ヲヲミソクヮ
アニソン三昧の熱さは異常。2ちゃんねるのスレの速度も異常。
テレビなんて観てられない。
でも、Qさま!!は観るかも知れない。
皆さん、今年もお世話になりました。
来年もよろしゅう。
よいお年を。
| 固定リンク | コメント (5) | トラックバック (0)
アニソン三昧の熱さは異常。2ちゃんねるのスレの速度も異常。
テレビなんて観てられない。
でも、Qさま!!は観るかも知れない。
皆さん、今年もお世話になりました。
来年もよろしゅう。
よいお年を。
| 固定リンク | コメント (5) | トラックバック (0)
掲示板でABO FANさんとやり取りしていて、統計学理解のレベルが想像以上の低さだ、というのが判明して、なんだかなあ、です。
kikulogとかでは、多分理解していないだろうなあ、と思わせながらも肝心な所は はぐらかして(読解が不能になるような詭弁を弄して)いたから、もしかしてわざとやってるのかなあ、と感じていたんですが、掲示板では、面白いほどに無理解を無防備にさらけ出していますよね。なぜ? 油断しているのかな。
FSMさんの嘆きもご尤もなのであります。
| 固定リンク | コメント (17) | トラックバック (0)
ニセ科学批判を批判したり、科学をメタな視点から相対化して科学は実は絶対主義的で云々、と論をぶつ人って、なんで、具体的な実証科学の方法を採り上げて検討してみる、というのをしないんでしょうね。
最近WEBで見るものに関して言うと、科学を相対化しようとしているもので、科学哲学的な論を押さえつつ展開しているのも、あまり見かけないんですが。日本だと、伊勢田さん辺りの論は参照する価値が高いと思うのですが、どうなんでしょうね。
科学の側にいる人がメタぶった人に批判されて、いや、その論点は既に伊勢田によって考察されているから参照せよ、と返されるのを見たりするんですけど、それってどうなの、とか。
後、科学の現場の人達の方がよっぽどそういう面に目を向けている、というのもあるかも知れません。心理学なんかは、特にそうかも。確か疫学も、科学哲学的な論と密接に関連しているんですよね?
具体的な方法を採り上げて、この方法では不足している、とか、こういう方法の方が適切である、という風に批判されれば、なるほどそうか、と参考に出来ると思うんですけどね。全然見ません(科学の内部ではもちろん見る訳ですが)。
科学を批判したいのなら、実験科学の方法について書かれてある書籍に目を通したりするのが筋だと思うんですけどねえ。してます?
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
○第8章 信頼性と妥当性(平井洋子)
数量で表される物理的な特性。身長や体重――巻尺や体重計で直接測れる
人の心理的特性――心というブラックボックスに入っていて、直接測れない。構成概念
心理学――測ろうとする心理的特性の強弱に応じて反応が分かれるような質問を与え、返ってきた反応を介して「間接的」に特性の強さを測ろうとする。
→測定誤差の混入(人の反応は状況によって変動するから)
§1 測定誤差
人の日常――行動や性格に一定の傾向と強さがある
外から観測出来る行動・態度・発言に注目し、その平均的なレベルが対象の特性レベルと考える。
心理学的測定(ここでは、古典的テスト理論の測定モデルに基づいて説明)――測定される行動や反応を、
に分けて考える。
観察や心理検査の結果から、個人の特性レベルをあらわす得点を求めたとする。
X=T + E
と考える。
↑分類は状況によって変わる。
§2 信頼性の概念
▼誤差の大きさと信頼性係数
X=T + E だから、E が小さければ、X は T に近い値になる。T=X - E
E :その時々にランダムに発生する様々な要因の和。
信頼性係数(Reliability Coefficient):誤差Eの変動がどの程度大きいかを示す測定精度の指標――観測得点 X の変動の中で誤差 E の変動が占める割合を1から引いた値
観測得点 X の分散=真の得点 T の分散 + 誤差 E の分散
信頼性係数=1 - E の分散 / X の分散=T の分散 / X の分散 ※0から1の間の値をとる
信頼性係数が高ければ(誤差の占める割合が小さければ)、真の得点 T に近い得点が安定して観測される、と言える。
▼再検査法
▼代替検査法
▼項目の内的一貫性による方法
信頼性係数の大きさを推定する方法をまとめる。
参考資料⇒心理統計の注意点:信頼性についての注意点(大変重要な事柄が書かれていると思うので、是非参照して下さい)
§3 妥当性の概念
▼測定の適切さ
ランダムな測定誤差が少ないだけでは、良い測定とは言えない。
妥当性(Validity)――ある心理的特性を測るために、その検査なりを行うのがどの程度適切か、得られた得点がどの程度適切にしようされているか、と示す概念。つまり、測りたいものをちゃんと測れているか。測定の偏り。信頼性は、測定の精度を示す。
同一の検査でも、使い方によって妥当性が変わる。←妥当性が、被験者との適合性や測定結果の用いられ方まで含んだ概念だから
心というブラックボックスを間接的に測定せざるを得ないから、妥当性があるかどうかを常に意識しておく必要がある。体重や身長は明確だが、心理的特性のような構成概念は、測りたいものが全く測れない可能性もある
妥当性検証の局面
▼妥当性のさまざまな証拠
例:文章理解力の測定
測定が間接的→妥当性の検証も、証拠を積み上げながら間接的に行う。
§4 よい測定を行うために
信頼性が低い→ランダムな測定誤差の割合が大きい:測定したい心理的特性が観測得点にあまり含まれない→妥当性も望めない
信頼性を高めようとして、内的一貫性を高め過ぎる→項目が等質になり過ぎる→測定内容が偏る→測定したい内容領域が部分的にしか測れない極端な話、全部同じ質問にする、とか
必要な高さの信頼性が確保されたら、妥当性を追求した方が良い。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
って言っても、PCの話です。
あまりにも動作が鈍重で、ブラウザもスローモーションのごときだったので、要らないファイルやアプリケーションを削除・アンインストールして、色々整理しました。
実は、そろそろHDDが危ないかな、という感じなのでファイルを整理してバックアップしやすいようにする、というのもあったりしますが。
いやー。
15GBくらい削れましたよ。単体で大きな容量のファイルはほとんど入れていないので、これはなかなかのスリムアップ。て言うか、入れただけで全然使わないアプリケーション、あるよねっ。いつか使うかも、と思ってそのままにする事、あるよねっ。
お陰で、ブラウザがめちゃくちゃ軽くなりましたよ。今までのはなんだったんだ、というくらい。スレイプニルが速くなって、オーディンも満足している事でしょう。
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
○第7章 質問紙による研究(平井洋子)
§1 質問紙の特徴
質問紙(Questionnaire)――用紙に一連の質問を配置したもの。回答方法に関する指示なども書かれている。用紙を見せ口頭で回答を得る形式や、用紙上に質問を記し回答も用紙上に記入する形式(紙筆式:Paper and Pencil)がある。※本章では紙筆式を扱う
▼調査系の質問紙と検査系の質問紙
質問の内容や研究目的に応じて多種多様な質問紙がある。
一つの質問紙に両方のタイプの質問が混在する事もある。
学力調査のように、個人の得点を出すと同時に学校や自治体単位でも集計されるなど、同じ質問が両方の目的に用いられる事もある。
▼質問項目の形式
▼質問紙による研究の長所と短所
面接や観察、実験などの研究法と異なり、質問紙による研究では、書面上でデータ収集が行われる。
長所
短所
§2 質問紙を用いた研究の流れ
▼全体的な流れ
▼質問紙の設計
▼質問紙の編集
具体的事例がありますが、まとめるのが難しいので省略。
こちらなどを参考に⇒「ここはどこ」質問紙の設計
ワーディング(言い回し)について、良い質問紙を作るためのワーディング、というのが箇条書であるので、引用します(P89)。
明快で簡潔な表現を使う
語彙は平易でオーソドックスに 文は短く単純な文法で 形容詞や副詞の使用は最小限にするひとつの質問文の使用にはひとつの内容のみ
否定的な表現を避ける
とくに二重否定を避けること不快感をよぶような表現を避ける
差別的な表現 決め付ける表現 プライバシーに立ち入った内容誘導的な表現を避ける
規範や常識をちらつかせる 好ましい(好ましくない)ニュアンスをもつ表現用語や表記を統一する
§3 質問紙の実施と利用上の注意
実施者の果たす役割は重要。実施者の態度や行動一つでデータ収集が失敗する事もある。
既製の質問紙利用の際の注意――実施マニュアルや採点マニュアルが添付されていたら、手順は必ず守らなければならない。質問の削除や改変は行わない。行う場合は、自作のオリジナルな質問紙と考え、仕様書作成の段階からやり直すべき。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
めくるめく幻惑の世界を体験したい方は、こちらへ……
ABO FANさん用:Interdisciplinaryな掲示板:@niftyレンタル掲示板:@nifty(結構重いです)
※どんなに頭が痛くなっても、私は責任は取れません
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
![]() |
ニコチアナ (角川文庫) 著者:川端 裕人 |
今、1/3程度読みましたが、面白いですね。多分、もっと面白くなると思います。
煙草をテーマにした小説って、あまり無さそうですが、どうなんでしょう。
煙草の害に関する議論についても勉強したいと考えています。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (1)
はてブ経由で⇒日経サイエンス 日経サイエンス 2009年2月号
茂木氏と伊勢田さんの対談が載っている模様。
spiklenci-slastiさんによれば、伊勢田さんは「忠告」をしたそうな。茂木氏の反応は微妙そうですが…。
そういえば、往復書簡はどうなったんだ、というのを最近何故か思い出したんですけど、どうなったんでしたっけ。
追記。
上で、「忠告」と括弧で括っていますが、これは、伊勢田さんの日記を踏まえたものなのですが、⇒Daily Life
書かれたものと「忠告」の意味合いに、ニュアンスはあるやも知れませんね。
| 日経サイエンス 2009年 02月号 [雑誌] |
| 固定リンク | コメント (48) | トラックバック (3)
いつの間にか、タイトルが変わっていました⇒江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記
多分、12/19から12/25までは、私の見落としが無ければ更新はされていないと思います。
少し日が経ったので、どこが更新されたかが解りづらいかも知れないので、拾えた範囲で引用します。こちらを参照⇒http://megalodon.jp/?url=http%3A//d.hatena.ne.jp/finalvent/20081117/1226930161
○2008年12月19日~12月25日までに追加・修正された部分。赤文字は私による。
▼修正
prevention and control in foodgrains")。また、その仕組みは毒性によるものです。
↓
prevention and control in foodgrains - Contents")。また、その仕組みは毒性によるものです。
▼追加(参考文献の部分)
Uraguchi K. Mycotoxic origin of cardiac beriberi. Journal ofstored products research, 1969, 5: 227±236.
▼追加(NATROMさんへの応答)
⇒衝心脚気の原因はカビ毒か? - NATROMの日記
から
カビ毒による脚気症状と、アビタミノーゼによる脚気は異なる病気であるとすることも可能ですが、明治期以前には区別されていなかっただろうと思われます。
まで。途中省略。
後はコメント欄。
○2008年12月25日19時頃~12月25日23時頃
▼修正(タイトル)
偽科学発見テスト - finalventの日記
↓
江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記
▼修正
2008-11-17■偽科学発見テスト
↓
■江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか
以下のエントリは、当初「偽科学発見テスト」と題されていて、科学的な言説と非科学的な言説をどう考えるかという、一つのテストケースとして考えていました。想定していなかったいくつかの契機があり、また私の考えも変わったので、その点については、書き改める予定です。
以下は、それまでの過去の経緯として、ご関心のあるかたはその心積もりで参照してください。
後、コメント欄で、finalventさんの考えが書いてあります。
今後、考えを改めた所を踏まえてまとめられるとの事。これまでのやり取りは、「以下は、それまでの過去の経緯として、ご関心のあるかたはその心積もりで参照してください。」と書かれているので、どう考えが変化したのかを参照出来るように残す、という事でしょう。
このエントリーを書いている時点では、まだ新しいエントリーなりは無いですが、その内にアップされるのだと思います。
結局の所、「偽科学発見テスト」としての意義は無かった、と看做しても差し支え無いだろうとは思います。テストとは一般的に、明確な答えを知っている者が出題し、解答者はそれをきちんと当てる事が出来るか、というのを言うと思いますが、今回は、そのような関係は成り立っていなかった、と言えます。
早い内からそういう指摘はあり、論拠をきちんと出して主張を詳らかにするべきではないか、と言われてきたにも拘らず、非常に参照しにくい仕方で更新・修正し、論拠を小出しにして主張を明確にしてこなかった、という部分は、やはり批判されてしかるべきかと思います。と、批判をきちんと書いておくのは必要なので、書きましたが、それはそれとして。
当時カビ毒中毒がどの程度あったのか、とか、そこら辺は興味深い話だろうとは思うので(それは最初から誰も否定していないのだし…)、これからまた議論が進んで考察が深まれば良いと考えています。
本音を言うと、どうして、初めから言葉をきちんと尽くしてやり取りしなかったのだろうな、という感じなのですが、今言っても詮無い事ではあります。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
心理学研究法が、まだ半分くらいしかきていないのに、気が早いですが。
テキストをまとめるシリーズ、今後もやろうと思うんですが、需要ありますかね?
候補を挙げるんで、気が向いたら、これを書いてちょ(死語)、とコメントでもして下さいな。
あ、90年代後半から、2004年くらいまでのテキストです。分野によって、最新の知識が反映されていないものもあるでしょうし、基本的な知識はほとんど変わらないので問題無い、というのもあるでしょうから、そこら辺は念頭に置いて頂ければ、と。
よろしくお願いします。
このシリーズ、テキストを写しながらまとめる、だけのように思えて、実は、自分が理解しながら、青字で意見を書いたりするので、意外と大変だったりします。それだけに、おさらいという意味でも、ものすごく勉強になります。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
これ、書いといた方がいいかも。
えっと、森昭雄氏が理事長をされていた(現在は理事)「日本健康行動科学会」、Wikpedia(2008/12/24 現在)では(ゲーム脳 - Wikipedia)、
なお、同会の名称に「学会」を含んでいるが、日本学術会議に登録されている正式な学会ではない。
と書いてありますが、実は…⇒日本学術会議協力学術研究団体の称号の付与について
このたび、平成17年12月に日本学術会議協力学術研究団体に申請しておりました結果が通知されました。平成18年4月13日付けで日本学術会議協力学術研究団体の称号が付与されました。
既に、日本学術会議に登録されているんですね。ここも⇒日本学術会議|日本学術会議協力学術研究団体一覧:日本ケ(下の方にあります)
森氏の専門分野の記述に関しても、Wikipediaは情報が古いです。
博士論文は脳神経ではなく筋肉に関する論文であり、現在も専門は運動生理学である。
日大のWEBサイトにおいて、森氏の専門分野として「脳神経科学」が書かれているのは、以前ご紹介した通りです。
Wikpediaの情報をそのまま信用して、当該学会が日本学術会議協力学術研究団体では無い、と思っている方が、もしかすると結構おられるかも知れないので、書いておきます。
もちろん、日本学術会議協力学術研究団体に指定されているからといって、活動の実態の質を保証するものでは無い、というのは言うまでもありませんが。
ここも参照(PDF)⇒http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/kanji/siryo13.pdf
日本学術会議の第13回幹事会資料。日本健康行動科学会への称号付与に関する記述があります。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
実は、11月以降に結構編集されてたんですね。知らなかった。
ところで、松田誠氏の『高木兼寛伝』を読んでいます。もう少しで読み終わるかな。
松田氏の文は、WEBでも読めますが、この本は、読み物として読みやすいよう、噛み砕いて書かれていますね。
脚気にまつわる論争って、科学論・科学史的に見ても、大変興味深いと思います。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
全く論宅さんは適当な方ですね。
いや、それは解り切っているので、ここではその話ではなくて…。
えっと、論宅さんが援用している「真理」についての説。これについて、手許の文献に記述があるので、ちょっと引用してみます。FSMさんのエントリーを読む際の理解の助けになれば幸い。
●真理対応説と真理整合説
真理については,ふるくからふたつの代表的な説がある。ひとつは真理対応説(correspondence theory of truth)である。たとえばアリストテレスは,真理を定義して,存在するものを存在しないといい,存在しないものを存在するというのが虚偽であるのにたいして,存在するものを存在するといい,存在しないものを存在しないというのが真理である,とのべている。このように,命題(あるいは観念,言明,など)と,事実(あるいは出来事,事態,など)とが対応(correspond)するとき,その命題を真理とするのが真理対応説である。
もうひとつは,真理整合説(coherence theory of truth)であって,これは,ある命題が一般的にみとめられている他の多くの命題と整合的であるとき(すなわち矛盾しないとき),その命題を真理とする考えかたである。
ところで,真理にかんする以上ふたつの考えかたには,それぞれ難点がある。まず後者の真理整合説についていえば,整合性という真理の基準だけでは,たがいに整合的なさまざまな命題が得られたとしても,そうしたさまざまな命題は私たちの経験する事実(あるいは出来事,など)と関係をもたないことになる。しかし,少なくとも事実にかんする命題は、感覚的経験をのべる命題となんらかの仕方でかかわりをもたなければならない。そして感覚的経験をのべる命題は,いわば,感覚的な事実と対応する命題であるから,少なくとも私たちの経験する事実との関連を考慮するかぎり,真理整合説は真理対応説によっておぎなわれなければならないのである。
しかし真理対応説にも重大な難点がある。というのは,事実はすべて命題によって記述されなければ,事実として知られることがないからである。それゆえ一方に命題Aがあり,他方に事実aがあって,Aと a が対応しているかどうかを知るためには,一方の命題Aのほかに,他方の事実 a を記述する命題Bが必要となる。しかしその命題Bが,そもそも事実 a と対応しているかどうかを知るためには,a にかんするまた別の命題Cが必要となり,ここに無限後退が生じる。こうして,真理対応説にも難点がみとめられるのである。
●デューイ自身の「真理対応説」
しかしデューイはここで「対応」という言葉をひろく解釈して,この困難をのがれることをこころみる。すなわち,対応とは,鍵がその条件に合致するように「合致する(answer)」,いいかえれば鍵が鍵穴にぴったりおさまってその機能をはたすということであり,問題にたいして適切な解決をもたらすように「答える(answer)」ことであるという。要するに,対応とは問題を解決することだ,というのである。こうしてデューイはいう。「私が主張するような理論こそ,真理対応説とよばれる資格のある唯一の理論である。」
以上のように,真理についての考えかたにおいてデューイは,一方では,パースの影響のもとに,可謬主義に立脚した究極の真理にかんするパースの定義に賛同するとともに,他方では,ジェイムズの影響のもとに,真理は有用性(すなわちデューイの場合は問題解決の可能性)を解してはじめて真理としてみとめられることを主張したのである。
魚津郁夫 『現代アメリカ思想 ―プラグマティズムの展開―(’01)』
私自身、ちゃんと理解出来ている訳では無いのですが、資料の引用として、参考にどうぞ。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
「頭の良さ」というのはやはり、一般的な関心事なのでしょう。色々な意見が沢山集まっています。
さて、こういう問題を考える場合、大切なのは、言葉の意味でしょう。
まず、「勉強が出来る」。これはどういう意味でしょうか。
やはりここで思い起こされるのは、「学校で行う勉強」だと思われます。勉強とは、試験勉強・受験勉強、あるいは塾での勉強、などという言い方がされ、学校教育で習うものを指す、というのは、それほど的外れでは無いでしょう。元増田もそれを念頭においているように私には見えます。
では、「勉強が”出来る”」とはいかなる意味か。
学校で行う勉強について、「出来る」というのは、習うものの論理をきちんと理解している、という面と、テストで高得点を取る、あるいは高順位を取る、という面があろうかと思います。
例外はありましょうが、学校で行われるテストはおそらく、穴埋めや選択問題の占める割合が大きいでしょう。対象者が多くなれば、採点の効率なども考慮すると、そうせざるを得ない面もあるでしょう。
そういったテストの構造の場合、いわゆる暗記で乗り切る、というのが可能になります。そういった方法で乗り切れば、高得点を取り、高い順位につけるのは出来ない事では無い。一夜漬けなどという方法は、それを象徴的に表したものと言えそうです。
さて、ここで考えられるのは、そういった方法で高得点が取れたとして、それを「勉強が出来る」と評す事が可能かどうか、という所です。
テストの本当の目的は、ある知識の体系について問い、それについての解答を数量化し、理解の程度を知り、集団のどこに位置するかを把握する事でしょう。受験での選考などに用いられるのも、その前提があるからだと思います。
暗記によってテストをクリア(高得点を取る、という意)するというのは、表面的な記号の結び付きを憶え込み、それを当てはめていく、という能力が必要とされます。つまり、本来求められている、知識の体系の論理の理解(あるいは構造の把握、とでも言いましょうか)が出来なくてもテストで高得点は(程度問題ではありますが)取れる、と考えられます。
先ほどの話に戻ると、そういった(暗記)方法でクリア出来る能力を有するのを「勉強が出来る」と評価するかどうか、というのがポイントとなるでしょう。
次に、「頭が良い」とはどういう意味か、考えていきます。
こういう言葉を用いる際には、「社会的にどう用いられているか」という所を意識するのが肝要に思います。むつかしく言えば、社会的な文脈あるいは状況を考えていく、となるでしょう。
○○が良い、と言った場合、一般に、その○○に入る対象の能力が高い、と解釈出来ます。そして、その○○に入る対象がどのようなものか、というのをきちんと考察する必要があります。
たとえば、「目が良い」という表現があります。
この表現、(慣用句的な解釈は措いておいて)普通は、いわゆる「視力」の程度の良さを示すものであろうと思います。つまり、どの程度の分解能で対象を認知出来るか、それを定量的に把握した視力という概念を用い、目の良さを論じます。また、遠視や近視のように、対象の位置による見え方の特徴なども考えられるでしょう。
この場合は、目という感覚器官がどのような機能を持っているか、そこから得た情報をどう認知出来るか、というのが、比較的シンプルに測定される訳です。目はある範囲の電磁波を刺激(適刺激)として受容、つまり受け取り、それを信号として脳に送るという装置である、と見る事も出来ます。
耳が良い、という表現に関しても、どの程度の範囲の音波を聴く事が出来るか、というのを定量的に考え、それに基づいて評価する事が出来ます。
※こういう一般に用いられる言葉は、常に多義的に用いられますが、それは措きます。以下の「頭」の複雑さと対比させるための例示です。「目がいい」、「耳がいい」などの表現も本質的に、「頭がいい」という概念を語るのと同じ問題を含んでいるが、取り敢えずそれは措く、という事。「頭がいい」という言葉が「複雑にしか」考察出来ない、という事でもある。
「頭が良い」に戻りましょう。
まず、「頭」とは何でしょう。当然、実体的には、首から上、あるいは脳がある辺りを指すと思います。解剖学的な概念としては正確な定義があるのかも知れませんが、まあ、首から上、というのが世間的な共通認識だと思います。
それで、我々が認識する所の「頭が”良い”」とは、いかなる概念なのでしょうか。
当然、頭部が力学的な衝撃にどの程度耐えるか、などという意味では無いですね。格闘家がテンプルに上段蹴りを食らってビクともしないのを、「頭が良い」などとは評さない訳です。
ではどういうものか。
やはり、一般的には、頭部に収められている「脳」が司る知的能力の程度、と言うのが至当でしょう。
しかし、ここからが厄介になります。
というのも、脳の機能などというものは、目や耳が光や音波をどう知覚するか、という比較的シンプルな論理では語れないからです。
私達は、ある行動なり発言なりを見聞きして、「あの人は頭が良い」と評します。難しいパズルを解いたり、話術に長けていたり、適切なタイミングで言葉を発したり、自身の認識を俯瞰して見ているというのが見えたり、など。
これらは、いわゆる知的能力が働いている結果ではあるけれども、本質的にコンテクストに依存していると考えられます。つまり、記号操作や論理的認識力、などを、いかに場面に適して発揮出来るか、という。言い方を換えれば、そもそも「合目的的」である、となるでしょうか。
ただ、単に合目的的と言っても、それだけでは、スポーツなどでも見られる事です。けれども、普通は、野球でファインプレーをした事そのもの、つまり高度な身体運動を発揮した(これには、空間的認識能力のような知能が関わっている訳です)事に関して、「頭が良い」とは評さないと思います。つまり、「言葉」が関わる現象と深く関わっているように私は考えます。
そういう観点でいくならば、今のスポーツの例で見ると、ファインプレーに至った過程を振り返って、分析的に認識・説明出来る、という場合に、「頭が良い」と言われるのかも知れません。イチロー選手などは代表的でしょうか。
クイズ番組でよく解答出来る人に対しても、「頭が良い」と評価がなされる場合があります。「いわゆる知識」を競う問題、つまり、地名を答えたり人名を答えたり、という問題に多く正答しても、「頭が良い」と言われますね。これは、記憶の貯蔵量という観点で評価しているだと考えられます。脳の知的能力が高いと推測している、という事ですね。
要するに、頭が良いとは、脳の機能の内、言葉あるいは概念を貯めて、検索し、操作する、というパフォーマンスへの評価で、しかもそれは文脈に依存する評価、だと考えられる訳です。
当然心理学では、脳の知的能力を捉えるために、知能というものを研究しています。しかしそれは、(よく言われる事ですが)「頭が良い」という概念と一致はしない。知能というのは、より一般的な能力を指す概念なのに対して、「頭の良さ」は、それを部分的に含みつつも、ある目的を適切に達成出来るか、という観点も含まれてくる。
もしかすると、社会心理学などの方面で、「社会的に考えられている”頭の良さ”」というものは、研究されているのかも知れません。つまり、多くの人から、「頭の良さ」とはどういう概念か尋ね、それを定量的に解析して、「どうやら、現在社会的には、”頭の良さ”とはこのような概念を指す語のようである」、と実証的に確認していく。それは、言語と社会との関係を扱う領域から見ても興味深い対象であるでしょう。
さて、いよいよ、というほど大袈裟でもありませんが、「勉強が出来る」と「頭がいい」との関係を見ていきましょう。
先に書いたように、「勉強が出来る」というのは、学校で行われるテストで良い点が取れる、あるいは、学校で習う事の知識の体系をきちんと構造的に把握する、という風に見る事が出来ます。
前者は、暗記でも良い点が取れる場合もある、と書きました(記述式もあるし、他に工夫された試験もあるのでは、という論点は、簡単のため、ここでは措いておきましょう)。これは、短期的に課題を記憶して、それを解答用紙に適切に貼り付ければ(比喩)良い、という話なので、「勉強が出来る」という概念には含めない事にします。一応ここでは、後者、つまり、学校で習う知識体系を把握しているか否か、と見ます。
学校で習うものとは要するに、学問的知識です。それは、先人達が結晶させた知識の体系、論理の塊です。
ですから、それを理解するには当然、ある程度の知的能力が必要とされる訳です。記号の操作、概念同士の関係の把握、記憶の定着、等々。そういう意味では、心理学的な「知能」と深く関わっている、と言えます。そもそも知能検査は、教育にあたてって、知的に平均よりはずれている子どもに適切なケアを施すために作られたものである、というのを思い起こすのも良いかも知れません。
そういう意味で、今言っている「勉強が出来る」とは、知的能力の高さをある程度反映する、とは言えます。論理的・整合的・体系的知識をきちんと把握する、というのが学習の目的なのですから。
しかし、だからといってそれは、世間で言われる所の「頭の良さ」を必ずしも反映するものでは無いと私は考えます。
何故ならば、上でも書いたように、「頭の良さ」とは本質的に文脈に依存し、文脈に従って合目的的に知的能力を発揮する事が出来るか否についての評価である、と考えているからです。ありていに言えば、「意味を確定出来ない」という事です。※「勉強が出来る」も、本当はそうなのかも知れませんが、学校で行う学習というのを意識すると、一応、ある程度意味は限定出来ると考えています。
ですから、元増田のように、そもそも双方が確定された概念であるかのごとく語る事自体、すごく無理がある訳です。
元増田が主張する、「勉強が出来る」=「頭がいい」が正しいためには、「頭がいい」を「勉強が出来る」事であると「定義」し、そして「勉強が出来る」の意味を明らかにしなければなりません。そして、「頭の良さ」自体が文脈依存的概念であるから、その定義に賛成する人はそもそもいない、と私は思います。
果たして、自身が ある語でどういう概念を指しているか、それを反省的・分析的に考察しないままに、自身の認識が、まるで社会的な共通了解であるかのように看做して話を進めるのが、「頭が良い」と言えるのか、というのは興味深い所ではあります。
| 固定リンク | コメント (8) | トラックバック (1)
某ブクマ経由↓
日大のPRのはずなのに、恥を発信するのですね。素晴らしい。
YouTubeのチャンネル作成を担当した人は、もしかしたら、「これもかよ…」とか思ったかも知れませんな。
一応言っときますけど、作成にあたって、元々あるコンテンツを移すだけなんだから仕方無いだろう、とか、特定のコンテンツだけを削除するのはいかがなものか、とか、そっち方面の事情は全く考慮する必要はありません。どうでも良い。重要なのは、(YouTubeにおける)日本大学の公式のチャンネルから「ゲーム脳」の情報が発信されている、という事。
| 固定リンク | コメント (17) | トラックバック (0)
調べものをしていて、「ベネッシュ(・ムーブメント・)ノーテーション(Benesh (Movement) Notation)」というものがあるのを知りました。
身体運動を科学的に分析する文脈で紹介されていたのですが、なんでも、踊りの動きを「楽譜」のように表すそうです。参照⇒ベネッシュ・ノーテーションについて
紹介したページで動画が観られますが、そこで澤井麻奈美さんという方(@お茶の水女子大学)が、紹介しておられます。
五線譜の線を、身体の高さのラインに見立てて記録し、運動の軌跡も表せるようです(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションの基本 ⇒ベネッシュ・ノーテーションによる記録例)。また、澤井さんによれば、骨盤や脊柱の回転の角度もある程度は記述出来るそうです。モーションキャプチャデータと比較しても、整合が見られたといいます(参照⇒ベネッシュ・ノーテーションとモーションデータの比較)。
私にとってこれは、目から鱗の情報でした。このような方法は、一般的にダンス・ノーテーションと呼ばれるそうで、色々の記譜の方法があるみたいです。
おそらく、舞踊方面の方にとってはポピュラーな概念なのでしょうが(日本舞踊でも同じような方法があるとか)、そちらに全く疎い私には、ある意味カルチャーショックでした。と言うのも、このような方法は、武術の型の保存にうってつけであると考えられるにも拘らず、類似のものが見られないからです。
もちろん、私が知らないだけという可能性もあります。しかし、主に文字情報と、より具象的な画を用いて型を伝承している流派がほとんどで、ダンス・ノーテーションのごとき、高度に抽象化・記号化されて、3次元的な身体運動の情報を上手に記述してみせる、という方法は、少なくとも広く知られてはいないと言っていいでしょう(もしあれば、教えて頂けると大変ありがたいです)。
尤も、最近は、武術を研究する人と舞踊家の交流などもあるようですから、採り入れている人はいるのかも知れませんが。
いや、しかし、勉強になりました。モーションキャプチャやスティックピクチャーのデータを2次元的に不足無く抽象化して表現する、という方法自体については、思いを馳せた事はありますが、既に確立しているとは思いませんでした。動きを楽譜で表すなんてね…。
これならば、亡くなった達人の映像からモーションデータを得、それから譜面を起こして伝承や教育―学習に役立てる、という具体的な方法が考えられます。舞踊方面で、動きを科学的に解析しながら保存していこうという動きもあるようですが、おそらくこういう方法を積極的に用いているのでしょう。以前そこら辺について、ちょっと調べた事はありますが、「動きの記譜」という所にはたどり着けませんでしたね……やはり、武術以外の分野にも広く目を向けるべきだ、と思った次第。
------------
解る方向け。
たとえば、斉藤先生による31の杖や13の杖の示範の映像を解析して、それを譜面に起こす、というのが出来そうです。そうすれば、ビデオが参照出来ない場面なんかでも、学習に役立てられると思います。中国武術の套路の勉強にもうってつけな気がします。ただ、武術は相手との力学的関係が重要で、変化などもあるから、ある程度明確に規定された一人型を覚えるために利用する、というのに留めた方が良いのかも知れませんけれども。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
遅ればせながら。
![]() |
白い航跡〈上〉 (講談社文庫) 著者:吉村 昭 |
![]() |
白い航跡〈下〉 (講談社文庫) 著者:吉村 昭 |
これを借りてきました(ハードカバー版)。後、松田誠氏の本も。
今、上巻を読み始めた所。
------------
さて、脚気の話ですが。
Eijkman shared the 1929 Nobel Prize... - finalventの日記:finalvent 2008/12/20 20:03によると、
辰野・浦口からはある程度まで強い主張ができるかなと思ったのですが、難しそうですね。私が当初想定した考えは大きく訂正するというか、主張しないほうがよさそうです。
問題の発端となったエントリについても、弱い形に結論づけることになります。というか、たぶんそうしたそうした方向での結論づけをNATROMさんというかたがまとめを出されると思いますので(http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081216#c)、それを受けて一連の話はたぶん終了でしょう。
との事です。
どういう風に訂正されるのか、大変興味深い所です。そうした方向で、と言った上でNATROMさんのまとめについて触れているので、NATROMさんのまとめの方向性を予測して、自分もそれに近い主張を行うであろう、という事であるのでしょう。
そうすると、(そもそもこれが発端なのでした)Wikipediaの記述についての解釈はどういう風に変わる(あるいは修正される)のだろうか、という部分も考えますね。
詳しい説明をお待ちしています。
| 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)
誤用される「プラセボ効果」 - Skepticism is beautiful
こういうのを読んだ場合は普通、なるほど、元々はそういう意味なのか、使い方に気をつけよう、となると思うんですけど、
はてなブックマーク - 誤用される「プラセボ効果」 - Skepticism is beautiful
ここの意見を見ると、いくつか、そうでも無い意見があるようで。
私は、特に学術概念は、本来使われた意味に常に気をつけていくべきだと思っています。その上で、拡大解釈や一般化を行う、と。で、それは慎重に行われなくてはなりませんよね(だからもちろん、あってはならない、という話では無いと思います。元々の意味から全然離れて用いられている語というのはあるでしょうから)。ですから、以前、プラセボ効果についてのエントリーを上げた際に、ちがやまるさんや他の方々に色々教えて頂いて、とても勉強になった訳です(私も相当誤解していたのです)。
当然、lets_skepticさんの説明に専門的に見て突っ込み所がある、という事もあるでしょうから、それは批判なり指摘なりすれば良い訳ですね。私も一箇所指摘しました。そういう部分は議論していって互いに理解を深めていけば良い、と。
で。
プラセボ効果が定義出来る事と、プラセボ効果がどのような仕組みで起こるのか、というのは、一応別の話ですよね。何故起こるかが解らないからといって、定義出来ない、とはならない。
実際、ある現象を説明するために用いられる概念というのは、色々あるんですよね。拡大解釈の方のプラセボ効果(オーディオ、ブレスレット、燃費、等々)ってのは、lets_skepticさんも仰るように、思い込みとでも言えば良い話で。実際、そういうのをプラセボ効果と呼ぶ必要性やメリットは、と考えると、特に思いつかないです。
こんな事を書くと、言葉の意味に拘るリジッドな認識の持ち主か、と思われそうですね(文脈がどうこうとか、ブクマコメントにあるようなのを言われそう)。別に思いたければ思えばいいですけれども(←思い込み)。
私は多分、ここでも何度も、単に心理効果のようなものを「プラセボ効果」と書いてきたと思いますが、今後は慎重に使おうと思っています。いや、ちょっと前から、一応はそうしていた訳ですが。前書いたエントリーでのやり取りの時に、より意識した、というのもあります。狭い意味で用いて困る事はありませんし、他人が拡大解釈で用いているのであれば、それに応じて理解してあげれば良い。もちろん、拡大解釈である、あるいは誤用である、というのを指摘していくのもいいと思います。
------------
個人的には、統計学において、標本に含まれるデータの数を「標本(サンプル)数」とは呼ばない、というのを広めてきたい次第であります(正しくは、「標本(サンプル)の”大きさ(サイズ)”」)。
------------
自分の用法例。
それはともかく、水伝批判に対する反論として、全くのフィクションである浦島太郎を持ち出したり(”浦島太郎は、海に潜った時点で溺死してしまう。”なんて、唖然とします)、二重盲検法を出して、「意識が”結果”に左右」するなどと言うなんて、ナンセンスでしょう。二重盲検法は、プラセボ効果という心理的効果を考慮したもので、言葉の意味内容が物質に直接作用するという説とは、全然異なるレベルの話です。
さあ、突っ込み給え。
て言うか、記事検索しても、一件しか出てきませんでした(含む「プラシーボ」)。そんなに書いて無かったのか…。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
おなじみの(嘘)覚書からの抜粋。少し書き換えてあります。
模型
非常に繊細で、根気の要る作業であり、集中力を試されるものである。
書道等と違って、リカバリーできる幅が広い。寧ろ、それがどの程度妥協無く為されるかが、最終的な完成度に大きく関わってくるので、非常に重要であるといえる。とはいえ、失敗せずに作業する方が、遥かに作業効率が良いので、失敗しない様集中力を高め、慎重に行う必要がある。ちょっと考えるだけでも、ヤスリの当て方、接着剤の塗り方、貼り合わせ、パーツについたホコリの除去、パーツにホコリがつかない為の管理、乾燥時間、塗料の希釈度、ハンドピースのケア(ニードル、ノズル、洗浄)、塗装時のエア圧、ニードル開度、パーツとの距離の関係、キャップの汚れ具合、失敗時のリタッチ、スジ彫り、面出し、等々…。
と、ある程度のレベルの作品を創り上げるだけでも、これだけの多くのことに気を遣い、注意を払いながら、作業をしていかなければならない。「力任せ」では絶対に出来ない。生力に頼って乱暴に投げ捨てる武術家諸氏に見せてあげたい。
左手で、不安定に持ち手につけられたパーツを保持し、右手で、カップのフタをつけていないハンドピースを操り、細かい塗装作業を行う、これは非常に高度な運動である。持ち手、パーツ、ハンドピースの重心を捉え、ハンドピースをミリ単位以下で操作していく。左右の手は全く独立した運動を行うので、身体を割ってつかわなければならない。ハンドピースは、塗料の噴出口の位置を数ミリ単位で変えることが必要なので、ベストをつかわないと、正しく操作ができない。
この様に、模型製作は、非常に高度な認識・身体運動が要求される文化である。もとより他文化も同様ではあるが、ある程度のレベルまで達することが難しいということである。例えば、「ホコリの全くついていない作品を完成させる」といわれた場合、これはかなり困難なことである。しかし、ホコリが少しついているだけで、それが非常に目立ち、作品に対する評価は著しく落ちることになる。指摘されると誰もが容易に、欠点を視認することができるということである。料理等では、下拵えが多少雑でも、味つけが大雑把でも、「美味しい」という評価を受けることがある。偶然味付けがうまくいった、ということがあるのである。一方、「汚れのついていない模型が偶然陥穽した」とか、「偶々表面処理で美しい面が得られた」等ということは、絶対に(と言って良いだろう)有り得ないことである。
この頃、自分がやっている事の構造を分析的に把握して、何でも身体運動や武術と関連づけようとするのが流行っていました。私の中で。
それにしても、書いてある内容の微妙な事よ。
唐突に武術家諸氏の話が出てきているのは、多分そういう年頃だったのでしょう。模型についての分析は、別におかしな事は書いていないかな。料理との対比はおかしいですが。自分も料理やるのに、なんでこういう風に比較してるんでしょうね。模型を作る、というのに塗装や継ぎ目消しを含意させている、というのがそもそも変ですな。
久しく模型はやっていませんが(どうせ一生やるから、後回しにしている。環境的にも難しいし)、実際、片手でパーツを持って、もう片手でハンドピース(いわゆるエアブラシってやつです)を操作するというのは難しいのです。フタを開けたまま細かい操作をするとなると、たぷたぷしてる塗料が零れないようにコントロールしなくちゃならない訳ですね。それで、塗料が出る所は0.5mm以下ですから、それを微細に動かすには、バランスよく身体を使う必要があります。手先を使っちゃいけないというのは、武術と一緒でしょう。
どういった文化でも、目標の設定の仕方によって難度が変わってくるんですね。模型で言うと、素組みするだけなら簡単。料理でも、食べられるゆで卵を作るとか、インスタントラーメンを作るとかは簡単。
でも、継ぎ目を完全に消した鏡面仕上げをする、というと難しいし、油っぽく無いパラパラチャーハンを作る、となると難しい。模型にしろ料理にしろ、それは単純な作業を指す言葉では無く、様々な方法や技術を含んだ文化なので、観点が色々ある訳です。
まあ、そんな感じです。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
| 数理心理学―心理表現の論理と実際 (心理学の世界 専門編) 著者:吉野 諒三,山岸 侯彦,千野 直仁 |
この本を読もうとした……が、難しすぎて撃沈した。
いや、数学に親しんでいる人ならば、さほど手ごわいものでは無いのでしょうけど…。
やっぱ、分野を問わず、ある程度の数学理解は必須だろうな、と思います。
実証科学方面だと、少なくとも統計学は知っておかないとね。で、どこまで知っておけば良いか、と言うと、構造を理解するには数理統計学的な所まで踏み込まざるを得ないだろうから、それを勉強しようとすると、当然他の分野の知識も関わってくるのですな。
結局、高校で習うような数学が、基礎としてどれほど重要であるか解ってきて、後悔する。これを、after carnival と言います。
勉強勉強・・。
余談。
| 固定リンク | コメント (7) | トラックバック (0)
さっき思い出しましたよ。
このブログ、多分、今日で3周年です。
わーい。
それにしても、よく、ほぼ毎日書けるものだ。
それにしても、よくこんなブログを読んでくれるものだ(ツン←誤用)。
いや、実際、読んで頂いて、本当にありがとうございます。皆さんのお陰で成り立っているブログです(デレ←誤用)。
コンゴトモ ヨロシク・・・
| 固定リンク | コメント (28) | トラックバック (0)
第6章の続き。
§3 相関仮説の検証の例
先に出た「仮説A」、つまり、「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」を例にとって説明。
▼質問紙の作成
青年を対象にし、現実自己と理想自己を測定する質問紙と、向上心の強さを測定するための質問紙を作成。
現実自己と理想自己――「他人のミスに対して寛大である」などの「よい」特性を表す項目20個を、4段階で評定。得点の範囲:20~80点。
「よい」特性を表す項目だけだと、「当てはまる」と答える人の得点が極端に高くなる可能性があるので、「悪い」特性(「気が短い」など)も適度に交ぜる。悪い特性は、点数を反転させる(「当てはまる」→1点)。そのような項目を、逆転項目と言う。
向上心――「何か失敗をしたときは、よく反省して次には失敗しないように心がける」などの項目10個。5件法(5段階)で評定。
▼被験者とデータ
被験者:ある大きな大学の新入生からランダムに選んだ100人母集団は、ある大きな大学の新入生全体
上の質問紙3つを被験者に実施する。量的調査のデータは、「被験者×変数」の形式の一覧表にまとめられる。※「×」はクロスって事です。この場合、縦にAさん、Bさん(あるいは割り振った番号)…を取って、横に現実自己・理想自己・ギャップ・向上心の点数を書いて表にする。
▼データの分析と結果の解釈
変数間の相関関係の強さを、相関係数という統計的指標によって表現出来る。
相関係数
今見ているのは、ギャップが大きい人ほど向上心が強い、という仮説だから、ギャップの値と向上心の値との相関係数に着目する。ここでは(本書の架空のデータ)、0.52(本書では0が省略されていて、.52となっていますが、ブログでは見にくいのでつけます)という正の値。0を省略して書くか、とかは、論文の投稿の規程とかにもよるらしい。省略しない方がいい、という意見も見ます。
ギャップの値と向上心の得点間の関係を、散布図で図示出来る。参照⇒散布図
点が、右上がりの直線の近くに集中していれば、相関係数が大きくなり、全ての点が直線上に一列に並べば、最大値の1になる。散布図が右下がりであれば、相関係数は負の値になる。ここで解るように、この文脈で言う「相関係数」は、「直線的な関係」を見るもの。それを、「ピアソンの積率相関係数」と言います。ピアソンは人の名前。だから、曲線的な綺麗な関係があっても、この相関係数はあまり高くならなかったりします。
相関係数がいくら以上であれば、仮説が支持されたと考えて良いか?
→仮説自体が、「正の相関関係がある」という大雑把なものなので、問いに明確に答えるのは困難。
→心理学の研究でしばしば用いられる基準――得られた相関係数が統計的に有意か否か。←この基準による判定の手続き:統計的検定(第9章参照)
ちょっと触れます。この場合の統計的検定は、
「母集団において相関関係があるか」となります。
で、仮説は、
「母集団において相関係数は0である」
とします。そして、母集団から標本を採ってきて(ここでは、大きさ100)相関係数を計算して、
「母集団で相関係数0だとしたら、標本でこんな値が出るのはどのくらいの確率よ?」
というのを計算します(確率論によって)。で、その確率が前もって決めていた値(たとえば5%)より小さければ、
「こんなに小さいんだから、母集団でも相関係数は0じゃ無いに違いないぜ!」
として、最初に立てた仮説、つまり「母集団の相関係数は0である」という仮説を棄てます。
ちなみに、上に書いた、「前もって決めていた確率」より小さい場合、それを「統計的に有意」である、と言います。
§4 相関係数および関連する統計的指標
▼共分散
相関係数→共分散という、2変数間の関係を表すより基本的な指標を用いて定義される。
共分散の求め方。
変数xの相加平均を求める。いわゆる平均値です。
変数yの相加平均を求める。
変数間に正の相関関係があるとは――ギャップが(全体のギャップの)平均より大きければ向上心も(全体の向上心の)平均より大きく、ギャップが平均より小さければ向上心も平均より小さい、という関係。
→各被験者について、値と平均値との差を取る:「ギャップの値 - ギャップの平均」と「向上心の値 - 向上心の平均」これを、「(平均からの)偏差」と言います。たとえば、平均60点のテストで85点取れば、偏差は+25。50点だったら、偏差は-10
→正の相関関係があるならば、「ギャップの値 - ギャップの平均」と「向上心の値 - 向上心の平均」を掛け合わせた値は正になる、つまり、「正×正」または「負×負」一方が平均より高いのにもう一方が低ければ、プラス×マイナスで負数になる訳ですね。で、それを足し合わせれば、相関関係がどうなっているか解る。
→全ての被験者について掛け合わせた値を出し、それを足し合わせる。下の公式の分子です。これを、「偏差積和」と言います。偏差 積 和 つまり、xとyの偏差を掛け、それを全部足す(総和)。だから、「偏差積和」そして、それを平均する(被験者の総数で割る)。データ数で割らないと、データ数が増えるほど値が大きくなる。
↓クリックで拡大
Sxy:(変数xとyの)共分散 ※ここでは、xはギャップ、yは向上心
正の値であるから、正の相関関係がある事が判る。
共分散を解釈しやすいように加工した値が相関係数。→その加工のために、標準偏差という別の指標が必要。
▼分散と標準偏差
同一変数の共分散を求めたもの:分散
左辺が分散。
分散は、ばらつきの指標になる。つまり、平均から離れているものが大きければ、分散の値も大きくなる。
共分散では、分子は「偏差積和」でした。分散では、「偏差平方和」と言います。何故かって? 偏差 平方 和 だから。「積」が「平方」になっているだけですね。同じ変数で平均からのずれを掛けるので、それは平方、つまり2乗になります。上の公式に出てますね。偏差積和と同じように書くと(xの平均をmとする)、
(32 - m)(32 - m) + (9 - m )(9 - m )……(30 - m)(30 - m)
となるのですね。だから、「同一変数の”共分散”」が分散になる訳なのであります。
分散の正の平方根:標準偏差
Sx:標準偏差
上に書いてあるように、最初に2乗したから、それを開いてやります。そうで無いと、単位が変わります。何故2乗するか、というと、平均からの偏差(ずれ)をそのまま足し合わせてデータ数で割ると、0になってしまうから。
向上心の標準偏差=4.00
▼相関係数
共分散を、それぞれの変数の標準偏差で割る。
r:相関係数――分子:xとyの共分散 分母:xの標準偏差とyの標準偏差の積
今の例では、
r = 16.73 / ( 8.04 * 4.00 ) = 0.52
従って、ギャップと向上心との相関係数は0.52になる。
なぜ相関係数を用いるか。
▼統計ソフトウェア
色々あるよ。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
dankogai氏の所とか はてブ界隈とかで、血液型性格判断関連の話題がちょこちょこ出てますね。
で、眺めていて思ったのが、これはこうなのかも、と思ったのをコメントとかで書いているけど、その先を考えていないのがあるなあ、と。
□型はどういう性格で……という知識を持っていたらそういう性格に近づくかもしれない、的な推測とかですね。
実際、心理学者は物凄く調べている訳ですよね。ちょっとググれば、WEBでも結構情報が手に入る。多分その疑問への答えは既に出ているよ、というような疑問が見られました。
私自身は、kikulogの「血液型と性格」シリーズを追っていたら、いつの間にか色々な知識を得ていたようです(それまでにも色々考えてはいましたが)。あそこは、約一名(たまにゲストが登場)による凄まじいノイズがあるけれども、血液型性格判断にまつわる様々な論に関して議論がされているので、一見の価値はあると思います。
上に書いた、多分その疑問への答えは云々、というのは、きくちさんが書かれている事でもある訳ですが。
ああ、やっぱり、血液型―性格 の連関はどのくらいか、というのと、血液型性格判断を分けて考えられていない方も散見されますね。これは非常に重要な論点なんだけどなあ。
| 固定リンク | コメント (17) | トラックバック (0)
第III部 量的調査の方法
○第6章 量的調査による仮説検証(南風原朝和)
§1 量的調査の特徴
▼データ
量的調査の「量的」――基本的に、データの性質をあらわす。
量的データ――知能検査の得点や性格検査における外向性、協調性などの得点のように、数値の大小によって個人の特徴をあらわすデータ。
※どの政党を支持するか、といった本来質的なデータも、集計して数量に(政党支持率など)まとめられるので、「研究法の文脈では」量的データに分類される。統計学では、性別や政党支持などのデータは、質的データと呼ばれる。尺度水準の話。性別や政党支持などのデータは、名義尺度であり、従って質的変数という事です。量的/質的 研究法の文脈ではひっくるめて「量的データ」と分類する、という意味。質的研究法との対比。
変数――個人ごとに特定の値(あるいはカテゴリ)をとるもの。あらかじめどの変数についてデータを収集するかを決めた上で調査に取り掛かる。
量的データは、データの量の多さでは無く、数量によって個人や集団の特徴をあらわすという性質を意味する言葉。場合によっては一人の被験者だけを対象にしてデータを採る。定量的に測れる、と言っても良いかも知れません。
▼研究の目的
主に、あらかじめ設定された仮説を検証する目的で実施。探索的な研究のために実施される場合もある。多くは仮説検証型の研究で用いられるという事。
▼データの分析
通常、2つ以上の(場合によって100を超える)変数について、多くの被験者に関するデータを収集。
主として変数間の関係という観点から分析。例:
統計的方法を用いて分析される。
量的調査を実施して結果をまとめるためには、統計学に関する基礎的な知識が不可欠。絶対必要
§2 量的調査で検証される仮説とその検証
▼相関仮説
今挙げた仮説(「家庭にある本の数」云々)を統計的に捉える→ある集団において、一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値も大きいという正の相関関係を表現したもの。※一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値は小さいという関係――負の相関関係次回、散布図とか出てきます。
集団における相関関係を仮説としたもの――相関仮説
例:
▼共変仮説
「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」(仮説A)――相関仮説→集団を前提。ある一時点における関係(静的な関係)を表現。ある人がギャップと向上心という2つの変数を持つと考えて、集団の傾向を見る。そして、2つの変数に相関関係があるか調べる。
「人」を「時」に替える。
「現実自己と理想自己のギャップが大きい時ほど、向上心が強い」(仮説B)――共変仮説――一人ひとりの個人に対して適用出来る。時間の経過の中での変数間の個人内の共変関係をあらわす。
共変関係の直接的な検証――同一の個人について、時間をおいて繰り返しデータを収集する必要がある。1回限りの調査では原理的に検証不可能(相関仮説は可能)。時間的な変化を縦断的に見なくてはならないから、一時点を切って検証は出来ない、という事ですね。集団的な関係を見る相関仮説の場合は、横断的に時間を切るから、一回の研究で確かめる事が可能。
▼因果仮説
「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」(仮説A)
「人ほど」→「から」 表現を少し変える。
→「向上心が強いとしたら、それは現実自己と理想自己のギャップが大きいからである」(仮説C)
現実自己と理想自己のギャップの大きさ(原因)→向上心の強い弱いが決まる(結果)――因果関係を意味――因果仮説
因果仮説の直接的に検証するのは極めて困難。かりに仮説Aと仮説Bがデータによって支持されたとしても、それだけでは仮説Cの因果関係が示されたとは言えない(逆向きの因果関係でも説明出来るから)。因果関係をどう証明するかは、科学の根本の問題なのだと思います。科学哲学にも絡んでくるのでしょう。疫学の方法も参考になるでしょう。
仮説Cと正反対の因果仮説(例:向上心が強い時に、それが原因となって理想自己を押し上げる)のような、主張したい因果関係以外の説明や解釈が成り立つ可能性を論理的に、あるいは何らかのデータに基づいて弱められれば、その程度に応じて、主張したい因果関係が支持される事になる。逆向きの因果関係を否定して、そもそも検証したい因果関係を支持していく、という論理ですね。
相関仮説や共変仮説の検証――因果関係が正しいための必要条件のチェックという意味がある※因果仮説が正しくても、データの妥当性が低いなどで相関関係や共変関係が確認出来ない場合もあり、厳密な意味での必要条件のチェックにはならない。妥当性や信頼性については、後で出てきます。
次回へ続く。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
子どもを拘束してしまうのは、社会だ。正しい身体運動を、体でも心でも全く認識していない者が、間違った拘束的な認識に従って、教育を施してしまうのである。そして恐ろしいことに、教育者は、自分が間違ったことを教えてしまっている等とは夢にも思っていないのだ。否それどころか、彼彼女は、自分達が手塩にかけてガチガチに固め造り上げてきた「作品」を眺め、その見事な完成度に満足さえしているのである。
どこから見ても、「わが流派の最高師範」が口癖の人が書いた文章ですが、実はこれ、自分が書いたものです。
先日、poohさんの所で、自分がゲームを嫌っていた事、それを愛好する人を見下していた事、を書きました。ここでも何度か話題には出しましたが、自分がゲームについて以前どういう事を考えていたか、というのを、覚書から引っ張ってこようと思います。
25年前からゲームをやってきた人間が、何故それを嫌悪するようになったか。それは個人史的な問題なので詳しく書く事はしませんが、ゲームについてどう思っていたかを書いてみるのは、それなりに意味があるかも知れません。
なお、ここに引用するものは、ゲーム嫌悪が完全に解消された後のものですが(なので、嫌悪していた内容はほとんど無いかも)、文献や先行研究を無視した思い込みの激しい考え、という事で、載せてみます。引用の順序は時系列に従わないので、ご了承下さい。
「ゲーム脳の恐怖」という本を読んだ。非科学的な人間が科学者になれるのだ、と思った。
強烈ですね。本当の所は、よく知らない分野について手を出したら大変な事をしでかしてしまった、という感じなのかも知れません。
TVゲームの問題点
非身体運動的であるという点。記号管理的文化の最たるもの。
ゲームとは
文化として見ると、様々な文化を(記号的)部分的に包含する。TVゲームを、人間とTV画面と操作系の三項関係と見ることが出来る。この「操作」という概念が重要(必要条件といえるだろう)。
記号管理的というのは高岡英夫氏の概念ですね。両方について、もうちょっと洗練させたかたちでここに書いていますね。初期のエントリーで。ゲームの論理構造の記述としては、さほど間違ってはいないと思います。
高度な身体運動を体現することがないと、絶対にクリアできない様なTVゲーム(たとえば、フリーフルクラムが出来た時だけ先に進める)というものは、論理的には考えることができる。しかし、技術的にも経済的にも(少なくとも現在においては)不可能。
TVゲームの宿命的問題点
働きかける対象が、「TV画面」であるということ。視覚的・聴覚的存在であって、絶対に体性感覚的存在では有り得ない。操作系は部分的には身体意識的。
この頃は、Wiiやバランスボードが出るなどとは夢想だにしておりませんでしたよ。前者は、ここでもたまに書きますね。と言うか、バランスボードが出る前に書いてた訳ですけど。後者は分析が荒い。自分でも、「存在」をどういう意味で使っているか不明確。まあ、身体に触れられたりするような情報は無い、という事で、基本的にはゲームの特性として見ても構わないとは思います。
実際に、TVゲームを通して、(「物語性」という部分を持っているから)「命の大切さ」や「思いやり」を持つこと、学ぶことはできるのである。当たり前だ。絵本を読んだり小説を読む、あるいは良い映画を見ること等と、同じことなのだから。
従って、なすべきことは、当該文化に内在する有益性・問題点を分析解明し、それを正確に記述することなのだ。特に、その文化に固有の特性を見出すこと。それが非常に重要なのである。
なんか、めちゃくちゃいい事書いてるじゃないか(笑) まあ、ここら辺が、このブログを書く動機に繋がってきている訳ですな。このスタンスは今も保っているつもりです。
「リセットして人生が初めからやり直せる」という認識について。
責任の押しつけ――正常に生活していれば、その様な価値観が形成されないという可能性。
昔の子供はその様な考えを持たなかったか?――言葉が違うだけで、同じ様なことを思っていたかもしれない。
前者はちょっと解りにくいですが、ようするに、色々な経験をして、生活の時間配分等に無理が生じていなければ、文字通りに「リセット」して云々という認識には至らないのではないか、という推察です。後者は、ゲームが無い昔の人も、人生をやり直す的な認識を持つ事はあったかもよ、という話。
ここまで、2002年頃に書いたもの。
っと、ここで、2003年に面白い事を書いているので、ちょっと番外編。
「頭の良い人」≒「メタ」な認識を持っている人。
メタを装う人→メタであると思い込もうとする。実は非常に排他的。学問的認識を中途半端に持っていたりするのでたちが悪い。
めちゃめちゃ吹いた。今も結構言ってる事じゃないか。
メタはスタート地点ね。
ここから、2005年頃に書いたもの。ブログを作るちょっと前かな。
TVゲームに影響されて殺人を犯したのだ、という主張。
それはそうなのかも知れない、と考える。しかし、「だから?」とも考える。
人は、あらゆる環境に様々な影響を受けるのだ。
例えば、バイオハザードをプレイして暴力衝動が喚起され、人を殺めたとする。←これはとても個人的なことである。この様なことがあったからといって、では販売規制をするか、というと、それは待て、と思う。
基本的には今と同じ、なのかな? ちょっと荒い気もするけど。
川島隆太さんへ
あなたの実証実験に不備は有りませんか。極く少数の実験結果を、一般化し過ぎでは有りませんか。具体的な機序は解明されたのですが。コンピュータゲームに関して研究されましたか。社会科学の勉強をされましたか。
強烈に恥ずかしい。多分これ、脳トレの本で、ゲームやっている時のPETの画像かなんかが載っていて、それについての解釈を読んで怒った、というのだったと思います。川島氏のゲーム理解が怪しいと思うのは今もそうだけど、科学に関しては理解不足だなあ。
また番外編。これはマジで面白い。
実験科学的方法を順守しようとするならば、フロイトも、ユングも、高岡も、全て疑似科学のカテゴリーに押しこめられてしまう。
これはなんというニセ科学批判批判風。もちろん、ニセ科学という概念を知らない頃です。
やばい、これも面白い。今、はてな辺りで書いたら、ブクマつきまくる事必至。2002年初めの頃。
反証もできないのに、「非科学的」という評価を下す者は、自身が最も非科学的なものの見方をしているのだということに気付いていないのである。
甘いぜ、自分…。
と、こんな所か。うーん、そもそも武術系の覚書なんで、ゲームについて書いているのは少ないのは当たり前ですけど、もうちょいネガティブな事も書いてたような気がするんだけどなあ。
まあ、自分の科学についての認識の変遷も発掘出来たので、よしとしましょうか。
ゲームを嫌悪していたと言いましたが、具体的には、ゲームによって凶悪犯罪に走る奴もいるだろうな、とか、ゲームがコミュニケーションを断絶するツールになるだろうな、とか、大人になってゲームをやる奴は幼稚だ、とか、そういう感じでした。なんか、書いてて頭が痛くなりますが…。覚書をつけ始めるより前なので、やっぱり記録はしていないみたいです。振り返って書いたものがあったかもな、と思ったのですが、ありませんでした。
認識が凝り固まっていた訳ですね。色んなもののせいにしたり、直感を一般化したり。おぞましいものですよ、そういうのって。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (1)
もうちょっと続くみたい。一応、finalventさんは、追記を進めているようです。
さすがに関心が持続している方は少ないのかも知れませんが、エントリーを作ります。コメントがあればこちらへどうぞ。
| 固定リンク | コメント (37) | トラックバック (1)
ゲーム脳はしぶとい。
学校の先生が授業で使おうとしたり、香川県議会議員が勉強会に森氏を呼んだりね。
別に調べていない訳じゃ無いんですよね。だから、「批判もあるが」的な言い方になる。
でも、中身をちゃんと確認していないんでしょうね。
まあ、直感を補強するような情報を選択的に採り入れる、というのは往々にしてある事です。むしろ、それがニセ科学を信ずる心性の本質的な問題、とも言えるかも知れません(ニセ科学を信じるかどうかは、論理的にものを考える事が出来るかどうかとは一応別の話、というのはそういう事です)。
要するに、冷静に情報を吟味する所に持っていく事がそもそも難しい、と言うか。
誰にだって、何でこんな考え持ってたんだろう、という経験、ありますよね。バイアスってのは非常に強力。
本当は、そういうバイアスを失くすように誘導していくのが重要なんでしょうね。
もちろん、議員が肯定的に採り上げている、という場合だと、強く批判されてしかるべきでしょうが。バイアスがあろうが無かろうが、そんなのは関係無い。調査不足としか言いようがない訳で。「ちゃんと」調べなかった、は通用しない。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
404 Blog Not Found:もはや心理物理学 - 書評 - 心の脳科学
これは、「敢えて」書いてるんですかね。
いや、何の話かと言うと、「心理物理学」の事でして。
つまり、dankogai氏が、学術概念(あるいは分野)としての「心理物理学(精神物理学)」という語をそもそも知っていてエントリーを上げたか、という話であります。
要するに、それを知ってて語を出したのか、それとも、神経科学の方法を「物理学」のアナロジーとして捉えて、「心理物理学」を「思いついた」のか。
私としては、フェヒナーによる精神物理学の研究を知っていたとしたら、ああいう風に使うのは難しいと思うので、後者じゃないかと思ってます。「もはや」とか「むしろ」というのは、アナロジカルに思いついたというのを強調する表現なのかな、と。「呼ぶべき」もですね。
心理学史や心理学入門の本で精神物理学が触れられていないというのはほぼ考えられないと思うので、知らないのは変な気もするんですけどね。
ちょいと、大山・上村 (編著) 『心理学史(’98)』から抜粋してみましょうか(P47 この章、大山正による)。
<精神物理学>という珍しい名の学問は,フェヒナー(G.T.Fechner,1801-1887)によって19世紀半ばに提唱されたものである。今日,心理学の中の一つの研究領域ないしは研究方法として,その名を残している。一方,フェヒナーの名は,実験心理学の成立に大きな影響を与えた人として,また<フェヒナーの法則>の提唱者として心理学のテキストに広く記されている(図4-1)。
て言うか、普通、言葉を思いついたら、ググりませんか? それに、dankogai氏はWikipediaにリンクをよく張る方なんで、精神物理学←こんな感じのが貼ってあっても良さそうなのに。やっぱわざとか? いや、わざとやる意味が全く解りませんけど。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
○第5章 質的調査の実際と研究評価(下山晴彦)
§1 質的研究法のタイプ
質的調査――言語記述を中心とした質的データによる研究
質的研究――様々な種類の研究法が提案→研究法の分類に混乱も見られる
質的研究法の分類の枠組み――研究過程を軸/研究テーマを軸
研究過程のおおよその進行(相互に重なり合って進行)
研究テーマ
§2 質的調査の実際例
▼質的調査の過程 ▼研究の概要:病院内学級における教育実践のエスノグラフィー
※ここでは、谷口明子氏の研究(『質的分析によるアプローチ』 大村 (編) 『教育心理学研究の技法』 福村出版 2000 に所収)を例に、質的調査の流れを紹介。まとめは省略します。
§3 質的研究の評価
▼質的研究法への批判
方法や結果のあり方についての疑問や批判
↑量的研究法の観点からは、このような批判が見られるのは当然。
しかし、第3章で指摘したように質的研究法は,量的研究法とは異なった独自な方法論に基づいている。むしろ,研究についての理論的背景の相違を考慮するならば,両者を混同して考えること自体に問題があるといえる。
▼社会構成主義の考え方
量的研究法――唯一の客観的事実の存在を前提→客観的事実に関する理論(法則)を証明するために仮説を立てる→客観データによって論理的に検証。
質的研究法の理論的背景――社会構成主義(social constructionism)
社会構成主義――唯一の客観的事実というものを想定せず、社会的現実は人々の語りや交流から生成する相対的なものとみなし、その生成過程を記述し、そこから現実を具体的に理解するためのモデルを構成。
ここら辺の比較・対置は、私には非常にしっくりこないものがあります。
いずれも現象を整合的・論理的に説明するためのモデルを作って確かめる、という方向性を持っているはずで、そこに「客観的事実の存在」についての立場の違いを持ち出す理由が、よく解らないのです。と言うか、あるモデルで現象を説明するという立場を採る以上、それは少なからず客観的な構造を仮定しているのではないのかな。
▼質的研究の評価基準
§4 おわりに
比較的新しい研究法→研究の手続きや評価の仕方について、はっきりと確定した基準が確立している訳では無い。
量的研究法では把握しにくい現象を記述、分析するのに適した方法であり、今後の心理学研究方の可能性を広げるものとして期待。
質的研究法と量的研究法を組み合わせた統合的な心理学研究を発展させる事も可能。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
ここ数日、ゲーム脳Q&Aのアクセスが、少し多くなっているようです。
多分、きっかけとしては、あの先生のブログ(事情をご存知で無い方は無視して下さい)での出来事があるのだと思いますが、アクセスログを見てみると、Yahoo!やらgoogleやらからのアクセスが結構ありました。
それで、ちょっとググったりヤフったりしてみたんですが、「ゲーム脳」で検索して上位に出るようになってますね、いつの間にか。
自分が書いたものとしては珍しく、なるだけ多くの人に読んでもらいたい、と思っているものなので、少しでもアクセスが増えているのは嬉しい事です。
知恵袋での紹介も大きいですね。ホント、紹介してくれでありがとうです。深謝。
参考までに ※クリックで拡大
↑2008年11月
↑2008年12月
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
戦闘状態における「掴み」というのは、おおまかに2種類に分けられると思います。
即ち、
前者は、とにかく相手が動けないように思い切り掴む訳ですね。体力差があれば、半端に動いても何の意味も無い。試しに、腕を差し出して両手で掴ませて、「この場所から絶対に動かさないように持っててくれ」と教示して、それを崩そうとしてみて下さい。※両手の脈の部分をギリギリ合わせるように掴ませる(剣の把持の要領)と、より難しいです。
その程度でも、ほとんど動くのは不可能なはずです。友好的な相手でもそうなのですから、積極的に害を与えようという人間が死に物狂いで掴んできたものを崩すのがいかに困難か、想像するのは容易でしょう。
後者は、より高級な掴み方。
実は合気道の諸手取り(両手で相手の片手を掴む)というのは、正面打ちからの展開だったりします。逆側の手での突きも蹴りも入らないポジションに位置取り、持たれた手を動かそうとしてもびくともしないような力の出し方をします。
解ってくると、前腕にはほとんど力を感じないのに全く動けない、という状態に相手を拘束する、というのも可能。手はセンサーの塊なので、ギリギリの筋力発揮で前腕を把持し、動かそうとする相手の動きや力を敏感に察知し、それに応じて全身の筋肉を協調的に連動させるのが重要。※昨日のエントリーで、柳川氏の概念(受動筋力)を援用しましたね。なかなか有用な概念だと私は思います
一段低級なレベルとしては、全身を一塊の銅像のごとく固める、というのがあります。全身の関節を溶接してぎっちぎちに固めた掴み方、というモデルを想定するとイメージしやすいでしょう。
そして、掴んだだけでは終わらず、そこから別の技に展開する事もある訳ですね。三教・四教など。大東流なんかでは、「掴み手」といってそれ自体が技法として対象化されているのでしたっけ?
そういうのを踏まえて、昨今の「護身」と称する何ものかを眺めてみると、実に中途半端と言わざるを得ませんね。complex_catさんが仰るように、切迫感・緊迫感がまるで無いですし、技法としても非常に稚拙。
極めて好意的に見ても、奇跡的に相手が超弱かったりした場合に何とか撃退出来る、という程度の効果しか無いでしょうね。
尤も、本気でやっている所は表には出にくい、というのはあるかも知れませんが。いずれにしても、中途半端なものが広まってしまうのは、あまりよろしく無いでしょうね。
------------
ちょっと「受動筋力」をググってみたのですが、どうやら学術的概念としてもそれが存在する模様。不勉強でした。
色々な人が同じ語を用いているようです。同じような概念で用いられているのかは判らないですが、私が書いているのは、空手の柳川昌弘氏のものの援用として解釈して下さい。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
はてブ経由で護身術的な何ものかを観たりして、前から考えていた事を書こうと思いました。
合気系の武術の映像でも、護身術でもいいんですが、掴まれたり掴み掛かられたりするのを崩す技ってありますね。
で、頻繁に見かけるのが、「掴み方」に全く無頓着であるもの。
掴み方も技術ですよ。全く相手が動けないように掴もう、という志向が無いと、掴みも上達しない訳です。
ヒントとしては、空手の柳川氏が用いる概念の「受動筋力」(※学術概念では無い)を使うのが重要なんですが、ちと解りにくいかもです。
まあ、要するに、相手を動けなくするために重要なのは、「手」では無いって事です。肩・背中・腰・脚を上手にコントロールしていく訳ですね。
いくら握力で思い切り掴まれていても、肩が疎かなら簡単に崩せる。そういうのを崩して技が出来ている、と思い込むのは頂けないのですが、しばしば見られる。
掴むってのも、それほど簡単じゃ無いんですね。それを心得ておかないと…。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
○第4章 質的データの分析(能地正博)
§1 質的データ分析とは
よく名前が挙がる伝統的方法
分析手続きが比較的細かく明示されているもの、大部分が分析者に任されているもの、がある。
データ収集と並行して分析が行われるもの、収集後に行われるもの、がある。
概略が載っているが、図なので省略。
§2 分析に着手する
分析の初期――データの読みとデータの概念化(コード化)の開始が中心の作業。
▼データの読み
質的データ――主に記述的な形。それを何度も読む→文脈に気付くという機能。状況的文脈・社会的文脈・歴史的文脈。
▼概念化の作業
ちょっとまとめにくい…。ここら辺とか参考になるのかな⇒データ分析
概念化(コード化)データの内容に名前をつけたりする。名詞でも短文のかたちでも構わない。
§3 データ間の関連を探る
データに与えられたコードを整理し、その関係が探られる。
▼概念間の構造的/過程的関係の抽出
内容的な類似性に注目→まとまりに名前(高次のコード)をつけてさらなる概念化。
▼概念間の関係の「検証」
抽象的なので、ちとまとめにくいです。抜粋するしか無い。よって省略。
§4 データを再統合する
▼統合の核
リサーチ・クエスチョン(研究設問)が明確に言語化されているかを確かめる。
データに即したかたちでテーマが焦点化され、リサーチ・クエスチョンが確定していく。
コードのまとまりが複数存在→統合の核になるようなものが選択、コードの全体を横断的に再編成できるような包括的概念が構成。
▼仮説・モデルの提示
重要概念――メンバーチェック
§5 おわりに
省略
------------
この章、具体例が示されずに概略が紹介されているかたちなので、整理が困難でした。抜粋しても、ちょっと抽象的で解りにくいと思います。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
「科学ってのも、信仰の対象になってる感があるね。最近のニセ科学批判者の言動を見ていると、ある種の狂信性を感じる事もあるよ。」
「ほう。確かに、人間は何でも知る事は出来ないから、信じるという面では、たとえば宗教を信じるのと同じような所はあるかも知れないね。ただ、似ているからといって、大部分が同じな訳でも無いと思うのだが、どうだろうか?」
「というと?」
「自動車の運転免許でたとえてみようか。我々は、そこら辺を走っている車に乗っている人が免許を持っている事を信じているね。中には無免許運転の愚か者もいるだろうが、基本的にはそれは、少数の例外として考える。
それで、免許を持っているという事はつまり、その人が、運転の技能が一定以上に達して、公道で運転出来ると一応判断された者だ、というのを示している訳だ。そして我々は、一々車を運転する人の技能を確認する事無く、大部分の運転手が免許を持っていて、最低限の技能もある、と看做す訳だね。」
「うん、確かにその通りだ。わざわざ、走っている車の運転手が免許を持っているか、というのを一々疑うなんて、そんなの非合理だし、その前に不可能だよ。」
「そうだね。実は、科学も一緒なんだよ。」
「ほう。それは興味深いね。」
「うむ。科学というのは、実験や観察で得られたデータを色々処理して、そして、理論なり仮説なりが成り立っているか、というのを確かめる訳だね。
それで、その研究がちゃんとしたものかどうか、というのを審査する。これを査読というのだが……まあ、厳密には違うが、教習所でハンコを貰うようなものだね。坂道発進でエンストしたらハンコは貰えず、もう一回やり直し、となる訳だ。」
「ああ、私も坂道発進では苦労したものだよ。いや、それ以上に、クランクでは見事に脱輪したものだ。お陰で修検も一回落ちたよ。試験を受けるのにも結構な額が掛かってね。なかなかにショックだった……。」
「うむ。それで、この運転じゃあハンコはやれないな、もう一回受けてもらう必要がある、というのと同じようなのが、科学の研究の世界でもあるという事だね。つまり、審査を受けて、それで、データの採り方や解析の仕方、結果の解釈の仕方などがきちんとしているか、というのを判断してもらう。ダメなら論文は採用されずに、もう一度出直して来い、となるのだね。」
「なるほど。つまり、科学の理論として認められているものは実は、免許を取った運転手のようなものな訳だ。」
「そう。そして、実際の運転のレベルなどが他の人達にも評価されて、確かに腕の確かなドライバーだ、と周知され、信頼を得ていく。物理や化学の教科書に載るような知識はいわば、50年毎日運転し続けて無事故・無違反の超優良ドライバーのようなものなのだね。」
「ふむ……しかし、免許の場合だと、それを取得したとしても、運転が下手な人もいるし、事故を起こしたり飲酒運転をしたりで、免許を失ったりする訳もあると思うのだが。教習所によっても審査が甘い、という事もありそうだ。」
「その通り。運転免許と同じで、審査に通ったからといって、それが即優れたドライバーだとは限らない。君の言うように、教習所によって、教官によって、審査の厳しさも変わってくる訳だね。極端な話、不正すら起こり得る。
だから、さっき言ったように、免許を取った後の評価も大事という事になる。優良ドライバーは、それだけ腕前が確認されてきた、という実績があるのだね。」
「なるほどね。君の話を聞いて、科学について、何となく解った気がする。ただ、思うのだが、そういう事情に詳しいのは、科学に明るい人だけではないのか、という疑問が出てくるね。現に、私はそこまでの話は知らなかった訳だ。運転免許の場合は、そういうシステムがあるのを大部分の人は知っているのだと思うが、科学についてはそうとは限らないだろう?」
「うん、そこに関しては、君の言う通りだと私も思う。私も、色々と勉強して初めてそういう事情を知ったからね。だから、科学にはどういう手続きがあるのか、というのを広く知ってもらうのが重要だと思うのだよ。そうで無いと、科学に対して信仰のような認識を持つ、というのは確かにあり得るのかも知れない。
我々は、科学技術によって生み出されたものに囲まれて生活しているのだから、そういった知識は必須と言っても構わないと、私は考えている。道路を自動車が走り回る社会の中で、運転免許のシステムを知らないでは済まない、というのと一緒だろうか。」
「そうだね。確かにそう私も思う。何と言うのか、そうなれば、科学というものを、一歩引いた所から見られるのかも知れない。……それで、それがニセ科学批判とどう繋がってくるのかな?」
「まず、君はさっき、ニセ科学批判にはある種の狂信性を見る、というような事を言っていたね。」
「ああ、確かに。」
「それはどうして?」
「うーん、そうだね……なんというのだろう。科学という正しいものがあって、その立場からあるものを批判する、という、そういう姿勢に対してそういう印象を懐いたのかな。」
「それはつまり、科学を何か絶対的なものだと見て、それにはずれるものを叩く、という図式を描いた訳だね?」
「そうなるね。」
「ところで、”ニセ科学”の意味は知っているかい? ニセ科学という言葉で無くてもいいが、君が触れた人達がそういう言葉で何を指しているか、という事だね。」
「え、ニセ科学の意味かい? 科学的に間違っている、という事なのでは?」
「じゃあ、”科学的に間違っている”というのは? いや、具体例を挙げて貰ってもいいのだが。」
「そうだね……超能力とか占いとか、そういうのがあるだろうか。後は、水からの伝言やゲーム脳もよく聞くね。スピリチュアルというやつもそうなのかな。」
「ああ、やはり君は、勘違いをしているようだ。」
「え? それはどういう事だい?」
「うむ。さっき私は、科学について、運転免許の喩えで説明したね。」
「ああ。」
「その喩えを再び持ってこよう。科学とは、免許を与えられた運転手のようなものだ、と私は言ったね。」
「うん、そうだった。」
「ここでちょっと視点を変える。免許を持っている運転手というのは、ある程度運転出来るというのを保証しているし、その事を期待してもいい、と言えるね。”期待してもいい”というのは、”信頼出来る”と言い換えてもいい。
次に、”免許を持っていない”人というのを考えてみる。ここでちょっと質問だが、”免許を持っていない”というのは、”運転出来ない”のを意味するかい?」
「……いや、免許を持ってないからといって、運転出来ないとは限らないね。運転出来るかどうかは、練習して技能を身に着けたり交通ルールを知るという事だから、別にそれは、独学で不能では無いね。尤も、車や場所の問題はあるが。」
「そう。そこまで理解して貰えれば、後は簡単。実はニセ科学というのは、免許を持っていないのに持っているかのように言っているドライバーのようなものなんだよ。」
「もう少し詳しく説明してくれないか。」
「ああ。今君は、免許を持っていない事と運転出来ない事は同じでは無い、というのを説明してくれたね。それで、これはさっきも話に出したが、世の中には、無免許運転や免許証偽造で運転する人間もいる訳だね。ニュースでもたまに目にする事だ。」
「それはあるね。私が中学生の頃、別のクラスの奴が親の車を勝手に運転したというのが話題になってね。随分得意げに話していたようだよ。尤も彼は、後で大目玉を食らっていたが。」
「うん、実はニセ科学というのも、それと似ているんだよ。つまり、免許を持っていないのに運転を出来ると言い張ったり、無免許なのに運転している人間のようなものなんだ。」
「なるほど。さっき君に話を聞いたから、何となく解るね。つまり、審査を受けてもいないのに、周りに正しいと言いまわる。そういう感じなのだろうか?」
「そう、そういう事だね。ニセ科学は、査読も通らない、それどころか論文すら出していないのに、自分の説は充分通用する、と言い張るという事だ。」
「うむ、だいぶ解ってきたよ。君がさっき、免許を持ってないのと運転出来ないのは違う、というのを説明したのはつまり、ニセ科学は”運転出来ない人”の事を指していないのを教えるためだった訳だ。」
「さすがに鋭いね。その通り。要するに、ニセ科学批判というのは、運転出来ない事では無くて、免許を持っていないのに運転出来ると言い張ったり、実際運転したりしているのを批判している、というのに近いんだね。あるいは、免許の偽装もあるね。その意味では、占いとか超能力辺りは、基本的には”ニセ科学”とは言われない訳だね。それらは、車を運転出来ると言っているのでは無いからね。
もちろん、これはあくまで喩えだから、厳密には異なる部分もあるだろうから、それは押さえておいて貰いたいが。」
「今言った”基本的には”というのは?」
「ああ、これはたとえば、無免許なのに公道でバイクを運転していて、それを咎められたら、”いや、これは自転車だ”、と言い逃れをするようなものだね。占いや超能力を信じる事自体は、免許を持っていると言っているのとは違う訳だが、占いの根拠として統計学を挙げたり、水の結晶の出来かたを実験で確認した、などと主張してしまえば、それはもう、運転しているようなものな訳だ。
だから、免許を持っているかどうかを指摘される。水からの伝言が典型的だろうか。あれを言い出した人は、ニセ科学だと批判を受けたら、”ポエム”だ”ファンタジー”だと言い逃れをしようとした。だが彼は、”実験”によって確認したと言ってしまっているのだから、それは通用しないのだね。」
「なるほどね。それで、実際には免許など持っていないのだから、”ニセ科学”という訳か。」
「そう。それで、君は、ニセ科学批判者に狂信性を感じた訳だが、これはつまり、運転出来るとも免許を持っているとも言ってない人を一方的に責めているように見た、と考える事が出来るね。目的地に行くのに車を使わないのは何事か、免許も持っていないのか、と言っているかのように見えた、という風にも考えられるだろうか。」
「実際には、目的地に行くのに車を持っている人を対象にしているのであって、自転車を使ったり人力車を使ったりする人に、強制的に自動車を使え、と言っている訳では無いという事か。」
「うむ。ただ、さっきも言ったように、車が走り回っている世の中なのだから、免許を取るシステムなどについてはある程度知っている必要があるとは思う。そして、確かに自動車は便利だ、というのも押さえておくべきなんだろうね。まあ、実際それは、学校の勉強として習うものではあるのだが、蔑ろにされる事も少なくないように感じるね。
そしてこれは、宗教を信じるような意味での信じ方、つまり”信仰”とはやはり違うと思うんだよ。説明したようなシステムを知らなければ、似る事があるだろうが、それにしても、大部分が同じとはいえないと私は考えている。
少なくとも私は、免許を持っている人間が運転の技能を有しているという事を、信仰はしていないつもりだ。」
| 固定リンク | コメント (12) | トラックバック (0)
杏奈達さんのこのエントリーを読んでいて⇒直線的な思考の「いい子」に、算数や数学ができるようになるか?(追記あり) - 理系兼業主婦日記
そういえば私も、ここで数学についてちょちょこ書いているなあ、と思って、今までどんな事を書いたのか、探してみました。
こうして見ると、色々書いているなあ、と。そして、数学が凄まじく嫌いだったんだなあ、って(笑)
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
心理学研究法の所で、量的研究法なんて出てきましたね。
そこでは、直接観測出来ない人間の「心」について、生理学的な指標や質問紙への回答をデータにして定量的に把握していく、という方法が採られます。
誰しも、心って測れるの? とか、こうしたら調べられるんじゃないか、とか、考えた事はあると思うんですよね。
で、そういうのを量的なデータとして扱うのを、「数量化」と言います(「数量化理論」と言った場合には、具体的な統計解析の方法を指しますね。数量化○類、という風に)⇒数量化 quantification
それで、そういう方法について不案内な方には、断然これがお勧めです↓
|
評価と数量化のはなし 科学的評価へのアプローチ 販売元:セブンアンドワイ セブンアンドワイで詳細を確認する |
| 評価と数量化のはなし―科学的評価へのアプローチ |
実は1/3くらいしか読んでいなかったりするのですが、最初の方を読んだだけで傑作だと断言出来ます。読み物としても面白く、惹き込まれる。巧みな話の持っていき方には、正直唸ります。
偏差値って何? 知能指数って何? という疑問を持っている方にもお勧めかな。
とにかく良い本だと思うので、ご一読を
科学について具体的に考える際、数量化とかの論理をある程度押さえておかないと、「話にならない」んじゃないかなあ、と思います。もちろん、色々な方法について熟知しなくちゃならない、というのでは無くてね。おおまかにでも知っておかないと。後、尺度水準くらいは知っておかないと、どうにもならないかと思います。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
きっかけはこちら⇒あしがかり -続き:Chromeplated Rat:So-net blog
こちらで、「合理性」という語に関して色々考察されていたんですね。どういう観点で合理性を捉えるか。広く社会的な観点か、それとも個人的なものか。
poohさんは、「公」的、「私」的な合理性という風に捉えて論じておられます。
それで、私も、なんかいい語が無いかな、と思って、色々考えたのですが、そこで浮んだのが、「合目的的」という言葉。
最初にこの語を見た時には(十数年前か)、意味が解らな過ぎて泣きそうになりましたが、「合+目的+的」として見て、「目的に合うような」、と読めば、比較的簡単に把握出来ますね。
それで、「合目的」というと、哲学的な概念としても用いられる事があるようなので、逆にややこしいかなあ、と思ったりもしたのでしたが、取り敢えずそれは措いといて、考えてみました。
合理性には、より普遍的あるいは一般的な合理性と、個人的もしくは小集団の目的に適った合理性があるだろうな、と考えた訳ですね。poohさんの用い方に当てはめてみるならば、前者が「公」、後者は「私」(多分概念的に一致してはいない)。
で、たとえば、医学的には他に有効な方法があったり、あるいは「どうしようも無い」事がある程度の蓋然性で言えるような場合に、適切な処置を拒んで代替治療に縋ったりするのは、心理的な安定や家族とのコミュニケーションを円滑に進めるという「目的」においては「合理的」と言える場合があるんですよね。※そういう場合があり得る、という話です。代替治療にハマって家族が崩壊する場合なんかもあるでしょう。それこそ複雑な事情が絡み合っているので、一概には言えない
そういう観点から、個人や、家族などの小集団の目的を充足させるような「合理性」もある、というのは前から考えてきたし、それは、poohさんが継続して採り上げておられるテーマでもあります。
これらの観点の異なる合理性というのは、これまで、いずれも「合理性」と呼んできたんですよね。文脈によってどういう概念を指すかは変わってくるという事で、そのまま使ってもそれほど混乱はしないかな、と思ってきたし、場合によっては、ある意味合理的、とか、ある種の合理性、とか限定的な使い方をしたり。まあ、ややこしいと言えばややこしいかも知れません。
そこで、そういった限定的な「合理性」を、「合目的的合理性」と呼んでみてはどうだろうか、と考え付きました。
こういう時には、「他に考え付いた人がいるだろう」原則に従って、ググルー先生に聞くのを忘れてはいけません。という訳で、早速「合目的的合理性」という語で検索してみた訳です。
ありましたよ、やはり⇒承諾誘導技法の事例分析と情報操作に対する情報教育コンテンツの提案(PDF)
ここで、「合目的的合理性」が使われています(改行を適宜調整)。まず、先行研究の説明があります。
情報に対する合理的な判断に言及する際には,合理性の定義を確認しておく必要がある。哲学用語としての合理性(rationality)は主として,理性に基づいて考え行動することを指すが,ここで理性をどうとらえるかによって,合理性の意味は2つに分かれる。すなわち,理性を経験に依存しないアプリオリな原理ととらえるならば,合理性は主として,形式論理をはじめとする法則に沿っていることを意味する。一方,理性を経験に基づくアポステリオリなものととらえるならば,合理性は,本能や衝動,感情に惑わされず思慮に基づいていることを意味する。
Evans & Over(1996)は,非個人的な合理性と個人的な合理性を区別している。非個人的な合理性とは,論理学等の規範原理に従って推理や意思決定などを行う能力を指す。彼らは,Flanagan(1984)の表現を借りて,次のように説明している:非個人的な合理性は,しばしば論理性と等価なものとして受け取られており,一方では帰納論理学,統計学,確率論の,他方では演繹論理学と数学の諸原理および法則に従って考える能力である。これに対して,個人的な合理性とは,個人の目標に到達するために信頼性があると見なされる方法で推理や意思決定などを行う能力を指す。また,論理学等の規範原理に沿っているという意味での合理性に対置させて,環境への適応という視点からの適応的合理性(adaptiverationality:Anderson, 1990)や生態学的合理性(ecologicalrationality: Gigerenzer & Todd, 1999)といった概念も提唱されている。このように,近年,性質の異なる合理性概念を2種類に分けてとらえる考え方が目立つようになったが,「規範」や「適応」といった概念は必ずしも明確ではない。
合理性の定義と分類について考察されています。そして、
三宮(2002a)は,こうした経緯をふまえ,論理学や統計学といった客観的な法則に合致しているという意味での合理性を「合法則的合理性」と呼び,個人や集団の持つ目的に適合しているという意味での合理性を「合目的的合理性」と呼んで区別している。
ここで、「合目的的合理性」という概念が出てきますね※
やはり、こう考えるとすっきりします。より一般的・客観的な合理性を、「合法則的合理性」と呼び、個人などの「目的」に適合しているか、という観点からの合理性を、「合目的的合理性」と呼ぶ。
この概念を援用するならば、poohさんの所で紹介されていた例は、「合法則的合理性」としては非合理であったかも知れないが、「合目的的合理性」の観点からは充分合理的であったのではないか、と整理して見る事が出来ます。そして、合目的的合理性に適っているからといって、合法則的合理性を蔑ろにする事はただちに正当化はされない、という事も言える。特に、医療の文脈では非常に重要な観点であろうと思います。
個人的には、非常に思考が整理された感じがします。ちょっとした言葉の使い方の問題だ、と思われるかも知れませんが、これは非常に重要だと考えています。自画自賛的ですが、いいものを発掘出来たと思ってます。
ただ、合目的的合理性に適っているさまを表現したりする際に、「合目的的合理的」なんてなってしまって、あまり見やすく無いですが…。舌を噛みそう。
※情報に対する合理的判断力を育てる教育実践研究の必要性:大学で何をどう教えるべきか,日本教育工学会論文誌,26,235-243,2002
三宮氏のプロフィール⇒三宮 真智子
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
久々にSSFSさんの話を書くよっ!
Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:原理主義者たち(その3) 2008/12/ 5 1:48
相変わらず適当に言葉を使う方ですな。
て言うか、この方、私のブログの愛読者レヴェルじゃないですか。
さて、そんな原理主義の私ですが(←繋がりがおかしい)、SSFSさんの引用の仕方には、うならざるを得ませんでした。(一応、改行はそのまま。見にくいですがご容赦を)
「マイナスイオン」とかはニセ科学度がすごく高いんじゃ
ないかなあ、と思ったりして(略)「マイナスイオン」に
潜むニセ科学は一般人には見破ることができない気がしま
すね(略)「マイナスイオン」の場合は科学的間違いを指
摘されたら、「なんだ、そうだったのか。」ってすぐ納得
しそうだけど(略)
という意味不明な投稿に対して、このブログ主は
マイナスイオンという概念は、それが定義されなくても身
体に良い影響など与えなくてもいいですけど(略)マイナ
スイオンでガンが治る、なんて主張が広まったら、また話
が変わるかも知れません。
と、議論を「体に良い影響を与えるマイナスイオン」という固定観念に誘導しています。より新しいドライヤーの議論にも十分接しているのに、「体に良い」しか眼中にないのでしょうか
こういうのを、BMJKTI(Bunmyakuwo Musisite Jibunkatteni Kiritotta Tekitouna Inyou)と言います。
いや、固定観念に誘導とか、そういう話じゃ無いから。アウト・オブ・眼中(このネタ解る人います?)とか、そういう話じゃ無いから。
この辺に関しては、あちらでフォローして下さっている方がいらっしゃいますね。本当に、あのスレッドに書き込みされる方々の辛抱強い事よ。
Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:Re: 原理主義者たち(その3) 2008/12/ 5 6:44(原文ママ)
>意味不明な投稿
どこが意味不明なのかよくわかりません。「一般人が(ニセ科学性を)見破れない」ことと「指摘されたらすぐ納得しそう」が矛盾するとでも考えられたのでしょうか。
#「理解不能」や「意味不明」はssfs氏がよく使う表現ですので実はわかっているのかもしれませんが。
ブログ主さんの返答部分に関しては、自分でわざとわかりにくく切り出しているようにしか見えません。(略)までの部分はマイナスイオンを“否定されても困らないもの”と位置づけ、科学的間違いを説明された場合に(水伝と比較して)受け入れやすいということをおっしゃっているないでしょうか。
後半部分は(略)の部分にホメオパシーの話がありますね。ここは、マイナスイオンで癌が治ったと信じる人には受け入れ難くなるであろう、という話かと思いました。
ドライヤーに関しては、“健康に良い”と同様に実証されていないことをお忘れなく(効果のある可能性は多少高いのかもしれませんが)。ブログ主さんは一例として「体に良い」と書かれていますが、別にドライヤーの話に置き換えても成り立つ話をされているように思います。
はい、全く適切にフォロー頂いています。なんだか申し訳無いくらいであります。
ここで、私と やす さんのやり取りを載せてみるよっ(やすさんのコメントは、部分的に引用)。
不思議なのは、水伝みたいに、考えればすぐにわかりそうなものの方が逆にはびこってるような気がするんですが、もしそうだとしたら、何が原因なんでしょうかね。「マイナスイオン」の場合は科学的間違いを指摘されたら、「なんだ、そうだったのか。」ってすぐ納得しそうだけど、水伝信者にそれをやったら、延々と反論されそうな気がします。ただの印象にすぎませんけど。
投稿: やす | 2008年11月16日 (日) 18:02
やすさん、今晩は。
「ニセ科学度」というのが、「自然科学として見て判別が難しい度合」という意味でしたら、そういうのは言えるかも知れません。水伝の場合には、本質は言葉の問題ですしね。
ただ、観点の問題もあるので、一概には言えない気もします。▼▼▼引用▼▼▼
もしそうだとしたら、何が原因なんでしょうかね。
▲▲引用終了▲▲
推測としては、前者は没価値的であるから、なのではないかと。マイナスイオンの場合、その概念が存在しなくても、「代わり」がいくらでも出てきていい訳ですよね。しかるに水伝は、言葉という文化の根本についての性質の言明であり、「価値判断」を正当化するものだから、反発があるように思います。
マイナスイオンという概念は、それが定義されなくても身体に良い影響など与えなくてもいいですけど、「ありがとう」は、ある言語体系において感謝の意味を持つという機能を持たされた語ですから、「ありがとう」の良さを言って何が悪い、となるのかと。
もちろん、信じ方の度合にもよりますね。ホメオパシーで病気が治ったと確信している人なんかは、容易には説明に納得しないでしょうし。
だから、マイナスイオンでガンが治る、なんて主張が広まったら、また話が変わるかも知れません。投稿: TAKESAN | 2008年11月16日 (日) 18:42
Interdisciplinary: 調べる。何かが解る
ね、SSFSさんの話とは、全然違う文脈でしょう? ABO FANさんクラスですよ、この捻じ曲げ方は(おめでとう)。
では最後に・・
原理主義者というのは、いったんある固定観念を持つと、それを変えることができません。
Yahoo!掲示板 - 化学 - 「マイナスイオン」監視室:原理主義者たち(その3) 2008/12/ 5 1:48
マホカンタっ!
誰か、SSFSさんにどんなに痛罵されても何とも感じない私に、キアリクをかけて下さい…。
| 固定リンク | コメント (7) | トラックバック (0)
complex_catさんのコメントInterdisciplinary: 正面打ち技法のはなしと中国武術との論理的繋がりについて、みたいな#comment-53835544(なんかプロパティが変だ…)へのレス。
八卦掌は、よく出てきますですね。私も知識は全然持っていませんが、比較されているのは結構目にします。
武器を持っている敵多人数を想定して体系が構成される、というのを考えると、多分収斂していくのだと思います。それで、より重要な部分とされる点が対象化されて、それが具体的な型や稽古法に反映される、という事ですね。
そういう観点だと、合気道というのは、相手が太刀か短剣を持っているのを体術でも絶対想定しているので(柔術は須らくそうあるべきと思いますし、実際そうなっているのでしょうけれど)、そういう所が意識化されて体系が創られてきたのだろうな、と。
後は、打撃技か組技のどちらを主体的に用いるか、というのも関係してくると思います。当身をよく用いる柔術の技法に関しては全然知らないのですが、たとえば柳生心眼流などは、また独特のシステムを持っているのかも知れません。
合気道では、身体の練りや体捌きは、ほぼ必ず技法に組み込まれているように思いますが、必ずしも受けと取りで型を行うのでは無く、一人で練られるように武器技の体系も工夫されていますね。2人型というのは、相手を制するという部分に意識を取られる場合があるので、意識を自身の身体に向けて練るという意味でも、武器技は重要です。
たとえば、剣素振り7本、杖素振り20本、という素振りがあり、それを基本とした型(組太刀・組杖・剣対杖)がいくつかある、という体系ですね。
呼吸法に関して。
合気道での「呼吸法」の用い方は、独特ですよね。おそらくすぐにイメージされるような調息法のようなものでは無くて、崩す技法そのものを指します。かたちとしては、大東流における「合気上げ」と同質ですね。※色んな方向けの余談。合気系の方からは異論もあるかも知れないですが、掴ませた所から崩すという課題があって、それを実現させる身体運用を身に着ける、という目的に向けて工夫したら、高級になると収斂する訳なので、ほぼ同じと言って良いです。ちなみに、合気道は必ず「掴ませつつ」、「完全に掴ませないように導いて」という見方があるとしたら、それは間違い。下動画参考
呼吸力を発揮して相手を崩す技法、という事でそう呼んでいるのだとは思いますが、残念ながら由来は知りません。
という訳で、百文字は一動画に如かず、なので、動画です。
最初の方をご覧頂くと解るように、崩す技そのものを「呼吸法」と言うのですね。一般的で無い用い方なので、これは結構紛らわしいのかも。合気道では、掴まれた場合、呼吸法を用いて崩して技を掛ける、という考え方をする訳ですね。※腕のかたちの事を指す場合もありますし、気の流れの時も当然用いられるので、もうちょい概念は広いです
斉藤先生は、多分合気道以外の方にはそんなに知られてはいないと思うので、時折紹介しています。こういうスタイルがあるというのもあまり知られていないでしょうから、それについても知って頂きたいな、と。
合気道の技法体系とその機能について、まとめて書いてみるのも面白そうですね。
参考動画。
斉藤仁弘先生(斉藤守弘先生のご子息です)による、呼吸法と呼吸投げ。
| 固定リンク | コメント (6) | トラックバック (0)
はてなブックマーク - 10位までに血液型本4冊…書籍の年間ベストセラー(読売新聞) - Yahoo!ニュース
umaaaa これマジにとって「血液型なんて嘘っぱちだってば!」とか怒る人を見ると、皆わかってるから大丈夫だよーって慰めてあげたくなる。本気で信じてる人見たことないや/いるとこにはいるのですね、決め付けて申し訳ない 2008/12/03
このコメントを読んで、いつも考えている事を書いてみようと思いました。
umaaaaさんは、本気で信じている人を見た事が無い、と最初仰った訳ですね(ブクマコメントで指摘があって、後で後半部が追加されました)。
私はそれとは全く逆で、血液型性格判断をネタにしている人で、信じていない人を見た事が無いです。十数人はいたかな。もっといたかも。
ちょっと考えてみて、こういうネタを、間違いと完全に解りつつ使うなんてあり得るのか? と感じる訳ですね。
間違いだと解ってても場の雰囲気を壊したく無いから仕方無く乗っかる、というのはあり得ると思うのです。が、それは、間違いだと解っててネタにする、というのとは、ちと違いますよね?
ネタにするって事は、少なからず信じている、自分の経験から「ありそうだ」と思っている、という事なんじゃないのかなあ、と。たとえ言葉の上では「間違いだと解ってるよ」的な言い方をしたとしても、実は信じているんじゃないの、とか。
間違いと解りつつ積極的に用いるって事は、端的に言って嘘つきな訳で。仮に、皆が間違いと解っててネタにしてるんだとしたら、それはそれでどうなのよ、とも思いますね。
よーく考えてみて下さい。
他人とコミュニケーションをとる際に、「間違いだと解りつつも、やり取りが円滑に進むからネタにする」、なんて事、普通します? 無いですよね。せいぜい、後でネタばらしをして驚かせる、という時にやるくらいでは?
なのに、血液型性格判断に関しては、時折そういう意見が見られます。なんででしょうね。
あー、占いとか、自分は信じていないけど信じている人を喜ばせる、とかありそうだな…。
どっちにしても、間違いだと解ってて使う、という人は嫌ですね。もちろん、本当だと信じて使う人も嫌ですが。
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
第3章の続き。
§2 面接法
▼面接法とは
面接法――一定の環境において研究者が研究対象者と対面し、相互的コミュニケーションを通して情報を収集する方法。
利点
→対象となっている人々の主観的体験を背景を含めて把握するのを目的とする質的調査に適した方法。
その一方、研究者と対象者の相互作用によって成立するものだから、研究者の影響が及びやすい。たとえば、
面接では、言語的コミュニケーションだけで無く非言語的コミュニケーションが交されるので、研究者には、相手の表情や身振りなどを観察し、非言語情報を的確に把握する技能も必要とされる。バーバル・コミュニケーションとノン・バーバル・コミュニケーション(NVC)。
▼構造化面接・半構造化面接・非構造化面接
面接法は、「研究者が対象者に質問する項目がどの程度決定されているか」、つまり、「そこで行われる面接の構造が事前にどの程度限定されているか」によって、構造化面接・半構造化面接・非構造化面接に分けられる。
構造化の程度によって、会話の自由度が異なってくる。
目的による分類
調査か臨床か
対象者に人数による分類
§3 観察法
▼観察法とは
観察法――対象の行動を注意深く見る事によって対象を理解する研究法。
分類
参考書では、表は大まかな分類しか書かれていませんが、細かい分類もすぐ把握出来るように、全部表に組み込んでみました。
§4 フィールドワーク
▼フィールドワークとは
フィールドワーク――研究者自らが、研究の対象となっている出来事や現象が起きている現場(フィールド)に出向き、その場で観察しながら対象となっている出来事や現象が生じる過程を調査する方法。
ただ単に研究対象の出来事や事象が生起する現場に身を置いてデータを収集すれば良いのでは無い。以下の手続きが必要(第5章で具体例とともに解説)。
§5 おわりに
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
Sundalandさんとやり取りが続いているようですが。
早く続きを書きませんか?
コメントがきたら返答する、というのでは無くて。
主張を明確にし、論理構成を詳らかにして、その認識を持つに至った論拠を示してはくれませんか?
まさか、コメント欄でのやり取りがその役割を果たしている、なんて話では無いでしょう。
せめて、いつ頃書くとか、そういう見通しだけでも知らせた方が、読者に対して親切ではありませんか?
finalventさんがどういう説を持っておられるか、興味がある人間は、私も含めて少なからずいると思います。
当然、フェードアウトする事はあり得ないでしょうから、どうぞ、ご説明をお願いいたします。
いや、別に打ち切っても、それはそれで構わない訳ですが、それでしたら、その旨アナウンスするべきですよね。
なにしろ、テストを出されて、その解答編を待っている、という状況なのです。いずれにしても、何らかのアナウンスはした方がよろしいかと思います。既に出題から2週間経っているのです。さすがに悠長に過ぎるでしょう。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
第II部 質的調査の方法
○第3章 質的調査の考え方とデータ収集技法(下山晴彦)
§1 質的調査とは何か
▼質的調査の特徴
質的研究法――質的データを収集→分析・解釈による仮説・モデル・理論の生成・構築。
質的調査――質的研究法に基づく調査。
質的データ――数字や数量によって表現された量的データとは異なり、「ことば」の形式によって記述されたデータ。
質的調査の前提――質的研究法の基本的考え方→「人間の行動はその人が生活している日常的コンテクストの中で生み出され、その中で意味を持つ」。
なるべく人が生きている現実に近い自然な状況でデータを収集。数量化するのでは無く、現実に近い形でストーリーとして叙述。→人間の心理を理解する仮説・モデルの発見・生成。
方法
▼質的調査の理論的背景となっている質的研究法の独自性
量的研究法――設定された仮説を検証するために、統制された条件の下でデータを収集・分析。
質的研究法――自然な状況の中で得られたデータから仮説を生成することを目的。
仮説生成を目的とする質的研究は、量的研究で検証する仮説を生成するための探索的予備段階の研究と考えられがちだが、そうでは無い。
現実の現象を記述したデータの中に読み取れるパターンから新しいアイデアや概念を発見し、それを仮説やモデルとして構成していく事が目的。
研究対象、研究者の経験も含めて、主観性や主観的体験もデータとして重視。
そもそも研究のパラダイムが異なっている。
▼質的研究法および質的調査の目的と特徴
研究方法の比較の表が載っているので、それを箇条書きで引用。
・研究手続きの比較
質的研究法
量的研究法
・方法論的比較
質的研究法
量的研究法
質的研究法の目的――研究の対象となっている人々自身の視点から現実を理解しようとする。人々が体験している事を、その人自身が体験しているままに理解しようとする。
質的研究法の方法論的特徴
次回へ続く。
うーん、正直な所、あまり記述が整理されていないように私は感じました。それと、質的研究法と量的研究法との比較、便宜的な分類なのかもですが、お互いに全く違うものという訳でも無いでしょうから、写しながら軽く首をひねったのでした。方法論的特徴という部分も、どんな方法においても自覚すべき事柄が書いてあるように見えますし。
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
某氏のブログで、「オトフレーム」なるサーヴィスがある事を知ったので、試してみようではありませんか。
で、ソニー系の歌手の人と言われても(言われて無いけど)ぱっと浮ばなかったので、あーてぃすと一覧で見て、好ましい曲を探してきたのです。
こんな感じ↓
…。
……。
何故Ken Hiraiが貼れないのだっ! そんなに瞳を閉じられたく無いのか?
うーん、それにしても、手続きがめちゃくちゃ煩雑ですねえ。まあ、音楽の著作権が絡むので、しょうが無いんでしょうけど、普及はしないだろうなあ…。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
武術に関する部分のみのお話(リンク先の後半はほとんどこじつけ)。
身体操作を勉強する際に、相手を掴まずに一教を行うというのは、良い稽古だと思います。
「なんか軟弱」と思えるかもしれないが
実は全然そんな事は無い訳ですが、それはおいおい明らかになるでしょう。
さて、このエントリーについたはてブ⇒はてなブックマーク - 握らない一教 (内田樹の研究室)
complex_cat Budo, martial arts 理解が浅いかも知れませんが,脱力による「強力な」受けと誘導は,推手をやっている方が理解しやすいのではと。奇しくもここの方法はそういうことかと。初心者の手刀理解は合気の場合,難しいと思います。
これはなかなか興味深い話題に繋がってくると思うので、ちょっと書いてみましょう。実は以前に書いた事ともかなり重複しますが、そこはご了承下さい。
さて、武術に興味を持つ方で、合気道の「正面打ち一教」と言われれば、「受けが大きく腕を振りかぶって手刀で打ちかかって来る」のを捌く技、という印象があると思います。
武術の動きの説明は、テキストだけよりも、映像があった方が圧倒的に解りやすいので、YouTubeから持ってきましょう(他にも見本になるようなのがあったんですが、思いっきり、教則DVDか何かから持ってきたやつでした)。
これは大変解りやすいですね。打ちかかってくるのを前方に進んで押さえるのを、「表技」といいます。会派や指導者によってバリエーションはありますが、大まかには一括りに出来ます。
続いてこちら。
打ちかかって来るのに合わせて横に入り、転身しながら腕を押さえていきます。これが、「裏技」です。
基本的に合気道では、前に進めながら行うものを表技、転身するのを裏技、と分類します。※必ずしも厳密に分けられるものではありません。
ここで再び、complex_catさんのコメントを引用してみましょう。
理解が浅いかも知れませんが,脱力による「強力な」受けと誘導は,推手をやっている方が理解しやすいのではと。奇しくもここの方法はそういうことかと。初心者の手刀理解は合気の場合,難しいと思います。
私はこれは、大変鋭い指摘だと考えます。短文コメントなので推測を含みますが、complex_catさんは恐らく、受けが強く打ちかかって来るものを捌くという構造の技法によって、柔らかく手を使って崩し捌いていく技術を会得するのは、初心者には難しいものがあるのではないか、と考えられたのだと思われます。
さて、正面打ち一教です。
この技、一般ではほぼ、前述のような技法だと思われているでしょう。つまり、
というものとして捉えているのではないでしょうか。
恐らく、他流派の方にはほとんど(合気道内部でも?)知られていないと思うのですが、実は、ある部分を占める合気道の会派、特に岩間スタイルと呼ばれるスタイルにおいては、方法が異なっているのです。
書くより見て頂くのが良いでですね。こちらをご覧下さい。
斉藤守弘先生の講習会の模様です。初めの方で、一教を行っていますね。
さて、何か気づかれないでしょうか?
斉藤先生は、技を示しながら、「こっちから行く」と仰っています。
そうです。正面打ち技とは、「自ら打っていく」技なのです。「自分から」正面を打っていく訳ですね。受けの頭部に手刀で攻撃し(正面打ち)、受けがそれを防御するために手を上げた所を、取りは進みながら(表技)手を捕り、押さえていく。裏技は、爪先を合わせるようにして、転身して押さえます。上の動画では、受けが打ち込んでくるのを開いて押さえる(裏技)もありますね。
どうでしょう。テレビや雑誌で合気道の技を見た事がある方は、実は合気道でこのような方法が用いられるというのは、あまりご存知無かったのではないでしょうか?
そして、ここからがポイントです。
現在大勢を占めるのは、恐らく最初に示した方法です。典型と言って良いかと思います。そして、後で示したのが、自ら打っていく方法です。
で、少し考えてみると解る通り、この2種類の技法は、かなり構造が異なっています。打ちかかって来るものを表技で押さえる場合は、先を取って入り込んでいく訳ですが、自ら打つ方法は、相手の防御を促してその手を押さえていく、というやり方です。
さて、合気道には、「変化技」があります。変化技とは、たとえば、基本のやり方をするには間合いが適切じゃ無かったり、相手が抵抗したりした場合に、それに応じて合理的に用いる技を変えていく方法、とでも言えるでしょうか。そして合気道では、その変化技が技法体系に組み込まれている訳です。
一教に戻りましょう。
岩間(開祖の古い教えを守る会派では、同様の方法が用いられると思います。養神館もそうみたいですね)の一教では、取りが自分で攻撃していきます。流れるようにやる場合もあるし、局面に分けて行う場合もあります。つまり、
といった具合です。そして、ある局面について、受けが通常と異なる動き、あるいは抵抗をしてきた場合、技を別のものに移行します。これが変化技です。
上の1の部分で見ていきましょう。
取りが正面を打たんと手刀を出していくと、受けは、防御のために同じく手刀を出します。
本来は、これを前に出ながら押さえていく訳ですが、ここで、受けの色々な応じ方が考えられます。たとえば、
などです。
当然、、「相手にそんな対応をさせる暇無く技を決める」のが基本ではあります。それを念頭に置きながら、変化技を学習する訳ですね。
ここでは、腕を押し込んでくる場合を考えます。再び、先ほどの動画をご覧下さい。
9:25辺りからです。
これは正確には、気の流れ技の話(こちらから攻撃して誘い、相手の勢いを利用する)ですが、私が今想定している変化技のバリエーションとしても用いる事が出来ます。
ご覧頂くと解りますが、相手がこちらの手を防御する勢い(この勢いや押し込もうという心理的な志向性を、「気の流れ」と呼ぶ)をそのまま利用して、後方(受けにとっては前方)に崩していきます。
これは、表技で押さえようとしたら、隙を取られて逆に押し込まれた、というシチュエーションにも適用出来る訳です。※肩取り面打ちでは基本だったり
ここで肝要なのが、「自分勝手に動かない」事。
受けが押し込んできもしないのに自分が引いてしまうと、手が離れて下がっただけ、という形になってしまいます。つまり、相手が押し込む力(純粋に物理学的概念ではありません。上の「気の流れ」の説明も参照)を「感じ取りながら」、導いてあげるのです。
私はこれを、中国武術における「聴勁」の概念とそれを鍛える推手の技法とに近似した論理だと考えます。即ち、手を合わせた局面を切り出して、変化技の稽古をバリエーションとして含めて考えるならば、中国武術や古伝の空手の稽古法に類似しているのではないか、と見ているのです。
たとえば、先に書いた、受けが腕を突っ張った場合、というのを考えてみましょう。
その場合には、上の動画にある四方投げの基本に移行する、という変化が適用出来ます。1:44辺りをご覧下さい。ここでは、正面打ち四方投げ表技の基本が解説されています。相手が突っ張った場合には、横に開いて四方投げに展開する、というのを変化として見るのも可能な訳です。※3:10辺りを見ると、よく解って頂けるはずです。
いかがでしょうか。
「正面打ち」技というのが実は、取りが自分から打っていく技法の事を言い、そこから変化技を展開させる、つまり、相手の力の流れを読み合理的に技を組み立てていく、という所を考えるならば、それは中国武術の推手に通ずるものがあるのではないか、と分析してきました。これを意識的に取り出して稽古する、というのもあり、それはまさに、聴勁に通ずる能力を鍛えるトレーニングとなっているのではないでしょうか(流していく所は化勁)。
尤も、そこら辺の論理を明確に対象化して取り出して「推手」という体系を築き上げた中国武術はさすがだ、と言わざるを得ませんね。日本武術、特に柔術系では、そこまでの体系を作ったのは、ほとんど無いんじゃないかな。少なくとも、私は知らないです。剣技だと発達しているかもですが。
推手そのもの的な体系は、日本刀を用いた剣術をベースにした武術からは出てきにくい、というのもあるかも知れません。日本武術的には、「その場にいる」事を避ける傾向があるので、技法体系にもそれが反映されていると思います。※合気道では、技が多敵用に作られている
合気道と中国武術の相同性を指摘する論考は結構あると思いますが、あまり知られていない体系(岩間スタイル)を用いて、そこそこ具体的にこういう説明をするのは珍しいんじゃないかな、と。科学的概念を用いれば、もう少し詳細かつ厳密に分析出来るとは思いますが、さすがに今の段階ではそれは難しいです。
| 固定リンク | コメント (8) | トラックバック (0)
最近のコメント