今はもう大丈夫だろう的な雰囲気
『AERA』11/19:血液型性格判断を肯定|ほたるいかの書きつけ
雑誌の意見としては中立……と言えば聞こえはいいけれど、要するに、これまでの知見を無視している、という話。
これは、はてブ経由で⇒Business Media 誠:血液型で見る、歯ブラシ1本の交換期間 (1/2)
ジョンソン・エンド・ジョンソンのプレスリリース⇒プレスリリース | ジョンソン・エンド・ジョンソン
血液型別の歯ブラシの交換時期を調べたそうです。何じゃそりゃ。
なんか、今はもう、強い関連があると断言しなければ適当な事言っていい、と思ってるんじゃないですかね。かなりひどいんですが。後者は別に、性格云々と直接言っている訳ではありませんけれど、医療に関わる企業が、
歯ブラシの交換時期の目安と言われている1ヶ月以内に歯ブラシを変えているのはB型が一番で29.9%。
◆歯ブラシの交換時期は?
1ヵ月以内に交換している割合が多いのは、B型、A型、AB型、O型の順。
1週間以内に交換している割合が多いのは、AB型。◆もてるためには、「白い歯」が重要?
「重要」と感じているのは、O型女性(重要度71.0%)。
「重要でない」と感じているのは、A型男性(重要度49.6%)。
こんなものをプレスリリースに載せてどうするんですか。誰も何も言わなかったのかな。少なからず、株を下げるでしょう。医療従事者はどう思うでしょうね。
サンプルは信頼出来るのか、というのは、いつもの通りです。
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コメント
うーん、断定的なことは何も言えないのですが、完全に受け入れられてしまっている証左なのではないでしょうか。
マイナスイオンについて、「健康によい」ということを暗黙の前提にして語られている広告(記事/放送/日常会話などなど)と等質なものを感じます。その前提が正しいかどうかはもちろん、前提がどういう内容かさえまったく触れられないという表現方法ですね。
一時、そういうのを端から読んでみて、こういうのは、狙ってやっている(危ない橋を渡らないためとか)わけではなくて、「自明」だからはしょられているのであって、つまるところ単に無自覚なのではないかという印象を受けました。
もちろん、だったら罪がないとか、そういうことではないのです。ぜんぜんない。特にメディアやメーカーがこの手のことをやっちゃうってのは、かなりまずい。
ニセ科学フォーラム2008で(まだぜんぜんまとめる余裕がないのですが)、きくちくんがいくつかのニセ科学的言説は「薄く広く」になっちゃってて、それはとても危険だと思うと言ってたんですね。血液型性格判断やらマイナスイオンやらは、「薄く広く」の代表例だったんじゃないかな。ぼくもきくちくんに同感です。
投稿: 亀@渋研X | 2008年11月12日 (水) 00:16
亀@渋研Xさん、今晩は。
「科学的には否定されているという話もある」、程度には認識されている、とは思います。これは、具体的にどういうのがあるか、というのでは無くて、そんなエピソードもあるらしいぜ、という程度の認識として、あるんじゃないかな、と。
だから、私としては、そういう所はうっすらと知っているけれど、でも断言しなけりゃいいや、となっているんじゃないかと推測しています。
芸能人なんかがテレビで話題にしている場合、もう、何の疑問も無く信じている人もいれば、それは否定されているらしいよ、と言う人もいるんですよね。で、否定されているらしいよ、と言ったそばからその話題に乗っていく、というのもしばしば見ます。
「薄く広く」というのは、その通りだと思います。後、「軽く」とか。ここで紹介したアンケートなんかは、「軽さ」をすごく感じるんですよね。歯科医にしたい有名人は、なんてのとは本質的に異なったレベルの話なのに、企画した人は多分、同列に扱っているんでしょう。
どうでもいいですが、歯科医にしたい有名人は、というアンケートの意味が解らな過ぎて吹きました。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 00:32
(ちょっと修正>>)ほたるいかさん(<<ちょっと修正)のエントリー(加筆部分)を読みましたが、雑誌の方は相当にダメ記事であった模様。いかんですな。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 01:45
こんばんは。
エントリ、更新しました(某氏との議論対策として慎重を期して名前をいつものとは変えさせてもらいました。すいません)。
たぶん、まさに常識として血液型性格判断が記者のなかに定着していて、どこかで批判がされているらしいけど、なんかうるさい連中が言ってるのかな、程度の認識なんだろうなあ、と感じています。己の常識は疑わず、とはいえうるさい連中がいるから自分はどちらの立場にも与していないように書いておこう(実際は肯定派の立場で書かれているわけですが)、と。
デスクは何も言わなかったんですかね。署名記事は完全に記者にまかせているんだろうか。まあもうだいぶ前から、『AERA』はとてもマトモな雑誌とは言い難い状態になってますから、その程度なのかもしれないんですけど。
創刊号から2,3年ぐらいは毎号読んでた者としては、悲しいです。
投稿: fireflysquid | 2008年11月12日 (水) 01:54
fireflysquidさん、今晩は。
上のコメントを若干修正(遅いか…)しました。
あれなんですよね。「科学的には否定されているらしいぜ」っていうのは、「科学」を知らない、信頼を置いていない、人にとっては、意味が無い。いや、場合によっては、仰るように、逆効果の事もある訳ですよね。水伝でもそういうのはありますが、ものすごく悩ましい話です。
血液型性格判断は、浸透度のレベルが違いますので、根深いですね。
新聞記事でもあり得ないのが載る事がありますが、チェック体制はどうなってるんでしょうね。体制はあるが、する人間もダメだ、という話なのかな…。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 02:11
おはようございます。入れ違いでしたね(昨晩はすぐ寝てしまったので…)。修正の件、御配慮ありがとうございます。
悪しき相対主義の影響もあるのでしょうかね。「肯定派」も「否定派」もどっちもどっち、みたいな。
投稿: fireflysquid | 2008年11月12日 (水) 08:03
fireflysquidさん、今日は。
「無粋」とか「野暮」と看做されるんじゃないかなあ、と。
楽しんでるんだから、科学的にどうこうってのはいいじゃん、とか、本気で信じている訳じゃ無いから云々とか。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 12:53
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/11/news053.html
http://anond.hatelabo.jp/20081112072418
▼▼▼引用▼▼▼(はてブの方)
2008年11月12日 nora_mouse これはひどい 母集団300人。1.96÷√nで「1か月以内交換ライン」の誤差を見積もると、およそプラマイ10ポイント。”B型とO型では10ポイントの開きがあった”→それは誤差の範囲です。
▲▲引用終了▲▲
「母集団」の用い方が間違ってますよね。あるいは、調査対象300人を母集団と看做すと、標本調査としての意味が全く無くなる。
んで、300人を標本と看做すと、無作為性が怪しいので、誤差の評価そのものに、あまり意味が無い。
言えるのは、300人をネット調査したら、割合に○○%ほどの差が出た、という事くらい。
いずれにしても、調査としては微妙。て言うか、詳しい情報を載せていないから、無意味って言っても大袈裟じゃ無いですね。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 14:57
ワニの歯ではさまれた引用中の計算根拠がわかりません;;各血液型の人数をその人のいうとおりに仮定して、それぞれの血液型で「はい」が二項分布するとすれば25%から有意にはずれるような血液型はない、というのは確かにそうですが。
あと、「かりに」サンプリングがうまくいって、バイアスがない理想的な観察が行なわれたとしたら、ということで偶然の影響を見積もってみる、という意味はあると思います。
投稿: ちがやまる | 2008年11月12日 (水) 16:35
ちがやまるさん、今日は。
実は私もよく解っておりませんです、はい…。
確かに、仮にサンプリングがきちんとしていたら、というのを調べるのは ありだと思います。
投稿: TAKESAN | 2008年11月12日 (水) 17:28
こんにちは
既にお読みかもしれませんが、「小さな悪魔の背中の窪み」竹内久美子、新潮文庫という本がありまして、血液型と性格の関係についても遺伝子学の立場から書いてるんですが、僕はこの本を読んでなるほどと思うところがありました。あなたに、この本の感想を聞いてみたいと思ったしだいであります。
投稿: あきら | 2008年11月15日 (土) 19:46
あきらさん、今晩は。
ご期待に沿えず申し訳ありませんが、その本は読んでおりません。従って、感想を書く事は出来ません。
ところで、竹内氏に関しては、かなり批判がありますよね。引用されたものを見ても、全く論理的におかしい主張をしているのが解ります。
ここに関しては、私より遥かに詳しい方々がおられると思うので、そちらをあたってみてはいかがでしょうか。
ちなみに、血液型によって性格が判断出来るか、というのは、血液型にどのような因子がどれくらい関わっているか、というのとは、一応別の議論です。ABO式血液型と性格の分類との強い連関関係が示されなければ、あるいは、関係が弱い事が示されれば、血液型性格判断は、科学的に否定されます。
投稿: TAKESAN | 2008年11月15日 (土) 20:03
丁寧な返事ありがとうございます。竹内さんに批判的な人が多いとは知りませんでした。
一般的に受け入れられる主張が玄人にまったく受け入れられないことって結構多いですよね。血液型の話もその類なのでしょう。
頭では理解できるんだけど腹のそこでは納得できない。みたいな
投稿: あきら | 2008年11月17日 (月) 01:43
あきらさん、今晩は。
まず、ちょっと訂正。
上のコメントの、
▼▼▼引用▼▼▼
血液型にどのような因子がどれくらい関わっているか
▲▲引用終了▲▲
は、性格にどのような――でした。
---
竹内氏は、相当に批判されている人の一人だと思います。私が見た統計についての間違いは、ちょっと考えられないようなものでした。包丁の背で野菜を切るのを普通の使い方だと説明するような、そういうレベル。
多分、身近の経験というか直感が、強く働くんだと思います。いや、でも自分の周りには、□型で△な人が多い、といったような。
そこで、人間の直感は優れてはいるがそれに頼り過ぎてはいけない、というのを認識するのが重要だと考えています。
たとえ身の周りの傾向をある程度把握出来たとしても、より広い集団で見た場合に全然成り立たない、というのがある訳ですね。そういう時に、統計的な見方が重要になってくると思います。
菊池聡 他 『不思議現象 なぜ信じるのか』は、そこら辺の論理を詳しく解説した良書だと思います。
投稿: TAKESAN | 2008年11月17日 (月) 02:15
>あきらさん「竹内さんに批判的な人が多いとは知りませんでした」
>あきらさん「頭では理解できるんだけど腹のそこでは納得できない。みたいな」
以前、apjさんのブログでもその事に関わる話を書いたのですけど(ログが消えているようなのですけど)、近年の理科教育でおかしな動きがあるんですね。
冷たい水を入れたコップの外側に水滴が付くじゃないですか。いわゆる「結露」ですね。
この水滴はなぜ付くのか、理科の時間に教室で議論するわけです。そのとき、子どもが「水面のあるところより上には水滴がついてないし、コップを傾けると水面のあるところまで新たに水滴がつく。したがって、この水滴はコップの中から染み出してきたに違いない」と答えたとします。そのとき、教員はそれを「正解」としなければいけないと言うのです。
確かに、子どもが知っている全ての事実(今頭の中に浮かんでいる全ての事実)とは何の矛盾もありません。むしろ、知っている全ての事実(今頭の中に浮かんでいる全ての事実)だけから見事に論理的に推論して出した非の打ち所のない結論という事さえできます。
この教育論から言えば、竹内久美子氏はまさにこの教育論が目指す最高の理想像とさえ言えます。
でも、私たちは「この水滴はコップの中から染み出してきたわけではない」事を知っています。
「水面のあるところより上には水滴がついてないし、コップを傾けると水面のあるところまで新たに水滴がつく」という事以外にもたくさんの事を知っているし、それ以上に、「水面のあるところより上には水滴がついてないし、コップを傾けると水面のあるところまで新たに水滴がつく」という事から他の可能性もありうるかも知れないと疑う事も知っているからです。
でも、この教育論と竹内久美子氏は、適当な事実を恣意的に選んで、それらの事実から論理的に演繹される結論(大抵は最初から欲していた結論)を一つ得ただけで満足します。そして、得られた結論を何も疑う事なく「真実」としてしまうのです。
竹内久美子氏に説得力を感じるのは、選ばれた事実から結論を推論する過程がそれなりに論理的に見えるからではないでしょうか。
でも、選ばれなかった事実がある事、結論をまったく検証していない事、なにより、導かれた結論どうしが互いに矛盾している事など、とてもではありませんが、まともな論者とは言えないと思います。言ってる事は「風が吹けば桶屋が儲かる」と大したレベルの違いがあるようには思えません。
ただ、上に書いたような理科教育が今後広まっていくとしたら、竹内久美子氏のような人は増えていくのではないでしょうか。人間はもともと多かれ少なかれそういう傾向を生来強く持っているものなのですけど(だからこそ、みな、竹内久美子氏に説得力を感じるわけで)、教育によってそれがさらに肥大化する事を心配しています。私の考える理科教育の本来の目的とは真逆の教育が進められはしないか、とても気がかりです。
投稿: 田部勝也 | 2008年11月18日 (火) 01:27
田部勝也さん、今日は。
ごく狭い範囲の経験を整合的に説明する際には、そういう言説が効果的になってしまう場合があるんですよね。
前にも書いたのですが、物体の運動を説明する場合、アリストテレスの自然学的な論理というのは、それなりに有効だったりする。でもそれは、経験に基づいた思弁的考察な訳で、より広い視点で見ると、整合的では無い。
自然科学というのは、古代から哲学者の自然哲学的考察を経て、実験的方法が洗練され、膨大な観測と実験によって理論が構築され、仮説が検討されてきたのですよね。
だから、そういう所を無視してしまってはいけない訳で。科学は強大なんですよね。現象の仕組みを解明するという面において、やはり強大。その体系が積み上げられた歴史に思いを馳せるのも必要かな、と。分野で言えば科学史という事になろうかと思いますけれど。
投稿: TAKESAN | 2008年11月18日 (火) 13:55
田部さん、たけさん、私の拙い話に丁寧な答えありがとうございます。
たけさん、菊池聡氏の本読んでみようと思います。
竹内氏の本は、面白いので、これからは色々ある考えのひとつ、遺伝子学の入り口、ぐらいの感じで読んでいこうと思います。
竹内氏は、彼女自身の考えというよりも外国の学者さんの意見を紹介していたり、その意見を元にして
世の中の疑問に答えたりしてるんだと思う。
うそとまことが厳然と分けられることの良否。うそっぽいまことがあったり、まことっぽいうそがあったり、うその中にまことがあり、まことのなかにうそもある。正解を積み重ねた結果が正解にならず、直感にしたがった不正解という獣道を通って正解にたどりつく。そんな話をしてるんじゃないと怒られそうですね。科学的には統計学的にはうそと言われれば、門外漢としてはうなずく他ないんですが。
田部さん、教育が今どうなっているのか詳しくないのでわかりませんが、理科の授業中の議論の流れにおける約束事のひとつなのでしょう。先生は最終的にはちゃんとした答えを教えてくれるんならいいんじゃないですか。大人になった今、理科の授業の内容などほぼ記憶にありません。心配要らないんじゃないですか。
投稿: あきら | 2008年11月18日 (火) 21:53
ちょっとキツイ事を長々と書かせていただきますけど……。
>あきらさん「竹内氏の本は、面白いので、これからは色々ある考えのひとつ、遺伝子学の入り口、ぐらいの感じで読んでいこうと思います」
竹内久美子氏の本は確かに面白いと思います。私も授業のネタに使えないかと何冊か読みました。でも、元理科教員としてはっきり述べさせていただくと、「遺伝子学の入り口、ぐらいの感じで」は絶対に読まないで下さい。それは遺伝子学への侮辱です。
>あきらさん「竹内氏は、彼女自身の考えというよりも外国の学者さんの意見を紹介していたり、その意見を元にして世の中の疑問に答えたりしてるんだと思う」
残念ながら、竹内久美子氏が著書で紹介している外国の学者さんも同じ穴のむじなか、そうでなければ竹内久美子氏が曲解しているものです。だいたい、外国の学者さんの意見だからといって、それが信用に値する事を保証するわけではありません。
確かに竹内久美子氏の著作が「世の中の疑問に答えたりしてる」のは間違いありません。でも間違った答え(しかも人間が生来持つ差別意識や非寛容さを助長するような答え)を平気で撒き散らしているのを有り難がるのは、私には理解できません(ちなみに、竹内久美子氏の主張はアドルフ・ヒトラー『わが闘争』の内容と恐ろしいくらい共鳴しています)。
>あきらさん「先生は最終的にはちゃんとした答えを教えてくれるんならいいんじゃないですか」
それでは良くないという話をしているんです。理科の授業は、クイズ王とか雑学王とかを育てるためにやっているんじゃないんです。「答え」を覚えるだけでは、別のまだ「答え」を知らない「問題」に正しく対処できないでしょ(竹内久美子氏みたいに我田引水・牽強付会なトンデモ結論を得てしまうのが関の山です)。
極論を言うと、竹内久美子氏を信じてしまうのが問題なのではないんです。誰もが竹内久美子氏になってしまうのが問題なんです。
子どもの頃の理科の授業の内容なんて、私だってほとんど覚えていませんよ。大事なのは「なんで冷たい水を入れたコップの外側に水滴が付くのか」という問題をどう解決したのか──科学というのはそれをどう解決していこうとする方法論なのか──を実感する事なんです。
理科のテストを採点していると、子どもたちの独創性あふれた様々な「オレ理論」を楽しむ事ができます(はっきり言って竹内久美子氏の本なんかよりもよっぽど面白いです)。たぶん、テスト中の緊迫した時間内で思い出せる限りの数少ない知識をフル動員して問題に挑んだ上での解答なのでしょう。でも、自然は無慈悲で、間違ってるものは間違ってるわけです。そして、どこを見逃したのか、推論のどこが間違っていたのか、どのように考えていけば正解に辿り着けたのか、……などを学ぶわけです。
おそらく多くの子どもは、「理数系は積み重ねが大切だから一度つまずくと大変」という印象を持つはずです。いくら知識が豊富でもそれがバラバラにあるだけではダメだし、都合のいい知識だけ持ち寄って推論してもダメだという事を身をもって実感しているはずなんです。
ここで重要な点は、「真実に到達するための信頼に値する方法論がある」「その方法論には(必ず証拠を求めるとか、他のできるだけ多くの事実とも整合性があるか検証するとか、検算したり他の可能性を考えたりするなど結論を信じる前に一度疑ってみるとか、個人の体験や確信はアテにならない面があるから他人に徹底的に検証・批判させてみるとか、適用範囲を厳格に見極めるとか)いくつかの大切なルールがある」といった印象をどれだけ身につけられるかという事だと思います。
「科学の方法論」というツールを使いこなせるようにはならなかったとしても、そういうツールがあり、ある場合ではとても信頼できる強力なツールであると印象づけられれば、まずは及第点だと思うのです。
>あきらさん「科学的には統計学的にはうそと言われれば、門外漢としてはうなずく他ないんですが」
そういう事なんですよ。人類誕生以来、人間が体験・推論してきた事柄のすべてに比べれば遥かに限られた狭い範囲の自分個人の体験や印象や推論を「絶対だ!」と無条件で断言できるような傲慢な人間を育てないという事が、大切だと思うのです。
そういう謙虚な立ち位置から自然や世界を眺める視点は、教育(特に理科教育)抜きで自然に身につくわけではないという事は、歴史が証明しているように思うのですよね。
投稿: 田部勝也 | 2008年11月19日 (水) 00:18
あきらさん、今晩は。
>あきらさん、田部勝也さん
私は、田部さんの仰る事に賛同します。
竹内氏の本を読むというのはおそらく、神経科学の導入として森昭雄氏の本を読むようなものだと思います。もし読むとするなら、きちんとした普及書、出来れば教科書の内容を仕入れた上で、批判的に読む、という方法にするべきだと考えています。
科学の体系というのはかなりカッチリしたもので、しかも巨大で精緻なものです。だから、その事を思い知らせる(押し付けるというのでは無くて)のが重要です。
ああ、そうだ。もしかしたら、あきらさんが誤解されているかもですが。
田部さんが上で書かれた理科教育の話ですが、これって、学習指導要領の解説でそういうのが載った、という事なんですね(最新のは内容が違うそうです)。これは、明らかにダメです。
たとえば、現象の仕組みを生徒に考えさせて、色々出してもらう、というのはありだと思います。で、そこで出た考えを、「上手に否定」してあげるべきなんですね。その考えは確かに面白いが、実はそうなってはいないのだよ、と。はっきりと間違いだと指摘してあげなくちゃなりません。
これは、押し付けとかじゃ無くて。自分が考えた程度の事は誰かが既に考えているだろう、というのを解らせる事である訳です。
投稿: TAKESAN | 2008年11月19日 (水) 00:33
たけさん、田部さん、こんばんは。
竹内さんの本を理科の授業で使うことは控えられたとのこと。それは賢明なる判断であったと思います。一定の倫理観を身につける前に読むべきではないかも。大人が酒やタバコが身体に悪いと知りつつ楽しむように楽しめばよいのでは。
竹内さんの主張する現実が、倫理に反していたり、差別的である内容を大いに含んでいる事に対する反発のほうが科学的、統計的な反発より先行してあったのでは。
大多数の男が認めたくないような本の内容に対する反発。
新しい分野の学問で、突っ込みどころたっぷり。みたいな。
数字や科学になじみにくい分野なのでは。
人間誰しもが賢く正しく倫理的である必要はないんでは。
みたいな事を、感じました。
軽い気持ちで、血液型の本を薦めたところが、思わぬ展開になり驚きました。
同じ本を読んでも、感想は人それぞれですね。
正しさよりも、面白のほうが、より僕をひきつけます。
思うところを文章にして著す才能のなさを実感。
投稿: あきら | 2008年11月21日 (金) 23:07
あきらさん、今晩は。
うーん、もしかすると、いくつも誤解があるのかも知れません。
ポイントは、竹内氏が言っている事が「現実」と看做すのは妥当か、という所なんじゃないかな、と。
ちなみに、そもそも科学についての本なので、最優先されるべきは「事実」と「正確さ」です。それは、絶対蔑ろにされてはなりません。何故なら、科学は事実に基づいて(物事を正確に確認して)知識を積み上げていく知的営為だからです。
投稿: TAKESAN | 2008年11月22日 (土) 00:37
>あきらさん「竹内さんの主張する現実が、倫理に反していたり、差別的である内容を大いに含んでいる事に対する反発のほうが科学的、統計的な反発より先行してあったのでは」
違います。それはわざわざカッコ内に入れて補記的に付け加えた部分です。だいたい、あれだけ言葉を費やしたコメントの中で、「竹内久美子氏の主張が、倫理に反していたり、差別的な内容を大いに含んでいる」と指摘した箇所は、そのカッコ内のわずか2つの文章だけです。
他のすべての箇所で「真実ではない事を、真実として吹聴する行為」「科学の方法論を無視した論法を、さも科学のように流布する行為」自体を非難していますし、その点に最も反発しています。
その事を強調した上で、以下は余談です。
>あきらさん「人間誰しもが賢く正しく倫理的である必要はないんでは」
あきらさんの周りの人すべてが「賢くなく正しくなく倫理的でない」人ばかりになっても、あきらさんは全然かまわないのでしょうか。
そりゃあ、私だって、ものすごくジンクスを気にしたり、ほぼ毎月墓参りに行ったり、何の役にも立たないバカげたくだらない事に夢中になったりしますよ。でも社会の一員として、できるだけ賢く正しく倫理的でありたいし、自分が愚かで間違っていて非倫理的なために、自分のまわりの人たちを困らせたり苦しめたりしたくはない――とは思ったりもするわけです。私の周りのすべての人たちが、少しずつそう思っていてくれているからこそ、私は今こうして幸せに暮らせているのだと思っています。
「竹内久美子氏の主張する現実は端的に言って妄想以上のものではありません」という指摘に対して、「自分はそうは思えない」「自分は竹内久美子氏の主張は正しいと思う」といった反論はまだ理解できるのですけど、「人間誰しもが賢く正しく倫理的である必要はないんでは」という反論が来たのには、ちょっと驚きました。
>あきらさん「正しさよりも、面白のほうが、より僕をひきつけます」
それは人間なら誰しもそうだと思います。人である以上逃れられない性(さが)・業(ごう)というものでしょう。それをどう乗り越えていくかという事が一人の大人として求められているのではないですか。竹内久美子氏にしろ血液型性格判断にしろ、「面白ければ何でも良い」という風潮を、あきらさんがどう思うのかが問われているのですよ。
投稿: 田部勝也 | 2008年11月22日 (土) 02:56
竹内さん自身「もっと、うそを」という文庫本を出していらっしゃって、たぶん、お二人の批判するところについても、よく自覚されているのではないでしょうか。竹内さんの師匠に当たる日高敏隆さんという人との対談本であります。自覚していながら尚科学の本でうそを書くとは、と火に油を注ぐ結果になるかも。
科学についての本というより、たまたま読んだ本の中に科学の成分が含まれていたぐらいの認識で、
僕としては科学の教科書を読む気もないし、教科書的なものも求めてはいません。
科学に疎い自分にとって、怒りの琴線が科学的におかしいかどうか、などというのは、まったく想像外
の事であって、正直納得できなかったわけです。
そこで、倫理的にとか、差別的表現が、とかが理由であれば、なんとか自分的にも納得できる範囲の怒りの琴線だったので、そこから発生した怒りの表現として科学的におかしいなどとおっしゃっているのかなあと想像した訳です。
まちがってたようですが。
竹内さんの著作がヒトラーの本と似ているらしいですが、それについて少し。ヒトラーの活躍したころのドイツというのは、大変、正しさ、健康的なものに対する欲求の強い社会であったと聞いた事があります。当時のドイツ国民も正しさを求め民主的に暴君を選んでしまったわけで。いつの時代においても人は間違いを犯しがちで、昔の人よりはより賢くなっているつもりで、より大きな間違いを繰り返してきているのでは。
面白ければ何でも良いという風潮よりは、正しさや健康を求めすぎる風潮のほうを強く感じますし、問題だと思います。自ら生きにくい世の中を作る愚を犯しているとさえ思います。人が人である前に動物である事を忘れているのでは。
竹内さんの本や血液型性格判断に面白を求めるほどに生き辛さを感じているのでしょうか。わかりません。
六日間考えてこんな答えしか出せません。
投稿: あきら | 2008年11月28日 (金) 21:32
あきらさん、今晩は。
いえ、事実にまつわる話を書くのでしたら、それは事実に基づいて説明されなくてはなりません。そして、はずれる部分があれば、それは批判されてしかるべき、だと考えます。
間違いがあれば正す、というごくシンプルな話で、竹内氏に関してはその誤解が甚だしいとされている(私は部分的にしか知りませんが)、という事だと思います。
科学の知識というのは、とても長い時間をかけて、数え切れない多くの人々が、観察や実験を繰り返してきて積み重ねた体系です。それを蔑ろにしてはいけない訳です。
ヒトラーの話の部分については、今一つ、仰る事が掴めないです。
竹内氏の本にしろ血液型性格判断にしろ、それが受けるのには、様々な要因が絡んでいるのだろうと思います。私はその事については、分析に慎重でありたいと考えます。
投稿: TAKESAN | 2008年11月28日 (金) 23:46
>あきらさん「面白ければ何でも良いという風潮よりは、正しさや健康を求めすぎる風潮のほうを強く感じますし、問題だと思います」
そういう風潮があるのならば、なおさら、正しくない単なる個人の妄想を、さも正しい事であるかのように流布する行為は、非難されてしかるべきだと、私は思います。
実際、教科書的なモノなど求めていなかったあきらさんでさえ、竹内久美子氏の本にまんまと騙されてしまったわけで……。私が言っているのは、要は「嘘つきは非難されるべきだ」というだけの事なんですよ。
まぁ、竹内久美子氏について、「単なる妄想を“科学”として流布する行為」と「反倫理的・差別的言説を流布する行為」のどちらがより重く非難されるべきかという点については、確かに個々人の性格や価値観などによって意見は分かれるでしょう(「竹内久美子氏が非難に値する」という点に代わりはないけれど)。
でも、こちらのエントリでは、主に前者の問題を取り上げて論じていたわけで、後者の問題やヒトラーの話や世間の風潮や竹内久美子氏がウケる理由などの話は、とても興味深いとは思いますけど、エントリ記事の問題提起からは著しく逸脱していると思いますし、一緒くたに論じても混乱・発散してしまいそうですので、もし話を続けられる気持ちがあるのでしたら、場所を変えて改めて問題提起していただいたほうが、すっきりしそうな気がします。
投稿: 田部勝也 | 2008年11月29日 (土) 23:49
田部勝也さん、今晩は。
私としては、田部さんに引き取ってもらって別所でやり取りして頂くのも良いですし、私の掲示板を使ってもらっても構わないです。
もし続けられるという事になったら、スレを立てましょうか?
投稿: TAKESAN | 2008年11月30日 (日) 00:06
これっきりにしていただいて結構でございます。
毎回丁寧なお返事ありがとうございました。
投稿: あきら | 2008年12月 1日 (月) 03:02
あきらさん、今日は。
了解しました。
また何かありましたら、お気軽にコメント下さい。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 1日 (月) 13:08
こんばんは。
ここまでのコメントとは直接関係がないのですが。
本日夕方、NHKラジオ第1放送で取り上げられ著者自身が番組に出演していた本なのですが。
「細胞の意思 〈自発性の源〉を見つめる」NHKブックス 1116 団まりな/著
出版社名 日本放送出版協会
とんでもない本のようですね。「細胞ひとつに意思がある」んだそうですよ。
そうわかった理由は、「じっくり観察していると」見えてきて「そう考えると、いろんなことに説明がつく」からだそうです。
こんな本でも、NHKで宣伝できる社会になってしまったんですね。
過去に話題になっていたらすみません。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年12月 5日 (金) 21:21
細胞学を囓ったことのある人なら、多細胞動物が神経系を形成して行なっていることの原型が一個の細胞にある、という主張があったとしても、理解できるのではないか、と思う感覚を私は持ちます。
「細胞ひとつに意志がある」という表現だけを聞いても、「こんな本」と評価されるようなものであるかどうかがよくわかりません。もっとクリティカルな情報を出していただけませんでしょうか。
投稿: ちがやまる | 2008年12月 5日 (金) 21:52
私は、当該書籍を知らず、分野に関する知識にも乏しいので、何とも言えないです。そういった表現がどこまで許容されるのか、という部分を判断する知識も持ち合わせていないですし。
ただ、学術的にはともかく(心理学的・法学的に色々な定義があるようです)、一般的には、自我や意識や心や人格を想起させるような語なので、タイトルのインパクトは大きいように思います(と言うか、インパクトの大きいタイトルにした、と解釈出来るのかな)。
それで、少し検索してみた所、このようなレビューを見かけました⇒http://www.bk1.jp/review/0000468248
ここを見ると、どうやら、著作の中で語の概念について詳しく述べられているようですね。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 5日 (金) 22:40
こんばんは。
クリティカルじゃなくてすみません。
が、特別に科学に興味関心が深くない人々に向けて発信された「細胞の意思」という言葉の持つ意味合いを考えていただけないでしょうか?
細胞学をかじった人向けの放送ではないんです。
TAKESANさんが示しておられるところにも書いてあるとおり、通常われわれが「意思」という言葉でイメージするところとは違う意味の内容を(著者としては自覚的なつもりで)「意思」と表現しているのですが、それはラジオでは伝わりにくかったと思います。
本に関しては私も未読ですので、軽率だった点は重ねてお詫びします。(お前はいつも軽率だ、と言われても仕方がない書き込みが、私は多いですね)
しかし、「細胞の声に耳を傾けてください」という話は、本の読者ではない聴取者である私には、納得しかねます。
特に、その根拠として再三強調されていたことが「長年の観察」そのものだったことに、違和感を持ちました。
「観察の結果、これこれのメカニズムがわかってきて」と言うならば、もう少し得心がいったかもしれません。しかし、「観察してそう見えた」ことを根拠としてあげられるだけでは、納得などできません。
あるいは、「ここから先は、専門の勉強をしてからでないと難しい」と言うのならば、こんなコメントは書いていません。勉強不足を反省するだけですから。
あくまで一般向けの、一般常識で理解できるはずの話として語られていたのです。
それともこの話は一般常識の範囲で、私の常識が狭いがゆえの勘違いなのでしょうか?
TAKESANさんも含めて、ほかの方の意見も聞かせていただけると幸いです。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年12月 5日 (金) 23:10
憂鬱亭さんが疑問を持たれたのは、ラジオでの紹介の仕方、という部分ですよね。
それで、最初のコメントでは、
▼▼▼引用▼▼▼
こんな本でも、NHKで宣伝できる社会になってしまったんですね。
▲▲引用終了▲▲
と書いておられますから、これは、本の内容に関わる言及と見られても仕方無いかな、という感じはしました。ちがやまるさんも、「こんな本」という部分に着目しておられますね。
後は、本のタイトルとして相応しいか、という問題があると思いますけれど、これは、基本的には書かれている内容、説明の仕方を鑑みて評価する所だと考えます。
調べた所、帯には何やら微妙な文言があるみたいです※ ただ、帯は著者が関わるとは限らないでしょうから、また別の話として見るべきかも知れません。
著者が自覚している、あるいは著作ではきちんと説明されている、場合に、マスメディアを通してそれとは異なったメッセージが発信されてしまう、というのは、注意深く見る必要があるでしょうね。そういう意味では、いかにラジオで紹介されたか、という所は、本の内容がどうであるか、というのと一応別の話として見る事が出来ると思います。
私の意見としては、こういう感じです。
※http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/09/20080907ddm015070011000c.html
私は、この帯の言葉は、ちょっと許容出来ないかな。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 5日 (金) 23:26
こんばんは。
最初のコメントと、先ほどのコメントを自分で読み返してみて、感情的になっていたことと、本とラジオの話を混同していたことについて、また反省してます。
後3つだけ疑問を記したら、しばらくROMに戻りたいと思います。
1 「多細胞動物が神経系を形成して行なっていることの原型が一個の細胞にある、という主張」を理解するのは、一般常識(たとえば高校で必修)の範囲なのでしょうか?
2 多細胞動物の神経系形成からのヒントは多細胞植物の細胞についても当てはまるものでしょうか?(件の著者は植物の研究者です。)
3 注釈なしに「自らの観察」だけを根拠にして、「細胞には意思がある」と表現することは、一般的に妥当だと言えるでしょうか?
>TAKESANさんへ
勉強不足かつ勉強する心身のゆとりがない私には、ここに書き込み続けることは、論の立て方も含めて、敷居が高かったようです。
ありがとうございました。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年12月 6日 (土) 00:27
>憂鬱亭さん
いや、逆に、「敷居が高い」と言われてしまうと困惑します。それに、ROMになる必要も無いと思いますよ。
▼▼▼引用▼▼▼
1 「多細胞動物が神経系を形成して行なっていることの原型が一個の細胞にある、という主張」を理解するのは、一般常識(たとえば高校で必修)の範囲なのでしょうか?
▲▲引用終了▲▲
これは、ちがやまるさんのコメントからの引用を含みますが、ちがやまるさんは、「細胞学を囓ったことのある人なら」と書いておられ、ある程度専門的な話としているように思われます。従って、少なくとも「一般常識」の範囲、という事では無いと考えています。
普通は、○○学を齧った、と言うと、少なくとも学部レベルで勉強した、程度の意味は含むかな、と。
ちなみに私は、書かれてある生物学的説明は、あまり理解出来ません。恥(無知)を晒していますが、勉強してこなかったので、仕方の無い事ですね…。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 6日 (土) 01:12
おはようございます。
みんな自分の経験を核とする世界で物を言っているわけですので、発言にともなって他人に自分の立場を説明する(自他の)コストは覚悟しておかなければならないのだろうと思っています。
団まりな先生は私はよく知りませんが、発生生物学の専門家(お茶の水大学の教授?だった方)ではないかと思います)。UP選書という生物学の薄い本のシリーズで個体発生と系統発生の関係を論じた本を読んだ記憶があります。今そのあたりは分子生物学的な方法などで徹底的に見直されているところですから、大まかな見通しを持つという意味では今読まれる意味もあると思うと同時に、個々の知識はどんどん書き換えられているところでしょうから誰にでもすすめられる本ではないとも思います(もう売られてないかもしれません)。
話題の本に関しては、私個人はハズレだった場合を覚悟した上で買ってみてもいいかな、と思っています(と書いたあとで上のTEKESANさん紹介の書評リンクを読みました。生物学の基礎的な本というなら読まなくてもいいかな、という感じです。もしそういう本なら養老氏の書評は生物学の入門用として読む人のために向けたものでなくてはいけなかったはずですね)。
細胞壁という殻をむいた植物細胞は動物細胞とほとんど変らないといわれています。どちらも同じ方法で、外にある分子(栄養)をとりこんで自分を複製します。それと共通ともいえるかもしれませんが、外からきた分子と自分のもつ分子との相互作用(認識)が引き金となって、さまざまな反応がおこり(情報伝達・興奮)、物質を産生したり、物質を外界に吐き出したり(分泌)・形を変えたりします。
ゾウリムシがえさに引き寄せられていくのも、植物の根が伸びていくのも、そういうレベルから見ることができるように思います。一個の細胞の持つ「認識‐情報伝達‐分泌」という作用は、たくさんの細胞がよりあって生きる上で重要な機能でしょうし、その延長上に神経系もわたしたちの感じる「意思」も「思い、悩み、決断」もあるのでしょう。
わたしたちは自分たちの「意思」のよって来たるところを知っているわけでもないでしょうから、「細胞には意思がある」という表現を見聞きした場合にただちに「トンデモ」とみなして騒ぎ立てるのはどうかと思います。私なら相手にその真意を問い直すことになるかと思います。私たちはそれぞれの一生のなかで様々なソースから人生や社会を見直してその本質をつかもうしているのでしょうから、人生や社会を見ていくための技能や知識のレパートリーに「高校で必修」「一般常識」という限定を与えようとすることは有効であるのか、そういう限定に実質的な意味があるかについては大いに疑います。
投稿: ちがやまる | 2008年12月 6日 (土) 08:27
ちがやまるさん、今日は。
それにしても、私としては、「思い、悩み、決断」という表現は書き過ぎの感があります。
▼▼▼引用▼▼▼
「細胞には意思がある」という表現を見聞きした場合にただちに「トンデモ」とみなして騒ぎ立てるのはどうかと思います。
▲▲引用終了▲▲
これはその通りです、が、今の所”「トンデモ」とみなして騒ぎ立て”ている訳では無いので(「トンデモ」という言葉は使われていないですよね…)、仮定というのを断った方が良いかと。
憂鬱亭さんはおそらく、タイトルの擬人的表現とラジオでの紹介のされ方から、当該書を読まれずに本について評価してしまった訳ですから、そこを批判すれば充分かと思います。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 6日 (土) 11:26
おっしゃるとおり私は憂鬱亭さんの立場をほとんど配慮していませんでした。あくまでも、「「トンデモ」とみなして騒ぎたてる*とすれば*」の話です。
「思い、悩み、決断」をどうとらえるか、の方に意識を向けていました(し、今もそうです)。神経系の高次機能のしくみとしてどう理解するかという点からとらえるならまた別な話になりますが、それらの機能の原型が一個の細胞にある、という発想はそれとして重要なものであると考えます。わたしたちの意識する「思い、悩み、決断」を意識という枠組みとは別な視点から見る可能性を示唆しているわけですから。
投稿: ちがやまる | 2008年12月 6日 (土) 12:05
私は、人間が持つような高次の精神的機能の萌芽が一つの細胞の機能に見出せるとしても、その事をもって認知機能を連想させるような「思い」や「悩み」などの語を用いるのは、使ってはならない表現とは言えないまでも、「危うい」書き方だな、と感じます。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 6日 (土) 12:31
すいません。
▼▼▼引用▼▼▼
これはその通りです、が、今の所”「トンデモ」とみなして騒ぎ立て”ている訳では無いので(「トンデモ」という言葉は使われていないですよね…)、仮定というのを断った方が良いかと。
▲▲引用終了▲▲
ここは撤回します。完全に私の事実誤認でした。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 6日 (土) 12:54
すみません、あと一度だけ書かせてください。
『細胞の意思』という書物を「トンデモ」呼ばわりしたことは間違いでした。撤回します。
ただその本の著者がラジオで語った、「死に行く細胞が、自らを栄養としてほかの細胞が摂取しやすくするために変化する。それは細胞に意思があることの表れだ」というような表現には、納得できません。
「ために」?
それは事実ではなく、解釈でしょう。
それと、前に上げた疑問に対するちがやまるさんの考えを教えてほしいと思います。
2については、明示されませんでしたが回答に当たると思われる文章がありました。
答えであることを明示しないのは、わかりにくかったですよ、ちがやまるさん。
>1 「多細胞動物が神経系を形成して行なっていることの原型が一個の細胞にある、という主張」を理解するのは、一般常識(たとえば高校で必修)の範囲なのでしょうか?
3 注釈なしに「自らの観察」だけを根拠にして、「細胞には意思がある」と表現することは、一般的に妥当だと言えるでしょうか?
>
別のエントリーに書いた肝炎の話についても、私が書きたかったことは「『非A型非B型』というような怪しい呼ばれ方をしている、社会的認知があやふやな時代があったなあ」ということだったのですが、私にはうまく説明できる気がしなかったので、書き込まずにいるうちに、ほかの方にフォローしていただく始末。
おそらく、このままやり取りをしていても、皆さんの議論を混乱させるだけだと思います。
ちがやまるさんとの意見交換を継続するためには、私の場合、大学のゼミで教授と議論するときのような用心深さで言葉と論法を選び、なけなしの科学知識を総動員して理論武装しないといけません。
申し訳ありませんが、私にはそのような心身のゆとりが今はないものですから、以後しばらくROMに徹します。
みなさん、ありがとうございました。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年12月 6日 (土) 21:19
「「死に行く細胞が、自らを栄養としてほかの細胞が摂取しやすくするために変化する。それは細胞に意思があることの表れだ」」
生物では「合目的性」というのがよく目立つ形で現われてきます。歯はものを噛み砕くためにある。いやそうではなくて進化の過程で様々な(偶然で生じた)可能性が試されて、歯を発達させた都合のいいものが生き残っただけだ、と説明されます。「意思」というものはそういうふうに現われているものなのかもしれません。
これは団先生の言いたいこととは違うかもしれませんが、ここはじっくり考えるべきところであると思います。
「前に上げた疑問に対するちがやまるさんの考えを教えてほしいと思います。」
私は憂鬱亭さんの質問の枠どおりに答えを出す立場であるのかどうかをお考えください。しかも私がどう書こうとそれへは返答はしないという事について念を押しながら憂鬱亭さんは書いておられる。でも私がどう考えているかは記しておきます。
1.は質問自体を不適切と考えていることをすでにお答えしたつもりでいます。
3.は複雑な限定のついてるだけではなく質問の焦点が絞れていないように思います。
別エントリの話は、「、社会的認知があやふやな時代があったなあ」」と言われるだけでは私には憂鬱亭さんの意図は理解できません。脚気にも社会的認知の問題があったわけですし、たぶん脚気の話を始めた人にもその疾患に対する認知の問題があったのではないかと疑っています。
投稿: ちがやまる | 2008年12月 6日 (土) 22:53
上の私のコメントに、配慮を欠いた部分があったために、非公開にしました。
ちがやまるさんへ業務連絡。
勝手を言ってまことに申し訳ありませんが、この話題については終了にさせて下さい。
よろしくお願いします。
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非公開前にコメントを読まれて事情を把握しておられる方へ。
大変申し訳ありませんでした。
ブクマも削除します。
投稿: TAKESAN | 2008年12月 7日 (日) 01:38