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2008年12月23日 (火)

勉強が出来る? 頭がいい?

勉強が出来る=頭がいい?

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「頭の良さ」というのはやはり、一般的な関心事なのでしょう。色々な意見が沢山集まっています。

さて、こういう問題を考える場合、大切なのは、言葉の意味でしょう。

まず、「勉強が出来る」。これはどういう意味でしょうか。

やはりここで思い起こされるのは、「学校で行う勉強」だと思われます。勉強とは、試験勉強・受験勉強、あるいは塾での勉強、などという言い方がされ、学校教育で習うものを指す、というのは、それほど的外れでは無いでしょう。元増田もそれを念頭においているように私には見えます。

では、「勉強が”出来る”」とはいかなる意味か。

学校で行う勉強について、「出来る」というのは、習うものの論理をきちんと理解している、という面と、テストで高得点を取る、あるいは高順位を取る、という面があろうかと思います。

例外はありましょうが、学校で行われるテストはおそらく、穴埋めや選択問題の占める割合が大きいでしょう。対象者が多くなれば、採点の効率なども考慮すると、そうせざるを得ない面もあるでしょう。

そういったテストの構造の場合、いわゆる暗記で乗り切る、というのが可能になります。そういった方法で乗り切れば、高得点を取り、高い順位につけるのは出来ない事では無い。一夜漬けなどという方法は、それを象徴的に表したものと言えそうです。

さて、ここで考えられるのは、そういった方法で高得点が取れたとして、それを「勉強が出来る」と評す事が可能かどうか、という所です。

テストの本当の目的は、ある知識の体系について問い、それについての解答を数量化し、理解の程度を知り、集団のどこに位置するかを把握する事でしょう。受験での選考などに用いられるのも、その前提があるからだと思います。

暗記によってテストをクリア(高得点を取る、という意)するというのは、表面的な記号の結び付きを憶え込み、それを当てはめていく、という能力が必要とされます。つまり、本来求められている、知識の体系の論理の理解(あるいは構造の把握、とでも言いましょうか)が出来なくてもテストで高得点は(程度問題ではありますが)取れる、と考えられます。

先ほどの話に戻ると、そういった(暗記)方法でクリア出来る能力を有するのを「勉強が出来る」と評価するかどうか、というのがポイントとなるでしょう。

次に、「頭が良い」とはどういう意味か、考えていきます。

こういう言葉を用いる際には、「社会的にどう用いられているか」という所を意識するのが肝要に思います。むつかしく言えば、社会的な文脈あるいは状況を考えていく、となるでしょう。

○○が良い、と言った場合、一般に、その○○に入る対象の能力が高い、と解釈出来ます。そして、その○○に入る対象がどのようなものか、というのをきちんと考察する必要があります。

たとえば、「目が良い」という表現があります。

この表現、(慣用句的な解釈は措いておいて)普通は、いわゆる「視力」の程度の良さを示すものであろうと思います。つまり、どの程度の分解能で対象を認知出来るか、それを定量的に把握した視力という概念を用い、目の良さを論じます。また、遠視や近視のように、対象の位置による見え方の特徴なども考えられるでしょう。

この場合は、目という感覚器官がどのような機能を持っているか、そこから得た情報をどう認知出来るか、というのが、比較的シンプルに測定される訳です。目はある範囲の電磁波を刺激(適刺激)として受容、つまり受け取り、それを信号として脳に送るという装置である、と見る事も出来ます。

耳が良い、という表現に関しても、どの程度の範囲の音波を聴く事が出来るか、というのを定量的に考え、それに基づいて評価する事が出来ます。

※こういう一般に用いられる言葉は、常に多義的に用いられますが、それは措きます。以下の「頭」の複雑さと対比させるための例示です。「目がいい」、「耳がいい」などの表現も本質的に、「頭がいい」という概念を語るのと同じ問題を含んでいるが、取り敢えずそれは措く、という事。「頭がいい」という言葉が「複雑にしか」考察出来ない、という事でもある。

「頭が良い」に戻りましょう。

まず、「頭」とは何でしょう。当然、実体的には、首から上、あるいは脳がある辺りを指すと思います。解剖学的な概念としては正確な定義があるのかも知れませんが、まあ、首から上、というのが世間的な共通認識だと思います。

それで、我々が認識する所の「頭が”良い”」とは、いかなる概念なのでしょうか。

当然、頭部が力学的な衝撃にどの程度耐えるか、などという意味では無いですね。格闘家がテンプルに上段蹴りを食らってビクともしないのを、「頭が良い」などとは評さない訳です。

ではどういうものか。

やはり、一般的には、頭部に収められている「脳」が司る知的能力の程度、と言うのが至当でしょう。

しかし、ここからが厄介になります。

というのも、脳の機能などというものは、目や耳が光や音波をどう知覚するか、という比較的シンプルな論理では語れないからです。

私達は、ある行動なり発言なりを見聞きして、「あの人は頭が良い」と評します。難しいパズルを解いたり、話術に長けていたり、適切なタイミングで言葉を発したり、自身の認識を俯瞰して見ているというのが見えたり、など。

これらは、いわゆる知的能力が働いている結果ではあるけれども、本質的にコンテクストに依存していると考えられます。つまり、記号操作や論理的認識力、などを、いかに場面に適して発揮出来るか、という。言い方を換えれば、そもそも「合目的的」である、となるでしょうか。

ただ、単に合目的的と言っても、それだけでは、スポーツなどでも見られる事です。けれども、普通は、野球でファインプレーをした事そのもの、つまり高度な身体運動を発揮した(これには、空間的認識能力のような知能が関わっている訳です)事に関して、「頭が良い」とは評さないと思います。つまり、「言葉」が関わる現象と深く関わっているように私は考えます。

そういう観点でいくならば、今のスポーツの例で見ると、ファインプレーに至った過程を振り返って、分析的に認識・説明出来る、という場合に、「頭が良い」と言われるのかも知れません。イチロー選手などは代表的でしょうか。

クイズ番組でよく解答出来る人に対しても、「頭が良い」と評価がなされる場合があります。「いわゆる知識」を競う問題、つまり、地名を答えたり人名を答えたり、という問題に多く正答しても、「頭が良い」と言われますね。これは、記憶の貯蔵量という観点で評価しているだと考えられます。脳の知的能力が高いと推測している、という事ですね。

要するに、頭が良いとは、脳の機能の内、言葉あるいは概念を貯めて、検索し、操作する、というパフォーマンスへの評価で、しかもそれは文脈に依存する評価、だと考えられる訳です。

当然心理学では、脳の知的能力を捉えるために、知能というものを研究しています。しかしそれは、(よく言われる事ですが)「頭が良い」という概念と一致はしない。知能というのは、より一般的な能力を指す概念なのに対して、「頭の良さ」は、それを部分的に含みつつも、ある目的を適切に達成出来るか、という観点も含まれてくる。

もしかすると、社会心理学などの方面で、「社会的に考えられている”頭の良さ”」というものは、研究されているのかも知れません。つまり、多くの人から、「頭の良さ」とはどういう概念か尋ね、それを定量的に解析して、「どうやら、現在社会的には、”頭の良さ”とはこのような概念を指す語のようである」、と実証的に確認していく。それは、言語と社会との関係を扱う領域から見ても興味深い対象であるでしょう。

さて、いよいよ、というほど大袈裟でもありませんが、「勉強が出来る」と「頭がいい」との関係を見ていきましょう。

先に書いたように、「勉強が出来る」というのは、学校で行われるテストで良い点が取れる、あるいは、学校で習う事の知識の体系をきちんと構造的に把握する、という風に見る事が出来ます。

前者は、暗記でも良い点が取れる場合もある、と書きました(記述式もあるし、他に工夫された試験もあるのでは、という論点は、簡単のため、ここでは措いておきましょう)。これは、短期的に課題を記憶して、それを解答用紙に適切に貼り付ければ(比喩)良い、という話なので、「勉強が出来る」という概念には含めない事にします。一応ここでは、後者、つまり、学校で習う知識体系を把握しているか否か、と見ます。

学校で習うものとは要するに、学問的知識です。それは、先人達が結晶させた知識の体系、論理の塊です。

ですから、それを理解するには当然、ある程度の知的能力が必要とされる訳です。記号の操作、概念同士の関係の把握、記憶の定着、等々。そういう意味では、心理学的な「知能」と深く関わっている、と言えます。そもそも知能検査は、教育にあたてって、知的に平均よりはずれている子どもに適切なケアを施すために作られたものである、というのを思い起こすのも良いかも知れません。

そういう意味で、今言っている「勉強が出来る」とは、知的能力の高さをある程度反映する、とは言えます。論理的・整合的・体系的知識をきちんと把握する、というのが学習の目的なのですから。

しかし、だからといってそれは、世間で言われる所の「頭の良さ」を必ずしも反映するものでは無いと私は考えます。

何故ならば、上でも書いたように、「頭の良さ」とは本質的に文脈に依存し、文脈に従って合目的的に知的能力を発揮する事が出来るか否についての評価である、と考えているからです。ありていに言えば、「意味を確定出来ない」という事です。※「勉強が出来る」も、本当はそうなのかも知れませんが、学校で行う学習というのを意識すると、一応、ある程度意味は限定出来ると考えています。

ですから、元増田のように、そもそも双方が確定された概念であるかのごとく語る事自体、すごく無理がある訳です。

元増田が主張する、「勉強が出来る」=「頭がいい」が正しいためには、「頭がいい」を「勉強が出来る」事であると「定義」し、そして「勉強が出来る」の意味を明らかにしなければなりません。そして、「頭の良さ」自体が文脈依存的概念であるから、その定義に賛成する人はそもそもいない、と私は思います。

果たして、自身が ある語でどういう概念を指しているか、それを反省的・分析的に考察しないままに、自身の認識が、まるで社会的な共通了解であるかのように看做して話を進めるのが、「頭が良い」と言えるのか、というのは興味深い所ではあります。

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コメント

久々に、ロジックを捏ね繰り回したぜ……疲れた。

私はソシュールの申し子(適当です。ごめんなさい)なんで、必ずこういう認識をするのです。

投稿: TAKESAN | 2008年12月23日 (火) 01:33

 お疲れ様です。
  
>共通了解であるかのように看做して話を進めるのが、「頭が良い」と言えるのか、というのは興味深い所

 途中の理解は自分自身怪しいところはありますが、コレは大事ですね。気をつけたいところです。

 この「頭がいい」については、学校に所属している人が考える頭の良さと、社会人の考える頭の良さの違いもありますよね。
 前者は学校知学力の高い人を「頭がいい」と、捉える向きがありますよね。
 後者では学校知学力的な物は評価されるとは限りません。
 むしろ学生時代に「頭がいい」と呼ばれていた人が周りから「あの人頭悪いよね」なんて言われることも・・・

 学生時代に習ったことが思い出されて愉しいです。

 ではまた。

投稿: どらねこ | 2008年12月23日 (火) 11:02

どらねこさん、今日は。

「勉強が出来る」に似たものとして、「学がある」という言い方もありますね。この場合は、どういう学校を出たか、という意味も含む、もうちょっと広い概念ですけれど。

知能に関して「多重知能」という考えも提出されていたりして、色々研究されているんですよね。知的能力一般に関してはそういう分析があるようですが、しかし、「頭の良さ」となると、もっと広く、社会的認知の問題も関わってくるんですよね。文脈依存。
もちろん、知能概念自体、文化的な所は切り離して考えられない、というのは共通認識なのかも知れませんが。知能自体が多義的か。
※ガードナーの多重知能理論は、実証性に乏しいとして批判もある模様。概説書で読んだくらいなので、詳しくは知らないです。

そういえば、「問題解決能力」なんて言い方もありますねえ。学術概念なのかはよく知りませんけれども。

投稿: TAKESAN | 2008年12月23日 (火) 12:36

いくつか関連エントリーを読みましたが。

なんで、それぞれの言い回しの意味を突き詰めてみようと思わないんでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2008年12月23日 (火) 14:23

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-0f54.html

この人は面白いなあ。

▼▼▼引用▼▼▼
文章が長すぎ(その意味であまり頭がよくない)。
▲▲引用終了▲▲
ここから既に面白いなあ。文章が長いと頭がよくないのかあ。

別に、無理に読まなくていいのにね。
馬鹿呼ばわりした相手の文を読むとか、奇特な人です。
ああ、馬鹿呼ばわりした人間がいかに馬鹿かを言いたいのか。それを探すために読む訳ね。

やっぱり面白い人だなあ。

投稿: TAKESAN | 2008年12月25日 (木) 12:24

こんちは。

>「問題解決能力」
学術用語といえるのかどうかはわかりませんが、教育の世界ではよく見る言葉です。自力で課題を発見してそれを解決する力、といった意味合いで使われることが多いですね。

この言葉、2000年頃の指導要領改訂で総合的学習とか情報教育とかがうたわれるのと、軌を一にして出てきたような印象を持っています。今は小中学校の教育現場では、完全に定着していると思います(ただし、ぼくは2000年頃に教育関係の話題を追いはじめたので、本当はそれ以前からあったのかもしれません・汗)。

投稿: 亀@渋研X | 2008年12月26日 (金) 03:38

亀@渋研Xさん、今日は。

学習科学とか教育関連の学問の本でも、しばしば出てくるように思います。それほどかっちりした定義も無いみたいなので、術語と言うよりは、問題を解決するという過程に光を当てて考えていく、という事なのかも知れません。


ちなみに、手許にある本(『学習科学』)によれば、Bransfordという人が、問題解決の過程として、「IDEAL」というのを提唱したようですね。
すなわち、

I=Identifying problems:問題を発見する
D=Defining problems:問題を定義する
E=Exploring alternative approaches;さまざまな方略を探す
A=Acting on a plan:計画を実行する
L=Looking at the effects and learn:結果を検討する

▼▼▼引用▼▼▼
Bransfordらのねらいは,専門家が持つような問題解決に対する分析的な視点を一般の人にも共有してもらい,自分たちの問題解決過程を客観的に把握しコントロールする力,すなわちメタに理解する力をつけてもらうところにある。
▲▲引用終了▲▲(P120)

投稿: TAKESAN | 2008年12月26日 (金) 13:19

投稿: TAKESAN | 2008年12月26日 (金) 17:07

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