昔書いた事4
この頃から、武術関連の覚書を書く頻度が減ってきました。学問の勉強にシフトしたからですね。
○2001年9月~
・剣の受け
浅い打ち込みを、わざわざ前に出て受ける人がいる。形にとらわれている。剣を打ちつける事が目的ではない。
・殊更にメタファーなどを使うと、逆に混乱してしまう。
・合わせ
腕の脱力によって、体幹部主導の運動を行う。
・体捌き
膝関節の伸展・足首関節の底屈を抑制。腸腰筋による股関節の屈曲。ハムストリングスによる膝関節屈曲。大腿骨の回旋。倒れこみ。
・「背中で息をする」ことの重要性。(注:武術的な「呼吸」は、生理学のそれより広い概念です。気の流れとも重なります。)
・腹式・胸式を意識する人は多くても、背中側の呼吸(均等呼吸)を意識する人は余りいないのではないか。肚ばかり意識すると、上体が固まる危険性が有る。
○2002年1月~
・「現状維持」ではなく、「開発・向上」という意識をもたなければならない。
・主に日本の、特に武道・武術界における、「年をとらなければ上達しない」(←潜在的に、この様に思い込まされる、ということ)という教えと、潜在的擁護システムとの関係。
・フォームの先行
身体運動の合理性を無視して、視覚的な情報を手掛かりにして、形を無理やり作ってしまう。
・誰だって、自分が「出来ていない」とは思いたくないものだ。その我を捨てることができれば、一気に上達への道がひらける。
・人間がどの様に「運動し得るか」、という一般的論理を認識する(注:つまり、バイオメカニクス的観点)。
各種目で、どの様に「運動すれば良いか」(それは、ルール等の、体系の記号的構造に規定される)、という体系内の論理を認識する。
・自分の身体が固まっていることを、正しく受けとめられているということは、良いことだと思う。誰であっても、自分が劣っているなどとは思いたくなく、人よりも物事を分かっている、と思いたいものだ。それが、正しい認識を妨げてしまうのだ。
・分かる人だけが分かれば良いのだ、という考え方そのものは、有ってよいのだと思う。だが、自分はそう考えない。出来るだけ論理的・科学的に説明しなければならないと思っている。
・何事も、原因を一つのものに帰属させようとしてはならない。皆、そうするのが楽だから、何かに原因を押し付けて、深く考えるのを止めれば簡単だから、そうしているのである。だが、現象とはその様に単純ではないのである。
・「武道は科学で解けてはならないのだ」という信念は、なかなか根深い。
以上、2001年・2002年の覚書より抜粋。
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