覚書をつけ始めるより前なので、やっぱり記録はしていないみたいです。振り返って書いたものがあったかもな、と思ったのですが、ありませんでした。

認識が凝り固まっていた訳ですね。色んなもののせいにしたり、直感を一般化したり。おぞましいものですよ、そういうのって。

|

« もうちょい続く | トップページ | ノート:心理学研究法(7) »

「ゲーム論」カテゴリの記事

「科学論」カテゴリの記事

コメント

こう謂うの、よく残してありましたね。いや、内容を云々しているわけではなくて、昔の自分がごく私的に書いていたことなんてのは、抹殺したくなるのが人情じゃないですか(笑)。

つか、オレは全部抹殺したので一切残っていません(笑)。ネットの発言は残りますけれど、なんというか、大勢に読まれることを意識して書いたものだと多少はマシなような気がしますね。

あと、三〇すぎて多少は外聞を憚る知恵が附いてからネットにアクセスしたのが幸いでしたかね。今の若者たちみたいに十代や二十代でネットに書き込みしていたらと思うと、ゾッとします(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年12月14日 (日) 23:23

黒猫亭さん、今晩は。

認識の変遷を見る、という意味でも残してあって、実はこのノート、数年に一回読み返した時のメモも書き込んであるんですよね。

当時ブログとかやっていなくて良かったなあ、と思う反面、やろうとしたら、やはり慎重に情報を集めて、今と同じような感じになったかもな、とも思ったりします。ただ、さすがに10代の頃とかじゃなくて良かったなあ、とは感じるのですが(笑)

投稿: TAKESAN | 2008年12月15日 (月) 00:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/26168577

この記事へのトラックバック一覧です: 昔書いた事:ゲーム編:

» 自我の脳内表現 [哲学はなぜ間違うのか?]
実際、私たちは、目をつぶっていても、自分の身体を感じることができる。それは、感じ [続きを読む]

受信: 2008年12月27日 (土) 21:54

« もうちょい続く | トップページ | ノート:心理学研究法(7) »