変遷と言うほどでも無いかも知れないけれど
私の場合は、初めに読んだ専門書的な本で、普通にニューサイエンス的なものが出てきていたので、「科学とはそういうものだ」、と認識しました。既存の科学の方法に対する批判という点をそれほど強く意識し、同調した訳でも無いのですが、それでも、それまでの科学はアトミスムで、ホーリスムの考えを取り入れなければならない、という言説でしたので、なるほど、以前の科学はそんなに不充分だったのか、と、「科学を知らないままに」思った、というのはあります。
もっとも、それがニューサイエンスという立場の影響を受けているものなのかも知れない、というのを知ったのは、大分後の話です。当時は、「カプラ? そういう科学者がいるのね」、という程度の理解でしたし。
で、それがきっかけで、多分ニューサイエンスの特徴の一つである、「意識」を過剰に重視し、それを科学の既存の理論と無理矢理結び付けようとする言説にも、親しんでいきました。
白状しますと、天外伺朗・茂木健一郎 『意識は科学で解き明かせるか』なんかを読んで、おお、なるほど、「なんか解らないけど」これは凄い、となったものです。知りもしないのに、何となく凄そうだ、と思った訳ですね。
で、そういう認識が続いたのは、ほんの数年前までなんですね。多分4年くらい前は、超能力捜査も、あるかも知れない、という風に思っていましたし。
そこから認識が変わっていったのは、ニセ科学論に興味を持ってきたのと、心理学や自然科学をちゃんと勉強しようと思い、小学生の参考書から買って読むようになったりしたのとがきっかけでした。要するに、それまで知らなかったものを知ろう、と考えたのですね。そういう意味では、いわゆる説得されて、というのでは無く、自ら知らなかったものを知ろうと志向し、色々な事に気付けた、というケースです。
そういう経験もあったので、ニセ科学を信じて科学を軽視・敵視するのは、当該体系に関する知識を持ち合わせておらず、ニセ科学を批判する人が言っている事を「実感」出来ないからではないか、というのを、時折書くのですね。
色々なケースがあるというのを認識し、考えていくべきなのでしょうね。いつも書くように、万能包丁は無いのですし、包丁を用いる対象も、多種多様なので。
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コメント
なるほど、TAKESANさんは、ニューサイエンスの間接汚染をくらったのですね。ニューサイエンスブームの後、チャネリングとかに流行が移って、ニューサイエンスは飽きられたと理解していたのですが、全部がそうだったのではなさそうですね。ニューサイエンス残党の影響はかなり遅くまでくすぶっていたのですね。
私の場合、父方の祖父母が熱心な浄土真宗門徒(私から見て。あの地域のあの世代ではあれが普通だったのかも)で、よく知られているように浄土真宗は迷信の排斥に熱心なので、私もその影響で迷信を嫌う少年に育ちました。そんな少年がカプラを読めば、そこに書いてある「東洋思想」が自分の知っている「仏教」とは全然違うものであることは一目瞭然だったので、無知なアメリカ人が妄想を開陳しているとしか読めませんでした。
今から考えれば、こっちにも迷信に寛容な仏教他宗派の存在が視野に入ってなかった甘さはあるんだけど、それも怪我の功名に働きましたね。
成長して「単一の『東洋思想』なるものは存在しない」という批判ができるようになったころには、ニューサイエンスブームはどこかに行ってしまっていました。
投稿: かも ひろやす | 2008年8月 3日 (日) 22:36
かも ひろやすさん、今晩は。
そうですね、間接的な影響、と言えるかと思います。
恐らくニューサイエンスが流行った頃に出た本、を、刊行の十数年後に読んだ、という感じですね。で、その著者は、今も同じような立場です(名前を挙げると、高岡英夫という人です)。
で、恐らくそれ以前に、そういう考えを受け容れる下地のようなものがあったのかも知れません。その理由を分析するのは難しいですが、マスメディアからの情報や、フィクションの影響等があったのでしょうね。
それから、武術に関心を持っており、かつ東洋の思想に全く造詣が無かったので(恥ずかしながら、こちらは今も持ち合わせておりません。だから、そういうテーマのものを書かない(というか書けない)訳ですが)、ある種の「鵜呑み」をしてしまった、と言えるでしょうね。武術では、「意識」を物凄く多義的で曖昧に用いたりするのがありますので。ある武道の教則本にも、ニューサイエンス的な記述があったような気もします。
でも、基本的には懐疑的な人間なので、そういうのも疑ってかかりました。それが良い方向に働いたのですね。時間は6・7年掛かりましたけれど。
私は、ある説なり人物なりに「心酔」するというのが嫌なんですね。何かに自分がコントロールされているような感じを凄く嫌うのです。だから、色々な考えをとにかく取り込もう、というのはありました。最近は、科学の勉強も進んで、ある程度洗練されてきた(メタになってきた)という風に自己分析しています。
投稿: TAKESAN | 2008年8月 3日 (日) 23:03