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2008年9月26日 (金)

ホリスティックな概念

面白いエントリー⇒幻影随想: 勘というのは、経験と理論に裏付けられた立派な才能である

つまり、顕在的に分析的に認知してはいないが、何らかの信号を無意識に読み取り、それを統合的に情報処理してある種の「感じ」を覚え、それを手掛かりに診断なりをする、というお話。それを黒影さんは、「勘」と表現しておられます。

こういうのは、認知科学や状況論、あるいは学習科学等でも対象とされている現象だろうと思います。暗黙知や身体知、というものですね。

科学哲学で、「観察の理論負荷性(ハンソンだったかな)」というものがありますね。同じものを見ても、既有の知識によって情報の読み取り方が異なる、という。そういうのが無意識に作用して、顕在意識のレベルで「何かある」と感じる、あるいは「勘付く」のでしょう。

たまに、職人技なんかを引き合いに出して、大切なのは勘で、科学的な分析の出る幕じゃ無い、といった主張をする人がいますが、実はそういうのは、科学的分析の対象になるし、既になっている訳です。そういう概念を科学とは相容れないものだと考えるのは、認識不足なのですね。

地下猫さんの所で、NATROMさんが、精神科医のエピソードを紹介されています。その医師は、実に冷静に現象を捉えており、そのような現象はあるだろうが、安易に「プレコックス感」を使ってはならない、という指導をなされたようです。これは非常に重要ですね。他人より能力のある人間は、自身の能力を過信して、相対化を怠る場合があります。そうして、独自の空論をぶったりする可能性があるのですよね。本当に優れた人は、自身に優れた能力があったとしても、それを冷静に相対化し、分析の対象として捉える事が出来る人なのだと考えます。

このような、メカニズムが明らかで無い統合的・関係的な現象を表す概念、つまりホリスティックな概念というのは、古来ありました。「気」などもそうですね。気にしても勘にしても、様々な信号を総合的に捉えるシステム、とでも言えるでしょう。それは充分に科学的分析の対象となるもので、敢えて科学に反する、あるいは対置する概念として考える余地は全く無い訳です。それは、物事を分析的・理論的に突き詰めていく事の放棄である、と言えましょう(科学云々を持ち出さずにその体系を用いるのなら、それは構わない)。ある意味で、それらを分析してメカニズムを解明するのが「科学」である、とも言えるのです。

タイトルと本文中に「ホリスティック」という語を入れたのは、意図的なものです。ネガティブに捉えられてしまう事も多々あるので(「ホリスティック医療」やニューサイエンスのせいでしょうね。困ったものです)、敢えて。

たまには関連エントリーも。昔の記事を上げとくのもいいでしょう。

もし、ニセ科学を批判する人間は「勘」や「気」等の概念が出たら頭ごなしに退ける、と考える人がいたら。

あまり馬鹿にしてはいけません(中には、そう言う人間はいるだろうけどね)。

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

人間の知覚している情報って、意識にのぼっているものだけじゃなくて、認識していないけれども知覚している、と云うのが相当量あるのかな、みたいに思ったりもします。で、意識的・論理的な思考に準拠せずにそれを処理している部分もだいぶあるんだろう、と(って、これではお書きのことのただの書き換えですね)。で、それは繰り返していくうちに精度が上がってきて。
これを「勘」とか「感性」とか「プレコックス感」とか呼んじゃうと、それは説明されないままブラックボックス化してしまう。意識のなかで顕在化しないので説明が難しい、と云うのもあるわけですけれども(だからあまりロジカルではない伝え方のほうが効率が良かったりして、そう云うかたちで伝えられたりもするんでしょうけど)。

ホリスティック、と云う言葉についたネガティブなイメージは、ちょっと嫌な感じですね。アダルト、と云うことばに妙なニュアンスがへばりついているのに近いかも。

投稿: pooh | 2008年9月26日 (金) 07:52

poohさん、今日は。

無意識的・非分析的な「勘」のようなものが強い人というのは、確かにいるのだと思います。スポーツなんかでもそうですよね。

で、そういう能力が高いが故に、自身を過信して、自分が「認知出来た」所を一般化したりする、という危険性がありますね。たとえば、優れた診療を行ってきた医師が、とんでも無い理論を提出したり、とか。診療の勘みたいなものは確かにあるのかも知れないけれど、認知のレベルでは自分でも把握し切れずに、誤謬して理論を構築しまう、という。

すごく簡単に言うと、自分がやっている事(出来てしまっている事)を正確に説明出来るとは限らない、という話ですね。

ホリスティックという言葉には、「なんか怪しげな」、という意味が付与されてしまっている気もしますねえ。私は最初から、「システマティック」とほとんど同義に捉えたのでした。日本語だと「関係的(関係主義的)」と表したいところです(ホリスティックは、一般的には「全体論」なので、こちらも語感がよろしく無い)。

投稿: TAKESAN | 2008年9月26日 (金) 12:26

kikulogの七田式関連のエントリーに書いたコメントを転載。一部省略します。

▼▼▼転載▼▼▼
すみません、自分の興味のある分野の話で恐縮ですが。
 
武術ってありますね。わかりやすい所で言うと、空手とか合気道とか、中国武術としては、太極拳なんかが有名でしょうか。
 
で――これがどのくらい一般的な傾向かはちょっと判らないのですが――武術の世界では、真っ向から科学を否定するような説が唱えられる事が、よくあります。武術系の専門誌を何冊か紐解けば、色々見付けられると思います。
武術というのは、敵の動きや心理を予測して、攻撃を避け、自分が有効に攻撃を加える、という目的を追求するものです。で、その要求が強くなると、「常識ではあり得ない現象」に憧れを懐く、という場合があります。
元々「感覚」とか「直感」を重んじ、分析的・言語的なものをあまり受け容れない(にも拘らず、言葉を駆使している)文化で、分析的に論証を積み重ねていく所である「科学」を忌避する、という事もあります。
つまり、科学を否定する事によって、自文化の優秀性を主張する、という事ですね。
 
で、実際、意識を直接読み取るだの、壁抜けやテレポーテーションだの、「超人的」な事が出来る、と主張される場合が、あります。原理として、「気」(武術における「気」は、非常に多義的)が用いられる事もありますね。
 
前置きが激しく長くなりましたが。
 
実際、一般に広く普及している文化でも、科学と相容れない論理体系を主張しているのは、沢山あるのですね。武術なんかは、そういう文化の最たるものかも知れません。
関係している人間には、様々な種類があるのですね。これは、当たり前の話だと思います。
 
ですから、当然、そういう文化を担っている人が駄目だ、という事では無い訳です。中には、人格的に高潔な人間もいるし、偉大な業績をあげる人もいる。
だから、批判する側が(少なくとも私はそうです)、たとえば、科学的に間違った事を言っているから人格的に問題があるとか、世の中から排除されなくてはならない、と言っているのでは、必ずしも無いのです。
 
批判する人は、対象が科学的におかしな事を言っている、というのを指摘しているのですね。特に七田式は、「教育」を専門としている訳ですし、中には、明らかに科学を装っているようなものも、ある。
当然、各教室での教え方が、必ずしも、七田氏が著作やブログで書いているオカルト的な事を反映している、とは限らないのですが、それでも、ある教育法を提唱している個人が存在する訳ですね。そこは、きちんと考えておかなくてはならない。別に、中にいる人は洗脳されているから止めろ、なんて極端な事は、言っていないのだと思います。
 
教育法として効果がきちんと確認されていない事、また、科学的には絶対あり得ないと断言して良いような事まで、七田氏は言っている。実際、それをトレーニングさせている、とまで書いているのです。
こういう問題は、必ず、コアの部分と周辺の部分があり、それは念頭に置いておかなければならないです。周辺にいる人とコアにいる人が、同じ認識とは限らない訳ですね。だけれど、コア(七田氏および、その近く)でどんな主張が展開されているかは、注意深く見なければならないと考えます。
 
個人的には、「差し引いてあまりある」効果、という所は、疑問です。それは、七田式「ならでは」、という意味ですから、他の教育メソッドではそういう効果は得られない、という事ですね。
世の中には、教育学者や教育心理学者等がいて、日夜、研究に勤しんでいる訳ですね。そこに思いを馳せると、そういう分野の研究によって得られた知見がフィードバックされているのだろうか、という所も、考えられるのではないかと思います。
 
効果があるか判らない、というのは、全く効果が無いかも知れない、という場合も考えられるし、「逆効果」の場合すら、あり得るのですね。効果がほとんど無い場合も、時間をそれに割く、という事を考えれば、総体的には物凄い無駄になる場合も、あり得ます。
 
社会にとって、「教育」って、根本的に重要な事ですから、「好き嫌い」だけでは、語ってはいけないんじゃないかな、と。
▲▲転載終了▲▲http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1183478389#CID1203868612

ニセ科学を批判していると、科学万能主義とか科学信仰とか、その手の非難をうんざりするほど食らうので、自分の考えを書いたものを集めとくのも良いでしょう。

投稿: TAKESAN | 2008年9月27日 (土) 11:49

こんにちは。

極めて大雑把に分けると「勘」とか「気」とかの用語を見聞きした人の反応は、2つに分けられると思います。1つは、成り立ちやメカニズムを解明したくなる人。そしてもう1つは、思考停止に陥る人です。
そして後者は更に、名前を付けただけで理解したつもりになる人と、頭から拒否反応を示す人とに分けられます。これらはいずれも「レッテル貼り」と表現しても良いかもしれません。

つまり思考停止という意味では「頭から否定する人」と「ビリーバー」とは良く似た思考様式を持っていると言えるのです(これは某血液型の人(笑)へのコメントに書いた時に、全く理解して貰えなかった事ですが)。

そして、思考停止するかどうかは好悪の問題ではなく、むしろ習慣の問題だと考えます。ですから「ニセ科学にハマる人達は科学が嫌いなのではなく、むしろ好きである」というのも成り立つのです。「科学という単語が使われていればとりあえず信用する」というヒューリスティクスだと言っても良いかもしれません。

このあたりちょっと強引に繋げてしまいますが、Poohさんの最近のエントリ
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-09-25
とも関連してくる様に思います(本当はあちらにもコメントすべきなのですが、Poohさんはこちらもお読みだと思うので、今回は手抜きさせて貰います。ごめんなさい)。

投稿: PseuDoctor | 2008年9月27日 (土) 13:00

PseuDoctorさん、今日は。

よく知らない、解っていないのに何か言う、というのは、まさに思考停止ですね。解ったつもりになっている、というのは厄介です。解っていない事を認めたがらないでしょうし。

アンビバレンスだったりするですよね。科学を無意識にある程度信頼しているのに、「科学」を表に出されると拒否反応を起こしたり。それでいて、「科学的」という言葉に飛びついたりもして。

基本的には、「知らない」から、というのは大きいと思いますね。これはいつも言っている事ですけれど。だから、昨日(今日か)kikulogでも、「小学校の教科書読み直した方が」、と言ったりしたのですが、あの状況では聞き入れられないだろうなあ。

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最近、バナナが売れているとか。

投稿: TAKESAN | 2008年9月27日 (土) 15:44

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