メモ:意識と意識と実体と運動と
このエントリーを理解(読解)出来る人間がいるのだろうか…。悪文御免。鉤括弧多用御免。
いくら頭で「思って」も、生体力学的合理的な「運動」が実現されなければ、意味が無い。
いくら理想的な心像が展開されようとも、それが実体としての運動に繋がらなければ、何の効果ももたらさない、という事だ。
スポーツでは、記録が極めて客観的なかたちで突きつけられる。凄まじくシビアな世界。より速く・より遠く・より高く という明確で数量化しやすい指標によって序列をつけられる厳しいものなのである。対して武術では、無意識的な協力関係によって、「高度なパフォーマンスが成立している”かのように”見える」現象が起こり得る。
意識。たとえば、背中に羽が生えて飛んでいるかのようなイメージを脳内で展開する。しかし、人間の身体は、明確な構造を持った実体である。従って当然、羽が生える事などあり得ない。
意識。身体に分布する体性感覚受容器によって得られた情報を認知し、それに意味付けをする。気が漲っている、力が出ている、等。その意味付けを行い、意味付けされた体性感覚に対する認知のスキーマを維持したまま技なりを行い、「高度なパフォーマンスが成立しているかのような」現象が実現したとする。身体運動的な合理性に乏しくとも、人文・社会科学的メカニズム(高岡)によって、「成立しているかのように」誤謬する事があり得る。
その場合に、認知のスキーマと結び付け、それが「高度なパフォーマンス」の「原因」として認識される。即ち、主観においては、「高度な身体運動を成立せしめた身体意識」の因果関係として把握されるが、客観的には、「さほど高度で無い運動と、高度な運動に必要の無いスキーマが時間的に接近して成立」している、という意味である。
記録が数値によって客観的に解るスポーツであれば、あるスキーマが記録向上に役に立たないというのが、はっきりと認識出来る。いくら思い込もうが、走るのが遅かった、投げるのが短かった、跳ぶのが低かった、という厳然たる「事実」は覆しようが無いのであるから。
一部の武術家などは、いくらでも「逃げ込む」事が出来る。弟子や信奉者を飼い馴らして(意図的・無意図的に拘らず)、「自分を含めて丸ごと騙す」事が可能なのである。そうすれば、あるスキーマが実は合理的な身体運動を阻害するものであったとしても、それに気付かぬまま、という無残な事になる。そして、確信的に情報を流布し、慕ってくる人間に誤った認識を植え付け、間違った方向に誘導する。
質問上等。批判歓迎。
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コメント
お話の仕方が、確かに難しいようです。
私ならばーーー、
願えば叶う話
決意で、奇蹟を起こそう!
潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法
「意味のある偶然の一致」の体験をする
心技体の内の技体+メンタル・トレーニングの結果得られるゾーン体験をする(いわゆる神懸り状態/神が降りている状態になる)
などを説明するところです。
このときに、自分の身心の状態について意識化して把握している必要は一切ない。
これをしてしまうと、神懸り状態から覚めてしまいます。
一般法則論
投稿: 一般法則論者 | 2008年9月19日 (金) 02:26
素晴らしい。
あなたは天才ですね。
あまりに凡人とかけ離れていて、地球上、否、宇宙全体に、あなたの理論を理解出来る存在は絶無でしょう。
自身の論が誰にも理解されないのは、さぞかしお辛い事でしょうね。それも、時代を先取りし過ぎてしまった、天賦の才を与えられし者の宿命なのでしょう。
是非、その理論を練磨・洗練し、「自分のサイトで」開陳なさって下さい。
あ、私は永久に理解出来ませんので、連絡は結構ですよ。こんな凡人の所にお出まし頂くのは、誠にもったいのうございます。
(ここにはコメントしないで、と何回かお願いしたはずなんだけどなあ…。)
(この方に、話が「難しい」と言われた私は、一体どうすれば良いのでしょうか。)
投稿: TAKESAN | 2008年9月19日 (金) 02:38
う。
もしかすると、人によっては、一般法則論者さんの文とこのエントリーの文は、同じくらいに解らないものなのだろうか…。
それを考えると、なんか泣けてきますなあ。
投稿: TAKESAN | 2008年9月19日 (金) 02:41
どなたかによって「電波脳変換」されるような難解なお話ではないと思いますよ。
中国武術も「神秘の技」的話は沢山ありました。いきなりまともに空手を修行された方の突き蹴りで脆くも潰れるまでは,偉そうなことをいっておられた方もいました。西野流呼吸法も空手の黒帯の方を由美かおる嬢に口説かせて,「飛ばして」人気を取ったりしていましたが,USA大山空手の大山茂師範に,きっと背景には悲しい事実があると看破されて,武術的な人気は立ち消えました。
空手修行者だった青木先生は,新体道の練習を通して武術的な話とは全然関係ない修行者同士の意識のリンク現象について,興味を持たれていろいろ試験,考察されていました。
それらの知見は,無意識的「共犯状態」にあって始めて人が倒れる技が存在することを逆に証明した形になりました。人間とは何だろうという部分では,大変興味深い分野だと思います。
投稿: complex_cat | 2008年9月19日 (金) 10:41
complex_catさん、今日は。
一般法則論者さんにまともに付き合うのはやっていられないので、ちょっと冗句に走ってみました。まあ、心理・生理学的概念をそのまま使っているので、知らない方には同程度に解らない文になっているだろうな、というのは半分本気でしたけれども。
体系として閉じると、後はなんとでも出来ますよね。”無意識的「共犯状態」”というのは言い得て妙、だと思います。
武術の現場では一所懸命、「意識」の話がなされますね。complex_catさんは当然お気づきの事でしょうが、ここで書いた「意識」には2つの意味を持たせてあります。「認知」と「身体意識(高岡の定義による)」ですね。
閉じた体系にいると、適当なイメージ(認知)や身体意識(身体の「実感」)と高度なパフォーマンスが「メカニズムとして結び付いている」と誤謬する。それが妥当かを正しくフィードバックする仕組みに乏しいから。
軽く触れた、相手が飛んだ、という現象は、身体運動的合理性に乏しくとも、心理学的関係があれば成立する訳ですね。そして当然、それは協力関係に無いと成立し得ないから、武術、即ち暴力を制する技術としての汎用性が無い、という事になる。
型武術が競技武術を頭ごなしに否定する場合も、時折見かけますが、私は、たとえば合気道SAなんかは、実に勇気ある試みだと思います。なかなか出来る事では無い。
※もちろん、そのまま認めるものではありません。競技用に体系を構成しようとすると、絶対に変容しますから、それをどう考えるか、という問題がありますね。よく言われる、実戦用の技をそのまま試合に用いるのは無理だ、という議論。これは、型武術が体系を閉じるための方便として用いられる事もあるし、論理的に正しい事でもあります。私自身は、武術に競技を組み込むのは難しいと考えています。
投稿: TAKESAN | 2008年9月19日 (金) 11:38
以下は蛇足です。一般法則論者さんの話は,TAKESANが仰る
対抗的な武術練習における「共犯」現象の発生とそれに関する諸問題
とは全く関係ありませんね。最初の問題提起はもっとシンプルな話です。
今は,ゾーンというゴルフコミックで伝搬した無敵の「変性意識状態」を求めて,おかしくなる人も沢山おられます。前田日明を広告塔にしたトランセンデンタル・メディテーションも一時期格闘技マスコミで流行りましたが,アレクサンダー・カレリンというスーパーアスリートと試合して,アスリートとしての限界は誰もが知るとおりです。
トンデモ系が広がるのは,それを知っていれば,自分が苦しい練習や才能の限界を感じずに,簡単に人より強くなれるといういわゆるカルト的商品に弱い人が引っかかるからです。いわゆる,ずるをしたい人は,事故米の話じゃないですけど沢山おられます。初期の中国武術も「空手や柔道,剣道,レスリング,ボクシングなどの厳しいハードなトレーニングについていけない人が逃げ込んだカルト武術」という側面が少なからずありました。今は状況が違いますが,結果的に生き残っているのは,他の武術でもきちんとしたパフォーマンスが可能であったろう,実直なアスリートタイプだけです。私の二人の師もそうでした。
意識の分野は武術にあることは否定はしませんし,黙々と人を屠る武技にあっては,「静かなる発狂状態」といわれている状態もあるのかなと思います。が,その時のパフォーマンスが稚拙なら,やっぱり我が身が破れるだけです。私も,未明に寝込みを異常者に襲われたときに,崖から落下したときに,それに近い意識が発動しました。どこか他人事のような非常に冷めた感覚です。どちらも九死に一生を得ていますが,単なる偶然です。
凡人にあって自分がいつも無敵の主役になれると思えるメンタリティが異常だと思えないのは,問題です。試合,競技記録のあるアスリートの世界は,それが突きつけられるから健全です。
あっちの世界に行きたい人は行けばいいですけど,私が知る限り戻ってきた人はいませんね。まともな会話すら出来なくなりますでしょ。昔の武士が戦乱が終わると一般常識や教養を磨くことを重視したのも何となく分かる気がします。人としてまともな社会生活を営み,ちゃんと子をなして育てる必要があれば当然かもしれません。「電波脳の城」には人は暮らせないから。
あ,また蛇足ばかりでした。
投稿: complex_cat | 2008年9月19日 (金) 13:55
ご返事を飛ばして連投してしまいました。お許し下さい。
「認知」と「身体意識(高岡の定義による)」
二つの意識について,これまで整理されたものはあまりなかったように思います。というか後者は(高岡,19XX)以来の新しい分野ですよね。
合気道におけるスパーリングや試合というのは,本当に実験的なものだと思います。でも,文化財どころではない価値を感じさせてくれる優れた武術・武道を形骸化させないようにする上で,必要な取組だと私は強く感じています。
投稿: complex_cat | 2008年9月19日 (金) 14:08
▼▼▼引用▼▼▼
今は,ゾーンというゴルフコミックで伝搬した無敵の「変性意識状態」を求めて,おかしくなる人も沢山おられます。
▲▲引用終了▲▲
ほう、そんな話が…。変性意識というのは、ニューエイジなどでも使われる概念でしたっけ。危なっかしいですね。
前田氏は、私が最も好きな格闘家の一人でしたが、彼は、西洋合理主義的なものを敵視したような発言をしたり、というのがあったような気がします(ソース失念)。思想史や哲学を齧っている、という印象。カリスマ性の高い人ですから、影響はそれなりにありそうです。
合気道に、「戦わずして勝つ」という理念がありますが、これは、高級な戦闘理論を構築して術理を体現した先人が至った境地な訳ですね。しかし、理念が先行して術の練磨を省みず、というのがしばしば見られます。そして、術のレベルを確かめる機会が無い場合には、閉じていくのですね。技が効かなくてくやしい、という体験をするとか、技の事をひたすら考えて夢に出てくる、という経験をするとかも(単なる例です)、あまり無いのでしょう。
▼▼▼引用▼▼▼
初期の中国武術も「空手や柔道,剣道,レスリング,ボクシングなどの厳しいハードなトレーニングについていけない人が逃げ込んだカルト武術」という側面が少なからずありました。
▲▲引用終了▲▲
以前、そういう状況に危機感を懐き、徹底的に中国武術界を批判している八極拳の本を読んだ事があります。当時は、随分と強い調子で書くものだ、と少し引いたのですが、思い返すと、妥当な部分もあったのだろうな、と考えています(門外の者には判断がつかない部分がほとんどでしたし、あまりに偏っているのでは、という印象も持ちましたけれど、10年くらい前なので、はっきりとは憶えていないです)。
▼▼▼引用▼▼▼
二つの意識について,これまで整理されたものはあまりなかったように思います。というか後者は(高岡,19XX)以来の新しい分野ですよね。
▲▲引用終了▲▲
「身体意識」という概念そのものは、スポーツ心理学や運動心理学で以前から扱われていたようです。恐らく精神医学辺り由来かと思います。body awarenessやbody image、等ですね。これは一般的には、体性感覚についての顕在意識、つまり身体の感覚情報の認知を指すようです。
高岡氏が今の定義で用いるようになったのは、私が知る限りでは『意識のかたち』辺りが最初だと思います。それまでは、言語による認知の制御システムというような説明であったり、はっきりとした説明は書かれていなかったですね。身体意識という語自体は、『光と闇』に既に出てきます(ボディ・イメージ)。
今の定義は、体性感覚情報等によって成立する意識系、という一般的な定義なので、潜在意識、つまり自動化され認知されないシステムも含む概念なので、それが適切だと考えて私も採用しています。
意識の分類は、確か、『スポーツ・武道のやさしい上達科学』かどれかでなされていましたね。意識Iとか意識IIとか「別の意識」とか(記憶を元に書いてるので、詳細は違うかも)。
競技を採り入れている合気道は、富木流や合気道SA等が著名ですが、それを否定するような見方があるんですよね。私自身は、競技を採用する事に慎重になるべきだ、という考えなのですが(元々の技術体系を崩壊させてしまう危険性はやはりあるので)、それに試行錯誤しながら取り組む姿勢そのものを否定するのは、個人的には偏狭な認識だと思ってます。
先日ご紹介した斉藤先生による、合気道と試合との関係についての見解があるので、参考資料として。
http://ameblo.jp/toyota-aikido/entry-10140171210.html
http://ameblo.jp/toyota-aikido/entry-10140175207.html
岩間の修行者には、総合系のオープン試合に出る人もいるみたいですね。確か斉藤先生は、そういうのを禁じてはおられなかった、というのを聞いた事があります(基本、他流の研究等は奨励されていたし、講習会に他流の修行者が参加する事もありますね)。
投稿: TAKESAN | 2008年9月19日 (金) 16:17
武術の多様性をどこまで許容するか、というのは難しいものです。
私は、自分がやっている事を自覚しているのであれば、身体開発法としてやっても美容法でも構わない、という立場です。ただ、中身が伴っていないのに、「指1本で吹っ飛ばせる」的な、フィクションの見過ぎ・読み過ぎな妄言をするものは、厳しく批判されねばならないと考えます。
以前に、ここら辺に関するエントリーを挙げた事があります⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_cb0d.html
トム・モリゾーさんのブログは、合気道関連では稀に見る優れた場だったのですが、閉鎖したんですよねえ。実に惜しい。
投稿: TAKESAN | 2008年9月19日 (金) 16:27
お久しぶりです!
武術とスポーツの対比の部分を除けば
本筋は因果性の誤認の話ではないかと思います。
ただ「寸止め」でない懐疑主義を適用すると
帰納法にしても自然法則にしても
思考の習慣(ヒューム)なわけです。
実際のところ医学で定説とされていたものが
後の研究でひっくり返されるなんてこともあって
(最近だと創傷に対する湿潤療法なんか)
程度問題のようにも思います。
投稿: katsuya | 2008年9月19日 (金) 23:48
katsuyaさん、今晩は。
>本筋は因果性の誤認の話ではないかと思います。
その通りですね。で、スポーツはその誤認を数値という形で思い知らされる、という恐ろしくシビアな世界。
武術の場合、昔は、ダメな修行をしていたら「死」で返ってきた訳ですが、現在の社会では、そういう事は無く(それが良い事なのは言うまでもありませんけれど)、体系を閉じてしまって反論に開かない姿勢に陥ってしまう場合もあります。
個人の実感というものを相対化するためにも、システムに、実感に基づいた誤謬を修正する機能を組み込むのが良いのだろうと思っています。ただ、格闘技や武術のような異様に複雑なものは、実力を客観的に測るという機会をどのようにして作るか、という難問もありますね。競技にした瞬間に、それ用のシステムが構築される、という事にもなりますので。
ここら辺は、高岡氏の初期の著作に全部書かれている事でもあります。
投稿: TAKESAN | 2008年9月20日 (土) 00:45