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2008年7月 7日 (月)

科学の定義

数学屋のメガネ:心理学や言語学は「科学」になりうるか

数学屋のメガネ:社会「科学」の可能性

うーん。

解らない。

私は、科学という概念の必要十分条件を設定して(定義)、それに当てはまるか否かで科学かそうで無いかを分類する、という事そのものに無理があるんじゃないか、と思っているのですが、そういう人間には、なんとも難解な文章です。

もちろん、私が板倉氏の論を知らない、というのも関係しているのでしょうけれど。あー、しかも、宮台氏の言説も知らないんだ…。

リンク先によると、科学の定義とは、

板倉さんが考える「科学」というのは、「仮説実験の論理」というものを経て、それが一般的・普遍的な真理であるということが確立された命題あるいは命題群(理論体系)のことを指す。「科学」というのは、現実の対象に対して成立する「真理」を意味する。そして、その真理は一般的・普遍的であることが特徴で、ある時間・場所・対象がたまたまそうであったという偶然成立した真理とは区別される。

このようなものであるとの事です。

ごめんなさい、よく解りません。

と言うか、まず、板倉氏の定義を妥当な科学の定義として論を進める正当性が知りたいような。それを基準にして、科学か否かを判断して良いものなのでしょうか。

心理学が個人の心理という個別的・具体的な対象を扱っている限りでは、これは「科学」にするのは難しいかもしれない。むしろ、広告業界などが、どのような広告が多数の人に影響を与え、購買意欲という「心」の作用を掻き立てるか、などという問題設定をした方が「科学」としての心理学に近いものになるのではないだろうか。ヒトラーの宣伝活動などは、心理学の対象としては興味深いものになるかもしれない。

これって、社会心理学的なものの事なのかな。当たり前の話ですが、そういう研究は普通に行われている訳で…。

今一つ、こう、具体性が見えてこないんですよね。現状の科学研究との繋がりが判然としない、と言うか。

------------

参考資料的な。

科学哲学における線引き問題の現代的展開(PDFファイル)

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「科学論」カテゴリの記事

コメント

TB通らず。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 00:49

先日コメント欄に貼ったものをもう一度(PDF)⇒http://www.mus-nh.city.osaka.jp/iso/argo/nl12/nl12-3-16.pdf

今読んでいる最中ですが、なかなか勉強になります。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 00:55

この方のブログはごくたまに目を通していますが、読んでみてTAKESANさんと似た印象をいだきました。宮台氏を信奉されているようですね。

今までで最も印象に残っているのが、
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/13928538.html
で、コメント欄の後半に出てくる「通りすがり」氏とこの方とのディベートが、野次馬的には非常に面白かったです。「論理」に関わる話で、ここにご参加の皆さんには珍しくもない程度のやりとりかもしれませんが、私には結構参考になりました。

投稿: ネット沙代 | 2008年7月 7日 (月) 17:56

ネット沙代さん、今晩は。

リンク先、かなりボリュームがありそうですね。後でじっくり読んでみます。

私が言及したエントリーを読まれた現場の科学者は、どういう印象を持たれたでしょうね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 7日 (月) 18:20

TAKESANさん、こんばんは。

板倉氏というのは、板倉聖宣氏のことですね。

http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/kasetu/kasetu.htm

私もあまり詳しくありません。
授業論としてある程度は評価しておりますが、異論もあります。昔の人というイメージです。

取り急ぎ、ご報告まで。

投稿: ドラゴン | 2008年7月 7日 (月) 18:32

この方は、自身の専門である数理論理学とは違う次元で議論を進めることが普通のようです。上でご紹介したディベートの部分を読めばわかります。それとともに、TAKESANさんが釈然としない印象を抱かれた理由の一部が明らかとなると思います。

投稿: ネット沙代 | 2008年7月 7日 (月) 22:17

ドラゴンさん、今晩は。

>ドラゴンさん、ネット沙代さん

ご教示、ありがとうございます。

リンク先(ブログの方)、今読んでいますが、あまり読みやすい文では無いので、ゆっくりいきたいと思います…。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 8日 (火) 00:13

 >あまり読みやすい文では無い

自己レス。
これは、それまでの議論を見て無いから文脈を把握出来ていない、だから解りにくい、というのも含みます。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 8日 (火) 00:16

おはようございます。

数学屋の秀さん。
凄く真面目な方です。
勉強家で専門以外の本を(とくに歴史やフェミニズム)よく読んでいらっしゃいます。
宮台真治、内田樹、三浦つとむ、、、
そして板倉さんと、幅広く言及されていて私は随分、刺激を受けていました。
ただ、昨年の3月、内田さんの「おむつ問題」で、異論を感じ、エントリーに挙げたことがあります。↓
http://ts.way-nifty.com/makura/2007/03/post_d99a.html

秀さんの経験・体験の重みから秀さんがご自分の論理を構築されてエントリーを書かれているので、
とても分かりやすい部分と、ちょいとそれは待った!
という場合があって、
私にはいずれにしても参考になるブログなんですよ♪

TAKESANさんの秀さんへの綺譚のないご感想、とても興味深いです、、、
楽しみにしています。

秀さんは筋の通った方との対話はお好きだから、
秀さんにも刺激になるかも(^.^)

では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2008年7月 8日 (火) 10:57

せとともこさん、今日は。

そちらのブログでのやり取りは、確か見ていたと記憶しています。

科学の定義については、もうちょっと具体的な説明があると良いな、と思いました。実際の科学研究との繋がりや、科学哲学的な視点が不足しているようにも感じました。
続編が出たら読むかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 8日 (火) 13:51

ソシュールと三浦つとむさんだけで言語学一般を語られてもなあと思いました。お前らがやってることは科学でないというなら、まず言語学が何をやっているのかをきちんと見てほしいです。その上で板倉さんの物差しをあててみるのはご自由にどうぞですが、その場合はTAKESANさんのおっしゃる

>まず、板倉氏の定義を妥当な科学の定義として論を進める正当性が知りたいような。それを基準にして、科学か否かを判断して良いものなのでしょうか。

が問題になってくると思います。個人的には「板倉氏の定義で科学でない」と言われてもだから何?という感じですが。

投稿: とらこ | 2008年7月 8日 (火) 13:52

とらこさん、今日は。

心理学方面の人も、同じような感想を持ったでしょうね。まず心理学の方法や研究の実態についての言及をして貰いたい、と言うか。

dlitさんがはてブに「なんかメタな人って印象」と書いておられますが、私も同じように感じました。

まず、「その定義を前提として話を進めるのは妥当か」、という疑問があるのですよね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 8日 (火) 14:28

とらこさんに同感です。

まあこの方や板倉氏の定義では言語学が科学ではないと判断されたとしても、これまでこの分野が蓄積してきた知見や数々の研究の内容も意義も別に変わるわけではないので良いのですが、特に何らかの学問分野に詳しい人が他の領域について「自分の知らない膨大な蓄積があるかも」と想像した形跡が見られない、というのがいつも不思議です。ソシュールから何年経ってるんだと。もちろんソシュールの仕事も重要なのですが。

科学について言えば、本職の、あれだけずーっと「科学」について考え続けてきた科学哲学の研究者ですら、「科学的営みを知るために実際の科学者の実態を調査しよう」なんて提言がされたりしているような状況さえあるというのに、と思いました。

投稿: dlit | 2008年7月 8日 (火) 21:00

dlitさん、今晩は。

何でまた、ソシュールを挙げて言語学一般について語ったのでしょうね。心理学についても、現代の心理学を踏まえているようには見えませんでしたし。

たとえば伊勢田さんの論考を読んだりするのがいいんじゃないかなあ、なんて思いました。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 8日 (火) 21:30

科学としての言語学云々ということならチョムスキーは外せないというか中心人物でしょう?
数理論理学を学んだら周辺分野としての形式言語論も聞いたことはあるだろうに、チョムスキーを論じないというのは私には全く理解できませんね。

投稿: katsuya | 2008年7月 8日 (火) 22:33

katsuyaさん、今晩は。

科学とは、というテーマなのだから、それまでになされてきた議論を踏まえたり、現行の科学の営みを押さえる必要があると思うんですが、それを抜きにして論を進めるのは、無理がありますよね。dlitさんも言われるように、科学とは何ぞや、というのを専門的に調べ考える、科学哲学という分野もある訳ですし。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 9日 (水) 02:52

おはようございます。
「科学」とは、ととらえようとすると問題はどんどん拡散していくのではないでしょうか。「科学哲学」も「科学者の活動」が対象と限ったわけでもなく、時空に関する理論としてばりばりの理論物理学をやる場合もある(らしい)というわけで。
数学を学ぶ過程で、そこから「科学」というものを見つめた人の経験、という局地的な問題として(もしとりあげるなら)拾う必要があるのではないでしょうか。小平邦彦「幾何への誘い」(岩波現代新書)というのに、旧制中学で教えていた幾何学は図形を対象とする実験科学のようなものであった、というような表現がありました。小平先生はそうであることがその年代の生徒の教育に重要なものと考えていたわけですが。そのことばの端をとらえると、もっと抽象的な(本来の?)幾何学は実験科学とは全く異なるものである、ということになりますね。もっと話を進めると、数学は「科学」ですか、ということまで行くかと思います。私は数学をよく知らないのでその辺を中心とした風景はよく見えませんが、そこがよく見える人との見方のズレが観測できる機会があるとしたら、よく見てみたいようにも思います。

投稿: ちがやまる | 2008年7月 9日 (水) 07:01

ちがやまるさん、今日は。

今回のは、ちょっと前にあった、「疑似科学を再定義する」、という意見に似ている所があると思いました。まず、現在科学だと捉えられる活動や知識についての考察がおざなりになっていて、その上で科学を定義し、そして、心理学や言語学について語っているので、これは、その分野に関わっている人からすると、ちょっと待ってよ、となるのは致し方無いかと思います。

実態を踏まえた上で、自身の専門と絡めて論じてみる、というのなら、色々と参考に出来るのかも知れませんが、少なくとも言及したエントリーからは、それは見えてきませんでした。
科学とは何か、という問題に関しては、科学哲学(あるいは哲学一般)・科学史・科学社会学のような分野があって、専門家が沢山おり長い間議論を積み重ねてきた訳ですし、それは押さえておく方が良いように思います。
心理学や言語学は科学になり得るか、というテーマですしね。それには、心理学や言語学が何をしているか、というのを調べるのは必要ですね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 9日 (水) 12:33

確かに、今回のはあまり明白なところで破綻した表現があるようなので、なんだよ、と言われてしまうのはしょうがないだろうとは思います。でも、interdisciplinary な領域での重要なお作法は、「お前そんなことも知らないのか」と言わないことでしょう。言ってること変だから出直してこいよ、というより、なんでそういう言い方になるの、ということが聞ける方が面白いことに出会える可能性が大きいでしょう。割くことのできる時間に限界もあるでしょうし、相手が面白くない場合(共通に思いうかぶ複数の人がいますよね)もありうるので相手を選択することは大切でしょうけれども。

いっしょうけんめい10年間ある領域を勉強してきた人にゆっくり科学について話が聞ける機会があったとして、ひとりは科学社会論、ひとりは数学だった(他の条件はわからない)としたら、わたしは数学の人を選ぶだろうと思います。科学社会論をやっていた人は「心理学や言語学は科学になり得るか」なんて言い出すことはないでしょうけれども、誰もが知っている「紋切型(accepted ideas)」以上のものが出てくるような気もしないんですよね。

投稿: ちがやまる | 2008年7月 9日 (水) 13:39

えっと、私は基本的に、そういう姿勢は持っているつもりではありますが、そうでも無かったかのかな。

仰る事には、それはそうですね、という感じです。

このエントリーの主旨は、リンク先は、心理学や言語学は科学になり得るか、というテーマで書いてあるのに言葉足らずなのでは、という指摘ですので。一般論は一般論として、また別に考えれば良いかと思います。

私だったら、科学社会学と数学の人がいたら、両方に話を聞きます。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 9日 (水) 13:54

ちがやまるさん:
>なんでそういう言い方になるの、ということが聞ける方が面白いことに出会える可能性が大きいでしょう。

この線に沿ってTAKESANさんの

>まず、「その定義を前提として話を進めるのは妥当か」、という疑問があるのですよね。

というコメントが出てくるわけですね。私も最初に感じた疑問です。

>ひとりは科学社会論、ひとりは数学だった(他の条件はわからない)としたら、わたしは数学の人を選ぶだろうと思います。

>そこがよく見える人との見方のズレが観測できる機会があるとしたら、よく見てみたいようにも思います。

そして、このような前提を立てること自体、およびその後の論旨の進め方(難解)が、私には数学(数理論理学)と関係するように見えません(こういう前提を仮定した場合にはこうなるという話ではないので)。

私が上で唐突に古いディベートを紹介したのは、この話を読んですぐにそれを思い出したからです。そこでもやはり「前提」がでてきます。そこでの2人のやりとりで、どちらが論理的かという点について考えてみるのも面白いかもしれません。

投稿: ネット沙代 | 2008年7月 9日 (水) 18:02

ネット沙代さん、今晩は。

ご紹介頂いたやり取り、読みました。感想としては、なんだかよく解らなかったなあ、というものでした。論理を前面に出して対話されようという姿勢は解ったのですが、どうにも……という。

ちがやまるさんの仰った事には、全く同意です。で、このエントリーの主旨は初めから、言及先の方は言葉足らずで色々踏まえるのを怠っているのではないか、という指摘だった訳で…。

投稿: TAKESAN | 2008年7月 9日 (水) 19:31

こんばんは。ネット沙代さんへのお返事を試みます。
「科学」なんて様々な状況や目的で使われる大きなことばに対して、なるたけ多くの場合に適合するような定義を与える、というのは面白いことでしょうか。そのことで特に役立つ視点が得られるわけではないと思います。
むしろ、ちょっとエクセンテリックな定義を与えて何が起きるか見る方が、ものごとの関係が見えるようになって面白いのではないでしょうか。私は今回自分ではつきつめて考えるのはパスしますが、心理学で何をもって究極の真理に到達したと認めていいか、という問題意識はおみやげに頂いて帰れるように思います。
はじめから定義が違うんですから、それはふつうの「科学」ということばの使い方とは違うだろう、という対応ではかみあっていないことになるでしょう。

「このような前提を立てること自体、およびその後の論旨の進め方(難解)が、私には数学(数理論理学)と関係するように見えません」とおっしゃることについては、私にもネット沙代さんの意図が明確ではありませんが、私は自分の発想を述べているのです。
変わった定義を試みた人がいる時、なぜそうしようとしたかを知りたいと考えた、それはもしかしたら数学という学問の特質とも関係するかもしれないと考えた、そういう発想を抱いた。それだけです。
上に出したような、操作的な問題として何をもって充分に真理に近付いたといえるか、という事についても、認識論の方の人なら昔誰々がすでにこんな風に言ってましたよ、と言えるかもしれませんが、科学論・技術論は人々のふみあとを付いてゆくだけで生産的なアドバイスは出てこないのではないかなあ、と考えた。そういう自分の素朴なとらえ方を表明した、それだけの事です。

投稿: ちがやまる | 2008年7月 9日 (水) 21:27

TAKESANさん、ネット沙代さん、ちがやまるさん、おちついて議論の前提を確認してください。そもそも、この人が数学の人かどうか、わかりません。この人が数理論理学の専門家を自称したことは、私の知る限り一度もありません。「数理論理学を勉強してきました」とだけ表明していて、「勉強」の具体的な内容は、これまでいっさい明かしていません。これは、半期の数理論理学入門コースを受講しただけの人から、数理論理学の教科書を書き換える大発見をした人まで、幅広く使える表現です。

この人の存在には、かなり前から気づいていました。「数理論理学を勉強してきました」と自称しているのに、数理論理学の知見に基づく発言が皆無で、つまんないブログだと思っていました。「数理論理学を勉強してきました」が本当かどうかはどうでもいいんですよ。個人の数ある属性のうちの一つを自己紹介に選ぶのなら、書く内容に関係あるものを選んだほうが楽しいでしょということです。

投稿: かも ひろやす | 2008年7月 9日 (水) 23:33

ちがやまるさんは、一般論を述べられた訳ですよね。
私は、そもそも言及先についての話をしていた所にそれを言われたので、少し困惑して、意図を掴みかねたのですけれど。

------

かも ひろやすさん、今晩は。

ああ、そういえばそうですね。「勉強してきました」、から、専門家レベルにある人だと勝手に思い込んでいました。

勉強してきて、そのメガネで世界を眺める、と書いていて、数理論理学の話が出てこないというのは、なんだか不思議ですね。

---

私としてはむしろ、ネット沙代さんが、このエントリーの主旨を踏まえられた上でコメントされた、という風に感じてます。

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上にも書いたように、このエントリーの主旨は、色々な議論を踏まえずに心理学や言語学についてあれこれ言うのはどうなんだろう、という指摘でした。

心理学などは、科学哲学の議論とそもそも密接に関わっている訳ですしね。『心理学の哲学』という大部の著書もあるくらいなので、そういうのをまず押さえれば良いのに、と感じたんですね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月10日 (木) 00:35

おはようございます。身のまわりのものごとの捉え方については、誰しも得意なところ、不得意なところがあるのは仕方ないでしょう、その人の特長を認めてあげようよ、といったところが私の主張でした。ただ、TAKESANさんが「科学」のとらえかたに関する問題としてとりあげていなかったとしたら(私の場合は歴史についての記述を基準として判断し)、私はそのブログのエントリの最後までも読む気にはならなかっただろうと思います。

数学を勉強した人に特有の視点が書かれていると読むことでポジティブな拾い方ができるのではないか、という発想を書くにあたっては、かもさんのことをちょっと思い浮かべました。そのかもさんに、私の発想を拾ってもらえなかったという事実は自分の頭の中の発想ノートに(厳粛に)書き留めておくことにします。

投稿: ちがやまる | 2008年7月10日 (木) 08:01

ちがやまるさん、今日は。

何度も書いている通り、ちがやまるさんが仰る事は、基本姿勢として弁えていたい所です。

あくまで私が書いたのは、主張の内容に較べて、あまりに検討対象に関する言及が少ないのではないか、という事でした。”心理学や言語学は「科学」になりうるか”というタイトルなのですから。

投稿: TAKESAN | 2008年7月10日 (木) 13:11

かもひろやすさんのコメントがあったので、引っ張るのは意味が無くなりましたが、一点だけ。

もともと、ちがやまるさんの趣旨は、後でも書いておられるように「数学を勉強した人に特有の視点が書かれていると読むことでポジティブな拾い方ができるのではないか」ですよね。

それはまったくおっしゃる通りだと思うのですが、このケースに限って言えば、今回のエントリーを含め、私にはそういう視点で書かれたものを今まで見たことがなかったため、先のような発言となりました。もちろん、私の一面的な見方ではありますが。

特に、上に紹介した過去のディベートでは、「とおりすがり」さんは「論理」で応酬、それに対して、この方は自分の立てた一方的な「前提」とそれに基づく「道徳」で応酬しておられ、私が「数学屋」さんに抱くイメージとはかけ離れていたという点で非常に印象に残っていたわけです。

もちろん、数学を勉強した人が議論において、常に厳密で論理的であるべきなどと言うつもりはありませんが、では、あのような応酬に、数学を勉強した人特有の視点があるのかというと、私には到底そうは思えません。むしろkikulogの某氏でおなじみの「???」です。

ただ私も、かもひろやすさんに指摘されるまではこの方を数理論理学の専門家レベルにある人だと思っていました。でも、実際にはどうかわからないわけですから、そういう「メガネ」を通して見ることさえしないならば、私が以前から漠然と感じていた違和感はなくなり、ブログの内容も変なバイアスなしに読むことができます。

投稿: ネット沙代 | 2008年7月10日 (木) 13:43

ネット沙代さん、今日は。

私もてっきり、専門家レベルの方だと思い込んでいました。

お、katsuyaさんがコメントを入れておられますね。

うん、やっぱり、レスを読んでも意味が取れないです。私の知識不足もあるかも知れません。

投稿: TAKESAN | 2008年7月10日 (木) 14:10

この人はなぜか(危険分散?)、はてなダイアリーとライブドアブログと楽天ブログとエキサイトブログの四カ所に同一内容の記事を書いています。それぞれのプロフィール欄を総合すると、現職は、夜間中学の数学教師のようです。もちろん、これもこの人の自己申告であって、確認できる手がかりは公表されていませんが。(まあ、公表しないのが普通で、私のように手がかりをそこらじゅうに書いているほうが特殊なのはわかっていますが)

ジャーナルに論文を載せたことがあるという意味での専門家ではないでしょう。その状況証拠のひとつは、野矢茂樹さんの『無限論の教室』をネタに実無限と可能無限を語っている
http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20060303/1141346471
で、集合論も限定算術も構成的数学も出てきていないことです。野矢茂樹さんの主張に賛同するにせよ反対するにせよ(数学者なら反対する人が大多数だろうけど、賛同する少数派がいないとは断定できない)、自分の専門から何か一言もないというのは、専門家としてはありえないでしょう。

ではどのレベルかというと、私の推理は、高くても、学部の卒業研究の指導教官が数理論理学者だった程度というものです。こちらも状況証拠ですが、この人は一貫して「数理論理学を学んだ」とだけ書いていて、数理論理学の分野名は一度も出てきていません。「入門コースを半期間受講した」か「入門書を一冊読んだ」だけでない限り、「集合論を学んだ」とか「証明論を学んだ」とかがまったくないのは、いくらなんでも不自然でしょ。「武道を学んだ」といいながら、柔道とも空手とも剣道とも弓道ともいわないのに例えたら、不自然さがわかってもらえますでしょうか。数理論理学にどんな分野があるかすら、知らないんじゃないかな。

投稿: かも ひろやす | 2008年7月16日 (水) 00:46

かも ひろやすさん、今晩は。

 >四カ所に同一内容の記事を書いています。

ほう、そうなのですか。たまに複数箇所に書いている方はおられますが、ほとんどはバックアップ代わりとか、移行のために良いサービスを探しているか、ですよね。

▼▼▼引用▼▼▼
「武道を学んだ」といいながら、柔道とも空手とも剣道とも弓道ともいわないのに例えたら、不自然さがわかってもらえますでしょうか。
▲▲引用終了▲▲
なるほど。これはよく解ります。それにしても、それくらいの段階と推察される方が、なにゆえに、わざわざ数理論理学を前面に押し出そうとなさるのでしょうね。(以下は、単なる推測です)自身のテキストの権威付けか、もしくは、数理論理学を理解出来ている、という信念があるのか…。

投稿: TAKESAN | 2008年7月16日 (水) 01:40

この人について、『「数理論理学を勉強してきました」とだけ表明していて、「勉強」の具体的な内容は、これまでいっさい明かしていません』と書きましたが、一度明かしていることを検索して発見しましたので、訂正します。このページです。
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/29053275.html

大学院進学時点で断念したと、ちゃんと本人が書いていました。

その他、本人がここに書いていることから判断すると、一階述語論理の初歩的な計算ができるだけで、数理論理学の三大基本定理(カット除去定理・完全性定理・不完全性定理)にすら達していません。剣道でいえば、「防具を着けて竹刀を持ってすり足の練習を始めましたが、まだ、人間相手に面・胴・小手を打ったことはありません」のレベルですね。

投稿: かも ひろやす | 2008年7月16日 (水) 19:46

かも ひろやすさん、今晩は。

え、そこまで初歩の段階だったんですか。

うーむ。それで、勉強した、と言うのか…。日本語的には間違っていないけれど、普通は、ある程度熟練した、という意味ですものね。なんか、私が、「言語学で考える」、と前面に出して色々書いてしまうようなものですね。

投稿: TAKESAN | 2008年7月16日 (水) 21:52

8月6日以降、この人の記事の題名にやたらと「形式論理」が出てくるようになりました。何かあったのでしょうか。たとえば、ここをお読みになったとか。

でも、内容はこれまでと変わっていません。数理論理学との関係のなさは、これまで通りです。羊頭狗肉にもなっていません。

投稿: かも ひろやす | 2008年8月22日 (金) 02:41

かも ひろやすさん、お早うございます。

おや、本当ですね。

アクセスログからここを読んだ、という事はあるのでしょうけれど、どうなんでしょう、それが関係しているのかな。よく判りませんが。

エントリーは、読もうと思いましたが、意味が解らなくて無理でした。

投稿: TAKESAN | 2008年8月22日 (金) 11:00

この人、今度は『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の引写しを始めちゃいました。どうしたんでしょうね。

投稿: かも ひろやす | 2008年10月27日 (月) 13:19

かも ひろやすさん、今日は。

ほう、そうなんですか……って、すいません、その本がどういうものなのか知らないので(タイトルはもちろん知っています)、どういう風に捉える事なのか、よく解っていませんけれども…。

投稿: TAKESAN | 2008年10月27日 (月) 17:35

痛々しさが気になっています。不完全性定理をちゃんと理解していることのプレゼンテーションのつもりなら、逆効果になっているのでやめたほうが良いのにと思いながら、読んでいます。

2008-10-29付のエントリーは、特に痛々しさが増しています。帰納的関数論の初歩がわかっていれば、「帰納的集合の補集合は帰納的である」「枚挙可能集合の補集合は一般に枚挙可能でない」の二つの事実から話を膨らせていくことができるテーマなのに、的外れなところをぐるぐるまわっています。また、理論的な計算可能性と現実的な計算可能性の話をしているのに、PとNPとco-NPのことが出てきません。知識のなさを良くいえば思索、悪くいえば妄想で補っていることのプレゼンテーションになってしまっています。

背伸びはやめて、このネタはフェードアウトさせることを勧めます。プロの間で話題になる前に。

ご本人がここを読んでいらっしゃることを期待して、お邪魔なことを書かせていただきました。

投稿: かも ひろやす | 2008年10月29日 (水) 15:29

かも ひろやすさん、今晩は。

当該分野を知らないので、的外れなのかも知れないのですが、お書きの事って多分、数理論理学の教科書をしっかり勉強すれば身に着きよく理解出来るはずの事なのに、リンク先の方がそれをせずに考えを進めようとしている、という事なのですよね?

こういうのって、結構見られますよね。新書の啓蒙書・普及書の類を読み齧って解った気になって、半可通のまま当該分野に関しておかしな事を書いたり。
武術なんかでも、つまみ食い的に古流の型なんかをコレクション的に集めて、元々ある理合を発見したかのごとく嘯いたり、というのがありますね。

投稿: TAKESAN | 2008年10月29日 (水) 17:47

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