ドーキンスの本に
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神は妄想である―宗教との決別 著者:リチャード・ドーキンス |
この本の訳者あとがきをめくっていたのですが。
「水からの伝言」の話が載ってました。ほう、と思いました。
本編の方、3/10くらい読んだかな。取り敢えず中断して、また機会があったら読むかも。
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神は妄想である―宗教との決別 著者:リチャード・ドーキンス |
この本の訳者あとがきをめくっていたのですが。
「水からの伝言」の話が載ってました。ほう、と思いました。
本編の方、3/10くらい読んだかな。取り敢えず中断して、また機会があったら読むかも。
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はてブ経由⇒donga.com[Japanese donga]:生きたフランスの知性、レヴィ=ストロース氏が100歳の誕生日
実は前採り上げたよっ(て言うか、complex_catさん、コメントされてるじゃないですかっ)⇒Interdisciplinary: レヴィ=ストロース
レヴィ=ストロースを読んで無いのはまずいよね、さすがに…。『悲しき熱帯』、まだ読んでいないよっ。
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○第1章 心理学の歴史と研究法の分類(下山晴彦)
§1 心理学における研究法の意味
▼心についての学問
心理学:「psychology」――ギリシア語の「psyche」(心)+「logos」(学問)
哲学――「心についての学問の総称」。心の働き(機能)に関する論理的研究。心理学の思想的起源は、哲学の歴史の中に位置づけられる。哲学の説明は、ちょっと狭く捉えられている気がします。文脈から、哲学の内、心について調べる領域についての話、と見るのが良いでしょうか。
▼心理学の起源
現代心理学の始まり――ヴント(Wilhelm Max Wundt)による心理学実験室創設(1879年)。
研究法――科学的方法の採用。その採用による、文学や哲学とは異なる(心についての)学問としての独自性の確保。ここで「科学的方法」とは、自然科学的方法と読んだ方が理解しやすいと思います。
§2 心理学研究法の文化発展の歴史
1860年、ドイツの物理学者、フェヒナー(Gustav Theodor Fechner)が、精神物理学(psychophysics)を提唱。「心理物理学」とも。ここら辺参照⇒精神物理学 (Psychophysics)
精神物理学――精神界と物質界の数量的対応を実験によって解明することを目指した。→心理学の成立に大きな影響。
心理学は,物理学が科学的実験によって物理的法則を見出そうとしたように,実験的手法を用いて心の法則の定立をめざして成立したといえる。
▼調査法
自然科学:普遍的法則の定立を目指す。
「心」:それぞれの個性(個人差)がある。法則定立的方法ではそれを無視してしまうという見解。→個性や個人差の研究の必要性。→知能や性格といった個人の能力や特長を測定するための心理検査の開発や相関法の発展。→計量心理学や心理統計学の発展――テストを用いて多数のデータを採って数量化し、統計的にデータを解析して一般的傾向を見出す量的調査法の発展。ここら辺の記述、なんか変な気も。計量心理学なんかでは、数学がバンバン出てきますね。知能検査は元々、学習の遅れた子どもを判別して適切な処置が出来るように考えられたものですね(ビネーによる)。
現在は、実験法の他に調査法が広く用いられる。
量的調査法:数量化や統計的方法の使用――自然科学の原理である客観性や論理性の維持が重視。
質的調査法:数量化されたデータでは人の心の現実を把握出来ないといった見解→対象の状況をストーリとして記述質的データを収集、分析する方法として開発。
質的調査・量的調査という考えは、社会調査法などでも見られますね。
▼臨床法
臨床心理学やカウンセリング心理学などの、実践に関わる心理学の位置づけ。
病態心理学や変態心理と呼ばれた異常心理への治療的介入を目的とした臨床法が、自然科学をモデルとして成立した伝統的な心理学の歴史とは別に開発。
フロイトの考えには、批判も色々あるようです。しかし、心の枠組みを考える上で、無意識の概念に光を当てた(無意識の「発見」では無いですね)という功績の大きさは評価されてしかるべき、という見方もあると思います。ここら辺、立場は様々でしょう。痛罵するのも見ますし、無意識概念そのものを否定するのもあるようですね。
自然科学の原理とは異質な方法が含まれている。
悲しい事に、テレビなどを見ると、心理学者や精神医学系の専門家と「称される」人が、犯罪を犯した人物についての断片的情報に基づいて、軽率極まりない分析をしているのを見かけます。臨床的方法の意味を考えると、それは「出来ない」はずなのですが(結局、自身の診断等の経験を一般化して、個人の行動の説明に用いている)。
▼心理学の歴史と研究法
心理学研究法――実験法・調査法・臨床法などの領域に分化。それぞれの領域でも下位領域として様々な研究技法が提案。←主に欧米においてなされた分化発展の歴史。日本では独特の展開をしている側面がある。
§3 研究法による心理学の分類
▼心理学研究法の多様性
心理学の成立に、科学的方法の採用が重要な意味を持っていた。→自然科学とは異なる多様な方法へ向けて多面的に展開。→現在――多様な原理や方法が並立する状況。→心理学を学ぶ者にとっては、心理学の全体像が見えないまま多様な方法を学ばなくてはならない錯綜した事態。本当に、勉強し始めは、途方に暮れました。何がどうなっているのか全く解らなかった。下位分類を示されても、それがどういう意味なのかが理解出来なかったですしね。ここら辺の混乱が、心理学の「科学性」について懐疑的に見られるゆえんでもあるのでしょうね。実際、他分野から見ると、あまりにも整然さに欠けている、となるのかも知れません。
▼多様性を整理する基準としての方法
心理学の全体像が解りにくくなっている原因:分類基準の混乱。
心理学の下位分類:研究方法を基準、研究内容を基準。→2つの基準の混在が、混乱の原因になっている。
研究内容による分類――対象範囲の変化で名称が異なるといった混乱。例:児童心理学・青年心理学・老人心理学・発達心理学・生涯発達心理学 (いずれも発達をテーマとする領域)
そこで,心理学の全体像を明らかにし,心理学を学ぶ道筋を整理するためには,まず心理学の分類基準を確定することが必要となる。この点に関しては,心理学にとっては「研究の方法」が重要な意味をもっており,しかも「研究内容」による分類が不安定であることなどを考慮するならば,研究方法を基準として分類することが望ましいと考えられる。
§4 心理学研究法の分類
▼データの収集―処理の過程による段階的分類
「心理学の研究方法の段階的分類」
研究データを扱うプロセスを3段階に区切り、データの扱い方によって、下位分類を構成。→各段階の下位分類の組み合わせで研究方法を分類。
▼データ収集の場の型:「実験」「調査」「実践」
第1段階
実験――条件を統制し、要因間の因果関係の把握が目指される。感覚や知覚などの分野で用いられる方法。条件を統制するからこそ把握出来る事がある、という。
調査――現実生活の側面について調べるため、条件を統制せず、「その特徴を適切に抽出するようにデータ収集の場を設定」。
実践――実験・観察は、研究対象に影響を与える現実生活への介入を極力避けるように場が設定。実践は、現実生活に積極的に関与するようにデータ収集の場を設定。心理学史的には、現実に関与する研究は「臨床」と呼ばれていた→教育領域や発達領域などに広がりつつある。本書では、現実に積極的に関与してデータを収集する場の型の総称として「実践」を用いる。人類学方面ではフィールドワークとかでしょうか。直接介入する研究。
これらの領域は、それぞれ重なり合う部分がある。メタ分析などは、3者を組み合わせた統合的な研究。
↑↓ここら辺の分類、次章以降を見ると、きちんと踏襲されていないような気もします。多少混乱するかも。
▼データ収集と処理の方法
第2段階
データ収集の方法による分類。
観察――行動を見る事でデータを得る。
検査――課題の遂行結果をデータとする。
面接――会話を通してデータを得る。
これらも総合的に用いられる。面接をしながら被験者を観察するなど。
第3段階
データ処理の方法による分類。
データの
に分類され、マトリックスを構成し、4分類される。つまり、
▼仮説生成型研究と仮説検証型研究
仮説生成型研究――仮説の生成を目的。質的データに基づく研究が相当する事が多い。
仮説検証型研究――仮説の検証を目的。量的データに基づく研究が相当する事が多い。
従来、仮説生成型の研究は、検証型研究の準備のための予備研究として位置付けられる事が多かったが、近年は、独自の意義が強調されるようになってきている。
§5 研究法の分類と本書の構成
ここで示された研究法の全体像が本書の基本構造。
| 心理学研究法 (放送大学教材) 販売元:放送大学教育振興会 |
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お勉強ノートみたいなもの。
用いるテキストは、
| 心理学研究法 (放送大学教材) 販売元:放送大学教育振興会 |
これ。放送大学のテキストですね(2003年版)。内容的には、
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心理学研究法入門―調査・実験から実践まで 販売元:東京大学出版会 |
この本とかなり重なっています。
放送大学のテキストは、スカパーなりケーブルテレビなりの放送授業(無料)と併せて学習出来るというスグレモノ。大学の先生が他分野の勉強をする時にもそうしている、というのも聞きますね。
では、始めます。
※参考・引用文献 『心理学研究法』 放送大学教育振興会
※htmlによる引用箇所以外でも、適宜文章を引用して用いている。
------------
まえがき(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦)
▼心理学の研究は
経験に基づいて仮説を生成し、その仮説をさらに新しい経験によって検証しながらより精緻なものに鍛えあげていく活動
▼研究領域
知覚・思考・記憶・学習・発達・性格・人間関係 など広範囲。対象も、乳幼児や、人間以外の動物にわたる。
------
第I部 序論
○第1章 心理学の研究とは(市川伸一)
§1 心理学は何をどう研究するのか
▼文学、哲学と心理学との違い
作家――日常的な経験の中から、人間性というものについて深く理解し、それを文学作品として表現しようとする。
心理学――ある心理的な現象がどのようなしくみから起こるのか理論を立てて説明しようとする。直接的・説明的・論理的。
哲学者――人間の認識活動、感情や欲求についての様々な理論を構築。思索的方法。
心理学――データを採る。実験・調査・心理テストなどを用いる。実証的方法。
哲学は思弁的で、心理学は実証的という事。また、心理学は経験科学ですね。共通点としては、当たり前ですが、どちらも論理的である事が重要。
心理学の多様な領域。基礎的―実践的。個人的―社会的。それぞれに方法的な特徴がある。
心理学が学際的領域だと言われるゆえん。基礎――応用 という分け方も。
▼意識、内観、行動
心理学の研究対象とは何か?
「心」?
では、心とは何を指しているか――「思い」、「考え」、「気持ち」など、一般的に、意識を指す。
19世紀に成立したと言われる近代心理学(補足:ヴント(Wilhelm Wundt)によるライプチヒ大学における心理学実験室設立が1879年)――心理学の対象を人間の意識と看做し、研究方法として、内観による報告という方法が採られた。
心理学史的には、この年が象徴的に、近代心理学誕生の年と看做せると思いますが、もちろん、精神(心理)物理学などの潮流も忘れてはなりません。いきなり新しい学問が出現する、なんて話は無いので。
意識主義、内観主義への2つの方向からの批判。
象徴的には、精神分析ではフロイト、行動主義ではJ・B・ワトソン、となるかな。行動主義と一口に言っても、そんな単純では無い訳ですが。
2つのアプローチは、方法も体系も全く異なるが、行動を説明する構成概念が心であるとする点は共通(補足:行動主義は「構成概念」を認めているんでしたっけ?)。
直接観測出来ない心というものを構成概念として扱う、というのは、重要なポイントだと思います。
現在は、心理学の対象は、人間の精神的行動であるとされる。精神的行動には、比較的単純な行動(生理的反射・運動機能など)は含まない。
§2 行動の法則と説明概念としての「心」
現代の心理学――被験者の内観だけに頼った研究では無い。「行動」を見ていく事で、対象を、幼児や人間以外の動物にまで広げられる。
▼発達心理学から――乳児の図形の好み
乳児に対する言語的教示(「どちらの図形が好き?」)は、言葉が解らないために、不適切。→乳児が何を選ぶかとうい「行動」を観察してデータにすれば、何らかの法則を見つけ出せる。
様々な行動を、指標とする訳ですね。言語を理解出来ない乳児などを研究対象とする際には、これが重要。視覚的断崖の実験などは面白い。
Fantz(1961)の研究が紹介されている。色々の図形を見せて、「注視時間の割合」を見て、乳児の好みを探る研究。つまり、注視時間を好みの指標としてデータを採ったということ。その研究によると、乳児は、単純な図形よりも複雑な図形を乳児は好み、なかでも、人間の顔の絵が最も好まれる、というのが明らかにされた。※Fantz(ファンツ)の実験、とかでググってみて下さい。
▼学習心理学から――動物の学習の過程
動物に学習をさせる――芸を仕込むように、上手く出来たらエサなどの報酬を与える事を繰り返して定着させる(補足。強化や強化子。条件付けの理論など)。
スキナーのハトの実験とか、トールマンの迷路の実験とか。
人間――「ひらめき」つまり「洞察」という現象がある。動物にもあるか?
チンパンジーの洞察学習――手の届かない所に吊るされているバナナを取ろうとするが上手く取れないでうろうろする。が、しばらくして、下に置いてある箱を積み重ねて足場を作り、見事にバナナを取る。ゲシュタルト心理学者のケーラーによる実験が有名。
▼行動的データとしての内観報告
現代の心理学では、内観を全く使わないという訳では無い。
人間の意識とか心は、それ自体は客観的な存在ではないので、科学的な対象にはなりえない事が、改めて確認された、というのが重要。従って心理学者は、行動を説明するためのもの、つまり構成概念として「心」を捉えている。
内観報告も、言語報告(verbal report)という一種の行動的データとして扱う。それがそのまま心の仕組みを表しているのでは無い(被験者によるバイアスの混入)。発話プロトコル法では、考えている事を出来るだけ即座に言葉に出すのを求める事で、行動の理由を後から説明する際に入るようなバイアスを避けようとする。
心理言語学なんかでは重要でしょうね。認知心理学などでも、内観報告は用いられると思います。
§3 研究のすすめ方
心理学の研究は、データ収集―考察 とが行きつ戻りつしながら、次第に認識が深められているプロセスなので、単線的なものでは無い。ここでは、時間的に短い単位を取り出して、心理学の研究の進め方を大まかに見る。
別のエントリーの、論文の書き方のまとめなんかも、参考になるかも知れません。
▼問題の設定
何に関心を持ち、何を知りたいか――日常的な経験、調査・実験・実践、学術的文献の検討、などから。
自分はこの研究において何を明らかにしたいのか:リサーチクエスチョン
▼データの収集
方法
漠然とした関心や仮説は、データ収集の段階で、「どのようなデータによってそれを示すのか」という具体的方法に結び付けられねばならない。予備研究(予備調査・予備実験など)が重要。
どのような理論・仮説を立て、作業仮説をどうするか。つまり、この仮説が妥当ならば、この実験ではこういうデータが採れるであろう、という見通し。それが無いのに適当に実験してやろう、というのでは、意味が無いですね。どういう方法でデータを収集するか、というのもきちんと考える。
▼分析と解釈
データの分析と解釈。
数量的データ――統計的手法
仮説検証の一つの方法として、統計的検定が伝統的によく使われる。
最重要の道具。この方法を軽視する人も多いと聞きます。でもそれは、料理するのに包丁が要らない、と言うようなもの。せめて、統計的仮説検定の基本的論理は押さえておかないと、大変な事になりますよね。あらゆる実証科学の研究の成果をきちんと検討出来なくなってしまう。でも統計学は難しいんだな。
▼研究の発表
ゼミや学会での口頭発表、報告書や論文などの文章。
研究発表の意義として、
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心理学研究法についてよく参照する本の内容紹介(連載。勉強ノートみたいなもの)を書こうかな、と前から思ってるんですが、需要ありますかね?
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Interdisciplinary: たまには…のコメントへのレス。
それから、Interdisciplinary: テストだそうですのコメントがかなり長くなってきたので(重いですね。今見たら150弱でした)、続きはこっちにお願いします。
------
apjさんが出てこられたのは大きいなあ、と。
いや、思いっきり他人事のように言ってますが、apjさんを召喚(PseuDoctorさんのネタにのってるんですが、解りにくいので長文で説明するという野暮さ)したのは私です…。
私は、finalventさんの書くものは、ちょこちょこ見ていて、非常に広範な知識と論理的認識力を持った方だと思っています(dankogai氏と同じような感じかな)。だから、昨今のニセ科学論について語った時も、注目した訳ですね。もちろん、大きいページビューを誇るブロガーというのもポイントとしてありました。
※余談。私がリンクを示す時に「⇒」を使うのは、finalventさんの影響。
で、極めて具体的で、現在進行形の論について語る場合、既有の知識だけで対処すると、碌な事にならん訳ですよね。dankogai氏もfinalventさんも、見事にその陥穽に嵌ってしまいました。
finalventさんは、dlitさんともやり取りしてますし、ニセ科学論について調べてみれば、と指摘もされたのだから、調べて語るか、調べずに語らないかが、妥当な態度であったと思う訳です。そして、調べずに語った事を批判されるのは受け容れなくちゃならない。それが誠実さだと。
それで、一応は、ニセ科学という概念が、ご自分の認識する「偽科学」と違う、というのは解ったという風に書かれました。まあ、これに関しては、今後語る時は、補足説明なりはしてもらってもいいのかな、と思います。※これまで、「偽科学」を水伝批判などと絡めて論じているからです。 ※ニセ科学批判をする人は、同じ意味で違う語を使うな、とか、違う意味で同じ語を使うな、とは言わない。ただ、言及する時は概念を把握して欲しい、とお願いをします。
と、ここまでが、「ニセ科学論」の話。
今は、科学的な議論ですね。apjさんが突っぱねられたのはその部分。
そんなに責めるなよ、的な激しく的外れな評価がapjさんに投げ掛けられる事もありますが、事は既に、科学の話に移っている訳で。
あれだけ仄めかしておいて、apjさんの疫学理解が不足していると指摘したんだから、それが何故かを詳らかにしなければならない。そこら辺をのらりくらりやってるから、「不誠実」と言われてるんですよね。
極めて具体的な医学・医療に関わる話なんで、適当にお茶を濁されては適わんですよね。
そういう訳で、今後も注目していきたいと思います。
まだ終わってなかったりして。というのと、この先の話の展開が理解できたら、たぶん、驚きますよ。あと、みなさんが気にしている「解答」はいずれ公開します。
偽科学発見テスト - finalventの日記
だから、それが他人のリソースを無闇に消費させてるんだって…。「興味無いなら読まなくていいよ」的な話でも無いでしょ? 私が慌て過ぎなのか? って、そんな事は無いですね。
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定期的に上げといた方が良いでしょうな⇒Interdisciplinary: process
再掲。研究論文を読むための重要なポイント。
研究上の問いは明確に述べられているか?
何を知りたいか、調べたいか、というのははっきりさせときたいよね。
導入,問題の陳述,文献の概観は,読み手に適切に設定されているか? またこの題材は研究上の問いと一致しているか?
文法、作法は大事だよね。
研究上の問いや題材からみて,仮説は適切で,明確に述べられているか?
きちんと論理的に明確で、的外れじゃ無い仮説の構築と提示が重要だよね。
鍵となる術語はきちんと定義されているか?
基本だよね。ゲーム脳は典型的なダメ例。
独立変数はこの研究上の問いに適切か? 独立変数の水準は適切か?
独立変数の基準や基準測度は適切か,妥当か,信頼性があるか?
従属変数は,この研究にとって適切か?
従属変数の基準や基準測度は適切か,妥当か,信頼性があるか? 得点化,評定,判定の手続きは妥当で信頼性があるか? 装置が用いられている場合,それは正確で信頼できるか?
統制は適切か? 結果は統制されていない変数に影響される可能性がないか? 統制群や比較対照群がある場合,それは適切に選ばれているか?
ここら辺は、実験計画の適切さに関わる部分だよね。尺度の妥当性と信頼性とか、重要だね。交絡変数には気をつけるべきだよね。中には、統制群も対照群も取ってない研究とかあるしね。
研究デザインは仮説の検証に適しているか,また研究上の問いに答えるものか?
つまり、主張した事を「確かめられる」デザインになっているか、って事だよね。
方法や手続きは理解され追試できるよう十分な詳細さをもって明瞭に記述されているか? 参加者は適切に方向づけられ,動機づけられているか? 彼らは課題をどのように理解しているのか? 教示は十分に明瞭で正確か? 参加者間のコミュニケーションが,結果への影響要因のひとつになっていないか? デザイン,データ収集,査定,分析,報告の中に実験者バイアスの徴候はないか?
何をどのようにしたか、というのが明らかじゃ無いと、「後から確かめる」事も出来ないよね。それなのに、実証した、とか言ったって、噴飯ものだね。
参加者は適切に選ばれているか? サンプルは対象をきちんと代表しており偏りがないか? 手続きは,実験参加者を保護するための指針を遵守しているか? サンプルの人数(N)は適切か? 参加者をグループ,処理,あるいは条件に割り当てるのに適切な手続きが使われているか? マッチング,均等化,ランダマイズのような群の等価性を確立するための適切な技法が使われているか? 参加者の欠落が生じているか? また生じている場合,それはサンプルを偏らせていないか?
これは統計的な視点だね。とても重要。ランダムサンプリングとか、ランダムアロケーションなどの無作為化の話。ちなみに、サンプルサイズは、一般的には(n)だよね(Nは一般的に、母集団サイズ。間違い、て事でも無いだろうけど)。
統計的検定は適切か? そして,その使用の前提条件に合っているか? 自由度は正しいか? 誤差の測度は妥当か? 計算や統計的な結果の表示に間違いがないか?
やってはいけない事をことごとく実現している人が、血液型性格判断方面にいるよね。
表や図ははっきりと凡例がつけられ正しく表示されているか?
寝屋川調査のグラフとかすごいよね。わざと見る人に解らないようにしてるんじゃないか、と思うくらい。
結果は正しく解釈され,適切に報告され,意味づけられ,きちんと書かれているか?
考察はデータの概観からみて適切か?
結論はデータからみて妥当であり,データによって保証されるものか?
同じデータを処理しても、わがままに解釈する人はいるよね。このデータからはどこまでが言えて、どこは保留すべきか、というのを、きちんと見ないとね。
結果の一般化は妥当か?
一般化可能性への気配りは重要だよね。心理学では、「生態学的妥当性」が重視されたりするよね。達成母集団と目標母集団の関係を考えるのも大切だね。サンプルから得られた結果をどの集団まで拡大するか、という事。
引用文献は本文の中の引用と対応しているか?
倫理的な基準は研究のすべての段階で遵守されているか?
超基本だよね。
この研究を改善し,再デザインするとしたらあなたはどうするか?
これは大切だね。研究の問題点を把握して、より洗練されたデザインにする。総合的な力量が問われるんだろうね。
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クリティカルシンキング―研究論文篇 著者:ジュリアン メルツォフ |
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たまには、ある程度感情をむき出しにした率直な意見も、書かせてくれませんか?
戦略的にもダメだし、印象を悪くするのは覚悟で書きます。
じゃあ自分でやってみろよ。
まともにものを見ず、適当な解釈とめちゃくちゃに曲解した認識を露呈しといて、誤解されないようにしろ、とか、ふざけるのは大概にした方がいいんじゃないか?
コメントは冷静に丁寧にお願いしますね……とばっちりを受けて、皆さんの印象まで敢えて悪くする必要は全然無いので・・。
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確率について、以前から疑問に思っている事があります。
はっきり言って、中学生レベルの疑問かも知れません。でもまあ、解らないものは解らない(開き直りか…)。
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私が、友達と喋っているとします。
ふと思いついて、私はその友達に、当てずっぽうで、「血液型、A型でしょ?」と訊きました。
この場合、私の予想が当たる確率はどのくらいなのでしょうか。
疑問
確率論的には極めて幼稚な疑問なのかも知れませんが、とにかく解らないのです。うーむ。こういうのが書いてある本というのが無いもので…。もしかしたら、「その情報だけでは確率を云々するのは不可能だ」、と言えるのかも知れませんが、それも解らないのです。
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確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 著者:大村 平 |
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演習 確率のはなし 著者:大村 平,小幡 卓 |
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このエントリーには、一部分フィクションが含まれていますが、基本的に実話です。
1・2年前かな。
DSで遊んでいたんです。
ソフトは確か、レイトン教授。
そのソフト、ゲーム中で、タッチペンを使って丸で囲む、というのがあったのです。
それで、その時は、なんかノートでも取ってたのかな。赤ペンが近くにあったんですよ。
はい、後はお解かりですね。
そうです。タッチスクリーンに赤色の丸が。
ええ、最初は、何が起きたか解りませんでした。だって、ディスプレイに赤丸がついたんですからね。普通に丸で囲んだと思った。ふむ、上手くいった、と。
ですが、しばらくしても、その丸が消えない訳です。あれ、と思い、CPUをフル稼働させたのです。その間約1.24秒。
あああああ! てなもんですよ。クールポコの裸の人が叫びそうなシチュエイション。
さて、これはどうしたものか。幸い、保護シートは貼ってある。最悪の自体は免れました。しかし、タッチスクリーンには、赤丸、すなわち顔料(染料か?)の軌跡が燦然と輝いています。
では、ここで問題です。
私はその際、どのような行動に出たでしょうか。当ててみて下さい。
さあ、答えはどれだ?
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痛いニュース(ノ∀`):カレーライスを全部混ぜますか?…78%が「混ぜない」派
あのね…。
カレーライスは、ルウとライスをミックスさせて、すなわち「混ぜて」食する料理では無いのですよ。
カレーライスは、ルウとライスが「層」になっているから美味なのです。「分離」しているからこその味わいがある。
考えてもご覧なさい。
あなたはオムライスを食す際に、チキンライスとオムレツをミキシングしますか? しないでしょう?
卵という「衣」を纏ったライスを口に放り込み、咀嚼しつつ混ぜ合わせる、その過程をも含めて楽しむ訳ですよ。
カレーライスも同様です。その場合には、ルウが「衣」に当たる訳であります。それを口に入れる前から混ぜ合わせるなど、
「無粋」
の一言でしょう。
大体、混ぜて食べるのならば、初めから混ざっていれば良いではありませんか。何ゆえに、ライスの上にルウが「掛かっている」、あるいは、掛けるように別になっているのですか?
混ざったのを食べたいならば、ドライカレーを食せば良い話なのです。
と、こんな事を書けば、「混ぜて食す」派の者達の総攻撃を受ける事、必定でしょう。
良かろう、私は誰の挑戦でも受ける。掛かってき給え。見事私を説き伏せてみよ。
------------
…。
……。
ごめんなさいごめんなさい。
私、どっちもやります(最初から全部混ぜる、というのはほとんど無いかなあ。子どもの頃はやってたけど)。気分次第で。それぞれ違う食感だし、両方美味しいじゃないですか。卵を掛けたりする習慣は無いですが。
それよりも、カツカレーを食べる時の、カツの下にあるご飯をどう処理すべきか、それを議論して欲しいものです。
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テストに関してとか、ニセ科学概念についての理解はどうか、というのは取り敢えず措いておきまして。
この部分が、端的にfinalventさんの認識を物語っているなあ、と思いました↓
このエントリの提起ですが、よく見かける偽科学批判として出てくるものは、水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに、私に対して「お前は偽科学だのオカルトだ」といったの揶揄が飛んでくる。それなら、もう少し難しい例題で、私を批判する人がどれだけ科学的に物事を考えるのか、例題をやってみましょうかということで提起ました。(原文ママ)偽科学発見テスト - finalventの日記(finalvent 2008/11/21 16:33)
特に、
水伝、マイナスイオン、血液型性格判定など、ちょっと利発な小学生なら簡単にわかるようなものばかりで、そんなものを批判してもたいした意味もないに(ママ)
この部分ですね。ニセ科学論に興味を持ち、継続的に批判的活動を行っている方は、頭を抱えてしまうのではないかな、と。
まず、マイナスイオンや血液型性格判断が「ちょっと利発な小学生」に簡単に解る、というのが理解出来ません。前者は物理学の知識が必要で、健康効果や美容効果に関しては、条件を統制した実験によって確認されたか、という所が重要であって(具体的にはたとえば、松下のナノイーの技報を検討したりしてますね)、後者に関しては、血液型―性格 の連関という部分と「性格判断」を分けて考える必要があって、そこを誤認している学者なんかもいます。そもそも、性格判断自体は、その現象があっても全くおかしく無いのですから。
水伝に関しては、その構造自体のおかしさは一般常識レベルで見抜ける、という判断は妥当であろうかと思います。しかし、現実に信じている人が、かなりいます。それは、現象の構造を把握する認識力よりも価値判断を優先したりする人がいるのを示しています。もちろん、自然のメカニズムとして信じている人もいる訳です。
たとえばゲーム脳は、保育学の教科書に、肯定的扱いで載りました(削除される予定)。現在も、森氏による講演は続けられていて、凶悪犯罪が起こると、未だに森氏の見解を訊く新聞社があるほどです。
そういう現状を鑑みると、「そんなものを批判してもたいした意味もない」という捉え方は、私には的外れと言うか、あまりにも「見ていない」としか思えないのです。
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パタポン2 ドンチャカ ♪ 販売元:ソニー・コンピュータエンタテインメント |
体験版があったので、ダウンロードして、やってみました。
実は、ただ新作がダウンロード出来るというだけで目をつけて、このタイトル自体がどんなものかを全く認識出来ていなかったのです。だから、特に期待していたという訳でもありませんでした。
で、やってみた感想。
傑作。
大変面白うございます。
これは良いセンスだ。
いや、実際かなり良いソフトですよ、これ。
ジャンルとしては、リズムアクションとRPGの融合みたいな感じでしょうか。独特のシステムですが、これはハマります。
個人的には、子どもには、こういう、センスに溢れた丁寧でバランスの良い作りのゲームをやらせてあげたいですね。
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仕事力を10倍高める数学思考トレーニング: 大村 平: Amazon.co.jp: 本
仕事力を10倍高める数学思考トレーニング | 書籍 | PHP研究所
今読んでいますが、これは素晴らしい本。とても解りやすいですし、面白い。
こんな文章が書きたいものだよなあ、と痛感しますよ…。
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ドーキンスの本を借りてきました。
手始めに、これを読もうと思ってます↓
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虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか 著者:リチャード ドーキンス |
ドーキンスの本に関しては、a-geminiさんがよく採り上げておられるので、読んだ後にそちらを参照しようと考えています。
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【偽科学批判者の科学的資質を問うための、偽科学発見テスト】
だそうですが、皆さん、どう思われますか?
私の疑問いくつか。
「少くとも「偽科学」は明らかに大げさ。知識自慢したいだけ?」
そうじゃ無くて、ニセ科学に関する知識の無さをどうにかすれば? じゃないかと。
個人的に見解を伺いたい方(本当は、こういうかたちで名指しするのは、リソースを消費させてしまうという意味でも、大変に失礼な訳ですが、アドバイス頂ければありがたいです)
⇒ちがやまるさん
⇒PseuDoctorさん
⇒complex_catさん
⇒たかぎFさん
⇒apjさん
選んだ理由は、ニセ科学論、実証科学の具体的方法、あるいは、医学や疫学の方法に関して明るい皆さんであるからです。
科学的に見て不充分な記述はどこか、という程度の問題ならともかく、わざわざニセ科学批判者を名指しして「科学的資質」を問うなどという言い方でテストと称して問題を出す、という所に違和感を持ちました。マジレスと言われようが柔軟で無いと言われようが、指摘します。
たとえば、finalventさんは、ゲーム脳や血液型性格判断が何故ニセ科学と言われているか、押さえておいでなのかな。
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いずれ劣らぬ強烈なものをば。
B型の人は英語が得意って本当?! - [英語の学びなおし]All About
[決着]なるべく回答して下さい。血液型と性格に決着をつけましょう。 Q1.血液型... - Yahoo!知恵袋
いかがですか。前者はギャグレベルの根拠でものを言っていて、後者は、結局自分の直感に合う回答に共感する、というもの。
「直感は必ずしも事実を反映しない」という「実感」を得るのが、すごく重要だと思います。その実感は、「数字を読む」事を意識したりしないと、なかなか得られないものですが…。
思えば、少年犯罪が激増していると思い込んでいた所に、それが間違いだというのをデータを示されて説明されているのを見た時には、愕然としたものです。
それから、色んな分野で、直感を相対化して「事実」を調べる事にどれだけ工夫しているか、というのを知りました。ああ、なるほどなあ、と。
それにしても、前者の記事、推定も検定も、誤差も、何も考えていないですね。このレベルのものは、さすがにそうは見かけない。どんなにダメなのでも、かたちだけ独立性の検定をしてみせたりするものですが、これは群を抜いています。
後者は、「決着」と言っているのに、自分はこういう意見を受け付けませんよ、というのを初めから書いていて、ほとんど意味が無いですよね、質問として。一体何がしたいのだか…。質の高い回答がいくつかあるのがせめてもの救い、でしょうか。
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不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門 著者:菊池 聡,宮元 博章,谷口 高士 |
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統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス 120) 著者:ダレル・ハフ |
↑大村さんの『数字のトリック』が貼れなかったので、評判の良いロングセラーを。恥ずかしながら、読んでません。参考文献として色々な所で紹介されるので、載せます(大村さんの本でも紹介されていました)。
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私は科学的区別を排除しようとしたのだが、疑似科学批判と言う疑似科学を批判することで自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。
そして、意図せずして科学的に行われた私の疑似科学批判もまた疑似科学に陥る。これを脱するには自らが疑似科学である可能性に常に科学的に言及しなくてはならない。さらに言えばここで行われる科学的言及もまた疑似科学化する。
いくらなんでも、
自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。
この発言は考えられないでしょう。何を意味するのかさっぱり解りません。
正直、言ってる事がめちゃくちゃだと思います。
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科学的とはどういう事か、とか、ニセ科学や未科学をどう考えるか、などのテーマでごちゃごちゃ(本当にごちゃごちゃ)書いたのをいくつか。
応用編
余計な一言。
「気」を見聞きした瞬間にニセ科学だ、そんなものありゃしない、と考える人は、猛省すべきです。
うーん、ごちゃごちゃ。
科学といった場合、「実証科学」を指すのは押さえておきたい所。概念を最大限広げると、「学問」や「個別諸科学」というような、ごく一般的な知識の体系という意味合いを持つので、観察や実験によってデータを集めて理論を構築するという意味での「実証科学」と捉えておくのが妥当だろうと考えています。
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因果関係について。
参考文献:加納克己・高橋秀人 編 『疫学概論 -理論と方法-』
II.疫学の基礎―2.原因と結果(因果関係) を参照して書く。
▼因果関係と関連性
統計学的な関連(association)は必ずしも因果関係(causality)を意味するものでは無い。
▼疫学における因果関係
宿主(host)・病因(agent)・環境(environment)の動的な相互関係、「三角モデル」による因果関係の説明→非感染性疾患についての多要因原因説(multiple causation theory)→従来の3大要因による考え方では因果関係を十分に説明出来なくなった。
アメリカの公衆衛生総監の諮問委員会による、「喫煙と肺がん」の因果関係の判断の5つの条件
Evans AS→非感染症まで適応範囲を広げた8項目を提示。以下箇条書き部分は9ページより引用。
これらは、因果関係立証のための必要条件では無い。疫学的因果関係を判断するための目安。
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余談。
Wikipediaの使い方。私の場合。
ブログのエントリーなどで、Wikipediaの引用がなされる事がありますね。
で、それに対して、Wikipediaの記事を引用するとは……という批判がつく場合がある。記事に信頼性があるとは限らないではないか、というようにですね。
私の使い方は、こうです。
●当該対象について詳しく無い場合
この場合は、記事に書かれてある内容が適切であるか判断出来ない訳ですね。当然です。知らない事について、Wikipediaによればこういう意味のようである、と紹介するのだから。一般的な辞書を用いるのと同じ文脈。
で、私はこういう時には、記述が正確で無い事をあらかじめ断って引用します。WEBで他に参考資料が見つからない際には、そうやっていますね。
まあ、でも、知らないものについては、なるだけ引用しないのが無難とは言えます。学術的なものである場合なんかは、時間を掛けてでも、大学の専門家のサイトを探す、とか。なので私は、芸能とかサブカルチャーが主かな。
●当該対象についてある程度詳しい場合
この場合だと、記事がどの程度信頼出来るか判断出来るので、参考資料としてきちんと提示する訳ですね。自分はこれについて調べているが、このWikipediaの記事はよく出来ている、だから参考資料として紹介する。といった具合です。もちろん、その信頼性の評価は、紹介した時点での版に関してですが。
この観点からすると、Wikipedia「だから」信用ならない、とは必ずしも言えない訳ですね。中には専門家が編集していたり、豊富に参考文献を示していたり、といった、優れた記事もあるのですから。
ですから、Wikipediaの記事を紹介している事をもって、全体が信用出来ないものである、とするのは妥当では無いでしょうね。Wikipediaに信用ならない記事があるからといって、他のものも概ねそうであろう、とは論理的にならない。編集の仕組みからいってもそうなんじゃないかな、と。
もちろん、基本的には、専門書や論文レベルの文献よりは、資料的価値としては劣る、と考えていた方が良いとは思います。あるいは、固定された記事と考えるのでは無く、ノートや編集履歴も含めて一つのコンテンツとして見る、という。
いずれにしても、使い方によっては有用なものとなろうかと思います。
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あのですね。
科学と信仰は違う、一緒にするな。そうやって語るな。
というんじゃ無いんですよ。
科学を信仰という面から見るのは、人文・社会科学的にも非常に大切な論点でしょう。初めからその視点が問題とされているなら、そのテーマで有意義な議論をすれば良い。
んで、ニセ科学論てのはそうじゃ無くて、極めて具体的な話な訳です。実証のプロセスを経ているか、とか、実験や観察の方法の適用は妥当か、とか。
そこをすっとばしてメタなレベルに視点を持っていって、科学と宗教の共通点を見出したりして一般論を語るのは、筋が違うのです。相違点もかなりある訳なので。
だから言ったのです。私が発端なのに置いてけぼりにされた、と。
私は初めから、「ニセ科学」の論について理解していますか、という意味でコメントしたのですよ。ニセ科学と看做されるものにどういうのもがあって、それが何故ニセ科学と判断されるか、というのを知っているか、と。
ニセ科学論の重要な論点として、その当時のスタンダードな方法に則っているか、というものがあります。たとえば、古川の血液型と気質の連関を調べた研究というのは、科学であった訳です。
現在ニセ科学と看做されているものが、将来実証される場合も、可能性としてはある。だけれど、それが、現在のニセ科学という評価を覆すのでは無い。
と、こういう論理を理解しているのか、という話だったのです。
科学哲学の議論そのものでは無いし、関連しない訳でも無い。実証科学の方法という観点から判断する問題。
にも拘らず、どんどんずれていってしまったんですね。
まあ、そういう事です。
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Interdisciplinary: ニセ科学の見方の続き。
はてなの方は、ニセ科学の議論でも何でも無いというのが判明したので、こちらの有意義なやり取りを進めましょう。
lifecrack - Blog: ニセ科学を信じることを許してはならないか?
しかし、やはりニセ科学と未科学を見分けるのは、なかなか難しいですね。
それでも、少しは理解できたと思います。
たとえて言うと、ゲームのジャンル分けにも通ずる所がある気もします(もしゲームをされないのでしたら、有用な喩えになりませんが、だとしたらごめんなさい)。基本的には専門的な知識なので、具体的に見分けていくのが難しいのは、ある意味当然ですよね。
とすると「ニセ科学を信じる」というこ(原文ママ)に対して、いかなる寛容さも許すべきではないということでしょうか。
これはちょっと違うと思います。何を信じるかは、個人の自由かと。ただ、考える訳です。信じる事は他者に情報を広める可能性を必然的に持つ、と。
だから、信じる事を許さない、と言うより、信じるからには批判されるリスクは甘受すべきである、と言った方が良いでしょうか。
ところで、「寛容さも許すべきではない」という文は、「信じている事そのものを非難する」、という意味合いに取れます。文脈からも、そう見えます。その後に、
どうも私には、最近「ニセ科学への批判」ではなく、「ニセ科学を信じる人」や「ニセ科学を信じる人(こと)へ寛容さを示す人」を一切許さないというような批判が増えているように思えて、そこに違和感を感じるのです。
こう書いておられる事からも。
この引用文については、まず、
「増えているように思えて」の部分が妥当であるか、という所を考える必要があります。
私達は、あるトピックについて議論が盛り上がった際、その目立った部分に着目します。しかし、そこで見た反応が典型であるとは限らない訳です。
また、言葉が広まった結果、「知っている」人間が増え、そして、強い非難を向けている人も多く目につくように「感じる」という可能性もあります。
ちょっと伺いたいのですが、「増えているように思える」のは、何を観察した結果の考察でしょうか。もしかすると、はてブの反応、あるいはあのエントリーにTBをつけたエントリー群、でしょうか。
端的に言って、はてブのコメント等も、ニセ科学の概念をきちんと理解していないだろうと推測されるものが、かなりあります。それは当然ですよね。また、ブクマコメントの文字数制限なんかも、印象形成に影響しているかも知れません。
もし信じる人に対して一切の寛容さを示さない論者がいるとするなら、私は賛同しません(下でも書きます)。
そもそも田崎教授が水からの伝言に対して批判を行われたのは、影響力が大きい教育の場でニセ科学が使われるという"実害"の大きさに危機感を感じたからではなかったですか?
その通りです。優先順位の評価というのは、論者の対象への重み付け次第です。私がゲーム脳に最も重きを置いているように。そして、教育現場で用いられる、等を問題視する人は多いでしょうから、強く批判されるものは、ある程度リストアップされてきます。
ニセ科学批判というものが盛り上がりを見せる中で、ニセ科学のみならず、オカルトやスピリチュアルなどに否定的な人まで参加して、"ニセ科学やオカルトを信じている人"への批判、さらには批判とよべないような"叩き"が増えているように思います。
上と同じです。オカルトやスピリチュアルを含めて無反省に「ニセ科学」として批判するのは、少なくとも昨今の日本におけるニセ科学論に関して無知である、と言えます。そういう人は批判します。
思うのです。
何故そういう反応を一緒くたにして、ニセ科学批判者の態度一般であるように表現なさるのでしょう。それは、かなり早計ではないでしょうか。
それがあまりに攻撃的だったりすると、正直、見ていてうんざりしてしまうこともあります。
私もうんざりします。とてもうんざりします。
質問です。
私の認識や態度は「攻撃的」でしょうか。
「ニセ科学」という語を用いてそれを批判する論者には、色々いる訳です。誤った認識で用いていても、それを見抜くにはニセ科学論の知識が必要だから、誤解も相当受けるのです。
ニセ科学批判者というのは、あまり知識が無い人からすると、ニセ科学という語を用いて何かを批判している集団、としか捉えられないのですね。でも、実態は、様々な論者が様々な理解で批判しているのです。
だから私は、菊池教授や田崎教授、天羽准教授の論を踏まえるべきだ、と言っているし、なるだけ丁寧に説明しようと心掛ける訳です。色々な態度の人がいる以上、自分が丁寧な態度を示すべきだと考えているのです。こうした方が良い、と言いつつ、自分もやる。
知識不足を埋めるための方法には、2つあります。
一つは、勉強して知識を増やす事。
もう一つは、自分の知識に合わせるように現象を解釈する事。
ニセ科学はこう用いられていて、こう誤解する人もいる、というのを理解するよりは、ニセ科学という語を用いて何かを批判している人達には一般的にこういう傾向がある、とメタに解釈してしまった方が、楽な訳です。
「ニセ科学を信じること」や「ニセ科学を信じることや、ニセ科学を信じている人を『まぁ、害がないなら良いんじゃないの』と許容すること」それらは許してはならないことなのでしょうか?
もしかすると、ニセ科学を信じる人への対応や考えが一様である、と思ってはおられないでしょうか? 信じ方、広め方、用い方、は様々です。ですから、色々なアプローチがあります。ニセ科学の主唱者への言及と、ふとしたきっかけで信じるに至った人への言及は、違う訳です。一般論として、上にも書いたように、ニセモノを信じる人は、それはニセモノだ、と批判されるリスクは負うべきです。しかし、具体的にどう接するかは異なるでしょう(ああ、ここら辺は、poohさんの所を見てもらった方がいいかも…)。
ちなみに、ゲーム脳Q&Aは私が作ったものですが、ここでは、「ニセ科学」という言葉は一度も出していません。そういうアプローチもある、という事です。
ものすごく端的・率直に言うと、私だってニセ科学的なものをいくつも信じてきた訳です。それを棚に上げて、信じる人間一切を許容しない、なんて考えは、持った事は無いのです。多分(多分、ね)、ここをよく読んで下さる方は、理解して下さっています。なぜなら、そういう事をくどいほど書いてきたから。
アドバイスと言うとすごく偉そうですが……はてな辺りの議論は一端忘れて、kikulogやPSJ渋谷研究所X Chromeplated Rat:So-net blogなどのログを読んでみて下さい。もしかすると、印象が変わるかも知れません。批判者同士で批判、とかよくやってますしね。
なんか、返答になっているのかなっていないのかよく解らない文章になってしまいましたが、こういう感じですね。
関連エントリーいくつか。
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ニセ科学は、それがニセ科学だと表明されていれば問題は無い、という類のロジックの話。
これはニセモノですよ、と言いながら説を紹介したりするので、「本物と誤認させる」という意味でのニセ科学では無くなりますね。
ただ、実態としてはニセモノである事には変わり無い。
呼び方として、ニセモノだと皆が解っている、言っている人自身がそう認めている、のであれば、その場合には、価値判断をはずした「疑似科学」とする、というのも出来るかも知れないですね。使用する目的の偽造紙幣を「偽札」と言う事はあるけど、似せて作ったおもちゃのお札を「偽札」とはあまり呼ばないように。
まあ、そう使い分けるべきだ、という事でもありませんけれど、押さえておいても良いかな、と。
だから、SFで世界設定に用いられたりするのを「ニセ科学」と呼ばず「疑似科学」とする、というきくちさんの用法←2008年11月18日追記:コメント欄参照の事っていうのは、やはりなかなか考えられたものだな、と思う訳であります。
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lifecrack - Blog: 私もわからんです。:2008/11/16 14:39
こちらのコメント欄でやり取りをしていたのですが、あまり何度も長文を投稿するのは良くないので、エントリーを上げます。
▼▼▼引用▼▼▼
これは、ほぼイコールだと見る事が出来ます。なぜなら、「効果がある」という主張そのものが、「効果の実証」を含意するからです。
見方を変えると、「効果がある」に「実証された」という意味を含ませないとするならば、「効果」が何を根拠に主張されるのか、という事です。
▲▲引用終了▲▲
▼▼▼引用▼▼▼
そうすると、初めから超越的・形而上学的な概念を説明の体系に組み込むものは、基本的にはニセ科学とは看做さない、という事にもなると思います。
▲▲引用終了▲▲
どうもまだよく理解できていないみたいです。
物分りが悪くて申し訳ありません。
「効果がある」というのは論理的に、
などの意味を含んでいますよね。そうで無いと、あるものの「効果」と言う事は出来ない。効く人もいるけど効かない人もいる、という意味合いでは、普通「効果」は謳わない訳で。
後者。
説明原理に、神や気の概念等を持ち込んで、閉じた論理体系を構築すれば、それをニセ科学と看做す事は、私はしません。神の方は検証不能ですし、気の方は、構成概念のメカニズムがブラックボックスの仮説と看做せるからです。気はある種の電磁波だ、などと言ったりすれば、それはアウトでしょうね。
やはり私にはニセ科学とは看做されないものと、ニセ科学と看做されるものを見分ける基準を理解するのが難しいです。
前にも書いたように、基本的には実証の手続きを経たか、という観点から判断されるものなので、それは比較的容易な訳です。グレーゾーンであるものや、説明が込み入っているものを、敢えて「ニセ科学」と判別する必要は無いので。それが、別にニセ科学批判は、説をニセ科学と判断してまわる事では無い、という言い方に繋がってきます。
TAKESANさんは「針治療はニセ科学だとは考えていない」とおっしゃいました。
私は不勉強なので、現在針の効果がどの程度科学的に実証されているものなのか知りません。
確か、一時期アメリカで「針治療を保険の対象に含めるか」で揉めたことがあったと思うのですが、そのときも結局明確な結論はでないままだった気がします。
やはり、東洋医学の根底に流れる、経絡、つぼ、気”の循環などが議論の対象となっていたと思います。
針治療と気功による治療、またつぼを刺激することで「治療効果がある」と主張する治療行為、これら違いは何でしょうか。
東洋医学とホリスティック医療などで用いられるインド医学「アーユルヴェーダ」を分ける差異というのもよくわかりません。
どっちも、いわゆる科学から外れた理論によって構築された医学であるように思えますし、東洋医学の方が広く普及したぶん、科学的な検証も多くなされて解明され実証されたもの多いのでしょうけど、ならばインド医学だって今後普及して行く過程でさまざまな検証が行われていくんだろうから、頭っから否定することも無いのかな? と思ってしまいます。
これについては、そもそも、「鍼治療」や「気」の概念等が多義的である、というのを押さえておく必要があると思います。鍼治療を、気や経絡等の東洋的な思想と絡み合った複雑なシステム総体と看做すなら、それ自体がニセ科学であるか否か、というのを判断するのは難しいでしょう。
ですから、ある部分を取り出したりしてきちんと定義して確認する、という必要があるかと思います。鍼治療であれば、特定の部位に鍼を刺して、体調や心理状態が改善するかどうか、というのを、メカニズムはひとまず棚上げにして(無視する訳ではありませんが)確認していく。そうして効果が確認されれば、鍼治療は科学的である、となるでしょう。現在の所は未科学と見るのが良いと思いますが、これは論者によるかも知れません。
ちなみにニセ科学とは、実状と主張との乖離の度合の評価でもある訳です。どうやら鍼には体調改善効果があるようだ、というエビデンス(証拠)が見つけられたとして、それをそのまま言えば充分科学的ですが、「ガンが鍼によって根治した」などと言ってしまってはいけないのです。
※繰り返しますが、田崎さんの文は読まれましたよね? よくまとまっているので、是非お読み下さい。
余談ですが、私の「気」についての考えは、こちらで書いています。ご参考まで⇒●Interdisciplinary: 気感を科学的に考える ●Interdisciplinary: 気とはシステムである
アーユルヴェーダに関しては、私は知識を持っていないので、何とも言えないです。一般論としては、どのように効果を謳うか、原理として何を用いるか、というのが総合的に検討されると言えるでしょう。グレーゾーンならグレーと言えばいいのですし。温泉の効能書きはニセ科学か、という議論もありましたが、議論があるという時点で、それほど真っ黒とは看做せないのかな、という判断も出来ると言えますね。
ニセ科学批判というものをみていると、オカルトやらスピリチュアルやら時には宗教まで"ニセ科学"の枠のなかに一緒くたに入れられて批判されているものなどもよくみます。
私も見ます。そして、それを批判します。右サイドバーにwikiがありますが、私はその記述と同じ認識です。
でも、ニセ科学に対する批判というのは「"ニセ科学を信じること"そのものが問題だ」という批判だと思います。
「実害がなければ、別に信じてても良いんじゃないの」という話ではないようですし。
一行目。
信じる事はすなわち、ウソを本当だと信じる事なので、それは問題だと思います。要するに、科学ではこうなっているのに、科学では「こうでは無い」と言っている人がいて、それを信じ込む人がいる、という話ですよね。
二行目。
これはよく解らないのです。実害がある/無い をどう分けるか、という問題もありますし、ニセ科学は偽札を本物だと言ってばら撒くようなものなので、それ自体批判の対象となります。偽札を掴まされた人は、本物だと信じて店で使うかも知れない訳で。個人で信じて他者に全く影響を及ぼさない、という状況が、かなり珍しいのではないかな、と。他者と交流せずにニセ科学を信じる、というのが果たして現実的にあり得るのかどうか…。
しかし、「ニセ科学」とそれ以外のものを見分けることが多くの人にとって本当に可能でしょうか?
当然不可能です。不可能であるから、実はニセ科学というものがあるのだ、と周知しようと試みている訳です。重要なのは、「専門家」や「科学者」がニセモノを広める、という事なので、それを知らせているという面があります。
実際のところ、水伝に対する批判がこれだけ盛り上がったのは、"水伝を批判するのに科学的なリテラシーなんてたいして必要ではなかった"からではないでしょうか?
いや、水伝を批判するには、それなりの科学のリテラシーが必要だと思います。自然科学の面では。水伝批判が盛り上がったのは、それが象徴的に批判者によって採り上げられるというのもあるし、「言葉」という人間にとって普遍的で馴染み深い(自然科学より遥かに)トピックに関わるものであり、さらに、それが道徳教育にも用いられた、という事情があるからではないかと考えています。
実害への批判ならば誰にとっても解りやすいし、「"ニセ科学やオカルトや宗教やその他もろもろが一緒くたにされたもの"への批判」であっても、「信じることで発生する実害」に対する批判ということで統一されて、それほどおかしなことにもならなし、混乱も少ないのかな? と思ったのです。
私はそうは思えません。ニセ科学とオカルトが一括りで批判されるのは、レイヤが異なるものを一緒にしていまっていると考えます。ニセ科学は、ある程度対象を狭める事で、問題を解りやすく、論点を明確にしたものです。未だに、ニセ科学批判を科学哲学上の問題とほぼ同じように捉えている人もいるのですが、それは、伝統的な境界設定問題を引きずり過ぎていると思うのです。
「ニセ科学やオカルトや宗教やその他もろもろが一緒くたにされたもの」を批判するならば、それらに共通する要素をきちんと見出して概念を定義する必要があると思います。
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知らない言葉があったら、ドラッグして、検索窓に、入れてみよう。
みたいな。なんか標語のようですが。もちろん、トップに出たのが信頼出来るとは限らないですが。
はてブつけたりした人で、改めてニセ科学とは何ぞや、というのを調べた人はどのくらいいたのだろうな、と思ったりするのでした。
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ニセ科学に関しては、きくちさんの『ニセ科学入門』と、ニセ科学批判まとめ %作成中 - トップページ(執筆時点でメンテ中)の内容は、押さえておくべきだと思います。wiki周知されな過ぎ。最高に優れたコンテンツの一つなのに。
昨日のエントリー関連で、色々な反応があったようです。いくつか見ていきます。
まず、科学とニセ科学の境界について、それは反証可能性の有無によって判別される、という意見がありました。反証可能性は大変重要な概念ですが、それだけでは基準とはならない、というのが、今の科学哲学的な見方だと思います。伊勢田哲治氏の論考を参照。
次に、「ニセ科学」が「詐欺」を含意している、という所。これはどうなのでしょう。「詐欺」というのは、一般的には、故意である事が含意されるのかな。だとすれば、ニセ科学は必ずしも詐欺とは言えないと思います。正しいと思い込んでいる場合があるから。で、わざとだろうがそうじゃ無かろうが、間違った主張をしているので、批判の対象になる訳です。
▽ここから追記部分▽
はてなブックマーク - 科学とニセ科学と宗教 - 不動産屋のラノベ読み
2008年11月15日 filinion 読み物, これはすごい, 科学 科学はその主張の真偽を検証できる。宗教は検証できないが故に反証不可能である。疑似科学は、検証可能でしかも誤っている。/人間の理性も有限で、常に正しいとは思えない。が、もっとマシな道具がないのも事実。
「ニセ科学」論として見ると、ニセ科学は、検証可能か否かは条件では無く、「間違っている」事が必要条件という訳でも無いですね。ニセ科学は、まだ解っていないものを「解った」といったり、既に解りきっているものに「間違っている」と言ったりするもの。
後者は、前者と裏表だったりもしますね。たとえば水伝は、物質の振る舞いについての新しい論理を見出したと主張すると同時に、これまで積み上げられてきた知識が全て間違っているのが解った、と言っているに等しい。それは、理論の部分の修正によって取り入れる事が可能な主張では無く、自然科学の体系を崩壊させるものですから。
△ここまで追記部分△
ブログでの反応について。
大筋で同意ですが、細かい所をいくつか。
「ニセ科学批判」というのは,社会的に有害な疑似科学を問題とすることです。
これは、Wikipediaの「疑似科学」の項の記述を踏まえたものだと思います。ですが、もう少し丁寧に見ていく事も出来ます。
まず、一般的に言って、「ニセ科学批判」というのは、「社会的に有害か否か」という部分が必要条件では無いと思います。というのも、ニセ科学というのは、科学を騙っているというその部分が批判される所であるからです。有害か否か、というのは、社会的な評価が関わってきますよね。当然そこには、論者の価値観が影響してきます。私が何よりもゲーム脳説を優先して採り上げているのも、私なりの理由があります。
また、有害性を批判の根拠にすると、有害で無ければ批判出来ないという事になってしまうので、それはちょっと異なると思います。
もちろん(これは重要です)、これは有害である、と多くの人が判断する対象、というものに傾向が見られるのはあると思います。たとえば、教育現場に持ち込まれる(水伝、ゲーム脳)、医療現場に持ち込まれる(ホメオパシー)、それ自体が差別的構造を持っている(血液型性格判断)、等。後、今どのくらい流布しているか、という量的な観点も考慮されるでしょう。
だから結果として、高い有害性を持っていると思われやすいものに対する批判が目立つ、というのはあるでしょうね。ただそれは、有害だから批判する、というのとは、少し異なるかと。いわゆる「優先順位問題」とも関わるかも知れません。
それで、
科学であると偽っていることではなく,社会に対して害があることを批判しているのです。
この部分については、まず批判されるのは「偽っている事である」、となるかと思います。その上で、有害性が高いと思われるものが優先して批判されている、と。
そして、これがかなりポイント。
Wikipediaの「疑似科学」の項は、ある人が編集した形跡があるので、そのまま信用は出来ないので、ご注意を。
他の部分については、とても丁寧に論じておられて、参考になります。中でも、
ただ,一つ言えるのは「ニセ科学批判をする科学信者たちが集う唯一の純粋な科学教団」みたいなものは存在しませんよ,ということです。
ここは重要ですよねえ。
▼2008-11-15 - trash Box eXchange
読み違いをされているという事では無いと思うのですが、一応説明しておきますと、
この観点の違いは、「ちょっとくらい調べてみて」わかることがらではないと俺は思う。
私は、ちょっとくらい調べてみれば解る、という含みは持たせたつもりはありませんでした。むしろ、ちょっと調べてみれば、そんなに簡単に論ずる事が出来ないのが「解る」かも知れない、という意味を含ませたかな。だから、さっぱりわからないと書いたからには「説明」出来ますよね、と指摘した訳です。ニセ科学のどこが問題か解らないという意見の表明は、ニセ科学など別に問題では無い事が解っている、という主張と、あまり変わらないので(文脈を考えると、「この数学の問題はさっぱり解らない」というのと同じ用法とは考えにくいので)。
変な言い方ですが、ニセ科学論がちょっと調べたくらいで理解出来ないのは、私は多分、よく解ってます(笑) 私自身、物凄く調べたという経緯があったりしますしね。
他の部分は、興味深いですね。個人的には、哲学からのニセ科学論への言及なんかは、もっとあってもいいんじゃないかと。
余談ですが、はてブでの反応で、これだから文系は、的なコメントがありましたね。そういうのは止めましょうよ。哲学とか、徹底的に概念を突き詰めていくめちゃくちゃ厳しい分野じゃないですか。まるで、文科系学問の議論が基本的に粗雑であるかのような物言いはね…。自然科学に詳しく無いという意味で「文系」が用いられる事もあるけれど、ニセ科学論は、もうちょい広いですからね。それも妥当じゃ無いと思います。
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はてなブックマーク - ブックマークで妄想をよそ行きに。 / 2008年11月14日
あんま関係ないけど、ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん。本人が信じてればいいんじゃないのか。/そしてこの記事にこれ見よがしに並ぶ怪しい広告たち。世の中は奥が深い。
「ニセ科学のなにがいけないのかさっぱりわからん」そうですよ。
何が問題だとされているか、とか、そもそもニセ科学とは何であるか、とか、ちゃんと調べた上で書いているはずですよね、当然……と言いたいけど、「本人が信じてればいいんじゃないのか。」なんて書いている時点で、ほとんど何も調べていないんだろうなあ、というのが推察されますが。
ちょっとくらい調べてみてからものを言えば良いのでは、という感じです。
ここから追記。2008年11月15日記。
はてブに対して反応がありました⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想
問題視している人が沢山いることと私の説明責任の関係はいまいち不明だが
私は、説明責任の話はしておりません。「ニセ科学の何がいけないのかが解らないと言うからには、それを説明する責任がある」、という事では無く、「非常に多くの人が問題視している対象に関して、何がいけないのか解らないと言うからには、”ニセ科学という概念を理解した上で、その理由を詳しく説明出来るはずだ”」、という意味です。
しかし、エントリーを読むと、おそらくほとんど調べておられない事が、よく解ります。
ニセ科学に関しては、右サイドバーにあるリンクや、ここの「科学」カテゴリー(ニセ科学論と科学一般の話は分けていないので、ごちゃごちゃしています)、あるいは、菊池誠教授@大阪大学のWEBサイト等をご覧下さい。
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先日、手の内について書きましたが⇒Interdisciplinary: 手の裡の事
ちょっと内容を説明しますと、合気杖の話です。
で、どういう風になっているか、というのと、普遍的にそうなっているだろう、というのが、ほぼ解明出来ました。
次は、何故そうするか、という部分ですが、これはよく解りません。理由があるはずなのだけれど。
えっと、話を理解出来る読み手がかなり限定される、マニアックな話ですが、ちょっとヒントを。多分、これが出来ていない人はかなり多いので。あんまり詳しくは書きません。
ポイントは、剣と杖の持ち方は全く一緒な訳では無い、という所。
手の内の普遍性、つまり、どんな武器でも持ち方は同じだ、というのは、結構刷り込まれる事のように思いますが、実はかなり違う、というのを認識する。
もうちょいヒント。
斉藤先生の突き手をよく観察する事。
質問は受け付けません(無いだろうけれど)。悪しからず…。
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Interdisciplinary: 科学や若者を嫌いな人達に反応がありました⇒ニセ科学批判のエビデンス - SS1 の日記
読み方として筋が良くないもののように思われましたので、言及します(スラドの日記って、TB出来ないんでしたっけ?)。
「その批判のやりかたはどうなのよ」とおもったので
これは、言及したエントリー、つまり私に対しての文と思いますので、その前提で進めます。
それは「ニセ科学的な批判だから」じゃなくて
ここがちょっと解りません。私はそもそも、「ニセ科学的な批判をした」事をもって甲野氏を批判した訳では無いですし。いや、その前に、どの部分にこの文が掛かっているか判りづらいのですけれど…。
参照しやすいように、元々の甲野氏の発言(著作に収録されたもの)を再掲しておきます。
甲野氏:科学者というのは、自説を正しいと信じ込むと、広い立場で客観的に検討することを嫌いますよね。例えば、よく地震の時に「地震雲」という独特の形の雲が出ることが伝承で知られてきているのですが、科学的な地震学者は決して認めようとしません。
一度私は、高名な地震の専門家が地震雲に対してある所で「地震と雲は関係ありません」と断言したので、「いままでの歴史を調べてみると、人が死ぬような大地震の時、雨が降っていたという話は全く聞いたことがありません。とすれば統計学という学問もあるのですから、天候と地震の間には、何か関係があるのではないかと考える方が、科学的な態度ではないのですか」と尋ねたのです。
そうするとその人は、「ああ、これだから素人を相手に話すのは嫌なんだよ」といった白けた顔をして黙ってしまいました。(P252・253)
これです。この部分について、
ようするに,これって科学的な言い方に翻訳すれば「その話の,根拠(エビデンス)は何ですか?」っていうのを甲野さんが聞いたという話ですよね。それに対して「いい質問ですね^^;」の一言も返せずに,指導教官にレポート叩かれた学部生みたいにむっつりと押し黙ったのが,その(私の推測では教授職以上の)センセーですよね。つまりエビデンスないんでしょ。そんな教授いたらバカにされて当然じゃん。と私は思います。
こう読み取るのは、どうでしょう。甲野氏がエビデンスの話をした、なんていうのは、甲野氏にあまりに好意的過ぎる解釈なのでは? 翻訳として妥当かは疑問です。
私が言ったのは、科学に関する議論で、統計学的ツールを用いて解析するのは当たり前だ、という事です。つまり、料理人に対して「包丁という便利な道具があるからそれで調理してみては?」と言うようなものでしょう。対して、エビデンスはあるのか、という指摘は、どういう包丁を使ってどう調理したのか、と問う事だとたとえられるでしょう。
そう考えてみると、エビデンス云々という所を甲野氏が意識出来ているとは、過去の発言等を鑑みても、非常に考えにくい訳です。統計的にどういう根拠があるのですか、という話じゃあ無くて、統計っていうツールがあるんだからそれで調べれば、という話。そんな事をプロが言われれば、普通はつっけんどんになるでしょう。もちろん、専門家氏に対する甲野氏の印象も、甲野氏の主観によるものです。私はその記述を一応前提としていますが、詳細なやり取りは無い、というのも押さえておくべきだと思います。
私は、甲野氏の一連の発言を考慮して批判を展開しているので、そこは踏まえて頂きたい所です。
で,その教授は,きちんとした日本語で説明できさえすれば納得していただけるだけの教養のある甲野氏のような人物に,ちょっとつっこまれただけで,厨房よろしく押し黙ったわけですよね。
その設定はどこから? 甲野氏は、ムチャクチャな科学批判を展開している方ですよ。それはご存知ですよね? 甲野氏の記述から、専門家氏が「厨房よろしく押し黙った」とは、私には全く読めませんでしたけれど。専門家が痛い所を突っ込まれて黙り込んだ、というストーリーを設定しているのかな。
そんな人間が入学したときに指導教官になることを考えて御覧なさい。まともなエビデンス・ベースドの会話が出来る能力が,その生徒に身につくわけ無いでしょう。そんなの許していいわけないです。
いや、ですから、上の設定を前提にしてるのは何故? それと、高名な武術研究家(と自称)とのコミュニケーションが、即学生とのやり取りと対比され得るのでしょうか。
そういう類(たぐい)の質問を甲野氏はぶつけたわけですから,やっぱり「いじわるだなぁ・・・」というのが,私の感想。
過大評価じゃないかな。大体、いじわるでもなんでも無い質問です。そんなのをいじわるだと思うような専門家なら、それはかなりダメなレベルな訳ですが、そんな事は、甲野氏の記述だけからは読み取れません。むしろ、これまでの甲野氏の発言を鑑みて、あまりに初歩的な所を訊かれたので困惑、あるいは呆れた、という解釈の方が妥当でしょう。無論、実際どうだったかを断定するのは不能ですが(専門家氏が誰であったかが判明しない限り)。
後半は、どこの文が誰の発言や主張に掛かっているのか、かなり判然としません…。
証拠が無いから無いと看做すのは、科学として当然の態度。あ、一応。証拠が見つかっていないのは、「関係無い証拠が見つかった」、というのと必ずしも一致しません。定義の問題もありますし。そこを考えると、専門家氏の「断言」の程度がどのくらいであったか、というのが気になる所ではあります。
ところで、apjさんの所をお読みなくらいだから、ニセ科学の概念については押さえていらっしゃいますよね。
なんか、血液型性格判断の話とかぶる気もしますが、気のせいかも知れません。
って、私、
話に出てくる学者氏が、その様な態度を取ったのも、ある意味当然だと思います。甲野氏が指摘された様な事は、「当たり前」です。で、(推測ですが)それを踏まえた上で、「地震と雲は関係ありません」とした筈です(地震雲と呼ばれるものと、地震との関係については、余り知りません。科学的には概ね否定されている、というのを見聞きした事がある程度です。「関係無い」と本当に断言したかも気になる所ではありますが)。勿論、学者氏が、具体的にどの様な言い方をしたのか、態度を取ったのかは、定かではありませんが、いかにも、科学者の「融通の利かなさ」を仄めかす様な文章です。
ちゃんと慎重に書いてるじゃないですか。
もちろん、私は甲野氏にバイアス掛けて論評している訳です。そのバイアスとは、それまでの言動に基づいて、今までこういった事を言ってるからここではこんな考えだったのだろう、と推測をする、という事です(それをわざわざバイアスとは言わない気もするけど)。『現代のエスプリ』なんかでも、ムチャクチャな話をしてるんですよね(手許に無いので引用出来ませんが)。
あ、ドーキンスについてのやり取りに似てるような…。他者の主張の解釈は、こういった展開になりますね。
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問題。
「どの筋肉を使って、横隔膜を上下させるか」密息と原腸 (内田樹の研究室)
この文章には、少し変な所があります。それはどこでしょうか?
------------
現代人は「目に見えないもの」は「存在しない」という信憑に冒されているので、深層筋の操作のような外形的には見えない身体運用には関心を示さない。
いやいや。そんな大袈裟でややこしい話では無くて。単に身体運動のメカニズムの知識(解剖学やバイオメカニクス)が不足してるだけです。
世の中には、水に話しかけると結晶の形が変わる、とか言って、「言葉の見えない力」が存在する、と主張する人もいるんですが。見えないものを適当に信じるのも考えものですね。
それよりは、「腹筋が何段に割れる」とか「上腕二頭筋の断面直径が何センチである」とかいう可算的なものによって身体能力の向上を計測することを喜ぶ。
ここで言う「可算的」って、どういう意味なんでしょうね。定量的に計測出来る、って事かな。
後は相変わらず。そんなに難しくも無い事を、よく解らない比喩と援用とアナロジーを用いて飾り、思考の迷宮へといざなってくれています。
武術で「呼吸」と言うと、生理学的な内呼吸・外呼吸より遥かに広い概念なんですよね。気等とも絡み合って、複雑な概念となっている。筋感覚の時間的・空間的な変化についての知覚、というのも恐らく含む。指先から呼吸するように、とか、呼吸を背中から肩を通して……とか、そういう感じで用いられます。それで、「呼吸力」という概念も出てくる。武術に役立つ身体運動という意味合いと結合させた訳ですね。
合気道と絡めて呼吸について論ずるなら、これくらいの事は書いてもらわないとね…。
三砂氏は高岡氏と交流しているはずだから、対談とかすれば面白いかもね。色んな意味で。
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橘十徳の「自腹ですがなにか?」第42回:電動スクリュー内蔵のマグカップ「トルネ~ド・マグ」 (1/2) - ITmedia +D LifeStyle
これは吹いた。
「スクリューの威力に驚く準備をお忘れなく!!」
いいセンスだ。
レビューについての感想は差し控えさせて頂きます。
いきなり話は飛びますけど。
以前から考えてたのが、こういう感じので、塗料攪拌のアイテムを作るのは、結構需要があるんじゃないかな、と。
容器に入れて攪拌するのはありますけど、容器自体に搭載してるのは、無いですよね?(もしかしたら、もうあるのか?)
頻繁に多量に使うサーフェイサなんか、粘度も高くてよく攪拌しないといけないから、重宝しそうな気がします。容器の耐溶剤性が良ければ、流用出来ませんかね?
スクリューのパワーはどんなものだ、とも思ったんですが、これはなかなか↓
どうでもいいけど、この商品を見て、これを思い出した⇒【正規販売店】マジックブレット デラックス | ショップジャパン
これ、めちゃくちゃ便利そうなんだよなあ。
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秋刀魚の塩焼に山葵(って言っても、チューブのやつだけど)が合うなあ、と思う、今日この頃。ちょっと醤油を垂らして、山葵を付けて食す。悪く無い。
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野尻ボードを覗いたら、女子高生に、理系に興味を持ってもらうにはどうすれば良いか、という話題が出ていて、エントリーを何か書こうと思って考えていたけど、思いっ切りはずしているような気がして、結局、一般的に「理系に興味を持ってもらうには」、という部分について書こうと思った今日この頃。
特に根拠も無く、自分の経験に基づいて書きますが、たまにはそういうのも良いでしょう。
------------
ここで「理系」とは、たとえば、そうイメージされやすい職業、技術者とか企業の研究者とか、そういうのでは無くて、自然科学的な知識、とします。理系に興味を持つとは、自然科学を志向する、毛嫌いしない、という事。
個人的に思うのは、理系に興味を持ってもらうために、それをイメージさせるいかにも「典型的」な職業などに関心を持たせる、というのは、どうなのだろうな、と。
うーん、何て言うんでしょうね。ほら、友人にしろ家族にしろ、その人が興味を持っている事について、良さをプレゼンテーションされる、というのがあるじゃないですか。いかにそれが素晴らしいかを、熱くなって語る。
でもそういうのって、言われる側としては、結構冷めたりしませんか? 場合によっては引く。その人が熱意を持ってそれに取り組んでいたり興味を持っているのは解るんだけど……と。
だから、理系の知識一般に興味を持ってもらうのがいいんじゃないかと。そういう一般的な所に興味を持てば、総体として、理系の分野の職業にも関心を持たれる事が期待される、と言いますか。
で、一般的な所に興味を持たせるにはどうするか、と考えると、「元々興味を持っているもの」について徹底的に突き詰めるよう促す、というのがポイントかと思っています。
要するに、ほら、科学は素晴らしいだろう? と直接的に言うのでは無くてですね、いつの間にかそれに興味を持たざるを得ない状況に持っていく、という方向性。
大概の物事を突き詰めていくと、自然科学の知識に行き着く訳ですね。具体的な所を学ぶという所にまでは行かなくても、仕組みがどうなっているか、つまり「メカニズム」を意識するという所には行くと思います。
ホント、なんでもいいと思います。どうしてそうなっているのか、というのを考えさせる。ケータイの仕組みでも、ゲームの仕組みでもPCの働きでも、何でも。化粧品の仕組みでもいいし、料理の構造でもいい。模型とかでも。
思うにですね。
理系(の知識の体系とか職業とか)そのものに興味を持たれないという前に、物事の仕組みを考える事を避けたりする、というのがあると感じるんですよ。まずそこら辺から考えていくべきなんじゃないかと。
以上、武術の事を知りたいのが高じて解剖学や生理学・心理学等に興味を持ったり、模型の塗装について勉強していて結局化学的な論理が働いている事を実感したり、昔やっていたプログラミングが実は論理学等の数学的論理に基づいているのだと知ったり、とか、ゲーム脳が何故おかしいかを考える内にニセ科学論に触れ、理論の妥当性を考える際に統計学的方法が重要になる事を知り、それを勉強するに至った、等の経験からの考えを書きました。
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『AERA』11/19:血液型性格判断を肯定|ほたるいかの書きつけ
雑誌の意見としては中立……と言えば聞こえはいいけれど、要するに、これまでの知見を無視している、という話。
これは、はてブ経由で⇒Business Media 誠:血液型で見る、歯ブラシ1本の交換期間 (1/2)
ジョンソン・エンド・ジョンソンのプレスリリース⇒プレスリリース | ジョンソン・エンド・ジョンソン
血液型別の歯ブラシの交換時期を調べたそうです。何じゃそりゃ。
なんか、今はもう、強い関連があると断言しなければ適当な事言っていい、と思ってるんじゃないですかね。かなりひどいんですが。後者は別に、性格云々と直接言っている訳ではありませんけれど、医療に関わる企業が、
歯ブラシの交換時期の目安と言われている1ヶ月以内に歯ブラシを変えているのはB型が一番で29.9%。
◆歯ブラシの交換時期は?
1ヵ月以内に交換している割合が多いのは、B型、A型、AB型、O型の順。
1週間以内に交換している割合が多いのは、AB型。◆もてるためには、「白い歯」が重要?
「重要」と感じているのは、O型女性(重要度71.0%)。
「重要でない」と感じているのは、A型男性(重要度49.6%)。
こんなものをプレスリリースに載せてどうするんですか。誰も何も言わなかったのかな。少なからず、株を下げるでしょう。医療従事者はどう思うでしょうね。
サンプルは信頼出来るのか、というのは、いつもの通りです。
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Interdisciplinary: 詳しく調べる事を勧めますの続きです。
(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログにて、anomyさんや私へ返答がありました。ご自身の主張に反する意見を冷静に受け止めて頂いて、ありがたいです。
さて、森昭雄氏の論は、端的に言って、破綻しています。あらゆるレベルで矛盾や自分勝手な解釈をした部分があり、科学と呼べる代物ではありません。
コメント欄からいくつか引用します。
森昭雄教授は本の中で「ゲーム脳」の定義を説明していますが、
あなたの「ゲーム脳」の定義とは違うのでは?と感じました。
anomyさんのエントリーへの返答です。
森氏の本を読むと、ゲーム脳の明確な、定量的な定義は見出せないはずです。グラフのパターンの分類のように見えるかも知れませんが、同じようなグラフに別の解釈をしている所もあります。
「前頭前野の活動が低下」という部分、生理学的に賦活していないという意味なら、そういう研究結果はあります(ある種のゲームのプレイ時において)。しかしそれは、認知機能等の低下を即示す訳では全くありません。参照⇒テレビゲームが脳に与える影響
そして、この学生たちの80%が、自分はすぐキレる、
すぐ忘れ、忘れ物が多いなどをコメントしているとのこと。
このような、単なる自己申告では、科学的に充分とは全く言えません。仮に、忘れ物が多いというのが合っているとして、それを「脳の機能低下」に即結び付けてはなりません。
この本に対する受け止め方が、貴方と私で違うようですね。
この本を、貴方は読みましたか?
受け止め方の違い、と相対化してはいけません。森氏の論は「間違っている」のですから。
私は、森氏の本について、当ブログで詳しく検討しました。大部ですが、ご覧頂ければ幸いです⇒Interdisciplinary: 『ゲーム脳の恐怖』を読む
また、ゲーム脳論の問題点を平易にまとめたQ&Aもあります。よろしければご覧下さい⇒ゲーム脳Q&A
ゲーム脳は、まともな概念の定義も無く、科学としての方法や手続きも踏んでいないにも拘らず科学的に実証されていると謳っている説として、多数の科学者・専門家から批判を受けている説です。恐らく、批判がある事自体はご承知と思います。上に出した私のテキスト等の批判的言説も吟味して、冷静にご判断頂きたいと思います。
子ども達の健康について考えるならば、森氏の論を受け容れるというのは、良策であるとは言えないのです。
森氏の専門が「脳神経科学」であるというのは、最近森氏のプロフィールにも載っているので、あながち間違いとは言えないようです。ただ、ゲームのような文化が認知や行動にどう影響を与えるか、というのは、実験科学的な論点だけでは無く、広く文化や社会を射程にした方法を用いる必要がある訳です。その意味で言えば、全く不充分であると考えられます。もちろん、実験的な手続き自体が全く不足しているという部分は押さえておくべきで、それは、このブログの一連のエントリーで指摘しています。
ゲームによる認知や行動への影響という面を研究している科学者として、坂元章氏(お茶の水女子大学教授。社会心理学)が挙げられます。冷静で客観的にゲームの影響について研究しておられる第一人者ですので、もしゲームの影響に関心がおありでしたら、坂元氏の著作を参照するのをお勧めします。
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昨日も書きましたが、改めてエントリーを。
森昭雄氏に関して、これまで、森氏は脳神経科学者だと本に書いてあり、メディアでも紹介される事があるが、実はそうでは無い、という批判がなされてきました。
しかし現在、日本大学のサイトの教員情報に、専門分野が「脳神経科学」と明記されています⇒日本大学文理学部 人文科学研究所
いつ頃書かれたかは定かではありません。私は日大のサイトを、一年に数回はチェックしているはずなので、それほど以前では無いとは思うのですが、いつの間にか追加されていて、驚きました。
さて、今までは、森氏は脳神経科学者では無い、日大のサイトを参照の事、と言ってきた訳ですが、これからは、単純にそう言うだけでは不充分であり、情報としても不正確なものである、と考えられます。
教えて頂いたところ、専門分野を大学のサイトで謳う事等は自己申告で、関連の研究者の弟子筋であったりすれば、特に問題も無く名乗れるという事だそうです。従って、これからは、森氏は脳神経科学者では無い、と言うのではなくて、森氏は脳神経科学専門と言っているが、実は業績的には……と説明するのが正確であると思います。実際、公式の場でそれが専門であると謳っている所を鑑みても、「脳神経科学者では無い」と端的に言って批判するのは妥当では無くなった、と考えて良いでしょう。公的な資格のような、明確に判断出来るものでも無いですしね。
いくらおかしな事を言っているとしても、批判は、正確な情報に基づいて行われなければならないので、ここら辺は押さえておくべきだと考えます。
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(本) ゲーム脳の恐怖 - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害) - Yahoo!ブログ
コメントへの反応などを見ると、強く信じ込んでいるようです。
聞き入れて頂くのは難しいでしょうけれど、いくつか事実誤認があるので、そこを指摘したいと思います。誤った情報を広めるのは良くありませんので。
森昭雄・日本大学大学院教授
えっと、「大学院教授」って肩書きは一般的なんですかね? 少なくとも、森氏はそう紹介される事は無いかと思います。
「ゲーム脳の恐怖」には、脳波データを用いて解説しています。
この本を読むことをお薦めします。(コメント欄)ゲーム脳になっている人が、テレビゲームをしている最中の脳を
脳波計で測り、痴呆者の脳と同じようなパターンになることを
実際のデータで説明しています。(コメント欄)
森氏の用いた機器に関しては、信頼性が疑われる物であると各所で指摘されています。また、それによって認知症が診断出来るという説は、全く科学的根拠はありません。
森昭雄教授は、脳神経科学が専門で、(コメント欄)
※ここ重要。意見求む。森氏の専門は元々神経科学ではありません。尤も、今はプロフィール(日本大学文理学部 人文科学研究所:森昭雄)に書いているようですが(書かれてしまっては、業績を考慮するしかないでしょうね。Q&Aに補足しといた方がいいかな。それにしても、大学の関係者は何も言わないの?)、そちら方面でのまともな論文は無く、ゲーム脳論に関する信頼出来る論文もありません。※森氏の専攻が脳神経科学では無い、という批判の指摘の説得力が乏しくなりましたね。業績まで見る人は少ないだろうから。
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行われましたね。
私も行きたいのだけれど、あまりにも遠方。
某ブクマで、参加者の感想のブクマが集められているので、GO(超他人任せ)。
個人的には、ゲーム脳について紹介されるのが、ありがたかったりするのでした。
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要素還元主義的である科学は、要素が複雑に絡み合った現象を解きほぐす事は出来ないし、方法も持ち合わせていない。それどころか、考えた事すら無いだろっ。だからホリスティックな見方が大事なんだっ、的な思いを持っている人に、次の文章を捧げましょう。
ところが、科学技術の力をもってしても,どこから手をつけていいのかわからないような難問も少なくありませんでした.能力の高い社員を採用するためには入社試験の科目として何を選んだらいいでしょうか.そもそも能力とは何でしょうか.色,形,味などに対する好き嫌いは何によって決まるのでしょうか.デパートの商品はどのように分類して配列するのが顧客のためでしょうか.そのほか,この手の難問は枚挙にいとまがありません.
これらの難問の共通点は,たくさんの要素が複雑にからみ合っている点です.たとえば,能力について考えてみてください.知力,体力,気力が能力に大きな影響を与えそうですが,それと,合理的な思考力,発表・説得力,調整力,忍耐力などはどうからみあっているのでしょうか.あまりたくさんの要素が複雑にからみ合っているので,科学のメスをどこから入れていいかわからないではありませんか.このため,このような難問に対してはさしもの科学も無力と諦め,古来の習慣に従うか,経験と勘を頼りに若干の改善を試みるくらいがせいいっぱいの努力であったのが実情でしょう.ところが,近年になってこの種の難問に挑戦する科学的な手法が急速に開発されはじめました.その理由の第1は,巨大なシステムとしてとらえた人間社会の効率化,最適化を追求するに当たって,ぜひともこの種の難問を解決しなければならないというニーズが発生したからです.そして第2の理由は,この種の難問を解くために必要なツール――統計学とコンピュータ――が準備されたからです.統計とコンピュータの使用を前提として,多くの要因が複雑にからみあった現象を解明し,本質的な骨組みを描きだす手法の群,それを多変量解析法といいます。そして,多変量解析法はひょっとすると,セメントや鉄を抽出したり石油を医療や食料に変えてしまう技術よりも,もっとすごい科学技術なのかもしれません. 大村平 『多変量解析のはなし』 まえがきより
この本の初版が、1985年。上記のまえがきには、昭和59年12月とあります。
つまり、科学は、様々な要因が複雑に絡み合った現象というものを対象化し、解明する方法を開発・発展させてきた訳です。とっくに。
たとえばこの本⇒多変量解析論
出版は1967年、40年も前です。
何が言いたいか。詰まる所、「自分が考えた程度の事は、誰か思いついた人がいるだろう」、という事です。現象が複雑で、とても解明出来そうも無い、と思ったら、ではそれを追究した人や分野、方法は無いのだろうか、と考えるのが筋なのです。
多変量解析、もっと一般的には統計解析の方法というのは、今や科学の方法に欠かせないツールになっていると思います。文化・社会現象をも数量化して解析している訳ですね。だから、そういう現状は把握しておくべきでしょう。そうで無いと、「中の人が常識として弁えている」事に関して、あたかも新しく気付いた事であるかのように指摘する、という恥ずかしい言動をしてしまいかねないのです。
言った本人が恥を掻くだけならいいんですけどね。そういうのを流布させるのは、各方面に多大な迷惑を掛けてしまうのですよ。誤解させてしまう。
科学の方法を批判したいなら、まず科学のツールについて見てみるのが順序というものです。
という訳で、科学や技術に関する方法について知りたい人は、大村平さんの本を読みましょう。さりげなく普及活動です。
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統計のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 著者:大村 平 |
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確率のはなし―基礎・応用・娯楽 (Best selected business books) 著者:大村 平 |
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多変量解析のはなし―複雑さから本質を探る (Best selected Business Books) 著者:大村 平 |
![]() |
統計解析のはなし―データに語らせるテクニック (Best selected Business Books) 著者:大村 平 |
大村さんの本が、もっともっと普及して欲しいですね。いや、実はものすごいロングセラーな訳ですが(今手許にある『確率のはなし 改訂版』を見ると、1968年1刷、1999年45刷)、それでも、もっと読まれて欲しい。
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魚住絹代 『いまどき中学生白書』より、『メディアの利用状況と認知などへの影響に関する調査』(2005)、通称「寝屋川調査」(以下、「寝屋川調査」と記述)に関するデータについて書かれている部分を検討し、掲載されているグラフについても言及します。
以下、「本書」と記述した場合、『いまどき中学生白書』を指します。
○寝屋川調査のデータ
二〇〇五年七月に行われたアンケートには、寝屋川市、そして、講演を通じて知己を得た長崎県の教育庁、教育委員会、東京都の中学校の生徒、保護者計四千七百六十二人に協力を求め、三千五百人余が回答してくれた。(P12)
▼時期
2005年7月
▼場所・調査対象
寝屋川市・長崎県・東京都の中学生、保護者
▼調査人数
回答の依頼:4762人
回答人数:約3500人
▼調査法に関して
精神医学の専門家などの協力を得て、調査が医学的・科学的な裏付けを持つようにした。(P12)
▼集計
寝屋川市教育委員会、寝屋川市立中学校のスタッフ
▼問題点
○グラフの検討
本書に掲載されているグラフを、いくつか紹介する。新たに筆者が同じようなグラフを作成した。
注意点
▼ゲーム族は偏食が多い(P49)
一日のゲーム時間が長い子どもほど、偏食が多い。三十分程度の子に比べ、三時間以上ゲームをする子は三倍以上、二時間以上の子は倍以上である。(P50)
この節、「ゲーム族の子は、なぜか肉が好きなケースが多いと感じる。もっとも、これはきちんとした統計に基づくものではなく、経験的な話である。」(P49)という記述もある。
▼落ち着きがなく、注意散漫(P51)
長時間ゲームをする子は、注意散漫で、ミスが多くなる。一日三時間以上ゲームをする子の場合、三割以上が「注意散漫」と自己認識している。(P52)
他に、「じっと座っていることができず、たえず動きたがる」、「気が散りやすく、よくよそ見をしたり、忘れ物やミスが多い」などの質問への回答(いずれも保護者回答)を参照しているようである。
▼傷つけられると仕返ししたくなる(P55)
ゲーム時間が長い子どもほど、傷つきやすく、それを根に持つ傾向がある。四時間以上ゲームをする子は、まったくゲームをしない子に比べ顕著にその傾向が強い。(P56)
「仕返し」と「復讐」では随分意味合いが異なるように思える。
この質問に答えた子どもについて、「全体で19.7%であったのに対し、四時間以上ゲームをやる子は約二倍だった。」(P55)とある。何が二倍だったのかすぐには解らないし、「4時間以上ゲームをする」子どものカテゴリー内の割合だとしても、全体での割合と比較して何の意味があるのか不明である。
▼無気力・無関心・投げやり(P60)
ゲーム族は、「新しいもの」を好まない。ネット族、メール族、マンガ族らに比べ新奇なものに対する興味を持つ度合が半分程度で、目立って低い。(P62)
2倍といっても10%と20%との差。しかも標本調査であり、更には、無作為で無いので、誤差の評価、一般化も出来ない。また、保護者の回答である。「とても新しいもの」というのが何を指すのか不明。
▼人付き合いは苦手(P67)
もともと社交的だった子どもが、長時間ゲームをすることで内向的になっていく傾向がある。ゲーム時間が長いほど対人関係に消極的になる。(P68)
心理学的に、内向性の高さと社交性の低さは同じでは無かったはずである(詳細未確認)。いずれにしても、既存の測定尺度は使われていないようである。
縦軸の説明が意味不明。質問は、「人付き合いや集団行動は苦手」(子ども回答)、「やや消極的で、人と接するのがとても苦手」(保護者回答)であるのに、何故縦軸が、時間的な変化を反映したものであるかのように説明されているのか。「幼い頃の対人関係について問うと、必ずしも消極的な子どもでなかったことがわかる。」(P69)という記述があるが、ここのグラフの割合がいかにして導き出されたのかは、全く不明である。
▼対人依存症(P105)
ゲーム族と対照的に、メール族は人との交流を好む。ゲーム族、ネット族と比べると、「人と接するのが好き」と答えた割合が顕著に高い。(P107)
保護者回答である。横軸の「熱中しているメディア」というのがどこから導き出されたのか解らない。中学生が心理テストに答えて云々という記述があるが、寝屋川調査での話なのか、別の話なのか、不明である。
見出しに「依存症」と書くのはミスリーディングである。
▼メル友をストック(P119)
一日にやりとりするメールの数が多い子どもは、「友達になったり、絶交したり」が激しい。とくに一日五十通以上メールをする子は、顕著にその割合が高い。(P121)
何故かここでは、他の部分では見られなかった、回答の2つのカテゴリーをグラフにしている。しかし、これも何故か解らないが、積み上げ型の棒グラフで描かれている。
「絶交」という概念は解りにくい。いわゆる「ケンカ」との境界も曖昧。
▼きまぐれで衝動的(P124)
一日にやりとりするメールの数が増えるにつれて、気分の起伏が激しくなる。一日五十通以上メールをする子どもは、半数近くが起伏が激しいと答えている。(P126)
「差が激しい」というのも、多分に主観による違いがあるだろう。
その他に、「あまり考えず行動したり、危険なことをしてしまうことがある。」という質問もあったようである。
グラフを見ると、縦軸の目盛りは5刻みで、それほど大きく違うのか、という疑問も出る。そこで、違うグラフを作成してみた。
何件法か判らないので、便宜的に、カテゴリーを2つにして帯グラフを作成した。随分印象が変わると思うが、いかがだろうか。
それ以前に、メールの頻度に関して、何故このような階級分けをしているのか、全く意味が解らない。何故、「20通以内(この”以内”というのもよく解らないが)」の次が、「50通以内」なのか。
▼メール族の生い立ちと家族(P134)
ゲーム族やネット族が「親に認めてもらいたい」と考えているのに対して、メール族は「友達や先輩」と答える率が高く、「親」を逆転している。(P135)
この節、「甘やかされて育ったと思う」という問いに、メール族(今更だが、「○○族」の定義は不明)の約45%がいいえと答えた事から、「メール族は親に甘えることができなかったと感じている子の割合が図抜けて高い」(P134)としているが(他に、「ほめられるより叱られることのほうが多かった」と回答した頻度が高いとしている)、「甘える」と「甘やかされる」は、異なる概念であろう。
メール族の保護者に対するアンケートによると、小学生までに愛情不足の時期があった子どもは、「メール中毒」になりやすい傾向がみられた。(P137)
※縦軸の説明が切れているが、「就学前」である。
このグラフ、目盛りの上限が12%である。いかにも、差を強調している意図が見える。そこで再び、別のグラフを作成してみた。
何度も書いているが、サンプルが無作為で無いから、このデータから、検定等によって母集団について言及する事は難しい。出来るとしても、母集団を限定する必要があるだろう。
仮に、これを記述統計的なデータと看做すとすると、調査対象の保護者の回答の構成比、としか見る事が出来ない。そこでのこの程度の差を意味あるものと看做せるかどうか、という疑問が出てくる。
肯定割合が、最大のカテゴリーでも12%以下である。従って、他の選択肢が何であったか、という所について疑問が出てくる。仮に、「肯定」、「否定」の2つであったとすると、全てのカテゴリーで90%近くがこの質問に否定的に答えたという事だから、全体としては極めて親子関係は良好である、と解釈する事も可能である(あくまで仮定)。
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どうでした?
わたし的には、こんなものが本に載り、新聞で紹介され、電子メディアの害悪を訴える著作の論拠とされる事そのものが、信じがたい話であると思うのです。
ここに載せたグラフは、あくまで一部分です。
とにかく、概念の定義が無い。何の何に対する割合かがはっきりしない。解釈が自分勝手。特に、○○族というのは、ゲーム脳や半ゲーム脳に匹敵する不明確さ。
根本的な問題として、このようなデータからは、より大きな集団について一般化するのがほとんど不可能である、と言えます。にも関わらず、魚住氏は全体の傾向であるかのごとく言い、岡田氏は、検定などしてしまっている訳です。
garbage in, garbage outみたいなもので、本来、検討にすら値しないようなものだと思うんですけどね。何故だか、鵜呑みにする人がいる。
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しばらく脳内汚染関連のエントリーを続けます。
今、魚住氏の本(『いまどき中学生白書』)を再読していますが、改めて、ひどい本だと思います。
未読の方は、どんなものかな、と思っておられるでしょうけれど、多分、想像を絶します。前にも書きましたが、ゲーム脳本クラスだと感じますね。
特に、グラフの書き方は、何と言うか、ダメです。わざとやってるんじゃないか、というくらい。
それと、興味深い事が判明しました。
前、岡田氏の本に、チェックリストとして8項目が載っているのを紹介しましたね。
これ、魚住氏の本によると、「今回の調査の結果、ゲーム、ネットなどの中毒症状として十一項目が明らかになった。」という事なんですね(P202)。なぜ「中毒症状」としてそれが選ばれているかは定かではありませんが。
それで、その11項目の中から8項目を選び、依存度を測る尺度として構成したようです。魚住氏によると、8項目を点数化した平均が「依存度スコア」との事。
で、詳細が書いていないので予測です。
依存度スコアは、最低が0で最高が3。依存度スコアが2の時に、「全体が”しばしばある”」と書いてあるから、多分、4件法で、0~3点としているのでしょう。そして、
依存度スコアが
としています。これ、岡田氏の紹介したリストとは、項目も解釈も全然違うんですね。
更に、です。
魚住氏の本には、
巻末(255ページ)にメディア依存度チェック・リストを付けているので、生活を見直すきっかけをつくるためにもぜひ活用していただきたい。(P210)
とあるのです。そこで巻末を見てみると、岡田氏の本に載っていた8項目+2項目の、全部で10問。しかも、3件法で、質問文の文句も違っています。書籍化にあたって再構成したという事なのでしょうが、テレビの心理ゲームではあるまいし、こんな適当な事は、依存というものをチェックする尺度の紹介としては、全く許されないと思うのですが、どうでしょうか。
大体、逆転項目も無いし、他のテストとの比較による信頼性・妥当性の確認がなされたかも書いてありません。11項目を選び出したという根拠も不明ですし、そこから適当に選んできて依存度のチェックリストとして紹介するのは、明らかにおかしい。しかも、岡田氏の本のリストは、0点以外は依存の傾向があるとしている訳です。
上でも書いたように、岡田氏の記述と魚住氏の記述、比較すると、選び出した8項目が異なっています。で、「判定基準」が違うのも、何度も書いている通り。これは一体、どういう事なんでしょうね。
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脳内汚染関連のエントリーを続けます。
岡田氏の主張とその論拠について、簡潔にまとめてみます。「▼」の後に、節の見出しを引用し、岡田氏が援用した論拠を示します。
▼覚醒剤の静脈注射にも匹敵(P46)
テレビゲーム中のドーパミンの分泌を調べた研究。ゲームプレイによるドーパミン放出の増加が、覚醒剤(アンフェタミン。0.2mg/kg)の静脈注射時と同等。
論拠
▼ゲーム・ネット依存は治療の対象となる病気(P52)
マレッサ・オルザックやキンバリー・S・ヤングらの診断基準を紹介。ゲームやネットの依存を治療するクリニックの増加を指摘。
論拠
▼各国のゲーム、ネット依存の調査(P61)
イギリス・アメリカ・ノルウェーの調査を紹介。日本での調査として、魚住の調査を紹介。
利用実態や依存症状のみならず、認知の傾向や発達の問題、家庭環境などの背景要因にまで踏み込んで調べた点は、世界的に見ても、非常に画期的な調査である。本人のみならず、保護者からも回答を得ることで、非常に精度の高いデータとなっている。(P62)
論拠
▼恐ろしい中長期的影響(P64)
しかし、ゲーム、ネット依存で本当に恐ろしいのは、依存症状よりも、長期間使用を続けた場合の中長期的な影響である。その点も非常に薬物中毒に似る(P64)
一般的な薬物中毒の精神医学的な解説。ゲームによる症状についての具体的記述は無し。
▼テレビが村にやってきた(P81)
テレビによる悪影響の説明。テレビが無い地域にケーブルテレビが引かれた。その前後の変化について研究(タニス・ウィリアムズらによる)。テレビが、特に子どもに悪影響(暴力性を高める等)を与える事を示唆。
▼重要な幼い日の体験(P83)
アメリカのローウェル・ヒューズマンらのコホート研究を紹介。
これらが示されたと主張。
論拠
▼因果関係の認定と法的規制(P84)
アメリカのブランドン・センターウォールの報告書によって、テレビの発達への影響、攻撃性・犯罪増加との因果関係が示されたと主張。
テレビ所有率と殺人率との関係を示した、何を描いているか非常に解りにくいグラフを載せている(Centerwallの原著のグラフを改変)。
岡田によれば、
さらにセンターウォールは、さまざまな疫学的データを検証した上で、アメリカで起きる殺人の原因の半分がテレビによると因果関係を断定したのである。(P87・89)
論拠
▼覇気のない青年(P136)
グラフが紹介されている。魚住の著作(『いまどき中学生白書』)にも同じようなグラフが示されている。同じような種類のグラフがたびたび載っている。
ここでのグラフは、横向きの棒グラフ。縦軸:「1日平均のゲーム時間」、横軸:”「何事にも無気力で興味がわかない」と答えた子の割合”(%) となっている。縦軸は、「まったくしない」、「30分くらい」、「1時間くらい」、「2時間くらい」、「3時間くらい」、「4時間以上」。カテゴリーとして選択させたのか、自由に記述させて階級に分けたのかは不明。ヒストグラムでは無く棒グラフである事から、カテゴリーデータと思われる。「4時間以上」とまとめている所や、1時間刻みである所(何故30分刻みが混じっているのか?)の理論的根拠が不明。
質問に対する回答の選択肢(何件法か、等)も不明。
単純集計の度数分布図で無いのに、棒グラフにしている。従って、%の合計は100にならない。だから、一般的な、相対度数とカテゴリーとの関係を視覚的に把握する図では無く、帯グラフを一部切り出したような図になっていて、非常に紛らわしい(しかも、横軸は、25%までしか目盛られていない)。質的変数同士の関係なので、通常は、帯グラフやクロス集計表(分割表)が用いられる。
以前、魚住の著作を参考に作成したグラフがあるので、再掲する。全然違うグラフだったので、後で載せます。追記:岡田氏の本を元にグラフを作成(クリックで拡大)。グラフの向きを縦方向にしました。
この右側にあるようなグラフが頻出する。そして、分母が異なるにも拘らず、「○○は□□の何倍」と記述している。意味が無い事は無いが、紛らわしい。
岡田は、このようなグラフを図示し、そこに、検定の結果を示している。多くのグラフの説明に、カイ二乗検定を行ったとある。たとえば137ページでは、有意確率は0.0001とあるが、n=1830と巨大なサンプル。それ以前に、サンプルの無作為性に疑いが持たれるので、検定の結果をどこまで一般化出来るか(目標母集団と達成母集団との違い)は疑問である。
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取り敢えず、前半はこんな感じ。後半は、発達障害との関連等について書かれています。
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参考資料として、『脳内汚染からの脱出』に載っている参考文献をメモしておきます(取り敢えず、日本語のものだけ)。WEBに参照出来るページがある場合、リンクを張ります。
○書籍
○報告書、論文
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情報メディア白書〈2005〉 販売元:ダイヤモンド社 |
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CESAゲーム白書〈2005〉 販売元:コンピュータエンターテインメント協会 |
CESA一般生活者調査報告書―日本・韓国ゲームユーザー&非ユーザー調査〈2005〉
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子どもの放課後改革がなぜ必要か―「放課後の過ごし方」で子どもの人格は変わる? (学級教育の改革シリーズ) 著者:明石 要一,川上 敬二郎 |
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テレビ・ビデオが子どもの心を破壊している! (危険警告Books) 著者:片岡 直樹 |
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いまどき中学生白書 著者:魚住 絹代 |
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心が脳を変える―脳科学と「心の力」 著者:ジェフリー・M. シュウォーツ,シャロン ベグレイ |
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脳内汚染 (文春文庫 お 46-1) 著者:岡田 尊司 |
![]() |
脳内汚染 著者:岡田 尊司 |
| 悲しみの子どもたち―罪と病を背負って (集英社新書) 著者:岡田 尊司 |
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けれども、evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。
そんな人が一体どこにいるのでしょうね。
そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。
その仮定は、「手持ちの度量衝では考量できない」か否かを徹底的に考察した上で行うべきでしょうね。考量出来るがそうで無いように思える、という現象はある訳です。それに、まず、人間の知覚や認知のエラーについて思いを馳せる必要があります。
ところが、いま私たちに取り憑いている「数値主義」という病態では「私たちの手持ちの度量衡で考量できないもの」は「存在しないもの」とみなさなければならない。
”「数値主義」という病態”とは、いかにも解りやすい表現ですね。「私たちの手持ちの度量衝で考量できない」のならば、それは取り敢えず存在しないものと看做す、というのは当たり前の態度でしょう。もちろん、存在しないのが証明された、というのとは別の話ですが。
同じように、私たちの現在の自然科学では、「未来はわからない」ということになっている。
だから、「人がなしたこと」については評価は可能だが、「人がこれからなすこと」についての評価は不可能であるということになっている。
ここは意味が解らなかったので、解った方がおられたら、教えて頂きたいです。
しかし、「人がこれからなすこと」については現に高い確率でそれを言い当てている人が存在する。
その「高い確率」というのは、どのようにして調べたのでしょうね。それが偶然で無いという保証はどこにあるのでしょうか。
もちろん、直感的に様々な情報を総合的・合理的に把握・処理し、高い精度で予測を行う、というのはあるでしょう。しかし、それを個人のレベルできちんと確認するのは、凄まじく難しいでしょうね。絡み合う因子の数と、状況のめまぐるしい変化は物凄いだろうから。ちょっと文脈は違いますが、参照⇒大「脳」洋航海記 » Blog Archive » そんな脚光なら浴びたくない
これは当たり前ですが、「高い確率で言い当てている」ように「見えている」可能性を、まず考えるべきですね。
私は「そういう能力が存在する」ということを前提にしないと「話のつじつまが合わない」事例があまりに多い場合には、自然科学の骨法に倣って、仮説として「存在する」ということにして話を進めているのである。
「そういう能力の存在」を仮定しないと「話のつじつまが合わ」せられないのは確かか、その事例が「多い」のは確かか、それまでの理論によって「説明出来ない」事が徹底的に調べられたか、等をきちんと確認した上で、そういう主張をするべきでしょう。剃刀を使うのです(このエントリーに関しては、dankogai氏が真っ当な論評をしていたと思う)。
「自然科学の骨法」(しかし、独特の言い回しが多いな…)に倣うのならば、自然科学の体系を学び、それによって解明していくのが道理で、それによって「解明出来ない」と判断するのは一番最後。もちろん、超能力云々の話だと、心理社会的な要因が関わる、というのは言うまでもありません。
「超能力」とか「霊能力」と呼ばれる能力は現に存在する
言い切っちゃってるし。どういうのがあるかを示して頂きたいものですね。
この後も、なんと言うか、かなり微妙ですね。
関連エントリー⇒○Interdisciplinary: 科学や若者を嫌いな人達 ○Interdisciplinary: 分子生物学的?
なんか、はてブとか見てると、内田氏の主張の一般論的な所を見て、そこが興味深い、だから良いのでは、的な意見もありますね。わたし的には、具体論のレベルでかなりダメな記述が散見されるから、高く評価しようが無い(しかも、主張されている事は、科学としては当たり前の話だったりする)、と思っているのですが、私が間違ってるんですかね?
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どこか、銃の機構を図解入りで詳細に解説しているサイトとか、無いですかね。
実銃でもトイガンでもいいのですが(両方知りたい)。
と言うのも、先日動画巡りをしていて、エアガンとかガスガンの構造を解説してるものを観たりしていて、やはりこれは、メカニカルな道具として最高に洗練されているなあ、と思ったのです。本質的に武器ではありますが、合理的な機能を追求していった所のデザインに美を感じる、と言いますか。日本刀なんかも同じでしょうか。
銃火器に関する知識はほぼ無いので、見ていて、すごいなあ、と感心していたのでありました。子どもの頃にエアガンのキットを組み立てたのも思い出しましたね。ちょっと懐かしい気分。リボルバーとかワルサーP38とか作ったなあ。
Phun(Wikipedia)という、物理を視覚的・直感的に学べる物理演算ソフトがあって、それで、色々な物を作るのが出来るみたいなんですが、そのソフトで作ったワルサーP38がありました。すごいですよ、これ(ソフト自体もすごく面白そう)。
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脳内汚染からの脱出 (文春新書 573) 著者:岡田 尊司 |
図書館で借りてきて、ざっと再読しました。
やっぱり、ややこしい本ですね。
岡田氏の論は、かなりムチャクチャです。でも、知識に乏しいと、見抜くのはやっぱり難しいかも知れない。ゲーム脳本よりは圧倒的に難しい。
色々ごちゃごちゃ集めて書かれると、尤もらしく見えるんですよねえ。更に、小説風の味付けもしてあり、恐怖感を煽る内容になっている。ややこしい。
この本では、論拠として、大規模な社会調査である(と岡田氏が認識している)寝屋川調査が援用されている訳ですが、それがそもそもおかしいのですね。
岡田氏は、何回も何回も、統計的に有意である事を協調しています。しかも、寝屋川調査のデータを元にした、独立性の検定。そもそも標本の無作為性がとても怪しいのに、検定をして一般化出来るのか、という問題がありますし、また、有意確率を「関連の強さ」の度合として誤認させるような書き方が散見されます。例:「p=0.0000というのは、間違いである確率が十万分の五未満であるということである。こうした強い関連性が、偶然の支配する現実の現象で観察されることは滅多になく、その場合、そこには因果関係が存在することがおおいのである。」(P63)
寝屋川調査では、ゲーム・ネット依存についてのチェックリストが用いられていたそうですが、これも疑問を持つ内容。そもそも信頼性や妥当性が本当にきちんと確認されているのか、というのもそうですが、何よりおかしいのが、その解釈。
そのチェックリストは、全部で8項目。4件法です。一つ挙げると、「ゲームやネットができないことで、イライラしたり、落ち着かなくなることがある。」という質問。回答の選択肢は、「よくある/ときどきある/あまりない/まったくない」という具合。
それで、ですね。「ときどきある」を1点、「よくある」を2点として得点をつける訳なのですが、その解釈が非常に疑問。抜粋しましょう(P65)。
判定基準
0点 依存傾向なし 49.7%が該当
1~3点 要注意 28.6%が該当
4~7点 軽度依存レベル 16.0%が該当
8~11点 中度依存レベル 4.3%が該当
12~16点 重度依存レベル 1.4%が該当
こういう具合です。
これ、おかしいと思いませんか? だって、「ときどきある」が一つでもあれば、「要注意」であると判定されるんですよ。しかもこのチェックリスト、「依存」という精神医学的な概念を調べるものなのです。更に、です。質問項目には、こんなのもあるんです。
止めさせようとしたら、怒り出したり、暴言、暴力になったことがある。
典型的なダブル・バーレルですね。これだと、怒り出したのか暴言を吐いたのか、あるいは暴力に走ったのか、全然解らない。止めさせようとすれば怒り出すというのは、どんなものでも起こり得る訳です。それを、「暴言・暴力」というかなり強い言葉とくっつけている。
こういうのが出てきて、メディアでは数値だけ発表される訳ですね。たとえば、依存の危険がある人が半数もいた、というように。実際岡田氏自身、「逆に言うと、中学生の約半数に何らかの依存症状が認められたことになる。」(P64)と解釈しているのです。「症状」ですよ。そしてその実態は、質問に一つでも「ときどきある」あるいは「よくある」を答えた人が半数いた、という事に過ぎないのです。
岡田氏の著作や主張には、この手の論が散見されます。実にややこしい。
最後に、上で紹介したチェックリストを全部、ちょっと変えて書いてみましょう(P65を元に一部改変して書く)。
この○○と□□の部分に、ゲームとネットが入る訳ですが……いかがですか? ゲームやネットに限らず、何かを当てはめて、0点を取れますか? 取れなければ、「要注意」だそうですよ。
その前に、「ときどきある」と「あまりない」はどう違うんでしょうね。
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「気」の話。
現代科学を批判しつつ、気の概念の有効性を説いたりする人っていますよね。
科学の要素還元主義性を欠点として指摘し、東洋の知識体系の優位を主張する人もいます。
で、そういう風に科学を批判しつつ気の概念に興味を持っていながら、気が実体であると仄めかす場合もあるんですよね。仮想の物質を想定したり、身体から出る電磁波の一種と言ったり。
気という言葉の用いられ方を考えてみると、それは極めて多義的です。心理的関係であったり、知覚のパターンだったり。それで、それを全て説明し尽くす根本的な原理として、気の実体性を主張したりする訳です。それに全部を説明してもらう。アルケーみたいなものですかね。
でもそれって、自分達が批判している要素還元主義的な考えをそのまま用いている事になるのではないでしょうか。何らかの実体であると仮定してしまえば、楽ですしね。
そもそも科学は、そういう単純な考えをしない訳です。現象は総合的なシステムとして捉える。社会現象や心理現象に関しても、様々な要因が絡み合い、それが影響を与え合って複雑な現象を構成している、と見る。
そのような観点から言うと、気というものは、心理的関係のあり方であったり複雑な知覚であったりを、複雑なシステムのまま丸ごと表そうとした概念、と考える事が出来ます。それは、○○という物質の働き、などという単純な論理に還元出来ない。
あるいは、まだ解明されていなかった現象に名前をつけてみたもの、とも言えるかも知れません。メカニズムがブラックボックスであるものの説明原理。だから、歴史的に、極めて多義的に用いられてきた。
それを考えるならば、気というものは、理論をいくつか組み合わせてそれに名前をつけたもの、つまり、システムである、となるでしょう。以前A-WINGさんが、それは工学などで言うモジュール的な概念ではないか、と言われましたが、私も、そう捉えるのが妥当だと考えます。
そうすると、たとえば、気は未解明の実体的な何か、という風に考察するのは、あまり意味が無い、と言えるでしょう。気がモジュール的な概念と考えれば、歴史的に見て、この時代に用いられていた「気」の語は、現代における科学的概念をいくつかまとめたようなものだ、と解釈するのも可能でしょうし、気概念を用いる体系を頭ごなしに否定する事無く、メタに分析し、体系特有の説明概念として尊重し、認める事も出来るのではないでしょうか。
気は構成概念だ、と考えると、結構色々解ってくると思うんですが、なぜそうしないんでしょうね。原理と言うか、究極の何か、的なものを求めたい、とか。良い言葉や綺麗な形、というものの究極を求めたいのと一緒なのかな。私としては、世の中は複雑だから面白いと思うんですどね。
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これは面白い⇒テレしばい - KONAMI
紙芝居をディスプレイを使ってやる、というものですね。
場面によってアニメーションしたりBGMが流れたり、ボイスチェンジャーで声色を変えたり、といった事が出来るようです。声が変えられる、というのはなかなかいいかも。
コンテンツがネットでダウンロード出来る、というのも、今の時代ならではだなあ。
昔ながらの読み聞かせと、電子メディアならではの特性とを組み合わせた、とても興味深い商品と言えるのではないですかね。KONAMI、やるね。
トイザらス辺りで扱っているみたいですね。小さいお子さんがいらっしゃる家庭にお一ついかがですか。
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