« メモ:観点 | トップページ | メモ:ニセ科学批判者 »

2008年7月31日 (木)

批判の仕方の話と科学的方法に関する話

ニセ科学論議の違和感概要 - 痛いことを惜しげもなくさらすブログ

発端は私のコメントだと思いますので、言及します。

なかなか難しいです。何度も繰り返されてきた議論ではありますが、まとめるとなると困難ですね。そういう疑問を持たれた方への案内としてニセ科学wikiがあるのですけれど、どうやら既読でいらっしゃるようです。

最近「ニセ科学」タグのついた記事を良く見かけるようになったんですが、最初は「科学を騙る詐欺商法を見分けてだまされないようにしよう」という話なのかなと思っていました。

ニセ科学を批判する場合、それを積極的に詐欺に用いる人を批判する、という事は、もちろんあります。で、それ以外にも(と言うより、こちらが最も一般的な動機だと思われます)、学説を歪めて流布したり、あるいは、全く認められていない説を、「認められたかのように」広める人に対する批判、というのもあります。簡単に言うと、ニセ科学は「ウソを広めている」訳です。これについては、ニセ科学wikiに詳しいので、今一度参照なさるとよろしいと思います。

後、これはちょっと推測を含むのですが。

もしかすると、「ニセ科学」にまつわる議論、はてブ経由のものしか参照なさっていない、という事はないでしょうか。ニセ科学というのは、科学を騙るもので、ニセ科学批判者というのは、それぞれの動機において、それを批判している人を指す訳ですね。従って、批判の方法まで統一されているのではありませんし、他の部分についても、必ずしも認識が共有されているものでも無いのですね。もちろん、ニセ科学の定義とか、何をニセ科学と判断していて、それは妥当であるか、という部分については、共通了解を形成する訳ですが。

科学的手法と呼ばれる、たぶん検証可能性とか再現性とかの話だと思うんですけど、それを主張するのにどうしてこんなコメが集まるんでしょうか?

この部分、ちょっと解りませんでした。はてブのコメントは、検証可能性や再現性を主張するものがありましたっけ。少なくとも私は、黒影さんの主張が妥当か否かが解らないと言っているのに、その態度について独立に評価するのは無理がありはしないか、という意味合いで、コメントを入れました。だから、まともで無い事を言っている人に、「まともで無い」と言うのは、全然構わないでしょう、と書いた訳です。それは客観的な評価であるかも知れないのだから。

ニセ科学を主張する人の中には、あらゆる部分が破綻した論を展開して、デタラメを「科学的に実証した」、と言ってのける大学教授もいるのです。私は、そういう人を、まともで無い科学者と評する事に、些かの躊躇いも感じません。と言うか、たとえば森昭雄氏を、他にどう評すれば良いのか、全く解りません。ニセ科学を流布して、(主に)科学者で無い人を惑わし、教育機関主催の講演が今も開催される、そんな人を、他にどのように評価すべきなのでしょうか。

大体ニセ科学を論破しようと試みる方は、アカデミックな雰囲気がコメントからにじみ出てきているように感じます。大学の研究者の方とかが多いんでしょうか?

たとえば私は、科学者ではありません。アカデミックな雰囲気というのがどういうものなのか、今一つ判然としませんが、そもそも「科学的にどうか」、という(黒影さんの)話に絡んでいるエントリーなので、そういう雰囲気があるのも当然のような気もします。

もちろんそれを皆さん踏まえていると思うのですが、そうであればどうしてある意味不遜にも「まともな研究者であれば」という言葉遣いで、科学的態度の正しさを主張できるのか、ちょっと不思議に感じてしまいます。

これは、「レベル」を考慮なさっていないのでは? 科学者(の集合)とは専門家集団です。プロフェッショナルです。科学的研究方法・知識に関するある程度のスキルが要求されている訳でしょう。そのラインに達していないにも関わらず、専門的知識を誤解させるような説を流布しているのであれば、まともで無いと評するのは、全く問題無いのでは。もしかすると、「まとも」という部分が掛かる所の読み方が、異なっているのかも知れませんけれど(「研究の姿勢」か、「人格性」か)。コペルニクスの例は、状況の異なりが考慮されていないので、あまり適切では無いように思います。福岡氏への黒影さんの批判が不当か否か、というのがまず考えられなくては。その後の一文は、ちょっと意味が掴めません。

科学的態度とは、たぶん「正しい」ということを見つけ出すために推奨される方法論だと私は思っているのですが、そこの認識は間違ってないでしょうか?

私の考える「科学的態度」とは、事実(証拠)に基づき現象の構造を追究していく態度です。「正しい」という語にどういう意味を持たせてあるかが読み取りにくいですが、科学とは、実験や観察によって得られたデータを数学的に処理し、現象の構造を明らかにしていく営為なので、その意味で言うと、「正しい」(現象を正確に捉えられているか)かどうかを見つけ出すものだ、というのはその通りだと思います。科学の理論は実際の現象を近似したものと考える事が出来るので、仮に真理(実際どうなっているか)というものを想定した場合に、そこに近づいているのか、という観点は重要でしょうね。近づいているかどうかは、これまた実験や観察によって「確かめられる」訳です。

そうだとすると、一方で「正しい」ということが、生き物としての人間にどれだけの効用があるかということが、人間としての私にとって非常に興味があるところです。

要するに、「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」ってことは、科学的態度を広く啓蒙していく上で重要だと思うんですが、そのあたりについては最近はどういう議論になってるんでしょうか?

ここら辺、食い違いがあるかも知れません。ニセ科学批判の動機は、「ウソをつくな」、です。科学的態度を身に着ける事と幸福さとの関係、というものに言及する訳では無いと思います。もしそういう論があるなら、それは、ニセ科学論とは離れて、批判者個人の思想に関わるもののようにも思います。ニセ科学が批判されるのは、「ウソをついている」からです。その上で、「どのニセ科学を批判するか」、というのが、それぞれの人のそれぞれの動機で決められる訳です。たとえば私は、「ゲーム脳」を最も採り上げて批判しています。が、それは別に、科学的態度を身に着けた方が幸せだ、などという動機からではありません。(動機については、「ゲーム脳」カテゴリーのエントリーでも書いていますので、よろしければご参照下さい。それが妥当で無いと判断されれば、批判は歓迎です。)

それに対して、ニセ科学批判は「科学的正しさ」こそが真・善・美であるっ!と主張しているのはわかるのですが

えっと。

是非お聞きしたいのですが。

誰がどこでどのように、そういう主張をしたのでしょうか。少なくとも私は、全くそういう主張は見た事がありません。と言いますか、見たら批判します。だって、そんな事思っていませんから。

もう一度言いますが。

「ニセ科学」とは、「科学を騙っているもの」です。もう一度、wikiをご覧になった方がよろしいです。

科学的な正しさとは、実験や観察によって確かめられ妥当だと認められている、という意味ですから(そして、それは「とても大きい意味」です)、そもそもそれを、「真」だなどと看做す人は、そんなにいるとは思えません(「善」、「美」はいくら何でも…。なんか、科学的方法の具体的なイメージを、あまりお持ちで無いような)。科学は、「どうなっているか」を追究するもので、「どうすべきか」、という問いに「直接」(科学的知見に基づいて考えられる事は、当然ある)答えるものではありません。

「俺は人間というちっぽけな視点からではなく、神の視点である科学的方法をとっている。その道から外れていないことを告白します!」という意味に私には感じられた、ということです。

中傷の意図はないですので、何卒ご容赦ください。

まあ、誤読でしょうね。私もひえたろうさんも、別に中傷の意図を読み取った訳では無いと思いますよ。少なくとも私は、問題設定などを読み違えた、と感じてコメントしました。初めからひえたろうさんは、

 「科学が全てじゃない」「科学は万能じゃない」なんていうのは科学の側からすればあまりに当たり前のことだ。科学というのは適用範囲を極めて小さく絞っているからこそこれだけ厳密な体系を作れているわけで、(思い出話とか - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録

と書いておられる訳ですね。読み落としでも無い限り、ちょっと誤読が過ぎるんじゃないかな、と思った次第です。そもそも、私にしてもひえたろうさんにしても亀@渋研X:さんにしても、「科学以外のものの見方から科学的ものの見方への”転向”」の話をしていたのでは無くて、「科学的とはどういう事か」、という事についての認識の変遷を書いていたのですから。もしかすると、はてな界隈のニセ科学論に印象が引きずられた、という事は無いでしょうか?

|

« メモ:観点 | トップページ | メモ:ニセ科学批判者 »

「科学論」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。

やっぱり「上から目線」「傲慢」というキーワードが出てきちゃうんですよね。
難しいところです。

私は以前、「上から目線」というエントリ

http://taizo3.net/hietaro/2008/05/post_298.php

を書いて、ちょっと言葉が足りずに一部の方には不評を買ったようなんですが(^^;、結局、科学とか論理というのはそういうもんなんですよねえ。間違っていることは間違っているわけで、そういう容赦のない分野なんですよね。

「科学とはそういうもんです」というのを分かってもらうにはどうすればいいかなあ?
 ……なんていう命題を設定すること自体が傲慢かもしれませんね。(^^;

 ちなみにajtptwtptjaさんのエントリについたはてブには「科学教に疑問を感じることがときどきある。」とのコメントが。

投稿: hietaro | 2008年7月31日 (木) 03:54

「騙されている方が幸せ」というのは、まあ真理のひとつではあると思います。
最近はそれが我慢ならない人が増えているからこんなことになっているだけじゃないでしょうか。

科学的態度と価値観を結びつけるのも、止めといた方が良いと思うんですけどね。というか、そういう考え方をするから「科学」が特別なものに見えてくるわけで。

投稿: Noe | 2008年7月31日 (木) 08:12

ちょっと生煮えで、具体性のある見解になってないんですが。

嘘がひとに幸せを感じさせることは、まぁありうると思います。でも、そこから「科学的事実はひとを幸せにするか」と云う議論に持っていくのは、議論の展開としては「嘘は一般的にひとを幸せにする」と云うことを主張するのとおんなじぐらい乱暴なんですよね。
「科学的真実はひとを幸せにするか」と云うことを問うためには、まず絶対にすっとばしちゃいけない議論のステップがいくつもあるだろう、その辺の立脚点を示さずに問うのは正直難癖以上のものにならないんじゃないか、みたいに思ったりします。

投稿: pooh | 2008年7月31日 (木) 08:13

hietaroさん、お早うございます。

私としては、知ったかぶりしている人に、ある程度強くものを言うのは、全然構わないと思っています。基本的に、それについて携わる専門家が多数存在するような分野について、生半可な知識のままで尤もらしいが誤っている主張を行う事は、大変「失礼」な話だと考えています。
当然、私自身、ここに書いた事全てについて、強く批判されるのを覚悟しています。おかしな事言って「怒られる」のは、当たり前ですから。自分は他人を批判するし、ある程度専門的な所に(非専門家的立場で)踏み込む、だけど反論はお手柔らかにね、というのでは、あまりにムシが良過ぎますからね。

▼▼▼引用▼▼▼
 ちなみにajtptwtptjaさんのエントリについたはてブには「科学教に疑問を感じることがときどきある。」とのコメントが。
▲▲引用終了▲▲
ついていましたね。日本語的にちょっと変な気もします(多分、科学教に「疑問を感じる」のは時々じゃ無いでしょう。「科学教的な意見を見る事」が時々ある、って意味でしょうね)。
科学教ってなんでしょうね。似たような言葉は時折見かけますが。未だに意味が解ってません。

------

Noeさん、今日は。

幸せというのは多分に主観的な概念で、それがどういうものか、そこに至るにはどうすれば良いか、というのは、一概に言えないものだと思います。

科学的態度を身に着けた方が幸せだ、と誰かが言ったのかなあ。私は、そういう意見は見た事が無いのです。

------

poohさん、お早うございます。

そもそも、科学的態度を採る事は人を幸福にさせるか、という問いは、どこから出てきたのでしょうね。どなたかそういう趣旨の文章を書いたのでしたっけ。
「科学的態度を採る事、科学的真実に近づくのは、その人に幸福を齎すとニセ科学批判者は考えている」、と前提されているようにも見えます。

いくつか事実に基づかない前提がなされていて、ちょっと困惑しますよね。「真・善・美」の所は特に。言っていない事を解られても…。たとえば水伝なんかは、科学と「真・善・美」を無理矢理結び付けていたので、それが科学者によって批判された訳で。科学はそれ自体では価値判断に関わらないのですし。

私が考える、「科学的態度を身に着ける目的・効用」というのは、ウソ・ニセモノを見破る知識と能力を会得する事と、現象の論理構造を客観的に把握する方法を習得出来、事象の仕組みが見えてくる、というものだと思っています。幸せかどうかは判らないですね。ただ、少なくとも私は、騙されるのは嫌だし、自然や社会の仕組みを知る事に格別の関心を持っているので、科学を勉強しています。

また、ニセモノが流布される状況は、一般的に好ましい事では無いでしょうから、それを見抜くリテラシーは、ある程度社会の構成員が身に着けておくべき、だと考えています。ですから、学校教育にしろ、もっと広く生涯教育にしろ、より科学教育を充実させるべきだと思います。
科学の成果によって生かされているのは間違い無い訳で、それについて少しは知っておいた方がいいだろう(あるいは、知っておくべきだ)、というのが、私の考えですね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月31日 (木) 10:06

おはようございます。

>科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?

なんて問いを持ってしまう人は、科学を誤解していると同時に、幸せや、善、美といったものの実態が何であるかを、誤解していますね。

二つの誤ったモノサシを付き合わせたって、真実が見えるどころか、どっちのモノサシが誤っているかさえも解らないことでしょう。

このような問いを持ってしまう人は、科学のモノサシ以前に、まずは、自分自身のモノサシを見つめることが、必要だと思います。
自分自身のモノサシを見、他人のモノサシも見て、そこではじめて「科学」というモノサシの意義を見つけることができるのだろう、と思います。

私は、そういうセンスを身に付けるには、自然科学よりも、芸術系の教育のほうが適している、と思っています。

投稿: A-WING | 2008年7月31日 (木) 10:39

こんにちは。

結局、多くの場合、

ある断片的な情報から掴んだネガティブなイメージに、嫌悪感を抱く

   ↓

それ以上情報を得ようとは思わないから足りない部分は想像で補う

   ↓

ネガティブなイメージから発しているから、想像で補った部分は悪いものばかり(^O^)

   ↓

その「脳内イメージ」を批判

みたいな経路を辿っているような気がします。
ただ、これは別にニセ科学批判云々だけではなく、他の色んな分野で起きている現象なんだと思いますが。

「幸せ」については、A-WINGさんの御意見に全面的に賛成です。

投稿: hietaro | 2008年7月31日 (木) 16:25

A-WINGさん、今日は。

私などは、「人間として」、という所を見て、人間として幸せとは、そもそもどういう風に考えるのだろうなあ、と、そこで悩んでしまったり。

科学とは、現象の構造を解き明かす方法・知識で、それ自体が即、どうすべきか、という所への答えを出してくれる訳では無いのですよね。

------

>hietaroさん

一般的にある事ですよね。元々関心を持っていた訳では無いが、たまに目にして何となく気になって、それで、初めの印象を過度に一般化してしまい、ネガティブに見てしまう、という。

ニセ科学論の場合は、大槻教授のような、「典型だと誤解される」方もいらっしゃるし、フィクションでも、科学者の傲慢や科学技術への過信がネガティブに描写される事があるので、そういうのも影響しているのかも知れません(これは社会心理学的対象でしょうか)。

ajtptwtptjaさんは、ニセ科学wikiはお読みになっているみたいで、それは良い事だと思います。後は、『ニセ科学入門』とかを読んで下されば…。

ところで、ajtptwtptjaさんのエントリーに、spiklenci-slastiさんのコメントが入っていましたが、実に明晰で、的を射ていて、とても読み応えのある文章でした。

余談。
ajtptwtptjaさん、ゲーム関連の方のようですね。私のゲーム脳批判とか、どのように捉えて下さるかな、と興味があったり。

投稿: TAKESAN | 2008年7月31日 (木) 17:04

spiklenci-slastiさんのコメント、読みました。

いい文章ですね。

内容もいいんですが、なんというか、文面から謙虚さがにじみ出ています。(^O^)
これで「上から目線」云々の話は解っていただけると思うのですが……。

投稿: hietaro | 2008年7月31日 (木) 19:34

こんばんは。

元エントリーの記述で、私なりにスイッチが入る記述があったので、少し書かせてください。

まずは「ニューサイエンス」という言葉。
そして「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」という疑問。

 これらは、セットなんですよね。
 「近代的な科学は人間をシアワセに出来なかった」という反省から生まれた、と言って良いのが「ニューサイエンス」。
(これは私なりの理解ですが)

 したがって、「ニューサイエンス」の目的は、「人をシアワセにする科学」だといえます。
 この段階で「幸福」と「科学」が相互の独立性を失っています。
 この二つの言葉の間に「の」を入れると宗教法人になってしまうように、「幸福」と「科学」を直接結んでしまうのは、思想や価値観の問題です。

 そのためにこれまで、所謂「古典的な手法を採る」科学者たちから「手法が科学的ではない」と「ニューサイエンス」は批判を受けてきたわけだし、私もその批判は正しいと思います。

 一方で、「正しさなんかどうでも良いから幸せになりたい」という態度もありうるし、もしかしたらそういう態度を採る人のほうが多数派なのかもしれません。

 今回の議論も含めて「ニセ科学批判」に対する風当たりの強さの原因は、「正しさよりも幸福を」または「幸福になれる科学が正しい科学」という考え方にあるような気もします。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年7月31日 (木) 20:39

>hietaroさん

▼▼▼引用▼▼▼
内容もいいんですが、なんというか、文面から謙虚さがにじみ出ています。(^O^)
▲▲引用終了▲▲
全くです。私も見習わないと…。

後日、私達の反応についてまとめられるそうですね。少なくとも、色々な立場の人がいる、という所は理解して頂けてたのではないかな、とは思っています。

ニセ科学批判論としては、まずきくちさんの言説を参照するのが良いですよね。私は、初めに「ニセ科学」という言葉を認識したのが、確かきくちさんかapjさんの文章によってだったので、それが良かったのかも知れません。

------

憂鬱亭さん、今晩は。

私は、『ニューサイエンス 科学と神秘主義』を読んだくらいで、全体像を把握している訳では無く、その立場そのものに突っ込んだ論評をする事は出来ないのですが、一般的に、幸福という極めて価値的、あるいは主観的なものと、科学を安易に結び付けるのは、とても危険な考えであると、私も思っています。

こんなの見つけました⇒http://www.joyus.jp/hikarinowa/doctrine/religious-science/00/0001.html

科学と宗教の「統合」とか、勘弁して欲しいです。他にも疑似科学が色々書いてありますが…。

て言うか。
現象を分析していく事は、全体を一纏まりのシステムとして見ない事を意味しないでしょうに。全体性、要素の関係性を重視するのは、要素還元主義的方法を否定するのと同じ訳でも無いし。

投稿: TAKESAN | 2008年7月31日 (木) 23:46

憂鬱亭さん、「ニューサイエンス」って、そんなご立派なものではありませんって。ヒッピー文化にかぶれた連中が自分たちの脳内にでっちあげた架空の「東洋思想」と「現代科学」を何の根拠もなく結びつけた妄想に過ぎません。

カプラのいう「東洋思想」は私たちの知っている仏教とも儒教とも全然関係ない妄想です。著書を読めばすぐにわかります。彼には仏教と道教の区別すらついていません。東洋人なのにその程度の底の浅い妄想を真に受けるのは、かなり情けないですが、日本にもはまった連中がたくさんいて困ったものでした。

投稿: かも ひろやす | 2008年7月31日 (木) 23:59

言及先に一人永劫回帰氏が出現したので、ご忠告申し上げてきました。

------

かも ひろやすさん、今晩は。

上に書いた、私が読んだ本でも、同じような批判がなされていたように思います(手許に無いので、記憶頼りですが…)。

印象としては、科学や宗教・哲学等の表面的な所をなぞって、専門用語を切り貼りして作った言説、という感じですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 1日 (金) 00:38

かも ひろやすさん こんばんは。

 「ニューサイエンス」について、客観的に叙述するなら、かもさんの書き方で良いのだろうと思います。

 しかし、
「科学的態度」よりも「幸福」(または「幸福な気分」)のほうが価値が高く、優先するべきだ
と感じている人たちがいて、その感覚には「ニューエイジ」やら「ニューサイエンス」やらの影響がかなり強く感じられます。
 そういう人たちを相手に「ニセ科学」の話をするしかないんだ、という状況があるのではないだろうか、と私は思っているのです。

 ここでも、本来価値を比べるべきでないものを比べているからおかしなことになっているのですが。

 色が付いたもので運勢が変わるなどという主張を「風水」と呼んで恥じることがないこの国です。「ニューサイエンス」の系列を汲む人間は、自覚的にも未自覚的にも、多数存在しているはずです。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年8月 1日 (金) 01:17

ニセ科学を肯定的に捉える人々は、ニューサイエンス的な認識を持っているのではないか、という事ですよね。で、そこには科学と他の思想等を無理矢理結び付けようとする構造がある、と。

ちなみに、私は、ニューサイエンスがブームになったという時代(あれ、いつ頃なんだろう)には、科学に全く興味を持っていなかったので、実感としてはよく解っていないのですが、大分後で、恐らくニューサイエンスの影響を強く受けたであろう(F・カプラが援用されていたり)方を私淑して、その方経由で科学に興味を持った人間です。ですので、元々は、ニューサイエンス的な認識を持っていたのですね。尤も、それを認識したのはつい最近ですが。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 1日 (金) 02:09

憂鬱亭さんのおっしゃるのは、日本でニューサイエンスを受容した側の事情です。で、それは、受容側の特殊事情で、もともとの米国西海岸を中心とした new-age science movement は、それとは全然違うもんだというのが、私のいっていることです。

要するに、1980年代に日本でニューサイエンスにはまった馬鹿どもは、背景のヒッピー文化もカウンターカルチャーも視野に入れていなくて、ブートストラップだのホロニズムだのの表面的なところだけつまみ食いしただけなんですよ。もともと浅い背景しか持たない妄想の背景を切り離しちゃったもんだから、もっと浅いものに成り果てたのが、当時の日本のニューサイエンスだったのです。

憂鬱亭さんは当時、日本でニューサイエンスにはまった馬鹿どもを買いかぶってますよ。連中は、ニューサイエンスがサイエンスへのカウンターだということすら理解していませんでした。あれがサイエンスだと思い込んでいた、救いようのない馬鹿だったんです。

参考番組:「21世紀は警告する」NHK

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 1日 (金) 02:15

かも ひろやすさん、今日は。

て事は、そもそも採り入れる段階で歪めて解釈された、という話なのかな。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 1日 (金) 14:31

かもひろやすさん TAKESANさん こんにちは。

>連中は、ニューサイエンスがサイエンスへのカウンターだということすら理解していませんでした。あれがサイエンスだと思い込んでいた、救いようのない馬鹿だったんです。

ハイ、身に染みて知っております。私は80年代前半学生でして、「ニューサイエンス」を信奉している若者たちと再三議論を繰り返しました。
私の議論の相手たちは、自分の拠って立つ「理論」(?)がどのようにして出来たのか知らなかったので、一部私のほうで指摘したのです(私もあまり詳しくは知りませんでしたが、輸入物だとは知ってましたので)が、返ってきたのは
「どうすれば人が幸せになるかが大切なんだから、
どうしてそういう理論が出来てきたかどうかは関係ない」という主旨の答えでした。

取り入れる段階のどこで歪んだのかは知りませんが、当時を思い出して考えられるのは、日本で紹介した人が、輸入物だと言わずに広めたのかなあ、ということです。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年8月 1日 (金) 17:07

ニューサイエンスに詳しいわけではありませんが、ヒッピーだのカウンターカルチャーだの反体制だのという文脈から、ニューサイエンスや、もうちょっと後ではパソコン文化とかネット文化というものに近づいちゃった過去をちょっと思い返しております。神保町の古書店で店頭に出されている、投げ売りの古本にもよくありましたね、ニューサイエンス系の本。

すでに指摘されているように、ある種の東洋趣味が色濃くありますよね。で、日本では音楽雑誌やコムズカシ系のマンガなどで紹介されるときにも、道教と言わずに「タオイズム」と言ったりするような舶来崇拝的なものが、あったと記憶しています。音楽雑誌やマンガですから、すでに孫引きだろうと思うんですけど、二次感染者か三次感染者ぐらいまでは「外来のもの」だからかっこ良くて、しかも東洋の見直しというところでは自尊心がくすぐられるというような部分もあったんだと思うんです。
もちろん、工業文明みたいなものへの反感、不信感も背景にあるわけですけど。

それが四次感染、五次感染と広がるうちに、言い出しっぺの名前も出自も忘れられてしまう、ということはありそうに思います。いや、そこまで段階を踏む必要もないのかもしれないですけど。ワトソンの百猿じゃなくて、船井の百猿として知ってる、みたいなもんで。
まあ半可通の常として、ぼくも自覚があるのですが、源流に遡るとか「調べる」ということをしないで飛びつくから、こういうことも起きやすいのでしょう。

投稿: 亀@渋研X | 2008年8月 1日 (金) 22:14

こんばんは

TAKESANさん、反体制文化のはずの New-age Science Movement がバブル文化のニューサイエンスになったのだから、受容の過程で変質があったことは間違いないでしょう。もともとが歪んだ思想だから、歪んだのか伸びたのかはわかりませんが。

憂鬱亭さん、わかりました。当時の雰囲気を思い出すと、そんな連中どももいただろうなと納得できます。その連中も今は40歳から60歳ぐらいのはずですが、相変わらず馬鹿でしょうか。

亀@渋研Xさん、パソコン文化やネット文化の話になると、ハッカー文化と初期マイコン文化の断絶と若い世代によるなし崩しの融合のことを延々語りたくなるのですが、さすがに元の話題から離れすぎるので自粛します。

カプラの著作を読めば、単一の「東洋思想」なるものの存在を前提としていることが、すぐにわかります。そして、実際に「東洋」の一部であるはずの日本に住んでいれば、そんなもの存在しないことが生活実感でわかっているはずです。仏教寺院の住職と神社の神主は違うことを言っていますし、同じ仏教でも禅宗系(曹洞宗・臨済宗)と浄土教系(融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗)では、お札やお守りに対して正反対の態度を取ります。日本で普通に生活していて小学校卒業程度の読解力さえあれば、カプラの主張が現実と矛盾していることがいやでもわかるはずです。それなのに、ニューサイエンスにかぶれることができる連中には、バカと呼んで罵ることしかできません。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 2日 (土) 00:25

皆さん、今晩は。

色々ご教示頂いて、ありがとうございます。それほど調べた訳でも無く、流行した当時の事は全く解らない(解りようが無い)ので、参考になります。

えっと、もしかすると、物凄く誤った理解で、はずれた喩えかも知れませんが、たとえてみると、ハリウッド映画で間違った日本観・日本人像が描かれているのを日本人が観て、それを鵜呑みにして「日本人の素晴らしさと優越性」を日本で説く、というようなものなのでしょうか。そんなもん、日本に住んでたら笑い飛ばすだろう、何真面目に受け取ってんだ、という。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 2日 (土) 01:45

こんにちは。

私は若かりし頃「ニューサイエンス」という言葉も知らぬままハマりそうになった時期があります。幸いにして表面を撫でただけで無事生還する事が出来ましたが、ちょっと間違えたら帰って来れなくなっていたかもしれない、という恐怖は(今でも)あります。
なので、ニセ科学にハマる人達の気持ちも、少しは解る気がするんですね。コンプレックスの解消とプライドの満足を同時に行ってくれるというか。ニューサイエンスの場合は舶来に対するコンプレックスと自国に対するプライドを、ある意味アクロバティックに解決して見せた訳で、そこに飛び付いた人が多かったのかもしれません。
一方で、ある種のニセ科学信者の場合、それを信じる事で、権威に対するコンプレックスと自我に対するプライドがかろうじて調整されている様に見えます。
ですから「認知的不協和」と一言で言ってしまえば簡単なのかもしれませんが、やはり理詰めで説得するのは難しいと言うか、むしろ逆効果なのかもしれません。

ところで。
ajtptwtptjaさんはwikiを読まれている訳ですよね。私は「これって広い意味では『相対主義の悪用・誤用』に入るよなあ」と思いながら、何の気無しにwikiを見直してみたら・・・
がーーーん。
タイトルしか書いてなかった。すっかり書いたつもりになっていたのにorz
という訳で、先日慌ててアップしました。他の項目にも増して長文になってしまったので、この場を借りて、こっそり、たかぎFさんに謝っておきます。
そして、勿論、この項目に限らずwikiの様々な部分に於いて、皆様の議論を常に大いに参考にさせて頂いている事に改めて感謝申し上げます。

投稿: PseuDoctor | 2008年8月 2日 (土) 12:00

PseuDoctorさん、今日は。

レス書いたら長くなったので、エントリーを上げますね。

---

wiki、読みました。
▼▼▼引用▼▼▼
つまり「そもそも科学では扱えない問題がある」というのは当然であり、全ての科学者はその事をきちんと理解している筈である。もし理解していない人がいれば、それは「科学絶対主義者」であり、批判されるべきである。
▲▲引用終了▲▲
この部分は巧いな、と思いました。

私達の議論がお役に立っているのだとすれば、ありがたい事です。私は事あるごとに、wikiを紹介していますが、ああいったまとまったテキストがあるというのは、説明をする際に、とても助かります。もちろん、紹介しても読まない、表面だけなぞる、というのは、どういうものでも起こる事なので、そこは割り切っていますけれども。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 2日 (土) 13:26

投稿: TAKESAN | 2008年8月 2日 (土) 15:06

WinterMuteさんの書いておられる事も、凄く解るんですね⇒http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080802%23p1

ネタが、益々「上から目線」を強く感じさせる、というね。物凄い皮肉であるのは間違い無い訳ですから。
ネタとか皮肉とかをどの程度許容するか、って問題なんでしょうね。私はもちろん、お二方のネタは大いに楽しめましたけれど、それは、元々メタであるから、ですね。

ちょっと無粋かも知れませんけどね。一応書いといた方が良いかな、と。
実は、森昭雄氏をネタに、私も書いてみたんですけど、ボツにしたんですよ。私はそういうのを書いたらダメかな、と思って。キャラに合わない事はしない方が良いだろうし。
て言うか、元々口調は工夫している方ですしね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 2日 (土) 15:55

私があれを書いた元々の意図は、「上から目線って言うけど、それじゃあ、どういう口調なら満足なの?」「バカ丁寧に書いたら、こういう風になりますよ。それが、あなたの望んでいることですか?」ということですね。
まあ、皮肉な気持ちが全然なかったわけじゃないですが。
書いているうちに、お笑い方面に横滑りしてしまった部分があることは否めません。
実際、向こうの方が、どういう口調なら満足するのか、よく分からないですね。
たぶん、どんな口調でも満足しないんでしょう。

投稿: a-gemini | 2008年8月 2日 (土) 17:55

a-geminiさん、今晩は。

私が思うに、上から目線であるとか、そういう「印象」というのは、その文そのものを独立して評価すると言うより、別の所で一旦持ったイメージを引きずったりして、それを元に評価するのだと思っています。
だから、最初からニセ科学批判にネガティブイメージを持っていると、いかように書いても、書いていない書き手の心情や意図にまで思いを巡らせ、初めの印象に合わせるように解釈してしまう、というのがあると考えてます。

まあ、それを変えるには、ニセ科学とはこういう概念で、こういう風な批判があるのですよ、と知らしめていくしか無い訳ですね。手を替え品を替え、ってやつですね。

ちなみに、私自身の考えも、「上から目線? そりゃそうですよ。ウソついて間違った知識を広めてるんだから、強く批判されても当然です。」という立場です。自分ではそれほどやらないというだけで、本当は、具体的に調べずに態度の問題だけ云々出来ないんだから、ちゃんと色々見た方がいいんじゃないかな、という感じです。

私の文章だと、ゲーム脳本を読むシリーズが、最も中立に書くのを意識して上げたニセ科学批判論ですね。あれでも多分、上から目線云々と言って非難する人は、いるでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 2日 (土) 18:41

Wiki,最近皆さんに紹介していただいているのに放置してます.ごめんなさい.
タイトルだけ書いて放置した項目をいろいろ埋めてもらってありがとうございます > PseuDoctorさん. 私は基本的に言葉足らずなヤツなので,「テキスト」になっているのは PseuDoctorさんのおかげです.

それと,皆さんの議論は重要なネタ元です.大変感謝しております.これからもどうぞよろしく m(__)m

投稿: たかぎF | 2008年8月 2日 (土) 23:23

たかぎFさん、今晩は。

今のままでも、充分重宝してますです。
やはり、同じようなパターンの批判批判というのは、何度も何度もありますし、今後も出てくるでしょうから、良く出来たまとめページがあると、とても助かりますね。

PseuDoctorさんへも書きましたが、こちらでの議論が役に立てば、私としてもありがたいです。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 3日 (日) 00:00

http://d.hatena.ne.jp/ajtptwtptja/20080803/1217769426

ごめんなさい、ほとんど意味と意図が取れないです。皆さんはどうですか?

後、前のエントリーについている、かも ひろやすさん(wd0 2008/07/31 23:46 ※2番目の似たようなHNは、IPアドレスを調べる事をお勧めします。後、ふま及び比ヤングも)のコメントに、ちゃんと答えた方がいいと思います。

て言うか、ちゃんと「ニセ科学」という言葉について考察されたのでしょうか。そうだとすると、
▼▼▼引用▼▼▼
つまり、今までの科学こそがニセ科学であったという話。

謙虚さが足りないと申し上げたのは、その論点です。
▲▲引用終了▲▲
などという発言は出てきにくいと思うのだけれど…。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 00:09

TAKESANさん こんばんは。

>ごめんなさい、ほとんど意味と意図が取れないです。皆さんはどうですか?

私も読んで、意味が読みきれないんですよ。
どういう理屈で「今までの科学がニセ科学であった」ことにされてしまうのか。

推測も含めて考えると、
「科学はもともと手段に過ぎなかった。これまでの科学の手法が、科学の法則を解明した後の利用に適さないものになった。その時点で役に立たなくなったのだから、これまでの科学はニセ科学だ」という主張でしょうかね?

 意図としては、
「科学の存在意義は価値と独立してはいない。
何らかの(有意義な)価値を生み出すものが科学であるべきだ」というところでしょうか。

 間違ってたらごめんなさい。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年8月 4日 (月) 00:50

憂鬱亭さん、今晩は。

私の読みとしては・・

今までの科学が間違っていた、という主張は、それが方法として未熟であったとか、他に優れた方法があるとか、そういう文脈で語られる話ですよね。それこそ、ニューサイエンスがどうとか、の。

で、それは、「ニセ科学」の話とは違う訳で…。初めから、その時点での方法に則っているか、という部分が評価される、と言っているのですが、もしかすると、物凄い誤解があるのかも知れません。

かも ひろやすさんの質問には答えて欲しいですね。もしかすると、「知の欺瞞」的な文脈であるかも知れませんので。

ああ、後。
今までの科学がニセモノだったのかも知れない、という主張なんですよね。これは有体に言って、科学の方法とそれに関わる人々への強い言葉ですし(挑戦的、と言っても別に構わないでしょう)、「科学の土俵に乗った」と解釈して良いですね。どういう認識からそう主張するに至ったかが、きちんと説明出来ねばならないでしょう。

て言うか、明らかに議論の層が違うと思うんですけどね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 01:14

私の質問には答えてもらっていますよ。

>引用1
ご存じないようでしたら、今ドンデモ科学系で批判されているのは、量子力学の議論に起因する、今までの科学的態度それ自体に対するアンチテーゼだと思いますので、いくつか書籍をあたられることをお勧めいたします。
<引用1
>引用2
読みやすいので言うと、前回のエントリの脚注にあるアーサー・ケストラーの「ホロン」がハシリです。私の大学1年の時の現代思想史の教科書だったんですが。
<引用2

ケストラーを真に受けた人だったんですね。

おかげで、自信を持ってこの人を見限ることができます。今後は安心して無視できます。明確な回答に感謝しています。

私も、最初は「知の欺瞞」系かなと思ってあの質問をしたのですが、今回の明確な回答で、そっちではなく、ホロン系だとわかりました。ポストモダン思想による科学用語の濫用が、ニューサイエンスによる科学知識の曲解に、少なくとも表面的には似ていることに気づかせてもらったのは、今回の成果でした。気づいてしまうと、今まで気づかなかったことが間抜けなように思えます。本当に間抜けで、実は、すでにその観点から論じている人がいたりして。

この類似が表面的なだけなのか根底に何か共通するものがあるのか、私もときどき思い出したように考察することでしょう。でも、きちんとした文献調査をする時間はとれないから、考察は深まらないでしょう。プロに期待します。

もし、ポストモダン思想とニューサイエンスが根底で何かを共有するのならば、さらに昔のプロレタリア科学論も同じものを共有するのでしょうか。そういう研究があると面白いでしょうね。私のような社会科学素人が思いつくぐらいだから、プロはとっくに研究を進めていたりして。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 4日 (月) 03:20

この人がニューサイエンスの信奉者だとわかれば、
http://d.hatena.ne.jp/ajtptwtptja/20080803/1217769426
が何をいっているのか、はっきりと見えてきます。

ニューサイエンスの主張では次のようになっています。
1. 従来科学は要素還元主義に基づいており、それが原因で限界に達している。
2. 現代科学はすでに自ら従来科学の限界に気づいている。
3. したがって、われわれは従来科学を捨て、全体論に基づく新しい科学に移行しなくてはならない。

1,2,3を信奉しているこの人にとって、従来科学が捨てられることは既定の事実なので、「従来科学そのものがニセ科学だ」ってことになるんですな。

不完全性定理(「不完全定理」と書いているけど、単なる誤記でしょう)と不確定性原理が出てくるのは、それらが上記の2の実例であると思っているんでしょう。ニューサイエンスの連中でそんなことを言っているのはたくさんいました。科学にも科学史にも無知で、「不完全」「不確定」の語感だけで妄想をたくましくした連中がたくさんいたことがよくわかります。

実際には、不完全性定理も不確定性原理も、全体論の優位性を示すものではありません。むしろ、当該分野における要素還元的手法(要素還元主義とはちょっと違う)の完成を象徴する輝かしい成果です。これについては、ちゃんと説明するのは大変なので、まとまった時間が取れた時に自分のところに書きます。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 4日 (月) 07:57

かも ひろやすさん、おはようございます。

ああ、その引用部が答えになっている、という事なのですね。私は、具体的に知っているのか聞きかじりなのか、というのを知りたかったのでした。

いや、実際自分自身が、恐らく(言及先と)同じような認識を持っていた訳ですね。不完全性定理や不確定性原理は人間の認識の限界を示すものであって、それによって科学の限界をも明らかにされたのだ、という風な認識。そういう説を鵜呑みにしちゃったんですね。もちろん、両方について、具体的に何も知りませんでした(今も解っていませんが)。

なるほど、ニューサイエンスと『知の欺瞞』系というのは、初めから別のものと捉えられるものだったのですね。先に挙げた私が影響を受けた本では、両方の考えが出ていたので、元々親和性が高いものだと思い込んでいたみたいです。

▼▼▼引用▼▼▼
1,2,3を信奉しているこの人にとって、従来科学が捨てられることは既定の事実なので、「従来科学そのものがニセ科学だ」ってことになるんですな。
▲▲引用終了▲▲
恐らくそうなのでしょうね。
そういう文脈に巻き込まれないように、昨今の「ニセ科学」概念は定義されていると思うのですが、理解頂けていないみたいです。

奇しくも、a-geminiさんが最近、福岡伸一氏とホーリスムの関係について、エントリーを上げていらっしゃいます⇒http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_a82d.html

こちらで引かれているメダワー夫妻の批判は痛烈ですね。ご尤も、という感じ。

ところで、「ホーリスム」という概念の理解にも、色々な種類があるような気がします。
ニューサイエンス由来とか、哲学由来(クワインとか)とか(これって繋がりはあるのかな?)。私の場合、最初に触れた言説で、ホーリスムが「関係主義」と表されていたので、なるほど、要素間の関係とかシステム全体が重要なんだな、と、まあ今考えれば当たり前の理解、だったと思います。そこに、大袈裟な味付けがなされていて(既存の体系がそこそこ強く批判されていた)、それを基に、現行の実証科学についてネガティブな印象を持ってしまった、というのは、あまりよろしく無かった訳ですが。

多変量解析を知った時に、なんだ、とっくのとうに、こういう方法はあったんじゃないか、と痛感したものです。批判されている対象を知らないと、そういう事が起こるんですよね。だから今、「批判対象をちゃんと知っているか」、というのをよく問題にしています。
そういった経験から得られた一つの教訓が、ここによく書く、「自分が気付いた程度の事はとっくに誰かが考え付いた事がある、と思っておいた方が良い」、だったりします。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 09:59

どうやら、想像以上に理解頂けていない模様。

そもそもは、ニセ科学批判の文脈においての、批判者の認識への違和感の表明だったはずなのに、いつの間にか、もっとメタな論点に変わっています。

▼▼▼引用▼▼▼
追記:8/3 23:00@サンノゼ

一応コメントにも書きましたが、さらに追記すると、

正直申し上げて、閉じた世界のゲームは私はあんまり面白くないです。

「ニセ」というレッテルは「正統」を所与のものとします。そういう発想は、導くべき方々をおのずから排除し、取り込むべきイノベーションファクターを除外しているので、やめたほうがいいと思いますよ。
▲▲引用終了▲▲
全然具体的で無いですよね。面白い面白く無いの話は、どこから出てきたんでしょう。また、閉じた世界のゲームとはどういう意味でしょう。

科学の方法等について懐疑的なのでしたら、どうしてそうなのか、どこがそうなのか、具体的に指摘出来なければならない訳です。

拘りますが、「ゲーム脳にうんざり」”出来る(それが正当である)”のは何故か、という部分には答えて欲しいですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 16:15

正直、結構がっくり来てまして。

まず最初に「話ができそうな方」認定をされたこと自体、良かったのかどうか……。

一応、新しいエントリを上げましたが、伝えられる自身はまったくありません。

私にもう少し明確に説明できる明晰な頭脳があればいいのですが。(^^;

Re: ニセ科学(ry (2)
http://taizo3.net/hietaro/2008/08/re_1.php

投稿: hietaro | 2008年8月 4日 (月) 18:33

hietaroさん、今晩は。

ちょうどさっき読んだ所でした。

正直、hietaroさんのエントリーとlets_skepticさんのエントリー⇒http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080804/p1

を併せて読んで理解出来なければ、ちょっと無理かなあ、と。

これまで、皆さんがかなり(丁寧過ぎるくらい)丁寧に説明されて、自分もそれなりに色々書いたつもりだったのですけれど…。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 4日 (月) 19:35

ちゃんとしたことを自分のところに書く前に、不確定性原理に関して、概略だけ書かせてください。

量子力学の発見以前は、化学反応は経験的な現象論としてしか記述できませんでした(それが悪いとはいっていません。念のため)。量子力学によって、初めて、化学反応を電子の物理的性質に帰着させて計算することが可能になりました。いわば、量子力学によって、初めて、化学を物理学に「要素還元」する手法が可能になったのです。

不確定性原理は、量子力学の歴史の初期に発見された主要な法則の一つです。これだけで、「不確定性原理は要素還元主義の限界を示した」が現実と正反対の主張であることがわかるはずです。

不完全性定理については、専門分野なので、予定通り自分のところにきちんとしたことを書きます。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 5日 (火) 03:16

すみません。
かも ひろやすさんはどこに書くのか教えてください。URLとか。是非読みたいので。

ajtptwtptjaさんの「ニセ科学論議(ry (3)」は(確かにこういう理解であろうことは十分予想できたことではあったのですが)改めて全力で脱力させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/ajtptwtptja/20080805/1217907035

投稿: lets_skeptic | 2008年8月 5日 (火) 13:09

http://d.hatena.ne.jp/ajtptwtptja/20080805/1217907035

わー。

▼▼▼引用▼▼▼
「私が観察したことによって、自然がそのような形になっただけのこと。」

のだというのが私の量子力学を踏まえた解釈です。
▲▲引用終了▲▲
こういう認識の方と、やり取りしてたのね…。いや、今までのエントリーからすると、考えられた事ではありますが。

------

かも ひろやすさん、今日は。

ご教示、ありがとうございます。

手許に物理の本は何冊かあるので、いずれじっくり勉強したいと思っています。

------

lets_skepticさん、今日は。

私も先ほど読んだ所なのですが、うわあ、と。

色々判明したのは良かった……のだろうか。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 13:36

こんにちは。
ちょっとコメントしてみました。

>私が観察したことによって、自然がそのような形になっただけのこと

観察者効果について、こういう飛躍をしてしまった例は多いですね。スピリチュアル系とか。かといって、説明するのは大変ですが。
とりあえず「でも、昨日見た木が今日魚になってないのはなぜ?」とか考えてみていただけるといのかな。

投稿: A-WING | 2008年8月 5日 (火) 14:40

>わー。

こういうのを「上から目線」と感じる方がいらっしゃるようです。

私的にはlets_skepticさんとどこが違うのか分かりません。いや、本当は分かっているのですが、言葉だけ見ると、同じことを言っている気がして。
自分の意思が介在していると「信じる」か「信じない」かの違いであって、現象そのものは同じなんですよね?認識には大きな隔たりがありますが。ああ、それを訊きたかったわけね。

投稿: | 2008年8月 5日 (火) 15:18

上の投稿、名前入れ忘れました

投稿: Noe | 2008年8月 5日 (火) 15:25

A-WINGさん、今日は。

多分、実在に対する認識の相違、なのでしょうね。私は科学的実在論者に近いので、これはちょっと、やり取りは難しいなあ、と感じました。もちろん、哲学的にはそういう立場は当然あるのでしょうけれど、その論拠が「量子力学」というのはどうなんでしょう。いかにもありがちな話ではありますが。

------

Noeさん、今日は。

▼▼▼引用▼▼▼
こういうのを「上から目線」と感じる方がいらっしゃるようです。
▲▲引用終了▲▲
あら、そうなんですか。どっかで指摘されてたとか?
うーん、まあ、あの表現をそう感じるのだとすれば、どうぞご自由に、としか言いようが無い訳ですが…。あれほど科学とか実在に対する見方が違うのが判明したので、その驚きを表現したのですが、まあ、それ以上の意図を読み取るのは、お好きにすればいいんじゃないでしょうか。

すみません、後半は、ちょっとよく解りません。言葉がどこ(誰)に掛かっているのか読み取りにくいもので。

今回のやり取りは、ニセ科学の話と哲学の話がごちゃ混ぜになっている、という印象です。で、私達はそもそも、ニセ科学の話をしている訳で。だから、話を無闇にメタに持っていってはいけないのでは、と書きました。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 15:38

こんにちは。思わずコメントしちゃいましたが、さて……。

ちょっと感じるのは、未消化の用語を(「ニセ科学」を含めて)あまりに不用意に使われているということです。これはニューサイエンス譲りの特長なのでしょうか……。

投稿: hietaro | 2008年8月 5日 (火) 18:21

hietaroさん、今晩は。

ああ、そういえば、理解なさっていない風なのに、何故かその言葉を用いていますね。ちゃんと噛み砕かないといけないと思うのですが…。解らない部分は解らないと言って頂きたいのですけれど。

私は解らない部分があるから色々お聞きしているのですが、それにもちゃんと答えて下さらないですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 18:37

なんか、まっとうな研究者ではないというレッテルを貼ることが必要条件なのでは、と書かれていますが、私はあまり、その手の言葉は使っていない方だと思うんですけどね。私がはてブで書いたのは、まともで無いと評されても仕方が無い場合があうだろう、その言葉遣いそのものを文脈から切り離して考えるのは無理だろう、という事だったのですが。

それに、未完成のゲーム脳Q&Aですが、あれは今の所、「ニセ科学」という言葉自体入れない予定なんですけどね。入れるとしても、説明には細心の注意を払おう、と。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 18:43

「誤読」というには酷すぎますね。

ほんとはもっと早く気付くべきだったのかもしれませんが、この方は脳内のイメージに対してコメントしてるのですね。

私のエントリがきっかけで話が始まりましたが、おそらくこの方にとって私のエントリの内容は本当にどうでもよかった、単なるきっかけだったのでしょうね。(T-T)

投稿: hietaro | 2008年8月 5日 (火) 19:37

不完全性定理が要素還元主義を否定するものではないことの件ですが、TAKESANさんのご許可がいただければ、書いたらここにURLを書こうと思いますが、よろしいでしょうか。本業のほうに書くか私用のほうに書くか、まで、決めていないもので。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月 5日 (火) 22:20

>hietaroさん

正直、論宅さんクラスの「読まなさ」だと思うんですが、言い過ぎかなあ。

未だに、ニセ科学的な論を止揚するというのが何を意味しているか解らない…。

私は、ニセ科学と呼ぶ「べきだ」、とか、まともで無いと言う「べきだ」、なんて、言った記憶は無いんですけどねえ。必要条件と言われても。

------

かも ひろやすさん、今晩は。

もちろんOKです。私も是非読みたいので、むしろこちらからお願いしたいくらいです。

どのエントリーにでも構いませんので、よろしくです。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 5日 (火) 22:40

TAKESANさん

「わー」に関しては、先日、知り合いの発言に眉をぴくっと動かしただけで「また馬鹿にしやがって!!」とブチ切れられたことがあったので・・・(普段の私の態度が悪かったのかもしれませんが)

後段に関しては、

「私は観察していただけ。自然がそのようにできていただけのこと。」

「私が観察したことによって、自然がそのような形になっただけのこと。」

この2つの文は、同じ現象に対する意味付けの違いしかないんじゃないかということです。
その意味付けが重要であるというのがajtptwtptjaさんの主張なのかもしれませんが、彼もまさか、念じれば紙が石になるとかは思っていないでしょうし、結局同じ現象が観察されるのであれば、科学的には意味付けなんてどうでもいい気がします。哲学的には重要でしょうが。結論はTAKESANさんの仰るとおりです。失礼しました。

投稿: Noe | 2008年8月 6日 (水) 08:21

Noeさん、今日は。

うーん、量子力学とか不確定性原理とかが出てきたので、私は存在論的な問題だと思ったのですが…。科学的実在論寄りの認識と観念論寄りの認識との違い、という風に。そういう所の認識の違いが、現在の科学の限界、的な発言をさせたのでは。

いずれにしても、そういう所は本題では無かった訳ですが。何度も書いている通り、そういう科学哲学的議論とは一応分けて考えられるのが、ニセ科学概念の利点の一つなので。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 6日 (水) 12:29

こんにちは、皆さん。

なんだか、一番基本的な事が忘れられている気がするんです。それは、社会規範とか道徳規範とか言われるものです。

例えばAさんが何かいい加減な事を言いふらしたとします。でもって、Bさんが「いい加減なことを言うな」と非難したとしましょう。そうしたらCさんが、「人を非難する様な事を言うな」とBさんを非難したとしますね。実のところ「人を非難する事の是非」だけ取り上げたらBさんもAさんを非難しているし、CさんもBさんを非難しているから「同じである」みたいに成ってしまう訳です。ところがそこに社会規範として「この社会には『いい加減な事を言いふらしてはならない』という規範がある」をきちんとおくと、Bさんの行為は社会規範に則っているし、Cさんの行為は社会規範にむしろ反している形が見えてくるわけです。

でもって、難儀なのは、社会規範というのは「公式の応用」と同じ面があって、公式さえ知っていればその証明を忘れていても実用的には「使える」わけです。人類の歴史の中で「誰かがいい加減な事を言う」といった事象は過去に何百回もあり、そしてそれを許すことで社会が痛い目に遭う(ただし滅亡まではしない程度だから人類はまだ居る)という事が何百回もあるなかで、「いい加減なことを言いふらしてはならない」という社会規範というか道徳規範というのが社会に成立したのだろうと思うわけです。この過去の経験の蓄積みたいなものが「公式の証明」と同じような役割をし、公式であるところの社会規範としての「いい加減な事を言いふらしてはならない」は成立している。公式みたいなものだから、証明までさかのぼらなくても「この式に当てはめれば答えが出るよ」と実用には使える。社会規範も「なぜ、そうしてはならないのか」までさかのぼらなくても「それは悪いことでしょ」で使われてきたのじゃないかな。

そういう「いい加減な事を言いふらしてはならない」という規範が有ることが忘れられると、公式を使わずに問題を解くのと同じで、もう一度公式を再発見して証明なくてはならなくなるわけです。道徳で言うとまた何度も痛い目に遭わなくては成らなくなるという事になるんではないでしょうか。

投稿: 技術開発者 | 2008年8月 6日 (水) 16:33

ああ、お書きのような事を、つい最近(数時間前にも)、何箇所かで経験したような気が…。なんか、表面的な所を見て、そこの共通性で話をして、ちっとも具体論に進まなかったりするんですね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月 6日 (水) 22:39

こんにちは、皆さん。ピンボケになるかも知れないけど、少し書きますね。

>「私が観察したことによって、自然がそのような形になっただけのこと。」

私は「標準物質の値付け」なんて仕事もしていたのですけどね。その仕事というのは「真値は存在する」から始まるわけです。つまり目の前にある物質Aがありその中に何か不純物元素Bが含まれている時に、その不純物の存在量はきちんと数値になる量があると考えるわけです。でもって、私たちはその量を「不確かさ」の範囲でくくって、「この範囲内に真値がある」と付けた価が標準物質の認証値であるわけです。でね、この値付けのやり方には色々方法があるんですが、その中に「原理の全く異なる方法で分析して得られた値の(不確かさ範囲内での)一致」なんて方法があるんです。この原理が全く異なるという所がミソでしてね。つまり「真値はある」と置いているから、どういう方向からアプローチしても、真値に(近いところに)行き着くなら一致する訳ですね。こういう仕事をしていると、「私は観察していただけ。自然がそのようにできていただけのこと。」がとてもリアルに感じる訳ですよ。

でね、こんな事を考えていたらまさに量子論の黎明期のハイゼルベルグとシュレディンガーの論争を思い出したのね。二人とも原子の中の電子について記述仕様として、用いた数学手法が違って、最初は全く異なる記述に見えていたのに、大論争をした後でハイゼルベルグが自分の数式に確率的要素を加えたら、シュレディンガーの式の記述と一致したなんて話です。なんとなく、私たちがやっている「原理の異なる分析手法での分析値の一致」と似ていると思うわけです。自然にまず「そのようにできている」があり、それを知ろうとアプローチして、正しく知ることができたときに、別な方向からのアプローチと一致を見る訳です。

投稿: 技術開発者 | 2008年8月12日 (火) 12:51

▼▼▼引用▼▼▼
自然にまず「そのようにできている」があり、それを知ろうとアプローチして、正しく知ることができたときに、別な方向からのアプローチと一致を見る訳です。
▲▲引用終了▲▲
批判する人は、ここら辺に無頓着なように思えるのですが、何故でしょうね。

黒影さんがはてブで、
▼▼▼引用▼▼▼
疑似科学のシンパは大抵無自覚に「世界の理」に対して傲慢。だから適当な俺様解釈が世界に通用すると思い込むのでは?
▲▲引用終了▲▲http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cml-office.org/archive/121813957689.html

こう書かれていて、全くだな、と思いました。謙虚で無い、傲慢なのは一体どちらのだろうな、って。

投稿: TAKESAN | 2008年8月12日 (火) 16:07

a-geminiさんのブログからTBついてますが、面白いから是非読んで下さい。

投稿: TAKESAN | 2008年8月14日 (木) 11:28

とりあえず、私用ページに書き始めました。
http://d.hatena.ne.jp/wd0/20080815/a

投稿: かも ひろやす | 2008年8月15日 (金) 22:05

かも ひろやすさん、今晩は。

お知らせ頂いて、ありがとうございます。早速読みます。

投稿: TAKESAN | 2008年8月15日 (金) 23:22

科学者です。かなりレベルの低い議論がなされていますね。このブログは。思考実験のみで、あたまの中だけでうだうだといっている感じです。
議論する前に自身が実験室で一回でも実験したことがあるのですか?
あたまの中だけではニセ科学と同類です。

投稿: 科学者 | 2008年8月16日 (土) 11:09

>科学者さん

こんにちは。
自己紹介で最初に「科学者です」と言う人には初めてお目にかかりました。
専門は何の研究ですか?
表現から察するに実験を伴う科学のようですが。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年8月16日 (土) 11:30

科学者さん、今日は。

ここって、そんなに思考実験が多いでしょうか。その前に、思考実験ってどういう意味でしたっけ。

議論する前に実験を、とは、実験をしなければ議論をしてはならない、というのを意味するのでしょうか。

実験しなければものを言えない、という批判が正当であるためには、実験しなければものが言えない理由を示されねば納得はしにくいでしょうね。

まあ、○○をした事が無いと議論はしてはいけない、というのは、結構よく見られる意見ではあります。スポーツとかですね。それが妥当だとすると、非専門家は口を噤むしか無い訳ですね。

ああ、ちなみに、私は実験をした事はありませんよ。科学者では無い、と事あるごとに言っていますし。

幸いな事に、ここは科学者の方も見て下さっていて、議論にも参加なさっていますが、そういう方達に対してもかなり失礼ですよね。ああ、そういう科学者は本物の科学者に非ず、という意味なのかな。だとすると益々失礼だし、負けない論理ですね。

ところで、レベルの低い議論って、具体的にどこでしょう。全体的にひどくて具体的に指摘出来ない、という話ですか。

------

憂鬱亭さん、今日は。

私も初めて見ました。

一般に、全体的な印象を評されるのは、困るものがありまね。はあ、そうですか、としか返しようが無いですし。

投稿: TAKESAN | 2008年8月16日 (土) 12:29

「科学者です」という自己紹介で、ふと思い出しました。
肩書きが「科学者」となっていて驚いたことが、つい最近ありました。「プロフェッショナル 仕事の流儀」というテレビ番組の予告編です。家内が録画していた「宮崎駿のすべて」とかいう回に流されたものです。どなただったかお名前は忘れましたが。

投稿: 亀@渋研X | 2008年8月16日 (土) 12:48

科学者を名乗る方は「職業科学者」ではない気がします。燃費効率をよくするにはどういう運転をしたらいいか、とか、おいしい料理を作るにはどうしたらいいか、などについて工夫する場合に推論や実験を進める時と共通の事をやってるのに気付かないはずはないと思うからです。
むしろ、論点を絞ら(れ?)ないことや、根拠にもとづいた議論をしないで済ませられることからは、充分にその資質を疑うことができるかと思います。

投稿: ちがやまる | 2008年8月16日 (土) 20:38

亀@渋研Xさん、ちがやまるさん、今晩は。

もし科学者さんが、議論を進めたいと思われるなら、恐らく、具体的に私の論の不備を指摘して下さる事でしょう。ご批判はむしろ歓迎するくらいです。

推論ではものを言えない、という事ならば、基礎科学の理論や、他分野の学術論文などを検討したりするにはどうすれば良いのだろう、などという疑問も出てくる訳ですが、それも説明して頂けると思います。

投稿: TAKESAN | 2008年8月16日 (土) 22:06

実験で確認されなければ、あらゆる現象に対して仮説すら立てる事を許さない、さすが自称科学者さん、なんという厳密さなんでしょうか(棒読み)。
科学者さんにとっては、ホーキングやジョン・バロウのような宇宙論学者は、良く言って嘘つき、悪く言えば誇大妄想狂なのでしょうね。
その潔い態度に加え、このブログでの様々な議論の積み重ねを「レベルが低い」の一言でバッサリ切り捨てる剛胆さ。
「さすが科学者さん、俺たちの出来ない事を平然とやってのける!そこにシビれるっ!憧れるっ!」としか言えません。
そのうち石仮面でも被って吸血鬼にでもならないか心配です。
後に海洋学者になるジョナサンの玄孫には気をつけて下さい。
遥かエジプトの空の下、オラオラオラッ!とド突き回される可能性が十分にありますので。
それでは科学者さん、貴重なご意見本当にありがとうございました(やっぱり棒読み)。

投稿: 内海 | 2008年8月16日 (土) 22:55

内海さん、今晩は。

私は、実験しなければならない事について、不用意な発言はしないよう、気を付けているつもりなんですけどね。「つもり」が間違っているなら、そこを具体的に指摘して貰った方が、ありがたいですけれど。

確かに、あの豪胆さは、私のような者にはちょっと真似の出来ない芸当ではあります。

---

杜王町でドラドラ、かも。

投稿: TAKESAN | 2008年8月16日 (土) 23:41

「合気道のイメージ」のパクリで「不完全性定理のイメージ」という問い合わせ記事を書きました。
http://d.hatena.ne.jp/wd0/20080830/a
よろしければ、ご協力ください。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月30日 (土) 02:42

かも ひろやすさん、今日は。

早速答えてきました。

漠然としたものでも良いからイメージを聞く、というのは、なかなか参考になりますね。

投稿: TAKESAN | 2008年8月30日 (土) 11:43

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/13103/22668224

この記事へのトラックバック一覧です: 批判の仕方の話と科学的方法に関する話:

» うそと幸福 [Chromeplated Rat]
ajtptwtptjaさんのニセ科学論議の違和感概要と云うエントリを読んだ。これはhietaroさんの思い出話とかと云うエントリに言及した内容で、これについてはhietaroさんがRe: ニセ科学論議の違和感概要と云うアンサーエントリをリリースされていて、TAKESANさんも批判の仕方の話と科学的方法に関する話と云うエントリで触れられている。 で、TAKESANさんのほうのコメント欄で少し書いたことなんだけど、ajtptwtptjaさんのエントリのなかで、以前からけっこうひんぱんに見かけて気になって... [続きを読む]

受信: 2008年7月31日 (木) 22:14

» [生き方]ニセ科学(ry (2) [痛いことを惜しげもなくさらすブログ]
サンノゼ@4:50AMなので寝ようと思ったのですが、せっかくid:Lhankor_Mhyさんにコールされたので、誠に簡単ではありますが(ry あと、最初にお断りさせていただきますが、マジで眠いので、失礼な表現があったらごめんなさい。 でも実は、はてな村でこういう議論してみた... [続きを読む]

受信: 2008年8月 3日 (日) 22:17

» 『丸山真男話文集 2』 [Liber Studiorum]
TAKESANさんのところの批判の仕方の話と科学的方法に関する話に目を通しつつ、 [続きを読む]

受信: 2008年8月12日 (火) 22:12

» 『丸山眞男話文集 2』 [Liber Studiorum]
TAKESANさんのところの批判の仕方の話と科学的方法に関する話に目を通しつつ、 [続きを読む]

受信: 2008年8月14日 (木) 08:59

» 不完全性定理は「現代科学の限界」なるものを示してはいない(その0) [/dev/wd0a]
今ごろになって、ニューサイエンスの主張への反論を書くことになるとは、思いもしませんでした。ニューサイエンスなんで、流行ったのは四半世紀も前のことですよ。 経緯については、TAKESANさんのところ「Interdisciplinary: 批判の仕方の話と科学的方法に... [続きを読む]

受信: 2008年8月15日 (金) 22:56

« メモ:観点 | トップページ | メモ:ニセ科学批判者 »