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2008年8月 4日 (月)

用語の説明

やすさんのコメントへのレスです。

これは私の見解なので、他の方とは違いがあるかも知れませんが。私は主にニセ科学について考えてきたので、それについて中心的に説明したいと思います。

まず「ニセ科学」は、その時点での標準的な方法や知識に従っているか、という部分が検討され評価される概念です。つまり、ある分野において、正当とされている実証の手続きを経ず、充分に仮説や理論の根拠が確かめられていないにも拘らず、実証されたと主唱者が主張していたり、世間に周知されていたりするものです。
例を挙げると、血液型性格判断です。
これは、血液型の情報からその人の性格傾向を高い確率で当てられる、という説ですが、現在、その説を裏付ける信頼の置けるデータは存在せず(これは、最も慎重な記述)、従って、現状で、この説を事実であるかの如く主張すれば、それはニセ科学だ、と判断される事になります。

もちろん、血液型と性格に関連があるかも知れないという仮説を主張し、それを確かめる、という営為は、「科学」です。ですから、今、関係があるかも知れないから確かめてみよう、という研究者なり好事家なりがいれば、それは「科学的」と言えます。

そして、これは意外と知られていないのですが、仮に(仮にです)、何年後かに、血液型と性格に強い連関が見出され、それは性格を当てる事が出来るほどである、というのが解ったとしても、それは、以前の「ニセ科学である」という判断を否定するものではありません。何故ならば、無い証拠をあたかもあるように言ったという所を根拠に、「ニセ科学」と判断されたからです。

という事は、ニセ科学か否かの判断には、必ずしも「言っている事が当たっているかどうか(事実に合致しているかどうか)」は入らない、と言えます。ですからニセ科学には、

 ・証拠が無いのにあると言う。
 ・証拠が確かめられているのに無いと言う。
 ・まだ解らないのにある/無いと言う。

これらのパターンがあると考えられます。

その時は当てずっぽう(ちゃんとした根拠を出さなかった、という意味)で理論を主張したら(これはこうだ、と断定的に)、ニセ科学と批判された。でも後になって事実であると判明した。だから、ニセ科学と判断したのは誤りだったのだ。

とはならない訳ですね。

「疑似科学」の方ですが、これは、伊勢田哲治氏の論考等を参考になさるのがよろしいかと思います。私の理解は、科学哲学の専門的な議論を充分押さえるに至っていないので、不用意に説明すると、誤解を招くかも知れません。

というのを踏まえて頂いた上で、私の認識を書きます。

まず、「科学」という概念がどのようなものかと考えると、それは、自然現象なり社会現象なりの仕組みを、経験によって得られたデータを手掛かりにして解き明かしていく営為であり、その方法及び、それによって集積された知識の体系をも含む総体、と見る事が出来ます。そうすると、「疑似科学」という概念は、そのような条件を一部満たしていないが、何かの現象を尤もらしく説明する論理体系、と一応言えるのではないかと思っています。

また、SF等で用いられる設定を「疑似科学」と称する場合もあるようですが、こちらは、既存の科学の概念を用いてはいるが、実際の概念とは異なっていたり矛盾したりする創造的・想像的論理体系、と言う事が出来るでしょうか。

で、こちらは、必ずしも非難される対象では無いので(事実と言っているのでは無く、フィクションの設定として用いられるのだから)、菊池さんは、このようなものが疑似科学と呼ばれる場合もあるから、それとは区別し、事実であるかのように主張される、あるいは信じられているものを、「ニセ科学」と呼んで区別するようにした、と伺っています(「ニセ科学」は、シャーマーの訳本から)。

疑似科学にしろニセ科学にしろ、それ自体は厳密には定義されていないと認識しています。たとえば伊勢田哲治氏は、科学哲学における境界設定問題(線引き問題)において、科学と疑似科学の厳密な「線引き」は出来ない、と主張されています。この種の問題で、必要十分条件を与えて厳密に概念を定義する事は出来ない、と。
しかし、だからといって、全く科学と擬似科学を分ける事が出来ず、その試みが無意味だというのでは無く、科学~疑似科学の間にはグレーゾーンがあるが、これは明らかに白、これは明らかに黒、というのは、色々な観点を総合すれば判断出来る、という事も言われています。

たとえば、「テレビゲーム」を定義する、という問題に似ているでしょうか。完全に定義し切る事は不可能だが、かと言って、これはテレビゲームだ、と言う事も無理だ、とはならないですよね。自然科学的に対象となる実体では無く、社会的に用いられる概念なので、そもそも、厳密に定義するのは不可能である、とも言えます。しかし、だからそういう語を用いるべきでは無い、とは当然ならない訳ですね。

「ニセ科学」に関しては、「科学で無いのに科学を装っているもの」というのが、一応の定義ではあります。ただ、科学そのものを完全に厳密に定義出来ないので、ニセ科学も厳密に定義出来るとは言いがたいとは思います。

ここで、科学が定義出来ないのに何故ニセ科学と言えるのか、という疑問が出るかも知れません。そこに関しては、ある説が「科学的に実証/反証 された」という言明が可能か否か、という部分の認識が関わってくるでしょう。もし、仮説なり理論なりが実証されたと「言う事が出来る」のを認めるなら、未検証の説を検証された、と言ってしまったら、それはニセ科学になる訳ですね。

もし、科学的に実証/反証された という言明は不能だ、という立場なら、議論が不可能になるでしょうね。そもそも仮説や理論の検証が出来ないと言っている訳ですから。

どうして「ニセ科学」という概念を用いるかと言うと、扱いやすく、問題設定が比較的正確に出来るから、なんですね。要するに、その当時の標準的な科学の方法、というある程度明確な基準があるので、それに照らせば、ニセモノだと判断出来る訳です。

具体的には、実験や観察をしてデータを採って、それを分析して論文を書き、査読者による審査を通ったら、他の研究者によって追試され、科学的に認められた説としての地位を得る。で、それが出来ていないのに、「出来た」と言ったり、「本当だ」と言ったりすれば、それはニセモノだと判断されるのですね。充分な物的・状況証拠が無いのに、「あいつが犯人だ」、「あいつは犯人じゃ無い」、と主張するのと同じです。後からその推測が当たっていたとしても、(推理小説ならともかく)なるほど真実だったのだ、とはならないですよね。

大分長くなり、簡潔にまとめられたとは言いがたいですが、参考にして頂ければありたがいです。不明な点があれば、ご質問を下されば、出来る限りお答えします。

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コメント

詳しい解説どうもありがとうございます。
一カ所わからないところがあるので教えてください。
最後から2つめの段落の三行目の「それ」(それが出来ていないのに、「出来た」と言ったり、...」の「それ」)はどこからどこまでを指していらっしゃるのでしょうか。もしその直前の文全体を指しているのでしたら、追試前に出版された査読審査済み論文も「ニセモノ」ということになってしまいますよね。データを採った段階なのか、査読審査に通った時点なのか教えていただければ幸いです。

投稿: やす | 2008年8月 4日 (月) 00:42

あれ、解りにくかったでしょうか。

「それ」が掛かっているのは、
▼▼▼引用▼▼▼
科学的に認められた説としての地位を得る。
▲▲引用終了▲▲
ここですね。

一応。
査読で採択される事が必要条件であるとも十分条件であるとも言っている訳では無いです。基本的なプロセスとしてそれがあり、科学的に認められるというのは総合的に評価されるものだ、という説明であるので。

ですから、追試以前の査読付き論文がニセモノ、とは当然ならないです。もっと言うと、それが「ニセ科学」か否かを「決める」必要もありません。

ニセ科学の判断には、「主張と事実の乖離の度合」というのも関わってくると思います。
学会発表しただけなのに、「○○学会が”認めた”」などと言ったら怪しいですよね。それが、「科学的に認められた」、「立証された」などと言うと、もっと怪しい。で、その説が、「立証された」という情報ごと広まれば、それはニセ科学と判断される事になるでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 00:58

ああ、わかりました。
論文(または実験)の内容のことではなく、評価についての偽装のことだったのですね。
私も学会発表しながら、査読で落とされた経験があるので、とても良くわかりました。
どうもありがとうございます。

投稿: やす | 2008年8月 4日 (月) 01:11

ちなみに、と言うか、上で挙げた例は、ゲーム脳説の事だったりします。

ゲーム脳は、まともな学術論文は無く、主唱者自身がつくった学会で発表されただけなのですが(定義すら無いので、追試もしようが無いのです)、そうであるにも拘らず森氏は、実証されたかの如く触れ回っているのですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 01:20

こんにちは、TAKESANさん。少し「ニセ科学」という用語に関して、悪徳商法批判をしながらよく言っていた「社会用語」という事を思い出したので書いてみます。

悪徳商法批判をしていて「マルチ商法」という言葉を巡って多くの論争があったのです。いわゆるマルチ商法は法律では「連鎖販売」という名前で定義され規制されている訳ですが、「何々はマルチ商法だから手を出さない方が良いよ」みたいな発言に対して、「法律上の連鎖販売の定義からわずかに外れているので、マルチ商法と呼ぶべきでない」なんて言う人がいたわけです。でもね、実はこれっておかしな話なんですね。まず、社会になにやら問題のある販売法が起こるわけです。でもって、それを報道するにしても警告しするしても用語が無いと不便だから「ネズミ講式販売」と呼ばれたり「紹介販売」と呼ばれたりしているうちに、「マルチ商法」と呼ばれる事が多くなって社会に定着する訳ですね。これが社会用語であって、定義そのものも元々曖昧なんですね。なんとなく似ていれば「マルチ商法かな」みたいな感じで使われる訳です。でもって社会問題が放置出来なくなると法律が整備されるのだけど、法律を適用するとなると定義を曖昧にはできないから、厳密な定義を定め、社会用語との混乱を避けるためにわざわざ「連鎖販売」という言葉を作るわけです。だから、社会用語の方はもともと曖昧で、かつ法律用語より包含する範囲が広いのが普通なんですね。だから、上の例も「連鎖販売だから手を出さない方が良いよ」なら「法律の定義を外れているから、そう呼べないよ」という指摘は的確だけど、社会用語である「マルチ商法」という呼称に対して「法律の定義を外れているから呼ぶな」というのは、社会用語というものについての無知をさらけ出しているにすぎないわけです。そのことを説明するのに「押し売り」という言葉を例に出したのね。押し売りも悪質な営業所外販売が社会問題になったときにできた社会用語なのね。でもって法律は営業所外販売であることに注目して「訪問販売」という用語を定めて規制したのね。でもね、例えば店舗販売でもその店の大将や店員が五月蠅くつきまとって買わせようとする様な時に「押し売りするなよ、もう少し静かに物を見させてくれ」と言ったり、人に話すときに「あの店は押し売りするから」と言ったりしてもおかしくは無いわけです。なぜなら、社会用語の方が法律用語よりも定義が曖昧で、かつ、包含する概念が広くて当然だからです。

なんていうか、社会で生きると言うことは、社会用語に示されるような「曖昧な概念に包含されるものを理解して生きる」という事が必要に思えるわけです。でもって、今の日本人は、そういう能力を失っている気がするのね、だから、「全ての用語には厳密な定義がなくてはならない」と思いこんでいる様に見えるわけです。まあ、すべてが決まった社会で生きたいのなら仕方の無いことだけど、そんな社会はたぶんとても生きづらいし、長持ちもしないのじゃないかな。

投稿: 技術開発者 | 2008年8月 5日 (火) 09:44

技術開発者さん、今日は。

こういう、社会現象を表す言葉に付きまとう問題ですね。ニセ科学は明らかに社会的概念ですからね。科学/非科学、あるいは科学/疑似科学、について考えるのは、哲学的な論証という面があるのでまた違うのかも知れませんが、ニセ科学という概念は初めから、何が主張されているか、と実態との違いについてのものなので。

もちろん、言葉の意味を明らかにしていく事そのものは必要だと思っています。あまりにも漠然とし過ぎていたら、納得も共感も得られませんし。
ただそれは、自然科学的な概念のような定義にはならない。でも、だからと言って、何も語れない、とも言えない訳で。そこら辺は踏まえておきたい所です。

私がたまに書く、「テレビゲーム」や「暴力」の問題にしても、同じような感じだと思います。

後、疑似科学という概念に較べて、ニセ科学という概念は、扱いやすいのだと思っています。意味をある程度限定してありますし。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 14:03

技術開発者さん、

たしかに社会用語は厳密な定義が無くてもかまわないものなのでしょう。けれど、TAKESANさんのブログのように「疑似科学」と「ニセ科学」という二つの用語を同時に、違う意味として使っている例を(用語の定義のときをのぞき)わたしは他に知らないものですからお聞きしたまでですけれど、いけなかったでしょうか。

あと、科学者が「ニセ科学」を社会用語として使い「ニセ科学」を糾弾することはできないと思うんですけど。

つまり「この理論は(定義が曖昧なままの、社会的概念としての)ニセ科学だから良くない」と言ったって、科学者にとっては何の意味も有りませんよね。これを意味が有るようにするには、(1)「ニセ科学」の定義を明らかにするか、(2)批判内容を具体的に述べる、しか有りませんよね。

さらに言うと、誰かが、社会用語として「ニセ科学」という用語を使い「ニセ科学」を糾弾することは、科学にとってよくないことではないでしょうか。

例えば厳密な定義によればニセ科学にならないものを「ニセ科学」として糾弾することは科学者はもとより、非科学者もしてはならないと思うのですが。

だからこそ「まとめwiki」に定義が細かくされているのではないでしょうか。

投稿: やす | 2008年8月 5日 (火) 17:30

やすさん、今晩は。

いや、技術開発者さんのコメントは、やすさんに直接向けられたものでは無いのでは?

もちろん、社会的に用いられる概念が必ずしも厳密に定義出来ない、というのは、定義に無頓着で良い、というのを意味しない訳で。

私は明確に、あまりに概念が曖昧なままでは、その概念を用いて何かを批判するというのは不当だ、と考えています。
従って、ここでは、しつこいくらいニセ科学についての論理を整理しようと試みている訳です。そして、ある程度は出来ている、と考えています。

少なくとも私は、技術開発者さんの主張は、「概念を厳密に定義してからで無いと用いるのはダメだ」と考えるべきでは無い、という風に取り、賛同しました。

ちなみに、技術開発者さんのコメントの最後の段落には、(いつものように)賛同している訳ではありません。「今の日本人」のように、ある程度はっきりとした集合についての言明なので、それは「調べなければ解らない」事です。

もちろん、やすさんの論旨には、賛同するものです。

(多分、ですけど、やすさんは恐らく、「ニセ科学の定義は曖昧でも良い」と取り、「科学者の開き直り」のような印象を持たれたのですよね。私自身、そういう懸念を持っていたので、数年掛けて認識を整理してきたのです。そして、ある程度、少なくとも、ある説を「ニセ科学」と批判しても構わないくらいには議論は洗練されている、と私は認識していますが、いかがでしょうか。)

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 18:01

技術開発者さん、

どうも誤解をしていたようで、すみませんでした。

TAKESAN さん、

ご指摘ありがとうございます。

投稿: やす | 2008年8月 5日 (火) 18:09

こんにちは、やすさん。

>あと、科学者が「ニセ科学」を社会用語として使い「ニセ科学」を糾弾することはできないと思うんですけど。

なるほど、やすさんの定義では、「科学者は社会人に含まれない」訳ですね。つまり、科学者は社会で生きてはならないという事だと思います。

私は「科学者は科学者である前に社会で生きている」と考えています。そこでお聞きしたいのですが、科学者は何処で生きているのでしょうか?

そして私は「科学者は科学者である前に社会人であるから、社会で起こる事象に対して、あくまで一社会人としてそれなりの名称を提案しても良い」と考えますが、やすさんは、「科学者は社会人ではないのだから一社会人としての活動などしてはならない、したがって社会的な事象に対して、一社会人として名称など提案してはならない」とお考えなのですね。

なんて絡んでも仕方ないのですが、今の日本に「社会人」という概念は存在しないのかも知れません(笑)。つまり社会に生きていると言うことを実感し、社会の成り立ちにもそれなりの理解を持ち、社会で起こる事柄に対してその社会を構成する1人としてそれなりの責任を持つという概念は無いのでは無いかと思います。あくまで社会で生きるのではなく、会社員は会社員として生きている。医者は医者であり社会人ではなく、弁護士は弁護士であって社会で生きても、社会を構成してもおらす、そして科学者も科学者であって社会の外にいるかの様な概念がある様な気がします。

投稿: 技術開発者 | 2008年8月 5日 (火) 18:20

あー、お二人のやり取りは噛み合っていませんね。

取り敢えず、このコメント欄でのやり取りは、終了して下さい。お願いします。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 18:31

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