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2008年10月31日 (金)

全体・総体・システム

水伝の一部を見て擁護したりする人は、「システム」として捉える事が出来ていないんでしょうね。

水伝は、江本氏の思想をコアにして、実験という模様のついた科学の衣(贋物の)を纏わせた主張ですよね。そしてそれは、他の論者の主張や波動論とも絡み合って、複雑なシステムをなしている。総体としてそういう風になっている。

でもその実態は、あちらこちらにほつれや破れがあって、しかも、ブランドを示す模様も紛い物。

模様をクローズアップしてみれば綺麗に見えるのかも知れないけれども、もっと引いて、全体を見てみようよ、という感じですよね。

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

科学、と云うか学問って、もともと各々の項目が独立して成立しているものじゃなくて、なんと云うか、ツリー的に関連しながら総体を成しているものですよね。かも ひろやすさん流に云えば「独立したトリビアの集合体ではない」わけで、疎密はあっても必ずつながりがあって、個々の項目にはその総体のなかでの位置づけと重みがある。

その個々の項目をばらばらにして、本来の位置づけや重みづけを無視して恣意的にパッチワークしても、実際のところ意味を持つ「総体」にはならないわけです。ニューエイジ的な「ホリスティック」の概念って、項目同士に得手勝手に自分の都合のいいパスをつくって、それを耳当たりのいい「新しさ」みたいな雰囲気でまとめて「総体」でござい、みたいに主張しているようなものなので、そこに要素としてセレクトされている項目についてちょっとでも考えてみれば、全体としてのほころびが見えて来るんですよね。

投稿: pooh | 2008年11月 1日 (土) 08:41

poohさん、今日は。

仰るように、学問というのは、全体的に繋がっているものと思います。それは意識しておくべきだろうな、と。専門分化が進んで他の領域との関連性が見えにくくなり意識もされない、という言い方はよく見られる所で、だから、インターディシプリナリやトランスディシプリナリといったものが強調されたりもするのでしょうね。

で、ホーリスムというのは本来、主にクワインが提示した哲学上の問題の事を指していたのだと思うのですが、ニューエイジ系の主張では、そこから随分ずれた使われ方をしているように感じます。

端的に言って、システムとして、要素の連関を考え、全体的に捉えるのが重要、という話ですが、なぜか、現代の科学の方法そのもに不備がある、という風に持っていって、神秘的事象や概念を正当化したり。

ちなみに、今日辺り、気の概念とそれを支持する論者について、ちょっと書こうと思っています。内容としては、実はアトミスムを批判する論者が、自分達が嫌っているアトミスム的な論理に陥っているのではないか、というものです。

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 >独立したトリビアの集合体

たざきさんじゃありませんでしたっけ?

投稿: TAKESAN | 2008年11月 1日 (土) 12:20

ちなみに、私自身は、個別科学同士の連関、学問全体の協調や連携、というのを言う場合には、「学際的(Interdisciplinary)」という語を用いて、ホリスティックというのは、もっと抽象的・一般的な、知識や概念の連関・システムの事を指して用いています。

余談。
何回か書いていますが、ホリスティックというのは普通、「全体論」と訳されると思うのですが、私としては、高岡英夫という人が使う「関係主義」の方がしっくりきます。訳語としては適切じゃ無いのかもですが。
一般によく使われるカタカナ語としては、システマチックというのもありますね。体系的・組織的。

余談2。
poohさんの所のPseuDoctorさんのコメント、
▼▼▼引用▼▼▼
Poohさんの仰る「パス」を好き勝手な所に張って、そして一方では本来存在している筈のパスを恣意的に切断する事によって、何か完結した体系の様に見せかけるというのが、ありがちな手口なんだろうな、と思います。
▲▲引用終了▲▲
ここはとても示唆的ですね。そうやって「わがまま」に構成した体系を見せる。裏を見れば綻びだらけなのに、表の「一見綺麗な」模様を見せているんですよね。全体として考えなければならないのに、擁護者は、模様が綺麗だからいいじゃん、となる。

投稿: TAKESAN | 2008年11月 1日 (土) 12:32

> たざきさんじゃありませんでしたっけ?

あれれ、そうでしたっけ(^^;。
いや、おふたかたともおっしゃってたのかも(とかごまかす)。

投稿: pooh | 2008年11月 1日 (土) 13:02

正確には、たざきさんがよく言っているときくちさんがよく言っていて、それに同調する人が沢山いる、という感じでしょうか。

投稿: TAKESAN | 2008年11月 1日 (土) 13:35

「綺麗な模様」で思い出した事があります。

昔、母がパッチワークをやっていました。毛糸を編んで5cm角くらいの布切れを大量に作り、それをつなぎ合わせて炬燵掛けにしたりしていました。
各々の布切れはカラフルで綺麗な模様を持っているのですが、ちゃんと表と裏があって、やっぱり表の方が綺麗なんですね。

で、母曰く「裏を見て汚いのは下手だからだ。きちんと作られた物なら裏を見ても、ちょっと見には表と区別がつき難いくらい綺麗に見える筈」だそうです。

まあそれでも、裏の方が多少なりとも汚いというのは必然的に避けられないとは思うのですが、なかなか含蓄のある言葉だと感じました。

投稿: PseuDoctor | 2008年11月 1日 (土) 13:45

TAKESANさん、こんにちは。

この一つ前のエントリとも関連して、ちょっと教えていただきたいんですけれど、つまり、ABO FAN さんの「血液型性格判断」は、個々の「知識」もレベルが高い訳ではないが、「プラモデルの部品をランナーから切り離し、それを袋に取り敢えず突っ込んだ状態」であり、システムとしても全然成り立っていない。
それに対して「水伝」のほうは、システムとしては一応成り立っており、ニセ科学ではあるものの、個々の主張の中にはよく見える所もある。ただし、そのシステムの成り立ちが欠点だらけである。
と言うように私は理解したのですけれど、「血液型」問題と、「水伝」問題では、やはり複雑さが相当違うものなのでしょうか。

「血液型」問題と「ゲーム脳」問題は私にはより単純なニセ科学問題に思え、「水伝」問題はもちろんニセ科学問題もあるが、その他の問題(例えば言語学)の占める割合もかなり大きいような気がします。

そういう意味で、「911の陰謀論」と「水伝」はシステム的(あくまで内容でなく「システム的」)に似ているのかな、とも思ったんですけれど、どうでしょうか。
それで「911の陰謀論」=「ニセ科学」と思い込んでしまう人が出てきてしまったのでしょうか。

投稿: やす | 2008年11月 1日 (土) 16:08

>PseuDoctorさん

それは面白いお話ですね。

で、綻びを見抜くには、よく全体を見て、知識を以って確かめていくのが重要。その知識とは、ニセ科学論の場合には、主に理科の知識、となるかと思います。

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やすさん、今日は。

「ABO FANさんの論」として考えた場合にはまた違いますが、科学的論理としての血液型性格判断については、さほど複雑でも無いとは思います、と。きくちさんいわく「練習問題」ですし。

水伝がややこしいのは、善悪や美醜のような、本来自然科学では問えない領域について説明を加えている、という所だと思います。
形而上学的概念を自然科学で根拠づけようとするのは、ゲーム脳や血液型性格判断と違う所ですね。創造科学に近いでしょうか。
仰るように、言語論の問題もあるかと思います。

陰謀論をニセ科学と言っている、と誤解した人が現れたのは、端的に言って、勉強不足によるものだと考えています。ニセ科学を批判している人間が陰謀論も批判していて、その信じ方や受け容れ方に関して共通点があるのではないか、と論じていた。
それを見て、陰謀論をニセ科学として批判している、と誤謬した、という所かと。そういう意味で、一方的でシンプルな間違い、という事でしょうね。

スピリチュアルやオカルトをニセ科学と批判している、という誤解は、まだ解るんですよ。疑似科学という語は昔から使われてきたし、確かに自然科学の論理からそれらを強く否定する、という論者もいるので。

でも、陰謀論がニセ科学だ云々というのは、言ってしまうと「早とちり」なのかな、と思います。
陰謀論にニセ科学が用いられる事があっても、陰謀論一般がニセ科学に含まれる、とはならないのは、比較的単純で解りやすい論理のはずですが、それが理解されないのは、「他人の話を聞かない」からなんじゃないでしょうか。

だから、オカルトがニセ科学と批判されている、的な誤解に対しては、そういう人もいるかも知れないが、最近のはそういう使い方をしない場合が多いよ、と指摘したりしますが、陰謀論の場合は、いや、ちゃんと調べてよ、という風になっちゃいますね、どうしても。

投稿: TAKESAN | 2008年11月 1日 (土) 16:55

血液型性格判断は、歴史的な事情でややこしくなっています。

現在の血液型性格判断には、『血液型人間学』の能見正比古の流れと『□型人間』(□はO,A,B,AB)の鈴木芳正の二つの流れがあります。能見系はほぼ純粋な似非科学です。鈴木系は占い寄りで、星占いとも混ざっています。そのように両者は大きく違うものですが、ほとんどのライトなビリーバーは両者を区別していません。

さらに、歴史を遡れば、古川竹二の血液型気質相関説があります。これは、結果的に否定された学説であって、科学の範囲内といえるでしょう。ただし、古川説を採用した当時の陸軍の判断が妥当であったかは、また、別の問題です。

ということで、血液型性格判断を批判する際は、血液型性格判断は一つではないんだということから始めて、今、批判しているのがそのうちのどれであるかを明確にしながら話を進めなくてはならないのが、とてもうっとうしいです。

以下蛇足:
「科学は独立したトリビアの集合体ではない」は、たざきさんです。


投稿: かも ひろやす | 2008年11月 2日 (日) 23:37

かも ひろやすさん、今晩は。

血液型で性格を云々するのは占いだから良いではないか、という反論は、時折見られますね。

私自身は、血液型性格判断と言った場合、社会心理学的なものを主に想定しています。実際に性格判断が成り立つ社会であるか否か、という問題として捉えている訳ですね。「診断」と書かないのもそれが理由です。診断とすると、医学的・生物学的論理を想起させるように思うので。

つまり、世間でよく用いられるものを科学的論理として捉えたらどうなるか、と言うか。

基本的には、きくちさんの論に準拠しているという感じでしょうか。

▼▼▼引用▼▼▼
「科学は独立したトリビアの集合体ではない」は、たざきさんです。
▲▲引用終了▲▲
あ、やっぱり。

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ちなみに、ここ2週間くらいでも、ラジオやらテレビやらで、相手の行動を見て、「やっぱり□型だー」と言ったりしているのを、数回見聞きしました。この浸透は恐るべきですね。完全に、「当たり前」の認識になっている風でした。

余談。
ちょうど替えようと思っていたのでグッドタイミングでした。
「○型」とするより「□型」にした方がいいですね。○型だと、ぱっと見O型と区別がつき辛いですね。

投稿: TAKESAN | 2008年11月 3日 (月) 00:01

はい。要するに、血液型性格判断とひとくくりされているものには、血液型占いと血液型人間学(似非科学)と血液型気質相関説(結果的に否定された学説)があり、それぞれ別のものなのに、ライトなビリーバーは区別をしていないのが、こちら側にはややこしくて困ることなんです。まず、この三つは違うんだということから説明を始めなくてはならなくて、どうしても話が長くなります。

個別には、それぞれ単純なんですけど、個別の問題にわけないといけないところを説得するのが大変です。

そういえば、最近、「冥王星が準惑星に分類されたのは降格ではない」と説得するのに苦労したのも、なんだか似ています。なぜだか、ほとんどの人は、惑星の定義が変更されて冥王星が外されたと思い込んでいます。そうではなく、これまで惑星の定義がなかったのを新しく決めたのだと説明するのにえらい苦労をしました。

投稿: かも ひろやす | 2008年11月 4日 (火) 16:06

かも ひろやすさん、今日は。

私の興味のある分野だと、昨日サブリミナルの話に絡めて書きましたが、ゲーム脳説とゲーム悪影響説との違いというのがありますね。

ゲーム脳を否定するのはゲームの悪影響論一般の否定とは違うのですよ、というのを説明するのに、結構気を遣います。そこら辺は、程度の問題とか用語の意味とかを知っていないと話にならなかったりするんですよね。

ゲーム脳の場合には、あるか無いか、以前に、明確な科学的定義が存在しないという所がややこしい訳ですけれども。考え方によっては、「ゲーム脳」というのを造語したので、批判がしやすい、とも言えますが、受け容れる側にはあまり関係の無い話だったりしますね…。

投稿: TAKESAN | 2008年11月 4日 (火) 17:14

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TAKESANさんの全体・総体・システムと云うエントリを読んで、ちょっと思ったこと。コメント欄にもお邪魔してすこし書いたけれど。 [続きを読む]

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