気とはシステムである
「気」の話。
現代科学を批判しつつ、気の概念の有効性を説いたりする人っていますよね。
科学の要素還元主義性を欠点として指摘し、東洋の知識体系の優位を主張する人もいます。
で、そういう風に科学を批判しつつ気の概念に興味を持っていながら、気が実体であると仄めかす場合もあるんですよね。仮想の物質を想定したり、身体から出る電磁波の一種と言ったり。
気という言葉の用いられ方を考えてみると、それは極めて多義的です。心理的関係であったり、知覚のパターンだったり。それで、それを全て説明し尽くす根本的な原理として、気の実体性を主張したりする訳です。それに全部を説明してもらう。アルケーみたいなものですかね。
でもそれって、自分達が批判している要素還元主義的な考えをそのまま用いている事になるのではないでしょうか。何らかの実体であると仮定してしまえば、楽ですしね。
そもそも科学は、そういう単純な考えをしない訳です。現象は総合的なシステムとして捉える。社会現象や心理現象に関しても、様々な要因が絡み合い、それが影響を与え合って複雑な現象を構成している、と見る。
そのような観点から言うと、気というものは、心理的関係のあり方であったり複雑な知覚であったりを、複雑なシステムのまま丸ごと表そうとした概念、と考える事が出来ます。それは、○○という物質の働き、などという単純な論理に還元出来ない。
あるいは、まだ解明されていなかった現象に名前をつけてみたもの、とも言えるかも知れません。メカニズムがブラックボックスであるものの説明原理。だから、歴史的に、極めて多義的に用いられてきた。
それを考えるならば、気というものは、理論をいくつか組み合わせてそれに名前をつけたもの、つまり、システムである、となるでしょう。以前A-WINGさんが、それは工学などで言うモジュール的な概念ではないか、と言われましたが、私も、そう捉えるのが妥当だと考えます。
そうすると、たとえば、気は未解明の実体的な何か、という風に考察するのは、あまり意味が無い、と言えるでしょう。気がモジュール的な概念と考えれば、歴史的に見て、この時代に用いられていた「気」の語は、現代における科学的概念をいくつかまとめたようなものだ、と解釈するのも可能でしょうし、気概念を用いる体系を頭ごなしに否定する事無く、メタに分析し、体系特有の説明概念として尊重し、認める事も出来るのではないでしょうか。
気は構成概念だ、と考えると、結構色々解ってくると思うんですが、なぜそうしないんでしょうね。原理と言うか、究極の何か、的なものを求めたい、とか。良い言葉や綺麗な形、というものの究極を求めたいのと一緒なのかな。私としては、世の中は複雑だから面白いと思うんですどね。
| 固定リンク
「科学論」カテゴリの記事
- メタスパイラル(2011.12.14)
- 主観、主観、ただ主観(2011.12.12)
- 公衆衛生(2011.12.07)
- ひとまずまとめ――患者調査において、「宮城県の一部地域及び福島県の全域について調査を行わない」事について(2011.12.06)
- 科学コミュニケーション――科学語での会話(2011.12.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
過去の学問と同じで,科学的調査法がなかった頃に,採用した考え方や理念,定義など,現代科学を認識する場合に邪魔になるものがいろいろあると思うのですが,気に関しても同様だと感じます。
一つ言えることは,気という概念を採用して,武技の体系の中で使うととても都合がよいということだったと思います。
一方で,私がエントリでご紹介したように,人間の五感がいい加減であることを利用して,気が実態であると結論させてしまう方法ならいくらでも思いつきます。
実際に物理的圧力を感じさせるようにすることは出来ますが,それが物理的圧力なのかどうなのか,人の生理学が進んだ今日,「蒟蒻のような感覚」が,全く実在を意味しない可能性は大いにあります。
私の印象で言えば,まともな科学のまな板に載せられたことは,ないのと,我こそは科学者というような方が,緻密な実験系ではないところで印象で勝手なことを言いだして話が捻れるという自体も散見されます。
気の実態云々を言う場合,少なくとも,何も証明されていないということをスタート地点にしないとまずいと思っています。
投稿: complex_cat | 2008年11月 2日 (日) 18:39
complex_catさん、今晩は。
▼▼▼引用▼▼▼
一つ言えることは,気という概念を採用して,武技の体系の中で使うととても都合がよいということだったと思います。
▲▲引用終了▲▲
そうですね。説明のための有用な概念、といった所だろうと思います。ここら辺の論理に関しては、高岡氏の初期の著作が極めて示唆的であろうと考えています。このエントリー自体、高岡氏の論の援用と言えますし。
ただ残念な事に、高岡氏自身が、気の実体性のようなものを仄めかしているのですよね。尤も、初期の著作からその傾向はあった訳ですけれども。
▼▼▼引用▼▼▼
実際に物理的圧力を感じさせるようにすることは出来ますが,それが物理的圧力なのかどうなのか,人の生理学が進んだ今日,「蒟蒻のような感覚」が,全く実在を意味しない可能性は大いにあります。
▲▲引用終了▲▲
心理学や生理学、あるいは認知科学等は、人間が外界からの刺激をそのまま認識する訳では無い、脳はエラーを起こし得るのだ、というのを確認してきたのだと言えると思います。そう考えるならば、まず懐疑的に現象を捉える、というのが肝要ですね。
気という概念は、人文・社会・自然科学の全域にわたって考察すべきもの、すなわち学際的に考究すべきものですよね。それには端的に言って、広く深い知識が必要とされると考えます。あるいは、分野を超えた専門家の連携が必要。それ無くしては、この概念は説き明かせないでしょうね。
投稿: TAKESAN | 2008年11月 2日 (日) 23:22
「漢方は疑似科学か」というお話。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/12/post-e5a6.html
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51151943.html
皆様のご意見をお聞かせ願いたいです。
私の考え。以下乱文。
「漢方は疑似科学か」というのは科学的命題として荒い。
その全体のシステムそのものを評価するか、用いられている方法を部分的に評価するか。
ホリスティックな論理を強調する体系は、部分的に切り取って評価されるのを嫌う場合がある。それをどこまで許容するか。
メカニズムはブラックボックスでも良いから入出力の関係を評価する、というやり方を許容してくれるか。そうすれば、原理はともかく方法的には効果的かどうかはある程度解る。
説明原理を含めて全体として見れば、既存の科学の概念とは相容れない体系なのだから、少なくとも、「それが即科学的だとは言えない」、と判断する事は一応出来る。まだ手をつけられていない、という意味では、そう言える。
後、方法を用いる側がどういう説明をつけるか、というのも重要。「どこまで効くか」という所。流派のようなものもあるだろうし、平均的な主張というのもあるだろう。
まあ、複雑なんだと思います。
ところで、kikulog界隈では、漢方は疑似科学(あるいはニセ科学)だ、と言う方はほとんどおられないですよね。私もそうですが。そもそも概念の内容が一定で無く歴史的にもある程度変化し得るものだと、まず定義してからじゃないと話が出来ない、という事もあるかと思います。だから、「荒い」。科学は定義から始まる(←この言い方も荒い)。
なぜこのエントリーに書いたか、というのは言わずもがなですね。
投稿: TAKESAN | 2008年12月14日 (日) 16:01
>mobanamaさん
もしお読みでしたら。
TBを下さっているお二方のエントリーもご覧頂ければありがたいです。
投稿: TAKESAN | 2009年2月 4日 (水) 12:49