« 必修化2 | トップページ | 途中経過 »

2008年8月24日 (日)

守・破・離

はてなブックマーク - もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに

これは是非、corvoさんのような専門家のご意見を伺いたい所です。

私のブクマコメントはこれ↓

守・破・離 / 勝手に、「テクニック」を「小手先の技術」と意味付けしている人がいるような。 / 「型」とかにすると、また印象が違うかもね。/ 教えずに自由にやらせるのを是とするなら、成績はつけるべきでないよね。

特に違和感を覚えた意見。

そりゃきみに才能がないだけの話だろう/近代社会において絵なんてのは「別にやらなくてもいいこと」なので、勤勉な国民を育成するための学校教育でちゃんと教えるわけがない。芸事をやるひとなんて税制上のお荷物。( y_arimさん)

絵や感想のテクニックなど全く意味が無い。そもそも正解の無い物にテクニックを求める発想自身が貧困。増田は心を伸び伸びと楽しませる事をもう少し考えたほうがいい。(xevraさん)

どう思われますか?

型(あるいは、技術や技法)を教える事と才能を伸ばす事が、相反する、と思っている人がいますね。

これは、私の語感による言い方なので、ん、と思われるかも知れませんが。

自由と勝手は違うよね。

|

« 必修化2 | トップページ | 途中経過 »

「随想」カテゴリの記事

コメント

才能至上主義とか、天才信仰とか、そんな言葉を思い浮かべますね。

自由さを求めながら点数をつけるという、学校教育の、目標設定と評価ポイントのズレが、

>近代社会において絵なんてのは「別にやらなくてもいいこと」

こういう勘違いを生んでいるように思います。「評価の対象になってない=必要なものではない」という。

あと、身の回りに創作物があふれている状況が、あまりに当たり前になっているので、誰もがその恩恵に預かっているという現実に、気が付くことが出来ない、というのもありそうです。

とりあえず、誰かに使ってもらうつもりで、アイコンの一個でもデザインしてみれば、なにかつかめるんじゃないかと思います。


>技術や技法
例えば、絵を書くのに筆を使うことだって、実はテクニックなんですよね。画面に塗料を残すことだけが目的なら、指でもいいわけですから。
あまりにも当たり前に筆が用意されるので、それがテクニックの一つだとは気づかないのでしょうね。私も昔は気づかなかったですし。

投稿: A-WING | 2008年8月24日 (日) 16:13

A-WINGさん、今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
才能至上主義とか、天才信仰とか、そんな言葉を思い浮かべますね。
▲▲引用終了▲▲
後、マニュアル忌避とか、そういうのも思い浮かびます。型を教える事は、即「型に嵌める」のを意味しない訳ですが、そこら辺を熟考する必要があろうと思います。

武術などを考えると、基本を踏まえないで独学をしてしまう事の恐ろしさはよく解りますが、これは、他の文化も同様であろうと思います。

私は、小学生程度の段階で「才能」を云々するのは、とても疑問ですね。

「正解の無い物にテクニックを求める発想自体が貧困」なのであれば、絵画も料理も武道も芸事も、テクニックを求めてはダメなのですね。恐ろしく貧困な発想です。

投稿: TAKESAN | 2008年8月24日 (日) 17:54

あ、そういえば。

書道は比較的、型や技術を積極的に教える、ような気がします。特に毛筆。

うーん、これは、そもそも、まともに字を書く事自体にそこそこ技術が必要なのと、文字の基本的な綺麗/汚いの評価に共通了解がある、というのがあるからなのかな。

投稿: TAKESAN | 2008年8月24日 (日) 17:59

ブコメを引用されているおふたりは「そう云うことを云いたがるだろうな」と思われる方々ですので、それ以上の感想はないですね。
「守・破・離」でしょうね、やっぱり。

投稿: pooh | 2008年8月24日 (日) 19:37

poohさん、今晩は。

はてブが結構増えてきてますけど、案の定と言うか、論点がぼやけてきてるみたいです。

そもそもは、ほとんど技術的な事を教えられなかった経験から、もっとテクニカルな部分を教育した方が良いのでは、という話だったはずなのに、少しずつずれた所への意見が集まって、よく解らなくなってます。

画面脳の人は、相変わらずだなあ、と思って引用してみました。

投稿: TAKESAN | 2008年8月25日 (月) 00:09

こんばんは。ご指名あったので、出てきました。最初に読んでから、いろいろと考えていました。
具象的な絵を描くということを目的にするなら、明確にテクニックはありますし、基本的な手順を踏む必要があります。ただ、それらのテクニックを小学生がスムーズに習得することができるかというと、かなり難しいでしょう。手先の器用さや、体の使い方の上手い下手にも大きな個人差がありますから、上手くいかなくて投げ出してしまう子も多くなってしまう可能性があります。
「自由に絵を描きなさい」というのは実に難問で、音楽ならば「自分で作曲し、演奏しなさい」ということと同義です。いきなり出来るわけがありません。でも、僕のようにただただ絵を描きたかった人間にとっては、のびのびできる課題ではありました。でも、決して良い課題ではないです。
現状では、「描く」とか「作る」という行為ばかりが目的になっているのかもしれません。本来は「伝える」ということが重視されなくてはいけません。今自分が感じていることを「絵」を通して伝えるにはどうすればよいか?という問いかけがなければ、芸術の授業は何の意味もなくてなってしまいます。
「花の描き方」「人物の描き方」「布の質感の描き方」といったことを、塗り絵を仕上げるように教えてもそれほど意味はないでしょう。公式とある一つの方法だけを暗記して数学の問題を解くようなものです。
自分がどのように世界を認識しているか、そしてその自分が見ている世界のすばらしさを、どう他者に伝えるか。そこが一番重要だと考えています。
どんどん書いていくと長くなりそうなので、対話を通して書き込んでいければと思います。

投稿: corvo | 2008年8月25日 (月) 01:26

妙に覚えているガキの頃の話があります。
塗り絵を描いていて、全然ウマく塗れずにぎゃああああ!となっているときに、父親が、

「こうやって塗ると綺麗に塗れるよ」

と、まず輪郭線に沿って塗ってから内部を塗る というテクニックを教えてくれたんですね。
これが、ガキの私には魔法のように思えたものです。
それまではつまり、塗りたい場所あたりを色鉛筆でグチャグチャグチャ……とやってただけだったんです。
でも、それでどうしてちゃんと塗れないのか、全然わからなかったんですよ。(^O^)
これ、「自由にやれ」と私任せにされて教えてもらえなかったら、原始的なものしか描けなかったんじゃないかなあ。
……いやまあ、そういうものを身につければその分、何か失うんでしょうけれど。その部分に夢を見ちゃうのかなあ、こういう人って。

関係ないですが、神戸にある「しゅはり」というラーメン屋がなかなかウマいです。(^O^)

もひとつ関係があるような、ないような「名言」を。

☆ 同じような声の人って世の中にいるんだけど、歌い方が違うだけなんだ。歌い方って技術じゃないよ。声の出し方なんだよ。よく「歌ってる声と喋ってる声が違う」って言うけど、当たり前でね。違わないとまずいんだよ。声は作るものだから。みんな声は自然に出てると思ってるけど、それは歌じゃない。ただの発声なんだ。でも、声を作るって言うと、必ずみんな「作為」の「作」の方を無理矢理入れて解釈するんだよ。それはある種の技術コンプレックスなんだ。「本能は技術では出せない」とかって言いたがるんだけど、違うんだ、技術が至らないだけ。下手なだけなんだよ。

  ★ 大瀧詠一。

↑最初「技術じゃないよ」と言っててややこしいんですが、結局、それは技術であり、技術を変に忌み嫌ってどうすんだ、という話になってます。

投稿: hietaro | 2008年8月25日 (月) 02:23

corvoさん、今晩は。

私はどうしても、型を稽古する武術を念頭に置いて考えてしまうのですが、それでいきますと、
▼▼▼引用▼▼▼
「花の描き方」「人物の描き方」「布の質感の描き方」といったことを、塗り絵を仕上げるように教えてもそれほど意味はないでしょう。公式とある一つの方法だけを暗記して数学の問題を解くようなものです。
▲▲引用終了▲▲
これは、武術にも共通する事ですね。武術では、型を沢山憶える事で、人間の普遍的な身体構造を認識し、状況に応じた動きが直感的に出来るよう鍛錬する、という目的があります。
しかし、型の役割の意味を認識しなければ、それをパターンに当てはめるもの(相手がこう動いたらこの技、という(追記:ちょっと修正しました)パターンの集積としか捉えない)としてしか捉えられず、従って形骸化します。

はてブの否定的な意見というのは、恐らくそこら辺への懸念があるのだと思います。

そもそも型というのは、才能と努力を併せ持った達人が、後に続く人もプロフェッショナルの域に達する事が出来るように構築した体系、だと言えると思います。なるべく多くの人が上達していけるよう工夫されたものな訳ですね。だから、使わない手は無い。

もちろん、その体系が効果的なのか、という観点はあろうかと思いますが、一般論としては、そういうものを有効に用いていこうという姿勢は、持っておくべきだと考えています。はてブの一部にあるような、テクニックを教えるのは創造性や才能を阻害する、的な意見には、首を傾げざるを得ない所があります。

元々の増田の文章は、「手掛かりがほとんど無い状態では上達しようも無いし、自由にやれと言われても困る」、という意見だと読み取りましたので、たとえば本文で引用したような部分には、疑問を感じます。

はてブにも書きましたが、一般的には、もしテクニカルな部分を教えずにやらせるとすると、成績はつけるべきでは無いのかな、というのは思います。

型を守る事と型を破る事は、密接に関連しているのですよね。だからこそ、守・破・離のような概念がある訳で、それは本質的に難しいのだとは思います。
別のエントリーでも、武道必修化の話がありますが、それも、週数時間の授業でどこまで出来るか、というのがポイントだったりしますし。

私は、将棋はルールを知っているくらいで、遊び程度でしかやりませんが、「定跡」と「型」は似ているような気もします。多分、定跡を憶えるのは、単にパターンを憶えて局面に合わせて当てはめる、というものでは無いですよね? 言い方を換えると、そのようにしか出来ない人は、未熟なのではないかな、と。
そして、柔軟な戦法を駆使出来る名人は、基本的な定跡、つまり先人達の努力の結晶を身に着けているからこそ、それを応用したり打ち破ったりしていく事が出来るのではないかと、推測します。

あまりまとまってませんね…。技能の習得の話、とかもあるのですが、益々話がずれてきそうですので、この辺で。

投稿: TAKESAN | 2008年8月25日 (月) 02:26

hietaroさん、今晩は。

ああ、私にもそういう経験があります。

いわゆる骨(音読み)ですよね。増田も、そういう所が主張したかったのかな、と思います。そこを否定的に捉えるのがどうも解らないので、このエントリーを起こしたのでした。

もちろん、骨(音読み)を自分で掴んでいく、というプロセスも必要だし、「型に嵌める」、「教え過ぎる」のが良くないというのはあるのですが、それは別に、教える事そのものを否定的に捉えるのを正当化しない、と思うのです。

科学的にはこれは、学習科学辺りの領域でしょうね。

その名言、なかなか面白いですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月25日 (月) 02:34

絵画の技術なんていうものは元から学校教育でフォローする範疇ではない、というのがぼくの考え方です。近代国家にとっては、国民が下手に芸術方面に関心もってその道に進もうとしてしまうと、労働力の損失になるのではなかろうか? だからあえて絵画技法の本格的な部分には踏み込まず、芸事については自助努力ということにしているのでは……と。まあやたら話を大きくしている感はあります。

テクニックを教わりたいということ自体は非常に重要な考え方で、現状では子供のころにそれを満足に受けられずに育っていることには間違いがないと思います(テクニックを教わった程度で阻害される創造性や才能など何の価値がありましょう?)。
ただ、本当に描きたい人間はそういうの、自分で何とかしてしまうものなのかもしれない、少なくとも義務教育レベルで一律に教えるようなものではないのかもしれない――と、自分の過去を振り返ってみても思うわけです。

ああ、そうか。表現活動について国家に面倒を見てもらうということ自体に、ぼくは強い反感を抱いているのか。

投稿: Yuu Arimura | 2008年8月30日 (土) 16:17

Yuu Arimuraさん、今日は。

うーん、どうなのでしょうね。教育論一般になって、なかなか難しい所ではあると思うのですが、芸術方面の教育というのは、必ずしも、そちらへ関心を持ってその道へ進む、というのとはまた異なるのかな、という気も、しないでは無いです。

それと、元の増田は、画を描く授業があるのがそもそも前提で、その上で、テクニカルな部分をほとんど教えずにやらせるのはどうか、という論点だったので、一応は、そこに限定して捉えた方が良かったのではないか、とも思いました。

具体的に教えられれば才能や創造性が失われるか、また、その程度で失われるものを才能などと言うべきか、というのは、個人の資質にもよるでしょうし、周りのフォローにもよると思います。それこそ、テクニックを単なるパターンとして教えるか、それとも、技術の根幹をなす普遍的なコツとして教えるか、それも、教師のやり方に関わってくるものなのでしょうね。

いずれにしても、私自身は、記号を打ち破るのは、記号を知ってからだ、という認識で、それを先人が上手く表現したのが、「守・破・離」の概念であろうと思います。

料理でたとえると、「包丁は、ただ上下に動かすんじゃ無くて、前後にスライドすると、よく切れるよ」、というのを教える程度の事も、「テクニックを教える」事だと認識しています。絵画においても、そのようなテクニックの集合の体系が存在するものと推察します。

「テクニック」だと、いかにも「小手先の技術」という意味合いが強いので、「コツ」、「型」、「理合」、なんかにすると、また印象が違うかも知れません。

▼▼▼引用▼▼▼
少なくとも義務教育レベルで一律に教えるようなものではないのかもしれない
▲▲引用終了▲▲
ブクマコメントにも書きましたが、描く機会を与えて自由にやらせる、というのを是とするなら、やはり、成績はつけないべきだろうな、と考えています。うーん、そうですねえ。やるならきちんと教えるべきだし、教えないなら「評価」はすべきで無い、といった所でしょうか。

▼▼▼引用▼▼▼
ああ、そうか。表現活動について国家に面倒を見てもらうということ自体に、ぼくは強い反感を抱いているのか。
▲▲引用終了▲▲
そのお考えは、解らないでもないです。何となく、ですが、記号や体制に雁字搦めにされる、という所に危惧をお持ちなのかな、と思いました。

投稿: TAKESAN | 2008年8月30日 (土) 16:54

あー、「理合」って、武術関連以外ではほとんど使われる事のない、マイナーな言葉ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月30日 (土) 16:57

>Yuu Arimuraさん

私は最近、「いつ知るのか」ということを考えるんです。例えば、卓球で飯が食えるどころ豪邸が建てられるなんて、卓球がマイナースポーツの日本の子供たちは、いつ知るのかなとか、テレビのかたちやイスの形をデザインする専門の仕事があるって、誰から教えてもらうのかなとか。

「技法」というものが存在することを自分で見つけて来るる人がいるからって、見つけられない人には教えなくていいってことはないと思うんですよね。

本人が興味を持つかどうかは別として、知らない人には、こういうものがあるよって教えてあげるぐらいは、しても良いんじゃないかなって思います。

投稿: A-WING | 2008年8月30日 (土) 20:55

A-WINGさん、今晩は。

私もそう思います。

教育というのは、平均値を上げてバラツキを小さくする、という目的もあるでしょうから(ちょっと単純化してますが)、機会が無い人にも知識や方法を伝える、というのが重要な役割ですよね。各家庭環境は様々ですから、そういう所をフォローする、という面もあろうかと思います。
それは、芸術分野でも同様であろうと思います。一般論的な話ですが。

超余談。
はてブのコメントにもありましたが、私は色んな事を、ゲームやマンガから学びました。
今、テレ朝系で、懐かしのテレビゲーム特集をやってます。

投稿: TAKESAN | 2008年8月30日 (土) 23:06

めちゃくちゃテキトーな思い付きですけど(テレビ観ながら)。

「歩きながら波動拳」って、「テクニックを教える」、ですよね。

っと、話が逸れ過ぎか。

投稿: TAKESAN | 2008年8月30日 (土) 23:44

こんばんは。
芸術教育が行われないことを想像すると、それは国家的損失であり、生産力も大きく落ちると思うのです。
小中学校で美術のプロになるための訓練を授業ですることは無意味ですし、やるべきではないでしょう。しかし、A-WINGさんが指摘されているように、そういった職業があり、社会において役に立っている、ということを知ることは大切なことだと思います。これは美術にかぎったことではないですよね。小学生のときから、美術の仕事に理解のある人間が増えれば、それは社会的な豊かさにつながると思います。
美術に親しむということは、各個人の「美意識」を育てることにつながると思います。「美意識」を磨いていくことで、反社会的な行動や、常識に欠けた行為に対して、自制心を持つことにもつながるように思います。そういった規範を破ることが表現だという考えもあるかもしれませんが、やはりきちんとした「美意識」を身につけた上での、「型破り」であるべきでしょう。
教育という視点から考えると、教師のスキル不足は大きいと思います。現役の教師でありながら、つねに作品を作り続け、表現に対して真摯に向き合っている人は少なからずいると思いますが、けっして多くはないと思います。画材や美術史に対する知識も必要ですし、同時代の表現に対する興味も持っていなくてはいけません。これらのスキルを身につけた美術教師を、現状の大学教育で育成するのは、相当に難しいことだと思います。
また、特に初等教育においては、深い専門性を持った人間が美術教育を行うことが大切だと考えています。
ちょっと俗な例ですが、印刷物まがいの絵画と称するものを、詐欺的方法で大金で買わされることが多々あるのは、経済的には大きな損失です。まともな消費行動とは言えません。そういったことを忌避するためにも、質の高い美術教育が必要不可欠だと思います。
なんだか上手くまとまりませんでした。すみません。

投稿: corvo | 2008年8月31日 (日) 01:04

corvoさん、今晩は。

仰る事、同意します(「美意識」の部分については、難しい問題なので、保留)。

▼▼▼引用▼▼▼
ちょっと俗な例ですが、印刷物まがいの絵画と称するものを、詐欺的方法で大金で買わされることが多々あるのは、経済的には大きな損失です。まともな消費行動とは言えません。そういったことを忌避するためにも、質の高い美術教育が必要不可欠だと思います。
▲▲引用終了▲▲
この部分などは、全くその通りだと思います。これは、以前に書いた絵画商法にまつわる経験をした事などからも、実感しました(耳の痛い話です…)。あれはまさに、色々なものが不足していたが故にそうなった、と言えますね。

私としては、保護者の学校に対する認識、というのも重要だと思っています。学校というのは色々な知識を教えてくれる大切な場、だと思うのですが、学校を軽視する向きもあるように感じます。もちろん、頼り切ってはならないので、バランスが大切なのだと思いますが…。うーむ、ここら辺は、難しいです。どうしても、自身の経験が思い浮かんでしまうので。

投稿: TAKESAN | 2008年8月31日 (日) 02:33

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/23210694

この記事へのトラックバック一覧です: 守・破・離:

« 必修化2 | トップページ | 途中経過 »