溶け込んだ肩
武術において、肩の運用は大変重要です。
武術の運動では、重い物を持ち上げつつ肩を上げる動き、また、腕で自身の体重を長時間支える、という動きを、主体的に用いる事はありません。上腕の運動はシャープに高速に行うのが必要であり、大きな力を持続的に出す必要性は無い訳です。そのため、三角筋等の肩周りの筋肉が大きく発達はせず、印象としては、なで肩になる傾向があります。
肩のあり方というのは、各体系の特性を見るポイントである、とも言えるでしょう。たとえば、重量挙げ等は、重い物体を支えるという構造であるために、肩周りの筋肉の発達が目立ちます。体操なんかは、非常に解りやすいですね。腕で身体を支えて、跳んだり回転したり、という運動を行うから、なるべく体重を少なく保ちながら、必要な部分に充分な筋力をつける。そうすると、異様な肩の筋肉の発達が目に付く訳ですね。
さて、話は武術に戻しまして。武術では、体幹をよく動かして、それにつられて腕が動くようにします。腕を鞭のように用いる、というのはよく見られる喩えです。
そのように運用するには、三角筋を積極的に弛緩していき、最小限の筋力で上腕を回転させる必要があります。それが、武術における肩の「脱力」です。上手く力が抜けていれば、肩関節のくぼみに指を入れる事が出来ます。加えて小胸筋等を働かせると、より腕が落ちていきます。これは、武術に特徴的な運用かも知れません(もしかすると、ピアノ演奏等でも伝承されているかも)。恐らく、中国武術系の打撃において力を通す際、このような運用で肩を使っていく、という方法があるのではないかと推察します。松田敏美―前田武師範伝の大東流を紹介された高瀬道雄氏は、「肩を切る」という風に表現されていました(『秘伝』参照)。太極拳などでも、肩と腕が糸で繋がっているように、という意味合いの教えがあるのを本で読んだ記憶があります。
何故、肩を切るとか糸で繋がったようにとか、そういう表現をするかと言うと、それは、「外形を無理矢理なぞる」のを戒めるためである、と思われます。人間は、多数の筋肉が骨格を取り巻いているという構造ですから、外見的には似たような姿勢でも内実は全く異なる、という事があり得ます。この文脈で言えば、外側の筋肉を無理に使って「肩を引き下げる」運動によって、なんとなく似た姿勢を取るのが可能である、というのを意味します。それを戒めるために、身体意識にアプローチするアナロジーを駆使している訳ですね。ガチガチに固めて肩を下げるのと、「肩を切る」感じというのは、なかなか相容れないですから。
ちなみに、私の場合は、これが出来るようになるまで数ヶ月を要しました。コツは、弛緩させる三角筋そのものでは無く、「脇」を意識するのを心掛ける事。胸から脇を通って肩を引き付けるような意識。筋肉的には、胸部の深層筋、小胸筋等への働きかけ。注意点は、「脇を閉める」意識を持たない事。そうすると、上腕の内転(正中線に近づける運動)が促され、大胸筋等を使ってしまうからです。これは一応、自分で編み出したやり方です。あんまりここら辺の詳細な開発法は見ないですね。なので、サービスって事でご紹介(笑)
ここまで、武術における肩の脱力を説明しましたが、達した方は、まるで「腕が胴体に溶け込んだような」状態になります。ここまで読んで、木村達雄 『透明な力』に掲載されている佐川幸義翁の写真を思い浮かべた方もおられるでしょう。あの写真は、まさに象徴的なもので、達人の肩を明確に示した重要な資料だと言えます。
さて、ここからが、本エントリーのメインです。
とっておきの画像をご紹介いたしましょう。
こちらをご覧下さい⇒Album / gallerie de photographies d'Aikido - Iwama Ryu Aikido(下に画像があるので、スクロールしてご覧下さい)
この画像は、合気道における達人の一人、故・斉藤守弘先生のものです。
いかがでしょうか。武術を嗜まれる方は、この圧倒的な脱力に驚嘆されるのではないでしょうか。武術に明るく無い方でも、「あれ、なんか変だぞ?」と思われるでしょう。つまり、「なんか肩の辺りが不自然だな」、と感じるのではないでしょうか。
肩が弛緩しているために腕が落ち、通常より長く見えます。また、両側に座っている方達と較べるのも良いでしょう。解剖学的な知識をお持ちの方ならば、「肩関節の位置が読み取りにくい」と感じられると思います。
さて、もう一枚ご覧にいれましょう⇒Album / gallerie de photographies d'Aikido - Iwama Ryu Aikido
左に立っておられるのが、以前ここでも演武の動画を紹介した事もある、Daniel Toutain氏です。動画でもよく解る通り、実に出来る方であり、この画像を見ても、肩がよく落ち、正中線もある程度綺麗ですが、それでも、斉藤先生とはどこかが違う、と思われませんか?
それは、斉藤先生の姿勢の前後のバランスも優れているからだ、と読み取る事が出来ます。Daniel氏は、ほんの少し、上体の後側に意識が通っているようです。ですから、鎖骨の内側の端辺りが張っているように見える。対して斉藤先生は、張っているのでは無く、「受けている」ように見えるはずです。私はこれを、中国武術における「含胸抜背」を見事に体現した姿である、と見ます。正中線は、あまり後を通ってはならない訳ですね。背中周りの余分な緊張を促しますから。
そして、肩甲骨が柔らかく外側に張り出しているのも解る。だから、腕は前側に位置し、肩関節が見えにくくなる訳です。これは、剣や呼吸法の絶え間無い錬磨の成果でしょう。いかに基本が重要かが解りますね。「掴ませて」稽古を始めるのは、そういう拘束的な条件に置く事によって、理想的な上肢帯の運動を促すのを目的(の一つ)としている訳です。肩が脱力出来なければ技が掛かりようが無い状況を設定し、それを型とするのですね。合理的なシステムです。※しかし、その目的を理解せず、ただ力の頑張り合いに終始する場合もある。何を目的としているかをしっかり把握するのが重要、という事です。
以前紹介した、「良い姿勢は場合によっては猫背に見える」、という姿勢の、最高峰の実例として、とっておきの画像を示しました。これもサービスですよ(笑)
っと、かなり力作エントリーになってしまった。まあ、そこそこ参考になるんじゃないかな、と自画自賛しときましょう。
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コメント
分かりやすいまとめと,指導のポイントになるテキストですね。
>上手く力が抜けていれば、肩関節のくぼみに指を入れる事が出来ます。
八極系でも,このくぼみに何個卵が乗せられるかで,ゆるみの評点として使われます。ひとつには,打撃の威力をスポイルしまうのも肩の筋肉であって,突きを行った場合に,ここが完全に弛んでいるかどうかで,使える突きを打てている人かどうか,見分けが付くということです。
後,はてぶの方,2件,着目していただき,有り難う御座いました。本人も書き散らしたテキストを忘れておりまして,未だに稚拙な文章で,推敲の対象としております。
投稿: complex_cat | 2008年10月 6日 (月) 09:23
complex_catさん、今日は。
やはり、中国武術でも強く意識されているのですね。
合気道では、このような肩を作った状態を、「気を入れる」とか「気を出す」と表現しますね(実際には、肩腕全体の意識に関わる表現ですが)。後、「呼吸」を使う事も。呼吸力の事ですね。
余談。
呼吸力は、勁に当たる概念かと思いますが、気と分けて、このようなレフパワーを表す概念を持つ日本武術は、あまり無いように感じます。その意味で、気と分けて呼吸力という概念を体系に組み込んだ合気道は、やはり優れていると思いますね。
佐川先生は「透明な力」、と表現されましたね(佐川先生によるこのメソレフパワーは、最高の発明だと思います)。
▼▼▼引用▼▼▼
後,はてぶの方,2件,着目していただき,有り難う御座いました。
▲▲引用終了▲▲
Cat Kick Dragon Fistをまとめ読みしておりまして、止まりませんでした。良いものを読ませて頂きました。勉強になります。
投稿: TAKESAN | 2008年10月 6日 (月) 12:58
稚拙なエントリーがお目に留まったようで有り難うございます。
しかし,我ながら,読み返すと,非常にお恥ずかしいものがあります。
ところで,今日発刊の雑誌連載「弁護士のくず」では,血液型裁判がテーマになっております。扱い方が微妙な感じもします。というのは,反血液型性格診断を説明するの会社の顧問弁護士の先生が,正確な内容を話しながら,かなり強硬,教条的な印象のキャラに書かれているので,物語がどのようなところで終わるのか,ちょっと読めません。
ご参考までに。
投稿: complex_cat | 2008年10月 6日 (月) 13:17
いえいえ、稚拙などと……それはご謙遜かと。
そのマンガ、kikulogでcorvoさんが紹介されていましたね。
ああ、なるほど。批判的に捉えているキャラがどう描かれているか、というのもありますね。
読んでみます。
ここにプレビューがありますね⇒http://www.bigoriginal.shogakukan.co.jp/preview2c/01.html
投稿: TAKESAN | 2008年10月 6日 (月) 13:38
さっきコンビニに行った時に読んでみました。
※以下、ストーリーにちょっと触れます。
なるほど、complex_catさんの仰るのはご尤もでした。今後の展開が楽しみ、という意味で、物語としては面白いものでしたが、最初にダメ社長のそれっぽい「血液型哲学」の話が出て、その後に例の批判者が「科学の視点」からの論を展開する、という構成にした事によって、読み手にとってはダメ社長の意見の方が説得力を持つ、という場合もあるやも知れませんね。
ちゃんと読めば、詭弁だらけだというのは解るのですが、なかなかね…。
------
コンビニに『エアマスター』があったので読んでみたのですが、実に面白かったですね。画のバランスに目を瞑れば、かなり楽しめると思いました。全巻制覇対象に入れます。
投稿: TAKESAN | 2008年10月 6日 (月) 16:53
合気道ではありませんが、能楽家の、故宝生九郎知栄という人の肩の溶け込み方はものすごいです。
投稿: あきら | 2008年10月 6日 (月) 20:01
なるほど、随分と違いが現れるものですね。
道着のシワがまるで違った所にできているので、その辺からも違いが伝わってきました。
ところで、「肩関節のくぼみ」がどこを指しておられるのかよく解りませんでした。
もう少しわかりやすく教えていただけないでしょうか。
投稿: yjdmq | 2008年10月 6日 (月) 20:08
あきらさん、今晩は。
おお、芸能方面には疎いので、情報を頂けるのはありがたいです。
参考にします。
------
yjdmqさん、今晩は。
合気系武術では、徹底的に肩を使うので、最高峰になると、特に目立つようになるのでしょうね。
▼▼▼引用▼▼▼
もう少しわかりやすく教えていただけないでしょうか。
▲▲引用終了▲▲
画像を示した方が解りやすいと思うので⇒http://takeda-seikeigeka.com/gif_images/shoulder_anatomy.jpg
私が書いたのは、腕を下ろした状態の場合ですが、へこむ、というのは、腱板辺りの部分ですね。極端にやると、外見からも解ると思いますが、指で触ると、明らかにすっと入り込むのが感じられます。
本文にも書いたように、脇から引き寄せる感じでやると、そうなります。逆の手を脇に挟みながらやると、腱(大胸筋かな?)が張るのが解るかと思います。脇を閉める(締める)意識が強いと、大胸筋全体が強く緊張するので、注意ですね。
※さすがに、どの筋肉をどのように使うか、というのは、複雑できっちり把握出来ませんが…。恐らく、小胸筋辺りはかなり重要かと思います(推測ですが)。
もちろん理論的には、運動の目的に合うよう機能的に上肢帯の筋肉を用いる、というのは一般的に言えます。
ところで、今、解剖学の教科書の写しを確認したのですが、小胸筋って、解剖学的には浅胸筋なんですね。
投稿: TAKESAN | 2008年10月 6日 (月) 23:33
ちなみに、腕を上げてこれをやる場合。
普通に腕を上げると、当然三角筋が収縮し、硬くなります。上腕を支える筋肉なので。
だから、壁に手を付けたり何かを掴むなりしてからやります。腕を前腕と手の筋肉で支えてあげる訳ですね(場合により、上腕の伸筋も)。
この状態で出来るようになると、「腕を預ける」という感じが解ります。肩を切っていく。
投稿: TAKESAN | 2008年10月 6日 (月) 23:53
あ、正確に書けてなかったので補足。
▼▼▼引用▼▼▼
脇から引き寄せる感じでやると、そうなります。
▲▲引用終了▲▲
慣れると、脇を使わなくても、そうなります。より強くやる場合に脇を使う、という事ですね。
腕を一気に下げたりする場合に、その運用をします。剣を振り下ろしたりする時。もちろん、振り下ろす角度によっても使う筋肉が変わる訳ですが。
最初の段階では、それを意識的に使う事で三角筋の脱力を促す、といった所でしょうか。
筋肉の細かい運動に着目しようとすると、非常にややこしくなりますね。解剖学やバイオメカニクスの高度な認識が必要。身体意識のあり方に認識が追いついていってないです。
そう考えると、高岡氏のディレクターの概念はやはり重要だな、と思います。当然私としては、そのバイオメカニクス的な論理を完全に理解したいと考えている訳ですけれども。
投稿: TAKESAN | 2008年10月 7日 (火) 02:06
これはまた丁寧な解説、ありがとうございます。
自分の肩のあたりをいろいろ触りながら読んでます。
場所的には「腱板辺り」ということですね。
投稿: yjdmq | 2008年10月 7日 (火) 18:49
yjdmqさん、今晩は。
そうですね、結局の所は、肩周り全体がふわふわ柔らかくなっていて、動くべき時に動くようにする、というのが重要なので、あくまで目安であり、意識するための一つの方法として取って頂ければと思います。武術的には、肩をぐっと下げる運動は重要ですが、それは本質的に、肋骨や肩甲骨などの総合的な動きなのだと思います。
このエントリーとコメント欄は、解剖図を見ながら肩を触って確認しつつ書いています(笑)
投稿: TAKESAN | 2008年10月 7日 (火) 19:44