« 用語の説明 | トップページ | メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か »

2008年8月 5日 (火)

じゃあどうするの?

思うんですけど。

科学の方法を否定したり、懐疑的に見たりする人って、現象の仕組みを解明するにはどうすれば良い、と考えているんでしょうね。具体的に言及されているのを、今まで見た事が無いのです。

と言うかですね。

私は、自分なりに、科学の方法を少し勉強してきて、社会や自然の仕組みを解き明かす方法、「どうなっているか」を確かめる方法としは、明らかに最も優れている、という風に思っているのです。他にどういう方法があるのかとか、さっぱり解らない。数学的に誤差を評価したり、人間の心理が関わる研究では、主観を排するように実験をデザインしたり、という方法が確立され洗練されてきているし、かなり成功していると思うのですよ。そういう方法に代わるやり方って、どうするんですか? ちゃんと、具体的に科学的方法を学んだ上で、否定なりをしているのですか? そうだとすると当然、具体的に、詳細に、厳密に、語る事が出来るでしょう。

たとえば、「○○に住む人には△△な人が多い」、という言明がある、としますね。

これは、どうやって「確かめ」れば良いと思いますか。そういうのを具体的に考えてみた事はありますか。

表面的な記号の繋がりだけを見ているのではありませんか。自分が批判している対象の具体性に思いを馳せた事はありますか。○○によって科学の限界が示された、的な文だけを鵜呑みにしてはいませんか。それを詳細に検討した事はありますか。科学において、「実証」というのがどれだけ厳しいプロセスを必要とするか、考えた事はありますか。「統計的方法」を非難する人は、当該方法のどこがどうおかしいかを、ちゃんと指摘できますか。

|

« 用語の説明 | トップページ | メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か »

「科学論」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。中身の薄い長文で失礼します。

以下は、この界隈ではとっくの昔に出たような話題であるかもしれませんし、仮にこれまで出ていない話題であったとしたら、それはすなわちこの話題が的外れであるという事を意味するようにも思われるのですが……ちょっと思った事を書いてみます。

ゆとり教育にまつわる言説なんかについてもあてはまる事だと思うのですが、ある人が何かを非難するのならば、その人がその物事の何たるかについて、ある程度以上具体的に把握していなくてはならないというのは当然であるはず。
たぶん、非難している本人だって、訊いてみれば上の事は認めると思うんです。

だから、きっと本人は、その非難している対象について、その何たるかをある程度以上具体的に把握している、と認識していると思うのです。
しかし、実際の所は、その自己認識と実態とがずれてしまっていると思われる場合が、少なからず見受けられます。

そういう例に於いては、その対象に関する自身の理解度についての、メタ認知的なモニタリングが不充分なのではないか。
もしそうだとすれば、その対象に関する具体的な説明を求めるような、ソクラテスの産婆術的な質問をする事によって、その物事に関する自身の理解度と真摯に向き合わざるを得ない(概念変化を要するアノマリに気付かざるを得ない)ような状況を作るというのが、議論の方法としてかなり有効である――というか、むしろ、それさえ出来れば案外すんなりうまくいく(自身による非難が不当なものであった事に気付かせる事が出来る)のではないか――なんて事を思ったのですが。

まあ、こんな、認知心理学の入門書をかじり読みした程度の人間の思うようにはいかないんでしょうけど(A氏、S氏、n氏らは稀有な例なのか、そうでもないのか……)。

でも、取り敢えず自分の言葉で、なぜその対象が非難されるべきであるのかという事の具体的な理路を、短絡する事なくきちんと明らかにしてほしいと思うんですよね。
何かを非難する際には、その程度の労力を払う義務があるはず。

……そして、以下は余談であり、「科学」というものが、かっちりとした一意の対象を指す言葉ではないという事と、私がそれに対するきちんとした理解を持っていないという事と、その他色々とから、ちょっときわどくなってしまうかもしれないのですが。

「科学」も「宗教」と等しく信仰の対象だ、というような言い方をされるたびに、"まあ、極論したらそうかもしれないけど、でも、科学の方法論に対する信仰(というよりも信頼)っていうのは、ほとんどの人が妥当とするようないくつかの信念に還元する事が出来るんじゃないかな"っていう事を思うんです。

例えば、自然の斉一性とか、自身および他者の記憶や認知能力がある程度以上信頼出来るものであり、またある程度以上は信頼できないものである事とか、言語コミュニケーションが一応成立している事とか、あとは、神様の悪戯心による世界への介入っていうのが、たとえあったとしても、そうたびたびは起こらないものであるという事とか。

"科学の方法論に則って確かであるとされた知見は、結構信頼できる"っていう事は、上述したような、日常的に妥当とされているような常識的な信念群から伴意される――というか、現代に於いては、それらの常識的信念から高い信頼性が伴意されるもののみが、科学の方法論とされているのではないか、っていう事を思うんです。

そんなこんなで、"科学と宗教とは違うだろう、「常識的」に考えて"みたいな事を思ってしまうのです(これは、宗教が非常識であると私が考えている事を意味しません。宗教的な信念の信頼性は、日常的な信念からは伴意されない、というだけの話です)。

まあ、ニセ科学批判っていうのは、そのような素朴な認識によらずとも出来る活動である訳で、以上私が書いた事はあまりこの場に相応しい話題ではないでしょうから無視して下さって構わないのですが、ただ、あんまりメタぶる人を見ると、どうもモヤモヤしてしまって、筆が滑ってしまいました。

念の為、上述した内容はすべて私個人の思想に関わるものであり、ニセ科学批判者とされる人々が、私のように、常識を笠に着て、上から目線で科学を啓蒙するという立場に立っているという訳ではない事、というよりも、ニセ科学批判という行為が基本的にそのような立場から行なわれるものではないという事を、最後に明記しておきます。

あと、私が、科学で解明できない事はないとか、科学は絶対に間違わないとか、科学的でないものは駄目だとか考えている訳ではない事も一応書いておきます。
私は、科学というものを、限定された領域に関する、ある時点に於ける蓋然的な判断を扱うものであると認識しています。

投稿: spiklenci-slasti@出先 | 2008年8月 5日 (火) 16:10

spiklenci-slastiさん、今日は。

自己認識と実態がずれている、というのは、よくある事だと思います。自覚がきちんと出来ているか、ですよね。

質問によって考えざるを得ない状況を作る、というやり方ですね。実は、私はよくやる事であったりします。ajtptwtptjaさんにゲーム脳に関して訊いたのも、そういう意図であったのです(あの部分で返答があれば、いくつか質問を続ける予定でした)。

尤もこれは、自身の認識の程度に目を向けさせる事で、1)その人の持っている信念や論理を崩壊させる(そして、それをギャラリーに見せる) 2)反省を促しより良い議論を行う  という攻撃的な面と建設的な面の両方があるので、なかなか怖いものでもありますが。

---

科学観については、私もほぼ同じ認識だと思います。(哲学的厳密にはともかく)自然には斉一性があると考え、その仕組みを解く科学や技術によってもたらされた成果を利用する事によって、私達は生きている訳ですよね。
それを考えると、自然(に限らないけれど)の在りかたを解明し記述する文化、としての科学に信頼を置くというのは、当たり前の話だと思うのです。そういう意味では、「現象の仕組みを解明する営為」として、科学は明らかに優位である、と私は考えます。

後半には、全面的に同意です。と言うか、代弁してもらった、と思えるくらい同意です(笑)

------

これだけspiklenci-slastiさんが丁寧に注意深く書かれたにも拘らず勘違いする人がいそうですので、私も書いておきますが。

このやり取りは、「ニセ科学論そのもの」ではありませんので。前にも書きましたけど、ニセ科学論というのは、科学哲学的な問題とはある程度(←これ強調)分けて考える事が出来るようにしたものですから。


投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 17:44

TAKESANさん、こんにちは。

科学への不信感は、科学者以外の学者(以下、「非科学学者」)の科学的手法の使用方法に起因するのではないかと考えております。「非科学学者」の科学の取り扱いは杜撰極まりないと言っていいと思います。たとえば、統計をとってみても、そのデータの扱いがいかにいい加減であるか。ソーカル事件を持ち出すまでもなく、審査員も科学的知識が無いので、査読が査読としての役割を果たしていないのです。「非科学学者」(主に人文系 あ〜あ書いちゃった)の科学的無知が背景に有ると思います。

投稿: やす | 2008年8月 5日 (火) 18:03

(「用語の説明」へのコメント、了解しました)

------

うーん、どうなんでしょうね。

人文系、という括りより、実証的方法を重んじるか否か、という所で見た方が良いかな、とも。と言うより、人文系という括りそのものが、適切では無い気もします。

科学への不信は、色々なパターンがあると思います。フィクションで科学者が頑迷なキャラクターとして描かれていた、という解りやすい例や、健康番組で無闇に断定する態度を見たり、とか、オカルト系番組で「頭ごなしに見える否定」をしているのを観た、とか(私は、そういう番組に科学者は出ない方が良いかも、と思っています)。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 18:33

確かに「人文系」は不適切でした。訂正いたします。「人文系」のみなさん、すみませんでした。

あと、ご指摘通り「ソーカル事件」的な事象は科学への不信の原因の一部に過ぎませんね。ただ、ソーカル事件でもわかる通り、「科学的手法を不適切に濫用する学者が現実に多数いて、査読にも通ってしまっている」ということが、科学不信の一因(の可能性)として指摘されることがあまり無いようなので書いてみました。

投稿: やす | 2008年8月 5日 (火) 19:59

(ここで何度か議論になったのですが)私自身は、たとえば理系/文系というのは、研究対象によって便宜的に分類するくらいの用法に留めておいた方が良いのではないか、と思っています。一般に人文系に分類されるものでも、学際的な研究は行われているのが普通でしょうしね。

ソーカル事件に関しては、私はそもそもあまり知識を持ち合わせていないので、たとえば『知の欺瞞』や科学哲学の本を読んだりして、そういう事があったのだなあ、というのを知ったくらいなのですが、当時を詳しくご存知の方の仰る事を参考にしよう、と思っています。黒木玄さんのサイトとか。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 22:49

こんにちは、TAKESANさん。

なんていうか、人文学は人文学として自然科学に負けないくらいきちんと発展してきてはいると思うんですよ。だけどね、なんていうか社会への普及というか「こういう学問があるんですよ」みたいな意識の普及がうまく行っていない気がするんですね。むしろ、かっては知識人の中にあった哲学的な部分が薄れているというか省みられなくなっている様な気もするんです。旧制高校とかの話題で理系の学生ですら「君は西田の『禅の研究』を読んだか?」「読んだ『絶対矛盾の自己同一』である」と実は読んでもチンプンカンプンだけどミエを張り合うようにしてなんらかの哲学に触れた経験が社会の中で知識人として遇される様になってから実を結ぶような部分が無くなっている感じを受けたりもするわけですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年8月 6日 (水) 08:48

技術開発者さん、今日は。

周知されていない、というのはあるかも知れません。哲学の徹底的な論証とかは知られず、何だかよく解らない事をやってるな、という感じで。
むしろ、やすさんが挙げられたソーカル事件は、哲学等の分野へのそういう印象を強めたのかな、という気もします。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 6日 (水) 12:40

投稿: TAKESAN | 2008年8月10日 (日) 11:11

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/22786731

この記事へのトラックバック一覧です: じゃあどうするの?:

» デバッグと共有 [Chromeplated Rat]
TAKESANさんのじゃあどうするの?と云うエントリを読んでちょっと思ったこと。 いや、コメント欄に書き込もうかとも思ったんだけど、あきらかに議論の方向を曲げてしまうので。 [続きを読む]

受信: 2008年8月 5日 (火) 22:00

« 用語の説明 | トップページ | メモ:科学・未科学・ニセ科学 どの部分への評価か »